第6話 ハロルドの過去
ハロルド・デヴィッドソン。
アリンガム公爵令嬢に憑く、悪魔の名前。
彼はずっと昔から、悪魔であった。だけれど生まれたときから、悪魔であったわけではない。
デヴィッドソン公爵家の次男であった彼は、十代の頃から女遊びが激しかった。長男が優秀だったこともあり、自分は何もする必要がないと遊び呆けていた。親も長男がいるからと次男はほったらかしで、何をしても咎めることはない。それでも一通りのことは出来たし、運動能力も高く、剣の腕もそこそこあった。
黙っていても、彼の美貌につられて女は寄ってくる。どんな淑女も彼の前には雌に成り下がった。
男爵家から公爵家の令嬢、婦人、侍女。平民の初心な女に、娼婦。ハロルドは一度だって、女に困ったことはなかった。
基本的には一夜限りの関係。人妻や婚約者のいる令嬢には、決して自分との関係を明かすなと約束した。
「俺とお前の間に特別なものは一切ない。一夜の危険な遊びだ、いいな?」
それが「一夜の遊び」の始まりの言葉。
何度か同じ女性から誘われることもあったが、ハロルドは断らなかった。必ず最初と同じ約束を口にし、ベッドを共にする。――そんなことをしていれば、いつか必ず問題は起こる。執念深い人間は、どの世にも存在するのだ。
同じ女性の誘いを受け続けていれば、勘違いする手合も出てくる。その女性は自分を、ハロルドの特別なひとであると思い込んでいた。
「もう私以外の女と会わないで」
そんなことを突然言われたハロルドは、は? と思い切り疑問符を浮かべた。
「なぜお前にそんなことを言われなきゃならない?」
「だって私はあんたの特別でしょう? 私以外見てほしくないの」
「どこからそんな勘違いが生まれたんだ? 俺は特別なんざ作らねぇよ。面倒くせぇ」
恋だの、愛だの。そんな感情は持っていても面倒なだけだ。だから一夜限りの関係を続けているというのに。
結婚で家や家族に縛られたくはない。
「どうして!? 私の誘いには何度も応じてくれたじゃない! 私を愛しているからでしょう!?」
「悪いが俺は、来るもの拒まずなだけだ。お前以外にも繰り返し誘ってくるやつはいくらでもいる」
このときのハロルドは、言ってしまえば最悪な男だった。愛がなくても女を抱ける、どうしようもなく性にだらしない男だった。女性を妊娠させたり、肉体的に傷をつけたりするような真似はしなかったが。それでも複数人と関係を持つ、不義理な男だったのだ。
「私、あんたのために家を捨ててきたのよ! ねぇ、それならどこかで二人で暮らしましょうよ。結婚してとは言わないわ。私はあんたが私だけを抱くなら、それで」
「……あのなぁ。連れ合いを探してるならよそに行け。家を捨ててきた? 俺の知ったことか、お前が勝手に勘違いして、勝手にやったことだろう。俺はお前を抱く前に毎回言っていたはずだ。特別なものは一切ない、遊びなんだって」
女性の顔から、表情が消える。
恐らく彼女は何度も聞く彼の台詞を、常套句のようなものだと思っていたのだろう。そんなこと言って本当は……などと期待を膨らませて、家を捨てるなどという暴挙に出てしまったのだ。
「わかったらとっとと帰れ。今ならまだ冗談でしたで済むかもしれねぇだろ。こっちは責任取れねぇんだ」
「……なによ……なによそれ……私に優しくしてくれたくせに……甘い言葉をかけていたくせに……」
「あいにく、罵詈雑言を浴びせながら女を抱く趣味はないんでね。そういうのがお望みならそれこそほかを当たってくれ」
カッ、と、女の目が見開かれる。その表情の凄みに、ハロルドは僅かに眉間を寄せる。憎悪に満ちた眼差しは、彼女がもう正常でないことを表していた。にたりと上がった口角が、その事実を決定づけた。
「許せない……あんたみたいな男……一生、一生苦しめ……!」
憎しみに歪んだ顔はまさに、蛇、のようで。女の身体から黒い煙が上がったかと思うと、その煙はハロルドに纏わりついた。
「……!? なんだ、これは」
「私はねぇ、魔女の末裔なの。あんたに呪いをかけてやったわ。あんたには一生解くことの出来ない呪詛よ!」
言いながら女はナイフを取り出した。ハロルドが身構えた刹那、そのナイフは女の喉元へと突き刺さる。
「わた、わたしの……命をかけた呪い、よ……! こ、心から、あぁ、愛し、あ、愛されな、ければ、っ……一生解けない……一生、あんたを生かし続ける、呪い……!」
口から血を吐き出しながら女は、それでもにたにた笑っていた。ハロルドはまさか、と女の言葉を疑い、けれどすぐに事実をつきつけられる。ふと目に入った姿見。そこに映っていた自身の姿に、愕然とした。
