第25話 不運な男
隆が堅田を離れて三か月後、千佳は無事に二人目を出産した。今度は待望の男の子だ。
産まれた子は『
新次郎の喜びようは大変なもので、産まれてからこの方、清の世話をなにくれと焼いている。真知子はそんな新次郎に金切り声を上げているが、清にやきもちを焼いているというよりは自分以外の誰かが清の面倒を見ることが気に入らないという風だ。
つまりは、真知子も清をよくかわいがってくれていた。
九月に入ると、清のお宮参りに八所神社へ出かけた。
以前は真知子を抱いて隆と並んで歩いた道を今は清を抱いて真知子と並んで歩いた。
村はずれの桜の木の下に差し掛かると、ふと懐かしくて足を止める。
「どうしたの?」
真知子が不思議そうな目で千佳を見上げた。
千佳は少し笑うと、左手で清を抱いたまま右手で真知子の頭を撫でた。
赤子の頃は中々太い髪が生えずにやきもきしたものだが、今は髪もすっかり太くなり、おかっぱに切りそろえた髪には大人と変わらない質感がある。
続いて真知子のほっぺを触った。
幼児特有のむにむにとした感触は消え、既に少女の面影に変わってきている。まだ赤子だと思っていたが、真知子の体には確かな成長を感じた。
「お父さんがね。真知子が今の清くらいの時に、お母さんにこうしてくれたのよ」
「へー!」
そう聞いた真知子が目をキラキラさせた。
真知子にとって隆は自慢の父親だ。隆の他に村で従軍している者が居ないわけではないが、隆ほどの階級の者は誰も居ない。
最近では近所から「いいお婿さんを貰いなさった」とよく言われるが、そうした大人たちの言動は真知子たち子供の世界にも濃厚に広がっているのだろう。
「お父さん、早く帰ってくるといいね!」
真知子が無邪気に笑う。
千佳は少し胸が詰まった。真知子にとって隆が自慢の父親であればあるほど、真知子からは遠い場所に居なければならない。軍人が貴ばれる時は、すなわち戦争の時だからだ。
そして、戦争中に軍人が真知子の近くに来る時は、敵が目の前まで迫っている時以外にない。
「きっと、すぐに帰ってくるよ」
千佳の言葉は、自分に向けた言葉でもあった。
八月に入り、上海で再び戦争が始まった。新聞やラジオなどは日本軍の勇姿をしきりに喧伝するが、同時に夥しい戦死の報も入って来ていた。
今の所隆が戦死したという報せは無いが、いつその報せが届くかは分からない。もしかすると、明日にもその報せが来るかもしれない。
昔の自分なら、きっと不安で押しつぶされていただろうと思う。
だが、今の千佳には守らなければならない物がある。
真知子と清だ。
隆が不在の今、子供達の前で自分がオロオロするわけにはいかない。その思い一つで平静を保っていた。
「すぐって、明日?」
「明日……はちょっと難しいかな」
「じゃあ、明後日?」
「そうね。真知子がいい子にしてたら、すぐ帰ってくるよ」
また一つ、嘘を重ねた。
そんなに早く帰って来られるわけがないことは分かっている。神様が居るとして、こんなにも嘘を重ねた自分の願いを聞き届けてくれるとは思えない。
――必ず帰って来る、と言ってくれた
それだけが、今の千佳の拠り所だった。
昭和十二年も年の瀬が迫っている頃、蒲生喜八郎は東京霞が関にある海軍省庁舎の次官室を訪れた。
八月の第二次上海事変から拡大した日中戦争は、十二月には中華民国の首都南京へと攻撃を行うまでになっていた。日本から南京に駐留する第三国の人員は南京を立ち退くよう勧告を出しているが、これに乗じて米国や英国の船に中華民国の兵が乗り込んで南京脱出を図るといったことも起きていた。
そんな中、アメリカの砲艦『パナイ号』をそうした偽装中国船と誤認した日本海軍の航空隊が撃沈するという事件が起きた。
この『パナイ号事件』はすぐに世界中に報じられ、特にアメリカ国民の対日感情を大きく悪化させた。これを受けて、海軍省や軍令部では様々な調査やアメリカに対する弁明を行っている。
蒲生喜八郎が次官室を訪れたのは、そんな最中のことだ。
蒲生は大きく深呼吸をすると、覚悟を決めてドアをノックした。重厚なドアの向こうから「どうぞ」という声が聞こえたことを確認し、蒲生はドアを開けた。
「失礼します」
「蒲生クンか。久しぶりだな」
蒲生の正面では、海軍次官の
「百武さんはお元気かね?」
「おかげさまで、冷や飯を食わされて
