第2話 悪魔憑き令嬢のお気に入りは
スザンナには、お気に入りの店があった。老若男女問わず、誰もが花の妖精になれる場所。そんなコンセプトで経営されており、最新の流行りから過去人気のあった服や装飾品、お菓子など様々なものが取り揃えられた店の名は、ファータ・フィオーレ・ソレッラ。
夫婦で営んでいるその店はいつも賑わっており、スザンナとハロルドは今や常連だ。
婚約解消の話のあと、ハロルドが息抜きに、と誘った場所がここだった。
「あらいらっしゃい、レディ・アリンガム! 麗しの執事くんも一緒ね」
そう言ってにこやかに二人を出迎えたのは、この店のオーナーであるレオンツィオ・ミネルヴィーノ。こんな口調であるが長身の男性で、垂れ目の甘いマスクが目的に通うレディやマダムがたくさんいるのだとか。
「ごきげんよう、オーナー。マダムはいらして?」
「えぇ、今店の奥に。呼んでくるから、商品を見て待っててちょうだい」
レオンツィオは鼻歌混じりで、二人から離れて行った。周囲を見渡すと、可愛らしいお菓子や美しい装飾品がたくさんの花と共に並べられて、思わず目移りしてしまう。相変わらず品揃えがいいと、スザンナは瞳を細めてそれを眺めた。
「欲しいものでもあるのか?」
「そういうわけではないけれど……ここの店のものって、何でも素敵でしょう? 見ているだけでドキドキしてしまいますわ」
「それが物欲なんだと思うがなぁ。何か買ってやろうか? アリンガムから出た給金で」
「……あなた、またわたくしを子ども扱いしてますわね?」
「わかるか?」
「~~もうっ!」
ハロルドがくくっ、と喉で笑い、ふと顔を上げる。スザンナたちのあとに入ってきた数人の令嬢が、彼女たちの姿を見た途端思い切り顔を顰めた。
「あぁ嫌だ、何でこんなところに悪魔憑きがいらっしゃるの?」
「この店に不釣り合いですわよね。早く出て行ってくださらないかしら」
「見て、あの真っ赤な目。なんて恐ろしい……それを平気で連れ歩いているなんて、どういう神経してらっしゃるのかしらね」
囁かれる言葉は、今まで何度もぶつけられている言葉だった。それこそハロルドと出会い、彼がスザンナと共にあるようになってから。城を訪ねるときも、街を歩いているときも。「悪魔憑き令嬢」を煙たがるものは、何人もいた。
それでも王家との繋がりが強い公爵家であるため、直接なにかしてくるような人間はいなかったが――いてもハロルドが撃退してしまうのであるが――今のようにわざと聞こえるよう悪意をもって言葉を漏らすものは多かった。
スザンナはその度、何とも言えない悔しさを覚える。言い返せばいいのかもしれないが、あの手合は何を言っても納得はしないのだ。どれだけハロルドが自分を守ってきたか、ハロルドが今まで何かを害したことはないと言ったところで無駄なのはわかっている。
だからスザンナはいつも、聞こえてないふりをして、たた拳を強く握るだけで。陰口を叩くものが、それに飽きるのをじっと待った。
斜め後ろに立っているハロルドにももちろん、令嬢たちの声は聞こえている。だが彼もまたスザンナと同じように、聞こえないふりをしていた。――本当はその口を塞いで脅すくらいのことをしてもいいと思っているのであるが。スザンナがそれを望まないことを、ハロルドは良くわかっていた。
だが今回は少しばかり、状況が違った。
陰口を叩いていた令嬢の一人がずいとスザンナに歩み寄り、どん、とわざと肩を押したのだ。
「……っ?!」
ハロルドがとっさにスザンナの身体を支える。表情を変えないまま、スザンナを押した令嬢を見やった。
「ねぇ、あなた。とっとと帰ってくださらない? 私、この店がお気に入りなの。悪魔憑きがいたら商品が呪われてしまうかもしれないでしょ? 迷惑なの」
スザンナの目が微かに見開かれる。腹の奥から熱い感情が込み上げ、拳を握る手に力が入る。
「この店のオーナーだって、そう思ってるわよ。悪魔憑きに来られて迷惑だって」
彼女と共に来た令嬢たちは、したり顔で頷いている。スザンナより前にいた客は、何事かと令嬢たちに視線を向けた。すると程なくして、レオンツィオとその妻であるニナ・ミネルヴィーノが姿を見せた。レオンツィオたちは二組の様子を交互に見て、ぱちりと瞬きをする。令嬢の一人がふふん、と笑って、ニナたちに言った。
「気になさらないで、オーナーに、店長……マダム・ミネルヴィーノ。私達このお店のために、悪魔憑きを追い払っているところなの」
