【#1】メイク・ミー・マム(1)
今年の東京の四月は穏やかな空模様が続いていて、花見を楽しむにはもってこいの環境だった。校舎正門付近に植えられたソメイヨシノも、僕はここにいるぞ、とでも言わんばかりに咲き誇っている。鮮やかな暖色が、幻想的なまでの光景を演出していた。
季節はまさに、春真っ盛り。
それは、始業式のクラス替えから一週間も経っていない、そんな四月のこと──。
「ねえ、千景」
その日の昼食時。
俺の右隣の席で、ウサギよろしく野菜スティックをぽりぽり囓っていた女子。
「ちょっと、聞いてるの?」「一応」
ソロで暇そうに食事をしていた様子を見るに、同席していた友人が部活関係の知り合いに呼び出されてしまったみたいだが──残念ながら、俺は作業中だ。暇潰し雑談がしたいなら、他の奴でやってほしい。
「気になってたから、聞くんだけど……最近、色んな女の子ナンパしてるって、本当?」
手元のタブレットへ視線を感じて、そこで俺は、ようやく桐紗の方を見た。
「俺がそんなんするわけないだろうが」
「……そうよね。良かった。ほんと、噂って当てにならないものね」
「ああ。ナンパじゃなくて、デッサンモデルのお願いだ」
「やっぱやってるんじゃない! ……そんな非常識なことして、どういうつもり?」
「知ってるか? 常識って十八歳までに身につけた偏見のコレクションのことを……」
「アインシュタインを言い訳に使わないで」
日本刀で一閃するような、切れ味鋭いツッコミだった──どうでもいいが、デッサンモデルをナンパに脳内変換するのはどうかと思う。世の中の画家に怒られるぞ?
「急にそんなこと始めて、どういう風の吹き回しよ」
「別に深い事情はない。春休み中にふと、神イラストを生み出す糧としてリアル女子を描いてみるのはどうだろうって思いついて、実際にやってみたら新鮮で、構図とか質感に上手い具合に反映できてるから続けているだけ……そんだけの理由だ」
「思いついたとして、普通そんなことする? ああ、目眩がしてきたわ……」
くらり、頭を押さえる桐紗。とはいえ俺の言葉に嘘偽りはなかった。
二年の始業式以降、俺はその辺で見かけてビビッときた女子に声をかけて三十分ほどのモデルを頼んでいるだけ。そして無事デッサンが終わった暁には各々に報酬──純粋な金銭や物の時もあれば、それ以外の時もあるが、そういうのを渡し感謝を伝えて終わり。よってナンパなんて後腐れを生みそうな行為、考えたこともなかった。
「勘違いされるのも面倒だから、改めて言っておく──俺は女子の身体が目当てなだけで、そいつの性格や人間性に一切の興味は無い。そこは信じてくれ」
「こ、言葉だけなら最低すぎるんだけど……」
なんて会話を交わしているうちに、本日Tmitterに投稿するぶんのイラストの、ざっくりとした線画は描き上がった。さて、背景はどうしようか……。
「第一、そんなに参考になるものかしらね。駆け出しの人間ならともかく、もう型が出来上がってる人間なわけでしょ? 効果があるとは思えないんだけど」
「いーや。やってみると、結構良いもんだぞ」
数枚ほど完成させたことでしっかりと理解できたが、リアル女子を描くという行為には、視覚的なもの以上の経験値を描き手に与えてくれる。
個性的なキャラデザを考える時にはデッサン経験が糸口になって閃いたりもするし、肌感や筋肉、骨格の可動域の存在を鑑みても、デッサンドールやイラストアプリケーションの3Dモデルより、現実の女子の方が矛盾無く、細部まで理解することができる。とにかく、リアル女子の協力からしか摂取できない栄養素のようなものは、確実に存在していた。 もちろん女子をいきなり誘ってOKが出る可能性は低く、打率で言うと一割ちょっとだったわけだが──完成後のイラストのクオリティを考えれば、その程度の苦労は許容範囲。
……というか。
桐紗になら、実物を見せて説明してやった方が話が早いよな。
俺がイラストレーターをやっていることを知っている、数少ない相手にならば。
言葉よりもイラストこそが、雄弁に正当性を語ってくれそうだ。
「よしわかった。じゃあ、こいつを見てくれ」
話しながら行っていたラフ画作業を中断し、その後、タブレットでアトリエのTmitterを開いた。どれにするか……よし、これが良い。
昨日の夜に投稿していたイラストが目に入ったので、それを桐紗に見せることにした。
「ちょっ……こ、この絵は教室で見せちゃダメでしょ、色々な意味で!」
角度的に桐紗以外には見えないし、それに、今はそんなことよりイラストに注目しろ。
「例えばこの、ソシャゲで大人気の銀髪ロングのキャラクターだが……タイツ越しのふくらはぎから腰までのラインに注目してくれ。このキャラの筋肉を再現するために俺は、バスケットボール部のとある女子を参考にさせてもらったんだが……これが大正解だった。柔と剛が渾然一体となった筋肉は、たまらないえちえちさを──なんで消すんだよ」
懇切丁寧に説明していたのに、勝手にスリープにされた。
「何を急に語ってんのよっ! ……そ、それに、億歩譲ってモデルにするまでは良い」
億までいったら、それは最早譲ってなくね?