百武源吾大将は軍事参議官となったが、それは決して百武の待遇が改善されたことを意味したわけではない。軍事参議官は現役武官として到達点の一つではあるが、参議官会議は多数決で議決を出す為、その議決に百武の意見を反映させることはそうたやすい事ではない。海軍大臣や軍令部総長に比べれば、軍に及ぼす影響力はほとんど無いに等しい。
つまりは、体よく窓際の名誉職に追いやられているといった状態だ。
「ふっふっふ。相変わらずだね」
「いつものことです。ですが、今日は百武さんとは別件で伺いました」
「ふむ?」
「秋川大尉のことです。秋川を予備役に回すように山本中将から指示されたと人事局で耳にしました。その理由をお伺い致したい」
「……そのことか。そう言えば、秋川大尉は蒲生クンのお気に入りだという噂だったな」
「秋川を今の立ち位置に追いやったのは、自分の責任です。自分が本省勤めで秋川がクビになるというなら、自分は秋川に顔向けできません」
予備役に編入されれば、在郷軍人として普段は社会生活を送り、戦時には召集されて戦争に駆り出される。要するに、軍をクビになるということだ。
平時ならば大尉で予備役編入というケースも少なくないが、この戦時下において若くて使える士官をいきなりクビにするということは考えにくい。
「今更、艦隊派の嫌がらせというわけでもないでしょう?」
少しの間蒲生の顔を見つめていた山本だが、不意に息を一つ吐いた。
「このことは、他言無用で頼むよ」
――やはり、ウラがあるか
心の中でそう呟きつつ、蒲生は次の言葉を待った。
「我が海軍の航空戦隊が南京でアメリカの砲艦を撃沈したことはキミも知っているだろう?
オレはその後始末に走り回っているわけだが、アメリカ大使館から非公式に『上海でアメリカの民間人を助けたことを公表するな』と申し入れがあってね。調べさせたら、秋川大尉が率いる陸戦隊員が共同租界付近でアメリカやイギリスの民間人を助けたことが分かった」
蒲生は意表を突かれた顔になった。
戦場において、国籍に拘わらず民間人を保護するのは国際法に則った処置であり、それは褒められこそすれ決して責められるいわれはない。
むしろ、秋川大尉の行動は劣勢な戦場にあっても戦時国際法の精神を忘れず、日本の遵法精神を世界に示したと言える物だ。
「……何故、アメリカはそのようなことを? アメリカの民間人が日本兵に助けられたことが、そんなに気に食わないのでしょうか?」
「事情はオレにも分からん。だが、今回の戦争でアメリカは支那を支援している。それは日本に対する口出しだけでなく、武器、弾薬、燃料などの支給も行っているという噂だ。イギリス船に運ばせてはいるが、中身はアメリカから支那への支給品と見ていいだろう。
民間人を装ってその手引きをしていた者が上海に居た……ってところじゃあないかと思う」
「つまり、民間人を装ったアメリカのスパイを秋川は偶然にも助けてしまった、と?」
「可能性の話だ。だが、秋川大尉が偶然助けた男が、アメリカにとって『存在を知られたくなかった男』だったとすれば、大使館がわざわざ口を突っ込んでくることの辻褄も合うってだけさ」
「しかし、だからと言って秋川をクビにする必要はないでしょう。秋川やその場に居合わせた者には口止めをしておけばいいだけのことです」
「それでは、アメリカが心から納得せんだろう。今回秋川大尉を予備役に回すのは、アメリカ大使館に見せるためのものだ。いずれ、秋川大尉は軍に呼び戻すさ」
つまりは、アメリカの要求を飲んだというジェスチャーとして秋川のクビを切ろうということか。
「いやに急いで予備役に回すのですね」
蒲生の皮肉に対し、山本がおどけた口調に変わった。
「そりゃあそうさ。この件は素早く処理しなければならないからね。解決が遅れると、アメリカの世論が対日強硬論で固まってしまうかもしれん。
出来れば年内に解決したい。その為には、上海の件をこちらが飲んだとハッキリわかる形で見せねばならん」
蒲生は心から納得したわけでは無かったが、山本も対米開戦を避けたいという一念から出た行動だという点は理解した。
その点においては、蒲生も山本と同意見だ。
――つくづく、運の無い男だな
蒲生は隆の身の不運を思い、心の中でため息を吐いた。
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