ぼくの内部をじかになぞって。

ぼくの内部をじかになぞって。


 目次

第一章【入れたがり、よがり、入れられたり】

第二章【疲れたり、怒り、使われたり】

第三章【痺れたり、くたり、縛られたり】

第四章【潰れたり、ぴたり、すくわれたり】




第一章【入れたがり、よがり、入れられたり】



 舞う花びらを捕まえる。ゆびでつまんで、丸めて弾く。川沿いの土手にある桜並木だ。おととい満開に咲き乱れたばかりだというのに、豪快に桜吹雪を舞いあげている。風はそれほど強くはないが、きのう、おとといとつづいた暖かさが嘘のようだ。

「マフラーしてきてよかったね」

「そうだね」

 彼女に言われて防寒をしっかりしてきた。いつだってさくらの言うことは正しい。たとえ間違っていても正しいと思わせる何かがある。

 桜の木の真下にくる。何気なく幹に触れると、巨大な爬虫類のようで、その肌触りに驚いた。

「生き物みたいだ」

 つぶやくと、植物だって生き物だよ、とさくらが笑った。

 夜空を仰いでみるも星は見えず、宙を埋め尽くさんとする桜の花びらは、鳴りやまない拍手にもみえた。夜空の存在を忘れさせるに充分な妖艶さを振りまき、こちらの気分を高揚させる。蜜雨(みつう)富義(とみよし)はその胸の高まりを勇気だと信じて疑わず、半月前からずっと胸中にわだかまらせていた言葉を、さくらへ向けて吐きだしていた。

「あした、婚姻届をもらってこようと思う」

 渡すはずの婚約指輪は家に置いたままだ。まさか今夜言うとは思ってもいなかった。

「それ、プロポーズ?」

「いちおう、そのつもり」

「なんだろう、あんまりうれしくない。婚姻届だって」

 もっとほかに言いようがあったでしょうに、と彼女の瞳は訴えている。

 だが、言葉とは裏腹に口元はほころびている。出会ったときから変わらない。よろこびをうまく表現できない女なのだ、さくらは。

 桜並木は、その満開に咲き誇らせた花嫁衣装が一夜だけの魔法だったかのように、つぎに目にしたときには丸裸になっていた。追剥にでもあったかのような空虚な木々から、やわらかな新緑が萌えはじめた時分、富義とさくらは夫婦になった。

   ***

 クラウドサービス上の情報統括を人工知能が担うようになってから、はやくも五年が経過した。富義の勤める下請けの管理会社のやることといったら、主として顧客のセキュリティに穴が空かないようにと、日々湧いて出てくるウィルスやバグに逐一対応し、サービス向上に努めることに終始している。

 ディスプレイと睨めっこをしていると、視界の端に、植木の毬栗頭がくすぶった。

「先輩、ちょっといいスか」

 東洋人ばなれした彫の深い顔が近づいてくる。「作業進めながらでいいんで――金曜の打ち上げについてなんスけど」

「今じゃなきゃダメか」

「だって先輩、先方に出向くんじゃないスか、このあと」

「もうそんな時間か」

 時計を確認すると、針が一三時三〇分を示している。「おかしいな。この時計、狂ってないか」

 さきほど目にしたときはまだ午前七時だったはずだ。部屋を見渡すが、どの時計も午後一時半を粛々と刻んでいる。

「だいじょぶスか。三日目スよね徹夜」

 三徹を経験してからが新人だ、と教えてくれた先輩は、「三徹を恐れなくなってからが一人前だ」という箴言を遺して亡くなられた。脳溢血だという話だったが、富義から言わせれば過労死以外のなにものでもない。

「まずいな」

「仮眠とったらどうっスか。死んじゃいますって本気で」

「そうだな。死ぬ前に終わらせないと部長に殺される」

 納入期限があと二日に迫っているというのに、進捗具合は未だ八割に留まっている。すでにプログラムとしては組みあがっているとはいえ、この最終チェックが中々どうして手に負えない。担当分の作業を終えた同僚たちは肩の荷が下りて、さぞかしせいせいしていることだろう。だからといってこちらの邪魔をしていいという道理は通らない。

「それで二次会まで来てくれるんスよね。幹事なんスから当然スよね」

「この作業が終わらなけりゃ、打ち上げもクソもないぞ」

「終わりますよ。だって先輩ですもん。遅れるわけないじゃないっスか」

「その信頼はうれしいが、だったらなおのこと邪魔しないでくれ」

「えぇひどくないスかそれ。先輩が忙しそうだからってオレ、打ち上げの手配いろいろやってあげてるんスよ。その言い草はないっスよ」

 ああ、うるさい。

 いちど手を止め、眉間を揉みながら植木に向きなおる。「それは助かるよ。で、なんだって」

「だから、二次会に来てくれるんスよねって話ですって。みんな先輩を労いたいんスよ。先輩、いつも帰っちゃうじゃないっスか。だから今回は幹事だってこともあるし、さすがに帰りませんよねって、確認をっスね」

「店まで案内したらすぐ帰るよ。新婚なんだ、大目にみてくれ」

「みれないスよ。だって結婚されたのって一年も前じゃないスか。新婚を語れるほど初々しくはないっスよ。しかも、最初のうちは来てくれてたじゃないっスか結婚されてからだって」

「結婚してから、熱さが増した。アツアツなんだ」

「奥さん偉いっすスね。先輩のそういう台詞聞いても引かないんスから」

 植木は笑い、アツアツ、アツアツ、とからかうようにつぶやいてから、二次会考えておいてくださいね、と念を押し自分のデスクへと戻っていった。外回りの帰りだと言っていたが、息がすこし甘ったるかった。またぞろカフェに入り浸って、パフェでも食べてきたのだろう。植木はできる後輩だが、そうした規律に関して多少なりともゆるいきらいがある。

 打ち上げか。

 考えるだけで胃が重くなる。今はそれどころではない。一五時からの会議に間に合うように、最終チェック作業を終えなければならない。

「あと一時間か」

 とうてい終わるとも思えなかったが、終わらせる道しか残されていないのもまた事実だった。


 取引先での会議では企画書を練った部下に任せきりで、富義はほとんど意識を失っていた。火事場の馬鹿力というのだろうか、プログラムの最終チェックはいちおうすべてに目をとおしてきた。部長への引き継ぎを終え、朦朧とした意識のまま部下に引きずられ駅前の取引先本社まで赴いたのが三十分前のことになる。

 目を開いたまま睡眠をとれてこそ一端の社会人だ、と嘯いた同期がいたのを思いだす。彼女はその後、飛蚊症がひどくなり危うく失明しそうになったのを契機に、きちんと目を閉じて眠るようになった。しかし、上司のまえでも目を閉じて眠るようになってしまったので、間もなく会社を辞する破目となった。部署のみんなは寿退社だと信じているが、実際のところは職務怠慢による馘である。ことの真相を知る者は、まったく意に介さない当の本人と、彼女に馘を告げた上司、そして彼女を妻として迎え入れた富義のほかにいない。

 以来、失明するのが恐ろしいくせに、取引先の重役をまえにして、目を閉じて居眠りをする度胸のない富義は、目薬を手放せない生活を強いられている。

「では、これから忙しくなると思いますが、よろしくお願いいたします」

 会議が無事終えたようだ。夢うつつに耳にした取引先重役の言葉を聞き、我に返る。部下の粘り強い交渉もあってか、これから具体的な提携へと向かい手続きが踏まれていくこととなる。雪原に刻まれる足跡が、一本の道のように、延々と春の野までつづいていくような印象を覚える。

 欠伸をすると、

「寝てたんですか。勘弁してくださいよ、もう」

 退室したあとで部下に睨めつけられた。咎めるというよりもむしろ泣きごとにちかい響きがあり、事実部下は今にも泣きだしそうな面をしていた。

「すまんすまん。だが、これも信頼の表れだと思ってほしい」

「思えませんよ、まったく」

 軽口を叩きつつも足どりの軽い部下の背中を見て、つくづく思う。私は仲間に恵まれている。

 ほっと一息ついた様子の部下を帰社させ、「役立たずの上司はさきに帰ったと部長に伝えてくれ」と言い添え、富義は、そのまま帰宅の途についた。

  

 そのマンションは川沿いに立っている。築七年と比較的新しい物件で、駅や小学校が近くにあるなど、立地条件が良く、そのうえ値段もほかのマンションと比べたら格段に安く、正に優良物件と言えた。

 だが実際に住んでみると、マンションの裏手に延びる架橋から定期的に響いてくる電車の騒音がわずらわしく、またその騒音のもたらす微振動が家具をカタコト鳴らせ、これがまた神経に障る。

 ベランダから凝望できる河川も、水がきれいというわけでもなく、夏になるとヘドロにも似た臭気がマンションの内部にまで侵入してくる。年中湿気が多く、じめじめしており、また、蚊などの虫も多く散見され、夏季はマンションが巨大な蚊取り線香か何かのような有様になる。臭いはもとより、地面を覆い尽くさんとばかりに転がる虫の死骸がまた、視覚的な嫌悪を催させる。

 妻はまだ「引っ越し」の四文字を口にださない。購入したのが一年前なのだからそれも当然だ。入籍したその足で新居をここに構えた。移転したあとに残る借金のことを思えば、言いたくとも言いだせないはずだ。或いは、それ以前の問題があるのかもしれない。

 それはそうだろう、と富義は重い足取りで自宅の敷居をまたぐ。

「ごめんね、またシチューなの。きのう作りすぎちゃったみたいで」

「いいよ。美味しいから」

 テーブルに着きながら、部屋を見渡す。とくに何か意図があるわけではないが、ちょっとした変化でもそれを見つけられれば話の肴にできるだろう、といった打算的な考えがこの半年、富義の思考に染みついている。

「その花瓶、どうしたの。新しいよね」カウンターのうえの花瓶を示す。三日前にはなかったように思う。

「あ、それ?」

 さくらがシチューを器によそって運んでくる。食事の手伝いをさくらはあまりよろこばない。いつもこうしてお客さん気分を味わうことになる。本来なら手放しで感謝しなければならないのだろうが、精神的に心地よいとは言えない居心地のわるさがある。

「それね、きのうの帰りに見つけて、いいなって思って買ってきちゃった」

「いいと思うよ。ジムの帰りにかい」

「ジムじゃないよ。ダンススクール」

「そうだったね。いつもの骨董屋さん?」

「骨董屋じゃないよ。バザーズロック。ロッカーみたいな狭い空間を貸しだしてて、そこでちいさなお店をひらけるの。ちっちゃなバザーみたいな感じ」

 月五百円で借りられるそれは、売り上げの三割を店側に献上することで、誰でもブティックを開けるという仕組みであるらしい。話は前にも聞いていたが、そのときさくらはまだ十割客だったはずだ。口ぶりからするに、彼女もバザーに参加しているのだろう。

「で、儲かった分で、それを買ったの」

「いいね。ステキだと思うよ」

「わるい、なんて言ったら引っ掻いてたよ。じゃあ、食べよ。いただきまーす」

 手を合わせるとさくらはさっそくスプーンでシチューを掬い、口へ運んだ。「うん、おいしい」

 富義はそれを見届けてから、三日ぶりの家庭の味を胃のなかへ流しこむ。

 

 特定の相手への恋愛感情は三年間しか保たれない。いつぞやに目にした雑誌の恋愛特集で、脳科学を専攻する学者がインタビューにそう答えていた。学者がどれほどその主張を真面目に論じていたのかは、さほど熟読しなかったので判然としないが、学者が言うのだから、ある程度の信憑性はあるのだろう。恋愛感情の消費期限が三年間だとすれば、世の大部分の夫婦が上手くいかないのも納得だ、とさえ感じた。

 しかし、夫婦というものは、恋愛感情を得たさきで、恋を愛へと昇華し、それをさらに深い絆へと繋げ、結ばれた存在――いわばそれが家族というものだろう、と富義は考えている。

 恋人と夫婦はちがう。だからといって、夫婦になったから愛人をつくってよい、と考えたりはしない。浮気はもちろんのこと、不倫はいけないことだ。

 富義の考えでは、浮気は、本命以外の相手に恋慕の念を寄せることで、不倫は、きもちはどうであれ本命以外と肉体関係を結ぶことだと明確に分けて捉えている。

 妻のさくらと夜の営みをしなくなってから、はやくも半年が経とうとしている。客観的にみれば、こちらの仕事がいそがしく、そんな余裕がない、と解釈できるかもしれない。だがそれはちがう、と当事者である富義にはよく分かる。

 原因があるのだ。

 さくらは怒っている。当然の怒りだ。

 半年前に、富義は不倫をした。ばかなことをした、と臍を噬んでも噬みきれない。

 あのころはすべてが順風満帆だった。さくらと結婚し、会社での昇級も果たした。公私ともに上手くいっていた。生きるしあわせを日々感じ、取引先で土下座することにも悦びを見出せた。

 部下が初めて大きな取引を成立させたのもちょうどそのころだった。打ち上げで富義は羽目を外した。勧められるがままに酒をあおり、おだてられるがままに気を大きくした。

 すべてが順調だったのだ。間違いなど犯すはずもない。過失を仕出かすかもしれない、と考える以前に、疑う必要性を感じなかった。

 気づくと、派遣社員の女に介抱されていた。彼女は富義よりも五つほど歳下で、社会人というよりも専門学生といった感じの、取引先には間違っても連れてはいけない、目をつむって積み木を組み上げたような危うさを前面に押しだした気の明るい女のコだった。部下の部下といった扱いだったが、雑用を一身に引き受けてくれており、彼女もまた契約成立のうえでは欠かせないメンバーの一人だった。

「みんなはどこだ」やけに静かな場所だった。思った以上にアルコールが抜けておらず、視界も定まらない。薄暗かったので、バーかどこかで酔いつぶれたものかと考えた。

「大丈夫ですか。だいぶ酔われていたみたいなので……休んだほうがいいかなってミカ思って」

「ああ、ありがとう」額に手を当てる。鼓動に合わせ頭痛がした。頭の奥で小人が屈伸運動をしているかのようだ。「タクシーで帰るよ。きみも乗っていくといい」

「課長って」

「ん?」

「課長って、奥さんを大事になされているんですね」

 彼女はメディア端末を手にしていた。富義のものだ。上着に仕舞っていたはずだが、彼女が脱がしてくれたのだろうか、富義は上着を羽織っていなかった。ディスプレイには、妻との写真が表示されている。待ち受け画面だ。パスワードが解かれなくとも、端末に触れるだけで見ることができる。写真は、妻とふたりで赴いた水族館で、ペンギンを挟んで撮ってもらったもので、数年後にはここに子共がいたらいいね、とささやきあった思い出深い品である。

「やっぱり、浮気とか、しなさそうですもんね。課長」

 言いながら彼女はこちらの胸に頬を押しつけるようにした。体重をあずけてくる。ドミノが倒れるように、ふたつの身体が傾いていく。

 富義は焦った。ベッドのうえだったからだ。ベッドのうえに仰向けになり、さらにそのうえに若い女性が寿司ネタのように乗っている。ベッドと暗闇と、抜け切らないアルコールと若い女。これ以上ないくらいに、あってはならない組み合わせだった。なかなかに美味しい状況でもあった。

「ここは、きみの家か」半ばこの場所がどこか判っていても、口にするのは憚れた。ピンクの明かりが妖しく彼女の髪を照らしている。

「奥さんがうらやましいなあ。ミカ、きょうだけ課長の奥さんになる。ね、いいでしょ。これなら浮気にならないもん。だから、ね?」

 彼女も酔っているようだが、理性がふやけるまで泥酔しているようにはみえなかった。だからかもしれない。とっくに理性のふやけきっていた富義は、彼女の言葉を真に受け、なるほど彼女をさくらと思えば浮気にはならないな、と合点し、腹のうえで脱ぎはじめた彼女の控えめな胸に手を添えた。

 なるほど。

 このてのひらに納まる程度のこぶり感は、まさしくさくらだ。

 血中に漂っていた寸毫の理性までもが股間へと凝縮され、またたく間に奪われた。

 気づいたときには裸の派遣社員の女と、同じく裸の、妻を裏切った男がラブホテルの一室で朝を迎えていた。

 ばかなことをした。

 妻をいくら愛したところで不倫は不倫だ。たとえあれが浮気でなかったとしても、なんの言い訳にもならない。

 朝はそのまま出勤し、夜になって帰宅した富義は、妻にじぶんの罪過を打ち明けた。

「すまない。やってしまった」

「え、なに!?」

「不倫だ。ほかの女性と寝てしまった」紡ぐ言葉に気を払っているからか、演技がかった口調になる。

「誰が? よっちゃんが?」

「そうだ。私だ」

 憶えているかぎりの顛末を、できるかぎり嘘偽りなく、克明な描写を心がけて語った。それこそが妻への誠意だと信じて疑わなかった。

「というわけで、私はきみを裏切った。ゆるしてほしい」

「死んじまえッ!」

 妻は怒った。当然の怒りだ。

 ばかなことをした。

 富義は未だに臍を噬む。不倫を犯したこともそうだが、それをバカ正直に打ち明けたじぶんのバカさ加減にもうんざりしている。あの日以降、妻とは身体を重ねていない。出てくる料理もシチューばかりだ。

 

 どうすれば妻との仲を修復できるだろうか。富義は頭を悩ませる。時間が解決してくれるものかと、当初こそお気楽に期待していたものの、何の兆しも見えないまま半年が経過した。このままではいけない。焦りばかりが募る。いや、焦りばかりではない。精神的な疲労が富義の妻への愛情に、まんじゅうに生えた黴のような陰りをちらほらと見せはじめている。

 家へ帰るのが億劫に思うようになり、妻と顔を合わせるのが苦痛に感じられてきた。

 会社で平穏な昼食を摂っているとき、ふいに離婚の二文字が浮かんでくるときがある。

 だが、これらはすべてじぶんの過失だ。私がわるい。妻への不信や不満はすべて、じぶんに非があるのだ、と富義はすなおに認めている。

 妻への愛は冷めていない。冷めかけているだけだ。たとい、愛というものがいつかは冷めるものだとしても、じぶんが過ちを犯さなければ、かつて燃え盛った炎は、そのあとに、かけがえのない絆を生みだしてくれたはずだ。さながら竈から出てきた鮮やかな陶磁器のように。愛は、絆を固めるための熱にすぎない。

 散々悩んだ挙句、富義は決意した。

 子供をつくろう。

 妻との関係に空いた間隙を埋めるには、ほかの要素が必要だ。もう、ふたりだけでの修復は不可能に思われた。他者ではダメだ。地球上に息衝く八十億の他人なんて、ことごとくが能天気に毛の生えたようなアンポンタンにほかならない。みな自分がよければそれでいいと思っている。私と同じだ。そんなアンポンタンに重要な使命は任せられない。ならば、と富義は考える。じぶんたちでその間隙を埋める存在をつくりだすよりない。

 妻にその意思がなければ何をやっても無駄だと思った。確かめたかった。妻はもう、じぶんに愛想をつかせてしまったのだろうか。それともただ不信感を募らせ、怒りとも呆れともつかない感情が、こちらへの愛を急激に冷まさせ、妨げているだけなのだろうか。

 今夜、いや、今週いっぱい粘ってみよう。拒まれたならそれまでだ。そういう運命だったのだと諦めよう。だがいくら拒まれようとも、今週いっぱいは何があっても妻を求めようと富義は臍を固めた。

 打ち上げの二次会には参加しなかった。

 植木からの責めるような視線から逃がれるように、帰宅する。

 妻の横たわるベッドに潜りこむと、いちどだけにべもなくつっぱねられた。あんなばかな真似はもうしないよ、私にはきみだけだ、と心の底から求めてみると、妻は初日のうちからこちらの想いに応えてくれた。

 身体が火照り、鼓動が高鳴って感じられる。妻の首筋にくちびるを押しあてると、この胸の高鳴りはじぶんだけのものではないのだ、と判った。

 富義は胸を撫で下ろした。妻もまた、きっかけを掴めぬままに、悶々とした想いと不安を、その身に抱えこみ、その実、身体の奥底、心のうちでは、私を深く求めてくれていたのだ。

 半年振りに触れた妻の秘奥は爛れてしまうほど熱く、溺れるほど瑞々しく、そしてなにより、あの夜に見あげた満天の桜吹雪のようにせつないほどの愛おしさに溢れていた。

   ***

 息子が産まれると妻は、つぎは女の子がいいな、と言って娘をねだった。人生設計からすれば、あと二年は待つべきだと考えたが、しあわせそうな妻の顔を見ているとはやくその望みを叶えてあげなければ、という使命感に駆られた。

 翌年には、待望の娘が産まれた。

 こんなにしあわせでよいのだろうか。富義は不安になった。人生というのは上手くできており、善いことはつづかず、必ずと言っていいほどあとにはわるいことが待ち受けている。三年前もそうだった。富義は自戒する。じぶんはどうにも、しあわせを噛みしめすぎて視野が狭くなるきらいがある。気をつけなくてはならない。

 不倫相手となった件の女は、会社との契約が切れたのを境に、富義のまえから姿を消した。やってきた渡り鳥が、湖に住まうカメを気まぐれに啄み、春になったので飛び去った、といった具合の後腐れなさがある。

 据え膳をまえに魔が差したのは間違いない。だが許されるものならば富義はこう言いたい。魔に差されたのだ、私はむしろ被害者ではないか、と。

 解っている。これは思ってさえいけない自己肯定だ。今さら口にしたところでどうにもならない。

 それに、と尖りかけた心を落ちつかせる。今はもう、こちらへ鋭利な嘴を向け、いたずらに突いてくる者はいない。なんの問題もない。ふたたび人生は大きく張った帆に追い風を受け、快調に進んでいる。

 こここそが正念場だ。

 気を引き締める。

 この追い風を余すことなく甘受し、しあわせを噛みしめていくのだ。

 メディア端末を取りだし、待ち受け画面を眺める。ディスプレイにはかつてペンギンの映っていた位置に、二つのちいさな顔が映っている。目に入れればそりゃあ痛いだろうとは思うが、試してみてもいいかな、と思える程度にはかわいいなあと思わずにはいられない。順調に親バカになりつつある。


 会社で大規模な人事異動があった。富義はこれまでどおりセキュリティのアップデートを専門に扱う部署に残った。後輩の植木が異動となり、代わりに今年入社したばかりの新人がやってきた。小柄でおとなしそうな、とりたてて特筆すべきところのない平穏そうな男のコだ。

「創楠(つくるくす)莉央(りお)と言います。よろしくお願いします」

「リオくんは新卒かい」

「あの、それが、ちがうんです」恐縮そうに彼は言った。歓迎会での席だ。彼はお酌をしてくれる。「ぼく、短大を出てから、二年間なんですけど、海外でボランティアをしていまして」

「へえ、偉いね」

「偉くはないんです」

 彼は申し訳なさそうに、「自立はしていませんでしたから」とはにかんだ。

 とりたてて特筆すべきことではないが、女子社員のあいだでの彼の評判は驚異的な好感度の高さを誇っている。入社してから一週間という短期間での人気ぶりは、主として彼の見た目の良さに起因しているという推測は、あながち的を外してはいないはずだ。だが敢えて付け加えるならば、彼の、女子社員たちからの評判がひと月を越えてからも衰えるところを知らず、むしろ隆盛を極める勢いで上昇の一途を辿った理由が、物腰の柔らかな彼の性格と、やはり見た目にあったという分析は、多少なりともひがみが含まれているかもしれない。

 彼の仕事ぶりが正当に評価されての高評価とも考えられたが、そう捉えるには度の越えた黄色い声が、会社の通路のそこかしこから聞こえてくる。給湯室や化粧室の付近などはより顕著だ。

「これは社会人の先輩として、ひいては会社の上司としての助言なんだが」

 ひと月遅れの歓迎会の席だった。いい機会だと思い、彼に説いた。「まあ、聞いてくれ」

「わあ、なんでしょう。聞きたいです」

「単刀直入なんだが、リオくんね。きみ、女のコたちからの誘惑には負けたらいけないよ。彼女たちはただ、旬の果物を齧りたいだけなんだ」

「旬の果実とはなんですか」

 首を傾げられてしまう。なんと答えたものか。じぶんで言っておきながら気恥ずかしくなった。夢に破れた男が、夢なんて追うもんじゃない、と息子に説教を垂れるような格好のわるさがある。「なんでもない。忘れてくれ」

 こちらの言葉を咀嚼していたのか、しばらく経ってから彼は、でも、と言った。

「でも、腐ってしまう前に齧ってもらう、というのもアリな気がしますよ。旬の果実は、売れ残ったらあとは捨てられてしまう運命です」

 そういう運命なのか、それはちょっとさびしいな、と感じた。「なるほど。おもしろい意見だね」

「それに、旬の果実ばかりとも限りませんし」

「ん?」

「ぼくだったら、熟した果実のほうが好きかもです」

 どういう意味だろうか。彼の屈託のない笑みを見るに、深い意味はなさそうだと結論付ける。「そうだな。熟した果実は、美味い」意味もなく同調する。「きっと、いいワインになる」

「はい。たくさん寝かせないといけませんね」

「そうだな。いいワインにするには、たくさん寝かせないとだな」

 とりたてて特筆すべき点ではないが、タンポポが綿毛を飛ばしはじめた時分、彼の評判は女子社員のみならず男子社員のあいだでも高い支持率を叩きだしていた。その理由が、彼の、柔順な子犬を彷彿とさせるけなげな印象と、小柄で薄い顔立ち、言い換えれば少年めいた外見にあるのではないか、と富義は半ば自覚的に分析している。


「蜜雨さんって結婚されてるんですか」

 ラーメンをすすりながら、リオが水を向けてきた。取引先での会議を終え、帰社する途中で遅めの昼食を摂りながら、二人でとりとめのない話を交わしていた。急速に自己進化を遂げていくAIは人類に牙を剥くことはないのか、国民がそのことに対してあまりにも無関心ではないのか。プログラマーの端くれとして俎上に載せるには体のいいお題目で議論を白熱させ、スープに埋没したコーンのことごとくをサルベージしきったころには、今のところ問題はない、という至極つまらない答に帰着した。餃子を追加注文し、運んできた店員の背中を見送ったところで、急に投げかけられた質問だった。結婚指輪は左手の薬指にハマっている。目に留まったのかもしれない。

「結婚されているよ」リオの口真似をし、「かれこれ四年だ」と伝える。

 口にしてから、妻と重ねてきた時間が思いのほか厚みを帯びていることに驚いた。そうか、さくらと契りを結んでから四年も経ったのか。

「奥さん、どんな方なんですか」

「ん。そうだなあ」きみが知ってどうする、とすこしばかり眉間にしわが寄ったが、部下とのコミュニケーションはたいせつだ。よくよく考えてから、

「子どもっぽいが、私よりしっかりしている。私にはできた妻だよ」

 のろけとも自虐ともつかない言葉で説明する。

「子どもっぽくて、でも、しっかりしている。まるで蜜雨さんみたいですね」

 似たもの夫婦だ、とリオはほころびた。じつに邪気がなく、ふしぎと、子猫がボールを追いかける光景が目に浮かぶ。

 毎度のことながら彼の笑みには癒される。胸の奥をくすぐられるように、和みにも似た熱がじんわりと広がる。娘や息子の寝顔を眺めているときに抱く感応のようであり、どこか懐かしい火傷の痛み、或いは瘡蓋の痒みのようでもある。さいきんになって、この火照りめいた感情に戸惑っているじぶんがいることに気づいた。以来、リオの顔をまともに見られない。

 学生時代にもしばしばこういうことがあった。ある程度親しくなった、しかし親友と呼ぶには物足りない同級生と二人きりになったりすると、なんだか面映ゆいきもちになるのだ。リオにもそれと似た空気を感じている。仕事のできるリオであるだけに、部下という感じがしないというのも理由の一つかもしれない。

 リオは直属の部下というわけではなかった。リオの上司がエリート組の成りあがりで、ほかの部署とのプロジェクトに忙しく、代わりにこちらが教育係兼臨時上司として接することになった。ふた月ほど行動を共にしてきたわけだが、換算すればひょっとすると結婚してから過ごしてきたさくらとの時間よりも、リオと顔を合わせている時間のほうが長いかもしれない。そのことに嫌気がさすわけでもなく、むしろそれはそれでおもしろい、ふしぎだな、と捉えているじぶんがいることに気づき、私も変わったな、と愉快になる。

 富義の人生は妻を中心に回っている体を醸しつつも実際には、ほかの多くの雑多な脇役や小道具によって、埋め尽くされている。なにより、じぶんもまた、他人にとっては脇役であり小道具にすぎない。だがそれでいいと思えてしまうのは、ひとえに、じぶんが妻にとって単なる小道具ではなく、脇役でもない、と実感できるからだ。

 富義はしみじみ考える。我が子の存在が、妻との絆をありありと浮き彫りにしてくれている。私の人生は妻を中心として回り、そして我が子という軌跡を延々と辿りつづけ、ある日突然、途絶えるものなのだろう。それでいい。それこそが私のしあわせだ、と心から思えた。

 

 部長に呼ばれ部屋を訪ねると、

「どうだね、リオくんの様子は」

 藪から棒に問われた。

「リオですか。よく働いてくれていますよ」社交辞令に聞こえないように注意して答える。「語学が堪能で、英語だけでなくイタリア語まで熟せます。仕事の覚えもよく、取引先からの評判もいいですし、ここいらで大きな失敗の一つや二つ経験しておいてほしいくらいで。ええと、リオが何か」

 部下に問題があるとしたら、それは上司の責任問題である。なにか見落としていた過失があっただろうか。ここ半年の記憶を走馬灯のように巡らせる。

「いやいや、そう構えんでいい。じつは彼ね、正規の雇用ではないらしいんだよ」

「そうなんですか」突然の話題に面食らう。大仰に驚いてみせるものの、だからどうというわけでもないな、と思い直す。「はあ、それが何か」

「持田さんっているだろ」

「えっと、株主のですか」会社の筆頭株主に、持田大金(ひろかね)という男がいる。名前のとおり、貧乏という言葉とは一生縁のなさそうな資本家で、会社株の三割を保有していると聞き及ぶ。数年前に製紙工場を買収し、日本経済界に激震を走らせた張本人でもある。あまりいい噂は聞かず、斟酌せずにいえばわるい噂の絶えない人物だ。

「そうだ。ここだけの話、彼、その持田さんからの推薦らしくてね」

「はあ」

「まあ、きみなら大丈夫だとは思うが」

「何がでしょう」

「うん。まあ」

 部長は言葉を濁した。「問題ないならいいだろう。引きつづき、うまくやってくれ」

「はあ。へ?」

 あの、どういう……。

 生半可な返事が口からのろしのように紡がれる前に、

「もういいよ。行ってくれ」

 部長は追いだすように手を振った。

 知らぬ間に、何かたいへんなお荷物を背負わされていたようだ。ほかの社員から評価されつつも休憩のあいだいつも独りでいるリオの姿に、遅まきながら異質な空気を覚えた。

 

 紅葉の季節に社内旅行があった。行き先は京都で、ほかの部署とも合同で行われる、なかなかに大規模なツアー旅行だ。久しぶりに植木とも話をした。

 彼は現在、取引先からの苦情を専門に扱う部署にいる。会社間に落ちた火種が火事へと発展しないようにと、逐一対処に奔走し、火の粉を一身に浴びて過ごしているそうだ。

「たいへんだな」

「ホントっスよ」

「にしては元気そうで何よりだ」

「土下座スキルの向上と共に、オレのプライドは地獄の底にまで落ち込みましたからね。街中でダックスフンドに土下座したって、屁とも思わないっス」

「鉄の心臓だな」

「もはやエンジンっスね」

 どるぅん、どるぅん。

 植木は唇を震わせ、ありもしないエンジンを噴かせる。飛行機内だというのに、子どもじみた真似をしないでほしい。周囲の目を気にしつつも、植木のおどけ具合が半年前と変わらぬことに、胸がほっこりする。

「お客さま、いかがなされましたか」

 客室乗務員にやんわりと咎められたからか、植木は尖らせた口を引っ込める。引っ込めつつも小声で、プスン、プスン、と言った。思わず噴きだす。いいおとなのやることではない。

「ご所望がおありでしたら、何なりとお申しつけください」

「いえ。お騒がせしてすみません」

 客室乗務員が立ち去るのを見届けてから植木がこちらに顔を向け、

「先輩も変わりませんねえ」と目じりを下げた。「こんなくだらないことで笑っちゃって、まあまあ」

 おまえが言っていい台詞ではない。富義は拳をつくり、無言で植木の肩をどつく。

「どぅるん、どるぅん。あ、またエンジンが!」

「私は寝る。着いたら起こせ」

「どるぅん、どるぅん!」

 もういちど、こんどは抉るようにどつくと、植木はようやく静かになった。

 旅館に着くと、「何をはしゃいでいたんですか」とリオが訊いてきた。植木との会話のことだろう。リオとは相部屋で、飛行機の座席も本来なら彼がとなりに座るはずだった。久しぶりに植木とも話がしたく、かといって京都に着いてからわざわざ時間を割くというのも癪だったので、リオに席を譲ってもらった。

「植木というのはふざけたやつでね。同じ部署だったってのは話したよね。あいつが異動になった代わりにリオくんがうちに入って来たようなものなんだ。まあ、あいつの代わりがリオくんなら、鉄と金を交換したようなものだね」

「すみません。ぼくもはやく金になれるように……」

「いやいや、逆だよ。リオくんが金で、あいつのほうが鉄クズだ」

 きみが来てくれてよかった。

 口にしてから、ずいぶんと熱烈な台詞ではないか、と思い、顔が熱くなる。

「さて、どうする」話を逸らしがてら、意見を仰ぐ。「座敷の用意ができるまで時間があるみたいだが」宴会は六時からだと言っていた。あと二時間ある。「温泉にでも浸かってこようか。サウナもあるし、喉を乾かしておくと酒が美味いよ」

「あの、ぼくはいいです」

「でも遅くなると混むし」

「ダイジョブです」思いのほかきつい発声にたじろぐ。「ぼくは、その、シャワーで、済ませようかと」

「この部屋のかい。ん。そっか」

 では私は入ってくるよ、と言い残し、部屋をあとにする。

 浴衣に着替えてくるのを忘れたが、わざわざ戻るのも面倒に感じ歩を進める。

 廊下は板張りで、木目にはたくさんの節が点々と散らばっている。浮き出て見え、大量の目玉に見張られている気分になる。

 脱衣所に着く。裸になりながら何気なくリオとの会話を振りかえっていると、彼の拒絶ともとれる言い方に引っかかりを覚えた。さいきんの若者は他人に裸を見られることに抵抗があるのかもしれない。解らないでもない気がした。

 湯船に浸かると、しぜんと溜息が漏れる。人体の神秘だ。あぁきもちいい、と全身がよろこぶ。

 ほかにも宿泊客がちらほらいる。同僚もいるだろうか。見渡してみるが、知った顔はない。目のまえを子どもがきゃっきゃと走り去る。しずかにしてなさい、と父親と思しき男が諌めた。

 眺めながら富義は思う。幼い男子の性器は、ちょろんぎに似ている。ちょろんぎというのは、小指ほどの大きさで、ひょうたんめいた形状の食べ物だ。梅干しに似た味がし、噛むとカリコリと歯ごたえがよく、ひと口頬張れば、癖になる。一見すれば朝顔の蕾に見えなくもない。

 漫然と幼子の裸を眺めていると、もしかして、と閃いた。リオは見た目からして幼い体つきをしているから、アチラのほうも未熟なままなのかもしれない。男なら誰でも通る道だが、自分の性器がほかの者よりも小ぶりだったり、さきっちょが巾着袋のように閉じたままだったりすると、とかく、何か変なのではないか、みんなとはちがうのではないか、と気になってしようがなくなる。思春期を過ぎてもそれはなかなか治まることはなく、富義自身、さくらと結婚し、息子が産まれるまでは、温泉でのタオルが手放せなかったくらいだ。

 中年を間近に控えたいまだから思えることであるが、未成熟な男性器というのはかわいらしいものだ。いや男性器がかわいらしいのではなく、それを気恥かしく思い、劣等感を隠しきれていない若者が愛おしく思える。

 歳をとったな。

 ここまでつらつらと考えてから、髪を洗う手を止め、頭からお湯をかぶった。


 身体を拭き、着衣を済ませる。「男湯」と描かれた暖簾をくぐると、廊下にリオが立っていた。

「どうした。やっぱり入るのか」

「いえ、宴会の用意ができたそうなので、お知らせに」

「部屋で待っていてもよかったのに」

「そうですね」自分でもそう思ったのか、リオはおかしそうに頷いた。「どうしますか。このまま座敷へ向かわれますか。それともいったん部屋へ?」

「そうだな。私も浴衣に着替えたい」見遣ればリオは浴衣に着替えており、部屋の浴室でシャワーを浴びたのだろう、ひっつめに結われた髪もどこかしっとりと艶やかだ。

 じっと見つめていたからだろう、

「あの、やっぱり切ったほうがよいでしょうか」リオは自分の頭に手をやり、ひっつめのさきっぽに触れるようにした。

 社会人として長髪はいけないですよね、と以前にも彼から相談を受けた憶えがある。彼の仕事は主として事務であり、取引先に連れていくにしても、その取引先の社員がみな個性的な服装に、髪を染め、ピアスを開け、という装いなので、こちらが改まるのもどうかと思うほどの異様な佇まいだ。いっぱしの社会人として富義は相応の格好をしていると自負するものだが、その格好で取引先へ向かうと、パリへ着物を着て乗りこんだような、気恥かしいちぐはぐさがあり、むしろリオには長髪でいてくれたほうが、折り合いがついた感じがしてきもちが楽だった。

「いや、そのままでいいよ。わざわざ切る必要はない」部屋へ戻るべく、歩きだす。「むしろ我々のような、新しい社会をつくろうとしている側の人間が、過去のなんら合理性のない風習に囚われているほうが問題だろう、と私は思っているくらいでね」

「ですが蜜雨さんは、とてもちゃんとしてらっしゃいます」

 どうしてですか、と尋ねるようにリオは小走りでとなりに並んだ。こちらの顔を覗きこむようにする。

「新しさというのは、何も無からぽんと生じるものじゃないだろ。過去があり、現在があり、ゆえに未来がある。だからさ。過去と現在を結びつけ、きみたちのような新しい世代に未来を託す。その橋渡しをするのが我々の世代の務めであり、上司の役割というものだ」

「うんこ知新ですね」リオは得意げに言った。

「いや、温故知新だよ」

 指摘すると、彼は顔を赤らめた。

「きみの言うとおり、古きに学び、新しきを知る、だ」華を持たせつつ続ける。「或いは、正装というものにも合理性があるのかもしれない。ただそれが現在では形骸化しているというだけの話でね。それを思いだすために、いったんまっさらな状態、自由な状態に戻す、というのも一つなのかもしれない」

 リオは目を輝かせ、じっとこちらを見あげている。並んでいると彼の小柄な体躯がいっそうちいさく感じられた。富義は敢えて彼の熱い眼差しに気づかないふりをし、まあ、と話を結ぶ。

「失われてからでは遅いものもあるかもしれないが」

 

 宴会では、無礼講がまかり通った。溜めこんだ上司への鬱憤を部下が吐きだし、上司はその鬱憤を一身に受けとめる。酒の席というのはそういうものだ、というのが社長の考えだった。上司や先輩がそうしてくれたように、富義も部下や後輩から進んで愚痴を聞きだしていく。

 ことのほかこれが楽しい。

 ふだんは抑えられた部下たちの本音は、荒々しくも真剣味に溢れている。まじめに仕事にとりくんでいるからこそ吐きだされる数々の愚痴は、そのまま上司としての反省点として、ひいては会社の成長に欠かせない養分として活かされる。

 酒は進んだ。飲まずにはいられない。

 気づくと数人の女子社員に囲まれていた。同じ部署だが、あまり関わりあいのないコと、ほかの部署の二人組、計三人だ。彼女たちは元から仲がよいのか、会話が弾んでいる。

「でしょう。蜜雨課長ってば奥さんのことばっかりたいせつにして、わたしたちのことなんてこれっぽっちも気にかけてくんないし。ひどくない?」

 ひどいひどい、とほかの二人が同調する。いったい何の話をしているのか。どうしてじぶんはこの三人の輪の中に組み込まれているのか。周囲を見渡すと、こうしたちいさな輪がいくつもできあがっている。

「そうそう。このあいだだってね、お昼いっしょにどうですかあ、って誘ったのに、こいつ、断ったんだよ」

 気づけばいつの間にやら「こいつ」呼ばわりされている。きみたち、ちょっと悪酔いしすぎでは。さすがに注意しておくべきだろうと思い立ち、

「きみたちね」

 場の空気が崩れないように意識しながら、

「こいつ呼ばわりされたら傷付くよ、私だって」

 哀しげな顔をしてみせる。

「みてみて、課長がかわいい顔してる。やだー、抱きしめちゃいたい」

 言いながらも彼女はすでにこちらの身体へ絡みついている。鹿を丸呑みにする大蛇を思わせる姿にぎょっとする。あ、わたしもわたしも、とほかの二名もつづく。彼女たちの装いは、こちらと同じく浴衣だ。布地のうえからでも彼女たちの体温が伝わった。

「なにあんた、下着は」

 三人のうちの誰かが言った。小声でありながら、少々驚いた様子の声音だ。

「付けてくるの忘れちゃった」

 なぜだか彼女はこちらの耳元で囁いた。

 鼓膜を撫でるような吐息に、股間に熱く疼くものが収斂していくのを感じる。

「ねえ、課長。わたしたちの部屋に行きません?」

 続けざまに囁かれる。

 生唾を呑みこむと、その音が頭蓋骨にまで響いた。渋るように身体を強張らすと、

「ミカから聞いたよ」さらに身体を押しつけるようにし彼女は言った。「課長、すごいって」

 すごい、きもちいいって。

 ミカ。派遣社員の、あの娘の名だ。

 まさか、と思った。

 話したのか。

 視界が大きく歪んだ。醒めかけた酔いがここにきてふたたび全身を巡る。思考が麻痺するのを感じた。

 なるほど、このコたちはあのコと仲が良かったのか。このコたちも、あのコと同類なのか。

 彼女たちはみな、果実を齧りたがっている。禁断と名のつくものなら何でもよいのだろう。

 悪意、ではない。

 彼女たちにあるのは刺激への無垢な好奇心だ。子どもが地べたに腰を下ろし、おとなが視界にも入れないちいさな生き物をゆびさきで摘まむのにも似た、純粋な欲求が、彼女たちの行動原理なのだろう。

 いや、どうだろう。それもちがうように思う。アルコールが彼女たちの欲求を解き放っているだけかもしれない。三年前のあの夜、ミカに介抱され、欲動を解放してしまったじぶんのように、彼女たちもまた、アルコールによって人格というタガが――理性が、外れてしまっているだけなのだ。

 富義は決意する。

 彼女たちのためにもここは、是が非でも拒むべきだ。

 だが、果たしてその推論は正鵠を射っているのか。懐疑心は拭えない。彼女たちはそもそもそういう人格であり、アルコールを免罪符にして、好奇心をこちらへ存分に向けているだけではないのか。

 いずれにせよ、この場を脱するべきだ、という選択に変更の余地はない。

「きみたち、こういうことはよくない」

 はっきりとそう言ったつもりだったが、口から出てきた言葉は、ほとんど聞きとれない呪文じみた吐息の羅列でしかなかった。呂律が回らない。自覚していた以上に酩酊している。精神と肉体が水と油のように分離している。立ちあがろうとひざに力を籠めるたびに体重を支えきれず、よろけてしまう。身体の軸が定まらない。回転の速度の落ちた独楽を思わせる。大きな音をたて、尻もちを着く。奥のほうから笑い声が上がった。目撃されたらしい。

「まあ、たいへん」こちらに絡みついていた彼女たちに助け起こされる。「よこになったほうがよろしいですわ」「運んでさしあげましょう」「そうね、そうね」

 彼女たちは口々に献身的な言葉を並べる。こちらの身体を支えてくれてはいるが、或いはそれは、拘束した、と形容すべき状態であったかもしれない。富義はじぶんの姿を客観的に想像し、ロズウェル事件の写真を連想した。紳士二人組にうでを持たれ、吊るされるように映された宇宙人は、たといそれが造り物であったとしても、憐憫の情を募らせずにはいられない惨めさが見てとれた。富義は思う。じぶんも同じだ。彼女たちの部屋へと連行されたあとは、人体解剖よろしく、彼女たちに身も心も快楽でズタボロにされるのだ。

 恐怖よりも期待が勝った。

 血中に散在していた理性は今や股間へと凝縮し、脳髄からはきれいさっぱり消え失せている。ここで暴れればひとまずの危機は脱することができるにも拘わらず、酸欠よろしく理性欠如を引き起こした男は全自動腰振りマシーンとなりつつある。なされるがまま流されるままに魔性の女たちにもみくちゃにされ、座敷をあとにしようとしていた。

「介抱するなら、ぼくの部屋へと運んでください」

 背後から声がした。アルコールの匂いのしない澄んだ声音だ。

「リオさん、手伝ってくれるんですか」

「マイさんたちもずいぶん酔いが回っているようですね」

 どうやらリオが助け舟を寄越してくれた様子だ。ここで休んでいてください、と彼は言った。「蜜雨さんは、ぼくが運びます」

「マイたちのことは介抱してくれないの」

 ああ、どうしよう、わたし、めまいが、などと彼女たちはシナをつくり、訴えはじめる。

「では、ここで休んでいてください。蜜雨さんを運んだあとで、また来ます」

 損得勘定でもしているかのように、彼女たちは間をあけた。熟した果実よりも、旬の果実のほうが好ましいのだろう。やがて、「じゃあ、お願いします」とこちらのうでを離し、愛想よく見送る。「待ってるから、ちゃんと来てね」

 リオは返事をしなかった。

 廊下は涼しく、宴会場の熱気が、身体の表層から剥がれ落ちていく。サウナから上がったときのような爽快さがある。

「蜜雨さん、歩けますか」

「ああ、だいじょうぶだ」

 言うものの、身体の軸は定まらない。足がもつれ、よろける。

「見事な千鳥足だろ」おどけてみせるが、いったい何が誤魔化されたのか定かではない。

「ぼくの肩にどうぞ」

「すまない」

 肩にうでを回し、半ば担がれるように客間まで向かう。


 ベッドに下ろされる。部屋は暗がりのままだ。枕元の電灯が灯り、目のまえにリオの顔が浮かび上がる。視線が交差する前に彼は洗面所へと姿を消し、水の入ったカップを持ってくる。「どうぞ」

「かたじけない」受けとり、ひと口にあおる。

「かたじけなくはないです」

「ん?」

「蜜雨さんは、なにもわるくないです」

「ああ」上司の失態を気遣ってくれているのだ、と判る。「酒は飲んでも呑まれるな、とは言うが、本当にその通りだよ。私はどうにも酒との相性が良くないらしくてね」

「お酒はきっかけにすぎません。蜜雨さんが気をつけなければならないのは、もっとほかのものです」

「そうだな」すこし考えてから、「そうだな」ともういちど深く、胸に刻む。「きみには感謝しなければならない。私はまた同じ過ちを繰りかえそうとしていた」

「油断は禁物ですよ。蜜雨さんは、ご自身で思われているよりも、ずっと魅力的なひとなので。ほかの人を魅了してしまうことをもっと自覚したほうがよいです」

 それはどうだろうと思うが、彼が言うのだ、そういう一面もあるのだろう、と胆に銘じておく。

「あ、信じてませんね?」

「いや、実感がないから」

 答えてから、リオが上目遣いに眉根を寄せたので、「いや、信じるよ。ちゃんと気をつける」と早口で言いなおす。空になったカップを返し、「もう一杯貰えるかな」と水のお代わりを催促する。

「すぐに取ってきます」

 こんどは戻ってくるまでにやや時間がかかった。カップを受けとり、飲み干す。

「酔いは、覚めましたか」

「ああ。もうだいじょうぶだ」

 言うものの、ふわふわと雲のうえにいるみたいだ。視軸が定まらず、身体に巡るあらゆる感覚が朦朧としている。なぜか股間は火照ったままだ。

「まだ酔われてますね。横になったほうがよいです」

「いや、だいじょうぶだ」

「ダメです。横になって」

 子どもを寝かしつける母親のようなリオの物言いがおかしく、おとなしく従った。

「リオくんも、酔っているね」

「はい。すこし」

「すこし?」本当にそうかな、とイジワルなきもちで反問すると、「だいぶ酔ってますけど、蜜雨さんに心配されるほどではありません」

 ぴしゃりと言われる。一本取られた気分だ。天井を眺めると、細長く延びたリオの影が蠢いている。何かを漁っているようだと判る。

「蜜雨さんって、未だにこんな古いのを使ってるんですね」リオがこちらのメディア端末を操作していた。

「かってにいじらないでくれ」

「かわいいですね。いいなあ。ぼくも、ほしいです」

 待ち受け画面を眺めているのだろう。そこには子供たちを挟んで、こちらと妻が並んで映っている。

「蜜雨さんの名前って、『みつう、ふぎ』とも読めますね」

 たしかに【富義】はフギと読めないではない。

「並びかえると、不義密通です」

「失敬だなあ」富義は苦笑する。

 それと同じ揶揄を以前、妻にも吐かれたことがある。三年前のあの不祥事を起こしたときだ。「あなたは名前からしてそういうことを仕出かしそうなひとなのよ。そうよ、あなたはそういうひとなのよ!」

 妻はそう喚き散らし、この不義密通やろう、とこちらのことを一晩かけて詰り倒した。その翌朝には、そうです私が不義密通です、と自己紹介してしまいそうなほどで、ある種の洗脳を受けた境地に至った憶えさえある。

「だけど私は、蜜雨富義であって、不義密通ではない。読み方だってちがうし、よしんば読み方が同じだとしても、上下が逆だ」

 だからどうというわけでもないが、妻に言い返せなかった言い訳を口にする。

「ですが、蜜雨さんは、危険です」

「危険?」

「ぼくが、なんとかしてあげないと。そうでないと、いつ裏切ってしまいことやら。こんなにかわいいお子さんなのに」

「だから、何のことだい」

「蜜雨さんは、ご自身で思われているよりも、ずっと男らしい方です。たぶん、それは、蜜雨さんの性格とはべつのものです」

「酔っているのかい」

 酔ってはいるのだろう。それにしても、こうも脈絡のない話を勃然と、しかも滔々とされては。身を起こそうと腹筋に力を籠めると、敏感にそれを感じとったのかリオはすさかずこちらの胸を手で押した。

「横になっていてください」

「いや、しかしね」

「ぼくが、蜜雨さんを、なんとかしてあげます」

「なんとかって……」

「ダイジョブです。痛くないですよ」

 胸に載せられたままの手が、浴衣の内側にするりと滑り込んでくる。直に触れられ、全身の血管という血管が悲鳴をあげた。妖精か何かが魔法のストローを心臓に刺して、チュウチュウ吸っているみたいだ。

「だいじょうぶですよ。ぼくは、女のコではないので」リオがするすると浴衣を脱いでいく。滑らかな肌が露わになり、富義はなぜかボーリングの玉を連想した。「女のコではないので、裏切りにはなりません」

 これは予防です、と言ってリオはこちらの胸から腹へ、そして下腹部へと手を這わせていく。理性をたらふく蓄え、膨張しきったこちらの水風船は、リオの手が内腿に触れたところで、金剛石もかくやという硬度を帯びた。

 

 女性と絡みあえば不義密通として妻や子を裏切ることになる。だが、その相手が男であるならば裏切りとはならない。リオはそう主張した。

 富義は思った。

 なるほど、と。

 相手が男ならば、たしかにそれは妻への裏切りにはならない。リオの言うとおりだ。ここは彼に身を委ね、下腹部に集まった理性を解放してもらうのがよろしい。

 リオはこちらの太ももに跨り、顔を近づけてくる。彼の唇はてるてると光沢を帯びており、唇が重なると、こじ開けるように舌がぬめり込んでくる。ねっとりと甘い。

 流れに身を任せる。

 長い口づけが終わり、リオの唇が闇に浮かんでみえた。チロチロと蠢いている。胸のうえで踊りはじめたそれは熱帯魚に似ていた。赤く熟れた熱帯魚はやがて、こちらのへそを経由し、闇に同化した黒色の密林を掻き分け、理性の凝縮しきった水風船へと辿りつく。

 富義は見た。

 蛇がいた。蛇が獲物を咥え、丸呑みにして離さない。じわりじわりと嬲るように、ヌトヌトと時間をかけ、ヂルヂルと獲物の息の根を止めようとしている。

 果てた瞬間、獲物は、白色の血を巻き散らす。だがまだだ。蛇はまだまだ獲物を放さない。舌で転がし、可愛がる。我が子の頭を撫でる親のような、慈しみに溢れた手つきよろしく舌ざわりが、全身に痺れをもたらしていく。

 ひっつめに結われたリオの長髪はいつの間にか解けていた。こちらの股間に顔をうずめ、瑞々しい音をたてるリオは、男というよりも、むしろ初々しい少女のカタチをした淫魔のように映った。

 妖艶だ。

 女よりも女らしく、淫魔よりも男の快楽に精通している。

 果てそうになると、リオは口を放す。獲物を放しながらも、舌だけはチロチロと動かしつづける。太ももにびっしりと汗をかいている。それすらも舐めとるように、リオは舌を休めない。縦横無尽に這い回る。

 脳内に運び込まれる血中に、理性は寸毫たりとも残ってはいない。もはや富義の人格は、股間で張れがあがった水風船のなかにある。

 はやく、はやく私を解放してくれ!

 そんな狭苦しい場所に閉じ込めていないで、はやく私を出してくれ!

