千物語「才」

千物語「才」


目次

【夜の混沌、虚無の呪文】

【オチブレーター】

【才の芽】

【空っぽなんて言わないで】

【錆びた楔は抜けない】

【威と赤を交わす】

【人間注意】

【妖怪のシカイシ】

【内部爆破密室殺人事件】

【にんにん、ふわふわ、軽くなる】

【立方体は繋ぐ】

【ちょこくれなんでだよ】

【ワニ革というかワニ】

【グローブマン】

【物書きあるある】

【じぃちゃん、箱はもういいです】

【はいブリっと】

【水脈万華鏡】




【夜の混沌、虚無の呪文】


 夜の混沌だね、が彼女の感想だった。

 否定の響きはなく、称揚の響きでもなかった。ただただ純粋にそう思ったからそう言っただけのようだった。私はどう受け止めてよいのか分からずにひとまず、読んでくれてありがとう、と言った。

 もうそれっきり彼女との縁は切れるものと考えていたのに、彼女はなぜか、また書いたら読ませて、と言った。その顔に笑みはなく、どこかしら物哀しく、苦しそうにも見え、それが社交辞令ではないらしいこと以外の機微を拾うのはそのときの私にはできなかった。

 彼女とは高校時代に同じ学校に通っていた、いわゆる同級生ではあったが、接点は皆無に等しく、大学卒業後にふとしたきっかけで縁を結んで以来、ちょこちょこと連絡を取り合うような仲になった。

 友人でもなければもちろん恋人でもなく、単なる知人かと問われたらそれも微妙なところだな、と小首を傾げるくらいには妙な縁を繋ぎとめている。

 私の性別を明かすことにたいした意味はないし、明かさぬままでもなんの支障もないので、私はここでじぶんの側面像を明かす気はないが、こうした私の、社会的身分なるものへの関心の希薄さは自作にも反映されており、私のつむぐ物語の登場人物たちにも子細な側面像が付与されることは珍しかった。

「だからまあ、基本ができていないようなものだから新人賞なんかに受かるわけがないんだけど」

「あなたの場合はそれとは別の次元で物語そのものに瑕疵がある気がするのだけれど」

「そうかな」

「もう時効だろうと思っていまだから質問するけれどいい?」彼女は私の返事を俟たずに、「最初に会ったとき、わたしのこと同級生だって気づかなかったでしょ。というか、わたしから切りだすまでわたしと以前どこかで顔を合わせていたことにすら気づいていなかった。違う?」

 私はぽかんとした。図星だったからだが、彼女はそこではたと服についたゴミに気づいたみたいに、

「ここで言う『最初に会ったとき』の定義はもちろん高校を卒業してからのこと、成人して以降、ここ半年以内のことで」と注釈を挿した。

「わかってる。文脈はちゃんと読めます」

「でもその顔はやっぱり気づいていなかったって顔」

「その通りでした。でもそんな、憶えてないでしょほかのひとだってふつうしゃべったこともない同級生の顔なんて」

「わたしはすぐに気づいたよ」

「それはほら、私が高校時代にちょっと目立ってたっていうか、浮いていたからで」

「自意識過剰。全然目立ってなかったよ」

「あ、そう」頬杖をつく。「ならよかった」

「あの時期から小説は書いてたの?」

「いや。本もろくに読んでなかったかな」

「ふうん。ほかにあなたの小説を読んだひとたちはいる? なんて言っていたか知りたいのだけれど」

「いないよ。誰にも読ませてない。いや、新人賞の下読みの方たちは読んでくれたのかもしれないけど、感想とかそういうのはない」私は彼女の名を呼び、「――が初めての読者だよ」と言った。

「そうなんだ」

 彼女は珈琲を飲み干すと給仕人を呼び止め、こんどは紅茶を注文した。あなたは何かいる、とお代わりを促されたので、チーズケーキを注文する。

 会話がいちど中断したからか、品物が運ばれてくるまではさいきん観ておもしろかった映画の話をした。

 運ばれてきたチーズケーキをフォークで端から順に切る。スライスしたそれを口に入れ、機械的に頬張っていると、変な食べ方、と彼女は言った。それからまるで映画の場面をスキップしたみたいに、

「他人に興味がない人の小説なんておもしろくなるわけがないとわたしは思うのだけれど」とつぶやく。

「それはえっと、私の話?」

「あなたの小説のお話。ほかに誰がいるの?」

「ひょっとしたらプロの作家さんでいるのかと思って。他人に興味がないのにおもしろい物語をつくっちゃうからどうしてだろうなあ、の文脈にも聞こえた」

「ざんねんだけれどやっぱりプロの作家はみんな例外なく、大なり小なり他人に興味があるよ」

「千里眼かな?」

「あると思うよ、に訂正するね」

「まあたしかに否定はしないけど。そういう言い方をされるとちょっと哀しいな。そんなに薄情に見える? これでもけっこう人目とか気にするほうなんだけど」

「それね。まさにそれ。じぶんがどう思われるか、って視点は、他人への興味じゃないと思う」

「ああ。そう、だね」

「それから他人への興味が薄いことが、イコール薄情であるとは言えないとも思う」

「なかなかむつかしいことをおっしゃる」

「わたし、あなたの小説、ぜんぜん好きじゃないんだよね」

 衝撃的な事実を暴露され、チーズケーキが気管に入った。むせる。涙目になりながら息を整え、

「そうだったんだ。じゃあもう、無理して読まなくていいよ。ごめん、なんか無理させちゃって」

 真実申し訳なく思ってそう言ったのだが、

「好きじゃないイコール嫌いではないからね」と彼女は用意していたように言った。「書いたら読ませてほしい。それは本当。ただ好きじゃないのも同じくらい本当」

「よく分かんないんだけど、それはつまり、おもしろくないってことでいいのかな」

「おもしろかったらとっくにプロになっているんじゃない? なってないんだからおもしろくないんだよ。すくなくとも商業的価値はないと言える」

「否定はしないけど」

「ただ、わたしはもっと読みたいとは思っているし、思ったの」

「それはよろこんでいいのかな。いえね、うれしいものはうれしいのですけれどね。やっぱり読みたいと思ってもらえるのが物書きにとっては何よりの感想だと思うわけですし」

「夜の混沌みたい」

「それ最初の感想のときも言ってたね。どういう意味?」

「さあ? そのまんまの意味だけれど。それ以上でもそれ以下でもなく、そのまま。あなたの小説はなんていうか、昼ではないなって。秩序とも違っているし、他人には絶対に読んでみてとは薦められないそういう類の表現」

「表現者としては致命的だね」

「そう?」

「他人に興味がないからなのかなそれって」

「人と繋がりたいって欲望ばかりが煮詰まってて、目を合わせたり、手を差し伸べたりしたらそのままどこまでもずるずると引きずり込まれそうな淀みを感じなくもないよね」

「最悪だね」私は居たたまれなくなり、もうそのくらいで勘弁してください、と泣きごとを言った。「感想はもらえるのはうれしいけど、ちょっとこう、一日に一言くらいでお腹いっぱいになっちゃう感じがして。ほら言うでしょ、良薬は口に苦しみたいな。きみの感想はとびきり苦くて、とっても効くからきょうはここまででもういいかなって。ありがとう」

 真実思ったことをそのまま言った。ありがたいのも、うれしいのも、身に堪えるのも全部本当だ。

「似てるね。あなたからの小説から受ける印象はそれと似たようなものかも」

「え、でも私は好きだよ。きみの言葉も、声も、こうして会っておしゃべりできることもぜんぶ、まるっとひっくるめて好きなんだけど」

 私のつむぐ小説を好きではないと言う彼女とは正反対の所感と言えるのではないか。純粋な疑問で私は言った。

「じゃあ違うのかも」彼女はとっくにカラになっているカップに口をつけ、もういちど給仕人を呼び止めた。「わたしはチーズケーキを一つ」

 あなたは何にする、と目で問われ、私は胃もたれを予感しながらも、チョコレートケーキを追加で注文した。

 絵画展があるから行ってみないか、と彼女から連絡があったのは、このときの会話から二週間後のことで、久々に顔を合わせてのお出かけだった。

 会えないときでも私たちは互いの近況を、情報の海に垂れ流している言の葉から間接的に覗きあっていたから知っているし、私は新作ができるたびに情報の海に田植えよろしく虚構の世界を植えつけているので、真実彼女が私の小説を読みたいと思っているのならば、それを読んでいるはずだった。

 かといって直接の題名をずばりこれと名指しして感想を言われたことはなく、私としてもその作品はすでに過去の私がつむいだもので、編んだもので、もはやいまの私には再現できない作品でもあるから、いまさら何を言われても、過去の私に向かって、だってよ、とバケツリレーさながらにことづてるよりない。 

「お待たせ。どうする、さきご飯たべる?」

「観てからにしよ。感想とか聞きたいから、食べながら」

「絵画の素養はないからな。期待しないでね」

「まるでほかの表現物になら素養があるみたいな言い方」

「まるで私にはなんの素養もないみたいな言い方なんですけどそれ」

「あったの? あら、ごめんなさい」

 呆気に取られているこちらを差し置き彼女は歩きだす。絵画展の開かれている美術館は駅前から徒歩で十二分ほどの距離にあった。

「美術館とか久々きたな。けっこうわくわくするね」

「わたしはことし十度目」

「けっこうくるのね」

「淑女の嗜み」

「淑女? どこ?」わざとらしく周囲を見渡してみせるが、いっぱいいるでしょ、とほかの客を目で示され、あなた以外は、とあしらわれてしまえば私の立つ瀬は物の見事になくなるのだった。じぶんでじぶんの足場を崩していたらわけがない。

 彼女の言うように私には芸術や美術の素養がからっきしであり、館内を観て歩いても抱く所感の総じては、きれいか大きいかなんだこりゃ、のおおむね三つに分類できた。作品のそばに申し訳程度に添えられた解説文を読むが、そもそもその背景の文脈を読み取る知識が私には欠けているので、ふんふん、と首肯した矢先から頭から抜け落ちていく。

 気づくとそばに彼女の姿はなく、知らぬ間に別行動をしていた事実に私はしょげた。というのも、先日の彼女からの指摘、あなたは他人に興味がない、の言葉を未だに引きずっていたからだ。

「こういうところなんだよな、きっと」

 いつでも気を抜くとじぶんの世界に浸かって、他者の世界が別個にあることを忘れてしまう。この世の中心がじぶんであると思いあがることなく思いあがってしまう。無意識に前提してしまう。

 私にとっていまのいままで、そばには彼女がいて、私のあとをヒヨコのようによちよちついて回ってくれていた。現実にはそんなことはなく、彼女には彼女のペースというものがあり、彼女には彼女の気持ちが、世界が、そこに私とはべつに開かれている。

 いちどすべての絵画や美術作品を見て回る。それから辿った道を逆走するように彼女の姿を探した。

「まだあんなとこにいる」私は呆れた。

 彼女は絵画展エリアの入り口からほど近い隅のほうに佇んでいた。壁にかかるちいさな絵画を眺めている。ほかにもっと大きくてきれいでなんだこりゃ、という作品がたくさんあるというのに彼女はその絵だけを延々と眺めつづけていた。

