第4話
次の日、たつきは早朝に起きると、さっさと持ってきていたリクルートスーツに身を包んで、面接に向かう準備をはじめていた。
私は仕事に行く前に、軽くパソコンでメールチェックを済ませながら、横目で眺めていたところで、またも例の出版社からメールが来ていることに閉口した。
「……二回も断ったのに」
現在は娯楽飽和時代だ。普通は一回断ったらもう連絡してこないのに、二回も断っても食い下がってきたところは初めてだ。
私は腕を組んだ。正直、ここの編集部の方針はわからないけれど、少なくともこの編集さんはBLに対してなんの敬意もない。今回の打診は全くBL小説ではないんだけれど、人の書いているジャンルを下に見てくる人が、私の作品を下に見てこないとは思えない。はっきり言って、自分の原稿を預けるのが怖い人に、自分の原稿を預ける人なんていない。
私は三度目のお断りメールを打ってから送信した。
……もういい加減、このメールアドレス通信拒否しようかな。そう思いながら、パソコンを閉じて、仕事に向かう準備をはじめる。
浜尾さんは今日はゆっくりらしく、未だにリビングに姿を見せない。その中でさっさと準備を終えたたつきはキリッとした顔をした。
「それじゃあお姉ちゃん、行ってきます!」
「行ってらっしゃい。頑張って。あと、今日はこっちに帰ってくるんだよね?」
「うん。明日の面接が終わったら家に帰るつもり。だから残り一日よろしく」
「はいはい。気を付けて。あっ、ここオートロックだから、あんたが帰るとき誰もいないかもしれないから、帰るとき連絡して。迎えに行って家に入れるから」
「はあい」
そのまま元気にたつきは面接に出発していった。
ドアのガチャンという音と共に、ようやく浜尾さんがのそっと自室から顔を出してくる。
「あの……妹さん出られましたか?」
「はい。なんか本当にすみません。ずっと騒がせてしまって。明日になったら妹も帰りますから」
「いえ。こちらこそ妹さんに気を遣わせてしまってすみません……自分のこと、妹さんは気味悪がってなかったですか?」
浜尾さんがビクビクしているのに、私は心底申し訳なくなる。ここ、浜尾さんの家なのに、家主がこんなにビクビク震えていないといけないのは、逃げ場がなさ過ぎて駄目駄目だろう。私はおずおずと口にした。
「あのう……もし、浜尾さんに問題あるんでしたら、私が妹を説得して一日だけでもホテルに泊めますけど……?」
「い、いえ……! 自分はただ……女、女性が……苦手なだけでして……か、かしこ先生は、大丈夫なんです! 本当です! 本当にかしこ先生は大丈夫ですから、心配しないでください!」
唐突な告白に、私は目をパチパチさせてしまった。
そういえば、この人私とすら目線が滅多に合わないし、たつきが来た途端に挙動不審になっていたけれど。パーソナルスペースが広い者同士、なるべく互いのパーソナルスペースを詰めないよう努力していたけれど、そういうことか。
……こんなところでまで、共通項がなくてもよかったのに。心底そう思ったけれど、同時にどうしてここまで互いに気遣って距離を取れたのかも、よく理解できた。
私は大丈夫だっていう意味がよくわからないけど、そういうことなんだろう。
「いえ。私もたつきにもうちょっと大人しくしているよう説得しますから。本当に……女性恐怖症なのに、わざわざうちのを泊めてくださってありがとうございます……」
「そ、そんな……! 単純に、俺が妹さんに怖い想いをして欲しくないだけですから! これは俺の身勝手ですし、かしこ先生や妹さんに気を遣わせるほうが……その、申し訳ないです!」
そうあわあわしながら言い放つ浜尾さんに、私は「はて」と思ったが、それは突っ込んじゃ駄目だろうと思って、スルーすることにした。
パーソナルスペースが広い者同士が済むと、互いにくたびれる距離というのがなんとなくわかる。互いに気を遣わない程度に距離を置いて、苦しくない程度に近くにいる。それが居心地がいいということなんだろう。
それはきっと傍から見たら変で歪なんだろうけれど、私たちにとっては本当に居心地のいい距離なんだなと、今更ながら気が付いた。
****
最近の歯科医は歯周病予防や親知らずの抜歯以外の仕事は滅多になく、治療以外の仕事はほぼ全部歯科衛生士に流れてくる。
私はその日の担当の患者さんのカルテを院長先生から回されてきた。私はタッチパネルで電子カルテを見て、それぞれの自分の担当作業の確認を行っていたら、ひとりの患者さんの名前を見て目を見張る。
同姓同名かもしれない。そう思いたかったけれど、生まれた年がぴったり私と一致していた。いくら同姓同名でも、同学年はなかなかいないと思う。
……ここ、地元から離れてるのに。東京なんて広いし、あっちこっちに人が詰まっているのに、よりによってなんでここで会うの。
私の歯がカタカタと鳴り、喉を吐き気が迫り上がってくるのに堪えていたところで「柏原さん」と声をかけられて我に返った。
