第1話 椿のiPhoneの死

 スマホを左手に持ったまま、向日葵は呆然とした。


 まだ話の途中で突然通話が切れた。椿はなおもまだ話し続けようとしている気配だったので、彼が自分の意思で切ったわけではないと思われる。しかしスマホの画面は通話終了を表示していて、確かにもうつながっていない。


 手を滑らせて地面に落としたのだろうか。どんくさい椿のことだからありえる。そうであってほしい。


 急いで折り返しかけ直した。だがLINE通話はつながらない。電話をかけたら電波が届かないところにあると言われた。いったいぜんたいどうしたことか。


 ぞっとした。


 もし、何か事件事故に巻き込まれていたら、どうしよう。


 うちの夫は人一倍可愛くて美しくておっとりしているから、犯罪に巻き込まれていてもおかしくはない。


「どうかした?」


 里香子に声を掛けられて、はっと我に返った。ここは会社のオフィス、デスクが四つと特に用途を定めていないソファとローテーブルが置かれたフリースペースがある、狭いが慣れ親しんだ里香子の城である。


 時刻は午後五時になろうとしているところだ。暦の上では一昨日冬至を乗り越えたばかりの十二月二十三日で、夜空が訪れるのは不安になるほど早い。ここ数日気温も一月並に寒くて冬を感じる。


 そんな中、本日椿はみかんの収穫のバイトに出掛けていた。向日葵の高校時代の同級生である芹沢せりざわごう氏の親戚のみかん畑だ。沼津市南部、伊豆の西側にひょろりと突き出た西浦にしうら地域にある。沼津駅からはバスで一時間弱かかるらしい。らしい、というのは、地域柄残念ながら向日葵には用事がなく、去年椿の初バイトに付き合って自家用車で一度行ったきりであり、椿が今通勤に使っている路線バスに乗ったことがないからだ。


 日が暮れたらバスで帰る、と言っていた。そして、沼津駅で合流して、一緒に帰ることになっていた。


 その、終わった、という電話連絡が、途中で切れたのである。


「椿くんからの電話だったんじゃないの?」


 向日葵は頷いた。


「でも、切れちゃったんです」

「切ったんじゃなくて? バスが来て急いで乗ったとか」

「そっか、そうかも。それはありえますねえ、もうちょっと何か言ってほしい気もするけど」


 何かを言いかけたところでいきなりブツリと切るのはどうなのか。穏やかで丁寧な彼らしからぬ振る舞いにじわじわ不安が込み上げてくる。そんなに急いで切らねばならぬほどの事情とは何か。


 また、向日葵のスマホが鳴り始めた。今度は普通の電話だ。椿からかもしれない。


 画面を見て、驚いた。

 椿ではなかった。見知らぬ番号だった。0559から始まっているのできっとここらの地域の固定電話だ。

 このタイミングで、誰が、何の用事だろう。

 心拍数が上がった。

 椿絡みの話題だろうか。


「わっ、こわい!」


 向日葵はスマホを宙に突き出した。


「どうした?」

「知らない番号からかかってきた!」

「とりあえず出てみたら?」

「どうしよう、身代金の請求とかだったら!」


 里香子が向日葵のスマホを覗き込む。


「0559からだから沼津市内の固定電話でしょ。どこかのお店か何かじゃない? 何か予約とか取り置きとかしてない?」

「してない、本当に知らない番号」

「クソみたいな用事だったら非通知でかけてくるわよ」

「そりゃそうか」

「警察署だったら下四桁は0110よ。だから警察署でもない。とりあえず出てみなさい」


 冷静な里香子に促されて、向日葵はおそるおそる電話に出た。


『もしもし、ひいさん?』


 椿の声が聞こえてきた。ほっと胸を撫で下ろした。これだけでものすごく疲れてしまった。


「無事ならいいよお……」

『なんやえらい心配させてもうたな。電話かけて正解やった』

「で、どこで何してんの? バス乗ったんじゃないの?」

『それが三津シーの近くのコンビニにいる。コンビニで電話借りた』


 眉間にしわを寄せた。


「なんで?」


 椿は一拍分黙った。


『スマホが死んでもうた』

「えっ?」

『スマホが……電源が入らへん……』

「充電してなかったの?」

『コンビニいるて言うたやん? 充電器借りてるけどあかんねん、いっこも反応しいひん』


 思わず自分の頬を押さえた。


 そういえばここのところずっとスマホの調子が悪いと言っていた。

 椿は骨董品のようなiPhoneを使い続けていた。どうやら大学入学時に買ってもらってから一度も機種変していないという。なんと五年半も使っていることになる。

 向日葵は何度か機種変を促した。だが、椿は面倒くさがってずっと抵抗していた。どうせ向日葵と連絡を取り合うためにしか使わないのだし、と言い張って譲らなかった。Androidの向日葵にはわからない何かがあったのだろうか。

 充電の持ちが悪くなった、と言い出してはや二、三ヵ月、最悪のタイミングで息絶えた。


「それで、バスはどうしたの?」

『モバイルSuicaが使えへんから乗れへんかった』

「モバイルSuicaって、現金は持ってないの?」

『うん……』


 唖然とした向日葵の隣で、向日葵を見つめていた里香子が手を叩いて笑った。


「で、どうする気なの?」

『どうしたらええかな……』


 深刻そうな椿が愛しくなってきて、向日葵は頬を緩めた。


「とりあえずコンビニにいるんだら?」

『うん』

「そしたらタクシー呼んでもらいなよ。で、沼津駅までおいで。わたし沼津駅で待ってて椿くんが降りてきたらその場で払ってあげる」

『ほんまに』

「コンビニの店員さんにそこから駅まで何分くらいかかるか聞いて、そのタイミングに合わせてわたしも沼津駅に移動するから。ほんとは降りたら連絡くれって感じなんだけどその通信手段が死んだだよね」

『そうなんよ……』

「まあいいよ、合流できたらAUショップ行こうね。じゃ、店員さんに事情を説明して、もう一回電話ちょうだい。また後日妻とお礼に来ますって言いなさいね」

『うっ、はい……』


 そうしてそこで一度電話を切った。


 通話終了の画面を見て、顔を上げて里香子を見て、ちょっと黙っていたら、いろんな気持ちが込み上げてきて二人で大笑いしてしまった。


「やってくれるわね」

「ほんとだよ、もー、椿くんてばなんでピンポイントにこういうことやらかすかなあ」

「よかったわよ、コンビニのあるところで。西浦の真ん中だったらコンビニどころか人家もないからね」

「農園の人に三津シーの近くまで車で送ってもらえるんですって。内浦はまだ人が住んでるし観光地ですもんね」

「椿くん、豪に借り作りまくりなんじゃないの? 大丈夫?」

「マジウケる」


 そのあとすぐ折り返しかかってきた。タクシーを呼んでくれる上に、タクシーが来るまで店内にいてもいいことになったらしい。世の中には親切な人がたくさんいる。ありがたいことだ。向日葵はコンビニに持っていく菓子折りを何にしようか考えながらその電話を受けた。


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