 私は彼女のよこに立った。

 絵には履きつぶされた靴が、くしゃりと一つだけ描かれている。一足ではない。片足分だけだ。解説文に目を通す。だいたい百八十年ほどむかしに描かれたものらしい。

「何がそんなに気になるの」

 熱心に観つづけるような絵ではないように思えた。何がそんなに引っかかるのだろう。寄り目にしたら立体的に絵が浮かびあがるような細工でもされているのかな。私は俗物であるので、かような想像しか巡らせられない。

「これは絵じゃない」

 彼女の言葉に私はてっきり、彼女がこの絵の未熟さに怒っているのかと思った。だが彼女の表情、とりわけその目からは、怒り以外の感情、それこそ魅入ると形容するよりない深みのある蒼が幻視できた。キラキラと細かく揺らぐ湖面の波がごとき輝き、いいや、静けさがあった。

 根掘り葉掘り、それはどういう意味なのか、と私は訊きだしたい衝動に駆られたが、きょうはいちど彼女から淑女ではない、紳士ではない、おまえはダメだ、ろくでなしだ、の指摘を暗に受けていたので、たとえ小声であろうとこの静謐な空間で会話を繰り広げるなんて愚行は犯さない。

 とりもなおさず彼女の夜の海のような立ち姿を崩したくなかった。彼女の姿そのものがこの空間に飾られた作品の一つのように見えた――なんて言ったら、それこそ芸術的素養のない者の有り触れた戯言だ、表現だ、と辛らつな批評の一つでも飛んできそうなものだ。

 彼女のよこで私は、彼女の邪魔にならないように、彼女の気が済むまで共に、何の変哲もない暗く歪な絵を眺めた。

 美術館をでるころにはとっぷりと陽が暮れていた。駅前からすこし離れただけだのに、街は静寂に沈んでおり、夜のしじまとはこれのことだろうか、と物書きの端くれとしてその情景を胸に刻む。

「ご飯どうしよっか」

「入ってみたいお店があるのだけれど」

「じゃあそこにしよっか」

「いつも思うのだけれど、あなたには主体性というものが欠けて見えるときがある」

「欠けて見えないときもある可能性が残されていてよかった」

「訂正するね。あなたには主体性がない」

 主体性の塊みたいな人に言われたら、はい私がシュタイセイ・ガナイです、と名乗りたくもなる。絵画展の作家たちにまじって並んでいても遜色のないおごそかな名前だ。

 彼女の背についていくと、古い建物にひっそりと埋もれたバーのようなお店についた。扉からして骨董じみている。年季が入っているというよりもこれはどちらかと言えば、西洋の古い街並みを切りとってきて、ここに貼りつけたみたいなちぐはぐさがある。

「ここ? 高そうなワインがでてきそうだね」

「座席が樽なの」

「へえ、おしゃれだね」

「うそよ」

「なんで騙すの」

「訂正します。ジョークよ」

「なんでそんなご機嫌なの」

「よいものを観たあとは気分がよくなるでしょ。それと同じ」

「よいもの?」

 それはひょっとしてあの暗くて未熟な絵のことだろうか。あれが彼女の琴線に触れたとなると、彼女の感性もけっこう人とズレているのではないか。私は偏屈な考えにとりつかれる。

 席は自由に選んで座っていいようだった。彼女は奥のほうに分けっていく。店のなかで死角になっている座席に腰掛けた。個室席がない分、その機能をこの席は果たしているようだった。

 彼女はメニュー表を手に取り、すぐに置く。決まったら教えて、と言うので、その手慣れた様子に、

「きたことあるの」

 問うと彼女は、

「ないけれど、きたかったと言ったでしょ。わたし、予習が趣味なの」

「へ、へえ」

 酔狂な趣味があったものだ。いや、と遅れて察する。これも彼女の高等なジョークに違いない。

 私は彼女と同じ品を注文することにした。主体性の塊である彼女の選択に従うほうが合理的判断に思えたからだが、これはべつに主体性がないと言われたことを根に持っているわけでは断じてない。

 料理の味は、美術鑑賞のあとであっても劣らずの味だった。却って、美術作品から受けた非現実感を薄めて、ここが現実であることを否応なく思いださせてくれるような、食材の命を思わせる味だった。要は美味かった。

「そろそろ訊いてもいい?」私は料理を半分ほど食べたところで切りだした。「どうしてあの絵にあんな夢中だったの? ようやく気が済んだかと思ったら、ほかの作品は流し観だったし、すぐに美術館でていっちゃうし」

「言ったでしょ。あれだけが絵じゃなかった」

「浮いてたから気になったって話? でも私にはあれもふつうのって言ったら失礼だけど、絵に見えたけどな」

「わたしが思うに、あれはたぶん呪いとか、呪文とか、そういうものにちかい。作者のことはわたしもよく知らなかったけれど、けして至福とは言えないような人生を歩んだひとじゃないかしら」

「よくそこまで深く読み取れるね。絵を観ただけでも背景まで分かるんだ、やっぱり素養があるからなのかな」

「あの絵に関してはそれは関係ない気がする」

「素養があることは否定しないんだ」

「あなたよりはあるかと思って」

「あ、そう」私は残りの、肉汁したたる細切れの肉をこねて焼いた料理をたいらげる。要はハンバーグだ。

「分類することにたいした意味はないと前置きしたうえで述べるけれど」

「どうぞ」

「表現にもいくつか種類があると思うの。そのなかでも、世に広く求められ広まるのは多く、上向きの感情を喚起する、言ってしまえば昼のような表現」

「ライトサイド、光の表現ってこと?」

「そう言ってしまうとなんだか陳腐だから昼って言わせて」

 陳腐と言われてしまった。

 腐っても物書きに向かってこの女。私は内心むつけながら、お好きにどうぞ、とさきを促す。「昼でも夜でも好きに呼べばいいんじゃないですか」

「そう、それ。夜だった。あの絵からは夜が滲みでていたの。くらくらした。呑み込まれそうだった。ううん。わたしたぶん溺れていたと思う。誰の奥底にもある、本人が自覚しようもない、自覚した瞬間に破滅してしまうような、目を逸らすことでしか対処のしようのない、そういった人間の内面に広がる夜を、あの絵は、あの絵を生みだした人間は、表現できていた。表現してしまえた。その逸脱した行為そのものに、わたしはたぶん圧倒されていたんだと思うの」

「夜、ねえ」

「絵とは違った。あれは絵の形をした呪術、呪文、それとも呪いそれそのものと言ってもいいのかも。だってわたし、あれを目にしているあいだ、ただただこわかった、嫌悪感でいっぱいだった、でも目が離せなかったの」

「引き込まれてた?」

「呑み込まれていたんだと思う。逃れられなかった、ううん。そうじゃないんだよきっと。わたしはずっと囚われていた、逃げられてなんかぜんぜんなかった、そのことを目のまえに突きつけられた気分だった」

「そこまで言われたら作者も本望だろうね。うらやましい限りだ」私は本心からうらやましかった。嫉妬していた。私だってゆいいつの読者である彼女からそれくらいの感想をもらいたかった。

 だから。

 彼女が、ぜんぜん好きじゃないの、と口にして、思わず内頬を噛んでしまった。

「わたし、あの絵ぜんぜん好きじゃない。これっぽっちもいいものだなんて思えない。あんなの絵じゃない。描いちゃダメだよ、ああいうのは。だって呪いだもん、ダメなんだよ」

「いやあ、でもあれは絵でしょ」

「そう。みんながそう思ってくれている限り、あれはギリギリでこの世に存在していられる。残っていられる。ああしてほかの立派できれいな美術品に埋もれて、芸術の顔をして飾られていられる。でもそれってたぶん」

 彼女はそこで言葉を切った。ちらりと顔を見られ、目が合う。

 ん? と下唇を突きだし、なにどうしたの、の意思表示をする。

「あの絵を描いた人は、呪いのつもりではなかったのかもしれないけれど」彼女は言い添える。「きっと長生きできなかったんじゃないかな。ほかにあの人の絵はあの空間になかったから。たぶんそういうことなんだと思う」

 私は説明文を読んでいたので、作者が三十代で亡くなっていることを知っていた。彼女は読んでいなかったのだろうか。他人への興味が薄いと彼女になじられたからではないが、きみのほうこそ表現者への興味が薄いのではないか、と野次の一つでも飛ばしたくなる。

「もしその人の絵がほかにもあったら観たい?」

「観たくない。でもたぶん、観に行っちゃうと思う。引きつけられちゃうと思う」

「怖いもの見たさだ。怖がりがホラー映画を観ちゃうやつ」

「そういうのといっしょにされたくはないし、そういうこと言われると嫌な気持ちになるのだけれど」

「ごめんなさい」

「わたしはあの絵、ぜんぜん好きじゃない。でもあの作家の人にはもっとたくさんの呪いを残しておいてほしかったとは思うの。それが絵でなくとも構わないの。これって変だと思う?」

「ぜんぜん」私は首を振る。「それにたとえ私が変だって言ったって、そう思ったならそれが一番だいじなんじゃないの。私はでも、昼の表現のほうがうつくしくって好きだけど」

「わたしだってそっちのほうが好きだよ。そういう話じゃなかったと思うのだけれど、文脈読めてますか」

「これでも物書きの端くれでございますからね」

「読めない人に限って自信満々なのはなぜなのかしら。表現の神秘に感激しちゃう」

「それはよかった。きょうは楽しかったよ、誘ってくれてありがとう」

「いつも思うのだけれど、あなたのそれは皮肉なの? 嫌味なの? ときどき素直に受け取ってよいのか迷うことがあるのだけれど」

「驚いた。いつもは素直に受け取ってくれてたんだ。内心で、これは私の本心です、って付け加えていたくらいなのに」

「あなたとは違ってわたしは文脈が読めますので。でもあなたのはとびきり読みづらくて、自信失くしちゃう」

「いやあ、私ほど単純なのはそうそういないと思うけど。額面通り受け取ってくれたら間違いないよ。好きな物には好きって言うし、嫌いだったらそもそもそう言う機会すらじぶんに与えないから」

「つまりじぶんの世界から遠ざける?」

「消しちゃうよね。私の世界から。いらないもん、そういうの」

「なんて傲慢」

「え、いまさら」

「でもいまのところはわたしはまだいていいんだね、あなたの世界に」

「私が生みだしているからこそここに存在しているって可能性もなきにしもあらずなんだぜ」

「これがあなたの小説世界だとでも?」

「なくはないよ」

「ないわよ」

「じゃあないです」

「あなたに認められなくともわたしはここにいるし、あなたの小説だってそう。誰に読まれずとも生みだされた事実は変わらない」

「いやいや読まれたいんですけど。小説なんか読まれてなんぼというか、読んだひとの内側に展開された世界こそが作品だと私は考えているくらいだからね、読まれなきゃそもそも作品にすらなってない。何も生みだせてないに等しい。それは哀しいよさすがに」