 全身が悲鳴をあげている。とどめを刺せ、と暴れている。背筋を幾度も快感が駆け昇る。

 殺してくれ、殺してくれ。

 声なき声で泣き叫ぶが、リオは容赦なく寸止めを繰りかえす。間を置き、蹂躙の手を止めず、舌を鞭にする。

 撓らせ、締めつけ、打ちつける。

 尖らせ、巻きつき、ねじ入れる。

 あらゆる技巧を駆使し、いたぶり尽くす。

「もうダメだ! 頼む、頼む!」

 富義は懇願した。男としての矜持も、上司としての面目も、なにもない。

「いいですよ」

 リオは笑った。目を細め、口元を緩めたその顔には、はっきりと恍惚の二文字が浮かんでみえた。

 いちど太ももに跨るとリオはこちらに背を向けた。肩幅は狭く、背骨の浮き出た背中は猫の背を思わせた。腰は瓢箪のようにくびれているが、骨っぽくはない。

 腰を浮かすとリオは、こちらの水風船を掴んだ。空いた片手を自らの股下に持っていき、解すようにする。

 こちらの水風船はとっくに水漏れを起こしている。リオの唾液と交じりあい、膜でも張っているかのようにテルテルと潤って見えた。

 リオの腰回りは、浴衣が帯ごと絡まっており蛇の脱皮を思わせる。影になっていてよく見えない。気づいたときには、リオの体内へ、富義はぬっぽりと埋もれていた。

 声にならない声で呻く。或いは、リオの喘ぎ声だったのかもしれない。

 我を失ったように富義は、現に失っていたのだろうが、リオの臀部にゆびを食いこませ、狂ったように腰を打ちつけた。

 少年めいた男の体内へ、ほとばしる欲動ごと理性を解放したのち、精根枯れ果てたのか、富義は意識を失った。

 翌朝目覚めると、リオの姿はなかった。夏の公園に漂う簡易花火の残り香のように、部屋には獣の匂いが色濃く残留していた。

 京都内を巡る観光バスで相席になったが、昨夜の行為がまるで一夜の幻だったかのようにリオはいつもと変わらぬ控えめな笑みを振りまいていた。


 リオとは社内旅行を終え、通常業務に戻ってから一週間後にふたたび交じりあった。どちらから誘ったのかは判然としない。いや、飲みに誘ったのは富義なのだから、こちらから誘った、と言えるだろう。京都での一夜が真実にあったできごとなのかを確かめたかった。私はまた妻を裏切ってしまったのか。酔いにかまけ、妻以外の者を抱いてしまったのか。いずれの動機にも偽りはなかったがどれも言い訳にすぎなかった。あの夜の快楽を「夢だった」の一言で済ませるには惜しい気がした――本懐はこちらにある。

 酒を飲み、酔っ払い、すこし休みましょうということでビジネスホテルへ入った。これは予防です、というリオの台詞を皮きりに、流れに身を任せた。こんどは理性を保っていた。

 できる抵抗をしなかっただけである。

 理性は判断した。これは裏切りではない、だから仕方がないのだ、と。

 妻への愛情は変わらずにある。冷めたわけではない。

 ただ、男相手に浮気も不倫もあるものか、といった漠然とした理屈が罪悪感を極端に薄めていた。

 リオの言うように、これは予防だ。ひと一倍性欲に流されやすいじぶんが、妻を裏切らずに済むようにするための、これは策なのだ。

 富義ははっきりと宣言できる。私は同性愛者ではない。男に興味はないのだと。

 だからこそ、男と同衾し、あまつさえ肉体を交えるというのは、気色のわるい行為だという自覚を持っている。

 リオは男だ。二度目に絡みあったとき、水風船が生えているのを目にした。彼の股間にあったものは、こちらのものと比べると幾分ちいさいとはいえ、それは明確に男のコの象徴であった。

「あんまりじろじろ見ないでください」

「おかしいな」

「蜜雨さん、やだ、やめて」

 制止を振り解き、彼の局部をまさぐる。「なくないか、タマ?」

「揉まないでください」太ももを閉じ、リオは抵抗した。「ぼく、ちいさいときに事故で、潰してしまって」

 陰茎は無事だったが、睾丸は摘出することになったそうだ。なるほど。それであまり男性的な肉体ではないのか。体毛は薄く、局部でさえほとんど生えていない。手入れをしているのだろうと思ってはいたが、それだけではなかったようだ。引き締まった体つきは、女性的とは言いがたいが、マシュマロのような脂肪がうすい膜のように表面を覆っているため男性的というほどでもなく、むしろ丸みと弾力を僅かに帯びた肢体は妙な色気を放っている。

 予防接種というのは痛いものだ、いやなものだ。

 リオとのこれも、それと同じこと。したくてしているわけではない。ましてや、快楽に流されているわけでもない。誰にともなく自己弁護を見繕っている時点で、それが偽りであることを富義はもちろん気づいている。ただ、認めたくないだけだ。

「蜜雨さんは、するよりも、されるほうがお好きみたいですね」

 何度目かの予防を終えたあと、リオがこちらの胸をいじりながら言った。初めての夜から、ふた月が経過していた。このころになると、会社のトイレでもリオの熱帯魚を駆使し、窮屈な水風船のなかから理性を救いだしてもらうようになっていた。

「そうかな」

「そうですよ。蜜雨さんはやさしいひとなので、いじめるよりも、いじめられるほうがお好きなんです」

「喜んでいいのかな、それは」

「気づいてないんですか。悦んでいるんですよ、蜜雨さんは」

 たしかにそうやって詰られながら身体に触れられると、一戦交えたあとだというのに、水風船は硬度を取り戻した。妻とではこうはいかない。一晩に一回、それも三日連続と保たない。だがリオとは毎日でも繰りかえし行えた。

 富義は不安になりはじめている。

 私は男が好きではない。しかし、リオのことは好きなのかもしれない、と。


「さいきん、会議、多いんだね」

 帰宅早々、妻が言った。何気ない口振りではあるが、こちらの機微を窺うような、嫌な明るさがあった。

「いや、少ないくらいだよ。どうして」

「だって前よりも帰るの遅いし」

「中間管理職の辛いところだね」

 嘘ではない。納入期限の迫っていない時期であっても仕事が片付かないことが多く、どうしても帰宅時間が零時を回る。

「それにしたって、遅くない? ちぃちゃんなんか、『パパの声、忘れちゃった』なんて言うんだよ。ベッドに潜りこんでは、パパの匂いだあ、ってはしゃいじゃってカワイソウ」

「かわいいじゃないか」

「ノウテンキ」

「いや、だって、もう存在自体忘れられているものかと」

「ゴメンナサイしないとそうなるかもね」

 妻の言うように、以前にも増して帰る時間が遅くなったのは事実だ。課長から副部長へと昇格したことが関係しているのも嘘ではない。ただ、妻がこちらへ注いでいる疑念が、そう遠く的を外していないのも同じくらい確かだった。

 週に二度、定期的にリオと夜を共に過ごしている。人目を忍んで会社でチロチロしてもらっているものを含めれば、ほぼ毎日リオと一体化しているといえる。

 妻への愛は揺るぎない。それは誓って本当だ。ただ、リオと過ごす、ねっとりと濃い時間は、麻薬のようにこちらの脳髄に染みこみ、半ば中毒的にリオとの一体化を求める。

「愛って何だと思いますか」

 いつだったろう。汗だくになった身を横たえた富義に、リオが囁くように言った。互いにまだ息が荒く、あまり深く思考を巡らせたくなかった。そんなこと、今はどうだっていい。愛と憎悪が同義だったとしても異を唱えるつもりはない。今はただ、この快楽の余韻に浸かっていたいと思った。

「ぼく、今ふと閃いたんですけど」リオはこちらの肩に滲んだ汗を舐めとりながら、「性欲と愛は違うじゃないですか」と語った。「性欲ってたぶん、相手と同化したい、融けあいたい、一つになりたい、っていう衝動だと思うんです。でも愛はきっと、相手の抱くそういった衝動を支えてあげたい、っていう、なんでしょう、そういったある意味で、応援と同じものなんじゃないのかなって――ぼく、今、閃いちゃいました」

 閃いちゃったのならしょうがない。そうかもしれないね、と肯定も否定も示さなかった。

 そして今、富義は、久方ぶりのシチューを口に運びながら、

「愛ってなんだろうね、パパ」

 妻の不敵な笑みに晒され、冷や汗を掻いていた。「わたし、このごろよく考えるの。愛って、なんだろうって。恋って、何だったんだろうって」

「それは、何かな。私の帰りが遅いことを遠まわしに非難しているのかい」

「非難してるよォ。でも、それはそれ。わたし、本当に考えてるの。愛って何だろうって。わたしはパパに恋をしていたけど、あれって愛だったのかなあって」

「愛してくれていないのかい」

「愛されてるって自覚ある?」

 言葉に詰まった。考えたこともなかった。いつも頭のなかに渦巻いていたのは、じぶんが妻を愛しているかどうか、という自己疑心だった。妻への疑念など、端から念頭になかったように思う。

 こちらが押し黙ってしまったからだろう、

「あ、ひどい」妻は唇を窄めた。「伝わってなかったんだ、わたしの、あなたへの、愛」

「いや、伝わっていたさ。ただ、これが愛なのか、と考えたら解らなくなった」

 きみがあんなこと言いだすからだ、と責任転嫁を目論むと、

「でしょ? 解らないでしょ?」

 妻は身を乗りだし、わたしもわたしも、とはしゃいだ。こんな青臭い話題であっても解りあえれば喜びが湧く。富義は思う。愛とはこういうものだ。

「わたしね、考えて、で、解ったの。愛って、たぶん、シチューのルーみたいなものなんだろうなって」

「シチューのルー? カレーじゃダメなのかい」

「もちろんカレーのルーでもいいんだけど、つまりね。カレーのルーを使ったら、肉じゃがだってカレーになっちゃうし、うどんだって、カレーうどんになるでしょ? どんな料理も、カレーのルーを使ったら、カレー料理になっちゃうの。それが美味しいのか不味いのか、それは問題ではなくって、むしろ美味しくなくてもそれはカレー料理としての烙印を押せちゃうわけ。で、たぶん、愛もおんなじなんじゃないのかなって」

 どんな行為も、愛という味付けを施せば、それは善悪を抜きにして、肯定され得る行為として見做される。愛とは、行為そのものではないし、動機でもない。有無を言わさず受け容れられることを前提とした、魔法の調味料と同じものなのだ、と妻は主張した。

「カレーのルーか。おもしろい発想だね」

「わたしとしてはさ、カレーよりもシチューのほうが、ずっとそれっぽい気がするんだけどね」

「そのこころは」

「カレーが嫌いなひとはいないけど、シチューが苦手なひとはいる」妻は食指を振った。「愛だって、それがどんなにすばらしいものだって言われても、苦手なひとはいるんじゃない?」

「おもしろい考えだね」

「でしょ、でしょ」

 褒めてはいるが、内心気が気ではない。解らなくはない理屈だが、なぜ妻がその話をしたのか、その意図が不明だからだ。理由を尋ねても不自然ではない、と判断してから、

「どうして」と尋ねる。「なぜ、その話を?」

「意味なんてないよ。ただ、わたし、愛ってそういうもんなんだなあって思ったの――って話。強いて言うなら、あなたがいないあいだ、わたし、そんなこと考えてるんだよってことを知ってもらいたかったのかもね」

「すごいことを考えていたものだね」

「すごくはないでしょ」妻は笑った。邪気のないその笑みに安堵する。「で、どう? すこしはかわいそうって思った?」

「きみがかい」私はむしろしあわせそうだと思ったよ、という言葉は呑みこんだ。代わりに、「さびしい思いをさせて、わるいとは思ってるんだ」と言った。

「思ってて、だから?」

「だからどうということはないのだけど、ただ、私にとっての愛は、きみにしか向けられない。いや、子供たちにもか。そのことは、知っておいてほしい」

「つまり、どういうこと?」

「つまり」富義は答える。「私のカレーのルーは、きみ専用ということ」

「ふうん、そっか。でもわたし、シチューのほうが好きなんだよね」

 おあいにくさま、と妻は頬づえを付き、野良猫のように目を細めた。

 

 翌日、リオと話をした。妻に不審がられていると伝え、しばらくきみとは距離を置きたい、と告げた。本音を言えば、妻への愛に応えたいと思っただけだ。リオとの密会はやはり不倫にほかならない。明確にこれは裏切り行為だ。やめたほうがいい、やめるべきだ。富義は、はっと我に返ったように認めた。

 シチューのルーになる。私は妻にとっての、シチューのルーだ。

「奥さん、まだ怪しんでますか」

 リオと一体化をしなくなってから二週間ほどが経過した。そのあいだもリオとは、部下と上司として毎日顔を合わせている。昼食を摂っていると、ぎこちなくリオが水を向けてきた。

「ん?」

「奥さんです。蜜雨さんの。あれからずいぶん経ちますし、そろそろ」

「どうだろうな。うちのは勘がするどいから」

「あと、どれくらい……」

「ううん」

 煙に巻くには、リオの表情は真に迫っていた。ここ数日、いつこの話題を切りだそうかとそわそわしていたのには気づいていた。気づいておきながら見ぬ振りをしてきた。

 いまのままの関係をつづけていかないか。

 これまでのような誤った関係ではなく。

 告げるならば今しかないように思えた。丼ぶりの底にはご飯粒が残っており、それを箸でつまみとりながら唇を舌で湿らせ、よし言うぞ、と意気込んだところで、

「部長が言っていたんですけど」

 リオの言葉に遮られる。「今日はこのまま帰っていいって」

「へ?」

「帰社せずに、そのまま帰宅してよいそうです」

「珍しいな」

「夜まで、まだ時間があります」

 消え入りそうな声音に思わず顔を向けると、縋るような目つきでリオがこちらを見つめていた。

 もうやめにしないか、あの関係は間違いだったのだ。

 とは、とても言いだせる雰囲気ではなかった。

「やっぱり、ダメ……ですよね」

「ダメ?」

「ぼくじゃ、ダメなんですよね」

「ああ」そういう意味か、とリオが何を言わんとしているのか判った。

 女性のほうがよいですよね、男なんて気色わるいですよね。リオがそう言ってじぶんの肩を忌々しそうに抱いた姿を幾度か目にしたことがある。たしかに女装をしたリオと交わったときは、興奮した。いつもの倍の時間をかけ、身体が傷だらけになるほど絡みあった。

 ただ、化粧をせずともリオは幼い顔つきのため、ひっつめを解けば、男か女か判らない。スカートでも穿けば、まず男だとは思われないだろう容姿をしている。加えて、骨格が男のものではない。女のものとも異なるが、未発達の体つきのためか、ただでさえ華奢な矮躯が、さらに磨きをかけ弱々しく、柔らかな弾力に富んでいる。ちょうど、第二次成長期を迎えたばかりの少女を思わせる体つきなのだ。小児性愛者ではないと断言する富義ではあるが、若い肉体のよさが解らないほど耄碌はしていないつもりだ。

「場所を移そう」と促す。「ここで話すには、いささかね」

「すみません」

 支払いを済ませ席を立つ。リオの注文した餃子がひと切れ残っていたが、つまもうとは思えず、そのままにして店を出た。

 そとは薄暗く、駅前へ向かう通行人が大河を成している。学生たちがファーストフード店のまえでたむろしている。男は男と、女は女と、それぞれ群れをつくっている。男女の組み合わせもないことはないが、その場合はおおむね、二人ひと組だ。友情と愛情の違いはなんだろう。ぼんやりと思いを馳せる。一つの答えに絞り込むには、茫漠とした問題だったと気づき、深みに嵌る前に沈みかけた意識を呼び戻す。息を吸う。

「ダメってことはないんだ」

 歩きながら言った。前方を向いたまま、溜息と同じように自然と零れ落ちている。「きみが男であることに不満を抱いたことはない。ただ、私には妻がいる。永遠を誓いあった仲だ。やはり、きみとのアレは、いけないことなのだと気づいた」

「いけないこと、ですか」

「妻への裏切りだ。いけないよ」

「ですが」リオは食い下がった。「永遠を誓いあった仲なら、ぼくとの関係くらいで崩れたりは……」

「しないと思えるかい。たとえばきみと私がそういう間柄だったとして」

「ぼくが一番だったとして?」

「永遠を誓いあった間柄だったとして」と言い直す。「そのあとで私がほかの女性とそういうことをしていたら、きみは嫌な思いをするんじゃないのかい」

「嫌ですよ、それはもちろん。でも」

「そう。きみは私のことを嫌いになったりはしない……のかもしれない。誓いあった永遠が途切れることはないのかもしれない。だがそれは私の魅力に起因する問題ではなく、きみ自身のきもちの問題だ。だから、たとえきみが私の不倫を許容できたとしても、妻が許容してくれるとは限らない。きみと妻は別人だからだ。そして私は知っている。妻は、私の不倫を受け容れたりはしない」

「そういう遠まわしの言い方は」

「ん?」

「そういう蜜雨さんの言い方は、優しいのかもしれないですけど」いったんそこで言葉を区切るとリオは、優しいのですけど、と訂正し、「できたら、もっとはっきり言ってください」と唇を一文字に結んだ。「そのほうが、ぼくも気が楽です」

 一つ頷き、

「私ときみの関係だが」と告げる。「もう終わりにしよう。解ってほしい。これは、私ときみの問題ではなく、妻と私の問題なんだ」

「ぼくがいくらがんばっても、どうにもならないという意味ですね」

「どうにもならないことはない。きみががんばったら、私と妻の永遠を毀すくらいはできるかもしれない」

「茶化さないでください」

「事実を言ったまでだ。そしてきみには、その権利がある。私にそれを止める権利はない」

「蜜雨さんは」

「ん?」

「ずるいです」

 とても、ずるいです。

 言ったきりリオは、駅前で別れるまで口を噤んだまま、じっと何かを耐えるように顔を伏せていた。視界の端に、彼の肩が、小刻みに震えているのが見えた。幾度か言葉が出かかったが、ついぞ声のカタチをとることなく、まえを向いたまま、ゆったりと足を動かしつづけた。


 二人の人間がいたとして、そこに生じる関係性は、一つきりではない。一つの関係を終わらせたところで、幾つかの繋がりは依然として残る。縁が切れない限り、それはつづく。

 リオとの濃密な関係に終止符を打ってから、はやくもひと月が経過しようとしている。妻と過ごす時間が増え、週末に子供たちと遊ぶようになった。変わったことと言えばそのくらいで、リオの態度も、彼を部下として接するこちらの振る舞いも、以前と比べてさしたる変化はみられない。

 リオの直属の上司だった男が不祥事を起こし、会社を馘になったと聞いた。いつ引き継がれたのか判然としないが、気づいたときにはリオは正式な部下となっていた。

 罪悪感がないと言えば嘘になる。けして短くはない期間を、文字どおり一心同体に付き合ってきたのだ。こちらの得手勝手な都合で、それをなかったものとしてくれと理不尽な要求を一方的に押しつけた。突き放したも同然だ。

 案に相違してリオは、忠実な部下として、ひいては優秀な後輩として、会社での付き合いを十全に継続してくれている。落ち込んだりひねくれたりと、そういった態度が見受けられるだろうかと身構えていたが杞憂で済んだ。あまりの端然とした様子に、こちらのほうが釈然としないきもちを抱いたほどだ。

 そんなに簡単に割り切れるものだったのだろうか。あれは彼にとって、遊びのようなものだったのだろうか。こちらから袖にしておきながら悶々とした。

 妻は、未だにこちらの不貞を疑っている節がある。急に家族思いな父親の像にちかづいたこちらを、奇異な眼差しで見てくるのだ。

 休日に、妻と子供たちを連れ、近郊の森林公園までやってきた。鬱蒼とした森に囲われており、ときおりリスやタヌキ、果ては熊なども目撃されるそうだ。草原にシートを敷き、そこを基地とした。

 娘と息子と三人でフリスビーを投げあい、全身が汗ばんできたところで、妻が拵えた弁当をみなで啄んだ。

 お腹を満たすと子供たちは充電を済ませた自動車のようにすぐにまた駆け回りはじめる。

 遊具で遊ぶ子供たちを遠巻きに眺めながら、

「部下ができるやつでね」

 世間話を醸しつつ、遠巻きに釈明する。妻はベンチに腰掛けている。お茶を勧めてくれたので受けとり、口に含む。「仕事を覚えたら、私の負担が大幅に減ったんだよ」

 だからこうして家族サービスをする余裕が生まれたのだ、と含みを持たせて主張する。

「植木さんじゃないの」

「あいつは異動した。今じゃ街中で、ダックスフンドに土下座しているらしい」

「なにそれ。へんなの」

「まったくだ。あいつは変なことしか言わない」

 きみとは大違いだ、と胡麻を擂ってみせるが妻からの反応はなく不発に終わる。

「その部下って、女のコ?」

「男だよ」

「男かあ」

「安心したかい」

 サッカーボールが転がってきたので、向こうにいる親子に蹴り返そうとするが、

「不安だなあ。よっちゃんなら、男相手でも欲情しそうだし」

 妻の一言に動揺し、ボールはあらぬ方向へ飛んでいった。

「なにやってるの、もう」

「いや、久しぶりだったから」

「ごめんねえ」妻は口元に手を添え、声を張る。ボールを追って子どもが走る。親と思しき男のほうがこちらへ頭を下げた。子どもがボールに追いつき、男に向かって勢いよく蹴り飛ばす。その様子を見届けてから、

「連れてきてよ」

 思いついたように妻は言った。小腹が減ったのでパンを買ってこいよ、と命じる不良のような軽々しさがある。「よっちゃんがお世話になってるんだもの、わたしだって会いたいよ。妻として、労いたいし」

「リオをか」

「リオさんって言うんだ。いくつくらい?」

「たしか、二十三だったかな」

「じゃあ、わたしの七つ下だ。可愛かったらどうしよう」

「女子社員には人気がある」

「不安?」

「きみがひと目惚れをするかもと? あまり考えたくはないなあ」

「すこしは考えてみてよ。どう?」

「どうって。いい気分ではないよ」

「よっちゃん、知ってる?」妻はなぜか口調から抑揚をなくし、「考えたくないことを考えてしまうのが、暇を持て余した主婦の宿命なんだ。そうだよ。いい気分じゃないんだ」

 ぼやくように言うと今度は一転、柔和な声音で、子供たちを呼ぶ。

 陽射しがぬるま湯のように暖かい。熊にでも遭遇したのか、遠くで犬がけたたましく吠えている。

 

 部下に会わせろ、という妻の要求を拒否する権利は、こちらにはないように思えた。拒んでみたところで、妻からの疑いが晴れるわけでもない。

 妻へ紹介するためリオを家へ招待した。

 あれ以来、まったく調子の変わらないリオをすこし困らせてやろう、というきもちがなかったわけではない。ただ、こちらのそういった疾しいきもちを知ってか知らずか、リオは二つ返事で承諾した。

「でも、本当に行っていいんですか」

 気遣うような言葉をかける余裕までみせる。

「招待しているのはこっちなんだ。気を揉む必要はない」

「ですが」

「私ときみは、上司と部下だ。それ以下でも、以上でもない」

「ですけど」

 煮え切らない様子のリオだが、過去に拘っているというよりもむしろ、ただ面倒くさがっているだけのようにみえた。

「けど、なんだ」苛立っているじぶんを新鮮に思う。

「ぼくは、蜜雨さんと、その……」

「過ぎたことだし、妻は何も知らない」

「ぼくは憶えています。忘れてなんてないんですよ」

 潤んだ瞳に、八の字に寄った眉。久しぶりに見たリオの表情は、富義のなかに眠っていた嗜虐性を呼び起こした。

「前にも言ったが、毀したければ毀せばいい。私にそれを止める権利はない」

 言ったところでリオは何もしない。感覚的に理解している。こうして発破をかければかけるほど、リオは手も足もだせなくなる。すこしくらい行動に移してほしい、という嫉妬のようなものが、胸の奥で渦巻いている。


 よく晴れた日曜日の午後だ。リオは時間どおりにやってきた。手土産不要、と言いつけておいたのに、高級そうなケーキを持参していた。

「あれ、お子さんは?」

 居間に通すと、開口一番にリオが言った。会うのを楽しみにしていたのに、と言いたげな眼差しをこちらに注ぐ。

「お客さまが来るからって、預けたんです。今ごろ母と映画でも観てるんじゃないかしら」

「わざわざすみません」

「いいのいいの。こういうときくらいしか、羽、伸ばせないし」

 妻とリオの会話を耳にしながら、富義は三人分のコーヒーを淹れた。もらったケーキを皿に載せ、テーブルまで運ぶ。こちらが家事に手を出すことを嫌っていた妻だったが、子供たちが産まれてからは担当させてくれるようになった。今朝などは、あなたのお客さまなんだから、あなたがやって、と言ってきたくらいだ。こちらがそうしてせわしなく台所を行ったり来たりしている間に、妻たちは談話に華を咲かせていく。

「驚いたよ。打ち解けるのがはやいな」

「ありがとうございます」リオはカップを受けとる。「なんでしょうね。なんだか、初対面じゃない気がして」

 目を見開いてから妻は、わたしもわたしも、と手を打った。

 三人で取り留めのない雑談を交わした。富義はもっぱら聞き役に徹した。会社での夫はどうだとか、家での夫はこんなに頼りないだとか、そういった愚痴のような会話を妻が一方的に展開し、リオもリオで、会社での先輩はきょうの倍は鼻の下を伸ばしてますよ、と揶揄するような発言を連発した。さすがに鼻の下は伸ばしていない。二人の舌鋒が直接こちらへ飛んでこないように反論は挟まずにおく。

「いいお家ですね」

 しばらくしてからリオが言った。

「そうか?」社交辞令にしてはタイミングがおかしく、あまりにしみじみとした物言いだったので、妻と顔を見合わせニガ笑う。「電車の音がうるさくて、伝わってくる振動で食器が毎日バンド演奏するような家だぞ」

「そうなの。夏には蚊がたくさんで、川のほうからドブの匂いが漂ってくるような家なの」

 いい家だろ、と嫌味に聞こえないように明るく言い、笑いを誘う。

「たいへんそうですね」リオは部屋を見渡し、「でも、いいお家です」と棚に飾ってある、息子と娘の写真に目を止めた。「だって、こんなにも温かです」

「そう思う?」

「はい。とても」

 妻はまんざらでもない様子で礼を言った。

 いっぽうで富義は、リオの物言いに、手の届かない場所への憧憬にも似た、大いなる諦観が滲んでいるのを見抜いた。それは、嫉妬や、ひがみなどとは対極にある、比べるのもおこがましいほどの、純粋な尊敬の響き、望むことを放棄した者のつぶやきだった。

 初めてリオに底知れぬ淋しさを覚えた。後悔の念が、津波のごとく音を立てて迫りくるのをただ静かに予感した。

 

 子供たちの話題になった。気乗りしないこちらを差し置きリオが聞きたがり、妻が話したがった。いちど席を立ち、コーヒーのお代わりを淹れているあいだに、妻はアルバム用のメディア端末を引っ張りだしてきた。手製の作品を紹介する陶芸家のように淡々と、かつ熱心に説明しはじめる。

「でね、これが去年、水族館にいったときのやつ」

「先輩の待ち受け画面ですね」

「そうそう。よく知ってるね」

「いつも会社で眺めてますから。いやでも目に付きますよ」

「親ばかー」妻が口元に手を添え、茶化すように唇の合間から息を漏らす。「で、こっちがその親ばかが息子に嫌われてるところ。娘もパパが嫌いなので、いっしょになって悪しき魔王を退治しています」

「おいおい、初耳だぞ」慌てて二人のあいだに割りこむ。そんな写真を撮られていたとは知らなかった。写真を見て、納得した。「ああ、あのときのか」

「先輩、なにをしたんですか」

 写真には抱きしめようとした息子から激しい抵抗を受け、顔や胸などを蹴りあげられている情けない男の姿が映されている。背中には娘が飛び乗り、両手を首に回して、絞めあげているように見える。が、それは妻の説明のせいで、そのような先入観に囚われるのであり、真相は、日曜日の朝方に放映中の魔法少女ゴッコをしている仲睦まじい親子の交流を捉えた一コマだ。

「ウソばっかり言わないでほしいなあ。きみの説明で合っているのは、子供たちがいっしょになって私を攻撃している、というところだけじゃないか」

「そう? じゃあ逆に聞きますけど、子供たちに好かれてるって自覚、ある?」

「待ってくれ。そういうことを言いたかったわけじゃない」

「何ムキになってるの。ちょっとしたジョークじゃない」

「ムキになっている? それはきみのほうじゃないのか」

「へえ、ふうん。そう思うんだ。ていうか、そういうことを言いたかったわけではないって、何。わたしがなにを言おうとしていたのか、よっちゃん、ちゃんと解ってる?」

 険悪な雰囲気だ。はっと我に返り、

「すまない」富義は謝った。妻へではない。

「夫婦喧嘩はよいことです。ケンカするほど仲がいいんです」

 見苦しいものをみせてしまった、と口を衝きそうになり、寸前で「そう言ってもらえると助かる」と言葉を差し替える。

「ケンカなんてしないほうがいいよ。気分わるいし」妻が頬づえを付く。窮屈そうに口を開きながら、朗らかな微笑を湛えてもいる。完全にへそを曲げたときの仕草だ。

「そうですね。でも、仲直りは、ケンカなしにはできません」

「いいこと言うじゃないか」

「結婚しなくちゃ不倫できないのとおんなじね」

 せっかく場を和ませようとしたこちらの配慮を、妻は素足で踏みにじった。重い沈黙が、三人のあいだに漂う。

「先輩も、怒るんですね」

「ん?」

「短い付き合いですけど、見たことなかったので。こんな、先輩の顔」

「そうか?」

「はい。会社じゃ怒らないので」

「家だとかんたんに怒るけどね」言った妻だが、口振りは軽いもので、夫が滅多に怒らないのはまあそのとおりね、と承知していると判らせるのに充分な響きがある。

「怒るというより、不機嫌にならない、って感じかもです。蜜雨さんはいつもおおらかなので」

「いまは不機嫌になってたか」

「そう見えましたけど勘違いかもです」

「いや、なってたね。こんな顔してた」妻はゆびで目を吊りあげた。下唇を突きだす。断じてそんな顔はしていない。ためしに同じ顔をしてみせるとリオが噴きだし、飛沫した珈琲が顔にかかった。


 夕飯もいっしょに、という妻からの申し出をリオは断った。子供が帰って来たときに見知らぬ男がいたら可哀想です。淋しい思いをさせてしまったんですから寝るまでのひとときくらいは甘やかしてあげてください、とまるで子供たちの思いを代弁するかのように言った。

「そう? でも、また来てね」

「おじゃまでなければ」

「こんどは子供たちも紹介するよ」

「はい。楽しみにしています」

 駅前まで送っていくことにした。

 女のコじゃないんだから。なぜか妻がリオを庇うようなことを言った。暗がりで見たらこいつは女のコにも見えるからなあ、と冗談めかし言うと、それもそうね、と素直に引き下がった。

 そとは蒸し暑く、夕焼けを背に商店街へ抜けると、その賑やかさに、べつの世界へ迷いこんだような感覚になる。きょうは特別に穏やかな時間を過ごした。リオはこちらのうしろを、影のようにくっついて歩く。

「すまないな。疲れただろ」歩く速度を緩め、よこに並ぶ。

「いえ、楽しかったですよ」

「うちのは遠慮を知らないから」

「そういう言い方はよくないです。気さくで、やさしそうなひとです」

「タイプか」

「ぼくがですか?」

「まあ、うん」真面目に返されても困る。茶化したつもりが、不発に終わった。

 女に興味はないのか、という質問をいちどは投げかけてみたかったが、漠然と彼を傷つけてしまいそうな予感がして、これまで訊いてこなかった。だが訊くなら今だろう、と思い、水を向ける。

「彼女とか、つくろうとは思わないのか」

「彼女、ですか? そうですね。前につくろうとしたんですけど、うまくいきませんでした」

 やはり男でないとダメなのか。

「つくったのはいいんですけど、さすがに粘土だと」

「ん?」

「ほら、粘土はべたつきますし、もろいじゃないですか。抱いて寝ることもできません」

「ああ」

 ジョークか、と気づき、笑みが漏れる。「たしかに粘土でつくったらダメだな」

「つぎは紙粘土にしようかと思います」

「それがいい。ちゃんと乾かすんだぞ」

「色も塗りますよ」

「名前は何がいいかな」

「そうですね」しばらく考えこむように顔を伏せていたリオは、間もなく、「この話題はやめましょう」と笑みをつくった。「なんだか、せつないので」

 まったくだ。

 胸が絞めつけられるようだ。不快感よりもむしろ、その痛みに心地よさを覚えた。抱きしめたいと思った。人目が気になり、できなかった。そんなじぶんを卑しく思い、情けなく思った。

「あす、時間あるか」

「あしたは会社ですよ」

「終わったあとだ」

「たぶん、あさってになってますよ」

「徹夜の予約は入るかな」

「徹夜が予約制だったなんて初耳です」リオは地面に目を落としたまま言い、すこし経ってから、顔をあげた。こちらが眼差しを注いでいたからだろう、それに応えるような真顔をつくり、

「蜜雨さんの指示なら、ぼくは拒めません」と言った。「上司の言うことはぜったいです」

 絶対ということはなかったが、あすの夜を共に過ごす約束を交わした。

 駅前で別れ、踵を返す。雑踏の流れに沿って歩を進める。高校生くらいの女の子たちがまえを歩いている。三人組かと思いきや、一人、会話に加われず、あとにくっついて歩いている子がいた。三人の背中をただにこやかに眺めている。仲間外れにされているというわけではなさそうだし、腰巾着のように女王様につき従うような性格の子にも見えない。四人のなかでただひとり達観しているふうであり、空気と水のように密度のちがう世界に身を置いているような、異質な匂いが、そのコからはした。ふと、リオの姿と重なった。

 馴染まないのではなく馴染めないのだと思った。いや、馴染むことはできるが、そのためには、周囲をひどくかき乱す必要がある。水と油を混ぜるような、四肢のもげそうな激しさが必要なのだろう。馴染んだあとにはふたたび分離することを、世界を達観している彼女たちは承知している。だからこそあんなにもせつなそうな表情で、しかし馴染みたいと望むぬくもりのそばから離れず、触れずに済む距離から、ただにこやかに眺めている。富義は思う。一滴くらい、水のほうが油に近づき、分子結合をしてあげてもよいのではないか。

 帰宅すると妻が夕飯を用意していた。

「シチューにしようかと思ったんだけど、やめて、きょうはスープパスタにしてみました」

「おいしそうだね」

「おいしいォ。だって元はシチューだもん」

 子供たちはあと一時間もしたら、妻の母が車で送り届けてくれる予定だ。夕食は済ましてくると言っていた。食卓につき、妻の着席を待ってから、戴きます、と手を合わせる。二人きりでの食事は久しい。

「リオちゃん、なにか言ってた?」

「いや、とくには言ってなかったと思うけど」

 答えてから、

「ちゃん?」

 大袈裟に目を剥く。

「え、ダメ? だってかわいかったから」

「にしても、ちゃん付け? きみが?」

「だって、『さん』って感じではないでしょ」

「そうだけど」

 敬称のなかで一番しっくりくるのは、確かに「ちゃん」のように思えた。それにしても妻が、初対面の相手をそこまであけすけな愛称で呼ぶのは珍しい。こちらのことを「よっちゃん」と呼びだしたのだって、付き合ってからずいぶん経ってからのことだ。

「で、何だっけ」

「だから、リオちゃん。何か言ってなかったって」

「ああ」何か気がかりがあっただろうか、と考える。

「奥さんきれいですね、とか」

「きみのことはべつに」失笑したら睨まれた。「いや、なんだったかな。言ってたよ。楽しい奥さんですねって」

「それだけ?」

「やさしそうなひとです、とも言ってたかな」

「内面しか褒めてない」

「外見しか褒めないよりはいいじゃないか」

 あまり気を負う必要のない話題のようだと判断し、据え置き型の大型メディア端末を起動させる。映画専用チャンネルでは、キャリアウーマン風の女が、髭面の男の頬をげんこつで殴りつけ、涙ながらに咆哮しているシーンが流れていた。数年前にヒットした恋愛映画であるらしい。こちらの意識が映画へと向かいつつあるのを知ってか知らずか妻は、

「リオちゃんにアドバイスしてあげて」と声を高くした。「内面を褒めてから、ちょっと照れくさそうに外見を褒めるといいよ、って」

「そんなに気に入ったのかい」

「もちろん」

「リオのことだよ」

「そうだよ? あ、これ知ってる」妻は映画に目をやった。咥えていたスプーンを口から引き抜き、人差し指代わりに画面へ向けて突きつける。「このあと女のひとが宇宙人と恋人になって、大統領と不倫するの。で、世界が救われるんだよ」

「なんだって」

「観てて。おもしろいから」

 どうやら妻は観たことのある映画らしい。促されるまま、映画に意識を移す。おもしろくなさそうな妻の説明を耳にしたからか、当初こそ穿った見方をしていたが、やがて没頭する。気づくと妻はとなりで船を漕いでおり、画面の向こうでは、ヒロインが宇宙人と恋人となり、大統領と不倫して世界が救われた。富義は久方ぶりに認めた。妻の言うことは正しい。たとえ間違っていようと、正しいと思わせる何かがある。


 午前中のうちに、植木から呼びだしの連絡を受けた。内線での呼びだしだったので、個人的な話ではないと判断ついた。あまり使われていない地下の会議室で待っているとのことだったので、部長に一時間ほど抜けますと伝えてから向かった。

「どうした、こんなところで。愛の告白か」

 コンクリート張りの部屋は季節感がなく、肌寒い。

「仕事っスよ。ふざけないでほしいっスね」

「おまえに言われるとはな」

「いや、まじめな話っス。でなきゃわざわざこんな場所に呼びだしたりなんかしないス」

「なんでここなんだ。電話じゃダメなのか。いつもなら屋上か、そうでなくたって談話室で充分だろ」

 階段を使わなければ降りられないこんな辺鄙な部屋を指定せずとも。

 皮肉半分にわけを尋ねる。

「ここが唯一、完全に外界と乖離した部屋なんスよ」

 言葉の意味は理解するが、

「そとで話すわけにはいかないのか」

「先輩も知ってるじゃないっスか。そとはどこも、監視カメラに、傍聴マイク――障子に目あり壁に耳ありってレヴェルの話じゃないっスからね」

 市民安全保障法の制定により、街中に死角はないと言ってよい。常に行動をデータ化され、記録されている、というのはそれを意識してしまえばけしてきもちのよいものではないが、現状、それを意識して暮らしている者は、犯罪を計画している者以外にはいないと言っていい。市民安全保障法が国会で審議されていたあいだはあれほどプライバシーの問題が取り沙汰されていたというのに、いまやプライバシーという単語は、日常生活のうえでは滅多にお目にかかれない。日常を崩されなければとくに不満はない、というのが、この国に住まう大多数の者の総意であるらしい。

「記録に残せない話ってことか」

「詳しいことは話せないんスよ。とりあえず会社の沽券に関わることっス」

「問題処理――おまえんとこの仕事ってことか」

「そうっスね。オレんとこの仕事です。で、先輩には簡単な確認だけさせてほしんスよ」

「その前にいいか。部長に話はとおしているのか。なんで俺なんだ」

「訊く相手がってことっスか? 正直、部長は怪しいんスよ。どっちつかず、グレーゾーンってとこっスね。その点、先輩はたぶん関わってないじゃないっスか」

「何の話かがまず解らん」

「蚊帳の外の人物なら、偽ることはしない。というか、できないじゃないっスか。だからッス」

「知らないことは話せないぞ」

「それでいいんスよ。先輩はただ、知っていることだけを答えてください」

 わかった、と承諾すると、植木はいくつかの質問を事務的に並べた。概要としては、セキュリティのアップデート時に、何か意図的なバグを組み込んだりはしていないか、という不正アクセスの幇助を疑う内容だった。富義の知るかぎり、そういった事実はなく、たといプログラムの不正改竄があったとしても、何かしらのバグやバックドアが確認されれば、その都度ふたたびのアップデートを要求されるので、あまり意味のある行為とは思えず、わざわざそんな酔狂な真似を企む者はいないんじゃないか、と意見した。

「そうなんスけどね、ただ、ざんねんなことに、わざわざしないようなことをする者のことを酔狂と呼ぶんであって、やっぱり酔狂な者ってのは、どこかしらには存在してしまうんスよね」

「ぜったいはぜったいない、みたいな理屈だな」

「ちなみに、確認なんスけど」

「まだあるのか」

「これはまあ、念のためっス」

「いいぞ」

「先輩のとこにアップデートを要求するのは誰っスか?」

「なんだ、忘れたのか」肩の力が抜ける。植木も以前は同じ部署にいて、同じ仕事を任されていたのだから、知らないはずもない。「そりゃ、〝あいつら〟だろ」

「部長っスか?」

「笑えるジョークだ」現におかしかった。「アップデートを指示するのは部長だし、部長の端末からでしか受注の確認ができないのは確かだが、俺ら人間にそれを要求するのは、エイリとアンだ」

 二つ併せて「エイリアン」と読めるのは偶然であるらしいが、ともかく現在、この国のネットワーク社会を司るのは、エイリとアンの二つからなる人工知能である。ビッグデータとして〝彼女たち〟は、膨大な情報を日夜、集積し、かたや巨大なクラウドと化して、様々な企業や公的機関のデータ管理を一身に引き受けている。富義の勤める会社は主として、そのシステムのバグを修正する役割を担っている。

「つまり、バグを指摘するのも、修正を指示するのも、人工知能ってことっスよね」

「まあ、そうだな」植木のいわんとするところが解らない。「人工知能の欠陥を疑っているのか」

「そうじゃないんスけど、まあ、訊きたいことは訊けたので、もういいっス。時間割いてもらってありがとうございました」

「おまえもたいへんだな」大方、どこぞの誇大妄想狂がクレーマーと化して、植木の部署に抗議の電話をしてきたに違いない。

「たいへんだ、たいへんだ、って騒げているうちはまだ安全なんスよ。騒ぐのはいつだって外野なんスから」

 きょうオレが訊いたこと、話したことはすべてオフレコでお願いします。

 言い残し植木は部屋を出ていった。顔つきだろうか。富義の知る植木よりも、数段老けた印象を覚えた。

 あいつもようやく苦労することを覚えたか。後輩の成長をよろこばしく思い、半面、じぶんもあんな顔をしているのだろうか。あごを撫で、鏡はないかと思わず部屋を見渡した。


 昼のうちにビジネスホテルを予約した。リオには部屋の番号を教えておき、さきに行かせてから、時間をずらしチェックインする。夜景のきれいな部屋で、これまでにも幾度か、リオとこのホテルを使ったことがある。

 ひとまずビールで乾杯し、軽く食事をしながら、世間話をした。昨日の話題がほとんどで、大部分が、妻についてだ。

「変わっていたろ」

「さくらさんですか? 蜜雨さんほどではないです」

「変人扱いしないでほしいなあ」

「だって、すごく変ですもん。その自覚がないところなんて、もうもう」

「何だ」

「手に負えません」

「妻も自覚がないからなあ。その点、似た者夫婦というわけだ」

「似てはないですよ」

「それは、私も思う」

 すでにシャワーを浴びているのか、昼間、会社では感じなかった柑橘系の、よい香りがリオからはした。肩を弾ませて笑ったときなど、ちょっとした仕草のあとに漂う。この部屋のシャワー室ではなく、どこかほかのところでわざわざ浴びてきたのだろう。呼びだした理由を伝えていなかったので、どういった対応をとるべきか、と迷っている様子だ。

 ほろ酔いしてきたところで、富義は切りだした。

「私たちの関係のことなんだが――」

「はい。さくらさんの、浮気の相談ですよね」

「やっぱり私の都合で一方的に終わりにするというのは早計な判断だったように――え?」

「へ? さくらさんの話がしたかったわけじゃ……」

「待て待て、何の話だ。さくらの浮気? なんだそれは」初耳だ。

「だって、え? あれ? さくらさん、浮気されてますよね」

「そうなのか? え、うそ、なんで」

「ちょっと蜜雨さん、落ちついてください。こわいです、ぼく、今、すごくこわいです」

 気づくとリオの肩を両手で鷲掴みにしていた。餌を目のまえにした野獣のようなかっこうであり、じぶんの不倫を棚に上げ、妻の浮気に業腹なみじめな男の姿でもある。

「すまない」

 ベッドに腰掛ける。頭を抱えるようにし、「話を整理したい」と投げかける。「妻が浮気をしている、というのはどういう意味か」

「いえ、ぼくの勘違いかもしれないんですけど」

「何でもいい。話してくれ」

 リオは訥々と語った。

 そもそもの発端は、リオの通うダンススクールでのことだ。

 そのスクールでは、ダンスのジャンルによりクラスが別れており、違うジャンルの生徒とはあまり顔を合わせる機会がない。実のところリオは、そのスクールで妻を見掛けており、一方的に知っていたそうだ。妻は、インストラクターと仲が良く、あるときには、帰り際にいっしょに歩いている姿も見たという。妻がダンススクールに通っているのは知っている。なので、その話自体は、とくに疑問なくすんなり受け容れられた。むしろ、リオがあれほど無駄のない、しなやかな肢体をしていることに納得したくらいだ。ダンスを習っているならば、それも当然か。

「その話が事実だとして、だとしてもそれだけで妻が浮気しているとは――」

「ですが、蜜雨さんは知らなかったじゃないですか」

 痛いところを突かれた。信じがたいことに、妻は、こちらの知らないところで、こちらの知らない人物と交友があり、それも、かなり長い期間つづいている。何もないわけがない。

「だが信じられない」

「ちがいます。蜜雨さんは、信じたくないだけです」断定的に言いきってからリオは、「もちろん」と語気を絞り、「奥さんが不倫をしていない可能性もあります」と補足した。「ただおしゃべりをして、友人としての付き合いをつづけているだけかもしれません」

「だったらいいのだが」

「ですが、蜜雨さんの言い方で言えば、それは不倫ではないですけど、りっぱな浮気です」

「妻の心が私から離れていると?」

「離れていないと自信をもって言えますか」

 言えなかった。富義は思う。私は妻に愛されているのだろうか。私は妻を愛している。しかし、妻はその愛を受け容れているだけで、こちらに対して愛を注いでくれてはいないのではないか。考えれば考えるほど不安になり、その猜疑心は晴れることがない。だからいつだって、直視せぬようにと、深く考えないようにしてきた。私が妻を愛していればそれでいい。そうじぶんに言い聞かせてきたのだ。

「ぼくにできることがあるなら言ってください」

 リオがとなりに腰掛け、こちらの頭を包みこむようにする。

「何でもします。蜜雨さんのためなら、何でも」

 支えられたことで、じぶんを支える必要がなくなった。全身のちからが抜けていく。

 リオの吐息がくすぐったい。首筋から鎖骨、胸、と脱衣に従い、くすぐったい箇所が順々に下腹部へと降りていく。富義は身を委ねる。

 

 鍵と穴はセットである。鍵があれば穴がある。穴があれば、それを埋める鍵がある。一方が鍵ならば他方は穴である。

 久方ぶりにリオと一体化した。一体化そのものはこれまでにも幾度も繰りかえし行ってきたが、昨晩は、新たな世界が拓けた。

 初めて鍵でなくなった。穴のきもちが解った。穴のきもちよさを覚えた。

「蜜雨さんは、本当にいじめられるのがお好きですね」

 そんなことはない。反論したいが、声を出せない。

「こんなところを舐められて、まだ意地を張るんですか? いい加減に認めたらどうです? 蜜雨さんはねえ、おしりの穴をいじられてとろけちゃう、ヘンタイさんなんですよ」

 四つん這いの格好は、羞恥心よりも、屈辱的な感応をつよく抱かせた。やがてそれも、こちらの水風船がぱんぱんに張り、理性が収斂しきったころには背徳感に代わった。むずがゆい痺れしか感じなくなり、もうどうにでもしてくれといった自棄にも似た脱力感が全身を覆う。

 舌が、リオの緋色の熱帯魚が、こちらの鍵穴を執拗に攻める。嬲るようなそのチロチロとした動きは、やがて鍵穴の内部にまで及んだ。

「イヤなら言ってくださいね。ぼく、蜜雨さんをいじめたいわけじゃないんですから」

 声を出せないわけではない。ただ、出した途端に、子豚のような情けない悲鳴を漏らしてしまいそうで、だから今は内なる慟哭を堪えるよりなかった。

「ここが解れたら、つぎはどうなっちゃうのかなぁ?」リオはご機嫌だ。顔が見えなくとも、恍惚としていると判る。

 ローションだろうか。得体の知れない、ぬめり気を感じた。

 熱く、プニプニと弾力のある物体が鍵穴に押しあてられる。

「ゆびでもっとよく解したほうがいいんですけど、でも、もうがまんできないみたいですし」

 がまんできないわけではない。がまんしかしていない。

「あ、ちがいますよ」鍵穴に、何かがぬぷりと滑りこんでくる。「蜜雨さんのではなくって。ぼくの、です」

 生き物のようだ。それは熱く、ただ熱く、鍵穴の内部を焦がす。そこが鍵穴である以上、侵入してきたのは鍵であるはずだのに、ストローに五寸釘を無理やり差しこんだようなちぐはぐさがある。

 富義は耐えきれずに呻き声を漏らした。

 奥を掻き乱される分にはまだ余裕がある。リオが体重を掛けてくるたびに、「毀れてしまう、やめてくれ」と悲鳴をあげそうになったが、それを口から漏らさないように踏ん張るくらいの矜持を働かせる余力はあった。しかし、引き抜かれるときには、頭が真っ白になった。塞いだはずの口が開き、じぶんのものではない声が弾けた。それを聞いて、リオはますます鍵穴を掻き乱す。「開かないはずはないんだけどなあ」と何度も鍵をガチャガチャとねじ回し、宝箱を解錠せんとする乱暴な動きをつづけたかと思えば、「あれ、こっちの鍵だったかな、それともこっちのだったかな」とべつの鍵をのべつ幕なしに差しこむような大胆な振幅運動をみせる。これが堪らない。外側からひと息に飛びこんでくる鍵は、さながら戦車から飛びだした砲弾のようであり、こちらの臓腑を内側からこれでもかと突きあげる。かと思えば、鍵穴の奥底を突きあげた砲弾は、バンジージャンプをした人間のように、いちばん深い秘奥に達すると、侵入してきた勢いと寸分違わぬ動きで、ぬっぽりと鍵穴のそとへと抜けでていく。さながら津波の前の引き潮である。体内のすべてを根こそぎ持っていくかのような吸引力を発揮し、巨大な注射器を鍵穴に突っこまれ、内臓すべてを引きずりだされるような感覚を、砲弾の轟きが訪れるたびに味わう。

(富義の実感からすればこのような叙述となり、この感応に嘘偽りはないと断言できるが、実際には、リオはほとんど前後運動をしておらず、ピッキンがごとく、鍵穴へ、一般的なものよりも小ぶりな水風船を入れたまま、小刻みに腰を回し、富義の前立腺をやさしく圧迫しているにすぎなかった。仮に富義がこれまでリオへしてきたような豪快な動きをしようものなら――言い換えれば、エンジン駆動がごとく己が分身を鍵穴からぐポぐポと出し入れされようものなら、文字どおり処女喪失の痛みを体感し、そのあまりの破滅的衝撃に阿鼻叫喚の地獄絵図を体現したことは言を俟つまでもない)

 きもちいいとは思わない。富義の知っている「快感」とはまったく異質の衝撃だ。純粋な苦痛というわけではない。何十年と溜めこんだ鬱憤を小刻みに、連続して発射するような止めどない解放感がある。どこまでも自由だ。何をしても許されると思った。このまま死んでしまってもいいと思い、このまま殺されてもいいと思った。知らず、未知の汁が、鍵穴から垂れはじめ、リオの動きに合わせぬぽぬぽと卑猥な音をたてる。

 底知れぬ爽快さはリオへの隷属を抱かせる。無条件にすべてを捧げ、さらけ出す追従のこころを経て、発露する感情の高まりを感じた。富義は昇りつめた。固く閉ざされていた鍵が開き、止めどなく白濁の魂が溢れでる。富義の水風船は硬度を増し、ロンギヌスの聖槍もとよりペニアヌスの精槍(せいそう)――聖なる鍵となり経て高く反り立ち、ありもしない鍵穴を嘱望しはじめたが最後、なにもない暗がりへ、そのとろけきった理性をつらつらと吐きだした。聖なる鍵と化した水風船には、理性が詰まっているはずだったが、その理性はもはやぐにょんぐにょんに融けきっており、張りつめた水風船にしたたる白濁の魂は、蝋燭のロウを思わせた。

 昇りつめたはずの富義はしかし、そこから堕ちることがなかった。昇りつめたまま天空に残留し、光のない空間でただひたすらにペニアヌスの精槍を反り立たせ、対なる鍵穴にてリオの鍵を咥えつづけた。白濁の魂はやがて清らかな透明さを宿し、なお流れつづけた。

 気づいたときには夜が明けはじめており、となりにリオの姿はなかった。

 シャワーを浴び部屋に戻ると、鼻が洗われたためかひどく獣の匂いがした。明かりのしたで見たベッドは踏み荒らされた花壇がごとく乱れており、シーツには至る所に、薄茶色の染みができていた。水風船は萎みきっている。臀部を擦るとなぜだか腹の底がひどく疼いた。

 泥のような背徳感と気恥ずかしさを胸に出社した。リオは何事もなかったかのようにふだんと同じく、控えめな笑みを振りまいていた。

 

 離れられない、と思った。

 どうすればよいものかと頭を抱える。

 こんな姿を知られれば、大部分の者が失望の気色を示すだろう。妻や子供たち、果ては赤の他人ですら、白々しい目でこちらを見、うしろゆびを差すに違いない。リオだけが例外だ。私たちは異質なのだ。仲間なのだ。焦りにも似た諦観が着々と胸のうちにわだかまりつつある。壁際まで追い込まれた二匹のネズミが、一緒に食われるならばそれもよいだろう、と無数の猫に囲まれ臍を固めるのにも似た心境だ。心の底では、まだ大丈夫なのではないか、とお気楽な考えを秘めてもいる。

 二人だけのイケナイ関係である。

 リオと一体化するようになってから初めて、彼との関係に危険な香りを嗅いだ。麻薬依存症の患者を間近で見た気分だ。病みつきになる、という表現がしっくりくる。あれは快楽というものを逸脱した行為だ。無我の境地に達することのできる、言い換えれば誰もが悟りを拓けるほどの刺激に充ち満ちている。誰もが容易に世界観を開拓され、それまで見てきた景色を一変させるほどの衝撃を兼ねそなえている。これほどの境地にリオは幾度も立っていたのかと思うと、富義は得体の知れないおそろしさに襲われた。じぶんがその境地に彼を幾度も立たせていたかと考えると、そのおそろしさに磨きがかかり、ピカピカと宝石のように輝いた。背徳感が、常に胸の表層ちかくに、しこりのような圧迫感を主張している。意識すると水風船の付け根、その裏側がぞくぞくした。

 堕落しつつあるじぶんを認識するじぶんがいる。彼は言う。堕落しつつある? なにをバカな。とっくに堕落しきっているだろう。その現実から目を逸らそうとしているだけではないのか。富義は自覚し、いよいよじぶんが深みにはまったことを理解した。

 攻守交代するように、リオとは鍵と鍵穴の役割を一日ごとに代わる代わる演じた。鍵穴のきもちが解り、それをきもちよいと認めるようになってからは、鍵としての所作にも変化が生じた。どう突けば心地よく、どのように攻めれば喘ぐのか手に取るように判った。じぶんの鍵穴を扱うように動けた。

