第5話

 有給休暇の前に、無事に荷物を隣に持ち運ぶ作業は完了した。ずっと危惧していたデスクトップパソコンの移動も、浜尾さんがもろもろ回線を繋いでくれたので、無事完了したのに、私が手を合わせてしまった。


「でもかしこ先生。これ原稿全部入ってるんですよね? 原稿保存どうしてますか?」

「一応パソコンに保存してますが」

「えっ? まさかと思いますけど、ここだけですか?」

「まあ、本当にパソコン駄目になりそうな直前に、HDDに保存してますけど……」

「だだだだだだだ、駄目ですよ! 尊い原稿が一瞬で消えることとかあるんですよ!? 更新もろもろでデータ吹き飛ぶとか、ありますから!」


 普段全然声を上げない人に、声を荒げられ、私はびっくりする。でも私、原稿が保存できずに悲鳴上げた例、新しいパソコン買い立てで更新が止まらなくなったときくらいしか、ないんだけどな。


「……保存しないと駄目ですかねえ?」

「先生の原稿消えたら、全世界の先生のファンが泣きますよ。もしよかったら、クラウドで保存できるよう設定しましょうか?」

「よく聞くんだけど、そもそもクラウドってなに?」

「そこからですか……」


 原稿書くのに使っていても、未だにパソコンのことなにもわからない私につきっきりで、原稿の保存方式の設定を見直してくれ、もろもろの登録を確認してくれた。


「IT関連の人って、すごいですねえ……」


 素直に感想を言ったら、浜尾さんに今にも泣きそうな顔を向けられてしまい、申し訳なくなった。現代人とは思えないくらい、機械に弱くてごめんなさい……。

 有給休暇の一日を使って各方面に引っ越しの連絡を済ませる。

 市役所やら郵便局やら公共料金に関する場所やらにも、住所変更の旨の連絡をして、取引先の出版社にも住所変更の連絡を入れていたら、あっという間に夕方になってしまった。

 今日は連絡しかせず、ひとつも原稿に手を付けていない。そんな私を労ってか、浜尾さんは「あ、あの、かしこ先生」と声をかけてきた。


「すみません……引っ越し早々バタバタしてしまって」

「い、いえ。自分こそこう……なんのお役にも立てず」


 心底申し訳なさそうにしているけれど、そもそも家無き子を回避できたのは浜尾さんのおかげだ。こちらも感謝しかないというのに。

 しかも。浜尾さんはおずおずと尋ねてきた。


「あのう……引っ越し祝いでお寿司を取ろうと思うんですけど、かしこ先生はお寿司で食べれるもの食べれないものってありますか……?」

「へっ?」


 出前を頼もうとしている浜尾さんに、私はますます驚いて、あわあわする。


「い、いえ……! そんな高いものなんて!」

「そんな、今日一日バタバタしてたんだから、おいしいもん食べないと駄目じゃないですか。なんでしたらおごりますし」

「いや、自分で払いますし! そう全部もらうのは駄目です!」

「あー……それも、そうですね。すみません。気が回らなくて」


 浜尾さんはスマホで近所の寿司屋の出前サービスの内容を見せてくれた。最近の寿司屋の出前サービスってどんなものか全然知らなかったんだけれど、どれもこれもおいしそうだ。私は「お寿司は特に嫌いなものもアレルギーもないです。好きなのは、サーモンとか、貝ですかね」と言うと、「じゃあ」と浜尾さんは言う。


「松竹梅とレベルありますけど、どれにしますか? 松・竹・梅の順番で豪華ですけど」

「じゃあ……竹で」

「了解しました。他にサイドメニュー頼みますか? うちも粉末緑茶くらいしかないんで、飲み物欲しいんでしたら頼みますけど」

「粉末緑茶飲みつつ、お吸い物注文するのはどうでしょうか?」

「ああ……じゃあそうしましょうか」


 スマホで注文を済ませると、浜尾さんは私に食器棚の位置や、入っている食器の順番、食洗機の使い方までを教えてくれた。

 すごいな、ストレス溜まったら家事に逃げるという癖が付いていた私にとって、食洗機は文明の機器だ。


「うちにある食器は、全部食洗機で洗えますから、溜まったら付けてくれてかまいませんから」

「ありがとうございます。ありがたく使わせてもらいます」


 洗濯機も乾燥機付きのものだったから、ただただ便利さに呆気に取られた。

 ありがたくも使い方を教わり、お茶を淹れる準備をしていたところで、注文していたお寿司が届いた。ふたりで松ランクの寿司を食べはじめる。

 私はありがたいと割り箸を割って手を合わせてからお寿司をいただきはじめ、ちらりと浜尾さんを見た。

 この人はいろいろと親切な割に、パーソナルゾーンが広い。でも食洗機の使い方や洗濯機の使い方を教えてくれるあたり、私と同じで潔癖性とは類が違うらしい。

 でもいきなり「パーソナルゾーンが広いんですね」なんて話題の振り方をしたら、この人だって困ってしまうだろうと、私は身を小さくしていた。

 ちらりと見ている限り、浜尾さんは私よりもちまちまと食べる。特にお寿司を分解する訳でもなく、ただ食べるのが遅いようだった。私はお吸い物を手に取りつつ「あの……」と切り出した。