「それってまるで呪いみたい」

「呪いではないよ」

「じゃあ、呪文でもよいのだけれど、読まれて初めて存在理由が生じるなんて、そんなのはやっぱり呪いみたい」

「え、なに。私の小説ってひょっとして可視化したらあの絵みたいになんの? あんな下手クソなの? 歪なの? ショックなんですけどすなおに」

「巧拙と表現の持つ魅力はまったくの無関係ではないにしろ、別物だとわたしは思う、というのを前以って述べたうえで、言わせてもらえれば、あなたの小説はけして上手ではない。人には薦められない。お金を払って読みたいとは思えない。どちらかと言えば罰ゲームの罰にしてもいいくらい」

「泣いていい?」

「でもわたしはあなたの生みだす物語をもっと目にしてみたいし、できるだけ多くの世界を生みだしてほしい、残してほしい」

 生きてほしい。

 あなたには。

 彼女の目はまるで夜のしじまのようで、澄んだ静けさが宿っていた。

「ありがとう。私もきみには長生きしてほしい。できればしあわせになってほしいし、ときどきでいいからこうして遊んでくれるとうれしい」

「小説は?」

 読まなくていいの、と彼女がじっと見つめてくるので、

「それは気が向いたらでいいし、感想も、ほんのときどきご褒美みたいにくれたら申し分ないです」

 きみの言葉は私には眩しすぎるから。

「いいな昼で。うらやましい。きみは本当に、夜の似合わない女だね」

 本心からの偽らざる言葉だ。

 私が言うと、彼女はなぜか膨れた。




【オチブレーター】


 部室に入りびたりだった大学をなんとか留年せずに卒業した私は、大手印刷会社に無事入社して、なんだかんだと今年で三年目を迎える。

 いまや大手印刷会社は世界的企業で、陶器から包装紙、ポスターや書籍はむろんのこと、あらゆる商品のデザインを手掛けるまでになっている。

 あべこべに、主力の事業はデジタルに転換して、電源のいらないデバイスから立体映像再生機、人工知能の開発までと幅ひろい。

 将来安泰の企業に入社できて私は内心、ほっとしていた。いまの時代、企業の後ろ盾なくして安心して未来を歩いて行ける気がしない。

「やっほー、ミカさん。生きてますか」

 ミカさんは一個上の先輩だったが、大学を留年して私と共に卒業した。卒業してからも就職をせずに、アパートの一室に引きこもって、なにやらメディア端末の画面に向かって一日中パチパチやっている。

「いまどきフリック入力じゃないなんて」

「こっちのほうが慣れてるもんでね。へっへ」

 キィボードを自在に打てる若者は年々減少傾向にある。私の同期ものきなみフリック入力用の機器を会社の端末に繋げて使っている。

「美味しいパン買ってきました。映画観ながら食べましょ、食べましょ」

「ありがたや、ありがたや」

 部室にいたころはミカさんは本を読み漁っていた。いまは本を購入するお金も捻出できないようで、無料で読める素人の小説をインターネット上で読んでいるらしい。

「ひょっとしていまも何か読んでたんですか」

「いや、いまは作業をしてたよ」

「何のですか」

「就活みたいなもんかな」 

「立派じゃないですか」

「小説も読むけどね」

「見直しました、その調子でがんがん就職しちゃいましょう」

 内心私はミカさんの生き方に不安を覚えていた。会うたびに髪はぼさぼさになっていくし、肌は荒れ、部屋は汚くなっていく。

 昼間でもカーテンは閉めっきりで、ミカさんは着たきり雀だ。

「チミが来てくれるとなんだか社会と繋がっている気になれてうれしい限りだ」

「ミカさんが世捨て人になって、私も誇らしいです」

 小言を言い合って映画を観始める。

 定額制の見放題の動画配信サービスだ。私名義で登録したものを、ミカさんといっしょになって観る。アカウントもパスワードもミカさんは知っているので、こっそり私のいないところでもかってに観ているはずだ。現に、視聴した覚えのない映画に、いいねが押されていることがある。

 きょうは配信されたばかりのスパイ映画を観た。ジャンクフードばりのド派手な映像アクションの連続で、私は大いに楽しんだが、ミカさんは終始、眠たそうな顔をしていた。

 時間ののっぺり流れるような優雅な映像をミカさんは好む。私とは趣味が合わないのだが、ふしぎと彼女は私に文句を言うことをしない。

 私は私に文句を言わない人が好ましいので、甘んじて休日はこうして押しかけるのだ。

「はぁーおもしろかった」

「このパン食べていい?」

「残りは全部ミカさんがどうぞ」

「あしたの食費がこれで浮いたぜ」

 やったー、とまったくうれしくなさそうに、ぼそぼそと述べて、ミカさんはいそいそと作業机に座った。もはやこのさきは彼女の時間のようだった。またぞろ小説でも読み漁るのだろう。いったいつまでこの生活をつづけるのか、と私は気が気でないが、金銭的に困るまでは見捨てずにいてあげようと思うのだ。中古の自動車を買えるくらいの金額までなら援助してあげてもよい。

「そういえばミカさんってスージーやってましたっけ」

「うんみゃ。眺めてはいるけどね」

 スージーとは、誰もが気軽に、つぶやきやら、画像やら、動画やらを投稿して、不特定多数に観てもらう交流サービスだ。かつてはツイッターやフェイスブックが担っていた役割を、いまではスージーが肩代わりしている。

「私、じつはけっこうあれで有名人なんですよね」

「へー」

 ミカさんは作業に夢中で素っ気ない。そもそも興味のない話題なのかもしれない。私はつづけた。

「フォロワーもけっこういて、いまじゃ十万です。すごくないですか」

「すごいね。それはすごいよ」

 単なる相槌でしかないそれですら私には心地よく、

「このあいだ、有名なアカウント同士で会うって企画に誘われたんですよね」

「行ってきたの?」

 お、食いついた、と私は魚釣りをしている気分で、

「まだです。こんど行こうかと思って」

「危なくない?」

「だいじょうぶだと思いますよ。なんたって有名人しか参加できませんからね」

 鼻高々になっているじぶんを自覚して、

「や、でも。数字だけじゃ測れないものはやっぱりあるとは思いますよ。うん、あるな」

「でも十万人に関心を持たれているわけでしょ。知名度がある。素直にすごいことだと思うよ」

 卒業してからというもの、ミカさんは以前のような傲慢さを発揮しない。控えめになり、陰鬱としている。むかしから太陽よりも月が似合う人ではあったが、いまでは新月の夜がぴったりの暗さを漂わせている。生気がないと言えばその通りだ。

「仮にあたしがスージーをはじめてもさ」ミカさんが会話に乗りはじめてくれたので、私はつぎは何をしゃべろっかな、と頭のなかで考える。「せいぜいが十人とかそこらしかフォロワーがつかない気がする」

「うぷぷ。フォロワーがつく前提なのがおもちろいです」

「そっか。そうだね。あたしなんかの投稿、誰も見ないか」

 嘆くでもなく、単なる事実を確認するような響きがそこにはあった。

「ミカさんはでも、ほら、読書が得意じゃないですか。そうだ、感想文とか書いてみたらいいんじゃないですか。いまは誰もが感想に飢えてますからね。とくに物書きさんとか」

「フォロワー欲しさにそれをするってのはなんだか邪道じゃないかな」

「そんなことないですよ。真面目に感想を書けばいいだけですから。書くほうも、書かれたほうも、どっちもウィンウィン。いいこと尽くしです」

「たしかに」

 ミカさんとはそれから、いかにこれからの時代、注目を集めるかが重要だという話をした。私が一方的に話していただけだけれど、これからは、いかに多くのフォロワーを集めるか、投稿した表現に、高い評価を付加できるかが重要になっていく。

 何のために重要かと言えば、じぶんの価値を担保するためだ。それを、確保するため、と言い換えてもよい。

「やっぱり学歴もそうですけど、他人から高く評価されるのってだいじですよ。あのひとはすごいひとだって、みんながささやきあってくれて初めて、ようやく社会的地位ってものが生まれるわけで。ミカさんはそこのところ興味ないかもですけど、大事ですよホント。いくら世界一足が速くたって、誰もそれを認めてくれなきゃ世界一足の速い人じゃないんですから」

「そんなことはないと思うけど」

「ミカさんがそう思っても、社会はそう見做さないって話です」

「酷な話だね。あ、パン美味しかったよ。ありがとう」

 話の合間にミカさんがシャワーを浴びだしたので、私は肩を竦めて、彼女の部屋をあとにする。

 本当は掃除を手伝ってあげようと思っていたのだけれど、そんな態度をとられるときょうはもういいや、という気にもなる。

 帰り道、私は一人で夜の街を彷徨う。このままマンションに帰ってもとくにすることはない。きょう見た映画のことでもつぶやいて、十万人のフォロワーからたくさんの、いいね、でももらおうかな。

 なんと書けば注目を集めやすいかは、ほかのたくさんの評価がついた投稿を眺めて、統計して、抽象すれば、傾向が見えてくる。

 それを真似れば、一丁上がりだ。必ずしも真似をすれば評価を集められるわけではないが、すでに十万人もの観客を集めている私にかかれば、意図的にショートケーキに蟻を群がらせることも不可能ではない。

 ただ、どうしてこうまでもむなしいのだろう。

 ミカさんはもっと、世の中を眺めて、何が大事かを知るべきだ。急に、ミカさんへの苛立ちが湧いて、むしゃくしゃした。

 きっとあのひとはいじけているのだ。

 どうあっても他人とうまく交流できなくて、人から評価を集められない自分自身に。

 そしてそれをうまくこなしてしまう私に、彼女は嫉妬している。

 嫉妬しているとすら見破られないように、喝破されないように、見透かされないように、ああして懸命に、興味のないふりをしている。

 可哀そうなミカさん。

 それでも私だけは見捨てずにいてあげるのだ。

 月、火、水、木と通常業務をこなしつつ、私は金曜の夜になると、例の会合に足を運んだ。十万超えのフォロワー持ちしか足を踏み入れることのできない世界だ。

 超一流スポーツ選手から、人気イラストレーター、政治家や、実業家まで、このひとTVで観たことある、という人たちばかりの顔ぶれで、いかにも私なんかが場違いに思えてくる。