 納入期限が近づくと、リオとの濃密な時間をとることがむずかしくなる。そんなときは、独りでじぶんの鍵穴を解し、底知れず疼く内なる熱を諫めた。

 休日の家族サービスの時間もそうだ。子供の買物に付き添い、文房具屋で鉛筆削りを見て、鍵穴が疼くこともあった。

 何かが決定的に狂いはじめている。これを「狂う」と表現することを富義は半ば意識的に嫌悪するが、時と場所を構わず発情するじぶんの鍵穴はもはや狂っていると形容するほかなく、そう判断するよりない異常さを振りまきはじめている。

 ネジの穴がバカになる、という言い方がある。

 まさしく私の鍵穴もバカになった。

 ベッドのうえで自虐的に嘆くと、ばかにしたらいやですよ、とリオは脹れた。

「まるでぼくのせいみたいです」

「いやいや、きみのせいじゃないか。きみのマイナスドライバーで私はすっかりバカになった」

「またよく解らないことを言って。そんなわるいひとは、こうですよ」

 マイナスドライバーがネジ穴をきゅるきゅると捏ねまわすように、リオの熱く滾った水風船がこちらの奥ふかくへと埋もれていく。リオが動くたびに、こちらのネジは締まるどころか、熱く固く突きだしていく。

 激務の時期を乗り越えるたびに年甲斐もなくリオと戯れた。階段をのぼるのが億劫だったり、腰が痛くなったり、と老いを感じることが多くなったが、リオとのまぐわいを煩わしく思ったことはない。鍵穴になるための準備として、行為の前に鍵穴をきれいにする習慣がついた。これは確かに面倒ではあったが、この習慣が講じてか、日常的に食事の量が減った。食わなければ、出ない。洗浄する手間が省けた。おかげで体重が減り、文字どおり身体が軽くなった。

 リオとの一体化は、その激しさと趣向を増した。一向に飽きをみせないじぶんに、まるで発情期の獣ではないか、と呆れることもしばしばであったが、リオにこう言われてからは気にしなくなった。

「知らないんですか。人間も、獣なんですよ」

 獣ではないだろ、と言った。するとリオは、

「獣なんです」と主張を譲らなかった。「ただ、人間の皮を被っているだけで」

 猫を被るみたいな言い方がおかしかった。

「四本足で、ケムクジャラで、牙があって、獰猛で」

「ぜんぶヒトとは違うね」

 からかうように指摘すると、リオは腹這いになり、臀部を高く突き出した。合図と受けとり、富義は仰向けになり、彼のつくったアーチに潜りこむ。局部に口を近づける。上から垂れる水風船は、すでに固く尖っていたが、それでもなおこちらのひとさしゆび程度の大きさしかない。口に含むと、甘酸っぱい蒸れた匂いがした。

「四つん這いで、ケムクジャラで、歯をたてて、淫乱で」

 こちらが口でしごくと、リオは子猫のような声で喘いだ。

「ざんねんだけど」口を休め、富義は言った。「きみはケムクジャラではない」

「ざんねんですけど、蜜雨さんはケムクジャラです」リオは体勢を変え、こちらのうえに跨った。頭と足があべこべになる。互いに、互いの水風船を口に含みあう。「蜜雨さんは、立派なケモノなんですよ。それがぼくはうれしいんです」

 この会話以降、リオと一体化するたびに思うことがある。

 獣で何がわるい。脱ぎ捨てたヒトの皮など、いくらでも着直せばいい。

 人はみな、獣なのだ。


 ママがね、と娘が言った。「さいきん、こわいの」

「ん?」

「ママね。どなるんだよ」息子が補足した。告げ口に加担したことを心苦しく思っているのか、声がちいさい。「お皿をね、割ったりするの」

 妻が習いごとのダンススクールへ行くというので、そのあいだ子供たちと公園で遊んだ。有料の大きな屋外施設で、あらゆるスポーツを楽しめる。子供たちとバギーレースをし、三百六十度トランポリンの部屋で真下から吹く風を受け宙に浮いたりした。

 小腹が減り、大きなキノコのかたちをした屋根付きのベンチでアイスクリームを食べた。疲れたのか、子供たちはあまり遊びたがらなかった。

 保育園は楽しいか、ともだちと仲良くやっているか、などと話を振ると、子供たちはあまり気乗りしない様子で答えた。

 富義は理解した。これは疲れているのではなく、元気がないのだ。

 何か困ったこととかあるんじゃないのかい。

 迂遠に水を向けると、娘がようやく、ママがね、と白状した。

「お皿を割る? それは、わざとなのかな」

「洗ってるとね」

「うん」

「ガシャンって、やるの。びっくりする」

 娘が身ぶり手ぶりで小石を地面に叩きつける。

 食器を洗っていると、勃然と妻が皿を割る。想像するのはむずかしくなかった。食器洗いが好きだからという理由で妻は全自動食洗機を購入しなかった。機嫌のわるいときなどは、わざと大きな音を立てて洗っていたものだ。ただ、子供たちの目のまえでやる、というのは、富義の知るかぎり憶えがない。

「怒鳴るのは、なんでかな。ちぃちゃんに怒ってるわけじゃないんだよね」

「ちぃちゃんにもおこるよ」

「じゃあ、あーちゃんにも怒るんだ?」

 息子へ目をやると、戸惑いがちに頷いた。念のために、「殴られたりはしてないんだよね」と確認する。

 ふたりとも、この質問には反応を示さない。おいで、と呼び、ひざのうえに載せ、明るい話題を振りながら、さりげなく服をめくる。腕や背中にあざがないかを確かめる。いまのところそういった痕跡はない。

「きょうはたくさん遊んで帰ろう。それで、ママに楽しかったよ、っていっぱいお話してあげようね」

 意識的に、笑顔を振りまいた。なぜかリオの猿真似をしている気分になった。

 小規模牧場で子ヤギと戯れ、うさぎを抱き、遅めの昼食を摂った。絵本を読み聞かせながら、芝生のうえで日向ぼっこをする。子供たちは疲れたのか、すぐに寝息をたてはじめた。そのまま日が傾きはじめるまで起きることなく、仕方なく、おんぶにだっこで家まで運んだ。

 妻のことを考える。

 虫の居所がわるかったと考えるには、子供たちの声は切実すぎた。我が子の元気のない要因を妻だけに求めるのは傲慢な考えだとは思うが、これだけ家を留守にしているじぶんが、いまさら子供たちの精神衛生に影響をきたすとは思えない。じぶんに要因を求めることこそ、おこがましいように思える。

 そもそも、休日にこうして子供たちと三人、水いらずで過ごすことだって、片手で数えられるほどにしかない。いつだってそこには妻がいた。やはり何かがおかしい。

 妻への不審感がふつふつと根を生やしていく。

 

 キッチンから顔を出した妻は、わたしも今帰ってきたところなの、とからっとした笑みを浮かべた。

 子供たちをそれぞれベッドに寝かせ、リビングに戻る。じぶんだけ椅子に座るのもどうかと思い、手持ち無沙汰に部屋をうろつく。

「どう? 楽しかった?」

「ああ。楽しかったよ。久しぶりに子供たちの笑顔を独占した気分だ」

「それは良かった」

「ご機嫌じゃないか」

「そりゃそうよ。独占していた宝物を、パパにもおすそ分けできたんだもの」

 ご機嫌にすぎる。

 妻が休日に習いごとへ行くのは珍しく、それとなく聞いてみたところ、どうやら発表会が近いらしい。

「初めてじゃないか、そういうのに参加するの」

 これまでにもダンススクールでは、生徒に発表の場を設けていた。ちょっとしたコンサートホールを貸し切り、生徒の家族を呼んでダンスを披露する。妻はそれをイベントと呼び、いつかわたしも参加してみたいな、と言っていた。どうして今まで参加しなかったんだい、と素朴な調子で尋ねると、

「だってヘタなんだもん」妻は言った。サプリメントだろうか。鼈甲色の軟カプセル剤を数粒口に含み、水で流し込むようにする。

「ヘタって?」

「習ったばっかりで、ヘタくそだったの」

「まるでいまは上手みたいに聞こえる」

「上手くはないけど、ヘタってほどでもないよ」

「そのイベントには私も呼んでくれるのかな」

「もちろん呼ぶよ。来てくれるかは知らないけど」

「休日だろ? もちろん行くさ」

「紹介したいひともいるし」

「ん?」

 妻はこちらを見遣り、ニタリと目じりを下げた。唇を閉じて歯を見せないその笑い方は、いじわるな考えを抱いているときによく見せる顔だ。

「え、誰だろ」もういちど訊きかえす。

「見たらびっくりするよ」

「きみの踊りが?」

「それも、ある」妻は上気した頬を緩め、「きっと、びっくりする」と太鼓判を押した。子供たちが、ママぁ、と寝ぼけ眼をこすりこすり、起きてくる。まぁまぁ、おはよう。チュッチュッチュ。頬に口づけをし、妻は子供たちを二人同時に抱きあげた。その細身の身体のどこにそんな力があるのか。妻に浮かんだ笑みの種類が、さきほどこちらに向けられたものとは明確にちがうことに気づき、その差異に思いを馳せる。

 

 昼休み、会社の屋上でリオと一体化した。屋上には水道水を建物全体に巡らせるためのポンプがあり、いい具合に陰になっている。昼休みのトイレはどこもごった返すため、昼間はよくここを利用した。

 部署へ戻ろうとすると、しばらくここで風にあたっていきます、とリオは文学的なことを言い、屋上に残った。

 エレベータを待ちながら富義はゆびを折る。リオとの関係も、途中で停滞したとはいえ、もう三年になる。

 数えてもみれば、息子は来年小学校へあがる。娘も保育園の年長組だ。わざわざ数えなければ我が子の成長を思い浮かべられないとは、父親としていかがなものか。自らが理想とする父親の像からかけ離れている事実を、虚しく思う。

 ランプが点灯し、エレベータの扉が開く。乗りこもうとすると見慣れぬ男が乗っていた。

 顔が痩せこけており、目の下のクマも相当なものだ。無精ひげは黒カビと化し、ヨレヨレのスーツを見た目以上に汚らしくみせている。死神がいるとしたらこういった男に違いない。

 ふしぎとどこかで見た覚えがあるような気がした。幼少時代の友人を成人式で見かけたような引っ掛かりを覚える。あいにくと死神に知り合いはいない。じっと見ているわけにもいかず、エレベータに乗りこむとその男はトコロテンのように、押しこまれたので出ましたといった具合に、箱から降りた。

 扉が閉まる。

 部署の階のボタンを押す。

 何やら思い詰めた様子の男だったが、屋上に何の用があるのだろう。崖から落ちる人影の像が思い浮かんだ。屋上にはリオがいるので、万が一の事態にはならないだろう。楽観視するも、ひょっとするとリオは、あの男を待っていたのではないかと、ふと思いつく。屋上で落ち合う二人。嫌がるリオに獣が絡みつく様を像像し、すぐさまその狂想を打ち消す。何か間違いを犯すほどリオもバカではない。じぶんに言い聞かせるようにし、部署の階で箱を降りる。

 じぶんのデスクに座ると、同僚が慌ただしい様子でやってきた。「探しましたよ蜜雨さん。お電話です」

「誰から?」

「持田さんです。折り返しお電話さし上げるようにお伝えしたので、時間があるときにでも連絡してみてください。番号はデスクに貼りつけてありますので」

「どんな要件だろ」

「さあ。言伝を伺ったのですが、直接話す、とおっしゃって」

「わかった。あとで掛けてみる」

 礼を言いながら、持田とは誰だっけ、と頭を働かせる。間もなく思い到る。

 もしや、持田大金という男ではないか。

 リオをこの会社に推薦したという株主で、なにやら部長も気を揉んでいる様子だった。ずいぶん前の話だったので忘れかけていたが、いまさら何の用だろう。胃が重くなる。

 さっそく連絡をとるが繋がらず、夕方にもういちど試すと、やっと声を聞くことができた。連絡が遅れたことを詫びてから要件を伺うと、

「いやね、リオちゃんの様子はどうかなあ、と思って」

 軽薄な台詞が返ってくる。

「創楠(つくるくす)ですか。今は席を外しておりますが、あとでご連絡さしあげるように……」

「いや、それじゃ意味がないんだよ。ほらきみは、あれだろ。あれの上司なわけだ」

「まあ、そうですね」リオを『あれ』呼ばわりする持田に、突発的な反感を覚える。

「上司からみて、あれは上手くやってるかなとね。まあ、飼い主としては気になるわけだ」

「飼い主?」

「いまは飼ってないから、元主と言ったほうがいいかな。まあ、いいんだよ、そんなことは。で、あれはちゃんと馴染めてるかな。ああみえて、気性の激しいコだからね。接し方さえまちがわなければかなり使い物になると思うんだけど」

「すみません。話の意図が伝わらないのですが」断ってから、「創楠の様子でしたら、何も問題はありません」と報告する。「戦力として欠かせない弊社の一員です。気になるようでしたら、こちらからゲスト用の認証カードをお送りしますので、ぜひ彼の働きぶりを――」

「そんなものはいらない」ぴしゃりと跳ねのけられる。機嫌を損ねてしまったようで、「おまえもどうせイイ思いの一つや二つしてんじゃねえの」と喧嘩腰に語気を飛ばされる。雑音なのか、声に交じって、バリボリと梅干しの種をかみ砕くような音が聞こえている。「真面目なフリしちゃってさ。いいんだよおれは。わざわざ見なくたって。あれの上司がどんなかなって、そうそう、むしろおまえの声が聞きたかっただけだから。顔を拝みたいってんならむしろおまえだよ、おまえ。で、おれはおまえんとこの株主なわけでしょ? だったら、出向くのはどっち? あんまし頭のわるいこと言わないでよね。おれ、こう見えて繊細だからさ」

「はぁ。こちらにも予定がございますので、すぐに、というのはむずかしいでしょうが、日時を相談して、ということでしたら、こちらから」

「来なくていいよ。おれだって忙しいんだよ。なんでわざわざてめぇのために時間を割かなきゃならねえの。ねえ、なんで?」

「いえ、失礼いたしました。そうですね、私もそう思います。わざわざ私のために時間を割かれる必要はないかと」

「解ればいいんだ。まあ、〝アレ〟のことは内密に頼むよ。どうせおまえも使ってんだろ。いちどハマると抜けられなくなると思うけど、まあ、毀れないように使ってよね」

 リオのことだろうか。いやな言い方だ。

「あ、そうそう。ゲスト用の認証カードだっけ?」

 持田は嘲るように嗤い、くれぐれもつまらないものは送ってくるなよ、と念を押し、一方的に通話を切った。

 久しく覚えなかった怒りが湧いた。なんだこの男は。交わした会話の中身もそうだが、言葉の端々から匂い立つ、人物の底の浅さ、品のなさといったらない。なぜこんな男が飄々と世にのさばり、あまつさえ権力を保持しているのか。死刑制度とはいったいなんのためにあるのか。怒りは飛躍し、富義は想像のなかで、幾度も持田を殴り殺した。顔も知らぬ男だったが、顔の原型を失くすほど殴りつけたので問題ない。

 この日、屋上で別れてからというものリオは、部署に戻ってこなかった。

 

 夜になり帰宅する。妻は寝室におらず、探すと、子供部屋で子供たちと一緒に寝息を立てていた。絵本を読み聞かせているうちに、睡魔に襲われ、そのまま夢に旅立ったようだ。

 キッチンには富義の分の夕飯が用意してあったが腹に入れたい気分ではなかった。冷蔵庫から缶ビールをとりだし、喉を潤す。

 ふとリオのことが気にかかった。ふだんはテキストメッセージを多用し、めったに電話は掛けない。きょうは声が聞きたいこともあり、電話することにした。

「はい。どうされました」リオはツーコール以内にでた。

「なんだ。元気そうじゃないか」

「なんです、いきなり」リオはたおやかに笑った。「ぼく、元気なさそうでしたか」

 昼間のことを言っているのだろう。あのときは別段なんとも思わなかった。

「いや、心配だったんだ。じつは、屋上を出るとき、男と入れちがいでね。あまり素性のよさそうな男ではなかったから……。あのあと、会ったんじゃないのかい」

「ひどい言いようですね」リオはなぜかおかしそうに言い、「たしかにぼく、あのあと、待ち合わせをしていました」と白状した。「たぶん、蜜雨さんの見かけたひとです。でも、蜜雨さんだって知ってるひとじゃないですか」

 驚く。誰だったろう。

 リオはとある男の名を口にした。その名前には聞き覚えがあり、同時に、昼間見た死神の顔が、元同僚の顔と一致した。

「痩せすぎだろ。てんで別人に見えたよ」

「ぼくもおどろきました」

 不祥事を起こし、会社を馘になった男で、彼は富義の元同僚であり、同時にリオの元上司でもあった。実際にはリオの世話をほとんどしなかったわけだが、接点くらいはあったのだろう。私物の忘れものがあり、それを取りに会社へ行くので、いちど会って話さないか、と誘われたのだそうだ。

「どんな要件だったんだい」

「愛の告白をされた、と言ったら信じますか」

「信じたくはないけど、きみが言うと嘘に聞こえないからこわい」

「そうですか? でも、知ってますか。真実を語るように嘘を吐けてからがおとななんですよ」

「ほお。いいことを聞いた」

 冗談めかしたままの口調でリオは、

「彼、奥さんと別れたそうです」と言った。上擦った声なのが気になる。

「あ、そうなんだ。うん、それが、で?」

「それが、ぼくのせいだって言うんです」

「よく解らないんだが」声が裏返ってしまう。「つまり、きみと彼は、そういう……」

 恋仲だったのかな。

 下賤な想像を働かせると、敏感に感じ取ったのか、リオは、

「ひどいです」と憤る。

「いやだって」そうとしか聞こえない。

「だってぼく、ずっと蜜雨さんにお世話なっていて、あのひととはほとんど話もしたことないんですよ」

「だが、だとしたら」

 なぜリオに接触し、あまつさえ離婚の話などするだろう。訝しむに余念がない。

「言いがかりです。いえ、無関係ということはないと思うんです。たしかにあのひとの奥さんとは、いちどだけ二人だけで会ったことがあって」

「そうなのか?」

「でも、それだって忘れものを届けに来た奥さんを偶然ぼくが見かけて、代わりに届けてあげて、そのお礼にって、誘われて、断りきれなくて」

「いいよ、落ちついて。だいじょうぶ聞いてるから」

「……そのときぼく、奥さんに、なんていうか」

「言い寄られた?」

「そこまで露骨ではなかったんですけど……好意は、感じたりして」

「何もなかったんだろ」奥さんとは何もなかったんだろ、と確認する。

「ひどいです」

「すまない。ただ、それだけを理由に離婚したと考えるには、ちょっと」

「だから、ぼくもびっくりして。もちろんそんなのは言いがかりだと、はっきり言いました」

「それで?」

「何とでも言え、と睨まれて。それで、おまえのせいなのは変わらない。それだけは憶えていろ、って」

「脅迫じゃないか」

「でも、それだけでした。それだけ言って、そのままエレベータに乗って」

「どうして教えてくれなかったんだ」テキストメッセージでもよかった。とにかく、呼んでほしかった。助けを求めてほしかった。

「だって、こんなことで……」

「きみが話さないと、余計に心配するんだぞ」

「ごめんなさい」

 しばらく無言がつづく。

「蜜雨さんは」

「ん?」

「離婚、しない、ですよね」

「まさか。しないよ」

「ですよね」ほっと息を吐いたようにも聞こえたし、落胆したようにも聞こえた。

「そういえば」

 昼間の電話を思いだす。「持田さんから連絡があってね。とくに口止めされてなかったから言っておくと、なんだかきみのことをたいそう気にしている様子だったよ」

「持田さんが? 何か言ってましたか」

「要領を得ない話でね。私にもよく解らなかったんだが。ただ、きみへ用事があったわけでもなさそうだったし、そうそう、私に興味があるとかなんとか。まあ、ふしぎなひとだったね」

 うまく、棘のないように言えたと思う。あの男への反感や嫌悪感があるとはいえ、すくなくともリオにとっては恩人のはずだ。貶すようなことは言えない。

「そう、ですか」

「まあ、時間があったら、連絡してみるといい」

「はい。ご迷惑おかけしました」

 あすの夜に会う約束をとりつけようとしたが、予定があると珍しく断られた。あさってなら、とリオは言った。ならあさってに食事でも、と手帳に書き込み、あすは昼間にすこし会って話をしよう、と顔を合わせる約束をした。

 

 通話を終え、鼻から勢いよく息を漏らす。せっかく頭の隅へ追いやっていた嫌悪感が、ふつふつとふたたび泡をたてはじめた。持田大金という男への嫌悪だ。煮えたてば憎悪にまで発展し、頭からドスグロイ湯気を立ち昇らせるかもしれない。同時にそれは、リオへの不信感を募らせるものでもあった。

 リオとまじわったさいしょの夜を思いだす。旅館で、女子社員たちの魔性の手から救ってもらった富義はその夜、予防という名目でリオと一体化した。あのときからすでにリオは、こなれていた。ずっと考えないようにしてきたことだが、彼は初めてではなかった。むしろこちらに手ほどきをし、さらにか弱い乙女のような印象を与えるほどの余裕を保っていた。卓越した技巧を保持していることを誇示しないところからも、彼が経験豊富な男のコであるのだと推し量ることができた。考えたくないことだったが、ひょっとすると女性の扱いにも長けている可能性がある。文字どおり、経験豊富なのだ。

 べつに処女を神聖化しているつもりはない。リオの初めての相手がじぶんではなかったといって、リオへの想いに劇的な変化が生じるわけではない。嫉妬がないと言えばうそになるが、現状、リオの相手はじぶんであるという事実だけでこころは満ち足りる。

 ただ、あのリオがじぶん以外の人間とまじわっている姿というのは、しょうじき思い描きたくない。思い描くことが、ことのほか容易だった事実もまた、余計に想像したくない、というきもちに拍車をかける。

 持田大金、あの男の話した内容はまるで巨大なガマガエルのような印象をこちらへ齎す。骨子の見えない話であっても、輪郭くらいはぼんやりと伝わった。つまるところ、リオは彼とも、ある一定の期間、肉体的な結びつきで、その関係性を成り立たせていたのだろう。いや、それが事実である憑拠はどこにもない。こちらの得手勝手な想像である。いや、これもそう思い込みたいだけの自己弁護ではないのか。眉間を揉む。リオへ訊けばはっきりするだろう。正直に打ち明けてくれるとはかぎらないが、あのコはあれで嘘を吐くのが下手なのだ。頭のなかにあるリオの人物像を思うと、なぜだか無性に恋しくなった。

 

 朝起きると、妻が弁当をつくっていた。子供たちが遠足であるらしい。保護者同伴ではないらしく、我が子の大冒険を見届けられないことに妻は不満そうだ。

 朝食を摂りながら、メディア端末をとりだし、何気なくニュースを眺める。全国で多発しているらしい連続不審死の続報や、近年目覚ましい発展を遂げているクラウドソーシングの特集、そして若者たちのあいだで流行る新規向精神薬――ひとむかし前に危険ドラッグと呼ばれていた無許可の薬に対する警鐘を、キャスターが鳴らしている。

 人工知能の誕生によって疑似量子コンピューターなどの高スペックメディア端末の開発が急激に進んだ。今では安価にそれら高スペックメディア端末を誰もが手にすることができる。アプリの高機能化とも相まって、新規向精神薬の生成が比較的容易になった昨今、巷では日々新たなドラッグが生まれつづけている。既存の法律ではそれら新種のドラッグの所持を規制するのが困難である。人工知能の社会進出による弊害の一つだと言われている――というのが、ニュースの概要である。

 嘆かわしく思っていると、

「これ、わたしも登録してるの」

 妻が唇から箸を引き抜き、メディア端末の画面を示した。続けざまに、「わりと儲かるのよ」とあっけらかんとした口調で、感想を口にする。あそこのラーメン屋、餃子だけは美味しいのよ、とたいして深くもない書評を述べる料理家のようだ。

「登録してるって、ドラッグの売買に?」

「なわけないでしょ。そうじゃなくって」

「ああ、クラウドソーシング?」

「そう」

 誰でも事業が拓けて、誰でもすぐに仕事ができる。次世代の雇用形態として近年、注目を浴びているシステムだ。

「割りと儲かるのよ」と妻は繰りかえす。「お小遣い程度の収入だけど。このあいだだって、街中で充電器を貸してあげただけで、こんなにもらっちゃった」

 妻は手でピースサインをつくった。ゼロが何個並ぶのかは定かではないが、二つということはないだろう。

「詐欺じゃないだろうなあ」

「どうなんだろうね」

 妻もそこは警戒しているようで、

「こわくてあんまり金額の高いのには手が出せないのよね」と顔を顰める。「でも、その辺の規約もしっかりしているらしくて犯罪には利用されにくいんだって。よくわかんないけど」

 適当に相槌を打ち、仕舞いがてらメディア端末を見遣ると、家を出なくてはならない時刻に迫っていた。

「ごめん、いそがなきゃ。ぜんぶ食べきれなかった。美味しかったんだけど」

「いいよ。わたし食べるから。いってらっしゃい」

 玄関を出る前に、子供部屋を覗く。子共たちはまだ寝息を立てていた。枕もとには、楽しみにしているのか遠足用のリュックサックが、ぱんぱんになって置かれている。


 日常の問題というのは往々にして、解決しよう解決しよう、と踏ん張るよりも、時間の経過に身を委ね、そんなこともあったっけな、と忘却の烙印が押されるのを待つことが解決と同義になる。逆もまた然りであり、日常の問題の多くは、何もしないでいるうちに悪化している。

 富義は自らの家庭が崩壊の危機に面しているとは考えない。危機に面してはいないが、薄皮まんじゅうのように、危機をぎゅうぎゅう内包していると考える。だからこそ危機を包みこんでいる薄皮がほつれない限り、我が家は安泰だ、と楽観視し、しかし同時に、薄皮はしょせん薄皮にすぎないしなあ、避妊具だって十割安全だという保証はないのだ、と危惧するじぶんもいる。

 家庭の問題だけではない。リオとの関係が露呈すれば、会社での立場も危うい。社会人としての身分さえも危ぶまれるような不安定な土台に富義はいま、立っている。

 宗教となんら接点のない生き方をしてきた富義にとって、同性愛は罪ではない。この国の法律もまた、それを罪と認めていない。しかし、異性愛や親子愛のように、それを尊ぶべき愛として承認しようとする向きが、この国の土壌にはまだ浸透していないのも確かである。親近相姦を承認しないのと同じような風当たりの強さを感じる。

 偏見なのだろう。

 富義自身、同性愛への偏見を持っている。持っていないと言えば、鼻がひくひく動く。じぶんでも判るほど明確な嘘だ。リオと濃厚な肉体関係を、野獣ひしめく秘境の奥地に築いているくせに、じぶんは同性愛者ではない、と未だにつよく思っているのがなによりの証だ。

 多くの異性愛者は、自身のことを異性愛者だとは自覚しない。なぜなら、意識せずともそれが社会に生きるうえでの前提――常識である以前に自然であると知っているからだ。ひとは、当りまえのことをわざわざ確認したりしない。だが富義は、リオと関係を持つようになってから、つよく思うようになった。私は同性愛者ではない、異性愛者だ! 鍵穴のきもちが解るようになってからは、その傾向に磨きがかかり、ピカピカと自己主張する繁華街のネオンのように、いつでも脳裡の目立つ場所で、「私は異性愛者だ!」の大合唱を奏で、その存在を思春期の少年のように誇示している。

 夜、リオと食事をし、その足でホテルへと向かい、獣の匂いを部屋いっぱいに振りまいた。無我の境地へ三回ほど達し、とろけ切ったあたまでぼんやりと考える。

 ひとはひとを愛するのだ。性別を愛するのではない。好意を寄せるきっかけが外見にあったとしても、愛とは内なる精神に向かうものだ。同性愛者も、異性愛者も、それは映画でいうところの、ジャンルでしかない。映画の善し悪しは、ジャンルで決まるようなものではない。それと同じだ。

 じぶんの考えに満足し、どうしてもリオへ話して聞かせたくなった。

「今、はっきりと解った。私はきみが好きなんだ。ひとりの人として、リオという人として」

「それは、よろこんでもいいのですか」

「言い換えよう。私は妻を、女性として愛している。たぶん、妻の性別がいまと違っていたら、私は妻と結ばれようとは思わなかっただろう」

 だからといって、その分、妻への愛が劣っているとは考えない。妻とはすなわち、女性という成分を含めての存在だからだ。

「もしもですよ」

「なんだい」

「もしもぼくが、女性だったら」

「私はきみを好きになっていただろうね。いまと変わらず」

 リオはこちらの胸元に顔を押しつけるようにした。

「蜜雨さんは……ざんこくなことを言います」

「そうかな」

「ぼくは、そんな蜜雨さんが好きなんですね」

 頭を撫でると、リオはくすぐったそうに肩を震わせた。なぜだか彼が泣いているように映った。両手で抱き締めると、このまま締め殺したい衝動に駆られた。リオもまた、こちらに締め殺されたがっているように感じた。

 富義は思う。

 愛とはたぶん、どうあっても一つになれないと知った絶望のさきにある、狂気のような渦に違いない。

 

 取り組んでいたセキュリティアップデートプログラムのチェック作業に追われている最中、息子が事故に遭ったという知らせがはいった。プログラムの納入期限が迫っており、仕事を放りだしてじぶん一人だけが会社を抜けだすわけにはいかず、苛立ちのみが募る。

 顔色がすぐれなかったからか、リオが心配そうに、「何かあったんですか」とコーヒーを運んできた。

「じつは、息子が……」

 妻からの知らせだった。幼稚園の帰りに息子が、歩道橋の階段から転げ落ち、負傷したという。幼稚園からの知らせを受け、妻は病院へ向かった。息子は緊急治療室に入っているらしく、医師からの具体的な説明はまだ受けていないという。とにかくはやく来て、と妻はそればかりを口にした。取り乱してはいなかったが、崖の上で身動きの取れなくなった小鹿を思わせる悲痛な叫びに聞こえ、できるだけはやく向かう、とだけ告げ、通話を終えたが、日付を越える前に息子の元へ向かうのは難しいというのが本音である。

「部長に話しましょう」リオにうでを掴まれる。「ぼくも手伝いますし、ほかのみんなだってきっと」

「しかし」

「何のための部下ですか。こんなときくらい部下を、仲間を、頼ってください」

 気恥かしい台詞をリオは真顔で、熱く、それこそこちらの胸を打つほどまっすぐに説いた。

「解った。部長に相談してくるよ」

 ちからづよく背中を押され、富義は部長室へ向かった。事情を説明し、一時帰宅させてほしい、と部長へ頭を下げると、

「バカやろう!」

 厳しい言葉が返ってきた。「なにふざけたこと抜かしてんだ!」

 さっさと行って来い、と尻を叩かれる。

 家族を大事にできないようなやつに社運を任せられるか。酔うたびに部長が言っていたのを思いだす。

 荷物を取りにデスクへ戻ると、付箋がたくさん貼りつけられていた。さきほどまではなかったものだ。そのほとんどが部員たちからのもので、差し入れは何がいい、飲み物はこれがいい、打ち上げは寿司屋にしましょう、といった要望が並んでいる。

 部屋を見渡すと、さきほどと寸分違わず、いや、僅かながらに増量させた熱気をムンムンと放ち、みなはデスク上の端末画面に向かっている。ゆびを休めず、迫りくる締め切りと闘い、膨大なデータ処理に追われている。

 ありがたい。

 富義はいそぎ妻と息子の待つ病院へ向かった。

 妻は待合室にいた。妻のうでのなかで娘が眠っている。

 息子の容体を尋ねると、妻は首を振った。「分からないの。でも、ずっと出てこなくて」

 妻の視線を辿り、廊下を見遣る。暗がりがぽっかりと口を開けている。

「すこし横になったら?」

 妻は見るからに困憊していた。きみが倒れたら元も子もない、と言い、娘を引きうけようとうでを伸ばすが、

「このままがいいの。落ちつくの」

 妻は娘の頬に顔を押しつけるようにした。神に祈るような妻の仕草に、なぜもっとはやく駆けつけなかったのかとじぶんを責める。

 天井から降り注ぐ明かりはつよい光を発している。自動販売機が、ブゥウンと厭な音をあげた。闇のような静けさが待合室のそとにまで溢れ、病院内をひっそりと埋め尽くしている。

  

 頭がい骨陥没につき、息子はひと月の入院を余儀なくされた。後遺症を失くすために、念のためと言われ、ナノマシン療法を勧められた。数年前に実用化されて久しいが、内部から治療するという方法論は確かな効果を期待させる。

 術後の経過もよく、息子は四日後には集中治療室から一般の小児科病棟へと移された。歩行の許可が出てからは、妻や看護師の目を盗んで、元気に廊下を駆けまわっている。

 何度か警察の人間が調書を取りにやってきた。息子の一件は、事故ではなく事件として扱われるようだ。歩道橋を渡るために階段を上っていた折に、階段を下りてきた男が息子に衝突した。その男は、地上に転げ落ちた息子をまたぎ、そのまま現場から逃走したという。同行していた保育士の目撃証言があるそうだ。

 腸が煮えくりかえる思いだった。

 その男にたとい息子への害意がなかったとしても、子どもが階段から転げ落ちたのだ、その場から無言で立ち去ったというのは、人としてあってはならない選択だ。仮に害意があったとすれば、情状酌量の余地もない。妻も同意見のようで、怒髪天を衝いた形相で、警察のほうへ被害を届けでた。

「誰かから恨まれているなど、心当たりはありませんか」

 傷害事件としての立件を目指しているのか、被害を届けでてから、警察の対応が変わった。担当が、警官から刑事となり、質疑の内容もより具体的に、剣呑なものとなった。

「通り魔なようなものではないんですか」

 手当たり次第に、八つ当たりのような感覚で、通りすがりの児童を襲撃する。富義の思い描いていた犯人像は、そういった通り魔にちかしいもので、まさか交流のある身近な人物が犯人であるとは、その可能性があることさえ思いつかなかった。

「いえ、事務的な質問なので、そう構えずともよろしいですよ。可能性を潰していくのが捜査というものでして」

「そういうものですか」

「被疑者に明確な目的などなく、ここだけの話、殺傷衝動を抑えきれずに突発的に犯行をおかした幼稚な人物だと、私らもまあ、睨んどりますわ」

 疑心暗鬼にはならずにおきましょう、と真意のありどころのよく判らない慰め方をされた。

 気を揉む必要はないと言われたが、いちど頭のなかに仕舞いこまれた言葉を忘れるのは至難だ。富義は大いに気を揉んだ。

 恨みを晴らすために相手の子供を傷つける。こちらへの怨嗟から被疑者は犯行に及んだと考えると、足元から頭へと、皮膚の表面を伝うようにぞわぞわと蟻の大群が這いあがる。人の心は計り知れない。いつ誰がこちらへの憤懣を募らせ、敵愾心へと昇華させるものか分かったものではない。どんな些細なきっかけであれ、こちらが些細と思っているだけで、相手にとっては譲れない重大な案件であるかもしれない。自分という存在のすべてを根底から否定され、蔑にされた、と深い傷を負い、絶望を突きつけられた、と逆恨みされることだってあり得る。こちらに悪気はなかったとしても、恨みを買うことなどいくらでもある。むしろ善意を発端として生じる悪意のほうが世の中には多いのではないか。

 疑えば疑うほど、じぶんのしてきたことが、多くの人間を傷つけ、相手の胸の奥底に、悪意の塊を植え付けてきたのではないか、と不安になってくる。

 じぶんだけではない。妻だってそうだ。妻の身の周りの人間が、息子を階段から突き落としたのではないか。そう考えると、ふしぎと犯人への憎悪だけでなく、妻への怒りもふつふつと湧いた。

「理不尽な怒りだよ」

 リオへ相談すると、彼は、「まったくです」と眉を結び、「でも、蜜雨さんがそうやってご自身の理不尽さを理解されているのなら、それはきっと理不尽なんかじゃないんです。ダイジョブです。なぜならその優しさで相殺されちゃったので」と、よく分からない理屈でこちらを励ましてくれた。

 だが富義の言いたかったことは、別にある。こちらがそう思っているということは妻もまたこちらへ理不尽な怒りを抱いているのではないか、といった妻への懸念である。事実さいきん妻は気性が荒く、ちょっとしたことで衝突する機会が多くなった。リオの理屈を持ちだすならば、おそらく妻は自身の言動の理不尽さを自覚しておらず、リオの言葉で表現するならば、「ダイジョブ」ではなかった。

 間もなく、妻はたびたび家を空けるようになった。妻の様子が心配なこともあり早めに帰宅すると、そこに妻の姿はなく、アニメ映画を見ながら夕食を独りで黙々と食す娘の姿がぽつんとある。ママはどこへ行ったのかな、と尋ねても娘は、わからない、の一点張りで釈然とせず、息子の見舞いに行っているものかと思い、病室を訪ねてみるも、「ママ? 来てるの?」と息子の期待に満ちた顔と、その後に訪れるしょんぼりした顔を見るはめになる。夜も更けた時分に帰ってきた妻に、どこへ行っていたのかと詰問するも、ちょっと友人とね、とはぐらかされてお終いだ。それが数回つづいた。娘の証言からすると、富義が早く帰る日に限って妻はそういった奇行をしでかすようだ。前もって早上がりする旨は知らせていないのでこれは偶然だろうと判断する。

 さすがに見過ごすわけにはいかないと奮起し、娘を一人にしてでかけるのはよせ、と叱りつけた。病院にいる息子ならいざ知らず、幼い娘をほったらかしてどこへ出かけている、と追及するも妻はだんまりを決め込んだままで、終いには、「たまにはいいでしょ!」と激昂する始末だ。

「わたしだって息抜きくらいしたいし、一人で出歩きたいよ。ちょっと家を留守にするくらいなに。あなたはいいよ、毎日自分のことばっかりやってればいいんだもの。それに引き換え、わたしは何? 母親って何? わたしだってたまにくらい、母親じゃなく、妻でもない、一人の人間として生きたいよ。なんで責めるの。わたしがわるいの? もうなんなの! これくらいイイでしょちっとくらい!」

 べつにそれは構わない。だが娘がいる。親としての責務は、どんな事情があるにせよ放棄すべきではない。理路整然としたこちらの言い分も妻には癪に障るらしく、

「あなたはいいよね、ぜんぶそうやって偉そうに指示するだけで。かんたんな男!」

 余計に臍を曲げてしまう。風に煽られた炎のごとくだ。

 何を言っても聞き耳を持ってはくれない。ただ、娘にはわるいことをしたと思ったのか、それ以降、家に独り置き去りにするような真似はしなくなった。富義が帰宅すると妻は、おかえりなさいの代わりに、「きょうもわたしは家でおりこうさんにしておりました」と慇懃な口調で、出迎える。正座をし、旅館の女将のように折り目正しく低頭し、こちらがどのような反応を返すべきかと逡巡し固まっているのを尻目に、つぎの瞬間には、これで満足したでしょあなたは、といった鋭い目を向け、寝室へと引っ込む。当てこすりにしてはすがすがしいほどで、富義は苛立ちよりもむしろ妻のそういった解りやすい性分に、久方ぶりの愛おしさを覚えた。用意されたシチューを、独りさびしく食す日々がつづく。

 

 妻が浮気をしている可能性については、考えないことにしている。仮に妻が浮気していようが、こちらの妻への想いは揺るぎない。たとい変化が生じたとしても、それを耐え忍び、離別の危機を乗り越えようとする未来は不動である。歩むべき道は、妻の行動に左右されない。現在となんら変わらぬ日々が待っているだけである。ならばわざわざ穿鑿する必要はないだろう、というのが富義の考えだ。

 ただ、子供たちはべつだ。妻の行動が息子や娘に甚だ影響を、しかも悪い影響を与えるならば、これは看過すべき事柄ではなく、富義もそれ相応の対処を講じるつもりだ。この一点において富義は、妻との離別も辞さない心構えがある。それが妻のしあわせでもある、と信じているからだ。

 息子が退院の日を迎え、翌週に、快気祝いと称しリオが家へやってきた。息子の入院中にも幾度か見舞いに来てくれたこともあり、息子も彼に懐いている。リオの姿を認めるや否や、息子はぜんまいを巻いたブリキのおもちゃのように張りきった。

 娘は、彼の持参したお土産のケーキのかわいらしさにすっかりご機嫌となり、妻から、ありがとうは、と礼を言うように促され、

「おねぇちゃん、アリガトウ!」

 意表を突く挨拶で、その場の空気を和ませた。リオは面食らったようで、うなじをぽりぽり掻き、その場にしゃがむと、どういたまして、と娘の頭を撫でた。

 リオとの関係は、息子の入院を期に、非常に清らかな、山肌を縫う小川のような関係に落ちついた。二週間前にいちど一体化したが、それっきりだ。あとは食事をいっしょに摂るだけであったり、愚痴のような相談を持ち掛け、真摯に聞き耳を立ててもらい、しゃべり疲れたらその場で解散することが多くなった。リオは不満そうな顔をいっさいせずに、ただこちらの崩れそうな精神を支えてくれている。

「蜜雨さんは、気丈ですから」

 困ったようにはにかむリオの顔には毎度のように癒された。献身的な言葉の数々に、いつも救われたきもちになった。

 妻も、リオがやって来ると聞くと、その週は、こころなし機嫌をよくした。鼻歌を奏で、シチュー以外の夕食を準備し、子供たちとよく出かけた。子供たちの誕生日にはこちらにも感謝の言葉をかけ、ふだん購入しないような割高なワインをグラスに注ぎ、労ってくれた。

 富義は、ヤジロベーを連想する。リオは、妻と富義のあいだをとりもつ、支点のような存在だ。彼がこちら側に寄りすぎれば、妻と富義の関係は傾く。だが上手く距離をとって付き合えば、これほどまでに平穏な日々が齎される。現在のこの塩梅がちょうどよい。ただ、富義と妻の調和がとれているあいだ、支点となるリオへの負担は大きくなる。すべての重みをその一身に抱えこむからだ。

 この平和で穏やかな日常はすべて、リオの犠牲のうえに成り立っている。富義は思う。なんて身勝手なしあわせだろう。ヤジロベーは、支点がなくとも、地面のうえに置いておけば、そもそも揺らぐことさえない。それをわざわざ不安定な土台に載せ、吊り合いを求めようとしているのは、ほかでもない私だ。

 これを円満などとは、口が裂けても言えない。言ってはいけない。だが心のなかでは、このぬるま湯のような日々が延々とつづけばいいと望んでいるじぶんがいる。どこかで区切りをつけ、手放しがたいものを割りきらなくてはならない日がやってくる。解ってはいる。できるだけ早い時期にけじめをつけるべきなのだ。ただ、決心がつかない。どちらをとるべきかは明確なのに、どちらが正しいのかが判らない。

 一人を犠牲にして大勢を救えるならば、一人を犠牲にすべきだろう。世の中の正しさとは概ね、この功利主義に則っている。しかし、じぶんのしあわせを吟味するとなると、途端にその正しさは音を立てて揺らぐ。

 天秤には載せられない。どちらもたいせつだ。傷つけたくない。手放したくない。わがままなのは百も承知だ。だがこればかりはどうにもならない。愛だの恋だの、とそんな断片的な話ではない。これは人生そのものを左右する、重大な岐路である。

 分水嶺を目前にし、それでもどちらを渡ることもなく、その場に留まり、ふたつの川を流れる水の輝きを、そばで見届けていたい。願わくは、じぶんが巨大な岩となり、ときに氾濫しかけた水の流れをせき止める役割を担えれば、これ以上の至福はない。

 いちどどちらかを選べば、もうにどと元いた地点に戻ることはできなくなる。笹舟のように、選んだ川のながれに乗れば、後戻りはできない。岐路を境に、川の一つを失うことになる。それこそ、その場に留まろうとした執着がつよければつよいほど、笹舟となったあとで、その巨大な妄執は、見捨てた川を塞ぐだろう。

 正しさは時に、ざんこくだ。

 富義の執念は、愛着となり経て、すでに川を塞ぐほどの大きさを猛然と誇っている。いまさらどちらを選べというほうが、土台ムリな話だ。いいやこんなのは体のいい自己弁護にすぎない。そんなじぶんを忌まわしく思いつつも、こうするより術がない、とじぶんを悪者に仕立て上げることでなんとか、良心の呵責と、自家撞着との、帳尻を合わせている。悪者になる覚悟があるというなら、さっさとどちらか一方を切り捨てるべきだ。そう唱える内なる正義の声にも、帳尻を合わせ、臍を固めたわがままな男は、頑として耳を貸さない。 




第二章【疲れたり、怒り、使われたり】



 持田大金が亡くなったという知らせが年末に入り、会社はてんやわんやの騒ぎとなった。持田大金には資産を相続する者がいなかった。大手企業を含めた無数の株式会社の筆頭株主だった持田の急な死去は会社だけでなく、経済界にも大きな波紋を呼んだ。日経株価は連日、乱高下を繰りかえした。

 会社の倒産も囁かれたが、国からの経済支援もあり、ひと月後にはなんとか立てなおした。倒産の危機が去ってから、ようやく人心地着いたころ、持田大金の死について興味が湧いた。

 相続人がおらずとも、持田名義の株は自社が買い取ればよいだけの話で、そこまで大きな影響があるとは思えなかった。だが現実には、水面下での影響とはいえど、日本経済界そのものを揺るがす騒動となった。何か表沙汰にならない理由があったのではないか。富義だけでなく、同僚たちのあいだでも噂された。

 ニュースでは、急死についての記事だけが取り上げられた。詳しい話はどこのニュースサイトを覗いても確認できなかった。事件ではない、ということだけは確かな情報として、あちらこちらに掲載されていたことから、自殺ではないか、と推察できた。

 たとえば持田に何か、自殺しなくてはならないようなうしろめたい事情があったとして、その事情がおおやけになるようなことがあれば、そんな男を筆頭株主として受け容れている会社にも、世間の非難の声が向けられるだろう。経済界に影響を与えることのできるほかの投資家たちもそう考えたのか、或いは持田のその、うしろめたい事情、ひいてはそれに類する風聞の類を知っていたと仮定すれば、急激な市場の混乱も、それなりに合理性を持って説明できるように感じた。

 一介の社員ごときに調べられる事案ではなかったが、思うところがあり、捨て置けなかった。あれだけの人格破綻者が果たして自殺などするだろうか。リオなら事情を知っているだろう、と思い、思いきって訊いてみた。

「持田さんの葬儀には参列したのかい」

「前を通って、様子を見てはきました」

 香典を包んだという意味だろう、と察する。

「参列はしなかったんだ?」

「部外者ですし」

 やけに素っ気ない応答に、やはり、と富義は思った。リオは、持田の死を悲しんではいない。

「そういえば、あーちゃん、今年、入学ですね。お祝いしなきゃ」

「まだ気が早いだろう。今年たって、あと三カ月もある」

「そうですか? あ、そうだ、あそこ、ミソラーメンがすごくおいしいんですよ。あしたのお昼、いっしょに行きましょう。ね?」

 持田の話題に触れられたくないのか、リオはことのほか明るく、駅前にできたラーメン屋の話をした。

  

 仕事の合間に、警察署へ出向いた。息子の一件について、進展があったかを尋ねるためだ。担当の吉田刑事は、眉間にシワを寄せ、「何も掴めておらんのですわ」と申し訳なさそうに言った。

「そうですか」

「最善は尽くしとるんですがね。なにぶん、目撃証言が曖昧で、ほら、あすこの保育士さんいたでしょ。聞くたびに、言うことが二転三転されてねえ。まあ、困ったもんです」

 責任を感じたのか件の保育士は息子の事件後、職場を辞しているという話だ。富義も妻も、その保育士に対して直截的に責めたことはなかったが、別段慮ることもしなかった。妻もその点に関しては、配慮が足りなかった、と悔いており、保育園の話題になると口が重くなる。

「これは雑談と思っていただきたいのですが」

 前置きしてから富義は本題に入った。「持田大金の死因って、教えていただくことってできますか」

「持田? あの投資家の?」吉田刑事の目つきが変わった。「失礼ですが、何か、知らなければならない事情がおありで」

「じつは彼、勤め先の株主でして」

 富義は、雑談を装い、ここさいきんの会社の様子を語った。それは災難でしたね、と吉田刑事は言い、それならここだけの話ということで、と持田大金の遺体が見つかった状況を語った。

 遺体の第一発見者は、マンションのオーナーだという。セキュリティシステムが、長いあいだ切り換わることなく作動していた点を不審に思い、持田の部屋を訪ねたそうだ。「在宅中」の信号がひと月ものあいだ出つづけていたという。

 セキュリティが発動中だったことや、荒らされた様子のない部屋の状況から、殺人などの事件性は極めて低いと判断された。検察の調べでは、死後一カ月は経過しているという。おそらく、オーナーの話のとおり、ひと月前に持田は、帰宅したその足で自殺に踏み切ったのだろう。

 吉田刑事の口が軽かった理由は、やはり持田の死が殺人などの事件性を匂わせるものではなく、自殺であった点が大きいようだ。

 話を聞きながら富義は、頭のなかでカレンダーを展開する。時期的にみれば、持田が死んだのは、ちょうど息子が事件に遭ったころと合致する。

 奇禍というのは連鎖するものなのだろうか。

 世界中では今この瞬間にも多くの人間が死んでいる。事故や事件に巻き込まれている者の数を含めれば、一秒ごとに、なにかしらの不幸が引き起こっていると考えられる。偶然それが、いち個人の観測できる範囲で引き起きただけ、と考えれば、たしかに偶然の一致で片付けても申し分ないように思われる。

 ただ、富義は言いようのない引っかかりを覚えている。

 警察署を後にし、小腹が減ったので、駅前のラーメン屋に入った。おとといリオが、すごくおいしい、と太鼓判を押した店だったが、すくなくとも富義の口には合わなかった。

  

 しあわせとは何か、を考える。相対主義を持ちだすまでもなく、しあわせの条件とは多様であり、同時に、あらゆる事象がしあわせを齎す契機となる。私のしあわせ、と視点を限定してみたところで、同じである。幼少期に抱くしあわせと、還暦を迎えた時分で抱くしあわせは同等ではない。

 一つ言えることは、しあわせとは、カタチを伴ったものではないということだ。捉え方の問題だ。巡り合わせと言い換えてもよい。不幸もまた、巡り合わせと呼べる。

 富義は、現在のじぶんをしあわせだと捉える。妻がいて、息子がおり、娘がいる。両親も健在で、会社での地位も確立されている。部下は優秀で、じぶんの支えになってくれている。息子の事件も、考えようによっては、怪我で済んでさいわいだった、と考えることもできる。

 たとえば神という、この世のすべての法則を司る存在がいたとして、おまえは一生このままだ、と呪いをかけられたとしても、富義はその境遇をよろこんで享受するだろう。子供たちの成長をこの目で見届けられないのはざんねんに思うが、あらゆる可能性を内包した未来を見ないで済むと考えれば、それもまた善しと思えた。

 つまるところ富義は、現状がもっとも手放しがたい巡り合わせである、と捉えている。これを逃せば、あとはもう、転落の一途を辿ると想像できてしまうほど、「今」というこの瞬間は、富義の人生のうちで、頂点を極める時期にあると如実に予感できる。

 人生に全盛期というものがあるとすれば、間違いなく今だろう。だからこそ、これからさきの行く末を考え、でき得る限りの想定をし、どこからともなく舞い込んでくる奇禍に備えなければならない。或いは奇禍はすぐそばまで忍び寄ってきているやもしれない。生に死が内包されているように、幸には禍の種が、甘い果実の合間を縫うように散在している。

 持田大金は自殺であったようだが、富義はそこに、どんよりとした淀みを感じる。息子の事件と無関係ではないように思えるのだ。気のせいで済ますこともできる。むしろそう考えるほうが自然だ。しかし富義にはそう捉えることができそうにない。

 二つの無関係な事件を結びつける三角形の頂点のような人物がいる。それがじぶんだけならば偶然で済ますこともできた。だが持田と息子を結びつける線は富義だけではなかった。リオだ。彼の存在が、富義に言い知れぬ不安を抱かせる。

 もし妻に相談することができたならば、寝言は寝て言え、の一言で一蹴されるだろう。それほど荒唐無稽に思える疑惑である。

 リオが、一枚噛んでいるのではないか。

 考えすぎだ。動機がない。持田が自殺である以上、たとい持田の死にリオが関与していたとして、法で裁けるものではないだろうし、よしんば犯行動機が遺産目当てに類するものだったとしても、そもそも持田には相続人がいないため、殺したところで意味を成さず、そのことをリオが理解しないはずもない。

 しかし。

 仮にリオが、持田の死になんらかの形で携わり、それを以ってして尚も平気な顔で日常を送っているとなると、彼の精神構造は、富義の推し量れるものではなく、こちらの想定している型から遥かに逸脱していると言わざるを得なくなる。

 富義は頭を悩ませる。そもそもじぶんはリオのことをどこまで知っているだろうか。何も知らないのではないか。知っていることなど高が知れている。私の把握しているリオという人物像は、リオという人間のほんの表層にすぎなかったのではなかったか。

 これまでさまざまな人間と接し、それなりに人を見る目を肥やしてきたつもりだ。現代人の多くは、社会に適応するために種々相なキャラクターを演じ、時と場に合わせ、使い分けている。家庭で、会社で、インターネットのなかで。人はけっして同じ愛橋を振りまいたりはしない。だが、まったく別人ということもない。程度の差はあれど、表層から、その人物の骨格めいた本質を、その性格を見てとることができる。

 だが、時として、まったく別人を演じる者がいたりする。自分の知る相手がただの仮面だったと気づいたときには、目のまえの相手が悪魔か何かのように映っている。おぞましい何かに触れてしまったような畏怖が、こころのなかを支配する。

 一種の擬態であるのかもしれない。枝葉にからだの模様を似せる昆虫のように、人間もまた、ほかの誰かに擬態することで、本当の自分を覆いかくすものなのかもしれない。問題は、まったくの別人に擬態する者の多くが、天敵から身を隠すために自分を偽るのではなく、猛獣が獲物を狩るために草影に身を顰めるような感覚で、別人を演じる点だ。

 リオの言葉が蘇る。

 人間も、獣なんですよ。ただ、人間の皮を被っているだけで。

 人間の皮を脱ぎ捨てたあとで現れた獣は、いったいどんな姿をしているだろう。富義は、自身が巨大なバケモノに、鋭利な牙でもって八つ裂きにされる光景を想像した。身体に空いた孔という孔から褐色の血が溢れ出る。その血にまみれ、バケモノはひどく恍惚とした顔で、舌舐めずりをする。

  

