孵化

やらずの

孵化(1)

 映る景色は真っ白な光で満たされて、耳を刺すような甲高い摩擦音が響きました。



「――夏生なつき!」

 名前を呼ばれながら、強い力に腕を引かれたぼくの背中は柔らかくてぬくい感触に受け止められました。胸のあたりに回された母さんの腕がきゅうっとぼくを締めつけていて、ぼくは苦しいなと思いながらもされるがまま、母さんに寄りかかっていました。すぐ目の前で急停止したトラックの運転席から浅黒い肌のおじさんが腕と顔を出していて、低い声でぼくを睨みつけました。何か怒鳴っていましたが、嗄れた声と垂れた頬は鈴木くんの近所で飼われているブルドッグみたいに見えました。ぼくのすぐ頭の上からは母さんの謝る声が聞こえて、トラックのおじさんは大きく舌打ちをすると再びトラックを走らせてどこかへ行ってしまいました。

「夏生」

 母さんはもう一度ぼくの名前を呼ぶと、ぼくを抱きとめていた腕を解いて、ぼくをくるりと振り返らせます。目がいつもより潤んでいて、耳が赤くなっている母さんは、ぼくを真っ直ぐに見つめていました。

「道路に飛び出したらダメ。車は急に止まってくれないの。夏生が轢かれたら、お母さんは悲しいよ」

 でも車は止まってたよ、とは思ったけれど言いませんでした。そんなことよりも、ぼくは四時半から始まるアニメのことが気になっていて、早く家に帰りたいなと、そんなことを考えていました。

「本当に、悲しいんだからね」

 母さんは念を押すように言って、ぼくをもう一度抱きしめました。ぼくは、苦しいよ、と母さんに言いましたが、すると母さんはぼくのことをよりぎゅっと抱きしめるのでした。どこにも行かないでね。なんとなくそんなことを言われたような気がしました。耳元では鼻を啜る音が聞こえて、母さんは泣いているんだと思いました。けれど、母さんが泣いている理由は、ぼくにはちっとも分かりませんでした。


   †


 ぼくは人間じゃないのかもしれない。

 漫然と流れていく日常に、そんな居心地の悪さ、所在のなさを自覚したのは小学三年生のころだったように思います。

 その日、ぼくは体育の授業でサッカーをしていました。授業とはいえ試合は白熱。スコアは一対一のまま、PK戦にもつれ込みました。相手チームの賢ちゃんが外せば、ぼくのチームが勝つという場面、ぼくは賢ちゃんの背中にかけられる声援を掻き消して、両手を打ち鳴らしました。

「はーずっせ! はーずっせ!」

 ぼくの手拍子に合わせて、同じチームだったサトタクが手を叩きました。サトタクはお調子者で馬鹿だったので、ぼくが始めたブーイングを面白がって便乗してきたのでした。

「はーずっせ! はーずっせ!」

 ぼくは執拗にブーイングを続けました。早く蹴れよ、と声を上げました。女子たちはぼくらを白い目で見ていたし、相手チームも不愉快そうにこっちを睨みながら負けじと声を張り上げていましたが、関係ありません。些細な体育の授業であっても、負けるのは気分が悪いものでしたから。勝つために全ての手を尽くすことに、迷いはありませんでした。やがてサトタク以外のチームメイトたちも遠慮がちに手拍子を始めました。失敗を願う声と応援する声がせめぎ合って、津波のように賢ちゃんの背中に押し寄せていきました。

 そうして間もなく、賢ちゃんがその場にしゃがみ込みました。顔を伏せて両腕で覆い、肩が小さく上下します。ぼくは歓声を上げ、サトタクは壊れたサルの玩具みたいに手を叩いて喜び、賢ちゃんのすぐ近くを飛び回りました。すると、すぐに先生が走ってきて顔を噛んだあとのガムみたいにくしゃくしゃして泣いている賢ちゃんの肩を抱えました。盛り上がっていた試合の空気は割って入った大人の圧によって一瞬で消し飛んだのでした。

