第8話 その剣は誰のために
それはかつて、魔界全土を支配したという伝説の種族。
数多く存在する魔族の中でも最凶最悪として恐れられた彼らは、約一五〇年前に魔族の軍勢を引き連れて人界へと侵攻し、大いなる戦乱━━殲滅戦争を引き起こした。
魔界のみならず、人界さえも自らの支配下に置くために。
「だが知っての通りその野望は、あと一歩というところである一人の人間に阻まれてしまう。フレインガルド。世に語られる、
厳志郎の朗々たる声が、薄暗い室内に響き渡る。
燭台の蝋燭に灯された炎が一際大きく揺らめくのが見えた。しかしそれでも、切臣は厳志郎から目を離すことができない。
「フレインガルドの持つ圧倒的な力によって、魔剣士たちは次々と打ち倒され、最後には王と将軍たちさえも地の奥底へと封じ込められた。元より少数種族だった魔剣士はこうして事実上の滅亡。人界と魔界、両方の世界からその姿を消すこととなる。……たった一人、その力を受け継いだ者を除いて」
照明の光を反射して、厳志郎のサングラスがにわかに光った。
その奥にある双眸が、こちらをじっと見据えているのが分かる。
「それが君だ」
切臣の肩がピクリと揺れる。厳志郎は更に続けて口を開いた。
「魔族の骨肉、若しくはそれに類するものの摂食による魔族への転生、その失敗確率は九割を優に超えると言われている。現に何人もの魔術師が過去に試しては、見るも無惨な屍に姿を変えてきた。それがよもや、魔術師ですらないただの中学生が、残りの一割を引き当てるとは。それも単なる雑魚魔族ではなく、最凶最悪の種族として恐れられた魔剣士と来たもんだ。全く、何という豪運の持ち主だよ。不運と呼ぶべきかも知れんがね」
沈黙が落ちる。
切臣は無言で、自らを見下ろした。
そこにはいつもと変わらぬ自分の身体が、当たり前のように存在している。
しかしながら、何か得体の知れないものが、胸の奥深くで渦を巻いているような気がしてならなかった。
「……でも」
やがて、切臣が恐る恐るという風に言葉を発した。
声が震えている。胸元をぎゅっと握り締めるようにして、
「でも今の俺にはもう、そんな力はありません。服装も元に戻ってるし、刀だって……」
「それは私が施した封印術式によるものだ。君の魔剣士としての力を強引に封じ込め、仮初め的に人の姿へと戻しているだけに過ぎない。一度それが解ければ、君は再び魔剣士の姿へと立ち戻ることだろう」
厳志郎はきっぱりと言い切った。
切臣はまたぞろ、つい数時間前のあの場面を思い返す。
世界が果てしなく広がり、どこまでも飛翔していけそうな気がした、高揚感と万能感。
およそ絵空事としか思えない厳志郎の話だが、それを『馬鹿馬鹿しい』と一笑に伏すことができないのは、その感覚が依然として胸に残っているからに他ならなかった。
「すまなかったな」
と、考え込んでいる切臣に、厳志郎は不意に謝罪の言葉を洩らした。
「私がもう少し早く着いていれば、君はこんなことにならずに済んだ。全ては私の責任だ。本当に申し訳ない」
「……謝らなきゃいけないのは俺の方です。そんな大事なものだって知らなくて、勝手に食べたりなんかして。死にかけたのだって俺自身の自業自得ですから竜宮寺……さんは何も悪くないですよ」
「そうか。そう言ってもらえると気持ちが少し楽になるよ。ありがとう。……ああ、ちなみに言っておくが、魔除けなら取り急ぎ別のもので代用しておいたから、心配する必要はないぞ」
切臣の言葉に厳志郎は僅かに顔を綻ばせる。
それを見て取って、切臣はそろりと強張った口調で尋ねた。
「俺は、これからどうなるんですか?」
正直に言うと、聞くのは怖い。
だが自分自身の展望を見て見ぬふりするのはもっと怖い。どうせどちらも怖いのなら、まだしっかりと事実を明らかにした方がマシだと考えて。
厳志郎は切臣のその問いかけに、重々しい口調で応じた。