「この素敵な店に不釣り合いですものね。お二人もそう思うでしょう? ほら、早く出て行きなさいよ!」
再び令嬢の一人が、スザンナの身体を押そうとした刹那。その腕をハロルドが掴み、じろりと睨みつけた。令嬢の顔が一気に青ざめ、ひっ、と声を漏らす。
「どこの家のもんだ? 随分雑に教育されてるんだな」
「な、なんですって……?」
「執事くん、暴力は駄目よ」
レオンツィオが制止すると、ハロルドはすぐに手を離してスザンナの肩を抱いた。スザンナがはっとしてハロルドを見上げると、令嬢を冷たく睨みつけていた瞳に
柔らかさが戻り、スザンナに笑みが向けられる。
「お話はわかりました」
一歩前に出たのはニナで、レオンツィオはその後ろで笑みを携えてニナを見ている。ニナの次の言葉を期待しているような、そんな視線だった。
令嬢たちはにやにやとしたはしたない笑みを浮かべ、早く追い出せと言わんばかりに顎で扉をさす。ニナはにっこりと笑顔を浮かべて、レオンツィオに合図を送った。
「ファータ・フィオーレは誰もが花の妖精になれる場所です。そこに年齢も性別も、種族も関係ありません。……ただし、一点。人の心を考えられない方のご来店はお断りいたします。さぁ、お帰りください」
ニナと同じ笑顔を浮かべたまま、レオンツィオは。スザンナに絡んでいた令嬢たちの肩を優しく押して、店の出入り口へと追いやった。令嬢たちは一瞬ぽかんとして、それから慌てた様子で喚き出す。
「ちょ、ちょっと! どうして私達が追い出されなきゃならないのよ! 追い出すべきは悪魔憑きでしょう!?」
「私たちはこのお店のために……!」
「アタシたちのお店のためを思うなら、今すぐ帰ってちょうだい。あなたたちの言動でお店の空気が悪くなっているの、わからない? 何が気に食わないか、それはあなたたちの自由だけれど。その負の感情をこの店で撒き散らすのはご遠慮いただくわ」
口調は穏やかに、けれど有無を言わさぬ強さで。外に追い出された令嬢たちは顔を真っ赤にしてレオンツィオたちを睨みつけ、キンキン響くヒステリックな声を上げた。
「何よ、こんな店! 二度と来ないわ!」
「悪魔憑きの店だって、言いふらしてやる!」
そんな声にもレオンツィオは、にっこりと笑顔を絶やすことなく。手をひらひら振って、扉を閉めながら言った。
「反省したらまたいらっしゃい。思いやりのあるお客様は大歓迎よ」
そのままばたんっ、と扉を閉めたレオンツィオは振り返り、スザンナにウィンクをひとつする。スザンナの前に立っていたニナは周囲を見渡し他の客へ視線を巡らせると、改めて深々と頭を下げた。
「お騒がせして申し訳ございません。引き続き、お買い物をお楽しみください」
ぱちんと、扇子をたたむ音が聞こえる。
「あらぁ、マダム・ミネルヴィーノ! 堂々とした姿、素敵だったわぁ!」
「えぇ本当に。オーナーとのコンビネーションがばっちりで、思わず惚れ惚れしちゃう」
「あなた、アリンガム公爵様のところのお嬢様? あたくしの主人が公爵様のところでお世話になっておりますのよ。さっきの小娘たちの言葉なんて、気にしないでくださいましね。素敵な執事さんを持っているあなたを僻んでいるだけですもの。あたくしならそうね、こう言ってやりますわ。ファータ・フィオーレ・ソレッラは、悪魔すらも夢中になって通う店だ、って」
この店の商品と思われる帽子や傘を手にした婦人が、コロコロと楽しげに笑いながら言う。スザンナは先程までとは違う感情が、胸に浮かんでくるのを感じていた。
この国は決して、悪魔に否定的なものたちばかりではない。どうしてもその印象から、嫌悪するべき存在と言われることは間違いないのであるが。何よりハロルドの外面が良く、誰にでも――主にスザンナに関わるような相手――であるなら優しく接するため、「悪魔」だというのはただの噂であると思っている人間の方が多いのだ。外見のために悪魔だと言われてしまうのだろうと、同情する声もある。
尤も実際悪魔であるのだが、アリンガム家のもの以外には知られていない。
「それは素敵な提案ですね、マダム。実際ここの店の品揃えは本当に良い。装飾品はもちろん、マダム・ミネルヴィーノの作るお菓子も絶品です。うちのお嬢様ももう、この店のお菓子でないと満足出来ない身体なんですよ」
「ちょ、ちょっとハル! 中毒者みたいに言わないでくださる?!」