血のような真っ赤な色の瞳に、獣のような牙。不気味な蝙蝠の羽に歪んだ形の角。思わず手で触れて、それが実際自分の身体にあるものだと気付くと、初めてハロルドの顔色が変わった。
「アハッ……あははっ……あんたには、解けない……! 一生、一生、誰にも、愛されない……!」
そう言って女は、笑いながら事切れた。
それからの日々は、ハロルドにとって地獄だった。その姿のせいで人々は怯え、王家から派遣された兵士たちに追い立てられた。当然公爵家に戻ることもできなかったが、恐らく自然に戸籍から消されてしまうことだろう。仲が悪かったわけではないが、情がある家族ではなかった。
逃げ回る生活は長いこと続いた。彼がその「悪魔の証」を、自分の意思で隠せることに気付くまで。
それでも赤い瞳までは隠すことが出来なかった。遠い国に行っても歓迎されることは少なく、当然のように彼を愛してくれる存在など現れなかった。その外見に惹かれるものもいる。だけれどその誰も、ハロルドの本当の姿を見ると逃げ出し、二度と戻ってこない。
悪魔でも構わない、と言った女性もいた。だが家族から猛反対にあって、二度と会うことはなかった。
そして何より、ハロルド自身が。
彼女たちを本当に愛しているのか、わからなかった。
何人もの女性と関係を持った。けれどどの女性の顔もはっきり思い出せない。自分に呪いをかけた女の顔すら曖昧だった。
ハロルドにとって、その程度、だったのだ。簡単に忘れてしまえるほどの感情。一時は確かに愛しいのだと思ったはずが、すぐにその想いは消えてしまう。だから彼は、本気で人を愛したことがない。死ぬほど焦がれる恋をしたことがない。
だから呪いをかけた女は、笑ったのだ。一生苦しめ、と。
呪いをかけられてから十数年、ハロルドは愛し愛される努力を重ねた。一人で生きるための知識をつけて、貴族らしい振る舞いも勉強し直して。そうしているうちに、何でもこなせるようになっていた。身体能力は更に向上した。
だが、呪いは解けなかった。愛し愛される存在には、どうしたって出会えなかった。
試しに呪いを解く方法を探して教会や聖地に赴いたが、それも無駄だった。自らの命を代償に女がかけた呪いは、思った以上に強力なものだったのだ。
時間だけが無情に過ぎて行き、ある日ハロルドは何もかもを諦めた。
呪いが解けることはない。かと言って生きていく理由もない。だけれど死ぬことも叶わない。
それならば。
とある街でハロルドは、一人の聖職者と親しくなった。法衣を纏ったその人物は、かなり高位にある聖職者だった。にも関わらず悪魔と化したハロルドのことを嫌悪あるいは憎悪することもなく、寧ろ普通の人間の友人のように接してくる変わった男だった。
「悪魔だからと言って、悪いやつとは限らないだろう」
それはその聖職者の持論である。こんなやつが高位にいるこの街の教会はどうなってるんだと思ったが、返って都合が良かったように思う。ハロルドの願いは恐らく、この男にしか叶えられないものであったから。
ある日ハロルドは友人となった聖職者に言った。
「どうか俺を、封印してくれないか」
それを聞いた聖職者は、理由を聞いた。ハロルドは自分が悪魔になった経緯を隠すことなく打ち明けた。
好き勝手に生きていたこと。愛を持たずに数え切れないほどの女を抱いたこと。そして恨みを買って、呪いをかけられてしまったこと。
「自業自得だな」
「そうだろう」
「でももうずっと昔の話なんだろう? 今さらきみを封印しなければならない理由がわからない」
ハロルドは喉奥を鳴らして笑う。
「疲れちまったんだ。何もかもが」
「なるほど。つまり、現状から逃げたいということか」
当然納得するわけもない聖職者は、ハロルドの説得を試みた。だけれどハロルドの決意が変わることはなかった。
結局その聖職者は、これも自分の務めであると、悪魔と化したハロルドを封印することに同意した。
白い陶器に、金色の装飾があしらわれた小さな箱。悪魔を封じるための、聖なる器。
「いいかい、悪魔となった人よ。私はきみの生き方を良しとしない。だってきみはまだ、結果を出していないよ。だからもしいつか、きみを求める声が聞こえたら必ず応えるんだ。そうすればきっときみの求めていたものも見つかる。……必ずだ」
そんな都合の良い話があるか。
鼻で笑いながらハロルドは、小さな箱の中へと封印された。
それから、どれだけの月日が流れたのか。
