4話 再開



 日も昇っていないような時間帯に靴紐を結ぶのは、少しわくわくする。


 物に対して物理的に複雑な操作を加えるのは、少なくとも日常的な動作の範疇においては、いまだに人間の得意とするところだ。何せただ生まれてきただけで、特別な機能を追加することもなく、ある程度以上のことができてしまう。


 紐を結ぶのもこれが何度目だろう。初めの頃は手間取っていたのが、今では目を瞑ってもできるくらいには上達した。


 変わる。

 あまり実感する機会のないそのことを、今は肌で感じている。


「足、大丈夫?」

「大丈夫。踵、慣れてきたみたいだから」


 扉の前に彼女が立っている。僕が履いているのと同じデザインの靴。大きめなのは「そっちの方が可愛いから」とのことだけど、靴擦れとは無縁で羨ましい。でも、僕に起こったそれも、二週間くらい前に絆創膏が剥がれて、ようやく気にならなくなった。


 立ち上がる。

 ポケットを叩いて、確認する。


 ハンカチ。ティッシュ。念のための携帯食料なんてもう要らない気がするけれど、念には念をと彼女が言うから従っておく。姿見の前に立つ。服装にも変なところはない。いつもと同じ。襟だけを少し整えて、


「大丈夫?」

 彼女が言うから。


 僕は振り返って、こう答える。


「うん」


 扉を開く。淡い朝焼けの光と冷たい空気が、部屋に流れ込んでくる。薄手のコートの襟を、首元に引き上げる。


 少しずつ、冬が来ていた。





 あれから二日に一度、僕は人間の作った映画を観るようになった。


 そしてその費用を埋め合わせるために、定点観測員としての労働は二日おきから一日おき、多い期間は毎日。そのくらいの頻度で行うようになっていた。


「そんなに気に入ったの?」


 彼女が訊ねるから、僕は答えた。まあ、結構。それがどの程度本気の答えだったのか、彼女にはわかっただろうか。


 本当のことを言うと、『すごく』だった。

 毎日だって観たいと、今はそう思っていた。


 技術的には拙いものだと思う。名作と呼ばれたものを調べて順に観たりもしたけれど、正直なところAIの作るものに完成度が及んでいるとは思わない。人間の知性はそういう形で発達していない。一時間も二時間もある映像作品を作ろうとすればどこかでは必ず綻ぶし、そもそも『完成』という形を想像することすらできていなかったんじゃないかと思う。


 名作と呼ばれていないものは、もっとすごい。端的に言って、天と地だった。


 起伏のバランスが悪いとか、いまいち盛り上がり切らないとか、その程度の綻びじゃとても済まない。単純に、ストーリーが矛盾している。音量の調整でミスが起こっているのか、台詞が聞き取れない。僕が今から映画の中に飛び込んだってこれよりマシだ、と思うような演技が披露される。これなら画面に映さない方がずっと良いと言い切れてしまうようなCG……は、時代を考慮すれば多少は弁解の余地があるかもしれないけれど。


 人の作るものは、ぐちゃぐちゃだった。

 けれどその『ぐちゃぐちゃ』に、今更僕は心を惹かれていた。


 どうしてなのかと考えてみれば、それはきっと――


「うあっ」

「前方注意――って、結構言ったんだけど」


 聞こえてなかったの、と心配そうに彼女が覗き込んでくる。僕は鼻を押さえている。街路樹。目に入ってはいたけれど、はっきりと認識していなかったので、正面からぶつかった。いたた、と鼻を押さえていると、彼女が、


「……なんかさ」

「何」

「最近、ちょっと頭が悪くなってきてない?」

 この世には『言い方』という概念が存在する。


 別に僕に言われなくともわかっているだろうから、あえて語弊のある形を選んだのだろうと思いながら、それでも一応僕はそのことを彼女に伝えた。知らないかもしれない、と念のため。案の定彼女は「うん、知ってる」とこともなげに頷いて、


