2話 労働

1



 分断の時代、というものがあったらしい。


 極端な人々がいた。あるいは、人々は元々極端だった。

 それが繋がって、極端な集団を作った。


 内側で価値観は増幅される。外側でぶつかる。妥協をしない。


 正しさを証明しようとする。攻撃する。攻撃自体に快楽性があり、目的化する。


 攻撃が過剰になれば防御も過剰になる。過ちを認められなくなる。自己修正が効かなくなる。


 過ちでないものも過ちとして攻め立て始める。システムの悪用が始まる。


 善悪の基準がなくなる。各々が各々の迷信と誤解の中で息をする。反証可能性を残した誠実な主張は、全くのでたらめと同等に扱われる。


 判断は、機能を停止する。


 そして、最終的に。



 人間は、疲れ果てた。

 人間関係は、人間には向いていないと考えた。



 そうしてこの技術は生まれた。コミュニケーションコストとリスクの大幅な軽減。分断の完成と適切な調和。新しい社会。


 僕が生まれる前のことだから、よくは知らないけれど。





「これなんかどう?」

 あれから一週間が経ち、日々は続いていた。いつもどおり。特に何の変わり映えもなく。つまり僕は、まだそれを始めていない。


 昔の行いだった。自動化と最適化が達成されるより前の時代のこと。産業を人間が自らの手で担っていたころのもの。でも、今でも僅かに残っている。保証されているよりもさらに多くのものを人が得ようとしたときだけ、貨幣経済の名残が姿を見せる。


 労働。

 そう呼ばれるものについて、


「文化施設の保全作業。人間のマニピュレータとしての機能はまだまだロボットと――って、聞いてる?」

「聞いてるだけで疲れた……」


 僕は始める前から、ちょっとうんざりしていた。


 テーブルに額を付けながら、彼女の言葉を聞いていた。だけどここ一週間、合間合間に彼女がそれをしてくれていたから、見なくてもわかる。検索してくれているのだ。求人情報ポータルで。


「ちょっとー。私が調べてばっかりじゃん」


 けれど、残念ながら検索によって得られるだけの情報を処理する機能が、僕の側にない。だって、と始まるのは言い訳で、かつ事実。


「自分が何をできるかとか、知らないし。報酬と内容の比がどのくらいなのかもよくわからないし」

「諦めなさい。暗中模索。自分が何者かも全くわからず、何をするかもよくわかっていないのに、なぜか一息でそこから何十年と進む道を何となく決めてしまう。古より就活とはそういうものなのだから……」

「えぇ……」

「本当だよ。今は面接がないだけマシじゃない? 知ってる? 就職面接って」


 深くは知らない、と答えると彼女は嬉々として説明してくれた。皆が横一列に並んで「自分は油です」と自己アピールをする催しらしい。揚げ物とか機械系の話だろうか。そう思っているとさらに続けて「しかも受ける側も受ける側で百は参加してたらしいよ。そこまでやって一個も働くところが見つからなかったりしたんだって」と彼女が言う。想像するとあまりに壮絶なのだけど、どこまでが本当でどこからが冗談なのだろうか。


「報酬と内容の比は、労働管理センターが一定になるように調整してるよ。基本的には作業負荷が高いほど報酬が良いかな。難易度っていうより、疲労度の話ね」

「疲れるほど……」


 理屈はよくわかった。現代において人間の能力の差なんて、あってないようなものだから。多少『機械的な』能力を持っているからと言って、待遇に差をつけるだけの理由にはならない。だから、理屈はわかる。わかった上で、若干げんなりしている。


 けれど、自分で言い出したことだから。


「一番疲れるやつって、どんなの?」

「運搬。機械化が終わってない施設に関連するやつだね」

「……なるほど」

「機械支援があんまりないみたい。物を持ち上げたり掴んだり、人間の身体ってそれひとつで大体は済ませられちゃうからね。力はないけど」


 最後に付け足されたのが、一番の問題だった。


 軽いものであれば問題はないはずだけれど、『一番疲れるやつ』として挙げられたものなのだ。絶対に重い。しかしあれも嫌これも嫌と理由を付けていては何もできない。悩む。悩んでいる間に、一週間が経った。


