第2話

 玄関のドアを閉め、スニーカーのつま先をトントンと地面に叩き、私は歩き出した。

 暖かい風が心地よかった。

 家の近くにある公園では桜が咲いていたが、ライトアップをされているわけではないので色まではわからない。匂いはかすかにするだろうか。

 公園は土手となり、その先には川がある。川を横断する車線と歩道がある短い橋を越えて、私はコンビニまで行く。ここまで片道十五分の散歩を時々することにしていた。コンビニでの滞在時間を考えても一時間はかからない。大抵は夜、お風呂を上がってからだから、父はあまり良い顔をしない。

 コンビニを更に進めば繁華街だけど、そこまでは行かない。

 コンビニに入って店内を一周する。店内調理の揚げ物の匂いがした。桜の匂いよりはダイレクトに来る。コンビニでは買い物をすることもあるししないでそのまま出ることもある。今日はサイダーを一本買った。気持ち的にはお布施やお賽銭に近い気もする。

 そのままUターンをして、橋を渡った。欄干から下を覗き込む。月の光で水面が揺らいでいるのが見えた。

 あとは公園を横目に見て家に帰るだけだ。冷えたサイダーは気温の差で水滴が少しつき、それがまた冷たさを強調しているかのようだった。

 どうせなら、公園で飲んでしまうか。

 そう思って私は公園の入り口に足を向けた。

 公園の入り口にある車止めを足で乗り越え、中に入る。周囲に植えられている桜を過ぎて反対側にあるベンチまで歩こうとしたところだった。

 ドン、という音がした。

 左肩に衝撃がしたのはその後だった。

 野球ボールか何かが当たったのかと思った。

 そのくらい狭い衝撃だった。

 片側に受けた衝撃で身体が反転していく。

 背中に衝撃を与えたものの姿が見えた。

 灰色のフードを被っていて、顔が隠れている。

 たぶん、男性。

 右肩を相手の右手が掴む。

 ゴツさがあった。

 ああ、そういえば男の人に肩を掴まれたことなかったな。

 足元がぐらついて、頭が地面に近づいていく。

 これって結構マズいかも。

 声も出せそうにない。

 思考がゆっくりになっていく。

 ゴチ、と頭に鈍い音がした。

 痛みが遅れて届く。

 意識が遠のくのを感じる。

 馬乗りをされた。

 これから私はどうなってしまうのだろう。

 冷静に状況を分析している私がいた。

「誰か!」

 どこかで声がした。

 公園の入り口付近だろうか。

「警察呼びますよ!」

 声はこちらに向かってしているようだった。

 馬乗りになった男性が、舌打ちをする。

 身体が軽くなった。

 そのまま男性は走り去っていった。

「大丈夫?」

 声の主がこちらに駆け寄ってきて私に声をかける。

 女性だ。

 ようやくそこで性別を認識した。

 女性が倒れている私に手を差し伸べる。その手を取って、上半身を起こした。

「間一髪だったね」

 彼女がそう言った。状況にしては、軽い声だった。

「はい」

 彼女が私を引き上げる。

 立ち上がって彼女と向かい合う。暗がりでもわかるほどのストレートの黒髪で胸ほどまでの長さだ。全身が黒い服で、髪と合わせて闇に溶け込んで、顔だけが浮かび上がっているみたいだった。

「なに?」

 私に見つめられていた彼女が首を傾げて聞く。

「いえ、ありがとうございます」

「怪我はない?」

「はい、たぶん」

 打ち付けられた頭は痛かったがこぶになっているようでもなかったし、血も流れていなかった。

「警察に電話しようか?」

 彼女が私に聞いた。

 一瞬迷ったあと、私は

「いいえ、大丈夫です」

 と言った。

 怪我をしているわけでもないし、今さら言ったところで犯人を捕まえてくれるわけでもないだろう、と思った。それにこの大切な散歩の時間を邪魔されたくないと思ったし、大事になってしまえば父も散歩を許してくれなくなるだろう。