「でも最近ずっとそんな感じじゃん。顔、変形しちゃうよ?」

「しないよ」

「するって。もー……。映画が好きになったのはいいけど、特に外にいるときと、料理してるときには気を付けなね」

「了解」

「映画は一日一時間!」


 それじゃ半分しか観られない。


 他の部分は僕が悪いと思えたので素直に受け入れて、最後のところだけ反論を試みた。彼女もそこまで本気で言ったわけじゃなかったのか、すんなりと受け入れてくれる。うんうん、と満足げに頷く。


 だけどそれから、もう一度心配そうな顔をして、


「メンタルカウンセリング、やっておく? 機能ついてるよ」


 大丈夫、と僕は答えた。けれど同時に、こうも思っている。


 自分が大丈夫かどうかなんて、本当に理解できている人はいるんだろうか。





「気を取り直して!」

 と彼女が言うから、気を取り直して。


「今日の定点観測は施設編です! 図書館!」


 じゃーん、と道の真ん中でポーズを取る彼女に拍手を送りながら、僕はそれを見上げた。


 定点観測も、すっかり慣れたものになってきていた。活動範囲は当然、山だけに収まらない。というかこのあたりの徒歩で足を運べる範囲には、山はひとつしかない。どうして初日からいきなりそんな一番厳しいところに行かせたんだろう。


 見上げた図書館は白く、それでも建物自体は古く思えた。色褪せているというほどではないけれど、最近、少しだけわかるようになってきた。人の通らない、使わない場所は、少しずつ寂しさを蓄えていく。場所自体が寂しさを感じたりするはずはないと思うから、たぶん僕の感じ方の問題。網膜が、勝手に『寂しさのテクスチャ』を張り付けるようにできている。


「でも、」

「ん?」

「こういうの、ずっと建てておくものなんだ。維持費もかかりそうだし、廃棄されてもおかしくなさそうだけど」


 頭に浮かんでいるのは、ついこの間観た映画のことだった。


 少子高齢化という現象がことさら問題として取り上げられていた時代のこと。閑散とした――と言って、今の僕が住む街よりはずっと人の姿があったけれど――過疎の町を舞台に、総合病院の廃止を巡るドラマを描いた九十分程度の映画。見終わった後はどっと疲れてしまったけれど、疲れるくらいには重々しい物語だった。伴って、学ぶところもあった。


 建物の維持には、お金がかかる。


「おっ! 賢しくなったね~」

「言い方」

「でも、人間製の映画でつけられる知識は基本的にちょっと古いから注意かな」


 もう関係ないんだよ、と言った。いつの間にか僕たちの足は止まっている。彼女もまた、空まで仰ぐようにして図書館を見上げた。曇天に似た冬の晴れ空。灰色の日差し。


「資源の配分とか、持続性とか。そういうのは全部私たちの方で組んであるから。お金って、ほら……」

「何?」

「欲望を制御したり、人間同士の衝突を緩和したりするためのシステムとか、そんな感じ。必要不可欠なものをどうこうするときに、そんなもの持ち出さなくてもいいでしょ?」


 だから心配要らないよ、と。


 言って、彼女から先に歩み出した。


「必要なものは、私たちが全部用意してあげる」


 ほら行こ、と彼女が言う。その背をほんの短い時間、見つめてから僕は動き出す。


 吐く息が、わずかに白かった。





「おぉ……」

 思わず声が出たのは、思った以上の光景だったからだ。


 入り口の前に立てば、ドアは自動で開いた。匂いが変わる。歩く。カウンター。日付を表す電光掲示板。その下にある『きょうのニュース』と書かれたスペースには、埋められることのない空白がある。いくつかの椅子。机。広い窓。新着図書のステッカーが貼られたスカスカの棚。