「でも自分にできることがわからない、っていうのはそうかもね」

 そう言って彼女は、表示していた求人ページを閉じて。


「決めづらいなら、私が決めちゃおうか。たぶん私の方がそれ、よく知ってるよ」


 何でも知ってるもん、と微笑んだ。


 きっとそうなんだろうな、と僕は思う。自分のことを、自分以上に知っている存在。そういう風に生み出されてきたのが彼女だから。僕もまた、四六時中鏡を見ているわけでも、内省を繰り返しているわけでもないから。


 それなら。


「初回だけ。お願いしようかな」

「はいよっ。任せとけっ」


 言って彼女は、待ってましたとばかりにもう一度ページを開く。


 求人名には、『定点観察員』と表示されていた。



2



 機械やAIが社会を運営するに当たってネックになるのは、『機械やAIだけで社会が構成されていない』ことなのだと言う。


 AIは基本方針として最善を目指す。けれどそれだけでは良くない。なぜと言って、局所的な『最善』が人間にとっての『最適』とは限らないからだ。


 たとえば居住区を作るとする。コストを最適化しようとすると、人ひとりを押し込めて眠らせるスペースだけがあればいい。トイレも入浴も、ベッドを多機能化して一本化する方向を目指す。食事のメニューは一種類の完全栄養食と定めれば生産コストが下がる。


 そして完成した完璧な部屋の中で、人が病む。


 AIは自己学習する。自己改善する。けれどそれはあくまで『人間の快適』を目指さなければならない。人間の感性から離れすぎてはいけない。全く離れてはいけないというわけではないけれど、少なくともその自己改善の速度は、人間が歩いて追いつける程度のものでなければならない。基準が必要になる。現代を生きる人間の、環境に対する反応情報。フィードバック。


 通常その人のAIだけが受け止めるプライベート情報を、限定的に中央センターに提供し、そのための学習材料とする。


 そういう仕事を、『定点観察員』と呼ぶらしい。





「ぴったりの仕事だと思うよ。負荷も重すぎないし。軽すぎないし」


 冷たい青色が、爽やかに広がる空だった。


 人間が出歩くのをやめた現代になっても、もちろん動物たちの暮らしには何の変わりもない。塀の上に雀が留まっている。いつからいるのだろう。平安時代。弥生時代。少なくともその頃から今に至るまで、ちゅんちゅんと朝に鳴いている。


 それ以外は、ひどく静かだ。


「特に風景観察系は、ARを切ることが条件に含まれる場合があるんだけど。怖くて切れないって人が多いみたい。その点、」


 平気だもんね、と彼女が言う。言われたから僕はARグラスに指をかける。外す。


 何の変哲もない風景が映っている。


 街並みは、昔からそれほど変わらないらしい。道路があって、それを仕切るための塀がある。もちろん過渡期に居住区画のスリム化を図るために様々な整理は行われたけれど、大きくは変わらない。


 ただ、もし映像で見る昔の風景と今の風景に、決定的な違いを見出すとしたら。


「色、全然ないよね」

「そりゃあね。テクスチャ前提の街だもん」


 仮想空間上での装飾を前提にされた、一面の灰色。グラスをかければもちろん色鮮やかな、そのときの気分に合わせた街並みを見ることができる。けれどその下地はかえって、かつての時代よりも色に乏しい。


 この剥き出しを怖がって、ARを切ることができない人もいるらしい。何らかの不具合でその機能が停止したときにパニックに陥る可能性があると、ずっと昔に彼女から注意事項として説明されたこともある。