「……魔剣の欠片を体内に取り込んだことで、君の肉体は完全に魔剣士へと転生した。もはや君の本質は人間ではなく魔族。人類に仇なす存在となってしまったわけだ」
「…………」
「そして我々魔術師としては、そのような爆弾をむざむざ放置するわけにはいかない。もしも協会に君の存在が露見した場合、運が良くて迷宮監獄の最下層で永久に幽閉、最悪の場合なら即刻処刑になるだろう。その場合死体は研究対象として技術部門の
さらりと恐ろしいことを言ってのける厳志郎。
切臣はただただ押し黙り、その説明を聞いていた。
彼の言わんとしていることは理解できる。
魔術に関しては全くの素人ではあるが、魔剣士がどれほど危険な存在なのかということは一般常識程度には分かっているつもりだ。
ならばこそ、偶然とはいえその力を手に入れてしまった自分をそこまで警戒するのも、切臣としては頷ける。
だが、やはりそれでも、こうして面と向かって言われると堪えるものがあった。
当然だろう。事実上の死刑宣告を突然受けて平気な人間などそうはいない。いたとすればそれは、ただの精神異常者か自殺志願者だ。
茫然とする切臣に、厳志郎は言葉を続けた。
「しかし、だ。私としては孫の命の恩人である君を、そのような目に合わせたくはない。そこで一つ提案がある」
指を一本立てて、こちらへと見せてくる厳志郎。
切臣は俯かせていた顔を上げて、そちらに目を向けた。
「提案、ですか?」
「ああ」
大柄な魔術師は首を縦に振って、
「このまま何もなかったことにして、安全な日常に帰ることだ。幸い君の身に起きたことを知っているのは、ここにいる我々だけだからね。君が魔剣士の力を使用せず、私たちが揃って口を閉ざしてしまえば、協会の目を欺くことも可能だろう」
厳志郎が出してきた提案は、極めて単純なものだった。
そんなに簡単な話で良いのかと拍子抜けしてしまうほどに。
されどそれは切臣に取ってはまさしく、渡りに船とでも言うべき話である。
何しろ降って湧いた力を使わず、ただこれまで通りの安穏とした日常を送るだけで良いのだから。迷う必要などどこにもない好条件だ。
だがしかし。
次に厳志郎が口にした言葉は、切臣には到底看過できるものではなかった。
「ただしその場合、君の記憶の一部を改竄させてもらう。具体的には魔剣士になった経緯と……蓮華に関する全ての思い出の消去だな」
「なっ……ど、どうして蓮華のことまで!?」
少年は思わず声を荒げて問いを投げかけた。
魔剣士になったことに関する経緯の記憶は、まだ分かる。
万が一にも切臣の秘密がバレないようにするための措置だろう。
だが一体どうして、蓮華との記憶までも奪われなければならないのか。
そんな切臣の疑問に、一方の厳志郎は落ち着き払った声で答える。
「こう言っては何だが、うちの家系はこの国でも屈指の歴史と影響力を持つ魔術師の名家だ。当然、その跡取り娘である蓮華に対しても、協会の有象無象共は強い関心を示している。本人はもちろんのこと、その交遊関係にもな」
ロマンスグレーの言葉が反響する。
「そしてそういった連中が切臣くんの存在を嗅ぎ付けて、君の正体を暴かれてしまう可能性は、決してゼロとは言い切れない。そうならないようにするためには、君から蓮華に関する全ての記憶を消して、赤の他人になってもらうのが一番安全で手っ取り早いのさ」
あまりにもあっさりとした口調に、切臣は今度こそ言葉を失った。
蓮華を忘れる。
蓮華と赤の他人になる。
切臣にとってそんなことは今まで、考えたことすらない話だった。
だって彼女とは生まれてからほとんどの期間を、ずっと一緒に過ごしてきたのだ。
たとえ別々の道を歩むことになろうとも、その繋がりは決して易々と失われはしないと信じていた。
それが今、こんなにも呆気なく失われようとしている。
その事実が、少年の両肩に重く重くのし掛かるのだった。
