第32話

「もう行くのか?」

「そりゃあ、タイムリミットがありますから」

 僕がバックパックを背負おうとすると、腹の虫が鳴った。

「まだまだ、余裕は半日以上ある。腹ごしらえぐらいしてから行けよ」

 米利刑事は笑って言いながら、いつからポケットに入っていたか分からない、グラノラバーを差し出した。目の前のそれに困惑していると、「それは中に入れとけ」と付け加えた。

「ちょっと早いけど、昼飯にしよう。江辺野さんも一緒に、どうですか?」

 米利刑事の顔を見ながら、織林刑事は「また例の予算、勝手に使おうとしてません?」と突っ込んだ。

「どうせ、ほとんど使ってないんだし」

「使わないなら使わないでいいんですよ、別に」

「景気付けにちょっと良いもん飲み食いするぐらい、いいじゃないか」

 米利刑事の言い分に、織林刑事はなおも正しく振る舞い、食い下がろうとする。そんな彼女に、米利刑事は「じゃあ、お前は来なきゃいい」と言い放った。

「それは、あんまりじゃないですか」

「じゃあ、素直になれよ」

 彼は僕に「なあ?」と同意を求めるが、こちらはこちらで時間が気になって仕方がない。そんな僕に、空湖さんは優しい声で「ま、どこかで食べなきゃ元気出ないし」と言った。

「昼飯食う余裕ぐらい、まだあるだろ」

 駿は荷物の側で、プロテクターを外しながら、言った。桂花さんは空湖さんに、「食べ過ぎないでよ」と言いながら、食事に行く準備をしている。これは行くしかないらしい。僕がもたついて余計なものを外している間に、米利刑事は「どうするかな〜」と会議室の出口へ向かう。

 拠点にしているこのホテルは、それなりにいい飲食店も何店舗か入っている。

「やっぱりカツとか、米だよなぁ」

 慌てて身支度を整え、どこへ行くか喧々諤々のやり取りを繰り広げている刑事らの元へ向かった。


 ホテル内のランチビュッフェを目一杯堪能して、食後のコーヒー、お茶をゆっくり楽しんでいる。本格的なフレンチや中華、焼肉や鉄板料理、カニや懐石といった選択肢もあったが、織林刑事が機転を聞かせ、今朝と同じようなスタイルになってしまった。

 変に肩肘張って緊張することもなく、気楽に朝より豊富なメニューを楽しめた。

「時間を気にしてた割には、随分ゆっくりしてたじゃないか」

 米利刑事は楊枝を動かしながら言った。

「そりゃあ、せっかくの食事ですもん。しっかり楽しまなきゃね」

 織林刑事は、僕にウインクした。格好をつけてホットコーヒーを口元に運ぶが、まだ少し熱かったのか、一口啜るなり、少々顔を歪めた。

「冗談はさておき、段取りを確認しておくぞ」

 米利刑事は爪楊枝を外し、コーヒーを飲んだ。弛緩した雰囲気を引き締めるように、声の調子を抑えて口を開く。

「当座の目標は、真境名とグレゴール十八世の間で再協議の場を設けること。協議の前提となるセントラルドグマの条件を飲ませて、交渉のテーブルに着かせることだ。ここまでは、いいな?」

 米利刑事の確認に僕が頷くと、彼は僕の顔をしっかり見て話を続ける。

「大将の任務は、江辺野さんから預かった例のメモリースティックを材料にして、協議の前提条件を飲ませること。もしくは実力で排除して、君が有資格者として、グレゴール十八世との再協議の場に着くことのどちらかだ」

 彼は「実力で排除」と言葉を濁したが、僕らにそれを実行できるとはとても思えない。つまり、前者を着実に成し遂げねばならない、ということでもある。

「もう一つのオプションを実行するにしても、君らの子供にあたる二人が邪魔になる。出来るかな?」

 米利刑事の視線は、僕の目を逃さぬようジッと見つめる。彼はクシャッと顔を歪ませ、「ま、出来なきゃ皆死ぬだけさ」と、笑いながら言った。

「セカイ系は君の趣味じゃないんだろうけど、君がやりたいようにやれよ。失敗したって、文句を言う奴もいなくなる」

「そこは、責任は俺が取る、とかじゃないんですね」

 米利刑事の横から、織林刑事が茶々を入れる。

「責任なんかいくら取っても、降格、減給処分だからなぁ」

「うわぁ、だっさー」

 織林刑事の口ぶりに、米利刑事も楽しそうにやり返した。目の前に差し迫った課題と緊張感に対して、いい歳した大人がワイワイやっている。なんともミスマッチで、肩の力が程よく抜けた気がする。