 けれど、僕は。


「これだけでいいの? 他に特別なこととか」

「ないよー。言ったとおり。風景を見て、自然にしてくれてればいいから。フィードバックのデータは私の方で送信しちゃうし。あ、」


 ちょきちょき、と彼女は両手でカニのような仕草をして、


「都合の悪いところはカットしておくから。安心してね」

「都合の悪いところって何?」

「知らないけど。そう言っておいた方が安心かなって」


 なにそれ。


 言われたとおりに、僕はしばらく歩き続けた。彼女の言ったとおり、風景を見て自然にしているだけ。それ以上も以下もない。単調な散歩。初めは珍しかった外の世界も、何百歩と歩いても大して変わり映えしない景色を前に、段々と気持ちが退屈に傾いてくる。


 そのときに、彼女が、

「あ、ねこ」

「え、うそ」


 すごい振り向き速度、と笑われた。すごい振り向き速度のおかげで、その姿を捉えることができた。一秒と経たない間に、路地の向こうへと尻尾を消してしまったけれど。三毛猫だった。


 本当にいるんだ。


「楽しくなってきた?」


 にやにやしながら、彼女が覗き込んでくる。否めなかったので、否まなかった。でも、と彼女は言う。野生動物を見つけても不用意に近付かないでね。こっちは向こうのことを知ってるけど、向こうはもう、こっちのことを知らない場合が多いから。


「近付かないよ。怖いし」

「どうかな~。怖いもの知らずだから」


 歩きながら、その言葉の意味を考えた。怖いもの知らずだろうか。彼女の目から見て、危ういことをしやすい性質なのだろうか。そんなことはないと思うけれど、微かに思い当たることがある。ひとつだけ僕には、希少なタグがついている。


 チップインプラントを『受けていない』。

 マイクロチップの埋め込み――生まれてからすぐに行われる基礎措置を、僕は受けていない。


 正確に言うなら、受けたけれど上手くいかなかった。標準規格との不適合を起こしたらしい。もちろんその頃の僕には自我もなければ記憶もないから、記録の中で見ただけだけれど。アレルギー。チップ素材との相性が悪かった。


 適合できる非標準規格ももちろん存在していたけれど、一度不適合を起こした人間はリスク管理権の観点から、本人の十分な意思表示が行われない限りは再措置を行われない。そして僕は、十分な意思表示を行っていない。それに明確な理由はなくて、なんとなく珍しいままでいたいだけなのだけど。


 多くの人は、ARグラスをかけたりしない。

 生まれてからずっと、チップインプラントの恩恵で常に全方向にARが展開されていて、こんな風にフレームの隙間から剥き出しの世界が見えるなんてことは――、


「こらこらこら」

 ぴょん、と彼女がジャンプして、僕の前に手をかざした。


「久しぶりに出たねその癖。レンズに指紋付いちゃうって。やめなやめな」

「付けないよ。もうずっと使ってるんだから」

「過信だね……。己のマニピュレーティング能力の」


 言われて、グラスから手を離す。意識しなければ、もう気付かない。けれど意識すると、途端にそれはひどく奇妙な光景に思えてくる。


 物心ついたときからずっと傍にいて、これからも一番近くに居続けるだろう彼女の姿が、フレームの端で、ふっつりと断ち切られている。


 だから僕はいつものように、ひとつの疑問を心に浮かべることになる。


 これは、本当に現実のことなのだろうか?


「なんか、さっきから私のことばっかり見てない?」

「そうかも」

「そうかも、じゃないよ。それじゃ風景データが取れないでしょー。ほら集中」

「どこに?」

「…………どこかに」


 言われたからには、僕も風景に意識を移し直す。確かに彼女の言うとおりだ。どうせ誰がやってもやらなくても大して問題のないことだけれど、目的のためには、つまり自分のためには、自分の行動を律する必要がある。けれどこののっぺりと広がる風景のどこに集中すればいいのかは、全くわからない。