 その奥に、見た目だけで重さを感じさせるような棚、棚、棚。そのどれもが、中身をぎっしりと敷き詰められている。


 古い記憶媒体。

 本、と呼ばれていたのだという。


「なんか、」

 考えたことが、思わず言葉になって漏れ出してくる。


「こうして見ると、圧力が……」

「ねー」


 現行の記憶媒体に収めれば、きっと片手で持てる程度の大きさまで縮んでしまうんじゃないかと思う。その占める空間の大きさを考えれば、効率の悪い保存方法。けれどそのことを想像したときに僕が思ったのは、「この程度のことで大袈裟だ」とこの施設を軽んじることではなくて、むしろ逆。


「目に見ると、こんなにあるんだ」


 可視化されることによって、その情報量の大きさが、はっきりとわかる。


 ここにある本を、どのくらいの時間をかければ読み通すことができるのだろう。AIが管理してくれる現代で、寿命は昔よりもずっと長い。それでもひょっとすると、一度や二度の人生では足りないかもしれない。そう思えば、自分が摂取できる情報の量なんて片手も要らないくらいに軽いものなのかもしれない、なんて。


「すごいね」

「ねー」

 考えても、何も心に刺さることはない。


 そういうものだった。人間は小さい。システムの方が大きい。たったそれだけの、当たり前のこと。もしかするとあの映画に登場するような人たちは、そうは思わなかったのかもしれないけれど。


「いつもみたいに見て回ればいいだけ? 他に何かやることは?」

「ないけど、一応施設に関連した求人情報も漁ってみるね。……ない! 特に補修作業とかもないから、気楽に見て回るだけでいいよ。冷暖房完備だし、今日はここでのんびりしよっか」


 了解、と返すのに被せるようにして、折角だから、と彼女は言う。


「何か借りて行ってみたら?」

「借り――できるの?」

「そりゃできるよ。借りられない図書館もあるけど、ここはそうじゃないし」


 一部の本は持ち出せないけど大体のはね、と彼女が言う。知識の上では僕も知っていた。図書館。公の財産として書籍が蓄えられ、期限を決めて市民に貸し出される場所。映画で見たのは確か、カウンターで手続きする場面。あそこか、と目線をやる。


 するとそのカウンターの奥に、ポスターが貼ってあるのが目についた。



【AIは友だち!】



 書かれていたのは、スローガンとも落書きともつかないそんな言葉。


 古い時代のものだと思った。ひとつには、その書き文字が色褪せていたから。ふたつには、今更になってそんなことを主張する人間はいないだろうと思ったから。


 だって、それはもう、


「好かれてる」

「ん? ……まあね~」


 僕にとっては、当たり前のことだ。


 生まれてからずっと傍にいてくれる知性体。一生の友人。適切にこちらの言葉を読み取り、適切に触れてくれる存在。疑念を挟む余地は、そこには――


「ん、」


 ポスターの端が捲れているのに気が付いた。彼女も僕が気付いたことに気付いたらしい。「中、入っても大丈夫だよ」許可を取る前から彼女が言うから、許可も取らずに入り込む。


 カウンターの奥。ポスターを捲ると、その下にもう一枚、ポスターが貼ってある。



【AIは人類の敵】



 文字を認識した瞬間に、指先が勝手に離れた。はらり、と『AIは友だち!』のポスターが再び被さる。隠れる。もう一度見ようとは思わない。


 反AI思想。聞いたことはあった。映画を通して観ることもあった。けれど今はないものと思っていたから。そういう思想を持つ人々は、遠く離れた場所へと去っていったと聞いていたから。


 それは、実際目にしてみても何も面白いものじゃなくて。


 目の前にした悪意に、固まってしまって。


「と思ったら、優しい人がいただけでした。おしまい」


 彼女が冗談にしてくれるまで、動けずにいた。


「……よかった。優しい人がいて」

「ねー。まあ別に、私は気にしないけどね。ぜ、ぜぜぜぜ、全然気にしてないけどねっ」


 何それ、と笑って僕は応える。笑ってよかったのか、よくわからない。駄目だったんじゃないかと思うということは、少なくとも良くはなかったのかもしれない。それでも彼女も、あははと笑って応えてくれた。逃げるように本棚へと向かう。見なかったことにする。


