第4話 婚約解消の理由と、これから

「ぼくも行きたかったな~、ファータ・フィオーレ!」

 クッキーのお土産を受け取ったチェスターは、スザンナの部屋のソファーにどさりと座って言った。その隣には既にハロルドが腰を落ち着けている。向かい側にいるスザンナは、自身のベッドに座っていた。

「今日はお稽古がいくつもあったから、仕方ありませんわね。また今度、一緒に行きましょう」

「約束だよ、姉さま。ぼく、あの店のひとたち好きなんだよね」

「あのお喋り野郎の何がいいんだか」

「あらハル、そんなこと言って。あなたがオーナーと仲良くお喋りしていることは知っていてよ」

「あいつが一方的に喋ってるだけだろう」

「それでもハルがあんなふうに親しくしているのはファータ・フィオーレのオーナーだけですもの。友人として、大切にしてくださいまし」

 ふん、とそっぽを向いたハロルドに、スザンナは楽しげに笑みを浮かべている。そんな姉の姿を見たチェスターは、へへ、と笑って言った。

「良かった。姉さま、もうすっかり元気になったね。婚約解消の話のあと、落ち込んだふうだったから心配してたんだ」

 チェスターの言葉に、思わずはっとする。態度には出さないようにはしていたが、チェスターには気付かれていたのだ。そして恐らくは、ハロルドにも。

 恋をしていたわけではないけれど、オズワルドを支えるために今まで努力を重ねてきた。それがオズワルドの一言で、解消された。

 落ち込まないわけがなかった。

「気を遣わせましたわね、チェスター。もう大丈夫よ。これからのことは、ゆっくり考えて行こうと思っているの」

「! それなんだけどさ、ぼく思うんだけど……」

 チェスターが何かを言いかけた刹那、コンコン、と扉を叩く音が聞こえて、ハロルドが立ち上がる。ちら、とスザンナを一瞥して頷いたのを確認し、扉を開いた。侍女の一人がそこにはおり、ハロルドの姿に一瞬ぎくりとしたあと、すぐにハロルドの向こうにいるスザンナに視線を向けて頭を下げた。

「お嬢様、旦那様と奥様がお呼びです」

「まぁ、何かしら。ちょっと行ってきますわね」

「うん、いってらっしゃい。ハロルドと待ってるよ」

 スザンナは笑顔を浮かべて、侍女と共に部屋を後にする。足音が聞こえなくなったのを確認したチェスターは、ずい、とハロルドに詰め寄った。

「ねぇ! チャンスだよハロルド!」

「――何が」

「だって、姉さまには今婚約者がいないんだよ! ぼくずっと思ってたんだ、姉さまとハロルドが結婚したらいいのに! って!」

「お前な……でかい声でなんてことを」

 だってさぁ、と、チェスターはソファーの背もたれに身体を預ける。

「ハロルドは姉さまのことが好きだもの」

 ぴくりとハロルドの眉が動く。

「ぼくにはわかるんだから、ごまかしたって駄目だよ。ぼくは姉さまのことが大大大・大好きだから、姉さまを見るひとたちの感情がわかる」

 男女問わず、行為も悪意もはっきりわかる。チェスターの「好き」の基準は、自分に向けられる感情ではなく、姉スザンナに向けられる感情だった。ファータ・フィオーレ・ソレッラの夫婦はスザンナにとても好意的であるため、ただそれだけで好感を持っている。

「ハロルドほど、姉さまを大事に想ってるひとはいないよ。あ、ぼくの次に、だけどね。だからぼく的には、ハロルドにだったら、姉さまを預けられるんだけどなーって」

 はぁあああ、と、ハロルドは盛大なため息をついた。

 チェスターはまだまだ子どもだ。お子様だ。だけれど彼はまるで、人生をすでに何周かしているかのような雰囲気で話す。ませている、というレベルではない。そして何より、彼の雰囲気はそっくりなのだ。

