第4話 代表合宿……!

 合宿当日の朝が訪れた。

 珍しく夜のうちに寝つき、外からの明かりで目を覚ました錠は、横になっ

たまま壁を眺めていた。その先にはボンバ大船のカレンダーが、忘れられた

ように掛けられていた。とうに過ぎた月日が並ぶその上のスペースをある男

のユニフォーム姿が占めていた。その勇姿は日々差し込む日の光を受け、段

階的に色あせていた。

 部屋はいつものようにゴミに埋もれていたが、その上には国家公務員試験

のガイドブックとサッカーの教習本が無造作に放られていた。

 やがて起き上がった錠は着替えを始めた。

「近いし……」

 最寄り駅から東ヶ丘球技場までは三十分ほどしかかからない。集合は午後

一時だ。まだ三時間もあった。

 靴をはき、スポーツバッグを背負った錠は、ドアの前でいったん立ち止ま

った。振り返ると、昨晩クローゼットから引っ張り出したものの、目を通す

ことさえしなかった試験のガイドブックが目に入った。錠はすぐに顔を背け、

ドアを開けた。

 外には出たはいいが、まだ球技場に向かうには早すぎる。とりあえずはこの

時間から開いている食堂を探した。丼チェーンやファストフードではいけな

い。大衆食堂だ。駅の向こうにようやくそれを見つけた錠は、のれんをくぐ

るとまずスポーツ新聞を探した。しかしどれも皆、他の客が読んでいる。錠

はひとまず席に着き、注文をした。

 いらつく錠にお構いなく、誰もスポーツ紙を手放さぬまま、カツ丼が来た。

食べながらのんびり待とうと決めた矢先のことだ。

 カウンター席にいる客の一人が新聞をいっぱいに広げながら、手の空いた

店の者に語りかける。

「店長。これ、日本代表のさ、この難しい名前の素人のこと、何か知ってる

?」

 錠はセットでついてきたとん汁をすすりながら、思わず焦った。不自然に

見られまいと、飲むペースを維持するよう努めた。

「あれでしょ。素人っていうか、学生ね」

「ああそう、プロじゃないからつい。まあ、きっとすごいんだろうねえ」

「ユキヤの代わりだもんなあ」

 とたん、お約束のように喉を詰まらせた錠は顔をそらして咳き込んだ。

「謎のシンデレラボーイついにお披露目、だってさ」

 錠はカツ丼をひたすらかき込み、金を置いて外へ出た。

 時計を見ると、十一時前だった。まだ二時間以上ある。錠はイヤホンを耳

に駅前のCDショップや本屋をめぐって歩いた。

 すれ違う若者たちが、代表の話題を口にしている。

「今日だよね、秘密兵器の正体わかるの」

「ああ、そうそう」

 イヤホンから高周波を漏らしながら歩く錠の耳には届かない。

 一時まで三十分を切ってから、彼はようやく駅に向かった。

 電車を乗り継ぎ、東ヶ丘球技場の最寄り駅に降り立った錠は、まず周辺案

内図で場所を確認した。このとき、すでに一時を二十分過ぎていた。

 案内図の示すほうに向かってとろとろと歩いていると、やがてそれらしき

ものが見えてきた。

「あれかあ」

 目の前まで来て錠は一度立ち止まった。そして、ふうと一息ついてから門

を越えた。敷地に入ってすぐ左手に、球技場そのものがうかがえた。

「選手はどっから入るんだろう」

 錠はとりあえず、入口の警備員に尋ねた。

「マスコミじゃないね、どういった関係の人?」

 警備員はいぶかしそうに錠を見やった。錠は紅潮した顔をそらしながら答

えた。

「あの、一応代表に呼ばれて来たんですけど」

「はあ? あ、もしかして。身分証明見せてもらえます」

 錠は財布から学生証を取り出した。それを見るや、警備員はトランシーバ

ーでどこかへ連絡をし、やがて錠を球技場内の更衣室まで案内した。

「ここでしばらくお待ちください」

 更衣室は思ったより広く、整頓されていた。

 周りをロッカーに囲まれ、錠はひとり突っ立つより仕方なかった。閉ざさ

れた空間の真ん中で、とりあえず自分のバッグを開けた。

 そのときだ。勢いよくドアが開いた。

「お待ちしていました」

 スーツ姿の男が慌てた様子で現れた。

「協会の有働です」

「ああ、流本です……」

 有働は錠を上から下まで見たあと、袋から何やら取り出した。

「これが君のユニフォームです」

 自分が持ってきたジャージを出そうとしていた錠は慌ててバッグにしまっ

た。そして有働からそれを受け取り、思っていた以上の青さに目を奪われた。