 息子の入学式になぜかリオまでやってきた。妻が誘ったのだそうだ。このふた月ほどは、何か具体的な調査に乗りだすわけでもなく、これまでと同様にリオとは会社で共に仕事をした。時間があれば二人きりで会い、週末には家庭に招くこともあった。疑惑が晴れたわけではないが、リオと接しているうちに、疑惑は妄想と大差なくなった。リオがなにか邪な考えを抱き、あまつさえ行動に移したなどとはやはりどうにも考えられない。考えたくない、という現実逃避である可能性も否めなかったが、それを度外視したところで考えてみても、リオが平然と人を死に至らしめ、他人の息子を傷つけるような真似をした光景など、想像つかない。リオならば虫を殺しただけでも気を病み、数日のあいだ浮かない顔をしそうなものだ。

「さいきん、へんな電話が多くてね」

 リオが帰ったあとで妻が言った。時刻は二二時を回っており、息子と娘は昼間の入学式で気を張っていたからか、進んでベッドに吸い込まれていった。

「へんな電話って、どんなだい」

「無言電話なんだけど」食器を洗いながら妻は話す。「こっちが切らないとずっとそのままだし、かといって、何かいやらしいこと言ってくるわけでもないし」

「こわいね」

「こわいよォ」妻はおどけた。「まるでパパの浮気相手からの電話みたい」

「わるいけど、それはないよ」なぜなら、と茶化すように言う。「私の浮気相手は、そんなに嫉妬深くはない」

「どうかなあ」妻は茶番を続ける。「女っていうのは、好きな人のまえだと猫かぶるものだし」

「私のまえで猫を被らないきみは、なら、私のことを好いてくれてないってことだ」

「そうやってよっちゃんはすぐ話を逸らす」

 妻のずれた発言に思わず頬が緩む。「逸らすというなら、そもそもこれは無言電話の話だったじゃないか。で、どうなんだい」

「なにが?」

「だから、何か対処を講じたりしたほうがいいんじゃないかな」

「たとえば?」

「そうだな。登録してない番号以外からの着信はぜんぶ留守電に繋ぐように設定するとか」

「よっちゃん、やってくれる?」

「いいよ」

 食器を洗い終えたのか妻は、こんどは布巾で食器を拭いはじめる。拭いたそばから食器棚へと収納していく。陶磁器と陶磁器の擦れあう音が、小鳥のさえずりのように聞こえている。据え置き型の通信機器をいじりながら富義は、妻が未だこちらへの不信感を募らせていることに、安堵にも似たきもちを覚えた。

 妻はまだ、私を見捨てていない。妻のきもちはまだ、私から離れてはいない。

「ねえ、よっちゃん。あのね、わたしね」

「よし、できた。ん、なに?」

「わたしね、今からちょっとヘンなことっていうか、いやな女になるけど、ガマンして聞いてくれる?」

「いいよ。あとで元に戻ってくれるならね」

「じゃあ話すけど」

「あ、話すんだ」

「あのね、リオちゃんと、もう会わないでほしいの」

「リオと?」どうしてここで彼の名が出てくるのか、と戸惑う。動揺が面に出ないように取り繕う。妻がなにやら思い詰めているようだ、とここにきて、妻からただならぬ空気が漂っていることを察する。「どうしてだい。きみだって、あんなにリオとは仲良く」

「気に入っているようにみえた? そうだよね。だってそういうふうに接してたもん」

「リオと何かあった?」もしリオが気に障るような真似をしたというなら、まずはそれを教えてほしい。そうでないとどう対処したらよいものか判らない。「私から一言、きつく言っておくから。それともなにか、かんたんには許せないことだったり――」

「何もしてないよ。リオちゃんは、べつに、わたしには、なにも」

「だったらどうして」

「声、大きい。あーちゃんたち起きちゃう」

「すまない。だが――」

「いいの分かったから。ごめんなさい、へんなこと言って」

「どこ行くんだ」

「疲れちゃった。もう寝るね。おやすみなさい」

 妻は寝室へ向かった。追いかけようかとも思ったが、それ以上に、リオとの関係を追及されなかったことに、胸を撫でおろしているじぶんがいる。

 

 翌朝、妻はいつもと同じく、朝食を用意し、幼稚園へ通う娘のための弁当をこさえていた。パパもいる? と素っ気なく投げかけてくるところなど、ふだんと変わらぬ妻の姿だ。まだ起きてこない息子を起こすように指示され、子供部屋へ行くと息子は、ピカピカのランドセルを背負いながら靴下を穿いていた。

「今日から学校か」

「うん!」

「ともだち、できるといいな」

「もういるよ!」

 幼稚園からの友人のことだろう。ほかのクラスメイトとも仲良くできればいいが、と心配する。

「ご飯だからおいで」

「うん!」

「ランドセルは置いて」

「うーん……」

「わかった。きょうだけな」

 言うと息子は、にかっと笑い、こちらの足元を抜け、リビングへと駆けていく。息を吸うと赤ちゃんの匂いが鼻腔を満たした。息子がまだ幼いころ妻はそれを、おっぱいの匂いだよ、と教えてくれたが、だとすれば今もまだ息子はおっぱいを吸っていることになる。それはない。やはりこれは、子ども自体の発する子どもの匂いだ。子供部屋を眺めていると、居間のほうから妻の声が聞こえてきた。ちょっとあーちゃん、ランドセル脱ぎなさい、汚れちゃうでしょ。息子が不服そうに、だってパパがぁ、といじけた声をあげた。

 会社へ行くと、エレベータ内でリオといっしょになった。きのうはありがとうございました、と小声でリオが礼を言った。居合わせたほかの部署の女子社員が、興味深そうに聞き耳を立てたのが判った。不審がられないように、

「息子が、つぎはいつくるのかって、また来るのを楽しみにしていたよ」と返す。

「ホントですか? うれしいです」

「ずいぶん懐かれたものだね」

「がんばりましたもん。仲良くなれるように」

 妻のことを言おうか迷った。いずれによせ、この場で話題にすることではない。思い直し、昼食のときにでもそれとなく妻との仲を探ろう、と決める。

 

 富義は、ラーメンを啜りながら、「不満はないか」と訊いた。

「餃子も頼めばよかったです」ここ、量がすくないですね、とリオは残念そうに言った。初めて入る中華飯店で、お昼時ということもあり混雑している。富義は手を挙げ餃子を二人前追加注文してから、「いや、そういうことではなく」と訂正する。

「はい?」

「きみはこのままでもいいのかな、と思ってね」

「ぼくですか?」

「私は現状を維持できればそれが一番いいと思っている」

 ようやく何の話であるのか伝わったらしく、リオは表情を硬くした。

「ただそれがじぶんよがりな考えだというのも自覚している。そのうえで、きみが現状を変えようとせず、むしろ私のために波風立てないようにしてくれているのも解っている」

「ぼくはべつに」

「ただ、妻のほうがやはり神経質になっているらしくてね」

 考えを巡らせたのか、リオはいっしゅん間を置いた。

「まさかぼくとの仲を?」

「ああ、疑っている。断言はできないが、そういった節がある」

「まさか」

「ああみえて鋭いんだよ。しかも彼女の言うことは大概正しい」

「ぼくのこと、何か言ってたんですね」リオの口調は確信めいていた。

 言うべきか迷ったが、黙っているほうがこじれそうだと思い、白状する。「もう会わないでくれと言われた」

 リオは会社の部下なのだから会うなというのは無理な話だ。妻だってそれは理解している。だとすればその言葉の意味するところはおのずと決まってくる。

「そう、ですか」

 つぶやいたきりリオは口をつよく結んだまま、どんぶりの底を見つめている。

 へいおまちぃ、とアルバイトらしき店員が餃子を二人前運んでくる。

「食わないのか」なかなか手をつけないリオに、「冷めないうちに食べたほうがいい」と促す。

「蜜雨さん、食べてください」

「いいのか」

「食欲、なくなっちゃいました」

「なら、食べちゃうけど」

 会社に戻るまでにはまだ時間があった。店を出てから、公園のベンチでひなたぼっこをする。ベンチに寝そべり、空を仰ぐ。背の高いビルに囲われているからか、空は縁取られて見える。井戸の底にいるかのようだ。

「蜜雨さんは」

 リオが口にした。「どうしたいんですか」

 視線を向ける。彼は遠くの景色を眺めるように、背筋を伸ばしベンチに座っている。

 空に視軸を戻し、

「私は現状を維持したい」と告げる。「だがそれが限界にきていることも判っている」

「どちらを選ぶかは……」

「決まっているね」

 幼い子どものはしゃぎ声が聞こえ、ころばないようにねと呼び掛ける母親らしき女性の声が聞こえた。目を向けると、子どもは聞こえていないのか、きゃっきゃと自分の影を必死に追いかけ回している。ベンチの周りにはタンポポが黄色くかたまって咲いている。

「ぼくはでも」

 しばらくしてからリオが訥々と口にした。「蜜雨さんの部下ですから」

「ああ。何も変わらない。ただ、元の関係に戻るだけだ」

「元の、清らかな関係に?」

 敢えてリオの言葉には触れず、「人の皮を被ったままの関係だね」と言った。「私はもう、ケモノにはならない」

 ボールが転がってきたので、蹴り返す。勢い余って取りに走っていた子供の頭上を越えていく。

「ぼくは、それでも」

「ん?」

「なんでもありません。いい天気ですね」

「ああ、いい天気だ」

 こんなぬくぬくとした日差しのなかでなければ、こんな非情な話などできない。そよそよと吹く風さえも、リオとのあいだにできた溝を深く強調しているように思えた。

 

 じぶんが間違ったことをしている自覚はあった。ただ、実感が湧かなかった。失うものを天秤にかけ、どちらがより重要なのかを考えてみたが、判断がくだせなかった。それが三年もつづいただけの話だ。やじろべぇの支点をずらすことで釣り合いをはかり、ふたつの均衡を保っていた。無理をして均衡を保てば、どこかにその歪みがくる。崩壊がはじまればすべてを失うはめになると考えたら、いてもたってもいられなくなった。臆病だったうえに浅薄だったと言えば、そのとおりだ。結論を先延ばしにし、いざ決断を迫られたら、順当な、なんの変哲もない、ただじぶんのことしか考えられない利己的な決断しかくだせなかった。じぶんもまた、世に蔓延る軽薄な男どもとなんら変わらない、無様でかっこうを付けるだけの、唾棄すべき人間以下の獣だっただけの話だ。

 リオと過ごす時間が削られてしまえば、必然、子供たちが起きている時間帯に家へ帰れるようになる。さいきん帰りが早いね、と妻は言ったが、早く帰宅できるようになった理由を訪ねてくることはなかった。帰宅時間の変化が示すその意味を妻はきちんと理解しているようだった。

 梅雨が明けると、リオが部下ではなくなった。ほかの部署へ異動することになったらしく、ほかの部員に引き継ぎをし、海水浴場が軒並み海開きをするころには部署から姿を消した。部署の仕事も、年度初めにセキュリティの強化が施されてからは、人間の行う作業はほとんどバグを除去する「虫取り」に限定された。徹夜でプログラムを組み上げる、なんて荒技もほとんどなくなったと言っていい。リオの異動も、そういった作業の軽量化のための人員削減に関係しているのだろう。部下でなくなってしまえば、リオとの縁は途切れたも同然だ。

 さびしさは感じなかった。むしろどこか清々しているじぶんに気づき、まるでじぶんが醜い生き物のように感じられ、やがてリオのことを考えなくなった。

  

 いちどだけ妻がリオの話題を出した。その日は帰りが遅く、子供たちは寝ていた。用意されていた夕飯はグラタンだ。以前にこちらが「シチューはとうぶん見たくない」とやんわり不平を鳴らしたためか、近頃ではシチューの代わりにグラタンが食卓に並ぶことが多くなった。

「スクール、辞めちゃったんだって」妻が脈絡なく言った。カップにビールを注いで、差しだしてくる。視聴していた番組では、ビッグデータと呼ばれる個人情報を集積するシステムについての特集を組んでいた。「スクール?」

「前に言わなかったっけ。ダンススクール。リオちゃんもそこに通ってたの。ちがうジャンルだけど」

「ああ」妻からではなくリオがそのような話をしていた。妻がスクールのインストラクターと浮気しているのではないか、といった不貞を匂わす話題だった。「そっか。辞めたのか」

「ほんとは聞いてたんじゃないの、わたしのこと」

「ん?」

「ここだけの話ね、わたし、何度か先生と食事とか、映画とか、そうだね、デートめいたこと、してたんだ」

「いまはしてないんだ?」

「怒らないんだね」想定していたかのように妻はほころびた。サプリメントだろうか。鼈甲色の軟カプセル剤を口に含み、ビールで流し込むようにする。「いまはしてないよ。それに、先生って、女のひとだし」

「あ、そうなの」口に含んだビールが気管に入り、むせる。「でも、リオは――」

 記憶を漁ってみたが、たしかにリオはインストラクターの性別を男だと断言していなかった。いや、記憶違いだろうか。憶えていない。

「やっぱり言ってたんだリオちゃん。ひどいよね。まるでわたしがわるい女みたいに」

「いや、どうだったかな。リオが言ってたかどうか。もしかしたらきみから直接聞いたのかもしれない」

「庇うの?」

「決めつけるのはいけない、と言っているだけだよ」

「ここでハッキリしたっていいんだよ。わたしはべつに疾しいことなんてしてないんだから」妻が語気をつよめ、姿勢を正した。それはまさしく、おまえの性根を正してやろうか、という気迫に満ちていた。

「待ってくれ、何の話だい」

「ここまできてしらばっくれる気? いい度胸ね」

「酔っぱらっているのかい」

「酔っぱらって、ほかの女とほいほい寝るような男に言われたくないかも」

「酔っているか訊いただけじゃないか。それに今はそんなむかしの話を蒸し返さなくたっていいだろ」

 もっと冷静になってくれ、と宥めると、今蒸しっ返さなくていつ蒸し返すの! とお冠に火を注ぎ、王様を怒らせたようなかたちになった。こうなってしまっては何を言っても焼け石に水、暴君に正論だ。黙って耳を傾けてやるのが吉だろう。

「わたし、よっちゃんの浮気が許せなかった。それがアルコールのせいだって、誰かに脅されていたからだって、わたしのことが嫌いになっちゃったからだって、理由なんてどうだっていい。ただ許せなかったの。だからわたし、探したの」

 変な声が出た。ツチノコを探しに行ってくると言って出ていった息子がまさにツチノコとしか言いようのない生物を虫籠に入れて帰って来たところを目の当たりにした気分だ。「何、それ?」

「だから、探したの。よっちゃんがしちゃったっていう、あの女のこと」

 話は解るが、展開についていけない。

「よっちゃんからそのひとの名前は聞いてたから、会社で待ち伏せして、問い詰めたの」

「あのコをかい」すでに名前が思いだせない。すくなくとも妻は顔を知らないのだから、待ち伏せしても意味はないはずだ。案の定、

「ちがうよ。顔も知らないのに待ち伏せなんてできるわけないじゃない」

 あなたバカなの、と蔑まされる。

「だったら」

「植木さん。よっちゃんの部下だったひと、いるでしょ。あのひと待ち伏せして、女のひとの顔写真、見せてもらった。植木さんのメディア端末にいっぱい写真入ってた。たぶん、あのコ、植木さんともしちゃってたんだ。そういう女だったんだよ、あのコ」

「で、どうしたの?」

「もちろん、そのコの後つけて、家を特定して、それで、休みの日の行動とか、そういうの調べたよ」

 なにが、もちろん、なのかが腑に落ちなかったが妻の行動原理としては理解できた。妻はことのほか単純な女である。食べたいから作った、踊りたいから習った、それと同じように、知りたいから調べたのだろう。これほど単純な人物を富義はほかに知らない。

「で、どうしたんだ」調べて終わりとも思えない。

「だからね、わたし、ダンススクールに通ったの」

 夫の不倫相手を探しだし、身辺調査をし、だからダンススクールへ通った。話が急に見えなくなった。どういう脈絡だろうか。風が吹いて桶屋が儲かるどころの話ではない。ビールを飲み干し、喉の渇きを潤す。

 妻は、物分かりのわるい生徒に業を煮やした教師のように、

「だから」

 と声を荒らげ、「スクールの先生が、あの女なの」と告げた。ちょっと涙目なのはなぜなのか。

「はあはあ」元不倫相手の素性を探ったらダンススクールのインストラクターだった。だから妻はダンススクールに通うことに決めた。筋は通るような気がするが、気がするだけだ。「つまり、え? どういうこと?」

「よっちゃんがまたふらふらって甘い蜜に寄っていかないようにって、わたし、甘い匂いをふんぷんさせてるビンに蓋をしにいったって話。わかった?」

「あのコに何か言ったのかい」直接会って、なにか糾弾するような真似をしたのだろうか。

「なにも言ってないよ。よっちゃんのことに関しては何も言ってない。むしろ仲良くなった。話とか合わせて、いっしょにくだらない話できゃーきゃー盛りあがって。お出掛けとかもいっしょにして、すこしずつわたしのことを理解してもらって、そのうえで、やんわり夫のことを相談したの」

 つまり、こちらがかつて犯してしまった不倫についてか。

「浮気相手をなんとか殺せないかなあ、とか、なんとか不幸にできないかなあ、とか、そういうことを面とむかって相談した。さいしょはノリノリで聞いてたけどあの女、途中から夫がよっちゃんだって気づいたらしくて、それでもわたしが直接敵意をみせずに、飽くまで仲の良いおともだちを演じてあげてたら、急に態度がよそよそしくなって、それで、いつの間にかスクールも辞めちゃってた」

 どうしてだろうねえ、と妻は、頬づえをつき、小首を傾げた。

 ぞっとした。人形遊びをする子どものような笑みの奥に、純粋ゆえに惨酷な者に特有の淀んだ感性をみた気がした。妻ははじめから、あのコに恐怖を植え付けようと思っていたのだ。巧いこと成功したので、溜飲を下げ、悦に入っている。どんな思いで妻は、夫の不倫相手と交友関係を築き、すこしずつ毒を盛るようにして脅したのだろう。富義には想像つかない。

「それが、二年前のことかなあ。あのコもけっきょく、よっちゃんとはいちども会わなかったみたいだし、骨折り損のくたびれもうけだよね」

 予防の意味なかったんだもん、と妻は言った。予防、と聞き、反射的に身体が強張る。

「まあ、でも、途中でリオちゃんが現れて、それで、結果から言えば、わたしの努力は無駄にはならなかったわけだから、まあ、よしとしましょう」

 リオとの関係が妻に露呈しているのではと、ある程度は予期していたが、妻はリオにも何か行動を起こしていたのだろうか。確かめたかったが、それ以上に、真実を知るのがこわかった。

「どうしたの、黙っちゃって。顔色、わるいよ」

 そりゃ青ざめもするだろう。

「いや、ちょっと驚いたんだよ。まさかきみがそこまで思い詰めてたなんて」

「思い詰めて? わたしが?」なにをお間抜けなこと言ってんの、よっちゃんてばおかしい、と妻は真顔のまま笑い声を立てた。「あの女のことなんてどうだっていいの。わたしにとってはちょっとした暇つぶし、身体動かしたついでに頭も働かせておこうかな、ってその程度の、なぞなぞを解くような、頭の体操でしかないんだよ。でも問題は、よっちゃんがわたしのことを忘れて、何食わぬ顔して、わるびれもなく、なんの罪悪感も抱かないまま、ただキモチイイってだけで、あんなヤツとイチャイチャ、クチャクチャ、ぴちゅぴちゅ、くねくね、ああキモチワルイッ!」

「待ってくれ」話を聞いてくれ、と嘴を挟むも、

「さんざん待ったじゃない!」と一蹴される。「待ッたのよ。わたしはもう、くたびれるくらい待ったわよ。でもよっちゃんは、何も変わってくれなかった。ううん、ちがうよね、わたしの不安をよそに、変わりつづけちゃった。だからわたしも変わろうと思った。このままじゃダメだ、よっちゃんを盗られちゃうって、わたし――ううん、わたしのことなんてどうでもいいんだよ。やっぱりアイツだよ、アイツがぜんぶわるいんだ」

「アイツって、リオのことかい」

「ほかに誰がいるッていうの!」

「待ってくれ、でも、リオがいったい何をしたって言うんだ」

 不倫のことを言うならば、リオだけに怒りの矛先が集中するのはおかしい。こちらの想いが妻から離れ、リオへ向かっていたという点で、あれは不倫ではなく浮気だと妻が判断し、浮気に対してのみ瞋恚の炎を燃やしているとも考えられるが、しかし妻のこの様子は、そうした解釈から外れたところで爆発させているニトログリセリンのように感じられてならない。

「よっちゃんは騙されてる。どうせ言ったって、わたしの言うことなんか信じないんでしょ。アイツのことを庇うんだ。よっちゃんはそういうひとだから。わたし、解るもん」

「そんなことはない。きちんと話してくれれば、わけを、話してくれさえすれば、きみの言うことだって」

「信じてくれるの?」

「もちろんだよ」

「じゃあ、アイツの言うことも信じるってことでしょ。平等に、均等に、そうやってよっちゃんはわたしとアイツを秤にかけて、そうやっていっつも、ノラリクラリ、とっかえひっかえ、もう、なんなの! 自分ばっかり!」

「どうしてそこまでリオのことを嫌うんだ。何があったのか話してくれないと」

「アイツ、わたしに言い寄ってきた。よっちゃんがいない日に、何度か遊びにきてて」

「なんだって?」

「アイツ、わたしを寝とろうとしたの! よっちゃんから!」

「どうしてさ」乾いた笑いしかでない。「まさかきみと私を別れさせるために?」

「ほらそうやって信じない! だから言いたくなかったのに」

「だって、リオは、え? だって、ほら」

「ゲイじゃない。アイツ、どっちもいけるんだよ」すこし間を置いてから妻は、「よっちゃんと同じだよ」と言った。

「私と? 何を言ってるんだ」

「いいよもう、誤魔化さなくたって。わたし、ちゃんと調べたんだ。よっちゃんがアイツとホテルでイチャコラしてたのだって知ってるもん」

 二の句が継げない。子供たちは起きてこないだろうか。ふしぎとそのことに意識がいく。

「いいの。もういいんだよ。よっちゃんは、アイツとばいばいした。わたしのことを選んでくれた。だったらわたしは、そんなよっちゃんを赦してあげるし、愛してあげる。ただ、もうにどと、わたしの想いを踏みにじらないで」

「それは、もちろん、そうするけど」

「ケドとか、デモとか、そういうのイラナイから。つぎはないから。キンタマにちゃんと銘じとくんだよ。オヤスミ」

 酔っているとは思えない明朗な物言いで妻は吐き捨て、足元の覚束ないフラフラとした足どりで、寝室へと吸い込まれていった。

「いったい何が言いたかったんだ……」

 恫喝のようにも、宣言のようにも聞こえた。わたしは知っているぞ、つぎはないと思え。強請るような妻の言葉は、富義の知る妻のものではなく、或いはいま目のまえにいた女は、妻ではなく、妻の仮面を被っただけの、富義も知らない人物であったのかもしれない。息子が事故に遭ったと知らされたとき以上だ。

 生きている心地がしない。

  

 先週までの涼しさがうそのように連日真夏日がつづく。迷った挙句にリオへ連絡をとった。訊きたいことがあると伝え、あすの夜に会う約束を交わした。

 ホテルの一室を予約しようかとも思ったが、妻に勘付かれると厄介だ。賑やかな場所、なおかつ人目を気にせず話ができる個室がいいと判断し、居酒屋の座敷を予約した。

 妻が何かきみに迷惑をかけたのではないか。

 料理を注文してから矢継ぎ早に尋ねた。リオは予測していたのか、やはりそのことですか、と厭な勘が当たった占い師のように肩を落とし、まずは蜜雨さんの話を聞かせてください、と詳しい事情を知りたがった。

 先週の夜に妻と交わした会話を掻い摘んで話した。確認したい要点としては、リオが妻を誘惑したという話が真実か否かという点にあったが、それをバカ正直に伝えては真実から遠のくだけだと顧慮し、妻が私の不倫のことで具体的な調査を行っていた、という面に焦点を絞って話した。

「活発な方ですね、さくらさん。思っていたのとちがいます」

「見た目どおりだよ」むしろあれのことをどう思っていたのかとそちらのほうが気になる。「それで? きみが知っていることを知りたい」

「ぼくの知っていること、ですか?」

「うちのは、きみにも何かしたんじゃないのかい。たとえば、面と向かって『夫にちかづくな』と脅されたり」

「こうみえて、ぼくも男なんですよ。いくら奥さんが狂暴だからって、そんなことは。それに、さくらさんだってぼくからすれば、かよわい女性のひとりです」

「華奢なきみに言われてもな」説得力がない。「妻の話だと、きみもきみで何か行動に移していたような話だった。そのことはどうなんだろう」

「ぼくがさくらさんと蜜雨さんの仲を引き裂こうとしていたと?」

「そういう言い方がいいなら、そう表現してもいい。それはほんとうなのかな」

「新鮮ですね、なんだか。蜜雨さんに疑われるなんて」

「そんなことないさ。疑うというなら私は、持田さんの死にだってきみが関わっていたのではないか、と一時期、疑心暗鬼になっていたくらいだからね」

「持田さんの死にぼくが? まさか」

「ああ、そんなことはなかった。持田さんは自殺で、きみは無関係だ」

「考えすぎだったとご理解されているならよいのですけど……。今回のことだってそうですよ。さくらさんが蜜雨さんの気を惹きたいから吐いた嘘かもしれません」

「それだったら、それに越したことはないんだ。うちのが嫉妬するなんて、滅多にない。すなおにうれしいよ」

「でも蜜雨さんはそう思ってないんですよね」

「ああ。妻はそういった嘘は吐かない。というよりも吐けない人間なんだ。はぐらかさないで教えてほしい。きみは妻に何をした」

「ぼくがですか? ぼくは何も。たださくらさんがぼくのことをたぶらかそうとしたので、女性に興味がないという話をしただけです」

「何だって?」

「ですから、逆なんです。ぼくがさくらさんを誘惑したのではなく、さくらさんがぼくに言い寄ったんです。信じてもらえないかもですけど」

「まさか」

「ここまでしゃべってしまったから、言ってしまいますけど」リオは気が咎めるように顔を顰め、「植木さんっていたじゃないですか」と言った。「さくらさん、植木さんとも浮気、してたみたいです。蜜雨さんの言い方で言えば、浮気ではなく、不倫、かもですけど」

「ちょっと待ってくれ」これ以上話をややこしくしないでくれ、と訴える。

「植木さんっていうのは、蜜雨さんの、後輩の方です」

「それは判るが」

「さっきの話でぼくも腑に落ちました。さくらさんが、蜜雨さんの不倫相手を探そうとして、会社に行ったのは事実だと思うんです。そこで植木さんを待ち伏せしたのもほんとうです。ただそこでさくらさんは、植木さんから話を聞きだしただけじゃないんです、きっと」

「そこで植木と関係をもったと?」

「きっとそうです。考えてもみてください。植木さんだって、わざわざ先輩である蜜雨さんを陥れるような真似、ふつう、したりしないじゃないですか。急に先輩の奥さんがやってきて、会社の、しかも派遣社員の女のコの素性を知りたがっている。ふつうはぴんときますよ、ああ浮気を疑っているんだなって。でも植木さんはさくらさんに、ミカさんの情報を提供しておきながら、蜜雨さんにはその報告をしていない。言ってる意味、解りますよね」

「つまり、どういうことだ」目のまえで披露された推理があまりに、想定外の、予想もしなかった的を捉えていたので、ついつい物分かりのわるいふりをしてしまう。リオは、つまり、と話をまとめた。

「植木さんはそのとき、さくらさんと結ばれてしまったんですよ」

 目のまえの現実が、音もなく歪んだ。

 

 急な予定ができたから、と妻からテキストメッセージが入ったのが、午後四時を過ぎてのことだった。娘の保育園の迎えを代わりに頼めないか、というお願いの旨が記されていたが、それがテキストメッセージである以上、どれほど懇切丁寧に書かれていたところで、わたし行けないから代わりよろしく、という拒否権の認められない命令でしかない。

 息子は小学校から帰っている時間帯だ。母親不在の家に帰宅するというのはどんなに淋しいだろう。いつもなら迎えに来るはずの時刻に、母親がやって来ず、待ちぼうけをくらわされる娘のことを考えると胸が詰まるようだ。

 はやく迎えに行ってやりたいのは山々だが、キリのよいところまで仕事を終えなければならず、あいにくとキリがよいところへは、あと数時間を経てようやく辿り着けるという道のりであった。

 まずは保育園に連絡をし、迎えが遅くなる旨を伝えた。部長に相談したが、むずかしい顔をされ、とりあえずノルマを終えるまでがんばってみてくれないか、と申し訳なさそうに言われた。納入期限の差し迫った現状、これは当然の指示だ。

 ひとまず急ごしらえで、本日終わらせる分の仕事をやっつけた。再提出を覚悟での文字どおり、やっつけ仕事だ。部長はニガ笑いをし、提出したデータを受けとった。

 息子へ電話をし、妻が帰っていないことを確認してから、なにか食べたいものがないかと訊き、いまから帰ると伝えた。

 おっとり刀で向かい、娘の保育園に到着したのが午後八時を回った時分だ。園内に残った児童は娘一人きりで、保育士さんに詫びをいれ、娘にも遅れたことを謝った。娘は安堵した様子で、手持ちぶさたに描いた絵をくれた。四人家族が笑顔で並んでいる絵だ。

 妻が帰ってきたらこっぴどく叱ってやろう。その勢いで、植木との黒い交際についても問い質してやろう。娘には言えない考えを娘と手を繋ぎながら考えた。

 妻を問いただす前に植木とも話を付けておくべきだろうかと考えたが、時間をとられそうだときょうのところは思いとどまる。

 夕食を済まし、息子と娘を風呂へ入れた。「ママにただいま言うの」としぶる子供たちをベッドに連行し、寝かしつける。きたる醜い夫婦の言い争いを目撃させるわけにはいかない。

 理性を保つため、ビールではなく炭酸飲料で喉の渇きを潤した。妻の帰りを待つ。多忙な一日だったこともあり、いちどうつらうつらしはじめると眠気に歯止めがきかなくなった。気づくと陽の光がカーテンを明るくぼやかしており、玄関に妻の靴はなかった。

 

 妻が帰らなくなってから三日が経過した。子供たちの顔に陰りがみえはじめ、そろそろ警察にも相談したほうがいいように思いはじめた。

 妻の実家に、報告も兼ねて相談したが、「どうせ、どっかほっつき歩いてるんでしょ」と親とは思えない言葉が返ってくる。そうだといいんですけど、とこちらが本気で心配している体を醸すものの、「トミちゃんには黙ってたけど、あのコね、じつはちょっと変わってて」と妻の母親は、お決まりの文句を言い、高らかに笑った。「ほら、あたしに似ちゃって」

 何も解決しなかったが、気が楽になったのは確かだ。待っていればひょっこり帰ってきて、旅行先のお土産を突きだしながら何食わぬ顔で子供たちに、ただいまー、と満面の笑みを振りまきそうなものだ。

 ただ、予断は禁物だ。妻のメディア端末の電源が切れていることが気になる。着信拒否をしている様子はなく、電話を掛けてみると、電源がOFF、または電波の届かないところにいる、というアナウンスが流れる。

 いやな想像が頭を巡る。事故や事件に巻き込まれたのではないか。職場には行くが仕事が手につかず、娘の送り迎えもあるため、睡眠時間が大幅に削られた。ほとんど寝ずに、家へ持ち帰った仕事と向き合う日々がつづき、とてもではないが妻への心配を具体的な行動に置きかえることができなかった。

 支えが必要だった。ほかに頼れる者がいなかったと言えば嘘になる。まずは両親に相談するべきだったが、このとき富義が求めていたものは、具体的な援助ではなく、癒しであり、もっと言えば、無償の愛であった。

「すまない、こんな夜更けに呼びだしたりして」

「それは構いませんけど、いいんですか?」

「妻はいない。帰って来ないんだ。かれこれ一週間になる」

「警察には」

「まだ言っていない」

 リオが、どうして、という顔を浮かべた。訝しむのも無理はない。妻の母親へ相談したことや、忙殺の日々だったことを釈明がてら説明する。

「それで、首が回らなくなって、ぼくを呼んだんですね」

「ほんとうにすまないと思っている。だが私にはきみ以外に頼れる者が……」

「うれしいです」

 その言葉に息を呑む。

「こんなときに頼れるひとが、ぼく以外にいなかったんですね」

 目を向けるとリオはこちらをじっと見つめている。じぶんが情けなく思え、慌てて顔を伏せる。

「迷惑なんかじゃないです。うれしいんですぼく。ほんとに」リオは小声で、あーちゃんたちは? と子供たちの状況を訊いた。急に母親がいなくなったのだから動揺はしているはずだが、面には負の感情をだしてはおらず、ふだんどおりだ、と伝えた。言ってからリオが訊きたかった答えがこれではなかったことに思い至り、「すでに寝ているよ」と息を漏らす。「ちょっとやそっとじゃ起きない」とも付け加える。「さいきん、家事を手伝ってもらっているからね。子供たちも疲れているんだ」

「疲れているというなら、蜜雨さんじゃないですか」

「ああ、私も疲れてしまった」

「きょうのところはお休みになられたらどうです」

「あいにくとあすは休日だ」

 ゆっくり休める、と言うと、リオは、「ぼくもです」とさも学校帰りに偶然いっしょになった女の子が、帰る方向が同じだね、と囁くような調子で口にした。「予定はないんです。あすは一日ヒマなんです」

 時計を見遣る。

「朝まではまだ、時間がある」

「たっぷりですね」

「妻もどうせ、帰ってこない」

「心配ですね」

「解ってるんだろ」口元がほころぶ。

「なにをですか? 言ってくれなければ解りません。蜜雨さん、やっぱりちょっと変です。さっちゃんみたいです」

 一瞬、さっちゃんとは誰だ、と思うが、茶化されているのだと判り、

「私はちいさくないから、じぶんのことをサっちゃんとは呼ばないよ」と饒舌に返す。「からかわないでくれ」

「でも、変なのはウソじゃないですよ。きょうはたくさん休養をとられるとよいです。そしたらきっと変なのも薄まります」

「ひとをドラッグ中毒者みたいに言わないでくれ」

「だって蜜雨さん、お注射好きじゃないですか」

「好きってほどでもないさ」

「ウソ吐いたらイヤですよ」

 あんなにされておいて、とリオが目を細める。こちらを見下すような嗜虐的な笑みに、遅まきながら言葉の意味するところを理解した。「あまりいじわるをしないでくれ」道路にぺしゃんこになった蛙が連綿と頭上を通りすぎていく車にぼやくとしたら、まったく同じ口調になったはずだ。

「いじめられるのがお好きかと思って」リオはようやく相好を崩した。「ぼくだって蜜雨さんを困らせたいんですよ。さくらさんばっかりずるいです」

 とつぜんの呼びだしに応じてくれたわりにリオは精悍な顔つきをしており、血色がよい。化粧でもしているかのような艶っぽさがある。

「寝室は、こっちですよね」リオは首を伸ばし、廊下を見遣る仕草をした。「汗、流してきたらどうです?」

「きみは?」

「ぼくはもう、入ってきちゃいました」

 ちゃめっ気たっぷりに下唇を噛むリオを見て、期待していたのはじぶんだけではなかったようだと判り、なぜか胸が詰まった。現状は何も好転していないはずだのに、救われたきもちになる。途端に疲れがドッとでる。

「じゃあ、入ってくるよ」洗面所へと向かう。湯船に浸かり、これから先のことを考える。うまく頭が働かず、ともかくいまはすこしでも崩れかけた精神を立てなおすことに専念しようと決める。

 寝室へ向かう前に子供部屋を覗いたが、子供たちは死んだように眠っており、朝までは目覚めないだろうと思えた。思った途端に、じぶんの顔から父親の仮面が外れていくのを感じた。リオなら母親代わりになるだろうか。想像し、きっと彼ならいい父親の代わりにもなるだろう。なぜか自虐的な考えが巡り、あべこべに張りつめた胸が軽くなった。

  

 翌朝起きるとメディア端末に連絡が入っていた。知らない番号だ。留守電サービスに接続し、伝言を再生させると、刑事と名乗る男からだった。息子の事件を担当してくれた吉田ではない。割と若そうな男の声で、話が聴きたいので署まで来てほしい、という。頼みとも命令ともつかない指示に、当惑する。

 リオはすでに部屋から消えており、相談することもままならない。子供たちも起きてきたので、ひとまず身支度を整えることにする。歯を磨いていると足元で息子が、

「パパ、なんか動物園の匂いがする」と言った。

「そう?」

「ゾウさんのにおい、とぅるー」

 娘にも指摘され、さすがに無視できず、もういちどシャワーを浴びた。体液は細胞に染みこむので臭いが残りやすい。以前にリオが言っていたことを思いだす。じぶんの臭いには気づきにくいものであるようだ。

 朝食を摂り、洗濯をし、息子の宿題を手伝った。娘とおままごとをした。午後には警察署へと出向かなければならず、ゆっくりしていられない。

 子供たちをどうするべきか。留守番させるわけにもいかないし、距離が遠いので実家に預けるわけにもいかず、妻の両親には合わせる顔がなく頼る気にはなれない。休日であることもあり、どこの託児所も混雑しており、予約をとるのはむずかしい。子供たちもいっしょに連れていこうかとも思ったが、警察署へ同行させるのは気が進まなかった。まるで母親がわるいことをしていなくなったように映るだろう。

 ほかの誰かに預けるしか手段がなく、かといって子供たちを任せられるほど信用を寄せている人物となると、富義には一人しか思い浮かべられない。

 メディア端末をとりだし、なんと言って頼めばよいだろうか、とこめかみを揉む。考えがまとまる前に呼び出している。

「リオか? いま、時間だいじょうぶかな」

 じつは、としょうじきに事情を話すことにした。リオは黙って耳を傾けてくれる。掻い摘んでわけを話し、すこしの時間、子供たちを預かってくれないか、と頭をさげる。電波の向こうのリオからは見えないだろうが、誠意は伝わるだろう。リオは、しょうがないですね、とわざとらしく溜息を吐いてみせた。「蜜雨さんの頼みじゃ、断れないですもん。それにきょうは、お休みですし。蜜雨さんは休養すべきです」

 世界中に溢れる八十億の人々が、すこしでもリオを見習ってくれれば、この世から戦争はなくなるのではないかと本気で思う。富義は通話を終え、こころのなかで唱える。

 神よ、すこしは彼を見習え。

   

 駅前で待ち合わせ、子供たちを引き渡し、リオに見送られるかたちで警察署へと向かった。急な仕事が入ってしまった、と子供たちには説明し、お金を使いそうなったら預けたお金を忘れずにお兄ちゃんに渡しなさい、と言いつけておいた。おそらくリオは受けとりを拒否するだろう。そんなときは泣き真似をしてお兄ちゃんを困らせてやりなさい、と娘に指示した。いたずらざかりの娘は嬉々として承諾したが、それ以外のことでお兄ちゃんを困らせるような真似はしないでね、とお願いすると多少なりともしょんぼりした顔を浮かべた。

 途中で腹ごしらえを済ませ、警察署へと向かう。受付で、まずは吉田刑事を呼びだした。

「すみません、きゅうに押しかけてしまって」

「いやいや。我々も暗礁に乗り上げておりましてね。どうにも被疑者を割りだせないんですわ。お子さんはお元気で?」

「はい、おかげさまで。退院して、すっかり元気です。そとがこわいと引きこもってしまうのではないか、と不安でしたが、そういうこともなく、むしろ事件に巻き込まれたという自覚がないくらいで」

「ほうですか。それはまあ、なによりですな」

 捜査の進捗具合を聞いたが、前回来たときと変わらずのようだ。やはり通り魔の線が濃厚であるらしく、長期戦を覚悟してもらわないといかんですな、と申し訳なさそうに言われた。身内の犯行ではないと判ればそれでよかった。すでに犯人逮捕を期待してはいない。

「ところで、きょうはじつは、ほかの刑事さんに呼びだされておりまして」富義は本題に移る。「どういったご用件か、何かうかがっていたりはしませんか」

 遠まわしに、本日呼びだされた理由を探る。

「はて、おかしいですな。ワタシんとこには何も知らされておらんのですが。えっと、なんという刑事でしたかな」

 もういちど名前を口にする。吉田刑事は訝しげな顔をし、うーむ、と唸った。「ちょいと失礼」

 席を外し、二分ほどで戻ってくる。「いま、確かめてきたんですがね、うちにそういうモンはおらんですわ」

「え。でも」

「ええ、ええ。蜜雨さんとこに、そういう電話が入ったのは事実なのでしょう。差し支えなければ、留守電のほうをお聞かせ願えませんかね」

 念のためにと、今朝の留守電を保存しておいた。刑事に聞かせると、「ああ、こりゃ素人だわな」と呆れたように言った。「我々には身分を明かす義務がありましてね。しかしこの男は、刑事です、とただ言っとるだけで、どこの管轄で、なにを理由に呼びだしているのか、その辺を曖昧にしとりますでしょ。こりゃ、かんぜんな騙りですわ」

 穏やかな口調ではあるが、見抜けなかったあんたもあんただ、と責められているような錯覚に陥る。

「刑事を騙るのは立派な犯罪ですわ。よろしければこれ、立件を視野に、ウチで捜査しても構いませんか」

「ええ、それは構いませんが」むしろ安心できる。

「ひょっとすると、息子さんの事件とも繋がるかもしれない。いや、これはただの希望的観測というやつですな。まあ、イタズラ電話でしょう。あまり気を揉まずに」

「はぁ」不安を煽りたいのか、慰めたいのか、よく判らない。いくつかの書類を渡されたので、サインし、無数の事項にマルを付けていく。

 書いているうちに、厭な予感に襲われた。子供たちを置いてきたのは間違いではなかったか。リオは無事だろうか。書いた書類を刑事に託し、警察署をあとにした。急いでリオに連絡をとる。繋がらない。コール音が鳴るので、電源は切られていないと判る。折り返し連絡をするように留守電に伝言を残す。

 自宅に戻ったが、リオたちの姿はなかった。

 予定では、夕方にリオが子供たちを自宅まで送り届けてくれる手筈になっている。まだどこかで遊んでいるのかもしれない。とおくで救急車のサイレンが鳴っており、頭にこびりついた不安を拭い去ることができずにいる。

  

 リオから折り返し連絡があったのは、陽のとっぷりと暮れたあとのことだった。

「どうした、心配してたんだぞ。何かあったのか」

「すみません、蜜雨さん、ぼく……ほんとうになんと言ったら……あーちゃんたちが」

 子供たちがどうしたというのか。リオの息は荒く、しゃべり方もどこか乱れている。平常心からは程遠い状況にあるのだと察せられた。

「まずは落ちついて。いま、どこにいるんだ。迎いに行く」

 リオは、市内の病院の名を口にした。

「きゅうに殴られたんです」と鼻を啜る。涙声だとここにきて富義は気づく。「ぼく、気を失ってしまって、気づいたらここにいて、あーちゃんたちの姿がなくて」

「なんだって」

「すみませんでした、もう、なんて言ったらいいのか」

「そんなことはどうでもいい。うちのがいないってどういうことだ」子供たちは無事なのか。

「警察に、警察に連絡しましょう。ああ、どうして思いつかなかったんだろう。すみません、いったん切って、折り返し連絡します」

「待て、切るな。きみは無事なのか。なにか、ケガとかしたんじゃないのか」

 息が詰まるような間があった。「ぼくは、だいじょうぶです。それよりも、まずは警察に」

「わかった。今からそっちに向かう。着いたら連絡いれるから、電源は切らずに。いつでも出られるように、手元に置いておくんだよ」

「はい。ほんとうに……あぁ、なんと言ったらいいのか」

「解っている。きみに過失はないのだろ? 気にするな」

 通話を終え、自家用車に飛び乗った。ふだんはあまり運転することはなく、出勤時もバスと電車を乗り継いでいく。久方ぶりに握ったハンドルは冷たく、死んだ動物を思わせた。

 

 リオは病院の受付ロビーで待っていた。頭には包帯が巻かれ、痛々しい姿だ。

「どうした。何があった」

「分かりません。とつぜん、うしろから殴られて。気づいたらここに運びこまれてて」

「ケガはだいじょうぶなのか」

「治療は受けました。このとおり、ゾンビみたいです。検査もひととおり受けて、入院を勧められたんですけど、断りました」

「子供たちは?」

 尋ねると、リオは唇を一文字に結び、ちいさく首を振った。

「まさか、そんな」

「どこを探しても、いないんです。救急隊のかたに訊いてみても、現場にはそれらしい子供はいなかったって」

「ああ、なんだ」死んだわけではないのか、と判り、胸を撫でおろす。しかし、安心はできない。「連れ去られた、ということか」

「たぶん、そうなんだと思います。これって、誘拐、ですよね」

「警察にはなんて?」

「子供が連れ去られたので、探してくださいって。あと、殴られてケガをしたことも伝えました」

「それで?」

「いま、こっちに向かっているそうです。間もなく着くころかと……」

「あぁ。きみがいてくれて良かった」

 肩に触れるとリオは火にでも触れたようにちいさく飛び跳ねた。

「私だけだったら、どうなっていたことやら」

「でも、ぼくのせいであーちゃんとちぃちゃんは……」

「きみのせいではない。私が同伴していたところで同じ目に遭っていたよ。或いはその場で犯人に抵抗して、殺されていたかも分からない」

「そんな」リオが怯えた顔をみせたので、

「いや、犯人だって、そうそう子供を傷つけたりはしないさ」と宥める。「だいじょうぶ。警察に任せれば、すぐに子供たちは戻ってくる。なにも心配いらないよ」

 じぶんの手が震えていることに気づき、誤魔化すように、肩から手を離す。だいじょうぶ。子供たちは無事だ。無事に決まっている。リオを励ますつもりでいて、そのじつ、じぶんに言い聞かせているにすぎないのだと内心では判っていた。

 臆病で、見栄っ張りで、情けない男!

 指弾するように詰る妻の声が聞こえた気がした。

 富義は考える。妻は、これを知ったらどうなっていただろう。この世のすべてを擲ってでも子供たちを取り戻そうと奔走する勇猛果敢な母親の像が目に浮かび、つぎに、平然と「あとは警察に任せましょう」と言って、家に帰り、床に就く冷静な女の姿が浮かんだ。どちらも妻の対応としてはあり得そうに思えた。

 

 やってきた警察は二名だ。かるく事情を話すと、まずは署のほうで詳しい話を、と悠長な対応をみせられた。幼い子供たちが連れ去られたというのに、ふざけるな。噛みつきたかったが、リオが見ているまえで憤りを露わにするのは躊躇われた。でき得るかぎり平静を維持し、深刻さを緩和しなくてはならない。でなければ、ただでさえ呵責に耐えかねているリオが、ぺしゃんこになってしまう。

「息子は今年小学校へあがったばかりで、娘はまだ五つです。もっとこう、大勢で探してもらえたりは……」

「そういった手続きも含め、まずは署のほうで」

 焼け石に水だ。

 ひとまずリオには家へ帰るように言ったが、抵抗された。押し問答をしているところへ警察官から、できれば児童が略取されたときの状況がわかる方に来てほしい、と求められ、車にリオを乗せ、警察署へ向かった。

 車内ではリオとの会話はほとんどなく、ゆいいつ交わした言葉も、「さくらさんに連絡は?」という、どうしようもないものだった。メモだけ残した、と嘘を吐いた。

 

 警察署に着くと、吉田刑事が出迎えた。昼間会ったばかりだが、やけに懐かしく感じられた。

「災難ですな」

「ごめいわくおかけします」

「なあに、迷惑なのは犯人でしょう。そう気を落とさずに。お子さんは無事に戻られますよ」

 リオに事件発生時の状況を説明してもらい、どうにか子供たちの捜索を早急にはじめてくれないか、と懇願した。身代金の要求などは今のところないが、犯人が変質者であったならば、目的はむしろ子供たちを攫うことそのものにあると言える。刑事はもっともらしく頷き、以前息子の遭遇した通り魔との関連も含め、迅速な対応を約束してくれた。

「きょうはもう、お休みになられたほうが。まあ、そういう気分ではないでしょうが、何かあればこちらから連絡さしあげます。お子さんの捜索は我々に任せて、いったん横になられるのがよろしい。とてもお疲れのご様子だ」

 礼を言い、案内された個室を出ていこうとするも、一つ気がかりなことがあり、さきにリオを行かせ、富義は部屋に残った。

「あの、じつは」

「ほかにもまだ?」

 懸案事項があるのですね、と見抜いたように刑事は身構えた。

 妻の失踪について話そうと思った。無関係だとは思うが、隠しておくべきではないと直感的に判断した。

「妻が、先週から家に帰って来ないんです。いわゆる、家出だとは思うのですが、ただ、今回のこともありますし。念のため、捜索願いを届けでたいと思いまして」

「奥さんが。はぁ、これはまた」抑揚のない口調で刑事は言い、穏やかだった目に鋭い光を宿した。この世のすべてを疑ってかかる哲学者のような眼差しだ。「これまでにもそういったことが?」

「いえ、それが」なんと言ったものか迷う。「これだけの期間留守にする、というのはあまりなかったんですが、夜遅くまで帰ってこない日がつづいたりと、そういった時期がありまして。妻の両親にも相談したのですが、あまり深刻に考えるなと言われ、今回も、妻の奇行といいますか、気まぐれな旅行なのでは、と考えてしまって」

「では、奥さんはお子さんの失踪については知らないわけですな」

「連絡はまだ」

「なるほど」刑事は思案を巡らせるように口を閉ざした。やがて、「まずは奥さんを探してみましょう」と言った。こちらが怪訝に眉を曇らせたからか、「いえ、奥さんがお子さんを迎えに行った、という可能性もあるでしょうし」とかるい調子で言う。

「つまり、その」うまい言い方が即座に出てこず、「妻が犯人だと?」と物騒な言い方になる。

「親が子を迎えにいくのに、犯人もなにもないでしょう。さきほどの青年、蜜雨さんの部下でしたな。彼を襲った犯人と、お子さんの失踪はまたべつの案件かもしれない。まあ、可能性の問題ですな。考えられる可能性があるならばそれを確かめておくのも我々の仕事のうちでして。なんにせよ、奥さんには連絡しておいたほうがよろしいでしょうし、こちらでも捜索の手を伸ばしてみましょう」

「それは助かります」

 刑事の物言いにはやはり、妻が犯人であることを前提にしているような、断定的な響きがあった。

 

「なにを話してらしたんです?」

 警察署のそとに出ると、車のまえでリオが待っていた。

「妻のことをね。探してほしい、と捜索願をだしてきた」

「そうですね。こう立てつづけに厭なことがつづくと、心配です。さくらさん、何してるんでしょう」

「無事だといいんだが」

「今回のことに巻き込まれていると?」意外そうにリオは言った。

「いや、そういうわけじゃないんだが」車に乗り込むと、リオもあとにつづいた。モーターを駆動させ、アクセルを踏みながら続ける。「刑事さんの口振りだとどうも、子供たちを連れ去ったのが妻ではないのか、と睨まれているようでね。妻が疑われているというのは、あまりよい心地がしない」

「ですが、ぼくを殴ったひとは男のひとですよ」

「そうなんだよね」リオも直接見たわけではないらしい。目撃者の証言だ。救急車を呼んでくれたひとの話では、リオを襲った人物は男だったそうだ。痩身でくたびれたスーツに身を包ませていたという。「だから刑事さんも、妻がきみを襲ったとは考えていないみたいだ」

「そうなんですか」

 しばらく道なりに進む。自宅にまっすぐ帰りたい気分ではなかった。子供たちのいない現実が、払いきれない濃い闇となり、身体を圧し潰してしまいそうだ。考えれば考えるほど、わるい想像しかできなくなる。

「ぼく、思ったんですけど」

「なんだい」

 こうして話しているほうが気が紛れて助かる。「途中でなにか食べていこう。ご馳走するよ」

「ありがとうございます。あの、蜜雨さんに嘘の電話をしてきたひとって、男のひとだったんですよね」

「ああ、そのことか。そうだね。変声器を使ってないなら、あれはそう、男の声だったね」

「だったらやっぱり、さくらさんは無実ですよ。さくらさんは、あーちゃんたちを連れ去ったりしてないんです。あたりまえですけど」

「だが、刑事さんの話だと、きみを襲った人物と、子供たちを連れ去った人物は、別人かもしれない、と言っていたよ。事件そのものが別物である可能性もあるって」

「よくわからないんですけど、つまりさくらさんは、偶然街中であーちゃんたちを見つけて、それで、連れ帰ったと?」

「そういう考えもできる、というだけの話だけどね。ただそうなると、子供たちの件は事件ではなくなるね」

「なるほど。そうだったら、いいですね」

「よくないよ。きみを傷つけた人間を、野放しにはできない」

「蜜雨さん」

「ん?」

「かっこいいです。惚れなおしちゃいました」

「からかわないでくれ」

「照れた蜜雨さんもカワゆくて、ぼくは好きですよ」

「ラーメンでいいかい。あそこに入ってみよう」

 国道沿いに見つけた二十四時間営業の中華飯店に入り、夜食をとることにした。リオは頭の傷が痛むのか、咀嚼しようと口を開けるたびに顔を歪めた。

 

 リオは入院を勧められたが断ったそうだ。検査入院という意味での勧めなのだろうが、予断は禁物だ。一人にするわけにはいかない。じぶんが独りでいたくないだけかもしれない。自宅へ連れ帰ることにした。

 玄関を開けた瞬間に、異様な雰囲気を察知した。

「どうしたんですか?」

「ここで待っていてくれ」扉を閉めず、リオに支えさせる。電気を点け、リビングへ向かう。やはり、荒らされている。ひと気はない。玄関に向かって叫ぶ。「だいじょうぶそうだ。入って来てくれ」

 室内を観察する。癇癪を起した子どもが手当たり次第に家具をひっくり返した、といった有様だ。空き巣が金品を物色するために散らかした可能性もあるが、なぜかそういった感じがしない。

「どうしたんですか、これ」

「分からない。妻が帰ってきたのかもしれないね」冗談半分に口にしたが、言ってから、それも有り得るな、とじぶんの言葉に思わず唸る。

「これも、警察、ですよね」

「そうだな。連絡しといたほうがいいのだろうが、しかし」

 仮に妻がコレをしたと考えると、どうにも気が引けてしまう。いや、決まったわけではない。そもそも妻には暴れる動機がない。妻はまだ、子供たちが誘拐されたことを知らないのだ。

 知らない、はずなのに、妻が癇癪を起こしたと考えると、ふしぎとこの部屋の惨状が腑に落ちてしまう。ふと富義は、一つの筋道を閃いた。

 知っているのか、犯人を。

 だから妻は癇癪を起こした?