 結果から言うと、ぼくはひどく怒られました。その場で事情を把握した先生に、そのまま薄暗い会議室のような場所に連れていかれ、どうしてそんなことをしたのかと問い詰められました。賢ちゃんが外したら、ぼくのチームが勝てるから。ぼくはそう答えました。先生は話しても埒が明かないというふうに、溜息を吐きました。

「ねえ、夏生くん。もし自分が外せ外せって言われたらどうかな? 自分が人にやられて嫌な気持ちになることは、他の人にしたらだめだと、先生は思うな」

 先生は諭すように言いました。そこにはどんな小さな誤謬もないと、自分を信じ切っているような顔でした。けれどぼくは首を傾げます。

「ぼくは嫌じゃないよ」

 それは怒られることを怖がった子どもの、嘘や言い訳というわけではありません。だって嫌なわけがありませんでした。応援されてもされなくても、もしぼくが賢ちゃんの立場ならすべきことは言われた通りに外してしまうことでも、まして泣き出すことでもなくて、ゴールを決めることなのです。外野が何を言っていようがそれはぼくに関係がないのだから、嫌な気持ちになるはずがありませんでした。もしぼくが嫌な気持ちになるとすれば、この場合、それはゴールを外して試合に負けてしまうことだけでした。

「ぼくは嫌じゃない」

 ぼくは先生に一体何を言っているんだと言うように、もう一度同じ言葉を繰り返しました。先生も、ぼくが一体何を言っているのか分からないという感じで、二度目の溜息を吐きました。

「普通の人は、失敗しろって言われたら嫌な気持ちになるものなの。だからもうやったらダメ。先生と約束してね」

 ぼくは先生の言葉に頷き、指切りをしました。

 だけど同時に、ぼくは自分が普通ではないのだという感覚を意識するようになったのです。


 結局、その日の出来事はただのきっかけに過ぎなかったのだと思います。

 だって一度意識してみれば、ぼくには分からないことだらけでしたから。

 普通の人はどうしたら喜ぶのか。みんなは何をされたら悲しい気分になるのか。何をされたら怒るのか。もちろんぼくだってわざと誰かを傷つけたかったり、怒らせたかったりするわけではありません。けれど、きっとなら何気なくこなしていけるはずのそれがぼくには皆目見当もつかないのです。そしてぼくはそういう場面に出会うたびに自分は普通じゃない、人間じゃない、という感覚に襲われるのでした。

 そうやって、ぼくはたくさんの間違いを犯しました。すると運動ができたり勉強が得意なだけで担保されていたぼくの影響力は、場違いな行いや思いやりのない発言のせいで成長するごとにしぼんでしまって、小学校を卒業するころになると誰もぼくに見向きしなくなっていました。

 真っ白な寄せ書きページを抱えた卒業アルバムを持ち帰って、ぼくは泣きました。きっと悔しかったんだと思います。周りの人間が理解できないことや、周りの人間に理解してもらえないこと。つまりはぼくが人間じゃないことがたまらなく悔しくて、だけどどうしたらいいかが分からなくて、ぼくは泣いたのでした。

 だから中学に上がったぼくは真似をすることにしました。普通の人が落ち込むときには落ち込んで、普通の人が笑っているときには合わせて笑う。そうやって演じているうちに――人間の真似事をしているうちに、いつかぼくも普通の人になれるんじゃないかと、考えたからです。

 その試みは概ね成功したと言っていいでしょう。何人かは友達もできて、先生からの評価だってそこそこ。たまに気の利いた冗談すら言えるようになりました。周りの顔色を窺って、自分のなかにみんなの感情の平均値を模倣トレースしていく。そうやって上にも下にもはみ出ないよう細心の注意を払って、ぼくは順調に学校生活を送りました。

