第21話 戦線復帰
舞鶴に配属になって四年が経ち、秋川隆は二十九歳の春を迎えた。
数か月ごとに乗艦を異動し、役職も甲板士官を皮切りに砲術科や補給科、航海科など様々な艦内実務を経験した。昨年には同期達と一緒に大尉への昇進も果たしてもいる。公私ともにこれから脂が乗って来る年代と言えた。
そんなある日、隆は蒲生喜八郎に呼ばれた。
隆が舞鶴軍港兵舎の中にある蒲生の執務室にはいると、少し深刻そうな顔をした蒲生が出迎えた。
普段は笑いを含んでいる目が、今は笑っていない。それだけで、隆には何かあったなと察せられた。
「お呼びでしょうか」
「秋川か。実は、お前を駆逐艦『
「ハッ! ありがとうございます!」
隆はその場で両足のかかとを揃えた。
正式な辞令ではないにしろ、軍の内示であればだらけた姿勢で聞くわけにはいかない。それに、内心では嬉しさもある。
いかに非主流派に属しているとはいえ、真面目に勤務していれば順当に出世をさせてくれる。そういう上層部の態度は有難いことだと思った。
「合わせて、駆逐艦『栃』は四月から第三艦隊に配属される。貴様も四月からは艦隊勤務だ」
「第三艦隊、というと……また
「そうだ」
隆の初実戦となった上海事変では、日本海軍は各艦艇から陸戦隊を上陸させて上海の地上防衛に当たらせていた。
だが、上海事変後には『上海特別陸戦隊』を組織し、二個大隊相当の陸戦部隊を上海に常駐させている。そして、上海特別陸戦隊は第三艦隊の指揮下に置かれていた。
その第三艦隊に配属されるということは、再び上海に派遣されるということだ。
「ワシも四月から海軍本省に異動が決まった」
「本省に……ですか?」
「……ここだけの話だ。
四月には百武サンが中将から大将に昇進され、併せて軍事参議官に補任されることが決まった。ワシはそのお供だな。お互い、一月後には舞鶴を離れることになる」
「ご栄転、おめでとうございます」
隆はかかとを揃えたまま、敬礼の姿勢になった。
軍事参議官と言えば、天皇陛下の諮問機関として陸・海軍大臣や総参謀長、軍令部総長などとも肩を並べる役職だ。
その補佐役を務めるとなれば、舞鶴で不遇をかこっている蒲生からすれば栄転と言って差し支えない。
蒲生共々再び海軍の表舞台に復帰できるということは、隆にとって朗報と言えた。
だが、蒲生の顔は相変わらず渋い。
「蒲生大佐はあまり嬉しくなさそうに拝察しますが」
「嬉しくないということはないさ。だが、単純に喜んでばかりもいられん」
「と、仰いますと?」
「今度は陸軍のはねっかえりが暴発した。陸軍内でも相当な粛清が行われたらしいが、政府が陸軍にキンタマを握られてしまったのが痛いな」
隆も蒲生の言っていることは理解できた。
半月前の二月二十六日、今度は陸軍の青年将校らが『内乱』を起こした。後に『二・二六事件』と呼ばれた陸軍皇道派のクーデター事件だ。
このクーデターは結局失敗に終わり、事後の処理で陸軍の皇道派は悉く軍の中枢を追われ、予備役へと編入された。
そして、事件後に組閣された広田内閣は現役の軍人を陸・海軍大臣に就任させるという原則を復活させた。陸軍を追放した予備役皇道派が陸軍大臣に任命されることを避けるための措置だが、そのおかげで軍の協力なしには内閣が成立しないという事態になってしまった。
軍の協力なしには陸・海軍大臣のポストが埋まらないのだから、内閣は常に軍の顔色を窺う必要があるというわけだ。
五・一五事件で事実上の政党政治は終わったが、二・二六事件によって政党政治はとどめを刺され、軍が実権を握るようになってしまったと言える。
だが、問題はそこではない。
蒲生が危惧するのは、統制派と呼ばれた非皇道派の陸軍将校たちのほとんどが大陸南部への進出を主張していることだ。
陸軍が南下するのならば、必然的に上海も戦場になり得る。当然、上海に駐留する海軍も戦場に出ることになるだろう。
とはいえ、日本には資源が乏しい。
経済的にも孤立の度を深める日本は、石炭や鉄鉱石の入手先を確保することが目下の急務だ。そんな中で豊富な地下資源を持つ華北一帯を抑えたいというのは、企業や政府、軍部の切実な願いでもある。