「……それは、どうしてもやらなきゃいけないことなんですか?」
「ああ。君の命を確実に守るためにはね」
「…………」
搾り出すような切臣の質問にも、厳志郎はさらりと答える。
後ろに控える木津うづきが、観察でもするようにじっとこちらを眺めていた。
「君に与えられた選択肢は二つ。蓮華のことを忘れずに魔族として処分されるか、蓮華のことを忘れて平穏無事な生活に戻るか。━━できれば、後者を進める」
厳志郎の声がやけに遠く響き渡る。
それを受けて、切臣はただただ沈痛な面持ちで、顔を俯かせた。
悩む必要などどこにもない。
本来ならば処刑されて然るべきことをしてしまった自分に、厳志郎は温情をかけ、蓮華との思い出を失うだけで今まで通りの安全な生活に帰れるようにしてくれたのだ。
こんなところで無意味に死ぬくらいなら、たかだか友達一人との縁などさっさと切ってしまった方が良いに決まっている。
蓮華との思い出か自分の命。
どちらの方が大事かなど、もはや分かりきっているのだから。
もうそれしか道はないのだから。
……それは、本当に?
『切臣、ダメ! 逃げて!』
瞬間。
切臣の脳裏に、数時間前の校庭での出来事がフラッシュバックした。
こちらに向かって懸命に手を伸ばす少女と、その奥で唸り声を上げる恐ろしい化け物の姿が。
(蓮華は、あんな状況でも、俺を助けようとしてくれたんだよな)
助けて、ではなく。逃げて、と。彼女は叫んだ。
この世の邪悪を全て凝縮したようなおぞましい怪物を前にして、蓮華はそれでも自分を守ろうとしてくれた。
自分の身の危険など二の次で、死に瀕していた自分を救おうと、必死に足掻き続けてくれたのだ。
それに引き換え、こんなところで一人俯いてウジウジ悩んでるみっともない野郎は、一体何なんだ?
(これからもあいつは……あんな化け物と、ずっと戦い続けていくのか)
垣間見た魔術師の世界。
あれはまさしく地獄だった。
道理の通じぬ怪物が好き放題に暴れ回り、人の命など塵芥にも劣るほどに軽い。
あんな血と臓物に塗れた醜悪な世界で、これからもきっと蓮華は戦い続けていくのだろう。
守るべき誰かのために。自分の命すら懸けて。
それを、知っていながら。
お前はこの期に及んで、まだこんなところで立ち止まっているつもりか?
我が身可愛さのためにあっさりと友達を切り捨てるような、本物の腰抜けに成り下がるつもりなのか?
切臣は自らの手に視線を落とす。
血豆だらけのゴツゴツとした武骨な両手。
雨の日も風の日も、ただひたすらに竹刀を振り続けた弛まぬ努力の証が、情けない自分自身を見返している。
この手で本当に掴み取りたかったものは、守りたかったものは、果たして何だったか━━
『約束する! 蓮華がこれから先、どこに行ったとしても、俺はずっとお前の傍にいる! 絶対に、お前をひとりになんかさせねえ! たとえ何があっても、俺たちはずっと友達だ!』
切臣はぎゅっと、手のひらを握り締めた。
そうしてまっすぐ前に向き直る。
その瞳にはもう、先ほどまでの怯えや迷いの感情は、一欠片さえ残っていない。
強く明確な決意の灯火だけが、奥底で静かに燃え盛っていた。
「答えは決まったのかい?」
それを見た厳志郎が問いかけてくる。
切臣はコクリと頷いて、
「はい。俺はまだ、死にたくありません。だから処刑されるのは遠慮させてもらいます」
「そうか……」
若干落胆した様子で、呟きを漏らす厳志郎。
しかしすぐに気を取り直すと、サングラスを指で押し上げながら言った。
「分かった。では早速記憶消去の準備に」
「でも、蓮華のことを忘れるのも真っ平ごめんです」
「……何?」
ロマンスグレーの魔術師は訝しげに眉根を寄せた。
そんな彼を見据えながら、少年は静かに告げる。
自分の命も、蓮華との思い出も失わずに済むもうひとつの道。
第三の選択肢を。