 ほかにもっと一般人みたいな人はいないかな。

 周囲を見渡すと、驚いたことに、そこには同じ会社の先輩がいた。

「あれ、先輩じゃないですか」

「わーお。偶然。そっかぁ、そりゃ身近に一人はいるだろうなぁ、とは思ってたけど、そっかぁ。きみかぁ」

 ドレスきれいだね、と褒められて、単純なことがよいことだと信仰している私は素直に浮かれる。「先輩もそのスーツかっこいいですね」

 知人がいるだけで急に心強くなった。人見知りだと思われるのも癪なので、誰かれ構わず話しかけて回った。

 顔出ししていない有名人の素顔を拝見したりと、驚きと刺激の連続だった。

 反対に、私の正体が、教養おばけの二つ名で知られたアカウント主だと知るなり、こんなに若い子だったのか、とみな一様に目を剥いた。

 そうそう、これこれ。

 みな人付き合いとは何たるかを弁えている常識人ばかりだ。ミカさんにも見習ってほしいな、と私はここにいない世捨て人の顔を想像する。

 いまごろ何食べてんだか。

 二次会に誘われたけれど、私は断り、名残惜し気な先輩の誘いも断って、一足先に会場のそとに出た。

 タクシーを拾う前にピザを購入し、行き先をミカさんのアパートの近くに指定する。

 アルコールを抜きたくて、タクシーを降りてからすこしの距離を歩いた。

 いまから行きますの連絡をしないのはいつものことだ。

 どの道、ミカさんは部屋にいる。

 案の定、例に漏れず、例のごとくミカさんは薄暗い部屋のなかで、画面に向かってパチパチやっていた。

「こんばんはミカさん。お夕飯何か食べました?」

「ごめん、もうちょっとだけこれやらして」

「お好きなだけどうぞ」

 冷めちゃうのでさき食べてますね。 

 断って私は、壁に映画を投射する。音が邪魔になるだろうからワイヤレスイヤホンで音を拾って、ジャンクフードさながらの物語に没頭する。

 途中で、ドレスに皺が寄るな、と思い、かってにミカさんの着替えを拝借する。押し入れのなかには同じスウェットがずらりとハンガーにかかった状態で並んでいた。これがスーツなら見栄えもするだろうに。

 着替えると、すっと楽になった。ソファに寝そべり、ピザをハミハミしながら映画を一本観終わる。

 そう言えばこのソファも、映写機も、私の持ち物だよな。

 我に帰ったように、じぶんの貢献の高さを目の当たりにする。別荘と思えばいっか、と考え直して、ミカさんへの憤懣がにょきにょき芽を伸ばさぬように気をつける。

 ミカさんは甲斐性なしだ。お金がないのだ。生活力がないのだ。だからこれもしょうがないのだ。

 未だに縁を切らずにいるじぶんを誇らしく感じる。

「ミカさんまだ読んでるの? というか、読んでたらキィーボード打つ必要とかなくありません?」

 ゲームでもしているのだろうか。

 それとも、ひょっとして小説を書いているのではないか。

 さもありなんだ。

 恥ずかしくてその旨を打ち明けられずにいたに違いない。

 いまさら何をと、すぼめた唇のさきから、プ、の音がでる。

「ミーカさん。ピザもうカッチカチですぜ。こっちきて食べましょうよ」

 素知らぬふりをしていてあげよう。ミカさんもそのほうがうれしいはずだ。

「ん。そうする」

「何してたんですか」いじわるな気持ちを抑えきれなかった。

「ちょっとね」ミカさんは電源を切った。「きょうの分は終わったからもういいよ」

 映画何観てたの、とソファに座る彼女のよこに陣取って私は、じつはきょう、と有名人同士の会合があった話をする。

 一通り話し終えると、

「同僚の先輩とは仲いいの?」

 ミカさんは開口一番にそこに食いついた。

 かわいいなぁ、もう。

 昂揚が顔に滲まぬように気をつけながら、

「部のエースですよ。とってもかっこいいひとです」

 会社の先輩をここぞとばかりに称賛する。嘘は言っていない。じっさい社内でも男女問わず人気のある人だ。仕事ができるひとはやっぱりそれだけで一目に値する。

「いいね、すごいひとたちといっぱい知り合いになれて。きみはむかしから人に好かれる。あたしとは大違いだ」

「そんなことないですよ。あ、いや、そうですね。なんたってミカさんと知り合いなんですから」

「無理して持ちあげなくていいよ。却ってみじめになる」

「本当のことですよ。本心ですよ」

 子猫をよちよちしている気分だ。まだ酔いが抜けていないのかもしれない。

 会場にいた人たちの顔ぶれを話すと、ミカさんは意外そうに、

「そんな人たちまで来るんだね」と言った。

「そりゃあ来ますよ。交流を持てば、スージー上でも絡みやすくなりますからね。掛け算なんですよね。やっぱりすごいひとと繋がってるってだけで、評価が集まりやすくなりますし」

「人脈は大事ってやつだね」

「そうですそうです。あ、ミカさんもスージーはじめたらいいじゃないですか。私がフォローしてあげますよ。そしたら最低でも百フォロワーくらいは行く気がします。投稿するのにも反応してあげますし」

「いや、いいよ。そういうのはどうも苦手で」

「人脈お嫌いですもんね」

 ウププ、と茶化したのは、ミカさんには使おうと思ってもそもそも使える人脈が私以外にいないことを知っているからだ。

「でもふしぎなんだよね」ミカさんは冷めたピザを齧りながら、映画の選択画面を操作する。映画を吟味しつつ、「十万人から監視されているようなものな気がするけど、平気なの? まあ、平気だからみんなそうやってはしゃげるんだろうけど」

「むかしはけっこう、精神病んじゃうひとがいたみたいですけど、スージーは、ほら、そういうところのフィルターがちゃんとしてるから流行ったわけで。炎上とかいまは滅多にないですよ。悪口も飛んでこないですし、ウザ絡みも、見ないで済みます」

「そっか。ならよかった」

「心配してくれたんですか?」

「そりゃあね。でも、まあ、あたしなんかに心配されても困るだろうけど」

「そんなことないですよ」言いながら棒読みになってしまったぞ、とすこし焦る。ミカさんはこういうところの機微を読むのが上手いのだ。

「でも、十万人って考えてみたら大したことない気もしてきますよね」うぬぼれていると思われたくなくて私は言った。「だってこの国の人口を仮に一億人とすれば、たとえ百万人でも百分の一、一パーセントなわけじゃないですか。十万人ならそれ以下です」

「全世界を八十億人とすれば、〇.〇〇一二五パーセントだ」

「ほとんどないようなものですよね」

「それを言いだしたらあたしはマイナスになっちゃうな。ただ、そうだね。知名度とかそういうのって、けっきょく、どれだけの人に見られたか、が肝要であって、全世界での立ち位置を決める要素とはなり得ないのかもね」

「どういう意味ですか」まるでスージーの数字に意味がない、みたいに聞こえた。

「たとえばアインシュタインのフォロワーはゼロだよね」

「だってあの時代にスージーはないですもん」

「仮にあったら、そっかでも、アインシュタインなら十万人くらい余裕で集めそうだね」

「ですです」

「じゃあこの話題はお終い」

 ミカさんは映画を決めたようだ。これでいい、と目くばせされたので、頷く。たぶん私は途中で寝るだろう。

「ミカさんはもっと、人と繋がる努力をすべきです。なんの努力もしないで、数字に意味がないとかそんなこと言ってほしくない」

「そういうつもりで言ったわけじゃないけど、気を損ねてしまったらごめんね」

「いつまでも私を後輩扱いしないでください」

 とっくに私のほうがあなたを支えて、導いてあげられる存在なんですよ。

 言いたくてたまらなかったけれど、ここで言ったら負けな気がして、代わりに、

「私が有名人になっても、ミカさんはずっとそのまま変わらないでくださいね」

 暗に、いじけてくれるなよ、と嫌味ともつかない言葉を、善意をまとわせ、突きつけた。

「変われないんじゃないかな」

 ミカさんは映画を再生した。

 スージーがマルウェアの大規模感染源と報告され、数日ののちに封鎖されたのは、ミカさんが私にも告げずに引っ越してから間もなくのことだった。

 ミカさんの連絡先は変わらず通じていたけれど、元から返信のしない人だったので、これが挨拶を切られたのか、それともただズボラなミカさんのお粗末の一つなのかは判断がつかなかった。

 スージー上の数値は水泡に帰したかたに思われたけれども、そこで蓄えられた影響力は、そっくりそのまま、つぎなる評価の舞台に引き継がれた。

 スージーの上位互換のサービスが瞬く間に人気を博した。スージーの代わりとしてそれは以前と変わらずの風景を、インターネット上に保ちつづけた。

 セキュリティが強固で、なおかつ過去の投稿をリスト化して整理できる。格段に便利になったそれは、ますますインターネット上の、いいや、社会の価値の基準を、他者からの評価の多寡で測る流れを強化した。

 ある日、私は喫茶店で、何か気の利いたおもしろいネタはないだろうか、と拡散されそうな記事を考えていた。仕事でもないのにこんなに悩むなんて、と思わないわけではないが、仕事ではないからこそ、本気で工夫したい。

 趣味なのだ。

 他人からちやほやされたいだけが理由ではない。ゲームのようなものだ。遊んでなんぼの人生ではないか。

 ふと窓のそと、駅前の道を、見覚えのある姿が、特徴的な歩き方で、通り抜けていく。

「ミカさん!」

 私は店を出て、あとを追った。

 大声で呼び止めてもよかったけれど、私はもう部室でのほほんとしていた学生ではない。羞恥心と常識を備えた社会人だった。

 ミカさんだったら構わず大声をだしたのだろうな。

 思うけれど、いやいやあのひとが大声をだすわけがないだろう、とじぶんに突っこみを入れて、なおミカさんの足跡を追った。

 ミカさんはとあるマンションに入っていった。

 手慣れた調子で、暗証番号を入力し、指紋認証で玄関を開錠していた。セキュリティが強固なわりにこじんまりとした造りだ。値段はそれほど高くはないように思える。

「まあ、立地はよいな。うん」

 無駄に値踏みして私は、ミカさんの連絡先に、マンションの下にいるので入れてください、と一報を打った。

 ミカさんは数分を置かずに、マンションのロビーに現れ、玄関口の自動ドアを開けた。

「驚いた」

「それはこっちのセリフですよ。かってに引っ越して、絶交されたかと思ったじゃないですか」

 言ってから、そういう可能性もあるよなぁ、と意気阻喪し、

「絶交したわけじゃないですよね」とお伺いを立てる。

「しない、しない。もっと落ち着いてから連絡しようと思ってたんだがね、申し訳ないことをしたと思っているよ」

 あがって。

 言われて、ミカさんに部屋まで案内してもらった。

「二階なんですね。最上階なら見晴らしよさそう」

「一階と最上階はほら、泥棒が怖いから」

「盗られて困るものとか何かあります?」

「命はやっぱり取られたくないな」

 そりゃそうだ。

 口で負けたようでおもしろくない。

 部屋はがらんとしていた。

「何もないじゃないですか」

「寝て食べて寝るだけだし」

「でも小説は読むわけですよね。あ、ここか」

 ソファと映写機とほか電化製品が、演劇のセットみたいに、フロアの一画に狭苦しく並び立ててある。敷かれた絨毯は部屋に比べてちんまい。

「もっとこの空間、有意義に使えばよくないですか」

「有意義に使ってみた結果がこれなの」

 ミカさんはまるで以前のアパートでそうしていたように映写機で壁に映画を再生した。

「何か食べる? 言ってもそんなにないけど」

「買ってきましょうか」提案してから、いやいやその前に訊きたいこと山ほどあるで、と思い直して、「何で急に引っ越したりなんか」と問いただす。

「元々引っ越そうとは思ってたんだよ。物件も探してた」

「そんなお金どこに」

「貯めてたんだよ。ちょこちょこお小遣いが入ってたから、それを頭金にして」

「安くはない買い物ですよねこれ」

「そうだね。ローンは組ませてもらえたから、まあ何とかなりそう。あ、私物はちゃんとこっちに全部あるから、持って帰っていいよ。言っても、このまま置いといてくれたら助かるけど」

