続・少年少女は前を向いたのか——蛇を打ち倒す物語と、分析心理学的発達段階論について(仮)②
では、分析心理学が提示した発達段階論とはどのようなものなのだろうか。ユング自身が第二世代と評した分析心理学者エーリッヒ・ノイマンの『意識の起源史』は、無意識上で混沌としている自我から自己受精を経て、最終的に自我が形成されていく過程を描いた分析心理学的発達段階論を提示している。以下ではこれについて若干ながら見ていきたく思う。
『意識の起源史』は、人間の意識の発達過程を数多くの神話やイメージなどから検討する著作である。本著作の内包する長大な思想の全貌を取り上げることは本論ではできないが、特に主体の成長という点を念頭に据えながら、本書の整理に取り掛かりたい。本書が展開する人間意識の発達過程には、意識の未形成段階である「ウロボロス」、そしてそこから生じた「原両親=原母、原父」の形成、最後に自我意識を完成させる「英雄」など、専門概念がいくつも登場してくる。
その最も初めに登場するのが「ウロボロス」だ。自らの尾を加え一つの円を形作る竜(あるいは蛇)のイメージであるウロボロスは、人間の意識発生の最も始原の形として認識される。『意識の起源史』ではウロボロスの「未規定」性が強調され、それが人類の歴史上に多様な形で偏在してきたと主張する。
始原に位置するものは完全性と全体性である。この資源の原-完全性を説明しようとしても、つねに周りを回っているにすぎず、その本質上、神話的に描写する以外に道がない。それというのも、描く側の自我も、自我の目の前にある描かれる対象である始原も、その大きさを測りようのないことが判明するからである。それは自我が意識内容として対象を概念的に把握するときのようなわけにはいかないのである。
このため、始原はいつもある一つのシンボル〔=ウロボロス〕が置かれるが、このシンボルは恐ろしくも多様な意味を持ち、規定されず、規定しえないものであることが最大の特徴である[1]。
ここで重要なのは、彼がウロボロスを「恐ろしくも多様な意味を持ち、規定されず、規定しえないものである」とした点だ。彼のウロボロスに対する「人間の意識発達の根本に存在しているイメージ」という解釈はあくまでも表象の一つの「可能性」にすぎず、仮定的なものとされている。こうしたイメージに対し、ノイマンは「未知な」存在に意識的に接し論じることを「意識化」と呼び、結果生じる理論こそ、分析心理学において重要だと考える。
未規定性、未知性に包まれていることを前提としてもなお、彼は「可能性」という前提と据えながらウロボロス表象についての考察を進める。ノイマンはウロボロスが「円」であることに注目すると同時に、「子宮」及び「両親」の二つの解釈を提示する。
原初の完全性を表わすシンボルの一つが円である。この同類が球、卵、および《円環》・錬金術の円・である。(…)円。球・丸いもの・であるそれは、自己完結的なものであり、はじまりも終わりも持たない。(…)なぜなら、円という性質は以前も以後もなく——時がなく——、上も下もない——空間がない——からである[2]。
最初の戦いであり始原への問いでもある「どこから」という原-疑問には、一つの答えと、この答えに対する二つの解釈によってのみ答えることができる。一つの答えとは円であり、二つの解釈とは子宮と両親である。ウロボロスの中の竜(あるいは蛇)が自らの尾を噛むことによって生じる円は、分析心理学上において対立物の統合という意味合いを持つ。ノイマンが『意識の起源史』で紹介する中国神話における創造神である「盤古」が両手で抱えている「二つ巴」——すなわち陰陽が一つに混ざり合うイメージ——と、それが「円」の形に描かれていることは、ウロボロスのイメージの一つの例でもある[3]。では、「子宮」と「両親」の解釈とは何か。「子宮」という解釈はそれが人間意識の発生の始原であることを意味する。
多くの未開民族は、性交が子供の誕生につながることを知らない。未開人のように子供の年代で性交を始める場合、それが決して子供の出産に結びつかないため、子供の誕生は成功における男性の授精とは無関係とみなされてしまうのである。
