第15話 宵闇に響く福音
ポロン、ポロン……初めはぎこちなく音を確かめるように鳴らして、いきなりジャーンと音数が増える。重厚な和音。たっぷり、ゆっくりと間を持たせて、厳かにメロディを奏で始める。
「これ……」
「『ひとりでに演奏する音楽室のピアノ』カナァ。でも、いつもとは曲が違うカモ?」
突如聞こえてきた音楽に及び腰になるまりあに、クラウンが冷静に説明してくれた。
「そうなの?」
「ウン。初めて聴く曲だヨォ。ボクもずっとここに居る訳じゃないカラ、聴いた事ないだけカモしれないケド」
改めて、音色に耳を傾けてみる。音楽室から距離があるからだろう、強弱や迫力は薄れているが、聴いていると何故だか身の引き締まるような心地がした。
「『もろびとこぞりて』だね。確かに、こんな所で鳴らすような曲ではないよね」
そう付け加えたのは、シフォンだ。まりあは今度は愛犬の方を見て、先程と同じ言葉を繰り返す。
「そうなの?」
「神の子の生誕を祝う曲だからね。天国ならともかく、こんな咎人が堕とされる亡者の国で聴くには違和感があるよね」
確かに、そう聞くとそうだ。それに違和感というと、もう一つ。
「わたし……この曲、知ってる気がする」
「え?」
「この演奏……聴いたことがあるような気がするの」
ここで初めてみちるを見つけた時の、不思議な既視感。あれと同じだった。もしかしたら、自分の記憶と関係しているのかもしれない。
シフォンとクラウンが視線を酌み交わしてから、まりあに問う。
「気になるの? まりあ」
「行ってミル? 音楽室」
まりあは緩慢な動作で頭を縦に振った。
「うん……確かめてみたい」
先刻まであんなに記憶を取り戻すのが怖かったのに、みちるのことを思い出したらもっと知りたくなった。大切な友人のことだ。少しでも何か手がかりが得られるのなら、藁にも縋りたい想いだった。
「でも、怪異の渦中に飛び込むのは危険なんじゃ……」
「チャイムと同じで鳴るだけのやつだカラ、大丈夫だと思うヨォ」
クラウンが保証するも、シフォンはまだ心配そうだ。まりあの方を円な瞳で見つめて、今一度訊ねる。
「まりあは大丈夫?」
「うん、もう怖くないよ」
今度は大きく頷き返して、まりあは微笑んで見せた。
「そういうことナラ、行こうカ。音楽室は実習棟の三階だヨォ」
クラウンの案内に従って、早速移動を開始する。まずは教室棟から実習棟に行く為、二階の渡り廊下へと向かった。しかし、渡り廊下の扉を開いて一歩外に踏み出した途端、まりあは度肝を抜かれた。
「え? ……お墓?」
渡り廊下から見える眼下の景色が一面の墓場となっていた。列車の窓から見た、不毛の地に建つ墓石群ともまた異なる、真っ赤な彼岸花が咲き誇る純和風の墓所だ。
「外から見た時は、無かったよね?」
それだけじゃない。宙空にはゆらゆらと、季節外れの蛍のように無数の蒼白い炎が浮いていた。ある種幻想的な風景ではあるが、不吉なことには変わりない。
「『渡り廊下から見える墓地&鬼火』ってところカナァ。何もしなければ襲ってこないヨォ」
「ひっ」
クラウンの言にホッとしたのも束の間、すぐ傍を鬼火が通過していったものだから、思わずまりあは身を竦めた。
もう怖くない、とは言ってもやはりおばけは正直怖い。
「大丈夫だよ、まりあ! 鬼火だか人魂だか知らないけど、まりあの生命の光に比べたら、こんな薄っぺらい偽物の魂の光なんて、恐るるに足りないよ!」
シフォンがまりあを励まそうとそんな言葉を掛けたら、周囲を浮遊していた鬼火の群れが赤く色を変えた。
「え?」
直後、流れ星の如く高速でまりあ達へと降り注ぐ。
「きゃっ!?」
「危ない!」
咄嗟に避けられず身を固くしてしまったまりあだったが、クラウンが前に出て庇ってくれた。鬼火の飛来した彼の右肩から右腕にかけてが、勢いよく燃え上がる。
「クラウン!」
「大丈夫だヨォ。本当に燃えてる訳じゃないカラ。熱くもないしィ」
クラウンは平然としたものだった。確かに、炎に包まれているのに彼の服や肌に変化は見られない。