「また来てもいいんですか」

 私、邪魔じゃないですか、と心の中で付け足す。

「来てよ」ミカさんは一言そう言った。

 映画を眺めながら、互いの近況を報告しあうことにした。私がそのように提案し、これは義務ですからね、と有無を言わせず押し通す。

「私、これでも怒ってますからね。逃げられたかと思ったじゃないですか」

「逃げる? あたしが? まさか」

「でもときどき邪魔だな、とか思ってたりしたんじゃないですか」

「ないよ。あたしにゃきみが必要だ」

「あらうれしいお言葉」

「美味しいピザ屋がどこにあるのかもあたしは知らない」

「検索、検索」

 ミカさんはじぶんからしゃべりたがらないので、例によって例のごとく、私が一方的に近況を話した。

「と、まあ会社のほうはこんな感じで」

「あの先輩とはどうなったの」

「ん? ああ。なんか会社の上司と喧嘩したらしくて、転職しましたよ」

「そうなんだ。プライベートでは?」

「プライベート? え、なんもないですけど」

「付き合ってたんじゃないの」

「私がですか? あのひとと? ないない。どこでそんな誤解を」

「あ、違ったんだ。勘違いでした。ごめん」

「スージー繋がりで、有名人の会で会った以外はとくに接点もありませんでしたよ。あ、そうそう。スージー消えたの知ってます?」

 私はそこで、最近はスージーではなく、ドッゴと呼ばれる新しいサービスが主流になっている話をした。

「スージーやってたひとはみんなそっちに移ってますよ。有名人のひとは有名人のまま。やっぱり他人からの評価を集めやすい人っていますよね。評価って、やっぱりどこに行っても評価なわけですよ」

 どんな場所であろうと評価される人はされるし、過去に評価された人は、やはり新たに評価される何かしらを生みだす機運を持っている。

「そうだね。他人からの評価は大事だとあたしも思うよ」 

「ミカさんはでもそういうのはいらないんですよね」

 私の中に、それをおもしろく思っていないじぶんがいることには薄々気づいていた。

 たぶん私はミカさんからも、評価に値する扱いを受けたかった。私に付加された高評価にみなが示す反応のようなものを示してほしかった。私に負けたら、悔しいと思われるような、そんな存在でありたかったのだ。

「いらないわけじゃないよ。ただ、もっと優先したいことがあるだけで。その過程で得られれば儲けもの、くらいの欲求なんだと思う。どうしても是が非でも欲しいものではたぶんないんだろうね。ただやっぱり、大事だと思うよ。評価は。とくに他人からの好ましい評価はね」

「じゃあミカさんのもっと欲しいものってなんですか」

 あなただって、暗い部屋に引きこもって、端末パチパチしているだけじゃないですか。

 部室にいたころのあなたは電流バチバチ流れてたのにいまじゃブレーカーが落ちてしまった落ち武者じゃないですか。落ちぶれてるじゃないですか。オチブレーターじゃないですか。そんなんじゃ何も得られやしませんよ。

 喉元まででかかった言葉を私は呑みこむ。

 映画が一本終わったようでエンドロールが流れる。私は新しくほかの映画を再生すべくメニューを漁る。

「あ、この映画」最新の配信映画を選択する。「面白いっていま話題で」

「そう言えば観たいって書いてたね」

 眉を寄せて見せると、

「ほら、ドッゴに投稿してたでしょ」

「見てたんですか」

「前からだよ。スージーのときから。あれ、言ってなかったっけ」

「聞いてませんよ。あんだけ興味なさげでいて、いまさらそんなこと言われても」

 ミカさんへの愚痴を書き込まずにいてよかったぁ。グッジョブ過去のじぶん。

 内心で拳を握りながら、

「ミカさん、ドッゴはやってるんですか」

「アカウントを持ってるかって意味?」

「それ以外のどんな意味があるってんですか」

「登録はしてないけど、眺めてはいるよ」

「へぇ」

「スージーと比べてどう? 使いやすい?」

「どうでしょうね。まあ、セキュリティが強固なのはよいことだとおもいますけど、そんなのユーザー側からじゃ分からんじゃないですか。問題起きてからしか判断できないし。あ、でも、過去の投稿整理できるのは使いやすくていいですね。流れてくる情報も細かく選べて、目に優しいですし」

「ふうん」

「ただ動画の投稿が増えてきたじゃないですか。拡散したくても、著作権とかだいじょうぶなのかな、って投稿が多くてもうすこしそこらへん、フィルター強化してほしいなってのは思います」

「ああ、なるほど」

「ミカさんに言っても意味ないでしょうけど」

「そうだね。あたしじゃどうにもできない問題だ。あ、映画はじまったよ。こんどは集中して観よっか」

「それは暗に私に黙っていろってことですね」

 ミカさんは口にゆびをあてがい、シーっ、とやった。 

「いっぱい蘊蓄語ってやる」

 この日はミカさんの部屋にそのまま泊まって、お返しに朝食をご馳走した。スーパーに寄って、素材を購入し、カレーライスを作ってあげる。ミカさんのほうがお料理は上手だけれど、私だって一人暮らしをするようになって勉強したのだ。そこそこ食べられる味にはなっているはずだ。

 ミカさんは何やら作業があるらしく、カレーをきれいに食べ終えると、端末に向かってパチパチはじめた。画面を覗きこむものの、何かしら依頼書のようなものを書いていて、内容はさっぱりだった。

「じゃあ、帰りますね。また来週来ます。邪魔なときは、くるなって連絡ください」

 ミカさんはバイバイと手を振る。

 せめてこっち見ろ。

 声で言え。

 思いつつも、ミカさんはミカさんだなぁ、とすこし安心した。

 月、火、水、木、とつつがなく仕事をこなし、合間、合間に、ドッゴにくだらなくも暇をつぶすのに最適な文章や画像、ときに動画を投稿した。

 金曜日の昼間に、速報が流れた。ゴッドの運営会社が音楽や映画の製作会社を含むコンテンツ企業各社と業務提携を結んだらしい。権利の一部を譲渡し、利益を損なわない投稿であれば、自由に音楽や動画を利用できる規約ができた。

 これでドッゴは盤石を築いたと言える。ますます繁栄を極めることになるはずだ。

 仕事を終えて、その足でミカさんのマンションを訪ねる。きょうはピザの代わりに味違いの中華まんをごっそり買った。奮発して飲んでみたかった割高の焼酎も仕入れたので、いまからわくわくが止まらない。

 指紋認証を登録してもらったので、マンション玄関を堂々と抜ける。部屋に入ると、ミカさんはソファでくつろいでいた。

「あら珍しい」私は料理の入った袋を脚の短いテーブルに置く。ミカさんはさっそく中身を改めた。「肉まんだ。やった」

「もっとうれしそうに言ってほしいです」

 きょうはどんな映画がいいかを相談しつつ、合間に私は、ドッゴの話をした。

「先週ミカさんと話したばかりだったのでびっくりしましたよ。まさかミカさん、ドッゴの管理人と通じてませんか」

「通じてはいないね」

「ミカさんに相談したらドッゴが改善するジンクスを発見したので、これからはドッゴの愚痴はミカさんにすることにしますね。あ、この映画面白いって話題。こっちのは退屈で寝ちゃうって逆の意味で話題」

「じゃあきょうは退屈なほうをさきに」

「面白くないのを観たあとに面白いのを観てもっと面白くなろうの術ですね」

「そういうわけではないけれど」

「じゃ、再生しまーす」

「ジンクスっていうか」ミカさんはいちどは流れた私の話を拾って、掘り下げた。「足りない機能とか実装してほしいサービスがあるなら言って」

「あはは。まるでミカさんが管理人みたい」

「そうだよ」

「おーそりゃすごい。ミカさんも言うようになりましたね。ほい肉まん。あんまんがよかったらこっちです。それともピザマンがお好み?」

「ピザマンがいいな」

「そうそう、もし改善が叶うなら、ドッゴの名前、あたしの名前に変えてくださいよ。しょうじきドッゴって言いにくくて仕方なくないですか。あれはないですよ、もっとかわいいのがよいと思います」

「んー、いちおうじぶんの名前を文字ってみたんだけど」

「えー」

 半笑いで私は思考を巡らせた。そんなことあるわけないじゃんミカさんきょうは絶好調だな、なんて思いながら、あれ、と引っかかる。するすると解けて、ドッゴが、ゴッドのアナグラムなことに気づく。ゴッドは神だし、神はカミで、反転するとミカだ。

「スゴ。ミカさんのそれいま閃いたわけじゃないでしょ。持ちネタにする気だな」

 鉄板になりますね、と私は肉まんを頬張る。

 ドキドキとこめかみの血管が躍る。小人がおるで、とてんわやんわの騒ぎを妄想しながら、何かじぶんは大きな勘違いをしてきたのではないか、の焦りにも似た恥ずかしさが胸のうちで頭から布団をかぶってうずくまる。

「名前変えるのはむつかしいけど、じゃあ、新しいサービス名はそれにしてみる。どんなのがいい? 決めていいよ」

「いつまでこれつづける気ですか」私の頬は引き攣っている。「ボケにボケを被せすぎですよ。ミカさんちょっと、しつこすぎ」

「ああ、うん。そうだね。ごめん」

 ミカさんはそれ以上つよく訴えたりはしなかった。それはそうだろう。このひとは私に真実を知ってもらいたいなどとは思っていない。高く評価してほしいなんて思っていない。

 私のことなどその他大勢の、映画のなかの脇役程度にしか思っていないのだ。だから大事な事実すら共有しようとしてくれない。

 私は大声で喚き散らしたくなったが、子どもではないので、そういう嘘はあんまり好きじゃないです、と戒めて、気づいた事実に蓋をする。

 焼酎を開けて、カップにそそぎ、一息におある。喉が焼けて、身体がぽかぽかする。

 この日観終わった、映画は、ド派手な演出があるわけでもなく、人が死ぬわけでもなく、無駄に沈黙の描写が多く、場面転換が滅多になくて、バックミュージックのほとんどない、素朴な絵画のような映画だった。