「わかるわぁ、私もここのお菓子大好きなのよぉ。ついつい食べ過ぎちゃって……それこそ悪魔的な美味しさだわ! あっ、悪い意味じゃないわよ、もちろん!」
もうひとりの婦人がニナに向かってそう言うと、ニナは嬉しそうに笑って頷いた。
「わかっておりますわ、マダム。新作のクッキーの名前に迷っていたのですけれど、ディアーボロ・クッキーなんてどうでしょう?」
「いいじゃない、ニナ。悪魔的なクッキーだなんて、洒落てるわ! レディ・アリンガム。今日もサロンを使うでしょう? せっかくだし、新作クッキーを食べていってちょうだい」
もちろん執事くんも一緒に、と、レオンツィオはまたウィンクをした。ほわりと、胸が温かくなるのを感じて、スザンナの頬が紅潮する。かばって貰えたことより何より、ハロルドが受け入れられている事実が嬉しかった。
「あの、それでしたら店にいるマダムたちにクッキーをご馳走させてくだいませんこと? 言いがかりとは言え、わたくしのせいでご不快な思いをさせてしまいましたもの」
「あらぁ、気にしなくていいのよぉ。でもちょっと、クッキーには惹かれてしまうわぁ」
「ふふ、主人が言っていましたわ。アリンガム家のご令嬢は気配りが出来る優しい方だと。でも本当に気にしないでくださいな、悪いのはあちらの令嬢たちですのよ」
優しいマダムたちの言葉に、スザンナはようやく笑顔になって緩く首を振る。胸元に手を当てて、軽く会釈をした。
「これはわたくしの、皆様への感謝の気持ちですわ。どうぞ受け取ってくださいまし」
間延びした喋り方をするマダムを筆頭に、店にいた何人かの令嬢や令息たちは嬉しそうな表情を浮かべる。もうひとりのマダムもにこりと笑顔を深めて、改めてスザンナに頭を下げた。
「それじゃあありがたくいただきますわね。あたくしもここのお菓子は大好きなの」
「えぇ、わたくしもですわ、マダム。良ければお名前を教えていただけます? お父様にお伝えしますわ」
「あらまぁ、あたくしったらご挨拶もせず……」
スザンナが婦人から名前を聞いている間にニナとレオンツィオが、個包装されたクッキーを店内にいた客に配った。すぐそのあとにスザンナとハロルドはサロンへと案内されて、紅茶とクッキーが用意される。スザンナはそこでようやく、深い深い息をついた。
「……疲れましたわ……」
ハロルドはスザンナの向かいに座って、じっと彼女を見つめた。スザンナがその視線に気付くと、ハロルドが口を開く。
「なぁ」
「何ですの?」
「お前は何でいつも、我慢してるんだ? 昔からずっとだ」
「……我慢? わたくしが?」
「そうだ。あんなふうに言われて、悔しくないことはねぇだろう。手が真っ赤になるくらい力んでるくせに、何も言い返さない。アリンガム家の権力を知らないやつはいねぇってのに、父親に言いつけたりすることもない。次期王妃――今は元、だが、それを差し引いてもそこまで良い子ちゃんでいる理由があるのか?」
紅茶に映る自分の顔を見つめながら、スザンナは黙り込む。
これがもし、スザンナ一人の身に起こったことなら。あるいは、弟の身に起こったことであるなら、彼女は迷いなく抗議の声を上げていただろう。上位の貴族令嬢らしく自信満々に、彼女たちを追い払っていたように思う。だけれど、そうしなかったのは。あの手合に、話すだけ無駄だと考えてしまうのは。
「わたくし、あなたが悪しように言われるのは嫌です」
「……は?」
「だってあなたは今までずっとわたくしを守ってくれていますもの。口は悪いし足癖もよろしくないし、目つきも悪いですけれど……あんなふうに言われるようなことはしてませんわ。街のひとのどなたに、あなたが迷惑をかけたと仰るの?」
オズワルドに婚約解消されたことを、ハロルドのせいだと言ったけれど。本音を言えば、弟の言う通りあのオズワルドがそれだけの理由で婚約解消を望むとは思っていなかった。それを理由にしなければならないほどの事情があるのだろう。けれど余りに突然の、想像もしていなかった出来事に動揺して、つい詰め寄るような真似をしてしまった。
「それでもあの方たちは、外見や噂だけを信じて文句を言い続けるでしょう。そうすればわたくしだけでは飽き足らず、あなたのことも責め立てるはず。わたくしはそれが嫌なの。あなたがやってもいないことで責められるのは、不愉快ですわ」
