第4話 秋の日暮れ、興国寺城通りを歩く 1

 沼津市と北東で隣接している長泉町という自治体があって、そこで果樹をいろいろ育てているらしい。

 今日は祖母花代の高校時代の広大な地元女子ネットワークを通じてその町から柿が送られてきた。

 もうそんな季節か。日中はまだまだ30℃を余裕で超えるほど暑いが、言われてみれば、35℃を上回ることはなくなったし、日が暮れるのは早くなった。

 椿は柿が大好きだ。買い置きできない食品なのが惜しい。また送られてくるだろうか、と思ったが人様に送ってもらうのを催促するのは卑しいので口には出さない。


 その柿を、祖母に、由樹子伯母にいくつか持っていくように、と言われた。


 またお使いか。


 柿を四つ入れたお買い物バッグを左手に提げ、傾き始めた陽光を背負って片道二十分の道のりを歩く。日差しが背中に当たってうなじのあたりが痛い。もう夕方だからと思って日傘を置いてきたのは失敗だった。紫外線よ、もう勘弁してくれたまえ。


 ブロック塀を曲がって伯母の家にたどり着いた。

 門を勝手に開けて玄関に近づいた。

 チャイムを鳴らす。

 いつもどおりの伯母の声がする。


『はーい』

「椿です。おばあちゃんにいただきものの柿を持っていくように言われてきましてん」

『はいはーい。今開けるからね』


 チャイムの電子音がぶつりと切れた。そして、ドアの向こうから伯母の少し重そうな足音が聞こえてきた。ややして、がちゃ、がちゃ、と鍵が二箇所開ける音がする。これが昭和の一戸建ての家の音だ。


 ドアが内側から開いて、由樹子が顔を出した。


「上がってく? 今日チョコパイしかないけど、お茶淹れてあげるよ」

「なんや僕この家来るたびおやついただいてしもうて、お菓子貰いに来る子供みたいやないですか」

「いくつになっても子供は子供だよ」

「僕ユキおばちゃんと知り合うたの去年やで」

「甥っ子姪っ子その配偶者はみんなあたしの子供みたいなもんよ」


 厚かましい。静岡のおばちゃんのこういう馴れ馴れしさにはいつになっても慣れない。だが拒絶するのも感じが悪い気がして、とりあえず屋内に柿を置くぐらいまでは相手をしようかと思う。チョコパイということはきっと個包装の市販品だ、食べずに持って帰ってもいいだろう。


 ドアの内側に入った。


 椿はつい、「あ」と呟いてしまった。


 玄関ホール、玄関マットの上に、ベリーが座っていた。


 由樹子がベリーに声をかける。


「ほら、お客さんだよ、ベリー、お客さん好きだら」


 しかしべリーは二度ほど、ぱたり、ぱたりと尾を振っただけで、今日は飛びついてこなかった。その様子がどうも愛想笑いのように見えた。


「……お邪魔します」


 椿が玄関を上がると、ベリーはその場に伏せてしまった。椿にじゃれついてこない。


「ベリー、どうしはったんですか? 元気あらへんように見えますが」


 由樹子が溜息をついた。


「柊平が出ていってからずっとこうなの。毎日毎日何時間でもここでこうして伏せてて。たぶん柊平が帰ってくるのを待ってるんだと思う」


 こんな、おもちゃもお菓子もない、暑い玄関で、何時間も。

 何日も、何年も、ひょっとしたら自分の命が尽きても帰ってこないかもしれない本当の主を。

 永遠に、永遠に、待っている。


 その姿を見て、けして鳴ることのないスマホの画面を眺め続けていた自分の半年を思い出した。

 もしかしたら、自分を恋しく思った向日葵が通話を求めてくるのではないか。もっと期待するなら、今京都駅ついたよ、という連絡が入ってくるのではないか。

 永遠に、そんな日は来ないのだけれども。

 来る日も来る日もスマホを握り締めてぼんやりしていた自分のことを思い出した。


 そうか、自分はベリーに感情移入をしているのか。愛しいパートナーの姿を待ち侘びる自分の姿を重ねているのか。


 ずっと、ずっと、待っている。


 椿は待ち切れなくて京都から沼津まで新幹線に乗ったが、サウジアラビアと日本は新幹線では行き来できない。


「可哀想だけどねえ」


 由樹子が彼女らしからぬぼそぼそとした声で言った。


「そうだ、ベリーを散歩に連れていってやらなきゃ。椿くん、一緒に来てくれる?」


 断れなかった。少しでもベリーに寄り添ってやらなければならない気がした。椿がそうしたところで、椿は柊平ではないので、ベリーはきっと喜ばない。けれど少しでも、誰かが心配している、ということを知ってほしかった。

 そう思って、椿はひとつの気づきを得た。

 心配――自分はそんなことができるようになったのか。ついこの間まで世界中どこを見渡しても向日葵以外のものに心を動かされることはなかったのに、今日の椿はたかだか犬ころのために暑い外を歩こうとしている。


「行きます」


 そう言って、由樹子がベリーの首輪にリードをつなぐのを待った。




 二人と一匹は住宅街の隙間を抜けて興国寺城こうこくじじょう通りにたどり着いた。広い大通りは夕方の帰宅ラッシュを迎えていたが、整備された歩道があるのでかえって安心だった。


 時々自転車に乗った小学校高学年と思われる大きな子供とすれ違う。ベリーを見た子供が「でっけー」「強そう」と呟くのが聞こえる。


「自転車じゃなければ、撫でる? って声をかけるんだけどねえ」


 ベリーは由樹子の足元にぴったり寄り添っていた。リードなどなくても飛び出しはしないような気もするが、そこはマナーだ。だいたい椿もこの間飛びつかれて怖い思いをしたばかりではないか。ベリーは善意でも犬が苦手な人もいる。まして成人男性レベルの大型犬ならなおさらだ。


「おとなしいですね」

「昔っからこんな感じだよ。おとなしくて賢い犬だよ。子供の頃の大樹のほうがよっぽど落ち着きなくてうるさかったよ」


 目に浮かぶようだ。


「寂しいねえ」


 由樹子がぼそぼそと言う。


「置いていかれちゃったね、ベリー。ばあばがいるから大丈夫だけどね」


 ベリーは何も言わずにまっすぐ前を見て歩いている。


「柊平さん、どうですか? 何か連絡ありました?」

「最初の三日ぐらいは毎日連絡くれてたよ。写真とかも送ってきてくれて。エアコンと加湿器さえあれば快適って言ってたね。あとガソリンがバカ安いから車を買おうかとか、一人暮らしだけど出稼ぎのパキスタン人を雇って掃除とか頼もうかとか、なんか思ってたよりすぐ馴染んだっぽい。もともとまめに連絡してくる子じゃないし、仕事の付き合いが始まったら頻度ががっくり落ちたけど」

「そんなもんなんや」

「代わりにベリーの様子も送ったりしてね。まあ、さすがに毎日あんたの帰りを待って玄関にいるよ、とは言えないけど。心配させるら」


 椿は頷いた。


「……心配だよ」


 柊平はよくても、こっちはよくない。


「令和の世の中でよかったよ。ネットがない時代だったらこんなふうに連絡を取り合えなかっただろうからね。今はデータ通信さえできれば日本にいた時と同じアプリでやりとりできる。いい時代になったよ」


 インターネットのおかげで世界は一瞬でつながれるようになった。時差さえ克服できればビデオ通話も可能だ。それもwi-fiで無料である。国際電話料金を気にすることすらない。


 だが、ベリーと一緒に散歩は行けない。



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