 私は三度眠り、そのつど、じぶんの漕いだ船に起こされた。

 エンドロールが流れる。

 やっと終わったと思い、切り替えようと手を伸ばす。ふとミカさんの横顔を見遣ると、目を潤わせて、瞬きもせずに壁に投影された外国語に見入っている。

 上から下に流れる海外の言語をミカさんが読解できているとは思えないが、それでも彼女はそこに何かしらを幻視するように、映画の余韻に浸っていた。

 映画の選択画面に移るまで、私はミカさんの横顔を見詰めていた。

「いい映画だったね」

「そうですね。私は寝ちゃいましたけど」

「じゃあつぎは寝ちゃわない面白い映画を観よう。話題作」

「本当はミカさん、他人からの評価なんてくだらないって思ってますよね」

 なぜか口を衝いていた。

 突然どうしたの、と言いたげにミカさんの目が見開く。私の声に棘が混じっていたからかもしれない。

 ややあってからミカさんは、思ってないよ、と言った。

「他人からの評価も、それをたくさん集めようとすることも、大事だし、価値があると思っているよ。価値を新たにつくりさえするとも思う。けど同じくらいに、誰からも高く評価されずとも、価値そのものを作り、保有し、維持するものもあると思っている。どっちが優れているとか、そういう話ではないから」

「どっちかを選べるのに、でもミカさんは片方しか選ばないじゃないですか」

「何の話?」

「ミカさんはくだらないと思ってるから、手に入れようとしないだけなんじゃないんですか。なんだかミカさんといっしょにいると、ときどきすごい息苦しい。バカにされてる気になる。ミカさんにはそんなつもりはないんでしょうけど、敬意みたいのが、なんか足りないっていうか」

 じぶんで言っていて混乱してくる。いったい何を伝えたくて、なぜ私はこんなことを口走っているのだろう。感情の乱れを自覚すればするほどに、そんな姿をミカさんに見せてしまっているじぶんにむしゃくしゃした。

「尊敬しているよ。言葉で言い表したくないくらい、尊敬してる。でもそれじゃ足りないって言われたら、そうかもしれない。ごめんね」

 ごめんなさい。

 心底申し訳なさそうにうなだれるミカさんに、私はもう、コノヤロー、と思う以上の気持ちを言語化できなかった。

 焼酎の瓶にじかに口をつけて私は、中身を飲み干した。

「私、がんばってる。すごいんだよ。ミカさんだってやればできるのにやらないだけでしょ。価値がないって思ってるからでしょ。舐めてんだよ」

「そんなことないよ。すごいのは知ってる」

「嘘だ。思ってないからそうやってすらすら言えるんでしょ、そうでしょ、そうだよ」

「どうしてそんなに怒っているのかが解らないけど、傷つけていたなら謝るね。許してほしい。喧嘩したくない。あたしはほら、こんなだし。こんなあたしのことも気にかけてくれる人、ほかにいないから」

「じゃあなんですか、ミカさんは私がミカさんのお母さん代わりだから、そうやっていい顔して、そばにいても追いだしたりしないってそういうことですか。利用価値あるから、都合がいいから、そんな理由で友達ごっこをつづけてくれていたんですね。わぁうれしい、ありがとうございます」

「本当にごめん」

 何を謝っているのかすら理解していない人にされる謝罪ほどムカつくことはない。怒髪天を衝くという言葉があるが、私はいま、それだ。髪の毛が逆立って、逆立って、天まで届いて、神の身体を串刺しにしてしまいそうだ。

 何が、ドッゴだ。

 ゴッドの逆だというなら、そんなのは落ちぶれた神じゃないか。

 オチブレーターじゃないか、と私は舌のうえで悪態を転がす。

「もういいです。映画観ましょ」

「最後の肉まん食べてもいい?」

 けろっとした調子でミカさんが言うものだから、私はもう、金輪際二度と腹のなかを明かしてなるものか、と臍をぎゅうと固めて、鍵にする。

「はい、半分こ」

 大きいほうをミカさんはくれた。迷いのない手つきだった。あまりに自然な所作だったので、たったそれしきのことで、なんだか固めた臍が、鍵が、ふにゃりとほどけた。

 単純なことを美徳とする私であるから、これはしかし、致し方ないことである。

「ミカさんはずるいですね」

「引きこもりでも生きていけるから?」

「人間のできた神のような私をそばに置いておけるからです」

 肉まんを咀嚼して喉を鳴らせ嚥下するとミカさんは、なぜか両手を合わせて、拝むようにした。

 私は言った。

「舐めてんのかコラ」




【才の芽】


 いつからのことなのか憶えていない。たぶん産まれたときから見えていたのではないか。

 私には他人の可能性が見える。その人にとって何が最も適正のある技能なのかが、私にはわかるのだ。目を凝らすまでもない。他人を視界に入れるだけで、その人の輪郭の真ん中に、胸の辺りに、光の玉のようなものが透けて見える。

 私はそれを種と呼ぶ。

 才能の種だ。

 大概の人は、その種に気づくことなく、まったく適性のない、或いは少しは他人よりも上手な技能を磨いて日々を過ごしている。いいや、そもそも多くの人は技能を磨くなんて真似はしないのだ。

 才能を気にするのは思春期特有の一過性の病のようなものなのだろう。熱病のようなものなのだ。

 ある時期をすぎるとみな一様に、誰でも同じようにこなせる技能を、同じような尺度で身に着けて満足するようだ。

 私はけれど、そうした人たちのなかにもとびきりの才能の種が潜んでいるのを知っている。

 たとえば私のクラスの堂島さんは、まったく恋愛に興味がなさそうでいて、現におそらく他人と関わるのを忌避しているようだけれど、彼女には恋愛の才がある。才の種がある。

 いちどでも恋愛をしてみせれば、種は芽を萌やし、大樹へと枝葉を育ませるだろう。彼女の一挙手一投足に誰もが目を奪われ、そこにじぶんへの好機の眼差しを幻視する。彼女がそう口で言わずとも、彼女の機微をかってにじぶんに都合のよいように解釈し、誰もが彼女の手中に落ちる。恋に、落ちる。彼女はあらゆる言動を駆使して、操り人形の糸を相手に結びつけることができる。

 言葉一つ、眼差し一つで、相手の人生を狂わせることが彼女にはできるのだ。

 しかし本人はそのことに無自覚であるし、恋愛の才があることに気づいていない。何らかの偶然のきっかけが巡るか、それとも私のような者がそのことを指摘してあげない限りは、彼女の種が芽吹くことはきっとない。

 ほかにも私のクラスには、性行為の才の種を持った男の子や、クライミングの才の種を秘めた女の子、暗号解読の才の種が芽吹きかけている子や、暗殺者の才の種を持った子までいる。ちなみに私のクラスの担任には他人の唾液を舐めとることで相手の体調を見抜くことのできる才の種があり、すでに芽吹き、大樹となっている事実には何か、目を背けてはいけない現実が横たわって感じられるけれど、わざわざ藪に首を突っ込むのは私の信条に反する。

 人生何があるかわからない。危ない橋は渡らないに越したことはない。

 私がそのひとと出会ったのは、修学旅行に行かなかった私が図書室での自主学習を指示されて、同級生のいない学校で、手塚治虫の本を読破してやろう、と決意した日のことだった。

 そのひとは昼休みになるとやってくる。

 図書室の先生、それが司書さんなのかを私は知らないが、に、ぺこりとお辞儀をしてから本棚から本を選んで、席に座る。いつも同じ席だ。あとは午後の授業開始の予鈴が鳴るまで席で、ここではないどこかの世界へと旅立っている。

 修学旅行は七泊八日と特別に長く、私は一週間、正確には月曜から金曜に加えて週明けの月曜日の六日のあいだ、図書室で昼休みになるとやってくるそのひとを目に留めた。

 そのひとにもまた才の種があった。

 私がこれまで目にしたことのない輝きを放っていた。

 才の種とはいえど、けっきょくのところその人物にとって最も適した技能の可能性でしかない。雪にとっての最も赤い赤は、トマトの赤よりかは赤くない。同様にして、ほかにもっと任意の技能で突出した才能を発揮するひとはいる。才の種とはいえ、個人差はある。

 そうした個人差、才能の高さは、才の種の輝きとして観測できた。

 そしてそのひとの才能の種は、おそらく世界最高峰の高さを誇る可能性を秘めていた。

 いったい何の才なのか、と私は気になった。

 輝きが眩しすぎて、上手く正体を掴めない。

 私は六日を要して席を移動し、徐々に彼女の指定席に近づいた。

 七日目にしてようやく向かい側の席に座ったが、そのときにはもう私は図書室に通う必要がなくなっており、つまり修学旅行に出かけていた同級生たちはみな帰ってきており通常の授業が再開されていた。ゆえに私はその日、正真正銘初めて、彼女に会うためだけに昼休みに図書室に足を運んだのだ。

 その事実は、考えてもみればそのひとだって窺い知れただろう。そのひとの靴の色は異なり、一つ上の先輩、三年生なのだと識別できた。

 視線がページをまたぐたびにそのひとはゆったりと瞬きをする。私はそのまつ毛のはためきに胸の内側をなぞられる心地で、彼女の内面に潜む才の種に焦点を当てた。

「何?」

 そのひとが書面から顔を上げて私を見た。

「あ、いえ、なんの本を読んでるのかなー、なんて思っちゃいまして」

「もうすぐ読み終わるから、読みたかったら待ってて」

「すみません」

「謝ることではないと思う。ただちょっと、邪魔」

「邪魔?」刺のある言葉に胸が痛む。

「あ、違う。邪魔されている気分、じゃないな、なんて言えばいいんだろう。集中できなくて。じっと見られていると読書に集中できない」

 勘違いだったらごめんだけど、とそのひとは言った。それから眠たげな眼差しを周囲に巡らせるようにする。

 そこに至って、いまこの空間には私と彼女しかおらず、そして私はそんなガラガラの空間にあって彼女の対面に座るという不自然さに遅まきながら気づいたのだった。

 才の種に注意を向けすぎていた。周りが見えなくなっていた。

 顔が熱く火照り、ただただ恥ずかしかった。

「漫画はもう全部読んだの」

「あ、はい」

「手塚治虫。あたしも好きだよ」

 なんと返事をすればよかったのか。会話が終わったと判断したようで、彼女は予鈴が鳴るまでのあいだ、ふたたびの旅にでかけた。

 よほど読書が好きらしい。

 だからなのだろう、彼女の才の種は、どうやら物語をつむぐ技能のようだった。技能の塊だった。彼女は小説家の才能があった。けれど未だ芽吹いていないところを鑑みるに、彼女は小説を書いたりはしていないらしい。

 私はそれからというもの、昼休みは図書室に通った。その時間は昼食を食べられないので、早弁をする習慣もついた。午後の授業のチャイムが鳴ってそのひとが本の巣から去っても私はそこに留まり、脚立を持って右往左往する図書室の先生に、あのひとはいつもここにくるのですか、と質問した。