 もちろんそれはひどく疲れるものでした。気が抜ける瞬間はなく、常に神経を尖らせて何気ない会話から経験値を得続けなければなりません。それはさながら、全速力で荒地を蛇行する車の屋根に、腕力だけでしがみつき続けるようなものでした。ぼくは振り落とされまいと、必死に異常じぶんを殺し、普通だれかを演じ続けました。

 だからぼくは、そうやって過ごす一方で、嘘にまみれた日常を少しでも遠ざけるために陸上部に入りました。走っているときだけ、ぼくは孤独でいられました。自分が走るレーンだけは誰にも侵されることのない聖域で、記録タイムとぼくだけが一対一で向かい合う純粋で偽りのない世界に浸ることができたのでした。ぼくは別に大会で素晴らしい成績を残すような実力者ではなかったけれど、それでも自分のやるべきことを淡々とこなしていけばそれが記録になって現れる陸上の世界は、ぼくに快感と安心を与えてくれるものでした。

 中学、高校と、自分の本性を隠し続ける綱渡りのような生活を送り、高校を卒業するころには人間の真似事がすっかり板についた感触がありました。孤独を愛でるための陸上は部員たちと切磋琢磨して汗を流す青春のひと時になったのです。

 ぼくはもう滅多に、自分を人間じゃないかもしれないなんて思うことはしませんでした。ごく平凡に、他のみんなと同じように、取り留めのない時間を過ごすことができるようになったのです。


   †


 退屈な講義の終わりを告げるチャイムが鳴りました。大して集中もしていないのに、さぞ疲れたような吐息が大教室にこだまします。一緒に授業を受けていた友人の沢部さわべもその一人で、だから当然のようにぼくも息を吐いて伸びをしました。

「夏生、今日サークルの飲み、どないするん?」

 沢部は既に荷物をまとめ終えていて、机に腰かけながらぼくを見降ろして言いました。

 ぼくは大学進学を機に、それまで打ち込んでいた陸上から離れていました。理由は明白で、大学では運動部に所属して汗を流すよりもサークルで遊び、バイトで稼ぐほうがだったから。それに、ぼくはもう孤独の世界に浸らなくても平凡に生きていく術を身に着けたのですから、陸上を続ける理由がありませんでした。

 ぼくは今、活動場所のほとんどが居酒屋のバスケサークルに入って、中学生相手に塾講師のアルバイトをして、講義をサボったりサボらなかったりしながらごく普通のキャンパスライフを楽しんでいます。きっともうすぐやってくる夏休みには海へ行ったり、花火を見に行ったりするのでしょう。もう他人の顔色を必要以上に伺うことはありませんでした。

 スマホでスケジュールを確認し、表情をつくります。眉を寄せて申し訳なさそうにしつつ、

「あー、今日は行けない。わりい」

「は、なんでやねん。今日、マリナさん来るんやぞ? 協力してくれる言うたやん」

「協力って、新歓で少し話しただけだって言っただろ。何もできねえよ」

「そないなこと言わんでや。オレは夏生だけが頼りなんやで?」

 沢部が大教室の長机にごろりと寝転び、ぼくの肩を掴みます。遅れて荷物をまとめ終えたぼくは立ちあがりながら沢部の手を振り解きました。

マリナさんというのは三回生のサークルの先輩で、沢部の意中の人です。曰くその場にいるだけでいい匂いがするとのことでした。ちなみにマリナさんには高身長イケメンの彼氏がいるけれど、沢部は残酷な現実を知りません。

「とにかく今日は無理。しかもお前、ぼくが行ったらぼくとだけ絡んで終わるだろ」

「だから頼んでんねん。……あ、もしやシュウちゃんか? 親友のオレよりもシュウちゃんを取るんか? 友情より性欲をとるんかぁ?」

「性欲言うのやめろ。まじめで真っ当に健全だわ」

 ぼくは寝っ転がる沢部の額に軽くチョップをしました。大袈裟に痛がる沢部に、じゃあな親友、と告げて大教室を後にします。沢部を置き去りにする足取りは、向かう先の相手を思えばこの上ないほどに軽快なものでした。

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