 ただ、そういうことが起こらないとどこかで思い込んでいた考えを改めて、今後はもう少し周囲に気を配っていこうと思うだけだった。

「大丈夫って」

 彼女はそう言った後、少し考え込んだあとで、

「そうか、警察はいいか」

 と納得しているようだった。

「私もその方が都合がいいし」

 彼女は小さな声で呟いた。

「とにかく、どうしようか、すぐに家に帰った方がいいと思うけど」

 言われて私が自分のスマホを見る。いつもの帰宅時間よりは早めだった。

「少し休んで、帰ります」

 私が公園のベンチを指さした。

「いやいや」

「大丈夫です、たぶん」

「大丈夫じゃないよ、家まで送ってあげるから」

「大丈夫です」

 腰を屈めて、落ちているサイダーのペットボトルを拾い上げる。ちょうどフタを閉じていたところだったので中身はこぼれていなかった。

 私はそのままベンチに向かって腰をかける。

 慎重にペットボトルのフタを開ける。炭酸が漏れる音がした。

「あのさあ」

 彼女が困ったような顔をして、それから私の横に座った。

「じゃあさ、帰るまで横にいるよ」

「それは、ありがとうございます」

 横を向いて彼女が私を見た。

「私がさっきのやつとグルだったらどうするの。こう、油断させて、さ」

「……そのときは、そのときだと思います」

「それは、そうかもしれない」

「グルなんですか?」

「いいや、違うよ。信じてもらえるかどうかはわからないけど」

「じゃあ、信じます」

「そっか」

 彼女が右手で頭を掻いた。

「どうも調子が狂うな。最近の女子高生はこんななの?」

「それは、わからないですけど」

「まあ、いいや」

 彼女が上げた右腕の袖から手首が見えた。

「怪我しているんじゃないですか?」

 手首の内側に青あざが見えた。彼女は手を下ろし、左手で右袖を伸ばして隠す仕草をした。

「いや、これはさっきのじゃないよ、怪我はしていない、平気」

 改めて彼女の顔を見る。

 長い髪に隠れているが、鼻筋が通っていて全体的に整った顔立ちだろう。少なくとも私よりは美人だ。かすかに、桜とも違う甘い匂い、桃だろうか、そんな匂いが彼女の髪からした。

「何か買ってくればよかったかな」

 彼女は私のサイダーを見て言う。

「飲みますか?」

「いやいいよ」

 彼女は空を見上げて月を見ている。

「いつもこんな時間に外出しているの?」

 空を見たまま彼女が私に聞いた。

「はい」

「そうか、危ないよ。このあたりはそんなに明るくないから」

「わかってます、近所なので」

「わかっているならいいけど」

「はい」

 少しの間無言だった。

 ペットボトルからサイダーを喉に通す。とっくに前に温くなっていて、弱くなった炭酸があるだけの砂糖水になっていた。

「あなたもですか?」

 沈黙に耐えきれなかったわけでもなく、間を繋ぐために彼女に聞く。

「私? ああ、うん、最近ね、散歩している」

「危ないんじゃないですか?」

「え、ああ、そうだな、それは言われてみれば確かに」

 私の切り返しに彼女は焦ったように言った。

「同じですね」

「うん、同じだ」

 彼女が返す。

「私はヨル」

 彼女、ヨルが自己紹介をした。

「私はハルって呼ばれています」

「そう、ハル、ね。私はヨルなんて誰にも呼ばれていないけど」

「そうなんですか」

「呼ばれたいってだけ」

「それじゃ、私が呼びます。ヨルさん」

「ありがと、でもヨルだけでいいよ」

「わかりました、ヨル」

「ありがと」

 右肘を太ももに置き、手で顎を支えながらヨルは嬉しそうに笑った。

「どう? 少しは満足した?」

 ヨルが視線を私の手元に移した。そこには空になったペットボトルがあった。

「はい」

「じゃあ、家まで送るよ」

「大丈夫です」

 立ち上がる。

「大丈夫大丈夫って」

「そこまで信用していません」

「ああ、そう」

 ヨルが落胆した声で言った。実際に落胆していたのかはわからない。

 本当はただ気まずいだけだったし、さすがに距離的にも安全だろうと思ったからだった。

「わかった。私はここにいるから、気をつけてね」

 ひらひら手をヨルが振った。

「ありがとうございます」

 軽くお辞儀をして、私はその場から去った。

「じゃあね」

 思った通り、何もなく家にたどり着くことができた。部屋にこもっている父には何も言わず、私は自室に戻る。ハハは変わらずベッドの上で丸まっていた。

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