第33話 錠、立つ

 マンションの敷地を出たところで、背後から声がした。

「やあ、そろそろかと思ったよ」

 慌てて振り返る錠。

「カルロス……」

「やっぱりそうか。うん、うん」

「散歩に行くんだよ」

「散歩? その手紙持って?」

「ふん」

 錠は黙って歩きはじめた。カルロスはそのあとを着いていく。

 歩くこと数分、近所の小学校に着いた。門は鍵もなく、校庭には誰もいない。照明はないが、通りに面しているぶん、街灯でそこそこ明るかった。錠がレインボー習得のために通った地元のグラウンドのようだ。

 ここはブロックの壁の他に、ゴールもあった。

「極秘トレーニングにはちょうどいいね。さあ、まずは軽く一周しようか」

 カルロスは当たり前のようにトラックを走り出した。錠も無言で続く。

 その後、錠はカルロスの指示を黙々とこなし、三十分ほど休憩も挟まずに汗を流した。

「よし、今日はこれくらいにしておこうか。明日からペース上げるぞ」

 錠は立ったまま膝に手を当て、息を整えながらようやく口を開いた。

「なんで……。なんで俺なんかに」

「日本のため、大好きなみんなのためだよ。勝ちたいから」

 そう言ってカルロスは笑顔で錠に近づいた。錠は下からカルロスを見上げる。

「だから、なんで俺なんだよ」

 カルロスは同じ姿勢で錠に目線を合わせ、そこから腰を下ろした。つられるようにして、錠もその場に座り込んだ。

 夏の夜風が心地よく通り過ぎていく。

「いい風だ。日本のこういうところが好きなんだよなあ」

 カルロスは手で顔をあおぎながら言った。

「僕はユキヤといっしょに日本にきたんだ」

 ここから、カルロスは錠に自分の過去について語りはじめた。

 彼は十六歳のときブラジルでプロになり、その後ユース代表にまでなった。が、二十歳で怪我をして再起不能となった。彼の才能を高く評価していた所属クラブの計らいで、下部組織のスタッフとしてチームに残留したが、挫折感は抜けなかった。

 そんなとき、日本から一人の少年がやってきた。カルロスはその少年を裕福な国の甘ったれに違いないと思った。周りも日本人というだけで相手にしなかった。聞いた話では、日本でも無名だったらしい。

「実際、プレーも大した事なかった。でも、そいつ練習終わっても帰らないんだ。誰もいなくなってもやってるんだよ。毎日ね。僕はいつもグラウンドの隅で飲んだくれてたから知ってるんだけど」

 カルロスは無邪気な笑みを浮かべて、当時を振り返った。彼は施設の管理も任されていたが、練習のあと、いつも遅くまでグラウンドの脇でひとりくだを巻いていた。彼にとってその少年は目障りでしかなかったが、言葉の問題もあり、相手にするのも面倒に思えてほったらかしにしていた。

