第38話 指一本
うーん、と
「ここ、どこお?」
「起きちゃったか」
「もうおうちに着いたよ」
エントランスで澄空を下ろそうとしたが、ぐずるので十三階まで送ることにした。一三○一号室の玄関に入っても、澄空はコアラのようにしがみついたままだ。
「せんせーも、おうちにきて」
寝ぼけまなこで甘える澄空の背中を野田がさする。
「澄空は先生のこと、大好きだもんね」
「すきじゃなーい。せんせー、きらい」
そんな憎まれ口を叩く澄空を体からはがす。
「澄空、バイバイ」
「やだー」
後ろ髪を引かれる思いだが、子どもは寝る時間だ。
「先生、おやすみなさい」
これで最後になるのかな。そう思いながら「おやすみ」と言い掛けたところで、がたんと音が鳴った。
「
リビングの方から慌てた様子の声が聞こえる。
「梓紗ちゃんが来てるの?」
廊下の奥のドアが開く。エアコンで冷えた風がここまで届いた。
「あっ、ママー!」
急にご機嫌になった澄空が靴を脱ぎ捨て家に上がる。
リビングから出てきた女性と目が合った。
彼女は澄空を守るように抱き寄せ、野田の腕も引っ張り、だれっと短く叫んだ。
「どちら様」
「お母さん、どうしているの? お父さんのお見舞いは?」
野田が息を呑む。
「花火大会で道が渋滞すると思って、早めに帰ってきたのよ。だから、迷子になったって聞いて、ちょうどよかったって思って……」
こちらを見据えたまま、女性は質問に答える。
女性の髪にはとうもろこしのひげ根のような数本の白髪が光っていた。しみの浮いた肌はくすんでいて血色が悪い。
ついフォトスタンドと見比べそうになった。
家族写真が撮影されたのは数年前のはずだが、目の前にいる女性だけ十以上も年齢を重ねているように見えた。
「お、お邪魔してます」
野田のお母さんはまだ顔を引きつらせている。
これがまっとうな親の反応かもしれない。知らない男が当然のように娘と家に上がってきたら、きっと考えてしまうことがある。
「ママ、せんせーだよ。しってた?」
「……先生?」
「うちの学校の先生だよ。すごく良い人なの」
野田が紹介するが何の弁解にもなっていない。教師が生徒の親に断りもなく自宅を訪れるなんてこと、滅多に無い。
「ようちえんのせんせーじゃないんだよ!」
「先生って……。随分お若いですけど新任の方? でも、どうしてうちに」
「新任じゃなくて教育実習に来ていた先生で、自習室でアルバイトしてて」
「じゃあ、先生じゃなくてアルバイトじゃないの! どうしてうちに来るの!」
しどろもどろ説明する野田に母親が目を吊り上げた。
先生でもないし、現在はアルバイトですらないのだが、この場で打ち明ければ火に油を注ぐことになる。
「でも、元先生だし」
「あなたはもっと他人を警戒しなさい!」
もし俺が娘を持つ親だったら、同じことを言うだろう。
「僕、このマンションの二○一に住んでいる千葉と申します。勝手にお邪魔してすみません。……誓って言いますけど、僕は海頼さんに指一本、触れてないです」
銃を向けられた逃走犯のように諸手を上げて言いながら、野田には本当に指一本すら触れていないことに気が付く。
「このマンションに住んでいる……? じゃあ、ずっと前からうちの娘と知り合いだったんですか?」
「いえ、初めて会ったのは実習中です。海頼さんが熱を出していた時にたまたま商店街で会って、澄空くんもいて大変そうだったので、少し手を貸してただけっていうか……」
「先生は私の話聞いてくれたり澄空のこと面倒みてくれたりして……。本当にそれだけだよ」
「面倒? ちょっと会っただけの人間によく世話を頼めるわね……」
母親ははき捨てるように言う。
「弟になにかあったらどうするつもり? 男の子だって被害者になるのよ。今日だって迷子になったって聞いて、生きた心地がしなかったわよ。お姉ちゃんなんだから、もうちょっと危機意識を持ってよ。澄空が大切じゃないの?」
捲し立てられた野田は目を見開き、すぐに伏せた。
「……澄空は、大切だよ」
声がくぐもっていた。泣くだろうなと思った。
「でも、たまに……、もうどうでもいいって思う」
野田は床をじっと見下ろしている。
「澄空のことだけじゃなくて、全部、もうどうでもいいやって思うことがあった。先生が助けてくれなかったら、私はどうにかなってた」
「どうにかって⁉」
「……どうにかだよっ‼」
野田が喚いた。
彼女は靴も履かず玄関を飛び出してしまった。
「海頼っ」
澄空にしがみつかれて身動きの取れない母親が叫ぶ。
「俺、足速いんで!」
言う必要のない嘘を咄嗟につき後を追う。
足が速いと言われたことなんて、保育園児の時以来一度も無い。
非常階段を駆け下りていく野田の後ろ姿が見えた。一階にたどり着くまでにつかまえられるだろうと思ったが、野田の足は速かった。
若いし、ダンス部に入っていただけのことはある。
野田はあっという間に一階に着き、非常扉を開けて駐輪場にとび出す。
勢いよく閉まった扉の向こうで油の切れた自転車のブレーキの音が鳴った。
「危ないわよっ!」
駐輪場に出ると、自転車に跨っていた年配の女性が怒鳴っていた。
代わりに謝り、マンションの敷地から出て行く野田を追う。
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