第33話 秘密の入り口
広告の巻かれた駅の柱の前で野田を待った。
コンコースの天井には提灯がぶら下がっている。浴衣を着た老若男女がうきうきと西口の方へ向かっていく。「本日は混雑が予想されます」と注意喚起する放送が絶えず流れていた。
浴衣姿はよく「涼しげ」と表現されるが、同意しかねる。帯のところなんて体温がこもって暑そうだ。草履の代わりにスニーカーを履いている小学生たちも見かけた。歩きづらいなら浴衣はやめて洋服を着ればいいのに。
誰かれ構わずいちゃもんをつけたくなるのは、暑さと湿気と、人いきれの不快感のせい。
それから、昨日終わった二次試験のせいだった。
模擬授業の生徒役の一人が
試験自体に手ごたえはあったものの、お世話になった先生の登場に動揺して始終汗だくだくだった。後半は何を喋ったかほとんど記憶に無い。
でも、終わったことだし、これ以上考えてもしかたがない。
ふーっと息を吐いて肩を回し、そしてはたと気付いた。
待ち合わせている人物だって浴衣で来るのでは?
野田は、待ち合わせの時間に少しだけ遅れてやってきた。
美術館に行った時と同じピンクのワンピースを着ている。ほっとしたような、ほんの少しがっかりしたような気持になった。
恐竜柄の青い
「すみません。一緒に行くって聞かなくて」
「いいじゃん、三人で花火見ようぜ。野田は浴衣着なかったの?」
「着たかったんですが……」
野田は周りをスキップする澄空の後頭部を指さしてから、両腕でバツを作り首を振った。
「澄空がいるから、着られませんでした」という意味で正解だろう。
「その代わり、先生にもらったリップはつけてきましたよ」
野田は艶めいた口の端を上げた。
商品のパッケージを見た時は派手な色だと思ったのだが、くすんだピンクは確かに彼女の肌によくなじんでいる。
感想を口にしていいものなのだろうかと迷っていると、澄空が「はなび、こわいからみたくなーい!」と叫んでくれたので、リップの話はそれで終わりにできた。
「なーに言ってんだよ。澄空、起きてられんのか? 花火やるの夜だぞ、夜」
澄空と一緒に手を繋いで人の流れに乗った。
花火大会が始まるまで、まだまだ時間がある。屋台でそれぞれの好きなものを買い込むことになった。
「やたいにスカイ、うってる?」
「澄空が売ってるってどういうこと?」
「ちがった。スカイじゃなくて、スイカだったあ」
「スイカはどうだろうなあ」
西口付近は全て車両通行止めとなり、車道の脇には屋台がずらりと並んでいる。澄空が「しょうてんがいみたい」と目を輝かせた。
焼きそばやフルーツ飴のオーソドックスな店もあれば、ケバブや海鮮味噌汁を売る珍しい店も出ている。
澄空はくじ引きやボールすくいをやってはしゃいでいた。
弟の様子を野田はいちいち写真に収めている。仲睦まじい姉弟の姿が微笑ましい。
そんなことをしているうちに日が暮れてきた。
「よし、食べたいものは買えたか? そろそろ大広場に行こうか」
大広場の観覧席がそろそろ解放されるはずだ。広さは十分に確保されているのだが、場所によっては花火が見にくくなってしまうから、早めに席を確保しておきたい。
背負ってきたリュックの中を野田に見せる。レジャーシートと、尻が痛くならないように薄いクッションも持参していたのだ。
「準備がいいだろ」
得意げになって言うと、野田はいたずらっぽく笑った。
「すみません、先生。私の勝ちです」
「勝ち?」
「こっちです」
長い列ができた大広場の入り口を野田は通り過ぎてしまう。この道を真っ直ぐ行ってたどり着くのは花火の打ち上げ場所だ。
歩き疲れたという澄空を抱っこしてやりながら、川に掛かる大橋の上の車道を渡る。
「この橋の上、橋の付近は観覧禁止です。立ち止まらずお進みください」
腕章を付けた花火大会のスタッフがメガホンで忠告している。
「野田、こっちは観覧禁止だって」
観覧禁止のわりにはやけに人が多い。
「まあまあ、ついてきてください」
橋を渡りきり野田はすぐ左へ曲がって土手を下りていく。
ひびの入ったコンクリートの階段は
橋の下には、「特別観覧席入り口」と書かれた大きな看板が出ていた。
花火大会には子どもの頃から何度も訪れていたが、橋の下にこうしてひっそりと秘密の入り口ができるなんて知らなかった。
野田は「じゃーん」と言って、バッグから花火の絵が描かれたチケットを取り出した。
「サプライズです」
「スカイたち、ここはいっていいの?」
「そうだよっ。入ろう、入ろう」
いつになく無邪気な野田についていく。
野田の見せたチケットと引き換えに、受付のスタッフから缶ビールを貰う。未成年の野田と澄空にはジュースとお菓子の詰め合わせが渡された。
一面にござの敷かれた河川敷の会場は屋外用の照明で照らされている。
「まぶしーっ」
澄空がふざけて両目を覆いながら歩く。そんなことをしているから、他人のござの上に土足で踏み込んでしまいそうになる。
やっと指定されていたスペースを見つけ、靴を脱いで腰を下ろした。
「食べる前にウェットティッシュで手を拭いて、あと虫よけスプレーをしちゃいましょう。紙皿も持ってきたので使ってください。ゴミ袋もあります」
「さすがだなあ。まさか観覧席のチケットまで用意していたとは」
「商店街のくじ引きで当たったんです。一生分の運を使い果たしちゃった気分です」
「家族で来なくてよかったの」
「いいんです。父はどのみち、ここまで来られませんし」
もし元気だったら、この
わいわい言いながら花火が打ちあがるのを待つ四人の姿を想像して、少し申し訳なくなった。それと同時に、野田が家族の代わりに俺を誘ってくれたことが嬉しかった。
澄空は買ってもらったりんご飴を一心不乱にかじっている。べたべたになった手と口を野田が拭いた。
「りんご飴が夕飯になっちゃうねえ」
かいがいしく世話を焼いている野田が買ったお好み焼きは手つかずのまま放置されていた。
突然照明が消え、「こわいっ」と叫んで澄空がしがみついてきた。
周囲のござからも悲鳴と歓声がないまぜになったような声が上がる。
「大丈夫だよ」
笑って抱きしめてやるが、至近距離にいる澄空の顔も野田の顔も見えないほど暗くなり、二十歳を超えた自分でさえ、ちょっと怖いと感じてしまった。
真っ暗闇の中、花火大会の開幕を告げるアナウンスが流れた。
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