第33話 過日の約束

 

 横須賀に入港した多景乗組員は、甲板修理の為に二週間の休養を余儀なくされた。

 艦長の蒲生は乗員の半数に一週間の休暇を出すことにした。一週間後には、残りの半数に休暇を出す予定だ。そして、蒲生自身も入港早々に艦内から姿を消した。


 もっとも、副長の隆は休暇に預かるわけにはいかない。蒲生の不在は一部の分隊長以外には伏せられており、その間の艦内実務は全て隆の仕事になる。

 休んでいるわけにはいかなかった。


 そんな中、多景に慰問袋が届けられた。

 休暇前の乗組員たちは懐かしいふるさとからの便りに喜び、実家が近い者はこの機会に帰省の計画を立てている。敗戦の直後ではあるが、乗組員の顔は明るかった。


 隆の元にも伊香立村からの手紙が届けられた。千佳からの手紙と共に千佳、真知子、清の写真ともどろきさんのお守り同封されている。召集を受けてからずっと戦場に身を置いて来た隆だったが、こうして家族の無事を知れたことは何よりの朗報だった。


 艦長室の椅子に座って手紙を読んでいると、ドアをノックする音が聞こえた。

 慌てて手紙を懐に戻しつつ「どうぞ」と声をかける。ドアを開けて入って来たのは、横井俊明だった。


「秋川少佐。ご無沙汰しておりました」

「横井! 生きていたか!」


 隆は思わず立ち上がって横井を出迎えた。

 ミッドウェー海戦では多くのパイロットが戦死した。その中で横井が生きていたのは、隆にとっても喜ばしいことだ。

 だが、横井の顔は晴れない。


「無益に生き残った、と言うべきかもしれません。あの空戦で小隊長は撃墜されました。自分などよりもはるかに優秀な方でした……」

「そうか……」


 横井の憂いを含んだ顔に隆もしんみりとする。軍人ならば、明日は我が身と思わざるを得ない。


「だが、生き残ったことを無益などと言ってはいかん。今回生き残ったことは、ただそれだけで有益なことだ」

「はい。偶然に拾った命です。次こそは、御国の為に死ぬ覚悟です」

「それが間違っている。貴様は次も、その次も生き残らねばならん」


 横井が少し眉をひそめた。この時代の軍人にとって、御国の為に死ぬことはこの上ない誉だ。

 だが、横井のこの言葉だけは否定しなければならないと隆は思った。


「考えてもみろ。貴様や俺が生きて戦い続ける限り、内地は安全でいられるのだぞ?

 貴様にも守りたい家族が居るだろう」

「……郷里に妹が居ります。先頃嫁に行ったと手紙を貰いました」

「ならば、その妹の安全を守り続けるために貴様は生き残れ。

 俺も生きて戦い続ける。ひいてはそれが、御国の為に働くということだ」


 隆の言ったことはある種の詭弁だ。戦争で生き残るためには臆病さが必要だが、皆が皆臆病であっては勝てる戦いも勝てない。時には死の恐怖を乗り越えて目の前の敵に敢然と立ち向かう必要もある。

