青い部屋

真花

第1話

 この部屋に僕が巣喰ったのは、夕焼けが届かないからかも知れない。巨大に聳えるマンションに囲まれる形でアパートは建っていて、その二階に月子つきこは住んでいた。

 夢にも成り切らない想念のくずが頭の中をうろうろして、溶けた。溶けると同時に次のくずが占拠して、また溶ける。その繰り返し。横では月子が寝息を立てている。寝物語にシニフィアンとシニフィエの滑りについて話している間に月子は言葉を発しなくなり、僕も言葉が声にならないまま頭の中で翻って、それはくずになった。どれだけの回数くずが溶けるのを見送ったか、僕の底にくずの溶解液が溜まって、その圧力で目を開けた。月子は変わらずに寝息を立てている。部屋は青い。

 ベッドから滑らかに降りる。月子は動かない。カーテンは開いたままになっていて、ベランダ越しにマンションが壁のように視界を塞ぐ。こちらから見えると言うことは向こうからも見えている。テーブルのメビウスの箱を開けてシガレットを一本、弄ぶように手の中で回転させてから咥える。ライターで着火したらその火の所だけが秋のようになった。窓を少し開ける。部屋の密封で控え目に流れていた蝉の声が直の痛みを伴って侵入して来る。窓の前に立ち、マンションを睨む。向こうがどこから見ているのかは分からない。だとしても肌を晒す。ねっとりとした風が低速で部屋の中を踊る。シガレットを吸って煙を吐くだけの裸、僕の視線に気付いているかい? 

せいくん、ダメだよ、ちんちん見せちゃ」

 月子の声は重力に逆らえずに床に落ちた。それを拾う。

「月子もここに並びなよ」

 彼女は絡まった糸を嫌がるように首を振る。

「私の裸は安売りしません」

「減らないし、何も貰えないし、これは証明みたいなものだよ」シガレットの火を消して、また窓辺に立つ。

「愚かさの証明?」

 僕は絡まった視線を嫌うように首を振る。「これはね」と言葉を切る。

「対等以上だってこと」

「あのマンションのこと、大嫌いだよね」

「そんな感情はないよ。でも僕達が劣っていることはないと示し続けないといけない」

「本当にそうなら、証明する必要もないと思うけど」

「諦めの良さは美徳じゃないと思う」

 月子は起き上がる、やる気のない乳房が垂れている。僕以外の誰がその体を求めると言うのだろう。窓際に裸で立つことはそう言う性的な意義を持たないのに。部屋が徐々に暗くなってゆく。日没の寸前、世界の殆どが赤くなる瞬間、西陽を遮られたこの部屋だけは青くなる。その短い青さは、夏の長さとか、蝉の命とかと似ていて、それを跨ぐ僕達が永遠だと訴えかける。青の終わりより夜の始まりの方が強くなり、諦めた訳ではないけど、もう十分だったから僕はシャワーを浴びに行く。

 ふにゃふにゃのちんちんと、右手の中指を中心に洗う。月子が入って来た。

「証明終了?」

「Q.E.D.は永遠に来ないよ。マグロと同じ。泳ぎ続けている間が命」

 ベッドの上ではその差を感じない、だけど、水煙の中では体の年齢差が残酷に映し出される。年上の恋人を持つ者として決して口に出してはいけない、二十歳離れているのだから当然なのだけど、僕はどう多めに見積もっても青年の体で、月子はどう少なく見積もっても中年の体だ。僕はシャワーから出て、体を拭く。もう窓の前に立つ気はなくて、カーテンを半分閉めて、椅子に座ってテーブルに肘を付く。月子が年上なのは結果であって、原因ではない。だけど、彼女はそれを気にしているから、僕は先回りをして彼女の傷付きを柔らかくキャッチしなくてはならない。それともコンプレックスなんてものは誰にでもあるから、全てのカップルがそう言う気の遣い方をしているのだろうか。これは優しさなのだろうか、それとも義務なのだろうか。少なくとも、僕にとっては保ち続けなくてはならないことであり、踏み外すことは二人が終わりに近付くことで、これを大事にすると表現してもいいのだろうか。

 次のシガレットを出そうとして、やめる。煙の混じらないため息をつく。体と人格は関係がない筈なのに、彼女の心に打たれたのに、日々を重ねるごとにこういうフィジカルな所に目が行くようになっている。月子の体にため息をついた訳じゃない、そんなことに気を取られている自分についたんだ。

 窓を閉める。クーラーの温度を二つ下げて、強くなった風を背中に当てる。

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