 そんな僕の考えを察したのか、彼女は隣で腕を組んだ。顎を上げた。空を見た、と表さないのは目を瞑っていたから。ううむ、と彼女は悩まし気な声を上げる。その間もしっかりと僕の隣を、同じ歩幅で進んでいる。はぐれてみたらどうなるだろう、と好奇心が上ってくる。どうにもならない。そもそも彼女は、目で見て僕の位置を確認しているわけではないのだから。好奇心が沈んでいく。


 彼女が口を開く。


「よし。それじゃあ珍しいところに行って、刺激に変化を付けてみようか」

「どこ?」

「山」


 山。


 山、という言葉の意味を僕はよく考えて、どうして彼女がこの仕事を重すぎないし『軽すぎないし』と称したのかについて、一種の納得を覚えた。



3



 そびえている、というのが第一印象だった。そしてそれは、スーパーのお米の棚とは訳が違う。


「無理」

「無理じゃないよ」


 山なのだから。


 彼女がそれから十五分をかけて案内してくれた先にあったのは、紛れもなく山だった。街のどこに隠れていたのだろう。近付いてみるまでここにあることがまったくわからなかった。


 こんなに高いのに。


「無理。酸欠で死ぬ」

「そこまで空気薄くならないよ。低山だもん」


 二十分も歩けば頂上まで着いちゃうよ、と彼女は言う。僕は生まれてこの方、このとき以上に彼女の発言の真偽を疑ったことはなかった。こんなに高いのに、二十分で着くなんてことがありえるだろうか? 同じだけの高さの梯子を上るなんて考えたら、この場で気を失ってしまいそうなくらいなのに?


 まだ入り口までは距離があった。距離があるからこそ、はっきりと目に映る。秋の半ばを過ぎた頃で、山は赤と緑の混合する、不思議な色合いをしていた。土よりも樹木の方がずっと目立って、随分と重そうに見える。あれだけの樹が生えていて、その重みに耐え切れず崩れ落ちたりしないのだろうか。そう思いつつも、聞かずにはいられない。


「……エレベータは?」

「低いからね。ロープウェイもないよ」


 なおも僕は何らかの抵抗を見せようとした。けれどすぐに思い出すのは、結局言い出したのは自分であるということ。ここで嫌だ嫌だと言い出して、放り投げて終わりにするつもりはないということ。


「さあ!」

 きらきらと、輝くエフェクトを振り撒きながら彼女が言う。


「登ろう! 意気揚々と!」





「ニンゲン、ゼイジャク」


 五分くらいで力尽きて、僕はベンチの上にへたり込んでいた。そして彼女に呆れた目線を向けられていた。だけどそれは理不尽だと思う。僕の健康管理や筋肉量、体力の管理を行っているのは彼女で、つまりこの状態の責任の半分くらいは彼女にあるはずだ。


「……ここにベンチがあるってことは、このあたりで休憩する人のことが想定されてたんだ。僕の体力が飛びぬけて低いってわけじゃない」

「お年寄り用じゃない?」


 たったの五分で、と自分でも思うけれど、ただの道を歩いての五分ではなかったから仕方がない。


 山は、これまでに歩いたことのある道のどれよりも歩きにくかった。部屋の床とも違う。当然、保育センターの床とも違うし、スーパーマーケットまでの道のりとも全く違う。


 滑らかではない。土は凹凸があって、歩くたびに足の裏に全く違う感触が伝わってくる。バランスが取りづらい。落ち葉が絨毯のように敷き詰められているから滑りそうで怖い。頭の上にその葉っぱが降ってくるとすごく驚く。情報量が多くて、思考がぼやけてくる。


 おそらくその『ぼやけた感覚』のデータを提供するのがこの労働の内容だから、それもまた仕方のないことではあるのだけど。しかし「仕方のないことだなあ」と割り切った瞬間に足がせかせか動くようになるかと言うと、そんなに単純な話でもなかった。