 一番近くの本棚に、言い訳するように目を留めた。


「ここ、何がどこにあるの。……そもそも、何の順?」

「よくぞ聞いた。端から人気順だよ」

「嘘」

「よくぞ見破った……」


 相槌の言葉を看破の言葉と勘違いして、彼女は勝手に負けを認めてくれた。そして語り出す。図書館の所蔵は図書分類法というものを用いて行われる場合が多いが、この図書分類法にも様々な手法がある。その手法の数々といえばこうこうこう。歴史的にはどうこうこうこう。そんな長い長い旅の果てにようやくこの図書館に使われている日本十進分類法についての解説が始まる。いつもだったら少しの眠気を覚えるその会話の間に心は落ち着いて、最後に彼女が『物理書籍の完全なる位置情報把握と検索性の向上が生み出す新たなる分類法の提案』を語り始めた頃に、ようやく、さっきの光景が薄れてくる。


 どう、と彼女が訊ねてくる。僕に言われても、と答える。ふふ、と彼女が笑う。


「それもそうだ。で、どうかね。何か読みたいものとかある? 日本十進分類法とこれまでの司書の皆様への敬意を以て、完璧なガイドをしてあげよう」


 訊かれてから、考えた。読みたいもの。興味の対象。


「小説。気になるかも」

「おっけー。かなり棚の数は多いから、これは五十音順に見ていこうか。913を目指してね。ここ……ってテクスチャを貼っちゃうと」


 マズいから、と彼女は図書館の中に案内用のテクスチャを被せるのをやめて、「音声案内でいこう」と提案してくれる。頷いて返す。定点観測の労働を行うとき、いつも不便そうにしているのは僕ではなく、不思議と彼女の方だった。


 913。日本の小説の棚。


 前に立ってみる。目線の高さにあったものを、視線を滑らせるように見る。


「……外形から得られる情報量が少なくない?」

「テクスチャ貼れてないからね。でも、2040年くらいまではずっとこんな感じだったんだよ」

「これでどうやって選んでたの」

「作家の名前。出版社の名前。装丁……カバーのデザイン。あとタイトル」

「…………」


 それだけで中に書かれているこの何百ページもある内容の面白さがわかるなら、それはテクスチャ技術よりもずっと不思議な直感だと思う。


「抜き取るところまでやっていいなら表紙を見て、捲るところまでやっていいなら冒頭を読むかな。後は……何だろ。あらかじめ周辺情報を読み込んで、借りたいものを決めてから来る人もいたかな」

「予告編とかないの。映画みたいに」

「裏表紙とか、カバーの折り返しにあらすじが書いてあるのもあるよ」

「ないのもあるの」


 あるよ、と彼女はこともなげに言った。くじ引きと何が違うのだろう。それともくじ引きと同じで、何でもいいから直感で手に取って、何もわからないまま中身を読むというのがこの場所の楽しみ方なんだろうか。


 決め手に欠けていた。913の棚をずっと歩く。どれかを手に取ってみた方がいいと思いはするのだけど、どれを手に取ろうという気も起きない。短いタイトルは中身が推測できないし、長いタイトルは長いタイトルで、親しみのないジャンルばかりだからいまいち面白さが想像できない。


「お? 913は?」

「いや、なんかあんまり……」


 結局そうして、913の棚を通り過ぎてしまうくらいには、何も。けれどそこからは、少しだけ面白かった。


「ここは? タイトルに『映画』ってあるけど」

「900の棚だね」


 文学理論とか、と彼女は言った。どうしてその文学理論の棚に『映画』のキーワードを含んだタイトルが並んでいるのかと不思議になったけれど、曰く「映画の脚本はそういうのに含まれるんだよ」とのことだった。文字だけで脚本が書かれていた時代も、長かったらしい。


