第19話 奸計−1
グラーツと会わなくなり、出会う前と同じ日常が戻ってきた。平穏で何事も起こらない同じ毎日。
朝起きて、仕事に没頭し、夜家に帰る。昼も夜も本に囲まれて過ごす。
出会った当初は、その生活を乱されることに戸惑っていた。が、今はリアリナの胸には穴が空いたようで、何をしても心に影がかかる。
ある日、王宮へ本をリアリナが届けることとなった。貴族や施設などから「こういった内容の本が欲しい」と要望があると、それに即した本を届けることがある。特段気にもとめなかった。
しかし、王宮に入ると様子がおかしい。いつもなら本を渡して終わりなのに、ある部屋で待たされる。
少しして、身なりのいい男が部屋に入って来た。リアリナは頭を下げ、礼をする。
「お前が氷姫か。なるほど、美しい。こそこそ嗅ぎ回るドブネズミにはもったいない」
何を言っているのだこの男は。怪訝な顔をするリアリナに向かって、男は鼻で笑う。
「あ、貴方は……?」
「私はゲオルグ・ノルトハイム公だ」
リアリナは身を固くした。グラーツの今追っている件を調べるうち、ノルトハイム公も疑わしい人物に当てはまっていたからだ。
「ドブネズミの息の根を止めるまで、お嬢さんにはここにいてもらおう」
「何のことを言ってるのですか!?」
「お前の恋人のことだ。グラーツとか言ったか」
「グラーツ様と私は……恋人ではありません!」
「ほう?男の方はお前がここにいると言ったら、大人しく捕まったがな」
「グラーツ様が……」
「しばらくここにいてもらおう。協力的なら、お前にも良い目に合わせてやっても良いぞ。都一の頭脳でどちらが得か考えてみるんだな」
そう言い残し、ノルトハイム公は部屋を出て行った。静かな部屋に、鍵をかけた音が響き渡った。
グラーツは王宮地下の牢屋に幽閉されていた。小さい明かり窓があるだけで、冷たい石造の牢獄。周りの牢屋に誰もいないようで、それはそれでかえって寂しいものがある。
床の上が濡れていないことが幸いだった。地面に座り、今の状況を整理する。剣も短剣も取り上げられた。これを仕組んだのは、おそらくノルトハイム公だろう。証拠を積み上げている最中のグラーツを何が何でも止めたいだろう。
しかし、捕えられた時の言葉が気にかかる。
「お前の恋人はすでにこちらの手中だ。双方命が惜しければ従え」
自分の事だけならそんなに心配はしていない。首を切られない限り、どうにか切り抜けてみせる。これまでも色んな局面で立ち回ってきた。
だがリアリナは……
しばらくして、牢の入り口から人の足音が聞こえてくる。姿を表したのは……
「リアリナ殿!」
「グラーツ様!」
ノルトハイム公に連れられたリアリナだった。駆け寄ろうとする所を、配下に阻まれる。
「お前がグラーツとやらか。私の周りをチョロチョロうろつくドブネズミめ」
吐き捨てるようにノルトハイム公が言う。
「ドブネズミに嗅ぎ回られるほど、臭いって事だよ、あんたの身辺は」
「口の減らない奴め。まぁいい。周りくどくしても時間の無駄だ」
ノルトハイム公の要求はこうだった。現在グラーツの手元にある不正の証拠を全て破棄し、追求しないこと。従わなければ、リアリナの身の安全は保証されない。
「あんたが、ベルントを脅したのか」
「人聞きの悪い。あの男とは取引しただけだ。その重圧に勝手に追い詰められたのは私の知るところではない。いや、最後追い詰めたのは確かお前だったとか」
「このっ!!」
激昂するが牢の格子が行手を阻む。ノルトハイム公はグラーツの怒りなど意に介していないようだ。
「そうだ。私に従わない場合、ベルントの下手人はお前と言うことにしてやろうか。友人と並んで名前が記録に残るぞ」
「すでにベルントは自殺となっている。俺に罪を被せようとしても無駄だ」
「紙に書かれたことなど、いくらでも書き換えられるのだよ」
ノルトハイム公は当然の様に言ってのける。
「明け方まで頭を冷やすといい。それまでこの氷姫がこちらの手にあることを忘れるな」
連れて行かれそうになると、リアリナは静かに進み出た。
「ノルトハイム公、グラーツ様と少しだけお話させてください」
リアリナは落ち着き払っている。ノルトハイム公はグラーツをちらと見ると、「少しだけ」と、配下をその場に置いて去っていった。
「リアリナ殿……」
鉄格子ごしにリアリナが腕を伸ばし、グラーツの首元に抱きつく。それを受け止めていいのか、グラーツは躊躇った。耳元でリアリナが配下には聞こえない声で囁く。
「私は大丈夫です。だから、グラーツ様もどうか存分に」
そう言い残し、リアリナは配下に連れて行かれた。
1人残されたグラーツは床に横になる。この難局、どう切り抜けるか、だ。
どの位時間が経ったか。日もすっかり暮れた頃、入り口から急ぐ足音が聞こえ、グラーツの牢の前で止まった。
「よう、遅かったな」
姿を表したのはハインツだった。
「方々探し回ったんですよ。全く、何やってんですか」
「よく入れたな」
「金はここぞって時に使えと教わりましたからね」
と、毛布とウィスキーを鉄格子の隙間から差し入れる。グラーツは早速それに包まる。
「外はノルトハイム公の見張りも多く、突破も困難です。牢屋番を買収しても、これが精一杯で」
「いやいや、十分だよ」
「でも朗報があります。アドラス警備隊長の所へ、ベルント・エーデンからノルトハイム公から命令された証拠が届きました」
「何で今?」
「お子さんの誕生日プレゼントが届くようにしてあって。それと一緒にあったそうです」
「あいつ……」
グラーツは少しの間、目を閉じる。そして、開いた時、ニヤリと口の端を持ち上げた。
「よし、ここからひっくり返すぞ。よく聞け」
とハインツに耳打ちする。ハインツはグラーツの指令を実行するため、足早に去っていった。
今出来ることは全てやった。あとは上手くいくか否か。上手くいかない場合、最悪自分の首がなくなるだけのこと。それも嫌だが、同じような場面に出会ったことは何度もある。
──問題はそこじゃない。
毛布に包まり、ハインツから差し入れされたウイスキーを持つ。が、口はつけられなかった。酒を飲んだところで、彼女への想いは麻痺しない。心を占めるのはただ一つ。先ほど触れた感触を思い出す。冷たい牢獄での思いもよらぬ温もりがまだ残る。
──『リアリナのため』と自分から離れておいて、なんてザマだ。人の機微に聡いなんて自惚れもいいとこだ。自分の気持ちすら分からずに。何故、手放した。後悔しかない。
──祈ることしか出来ない無力な自分が呪わしい。これは、『罰』だ。今まであの娘の気持ちを知りながら、自分の気持ちも知りながら、逃げ回っていたことへの。
明かり窓を見上げる。月はなく、暗い夜。
リアリナと出会って、今までの出来事がどこまでも夢のようで。どこから夢だったのかもわからない。
──今日は冬至か。一年で最も長い夜だ。
じっと目をつぶり、グラーツは始まりも終わりもない夢の中にいた。
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