洗浄
@roukodama
プロローグ
夫のいる障害者支援施設は、駅前からバスで三十分ほどの山中にある。
最寄りのバス停で降りた私は、ここ数日で急に強くなった日差しに手をかざしながら、時間がとまったような自然の中を歩いて行く。
施設があるのは、まさに人里離れた場所だ。
町に繋がっている道は一本だけで、それも幅三メートルほど。普通車がすれ違うこともできない、農道といっていいようなものだ。草のにおい、驚くほど近くに聞こえるホトトギスの声。日が沈むのはまだ二、三時間先のことだろう。
五分ほどで施設に到着した。山中を切り開いて作られた大型の福祉施設で、施設で暮らす利用者が二百人以上、職員の数も百名を数える。鉄筋コンクリート三階建ての入所施設と、道を挟むようにして建つ少し小ぶりな通所施設が、背の高い竹林に抱かれるようにして建っている。
額に浮いた汗を拭いながら、門扉を抜けた。小学校を思わせるスライド式の重厚な門だが、当たり前のように開け放たれている。
建物入口から伸びた車椅子用のスロープの途中に、ブリーフだけを身につけた男性が寝転がっていた。ほぼ全裸の状態で、だらしなく仰向けになっている。主人に腹を見せて甘える犬のようだ。その隣に施設職員の女性が一人しゃがみこんでいて、呆れたような笑顔でその男性に話しかけていた。
「ねえ、日焼けしちゃうよ。後でヒリヒリになるよ」
男性はこの施設では有名な入所者で、比較的重い知的障害を患っている。服を着るのが嫌いで、真冬だろうがすぐに全裸になってしまうので、「はだかのモンちゃん」と呼ばれている。近づいてくる私に気付いた職員が、「ああ、こんにちは」と頭を下げる。
「モンちゃん、全然言うこと聞いてくれなくて」
呆れ顔をする職員に私は微笑んで見せ、それからモンちゃんを見る。年齢は四十代半ばくらいだろうか。もっと上かもしれない。だが、彼の知的レベルは今でも小学生中学年程度だ。顔形は立派なおじさんだが、中身を知っているからか、なんとなく子供のように見えてくるから不思議だ。
「暑いなら、空調の効いてる中の方が涼しいのにね」
私が言うと、恐らく二十代前半の職員は「ほんとですよ、まったく」と笑った。
入口で靴をスリッパに履き替え、階段で二階に上がっていく。
古い学校のような雰囲気。薄い緑色の床に、ベージュの壁。においは病院を思わせる。強い消毒液と、微かな糞尿の気配が、奥に行くに従って強くなっていく。
五十代くらいの男性職員が、階段を登ってくる私に気付き、入口を塞いでいる落下防止用のゲートを開けてくれた。
「どうもこんにちは。主人は奥でしょうか」
「どうですかね。さっき洗面所で見たんで、洗濯物かも」
礼を言って中に入る。各フロアにある三十畳ほどのロビースペースでは、二十人から三十人程度の利用者が、思い思いの時間を過ごしていた。モンちゃんのように寝転がっている人もいれば、談笑している人、部屋の真ん中で自分の手の平をじっと見つめる人、同じ場所をぐるぐると歩きまわっている人。絵を書いている人や、お菓子を食べている人もいる。その所々に職員がおり、利用者と話したり何かを片付けていたりする。
ロビーを抜け、廊下を奥へと進んでいくと、バルコニーで洗濯物を干している夫の姿が窓越しに見えた。思わず足を止める。
灰色のトレーニングパンツに、この施設揃いのTシャツ。足元に置かれたプラスチックのカゴから、ゆっくりとではあるが、洗濯物を取り出し、角型ハンガーに干していく。
その様子を見て、頬が緩むのを感じた。よかった、と思う。ちゃんと働けているようだ。
「どうかされました?」
声をかけられて振り返ると、夫の同僚の職員だった。
二十代後半の小柄な女性だが、この施設は長いらしく、ベテランの風格がある。廊下の途中で立ち止まっている私を心配して、声をかけてくれたのだろう。
「ああ、いえ。ちょうど夫の姿が見えたものだから」
私が言うと、職員は嬉しそうに頷いた。
「旦那さん、最近調子いいですよ。だいぶ慣れてきたんじゃないかな」
そう言って笑う職員の腕には、数十本のリストカットの痕がある。彼女はそれを隠したりしない。半袖Tシャツから伸びる肘から先に、他の部分より色素の薄い、微かに盛り上がった傷が重なりあって残っている。
十代の頃に重度の鬱病を患い、自殺未遂を繰り返していたのだと聞いた。投薬で症状は落ち着いたものの、就職活動はうまくいかず、それでこの障害者支援施設に入ることになったらしい。
ここを運営している社会福祉法人は、障害者や発達障害、それから前科のある人など、なかなか働き口の見つからない人の採用を積極的に行っている。
そして私の夫も、その方針に救われた一人だった。
「旦那さんは確か、鬱じゃないんですよね。心的外傷……なんでしたっけ」
心的外傷後ストレス障害。
PTSDの名で知られるストレス障害で、自然災害や火事、事故、暴力などを通じて受けた強烈な体験が、いわゆるトラウマとなって残るものである。
私の夫も、過去に刻まれた恐怖に苦しみ、性格まで変わってしまった。今ではほとんど話さないし、一切笑わない。この数年でかなり白髪も増えた。まだ三十代半ばだというのに、六十歳過ぎの老人に間違われることもある。
私が無言でうつむいていると、傷つけたと思ったのか、女性職員は慌てて言った。