「ふくらはぎが震えてるんだけど、これ合ってる?」

「何が?」

「想定されてる疲労度と。このままいきなり僕が倒れるとか、そういう恐れはないの」

「このままいきなり倒れたら熊の餌になっちゃうね」


 くま、と僕は繰り返した。周囲に目線を巡らせた。情報量が多い山の中、人が残したものだけを的確に拾う。平らにされた土。そこに差し込まれ、長い年月をかけて柔らかく濡れた木の柱。鎖を渡して作られた手すり。その鎖が通されていないたったふたつの杭は、看板の役割を果たしていた。


 ひとつは地図。風雨の末に塗装が剥げていて、ARがなければ何の文字も読み取れない。一方でもうひとつは、それより後に書き足されたのだろうか。何のテクスチャも貼り付けないままでもかろうじて、掠れた赤い文字でこんな風に書いてあるのが読み取れる。


【野生動物に注意】


「お。急に元気出たね」

「いや……」

「ふれっ、ふれっ。がんばれーっ」


 それから僕は、仮想空間上でふよふよと浮いている彼女の声を背中に浴びながら懸命に歩いた。そこから三分を歩いたあたりで「なぜ頂上に向かったのだろう」「あのときに湧いた気力で入り口に戻ればよかったんじゃないか」ということに思い至った。そしてもうそれを思うには遅い段階に来ているとも思った。ここまでが八分。赤と緑の混ざり合う樹々の中、『四合目』と書かれた柱があった。戻るにせよ行くにせよ辛い場所で、ならば目的に向かった方が幾分建設的と思える距離だった。


「結構、」

 それでも荒い息を吐きながら呟いたのは、少しだけ不安になったから。


「道、ぐちゃぐちゃだ。歩道整備、入ってないの」

「入っててこれだよ。超高山になると整備しない……っていうより、できないこともあるけど、国内にそういうところはないし。ここはハイキングコースとして登録されてるから、心配しなくて大丈夫」


 当たり前のことではあった。


 危険のある場所に、彼女は僕を連れてきたりはしないだろう。信頼ではなく、設計思想の問題だ。疑念を挟む余地はどこにもない。ハイキング、という軽い調子の言葉に引っかかりを覚えないでもなかったけれど、心が引っかかったままでも身体を上に運ぶことはできるらしい。道は細くなる。平らな場所が少なくなってくる。石の階段。彼女が口にする「気を付けてね」のトーンが引き締まるにつれて、身体は不安定になる。雨でも降ったのだろうか。土が濡れている。足の指がどれだけ歩行に有用なものだったのかわかってくる。「もう少しだよ」の言葉を信じる。


 足元が明るくなる。


 顔を上げると、不意に視界が開けた。


「とうちゃーく!」

 よく頑張りました、と彼女は言った。


 広い空間だった。あれだけ狭いところを通ってきたのが不思議になるくらい。山のてっぺんはきっともっと細くて小さくて、三角形の切り端のようなものだと思っていたけれど、そうでもないらしい。僕の部屋よりもずっと広くて、スーパーマーケットよりは小さい。そんな開けた場所が、そこにある。


 落ち葉が敷き詰められていた。風に揺れて、黄色いそれがかさかさと音を立てる。端の方から山の向こうへ落ちていかないのは、マンションにあるのと同じように、胸のあたりまでの高さの欄干が広場を囲っているから。


 欄干の上には、空が広がっている。


 橙色を滲ませた、風の吹く空だった。秋の日暮れは早いらしい。そのことを十分に感じさせる、そんな空。


「どう? 自分の足で辿り着いて見た光景は!」


 彼女が言う。たたた、と軽快に走っていって、欄干から身を乗り出すようにする。僕はもう少し鈍重な足取りでその背中を追い掛けて、それでも結局、最後には隣に立って、同じものを見る。