そのことを考えると、陸軍が華北に勢力を伸ばそうとするのもやむなしとは思う。隆自身このままではいけないとは思うが、ではどうすれば良いのかという答えは出せずに居た。
「次は上海が戦場になる、というわけですか」
「……確証はない。だが、近頃蒋介石は上海停戦協定に違反して上海方面に兵力を集めているという噂も聞こえてくる」
「こちらが自制していても敵が来れば否応なしに戦争になります。米英の反応も気になります」
アメリカは日本が中国大陸で勢力を伸ばすことを歓迎していない。
日本が大陸で勢力を伸ばせば伸ばすほど、アメリカの対日感情は悪化していくだろう。最悪の場合、太平洋を挟んで日米開戦という事態もあり得る。
蒲生が苦悩しているのもそこだった。今や世界一の海軍力を誇るアメリカと正面からやり合うのは避けたい。それが蒲生の本音だ。
「まあ、それでも永野
永野サンとは、海軍大将永野修身のことだ。
広田内閣で海軍大臣に就任した永野は、百武や蒲生と同じ条約派だった。このところ海軍内では艦隊派と条約派の融和が図られており、永野の海軍大臣就任はその成果と言える。この人事が、蒲生や隆の人事にも影響しているのだろう。
そして、永野修身は大の親米家として知られていた。
永野が海軍の中枢に座るのならば、必ず日米開戦を避けようとするはずだと蒲生は見ているのだろう。
だが、蒲生自身も事態を楽観してはいない。陸軍が日米開戦に傾けば、海軍としても押し切られる可能性は大いにある。
陸軍は海軍よりも兵数・将校の数に勝り、常に海軍よりも優位に立っている。今までに陸軍が海軍を吸収しようとしたことも一度や二度ではないのだ。
蒲生が隆から視線を外し、窓の外に目を向けてポツリと呟いた。
「……どうやら、落としどころが難しくなりそうだな」
蒲生の言う『落としどころ』が何を指すのか、この時の隆には理解できなかった。
陸軍と折り合いをつけることか、大陸での講和条件か、それとも……。
しばらく室内に沈黙が落ちる。
確かに事態は複雑さを増していくが、それが日本の国益の為ならば、やらねばならない。いかに難しかろうと、日本に有利な講和条約を結べるよう戦争に勝たなければならない。
それが軍人たる者の役目だと隆は思った。
隆は蒲生の背中に無言で一礼すると、蒲生の前を辞した。
兵舎の外に出ると、舞鶴湾の空を偵察機が飛んでいる姿が目に入った。
「航空戦力……か」
日本海軍は山本五十六中将の肝煎りで戦力の大拡充が図られている真っ最中であり、今や海軍の新たな主流として台頭しつつある。
最初に隆が所属していた第一艦隊には航空母艦と航空機も編成されており、上海事変においては初めて正規空母による航空戦が展開された。
隆の脳裏には、大空で戦う戦闘機の勇姿が今もはっきりと残っている。
だが、航空機の対艦攻撃能力については疑問視する声も大きい。
航空戦力はあくまでも補助戦闘能力であり、海戦においては未だ戦艦による艦隊決戦能力こそが勝敗を決するとする『大艦巨砲主義』が世界の海軍の潮流だ。
そんな中にあって、日本海軍はいち早く空母による機動部隊を導入する動きを見せている。
――果たして、航空機による打撃で戦艦が沈む日が来るのだろうか。
隆の目には航空機が大空を舞う姿は日本の希望にも見える。
もしも日本が世界に先駆けて航空機による敵艦隊の制圧能力を持ち得ることができれば、圧倒的な戦力を誇るアメリカとも互角に渡り合えるのではないかとさえ思えた。
もっとも、そうした軍備について隆は意見を具申できる立場に居ない。
――俺が考えても仕方がないか
そう思って頭の中から思念を追い払った。
それよりも、次の四月から上海行となれば、また自宅にはなかなか帰れない日々が続くだろう。
――次の休暇は、家族でゆっくりと過ごそうか
そこまで考えた時、既に偵察機の姿は山の向こうに消えていた。
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