第7話

 結局、灯輝は自宅まで1時間強かけて徒歩で帰ることとなった。タクシーを探そうかとも思ったが、濡れた身体で、背中にとんでもないものを貼り付けているとあっては、他人と接触するのははばかられた。

 そうして、この先どうなるのだろうかと、あれやこれや考えながらようやく家に辿り着き、ベッドに身を投げたのだった。



 二枚は灯輝の部屋を観察するように舞い続けている。付いて来るのを拒んだらどうだったろう? 紙を横目で眺めながらそんな思考が一瞬、灯輝によぎった。断るには充分な理由があったはずだ。これ以上面倒なことになりたくないと。だが灯輝はその選択を取らなかった。自分の心情を細かく分析することはできないが、唐突に訪れた非日常をすぐに切り捨てるのは、何かが違うと思えるのだった。

 少し寒気がした。10月に入り、今日はまだ暖かさの残る晴れた日であったが、川に浸かった衣服でいる理由はなかった。これじゃ布団まで湿ってしまう。灯輝は起き上がった。

「俺着替えてくるから、この部屋にいてよ」

 聞こえているのかいないのか、二枚は応えず勉強机の辺りで何やらひそひそと話していた。灯輝は古い箪笥から下着とジャージ一式を取り出し、1階の洗面所へ向かった。階段を下りきって上階を眺めたが、紙はどちらも部屋に留まっているようだった。衣類を脱ぎバスケットへ突っ込み、浴室で熱めのシャワーをざっと浴びた。手早く身体を拭き、乾いた衣類を身に付ける。何気なく洗面台の鏡を覗く。黒く、長くも短くもない髪を手ぐしで大雑把に後ろへ流した。リビングに出ると灯輝は自分の空腹に気が付いた。まだ昼にはだいぶ早い時間だった。結構動いたからかな、と考え、棚からレーズンパン、冷蔵庫から飲み物を取り出した。麦茶をコップに注いでいる時に視野に白いものが入り、手元がぶれて飲料が机に跳ねた。

「部屋にいてって言ったのに!」

 語気を強めて灯輝は言った。

「いやすまん。どうにも気になってな」

「今この家には他の人はいないのでしょう? 少し探検をお許しくださいませ」

 二枚は呑気な様子で言った。灯輝はため息をつき、麦茶を一口飲んでから机を布巾で拭いた。

 その時、同じリビングにある固定電話が鳴り、灯輝は身体が一瞬びくりと震えた。浮かぶ紙も動きが止まったようだった。電話機のディスプレイを見ると相手の番号が表示されていたが、すぐに思い当たるものはなかった。灯輝は受話器を取った。

「もしもし」

「あっ、風早かざはや君かな!? 風早灯輝君? 山本です!」

 担任の男性であった。

「良かった。もう2、3回はかけてたんだよ。電車の事故は知ってるよね? 心配してたんだ」

 ああ、と灯輝は思った。学校そのものに影響があって当然であった。灯輝は事故に巻き込まれ、軽い怪我で済み、今どうにか帰宅したところだと山本に伝えた。事故に関わる奇妙な出来事には触れなかった。

 担任は驚き、心底から灯輝を気遣っているようだった。

「それは本当に大変だったね…。怪我は自分で判断せずに、ちゃんと病院へ行くんだよ? 実は他にも連絡のつかない生徒もいて…教頭も病院に確認に行ったりしていてね。今日明日は授業にならないかもしれない」

 山本は灯輝に、当分無理をせず休むこと、教科書等は学校でどうにかするので気にかける必要はないことを伝え、最後に病院へ行くよう念を押し電話を切った。

「教師か。我らのことは、まあ話さずにいて賢明だな」

 そう言う牙流雅の紙を、灯輝は受話器に手を置いたまま見た。

 そうか。亡くなってしまった生徒もいるかもしれないのか。と灯輝は思った。一生の心的外傷トラウマにでもなろう光景を目の当たりにして、存外平静でいる自分は何か欠落しているのだろうか、と感じずにはいられなかった。それに、自分の体験を他者に明かす気にはならなかった。それはなぜなのだろうか。今答えを出すのは難しいということだけは、確かなように思えた。

 灯輝はそのまま再び受話器を上げた。こちらから無事を伝えておかなければならない人がいる。

 しばらくコールが続き、騒がしい雑音と共に応答があった。

「はーい?」

「母さん。俺、灯輝」

「ん、どうしたの? これ家電いえでんよね? 学校は?」

 母親、束彩つかさは事故のことをまだ知らないのだった。背後に数人の男女の笑い声が聞こえる。

「えーウソ―!!」

 簡潔に、やはり事故についてのみ説明すると、母親は大声をあげた。少し声が遠ざかり、誰かに向かって、すごい電車事故があったんだって、と話す。

「それであんたは大丈夫なのね?」

 再び電話口に戻ってきた。灯輝は特に問題のないこと、学校と話はできていることを告げた。

「そっかじゃあ、別に今日母さん帰らなくて平気ね? やばかったら病院行きなね? 保険証の場所は分かるわよね、それじゃ」

 そう言って、向こうから電話を切った。

 灯輝は軽く息をつき、父親はどうしようか、と考えた。

「パソコンからメールでいいか…」

 独り言を呟くと、紙が一枚そばまで寄ってきた。



「今のが母親か」

「そうだよ。しょっちゅう友達と遊んでて、家にいないことが多い」

「気が若いのだな」

「若い…っていうのかな? 生活費は最低限置いていってくれてるから、別に困らないんだけどさ」

 何と何を話しているのだろう、と灯輝は思った。

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