 小説よりもこっちの方が、ずっとタイトルから内容の想像が付きやすい。代わりに『脚本の書き方』と題された本が多すぎてどれがどう違うのかはわからないけれど――そのうちのひとつを、何の気なしに指で傾けて、引き抜く。


「何これ。913だけど」

「ん?」

 するとその本と一緒に、引きずり出されるようにしてもう一冊出てきた。


 ああ、と彼女は頷いた。配架が気付かれなかったんだろうね、と。その『配架』という言葉が何を意味しているのかわからなかったけれど、それを訊き出すよりも先に、僕の注意の向き先は変わった。


 知っているタイトルだったから。

 表紙には、明るい部屋とノートパソコン。細部は違ったけれどイメージは同じだった。


 もしかして、と思う。

 それは、初めて観た人間製の映画と同じタイトルの――



「君、それ読むの?」



 そのとき。

 知らない人の声が、隣から聞こえてきた。





 呆気に取られた。


 本を手に持ったまま、たぶん口を開けていた。隣を見ると人がいた。手の中の本の表紙には、こんな文字が書かれていた。


【愛するものを、手でつくる】


「っと。ごめん。驚かせたかな」

「あ、いや――」


 もちろん驚いていた。けれど口から出てきたのは否定の言葉で、どうして否定したのか自分ではしばらくわからない。その顔をまじまじと見て、本当に少しずつ驚きが去って、それからようやく、その言葉の理由が自分でわかる。


 見覚えのある顔だった。


 生身の人間の顔を間近で見る機会なんて、僕にはほとんどない。今現在、生まれてこの方会ったことのある人間の数よりも、映画の中でその人生の一部始終を眺めさせてもらったキャラクターの数の方がずっと多い。だからその顔の『見覚え』をどこで作ったのか、総当たりですぐに思い出せた。


「覚えてるかな。隣に住んでる……」

「はい。この間」


 あの日だ。

 風邪を治して、スーパーに出かけることを決めた日。家の前で出会った女性。隣の部屋に住んでいる人。


 前に見たときよりも厚着になっていた。襟の高い防水素材のジャケット。厚手のロングパンツ。靴と鞄は前に見たときと同じように、妙に居心地の良いくたびれ方をしている。


 外から入ってきてすぐなんだろう、と思った。その人の周りだけ空気が冷たい。けれど彼女自身の頬は少し赤くなっていて、肌が熱を持っていることがわかる。そんなことがわかるようになった自分を、不思議にも思う。


 いきなり話しかけてごめんね、とその人は言った。


「その本、知っているから気になって」

 指を差すのは、僕の手の中にある本。


「もう読んだ? これから読むのかな」

「これから、」


 ですけど、と話を繋ぐだけの余裕と落ち着きが、今は戻ってきていた。


「映画の方、先に見て。たぶん内容は知ってると思います。大体」

「えい……あれを観たのか」


 驚いた顔をした後、「悪くはないけど」と歯切れ悪くその人は言う。「けど」の後には色々と言いたいことがありそうな顔で、そのあと、実際に続けて言う。


「あの監督、あれ以外ひとつも撮ってないんだよな。作者の身内って話だし……」

「へえ」


 素直に驚いて、相槌を打った。驚きの理由はふたつ。監督がどんな人物だったかなんて、調べる人が居るんだということ。もうひとつは、そういえばこれを撮ったのは人間だったんだな、という改めての再認識。


 何かを作った人も、生きていた。


 たぶん、僕と同じように。


「っと、ごめん。あんまり行儀の良い話じゃなかったね」

「そうなんですか」

「その映画が撮られたのより昔はね。作品と作家は別、って時代があったらしいよ。その後は作品は作家そのものって時代もあったみたいだけど」


 そこで、その人は言葉を切って、


「どうだった。面白かったかな、それ」


 似たようなことは、すでに一度考えていたから。

 迷うことなく、僕は答えた。


「面白くは、なかったけど」


 ああ、と苦笑いをされる。もしかしたらこの人はあの映画を観たことがあるのかもしれない。だけど、「けど」のあとに、僕も言いたいことがある。


「綺麗でした。すごく」


 苦笑いは表情の下に消えていった。じっ、と見つめてくる。こういうのは人同士で話すときにはよくあることなんだろうか。どことなく緊張したような気持ちになるのは、見られることに慣れていないからか。それとも慣れていたって、こういう状態では張り詰めるものなのか。


