母
家に戻ってきた私は、鍵を取り出しながら、併設されたカールーフの方を見た。そこに車は停まっていない。平日の午後五時、父は当然仕事に出ている時間だ。
自然とため息が出る。わかっていたことだが、私は今日も一人で、母に対峙しなければならないのだ。
玄関を抜けリビングに入ると、母が一人でテレビを見ていた。
その姿に、思わず視線を逸したくなる。
痴呆老人を思わせる緩んだ表情、開いてはいるが生気の感じられない目、そして、いつから着ているのかわからない汚れた部屋着。
母はゆっくりと視線を上げ、それから部屋の入り口に立つ私を見る。そして何も言わずにテレビに向き直る。
「ただいま」
独り言のように言って母の横を通り抜ける。母の右頬にある、引きつれた傷が嫌でも見える。こめかみのあたりから顎の下まで、二十センチにも渡る大きな傷だ。
約二年前、徒歩で帰宅中だった母は、ハンドル操作を誤った乗用車と接触し、弾き飛ばされた。その先には建設会社の工具置き場があり、運の悪いことに、錆びた鉄骨が何本も放置されていた。そのうちの一本が母の頬を突き破り、皮膚と肉を引き裂いたのだ。
はねられた衝撃によるダメージより、頬の怪我の方が深刻だった。母は治療のための手術の後、賠償の一部として整形手術を受けたが、傷自体が深く大きかったせいで、成果は芳しくなかった。母の頬には、見た者の目を思わず逸らさせるような、大きな傷が残った。
冷蔵庫から麦茶のペットボトルを取り出し、グラスに注ぐ。それを口に運びながら、母の後ろ姿を見つめる。白髪の目立つ髪はボサボサで、何日も着たままの寝間着の襟は汚れ、肩にはフケが溜まっている。
母はもともと化粧や服装に対して人一倍気を遣う人だった。特別美人というわけではないが、当時パートをしていたホームセンターに行くだけでも、三十分しっかりメイクをしてから出掛けるような人だった。性格も明るくサバサバしていて、面倒見もよく、友人やバイト先の仲間を誘って飲みに行ったりする事も多かったのだ。
そういう母を、事故が、いや、頬の傷が変えてしまった。傷を見られるのが嫌だとパートも辞め、やがて外出自体を嫌がるようになり、引きこもるようになった。今では薬をもらうための病院以外、全く外に出ない。鬱病、という診断がされたのは私が実家に戻って一ヶ月ほどした頃のことだ。
「晩ご飯、チャーハンでいい?」
言いながら冷蔵庫の前に移動し、冷凍庫を開ける。中には買いだめした冷凍食品が、ぎっしり詰まっている。その中から封の開いたチャーハンを取り出し、皿に盛っていく。電子レンジをセットして視線を戻すと、いつの間にか母がすぐそばに立っていた。
「わっ、ちょっと何よ、びっくりするでしょ」
思わず言うと、母の表情がキッと鋭くなる。
「お前、私のことが嫌いなんだろう?」
──また始まった、と思う。最近はこんな風に、脈略なく責められることが多い。
「そんなことないよ」
ため息をつきながら言った。
「嘘をつけ!」
母は目を見開き、叫んだ。そして私の方を指差すと、わけのわからない言葉を投げつけてくる。
初めて母に罵倒された時は驚いたが、徐々に慣れてきてしまった。鬱病と言えばとにかく暗く塞ぎ込んでいるものだと考えていたが、実際にはそう単純ではない。すぐにイライラしたり怒りに我を忘れてしまったりするのも、鬱病の症状の一つなのだ。
母はしばらく喚いていたが、チン、という電子レンジの音が何かのスイッチになったように、くるりと踵を返してソファに戻っていった。
◆
夜十一時、車のエンジン音が近づいてきて、家のそばで消えた。やがて玄関の開く音がし、「ただいま」と父の声がした。