「でも、ウチなら大丈夫ですよ。何しろ、私みたいな奴でも元気に働けてるんだから」
そう言って腕のリストカット痕を私に強調して見せた時、向こうから丸坊主にメガネの中年男性がやってきた。ベージュのTシャツに同色のリネンパンツ、そして裸足に雪駄という独特の風貌だ。
「おう、
そう言って片手を上げる男性に、私は慌てて頭を下げた。この人こそ、社会福祉法人の理事長で同時に施設長も務める、井口八津男さんだ。首に引っ掛けたくたびれた手ぬぐいで額を拭き、「まったく、歳とると体温調節もままならねえ」と笑う。
「井口さん、お世話になってます」
この人のおかげで、私たちは生きながらえた。三年前、井口さんに出会えなかったらと思うとゾッとする。私も夫も道を閉ざされ、もしかしたら二人で死ぬことを選んでいたかもしれない。
「世話? 俺ぁね、世話っつう言葉は好きじゃねえな。ただここで楽しく暮らしてるだけさ、利用者も職員も、俺も」
入口で見たモンちゃん然り、ここは他の施設に比べ利用者の自由度が格段に高い。これだけの山中とは言え、門が常に開け放たれていて、職員だけでなく利用者までも出入り自由という環境は、業界の常識に照らせば異常と言ってもいい。
実際、近隣住民とのトラブルは多く、井口さんは毎日のように、無銭飲食や窃盗を働いて捕まった利用者を引き取りに行くらしい。それでも井口さんは方針を変えようとしない。
そんな施設がよく存続できるなと思うが、この井口さんの独特の懐っこさに、あるいは利用者の人生そのものを受け入れるような本気の支援に、住民たちもほだされているのだろう。相当に深刻な問題でない限り、「もう、頼むよ井口さん」と笑って終わりにしてくれるのだと言う。確かに、実際の井口さんを前にすると、住民たちの気持ちもわかるような気がする。
「じゃあ、まあ、ゆっくりしてってくれよ」
井口さんは坊主頭を叩き、大きな手を振りながらロビーの方へ戻っていった。
「相変わらず変な人ですよね、うちのボス」
女性職員が、言葉とは裏腹に嬉しそうに言う。
「そうですよね。あんな人、なかなかないません」
私も笑顔で応えると、職員は口元に手を添えて、秘密の話をするように言う。
「今でこそあんな風だけど、昔は随分おっかなかったらしいですよ」
「え、そうなんですか?」
「私が知り合う前の話だから、よくは知らないんだけど。スパルタ教師だったとか、ヤクザの組長だったとか、政治家の下で犯罪まがいの仕事をしてたとか、いろんな噂があって」
そうなのか、と思う。確かに、こんなユニークな施設を運営できるのだ。普通の生き方をしてきた人ではないのかもしれない。それに、過去がどうあれ、井口さんが皆から愛されているのは確かだった。
「でも……井口さんは、私たちの恩人だから」
呟くように言ったが、職員には聞こえなかったようだ。というより、いつの間にか外が騒がしくなっていたのだ。
「あれ? 何だろう」
職員も気付いたのだろう、音を探すように天井を見上げ、そのまま窓際に歩いて行く。外を覗き込むようにして、「ああ、あれか」と言う。
「ヘリコプター。何だろう、何か言ってますね」
職員が窓を開けた瞬間、ノイズが大きくなる。ヘリのホバリング音とは別に、声なのか音楽なのかわからない何かの音が聞こえている。どうやら、何かの音声広告らしい。ホバリング音が大き過ぎて肝心のメッセージはほどんど聞こえないが、「来週土曜、開店です。来週土曜、開店です」と、スーパーなのかホームセンターなのか、何か商業施設がオープンすることを繰り返し伝えているようだ。
「まったく、あんなうるさい広告を出す店なんて、行かねえっつんだよ」
女性職員が荒っぽく言い、窓を閉めかけた。その時。
──
──
私の耳に、何かが届いた。
動物の遠吠えのような、布を引き裂くような音。
ハッとして視線を移動する。正面のガラス戸の向こう、バルコニーの中央で、物干し竿の前にいた夫が目を見開き、頬の前で両手を激しく痙攣させながら、叫んでいた。
その顔は恐怖に歪んでいる。私は夫がフラッシュバック状態にあることを瞬時に理解した。
そうだ。あの音だ。繰り返されるスピーカーの音がトリガーとなって、夫の恐怖を再現した。まるで夫の感情が流れ込むように、私も急に息苦しくなる。今すぐ夫の元に行かなければと思うが、膝が震えて、動けない。
──なぜ、許せないんですか。
そう聞こえた気がして、ハッとする。
──なぜ、許せないんですか。
やめて。
──なぜ、許せないんですか。なぜ、許せないんですか。
「やめて!」
私は叫び、廊下にしゃがみこんだ。両手で耳を押さえる。ダメだ、動けない。夫を守らなければならないのに。今度は私が、守る番なのに。
私はやっとのことで顔を上げ、数人の職員が夫に近づくのを見た。そして、暴れる夫を後ろから拘束する。
絡み合った体と腕のその隙間から、夫の顔が見えた。恐怖に歪んだ顔。そこにかつての明るさは全くない。ダメだと思いつつ、視線を落とした。見ていられなかった。
昔の夫は、どこに行ってしまったのだろう。
違う。
一体何を考えている。
どこに行った、だなんて。
夫の精神は、勝手に壊れたわけではない。明確な意思のもと、人の手によって破壊されたのだ。
――三年前、私自身の手によって。
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