「お前があのお喋り野郎を気に入ってる理由がよくわかった。――そっくりだよ、お前ら。その、お喋りでお節介なところ」

 まるで心を見透かしているように話すところが。ハロルドの感情を、少しも疑っていないところが。

 チェスターはふふん、と得意げに笑って胸を張った。

「ほめ言葉として受け取っておくよ」

「……嫌になるくらい似てるよ、ほんと」

 レオンツィオも、チェスターも。頭に描くのは恐らく、明るいハッピーエンドなのだろう。だがハロルドの脳裏に、その絵は見えない。

「お前らが思ってるほど、簡単なものじゃねぇんだよ」

 ハロルドの呟きに、チェスターはきょとりとする。

「何で? 身分とか?」

「俺が悪魔だってこと、忘れてるわけじゃねぇだろうな。皇太子との婚約が認められるような公爵家の令嬢が、俺みてぇなのに捕まってちゃ駄目だろうが」

「ぼく子どもだから、そのへんの大人の事情わかんない」

 本気なのか、わざと言っているのか。ハロルドは呆れたような眼差しをチェスターに向けて、それ以上は何も言わなかった。

 悪魔憑きでさえなければ、寄ってくる男は多かっただろう。容姿も、教養も、なにもかも。貴族令嬢として、スザンナは完璧だ。少しきつい顔つきも、その優しさを知れば可愛く見える。笑顔を見れば、心を震わさずにはいられない。

 だからこそ、悪魔に捕らえられるべきではない。

 彼女に相応しいのは、決して自分のような男ではない。

 そんなハロルドの想いを、チェスターは理解できなかった。チェスターは歳の割りに聡く、勘もよく、人を見る目に長けてはいるが、やはり子どもであるために。誰かを想うがゆえの複雑な心境というものが、イマイチわからないのだ。

「好きならそれでいいんじゃないの?」

「俺が人だったら、頷いていたかもな」

「ぼくは悪魔でも大歓迎だよ。ハロルドが義兄上になるのは」

 曖昧に笑うハロルドを、チェスターはじっと見つめた。生まれた頃にはすでにいた、姉の従者。悪魔の姿を見ても、恐怖や憎悪の想いはなく。ただずっと、「姉を大切に守ってくれる人」だと思っている。弟の目にはもはや、二人が並んで歩く未来しか見えていない。

 それは願望か、予知か。

 ただ言えるのは、自分は姉の幸せのためなら何でもするという想いのみである。



 侍女と共に広間に向かうと、ソファーに座った両親がスザンナを出迎えた。

「お父様、お母様。何かご用でしょうか?」

「あぁ、スザンナ。呼び出してすまんな。まぁ、そこに座って。お茶でも一緒に飲もうじゃないか」

 父――チャールズ・アリンガム公爵。そして母のオードリー・アリンガム公爵夫人。シルバーブロンドの髪は父から、エメラルド・アイは母から受け継がれたものだ。夫婦仲は良く、二人の子どもをとても大切にしている。

 侍女が温かな紅茶を人数分用意して、静かに部屋を後にする。チャールズは紅茶を一口飲むと、音を立てずにティーカップを置いてスザンナを見た。

「今日、城から正式に婚約解消が受理されたと連絡があったよ。これはオズワルド王子殿下から、お前宛に届いた手紙だ」

 チャールズから差し出された手紙を受け取ったスザンナは、すぐにその内容に目を通す。婚約してから数年、何度も手紙のやりとりをした。最後に見た字とほとんど変わらないそれを見つめ、スザンナの瞳は揺れた。