言葉にしてみて、はっきりと自覚する。陰口の不快感は自分への負の感情よりも、ハロルドに対する否定的な言葉に対するものの方が強い。悪魔だなんだと言うだけならまだいい。けれどそれ以上、たとえばやってもいないことをさもやっていたかのように言われるのは、非常に不愉快だった。
ハロルドは常に自分と共にある。そのハロルドが悪事に手を染めたことは、今までだって一度もない。
もちろん、彼の過去を知っているわけではない。どれだけ生きているのかもわからないが、自分と過ごしている年月だけは何もしていないのは確実だ。
「あなた、言っていたじゃない。人を殺すだとか何かを盗むだとか、そういうことは柄じゃないって。もしわたくしに隠れてそういうことをしているのだとしたら軽蔑しますけれど……」
スザンナの言葉にハロルドは、ぽかんと口を空けていた。それから深く息を吐き出して、額を抑える。やれやれと言った様子で首を振るハロルドにスザンナは疑問符を浮かべ、ぱちりと瞬きをする。
「まさか、本当に隠れて……」
「あー、違う、それはない、長く生きているが手を血で染めたことはねぇ。……はー、そういうところだよなぁ、お嬢ちゃん」
「今日で何回目ですの、子ども扱い!」
「なぁ、スー」
テーブルに肘をつき、瞳を細めたハロルドがスザンナを見つめる。胸がぎゅっと締め付けられるような感覚に、スザンナは思わず身体を後ろへ引いていた。
「お前が、俺が傷つくのが嫌だって言う気持ちはよくわかった。でもなぁ、俺もお前が思うのと同じように、お前が傷つく姿は見たくない。お前が我慢して表情を抑え込んで、手のひらを傷つけるほど力んじまうような真似はして欲しくないんだ」
ティーカップを持つスザンナの手元に視線を向けて、ハロルドは静かに言葉を紡いだ。
スザンナが望めば、報復する。スザンナの身体を押した令嬢の手をひねり上げて、痛みに声を上げさせることも出来た。
「お前が嫌だと言えば、お前が不快だと思うのなら、俺はその対象を排除してやるガラじゃねぇことに手を出してでもだ。お前のそばにいるようになってから、何度もそう言っているはずだ」
彼女を守ることが、アリンガム公爵夫妻との約束。――条件付き、ではあるが。
「お前が俺の心を気遣う必要なんてない。そう簡単に傷つくほど、軟弱なもんでもねぇ。だからお前が我慢する必要は……」
言いかけて、言葉を止める。目の前のスザンナが眉を釣り上げ、ぶるぶると肩を震わせているからだ。
「おい、スー……」
「何を勝手なことを言っていますの……? わたくしはわたくしの家のために、あなたが本当の意味で悪魔になってしまわないようにしているのですわ! 従者の心を気遣うのは上に立つものとして当然のこと!」
スザンナはずっと、そうやって生きてきた。両親の姿を見て、健やかに育っていた。
「何より、わたくしが何よりも不快で、不愉快なのは! あなたが本当に悪魔的なことをしでかして、あの令嬢たちや、今まで馬鹿にして嫌悪してきたものたちにしたり顔されてしまうことです! わたくしが傷つく姿を見たくないのであれば、精々大人しくしてらして!」
彼女はきっと、理解していない。その言葉の中にどれだけの愛情が籠もっているのかを。
ハロルドはまた口を空けてスザンナを見やり、今度は大きなため息と共にうなだれて。呻き声と共に、「敵わねぇな」と呟いた。
「あらあらなぁに、大きな声を出して。新しくクッキーが焼き上がったから、持ってきたわよ」
レオンツィオとニナが絶妙なタイミングで、サロンへとやってくる。ニナはスザンナのそばまで歩み寄ると、眉を下げて尋ねた。
「レディ・アリンガム。あの、先程の……差し出がましい真似をしてしまいましたでしょうか」
「! いいえ、まさか! マダム・ミネルヴィーノにあんなふうに言って貰えて、むしろ嬉しく思いますわ。ありがとうございます。それよりわたくしの方こそ、勝手にお菓子を……今日の分のクッキー、なくなってしまわないかしら」
「ふふ。ウチはクッキーだけじゃなくてビスコッティもマフィンも、カップケーキも美味しいのよ。心配しなくて大丈夫!」
ね、と、レオンツィオはニナに向かって笑いかける。ニナもにっこりと笑って頷いた。
二人が並んでいる姿は思わず胸が高鳴ってしまうほど絵になっており、スザンナは微かに頬を紅潮させる。ハロルドはそれを、何となくつまらなそうに眺めていた。
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