「さ、着替えて」

 言われるままに袖を通し、首を出した錠は胸に手を当てた。正面真ん中に

大きく二十三番。背中だけでなく、前面にもゼッケンがあしらわれている。

そして弾む鼓動の上には八咫烏のエンブレム。紛れもない、日本代表のユニ

フォームだ。

 錠は有働に連れられ、スタンドの下の通路を通ってピッチに向かった。薄

暗いその先からかすかに注ぐ光が次第に強くなり、やがて目の前に現れた光

景を前に、錠は足を止めた。

 そこは今まで錠が立ったことのあるサッカーグラウンドとはまるで違って

いた。冬の日差しを受けてやわらかに輝く芝の上に、あの選手たちがいた。

 前回の予選からの主力であるキャプテン小原、南澤が先頭に立ってランニ

ングをしている。同じくベテランの大型フォワード高村もいる。さらに日本

の次期エース枡田を筆頭に才能ある若手たち。そうそうたる顔ぶれだ。

 身動きできぬかのごとく立ち尽くしていた錠は、やがて思い出したように

一人の男を探しはじめた。が、なかなか見つけられずにいるうちに、マスコ

ミから一斉にカメラを向けられた。

「おっ、あれ。あれが流本か!」

「おお、ついに現れたな」

 球技場全体がざわめきに包まれる。

「背丈は百七十ちょっとか」

「細いなあ。あれで出れんの」

 カメラマンたちは口々に勝手な批評をしながら、錠をフレームに収めた。

 練習中はインタビューはできない。にもかかわらず、一人の記者が近寄り

質問を投げかけた。

「遅かったね、今までどこ行ってたの」

 錠は少し険しい顔で黙っていた。記者と同じ腕章を付けたカメラマンが、

髪で隠れ気味の顔を撮ろうと前に回り込む。

「困るよ、ニッスポさん」

 ここはそばにいた有働が制した。

 やがてランニングが終わり、選手たちは二人一組で柔軟を始めた。

「さあ、監督に挨拶に行こうか」

 有働はそう言って錠を加瀬のもとに連れていった。

「おお、来たか、待っとったで」

 それは電話と同じ声だったが、ちょっと偉そうに感じられた。錠は憮然と

した表情で軽く会釈を返した。

 アップがすべて終わり、選手たちは監督の元に集合しはじめた。

 錠は監督の斜めうしろに隠れるように立った。まぶしい芝の上をやってく

る選手たちは皆、汗を光らせながら錠を興味深く見ている。錠の鼓動は次第

に高鳴っていった。

 今回初代表は錠だけだ。

「よーし、みんな紹介する。今度加わった流本錠だ。お前らと違ってプロじ

ゃない。いろいろあると思うが、こいつのことはわしを信じて見守ってほし

い。以上」

 加瀬の言葉に、錠の顔はあっという間に赤くなった。実際、そう言われて

も当然の実力だ。むしろ監督は気を使ったのだが、錠のプライドの高さまで

計算に入れる由もない。

「さ、挨拶して」

 有働が肩を軽く押す。

 押し潰されそうな胸の内は行き場を失い、やがて外に向かって逆流した。

「……訪欧大学三年、流本錠。まだ参加すると決めたわけじゃない」

 思わず出た言葉に、和やかな歓迎ムードが一変した。

「なんだ、こいつ」

 ベテラン南澤が吐き捨てる。

「まあまあ、こいつはわしが勝手に呼んだんや。すまんが時間をくれ」

 加瀬は苦笑いしながら、そう言ってフォローした。

 加瀬の合図で、選手たちは険しい顔でうつむく錠を残し、本格的な練習に

入っていった。

「カルロス」

 加瀬はひげのブラジル人を呼ぶと、錠を任せて選手たちのほうへ行った。

「やあ錠、僕はブラジルから来たカルロスだ。日本チームのコーチをしてい

る」

 カルロスに握手を求められ、錠もとりあえず手を出した。

「初めてで戸惑うこともあるだろうけど、素直な心でみんなと接してほしい。

僕も日本に来たときには緊張したもんだよ」

 カルロスの言葉に見透かされたような気がした錠は、余計に眉間のしわを

深くした。

「あ、今日はいろいろ説明するから、とにかく聞いてくれ」

 それから錠は皆から離れ、協会やチームのこと、日程のこと、練習メニュ

ーのことなどを聞かされた。

 今回、日本代表は来年行われるフランスワールドカップの、その一次予選

のために招集された。予選は一次予選と最終予選に分けて行われる。

 まず、一次予選は三、もしくは四ヶ国ずつの十のグループに分かれて戦う。

各グループはそのうちの二ヶ国のみを舞台に二回戦総当りでリーグ戦を戦

