第32話 失われた友情
翌日、息を切らせながら駆け寄ってくるシャーロットの姿に自然と口角が上がる。
「カイ、お待たせしてごめんなさい」
「別に、待ってないからそんなに慌てなくていい」
昨日と同じようにテディベアを抱きかかえたシャーロットだが、嬉しくてたまらないといった表情にくすぐったさに似た気持ちを覚える。
「あのね、この子はテリーっていうの」
カイルの視線がテディベアに向けられていると思ったのか、シャーロットは自慢するようにテディベアの向きを変えて、カイルに見せてくれた。どこにでもあるようなテディベアだが、新しいようには見えない。そんなにずっと持っているほどお気に入りなのだろうか、そう思ったがカイルは別の質問を口にした。
「何でテリーなんだ?」
「わたくしがまだ上手にテディベアって言えなくて、テリーって呼んでいたから」
まだ幼さが残る口調に一生懸命テディベアと言おうとするシャーロットの姿が目に浮かび、思わず吹き出すと、シャーロットは真っ赤になって反論した。
「今はちゃんと言えるのよ!でもずっとそう呼んでいたから、名前をかえちゃうとかわいそうだもん」
「くくっ、分かったよ。シャーロットはテリーと仲がいいんだな」
笑いをかみ殺しながら宥めるように告げると、シャーロットはこくりと頷いた。
「テリーはお母さまからいただいた最後の贈り物なの」
寂しそうな顔にシャーロットが母親を亡くしたのだと察した。それと同時に何故常に持ち歩いているのかという疑問も解消される。まだ幼いシャーロットにとって母親との繋がりを示すテディベアはお守りがわりなのだろう。
昨日シャーロットの身元をそれとなく調べた結果、侯爵家の令嬢で王太子の婚約者であることが分かった。他国の王族の婚約者なのだから、あまり深入りしてはいけないと思いつつ人目を忍んで泣いていたシャーロットのことが気にかかり、結局ここに来ることにしたのだ。
(シャーロットはまだ6歳の子供なのだし、互いに気分転換で話をするぐらい構わないだろう)
そう考えてカイルはシャーロットの話に耳を傾ける。
屈託のない笑みを浮かべるシャーロットにカイルもいつしか穏やかな表情を浮かべるようになっていた。
「カイル殿下は最近楽しそうですね」
そんな交流が続いたある日、護衛についてきた騎士団長のジェイドから指摘され、カイルは渋面を浮かべた。他者から言及されるほど分かりやすい表情を見せている自覚などなかったのだ。
「表情ではなく雰囲気が柔らかくなりました。外ではいつも通りですから、ご心配なく。ただずっとつまらなそうでしたので」
ようございました、と優しい眼差しを侍従のロイからも向けられて、カイルは二人に心配を掛けていたのだと気づいた。急な外遊を命じられて不満を抱いていたものの、表面上は淡々と振舞っていたのにどうやら筒抜けだったらしい。
(俺は自分が思っていたよりもずっと子供だったのだな)
帝国にいる時に認められなかったことが、素直にそう思えて心が軽くなる。
「……世話を掛けたな」
そう労いの言葉を掛ければ、二人は静かに微笑んでくれた。
「まだこんな物を持っていたのですか!」
「ごめんなさい、ジョスリーヌさま!もう持ち歩いたりしないから――」
言い争う声が遠くから聞こえてカイルは思わず足を止めた。
「――失礼しました。場所を弁えぬ使用人がいるようで、申し訳ございません。後ほど厳重に注意いたしますので、殿下はどうぞこちらに」
案内を申し出てくれたリザレ国王弟も騒ぎに気づき、申し訳なさそうに詫びながらカイルを誘導した。先ほどの必死な少女の声がシャーロットのものだと気づいて駆けつけたい衝動に駆られたが、勝手に行動するわけにはいかない。
国宝である美術品について語る王弟の言葉をほとんど聞き流して、急いでいつもの場所に戻ればシャーロットの姿はなかった。
そこには泥まみれになったテリーだけが屍のように残されていて、その光景に目の前が真っ暗になるほどの強い怒りを覚える。
(誰が、こんなことを——!)