「あら、あなたもくるでしょ。本好きのひとは大歓迎。本が苦手なひとも大歓迎。いつきてくれてもいいからね。ただし授業はちゃんとでること」

「サボりではないです。ただ、あのひと友達いるのかなって」

 あら、と先生は口元を手で覆う。「いるじゃない。こんなにたくさん」先生は本の巣を見渡すようにした。

 私は昼休み以外にも、学校内でそのひとの姿を目で探した。そのひとはいつも一人で、教室の隅や、中庭の花壇のかどっこに座って本を読んでいた。

 寂しいひとだな、と私は思う。だのにそのひとは飄々としていて、まったく寂しさを感じさせず、あべこべに私の胸のなかにばかり寂しさがカビのように生え揃うのだ。

「先輩は小説書いたりしないんですか」

 ある日、図書室で私は言った。珍しくそのひとが漫画本を読んでいたので、会話をする余裕があるかな、と思ったのだ。

「しないね」

「でもそんなに本が好きなら書いてみたいなって思ってるんですよね」

「思ってないよ。ごめん、いまけっこう集中してる」

「私もそれ読んだことありますよ。ネタバレされたくなかったらすこしおしゃべりに付き合ってください」

 彼女はため息を隠そうともしなかった。本を置き、眠たげな眼をさらに眠そうにして私を見た。「で、なに」

「小説ですよ小説。私、先輩の書いた小説読んでみたいなぁ」

「こんだけプロの本があるんだからそっちを読めばいい。それからあたしはそう、本が好きだけど、別に小説に限った話ではないから。辞書だって読みとろうと思って読むとおもしろい。あたしの読んだものにあたしの行動が左右されるというのなら、あなたはあたしに辞書を編めと?」

「そういう理屈っぽいとこ。友達できないの分かっちゃうなぁ」

「いないとダメ? その程度のことで友達になるかならないかを決めるような相手とは付き合いたくない。ねえ、まだ終わらないの。あたし早くこれ読んじゃいたいんだけど」

 怒らせてしまったようだ。

 しまった、しまった。

 私は軌道修正する。

「先輩には小説家の才能がある気がして」

「はァ?」

「あ、冗談とかじゃなく、割と本気でそう思ってて」予想以上に険のある声が返ってきて、私は焦る。「いちどだけでよいので書いてみてほしいなって」

 彼女はじっと動きを止める。何事かを計算したような間を開け、

「よく分かんないんだけど、一つ疑問ね」と前置きする。「あなたがあたしの書いた物語を、絵空事を、うそっこの話をご所望だとして、それであたしにいったい何の得があるんだろう」

「ひょっとしたらその小説が、物凄いおもしろくて、プロの小説家になれたりとか」

「うん、まずそこね。あたしはプロの小説家になりたいとは思わない」

「どうしてですか」売り言葉に買い言葉というよりもそれは、彼女がずっと以前から心に決めて、考えていたことに思えた。

「あたしはおもしろい本を読むのが好き。編むほうじゃない。もっと言えば、あたしがおもしろい本を世の中にだすことで、本をだせなくなるひとたちもいる。あたしはそういうひとたちの本を読むほうが、じぶんのナニカシラが認められるよりもずっと優先したいと思っている」

 椅子取りゲームみたいなものなんだよ、と彼女は言った。

「座れる椅子の数には限りがある。そこにほかのひとを押しのけて座ろうとする意思があたしにはない」

「んー、じゃあプロにならなくてもいいので。趣味でもよいので。お金なら払いますから」私は意固地になっていた。

「なんでそこまで」鼻で笑われたが、彼女の笑みを見たのが初めてでわるい気はしなかった。

「だってぜったいおもしろいって解かるから。それに、椅子取りゲームだって先輩は言いますけど、大きなベンチが一つあれば、そこに座れる人だって増えるものじゃないんですかね。スターがいれば、それそのものが大きな椅子になって、ほかのたくさんのひとが座れる余地が生まれる気がします」

「なかなかおもしろいことを言うね」

「遠慮しあうよりも、切磋琢磨したほうが、どんな分野だって活気がでますよ、そうじゃありません?」

「一理ある。ただそれでもあたしはスターじゃないし、やっぱりなりたいとは思わない」

「どうしてですか」抗議というよりも不満の響きが滲む。

「考えてもみなよ。そんなの絶対たいへんだ。好きなときに好きな本すら読めなくなりそう。そんなのはごめんだよ」

「じゃあスターにならなくてよいので私のために小説を」

「堂々巡りだな」先輩は肩のちからを抜いたようだ。背もたれに寄りかかり、頭のうしろに手を組む。「そこまで言うならいいよ。一本、何か書いてみてもいい。ただこれだけは忘れないでほしい。あなたは才能というものに拘りすぎて見える。あれは、そんなにいいもんじゃない」

 あなたに何が解かるのだ、とこれは才の種の見える私だからこそ覚えた苛立ちだ。

「仮にきみの言うように、才能が確固としたものとしてあるとする。じゃあもし、とてつもない才能のある個体が存在したら。その人物の発揮した才能は、きっとどんな凶器よりも残酷だろうね」

「挫折するひとがたくさんでてきちゃうからですか」

「挫折する余地すらきっとそのひとは奪ってしまうからだ。どうあっても届かないと一目で判る才能ってやつは、分野の土壌そのものを枯らしてしまう。憧れよりも畏怖が勝る。誰も近づきたいなんて思わない」

「まるで先輩は、じぶんがそうだからそうしないって言っているように聞こえます」

「まさか。あたしに才能なんてないよ。なんもない。だから才能あるひとたちの残してくれた血肉を食べて渇いた喉をうるおしている。きっと本物の才能は、一日で一冊、毎日でも編める言葉に溢れていて、しかもどれも破格のおもしろさだ。そういうのが才能だよ。どこにでも転がっているようなもんじゃない」

「でも、書いてみてほしいです」

「だから分かったってば」

 予鈴が鳴った。読めなかったじゃん、と彼女は肩を竦めて、漫画本を棚に返しに歩いた。

 彼女が図書室を去ったあとで、先生が寄ってきて、喧嘩してたの、と心配そうに聞いた。

「私も友達になったんです」私は本棚を見渡し、胸を張る。

 先輩は三日後、席に座った私に一枚のメモをくれた。

「そこに載せといた」

 小説投稿サイトのURLだ。私はさっそくじぶんのメディア端末を操作してそれを開き、彼女の小説に目を通す。

 時間が飛んだ。

 図書室の先生に肩を揺さぶられ、我に返る。

「もうとっくに授業はじまってるよ」逆立った柳眉が、私の顔を見てから、八の字に寄った。「どうしたの。何かあった?」

 私はじぶんの頬を撫で、ゆびが濡れているのをふしぎに思う。

 まだ全部を読み切っておらず、現実に引き戻した先生に怒りが湧いた。ああこれか、と遅れて思う。

 あのひとにはわるいことをした。私はこんな仕打ちを、彼女にしつづけていたのか。旅先から強制的に連れ戻される不快感は、たしかに呑み込むには骨が折れる。

 あのひとの言ったとおりだった。

 私はその日を境に、図書室からは遠ざかり、学校であのひとの姿を目にしても、意識して目を逸らすようになった。

 得体のしれない存在が、人間のふりをして、私たちの社会に何食わぬ顔をして紛れ込んでいる。どうしてもそう思ってしまうのだ。

 近寄れるわけがない。

 私にはもう、あのひとのなかに輝く才の種の光が、ただただ灼熱の業火に見えて仕方がない。

 あのひとのなかのそれは、まだ芽吹く気配を窺わせない。教えてもらった小説投稿サイトにも、それ以降、新たな小説は加わっていないようだった。

 頼まれたから気まぐれに書いてみただけなのだろう。それであの威力だ。心底末恐ろしく思う。

 あのひとの小説はしかし、未だにネットの海に眠っている。閲覧数は、私が訪れるたびに、一つずつしか増加しない。なぜだろう、とふしぎに思うが、あのひと自身の言葉を思いだす。

 誰も望んで、焼かれにいく者はいないのだろう。

 私には他人の姿に、そのひとの可能性が見える。私はそれを才の種と呼んでいるけれど、必ずしも、それを芽吹かせることがそのひとのしあわせに結びつくとは限らない。

 限らないのだ、と、ようやくというべきか認識を覆しつつある。

 私は鏡を覗き、そこに映る私自身の姿に目を凝らす。

 私にはいったいどんな才の種があるのだろう。

 そんなのはとっくに判りきっていることだ。

 私にあるのは、他人の才の種を見抜く才があるのみだ。それはすでに発芽し、大樹と化して、私の行く末にデンと根を張っている。

 私は才能を発揮した。

 そして何か、本来であれば結びつけられたはずの何かを手放してしまったのかもしれなかった。

「先輩」

 私は虚空に向けてつぶやく。私は彼女の名前すら、正面きって訊くことすらできなかった。

 図書室の先生からこっそり教わり、海馬の奥に、忘れられぬ思い出として刻みこんではいるけれど。

 私は彼女の名を口の中で転がす。

 だがもう、その名に反応を示す相手はおらず、これからも、私の声の届く範囲に現れることはきっとない。 




【空っぽなんて言わないで】


 彼女が僕にとってどんな存在かなんて考えるだけ無駄だし、だったらきょうの晩御飯に何を食べようかに脳みそを使ったほうが建設的だし、身体にも精神にもよい。ついでに世界にも優しそうだ。

 僕は彼女を、きみ、とか、ねぇ、としか呼んだことがなく、したがって文章のなかだからって気安く名前を使ってあげたりはしない。

 彼女は僕より頭のできというか、見た目の端正さもそうだけれど、あらゆる分野において、それとも評価軸において、ほんの僅かであるけれど僕を凌駕している事実は認めるところだ。

 彼女がいなければ僕が学生にして初のノーベル賞を受賞していただろうし、劇的な半生が映画のモデルになったり、あらゆるメディア内で話題の中心になっていたはずだ。老若男女問わずにモテモテであったはずなのだ。

 彼女は僕と違ってちょっと感性が鈍いので、僕なら浮かれて騒いで人生を謳歌することしきりの脚光を浴びてもどこ吹く風で研究ばかりに没頭する。あほじゃあるまいか。

 ノーベル賞の授賞式にも、映画の試写会にも登場せずに、あらゆる誘いを断りつづけて、薄暗い研究室に引きこもって年中カチャカチャとネジやら回路やら、ときには培養した細胞なんかをいじくっている。

 あんな常識知らずを崇めちゃいかんよ。

 常識の塊で知られる僕なぞは思ってしまうけれど、社会を無視しつづける彼女への注目はなぜか衰えることを知らない。

 檻の中の珍獣を眺めるのは娯楽として消費するのにはもってこいなのはいつの時代も同じなようで、ことさらみなの衆は彼女の立ち振る舞いや、眠たげに歩く姿を電波越しに目にしつづける。

 僕が指摘しなければ髪すら伸ばしっぱなしで、同じ服をいつまでも着続けるような人間をなにゆえみなはちやほやするのかと、仮に僕が彼女と同じ分野の研究者でなければ疑問に思うところだが、そのじつ彼女は、ノーベル賞なんかじゃ足りないくらいの偉大な成果をあげつづけて忙しく、それを差し引いても、彼女の日々生みだす発明品の数々は天才の所業と呼んであげても、いまさら嫉妬のしようもない。

