第18話 ピンク
野田は身分証明書を首から下げ、つばの広い帽子をかぶり、二の腕までカバーする黒い手袋をはめている。入念な紫外線対策だ。
「千葉先生、どうしてここに?」
「久しぶり。夏休みの間、自習室で監督のバイトしてるんだ」
「せんせー、あそぼーよ!」
「もう夕方だから帰らないと。……先生、よかったら一緒に帰りませんか」
野田は澄空を置いて踵を返し、園庭の端から大きなママチャリを引きずって戻ってきた。制服を着ているが、遠目から見たら女子高生ではなく送迎中のお母さんだ。
もし高校の同級生がこのような恰好をして子どもを連れていたら、冗談で「隠し子がいる」なんて言ってしまいそうだなと思い、心の中で野田に謝罪する。
徒歩七分ほどかかる最寄りのバス停まで一緒に歩くことにした。澄空は野田の押す電動自転車のチャイルドシートに収まっている。
「澄空は
街路樹の蝉の鳴き声と車の騒音に負けぬよう、野田は少し声を張った。
「澄空って女の子だったのか?」
通園リュックを漁っている澄空を振り返る。学校名に「女学園」とあるとおり、藤ヶ峰は女子校のはずだ。
「違います。幼稚園だけ数年前に共学になったんです」
「せんせー、みて、おりがみ!」
澄空ががくちゃくちゃになった色紙を見せてくる。
「すごいじゃん。自分で折ったのか? 共学になったって、なんでまた」
「少子化だからだと思いますよ。初等部から短大もそのうち共学になるんじゃないかって言われてます」
「じぶんでおった! これ、バッタ!」
「バッタかあ。少子化、深刻だもんな」
野田は高校生でありながら育児をし少子化に貢献している。立派だ。
「幼稚園って夏休みが無いの?」
「これなんだっけなあ。わすれちゃった」
「ありますよ。でも、親が共働きだと夏休みの間も預かってくれるんです。だから幼稚園に預けて、私はそのまま学校へ行って夏期講習を受けたり、自習室や図書館で勉強したりできるので助かってます」
「へえ。まだ二年生なのに偉いなあ」
「お盆休み中は幼稚園も完全に閉まっちゃうから、その間は私が家で澄空の面倒をみる予定なんです」
野田も澄空を振り返り、声を潜めた。
「澄空が家にいたら勉強なんてできないから、今のうちに頑張っておかないといけなくて」
「ねえっ、おりがみちゃんとみてよお」
「見てる見てる」
近くに子どもがいると、世間話もままならない。勉強なんてもってのほかだ。
「幼稚園に預けてる間、家でごろごろしたいとか友達と遊びに行きたいとか思わないの?」
「思いますよ。たまには一人で留守番していたいなーって。でも、藤ヶ峰の正門をくぐったらもう諦めがつきますね」
「確かに。また家に帰るのもだるいよな」
「あの、先生」
バス停が見えてきた。木陰の下のベンチにお年寄りたちが腰掛け、バスを待っている。
「美術の課題を手伝ってくれませんか?」
野田が唐突に言った。
「課題? 『イケメンの顔を描きましょう』か? いいよ。モデルやるよ」
「違いますよ」
くすくすと野田が笑う。
「私と一緒に美術館へ行ってほしいんです。美術館へ行って、気に入った作品の感想を三つ、レポートしなくちゃいけないんですけど、何を書けばいいかわからないから……」
「びじつかんってなにー?」
「絵がいっぱい飾ってあるところ」
路線バスが道を曲がり、こちらへ向かってくるのが見えた。
お年寄りたちがベンチから重そうに腰を上げ、木陰から出て整列する。すぐにバスに乗るのに、帽子を被り直したり日傘をさしたり
「印象派っていう人たちの企画展をやっているらしくて、それに行こうと思ってるんですが」
「印象派っていう人たち」。美大にそんな言い方をする人間はいない。新鮮な表現を噛みしめながら、「いいよ。付き合う」と答えた。
バスが迫って来る。集合する場所と時間をさっと決めた。
車内に乗り込むとバスはすぐに発車した。できたてほやほやの予定をリマインダーに入力しながら、自転車に跨る野田と澄空を見下ろす。二人はにこにこと手を振ってくる。それぞれの顔に夏の夕日が当たって眩しそうだった。
目を細めている二人の顔がそっくりで、こちらも自然と笑みを浮かべていた。
これはセーフなのだろうか、アウトなのだろうか。
美術館の最寄り駅で降り、知った顔が無いか辺りをつい見回してしまう。
――美術の課題を手伝ってくれませんか?
野田も他人にヘルプを出せるようになったのだと感心して、課題の手伝いを快諾した。美術館へ一緒に行くなんてお安い御用だし、美大生としても展示内容に興味があった。
しかし実習をさせてもらった学校の生徒と二人で外出だなんて安易に取り決めてよかったのだろうかと、バスの中でずっと考え込んでいた。
「やっぱりあの話はナシで」と伝えようにも連絡先を知らなかったし、野田の家に行ってうっかり両親に出くわすのもまずいので、腹を括って集合場所に足を運ぶしかなかった。
約束の時間は午後の二時。もし落ち合う相手が生徒ではなく友達なら、と想像する。
同じマンションに住んでいるのだから集合場所は一階のホールを指定するし、集合時間を早めて昼飯にも誘う。
しかし相手は野田だから、やはりそういうわけにはいかない。完全にアウトになってしまう。
交差点の向こうに巨大な箱が見えてきた。地元で一番大きな美術館だ。出入口の前の噴水が作る日陰で野田を待つ。
夏休みだからか企画展のテーマが印象派だからか、平日なのに来場者が多い。ガラス張りの建物の中を覗くと、中は人でごった返していた。入り口の前で、スタッフが来場客に吠えるように何か叫んでいる。
耳をこらすと「当日券」、「完売」の二つの単語だけ聞き取れた。
「うわ、まじか」
「先生!」
声に振り向く。
フリル付きの日傘をさした女の子が立っていた。ピンクのワンピースを身に着け、柔らかそうな髪をふわふわと巻いてている。
学校での姿と印象があまりにも違っていて、目の前にいる女の子が野田
彼女も入場できないことに気付いたのか、色づいた唇を不満そうに曲げていた。
「……どう思います?」
「まあ、しかたがないだろ」
「本当は黒いチェックのワンピを注文したんです。でも届いたのはこのピンクのチェックで、電話で問い合わせたら交換するのに一週間くらいかかるって言われちゃって。だから、しかたなくピンクを着てきたんです。普段はピンクなんて着ないのに……」
「……なんの話?」
「ワンピの話です!」
野田は泣きそうな顔で言う。
「メイクも髪もこのワンピに合わせたらなんか、ぶりっ子っていうか……」
「似合ってるんだからいいじゃん。それより」
「似合ってます⁉」
ぱっと顔を上げ野田が詰め寄る。思わず後ずさった。
「フツーに、似合ってると思うけどな」
似合っているというか、何と言えばいいのか、そう、「かわいい」。
しかしそれは元実習生として、飲み込まなければいけならない言葉だった。
「……じゃあ、よかったです。チケット買いましょうか」
満足そうにくるりと振り返った野田は、チケット売り場に張り出された「完売」の二文字に「うそっ」と声を漏らした。
目当ての展示を見られないという事実をようやく知ったようだった。
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