 その言葉を吐いた隆自身が己の矛盾を一番よく分かっていた。だが、今は一人生き残った罪悪感を横井から取り払ってやることが先決だ。


「随分顔色が悪い。ちゃんと食っているのか?」


 事実、横井の顔色は蒼白いほどに真っ白だ。


「実は、ミッドウェー以来なかなかゆっくりと眠れていません。目を閉じると加賀(日本の空母)が沈んだ光景が蘇ってきてしまって……」

「そうか……戦場に居た貴様の辛さは、後方で戦った俺などよりも大きいのかもしれん。だが、今はとにかく食って寝ることだ。人間には休息も必要だ」

「……はい」


 横井の肩に手を置いた隆は、しんみりする空気を振り払おうと話題を変えた。


「そう言えば、貴様とは酒を飲む約束をしていたな。今こそ過日の約束を――と言いたいところだが、残念ながら俺は勤務中だ」


 そう言って隆が首をすくめる。

 蒲生の留守を預かっている身として、艦長室で酒盛りなどするわけにはいかない。


「お気持ちだけで充分です。約束は、またお互いに生き残った時に」

「そうか。そうだな」


 残念そうに頷きつつ、隆は少しだけ安心した。

 横井の顔に少し笑顔が戻ったからだ。生き残ったこと、生き残ることを肯定した言葉も聞けた。その横井を改めてねぎらってやりたいとも思った。


「……いや、少し待て」


 隆はそう言うと引き出しからウイスキーを取り出し、水差しからグラスを二つ持ってきた。

 取り出したのは蒲生秘蔵の酒だ。一般士官や下士官には内緒だが、蒲生は時々こっそりとこの酒を楽しんでいたことを隆や分隊長らは知っていた。バレたら後で大目玉だなと思いつつ、グラスの中ほどまで酒を注ぐ。


「とりあえずは、お互いにここまで生き残った。これはその証だ」


 そう言って横井にグラスを一つ差し出した。

 隆がグラスを掲げると、横井も嬉しそうにグラスを掲げ、二人で一気に飲み干した。強い酒の香りが喉の奥を直撃し、思わず二人でむせる。


「思ったよりキツい酒だな」

「そうですね。でも、美味いです」

「だな」


 そう言って二人で笑った。

 今にも死にそうになっていた横井の顔がすっかり明るくなっていた。


「今日は、お会いできてよかったです」

「俺もだ。また一緒に酒を飲もう。今度はゆっくりと、な」

「はい」


 再び約束を交わすと、横井は部隊へと帰って行った。

 航空戦隊は特に激務で、開戦から半年間碌に休めていないはずだ。ミッドウェーの敗戦を受けて部隊を再編制する必要に迫られるが、横井らパイロット達にとってはちょうどよい休養になるだろう。


 横井とは晴れやかな顔で別れた隆だが、数日後に蒲生が帰艦すると今度は隆の方が悲愴感の漂う顔つきに変わった。アメリカとの早期講和は潰れ、日本はこれから果ての見えない消耗戦に突入する。少なくとも蒲生はそう予測している。

 隆はいみじくも横井に言った言葉を自分に言い聞かせた。


 ――必ず、生き残る。


 少しでも生き延びて、戦い続ける。

 それが千佳を、家族を守ることになるのだ。




 ミッドウェーの敗北から二か月後、隆の乗る多景は南太平洋ソロモン諸島を巡る戦役に投入されていた。


 緒戦の南方作戦では日本が南方の資源地帯を抑えることに成功し、特に日本に不足していた石油や鉄鋼、ゴムなどの資源を確保していた。アメリカは、ミッドウェーで虎の子の空母を失った日本に対してさらなる追い打ちをかけるべく南方資源地帯の奪還に動き出していた。


 ソロモン諸島はこの南方資源地帯への玄関口に当たる。ここを連合軍に奪還されれば、南方と日本本土を繋ぐ輸送路を脅かされかねない。

 日本としても絶対に譲るわけにはいかない要地だった。


 このソロモン諸島を巡る海戦の中で、神重徳が主席参謀を務める第八艦隊が大きな戦果を上げた。

 第一次ソロモン海戦において、ガダルカナル島に上陸した連合軍に対し第八艦隊が夜陰に紛れて艦隊による夜襲作戦を立案、実施した。俗に『艦隊殴り込み作戦』とも呼ばれたこの夜戦は、連合軍の巡洋艦隊を撃破するという大戦果を上げる。

 ミッドウェーでの敗戦以来久々の大勝であり、神重徳はその名前をもじって『作戦の神様』とまで呼ばれるようになった。


 蒲生喜八郎は苦虫を噛み潰したような顔をしていたが、現実として以後海軍内での神重徳の発言力が大きくなることは当然の成り行きだった。



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