はっ、と目を開けた瞬間ハロルドは、自分が眠っていたことに気がついた。
一瞬だけ眠っていたのか、それとも何年も眠っていたのか。確かなのは封印されてから初めて、声が聞こえたということ。
『どうか、私たちの可愛いスザンナが幸せに過ごせるよう、守ってください』
はっきりと聞こえてきたその声は、自分に向かって言われているのだとわかった。
悪魔である自分に何を願っているのかと笑ってしまいそうになる。きっと勘違いしたのだ。あの聖職者が用意した箱は、やたらと洒落ていたから。
そのときふと、自分を封じた存在が言っていた言葉を思い出す。
『きみを求める声が聞こえたら必ず応えるんだ』――と。
あのとき思ったようにまた、そんな都合の良い話があるか、と考える。
だけれど、なぜか、どうしてか。ハロルドは応えよう、と思った。
天使にでも願ったつもりが、悪魔が出てきたらどんな反応をするのか、面白そうだから。
どれだけ眠っていたか確認するために。まだ時間が経過していなければ、また封印してもらえばいい。
あれこれ言い訳を並べている自分に、ハロルドは笑った。そして少しだけ、安心した。
まだ自分に、人間らしい感情があったのだ、と。
呼びかけに応じた先にいたのは、二人の夫婦。そして一人の、気の強そうな顔をした少女だった。
シルバーブロンドの髪に、エメラルド・アイ。ぱちぱち、とまばたきした大きな瞳は、ハロルドの姿に少しも驚くことなく視線を注いでいる。
ハロルドを求めたであろう夫婦はスザンナを守るように抱きしめて、戸惑いと怯えの表情を浮かべていた。
そして夫婦は言った。私たちの命を捧げるから、どうか娘は助けてくれと。
綺麗な服に、髪飾り。整えられた髪は、彼女が何よりも愛されている証拠だ。自分とはかけ離れた存在。だから少しだけ、興味が湧いた。
『お前たちの願い、叶えてやってもいい。だが代償はお前たちの命ではなく、その娘のここ、だ』
そう言うと夫婦は泣き崩れ、娘は不思議そうに両親の顔を見ている。そしてその瞳はまた、ハロルドを見上げた。
『あなたがほしいのは、わたくしの心? よろしくてよ、あなた、とてもすてきだもの』
何も知らない、イロも知らない、子どものくせに。
『あなたの目、とてもきれいね。えほんで見た、赤いほうせき……そう、ルビーのようだわ!』
……あぁ、でも。
知らない、のに。怯えるでもなく泣きわめくでもなく、「すてき」だと言った。血のようだと言われていた瞳を、「きれい」だと言った。
子どもだからこその、純粋な言葉。まっすぐに向けられる賛辞を、随分久しぶりに聞いた気がした。
「お前は悪魔を知らないのか?」
「しっているわ。とても悪いものよ」
「俺がその、とても悪いもの、だが?」
「そうなの。でもわたくし、あなたに悪いことなどされていないわ。これからするっていうのなら、うけてたちますわよ」
なぜかファイティングポーズを取るスザンナに、ハロルドは笑ってしまった。
楽しさで笑いが溢れたのも、久しぶりだった。
「いいだろう。これからは俺がお前を守ってやる。――契約だ、いいな?」
ハロルドの言葉にスザンナはやはりきょとんとして、両親はスザンナをぎゅぅと抱きしめ引きつった顔のまま頷いた。断ればどうなるかわからない――そう思ってのことだろう。
「心配しなくてもお前達が生きている間はしっかり守ってやるさ。精々長生きすることだな」
「……えぇと、あなた、わたくしのじゅうしゃになるということ?」
無邪気な声が尋ねる。ハロルドは目線を合わせて、そうだな、と頷いた。
「ならお名前をおしえてくださる? わたくしはスザンナ・アリンガムと申しますの」
両親の腕から抜け出したスザンナは、スカートの裾をついと掴んで、カーテシーを決める。ハロルドは笑みを深めると姿勢を正し、胸元に手を当てて礼を返した。
「これはご丁寧に。……ハロルド・デヴィッドソンだ」
「はろる……はろっ、……はろるっ」
ハロルド、がうまく発音できないスザンナに、ハロルドはまた笑ってしまう。スザンナは顔を赤くして、むっと頬を膨らませた。
「ハルと、そう呼べ。簡単だろう?」
遠い遠い昔に、家族に呼ばれていた愛称。もうずっと、呼ぶもののいなかった名前。
「ばかにしてますの? ちゃんと呼べますわよ! ……で、でも、あなたがそういうなら、ハルと、そう呼びますわ!」
それが、ハロルドとスザンナの出会いだった。
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