『親愛なるスザンナ・アリンガム公爵令嬢。今回は僕の我儘で、長きに渡る婚約を解消することになって本当に申し訳なかった。以前話した通り、この婚約解消に置いてきみの瑕疵はなにもない。きみは本当に素晴らしい令嬢で、きっと良い王妃になったことだろう。なぜ僕が、きみとの婚約を解消するに至ったか……この話を聞いてきみが納得するかわからなかったから、きみが悪魔憑きと呼ばれていることを理由にしてしまったけど、それは全く関係ない。悪魔と噂されるきみの従者から悪意や敵意を感じたことは少しもなかったからね――ではなぜか。それは、きみがとても優しい心の持ち主だったからだ。そしてきっときみは、僕を愛そうとしてくれた。恋ではなかっただろうけど、きっと誰よりも僕を大切にしようと思ってくれていたんじゃないかな。きみは恐らく、国か、僕かを選べと言われたら、僕を選んでしまう気がして。国か、家族かと言われたら、家族を選んでしまうと思った。スザンナ、僕はこの国を愛している。この国を何よりも優先している。そんな僕の隣に並ぶ相手に望むのは、同じように国を強く想う者。僕よりも家族よりも、国を優先してしまうような……心を殺せる人だった。長いこと、きみの自由を奪ってしまったことは本当にすまなかった。僕自身、それに気づいたのはつい最近のことだったんだ。せめてものお詫びに、きみが困ったときにはどうか僕を頼って欲しい。必ず力になると約束する。婚約は解消されてしまったけど……それこそこれは、僕の都合の良い願いだけれど。どうかきみとはこの先も、いい友人でありたいと願っている。』


 すべて読み終えたスザンナは、ふー、と息を吐き出して手紙を置き、用意されていた紅茶を一口飲んだ。

「どういう内容だったの?」

 母のオードリーが尋ねる。

「謝罪のお言葉と、婚約解消に至った理由ですわ。……思っていた通り、悪魔憑きだからというのは理由ではありませんでした」

 安堵の表情を浮かべたのはスザンナだけではなく、両親もだった。悪魔憑きが直接の原因だと言われてしまったら、それはすなわち悪魔を呼び出してしまった自分たちのせいである。娘の幸せを願っている彼らにとって、自分たちの行動が娘の幸せを奪うことになったら……と考えると、気が気ではなかった。

「このお手紙には、家族よりも国を選べるものを必要としているとありました。だとしたらわたくしには、王妃になることなど到底無理な話だったのです。わたくしはこの家を、家族を優先してしまいますもの」

「スザンナ……なんて優しい子なの。……でも、本当に? 無理はしていない? 辛かったらそう言っていいのよ」

 スザンナはゆっくりと首を振る。

「ショックを受けなかったわけではありませんけれど、もう気にしていません。チェスターと……それに、ハロルドがたくさん励ましてくれましたから」

 両親は顔を見合わせて、頷き合った。

「その……ハロルドのことなんだが。……実は教会の方で、悪魔祓いの方法を会得したという情報が入ったのだ」

 スザンナの表情が固まる。鼓動が速くなって、冷や汗が滲んだ。

「……え?」

「あぁもちろん、ハロルドのことが漏れたわけではない。あくまで教会側から、もし本当に悪魔憑きの可能性があるなら一度そのお祓いを試してみるのはどうだと打診があったのだ」

「で、でも、それで本当に悪魔祓いが行われてしまったら、ハロルドは」

 表情を曇らせ、動揺を目に浮かべるスザンナにオードリーは、不意に笑みを深めて立ち上がりスザンナの隣に座った。

「ねぇ、スザンナ。あなたはハロルドのことが本当に大切なのね」

「! お母様……」

「それは、あの人が本当に悪魔だと知っていても?」

 スザンナは胸に手を当てて、こくりと頷く。

「悪魔だとしても、わたくしのことをずっと守ってくれている優しい人ですわ。チェスターも懐いていますし……悪魔祓いなんて……」

「だが、わかっているのか? お前を守ってくれる代償は、お前の心臓なのだぞ」

 初めてハロルドと会った日のことは、今でもはっきり覚えている。自らの命を捧げようとした両親に対してハロルドが望んだのは、スザンナの心臓。チャールズたちが生きている間のみスザンナを守ってくれるという約束だった。

「私たちがきちんと確認しなかったばっかりに、悪魔憑きになってしまって……でも、ねぇ、あなた? 私、思うのよ。悪魔祓いを行うことは、それこそこの子の幸せを奪ってしまうのではないかって」