「な、なんでしょう!?」

「……私、こうして無事に引っ越しが済みましたけど、なんかここで暮らすに辺り、注意事項とかはありますか?」


 さすがに大昔のBL小説みたいに「同棲の条件は体だグヘヘ」と言われても困る。この人があまりにも私と同じようなタイプだなと判断したから、ここに引っ越してきた訳で。

 浜尾さんは私にそう聞かれて、心底困ったように、目をきょろきょろと彷徨わせた。……さすがに大昔のBL小説みたいな展開は困る。

 そう思っていたら「そ、そうですよね……」と言い出した。


「全く見ず知らずの人に、無償で家に住んでくださいって言われたら、怖いですよね」

「あ、怖いとかそういうんじゃなくって……落ち着かないと言いますか、私が浜尾さん家に住んでなんのメリットがというか……」

「い、いや……メリットなんて、俺からしてみればモリモリありますけど? ただ、それが原因で、かしこ先生が困ると、俺も親切の押し売りみたいになってしまうから焦ると言いますか」


 本当に、なにが? そう言うと、浜尾さんがパンッと手を叩いた。

 ……いや、叩いたんじゃない。拝まれているんだ。


「……正直、かしこ先生の作品に、俺は救われていますから。本当にありがたいと言いますか。尊いと言いますか。もし、かしこ先生の作品が完成しなくなったら俺にとってこの世に光がなくなったように思うというか、それを阻止できて、かしこ先生の次回作をこの世に出せるのだとしたら、いくらでも俺は無理をしますと言うか……」

「いや、無理はしないでください。無理しないでください。お金は大事ですし、時間も大事ですから」

「そ、そうなんですけど……で、でもそうですよね。いきなりそんなこと言われて拝まれたり崇められたりしますと、困りますよね……で、でも。俺にとってかしこ先生に救われたというのは、本当なんです……本当にありがたかったんですよ……」

「いや、拝まないで。崇めないで……いや、ファン辞めてと言うんじゃ無いんですけどね」


 あわあわしながら、とにかく取りやめてもらった。

 どうも私のことを神聖化しているらしいけれど、本当に私自身に対してなにかしら変な目で見たいというのは、全然ないようだ。

 なんだか変な気分だ。

 私の作品を「尊い」と言ってくれるファンはいくらでもいたけれど、それを書いている作者の私を「尊い」と拝まれたのは初めてで、世の中には家族以外に無償の情を向けてくれる人が本当にいるのかという、嬉しいというより先に、戸惑いのほうが勝ってしまっている。


「……ありがとうございます。でもさすがにここに住ませてもらって無償はまずいんで、せめて公共料金代くらいは支払わせてください」

「えっ……かしこ先生から家賃を取るんですか……?」


 途端に浜尾さんは困ったようにおろおろとし出したので、私が慌てて言う。


「折半! 浜尾さんが支払う公共料金全部折半しましょう! これなら、問題ないですよね?」

「ま、まあ……それくらいだったら……別に……でも、本当にいいんですか?」

「いくらなんでも、あまり甘えてしまうのは申し訳ないですし! まさか私の運んできた資料全部預かってくれるなんて思いませんでしたし、感謝しかないですよ」


 そう言った途端に、浜尾さんはふにゃりと笑った。


「それ、なら……よかったです」

「はい……」


 本当に変わった人だな。私はそう思った。


****


 今日はもう忙し過ぎて、原稿はしない。メールチェックだけして、返信が必要な分だけ明日の朝済ませておこう。

 そう思ってメールの確認をし、スパムメールをあらかた消して、返信が必要なもののメールを確認している中、一件取引のない会社からのメールを見つける。

 世の中、仕事のオファーが来る来ないという話はあるけれど、BL小説の場合はほぼほぼ持ち込みであり、オファーなんて滅多に来ない。でも、この会社はたしかBL小説のレーベルなんてなかったはずだけれど。

 新しくつくるとか? 不思議に思いながらメールを開いた。


【乃々原かしこ様

 お初にお目に掛けます、私、クロッカス書房の三宮と申します。

 乃々原先生の著作を拝見し、ぜひともうちのレーベルで乃々原先生の本を出したいと思います。】


 一緒に添付されていたらレーベルコンセプトを見て、ますます困惑する。

 これは……BLじゃない。一般レーベルだ。最近はキャラ文芸とかライト文芸とか、一般文芸よりも少々コミカル寄りな作品も多く出ているけれど、そういう系統からの打診だった。

 それに私は困惑した。

 ……私、セックスなしの本なんて、書いた覚えがない。

 男同士のセックスが書きたくてBL小説書いているのに、一般レーベルで書いたらいろいろまずくないか。


「……断るかなあ」


 お断りメールを送っておこうと、心に決めた。

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