 ふ、とまた笑顔が戻ってくれば、その緊張も消えた。

 今度は苦笑いじゃない。微笑みと呼ばれるような、そんな表情。


「いいね。その感想」


 くすくすと、笑い声が続く。笑ったまま、その人は言う。僕の手の中にある、もうひとつの本に目を留めて。


「脚本、書くの?」

「え? ……ああ、いや。全然。たまたま」

「そっか。そうだよね。撮ろうとしたって、人が集まらないもんね」

「いや、でも」

「ん」

「人がひとりしか出ない映画って、結構あるんじゃないですか。何ならひとりも出なくたって作れるような……」


 今度は、向こうが驚いた。

 口が小さく開く。僕もさっきは、同じような顔をしていたんだろうか。


「映画通だね、君」


 比較的、という言葉がついてくれれば、そのまま受け取ることもできた言葉だけど、


「全然。観始めたばかりです」

「そうかな。脚本の作り方に興味が湧くっていうのは、結構末期的な……」


 ああいや、とその人は言った。「末期的」という失言については何も気にすることはない、と僕は許す準備をしていた。だけど、その先は予想と違う。


「元々創作意欲があるところに、ミラーニューロンの刺激が入ったのか」

「ミラー……?」

「気になるなら、」


 言うと、その人はくるりと背を返した。消えていく。490番台。戻ってきて、また消える。140番台。もう一度戻ってくる。数冊の本をその手に持って、


「このあたりを当たってみるといいよ」

「え」


 とん、と渡してくる。随分慣れた様子だった。ここを使い慣れているのだろうか。そう思えば、


「図書館には、よく来るの?」

 反対に訊き返されて、


「全然。今日が初めてです」

「これからは?」


 どうだろう、と自分で首を傾げる。でも、その傾げた首のままに手の中にある本を見て、


「返却には、とりあえず」

「そう。じゃあ、また会うこともあるかもね」


 それだけ、とその人は言った。


 もう一度僕の手元を見る。そこで初めて気付いたように「ごめん。押し付けた?」と訊く。そんなことは、と答えれば、照れたように笑って、それで用件は済んだとばかりに踵を返す。


 振り向く。


「ばいばい。またね」





 変わった人だった、とその背が消えていくのを見ていた。


 手の中には何冊かの本。脚本の書き方。一度見た映画の――そもそも、どうして映画と同じ小説があるんだろう。そういうものなんだろうか。


 それからあの人に渡された本が四冊で、計六冊。

 これだけあれば、もうこれ以上はいいだろう。そもそも六冊だって、借りられるのかわからない。数に限りなく借りられるというわけでもない気がする。物理的な占有状態が発生するものなのだ。たぶん、ある程度貸出制限がある。


 それはたとえば、彼女の身体のように。


「ねえ、これって――」


 だからいつものように、僕は訊ねようとした。知らないことは彼女に。物心ついてから、ずっとそうしてきたように。



「――あんまり、あの人と話さない方がいいかも」

 だから彼女の、その見たことのない険しい顔にぎょっとした。



 眉を寄せていた。目を眇めていた。それでも元からあった可愛らしさや愛嬌のようなものは抜けきってはいないけれど――敵対心、とタイトルを付けてしまえそうなくらいに、厳しい表情。


