第20話 対峙

「ごめんなさい……みちるちゃん……ごめんなさい」


 荒涼としたグラウンドの中、まりあは蹲っていた。何も無い。光り輝く礼拝堂も、掴んだ筈のみちるの腕も。残ったのは苦い後悔と、空虚な淋しさ。

 頬に生温かく濡れた感触を得て、まりあは顔を上げた。いつかみたいに、シフォンが心配そうにまりあの頬を舐めている。


「まりあ、大丈夫?」


 いつかと違うのは、そうして言葉で問いかけてきたこと。まりあは声を詰まらせて、シフォンを抱き寄せた。


「消えちゃったネェ。教会も、あの女の子も」


 クラウンが不思議そうに首を巡らせる。応えたのは、シフォンだった。


「……全部、まりあの記憶の欠片だったんだね」

「違う」

「へ?」


 思わぬ否定を発した当人に、一人と一匹の視線が集まる。まりあは俯いたまま、うわ言のように繰り出した。


「わたし、クリスマス会には行かなかったの。だから、本当の教会は知らない」


『――うそつき』


 みちるの責める声が脳内でリフレインする。その言葉も、まやかしだ。まりあはあれ以来、みちると話していないのだから。そんな風に責められた事実は存在しない。


(わたしが、負い目を持ってたから……)


「想いの欠片か。この世界では記憶だけでなく想いも形になる。教会の方は、まりあの想像の産物だったんだね。まりあ自身が本物じゃないと気付いたから、消えたのかな」

「とにかく、まりあチャンのお友達はちゃんと向こうの世界に居るってことだヨネェ? お友達の心配が無くなって良かったネェ」


 シフォンが推測し、クラウンが明るい声で締めた。「良かったね」と言われても、まりあの表情は冴えない。確かに、みちるがここに居ないのなら、それに越したことはないが――。


「わたし……帰らなきゃ」


 地面を見下ろしたまま、まりあがぽつりと零した。


「みちるちゃんと話したい。わたし、みちるちゃんにちゃんと謝ってない。みちるちゃんに避けられて……悲しくて。それで、誤解を解くのも諦めてた」


 そう、逃げていたのは、自分の方だった。

 しっかりと話し合いが出来ていれば、今も友達のままで居られたかもしれないのに。


(『いいお母さんだね』って言ってもらえて……うれしかったのに)


 裏切ってしまった。その罪は重い。


「みちるちゃんに会いたい。幻じゃなくて、本物のみちるちゃんに」


 もう手遅れかもしれない。だけど、仲直りがしたい。そう強く願った。

 それだけ彼女が大切な友達だったと、思い出せたから。


 新たな決意に、拳を握り締める。そんなまりあに、シフォンとクラウンは頷きを返してくれた。彼らからしてみれば何の話か分からないだろうに、深くは言及せずにいてくれる。

 その心遣いに感謝して、まりあはシフォンを下ろすと改めて立ち上がった。


「そうだね、まりあ。帰ろう、元の世界に」


 シフォンが力強く紡ぐ。


「その為には、残りの記憶も全て見つけ出さなくちゃね。次の手掛かりは……」

「あの黒い影も気になるヨネェ。中の光もそうだケド、まりあチャンの怖がり方も尋常じゃなかったしィ。何か関係あるんじゃないのカナァ」


 人差し指をピッと立てて、クラウンが提起する。それに関しては、まりあには思う所があった。


「わたし、分かったと思う。あの黒い影が何なのか」

「えっ!?」


 まさかの発言に、犬とピエロが同時に目を剥いた。まりあは不思議な程平静な気分で、己の見解を述べた。


「あれは、きっと……わたしが一番思い出したくない記憶の欠片なんだと思う」


 だから、黒い靄で覆い隠して、見えないようにした。

 近付くだけで身の毛もよだつような戦慄に襲われるのは、まりあが無意識にその記憶を忌避しているからだ。

 今も意識するだけで足が震えそうになる。凄まじい恐怖の権化。


(でも、立ち向かわなきゃ……)


 シフォンが心配そうに鼻を鳴らした。


「大丈夫? まりあ」

「うん……怖いけど、逃げてばかりもいられないから」


(帰るって、決めたんだから)


 だからもう、逃げない。


「それじゃァ、あの影を探そうかァ」

「たぶん、その必要はないと思う」


 まりあが確信するように呟いた直後、それを証明するかの如く突如として校舎の玄関口から闇色の霧が湧き立った。ぶわり拡散し、一点に集束するモザイクのノイズ。

 あの黒い影が、来る。


「あいつ……!」


 一同に緊張が走った。殊にまりあの肌は恐怖と焦燥でピリピリと灼け付くようだ。


(やっぱり……)


 あれは、いつだってまりあを追ってきた。記憶の欠片が持ち主の元へ帰りたがっているのか、まりあが無意識に呼び寄せていたのか、定かではないが。

 逃げ出したくなる己を律して、まりあはその場で影の到来を待つ。心臓が早鐘を打った。


(怖い。いやだ。逃げたい。でも、逃げちゃダメ)


 十メートル、九メートル……いっそ、じれったい程にゆっくりと迫る影。

 七メートル、五メートル……シフォンとクラウンが、巻き込まれないようにそっと距離を取った。

 三メートル、一メートル……もう、間近。


 これだけ近付いても、影の内に隠された生命の光は外側からでは窺えない。ただ、言い知れぬ嫌悪感と悍ましさに、まりあの気は遠くなりそうだった。

 身体の感覚が麻痺し、自分が今どうやって立っているのかすらもわからなくなってくる。それでも懸命に動けと脳が命令を出し、まりあは目前の影に向かって手を伸ばした。

 黒い靄を掻き分けて、光を探す。それがどんな形をしているのか、何となくまりあには予想が付いていた。これまでに見てきた記憶から鑑みて、きっと――。


「ママ? ……ママなんでしょ?」


 誰何すいかして、固唾を吞む。返事の代わりに、白い光を見つけた。見慣れた生命の光。それは彼女の思った通り、大人大の人の姿をしていた。まりあが思い出すのを拒んだ、一番避けたかった存在の記憶。

 眩しさに細めた目を凝らし、光の形を見定める。頭、手足、胴体……顔の凹凸を次第にはっきりと認識した時、まりあは虚を衝かれて固まった。


(ママ……じゃない)


 男性の形をしていた。

 朝黒い肌。がっしりとした体格。女好きのしそうな精悍な顔立ちをしているが、吊り上がった口元に疎らな無精髭が、何処か歪んだ印象を与える。まりあの元義父、和哉とは百八十度異なるタイプの男性だった。


「誰――?」


 愕然と問い質した次の瞬間、男がまりあの腕を掴んだ。記憶の奔流が溢れ出し、追体験が始まる。


(ああ、そうだ。この人は)


 光に侵されて、まりあの思考は霧散した。

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