終章

比叡山焼き討ち


―――


 山が、燃えていた。


 それはまるで夜空に真っ赤な花が咲いたみたいに綺麗で、人々は山の上でどんな凄惨な事が起こっているかなど気づかずに、ただ茫然とその光景を見ていた。


 しばらくそうしていたが一人の男がハッと顔を上げた。


「延暦寺は……延暦寺のご本尊様は無事なのか!」

「そ、そうだ!それに覚恕様は……」

「私の夫が僧兵として坊舎にいるのです!誰か助けて下さい!!」

「無理だ!あの状態では近づく事すら出来ない!」

「そんな……」

 慌てて家から出てきた女性がその場に崩れ落ちる。周りの人達は気の毒そうな顔をしながらも、いまだに勢いよく燃えている山の方へ視線を投げた。


「しかし何故こんな事に……あの覚恕様が火の不始末などするとは思えんが。」

「はっ!まさか……誰かが放火したとか……」

「えぇ!?一体誰が……」


『織田信長』


 全員の頭の中にその名前が出るまで時間はかからなかった。

 少し前まではほとんど無名の大名だった信長だが、金ヶ崎の合戦や姉川の合戦で一気に知名度が上がった。もちろん悪い意味で。


「もし本当にあいつの仕業なのだとしたら……天は悪魔を生んだのかも知れんな。」


 誰かの呟きは轟々と燃え盛る炎の音にかき消されたのだった。



―――


 比叡山焼き討ち


 織田信長という人物の残虐性を世に知らしめたこの出来事は多くの死者と、日本の仏教界において多大な損失を出した。

 延暦寺の本尊及び、本堂・中堂・大講堂が全焼し、その他寺社堂塔が半焼。僧侶と弟子、僧兵らが一人残らず首を斬られて、全山が火の海になったという前代未聞の惨劇であった。


 これは宇佐山城の戦いで信長の家臣、森可成が討死してから僅か半年後の事だった――



―――


 半年前、岐阜城



「えっ!延暦寺と本願寺を焼き討ちに!?」


 光秀の大声が大広間に響く。それに対して信長は冷静に腕を組みながら短く頷いた。


「あぁ。」

「『あぁ。』って……」

「あいつらは可成の仇だぞ。情けはいらん。それに延暦寺は今や堕落しきっている。修行中の身でありながら酒は飲むわ、女を連れ込み淫行するわ、村人に金を貸して激しい取り立てをするわでやりたい放題らしい。そのような寺は滅びればよいのだ。」

「で、では延暦寺だけでいいではないですか。何故本願寺も一緒に……?」

「本願寺の宗主の顕如は信玄と通じているのだぞ?この際纏めてやってしまおう。」

「…………」

 光秀が複雑な顔をして黙り込む。それを見た信長は眉を潜めた。


「何だ、その顔は。お前は可成の仇を討ちたくはないのか。」

「いえ!私だって可成殿の事は無念でなりません。確かに手を下したのは延暦寺の僧兵です。延暦寺の件に関しては可成殿の弔い合戦として是が非でもやるべきだと私も思います。しかし本願寺の方は……もし今本願寺を攻めれば信玄が黙ってはいないでしょう。必ず報復してきますよ。」

「……ふむ。なるほど。そうなると厄介だな。」

『信玄の報復』という言葉を聞いた信長は一瞬で表情を強張らせた。


「姉川と宇佐山城の合戦でこちらも大分損害を被った。ここであいつに出てこられたら確かに危険だな。」

「それでは……」

「本願寺の事は後で考える。だが延暦寺は必ずやるぞ。可成の為に、そして俺の天下統一の為にな。……光秀。この件に関してはお前に任せたぞ。」

「……承知いたしました。」

 一瞬何か言いたそうな素振りを見せた光秀だったが、居ずまいを正すとそう言って頭を下げた。


「話はこれでお仕舞いだ。光秀、お前は下がってよい。蘭丸。」

「は、はい!」


 突然名前を呼ばれて光秀の隣にひっそりと座っていた蘭は飛び上がった。

 実は最初からいたのだが、白熱する二人に圧倒されてずっと口を閉ざしていたのだ。


「な、何でしょう?」

「それでは私はこれで失礼します。」

 空気を読んだ光秀が部屋を出ていく。信長は光秀の足音が聞こえなくなるまで待ってからようやく声を出した。


「これで延暦寺焼き討ちは決定だな。反対する者も出るだろうが光秀が説得してくれるさ。」

「はぁ……」

「何気の抜けた返事をしてる。お前にも仕事があるのだぞ。」

「え?俺にも?」

「延暦寺を始末する理由は何も可成の事だけではない。」

「と、言うと……あ!もしかして」

「あぁ。前にお前が言っていた、飲んだ者が能力者になったという秘蔵の酒の事だ。」

 信長が声を潜めた。



 秘蔵の酒というのは延暦寺の開祖・最澄が唐より持ち帰った酒の事で、その酒を飲んでしまった弟子達の体に異常が出てそれが『瞬間移動』等の能力だった。という話が蝶子の父親が見つけた文献に書かれていたのだ。

 それを信長に話した時の事を思い出しながら、蘭は前屈みになった。信長が続ける。


「織田家の『心眼』の力は先祖の誰かがその酒を飲んだ事から始まったのだろう。そのせいで俺は……いや、今はこんな話をしている場合ではないな。とにかくその酒がこの世に能力者がいる原因だろう。勝家の情報によれば酒はまだあの寺にあると言う。飲まれたのはその一度だけで後は誰も飲んだ事がないとはいえ、そのような忌ま忌ましい物が存在する事自体許せない。お前にはその酒を盗み出し、処分する役目を与える。」

「で、でも寺を焼き討ちにするんですよね?一緒に燃えるんじゃないですか?」

「確かに跡形もなく焼きつくすつもりだが、もし蔵の中や地下に埋めてあったら燃え残る可能性がある。それだけは避けたい。」

「あ、そっか。そういう場合もありますよね……」

「当日俺は現場には行けないがサルをお前につける。いいか、必ず処分するのだぞ。」

 信長が眼光鋭くそう言ってくる。蘭は一度覚悟を決めるように目を瞑ると、力強く頷いた。


「わかりました。任せて下さい!」




―――


 姉川の戦いで敗北を喫し、宇佐山城の戦いでも織田軍に追い払われた浅井軍は朝倉の軍と共に比叡山延暦寺に籠城した。

 それを知った信長は好機と見て、延暦寺共々浅井・朝倉を葬る事にした。


 そして可成の死から丁度半年後の8月。

 比叡山延暦寺の焼き討ちが実行された。



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