しかし、「どこから」という問いは、つねに変わらず「子宮から」と答えられるにちがいないし、また答えられていくことだろう。新生児がみな子宮から生まれるというのは、人間の原体験だからである。神話の「丸いもの」もまた子宮と呼ばれるが、この起源の場所は具体的な場所と受け取られてはならない。すべての神話が繰り返し述べているのはまさに、この子宮がイメージであり、女性の子宮は人間がどこから来たのかを示す原シンボルの中の一つにすぎないということである。この原シンボルは、同時に多くの事柄を示すシンボルであって、一つの内容を表すものでも、ましては体の一部を表す者でもなく、多元的なものであり、世界ないしは世界の一領域であって、その中にはたくさんの内容が隠されており、またたくさんの内容が生きているのである。「母たち」とは一人の母ではない[4]。
引用では、ノイマンの円の解釈としての「子宮」について展開される。しかし、「子宮」という解釈の背景には、円を「卵」と解釈するユングの影響も隠れている。ユングが1944年に発表した『心理学と錬金術』における、「円」象徴を「賢者の石」と表現している箇所に注目しよう[5] 。
ユングは当時の錬金術思想における目標を「愚昧な人間たちが考えているような普通の黄金 (「卑賎なる金 aurum vulgi」)ではなく哲学者の黄金であると言っている」ことをいう[6]。当時の錬金術師たちによって秘匿されてきた「哲学者の黄金」は錬金術における「賢者の石」であり、それは「水銀」=「メルクリウス」だ 。両性具有として語られるメルクリウスは「アニマ」と「アニムス」という対立物が統合された状態であり、対立物の統合=「個性化」された存在である。そうした統合の象徴たるメルクリウスが立つ球体こそ、丸い混沌、すなわちあらゆるものの発生の起源と解釈される。ノイマンの「子宮」の解釈は以上のようなユングの考えを継承している。
「子宮」や「卵」が両親の性交に大きく関わることから転じ、さらにウロボロスは「両親」の解釈をも持つ。ノイマンはこれを「原両親」と表現する。
大いなる円、ウロボロスは、子宮であるばかりでなく、「原両親」である。原父は原母と結合してウロボロス的一者をなしており、両者を互いに引き離すことはできない。ここではなお始原の法則が支配しており、その中では上と下・父と母・天と地・神と宇宙・が互いに相手を映し、決して相手から分離されえない。諸対立の相互結合という始原的存在の状態は、神話の中では、互いに結合した原両親というシンボルにおいて他に現われようがあろうか!
こうして、「どこから」という問いに答えを与える始原の原両親は、全宇宙であり、永遠の生命の原シンボルである。原両親は完全なるものであり、そこからすべてが生成する。また永遠の存在であり、それは自らに授精し・自ら身ごもり、自らを産み・殺し・再び生を与える[7]。
原両親は「結合してウロボロス的一者をなしており、両者を互いに引き離すこと」はできず、それゆえ「それは自らに授精し・自ら身ごもり、自らを産み・殺し・再び生を与える」。ウロボロスが「混沌」な存在であることは先に確認したが、意識発達における重要なイメージの原両親はそうした混沌ゆえに、未発達なままである。そうした未分化的性質はすなわち、父親と母親が雌雄一体の状態であることを意味する。『意識の起源史』ではこうした雌雄一体的ウロボロスゆえに可能な自己受精、未分化な両親間での受精によって父親と母親が分離し、最も初期段階の自我が形成されることになる。
[1]エーリッヒ・ノイマン『意識の起源史 改訂新装版』林道義訳、紀伊国屋書店、2006年、34頁.
[2]前掲書、37―38頁.
[3]この陰陽の結合、対立物の結合という現象は意識発達の最も始原に存在する一方で、序論で示したように「対立物の結合」は自己の形成において非常に重要な意味を持っている。『アイオーン』の中ではユングは雌雄同体の重要性とそこから分裂する雌雄という概念に対し重要性を主張し、これを神話や錬金術などから見出している。
[4]前掲書、44―45頁.
[5]カール・グスタフ・ユング『心理学と錬金術Ⅰ・Ⅱ』池田紘一・鎌田道生訳、人文書院、1976年.
[6]ユング、前掲書。
[7]ユングはメルクリウスを原初の両性具有的な存在であると示し、メルクリウス=水星の象徴が「水銀」であることから、あらゆる変化の象徴として捉えている。
[7]ノイマン、前掲書、81頁.
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