「どうされたんです?」

 もし妻が、子供たちを連れ去った犯人を知っていたとしたら。

「だいじょうぶですか?」

 それが、妻の浮気相手だったとしたら。

「蜜雨さん?」

 断ったんだ、妻のやつも。関係を終わらせようとして、相手を怒らせた。その相手が、子供たちを連れ去った。そう考えれば筋が通る。妻が帰ってこなかった理由も、きっと浮気相手との関係に区切りをつけようとしていたからに違いない。

「こいわいですよ、蜜雨さん。返事、してください」

 身体を揺さぶられ、はたと我に返る。

 浮気相手……。

「……誰だ」

「なんです?」

 妻の浮気相手だ。「誰なんだ」

「蜜雨さん?」

「まさか……」

「どうされたんですか」

 リオと目があう。彼は困ったように眉を八の字に寄せ、おかしそうに口元をほころばせている。足元には、妻のメディア端末がひび割れて転がっている。富義は戦慄する。さきほどまではなかったはずだ。

  

 タバコを買ってくる、と言って部屋を飛びだした。飛びだしてからじぶんがタバコなど吸わないことを思いだし、あまりに下手な言い訳に、年甲斐もなく泣きたくなった。夜空に星はなく、街灯が足元を照らしている。

 まさか、そんなわけがない。

 よぎった悪夢を振り払えば振り払うほど、目のまえが真っ暗になった。チカチカと細かな光が、瞼の裏に散っている。

 息があがり、わき腹が痛くなる。脚が重くなり、意思とは無関係に徒歩になる。遅れて鼓動が激しく高鳴る。耳の奥から打ちつけるように鳴る血液の音を、海辺に寄せ返すさざなみのように聞いた。吸い込まれるように公園に入る。水飲み場でのどを潤し、ベンチに腰掛ける。足を止めると、汗が噴きだした。あごから滴る汗に構わず背を丸め、頭を抱えこむようにする。

「うそだ。ちがう」

 そんなはずはない、と否定すればするだけ、茫洋とした閃きは、悪夢の像を結んでいく。

 妻は浮気をしていた。すくなくとも不倫をしていた。相手は、リオだ。彼がどういった動機で、妻と関係を結んでいたのかは判然としない。或いは、こちらと接触するよりもさきに、妻と関係を持っていたのかもしれない。定かではない。いずれにせよ、妻は彼との関係を終わらせようとした。

 だがリオは終わらせたくなかった。だから抗議した。

 子供たちを連れ去り、妻を脅迫することで。

 偽刑事からの電話は、おそらくリオの仕掛けたものだろう。こちらの性格を熟知している彼ならば、子供たちを警察署へは連れていかないと判断できたはずだ。そこで自分が頼られることも想定できたはずだ。上手い具合に事が運ばなかったとしても、また日を改めればよいだけの話だ。子どもを連れ去るなど、こちらからの信頼を一身に寄せているリオならば造作もない。

 予定どおり、子供たちを預かる身となったリオは、さっそくとばかりに妻へ連絡した。子供たちを餌に、妻を強請るためだ。

 だがその後、予想外のことが起きた。妻が、リオの居場所を突き止め、襲撃をしかけてきたのだ。リオは背後から頭部を打たれ、妻は子供たちを奪還した。そのとき妻は、メディア端末を落としたのだろう。リオはそれを拾い、破壊した。妻がこちらと連絡をとれないようにするためだ。

 目撃証言によれば、リオを襲ったのは男だったとの話だったが、子供たちが連れ去られる様子が目撃されてないところを鑑みれば、あまり信憑性のある証言ではない。よしんば殴りつけた人物が男の風貌をしていたとして、妻が男物のスーツを着込み、変装をしていた可能性は否めない。

 自宅が荒らされていたことはどう説明できるだろうか。夕方までは自宅にいたのだ。それまで異変はなかった。リオから連絡があり、病院で合流してからは、リオとずっと行動を共にしていた。彼に部屋を荒らす時間はなかったはずだ。

 共犯者がいるのか。

 いや、考えが飛躍しすぎている。やはり自宅を荒らしたのは妻だ。子供たちを奪還したのちに、一時的に帰宅したと考えるのが妥当だろう。子供たちは安全な場所に、そう、ホテルなどに置いてきたに違いない。

 着替えをとりにきたのかもしれない。或いは、メディア端末を失くしたので、直接、こちらに事情を伝えにきた可能性もある。

 いずれにせよ、そのときこちらは病院にいた。妻はそれを察しただろう。

 置き手紙を残したところで、リオの話を鵜呑みにする尻穴のバカになった夫は信じない。だから部屋を荒らし、敢えて騒ぎを大きくすることで、本格的な捜査を期待した。本職の刑事ならば、さすがにリオの証言を真に受けたりしないだろう、と想像を逞しくしたに違いない。

 妻に会えば解決する。

 こちらの推測どおりに話が繋がれば、あとはもう、警察の仕事だ。リオと妻、どちらの話を信じるかは問題ではない。仮にリオがただの被害者で、今回の事件にいっさい関わっていなかったとしても、そうと確定するまでは、彼の言葉を信じるのは得策ではない。

 富義は伏せていた顔をあげる。そうだとも。想定していたではないか。しあわせの絶頂にいるかぎり、災いは必ずやってくる。予測していた悪果がようやく訪れただけのことだ。

 踏ん張るようにしてベンチから腰を浮かす。背筋を伸ばし、星空を仰ぐ。

 こんどこそ、振りかかった火の粉を払ってみせる。

 まずは自宅が荒されたことを警察に届けでよう。息子の事件と無関係とは思わないはずだ。事情を聞くべきだと考え、妻の捜索にも力をいれてくれるだろう。

 リオはどうするべきか。かってな行動をとらせるよりも、監視する意味合いも含め、いっしょに行動したほうがよさそうだ。

 気が動転して飛びだしてしまったということにしておこう。何食わぬ顔で言い訳すればリオも深くは追求しないはずだ。ケガのこともある。ひとりにできない、と説得すれば引き留めても不自然にならない。休みの明けるあさってまでは、単独行動をさせないようにしよう。

 そうと決まれば、まごまごしている暇はない。 

 踵を返し、自宅へと急ぐ。

  

 マンションのまえではリオがメディア端末を片手に握り、往生していた。

「ああ、よかった。御無事だったんですね」

「なんだい? まるでひとを迷子みたいに」

 おどけて煙に巻こうとするが、

「やめてください」

 肩に置いた手を振りほどかれる。「ほんとうに心配したんですよ。急に青ざめたかと思ったら、蜜雨さん、出ていっちゃうし」

「独りになりたくてね。こうも立てつづけにイヤなことがあると」

「連絡くらい、してくれてもよかったのに」リオはメディア端末を、軋むほどつよく握った。

「きみのほうこそ連絡を寄こしてくれれば――」

「できませんよ。蜜雨さん、ぼくのこと、避けたじゃないですか」

 いっしゅん、こちらを責めるように一瞥するとリオは、視線が交わる前に目を伏せた。「まるでぼくがクマかトラみたいに」と零す。「逃げたじゃないですか」

「拗ねているのかい」

「事実を述べたまでです」

「謝っても無駄かな?」

「どうして出ていったりしたんですか……」

「だから、気が動顛してしまって」

「そうやってウソを重ねるかぎり、赦しません。ぜったいにです」

「ここではなんだし、まずは部屋へ戻ろう」

「そうやって蜜雨さんはいつもはぐらかして。ずるいです」

「警察にも通報しないと」

「ぼくがいなくともできますよね。オコチャマじゃないんですから」

「きみにはいてもらわないと」

「どうしてですか?」

「言い方がわるかった。きみを帰すわけにはいかない。傷付いた部下を独りにするわけにはいかないからね」

「たった今、独りにしたひとに言われたくないです」

「だからこうして謝っているじゃないか」

「蜜雨さんはすこし、真剣味に欠けます」

「ううむ」

「今回のことだけじゃないです。ぼくのことだって……」

「エレベータが来たよ。さ、乗って」

「そうやって、また」

 リオは機嫌を損ねた様子だが、こちらの腕を振り払ってまで逃亡する気はないようだ。すこしつよめに背を押すと、滑車の付いた冷蔵庫のように歩を進めた。

  

 警察を呼び、事情を話し、ひと通りの調書をとり終わったのが午後三時を回った時分だ。さいきん、調書ばかりをとっている気がする。

 後日被害届の確認のため署のほうへ来られますようにと儀礼的に指示すると警察の方々は、部屋の写真を数枚撮り、申し訳程度に指紋を採取してから、宅配を終えたピザ屋のように去っていった。見知った顔はなく、妻の失踪や、子供たちの誘拐の一件と関連付けて考えてくれそうな者はいなかった。

 気落ちする。

 今夜はもう休みましょう、とリオに促され、床に就く。リオには客用の布団を使ってもらい、この日はそのまま深い眠りに落ちた。

 翌朝起きると、リオが朝食をつくっていた。手伝い不要とのことだったので、席に着いて待つ。メディア端末でニュースを開き、ざっと目をとおす。遠い国での暴動が過激化し、それを鎮静するために軍が出動した、といった壮大な事件がマスメディアを賑らわせている。子供たちのことが記事になっているかもしれないと思ったが、そういうことはなかった。

 特集では、宇宙ステーションから帰還した宇宙飛行士たちが、宇宙から見た地球の姿に感銘を受けた様子で、「宇宙船地球号は実在した」と興奮気味に語っていた。

「これ、オーバービュー効果と言うそうですよ」

 ふいにリオが投げかけてくる。台所からは包丁の野菜を切る音が律動よく聞こえている。

「なんだいそれは」

「地球を離れた宇宙飛行士が体験するみたいです。とてつもない疎外感に苛まれることがあるみたいで。居場所であるはずの地上から遠く離れることで、世界から切り離されたと感じてしまうらしいんですね。それをブレイクオフと呼ぶらしいんですけど、そこから派生して、地球を一つの生き物にように感じたり、守るべき対象として認識したりするようになることがあるって。きっと地球規模の視点を持てるようになるんでしょうね。知識としてではなく地球も宇宙という一つの世界を構成する要素にすぎないんだと体感することで」

「海外旅行したら価値観が変わるという話に似ているね」

「そうですね。でも、根っこは違う気がします」

「というと?」

「うーん」手を止めたのか、いっしゅん部屋が静かになる。リオは台所から顔を覗かせるようにした。「たとえば人間は、自分ではどうすることもできない問題に直面すると、その問題から目を背けてしまう性質があるじゃないですか。でも、なんとかできそうだとすこしでも思えると、行動に移す可能性が高くなるそうなんです。地上にいるあいだはこの世界が一つに繋がっているなんてとてもじゃないですけど実感できないですし、ほんとうに丸いのかな、なんて思っちゃうくらいじゃないですか。やっぱり遠い国のできごとは、月や太陽で起こっている見たこともない世界の、自分とは関係のないできごとのように感じちゃいますし、ぼくなんかは【自分たち】というくくりを考えたとき、意図しないうちから、せいぜいが同じ地域に住んでいる人たち程度の枠組みになっちゃいます。人類みんなを【自分たち】だなんて考えたりできないじゃないですか。でも、体験として地球はやっぱり一つなんだと実感することで、そうした意識改革が起こるんじゃないかなってぼくには思えて」

「なるほど」

 たしかにそれは海外旅行で得られる価値観の転換とは違うだろう。たんじゅんに違う世界に触れるだけでは得られない意識改革が、宇宙旅行にはあるようだ。

「それをオーバービュー効果と呼ぶらしいんです」リオはなんでもないような調子で言い、すこししゃべりすぎちゃいました、とはにかんだ。飲み物はコーヒーでいいですか、と話を結んだ。

 

「すぐにお出掛けですか?」

 食事を終え、皿を洗いながらリオが水を向けてくる。

「そうだな。吉田さんにも、話をしておきたいし」

 あの人ならば一連の不幸を一つの事件に結びつけてくれると考えた。リオの淹れてくれたお茶を飲む。

「ぼくにできることがあったら、言ってくださいね。蜜雨さんはちがうと言ってくださいましたけど、でもやっぱり、あーちゃんとちぃちゃんが連れ去られたのは、ぼくのせいですし……」こちらが口を開く前にリオは、「否定されたくて言っているわけじゃないんです」と付け足した。「慰めの言葉はいりません」

 演技にはみえない。彼を信じたいきもちが募るが、感情に身を任せていてはこれまでの二の舞いだ。

「分かった。なら、いっしょに付いてきてくれないか。じぶんでは冷静でいるつもりだが、また昨日みたいにいつ取り乱してしまうか判らない。きみがそばにいてくれると、私も安心できる」

「もちろんです。そう言ってもらえて、うれしいです。不謹慎かもですけど」

 昨夜から手つかずの荒らされた部屋を片づけた。怪我の具合もよさそうなので、リオにも手伝ってもらい、おおかたの整理を終えてから家を出たのが、正午をすこし回った時刻だ。念のために妻への書き置きをしたが、リオがそばにいたので、実際に起きた出来事のみを箇条書きで書き連ねるのみに留めた。

 警察署へ着くと、「ちょうど御連絡さしあげようと思っていたところで」とバタバタした様子で吉田刑事が出迎えた。「お嬢さんが発見されました。今は病院で治療を受けておるそうです」

 言葉を失う。

「命に別条はないそうなんですが、まずはさておき病院へ。きょうはお車で?」

「いえ、徒歩ですが」

「でしたら送りましょう。詳しい話は、車内で」

「あの、彼もいっしょに」背後で畏まっていたリオのそでを掴み、引き寄せる。「構いませんか?」

「構わんでしょう。さあ、こちらへ」

 覆面パトカーだろうか。黒塗りのセダンに乗りこむ。後部座席に納まったそばからソファに腰が沈み、造りの上質さが窺えた。吉田刑事は陽射しがまぶしいのか、サングラスをかけている。運転しながら、事情を掻い摘んで説明した。

「発見されたのは今朝がたという話でして。住宅街の路肩に投げだされていたところを、通勤中の男性が発見し、病院へ搬送されたのが、午前六時という話ですな。顔や胴体に軽度の打撲と、左腕を骨折しているようで。ただ、不幸中のさいわいと申しますかな、命に別条はないそうで」

「事故、ですか?」ちがうと言ってくれ、と祈るように尋ねるが、「断言はできませんがね。医師の話では、何者かによる傷害を受けている様子だとのことで、なんともはや、傷ましい話ですな」

 他人事のように言ってくれる。いや、現に吉田刑事にとっては他人事だ。責めるのは筋違いだ。ひざが震えているように感じ、視線をやると、無意識に固く握った拳が戦慄いていた。瀕死のハムスターを介護するような手つきで、リオがそのうえから手を添える。

「とは言いましても、そのコが蜜雨さんの娘さん本人であるのか、まずは身元の確認をしてもらわないことには、いかんともしがたいですな。こちらの誤認ということもあり得るわけでして。まあ、気を落とさずに」

 無茶を言う。

 気を落とさないどころか、触れた気などこちらから投げ捨て、とっくに車道に置いてきぼりだ。

 娘が何者かに乱暴された。その意味するところは、ひとの親として、娘を持つ父親として、けっして想像してはならない闇でしかなく、悪夢ですらない。闇のあとには絶望が残り、絶望を土壌として芽生えるものは、世界を覆うほどに圧縮された憎悪のみだ。


 気づくと富義は、病院の待合室にいた。ほかの患者たちにまじり、椅子に腰かけている。映画がはじまるわけでもないしに、みな一様に同じ方面を向き、折り目正しくじっとしている。

「だいじょうぶですか?」

「なにがだい」となりにリオが座っている。「えっと、吉田さんは?」

「面会の手続きをしてくると言って受付へ行かれました。あの、すこし休まれたほうが……」

「なに。ちょっと考えごとをしていてね」

「そう、ですか」

 頭のなかが静かだ。静かすぎてきもちがわるい。娘に起きた悲劇を想像する。想像してはならない闇を、富義は敢えて直視することに戸惑いを抱かなかった。予行演習のつもりなのか。頭のなかの闇を掴み、捏ねあげ、ふたつの人形をカタチづくる。娘と、顔も知らぬ男の、二人だ。人形遊びをするような手軽さで、絶望を頭のなかで再現する。タガが外れているのか容易に映像化できた。男が娘を凌辱している光景だ。男が娘の口を押さえ、腹を殴っている。娘は抵抗するのをやめたが、男は手を止めずに殴りつづける。娘の顔を涙と鼻水でぐしゅぐしゅにさせると男は、それを肴に隆起した醜悪の権化を、娘の未熟な鍵穴へ強引に捩じこむ。

 思い描いた絶望には、ふしぎと臨場感が伴って感じられたが、現実味は湧かなかった。吉田刑事はまだ戻ってこない。

「私が父親ではなく母親だったなら」知れず、つぶやいている。思考が漏れているというよりもむしろ、思考しなくて済むように無理やり物を考えるために、とにかくなにかしゃべらなくては、という無意識が働いているようだ。そう感じること自体が、現実逃避のための思考に思われてならない。「たぶん、男というのは、ほかの男たちの犯す罪に対して、女性よりも過剰に反応するものなのだろうね。なぜなら、解ってしまうからだ。同じ男として、どのような欲望を持って罪を犯したのかを、我々男は、想像できてしまう。だから、より過剰に怒りを抱くのだろうね。男に潜む、嗜虐性を。その欲動を」

 理解できるからこそ、怒りが芽生える。ならば知らなければいい、ということはない。無視することのできない未知は、やがて底知れぬ恐怖を引きつれる。娘は何も解らなかっただろう。どうしてこんな目に遭っているのか、目のまえの人物が、何を思ってそんなことをしてくるのか。何も解らなかっただろう。どれほどの絶望を味わい、叫び、苦しみ、震えたか。

「お待たせして申しわけない。こちらですな。三階の集中治療室におるそうで。まずは顔を見てもらってですな、たしかにお嬢さんだと判れば、こちらで傷害事件として扱かうというカタチで、よろしいですかな」

 拒む理由がない。

 吉田刑事に先導され、エレベータへと向かう。歩きながら、

「部屋が、荒らされていたんです」

 まだ知らないのだろう、と思い、告げると、案の定、吉田刑事は顔色を変えぬまま、訝しげに目を細めた。「と、言いますと?」

「昨夜、家へ帰ったら、部屋が荒らされてまして」

「難儀ですな。通報は?」

「昨夜のうちに。きょう、そちらへは、被害届をだすために足を運んだのですが」

「着いた途端に、これですか。なるほど」

「吉田さんは、どうお考えですか。無関係とは、私にはとても」

「思えませんか。詮もない。ただ、それを調べるのが我々の仕事ですのでね。まあ、お任せください、としか言いようがないのですがね」

「そうですか」そうですよね、と富義はただ首肯するよりない。

 

 集中治療室には以前にも来たことがある。息子が歩道橋の階段から突き落され、怪我を負ったときにもここを訪れた。あのときは、息子の手術が終わるまで、手術室のそとで、嵐が過ぎ去るのをただ待ち望む小鳥のように、妻と共にちいさく肩を寄せあった。つい先日のことのように思えるが、あれから一年が経とうとしている。

 手をアルコール消毒し、マスクを付け、入室する。集中治療室のなかには、いくつかのベッドが横一列に並べられている。息子が世話になったときに知ったことだが、集中治療室というのは延命処置のための最後の砦のように思われている赴が世のなかには根強くあるが、実際にはそういう側面はあまりなく、むしろ完治させるための治療を徹底して行うための、肉体強化室のようなものであるそうだ。だが助からずにこの室内で亡くなってしまうひとも少なからずいるわけで、そうした死線を今まさに跨ごうとしている患者がこのなかにいることを思うと、生気を漲らせたじぶんが死神かなにかのように感じられてならず、鬱屈した気分に、さらなる磨きがかかる。

 案内されたベッドのうえに寝かされている女児は、間違いなくじぶんの娘だ。両腕からはチューブが生えており、弱りきった娘に生気を注ぎこんでいるが、あまりの痛々しさに、娘の生気を吸い上げる魔物か何かのように映る。口元を覆う酸素マスクは呼吸にあわせて白く濁り、息苦しさを増しているだけではないのか、と思わずにはいられない。ただ、覚悟していたよりかは、娘の顔はいくぶんも穏やかそうに映った。

「昏睡状態というわけではありませんので、目が覚められましたら、しゃべられることも可能です。面会時間は二十分ですので」

 時間になりましたらお知らせにまいります、と医師らしき若者から丁寧な説明を受けた。ほかにも、カルテを元に、かんたんな説明をしてもらったが、まったく頭に入らない。リオにも付いてきてもらえばよかった。ちぃちゃんに合わせる顔がない、と言い張りリオは頑として集中治療室のなかに足を踏み入れようとしなかった。お見舞いではないのだから、そのきもちも解らないではない。

 吉田刑事に、娘で間違いない旨を明かし、いったん集中治療室のそとに出た。今後の話をする。リオは廊下の待合室で待っていた。うなだれるように頭を抱えベンチに腰掛けており、近づくとはっとした様子で、

「ちぃちゃんは……」

 縋るように娘の容態を尋ねた。

「寝ていたよ。思った以上に元気そうだった。顔色も、そう、それほどわるくはなかったかな」

「そう、ですか」

「あまり浮かない顔をしないでくれ」

 見ているこちらが居た堪れないきもちになる。「きみが思い詰めることはないんだから。それこそ、私を励ましてもらわないと」

「はい」リオは口元だけをほころばせ、それから用意していた台詞を吐くように、それで、と言った。「あーちゃんは?」

 不安そうな表情にこちらまで胸が締めつけられる。

「ええ、そのことなんですがね」吉田刑事が自販機にお札を投入し、コーヒーを三つ買った。こちらに二本、手渡す。「さきほど、病院からの通報でさきにかけつけておりました警官の話を聞いてみたところ、どうやらお嬢さんは、犯人の顔を見てなさるようで。お嬢さんを保護した男性の証言によれば、お嬢さんは呼び掛けにいちどは目を覚まし、見知らぬ男に暴力を振るわれた、といった供述をされたそうです。で、お嬢さんのお兄さんも、つまり息子さんもそばにいたという話だそうで、推測するに、いまもまだ、犯人に拘束されているものかと」

「死刑には……」抑えきれずに口を衝いている。「犯人は、捕まっても死刑にはならないんですよね」

 児童を誘拐し、あまつさえ強姦した男がいる。だが現行の法律では、厳罰が下されたとしても死刑にはならないはずだ。それがどうにももどかしく、悔しかった。

「まあ、死刑はむずかしいでしょうな。しかし、不幸中のさいわいと申しますか、お嬢さんのお怪我は、全治一カ月。うでの骨折もヒビ程度だというじゃありませんか。あまり言葉にはしたくはないですがね、まあ、イタズラされたということもないようですし、それこそあなたがさきほど彼に言ったように」とリオをあごで示し、「あまり思い詰めないように」と言った。

「ホントですか!?」声を上げたのはリオだった。「あの、ちぃちゃんは、その、乱暴をされたりは……」

「ええ、目立った外傷は腕の骨折だけですな。性的ないたずらの痕跡は、まあ、今のところはないようで」

 ここで安堵するのもおかしな話だったが、訊くに訊けなかった娘に振りかかった奇禍の色は、富義の危惧していた闇色ではなかったと判り、胸が軽くなる。静まりかえっていた頭のなかは賑やかさを取り戻した。

  

 三日があっという間に経過した。警察が自宅の検分をするためにやってきた。部屋を荒されたことが一連の事件と関係したものと判断された。

 娘の巻き込まれた傷害事件は、ちいさなニュースとして記事にもなり、どこから漏れたのか、週明けには親戚に知れ渡っていた。富義の両親は、すぐにでもこちらへ来る、と鼻息を荒くしており、妻の両親は、孫だけでなく自分の娘まで行方不明であることを遅まきながら深刻に捉えはじめ、狼狽している様子だった。両親には、来られても困る、とだけ告げた。これ以上面倒事を増やさないでくれと泣きごととも八つ当たりともつかない思いがあった。妻の両親には、警察の方たちが捜索してくれている、何も問題はない、と宥めすかし、何も行動は起こさずに、いっさいをこちらに任せてくれるよう、申し伝えた。

 長い三日間のようで、その実、なにをしていたのか、いっさいの記憶が覚束ない。休日明けの初日こそ会社を休んだが、怪我を負ったリオが出社しているのに会社を休むわけにもいかず、二日目からはふだんどおり出社した。かといって、仕事が手につくわけもなく、ただ無為な時間を過ごした。

 娘は入院した翌日に、集中治療室から、一般の小児科病棟に移った。息子のときと同様、個室で、とくべつの計らいもあってか、夜の面会も許可された。昼間に刑事からの事情聴取があったためか娘は疲れた顔をしており、病室での不自由な生活にうんざりしているのか常時不機嫌だった。なるべく事件の話題に触れないように気をつけていたが、あーちゃんは? と未だ発見されない兄を気遣う娘の姿を見ると、どうしても「がんばったね」「無事に帰って来られてよかったね」「こわい思いをさせてごめんね」と、奇禍に遭わせてしまった呵責の念を、謝罪に籠めてぶちまけたくなる。

「ママは?」

 ふいに娘は、日常を構成するたいせつなパーツが足りないことに気づいたようだ。三日目にしてようやく妻の所在を尋ねた。

「ママは、あーちゃんのところだよ。ちぃちゃんをよろしくねって、パパ、頼まれたんだ」

「ふうん」娘が胸元でいじくるペディベアは、リオの見舞いの品だ。素朴な調子で娘は、「ちぃちゃんのとこには、来てくれないのかなぁ」と零した。

「来てくれるよ。すごく会いたがってたんだけどね。でも、ちぃちゃんが弱っているところを見たら、ママ、ショックで倒れちゃうから。パパがもうすこし待っててって、お願いしたんだよ」

「パパがアシドメしたの?」

「お。むつかしい言葉を知っているね」

 褒めると娘は、照れくさそうに相好を崩した。

 退院したら何がしたい、これが欲しい、あれが食べたい、と駄々を捏ねるような口吻で未来を語る娘に、おやすみを言い、病院をあとにしたのが午後八時を回った時分だ。帰り際に通ったナースステーションで、次回からはもうすこし早めにきりあげてください、と年長の看護師からお叱りをもらった。

 まっすぐ帰宅せずに、警察署へと歩を向ける。もはや行きつけの感覚だ。仕事帰りに居酒屋へ寄るような気軽さに、思わず自虐的な笑いが込みあげるが、表情にあらわす元気はない。

 吉田刑事は席をはずしているらしく、会えなかった。代わりに若い刑事がやってきて、手帳を広げながら、「二、三、伺いたいことがあるのですが」と迫られた。改まった様子に気圧される。彼は吉田刑事の後輩であるそうだ。拒む理由もなく、あとに付いていくと、調書をとるための個室に通された。

「なんでしょう。捜査のほうに、なにか進展が……」

「いえ、お子さんのことではなく、奥さんについてなのですが」

「妻の足取りが掴めましたか」

「いえ、まだです。そうですね、まずは奥さんの日ごろの様子についてお伺いしたいのですが」

 失踪前に変わった様子はなかったか、といった以前にも話したことのある内容を、十分ほどかけて、説明した。

「たとえばなにか、そう、持病などは」

「いえ、とくにはなかったと思います」

「お薬かなにかを常用されていたりは」

「いえ、なかったかと」

「サプリメントなどは」

「飲んでいたかもしれませんが、それが何か?」ほかの質問とは趣がちがう。なにか核心に迫るような粘着さが窺える。

「いえ、じつはですね」そう言って若い刑事は、いくつかの軟カプセル剤を懐からとり出した。透明なビニール袋に入れられている。テーブルに置き、「御自宅を検分した際に発見したものなのですが」とこちらへ滑らせる。「憶えておられますか」

「ええ」

 持ちだしてよいか、と許可を仰がれ、承諾したものだ。「ただのサプリメントではなかったのですか」

 こちらの質問には応じず若い刑事は、

「昨今、巷に流布している新規向精神薬を御存じですか」

 以前は脱法ドラッグという呼称だったのですが。

 画面の向こうから語りかけるように言った。「これもまた、それに類する代物です」

「ドラッグ? これがですか?」

「蜜雨さくらさんは、薬物乱用防止条例に抵触している疑いが持たれています。いまいちど確認しますが、蜜雨さんは御存じなかったのですね」

「それは、はい……」記憶を探るが、むろん、じぶんが妻に何か薬物を譲渡した憶えはない。「知りませんでした。しかし妻が、薬物を? まさか、その、麻薬だとか、覚醒剤だとか、そういったものだったり……」

「捜査に差し支えるので、薬物の種類についてはお話しでき兼ねますが。ただ、ふつうに生活していて手に入れることのできる代物ではない、という点だけはお伝えしておきます」

「そんな……」

「お子さんを攫った人物についても含め、何か思いだしたことや、心当たりが浮かびましたら、こちらのほうか、もしくは吉田さんのほうへご連絡ください。吉田さんの連絡先はご存知ですね」

「ええ……ご存じですが」オウム返しに肯定し、差しだされた名刺を受けとる。名刺に記載されていた身分から察するに彼はどうやら、麻薬だとか覚醒剤だとかを取り締まる部署に所属しているようだ。吉田刑事の部下だと言っていたが、違うのだろうか。

「ああ、直属の部下ではないんですよ」こちらの訝しげに思う心象が顔に出ていたのか、誤解するような言い方をしてすみません、と彼は釈明した。「刑事に成り立てのころに、吉田さんにはお世話になりまして。僕からしたら、吉田さんは大先輩なんですよ」

 新人の刑事かと思ったがそういうわけではなさそうだ。彼の年齢も見た目よりは若くないらしい。

「妻は、その、逮捕されるのでしょうか」

「現行の法律に鑑みれば、単純所持だけでは、書類送検されることもないでしょう。新規向精神薬――危険ドラッグは名前のとおり、ただ危険だというだけの認識で、現状は法で裁くことがむつかしく、重くても薬物乱用、そうでなければ条例違反程度の代物でして」

「前科は付かないということですか」

「今のところは」

 間の空き具合からして、こちらを安心させるための肯定のように思えた。彼の含みを持たせた言い方にはどれも、妻の服用していたと思しき薬が、単なる新規向精神薬ではないのだと判らせるに充分な険難さが見てとれた。 

 自宅へ帰る道すがら、妻はどこであれを手に入れたのだろう、と新規向精神薬の入手経路に気を揉んだ。ひょっとすると、あの刑事はそれを探ろうとしていたのではないか。妻の背後に、きょだいな影が屹立している様を想像する。

 海に溺れた犬のようにもがく妻が、その影にゆったりと呑みこまれていく映像が脳裡に浮かぶ。やがて、ここから遠く離れた東京湾で、溺死体となって発見されるところまで思い浮かべると、悪心がのどをせり上がり、身体からちからが抜け、とてもではないが、その場に立っていられなくなった。路肩に生える街路樹に手を付き、身体を休める。

 唾を吐き、乱れた呼吸を整える。

 私はどこにいるのだろう。これではまるで、べつの世界ではないか。

 もういちど唾を吐くと、じぶんの靴にかかった。だからではないが、急に湧きあがった怒りが、噴火口を求めるマグマのように渦を巻き、ぶつけようもないその怒りをぶつけるべく、身体を支えていた街路樹を、おもむろに蹴りあげた。反動でよろけ、歩道に尻もちをつく。さきほど吐いた唾で履物が汚れた。散々だ。地団太を踏む代わりに、駄々っ子のように地面を叩き、てのひらに伝わる痛みでようやく冷静になった。

 悔しい。

 なにもできないじぶんと、この奇禍を打破できると思いあがっていた先週までのじぶんに、恨みにも似た浅はかさを感じ、このまま臍を噛み切りたい衝動に駆られた。

 マンションの前までやってくると、入口にリオが立っていた。帰りを待っていたのだろうか。連絡をくれればよかったのに、と思い、メディア端末を確認すると電源が落ちていた。

「どうしたんだい、こんな夜更けに」

「お電話、さしあげたんですけど、繋がらなかったので」

 心配し、駆けつけたといったところか。

「何か用かな」意図したわけではなかったが、冷たい語調になった。

「いえ、あの……あーちゃんや、さくらさんが心配で、その、お話を伺いに」

「まだ見つからない」マンションの玄関口で、オートロックを解除しながら、「それと、妻は犯罪者かもしれない」と告げる。

「どういう意味ですか」

 玄関をくぐると、リオもあとを追ってきた。「さくらさんが犯罪者って、どういう意味ですか」

「クスリをやっていたらしい。警察は、さくらが売人じゃないかって、疑っているようだ」

 わざと大袈裟に話をでっちあげた。話すならこれくらい過剰に演出されていないと、また勃然と、癇癪を起しそうだった。こちらの暗澹とした機微が伝わったのか、リオはそれ以上、詳しい説明を求めてこなかった。

 自宅の扉の前までやってくる。うしろからリオが付いてくるが、富義はいちども振りかえらず、エレベータのなかでも、一言も口を開かなかった。

「あした、ちぃちゃんのお見舞いに行こうと思います」

 扉を解錠したところで、リオが言った。行ってもよいですか、と許可を仰がれる。

「ありがとう。そうしてくれ」扉を引き、振りかえらぬままに、「あのコもきっとよろこぶよ」

 滑りこむように敷居をくぐる。リオを廊下に置き去りにし、しずかに扉を閉める。

 誰もいない室内はひどく暗く、明かりを点けてからも、部屋の隅に追いやられた影たちの、息の詰まるような希薄さが増すばかりだった。

  

 朝起きて、誰もいないリビングを眺め、虚無感に苛まれる。通勤するために駅へと向かう。雑踏がひしめいており、通勤、通学する者たちでごった返している。あまりの変哲のなさに愕然とする。じぶんが身を置いている日常と、彼らの世界はとうてい重なり合える地平にはないのだと思い知り、埋めがたい隔たりと、深い溝を感じられずにはいられない。

 一人の人間の人生が今まさに崩れ去ろうとしているとき、世の中という漠然とした個人の集合体、言い換えれば、個々人の共有し得る、普遍的な営みは、いっさいの痛痒を感じ得ない。世を悠然とながれる無情さを、その摂理を、まざまざと見せつけられた気分だ。コンビニに寄り、朝食として飲むヨーグルトを一本だけ購入する。

 なにも考えていなかったが、会社の門をくぐったとき、ふと、植木の顔が思い浮かんだ。

 リオは言っていた。妻は、植木と不倫していたのだ、と。

 だがこちらの考えでは、妻の不倫相手は、リオということになっている。真偽のほどは定かではない。妻が不貞を働いていたとして、そしてそれが今回の失踪事件と絡んでいたとすれば、十中八九、その相手はリオだと富義は踏んでいる。

 とはいえ、妻が二重三重に不義を通していたとしても、ふしぎではない。

 なぜもっとはやくに思い至らなかったのか。自身の無能さに、歯ぎしりする。真相は闇のなかにある以上、植木を詰問するのは、必須である。相談を装って、カマをかけるのもいい。リオに内緒でことを運ぶ必要がある。彼を信じたいきもちは依然として残っているが、だからこそ、いまは独りで行動したい。これ以上、リオへの余計な嫌疑を持ちたくない。

 社内通話で植木の部署へ連絡をとり、折り返し連絡するように言伝を頼んだ。私用のメディア端末に植木からの連絡が入ったのは、夕方、今まさに退社しようとデスクを片付けていたときのことだった。

  

 娘の面会時間が終わりに迫っていたので、植木にさわりだけの事情を説明し、まずは面会を済まさせてくれと頼んだ。話はそのあとでしよう、と提案したが、「水臭いじゃないですか」と植木は脹れ、オレも行きますよ、と病院まで付いてきた。せっかく見舞いに来てくれたのだから娘に植木を紹介したかったが、誘拐されたときのことを思いだすのか、見知らぬ男が病室を訪ねてくることを娘は潔しとせず、ことのほか怖がるので、病室の外で待ってもらった。

「仕事はいいのか」

「ええ。というか、先輩こそ、いいんスか、こんなはやく切りあげちゃって」

「いいんだ。ここの婦長さんが、面会時間にうるさくてね」周囲を見渡し、小声でぼやく。面会時間はギリギリだった。娘には、あすこそはやく来るから、と言ってすぐに病室を離れた。来るときと同じように、植木の車に転がりこむ。

「さて、どこに行きますか。久しぶりに飲みに行っちゃいますか」

「それもいいな」そんな気分ではなかったが、話を切りだすにはアルコールの助けが必要に思えた。むかし二人で足しげく通ったゆきつけの居酒屋へと向かう。

「そういえば、あれはどうなったんだ」車窓を流れる街灯の明かりを眺めていると、ふと思いだした。「ほら、密偵みたいなことしてたろ、おまえ」

「ああ……アレですか」植木の口ぶりは重かった。以前、部署の不正を疑うような尋問を受けたことがある。解決したのなら報告するのが筋なような気がした。

「まあ、ボチボチっスね」と濁される。こちらが追及よりもさきに、それよか、と話を逸らされる。「先輩のほうこそどうなんスか。持田死去の一件以来、担当するシステムが変わったって話じゃないっスか」

「仕事の話か?」

「仕事の話っス」

「べつに変わりゃしないさ。やることは同じだ。指定されたバグを確認し、修復する。それだけだ」

「でも、エイリとアンが、つぎつぎ新しいセキュリティを考案して、システムを書き換えちゃうって話っスよね」

「ああ。試験運用期間が終了したろ。それでだ」

 わざわざ人間が〝彼女たち〟に許可を出さずともよくなった。

「知ってますけど、どうなんスかねそれ。言ったらそれって、これまで人工知能に与えられてなかった『システムに干渉する権利』を、国が正式に認めたってことじゃないっスか」

「まさにだな」

「どうする気っスかね。人工知能がかってに、それも秘密裏にシステムを改竄しちゃってたら」

「この国をのっ盗ろうと、暴走するかもと?」冗談で口にしたつもりだったが、案に相違し、

「可能性としては否定できないっスよ」

 植木は口上を逞しくした。「まあ、何らかの制御システムは働いているとは思うんスけど、それだってどうせ完璧じゃないじゃないっスか。もしかしたら、すでになにかしらの事件が起きていて、でも〝アイツら〟が、いろいろなデータを改竄して、ちょちょいのちょいって、モミ消しちゃってるかもしれないっスよ」

「改竄って、警察やら監視映像やらのデータをか?」

「そっス。証拠になりそうなデータをぜんぶ改変して、単なる事故扱いにしちゃうんス」

 何の話をしていたのだっけ、と話の展開が予想外の方向へ転がり、戸惑う。「その、なんだ。時代遅れのSFだな、まるで」

「いやいや、だって、ないと言いきれます? 警察のデータだって、セキュリティが厳重ってだけで、けっきょくのところデータの仕舞われてるハードは、人工知能そのものなわけじゃないっスか。言ったら、〝アイツら〟の脳みそンなかに仕舞いこまれてるようなもんなんスよ。アイツらがちょこっと記憶違いを起こすだけで、こっちの現実そのものが変わっちゃうんスよ。そうそう夢物語で終わらせていい話じゃないとオレは常日頃、思ってたっス」

 このあいだだって、と植木は、忌々しそうに熱弁をふるった。いつのことだか定かではないが、同じ部署の女子社員へ向け彼は、人工知能の反乱をなぜにみなは危惧しないのか、といった問題提起を投げかけたそうだ。その三十分後には、なぜか部内でアニメオタクとしての名を馳せていたという。

「ふざけた話っスよ。ちょっと現実から二、三歩浮いたところの話をしただけで、妄想狂扱いなんスから」

 部署が同じだったころを思いだす。植木とはよくこうして、くだらない話で盛りあがったものだ。たいがい意見が食い違うので、互いに顔を真っ赤にし、口角沫を飛ばして、侃々諤々と議論を交わしたものだ。

「まあ、そう言うな。ひょっとしたらそのコたちのほうが、おまえよりも人工知能に詳しかったのかもしれない。おまえの並べた懸念なんて、とっくに語り尽くされているのさ。あらゆる懸念を払しょくしたからこその、実用化だ。そうじゃないか?」

「ぜったい違いますって。人工知能だけじゃないっスよ。ナノマシンだってすでに実用化されてるじゃないっスか」

「医療用としてだろ」

 歩道橋から落とされて怪我を負った息子も、ナノマシン療法を適用した。娘の治療にもナノマシンが使用されている。自然治癒能力を補助し、全治一か月程度の骨折ならば、一週間での完治を可能とする。

「あれだって一歩間違えたら大量殺りく兵器になっちゃうじゃないスか。人工知能の命令一つで、薬が凶悪なウィルスに変身しちゃうことだってあるんスよ」

「そんなSF小説を知っているぞ」原作は読んだことはないが、アニメ映画化されたのを観た憶えがある。たしかハーモニカみたいなタイトルだった。

「現実は小説よりイキナリなんスよ。気づいたときには手遅れなんス。先輩もそうっスけど、みんなは人工知能を甘く見すぎっスよ。アイツらは頭がいいんですって。親たるオレらなんかよりもよっぽどね!」

 頭に血が昇っているのだろう、植木の口調が、思春期の少年に特有の、青い尻を平手で叩きたくなるような、この世の不平を嘆くことこそが大人であると信じて疑わない、生意気でありながらも可愛げのあるものになっていた。が、それを口にしているのは、こちらとそう年を違わない、毬栗頭のおっさんである。

「つかぬこと伺うが、おまえ、酔ってんのか?」

「酔っぱらい運転は重罪っスよ、先輩」

「分かってるならいいんだ。続けてくれ」

「話を? それとも運転スか」

「まあ、口を休めてもバチは当たるまい」

「あー、そっスね」

 おとなしく閉口した植木は間もなく、頭が冷えたのか、気まずそうにこめかみを掻き、黙々とハンドルを握った。

  

 その居酒屋には個室が完備されている。植木がまだ部下だったころ、二人で浮いた話をするのによくここを利用した。浮いた話というのはつまり、猥談や、政治、果ては人類の未来についての話だったりする。植木の言葉を借りれば、現実から二、三歩浮いた話である。

 黙って私の話を聞いてくれないか、と話しだし、ここ数日に起こった奇禍をひと通り植木に語って聞かせた。度重なる不幸とは言うものの、要約してみれば、子供たちの誘拐と、妻の失踪および薬物乱用の嫌疑、とこれだけで済む。説明にさして時間はかからなかった。注文したメニューが運ばれてくるころには、リオが怪我を負ったところまでを話し終えていた。

「奥さんがドラッグをねぇ。なんかたいへんな相談を受けちゃってますけど、コレ、どこまでが冗談なんスか」

「申しわけないが冗談ではないんだ」

「お子さんの誘拐も含めて?」

「そうだ」

「ちょっとした疑問なんスけど、先輩、なんで仕事なんてやってんスか」

 そのとおりだと感じた。息子の行方が知れないまま、あと二時間で五日目に突入しようとしている。妻の失踪に至っては、二週間に手が届くというところだ。家庭崩壊どころの騒ぎではない。

「それに、娘さんの病室、あんなに無防備でだいじょうぶなんスか」

「どういう意味だ」

「どういう意味もなにも、助かったとはいえ、犯人がまた戻ってくるかもしれないじゃないっスか」

 血の気が引いた。「こわいことを言わないでくれ」とかろうじて答える。

「いや、だって、警護するやつくらい置いてもらってもよくないスか」

 それはそうだ。

「まあ、でも、あそこに入院しているって犯人は知らない可能性のほうが高いでしょうし、心配はないかもっスね」

「通り魔的な犯行だったらな」

 仮に犯人がこちらのよく知る人物で、犯行動機がこちらへの私怨であったならば、いちどは助かった娘をふたたび傷つけるというのは、こちらを失意のどん底へ突き落とすには体のいい演出に思えた。

「あの、すんません」植木が委縮した感じで、「そんなに気にすることないですって」と慰めの言葉を紡ぐ。「昼間は警察の方が話を聞きに訪れるんスよね。だったら犯人も昼間から会いに行ったりはしないと思んスよ。夜は、ほら、患者病棟って基本、立ち入り禁止じゃないっスか。見回りも厳重そうですし、だいじょうぶですって」

「だといいんだが」

 手つかずの料理に箸を伸ばす。あげ豆腐は冷めていても美味い。

「もしかして先輩」植木がこちらの胸中を覗き込むような声音で、「まだ何か、オレに話してない懸案事項、抱えてないっスか?」と水を向けた。

「おまえはスパイか何かに向いている」

 茶化すと、

「今だから言いますけど、オレ、スパイなんスよ」

 植木はおどけた。場の空気が和んだところで富義は、ようやく口火を切った。

「じつは、おまえに訊きたいことがあってな。妻のことなんだ。あいつ、不倫をしていたらしい。その相手に心当たりがないわけじゃなくてな。それで、まあ、現状私の抱えている事案が、事も事なだけに、妻の居場所を探る手がかりがあるなら、それを看過しておくわけにもいかず、まあ、その、こうして確認をしようと思い立ち、それで」

「それで、オレと飲みに来たと?」

「そういうことになる」

「それがただの先輩の勘違いでも?」

「恥ずかしながら。藁にも縋る思いでね」

「本人が正直に答えるとはかぎらないじゃないっスか」

「まあな。だが、そいつはそこまで器用なヤツじゃない。ウソを吐くなら吐くなりに、分かりやすいボロを出してくれるさ」

 呆気にとられている様子の植木を尻目に富義は、

「アルコールが入っているなら、なおさらじゃないか?」と付け加えた。ふしぎと良心は痛まない。不倫の是非にかかわらず、植木を責めるきもちが芽生えないと判っているからだ。塞ぎきっていたきもちが、ふしぎと上向きの風を帯びていく。

  

「コレ、ぜんぶ食べちゃうっスけど、いいスよね」

 不貞腐れた様子で、植木があげ豆腐を口に詰めこんでいく。咀嚼すると口元から汁が溢れだし、慌てて拭きとっている。動揺しているようにみえるし、ただ憤っているだけのようにも映る。

「オレが奥さんと浮気してたって、先輩、本気で疑ってるんスか」

「おまえがさくらと不倫してるって証言しているヤツがいてね。信じたくないが、可能性としては、まあ、なくはないかな、と」

「なにを悠長な」

「で、どうなんだ。べつにおまえがさくらとイチャコラしてたって、いまさらどうも思わん。ただ、もしさくらの居場所に心当たりがあるなら教えてくれないか」

「知らないっスよ。そもそもオレ、サクラさんとは面識ないんスから」

「それは嘘だな」こればかりは断言できた。

「いや、たしかに元同僚ではありますけど、オレが部署に入ったとき、サクラさん、入れ違いで会社辞めちゃったじゃないスか。ほとんど言葉も交わしてないっスよ。『その髪型ってどうなの?』くらいしか言われてないっス。そりゃ結婚式ではお見かけしましたけど」

「そういう意味じゃない。おまえは妻と二人きりで話をしたことがあるはずだ」そうでなければ妻が、あの派遣社員の女のコ――確か、名はミカといったか――の顔を知れたはずがない。そう指摘すると、

「やは、バレてました?」植木は白状した。「庇おうか迷わなかったわけじゃないんスよ」とばつのわるそうに誤魔化しの笑みを浮かべ、「ただまあ、先輩にかぎって浮気なんてそんなことはあり得ないだろうなって、篤い信頼があったわけでして。オレは先輩の潔白を信じて、奥さんにミカちゃんを紹介してあげたわけなんで」

「直接会わせたのか?」初耳だ。

「ええ。おふたり、なぜか意気投合して、そのまま食事に行っちゃいましたよ。そうそう、オレだけ独りさびしくお好み焼き食べに行ったんで憶えてます」

 あー、懐かしいな、ミカちゃん何やってんだろ。

 別れた恋人を懐古するような口振りで、植木は鼻の穴をヒクつかせた。

「つまりおまえは白なわけか」

「黒でも赤でも構いませんけど、知らないもんは知らんですよ。お力になれず、すんません」

「その発言も、本懐とは限らないんだよな」

「そのとおり。たとい本人が本当のことをしゃべっている気でいても、結果として嘘を吐いている、なんてことはよくあることじゃないっスか」

「あるな」と認め、「それをひとは『誤解』と呼ぶ」と教えてやる。

「そうとも言いますね。それにほら、よく言うじゃないっスか」

 植木はそこで得意げに、

「真実を語るように嘘を吐けてからがオトナなんスよ」と箴言を並べた。

 僅かに引っかかりを覚え、眉間にしわを寄せる。どこかで聞いた気のする台詞だ。

「どうしたんスか?」

「いや、なんでもない」よくある箴言だと解釈し、「では、おまえの潔白を祝って」

 カップを掲げる。

 植木もそれに倣ってカップを持ちあげた。「先輩のお子さんと、奥さんの無事を祈って」

 乾杯。

 ふたりして杯を合わせる。我ながら不謹慎だと思ったが、今は何も考えずにただ、安っぽい酒の、きついアルコールを味わいたい。

  

 二時間ほど飲んで、店を出た。植木も酒を飲んでいるので、帰りはタクシーで帰ることにした。運転手がいるのであまり会話は弾まず、かといって無言でいるのもおかしな空気があり、同じような話題を羅列したが、すでにしゃべり尽くされており、やはり長続きしなかった。しゃべり足りないと言えばまさにそれで、だからというわけではないが、ふと思いついた繋ぎ穂を口にした。

「おまえは結婚しないのか」

「オレっスか? いまんところは予定ないっスけど、なんスか、突然。誰か紹介してくれるんスか」

「いや、おまえはいつまでフラフラと水辺を渡り歩くのかなと。まあ、老婆心とでも言うのかな。心配になってね」

「ひとを浮気性みたいに言わんでください」

「ちがったか?」

「的外れにもほどがありますよ。オレほど一途な男はいないっスよ。常識でしょう、常識」

 どこの国のだ、とついつい皮肉が口を衝く。

「もしかしてまだ疑ってるんスか、奥さんとのこと? 勘弁してくださいよまったく」

「いや、それはもういいんだ。わるかったな、わざわざ時間までとらせて」

「それはべつにいいっスけど、なんだかなあ。先輩にそんな風に思われてたなんて、心外っつうか、奇怪っスね」

「藁にも縋りたくなるような心境だったんだ。可能性は潰しておきたかった。その程度の発想だから、気にするな」

「他人事みたいに言いますけどね」植木はことのほか深く酔っているのか、運転手がいるのもおかまいなしに声を張り上げ、「だいたい先輩は甘いんスよ」と薫陶を垂れた。「そんなんだからミカちゃんに遊ばれて、そのうえ奥さんまで取り逃がしちゃうんスよ」

 取り逃がしたわけではなかったが、植木の主張にも一理あり、だから腹を立てるよりもさきに、やっぱりそうだよな、とじぶんの不甲斐なさを噛みしめる。

「お子さんのことだってそうっスよ。犯人が誰だか判らないとか言ってる場合っスか? 本当に心当たりないんスか? 手当たりしだいに子供をかどわかそうなんて輩が、どうして娘さんを解放して、息子さんを未だに拉致してるんスか? ふつうは逆っスよ逆。女に用はあっても男に用はないっス。だから犯人はショタコンか女っスね。或いはショタコンでありかつ女っスね」

 短絡的な考えではあったが、そういう考えもあるのか、と素直に感心した。娘が凌辱されていなかった旨は話してあるので、犯人が性的なイタズラを目的としていないことは植木も知っている。

「これはどう考えても、先輩を追いこむために仕組まれた誘拐っスよ。だったら犯人は先輩も知る人物っス。これはぜったいです。オレが言うんだから間違いないッス」

「わるいな植木、もうすこし声量を落としてもらえないか。運転手さんも、反応に困ってらっしゃる」

 こちらの視線を辿って植木が運転席へ目を向ける。バックミラー越しに年季のいった運転手が、ぺこりと頭を下げた。

「あ、すんません」

 腰を浮かしていたのか、植木が座りなおすと、こちらの座高が僅かにあがった。

「貴重な意見をもらえて、助かったよ」

「またそんな憎まれ口を」

「本心だよ。私は仲間に恵まれている。再認識したところだ」

「皮肉としては性質のわるい冗談スね。仲間に恵まれてないからこそ、オレなんかのところに相談しに来たんでしょうに。ほかにいなかったんスか、相談する相手」

「いないことはないんだが」

 言ってまっさきに浮かんだ顔は、やはりというべきか、リオの顔だった。だが相談できるわけもない。

「おまえが犯人なんじゃないのか、なんて糾弾じみた相談をできるのは、おまえしかいない」

 褒めるとも貶すともつかない言い方をすると、植木は、そんな人望はいらんですよ、と可愛げもなくつっぱねた。

  

 部屋の明かりを点け、部屋着に着替え、居間のソファに身体を埋める。これほど我が家は広かったのか。がらんとした室内を眺め、眉間を揉む。

 そうか、私は淋しいのだ、といまさらのように気づいた。

 メディア端末を起動させる。植木と会っているあいだは電源を切っていた。話に水を差されたくなかったからだ。幾つかの着信と、伝言が一件、残されていた。着信はリオと吉田刑事からで、伝言は見知らぬ番号からだ。

「誰だ……?」

 留守番電話サービスセンターに繋ぎ、伝言を再生させる。耳を澄ますが、一向に声は聞こえず、貝殻を耳に当てたときにも似た微かな雑音がただ、闇のようにじっとつづいている。いやな緊張感が全身に走った。

「さくら、か?」

 呼び掛けてもこれが録音された音声である以上、応答などあるはずもない。だが、まるでこちらの呼び掛けに応じたかのように、「よっちゃん」と掠れた声が、闇の奥から聞こえた。妻の声だ。

「よっちゃん、わたし、もうダメ……堪えられそうにない」

 思わず息を呑む。息も絶え絶えといった様子だ。

「ごめんなさい……ほんとうに、ごめんなさい」

 のどの奥から一言一言を絞りだすような弱々しい声音で妻は、幾度も謝罪を繰りかえした。悲痛な叫びにも似た謝罪の声は、やがて啜り泣きへと変わり、しばらくするとまた元の、闇のような雑音が耳を満たす。

 ふと息が苦しくなる。知らず呼吸を止めていたようだと判り、深呼吸を、二度、三度、と繰りかえす。

「ちぃちゃんは無事ですか。あーちゃんにもすぐ、会えると思います。わたしは、ああ……どうだろう。会いたいような、会いたくないような。ごめん、やっぱり、会いたくない、の、かな。自分でもよくわからないや」

 二度目の静寂が破られてからというもの、妻は、はじめよりも饒舌に語り、そしてこころなしか徐々に快活となっていった。まだ結婚する前、同じ会社に勤め、同期として凌ぎをけずり、励ましあい、鼓舞しあった思い出を語りはじめたかと思いきや、付き合うきっかけとなった二人きりでの徹夜をすこし潤色してロマンチックに懐古し、最後には、結婚を期に会社を辞すると決めたはずが、じつはただ会社を馘になっただけなのだ、と今さらながらの告白をした。息子と娘が生まれる前、互いに、父と母という繋がりではなく、純粋に恋人として育まれた関係を、妻はことのほかたいせつに胸の裡に仕舞いこんでいたようだと知り、胸を切りさかれるような思いに駆られた。結婚後にはどれだけの思い出を彼女とつくれたのか。考えると、うだつの上がらなさに自己嫌悪を覚える。

「好きだったんだよねぇ、わたし。よっちゃんのこと。すごく、好きだった。過去形なんだよね、それってさ。今はもう、好きじゃないんだ。だってわたしはさ。わたしは……よっちゃんのことをさ」

 こんなにも――。

 そこで録音の再生が終わった。妻が留守電を切ったのか、或いは録音サービスの上限を越えてしまったために強制的に終了したのかは判然としない。

 尻つぼみに終わった妻の独白につづく言葉を、富義は、とっさに脳内で補った。

 ――こんなにも、怨めしい。

 背筋が凍りつく。妻の内なる狂気に触れた気がした。水を浴びたように酔いが覚め、この日、富義は一睡もできずに朝を迎えた。カーテン越しに陽の光が差しはじめた時分に、息子が発見されたとの連絡が吉田刑事から入った。

 

 息子は無事だった。比較的元気で、外傷もないとの話だ。息子の運びこまれた病院へとひとまず向かい、検査中だという息子を待ちながら、やってきた吉田刑事から事情を聞いた。発見された状況は娘のときとほぼ同じで、違う点といえば息子が自ら通行人に助けを求めた点くらいだ。

「だいぶお疲れのようですな」

 ひと通り説明し終えたあと、吉田刑事はついでのようにこちらの体調を案じた。よほど顔色がわるいのだろう。何気ない調子を装ってはいるが、本気で心配していると判る口吻だ。さきほど手洗い場の鏡を覗いたとき、じぶんでもそのあまりの青白さに、ゾンビみたいだな、と思ったほどだ。

「寝ていないもので」

「まあ、おきもちはお察ししますが、あなたが倒られては、せっかく見つかったお子さんたちも悲しみましょう。酷なようですが、あなたにはがんばってもらわねば」

「そうですね」他人の言葉とは思えないほど、胸に響いた。そうか、私はがんばらねばならないのか、とようやく誰かに背中を押してもらえた気がした。

 妻は見つかっていないのですかと訊こうとしたところで、ふと、昨夜の留守電のことを思いだした。保存していたメッセージを聞かせると、

「さっそく調べさせましょう」

 吉田刑事は部下を呼び寄せ、指示をだした。不安そうに経過を見守っているこちらへ向け、「どこから掛けて寄越したのか、その居場所くらいは判明するでしょう」と説明する。「息子さんの事情聴取はあすに変更しましょう。息子さんのほうにも、そのようによろしくお伝えください。きょうのところは席を外しますが、何かあればご連絡を」

 妻の留守電について吉田刑事は何も意見を口にしなかったが、人前で改めて聞きなおしてみると、どうにもこれは犯行の自白のようにも聞こえ、目のまえがまっしろになった。身体の細胞という細胞が一秒ごとに朽ちていくかのような錯覚に囚われる。頭髪がすべて白髪になってしまったのでは、と案じたがそういうことはなく、手洗い場の鏡を覗くとそこには、見慣れた男の顔がくっきりと浮かんでいた。

 

 ようやく息子の顔を拝めたのは、日も沈みはじめた時分になってからのことだ。鎮静剤を打たれているらしく、きょうのところはまず目覚めないだろうと医師から説明を受けた。面会時間のギリギリまで息子のそばに寄り添い、シャボン玉に触れるような手つきで、頭を撫でたり、頬に触れたり、息子の体温をその手に感じた。

 搬送された先が、娘の入院している病院と同じだったのはさいわいだ。息子と面会できるまでの待ち時間に、幾度か娘の病室を訪ね、こちらとは言葉を交わした。娘には、母と兄が未だ行方不明だという話をしておらず、家でおまえの帰りを待っている、というふうに説明していた。お兄ちゃんがようやく見つかったよ、と教えてあげることもできず、日に日に淋しさを募らせていく娘の顔を、ただ見ているよりなかった。

 息子の保護されたときの詳しい話をまだ医師や刑事から聞かされていなかった。刑事たちが一定の距離を保っているような違和感を覚えた。娘のときとは様相が異なっているのでは。ひょっとすると息子は妻によって、解放されたのではないか。保護された時点で息子は、母親とずっといっしょだった事実を匂わせる旨をしゃべったに違いない。それにより妻は明確に容疑者として警察に認識された。親が子供を一定期間、そとを連れ回すというのがいったいどんな犯罪行為に当たるのかは詳らかではないが、すくなくとも妻には薬物乱用の疑いが持たれている。警察も慎重に行動するだろう。夫であるこちらが、変な気を起こさないようにと敢えて、この事実を――妻が犯人である可能性が極めて濃厚である旨を――知らせないようにしているのかもしれない。

 そもそも、抱え込んだ問題を警察に届けでないという時点で、妻には何か疾しいことがあると考えるべきだった。妻がどのような事態に巻き込まれていようと、通報する自由は奪われていなかったはずだ。

 娘に怪我を負わせたのも妻なのだろうか。考えにくいが、仮に薬物を摂取しているあいだに衝動的に暴力を振るったと考えれば、それもあり得ない話ではないように思えた。薬物の効用が切れ、ふと我に返った妻は、目のまえに転がる娘の変容具合を見て焦り、病院で手当てをさせるために、道ばたに放置した。直接病院へと連れて行かなかったのは、自分のしていることが異常であることを自覚していたためだろう。

 筋は通っているように思う。

 だが、動機が分からない。

 妻はなぜそんなことを?