 高い場所から見る景色は、同じくらい高いものに遮られるまでずっと続いていた。


 初めて知った。自分の住んでいる場所の周りに、これほど高低差があったことを。この景色の中にどのくらい、人間の住む環境と、住まない環境があったのかを。


 街並みは整然としていた。住宅は省スペースのために高く積み上げられているから、そこだけが箱を置いたように高い。そこから道路が伸びている。伸びた道路の先は、夕日に染められた緑色に吸い込まれて、見えなくなる。水平線は見えない。別の山々が遮っている。あの向こうにもきっと街はあるはずなのだけど、そうは思えない。


「あのあたりを歩いてきたんだよ」

 彼女が指差す方を見た。


 本当にあれだけの距離を歩いたのだろうか。下から見上げたときと上から見下ろすとき、そしてその中を歩いているときで、全く感覚が異なる。あれだけの距離を歩いたとは思えない。けれど同時に、見上げるような、あのずっと高かった樹々が、この程度の視界に収まってしまうものとも思えない。


「がんばったねっ!」


 彼女が言う。隣を見れば笑ってくれているから、僕も同じように、笑って答える。


「うん」


 ここではない、と思う。



4



「ただいま」

「おかえり!」


 さあ帰ろう、と彼女が言ったときには再び同じ道のりを歩くことを思ってげんなりしたけれど、重力が味方してくれたのか、思いのほか帰り道は楽なものだった。


 と言って、疲れていないのかと言うと、そんなわけがない。


 扉を開く。ほとんど夜になりかけた薄暗い夕焼けが、部屋の中に入り込んでくる。閉めると消える。どうやって出ていったのだろう。思いながら、靴を脱ぐ。彼女が言う。手を洗おう。うがいをしよう。シャワーを浴びよう。言われたとおりに、全てを済ませる。


 ベッドに飛び込む。

 それが、限界だった。


「よし。じゃあストレッチを――」

「無理……」


 一言言って、枕に顔を埋める。彼女が何かを言う。これをやらないと明日もっとつらいよとか、そういうこと。なら明日は一日寝て過ごす。そう決め込んで、僕はぼんやりと、身体を眠りに明け渡す。


 心の方は、もう少しだけ目を覚ましていた。その中で不意に、今日見た光景が蘇ってくる。


 ミニチュアみたいだ、と思った。


 ときどき、こう思うことがある。自分の目に見えているものは、全て幻なんじゃないか。ARグラスを外せば全てが剥がれてしまうみたいに、自分でも認識していないグラスがあって、それを外せば何もかも。


 何もかも、夢みたいに消えてしまうんじゃないか。


「もー。布団はちゃんと被りなよ。疲れてるから、また風邪引いちゃうよ」

「うん……」


 山を見ても。布団を顎のあたりまで持ち上げながら、圧迫感に包まれて思う。何も変わらなかった。ミニチュアみたいな街。景色。誰かがそれを作って置いた、張りぼてのように見える。自分が眠っている間に、誰かがそっと。


 眠る前に彼女が、室内灯を少しずつ暗くしてくれるみたいに。


 壮大な自然なんてあるんだろうか。歴史も、世界も。部屋の外も。僕以外の人間も。存在も。本当に、そこに存在しているんだろうか。そんなことを思う。思うから、唇が動く。


「ねえ」

「ん?」


 声を上げると、彼女が応えた。ARグラスがなければ目には見えない。イヤホンを外せば、声も聞こえない。自分の意思で切り離せてしまうなら、幻よりも頼りない。

 眠りの泉に身を浸す。きっと、朝になれば覚えていられない。ほんの些細なこと。


 本物であってほしいなんて、馬鹿げた願いだろうか。


「……寝ちゃった?」


 寝てないよ、と言おうとした。けれど声にはならなくて、だからひょっとするともう眠っていて、それは夢の中の出来事だったのかもしれない。


 彼女の手のひらが、僕の額に触れた。優しく撫でるような手つきで、彼女は微笑む。唇を寄せるようにして、髪の先へと囁きかける。


「おやすみ。また明日」


 思い返してみれば。

 やっぱりそれも、変わらない毎日の中の、ほんの一日だったのだと思う。


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