シャーロットの友人であり母親の形見の無残な姿に一瞬我を忘れかけたが、テリーを何とかするほうが先決だと思い至って、足早に部屋に戻ることにした。
「ジェイド、ロイ!」
カイルの叫び声に驚いた様子の二人だが、カイルが持っている物を見て困惑の表情に変わる。
「殿下、そのようなものどこからお持ちになられたのですか?」
「あとで説明する!それよりもこれを綺麗にしてくれ、とても大事なものなんだ。ああ、こちらの侍女には頼まないように」
カイルがまくし立てるように告げるとロイの表情が曇った。
「汚れがひどいですね。中にまで泥が染みこんでいるとなかなか落ちにくいのですが、やってみます。お時間をいただきますが、よろしいでしょうか?」
「分かった。頼む」
真剣な表情のカイルからロイは丁寧な手つきでテリーを受け取る。その様子をジェイドは思案気な表情で浮かべていたことにカイルはその時気づいていなかった。
それから3日間、シャーロットが庭に現れることはなかった。まだテリーが完全に乾いておらず渡せる状態ではなかったが、シャーロットを安心させたくて落ち着かない日々を過ごすことになった。
(リザレ王国に滞在するのはあと2日、それまでにシャーロットに会わなければ)
少し耳の部分がよれていたが、概ね綺麗な状態に戻ったテリーを袋に入れて裏庭に向かえば、シャーロットの後ろ姿が見えた。
「シャーロット!」
嬉しさのあまり駆け寄りながら呼び掛けると、シャーロットが振り向くが、その表情がどこか虚ろでカイルは冷水を掛けられたかのようにぞっとした。
「……カイ、ごめんなさい。わたくしのせいで、めいわくをかけてごめんなさい。さいごにあやまりたかったの」
俯きながらか細い声で告げるシャーロットの様子に、カイルは状況が飲み込めないまま尋ねた。
「シャーロット、何があったんだ?」
無言で首を振ったシャーロットはそのまま立ち去りかけたのを見て、カイルは慌てて袋からテリーを取り出す。
「ちょっと待て。ほら、忘れ物だ」
行く手を遮るようにテリーを突き出すと、シャーロットの目が大きく見開かれる。
「どうして……?」
「ちょっと耳の形が歪んでしまったけど、綺麗になっただろう」
シャーロットの様子に不安を覚えながらも、その表情が喜びに輝くことをカイルは疑っていなかったのだ。
「……すてて」
「は…?」
意味が分からず聞き返したカイルに目を向けず、シャーロットは両手を固く握りしめてテリーを睨みつけている。
「わたくしは、でんかのこんやくしゃだから、そんなのもういらないのっ!」
「何言ってるんだ。テリーはお前の大事な友達で——」
母親の形見だろうと続けようとしたカイルだったが、顔を上げたシャーロットから大粒の涙を流しながらも怒りがこもった瞳を向けられ、言葉を失ってしまった。
「カイなんか、大っ嫌い!」
走り去っていくシャーロットを呆然と見送りながら、心臓をわしづかみにされたような痛みに立ち尽くすことしか出来なかった。
「カイル殿下」
どれぐらい時間が経ったのか、いつの間にかジェイドがすぐ近くに立っていた。
「殿下のせいではありませんよ」
慰めの言葉にジェイドが一部始終を見ていたのだと気づいた。
「俺は、余計なことをしたのか……?あんなに大事にしていたのにどうしてシャーロットはあんなことを……」
「これは俺の推測で正しいかどうかは分かりませんが」
そう前置きしてジェイドはシャーロットの変化について語った。
「あの日殿下が聞いた言い争う声と汚されていたテディベアから考えて、ご令嬢は手放す選択をさせられたのでしょう。きっと彼女にとってかなりの苦痛を伴う決断だったからこそ、再び目の前に現れたテディベアに拒否反応を起こしたのではないでしょうか」
持っていればまた同じことをしなくてはいけないのだと、幼いシャーロットが思い込んだのは無理のないことかもしれない。シャーロットの無垢な心がどれほど傷ついたのかと考えれば、胸が締め付けられるようだった。
「カイル殿下、哀れだと思いますがあのご令嬢にこれ以上関わることはお控えください」
「分かっている。彼女は第一王子の婚約者だ」
そのためにシャーロットは努力を続けている。短い期間だったが彼女はたくさんのことを話してくれた。大好きな父親のためにも、優しい王子のためにも一生懸命にマナーや教養を身に付けようとしていることが伝わってきた。
(ただの客人である俺がシャーロットを守ることはできない)
己の立場を理解していると頷けば、ジェイドは少し態度を和らげた。
「侯爵家に届けておきましょうか?」
それが一番良い方法だと思ったが、先程のシャーロットの様子であればまた怖がらせてしまう可能性に思い至る。怒りに任せて言葉を投げつけた瞬間、シャーロットの顔が後悔と痛みに歪んだのをカイルはしっかりと目にしていた。
「これは俺が預かっておく。いつか彼女が安心して受け取れるようになるまで」
王太子妃になる頃には誰からも嫌がらせを受けることのない十分な地位と立場を身に付けているだろう。カイルの静かな決意にジェイドはそれ以上何も言わなかった。
それから12年経って、再び邂逅を果たしたシャーロットに渡すのが正しいことだと分かっている。
「ご主人様のもとに帰りたいか?」
終わった初恋の象徴でもあるテリーにカイルは静かに話しかけてみるが、もちろん答えが返ってくることはなかった。
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