「幻なの?」
「なんだ、それなら避けなくても平気だね」
ふふんと余裕こいて鼻を鳴らしたシフォンだったが、直後尻尾に鬼火がぶつかって炎上すると、
「熱っつ!? 熱いじゃないか!!」
「シフォン!」
「えェ? あァ、幻だけど感覚だけはあるタイプの霊障なのカナ。ボクは痛覚が無いカラ、分からなかったヨォ」
呑気にそんなことを言っている場合ではない。まりあは大慌てで着ているポンチョを脱ぐと、愛犬の尻尾の炎にバサバサと叩きつけた。すると炎は瞬く間に煙も立てずにしゅううと収まっていく。
「良かった、消えた」
「エ? 凄い」
「クラウンも!」
目を丸くしているピエロにも、まりあは間髪入れずに布を使った。そちらも無事に消火が済むと、改めて周りを見回す。
鬼火の群れはあちこちに降り注ぎ、渡り廊下を紅蓮色に染め上げていた。じりじりと肌を焦がすような熱気に、息苦しさを覚える。狙いが甘いのは幸いだったが、このままでは床が全て幻の炎で埋め尽くされてしまいそうだ。
「いけない、急ごう!」
まりあがシフォンを腕に抱き上げ、更にクラウンがシフォン
まりあの手から白いポンチョが離れ、風に舞う。
「ポンチョが!」
「仕方ないよ、諦めよう!」
腕の中で騒ぐ少女と犬には構わず、クラウンは上手に炎を避け、一気に向こう岸まで渡りきった。
炎を遮るように、廊下の扉を強く閉ざす。それが境界線となったのか、先程まで感じていた熱気と息苦しさが嘘のように瞬時に引いた。
流れた汗だけはそのままに、深く空気を吸い込んで、ゆっくりと吐き出す。埃の凝った校舎の味がした。
「危なかった……」
「アイツらは襲ってこないんじゃなかったの?」
クラウンに下ろしてもらい、まりあが一息つく中、シフォンが憤然と質した。クラウンは自身の顎を摩って、さらりと見解を述べる。
「〝何もしなければ〟ネェ。たぶん、シフォンくんの言葉が気に障ったんじゃないカナァ」
「え」
「鬼火も怒ったりするんだ……」
赤くなったのは、単純にカッとなったからなのかもしれない。
今し方の威勢は何処へやら、シフォンはすっかり萎んでしまった。
「ごめんよ、まりあ。僕の所為で」
「ううん。こんなの予想出来ないもん。シフォンのせいじゃないよ」
まりあが宥めるように笑み掛けて撫でてやると、愛犬は「まりあは優しいね」と零して目を細めた。
それから、扉の向こうの渡り廊下を見遣る。
「だけど、教室棟の方には戻れなくなっちゃったね」
今や炎は渡り廊下全体に広がり、灼熱地獄の様相を呈していた。幻とはいえしっかり熱いのだから、もう近付けそうもない。
「大丈夫だヨォ。その内鬼火の気が済んだら元に戻るんじゃないカナァ」
「だといいけど。これ以上燃え広がってきたりしない?」
「渡り廊下限定の怪異だカラ、こっちには来ないと思うヨォ」
クラウンは頼もしい。その彼が、不思議そうに首を傾げた。
「でも、ドウシテさっきは火が消えたのカナァ。幻だカラ通常の手段では消火出来なさそうなノに」
「たぶん、まりあの生命の光が布に移って、魔を祓ったんじゃないかな」
シフォンが口にした推測に、まりあは目を丸くした。
「そんなこと出来るの?」
「出来るさ。よく霊を退ける方法論でもあるでしょ? 『自身の身体を眩い光が包み込んでいる様を意識する』って。本来、生者の魂は死者にとっては眩しすぎるんだ。まりあもその気になれば、おばけなんて寄せ付けないよ」
「そうなんだ」
今まで散々な目に遭ってきたのは、まりあにその意識が無かったからだろうか。
(さっきは、必死に火を払おうとしたから?)
何にせよ。
(わたしにも、立ち向かう術がある……)
そう思うと、心強く感じた。
「さ、それじゃあ音楽室へ行こう」
シフォンが促し、まりあは改めて実習棟の廊下へと顔を向けた。緑色に染まる薄闇の先では、場違いに神聖なピアノの音色が未だ響いていた。
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