父が勤めているのは、テレビでCMも流しているいわゆる大手企業だ。典型的な仕事人間で、朝早くに出てこれくらいの時間に帰ってくる生活をもう何十年も続けている。プライベートを度外視して働く姿勢が評価されたのか、それなりに昇進し、今では営業チームの一つを束ねる課長の立場にいるらしい。
「ご飯は?」
「ああ、そうだな」
そうだな、って、食べるのか食べないのかどっちよ。そう思いつつも立ち上がり、冷蔵庫からそば飯を取り出し、皿に盛る。もちろん冷凍食品だ。
そば飯をレンジで温める間に父は二階の自室に行き、部屋着に着替えて下りてきた。そのまま無言でダイニングの椅子に座り、夕刊を広げる。
「あのさ」
温まったそば飯を父の前に置き、自分も向かい側の椅子に座った。父が面倒くさそうに「なんだ」と私を見る。
私は父の視線を誘導するように玄関の方を見る。短い廊下の先に、母の部屋の扉が見えている。ソファでチャーハンを食べ終えた後に戻っていって、それから一度も出てきていない。
「母さんの件なんだけど……ほら、施設の」
父が考えているのは仕事のことだけだ。約半年前、一人暮らしをしていた私を実家に呼び戻したのも、母の具合が悪くなり、家事を担う人間がいなくなったからだ。
一ヶ月ほど前からは、母を施設に入れるという話を頻繁に口にするようになった。なんてひどい男だと軽蔑したものだが、毎日母の世話をする中で理不尽な想いをするたび、私の頭のどこかでそういう考えが点滅するのも事実だった。
施設、という言葉に興味を引かれたのか、父が夕刊から顔を上げてこちらを見る。
「どこかいい所でもあったのか」
「まだわかんないけど、もしかしたらね」
「なんだそれは」
私は今日コミュニティセンターで小駒から受けた依頼について話した。だが父は眉間にしわを寄せ、「何を言ってるんだ、お前」と言い捨てる。
「新しい仕事を始めるって……お前が家にいなくなる時間が増えたら、誰が母さんの面倒を見るんだ。少しは家のことも考えろ」
父はこの話に興味を失ったという事をアピールするように、テレビのリモコンを取ってスイッチを入れる。バラエティ番組が映り、タレントの笑い声が聞こえてくる。
「でも、このままじゃずっと状況は変わらないままだよ。施設で働けばそれだけ私も詳しくなれるわけだし」
父は私をチラリと見、「そんな簡単に決められることじゃないだろう」と新聞を置く。
「もちろんそうだよ。だから一度施設を見学してくる。それくらいならいいでしょ」
私が言うと、父は不満げに、だがそれ以上は何も言い返してはこなかった。
◆
その夜、入浴剤を入れた甘い香りの湯に浸かりながら、小駒の事を考えた。
安心感のある、素朴な雰囲気。それでいて整った顔。仕事に対する情熱もある。女に狂うタイプには見えない。小駒のような人となら、誠実な付き合いができる気がする。
父に見学に行く旨を伝えたことで、オウルへの、そして小駒への興味はより大きくなっていた。
自分がそこまでの美人でないことはわかっている。どちらかと言えば気が強いし、男が好きな女っぽい行動も苦手だ。だが、私にだって人並みの幸せを得る権利はあるはずだ。
鏡に湯をかけ曇りを取り、自分の身体を映してみる。二十九歳。もしかしたらこれはラストチャンスなのかもしれない。やりがいのある仕事、真面目に付き合えるかもしれない男、その両方が同時に手に入るかもしれないのだ。
小駒の薬指に指輪がないことは確認済みだった。だが、付き合っている人はいるのかもしれない。そもそも施設での仕事も、私に務まるかどうかわからない。だが、考えている間に、きっとチャンスは逃げていってしまう。
私は明日、さっそく小駒に連絡をとってみようと決めた。
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