「━━俺は、魔術師になります」
薄暗い室内に、その声がいやに遠く響き渡った。
続いて、不気味なほどの静寂が場を満たす。
「切臣くん……君は、自分が何を言っているか分かっているのか?」
どれだけの時間が経過したのか。
果たして沈黙を破ったのは厳志郎だった。
困惑を隠せない声色での問いかけを、切臣は力強く首肯して続ける。
「もちろん分かってます。どれだけ無茶なことを言っているかってことも」
「なら何故そんなことを……」
「だけど、俺は魔剣士の力であの化け物を倒しました。つまりこの力は、魔族と戦う上でも有効ってことですよね? もし俺がこの力を使いこなせるようになったなら、きっと魔術師として利用価値があるはずだ」
実際に振るった魔剣士の力は、凄まじい威力と手応えだった。
もしあれを自由自在に扱えるようになったのであれば竜宮寺家、ひいては魔導管理協会全体においても決して無視できないものになると、切臣は素人考えながらも確信していた。
そのか細い望みにかけて、魔剣士の少年はロマンスグレーの魔術師に交渉を持ち掛ける。
「確かに君の言葉にも一利無くはないが……」
厳志郎は顎を摩りながら、切臣の提案を吟味する。
「しかし分からないな。蓮華との記憶を消すだけで、君は元の日常に戻れるんだぞ? 忘れたという感覚すら抱くことなく、最初から無かったことになるんだ。なのに一体どうして、わざわざ地獄に戻るような真似をする? 君が命を張る必要などないというのに」
心底不思議そうな様子で厳志郎が尋ねてくる。
切臣は薄く微笑みを作って、
「だからこそ、ですよ」
「?」
「俺はあの化け物に襲われて、一度死にかけました。あの時の感覚は本当に痛くて熱くて、今思い出しても寒気がするくらいに怖かったです」
牙を向いて襲いかかる自分より何倍も大きな怪物。
腹を刺し貫かれるおぞましい感触。
暗く冷たい深海に落ちていくような、どうしようもない絶望感。
出来ることならもう二度と味わいたくはないそれらを、切臣は噛み締めるようにして思い返す。
もしもあの時殺されたのが自分でなく蓮華だったらと思うと、それだけで胸が張り裂けそうになる。
「あんな思い、蓮華には絶対にしてほしくない。だから俺は魔術師になって、あいつを守れるようになりたいんです。その……うまく言えないですけど、蓮華には幸せに長生きしてほしいって思うから」
切臣は深々と厳志郎に頭を下げる。
「だから、お願いします。どうか俺を魔術師の弟子にしてください」
そうして、真摯なる想いを精いっぱい込めて頼み込んだ。
「…………」
厳志郎は何も言わずに、ただ目の前で頭を垂れる少年をじっと見据える。
サングラスの奥に隠されたその瞳に、果たしてどういう感情が宿っているのか窺い知ることはできない。
しかしやがて、その口が何事かを言わんと開かれようとした、その刹那。
「そんなの、ダメに決まってるでしょ」
それを遮るようにして、切臣の背後からそんな声が飛んできた。
振り返るといつの間に入ってきたのか、扉の前に一人の少女が立っていた。
リボンのように結わえられた赤い組紐と、淡いプラチナブロンドのポニーテール。
俯きがちなせいで目元に前髪がかかり、エメラルドグリーンの瞳は隠れてしまっているが、それでもその少女の姿を切臣が見間違えるはずがない。
「蓮華……?」
竜宮寺蓮華が。
切臣の大切な幼なじみの少女が、まるで幽鬼みたいに佇んでいた。
「切臣が魔術師になるなんて、絶対に認めないから」
鈴の音を思わせる綺麗な声が、されどどこか無機質で冷たい色を含ませて、室内に残響した。
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続きは明日の20時頃に投稿します。
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