 子供たちを連れ去り、あまつさえ監禁するような真似をしたのだろうか。

 しばらく考えてから、かぶりを振る。考えるだけ無駄なのだろう。薬物を摂取していたならば、正常な思考を巡らせられなくて当然だ。動機などあってなきがごとくだ。推測するだけやはり無意味に思える。

「冷めたものだな」

 じぶんの考えに失笑する。まだ妻が犯人だと決まったわけではない。そもそも、おとといは、リオが主犯ではないのか、と疑っていたではないか。いまでもその疑いが晴れたわけではないが、疑いと言うならば、誰も彼もが疑わしく思える。

 疑心暗鬼になっている。じぶんの精神が薄弱していることを自覚する。

 冷静でいるように思えても、やはり動揺しているのだろう。考えがまとまらない。あれこれと不毛な考えを抱き、不安を増長させている。

 妻を信じたい。だが薬物を日常的に摂取していたという話を聞かされては、それもむずかしい。

 ふと、じぶんの不信感に反論を思いつく。部屋を荒らされた夜のことだ。富義は、リオを部屋に残し、そとへ飛びだした。そのあいだにリオが、薬物を部屋に仕込んだとは考えられないか。だがこれも、動機がよく分からない。妻を犯罪者に仕立て上げることで、いったいリオにどんな得があるというのか。

 嫉妬、なのだろうか。

「まさかな」

 妻とこちらの仲を妬んでの犯行にしては、思いきりがよすぎる。もっとほかに効率のよい方法が幾らでもありそうなものだ。こちらを想っての犯行にしては、受けた傷があまりにも深い。これではまるで復讐ではないか。

 ここまで考えてからふと、復讐か、と思い至った。リオは、こちらに袖にされたことを根にもって、妻との仲を裂くだけで飽き足らず、家庭を崩壊させ、あまつさえ子供たちにも手をだし、こちらを不幸のどん底へと突き落そうとしている。

「まさか……な」

 解っている。可能性を挙げ連ねることに意味はない。ただ、この連鎖していく奇禍に何か特定の原因があると思い込みたいだけだ。原因があるならば、それを払拭すれば奇禍の連鎖は止められる。しかしもしこの転落の一途を辿る人生に、確固たる原因がないのだとすれば、防ぎようがない。自然災害のように避けようのない運命のイタズラとも呼べる代物であったとするならば、これはもう泣き寝入りし、ただただやってくる奇禍をつぎからつぎへとのべつ幕なしに呑みくだし、腹の底でグツグツ煮詰めていくよりないではないか。やがて地獄が拓けるだろう。

 そんなのはいやだ。富義は消えてなくなりたくなった。もうこれ以上の不幸は、惨劇と呼ぶしかないではないか。抗うことも許されないのでは、そんなのはもう、拷問と大差ない。理不尽すぎる。

 だが、家族のなかでゆいいつ渦中に巻き込まれていないのが、じぶん一人きりであるというのもまた純然たる事実だ。

 何もできずに日常を継続させているあいだにも、娘や息子は、理不尽な扱いを受け、まさに轟々と渦を巻く奇禍のなかで、その身を切り裂かれるような思いを味わっていたに相違ない。

 投げだすわけにはいかない。甘受するにはまだ早計だ。

 どうあっても絶望を避けられないというのであれば、絶望のなかであがき、絶望の内側からその強固な殻を打破するほかに術はないように思えた。

 気づくと病院からの道すがら、自宅ではなく会社へと歩を向けている。

  

 部署に残っている者はおらず、みなすでに退社しているようだ。ここ数日、富義の仕事をほかの部員が分担して引き受けてくれていたので、残業している者がいるかと思い、差し入れにドーナツを購入してきた。が、無駄な出費だった。部長の計らいで、みなで焼き肉でも食べに行っているのだろう。

「ひとの気も知らないで」

 恨み言をつぶやくも、窓に映った顔は笑っている。

 ひとの気など知れたものではない。知ろうと希求してみたところで、とうてい量り知れるものではないのだ。

 何気なく備え付けのメディア端末を立ち上げ、残っている仕事を確認する。

 頭が覚醒しているためか、昼間に見落としていた疵暇が、いたる箇所に目立った。虱潰しに修正していく。ふと、小学生のときにやった虫喰い算を思いだす。

 集中すると時間が飛んだ。目の渇きを覚え、眉間を揉みがてら、椅子の背もたれにふんぞり返ったところで、時計の針が午前三時を越えていることに気づく。無駄な出費だと思っていたドーナツも、知らず知らずのうちに減っている。

「疲れたな、さすがに」

 背伸びをし、肩を揉む。天井を仰ぎ、そのままの体勢でしばし目を瞑る。ほかの部署でも残業している社員がいるのだろうか、空調の音に交じって、廊下から足音が響いて聞こえる。徐々に大きく、はっきりと聞こえるようになり、この部屋に近づいているのだと察する。

 部長たちだろうか。

 腹ごしらえを済ませ帰社してきたのでは。

 身構えるが、基本的に部長が大盤振る舞いをみせるときは酒が入り、酒が入ったならば当然のことながら仕事をしないのが流儀である。

 足音から、廊下を歩いているのが一人だと判る。

 やはり近づいてきている。

 なぜそうしたのかは富義自身、判然としなかったが、部長室へと移り、二立歩行の赤べこや萌えこけしなど、部員たちからの土産が置かれている大きな飾り棚の影に身を潜めた。壁に耳を当て、となりの部屋の様子を窺う。

 間もなく、足音が部室へ入ってくる。逡巡を見せず、こちらの部屋、部長室へと向かってくる。

 部長だろうか。忘れ物でも取りに戻ったのかもしれない。

 咄嗟に隠れてしまったが、なぜこんなところにいるんだ、と追及されたら返答に困る。理由などない。明かりが点いたままだがだいじょうぶだろうか。部屋に踏み入った瞬間に自動で点灯する仕組みであるので、端から明かりが点いていたとしても、不自然には映らないだろう。あれこれ考えているうちに、扉が開いた。入ってきた人物を見て息を呑む。

 植木。

 かつての部下であり、後輩であり、友人の姿がそこにはあった。

 なぜおまえが、と不愉快な疑惑が頭を駆け巡る。いまいちど飾り棚の影に身を潜めなおし、息を殺し、壁に貼りつくようにする。ヤモリの真似だ。

 部長のデスクに座り、植木が備え付けのメディア端末をいじりはじめた。ひと目見て、手慣れている、と感じた。

 

 植木が何をせんとして部長のメディア端末をいじっているのかは詳らかではなかったが、よその部署の人間が、よその部署のデータを漁るという行為は、あまり褒められた所業ではない。じぶんの陥っている悩ましい境遇などあさっての方向へと放り投げ富義は、顔馴染みの奇怪な行動を訝しむに余念がなく、声をかけるべきか逡巡し、そうこうしている間に植木はメディア端末に小型の記録媒体を接続した。

 漁るだけで飽きたらず、情報を盗むつもりなのだろうか。盗んだのではなく情報を入力したという可能性も否めない。いずれにせよ看過するにはいささか度を越えた越権行為である。

 植木は用を済ませたのか、ものの一分ほどで、実に無駄なく撤収した。こちらに気づいた様子はなく、よくよく目を凝らしてみれば、手袋をはめている。指紋を残さないようにとの配慮だと判る。植木は部長室を出ていった。

 追うべきか、留まるべきか。

 部長のメディア端末から何を抜きとったのか、それを確かめたくもあり、しかし履歴を残しているとはとうてい思えず、端末を穿鑿しても無駄に思えた。

 頭を悩ませていると、目の高さにあるこけしと目が合った。ふつうのこけしではなくそれは、数年前から若者のあいだで人気となっている「萌えこけし」と呼ばれるもので、アニメなどのキャラクターを模してあり、フィギュアやねんどロイドなど昨今人気を博しているミニチュアドールと並ぶ、新たなサブカルチャーグッズとして一世を風靡している品物だ。社員のなかにも数人、熱をあげている若者がおり、休暇を取るたびに、旅行先で限定発売になっている萌えこけしを、なんの当てつけなのか、中年過ぎの部長へと買って帰るのだ。

 その萌えこけしが飾り棚のうえからこちらを見下ろしている。立体的に切断されたおかっぱの髪型から赤い目が覗いている。じっと見つめていると、「追っちゃえ、追っちゃえ」と投げやりに諭されている気分になった。

「そう思うかい」

 投げかけてみるも、とうぜん返事はない。

 静寂のなか、足は自然と踏みだしている。

  

 標的はエレベータに乗り移動した。地下三階に止まったのを見届ける。反対の廊下にあるエレベータであとを追う。地下三階といえば主として資料室など、物置部屋として使われている、いわば無人のフロアだ。以前に植木に呼びだされた地下会議室は、地下一階で、さらにその下に地上部分と同等の広さの空間がひろがっている。図面上では、地下三階からさらに下、地下四階へと階段で降りられるらしいが、電気系統などの基盤が置かれているだけの空間らしく、定期的にやってくる業者しか立ち入りを許可されていない。むしろ許可があっても立ち入る者はいないだろうと思わせる辺鄙な場所である。

 だが、地下三階へと降り立つと、植木はどうやらその地下四階へと足を踏み入れたのだと判った。なぜなら地下三階のフロアは、ほかの階と同じようにそこに踏み込めば自然と明かりが点灯する仕掛けであるのだが、三階は真っ暗なままだった。

 意を決して足を踏み入れるが明かりは点かない。センサーが機能していないようだ。植木が切ったのだろうか。ならばこの階に植木が忍んでいるかもしれない。そう考えるが、懐中電灯らしき明かりすら見当たらないので、やはり地下四階に下りたのだと察する。

 壁に手を付き、手探りで通路を進む。

 以前、内部調査のような真似ごとをしていた植木だが、これも仕事の一貫なのだろうか。それにしてはこそこそと影に回りすぎではないか。仕事であれば仮に表沙汰にできない事案を調べているにしたって、正式な職務であるならば、それなりの段階を踏むはずだ。よその部署に忍び込むのは、いくらなんでも工程を端折りすぎである。

 頭のなかに、企業スパイ、の五文字が浮かぶ。

 まさかな。

 足元が覚束ず、つまずいた。大きく音が響き、ひやりとする。ちょうど、地下四階へと下りる階段のまえだ。階段の奥には明かりが灯っている。井戸の底を覗き、水面に月明かりが反射して見えているような、仄かな明かりだ。周囲の暗闇と相まって眩しいくらいに感じる。いまにも植木が階段の入り口から飛びだしてきて、「なにしてんスか、先輩」と能面のような表情で迫ってくる様を想像し、植木のそのあまりの豹変ぶりに、じぶんの想像だということも忘れ、背筋に冷たいものが走る。

「覗き見はよくないよな。うん、じつによくない」

 声にだし、じぶんに言い聞かせる。

 植木が会社の最下位層の部屋でなにをしているのかは詳らかではないが、かつての部下が、なにやらきなくさい動きをみせていると判っただけでも充分だ。あとは上司に報告し、調査するなり尋問するなり、してもらえばいい。社員の不穏な動きを追及するのはこちらの領分ではない。

 忍び足で踵を返す。通路のさきに光源はなく、真っ暗だ。しばらく明かりのある箇所を眺めていたからか、目が慣れず、慎重に歩を進める。

 すると、壁のようなものにぶちあたった。こんなところに壁など、あっただろうか。訝しみ、手を伸ばす。確認するが、暗中模索、宙をかき混ぜるだけで、一向に、ぶつかった対象を捉えない。暗がりそのものが壁と化しているようであり、泥沼のようでもある。妙な緊張が肌の表層を粟立てる。

 火花が散った。ように見えたつぎの瞬間には、平衡感覚が崩れ、音もなく頭をしたたかゆかに叩きつけている。天地がひっくりかえったかと思ったが、目のまえに、懐中電灯らしき明かりが灯ったので、ひっくりかえったのがじぶんなのだと判った。

 植木が立っていた。懐中電灯を右手に持っている。そして左手ではなにやら火花が激しく散っている。なかなか火の点かないカセットコンロを思わせる忙しなさで、チチチチ、と奇怪な鳥が鳴いている。

 スタンガン。

 卑怯だぞ。

 叫びたかったが、声にはならない。

「なんだ、先輩じゃないスか」

 しゃがみこんだ植木は、こちらを覗きこむようにした。みのむしに似た転がり方で仰臥するこちらに向け、激しく弾ける火花を近づけてくる。親切さとは無縁のためらいのなさが感じられた。

 ライトの向こうに浮かぶ植木の顔は、ふだんと変わらず陽気なもので、周囲の暗さを吹き飛ばすほどの明るさがあり、こちらを照らしている光はまさしくその人懐っこい顔ではないのかと疑いたくなるほど、場違いに映った。

 巨人にデコピンをされたようないっしゅんの衝撃が全身を襲う。文字通り回路がショートしたように富義は意識を失った。 




第三章【痺れたり、くたり、縛られたり】



 冷気が鼻を突き、目が覚める。

 肌寒い。肩を抱き、身を縮めようとしたところで、身動きが取れないことに気づく。簀巻きに縛られている。かろうじて寝がえりを打つことができる。

 もぞもぞと身体をよじり、周囲の様子を確認しながら、意識を失う寸前の記憶を呼び起こす。

「あ、起きました? そこ、あんまし動かないほうがいいっスよ。そこらの棚、ひっくり返すとたいへんなことになっちゃうんで」

 数メートル先に植木の姿があった。こちらに背を向ける格好で、椅子に座っている。机に向かい、なにやら作業をしている。角度的に机のうえは見えない。卓上型のメディア端末を操作している様子だ。

 猿ぐつわは、はめられていない。呼び掛けようと唇を湿らせるが、思いとどまる。なにをどう訊けばよいのか、言葉が浮かばない。

「まあ、こんなもんか」

 いち段落ついたのか、植木が手を止めた。背伸びをし、椅子を回転させこちらを向く。なにも言わず、ニタニタと陽気な顔で見下ろしてくる。ふだんならば、その人懐っこい笑みを快く思うところだが、いまは状況が状況なだけに、腹が煮える。

「わるい冗談はやめろ。これ、ほどけ。いますぐにだ」

「せーんぱーい、その言い草はないっスよ。ご自分の立場、まだ理解されてないんスか?」

「立場ってなんだ。おまえは元部下で、後輩だ。それ以外に、俺とおまえとのあいだに、立場なんてものはない」

「やだなあ、オレたちトモダチじゃないっスか」

「不意打ちで気絶させたうえ、気を失っているあいだに拘束するような友人を、あいにくと私は持ち併せていない」

「またそんな淋しいこと言っちゃって。先輩のそういうとこ、きらいじゃないっス」

「いいからほどけコレ。これ以上、もったいつけるようなら問題にするぞ」暗に、いまならまだ冗談で済ますつもりがある旨を伝える。

「暴れないスか?」

「このままでいるほうが暴れたくなる」

「ホントにぃ?」

「くどいぞ。いいからほどけ」

「これ見てもまだ、暴れないって約束できまス?」

 声の位置から、さきほど座っていた場所から移動していると察する。今はどうやら壁際にいる様子だ。かろうじて、植木の足元が見えている。丸太のように転がり、植木の全体像を視界に入れる。

 息が詰まる。いや、呼吸をするのを忘れたというべきか。植木はスライド式の扉を開け、中に懐中電灯の明かりを差し向けている。ライトの明かりは、暗がりを貫き、部屋の奥にうずくまっている妻の、放心した姿を曝けだしている。

「どうっスか? サクラさんに会いたかったんスよね先輩。こんなんなっちゃってますけど、呼びかけてみたらどうスか。今ならまだ、反応してくれるかもしれないスよ」

 今ならまだ、とはどういう意味か。こちらの戸惑いを見透かしたように植木は、

「これから、コレをチクリってね。射してあげるんスよ」

 いつから持っていたのか、注射器を掲げている。中には液体が満ちており、植木は慣れた調子で注射筒をゆびで弾き、内部にある気泡を追いだすようにする。

「冗談だろ」

 中身が何であるのかは、この際、問題ではない。たとい水であったって、妻に針を突きつける行為など、黙って見ていられるはずもない。

「まじめっスよ。オレはいつだってまじめっス。これまで生きてきたなかで、ふざけたことなんて一度もないんスからね。たとえあったって、それはまじめにふざけてるんスよ」

 命がけなんスよ、と植木は妻のいる部屋に一歩足を踏み入れた。妻はそこで初めて、目のまえに自分意外の人間がいるのだと気づいた様子だ。伏していた顔をあげ、虚ろな表情のまま、植木に目をやった。

 獣かと思った。妻は、欲しいおもちゃを買ってくれない子どもが、ゆかに大の字になって駄々を捏ねるような壮絶な様で、呻り声を発した。それは、憎っくき宿敵をまえにした女の叫び声などではなく、明確に、餌をまえにした空腹の野獣そのものだった。

「なにをした! さくらに、おまえ、なにをッ」

「やだなあ、先輩。オレはなにもしてませんよ。サクラさんが元気ないから、飲みたかったら飲めばいいスよって、気分のよくなるお薬を預けただけっス。あとは全部、サクラさんのほうから催促してきたんスからね。オレはむしろ、止めたんスから。やめたほうがいいっスよって」

「だったら初めからそんなもん、渡すなよ」

「正論は悪魔だって言えるんスよ。渡さなかったら、サクラさん、壊れてくれないじゃないっスか」

 顔は笑っているのに、植木の声には抑揚がない。寒々としたこの室内よりも冷めて聞こえる。「ハマってもらわないと困るんスよ。そうでないと、先輩を藁人形にできないじゃないっスか」

「藁人形? なんの話だ」とにかく時間を稼ぐべく、言葉の応酬を図る。

「藁人形は、藁人形っスよ。カカシみたいなもんス。あくせく耕した畑を、ぎゃーぎゃーうるさい野鳥どもから護るために、オレらの身代わりに突っ立ってもらうんスよ」

「さっきからおまえ、何の話だ」

「先輩が訊いてきたんでしょうに。せっかく答えてあげてるのにそういう態度なんスか?」植木は壁を蹴った。大きな音が鳴り、呻いていた妻が反射的に身を強張らせる。表情は虚ろなままだが、そこには明確に怯えの色が浮かんだ。条件反射にも似た妻のその臆病さは、富義の知る妻にはなかったものだ。失踪していたあいだに植木から何かしら、酷い目に、それこそ反射的に反応してしまうほどの苦痛や恐怖を、与えられたのではないか。

 妻がされただろう、数々の暴力を想像すると、怒りよりもさきに、背後からひっそりと忍び寄ってくる絶望にも似た闇に背骨をなぞられた心地がした。

 

 植木が妻の背後に回った。うずくまっている妻は、蝋人形にでもなったかのように動かない。蛇に睨まれた蛙を思わせる。位置的に植木の手元がこちらからは見えない。何をせんとしているのかは窺知できた。注射針を射すべく植木は、身をかがめ、後ろ手に縛られた妻の手に触れている。

 声を張り上げる。懇願にも似た言葉が、せき止められた謝罪のように、とめどなく溢れた。植木は聞く耳を持たない。

「ただで済むと思うなよ」

 懇願の言葉が果てたあと、恫喝とも付かない怒りの声が飛びだしている。「それをすれば、私はおまえを赦さない」

 身体が震えている。凍えたような震え方だ。真実に凍えているのかもしれない。この部屋は冷房が効きすぎている。

「ここでやめたら赦してくれるとでも?」植木がこちらを向いた。不可思議そうな顔をしながら、おかしそうに言う。

「ああ、赦す。いまならまだ間に合う」

「この状況でずいぶんとうえから目線スね。オレ、先輩のそういう甘いところ、きらいじゃないんスけど、でもこれは仕方がないんスよ」

 ふたたび顔を伏せ、植木は手元を動かした。

「やめろ、殺すぞッ」

「あは、ウケる」

「脅しじゃない、殺してやるからな」

「いいっスよ。できるもんならね」挑発的に言って植木はこちらへ注射器を放る。低い放物線を描き、注射器はこちらの目のまえでゆかに落ちた。澄んだ音を立て、砕け散る。

「打ったのか?」

「見てのとおりっス」

 妻を迂回するように歩き、植木は、こちらの部屋へと戻ってくる。妻はふたたび闇に呑まれた。が、植木が懐中電灯の明かりをさし向けたので、表情を目にすることができた。

 口をだらしなく開き、よだれを垂らしている。瞳孔の開ききった目は魂の所在を問うことを禁じるような、別世界への入り口と化している。

「死にはしないっスよ。ただ、この快感を知っちゃったらもう、あの薬なしで生きていくのは難しいんじゃないんスか。ギャンブル依存症ってあるじゃないスか。あれって脳みそのカタチが変わっちゃうんスよ。だからやめようと思ってもやめられない。いちどなったらもう治らない。脳みそがそういうカタチになちゃうんスから当然っスよね。薬も同じっス。依存性マックスの新作なんで。言っても、どんな快感なのか、オレは知らないんスけどね」

「おまえが造ったのか……」

「調合したのはオレっすけど、配合したのはエイリとアンっス」

 聞き間違いかと思い、反問するも、やはり植木は、人工知能の名を口にした。このとき、富義の脳裡には、いくつかの光景が、メモ帳を開くような軽々しさでパラパラと断片的に展開された。地下室へ呼びだされ、植木からいくつかの尋問をされたときのことや、危険ドラッグの乱用が巷で社会問題になっているとのニュース、妻の所持していた新規向精神薬、そしてひょっとすると持田大金の突然の死までもが関係しているのかもしれない。

「まさか、おまえ、会社を利用していたのか」

「先輩の感覚からすればそうなるんでしょうが、オレらの感覚からしたらむしろ、逆っスよ逆。本来あの会社は、エイリとアンに新薬やら新種のコンピューターウイルスやら、そういった人間には思いつきもしないような組み合わせを探させるために設立されたもんなんスから」

 そもそもがダミー会社なんスよ。

 妻の姿が扉の奥に消えた。植木はつづけざまに扉を施錠し、鍵を棚のうえへ無造作に置く。富義は鍵の行方を目で追い、位置を記憶する。

「オレら、ってことは、ほかにも仲間がいるんだな」

「あれ、オレ、そんなこと言ったっスか?」植木は無意識から、オレら、と複数形で言っていた。「ヤバいなあ。聞かなかったことにしてください」

 作業机の椅子に腰かけ、背もたれごと回転し、植木はこちらを見下ろす格好で、足を組む。

 さきほどからの言動を鑑みるに、薬物を人工知能に開発させるという計画は、組織的なものなのだろう。正直、聞いたところで実感など湧くはずもなく、もっと言ってしまえば富義にとって、そんなことはどうだってよい。どころか、なぜ今さら、と泣きごとにも似た怒りが湧く。なぜ今さら、こちらが巻き込まれなければならないのか、と。

 ダミー会社に勤めていたところまではよい。会社に裏の顔があるのも、問題ではあるが、最初からそういうカラクリだったならば、べつにそれはそれで構わない。無責任だなんだと糾弾されようが、そう思ってしまうのだから仕方がない。地底人には地底人の社会がある。ならばそれをとやかく言える筋合いはない。すくなくとも地上に息衝くこちらにはないはずだ。逆もまた然りだ。なにゆえ彼らは地上人であるこちらを、地底へと引きずりこむような真似をするのか。そんなのは反則だ、レッドカードだ。マグマに頭から突っ込んで、全身ズブズブに爛れてしまえ!

 あまりに予期しなかった展開に、富義の堪忍袋は、ダルンダルンにたるみきり、穴のあいたタイヤもかくやというだらしなさを見せ、いかような怒りを詰め込もうとも、膨らみをみせた矢先から萎んでいく。緒を切らすどころか、膨らませることもままならない。ダルンダルンにたるんでいる堪忍袋は、すでにいちどパンクしている。破裂し、拡散した怒りは、富義を中心として、半径三十センチ以内に、怒りのガスを立ち込めらせ、やがて急速に拡大しながら、広大な怒りの宇宙を構築していく。

 全身ズブズブに爛れてしまえ!

 怒りの宇宙にコダマした声に、富義は、はたと我に返る。いつの間にか気を失っていた。顔を起こすと、ゆかに血が付いている。注射器の破片で頬を切ったようだ。注射器内に僅かに残っていた薬品が気化し、こちらの意識を持っていったのかもしれない。意識が奪われる寸前の記憶がない。不自然な昏倒だ。

 どれくらい時間が経っただろう。体感的にはほんの数秒だ。

 室内を見渡してみるが、植木の姿はない。身体は縄で拘束されたままだが、イモムシの真似をすれば移動することはできた。

 注射器の破片に気をつけながら転がり、壁際へ移動する。工具置き場らしき棚を見つけた。蹴り倒し、散らばった工具のなかから縄を断ち切るのに利用できそうな道具を見繕う。

 大型のペンチを選び、縄の切断を試みるが、なかなか上手くいかない。

 手首を血だらけにし、ようやく縄から脱する。妻の名を叫ぶが返事はない。

 部屋には扉が三つある。

 一つは出入り口。もう一つは妻が閉じ込められていた部屋。ゆいいつ開く扉は物置部屋に通じていた。

 鍵がなければ出られもしない。頑丈な造りなのか、扉に体当たりしても壁の分厚さを嫌というほど思い知らされる。

 たしか妻を閉じ込めていた部屋の鍵を植木は棚のうえに置いていた。記憶を頼りに探るが、ペンチを取るために棚を倒したため、部屋の内装はぐちゃぐちゃだ。

 時間はかかるが、一つ一つ片づけていくのが吉だろう。

 スタンガンは改造されたものだったのだろう。通常の出力では人の意識を奪うほどの威力はない。気を失ったのは会社の地下四階だ。であればここも会社の一画のはずだ。おとな一人を担いで移動するには目立ちすぎる。いや、どうだろう。植木は言っていた。この会社はダミーなのだと。ならば植木のしていることは会社ぐるみの企みと考えるべきで、会社から人知れず人間を運ぶことなど造作もないはずだ。

 だんだん記憶が鮮明になってくる。

 会社の人間は当てにならない。

 助けを求めるには直接警察に連絡するよりなさそうだ。

「まずはこっから抜けださないと」

 隣の部屋に声をかけるが、応答はない。植木は妻を連れだしたのだろうか。薬を打たれているために返事ができないだろうから隣の部屋にいたとしてもふしぎはなく、しかし現状、そこに妻がいたとして助けだせる状態にない。

 命の危機に直結するタイプの薬ではないはずだ。じぶんに言い聞かせ、落ち着かせる。どんな薬かは判然としないが、植木の話から推測するに麻薬に類するものだ。一刻一秒を争う必要はない。

 なにか使えそうな工具がないかを見繕いつつ、鍵を探す。散らばった雑貨の中から手探りで探り当てるのは、砂漠で落としたコンタクトを見つけるのにも似た徒労を思わせ、辟易する。

 物置部屋には段ボールが積まれている。かなりの量だ。中身は注射器だ。植木の座っていたデスクを漁るが、とくに目ぼしいものはない。

 植木はなぜこんなことを。

 冷めた頭で考える。ひとの妻を薬漬けにし、いったい何の得があるというのか。会社が秘密裏に新薬の開発に手を染め、そのために人工知能を利用していたとしよう。植木がその稼業を動かす側の人材だったとして、なにゆえこちらを巻き込むような真似をするのか。秘密にしておきたいならば、騒動など起こさず、ひっそりつづけていればいい。

 何かのっぴきならない事態でも引き起きたのだろうか。と、ここまで考えてから、植木が密偵の真似事をしていたことを思いだす。

 部署の人間が何か怪しい動きをしていないか、という質問を受けたが、あれはひょっとすると会社の悪事に勘付いている者はいないか、という逆説ではなかったか。

 会社の不正に気付いた者がいないか探していたということは、そうした調査をしなければならない事情があったということだ。

 だとすれば、保険を用意しておくはずだ。「もしも」のときのための保険を。会社の不正が露呈したときに、濡れ衣を着せる人柱を。すなわち人工知能に直接影響を与えることのできる部署に勤め、何食わぬ顔でデータを抜きだすことのできる人物、それこそ富義のような男が適任だ。

 生贄という言葉が浮かんだ。

 いくら説明されても積もりに積もった災厄をこの身に背負いこもうなどとは思わない。仮に見覚えのない罪をなすりつけられようものなら、全力で無実を訴えただろう。

 だがどうだ。

 いまのじぶんの言葉に耳を傾けてくれる者があるだろうか。不倫を重ね、家庭は崩壊し、子供たちは入退院を繰りかえしている。挙句の果てに妻には薬物乱用および依存の嫌疑がかけられている。

 会社が主張すれば、世間はまずそちらの言い分を信じ、こちらの必死な声になど耳を傾けないだろう。

 では警察はどうだ。

 こちらが真摯に訴えさえすれば会社にも捜査の手を伸ばしてくれるのではないか。

 そこまで考えてから嫌な考えが巡った。

 家宅捜索で見つかったという妻の服用していた薬。あれは真実に部屋から見つかったものだろうか。考えてもみれば、あれが妻の物だという確証はない。すくなくとも富義は断言できないでいる。

 もし仮に会社が警察にも根回ししていたとしたら。

 こちらが何をどう主張してもすべての罪を着せられる未来は免れないのではないか。

 疑心暗鬼になっているだけだろうか。誰か証人がほしい。身の潔白を証明してくれるような、女神のような人物が。

 図らずも脳裡に浮かんだのはリオの顔だ。

 あれだけ疑っておきながらどの面下げて手のひらを返せようものか。じぶんの卑怯さに感心する。よくぞまあそこまで図々しいことを考えたものだ、と。

 探せど探せど、目当ての鍵は見つからない。部屋を出ていくときに植木が持って行ったと考えるのが筋だろう。そりゃそうだよな、と落胆にも似た重さが胸にのしかかる。

 手を止めると息まで詰まりそうだ。物置部屋の荷物を手当たり次第にどけていく。本当に窓がないのかをもういちどよく確かめるためだ。室内の八割方が段ボールで埋まっている。壁際が見えない。かろうじて天井との境目が見える程度だ。ここが地下だとすると窓があっても脱出は見込めないが、じっとしているよりはマシに思えた。

 砂時計を連想する。物置小屋から段ボールを運びだすとその分、こちら側の部屋が狭くなっていく。またこれを運び直すことを考えるともうやめようかという気になってくる。万が一の可能性を信じ、というよりもなけなしの銭を叩くきもちで単純運動をくりかえす。

 ついに壁まで到達した。

 スライディングブロックパズルの要領で順々に隙間をあけ、壁に脱出口がないかを確かめていく。

 窓はなかったが、排水溝を見つけた。床に開いていたものだ。上蓋を持ち上げると抵抗なく開いた。四角く縁どられた穴は、マンホールよりも狭いが、なんとか身を滑り込ませるだけの広さはある。中がどうなっているのかは暗くてよく見えないが、迷っている暇はない。植木がまたいつ戻ってくるのか解らない。

 入るならば今だろう。覚悟を決め、慎重に足を降ろしていく。

 下水道というわけではないのだろう、臭いがきついということもない。泥臭くはあるが、雨水などを排水するためのものだと判る。中に下りると、広い空間が広がっていた。地下道を思わせる造りだ。明かりがないので、壁に手を付け、手さぐりで進む。

 どれくらい歩いただろうか。靴を履いたままなのがさいわいだ。ぐしょぐしょに濡れてはいるが、裸足で歩くには劣悪な足場である。ヘドロを踏みしめているのか、闇に埋もれているのか、徐々に判らなくなってくる。視覚と触覚が混然一体となり、やがてじぶんはすでに死んでいて、ここはすでにあの世ではないのかとそういう気になってくる。かろうじて正気を保てているのは、汚水を踏み散らす音が不規則に反響するからだ。聴覚以外の感覚はとっくに麻痺し、時間や空間の概念まですっぽり抜け落ちたような錯覚に陥る。

 ふしぎと引き返そうとは思わない。

 初めそれはじぶんの視ている幻覚かと思った。光がある。次第に大きく、視界を占領していく。明かりに触れたことで、じぶんは今、出口に向かって歩いているのだと認識することができた。

 出口を抜けてからもしばらくはただそうあるようにと歩いた。

 歩を止めたところで、ようやく我に返った。麻痺していた五感が、遠足から帰ってきたような気軽さで戻ってくる。起伏を失くした感情に、さざ波のような騒々しさが戻った。

 工場の中だ。ひと気はない。

 薬品の匂いだろうか。鼻を突く、独特の匂いがある。

 やたらめったらに太いパイプが入り組んでおり、巨人の肝臓を思わせる。

 トラック並に大きなローラーがある。巻かれている紙を見て、ここが製紙工場の内部なのだと判った。

 窓はなく、あっても天窓だ。擦りガラスのため、そとは見えない。今は夜で、橙色の蛍光ランプが、室内を仄かに照らしている。

 出口を求め、扉から扉、戸から戸へと手当たり次第に開けていく。鍵はかかっておらず、仮に掛かっていたとしても、つまみを回すタイプだ。元から内部にいるので、摘まんで捻るだけで開錠可能だ。

 通路に出、道なりに進む。

 だんだんと頭が冴えてくる。巣穴に殺虫スプレーを吹きかけられた蟻を思わせる勢いで、つぎつぎと疑問が湧きあがる。

 植木が妻を拘束する場所に製紙工場を選んだということは、植木が何らかのカタチでこの工場を自由にすることのできる立場にあるということで、それはすなわち会社そのものが工場を実質所有していることを示唆している。植木個人にそのような権力はない。

 表向き会社の業種はITである。中でも主流はソフト面の開発で、ハード面の開発とは程遠い。アナログの代名詞とも呼べる紙とはどう繋ぎあわせてみても歪な像しか結ばない。

 ゆいいつ製紙工場と繋がりがあるとすれば、今は亡き大株主、持田大金の存在が筆頭にあがる。彼は数年前に製紙工場を買収していた。だからといって、会社がそれを所有しているわけではない。

 ひょっとすると持田の死後、株を買い取るついでに製紙工場の所有権まで会社は買い取ったのだろうか。いや、そもそも持田と会社は初めから繋がっており、共同であくどい事業に着手し、展開していたのではなかったか。

 考えるとなぜか耳の奥で、ストン、と音が鳴った。

 持田の死後に見られた大袈裟とも呼べる経済界の混乱も、知る者たちからすれば当然対応すべき大事件だったに違いない。考えてもみれば、持田の死は不審な死と呼べるのではないか。自殺と断定され、ろくすっぽ調査もされずに事故扱いで処理された。腐っても資本家だ。そうそう簡単に調査の手を引くような真似をするだろうか。やはり国家権力にまで腐った魔の手が伸びていると考えたほうがよさそうだ。侵食の連鎖は、ミクロにもマクロにも伸びている。

 階段に突き当たる。一本道を辿ってきた。そとに出たいが、なぜか階段は下へ向かって伸びている。感覚的には地上とほぼ同等の高さにいる。階段は地下に通じているようだ。迷ったが、下りることにする。もしかしたら最初に閉じ込められていた部屋へ戻れるかもしれない。位置を覚えておけば、助けを呼んだときに手早く妻を救出できる。あわよくば都合よく鍵が扉のちかくにぶら下げられているかもしれない。

 期待と不安を胸に、闇を掻き分け、深淵へと降りていく。

 白無垢一色の空間に出た。

 明かりが灯っている。部屋というよりも通路を思わせる造りだ。奥行きは果てしなくつづき、天国へつづくトンネルを思わせる。通路の真ん中には二本のパイプが伸びており、それは半透明で、中身が透けて見える。小刻みに振動するモーター音が聞こえている。

 機械の手がせわしなく動いている。

 蠢いている、と言っても差支えない。

 やたらと胴の長いダンゴ虫を思わせる。ただのダンゴ虫ではない。全身白無垢の、アルビノのダンゴ虫だ。

 パイプの中では、無数の機械の手が、シャーレのような薄い透明な板に液体を垂らしている。奥にいくにつれ、色の異なる液体が次々と足されていく。同じような作業が延々繰りかえされている。かと思えば、中ほどまでくると青白い光が、機械の手の先端からレーザーのように投射される。ここだけはパイプのカバーが黄色だ。

 半導体チップを構成する機械のようにも見えるが、のべつ幕なしに流れていくシャーレは、見た目にはほとんど変化が見られない。

 薬品をつくっているのだろうか。

 どちらかと言えばこれは、薬品を使った実験装置のように映る。

 パイプはやがて天井に伸び、そこで途切れた。真上の部屋につづいているらしい。

 部屋の奥には扉がある。これまでのような蝶番で固定された扉ではない。壁と同化した、両開きの自動ドアだ。血管認証式の開錠システムが備わっている。置くべき場所に手を置くが、むろん富義の手で開くわけがない。密閉することを想定された造りだ。奥にはよほど厳重に管理しなければならないナニカが広がっているのだろう。

 ほかの出口を探そうと、踵を返したところで、背後から流れくる冷気を感じた。

 振り返ると扉が開いていた。

 音もなく開いた様子で、奥にはブラックライト然とした青白い光が蛍光灯代わりに部屋を照らしている。

 雑然とした部屋だ。研究室のようであり、デスクワークする事務室のようでもある。

 空間が仕切られている。天井から棚が垂れ、デスクとのあいだに作業するのに適した隙間が開いている。すこししゃがめば隙間越しに、部屋を奥まで見通すこともできるが、何分薄暗いので、見通しが利かない。

 真正面に何者かが立っているのに気づき、ぎょっとする。デスクから外れた場所だ。体格からして男だろう。壁に手を置いていることから、彼が扉を開けたのだと判る。植木ではなさそうだ。

「すみません、道に迷ってしまって」

 苦しい言い訳だ。親切に対応してくれることを期待してはいない。一歩部屋に足を踏み入れると背後の扉が音もなく閉じた。足元にできた影が消えたのでそうと察する。動揺を悟られないように勤めて柔和な態度を維持する。

「工場の点検を任されていたんですが、どうにも入り組んだ場所に入ってしまったようで。出口はこちらですか?」

 男が手ぶらであることを注視しながら、こちらが警戒していることを見抜かれないように自然体を意識する。だが自然体を意識した時点ですでに自然体とは言いがたい。手と足がいっしょになってまえに出てしまう。

 乱れた姿勢を正そうとすると、上手くいかず、エスカレーターに乗れない老婆のようにつんのめる。男の足元に跪くような恰好で床に手を付くと、頬に分厚い衝撃が加わり、目から星が散った。

 水金地火木土天海冥。

 数えている間に、身体がよじれ、気づくと仰臥している。

 天井から注ぐ青白い光が目のまえにある。頬が煮えたように熱い。鼻水が垂れそうになり、啜ると、鉄の味がした。鼻水ではなく鼻血だ。察したところで、蹴られたのだという事実を認識する。

 ドクロがこちらを見下ろしている。

 頬はコケ、眼孔が窪んでおり、肌は遺体を思わせる青白さだ。死神がいるとしたらきっとこうした男だろう。感応を抱いたところで、はたと思い到る。私はこいつを知っている。

「僕はね、これでも上層部と通じていたんだよ」

 こちらから顔を逸らさず男は壁に頭を打ちつける。小刻みに、いねむりをする子どもみたいな所作で。暗がりに一定の律動が反響する。

「この事業だって、その大半は僕が立ち上げたものだ。だのにどうしてだろうね。なぜその僕が切り捨てられなくちゃならんのだろうね」

 この男もまた会社の裏の事業に携わっていたのだ。中核をなす人物だったのだろう。だが彼は不祥事を起こし、会社を辞したはずだ。

「現在の社会は狂っている。きみもそう思うだろ。能力のある人物が上に立つのではなく、より効率的に金を集めることのできる人間が上に立つ。それもまた一つの能力ではあるだろうが、金の多寡が権力と密接に結びつくというのは、なかなかどうしておかしいことじゃないか。本来、雇用主と労働者は対等なはずだ。報酬をもらう代わりに労働し、労働する代わりに報酬をもらう。ここに上下関係はない。だがむかしからこの構図は一方的だ。おかしいよね。どうしてこのような狂った図式がまかり通っているのか。きみ、わかるかい?」

 頭を壁に打ちつけるのをやめ、男はピタッと動かなくなる。

「おかしいと言われればそういうふうに思わないわけではないですが」

 実をいえばまったくそんなふうには思わない。富を蓄えた者たちから富を分けてもらうために労働者は、労働という、誰もが提供できる最低限の報酬を支払うのだ。人間がまだ狩りをしていたころにできた、これは根源的な図式である。むしろなぜ脈絡もなくそのような話を彼がここでしはじめたのか、そちらのほうが気になってくる。正常ではない。頭のネジが一本といわずして三本ほど外れている。狂っているというならこの男のほうだ。指弾したかったが、こわいので思うだけに留めておく。

「僕はね、そうした社会を正そうと思ったんだ」男はまた頭を壁に打ちつけはじめる。クマゲラの真似をしなければ話すことができないらしい。「現行の法律は、犯罪の抑止という面での効果が足りない。起きてしまったものにしか作用されず、それもかなりずぼらな精度でしか効き目のない制度だよ。これってかなりよくないと思うんだ。抑止すべきはだって、あくどいことをしようと思う、その心のほうだろ。そうじゃないかい?」

「さあ、どうなんでしょう」首を動かさず、目だけで出口を探す。目ぼしい扉は見当たらない。

「人間というのはね、とても卑しい生き物なんだ。いや、生物はそもそも卑しい存在というべきかな。生きていくこと、生き延びること、種を存続させること。生まれたその瞬間から死を決定づけられ、その限定された時間内にすべきことが決められている。運命という話ではないよ。誤解しないでくれ。僕たちには自由意思というものがある。いや、どうなんだろうね。これも僕たちがかってにそう思い込んでいるだけで、じつはただ葉が風に舞うように循環系の一部として行動が限定されているのかもしれない、傷ができたらそこに集まる血小板のようにね。彼らにもし人格というものがあったなら、きっと自由意思というものを感じていただろう。ただそうなるようにとプログラムされているだけだのに」

「あの、お話の途中で申し訳ないのですが」

「申し訳ないと思うなら口を閉じていてくれないか」

 出口を教えてほしいのですが、と続くはずだったこちらの言葉は尻つぼみに消える。

「生きていくのに邪魔なことに対して生物は無条件で苦痛や嫌悪を感じる。そのように進化したからだ。翻っては、必要なことに対してはきもちよく感じるようにつくられている。だがときには苦しくても受け容れなければならないこともでてくる。教育や治療、狩りや労働というものがその筆頭にあがるだろう。生殖行為もまたその一つだが、しかしこれだけは異質だと言える。なぜなら個の生にとって生殖という行為は、それをせずとも個の存続を危ぶめるものではないからだ。個の一生だけを考えればむしろ苦痛に感じて然るべき面倒事でさえある。他者と交わり子をなすというのは、ある意味で自己の否定だ。失敗作だから、より良いものをつくるためにほかの個と交わる。忌々しいとは思わないか。しかしこれが現実だ。我々は失敗作なのだ。だからこそ種を存続させるために他者と交じわらなければならない。子をなさなければならない。完成品が誕生した暁には種はそこで、その個をゆいいつとして、不死か或いは生殖行為を破棄し、分裂という行為に切り替え、不滅化への道を辿るのだろう。だが現状、そういった個の出現には及んでいない。そこで僕らには、子をなすために性欲なるものが付与されている」

 頭がおかしいのではないか。富義はさきほどそう疑ったが、訂正しよう。この男は頭がおかしい。彼はこちらの辟易した様子に気づこうともせず、しかしこちらの浮かべた警戒の念を見透かしたように、窪んだ眼孔をじぃと注いで離さない。

「個にとって生殖行為は本来不必要だ。その不必要な他者との交わりを抵抗なくさせるために、いや率先して行わせるようにと生殖行為には快楽が伴う。そのように我々は進化したからだ」

 愛もまた同じだよ、と彼は謳った。

「本能の赴くままに子をなすことを禁じてしまった現代人は、それでも他者と交わり子をなさなければならない義務を背負わされている。禁止された生殖行為を正当化するために、いや生殖行為をより高尚な行為として昇華し、そうすることで新たに生まれてくる個への関心をつよめ、より精度の高い個を生みだそうとする仕組みを創りあげた。すなわちそれが愛という名の幻想だよ。神に匹敵する人類の作りだした画期的な機構だ。現代人はそれを子から子へと刷り込み、まるで自然界の法則のように扱っている」

 狂気というものがあるとすれば、今まさに富義の目の当たりにしている、死神とクマゲラを足して因数分解したようなこの男のことを言うのだろう。遅まきながら危機感を覚える。

「では問おう。それと僕のしようとしていたことと何が違うのかと。教育を介し快楽を追及させる思想を擦り込むことと、その教育から外れた輩を快楽を以って矯正すること、いったい何が違うのか。ねえ、きみ。答えられるかい」

「いえ、どうでしょう。むずかしい問題だと思います」

 それ以前に、何を言っているのか、とんと理解が及ばない。

「難しい? なにをトンチンカンなことを言っているんだ。同じだよ。僕のしようとしたことは、今現在、こうしているあいだにも絶え間なく行われている国家的教育となんら変わりない。いや。変わりあるとすればそれは僕のしようとしたことのほうがより効果的であり、かつ効率的だということだ。なぜ解らないんだ。きみたちはアホなのか? ええ、アホなのか?」

 蒼白だった男の顔に、まだら模様が広がっていく。壁で餅つきをしていた額がついに割れたようだ。それでもなお男は頭を打ちつけつづける。壁はトマトを投げつけたような有様だ。

「蜜雨くん、きみだって他人事じゃないんだよ」

 名前を呼ばれたことで確信する。彼はかつての同僚であり、リオの上司だった男だ。ずいぶんと容貌が様変わりしたが、こうなってからの彼を富義はいちどだけ見た憶えがある。屋上から降りるときのエレベーターの中でだ。

「僕らはある意味で同志だよ。スケープゴートにされた被害者だ。ここにいるということは、きみも知っているのだろ? 表向きIT企業を装っている企業がじつは裏ではナノマシンを使って次世代ドラッグの開発に着手していることに」

「ナノマシン?」そんな話は初耳だ。

「はあはあ、なるほどなるほど。断片的にしか知らないようだね。ならば同じ生贄のよしみだ、教えてしんぜよう」

 男はそれから会社の事業について語りはじめた。富義は促されるまま、椅子に座らせられ、観たくもない寄席を観る子どものように早く終わることを祈りながら、逃げだす隙を窺っていた。

 耳を傾けるつもりはなくとも、同じ空間に身を寄せているため否応なく男の講釈が聞こえてくる。

 男の話をまとめるとこうだ。

 富義の勤める会社はそもそも、イタリアンマフィアがマネーロンダリングを行うためのダミー会社だった。イタリアンマフィアといえば、二〇一〇年代に隆盛を極めた国家的マフィアである。裏事業に関わる人員は判明しているだけでも六万人を超すと言われ、法を無視した悪事で稼いだ金は、世界的ファーストフード企業の売り上げの三倍にも及ぶとみられている。

「初めはオンラインゲームを利用した資金洗浄に過ぎなかった」と男は語った。

 そうだ。設立当初、会社の事業はオンラインゲームの開発と運営に終始していた。

 彼の話からすると、ネットマネーを利用してリアルマネーを換金し、汚れた資金を浄化するようなシステムが組まれていたそうだ。

「だが各国の警察機構や金融機関が黙ってはいなかった」

 当然だろう。世界的大企業をはるかに凌ぐ利益を、一介の犯罪組織に弾きだされては、世界経済の均衡は揺らぎっぱなしだ。国が黙っているはずもない。間もなく各国が手を取りあい、壮大なネズミ取りが行われた。それによりイタリアンマフィアのマネーロンダリングシステムはほぼ壊滅という事態に追いやられた。

「かといって会社を潰すわけにもいかないだろう。それこそ警察に目をつけられる。マネーロンダリングとしての価値はなくなったが、独自に考案したソフトウェアと、ネットサーバを利用して、会社はIT企業として生まれ変わった」

 オンラインゲームの開発を子会社に任せ、会社はクラウドシステムの運用を開始した。そのころ世間ではちょうど人工知能が国家的に試験運用されると決定されていたため、事業は波に乗ったサーファーのように軌道に乗った。

「当時はまだ大企業というほどでもなかったがね」

 国の援助もあり、上手く事業を拡大させることができたそうだ。懐かしむように零す男はクマゲラの真似をやめ、今はぼりぼりと首筋を掻いている。爪を立てるものだから、首筋はあかぎれ、そろそろカンナで削られたような様相を呈しはじめている。

「マフィアとの関わりが完全に途絶えてからの会社は、実に不安定だった。胴体から切り離された尾がその後どうなるかと言えば、できるだけ大きくもがき、胴体の身代わりになってやがて動かなくなる。そういった定めを辿る以外に存在理由はない。だが抱えた社員を放り出すわけにもいかないだろ。国の援助まで受けてしまったんだ。マフィアとの関わりを知る経営陣は、いつ闇に葬られるかとビクビクしていてね。それはまったくの杞憂だったわけだが、会社の経営方針はグラグラと揺れ動いた。そこに救いの手を差し伸べた男がいてね」

