第12話 天使と刑事
「くそ、一体どうなってるんだよ」
電話を切るや
容姿も格好も極めて特徴的な女が、朝の通学通勤時間帯の住宅街で大剣を振り回し、男子高校生の首を斬り飛ばしたのだ。その場の目撃者だって複数いる。足取りは簡単に追えるだろうし、居場所さえ分ればあとは人海戦術だ。
大仕事ではあるにしろ、逮捕は時間の問題であるはずだ。
事件発生の第一報を耳にした時、蜷川はそう思った。
だが予想に反し、現場から逃走したのちの容疑者の行方は杳として知れなかった。まるで透明人間にでもなったかのような徹底した消失ぶりだった。
もっともだからこそ丸一日以上経過した昨晩になって、
「とりあえず朝メシでも食いに行くか」
空腹もあるが、それ以上に徹夜明けのコーヒーが欲しかった。蜷川は刑事生活安全課の大部屋を出ると、階段で一階へと下りた。
いつもは素通りする受付の手前、揉めているらしき様子に足を止める。
「どうして駄目なのよ! 家族や友達が会うのがいけないの?」
騒いでいるのは十代半ばと思しき少女である。髪の毛を染めていることもなく、服装もいたって普通、警察では余り見かけない人種だ。
「そんなのおかしいじゃない! だったらあなたも家族に会ったら自分で自分を逮捕しなさいよ!」
無茶な理屈である。蜷川は関わり合いになるのを避けるため歩き去ろうとして、だが雷に打たれたように全身を硬直させた。
天使がそこにいた。
ガラス細工のように華奢な肢体を清楚なワンピースに包み、短く纏まった髪の下に覗く横顔は可憐にして繊細、そして澄んだ瞳には無垢なる愁いが湛えられている。
蜷川はその時己の運命を悟った。この天使に降りかかった災いを払い除けるためにこそ、自分は警察官になったのだ。
大きく深呼吸すると、逸る足を抑えて受付へと歩み寄る。
「どうかしましたか」
努めて冷静を保ち、事務員に声を掛ける。浅田という三十絡みの女性は、蜷川を見て驚きつつも嬉しげだった。これで面倒事を押し付けられると思ったのに違いない。
「蜷川警部補、実はこちらの方が事件の被害者のご遺体を確認したいと……捜査の関係上、今はまだ許可できないと申し上げているのですが」
「どの件です」
「おととい起きたあの……」
当然だった。最近管内で発生した殺人事件といえばあれしかない。
「あの、偉い人ですか? 話を聞いてくれるんですか?」
受付に詰め寄っていた少女が、蜷川に矛先を向けてくる。
「残念ながら偉くはないな。そういう君は、確か」
「春川櫻子です。陽虎、高水陽虎の友達です」
資料で見た記憶があった。殺人の現場に遭遇し、容疑者とも言葉を交わした最重要目撃証人である。事件直後はひどくショックを受けた様子で、事情聴取も難しい状態だったらしいが、ずいぶんと元気になったものだ。
「大変だったね。気を落とさないようにと言っても難しいかもしれないが、我々も犯人逮捕に全力を挙げている。どうか理解してほしい」
「そういうのいいから、早く陽虎の体を見せてください。ここにあるんですよね?」
「それはそうだが、春川さんのような若い女の子が対面するのは辛いんじゃないかな。ましてそっちの君は」
「初めまして、刑事さん。晴日といいます。高水陽虎の妹です」
「ああ……」
蜷川は静かな感動に打ち震えた。銀の鈴の鳴るような声音といい、一礼する所作の美しさといい、まさに運命の人、いや運命の天使だ。
「どうしても兄に会いたいんです。お願いできませんか?」
晴日が縋るような目で蜷川を見上げる。蜷川は〇.二秒で決断した。
「他ならぬ晴日ちゃんの頼みだ。直ちに許可を貰ってこよう。少しだけ待っててくれるか」
晴日を見つめ返して頷くや、身を翻して全力疾走を始める。目指すは課長席だ。
全て簡単に事が運ぶ、と考えていたわけではなかった。だが既に遺体が存在しないというのはさすがに予想の外だった。
誰も詳しい事情を把握していないことに憤然とし、実際に遺体がなくなっていることを己が目で確かめて憮然とし、天使に福音を持ち帰れなかったことに悄然として、蜷川は舞い戻った。
「残念だが高水君はここにはいないようだ。こちらの不手際のせいで申し訳ない」
少女二人を目立たない隅の方に連れて行き、頭を下げる。しかし当然のことながら櫻子は納得しない。
「どういうことですか? もう家に戻したわけじゃないんですよね。家族にも知らせないでよそに移すなんて許されないですよ。そのうえ行った先が分らないなんてあり得ないでしょう」
「極めて異例の対応だ、としか言えない」
弁明になっていないのは重々承知だ。だがその場しのぎの説明をでっち上げる気にはなれなかった。蜷川は不信の表情を浮かべる少女の手を取った。
「必ずもっと状況をはっきりさせて連絡する。俺を信じて待っていてくれないか」
心からの誠意を込めて少女を見つめる。もしそうしろと言われたなら、喜んでこの場にひざまずき誓っただろう。
蜷川は人生の審判に対するように、少女からの答えを待った。
「……分りました。ではお願いします。外の喫茶店で待ってますので」
「ありがとう。必ず期待に答えてみせるよ」
きらきらと目を輝かせて微笑み、晴日の小さな手を愛おしむように握り締めると、蜷川は颯爽と踵を返した。
そして遠ざかる刑事の背中を、櫻子がドン引きで見送る。
「ね、晴日ちゃん。あのおっさんやばくない? 通報しようよ」
「櫻子ちゃん、そういうことを言ったら駄目です。せっかくの好意です。大切に使ってあげるのがいいと思います」
晴日はハンカチを取り出し、蜷川に付けられた手汗を丁寧に拭った。
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