 母の言葉に、スザンナははっと顔を上げる。スザンナに受け継がれた、きつい印象を与えるその顔は、とても優しく綻んでいる。チャールズは黙って、妻の言葉を聞いていた。

「ハロルドといるときのこの子たちは、とても楽しそうで幸せそうだわ。あれを呼び出してしまったばかりのときは、それはそれは心配で不安だったけれど。でも私もいつの間にか、ハロルドにこの子を任せることが当たり前になっていたわ。ハロルドがいるなら大丈夫ね、とまで思うの」

「……それは、確かに」

 チャールズが相槌を打つ。

「スザンナ。私たちの願いは、あなたの幸せよ。あなたがハロルドを望むのなら、悪魔祓いなんてしなくていいわ。私たちが死んだあと、彼に心臓を捧げることになっても良いと……それくらい、彼を想うのなら」

 この先両親が、どれほど生きるかわからない。病気や事故の可能性も、ゼロではない。もしかしたら明日にでも、この心臓が取られてしまう可能性もある。だがそれでも、悪魔祓い――ハロルドを祓う、なんてことはしたくなかった。

 過去に一度だけ、ハロルドがいなくなってしまう夢を見た。その夢をみたときは余りに悲しくて、声を上げて泣いてしまった。侍女や両親たちより、真っ先に来てくれたのは他でもない、ハロルドで。スザンナの頭を優しく撫でながら、泣き虫なお嬢ちゃんだ、と笑った。

 もう、ハロルドのいない生活は考えられない。

「わたくしは今、幸せです。ですからどうか、このままで。チェスターだって、ハロルドが急にいなくなったら大騒ぎしますわ」

「……うむ、わかった。スザンナがそう願うのなら、そうしよう。断りの手紙を書いておくから、明日チェスターと教会に行ってくれるか? あいつめ、教会から借りた本を一月も返していなかったのだ」

「えぇ、構いませんわ。お父様はまた、王家の方に?」

「あぁ、婚約を解消したとは言え我が公爵家と王家の繋がりを断つことはない。あぁもちろん、穏便に解消されたから、であるがな」

「そうよ、もしスザンナを苦しませたりしていたら、とっくに見限ってこの国を出ていたことでしょうね」

 ぎらりと目を輝かせて言うオードリーは、本気だった。顔を引きつらせるスザンナに、オードリーはそうそう、と話を続ける。

「王子殿下との婚約が正式に解消されたから、多分これから縁談が馬鹿みたいに来ると思うけれど……」

「あぁそうだ、その話もしようと思っていたのだ。きっと良い条件の話もあると思うが、強制はしない。解消から日も経っていないしな」

 王家との繋がりがある公爵家の令嬢。見目も良く教養も完璧とあれば、どれほど結婚の申し入れがあるのか。

 けれどスザンナには、新しい婚約者、という選択肢が浮かんでいなかった。過るハロルドの姿に、胸が締め付けられる。

「しばらくは全てお断りいただいてもよろしいでしょうか? 少しの間、自分の時間を大切にしたいと思いますの」

「それがいいわ。スザンナはずっと頑張り過ぎだったもの。今度お母様とも一緒にファータ・フィオーレに行きましょうね。好きなもの何でも買ってあげるわ」

「そ、それならスザンナ、お父様とも出かけよう。隣町に美味しいソーセージを出す店があるらしくてな、それがまたワインと合うのだと……」

「あなた、自分が行きたいだけではないの?」

 オードリーのツッコミに狼狽えるチャールズに、スザンナは思わずくすくすと笑う。

「楽しみにしてますわ、お父様」

 せっかく出来た時間なのだから、大切なひとたちと共に過ごしたい。

 母と父と弟と――ハロルドと。色んな場所で、色んなことをしてみたいとスザンナは思っていた。

 彼女が描く未来には、必ずハロルドがいる。そうであって欲しいと、彼女は自分でも気付かない心の奥で、強く願っていた。

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