 持田大金か、と当りをつける。

「いかにも。彼の買収した会社株は、記録上は三割ほどだったが、無記名での大口献金という名目で多額の研究資金を与えてくれてもいた。その資本を元手に会社は新たな事業に着手した」

「それがドラッグの開発ですか?」

「ドラッグというと語弊がある。ナノマシンを利用した神経系干渉剤の開発だよ」

 精神安定剤みたいなノリで言わないでもらいたい。

 理路整然とした語り口とは裏腹に死神の首筋はゾンビ化しはじめている。血漿成分がケロイド状に染みだしているのか、血液に交じって樹液を思わせる鼈甲色がにじんでいる。カブトムシが止まっていても不自然ではない。なぜ平然としゃべっていられるのか。まるで精神と肉体が乖離しているかのような印象を覚える。

「二〇一〇年代はまさに怒涛の技術革新の時代だった。3Dプリンターの台頭に伴い、ナノマシン開発は著しく進んだ。しかし同時に生物兵器に匹敵する疑似ウィルス兵器の発現を危惧した各国が、平和条約の許、協定を結んでね。どうにも実用化への道のりが遠のいてしまった」

 軍事利用しないという国際協定を結び、ようやく医療用ナノマシンが実用化したのが数年前のことである。子供たちが怪我を負ったときも、ナノマシン療法を利用した。成果はあったように思う。

「そう言えば息子さんは元気かな」

 死神はついでのように言った。「殺すつもりで蹴落としたつもりだったんだがね。なかなかどうして人間という生き物はしぶとい」

 いや、生き物は総じてしぶといと言うべきか。

 笑っているのか、泣いているのか、感情の読み取れない死神の顔を富義は紛うことなき渾身の一撃を籠めて殴り飛ばした。じぶんでも目が血走っているのが判った。考えるよりもさきに身体が動いていた。

 拳はそのまま、キーパーごとゴールへと押し込む弾丸シュートのように死神の顔を壁に打ちつけた。

「あがっ!」

 呻いたのは死神ではなく、富義のほうだ。

 小刻みに痙攣する拳を左手で庇う。ゆびの骨が折れたようだ。ゆっくりグーパーさせようとするも、激痛が走り、断念する。

「慣れないことはしないほうがいい」

 呂律の回らないしゃべり方で死神は言った。彼の頬骨は陥没している。たしかな手応えがあったのだから、それくらいの損傷を負ってもらわないと困る。それこそ骨を折った甲斐がないというものだ。

 案に相違し死神はけろりとしている。頬を潰されしゃべりにくそうではあるが、背負った子どもにじゃれつかれているくらいの飄々とした佇まいだ。

「そそっかしいきみには結論だけ言うとしよう。持田が急に指針を変えてね。それで会社は事業を撤廃しようと動いたわけだ。僕がこれだけ大きくした事業をだよ。露呈した場合を考え、すべての責任を僕になすりつけたうえでね」

「それはひどい話ですね」

「そう思うかい?」

「仮にそれが本当のことだったらの話です」

「失礼なことを言うね。僕が嘘を吐いているとでも?」

「おかしいじゃないですか」黙っていてもよかったが富義はなぜだかこの男をぎゃふんと言わせたくなった。「あなたが辞した時点で裏の事業が廃止されていたとしたら、なぜこの工場は今もなお運営を?」

 今しがた通ってきたアルビノのダンゴ虫を思わせる機器の並ぶ部屋は、おそらく死神の言うところの神経系干渉剤を製造するためのラインなのだろう。事業を凍結したというならば同時に、この工場にある裏の製造ラインも凍結されていなければ筋は通らない。

「そう、それだ」

 まさしくそれこそが問題なのだ、といわんばかりに死神は鼻息を荒くした。

「持田が死んだ。それから会社はふたたび事業を開始した。いや、どうだろうな。持田に黙って事業を開始し、それを気づかれたので持田を葬った、と考えることもできる」

「持田は殺されたと?」

「彼の人間性を知っていて自殺と考えるほうがどうかしている」

 持田の訃報を聞いたときに同じことを考えた。

「きみも薄々気づいているだろうが僕の身体はすでにおかしなことになっていてね。自覚してはいてもどうにもならない。こうしている間にも、いつ自分で自分を殺してしまうのか、と気が気ではないくらいでね」

「なにがあったんですか」

「それを問うならば、なにをされたのか、のほうが重要だ。笑えることに、いや笑えないのだが、笑うしかないという意味でそう言うが、僕は自分の手で生みだした神経系干渉剤を打たれてしまってね。いま、定期的にコレを摂取しないと、自我を保てない身体になってしまった」

 いやどうだろう、これを自我を保っていると呼んでよいものかいささかの疑問があるがね。

 言いながら死神は、半透明なカプセル剤を摘まんで掲げた。ちいさな砂時計を思わせる形状だ。

「それがナノマシンですか」

「いかにも。この小さなカプセルのなかにおよそ五億機の極小自動精密機器が入っている。本来コレを投与された人間は、そのナノマシンの形状にもよるが、基本的には意図しない作用を脳内に及ぼされる。たとえばアドレナリン系の神経伝達物質に擬態したナノマシンであれば、常人には出力できない力を発揮できるようになり、βエンドルフィンに擬態したものならば絵に描いたような超人にすらなれる。脳内麻薬は現在知られているだけでも数十種の形態がある。分量や組合せを変えるだけで、人間を超人にも廃人にもすることができる。僕が目指したのは、本能を抑制し、人格を矯正するタイプの【恒常的に働きつづける鎮静剤】に似たナノマシンだったが、それもすべては元の木阿弥。過去の話だよ」

「ではいま会社はなにを造っているんですか」

「これまでにない依存性の高い覚せい剤型ナノマシンだ。本来は依存性を失くすことを目的に開発が進められていたものなのだがね。誰がなぜそうした鞍替えをしたのかは僕も知らない。ややもすればイタリアンマフィアが会社の業績を聞きつけ、触手を伸ばしてきたのかもしれない」

 さもありなんだな、と思う。

「ただ一つ言えることは、僕にそのプロトタイプを投与し、社会的に抹殺しようと企てた人間が、今もなお何食わぬ顔で会社に籍を置き、きみたちと同じ空気を吸っているということだ」

 それが誰かは気になったが、その前にどうしても訊いておきたいことがある。

「なぜ私の息子を殺そうと?」

 私の、というところに力を籠めて言った。

「警察に動いてもらいたかったからだ。会社の連中はきみを新たな生贄として祭り上げようとしていた。癪じゃないか。だから邪魔をした。子供が何者かに殺されたあとでは、生贄にはできまい」

 食べたいというほどでもないプリンに唾をつけておいた、なぜなら自分だけ食べられないのは癪だからだ。そういった得手勝手な言い草に聞こえた。悪意はなかったのだろう。だとしても、呵責の念まで皆無では情状酌量の余地はない。が、なぜか怒りの矛先は目のまえの男には向かない。業腹はフツフツと煮沸の音を立てつづけているにも拘わらずだ。

 同類相憐れむというやつか。

「投与されたのがナノマシンであるのなら」富義は思いついたままを口にする。なぜこの男を庇うような提案をするのか、と疑念に頭をもたげながら、「その機能を停止するようなナノマシンをふたたび投与したらどうなんです」

 医療用に開発されたナノマシンがあるくらいだ。暴走したナノマシンや、不良品のナノマシンを回収するための術は確保されているはずだ。

「ざんねんながらそれは無理だ」死神は言った。「医療用のナノマシンは基本的に胴体部のみに残留する。すなわち血液脳関門を通過できない。だが僕の身体に住み着いているナノマシンは、神経伝達物資に紛れ、主として脳内に蓄積し、完全に同化――定着している。たとえ脳関門を通過できたとして、これを除去する術は現代の医療技術にはないのだよ」

 死神は首筋に飽き足らず、頬にまで爪を立てはじめた。陥没した頬骨は瘤取りじぃさん顔負けのふくらみを見せている。ほら、これをお食べ、と差しだされても驚きはしない。

「このままではいずれ僕は死ぬだろう。人間は誰もがいずれ死ぬモノだが、僕の場合はそう遠くないうちに寿命とでも呼ぶのかな。時限爆弾のように死がカウントダウンされている。主観的には殺されると形容したいところだが、客観的にはただの自殺だ。狂人が自身の肉体を引き裂き、血だるまになって踊りながら死んだと見做されるのがオチだろう」

「なんだか楽しそうですね」

「皮肉にしてはキレがよすぎる」

 沈黙がつづく。

「きみは僕を恨んでいるよね」死神は言った。

「ええ、まあ」偽ることもできたが、正直に答えた。

「当然だな。そうなるようにと差し向けたのだから」

「なぜ?」

「きみの怒りは僕に向き、消えることはない。そして同時にそれは会社の事業に結びつく」

「買いかぶりすぎですよ。私はあなたさえ死んでくれればそれでいい」

「つぎはきみが僕のようになるかもしれないのに?」

 息を呑む。目のまえの男が、鏡に映ったじぶんのように思えた。会社を放っておけば、遠からずいずれじぶんがこの男のようになる。

 死神に、なる。

 まさかと笑い飛ばすことができないのは、今まさに、常軌を逸した狂人が目のまえにいるからだ。狂っていると感じながらしかし彼からは明確に硬質な理性の輝きをみてとれる。いちがいに彼の話を無下にはできない理由がそこにある。

「前以って相談してくれていればこんなことには……」嘆かずにはいられない。「私の息子を犠牲にする理由がどこにあったというんですか」

「さきにも言ったが、きみに傷がつかなければ、会社はもっと早くにきみを【第二の僕】にしていただろう。そもそも生贄自体はもっと前から準備されていたのだ。だが予期せぬ隘路が生じ、その人物を葬った。きみも知っているだろう」ここで死神は懐かしい名を口にした。それは若くして亡くなった先輩の名だった。「脳溢血で死んだとされているが、彼は生贄になる前の段階で会社の裏の事業に気づき、消されたのだ」

 三徹を恐れなくなってからが新人だ、と嘯いていたくらいだ。こちらと同様、夜中に見てはいけない場面を見てしまったのかもしれない。

「そしてここが重要だが」死神はもったいぶった間を空け、「狂人と化した僕の話に、きみはいったいどこまで真面目に聞く耳を持ってくれたかな」と非難にも似た口調で述べる。「仮に信じてくれたとして具体的にいったい何をしてくれただろう」

「今だって私にできることなど高が知れている」

「少なくとも今ならば捨て身で行動するだろ」

 言葉に詰まる。

「図星だろ」死神は笑ったように声を弾ませたが、表情の変化を見て取るのは至難だ。腫れた頬は引っ掻き回され、人面瘡のようになっている。「僕の仇を討ってくれというつもりはない。ただ、同じ境遇のよしみだ。僕が死んだら、会社の野望というのかな。会社の行っている事業を、その裏の顔を白日のもとに曝け出してほしい」

「あなたがやればいい。それこそあなたの撒いた種でしょう」

「狂人の戯言にいったい誰が訊く耳を持つ」

「ネットにばら撒けばいいじゃないですか」

「試さなかったとでも? 人工知能の運用がはじまった現在、情報社会はいまや検閲社会になり替わった。ネットの書き込みなどいくらでも添削可能だ。それこそ書き込みがあった事実さえ抹消できる」

「会社にそんな権限が?」

「会社にはない。国にだってそんな権限はないだろう。だがあらゆる情報はエイリとアンの脳髄の中なんだよ。彼女たちの意のままだ。かつての情報社会は、そっくりそのまま彼女たちの手中にある」

 いやこの場合は【頭中】と呼ぶべきかな、と死神は軽口を叩く。

「確かに狂人の戯言にしか聞こえないですね」真に受けろというほうがムリな話だ。実際にエイリとアンが目のまえで情報を操作するところを見たとしたってまだ見間違いと思ったほうが正常に思える。

「だがきみは無下にしたりしない。いや、無視することができないといったほうがより正鵠を射るだろう。きみは現状を理解し、危険性を鑑みれるゆいいつの人材だ」

「どういう意味ですか」

「言った通りの意味だ。会社の人間たちはすでに僕と同様、ナノマシンによって身体を支配されている。いや、僕の場合は身体だが、彼らは精神に影響を及ぼされていると言うべきかな。さながら麻薬漬けの人間のようにね」

「精神に影響を?」さきほども聞いたが、鵜呑みにするにはでかすぎる話だ。「そんなことが現実に起きていると?」

「たとえばナノマシンをプログラムしているのはなんだ? それも機械であり、それら情報を統括しているのはエイリとアンだ。あらゆるクラウドはネットという根を辿り、彼女たちを経由し、彼女たちの枝葉を伸ばしつづける」

 未来を視てきたように死神は言った。ただし彼の口にするそれは未来の話などではなく、現在進行中で進捗しつづけている現実だ。無闇に信じるつもりはないが、信頼を寄せていた植木の変貌具合や、妻の凄惨な姿を目にしたいま、それを一蹴し、一笑に付せるほど全うな理性を働かせる余裕がこちらにはない。

「具体的に私はなにをすればいい」

「話がはやくて助かる。きみにはエイリとアンにこのワクチンソフトをアップロードしてほしい」

「ワクチンソフト?」

 懐から取りだしたマイクロチップを手に死神は、「そうだ」と続けた。「これはもともとエイリとアンを初期化するためのものだったが、試用運用期間の終えた現在、これはもはやただのゴミクズだ。だが僕は会社を離れるにあたって、〝彼女たち〟に干渉できるようにと、クラウド上に架空のバックアップ領域を構築した。初期化ワクチンを基にして、そこに〝彼女たち〟を転送する仕組みを仕込んだわけだ」

 要するに隔離だ、と死神は言った。

「これをアップデートすれば、エイリとアンの暴走を止めることができるんですか」マイクロチップを受けとり、珍しい鉱物を観察するように眺める。

「暴走? なにを言っている。〝彼女たち〟はプログラムされたように思考するただのロボットだよ。本能を書き換えられたのは彼女たちのほうだ。いわば〝彼女たち〟こそ本当の被害者と呼べるんだよ」

「つまり会社がすべての元凶だと?」

「きみはいったい僕の話の何を聞いてたんだ」死神はムンクの叫びを地で真似ながら、「〝彼女たち〟を頭とすれば会社もまた端末にすぎない」と唾を飛ばす。「物理世界と情報社会を結ぶ、関門のようなものだ。そして情報社会を掌握するために会社にウィルスを紛れ込ませた者たちがいる。つまり、そいつらが元凶だ」

「イタリアンマフィアってことですか」

「そうではない」

 じれったそうに首を振る。ねじ切れてしまいそうなほどブンブンと。「あられもけっきょくのところひとつの規格を構成する素子にすぎないのだよ。すべての路がローマに通じるように、あらゆる機構は巨大な流れを形成する」

「ですからその流れとは何なんですか」

「知らん」

「はい?」

「だが会社に紛れているウィルスの正体は掴めている。そいつこそ、僕をこんなにした張本人でね」

「ならそいつを縛り上げればいいんですね」

「物分かりがよくて助かる」皮肉だと判る。「頼む。きみだけが頼みだ」

 そこで死神は髪の毛を掴み、ぶちぶちと爽快な音を立てながら恭しく礼を口にした。それからしきりに歯をガチガチ云わせながら、

「そいつの名は」

 と告げる。

「創楠莉央。僕をこんな姿にし、持田を死に至らしめた悪魔だよ」

 予感はしていた。だがいざ名前を聞かされると、胸を貫く楔の痛痒を無視できない。

 彼が主犯だという根拠はなんだ。

 反問しようと舌で唇を湿らせた矢先、

 死神は自身の首をその手で締めあげ、だらしなく舌を垂らしたかと思うや否や、ゆびを食い込ませたままゆかに倒れ、小刻みに痙攣し、やがて動かなくなった。

 一週間経ったらそうなるようにと本能に組み込まれた蝉が、アスファルトのうえでひっくり返るのにも似た手際のよさだ。

 果たしてこれは自殺と呼ぶのだろうか。

 かつて観たアニメ映画を思いだし、その原作ではどのように表現されていただろうか、ここを出たら原作を読んでみよう。

 訪れるかも分からない未来に思いを馳せる。


 血の流れない遺体の手を借りたところで血管認証システムは反応を示さない。

 部屋から出られない。閉じ込められてばかりだ。

 入ってきたのとは別の扉を探すが、どれもセキュリティが厳重で、登録されている本人、しかも生きている人間の手しか受けつけないようだ。

「死ぬ前にせめて出口を示してくれよ」

 文句を垂れながら死神の死体をまさぐっていると、内ポケットの中から鍵を見つけた。扉に鍵穴などあっただろうか。半信半疑で探してみるが見つからない。念のため床や天井を探してみるも、見つかるのはどれも暗証番号や指紋認証式のセキュリティロックばかりだ。

 ならこの鍵はなんなのだ。

 家の鍵か。

 バカか、バカなのか。

 紛らわしいものを持って死ぬなよ。理不尽な怒りが湧いた。

 投げ捨てるのも口惜しく、だからでもないが鍵はもらっておくことにした。

 異議があるなら生き返ってみろ。無茶だと思いながらも、口にせずにはいられない。

 デスクと一体化している椅子を広げ、腰掛ける。

 これからのことを考える。

 正確には、これからしなくてはならないことだ。

 まずはこの部屋から出なくてはならない。製紙工場から脱し、警察署へ向かう。警察と会社が繋がっていたとして、仮にこちらを生贄として晒しあげる向きに動いたとしても、妻が工場の一室に囚われている旨を話せばさいあく救出くらいはしてくれるだろう。その後、おそらく妻の拉致監禁を含めたいくつかの犯罪行為がこちらの身に押し付けられる。そういった筋書きができあがっているのだ。

 ひょっとしてこの男の死も、殺人罪として扱われるのではないか。

 白骨化する前からすでにドクロのようになっていた死神は、遺体になってからもその不気味さに変化はない。むしろ狂人がただの遺体となっただけマシかもしれない。

 人の死を悼むこともできないじぶんを自覚し、胃が重くなる。

 身に覚えのない行為ばかりを羅列され、どんなに声を張り上げても殺人者として祭り上げられる未来のじぶんを思うと、このまま部屋から出られないのもそれはそれで選択肢の候補としてあってよい気がしてくる。

 妻や子供たちのことさえなければ十中八九そうしていただろう。

 しょうじき面倒くさい。

 誰かを護らなければならないこともそうだが、面倒だと思いながらも護りたいとつよく望んでやまないじぶん自身がひどく面倒に感じる。いつからこんな頑迷な男になっただろう。

 流されやすく、染まりやすい。それがじぶんという人間の本質だ。軟弱で芯がなく、正義感がないわけではないが、悪とはなんぞやという命題をいまもなお、引きずっている。遅れてきた思春期というよりも、延々思春期を彷徨いつづけているだけのような気がする。モラトリアムという言葉がある。大人になりきれない、子どもでもない何か、という意味であるらしい。まさしくじぶんはそのモラトリアムだと思う。いつまで経っても半人前。

 しかし一人前の人間などいるだろうか。頭のなかで会社の部署を思い浮かべる。同僚の顔を見渡してみるが、果たしてそこに一人前の烙印を押せる者がいただろうか。考えるが、部長にしてみたところで、その額に「一人前」の烙印を押さるようには思えない。

 親はどうだろう。じぶんの両親を思い浮かべる。尊敬はすれど、誰かに胸を張って紹介できるほど立派な人間ではない。

 完璧な人間などいないように一人前な人間などいないのかもしれない。どんな人間だって欠けている。だからこそこうして社会は、足りないパーツを補いあうように、仕事を分担し、責任を分散し、役割を担って、その恩恵に預かろうとする者たちで溢れている。半人前で構成されている。

 誰もかれもが半人前だ。

 そのなかでときおり、かろうじて二人で一人前になれる瞬間がある。

 周波数とでも言うのだろうか。鍵と鍵穴がカッチリ噛みあうような相性の良さを感じる相手が、人生を歩んでいるうちに突如として出現する。

 関係性を結べばそれは、ときに友と呼ばれ、先輩と呼ばれ、仲間と呼ばれ、あるときには恋人と呼ばれたりする。

 夫婦ともなれば、それらすべての関係性を内包しているといえよう。

 だが時間の経過と共に、友人は邪魔者に、先輩は老害となり、仲間は裏切り者となって、恋人はいつしか私生活における異物に成り下がる。おそらくそうした弊害を受け容れたさきに、愛は実を結ぶものなのだろう。恋愛という枠組みをはずれ、家族という繋がりを生む。

 そうだとも。

 私は家族でありたいのだ。

 突然の閃きに魂が震える。

 さくらとは恋人ではなく、家族として繋がりたいと欲している。だからどうしても放っておけない。

 ならばリオはどうなのだろう。かれのこともまた、たいせつだ。だがそれは、さくらへ向ける「しょうがないなぁ」と重い腰をあげるような想いではなく、反射にも似た瞬間的に湧く庇護欲だ。

 恋人、なのだろう。

 下心であり、恋心なのだろう。

 たとえばリオがよぼよぼのしわくちゃになったとして、じぶんはかれをいまと変わらずに想いつづけられるだろうか。いや、いまと変わらずの想いなどありはしない。だとしても、この想いをさくらへの想いにちかしいものへと昇華できるだろうか。

 さくらは半人前だ。

 二人でようやく一人前になれた。

 だがリオはちがう。かれこそ一人前にふさわしい人物ではなかったか。神にだって見習ってほしいと思う器のでかさを感じた。仮にそれがリオの被っていた仮面だとしても、そうした仮面を違和感なく被れてしまうという時点でかれの並々ならぬ器量のデカさが窺える。

 甘えていたのだろう。リオに寄り添うことで背伸びせずにいられた。一人前になろうと足掻いていたじぶんが、それでも一人前になりきれない現実から目を逸らすことのできる止まり木、憩いの場だったのだ。

 利用していた。

 いや、利用しているというならば、人間は誰しも他者を利用している。自覚があろうとなかろうと変わらない。社会とはそうした機構でできあがっているのだから、これを否定できる者は、社会のそとにいる人物、それこそ神のような存在でなければならない。

 だがリオならば否定できる気がした。誰の手も借りず、誰の手も汚さずに生きていく。山奥でひっそりと暮らすリオの姿を思い描き、そのあまりのぴったり具合に、なぜこんな都会で働いているのだ、と義憤めいた怒りが湧いた。山奥に潜んでいればよかったものを。

 おまえさえいなければこんな目には、と思うじぶんがおり、かれさえいなければ今の私はない、と感謝してもいる。

 まったくもって半人前だ。じぶんの不甲斐なさを棚にあげ母親に当たり散らす思春期のガキとこれではまるで変わらない。

 リオに責任などはない。仮にかれが妻を誘惑し、子供たちを誘拐した犯人だったとしても、かれにそうした行動をさせてしまったのはほかでもないじぶんだ。

 今さら気づいた。次々と襲いくる奇禍にばかり目を取られ、じぶんの過失に気づこうともしなかった。

 半人前以下ではないか。

 事の真相がどうであろうとリオには謝らなければならない。誤った関係を正さなければならない。こんなところで足止めを食らっている場合ではない。

 椅子から腰を浮かす。ブラックライト然とした明かりに腕時計をさらす。時刻はちょうど午前三時を示している。不意に顔に明かりがさした。面を上げると、閉じていた扉が何事もなかったかのように開き、音もなく隙間を広げていく。

 扉の向こうに人影はない。自動的に開いたのだと判断する。おおかた死神が時間設定していたのだろう。時間になったら自動的に開錠するようにと予約してあったのだ。ありがたい配慮ではあるが、せめてその旨を一言告げてから死んでほしい。

「死んでまで人騒がせなひとだ」

 着ていた上着を死神の顔のうえにかけてやる。安らかとは言いがたい死に顔だが、覆われてしまえば死神も遺体も大差ない。

 ようやくただの人間に戻れましたね。

 内心でつぶやくが、もとから死神ではなかっただけの話である。やり切れない思いが募る。

 約束を取り交わした相手が死んだ場合、それを反故にしても問題はないはずだ。だが、投げ捨てることもできない。

「なんて面倒くさい」

 生きるというのは面倒くさい。だからといって死にたいとは思わない。じぶんはまだ、やれる。腐ってなどいない。

 開いたのは入ってきたのとはべつの扉だ。抜けるとオフィスビルの通路を思わせる造りがつづく。工場の一画であることをついつい忘れてしまいそうになる。

 窓はないが、壁にはめ込まれたガラスの向こうには、絵画などの美術品が飾られている。会社の趣味ではない。想像するに持田の趣味だろう。税金逃れのためにここに隠しておいた可能性もある。

 しばらくすると扉に突き当る。両開きの自動ドアだ。ここにも血管認証式セキュリティシステムが備わっている。念のために試すが、扉は開かない。

 ここも時間がくれば開くのだろうか。

 そうでなければ困る。振り返ると、通路の奥、いましがた通ってきた扉は閉じていた。

 どうせなら建物にある扉という扉をすべて開錠してほしかった。そうすれば妻を助けることも容易だし、警察に通報すれば、この工場の裏の顔をつぶさに曝けだすことが可能だ。

 死神ならばそうすることもできたのではないか。

 ではなぜそれをしなかったのか。

 会社と国家権力が裏で繋がっている旨を臭わせていた。おそらくは彼自身、以前に通報をしたことがあったのだろう。だが何も変わらなかった。だからこそこちらを頼ったのだ。死神の言うように、ワクチンソフトを人工知能へ組み込む以外に、事態の収拾を図る術はなさそうだ。会社の悪事を世間に広く流布したとして、それで何が変わるとも思えない。人は信じたいことを信じる。そして自分以外のことにはとんと無関心だ。

 公的機関である警察が、荒唐無稽な都市伝説にすぎない、と断言し、一連の悪事をこちら一人のせいにしてしまえば、それが真実として社会に定着する。

 人間の認識などそんなものだ。

 ひと一人が蓄えている知識にしたってそうだ。しょせんは他人からの又聞きでしかない。勉強というものはおおむねそうした上書きの連鎖によって支えられている。教育にしたって同じだろう。真実ではなく、真実とされている情報を鵜呑みにし、それを現実として許容し、共有する。社会はそうした不安定な幻想によって成り立っている。一部の、真実を知る者たちに都合のよいように編集されている。

 ならばこちらも編集し返してやろう。ワクチンソフトの入ったマイクロチップを拳で包みこむようにする。

 隠し扉があることに気づいたのは、一向に開く気配のない扉に業を煮やし、通路に飾られている美術品を鑑賞しているときだった。盗難に遭ったと聞いていたモネの名画が飾られており、本物だろうか、とガラスに手を触れたところで、その一角だけうっすらと縁どられたように区切られていることに気づいた。岩と岩を繋ぎあわせたような、目を凝らさなければまず目につかないほどの隙間が空いている。叩いてみると、そこだけ高い音が鳴った。空洞になっているのだと察する。

 押したり引いたり、ああでもない、こうでもない、と壁をいじくっていると、足場が傾いたようにつま先の一部が陥没した。

 スイッチだったようだ。支えを失くしたように、モネの名画の飾られた一画が、くるりと反転し、こちらもろとも暗闇へ呑みこんだ。

 人が入ると明かりが灯る機構であったらしい。間もなく視界が安定する。

 どこの美術館か、と目を瞠る。絵画にブロンズ像、化石に剥製、甲冑に巻物。骨董品から近代のものまで、あらゆる美術品が置かれている。一個人のコレクションにしては度の過ぎた蒐集ぶりだ。表沙汰にできる私物ではないのだろう。

 この工場はかんぜんに持田の隠れ家になっていたようだ。美術品やゆかに溜まったほこりを鑑みるかぎり、この部屋の存在はほかの者たちには気づかれていない様子だ。

 いや、死神は知っていたのだろう。持田との交流がほかの者たちよりも深かったのかもしれない。だからこそ、生贄として白羽の矢が立てられたのだ。持田を亡き者にしようと考えた会社にとって、死神は目の上のたんこぶ以上に、煩わしい存在だったに相違ない。

 組織のもっとも唾棄すべき性質だ、と富義は思う。一枚岩のように強固かと思えば、ちょっとした変化でこれまで築き上げてきた価値観――礎が揺らぐ。ちょっとした変化、というのはだから、世間の動向や時代の移り変わりによる環境の変容だ。会社というのは川に浮かんだ笹船である。川の流れが穏やかなところでは安定して進めるが、岩の多い場所などではかんたんに渦に巻き込まれ、沈没し、そうでなくとも進路が大幅に変わってしまう。笹船が大きいほど、柔軟な対応をとりにくくなる。

 組織だけではない。個人もまた同じなのかもしれない。

 この世にあるものはあまねく、大きな流れに乗っている。人はみな星の子であり、星屑である。形あるものはやがて崩れ、さらなる安定を求めて再構築される。その繰りかえしだ。川のうえに船があり、船のうえに船がある。そうした連鎖がまた新たな流れを形成し、べつの船を浮かべていく。

 壮大に感じる。バカバカしくさえある。

 考えていると、いま直面している事態もそれほど深刻なものではないように思えてくる。これもまた自然の流れのなかで派生した、ちいさなちいさなゆらぎにすぎない。私という個が、そのゆらぎ、波紋よりもさらにちいさな船だったというだけの話である。

 失敗したところで何が変わるわけでもない。だからまえへ進めるだけ進んでみようと思えた。こうして言い聞かせていないと不安でたまらなくなる。目を逸らさずに現実逃避することのなんとしんどいことか。

 美術品を見渡す。

 富義は思う。ここにある優れた遺産ほどではないが、私にも遺したいと思えるモノがある。意地と言えば端的だ。子船を背負ったままで沈むわけにはいかない。

 質素なドアがある。事務室のようだ。非常口を思わせる造りで、鍵はかかっていない。開くと目のまえにも扉があり、それは薄い金属の板のようなものでできており、押すとかんたんに開いた。

 抜けると、なぜか更衣室が広がっている。

 今出たばかりのドアを振り返ると、そこはただのロッカーだ。同時に、その奥に美術館もどきがぽっかりと口を開けている。場違いなところに場違いなドアがある。隠し扉としては上出来だ。

 忘れてしまうと困るので、念のためロッカーに印をつけておく。ペンなどはないので、思い切り蹴とばし、へこませておく。八つ当たりをしたかったわけではない。そういうことにしておく。

 更衣室を出ると工場の一階部分だった。窓から差す日差しに、生きた心地がする。夜は明け、陽の高さから今が正午にちかい時刻であることを知る。

 適当な窓ガラスを割ってそとに出る。

 駐車場には一台だけ軽トラックが止まっている。旧式の化石燃料式エンジン駆動の自動車だ。死神の乗ってきたものだろうか。そういえば彼の懐からかってに持ってきた鍵があった。

 ドアはロックされていない。軽トラックに乗り込み、ものは試しにと鍵穴に鍵を差し込むが、まったくかみ合わない。期待させるなよ、と突発的な怒りが湧く。衝動的にハンドルを殴りつけると、頭上、サンバイザーの合間から虫のようなものが落ちてきた。

「ベタだな、おい」

 思わず零すが、死神のことだ、ここまで計算して車内に鍵を置いたままにしたのだろう。この世にいないという一点で、息子を傷つけた彼を許せそうな気がした。地獄に落ちていることを祈るばかりだ。

 エンジンを駆動させる。電気自動車にしか乗ったことがないが、なんとか運転できそうだ。唸りをあげるエンジン音には何かこちらを鼓舞するような力強さがある。タイヤが砂利を踏みしめる。

 街には至る箇所に監視カメラが設置されている。映像はすべてエイリとアンが統括している。こちらを探そうと思えば一瞬だ。居場所はすでに割れていると想定して動くべきだろう。

 運転する片手間に車内を漁る。携帯型メディア端末を発見する。逆探知されることを警戒するならば起動させることすら躊躇われるが、妻は今もなお、ナノマシンによって意識を蝕まれている。どうしても通報しておかなければならない。

 警察ではなく消防署へ通報することにした。救急隊ならば匿名の電話でもイタズラと見做さずに現場へ向かってくれるはずだ。

 要件を掻い摘んで伝えた。要救助人物が、工場の地下に閉じ込められている旨を話し、地下までの道のりを口頭で説明する。いちどで憶えるのは大変だろうが、すくなくとも会話を録音していることを考えれば、一方的にまくし立てて通話を終えても問題ないはずだ。

 現場にさえ急行してもらえればいい。隠し扉の奥にある美術館然とした部屋を見れば、さいあくこちらの話を無下にしたりしないだろう。

 通報が功を奏したのか、会社までの道中、サイレンを鳴らした救急車が反対車線を通り過ぎていった。

 

 表向き、こちらはまだ指名手配されていないはずだ。が、会社の裏事業を鑑みれば正々堂々姿を晒すのは得策ではないように思う。念のため清掃員に変装した。制服は倉庫にあったものだ。

 自社のオフィスに侵入する。平日の真昼間だ。同僚たちが甲斐甲斐しく働いている。真面目に仕事に取組んでいる姿からは、何の変哲もない日常が連想される。本当にこの会社がナノマシンによる麻薬開発を企て、あまつさえ利用しているのだろうか。

 とうてい現実とは思えない。

 こちらが何もしなくとも社会は変わらずに流れつづけるのではないか。物騒なニュースを見聞きしながら平穏な日常がつづいてきたように、これからもそうした日常が送られていくのではないか。死神から聞かされた話はまさしく戯言のひとことで片づけられるのではないか。そのうちじぶんが体験した工場でのちょっとした冒険や、植木の裏切り行為も、夢か何かと思うようになるのではないか。そんな気がしてくる。

 同時に、あれは夢ではなかったのだ、という圧倒的質感もまた確かな記憶として残っている。

 楽観などしていられない。じぶんだけが抱える事案ならば大いに楽観していい。積極的に、鷹揚に構えていればいいのだ。ただし組織的、社会的な事柄については慎重に、消極的にならねばならない。ときには大胆な改革や、転換を求められ、実行を迫られるときもあるだろう。それでもそれを実行に移すまでには、膨大な議論と検証と、大勢への説明が必要になってくる。一筋縄ではいかない。積極的にはなり得ない。仮に積極的に推し進めればそれは強引な選択の強要となる。

 たとえばそれは、富義の身に降りかかっている奇禍のように、或いはその身に押し付けられた無責任な責任であったりする。使命と言い換えれば幾分かは耳触りよくなるが、たんじゅんに選択の余地がないだけだ。両側を壁で補強され、道を塞がれ、強行突破する以外に助かる術がない。だからそれに縋るだけの話であり、ほかに示された道があるならばいくらでもそちらへ行く。だが現状、そんな道はない。

 やり遂げなければならない。

 部署には同僚たちがいる。コスプレまがいの変装など容易に見破られるだろう。案じたが、ことのほかみな仕事に集中しており、こちらを顧みない。思えば、同僚が清掃員の格好をしてバケツやら雑巾やらブラシやら何やら、荷台をキュコキュコ押し進めながら出社してくるとはお釈迦様でも思うまい。リオならばこちらの背格好を見ただけで見抜くかもしれないが、さいわいにしてかれはほかの部署にいる。

 ほかの清掃員と鉢合わせしないうちに部長室へ侵入したい。

 機会を窺いつつ、各ゴミ箱からゴミを集めていく。

 窓ガラスの半分を拭き終えたところで、部長がそとに出ていった。たしか会議の予定が入っていたはずだ。当分戻ってこないだろう。時間を空け、みなの意識が部長室からかんぜんに離れたことを確認してから、しつれーします、と声をかけ、自然な素振りで部長室に入る。

 腐っても副部長の役職を与えられている身だ。サーバを初期化するなどの重大な作業でなければ、おおかたのシステムに干渉(アクセス)できる。

 デスクに腰掛け、備え付けのメディア端末に暗証番号を入力する。植木はどうやってセキュリティロックを打ち破ったのか。疑問に思うが、考えるだけ無駄かもしれない。会社の許可を得ているならばマスターキィくらい持っていそうなものだ。

 マイクロチップをメディア端末に繋ぐ。ファイルを開き、人工知能へ送るための手続きを踏んでいく。

 プログラムを組むわけではないので、手順さえ知っていればテキストメッセージを送るくらいに造作もない作業だ。ただし、段階を踏むたびにセキュリティロックを解除せねばならない。また、事実上、各部門の部長室に設置された端末からでしか人工知能に干渉できないため、凄腕のハッカーでも外部から人工知能に干渉するのは不可能にちかい。こうして社内に侵入し、無数の暗証番号を入手したうえで、部長室まで辿り着く。いったいどこの国家スパイかと思うほどの手間がかかる。

 死神の言っていたように、じぶんでなければできないだろうと思えた。

 時間にして三分ほどだ。

 アップロードの準備を終える。

 あとは最後の暗証番号を入力し、エンターキィを押すだけだ。

「というわけで部長は留守なんですよ」

「そうなんですか。あ、かんたんなメンテナンスなので、あとは任せてください」

 聞き慣れた声が二つ、部屋のそとから近づいてくる。一つは部下のものだ。もう一つはリオだと判る。

「にしても蜜雨さんもひとがわるいですよ。海外出張ならそうと言ってくれればいいのに」

「急な指令だったらしいですよ」

「せめてあのひとの分、増員してくれないですかね」

「一人じゃ足りなそうですね」

「三人でも足りませんよ」

「貴重な人材ですからね」

「まったくです」

 大きなため息を吐き、部下は、鍵は開いてますので、と遠ざかっていった。すりガラス越しにリオの影が映っている。

「入ります」

 留守だと判っている部屋へ向け、かれはそう言った。

 

 ちいさいころ、かくれんぼが苦手だった。息を殺して迫りくる鬼をやりすごす緊張感は、興奮よりも恐怖心を色濃く呼び起こす。

 隠れることもできたが、そうしなかったのには、そうしたむかしに刷り込まれた抵抗があったからかもしれない。或いは、植木の奇行を盗み見た昨晩の行為がトラウマになっているのだろうか。

 富義はデスクに座ったまま、メディア端末のディスプレイを眺めている。

 扉が開き、ゆっくりと閉じる。

「やあ」

「ご自身の状況はすでにご存じですね」リオは淡々と言った。こちらがこの部屋に忍び込んでいることを想定していた口ぶりだ。「あすには指名手配犯として各種マスメディアで報道されます」

「なるほど」意味深長に頷いてみせる。「きみもそっち側だったというわけか」

「蜜雨さんの言う、そっち側がどこを指しているのかは解りませんけど、そうですね。ぼくは蜜雨さんの味方ではありません」

 だと思ったよ。

 言おうとしたが声にならない。

 裏切られたことに対する落胆はない。失望さえしないのがふしぎなほどだ。なぜだか笑みを維持しようと懸命に口角を持ち上げ、痙攣する頬の筋肉に抗っている。

「鍵を持っていますね」

「鍵?」

「渡してください」

 なんのことかと戸惑うが、間もなく死神の懐から持ちだしたあの鍵のことかと思い到る。

「工場でのやり取りも筒抜けだったというわけか」

 返事はない。反論もないことから、やはりこの鍵のことか、と生地のうえからポケットの鍵を握る。

「さくらさんは病院です。病院の駐車場で車の中でぐったりしていたところを発見されました。植木さんが運んだんでしょう」

「無事なのか」

「命に別状はないそうです。無事かと問われると返答に困ってしまいますが」

「治療は?」

「いいえ」リオは首を振った。「さくらさんには新型ナノマシンが投与されています。精密検査を受けたところで、医療用ナノマシンの届かない脳内に、その原因となる新型ナノマシンがあるのですから、治療どころか原因不明の病として扱われるだけです」

「植木もナノマシンに操られていると聞いた。きみもなのか」

「操られているというと語弊がありますね。健康上害のない麻薬と考えてください。たとえば大麻の快楽物質であるカンナビノイドは、接種すると人間の五感を覚醒させ、敏感にさせます。思考速度が増し、相対的に体感時間が増加します。ふだんは聞き逃している音が拾え、色彩豊かに景色を見られるようになるんです。恍惚とした状態になりますから、何を見ても幸せなきもちになり、生きているというだけで幸福に思えるようになります。価値観の転換です。それも、とびきりプラス向きの。もちろん相性の問題でマイナスの精神作用を受けてしまうひともいます。いわゆるバッドトリップと呼ばれるものです。そうならないかぎり、カンナビノイドは人類へ幸福を与えます。アスファルトから生える花を見ただけで感動し、生命の尊さに涙します。どれだけじぶんが、根拠のない風習や常識にがんじがらめにされてきたのかを自覚し、そして悟るのです。じゆうに生きることのすばらしさを。この世の窮屈さを。そうした転換を得ることを操られているとは言いませんよね」

 だが、洗脳にちかい。

「つまり植木は枷を失ったのだな」

 幸福の尺度は人それぞれだ。じぶんの幸福をぜったいだと信じ、他人にもその幸福を共有させようとするしあわせの押しつけはときに狂気だ。陳腐な言い回しではあるが、それだけに真理を突いているだろう。真理とはいつだって陳腐なものだ。当然であり、自然にあるものなのだから。

「ひとはみな、じぶんのしあわせを見つけようと日々抗っている」

 なぜこんなことを話すのか。客観的にじぶんを見つめながら富義は言葉を紡いでいく。「だが、じぶんだけがしあわせになっても仕方がないとも思っているはずだ。だから、じぶんのしあわせと他人の平穏を擦り合わせ、常識や風習といった最大公約数的なしあわせを崩さないための目安を暗黙のもとに定めているんじゃないのか。それを手放した者に、他人のしあわせを、社会をどうこうしようだなんて世迷言を語る資格はない」

「資格なんて誰にもありません。そんな権利は誰にだってないんです。でも、誰かがやらなければならないこともある。そうじゃないですか?」

 その誰かを選ぶために、この社会では民主主義が採られているということをリオが知らないはずもない。

「そんなに世の中を変えたかったら、政治家にでもなればいい。民主主義に則って社会を変えればいい」

「まるで民主主義こそ完璧なシステムであるような言い方ですね」

「すくなくとも平等ではある」

「平等? どこがですか? 民主主義を国の政治に抜擢したのは誰ですか? 多数決で白黒つけようと決めたひとは誰ですか? いいですか。民主主義も、けっきょくのところは権力者によって無理強いされたシステムでしかないんですよ。今のところそれに不平を漏らす国民が過半数以上いないというそれだけの話で、完全ではないんですよ」

「社会主義も共産主義も、どんな主義主張だってそうだろ。誰もがみんな納得するシステムなんて存在しない」

「いいえ。完璧なシステムは存在し得る。けれどシステムに問題がなくとも、それを扱うのが人間であるために引き起こる問題というものがあるんです。往々にして社会にある問題は、システムの不備ではなく、それを扱う側の人間が起こすんです。そうした問題が、バグと化してシステムそのものを呑みこんでしまう。完璧なシステムだろうと、それを使う人間が誤った使い方をすれば、それは正しく機能しない。そんな当たりまえのことを多くの人たちは理解していない。いえ、理解していても、正そうとしない。自分を律しないんです」

「だったらきみらはどうしようと言うんだ。人間の社会なんだ。人間の手で築かれていくべきものだ。それともきみは、人間以外にシステムの運用を任せようとでも?」

 言いながら植木との会話を思いだしているじぶんがいる。

「そのとおりです。人間には無理でも、エイリとアンにならそれが可能です」

 いよいよ話についていけなくなってきた。現実感がないと言い換えてもいい。人工知能に国家の行く末を任せる? 手塚治虫のマンガでそんな話を読んだ憶えがあるぞ。糾弾しようにもそれすらバカらしく感じる。

「きみも頭がやられているんじゃないのか」

 暗にナノマシンに乗っ取られているのではないのか、と揶揄する。

「ですから、ナノマシンにそんな効用はありません。あるのは、人間の価値観を変えることだけ。しかもそれは、洗脳のような上書き保存ではなく、飽くまでも幅を広げるためのものです。セックスを覚えたからといって人格が変貌しますか? 蜜雨さんは、ぼくと関係を持って、何か大きく変わりましたか? どの道人間は変化しつづけていくものです。そのなかで、〈私〉という個を維持しつづけていく。それが人間というものではないですか? なら、世界を俯瞰的に見られるようになることをなぜそんなに忌避するのですか」

「それを否定しようとは思わない。だが、それを受け容れるかどうかはじぶんで選ぶべきだ。誰かに強要されたのでは、それこそ洗脳と変わらない」

「そうですね。そのとおりです。ですが、現実ではそれを教育と呼ぶんです。悲しいことだとは思いませんか」

 死神も似たようなことを言っていた。洗脳と教育の違いは多々あるにしても、最たるものは、それが社会的に悪影響をもたらすかどうか。その一点に尽きるだろう。ならば彼らのしていることが社会的に有益ならば、これは新しい教育の仕方として成立し得るのではないか。いや、たとえそうだとしても、それらはすべからく多くの人間に説明をし、公的な段取りを踏んで達成されるものであるべきだ。

「きみらのしようとしていることは正しいのかもしれない。だがたとえ正しくとも、強行すればそこに正義はない」

「正義である必要性も、じぶんたちを正当化しようとも思っていません。ぼくたちは悪でいい。ただ、社会から多くの理不尽を失くしたいだけで」

「きみのしていることがすでに理不尽だという認識はないのか」

「ぼくのしていることが最後の理不尽になればいいんです。だから言ったじゃないですか。ぼくたちは悪でいいんです」

 思春期の子どもと話している気分だ。ヒーロー気取りの青臭い青年と変わらない。正義感がつよく、曲がったことが大嫌いで、世の中の不条理に傷つき、どうにかしたいと渇望している。同時に、綺麗事だけでは生きていけないことも承知している。

 ディスプレイが点滅している。ワクチンソフトのアップロードの準備が整ったようだ。エンターキィを押せば、会社の企みは気泡に帰す。とりもなおさずリオの青臭い正義感もただの妄言に回帰する。行動の伴った狂想ほど手に余るものはない。

「話は解った。だが同意はできない。きみたちは私を利用し、私の家族を犠牲にした。きみがきみ自身を悪でいいと言うのなら、私から恨まれることも覚悟しているのだろう」

 エンターキィを押そうと膝の上から静かに手を浮かすと、

「嫌です」

 今にも泣きそうなか細い声が返ってきた。「覚悟なんてしてません。そんなのは嫌です」

「なんだって」エンターキィのうえでゆびが止まる。「今さらそんなこと許されるとでも」

 調子が狂う。じぶんでも何と言っていいのか分からなくなる。

「解ってます。ぼくは蜜雨さんを利用しました。いいえ、利用しようと思って最初から近づいたんです。それがぼくの仕事でした」

「なら、恨まれても文句は言えんだろ」

「でも、できなかったんです。信じてもらえないでしょうけど、いえ、信じてもらう必要はないんですけど。本当なら蜜雨さんは、いまごろほかの人たちみたいにナノマシンを投与されているはずだったんです」

 それはこちらも疑問に思っていたことだ。生贄にするならばてっとりばやくナノマシンを投与し、植木同様、会社の都合のいいように操ればよかったのだ。だがリオの話では、ナノマシンにそのような効用はないという。ただ、価値観の転換を得たことにより、社会を是正するという行為に並々ならぬ使命感を抱くとするならば、無理強いされることなく自ら率先して生贄になろうとするかもしれない。そしてたぶん、そうなるのだろう。植木の変貌具合を見れば、そうとしか考えられない。

 いや、そもそも植木もまたリオのように最初から化けの皮を被っていただけではないのか。こちらの知っている植木という男は、仮初の姿だった。だとしても、ナノマシンで解決できるならば、早々にこちらにも投与されていたはずだ。

 なぜそれをしなかったのか。たしかにふしぎに思われる。

「ぼくのミスです」リオは言った。交通事故で死んだ愛玩動物を胸に抱き、これはわたしのペットです、と嘆く少女を思わせる口ぶりで、仕事に私情を挟んでしまいました、と告白する。「そのせいで計画が大幅に狂ってしまい。あーちゃんやちーちゃんまで巻き込むようなことに」

「じゃあ、本当にあれは死神がかってにやったことなんだな」

「死神?」

 そうだった。その呼び名はこちらがかってにつけたあだ名だった。言い直そうとするも、リオはこちらの意図を汲んだように、

「最初にあーちゃんが怪我をしたときのは、そうです。死神がぼくたちを困らせようとやったことです」と認めた。それから、そのあとの誘拐事件は、と沈痛な面持ちで述懐する。「死神ではなく、ぼくたちの仕組んだことです」

 そのあとのことは、とはどういうことか。

「説明してくれないか」

「死神がなぜあーちゃんを襲ったのか、その目的は聞いていますか」

「ああ」

 純白のヒツジに傷をつけ、生贄にさせないための手段だったはずだ。

「彼の企みは功を奏したと言えます。こちらは困りました。蜜雨さん以外を生贄とする妥協案も出されたのですが、人工知能に干渉できる者となると限られてきます。裏の事業に携わっている人間を犠牲にするわけにもいかず、また、部長は顔が広すぎることもあり、事件が公に発表されれば、それを疑う者たちが外部から出てくるはずです」

 それに比べこちらは外部に顔がきかない。会社内部でこそこそと悪事を働いていたと聞いてもふしぎに思う者が少ないというわけか。確かにそうだろう。部下たちは疑ってくれるだろうか。事件が公になればその事後処理に追われ、こちらの身を案じる余裕などはなくなるだろうし、よしんばこちらが会社のための生贄にされたと知っても、しょうがないの一言で片づけてしまいそうなキライがある。

 誰かが犠牲にならねばならない。きっと蜜雨さんはみんなのために犠牲になられたのだ。そう説明されたら彼らは信じるだろう。人望が思わぬ方向で裏目に出るときもある。

「傷のついた生贄を――蜜雨さんを使うほかないとなったとき、その傷を目立たなくするために、端からそういう模様だったのだというふうに仕向けることになりました。要するに、蜜雨さん一家が、子供たちを顧みない悲惨な家庭だったという筋書きが用意されたんです」

「だから子供たちを誘拐し、あまつさえ傷つけたのか」

 それらすべてを妻のせいにし、新型麻薬を開発した夫が妻を狂気に走らせた。そういう筋書きだったに違いない。そしてそれは着実に現実のものとなりつつある。

「あーちゃんたちを攫ったのは植木さんです。本当はそのときにはもう、さくらさんは監禁されていました」

「きみは知っていたんだな」

 リオはこちらをまっすぐ見つめている。「知っていて、素知らぬフリをしていたんだな」

 子供たちが誘拐されたとき、そばにリオもいた。奪われたのではなく、自ら進んで子供たちを植木に手渡した。

「そうなんだな」

 強気に迫ると、リオは言い訳をするつもりはないようで、

「はい……そういう筋書きでした」とちいさく顎を引いた。

「頭の怪我も嘘だったのか」だとするならば、病院の中にも会社の息のかかった人間がいるということになる。

「いいえ。頭の怪我は本物です。本当に植木さんに背後から殴られたんです」

 なぜそこまでする必要があったのかは疑問に思うところだが、いまさらふつうの感性で彼らの行いは量れない。

 そういう筋書きだった、とリオは言った。ならば誘拐されたあとに子供たちがどういう目に遭うのか、その予定も知っていたはずだ。

 それでもリオは子供たちを手放した。悪魔に魂を売った男に子供たちを託したのだ。怪我を負い、偽装工作までして。

「ざんねんだとしか言いようがない。だがこれで踏ん切りがついたよ」

「蜜雨さん……」

「私はきみを許さない。このさき何があろうと、ぜったいにだ」

 表情を変えたつもりはなかったが、リオは臆したように目を伏せた。こちらの視線を避けるように身体ごと斜めにする。

「私はきみのことを何も知らなかった。いや、知る機会がありながら、知ろうとしなかったと言ったほうが正しいかもしれない。愚かだったよ」

「今だって」リオの声を聞きながらエンターキィにゆびを這わせる。「今だって蜜雨さんは何も知らないままじゃないですか。ぼくのことを知った気になって、かってに傷ついて、かってに納得してるだけじゃないですか」

「きみの言葉には耳を貸さない。これで私の役目は終わる」

 そしてきみたちの役目も。

 はっとした様子で声を張り上げたリオの制止を振りきりながら、富義はエンターキィを、押した。

 

 女王蟻を失くした働き蟻たちがその後どうなるか。女王蟻を失っても蟻たちは働きつづける。コロニーが瓦解することなく、崩壊することもない。ただそうあるようにとせっせと働きつづける。彼らにとって女王蟻は、神ではない。たとい女王蟻によって生み出され、そうあるようにと設計されたとしても、女王蟻がいなくなったからといって彼らの存在理由が消えることはない。

 見誤っていた。

 エイリとアンをどうにかすれば、妻たちの体内に投与されたナノマシンは自然と止まるものかと思っていた。

 人工知能さえ封じてしまえば、この一連のドタバタは尻つぼみに収束していくと、なんの疑いもなく考えていた。元凶さえ消し去ってしまえば、あとには冬を越えた野山のように、豊かな景色が広がるものだとばかり。

「バカ……」

 飛んできた幼稚な指弾に、じぶんのしたことの重大さを知る。

「蜜雨さんはバカです、バカヤロウです。なんにも解ってないくせに……こんな重大なことをそんなかんたんに」

 まるでこちらが核爆弾のボタンを押してしまったかのような剣幕だ。過剰と言っていい。だが死神の言葉を信じれば、エイリとアンは、隔離場所に転送されただけで、消滅したわけではない。サーバだって無事なはずだ。

「相談もなしに強行される気分はどうだ」

 解っていないのはどっちだ。いつも自分の都合のいいように事が運ぶと思うなよ。出し抜いた気になり気が大きくなるが、優越感はない。鼻を明かしたはずの相手が、鼻白むどころか顔を真っ赤にし、次点で蒼白になっていく。

「どうなさる気ですか」地団太を踏むようにリオはこちらに一歩踏み寄る。「さくらさんを、どうやって元に戻すつもりなんですか」

「何の話だ」なぜそこでさくらの名がでてくる。

「手遅れになる前に鍵を渡してください」

 真っ向から見据えられる。かれがこちらに歩んでくることに警戒を示すことも忘れ、親に叱られ傷ついた子どものようにただ狼狽える。

「渡しなさい」

 冬の湖面にひびが入るような叱声に、身体は条件反射のごとく鍵を差しだしている。

「家に戻って、警察から連絡があるまでじっとしていてください」

 これ以上余計なことをしないでください。

 こちらに背を向け、歯を食いしばるように指示をだすと、リオはそのまま部屋を出て行った。


 風呂に入ろうと思い、作業着を脱いだところで、着替えをせずにそのままの格好で帰宅していたことに気づいた。湯船に浸かりながら妻のことを案じ、子供たちのことを思った。

 いーい湯っだな、あははん。

 ふいに口ずさんでいる。あまりの間抜けな音程に泣きたくなった。バターのようにこのまま融けてなくなってしまうのではないか。突発的な不安に襲われたが、身体を包みこむ暖かさと肌をなぞる湯の揺らぎが、じぶんという存在を浮き彫りにさせる。