い、一位になった国だけが最終予選に進めるのである。

 日本はまず三月に敵地オマーンで、オマーンをはじめとする三ヶ国と戦い、

六月に日本でもう一度その三ヶ国と対戦する。実際、一次予選でライバル

といえるのはオマーンだけだ。他の二つは格下と見られ、実質オマーンとの

一騎討ちとみてよかった。

 日本は一度もワールドカップに出たことがない。四年前、あと一歩と迫り

ながら、最終戦のロスタイムで涙を飲んだ。そのときのことは今もドーハの

悲劇として語られている。それだけに選手も協会も、いや日本中が今回はな

んとしてもという思いに満ちていた。

 代表はこの東ヶ丘で数日間の調整を行ったあと、シンガポールへ渡り、本

格的な合宿に入る。そして、そこからオマーンに乗り込んで一次予選を迎え

る予定になっている。

 ピッチではマスコミもシャットアウトされ、片面だけでミニゲームが行わ

れていた。このチームで言うミニゲームは、二つのチームに別れたうえで、

攻撃側、守備側を固定して戦う実戦刑式の練習だ。

 錠は空いているほうのピッチの脇に腰を下ろし、ゲームに合わせてカルロ

スから戦術の解説を受けた。

 今の代表チームのフォーメーションは最前線にフォワードを二人並べるツ

ートップの布陣だ。体を張ってボールをキープし周りの選手を活かす、いわ

ゆるポストプレーヤーには大型の高村を置き、高村のキープしたボールを受

け取って得点を決めるゴールゲッターをユキヤが務める。

「今のが、左または右から崩して、高村のポストプレーを活かす基本パター

ンだ」

 カルロスはボールを手に持ち、大きなアクションで説明をした。ひとしき

りおおまかな点を話したあと、錠を呼ぶ原因となったユキヤの負傷と、それ

による戦術の修正についても付け加えた。

「フィニッシュを決めるのが攻撃的ミッドフィールダー、いわゆる二列めの

選手たちと、ツートップのもう一人なんだが……。よく言われることだけど、

そもそもこのチームは得点力が足りない。そのなかで、チーム得点の七割

を挙げているユキヤがいないのは非常に苦しい」

 そう言ってカルロスは錠を見た。

「そこでだ。君のフリーキックが必要になったんだ」

 錠はピッチのほうを向いたまま、再び顔をこわばらせた。

「だけど我々のうち、あれを見たのは監督と僕だけだし、しかも一度しか見

ていない。あれが本当に狙って蹴ったものなのか、またどのくらいの確率で

決められるのか、それを聞かせてほしい」

 しばらく間をおいて、錠は逆に聞き返した。

「もし、あれがまぐれだったらどうする」

 カルロスは答えづらそうだったがそれが答だった。

 しばし沈黙が流れたあと、カルロスが言った。

「サッカーは実力の世界だ。わかるだろう」

 あちらのピッチでは激しいなかにも活気に満ちた声が飛び交っていた。ポ

ールには日の丸が掲げられ、はためいている。

 やがて錠も口を開いた。

「あれは俺の唯一の……。百発百中に決まってる」

 そう言うと立ち上がり、カルロスの手からボールを取った。そして、空い

ているほうのゴールを見やり、ボールをタッチライン際にちょんと蹴り出し

た。

「ちょっと遠いけど、まあいいか」

 あちら側のゴール前では、ちょうど監督がゲームを止めてコーチングをし

ている。皆それに注目していた。

 錠はそちらとは反対側のゴールに向かって、助走を始めた。あのとき見せ

たフォームから、その唯一が宙に舞う。

 うなる弾道。

「おおっ、これだ」

 距離的にはちょっと足りなかったが、ボールは勢いよく弧を描き、強くピ

ッチに跳ねたあと、数回バウンドしてネットを揺らした。

「わかった、本物だ。こんなのブラジルでもそうは見れない」

 錠はこの日、初めて笑顔を見せた。

「監督はあのときから見抜いていたんだ。蹴り方でわかるって言ってた」

 それは独特な蹴り方だった。ボールよりかなり前に軸足を踏み込む。そし

て蹴り足は体の後方でボールをとらえ、そこから打ち上げるように一気に振

り抜くのだが、このフォームにはちょっと見ただけではわからない錠なりの

理論が詰まっていた。

「よく考えてるってさ」

 錠はさらに相好を崩したが、すぐに表情を消した。

 ピッチでは監督がコーチングで声を張り上げ、隅から隅まで小太りなボデ