「最初の患者さんが来たから、歯垢取りして欲しいんだけれど……大丈夫? なんだかとっても顔色が悪いけど」
パートさんに心配されたものの、私は笑顔でゴム手袋を嵌め、マスクで口元を抑えた。
「大丈夫です。すぐ作業しますから」
最近は個人情報保護の観念から、歯科医院のスタッフ全員名前をまず出さないし、いくらマスクで顔を半分隠してたら気付かれないだろう。
私は「失礼します」と治療台に向かったら、既に治療台に横たわってライトを当てられている患者さんがいた。うん年振りですっかりと中年めいた雰囲気になった彼は、化粧とマスクのおかげで、私のことなどまるで気付かないようだった。
器具で歯垢を取り、それをバキュームで吸い上げる。いつもの作業を頭の中で「平常心平常心」と唱えながら行っているとき。椅子の背もたれが揺れたことに気付いて、手を止めた。手元が狂ったら、患者の口腔は簡単に傷付いてしまうから。
私は振り返って気付く。そこにはビクンと震える、男の手。横たわっている患者が、背もたれの隙間に手を入れようとしていたのだ。私が睨むと、患者さんはパッと手を元の位置に戻した。
「ナースさんの椅子が座りにくそうだったんで」
患者さんに、ナースと歯科衛生士と受付の区別がつく訳ない。皆制服を着ていたら一緒に見えるから。私は迫り上がってくる怒りをどうにか飲み下して、努めて冷静な声を上げる。
「……治療状況は全て、確認のために録画しておりますが。院長先生もこちらの治療状況を確認しておりますから」
本来なら治療台を真上から録画しているのは、患者さんの口内をチェックして、院長先生と共有するためだけれど、最近はパートさんやアルバイトさんが患者さんにセクハラやモラハラされてないかの確認のためにも使われている。あまりにひどい患者さんの場合は、ブラックリストに入れるためでもある。
そしてこの手の人は、女だけだと横柄な態度を取るけれど、男の人、それも院長とか店長とか肩書きのある人が出てきたら途端に態度が縮こまる。
「わ、ざとじゃないから!」
「……掃除を続けますから、このまま口を開けてください」
私は胸に冷たいものが走るのを感じた。少し器具を喉に突き刺したら殺せるのに。殺せなくっても、歯茎を刺して痛い思いをさせたり、針を突き刺して放置したりできるのに。
……治療内容を録画されているんだ、こいつだけでなく私だって困るから止めておく。私だってこいつのせいでこれ以上人生滅茶苦茶になんてされたくない。
怒りを必死で抑えて、歯垢取りを終えた。
椅子を元に戻すと、患者さんは逃げるように待合室に出て行った。私はパートさんに片付けを頼むと、マスクとゴム手袋の交換へと奥に向かった。
マスクとゴム手袋を外して、手を洗いながら、私は吐き気を必死で抑え込む。まだ今日ははじまったばかりで、そんなクソな患者ばかりじゃない。ほとんどの人は、無害で大人しい患者さんしかいない。そう自分に必死で言い聞かせるけれど。
死ね。消えろ。いなくなれ。もう二度と来るな。そう怨嗟という怨嗟が頭の中に渦巻いて、気持ち悪くなってくる。
「柏原さん、大丈夫? あの患者初めてだったんだけど、もう二度と来ないで欲しいわねえ~」
「……そうですね」
パートさんはお節介で平気で土足で人の中にズカズカ入り込んでくるけれど、今だけはこの人の恩着せがましさに救われていた。
その日はもう仕事がボロボロで、見かねた院長先生に「今日はもう患者さんそんなにいないから、人手は足りてるから」と早めに帰されてしまった。個人診療所様々だ。
「はあ……」
まだ傾いていない日の下を、私は自転車を走らせて家路に急ぐ。
地元を出たのは、ひとえに地元だと口コミ情報網が形成されていて、なにかをしたらすぐに噂になってしまうからだった。人の口には戸は立てられない。ましてや女の人は口から先に生まれた人が多過ぎる。
だからどれだけ私が被害者であったとしても、被害者だと言われ続けるのは嫌だったし、被害者ぶっているというそしりを受け続けるのだって嫌だった。だったら、もうどっちみち外に出るしかなかったんだから。
向こうは見た感じ、全く懲りてないから変わってないんだろうし、どこに行っても同じことをするんだなと思った。
私がそうぼんやりと考えていたところで、鞄からスマホの着信音が鳴った。慌てて自転車を端に停めて、スマホを取る。
「もしもし」
『あれ、お姉ちゃん仕事もう終わったの?』
「一応は。たつきは? 面接どうだった?」
『多分次の選考まで行けたと思う。掴みはばっちりだった』
「そう。それはおめでとう」
この子だったら、基本的にどこに行っても生きていけるだろうなと思う。私と違ってこの子には闇がないし、そのままそういうしがらみとかなく生きていって欲しい。
待ち合わせ場所を確認してから、私は駅まで自転車を走らせていった。
就活終了祝いは、ぐんと豪勢にしてあげよう。そう思いながら。
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