「けど……なんでこの子の格好がバニーガール姿なのよっ!? ……ま、まさかモデルの人に実際に着てもらったとかじゃ……」
「おいおい、そこまで頼むのはいくらなんでも無理だろ。ったく、ちょっとは常識的に考えてくれよな」
「さ、さっき自分で常識がどうこうって……でも、そうよね。流石の千景も、それくらいの常識は持ってるわよね……」
「……まあ、デッサン終わった後で、言うだけ言ってみたけどな。参考までに聞くんだが、バニーガールの衣装に興味はないか?って。ねえわ!ってスポドリぶっかけられて、衣装は当然脳内で補完することになったわけだが……」
「言ってんじゃない、この大馬鹿者っ!」
小声で叫ぶという矛盾した行為を余儀なくされていたせいか、ひどく疲れた様子の桐紗。 最終的に、キッと睨まれた。
「……わかったわ。もう、好きにすればいい。そうやってナンパして、センシティブなイラスト描いて、それで死ぬまで満足してればいいわよっ」
「だからナンパしてねえって……それに、そんな人生レベルで呆れるなよ」
「ふん!」顔を赤くした桐紗は歯ブラシ片手に立ち上がり、教室から出て行こうとする。
「……そういうの繰り返してたら、いつか痛い目見るからね」
捨て台詞を吐き捨てられて、俺は置き去りにされた。
「またやってんの、あの二人」「気にしなくていいよ、あれ恒例行事だから」
……方々で昼食コロニーを形成していたクラスメイトから、視線を感じる。またお前かと、そう言われているかのようだった。特に去年も同じクラスの奴からは、如実に。
今さらだが、桐紗と俺は通じるところも多いが、反対に相容れない部分も多い。
今回は後者だった、ということだな。ペンを握り直してから、からかいすぎたかもしれないと何百回目かの反省をする──要は、反省する気はそんなにない。
「お前また山城怒らせたろ」「そういう作戦か?」「そんで、今日もなんか描いてるし」
線画を再開して、すぐ。
今度は桐紗と入れ替わりで入ってきた男子連中から、声をかけられた。
「あいつは基本的に落ち着いてるのに、たまに感情がバグるんだよな」
「いやいや、俺らには常に落ち着いてるって」「亜鳥が怒らせてるんだよ」「しかも一年の頃からだし」「夫婦喧嘩か」「お互い名前呼びだし、そういう感じなん?」
……その手の弄りに対しては今までの経験上、無視するのが一番マシだった。
なので、しっかりとスルー。黙々とタブレットと向き合い続ける。違う以上認めるわけもないし、全力で否定しようとするとそれはそれでガチ感が生まれるのか、火に油を注ぐことになるし。なんだその絶望の二択、ダルすぎる……。
「つか、亜鳥の席って完全に両手に花だよな。右隣が山城だろ? そんで、窓側が──」
瞬間。
一人の女子生徒が教室の後ろの方の入り口からこっちに歩いてきて、それを皮切りに、さっきまで続いていた男子連中の軽口が、ぴったり止んだ。
シトラスの香りがほんのり香り、心なしか辺りは涼しげな空気に包まれて、それから彼女が、俺たちのすぐ近くを通過していく。
まるで彼女が通った道だけが浄化され、誰も立ち入れない聖域になったかのようだった。周辺の男子は静まりかえり、前の方で昼食をとっていた女子のうちの何人かもこちらの方を見ていて、誰もが彼女の一挙手一投足を、その瞳に焼き付けようとしている。
「──海ヶ瀬さん、だもんな」
俺の左隣。教室の一番後ろの、窓際の席に座っている女子。
名前は海ヶ瀬果澪。
海ヶ瀬とは、去年までは違うクラスだった。だから校内で話すこともなかったし、俺はイラストレーターとしての活動時間を作らなければならない関係で帰宅部を余儀なくされていたので、記憶の限りでは、その他の部分でわかりやすい接点もなかった。
だが。そんな他人の俺でも、海ヶ瀬の並外れたカタログスペックは聞き及んでいたし、わずかな期間を隣の席で過ごしただけで、その暴力的なまでの魅力をわからされてしまった。
華奢で小顔。女子なら誰もが羨むようなスタイルの良さ。ロブくらいの長さに伸ばされた黒髪は墨塗りのように深く艶やかで、瞳は大きく綺麗な二重。シャープな輪郭に整った顔立ちは絶世の美少女という表現でも足りないくらいで、しかも妙に儚げに見える。
内に秘めた能力も総じて高い。冬頃にやった模試では五教科で全国百番以内に入っていたらしく、教師陣から絶賛されていたという話を聞いていた。去年の体育祭では各種種目に参加し、そのどれもで一位をかっさらっていった結果、個人MVPに輝いていた。なんなら、ピアノも弾けるようだ。教師に頼まれて朝会の伴奏を担う、なんてこともしばしば。
さらには、コミュニケーション能力も卓抜していて──。
いや、どうだろう、そこは謎だ。必要な時に口を開くだけで特定の誰かと談笑しているところは見たことないし、いつも自分の席で音楽を聴きながら、スマホを弄っているだけ。キャラ的に言えば、クール系や孤高系に分類されそう。
とはいえ、それがまた透明感のある雰囲気とマッチしていて、周囲からしたら格好いいとか綺麗とか、そういう風に見えるんだろうが……とにかくだ。
一目置かれた高嶺の花。
それが、海ヶ瀬果澪という人間を評するのに、相応しい言葉だったと思う。
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