 見ているのは、さっきの人が消えていったエントランスの方。


「……なんで?」

「『CITYOU』、使ってなかったでしょ」


 ああ、と言われて思い出した。『Can I Talk To YOU?』縮めて『CITYOU』。人に話しかける前の、マナー用のアプリケーション。人から話しかけられる機会なんて全くないから疑問にも思わなかったけれど、確かにさっきの人は、前と違って『CITYOU』を使わなかった。


「そんなに言うこと?」

「今の人、AIを使ってないと思う」

「……?」

「私みたいなAIをってこと。別に『CITYOU』を使わないのはいいんだよ。任意のマナーアプリだし。でも問題は『CITYOU』を使わないタイプの人が近付いてくるのに、私が気付けなかったこと」


 彼女は言った。『CITYOU』のインストール時に、自分には機能が追加されている。『CITYOU』の使用を行わないタイプの人間が接近したとき、必要なら接触を避けるための機能。


「普通、向こうのAIから連絡が来るの。トラブルにならないように、もし嫌なら顔を合わせないようにお互い調整しませんかって。でも、それがなかった」


 図書館に入ってきたのにも気付かなかった。だから、と彼女は言う。それがおかしい。単にAIを使わないだけの人ならいいけれど、万が一、


「変な人だったら危ないから。物理身体がないと、守れないし」

「ま、」


 守る、という言葉の響き。


 いつもなら冗談めかして、あるいは妙に壮大な社会構造のスケールで使われるそれに、妙な実態が宿っていた。今までならきっと、軽く聞き流していた。そんなことがあるわけない。大袈裟すぎだ、と。


 でも、たくさん映画を観たから、今はわかってしまう。

 人間は、人間に暴力を振るうことができる。


「そ、れは……」


 脳裏に浮かぶ。ポスターに書かれた文字。遠くに行ってしまった人々。でも、本当に全員が全員、遠くに去っていったんだろうか。


 もしかして。

 隣の部屋に、今でも。


「――あ、」

 ぞっと背中が震えたのと同時に、彼女が僕の方に振り向いた。


 それほど長い時間を、その想像に費やしたわけではなかったと思う。けれど彼女は、ずっと長い間何かを放っておいてしまったことに気付いたような焦った表情で、こちらに一歩近付く。頬に両手を伸ばしてくる。


「な、なーんちゃって。AIジョーク!」


 脅かしちゃってごめんね、と。


 伸ばされた手は、実体がないから頬を透き通って、どこかへ消えていく。


「あ、で。ごめん、そうだ。図書館の続き。どうする? 定点観測はもう規定の情報量取れたから、テクスチャ貼ってみる? もっと小説とか、選ぶのにわかりやすくできるよ」


 彼女が言う。ゆったりとした口調。安心させようとしているのがわかるから、僕もその意図に答えようとする。うん、と頷く。テクスチャが広がる。淡いクリーム色。たくさんの指示記号。わかりやすく。快適なように。人気だったのはね、と彼女が通路を挟んで向こう、本棚の前でいくつかの表紙を並べてくれている。


 僕は一度だけ、視線を手元に落とす。そう言えば、と思って。明るい部屋とノートパソコン。思い出すのは、結末のこと。


 最後には、蓋を閉じて部屋を出る。


「その右の、ちょっと気になるかも」

「お、ほんと? じゃあ913より933とかの方が好みなのかな~。もうちょっとサンプル出してみるね」


 僕の言葉を聞いて、彼女が様々なことを整えてくれる。いつもの、変わらない時間。十冊まで借りられるというから、もう三冊を追加で借りる。913が一冊。933が二冊。カウンターの前に立てば、「昔はこうやったんだって」と再演するように彼女がその奥に立って、本の裏に張り付けられた識別コードをスキャンする。


「返却日は二週間後です。帰り道、お気を付けて」


 いそいそと彼女がカウンターから出てくる。どうだった、と訊くから、名演技、と僕は返す。玄関のドアを潜る。入ったときより暗い空。見上げれば、薄暗い雲が灰色の太陽を隠している。


 家路を辿る。


 停止勧告が出たのは、それから二日後のことだった。


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