「でもある日、真っ暗なグラウンドでそいつが泣いてるのに気が付いたんだ。次の日も、その次の日も泣いてた」

 酒がしょっぱくなる。カルロスはその少年に酔った勢いで本音をぶつけた。

「日本で通用しなけりゃ、ブラジルでプロになれるわけがない。お前らには趣味だろうけど、ここじゃみんな生活がかかってんだよ」

 カルロスは彼に、わかったかと言わんばかりに言った。

「そしたら、あいつ、このままじゃ悔しくて帰れないって言うんだ。プロになれるまで日本には帰らない、そう言った」

 日本人がそれまでの生活を捨ててまでサッカーにこだわることがカルロスには驚きだった。

「サッカーが好きなんだ、だからうまくなりたいんだよ」

 少年はカルロスに、真っ赤な目でそう言った。

「恥ずかしかったし、なんか羨ましい気もしたし」

 カルロスは、こいつをプロにしてやろう、そうすることで自分の能力を証明してやろうと思った。

「それから毎日教えたんだ。教えたことができなければ、できるまでやらせた。あいつも食らいついてきた。それもうれしそうに」

 カルロスはこぼれんばかりの笑みをこぼした。

「僕も楽しかった。あいつがうまくなっていくのが、うれしくてしょうがなくてね」

 トレーニング開始からしばらくののち、ユキヤはブラジルでプロとしてデビューを飾った。

「それ以来、僕は誰にでも可能性がある、そう思うようになった。どんな相手でも、先入観を持たないで全力で接すると決めたんだ。ユキヤに教えてもらったことだ」

 錠は膝を抱えて聞いていた。

「そうか、だから俺にも」

 カルロスは錠の漏らした空気を感じ取った。

「錠のこと、加瀬さんからも頼まれてる。責任感じてるだけじゃない、期待もしてるんだよ」

 錠はシューズに目線を落とした。

「加瀬さんもなんで俺を選んだんだろうな。俺なんかに頼るからあんなことに」

「加瀬さんはなぜトモを試合に使っていたと思う?」

 その問いを耳にし、またしても心にわいて出た言葉を錠は押し込めた。

「息子だからってことはもちろんない。ポストユキヤだからってだけでもない。トモは試合前、いつも監督に言われていたことがある」

 加瀬は試合のたびに友近にドリブルで積極的に仕掛けるように指示を出した。突破してゴールを奪えたらベストだが、狙いはそれだけではなかった。

「理由はもう一つ。ファウルをもらって、フリーキックのチャンスを得るためだ」

 錠は、突破を図りそのたびに転倒する友近の姿に思いをはせた。

「監督は結果だけ求めて錠を選んだって言われている。でも、加瀬さんは選出も起用も、いつだって周りを活かせるプレーヤーを選んでいた。本来、今の代表は人から人へつなぐ、つながりのチームなんだ」

 その言葉を聞き、錠にまたも疎外感がよぎる。

「それなら、なおさら……」

「わからないか? 錠もつながりのプレーヤーなんだよ。つながりの最後のピースが錠なんだ」

 錠のなかに友近のあの言葉が浮かび上がる。

『僕が倒されたら、そのあとは錠さんお願いしますよ』

 錠は正面に視線を転じた。見えるのは敷地外の灯りのみ。通りを行き交うヘッドライトに視点をゆだねながら、錠はおそるおそる尋ねた。

「なあ……。俺、やれるのかな」

 カルロスは錠を見た。

「錠はどうなんだ。やりたいのか、やりたくないのか」

 心の奥からそろりと、それでいてまっすぐに答えが浮かび上がる。錠はカルロスの目を見返した。カルロスは白い歯で応える。

「もう、わかってるさ。錠はやれる。気持ちさえあれば、錠はやれるんだよ。その力があるんだ」

 カルロスは言い切った。

 期待を裏切られることをいつも恐れていた。だが、素直にぶつかり、その果てに本当に欲しかった言葉をもらった。錠は手で顔をふき、思いの滴を汗に紛れさせた。

「僕が、なにより加瀬さんが見込んだ選手なんだよ。トモだって」

 膝を抱えた腕に顔をうずめ、錠は消え入りそうな声を漏らした。

「こんな俺に……」

「ブラジル時代、最初に僕が気付かなかっただけで、ユキヤにはそもそも見込みがあった。技術だけじゃない。サッカーへの情熱、それを持ち続ける力、その才能があったんだ」

 カルロスは腰を上げた。

「言っておくけど、同じように錠にも見込みがあったからね。だってあんなすごいキック、何もしないで蹴れるわけない。何もしないでね」

 錠は下を向いたまま、目を見開いた。

 自分に特別な才能はない――。

 アノヒトの置いていったあのボール、

 ドーハで見せた一文字のあの勇姿、

 そして、近所の壁に向かって蹴り続けた日々。

 それらが波紋となって錠の記憶を揺れ伝う。

 導かれただけだ――。

 錠は自分の境遇が、それまでとは違う色に見えはじめた。

 足元を流れるトラックのラインを目で追い、そして錠は立ち上がった。

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