「さ、もう行くぞ」

 米利刑事は、テーブル二つ分の伝票を持ち、キャッシャーに向かった。領収書を切ってもらう彼を店内に残し、残りの我々はさっさと外に出る。

「他に、何か要るものある?」

 織林刑事は店内の米利刑事を待たず、さっさと会議室へ向けて歩き始めた。彼女の先導に従って、その後をついて行く。

「荷物になるけど、非常食とか飲み物とか」

 僕は特に思い付かず、エスカレータで背後のステップに乗った二人を見た。駿は、「必要になれば、自分達で調達するよ」と代わりに答える。確かに、別に特別な場所へ行く訳じゃない。現地の状況によるものの、人が居なくてもセルフレジと例のICカードで決済も問題ないだろう。

 話を切り出した織林刑事は、ちょっと寂しそうな表情で頷いた。

「じゃあ、会議室の水だけ何本か入れて行きますよ」

 僕は会議室の片隅に、ペットボトルが並べられていたのを思い出し、「アレって、もらっていいんですよね?」と、織林刑事に確かめた。彼女は表情を明るくして、「ええ、何本でも持って行って」と言った。

 昼食の間に雨は上がり、だんだん雲も切れてきた。気温がグッと上がることを思えば、水分は多少持って行っても無駄にはなるまい。

 会議室に戻るなり、プロテクター類を身につける前に、追加の荷物をバックパックに詰め直す。水分はとりあえず一人一本、入れておこう。忘れ物がないか再度確かめ、準備が先に整った二人に手伝ってもらって、武器も含めた装備を整えた。

 時刻は、午後一時過ぎ。最短でミッションを終えれば、夕方までには教会へ戻ってこられる。無事に終わらせることができれば、今夜は自宅で入浴というのも出来るかも。試験前の自宅学習も、必死にキャッチアップしなくては。

 勉強やテストのことを思うときが少々重くなるが、気持ちを切り替えて、出発しなくては。

「ま、気楽にな。ヤツには、公然猥褻の罪状も追加だと行っておいてくれ」

 米利刑事は、最後の最後まで軽口を叩き、本心かジョークか分からない。荷物を背負って会議室を出るタイミングで、大勢の大人が僕らに敬礼してくれた。その姿と心地よい空調に後ろ髪を引かれながら、蒸し暑いホテルの外に出た。


 テレビ局の横を北上し、一際大きな交差点に出た。

 二時間弱の中和剤散布が効果を発揮しているらしく、この辺りは比較的落ち着いているようだ。時折歩道を行き交う自転車に気をつけながら、コスプレめいた格好で街中を歩いている。

 地図によれば、ここから更に北上すると、昨日も訪れたハンバーガーチェーンまであるらしい。

「どうする?」

 左手に「東西線」と案内が出ている場所で、駿が僕に訊いた。

「もう一本外から行くか、このまま近付くか」

 大きな通りに沿って西へ進めば、視界は良好、十分に開けていて戦える気もする。僕の判断を待つ間に、桂花さんは双眼鏡を取り出して、向こうの駅をチェックする。彼女は双眼鏡を覗いたまま、「とりあえずこのまま、左手に折れた方がいいかな?」と言った。

「駅前に、面倒臭そうな幟が立ってる」

 彼女はそう言いながら、双眼鏡を自分のバックパックにしまった。ドラッグによる異様な興奮状態、扇動しやすい状態でなくなったとはいえ、例の対立が完全になくなった訳ではない。

 今の格好でそこへ突っ込んで面倒事が起きるとは思えないが、無用な消耗は避けるべきか。とりあえず、西へ向かおう。一旦地図をバックパックに仕舞い、二人を先導するべく前に出た。

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