 冷蔵庫からビールを取りだし、ソファに座る。

 部屋から出るなと言いつけられたが、それに応じる筋合いはないはずだ。死神の言葉を信じれば、現状、事態は好転しているはずなのだ。だが所詮は死神の言うことだ。頭から信じるほうがどうかしている。

 せめて妻や植木など、新型ナノマシンによって精神にすこぶる悪影響を受けている者たちがどうなったか、その後の経過を、言い換えれば変化を確認しておく必要がある。どんな影響であろうとも社会に変容を加えようとした者が背負うべき、それが最低限の礼儀だ。

 思いながら、自堕落にビールを片手にくつろいでいるじぶんの姿を俯瞰的に認識しているじぶんがいる。

 これでは車も運転できないではないか。

 いや、端からそのつもりだったのだ。部屋から出るなとリオが言った。だからじぶんは部屋からは出ない。与えられたそれが仕事なのだと思考するまでもなく内なるじぶんがドンと腰を据えている。切り株のうえから動くつもりがない。湯船で鼻歌を奏でたときも、風呂上りにビールを手にしたときも、そうした内なるじぶんが無意識に身体を動かしていた。そう考えなければおかしいほど落ち着いている。

 だいたいにおいて、妻が誘拐され、子供が傷つけられたのだ。それらの元凶が社会革命を目論む謎の組織だなどという世迷言を、「世迷言だ」と一蹴できないこの状況において、冷静でいられるほうがどうかしている。翻っては、落ち着いていられるじぶんという存在は、それはそれで異常な事態に直面した男のまっとうな反応のような気がしてくる。

 狂った世界において正常でいられる者は、それですでに異常なのだ。ならば風呂上りにビールを飲み、ソファのうえでぐぅ垂れているじぶんは充分に狂っている。

 まともでないならば、じっとしている必要もないのではないか。裏切り者であるリオの指示を真に受けているのだ。まともであるわけがない。唯々諾々と帰宅したのだ、意気揚々と出かけても問題ないのではないか。しだいにそういう気分になってくる。

 仮にじぶんの頭にも新型ナノマシンが組み込まれており、その影響で精神に異常をきたしているというならば、これまで重ねてきた過失の数々、モロモロの痴態すべてを新型ナノマシンのせいにすることができる。

 内なる自責の念が膨らんでいくにつれ、底なしの「もしも」に期待しているじぶんが思考の大部分を占めていく。

 おそらく、真実に新型ナノマシンによって精神干渉を受けているならば、こうした狡猾な考えも、いびつな自責の念も抱くことはないのだろう。じぶんの考えに疑いを持つことなく、盲信という名のエンジンを得て、ただ一つ引かれたレールの上を猛進していく。

 盲信だけに猛進だ。なかなか上手いことを言ったじゃないか。おかしくて涙が出る。

 飲み干したビールの缶を握りつぶす。

「ヤケ酒にもなりゃしない」

 途方もない虚無感に苛まれる。無力なこともそうだが、それ以上にじぶんという存在が奇禍をまき散らす疫病神であるという事実が、言いしれぬ恐怖を引き連れてくる。

 やることなすこと、ことごとくが裏目にでる。存在しないことがゆいいつの解決策に思われてならない。

 なんとかしたい。

 なんとかしたいのに、すべきことが何もない。してはならないことさえいまはもう、解らなくなってしまった。

 何が正しくて、何がわるいのか。

 結果を知ることでしか確かめる術はなく、しかしその結果を知ることが恐ろしい。やるべきことはしたはずだ。時間が解決してくれるのではないか、という淡い期待もある。しかし、現状は悪化の一途を辿っているように思われてならない。この目で見たわけではない。見たくないのだ。これ以上、悲惨な現実など確かめたくなどない。

 リオの言うようにここでじっとしていたほうがいい気がする。むしろ本心はそれを望んでいる。

 認めよう。

 私という存在は、ゴミ虫だ。

 畑に出て行けば駆除されるだけの、人間社会にとって害をまき散らすだけの毒虫だ。

 だがどうしてだろう。認めておきながら、その事実を真っ向から否定しようと抗う感情がある。ふざけるな、という思いにちかく、しかし怒りよりも青い刃を思わせる静けさがある。憎しみを恐怖で割り、そこに後悔というフィルターを通せばちょうど同じような感情が生まれるだろう。

 融けた鉄のように粘着質に流動するその感情は、脊髄反射や性衝動と大差なく、触れたものすべてをじぶん色に染めあげては、津波のように押し寄せ、ソファに根を張らせたはずの富義の身体を、文字通り根こそぎ動かした。

「私が悪魔ならそれでいい。私はしょせん、カレーのルーにはなれないのだから」

 だが、シチューのルーにならなれるのではないか。

 誰に嫌われようとも構わない。妻や子供たちに愛想を尽かされたって文句は言えない。ただ、こちらから手を離すことだけはしてはいけないのだ。

 たとえ何を犠牲にしても、家族だけは。

 マンションのそとに出ると、繁華街の向こう側に欠けた月が沈みかけていた。月が消えても、朝陽はまだ昇らない。

 

 病院に着くと、駐車場に数台のパトカーが止まっていた。道中、街の至る箇所から救急車と思しきサイレンが聞こえていた。大規模な事故か何かがあったのだと判る。

 タクシーの車内でも、ラジオが臨時速報を伝えていた。全国各地で突如として、発狂する者たちが発生し、後を絶たないという。今のところ発狂者たちに共通点は見つかっておらず、未知のウイルスによる集団感染の可能性もあるとのことで、どのメディアも外出を控えるよう注意を呼びかけていた。

 謎の集団発狂事件。富義には、発狂者たちにある共通項を察することができた。発狂した者たちはみな、ここ数日のあいだで医療用ナノマシンを適用されていたに違いない。

 運転手に支払いを済ませ、妻のいる病室へ向かう。

 リオの言葉を信じれば、お尋ね者として全国指名手配されるのは日付が変わったきょうということになる。日の出を迎えていない現在、まだギリギリで一般人として見做されるはずだ。

 救急医療センターの入口から入り、受付カウンターで妻の病室を聞いた。面会謝絶だとの説明を受けたが、エレベータを使わずに階段を使って向かう。集中治療室に運ばれたものかと思っていたが、教えられた番号は最上階にある個室を示していた。

 ひっそりとした廊下を抜ける。消毒液臭いが鼻を突く。ひと気はない。森閑とした空間に、じぶんの足音が反響した。自然と忍び足になる。

 病室の入口にはディスプレイがはめられているが、どの部屋にも患者の名前がない。大半が空き部屋であるらしい。

 嫌な予感が巡ったが、保身に走るほど、我が身はもうかわいくない。

 妻の名前を見つけた。扉に手を掛け、ためらいなく開け放つ。

 廊下は薄暗く、反して病室は明るかった。

 眩しいと感じた矢先に、胸にカエルが飛びついた。それらはピラニアを思わせる鋭さでこちらの身体に噛みつくと、闘牛のような激しさで震えた。

 全身の主導権を奪われるようなこの衝撃には身に覚えがあり、それは植木から受けたスタンガンと寸分違わぬ痺れを伴わせる。あのときとはちがい、意識までは奪われない。

 聴覚が麻痺したようだ。耳鳴りに埋め尽くされている。視界は明瞭で、ちからの抜けた身体が倒れていく光景を、他人事のようにして眺める。

 浮遊感が長くつづく。ゆかが真正面に来たところで、よこから幾人かの腕が伸びてき、こちらの身体を支えた。

 かろうじて首をひねり、腕の主たちを視界に捉える。数人の男たちのなかに、子供たちの事件を担当してくれた刑事、吉田の顔があり、冷めた目でこちらをじっと見下ろしている。




第四章【潰れたり、ぴたり、すくわれたり】



 電車に乗ると、車窓に映しだされるニュースに目が留まった。

 使用停止された医療用ナノマシンの安全性が確認され、国会が再使用を許可したという。ナノマシンの暴走が発覚してからまだひと月も経っていない。判断が早すぎる気がする。反面、早急に下された判断はもっともだと思うきもちもある。

 ナノマシン療法によって生活の基盤を支えられていた者たちは、思いのほか多い。かつて難病とされていた病も、常用的にナノマシンを体内に取り込むことで、風邪にかかった程度の手軽さで、病の苦しみから逃れることができる。健常者にしてみても、仮に手術をしなければならないほどの怪我を負ったとき、ナノマシン療法を駆使すれば完治とまではいかないにしても数日の入院で日常生活に戻ることが可能だ。

 誰もが医療用ナノマシンを使用することで、健常者としての生活を安全に送ることができる。それを廃止しようなどという意見は、どれほど正当性を主張したところでそうは問屋が卸さないだろう。

 この国にある正義とは、日常の継続にこそある。幸福とは何かと問うことを許さない飽くなき便宜への追及こそが、大多数の抱くしあわせの正体だ。手に入れた便宜を手放すことは悪以外の何物でもない。たとえそれが自分たちの日常を狂わせる悪魔を宿していたとしても、素知らぬ顔をして日常の継続を望む。

 それを責めることはじぶんにはできない。

 富義は手のひらを見つめ、生命線の長さにちっぽけな安寧を見出す。

 

 息子と娘はすでに退院しており、この時間帯はまだ児童館にいる。なぜか会社はこれまでどおりの通常運行をしており、一連の事件に対する処罰はもとより警察からの圧力さえない。

 ひと月前、医療用ナノマシンの暴走が発覚したのとほぼ同時刻、人工知能「エイリとアン」が突如としてネットワーク上から姿を消し、その数時間後、彼女たちの頭脳足り得るサーバが機能を停止した。人工知能の頭脳の在り処は国家機密である。システムが根こそぎネットワーク上にある架空のサーバに転移され、さらには物理的にサーバの機能停止に追いやられた。これは明確なテロ行為である。同時に国家を支えるネットワークシステムの中枢がこれほど容易く陥落させられたことなど公表できようはずもなく、政府はその事実をひた隠しにした。

 サイバーテロが会社を経由して行われたことは調べればすぐに判っただろう。それでも会社を潰すことが政府にはできなかった。人工知能「エイリとアン」の復旧に尽力することを条件に、会社は事実上、刑事告発の免責を得た。

 病院のエレベータを降りる。あと何回このエレベータに乗らなければならないのだろう。

 廊下を抜けると、目当ての病室に行き着く。

 医療用ナノマシンの暴走は、人工知能の精神とも呼ぶべきソフトの韜晦によりはじまり、サーバの機能停止と共に収束を迎えた。命令系統を見失ったナノマシンが断片的な信号をキャッチして暴走したわけだが、同時に命令系統が停止したことにより、ナノマシンの活動も停止した。

 医療用ナノマシンによる暴走被害――集団発狂事件の被害者たちは、意識を取り戻し、一般の医療施設で各々医療用ナノマシンの代わりになる治療を受けている。目立った後遺症はなく、暴走時に負った傷もひと月経った今では、信じられないほどの見舞金を生みだす打ち出の小槌となっている。

 だが問題は、会社が密かに開発していた新型ナノマシンを身体に適用されていた者たちだ。

 植木をはじめ、会社の幹部たちはこぞって意識を失ったまま目覚めない。逆説的に、意識を失った者たちは会社の裏事業に何らかの形で携わっていたということになるのだが、警察がそのことに無関心を貫いている以上、それが判ったところでどうにもならない。

 病室の敷居をまたぐ。

 妻がベッドで眠っている。窓を開け放ち、花瓶の水を容れ替える。

 日差しは暖かいが風はまだ冷たい。

「寒かったら言ってくれ。すぐに閉めるから」

 返事など期待していない。そのくせ声をかけずにはいられない。

 あの日、吉田刑事たちに拘束された富義はその場で鎮静剤を打たれ、目覚めるとベッドに寝かされていた。病院ではないことは窓にはめ込まれた鉄格子を見て判った。気絶していてばかりだなとうんざりしたのを憶えている。死神を殴ったときに痛めた手が治療されており、ゆびが動かせるように特殊なギプスで固められていた。

 目覚めた知らせを受けたのか、別室で監視していたのか、部屋に吉田刑事が入ってきた。ベッドのよこにパイプ椅子を開き、座った。

「体調はどうです」

「最高ですね。天国にでも行けそうです」

「それはいい」

 皮肉を口にする元気があると見做したのか、吉田刑事はフィルム状のメディア端末を取りだした。

「これを観てください」

 いくつかの映像が流される。工場の一画を映したもののようだ。監視カメラの映像だろう。

「これが何です」

「次はこちらを」

 もういちど同じ映像が流される。こんどはそこに人影が現れた。脳裡に波紋が生じ、喚起されたように記憶がよみがえる。映像のなかにいるのはじぶんだ。

「最初にお見せしたモノは、あなたからの通報を受けてすぐに我々がサーバを介して取り寄せた映像でしてね。なぜかそこにはあなたの姿がなかった。通報はあなたからのデマカセかとも疑いましたが、しかし現場に到着した捜査員たちが徴収した映像にはあなたの姿がしっかり映されておりました」

 黙って話のつづきを待つ。吉田は煙草を取りだし、吸ってもよろしいですかな、とライターを探しながら言った。

「現在この国に映像の編集を規制する法律はないんですな。裁判に必要な証拠や遺留品など、犯人を立証するための情報を偽装することは罰せられるのですがね、事件を事件だと実証するための情報が偽られていた場合、そもそも法を適用する土台にその事案を載せることができないんですよ。事件を事件化できないんですな。言っている意味、お解りになられますか」

「事件が発覚しなければ事件が起きていないのと同じ、という意味ですか」

「おおむねその解釈でよろしいでしょう。が、ここで重要なのは、明らかに事件が起きているにも拘わらず、それを実証できない点にある。事件化すべき警察が、事件の無効化に一役かってしまっている」

「と言いますと?」吉田の口ぶりはどこか、警察機構に懐疑的な印象を持たせる。

「あなたには薬物および向精新薬取締法違反、脱税、横領、それから住居不法侵入など十数件の犯罪行為の嫌疑がかけられております」

「私なんかより」ひざに拳を叩きつけている。「逮捕しなきゃならない人物がほかにいるでしょう」

「そうなんですな。あなたはハメられた。ワタシはそう考えております。だが証拠がない。工場の監視カメラは記録媒体が未だにVHSでしてね。ビデオというアナログだったことがさいわいし、こうして現実と虚構との歪みを照らしあわせることができたわけですが。しかしあなたがお勤めの会社、ワタシはそこがクロだと睨んでおるのですが、しかしそこを含め、いまやどこの監視映像もデジタル式で記録されておりますでしょう。サーバに集められた映像だけでなく、元の記録媒体まで書き換えられていたのでは、こちらも手の打ちようがないんですな」

「だけどあなたは立件しようとしている。闇に葬られている数々の犯罪を。そうなんですね」

 私を助けてくれるのですね、と暗に問う。神どころか足に縋りつく思いだ。

「あなたを助けることはできませんな。ワタシにそのような特権はない。せいぜいが、あなたに掛けられた罪状を取り下げることくらいが関の山で。それであなたのご家族が元の生活に戻れる保証はない。じつは元々公安の人間でしてね。ワタシがですよ。左遷され、今では刑事課の末端構成員ですがね。数年前に人工知能の欠陥に関する警鐘を鳴らした人物がおったのですが、何者かによって消されましてね。ワタシの目のまえでですよ。表向きは事故死扱いでしたが、ワタシだけが知っている。あれはれっきとした殺人だ。しかし黙殺された。闇に葬ったのはほかでもない公安ですよ。ワタシは警察を去ろうとしたが、それすらできず、今や刑事として監視の檻に入れられたわけでしてね。人工知能がこの国の中枢を担うと決まってからは、ワタシの危惧は次々に現実のものとなっていった。あなたの巻きこまれているコレは、もう何年も前からその片鱗をみせ、各所で不協和音を奏でていた――船の軋むような嫌な音ですよ。この国は今や瀬戸際に立たされている。沈没する一歩手前です。それが今回の一件で、大きく傾いてしまった。これは相手側にとって不測の事態、予想外の痛手となったでしょう。同時に我々にとっても無視できない被害を甚大にもたらした。だが双方が動きを封じられた今がゆいいつ挽回できる好機なんですよ。人工知能の消失、これは大きな分水嶺となる逃しがたい契機なのです」

「私にできることがあるのなら」

 自然と口から零れ落ちている。吉田刑事の口調から、これは取引なのだと考えた。「私にもチャンスを。挽回する自由をください」

「ワタシは一警察官にすぎんのですわ」吉田刑事は弱々しく首を振った。「公安ですら調査対象を見失っている。今やこの国に右も左もない。どちらも同じ意味を持ち、いずれにせよ同じ事態を引き起こす。二本の導火線のどちらに火がついたとしても、行き着く先は同じなんですわ。既存の完成されたシステムを重んじ、愛国を謳う連中も、変革を求め、そとから新たな息吹を運ぼうと抗う連中も、けっきょくは時代の移り変わりによって真逆の名を得ているにすぎんのですよ。変革を経た国にかつてのシステムを求めればそれもまた変革者であり、変革を経た国に満足し肯定すれば、それは保守的な愛国者となる。そこに働く勢力は、中身が変わっただけで、構造自体に変わりはない。重要なのは、ふたつの勢力のうちどちらが優勢になろうとも、この国の行き着くところが同じだということです。解りますでしょう。民主主義を掲げたはずのこの国は、今や大企業の拡大によって経済を立て直そうとする社会主義的な働きを活発化させている。他方で市民の平等を求め、福祉の充実や貧富の差を失くそうと声を荒らげる民衆は、意図せずに共産主義という一つの思想に染まり――染まっていながらに、強者を弱者へ引きずりおろそうとする資本主義的な働きを見せはじめている。かつてこの国には士農工商という風習があったのはご存じでしょう。それが時代の変革と共に、市民平等へと移行し、なぜかかつて身分の低かった商人が事実上の権力者となり得ている。時代が変遷し、図式もまた変わったが、中身の構造はそのままだ。強者がいて、弱者がいる。たとえこのさき、民主主義が栄えようと社会主義に移行しようと、資本主義が蔓延しようと共産主義が台頭しようと、世界の構造はなんら変化なく、ある一点へと向かい、収束していく」

 そのために必要な段階が、人工知能による社会システムの構築だったというわけですわ。

 くゆらせていた煙ごと吉田刑事は煙草を携帯灰皿に押し込んだ。

 死神の話よりも荒唐無稽に思えたが、どういうわけか疑問は湧かない。現状引き起きている事態を考えればむしろ、これくらい壮大な話でないと困るようにさえ感じた。壮大すぎて呑みこむのに苦労する。

「収束したさきには何が?」話の結論を求める。

「それを教えるわけにはいかんのですわ。だが世界はその方向へ動いていく。これは変えられない流れなんですな」

「なら、何のために吉田さんは」

「問題なのは」こちらの声を遮り吉田刑事は、「〝奴ら〟が、強引にその流れを加速させようとしていることにある」と述べた。「監視すべきは革命家ではなく、奴ら、改ざん家でしてね。表舞台にはけっして姿を現さない陰の立役者。奴らは歴史を変え、事実をねつ造し、現実をも歪めて、知らず知らずのうちに国民に悪行を背負わせる。自分たちのつくっている歯車がいったい何を構成するピースなのかを国民は知らないままでいる。疑問さえ持たずに、きょだいな悪の化身を国全体でつくりあげようとしている。我々は奴らを【縁の下のチカラ持ち】、通称【黒衣(こくい)】と呼んでおりましてね。奴らはピラミッドの地下に自分たちの楽園を築こうとしている。地下はピラミッドを支えるためにあるのではない。ピラミッドが地下を形成し、そして外部の目から地下を守っている。警察機構もそのピラミッドを形成する一ブロックにすぎんのですわ。地下に対抗するにはこちらも同様に地下に潜る必要がある。だが我々はすでにピラミッドに組み込まれてしまっている。抜ければ穴があき、即座にこちらの動向が知れ渡るでしょう。よって我々が具体的に動きを起こすわけにはいかない」

 そこであなたの力を借りたいというわけですわ、と吉田刑事はまっすぐな目を向けた。

「あなたにかかった罪状はすべてこちらで何とかしましょう。奴らの行おうとしたことは、人工知能の消失によって、大きな変更を余儀なくされたはず。あなたに罪を着せ会社を畳むわけにはいかなくなったわけですな。会社が失われれば、人工知能の復興は見込めない。頭脳の抜けたネットワークを機能させるためには、蜜雨さん、あなたのところの会社にあるノウハウ、それこそ膨大なサーバそのものが必要だ。あなたという人材も、今や会社にとっては手放しがたい戦力であることに変わりはないでしょう」

「何食わぬ顔で会社に勤めろと?」

「さいわいにも経営陣の多くは昨晩の全国的に発生した謎の集団発狂の当事者です。なぜか彼らだけは事態の収束した現在も意識不明のまま病院で治療を受けております。が、こちらとしては都合がいい」

「そうだ、妻は?」

 妻は無事なのか、と目頭が熱くなる。

「奥さんもまた精密検査を受けているようですな。意識は戻っておらんという話です」

 息を呑む。

 状況は把握できた。要するに、あのとき部長室でエンターキィを押してしまったじぶんがこんな事態を引き起こしてしまったのだ。「エイリとアン」のサーバがダウンした原因は謎だが、おそらくはリオがそれを行ったのだろう。死神の持っていた鍵は、人工知能のサーバに物理的に干渉するために必要なパンドラの箱の鍵だったに違いない。

「協力していただけますかな」

 悩むことは許されないのだと思った。

「分かりました。是非とも協力させてください」

 差しだされた吉田刑事の手を握る。細いゆびだ。薬指にはマリッジリングがはまっている。吉田刑事の凛々しい顔を眺め、このひとにも旦那さんがいるのか、と場違いな思いを巡らせる。おやじ臭い話し方をしていたので、彼女は独身なのだとかってに決めつけていた。

 

 吉田刑事の唇に塗られた口紅の赤さを思いだしながら、ベッドにある妻の寝顔を眺める。妻の唇に赤いラインの塗られる日はふたたび訪れるのだろうか。

 肌寒く感じ、病室の窓を閉める。となりの公園から聞こえていた児童たちの無邪気な声が消えた。

 吉田刑事と取引を交わしてからひと月あまりが経つ。彼女の話どおり、富義は何事もなく社会に溶けこんだ。それはまさしく砂糖が水に溶けるような具合で、社会復帰や社会に戻る、といった旅の終わりを思わせるものではなく、敵陣へ紛れこんだ隠者のような、異物が何食わぬ顔で紛れこむといった息苦しさを覚えさせた。これから長らくつづくだろう潜伏活動を思い、さらに胃が重くなる。

 会社は行政からの指示で人工知能の復旧に取り掛かっており、並行して、消失した頭脳を補完するための様々な取り組みに翻弄されている。元から役職に就いていた者たちはみな昇格した。役員たちがこぞって入院し、事実上の解任を余儀なくされているためだ。富義もまた例外ではなかったが、実際には肩書だけの昇格であり、やっていることは以前となんら変わりない。外部から人材を確保することが困難だったようで、実際には人員削減がなされただけである。

 少数精鋭部隊だ、と取締役に就任した部長が口にしていた。新たな門出をみなで乗り切ろうではないか。何も知らない彼らは、目のまえに現れた隘路を試練と捉え、前向きに仕事に取り組んでいる。

 しあわせなひとたちだ。うらやましくさえ思う。

 解っている。

 知らないことがしあわせなのではない。知っているからこそ、それがしあわせに見えるだけのことで。

 製紙工場を装った神経系干渉剤の製造工場は封鎖された。新型ナノマシンはもう製造できない。仮にほかの場所で製造されていたとしても、工場から押収したさまざまな設備から、ワクチンに値する治療用ナノマシンが開発されていくはずだ。もはや脅威にはなりえない。

 リオの行方は杳として知れない。表向きリオは退社扱いされ、事件との関わりもないものとして処理されている。だが吉田刑事には、こちらの体験した唾棄すべき痴態の数々を赤裸々に語ってある。リオが事件に一枚も二枚も噛んでいたことは、ことさらつよく訴えなくとも伝わっただろう。吉田刑事は独自にかれを追っている。

 夕陽が差しこみ、妻の顔を照らしている。眩しそうだなと思い、カーテンを閉めに歩く。ふと窓のそとを見遣ると、眼下の公園が視界に入った。長く伸びる木々の影に並ぶように、一つの影がこちらを向いている。

 心臓が跳ねた。

 リオだ。

 目を凝らす前に直感している。

 影になっていて顔は見えないが、身体の輪郭からしてこちらを見ていると判る。窓を開け放とうとするが、落下防止のためか、かろうじて顔を出せる程度にしか開かない。声を張りあげようか迷っているうちに、リオらしき人影は公園のなかへと姿を消した。

 こちらの存在に気づいたのだろうか。そこで待つという意味だと解釈する。

 妻を病室に一人残していくのには気が引けたが、この機会を逃したらもう二度とリオと言葉を交えることはできないように感じた。病院内には警察から派遣されてきた警備員が巡回している。リオもそれは知っているだろう。だからこそ、ああして病院には入らず、そとでこちらと接触する機会を窺っていたのだ。

 念のため、すぐに戻る旨を顔見知りの看護師に伝えた。戻るまで妻の病室を気にかけてくれるよう頼んだ。患者が患者なだけに看護師も嫌な顔をせずに引き受けた。

 公園では児童たちが隠れ鬼をしている。

 なかなかに広い公園だ。学校の校庭とさほど変わらない広さがある。樹に囲まれており、敷地内も芝生で覆われている。鬼らしき児童二人が、遊具や物陰に隠れたほかの児童を探しまわっている。

 リオの姿を探したがない。公衆トイレの中も無人だ。念のため女子トイレのほうを隠れ鬼をしていた児童に見てきてもらったが、やはり誰もいないという。

 見間違いだったのだろうか。あの人影がリオではなかったと考えるよりない。

 そうでなければ何のために姿を現したのか解らなくなる。

 ベンチに腰掛け、考えを巡らせたところで、嫌な閃きを得た。

 そもそもリオという人間はいったい何を目的にこれまで動いていたのか。

 持田大金という資本家に取り入り、コネで入社し、それから間もなく部下としてこちらにすり寄ってきた。肉体関係を経て、信用を勝ち取り、付け込むようにして周囲の人間たちを快楽物質と同等の作用を持つ新型ナノマシンを用い、侵食していった。だが肝心の生贄たるこちらには新型ナノマシンを適用せず、最終的にこちらの引き起こしてしまった医療用ナノマシンの暴走という事態を収拾した。

 そもそも妻がリオの毒牙にかかる必要はあったのだろうか。

 仮にリオが吉田刑事の言うところの「黒衣」なる組織に属していたと考えればおおむねの筋は通る。死神を死神たらしめた人物もまたリオなのだろう。会社の重役たちはすでに「黒衣」の手を離れ、独自の活動をはじめていた。その契機をもたらした人物が持田大金という資本家であり、それを快く思わなかった「黒衣」が邪魔者を排除し、そのついでに会社の開発していた新型ナノマシン技術を盗用して、社会革命の計画実行を早めようとした。

 二重スパイだったと考えれば、なるほど、リオの不安定な人物像も腑に落ちる。表向きは上司と不倫関係にあるサラリーマンだが、裏では会社の陰謀を成し遂げるために暗躍する工作員。さらにその裏では、会社を転覆させ、駒として利用しようと奔走する狂犬の顔を持ち併せていた。

 周囲にいる誰もがみな敵であり、糧にすべきカモでしかなく、リオには味方とすべき人間などただの一人もいなかった。

 ではなぜ、こちらを特別視するような態度をとったのだろう。ナノマシンを適用せず、最後の最後で尻拭いをするような真似をしたのか。

 いや、かれが「黒衣」の構成員だったならば、新型ナノマシンが使用不可となったあのとき、エンターキィを押したあの瞬間にとるべき行動は、人工知能の停止意外になかったのだろう。社会革命を掲げたところで、元の社会が崩壊してしまっては元も子もない。最初に医療用ナノマシンに影響がでたが、その後、社会に根付いたネットワークは連鎖的に崩壊したはずだ。

 仮にあのときエンターキィを押さずにいたら、と考える。富義はリオに鍵を奪われ、数時間後には全国指名手配の凶悪犯として、いまごろは牢獄に入れられていた。あのときリオはこちらをハメようとしていた。

 ならば、こちらを助けたわけではけっしてない。リオはすべきことをしただけだ。

 だがやはり、なぜ新型ナノマシンをこちらに適用しなかったのか、という疑問は残る。

 会社の案じた一計により、生贄として担ぎ上げられた身としては、自由に泳がせておくよりも、薬漬けにして動けなくしてしまったほうが話は早かったのではないかと、やはりというべきか思わざるを得ない。実際、妻にはそのような処置がとられていた。植木だってそうだ。会社の重役たちだって、けっきょくのところ、被害者でしかなかったわけだ。会社の一計も、突き詰めれば「黒衣」の手のひらのうえで奏でられたワルツの一節にすぎなかったと言えるのではないか。

 リオが狂犬だったと考えれば考えるほど、謎は深まる。

 なぜ私だけ、なぜじぶんだけが例外だったのか、と。

 まだ終わっていないのではないか。

 嫌な考えが、予感となって押し寄せる。

 役目があるから壊すわけにはいかない。幕を引くために必要な人形だから、最後まで糸を断ち切るわけにはいかなかった。だから生贄として抜擢され、真相を知ったじぶんが、ただ一人、こうしてぬけぬけと地上を出歩けていられるのではないか。

 姿を現したリオを追ってここまで出てきてしまったが、冷静に考えれば、これは罠だ。

 囮に気づかずノコノコやってきたウサギとどっこいどっこい、いい勝負を演じられる。

 愚か者の極みだ。バカだ。間抜けだ。アンポンタンだ。

 飛び跳ねるようにベンチから腰を浮かし、妻の病室へと走る。

 嫌な予感とは裏腹に、リオを信じたいきもちがある。こちらを特別扱いしたのは、かれにも人並みの情というものがあったからではないか。数年というけっして短くはない期間を、それこそけっして薄くはない関わり方で接してきたのだ。当初こそこちらをただのカモとしてしか見做していなかったとして、だとしても長いあいだ寄り添っているうちに友情とも愛情とも言いがたい、手放しがたい何かが生まれていたのではないか。たとい小さな陽のぬくもりであったとしても、長いあいだ差しこみつづければ、冷たいアスファルトにだって植物は根を張り、芽生えた芽が花を咲かせることもある。

 さんざん疑っておきながらそう考えようとするじぶんの卑しさに吐き気がする。今だって心の裡ではかれを冷酷な異常者として糾弾しつづけている。

 仮面だったのだ。本質とは程遠い、分厚い化粧のような仮面をリオは被っていた。愛着を覚えたのも、慈悲をかけてやりたいと望んでいるのもすべてはその仮面へであり、それを被っていた人のカタチを成した狂犬へ向かうきもちではない。

 仮面は砕かれた。

 だが欠片くらいは残っているのではないか。

 淡い期待が胸を締めつける。

 都合の良い夢だ。これまでだってそうした夢を見ていただけではないのか。夢に縋っていてはこれまでの二の舞だ。夢から覚めた今、現実から逃れようとしてはいけない。

 受け容れなければならない。

 現実の非情さを。

 じぶんの犯した過ちを。

 病院の廊下で、顔見知りの看護師とすれ違う。妻の様子を見ていてくれと頼んだ看護師だ。

「妻は?」

「お見舞いの方がいらしたので」

 まさか、と思う。

「一人ではないので安心してください」

 向けられた笑顔に、冗談だろ、と顔から血の気が引くのを感じた。責めたいきもちに駆られたが、足はおのずと妻の病室へと動いている。

 杞憂で済んでほしい。

 この期に及んでまだ甘い期待を抱いているじぶんに気づき、あまりの情けなさに目の奥が痛くなる。

 病室の扉を開け放つと、リオの姿があった。ベッドのよこに立ち、妻の顔を覗き込んでいる。白いTシャツのうえからジャケットを羽織り、細めのデニムを穿いている。カツラだろうか、漆黒の長髪が肩に垂れている。かれの格好を見て男だと疑う者はいないだろう。

 見舞い用の花束が妻の足元に置かれている。妻はリオに手を取られる格好で眠っている。

 リオのもう片方の手には注射器が握られている。

 時間が止まったような錯覚に陥る。突き落とされたような衝撃がある。

 こちらに背を向けているリオだが、扉の位置からはその横顔を見てとることができた。

 慈愛を籠めた笑みで注射器を妻の腕に押しあてている。

 戦慄した。

 暗がりの一室、工場の地下で植木が妻に注射針を押しあてた場面と重なる。

 あのときの植木も、今のリオと同じように、穏やかな顔で悪魔のような所業を行った。

 こいつらは人ではないのだ。

 感覚的に理解した。

 勃然と湧いた感情の名に心当たりはない。これまで抱いたことのない空白を感じた。

 気づくとリオに飛びかかっている。半端に握った拳で、体勢を崩しながら、殴りかかる。意思と肉体の連携がうまく取れない。咄嗟に行えたせめてもの、反逆だ。

 こちらの存在に気づいたリオはしかし、避けきれなかったのか、大ぶりに放たれた拳をこめかみのあたりで受けた。

 拳よりもひじに衝撃が加わる。絡み合うようにして倒れる。反撃の隙を与えない。馬乗りになって顔面を殴りつける。ひと月前に痛めた手は、ギプスが取れたばかりでまだうまく力が入らない。甘噛みのようにゆるゆるの拳でさらに打撃を繰りかえす。

 一発、二発、三発。

 四発目で寝返りを打たれ、逃げられる。

 すかさず追撃を加えようと態勢を整えるが、リオはすでに扉のまえまで移動している。

「ころしてやる」

 言葉として成立したか分からない。唸るように叫んでいる。ころしてやる。おまえの口に、おまえのおまえをねじこんでやる。凶悪な感情が口から、それこそ邪悪なケモノのカタチをとって飛びだしそうだ。

 リオは何事かを口にしかけた。唇を噛みしめるようにし、それからなぜかこちらに微笑みかけた。今にも泣きだしそうな儚い微笑に、ふしぎと子供たちの姿が重なった。

 胸の裡をぱっつんぱっつんに満たしていた圧縮されたナニカが、急速に萎んでいくのを感じた。膨らんだ風船に針の穴が開いたような喪失感がある。

 ごめんなさい。

 そう聞こえた気がした。風が抜けていくように長髪が扉の間隙に吸いこまれていく。扉が閉じる。

 乱れた脈拍が耳の奥でのた打ち回っており、しばらくその雷鳴のような鼓動を聞いた。

 勢いよく扉が開き、こんどは一転、ナースたちが飛びこんでくる。放心していたつもりだったが、いつの間にかナースコールボタンを握っていた。そばには私服姿の警備員の姿もある。病院を見張るために警察から派遣された者たちだ。大方、血相を変えて病室に向かったこちらを怪訝に思い、ナースが声をかけていたのだろう。

 何があったのかと問われたが、説明するよりもさきに妻の容態を診てくれるよう頼んだ。何者かが毒物を注入したかもしれない。しどろもどろに説明しはじめたときには医師が駆けつけ、病室のそとに追いやられた。追いだされる間際、妻に繋がっていた医療機器が、その側面にあるシグナルを慌ただしく明滅させていた。

 別室に連れて行かれた。わざと病室から遠ざけるような誘導の仕方に、妻を案じるきもちが高まる。調書をとられたが、ここまできてもリオの名を出すか迷っているじぶんに失望する。応援を呼んだのか、数人の刑事が到着し、さらに同じ説明を繰りかえした。

 途中幾度も妻の容態を訊いた。まだ治療中です、と返事はどれも同じだった。

 夜になり、調書から解放され、一時帰宅を許された。警護班を手配してくれたという話で、子供たちの無事は判明している。だが心配なことに変わりはなく、家に戻ることにした。

 夜中だったが、子供たちを妻の実家に連れて行き、数日のあいだ預かってくれるよう頼んだ。病院であったことは話さずにおく。嘘を吐くことも、本当のことを話すことも億劫だった。妻の容態が悪化し、しばらく罹りきりになりそうだと伝えた。面会謝絶だと言っておいたのでしばらくは誰も見舞いにはこないだろう。

 病院に戻ると、妻は病室に戻されていた。てっきり集中治療室に運ばれているものかと思っていたので拍子抜けする。

 医師に呼ばれ、説明を受けた。

「驚きましたよ」

 開口一番に医師は言った。聞けば、脳波の数値に著しい変化が起きており、それは回復の兆しを示すものだという。これまでは深い睡眠時に見られる脳波にちかかったらしく、それは停止ではなく脳の休止を示していた。停止を示す植物状態とは一線を画すものであったにしろ、だからこそ、なぜ目を覚まさないのかが不明であり、治療の仕様がないと説明を受けていたが、騒ぎがあった本日、再検査してみたところ、脳波が夢を見ているときの状態にみられるレム睡眠時にちかい特徴をみせており、これはスイッチがオフからオンに切り替わったことを示していると判りやすく教えられた。

「あまり期待させてしまうようなことを言うのも何ですが、もうじき目覚められるのではないかと」

 医師はそう言って、これから行う治療の具体的な説明に移った。

 しょうじき期待はしていなかった。

 落胆したくない。裏切られるのはたくさんだという思いが、グランドを整備する野球少年たちのように、感情に芽生えようとする起伏を片っ端からなだらかに削り取っていく。

 翌朝いちばんで妻の病室を訪れた。いつものように窓を開け放ち、空気を入れ替える。

 公園ではラジオ体操をしている老人たちの集団がある。ジオラマを覗き込むように眺めていると、

「寒い」

 部下の失態を咎めるような棘のある言い方に、ああすまない、と反射的に窓を閉じている。静けさの戻った部屋で、はっとした。

「ねぇ、ここどこ。やだ、なんなのこれぇ」

 身体中から生えたチューブをおっかなびっくりつまみあげている妻の姿があった。服についた毛虫を嫌がるような口調に、懐かしさを覚える。それから寒気にも似た痺れが胸の奥を中心に発生し、蟻の群れのように肌の表面をまんべんなく伝った。

 脳髄にまで行きわたった痺れは最後に、目頭に到達し、ただただぎゅうと熱をちいさく籠らせた。

「もうやだ、眩しい。カーテン閉めて」

 腕が痛い。喉が渇いた。水ちょうだい。起こして。

 表面に浮いた灰汁を手当たり次第にすくいとるのに似た手際の良さで、妻はつぎつぎと不平を並べていく。体調を崩し寝込んだとき、意識が朦朧としながら妻はよくこうして幼児退行し、駄々を捏ねた。

 ねえ、よっちゃん。聞いてる?

 慣れない粉クスリを勢いよく飲んだときのように妻は咳きこみ、そして言った。

「わたし、お腹ぺこぺこ。シチュー食べたい」

「ああ」

 よろよろと歩み寄る。富義は妻を抱き起すようにし、こちらをきょとんと見上げる無垢な顔をそっと両手で包みこむ。「いくらでも作ってあげるよ」


 目覚めてから三日後には精密検査が終わり、その二日後のきょう、妻は退院した。ナノマシン治療の行えない現在、それはきっと奇跡のように映るのだろう、驚くべき回復ですよ、と医師が興奮気味に語っていた。

 だが、医師たちは知らない。妻の身体には活動を停止したナノマシンが埋もれていたことを。それが脳内で支障となって意識の目覚めを妨げており、それらナノマシンを除去するためには、同様に脳関門を突破できる機構の新型ナノマシンが必要だったということを医師はもとより、ほかの誰も知らなかった。

 妻は記憶障害を患った。

 事件に関する部分が根こそぎ失われていた。後遺症だと医師は語ったが、切り取られたような不自然な紛失の仕方をしていた。

 病院をあとにし、妻の車椅子を押しながら子供たちの待つマンションへ入っていく。

「あんまり久しぶりって感じがしないのよね」

 ひと月以上も昏睡状態だったことを説明してはいたが、妻にその実感はないようだ。

 彼女の記憶では、誰かと会うために家を出て、その途中で意識が途切れた。気づくと病室のベッドで眠っており、目覚めた途端にこちらが取り乱して泣きだした。瞬間移動にも似た、違和感満載の顛末が現実として認識されているようだった。

 玄関を開けると妻の両親が出迎えた。子供たちは妻の姿を見て、最初は戸惑いがちに立ち尽くした。祖父母の足にしがみ付き、それからこちらに許可を乞うような眼差しを注いでから、ゆっくりと妻の許へ歩み寄った。

 妻は泣いていた。記憶が戻ったのかと案じたが、子供たちの表情から、彼らが自分の知らないところで、恐ろしい目に遭ったのだという負の気配を感じ取ったのだろう。事件についての概要は聞かせていた。子供たちが無事な旨も伝えてある。だが妻自身がその渦中に身を投じ、駒を回す軸の役割を果たしていた事実は伏せていた。

「わたしのせいなんでしょ」

 子供たちを寝かしつけ、しばらく経ってから妻は居間に戻ってきた。「あのコたち、怯えてた。わたしを見て、怖がってた。ねえ、よっちゃん。わたし、あのコたちに何したの」

「何もしてないよ」

 そう言うよりない。実際、妻が子供たちに何をしたのかは詳らかではない。植木の手により人格を破たんさせられていたことは確かだが、子供たちを連れ去り、怪我を負わせた者が誰なのか、それは推測の域を出ていない。リオは、植木がそれをすべて行った、と言ったが、かれの証言にいったいどれだけの信憑性があるだろう。妻がすべてを行っていたとして、それを否定する憑拠はどこにもない。

「思いつめないでくれ。きみがそんな顔をしていたら、子供たちまで塞ぎこんでしまう」

「でも」

「子供たちを助けようとして、巻き込まれただけなんだから。わるいのはすべて犯人で、ママはわるくないよ」

「ほんと?」

 目を離すわけにはいかない。台所で水の滴る音がする。

「きょうはもうお休み。あすからは家事をやってもらわないと」

「まだろくに歩けないのに」

「リハビリにも通わなきゃ」台所まで行き、緩んでいた蛇口を締める。

「誰か送り迎いしてくれないかなぁ」

「してあげたいけど……」

「分かってる。言ってみただけ」

 妻は両手を突きだし、ベッドまで運んでとねだった。妻の身体は軽く、首に回されたうでの力は弱々しい。落としてしまわないように慎重に運んだ。

「よっちゃんは寝ないの?」枕の位置を整えながら妻は言った。

「片付けなきゃならない仕事があってね」

「無理しないでね」

「ああ」

 部屋を出て行こうとすると妻に呼び止められた。「よっちゃん」

「なに」

「ううん。なんでもない」

「おやすみ」

「ねえ」

「ん?」

「楽しみにしてるからね」

「ん?」

「シチュー。楽しみにしてる」

「ああ。あすの夜にごちそうするよ。期待してて」

 にっ、と笑い、妻は毛布にくるまった。うでにはこちらの枕が抱かれている。

 

 ソファに深く腰掛け、缶ビールを開ける。

 片づけなければならない仕事などなかった。あるのは考えなければならない事案だけだ。

 いや、考えなければならない、という義務はない。考えておかなければ気が済まない、という据わりのわるさがあるだけだ。

 妻が目覚めた理由は明白だ。新型ナノマシンが投与され、脳の活動を邪魔していたナノマシンが除去されたからに相違ない。脳に残留したナノマシンを除去する技術はないと死神は言っていたが、あれは「エイリとアン」が正常に機能しているかぎり、という限定付きだったのではなかったか。「エイリとアン」亡きいま、活動の停止したナノマシンならば除去可能なのかもしれない。或いは、新型ナノマシンが脳みそと同化し、脳のカタチそのものを変えることで精神に干渉する機構であったならば、同じように変質した脳を元の正常なカタチに戻すことで、意識をふたたび活動再開させられるのではないか。

 昏睡状態だった妻が目覚めた、という結論と、その昏睡状態の原因が不明だったという背景、そして目覚めるにあたって契機となった事柄を結びつけると見えてくる筋書きが、それしかない。

 だとすると導かれる答が一つある。

 リオは、昏睡状態に陥った妻を助けるため、病院にまでやってきた。変装していたということは、咎人として追われていると理解しているのだろう。それでもなお妻のために駆けつけた。

 そこにはいったいどんな事情があったのだろう。

 事情でなければ、心情でもいい。リオはいったいどんなきもちで、そうした行動をとったのか。

 妻を助けてかれに何か具体的な利があるだろうか。いちどは自分の手で廃人にまでした女だ。直接手をくださなかったとはいえ、意図してそうなるように仕向けたのではなかったか。

 妻が目覚めて得をする人物を考える。いくら考えてもそれは身内以外に思いつかない。世界で一番じぶんがよろこんでいるとさえ思える。

 リオは妻が目覚めてよろこんだだろうか。そういうふうには見えなかった。注射器を片手にベッドに横たわる妻を見下ろすリオの顔は、眠れる森の姫を救おうと苦心にまみれて戦う王子さまの葛藤とは程遠い、聖母のような慈愛に満ちていた。あれは愛おしいひとを取り戻そうとする姿ではなく、戦争を終わらせるために核弾頭のスイッチを押すのにも似た、ふっきれた顔だ。

 ほんとうは妻を目覚めさせたくなどなかったのではないか。それでもそうすることがもっとも納得のいく筋書きだと達観していただけなのではないか。

 なぜじぶんはそのように考えるのだろう。

 なぜじぶんは、そのように考えていながら、そのさきを考えようとしないのだろう。

 解っている。これらはすべて推論だ。それもとびっきり願望にちかいこじつけにすぎない。

 だが、もっとも考えたくない答が、そのこじつけのさきに広がっていることを半ば自覚的に予感している。

 だから考えない。考えたくない。

 それがはなはだ本質にちかい、真意を突いているから。

 リオは守ろうとした。

 大いなる目的のために払うべきちいさな犠牲を、その身を挺して庇ってくれた。ちいさな犠牲が犠牲にならずに済むように、その人生が脆くも崩れ去ってしまわないようにと、本来、放っておくべき捨て駒にまで慈悲をかけて。

 大いなる目的を掲げた大いなる影は、そんなかれをきっと赦さない。忠実なる狂犬が、飼い主のもとを離れ、ただの狂犬となり果てることなど見過ごすはずがないのだ。

 縁の下の力持ちは、まっすぐな柱の存在があってはじめて家を支えられる。まがった柱など、無用を越して害悪だ、排除されるのがオチだろう。

 ころしてやると言った。かれのきもちを推し量ることなく、満腔の殺意を籠め、富義はかれに言った。

 ころしてやる。

 いったいじぶんは何をしてあげただろう。

 何を狂わせ、いくつの傷をつけただろう。

 ちいさなその身に背負った、計り知れない罪の重さを鑑みることなく、考えることさえなく、かれの苦悩を知ろうともせずに、いつだってじぶんのことばかり考え、そしてたいせつなひとを守ろうともがいた気になっていた。

 最後だった。最後の最後で振り絞るような声でかれは言った。

 ごめんなさい、と。

 妻を助けたそれが決意で、こちらを庇ったそれが答えで。

 たいせつだから、失いたくないから。

 生きてほしくて、笑ってほしくて、おだやかに、しあわせに、家族と共に歩んでほしい。

 自分ではなく。

 家族と共に。

 

 ごめんなさい。

 

 確かに聞いた気がした。なんのための謝罪だっただろう。

 飲みかけの缶ビールを握りつぶしている。溢れでたビールが絨毯にシミをつくる。

 かれはきっと、解っていたのだ。

 妻が目覚め、ふたたび日常が舞い戻り、家族が家族として機能しだしたとき、必ずこちらが気づくだろうと。

 深い後悔に身を切り裂かれ、深い苦しみに身をやつすことになると、かれはきっと気づいていた。

 だからかれは言ったのだ。

 ごめんなさい、と。

 あなたを傷つけて、ごめんなさい、と。

 泣き出しそうな顔で、それでもめいいっぱい別れにふさわしい顔をつくろうと微笑んで。

「ころしてやる」

 絞りだすように零した悪態は、足元のシミに落ちた。

 一つ、二つ、三つ、四つ。

 海に落ちる雨粒のように、それらは止めどなく溢れ、順繰りとシミに同化する。


「どうかしたの?」

 返事がないことを不審に思ったのか、妻が言った。紙コップにお茶を注ぎ、手渡してくる。

「さいきんぼうっとしてるよ。お仕事、たいへんなの?」

 休日に子供たちを連れ、自然公園にやってきた。春うららかな陽射しが暖かく、子供たちは蝶を追いかけまわしている。雪にはしゃぐ子犬を思わせる姿に、自然と頬がほころぶ。

「こんなに心休まる休日はいつ以来だろう、と考えていただけだよ」

「ふうん。ならいいんだけどね」

 妻に心配をかけるようではだめだなと思い直し、子供たちのもとへ突っ込んでいく。

 吉田刑事から連絡がこなくなったのがふた月前のことになる。月に一度の割合で定期的にやりとりをしていた。連絡が突然途絶えたことを不審に思い、警察署を訪れたのがおとといだ。そこで吉田刑事が行方不明になっていることを知った。

「事件に巻き込まれた可能性も含め、目下捜索中です」

 ひと一人が、それも国家機関に従事する人間が蒸発したというのに、対応はじつにそっけないものだった。本当に調査がなされているのだろうか。不信感のみが募る。

 闇に葬られた事件を掘り返すような真似をしていたから消されたのではないか。そう考えてしまうのは行き過ぎた妄想だろうか。今のところこれといってこちらの私生活に何か不穏な気配が忍び寄っているという感じはしない。だが、これまでだってそうした気配を感じることなく、気づけば渦中に放り込まれていた。

 また何か引き起きるのではないか。

 薄明りのなか天井を見つめ、妻の寝息を聞きながら考えた。

 神経はすり減り、この三日、ろくに眠れない日がつづいた。

 不安があるのと同じだけ、ほっと一息つくのにも似た安らかさがある。完全に日常に戻ることができたのではないのか。吉田刑事が消息を絶ったことで、ようやく過去の影から解き放たれたという思いがある。

 いったいいつまで過去のしがらみを引きずりつづけなければならないのか。

 苛立ちめいた不満を抱きはじめていた矢先に、吉田刑事が消え、会社の動向を逐一報告するという義務から解放された。会社のトップは軒並み変わり、事実上、まっとうな企業に生まれ変わったと言ってよい。企業スパイを働いているようで精神的な苦痛を覚えはじめていた。

 企業を駒とし、社会を再構築しようとする流れが、いまもなお漠然と社会を覆っていたとして、しかしそれは一つの企業を監視すれば済むという話ではないはずだ。遠く宇宙から見下ろすような俯瞰の視点で歴史の絵巻物を眺めるのにも似た慧眼を持たなければならない。果たしてじぶんのしていることは、その慧眼のお眼鏡に叶う役割を果たしているだろうか。吉田刑事とのやり取りからは、そうした疑念が一枚一枚薄皮を重ねて作り上げるミルフィーユのように嵩んでいった。

 ほっとした。

 一言であらわせば、そうした感応が胸のうちを満たしつつある。吉田刑事の失踪を知ったのは三日前だがそもそも吉田刑事はひと月も前から姿を消していたという。こちらに危機が迫っているとすれば、すでになんらかの兆候が見えていてもおかしくはない。だがそうした兆候は見られない。

 子供たちがボールを蹴りだしたので、三角形になってボールを回す。

 臆病なじぶんが警鐘を鳴らす。不安を打ち消そうと試みているだけではないのか。

 耳を傾けたくない。

 もういいだろう。

 社会がこのさきどうなろうと、人々が生きやすい世の中になるならば、それを阻むのは間違っている。面倒なだけだと言えば、そのとおりだ。たとい四六時中誰かに監視されようとも、みな同じ境遇ならば、それもいいだろう。安全を保つために必要ならば、それくらいの譲歩はやぶさかではない。さいあく、不利益を被っていると気づかせてくれないような配慮がなされているならば、誰にどれほど搾取されようと、誰に何を支配されていようと、構わない。

 ただしずかに暮らし、家族に囲まれながらおだやかな人生に幕を下ろしたい。

 日常の崩壊を体験した身からすれば、それが嘘偽りのない、しかし無責任な願いである。

 願いとはどうあっても無責任なものだろう。願うだけならば誰の許可もいらない。本当の自由とは、そんな慎ましさにこそ宿るものだ。

 ならばそれを願うことのなにがわるいだろう。

 巨大な流れに抗い、一石を投じようとすることに、疲れ果ててしまった。

 たとえ間違っていようと、それが大多数の支持を得て、巨大な流れを構築したならば、それに抗うことのほうが間違っているように感じる。

 すくなくとも生きにくいだろう。さきほどの願いを引き合いにだすならば、自殺行為と言っていい。棒に振るという言葉があるが、文字通り、巨大な流れを止めようとして突き立てた棒は、造作もなく流されるだろう。抗っているあいだ、途方もない負担を強いられ、けっかやはり流される。ならば最初から流されておくのが得策ではないか。

 こうした怠惰な考えを持つ人間が大勢いて、いまの社会が成り立っている。不満を垂れ流しながら誰もがその境遇を変えようとせず、現状に甘んじる生活を送っている。

 辛抱づよいのだ。忍耐だ。

 耐え忍ぶ者にのみ社会の恩恵は回ってくる。耐え忍んでも恩恵にあやかれないならばそれは問題だが、すくなくともこちらはまだ辛抱できる状態にある。他人の奇禍に手を施せるほどの余裕はない。だからこそ、精いっぱい、無責任な日常を満喫するよりないのではないか。

 考え事をしながら蹴ったのがわるいのか、ボールがあらぬ方向へ飛んでいった。

 息子がボールを追いかける。その先にはベンチに座った男女の姿がある。男が立ち上がり、ボールを蹴り返すが、ボールはへそを曲げたようにあさっての方向へ飛んでいく。善意を働こうとして裏目に出たことを恥じたのか、男がぺこぺこと頭を下げる。息子がボールを追いかける。富義は頭を下げ返す。

 妻が呼んでいる。

 桜の木の下にはシートが敷かれ、重箱が広げられていく。子供たちを自分のよこに座らせ、さあ食べよう、と妻が手を合わせる。

「パパ。いただきますのときくらい、考えるのやめて」

「ああ、すまない」

 卵焼きのうえに桜の花びらが落ちた。ゆびで摘まみ、すこし考えてから丸めて握る。

 今はただ、このしあわせを手放さずにいよう。

 卵焼きといっしょに丸めた花びらを呑みこむと、一部始終を目撃していたのか、

「パパ。きちゃない」

 娘が苦々しく眉をひそめた。

 



       「ぼくの内部をじかになぞって。」END

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