ィで動き回っていた。

「僕が君についていろいろ任されている。よろしく頼むよ」

 カルロスの言葉に、錠は小さくうなずいた。


 合宿2日め、錠は早めに部屋を出た。

 昨日はマスコミを避けてカルロスの車で帰宅した。今朝も協会の関係者が

車で迎えにやってきた。

 他の選手たちは東京近郊に在住の者も皆、同じホテルに泊まっている。練

習後も食事を含めたコンディションやフィジカルチェック、ミーティングな

どがあるからだ。錠だけは自宅から通うことを特別に許された形だ。

 錠は自分が各紙の一面を飾ったことなど知らぬまま、東ヶ丘に直行した。

 メディアに載ったその姿は、髪で顔はほとんど隠れ、本人のコメントも全

くない。依然として、謎だらけの存在であった。

 錠はキャップで顔を隠し、マスコミを無視しながら球技場入りした。

 ロッカールームのドアを開けると、選手たちはすでに到着して着替えを始

めていた。

 昨日の件もあって気まずいなか、錠はあえて堂々と入っていった。が、自

分に割り当てられたロッカーの前まで来て、顔をこわばらせた。隣は、昨年

行われたアトランタ五輪代表の十番を務めた枡田敏之だった。彼はフル代表

でもすでに中盤の司令塔として定位置をつかんでいる。

「よう、大学三年ってことは二十一歳?」

 サッカー界の若きスターであり、ファッションリーダーでもある枡田が話

しかけてきた。

「え? ああ、そう……」

 錠は枡田のほうを見ることができなかったが、言葉はなんとか返した。

「じゃあ、俺と同じだ。岡屋とかも」

「ああ……」

 枡田は以前に錠が無理して買ったブランドの、その最上級品を身にまとっ

ていた。それを軽やかに脱ぎながら、枡田は話を続けた。

「体育会じゃないらしいけど、どこでやってるんだ」

「あ、ああ、サークルで」

 錠は答に困りながらも、会話が途切れないように努めた。

「へえ。じゃあ高校は?」

「地方の無名校……」

「そうか、だから今まで選ばれなかったのか」

 これには言葉が出なかった。

 ここで、枡田の一つ向こうから声がした。

「枡田、そんなやつほっとけよ」

 その主は岡屋弘行だ。岡屋は最近代表に選ばれるようになったばかりだが、

Jリーグおよび代表一の快速を誇る。

 錠は普段のままの、それでいて鋭利な目つきでそちらを見やった。だが、

枡田の小柄ながらも思いのほか厚い身体にさえぎられ、見えたのは岡屋のト

レードマークである長髪だけだった。その髪は何ヶ月か切らなかっただけの

錠よりもさらに長く、ワイルドなうねりがギラツキを放っていた。

 枡田は岡屋の言葉をここは聞き流した。

「俺、いつもアップとかユキヤさんと組んでたんだ。今日から一緒にやろう

ぜ」

「え? あ、ああ……」

 ピッチに出ると、今日もマスコミが大勢来ていた。監督が時間ちょうどに

現れ、練習が始まった。

 錠は全体で行うランニングでは一番うしろをついて走った。

 目の前をいく枡田の異常に発達したふくらはぎに目がとまった。フィジカ

ルが課題といわれる枡田だが、さすがにプロだ。こんな脚は、錠の周りでは

見たことがない。

 その後の柔軟運動では誘われるままに枡田と組んだが、変な意味ではなく、

触れ合うだけで緊張が倍加した。そのあと、互いにボールを蹴り合ったが、

レベルの差は歴然だった。

「予想どおり、いやそれ以上や」

 加瀬は軽く笑ってそう言った。そのそばでカルロスは錠をじっと見つめて

いた。

 マスコミも初めてボールに触る秘密兵器に注目していたが、錠にはそれを

感じる余裕などなかった。ただひたすら慎重にトラップとキックを繰り返し

た。

 枡田がテンポを上げた。錠はとっさに反応できず、脇にボールをこぼした。

「緊張してんのか?」

「そりゃ、枡田相手じゃな」

 マスコミはそう受け止めた。

 監督が指示を出す。

「あんまり見せんほうがええな、もうやめさせろ」

 アップはそこまでとなり、チームは本格的な練習に入っていった。

「流本、お前はいい」

 加瀬が錠を呼び止めた。

「秘密兵器やからな」

 東ヶ丘での合宿の間、錠はカルロスのもと、ランニングや基本的なフィジ

カルトレーニングのみを課せられた。

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