 しょうじきなところある時期までの僕には、彼女の表向きの欠点だらけの人物像と、そこからは想像もできない優れた閃きの数々に、なんでこんなやつが、とハンカチを噛みしめすぎて食い千切った過去がなくはなかった。

 いまじゃ僕は彼女の立ち上げたプロジェクトの中枢メンバーとして、黙っていたら三日は飲まず食わずで作業をしつづけてしまう困ったちゃんの面倒を看ている。

 このあいだなぞはついに倒れて病院に搬送されたが、診断結果が単なる寝不足だったのには一同安堵の溜め息と共に、呆れて物が言えなくなった。小学生ではあるまいし、いや小学生だって眠くなったら眠るのだ。赤子にできることがなにゆえ彼女はできんのかと、僕らは寝不足対策会議を大真面目に開いて、彼女のために代わる代わる彼女の睡眠状態を管理する体制を整えた。

 どうせなら体調そのものを管理してやればいい。

 僕がそのように意見すると、どこから聞いていたのか、誰かが告げ口したのか、当の本人の耳にも入り、

「じゃあそうしちゃおっか」

 彼女は僕の提案を受け入れて、自らを全身機械化してしまった。

 こっちのほうが管理しやすいでしょ、とは彼女の談だが、これだから天才はアホウなのだ。実行する前に誰かに相談するという発想がない。赤ちゃんだってまずは泣いて他人の手を煩わせるものだのに、赤子にすらできることが彼女にはできない。

 見た目こそ以前と同じ姿カタチだったが、彼女の外皮に細胞は使われておらず、人工皮膚が、身体内部の機械仕掛けを人の目から隠している。

「お風呂に入らなく済んで楽。おトイレにもいかなくていいし、食事もとらなくていい。もっとはやくこうしていればよかった」

 コンセントに爪の先を突っ込みながら、彼女は片手間に研究をする。そのじつその形容は正しくはなくて、彼女は研究の片手間に充電をして全身の機能が停止しないように活動しつづける。

 そのうちワイヤレスでも充電できるように改良され、もはや彼女は研究するためだけに動きつづけるスーパーマシンと大差なくなった。

 人と関わらずに済むならば、うるさい外野の声も届かない。そもそも彼女の姿を捉える者がいないのだ。

 面倒を看る必要がない。

 他人に姿を見られる必然性がない。機会がない。

 それでも僕は定期的に彼女の様子を見にいった。天才の奇行についていけなくなったほかの研究者にせっつかれてのことだったが、僕自身、彼女には訊きたいことが山ほどあった。

 たとえば全身機械化したとは言っても、頭脳は生のままだろう。それとも彼女ほどの天才ならば意識を複製したのだろうか。だとすればどこかに元の肉体が残っているはずだ。そうでなくとも、いらなくなったほかの部位はどこに棄てたのか。

 体調の管理はそれこそ機械的に自動で行われるにしろ、部品は消耗する。身体の維持費はどうやって捻出する気なのか。

 これまで取得した数々の特許を、彼女は面倒だからの一言ですべて放棄している。慈善事業団体に寄付でもすればよいのに、無駄に企業に稼ぐ素材を提供しているだけで、じぶんはほとんど貯蓄がない。

 以前までは資本家が金銭援助をしてくれていたが、研究チームが解散寸前となっているいま、いつまでそれがつづくか分からない。

 生活能力のない彼女には、そうした未来を想起する想像力が決定的に欠けている。それを危機感と言い換えてもここではまったく反論の余地がない。

 彼女には危機感がない。

 ゆえにこうも簡単に肉体を棄てて機械の身体になっちまうし、遠隔で操作できる道具の一つとしかひとを見做さない。

 僕だって人間だ。ちょっと理不尽に扱われたら、いかな天才の言動だろうと、かってにしろ、と匙を投げだしたくもなる。

 彼女には、僕に見捨てられるかもしれない、という危機感がない。それが僕にはおもしろくなかった。いつまでも都合のよい自動世話焼き機に徹するつもりはない。

 彼女は肉体をどんどん改造し、いまでは頭のてっぺんをかぽりと外して、そこに広がる脳内宇宙に手を突っ込み、じかにアイディアを拾いあげる。

「こうしたほうが楽だって気づいたの」

 素材を使って閃きをカタチにするよりも、脳内宇宙から直接閃きを引っ張りだして、こねまわして、錬成してしまったほうが手っ取り早いのだと彼女は理解不能な理屈を振りかざす。

 妄言もたいがいにせいよ、と言えればよいのに、彼女は疑いようのないくらい正真正銘の天才で、ゆえに真実彼女の頭蓋はぱかりと開いて、閃きなる謎の物質を取りだせる。

 それは彼女の手により、粘土のようにこねくり回され、複雑怪奇な発明品へと姿を変える。

「これは時空拡張装置、こっちは次元変換機、あ、それはただのぬいぐるみ。かわいいからつくったの。いっぱいあるから一つあげるね」

 アホウじゃあるまいか、と前述したのを憶えておられるだろうか。撤回しよう。彼女はアホウである。

 しかし天才でもあるのが物事をこうまでもややこしくする。

 彼女はじぶんの身体が有限であることに気づいていないようであった。

 肉体を機械化してしまえば、閃きを無限に、無尽蔵にひねくりだせるとでも思っていたのだろう。そうは問屋が卸しても、物理法則が許さない。

 彼女の脳内宇宙からは徐々に、閃きそのものが減りはじめた。

 彼女は知らなかったのだ。

 生身の肉体であったころに構築された彼女の脳内ネットワークが、生身の肉体が感受する外部刺激の総体によって育まれていた側面を。

 より正確には、外部刺激を内世界へと変換する作業そのものが、そのひとをそのひと個人として規定し、人格を形成する。

 人格は閃きの源泉だ。

 機械化した肉体からはもう、脳内回路、自我、すなわち人格を育むための土壌が失せていた。

 演算能力は拡張できる。しかし閃きを生みだすための回路そのものは、肉体あっての物種であったのだ。

 知者が間違うときにはおそろしいほど根本的に間違うというが、天才が間違うときにはおそろしいほどに取り返しのつかない事態を引き起こす。

「どうしよ、どうしよ。段々アイディアが拾えなくなってきた。頭に手を突っ込んでも、何も掴めなくなってきちゃった」

 嘆くでもなく、単なる事実を口にするように、抑揚なく、かといって屈託もなく、困っちゃったね、と作業をつづけながら彼女は言った。

 拾いあげた閃きは残りすくない。彼女の作業能率は機械化の甲斐あって上昇の一途を辿っている。

 素材となる閃きばかりが指数関数的に目減りしていき、いよいよ彼女が歩くたびに、カラカラと音がするまでになってしまった。

「すっからかんになっちゃった」

 何がおかしいのか彼女は、頭を振って、マラカスの真似事をする。僕の心中を読んだのか、「見てみて、マラカスの真似」と真剣に音を奏でるので、録画してそのあまりの間抜けっぷりを客観的に見せてやる。

「あはは、アホっぽい」

「いやいや、きみはアホっぽいのではない。アホなのだ」

「みんなは天才って言ってくれるのにな」

「天才でもあるのは認めよう」

「やったー」

 作業の手は止まっていた。閃きは取り尽くされ、枯渇寸前だ。

 かろうじて未だカラカラと鳴る余地が残されているようで、彼女は暇さえあれば、身体を揺すってその音色を確かめるように、愛でるように、響かせた。

「どうせなくなるのは時間の問題だろう。出し惜しみせずにそれも引っ張りだしてしまえばよろしい」僕は見ていられなくて言った。「ひょっとしたら現状を打破するための閃きであるかもわからんぞ」

「あり得そうでこわいなぁ」

 彼女はわざわざ帽子を深くかぶって、分かりにくく、ノー、の意思表示をする。どうあっても彼女は最後の閃きの残滓を取りだす気はないようだった。

 分からないでもない。それを拾いあげてしまったらもう、彼女は、天才でも何でもなくなってしまう。

「安心したまえよ。僕は何もきみが天才だから面倒を看ていたわけじゃない。赤ちゃんにすらできることすらできない未熟者を見ていられなかったからそばにいたのだ。いまさらきみに欠点が一つ増えたところでどうも思わんよ」

「んー。でもこのままでいいよ」

 このままがいいの、と彼女には珍しく明確な意思表示をした。それを、駄々をこねた、と言い直してもよい。

「そんなに閃きをなくしたいのか」

「違うよ。これはそういうのじゃなくってね」彼女は身体を揺すって音をだす。「なんかね。手当たりしだいに引っ張りだしちゃったから、もうほとんど残ってないんだよね」

「閃きがだろ」

「ううん。それ以外も」

「それ以外って、たとえば」

「たとえば、そう」

 記憶とか、と彼女は言った。

 僕はそこで急速に彼女のこれまでの奇行が一つの線で繋がった気がした。彼女の閃きの源泉は、記憶だったのだ。それはそうだ。肉体が感受する外部刺激を素に脳内回路が築かれると言うのならば、記憶は重要な成分であって何の不思議もない。

 ただ彼女の場合は、

 機械化してしまった彼女の場合は、

 その記憶すら、いちど取りだしてしまったら蓄積されないのかもしれなかった。

「言語や知識はそれこそ無尽蔵に、容量いっぱいに記録はできるけどね。映像や音声もそう。でも、思い出とかそういうのは、体感としてのそういうのだけは、閃きといっしょでこのなかには仕舞っておけなかった」

 砂糖を使う料理に間違って塩を入れてしまった、だからちょっとしょっぱくなっちゃった、みたいな言い方だった。言葉の内容からはかけ離れた深刻さの欠片も窺えない淡々とした物言いで彼女は、

「記録と記憶は違うし、記憶と思い出も同じものではないんだよね。記憶を思い出にするには、閃きの土壌を耕すのと同じように、入力した外部情報を肉体を通じて編纂しなおす過程が入り用であって」

 あれは捨てないほうがよかったものだ、失敗失敗、と彼女は身体をよこに揺する。カラカラと音が鳴る。すでにここにない生身の肉体を、鍋の具か何かのように言い表す彼女が狂おしい。

「ならなおさら最後に残った閃きの種に賭けるしかないんじゃないのか。それでダメなら諦めもつくだろう。死ぬわけじゃないんだ、天才に戻れるかどうか賭けてみればいい」

 真実天才ならば、起死回生の一発逆転だって可能だろう。僕はそう言って彼女に、脳内宇宙に残った最後の閃きの残滓を引っ張りだすように促す。

 口ではこう言っているが内心僕は彼女にはまた元の天才に戻ってほしいと望んでいる。

 マラカスの真似しかできなくなった彼女の姿をこれからずっと目にしつづけていくのは、さすがの僕でも物哀しいものがある。

 だから、

「いやじゃ」

 ハッキリと拒絶の意を示した彼女に、なんで、と食ってかかった。

「試すだけの価値はあるだろう、いいのかこのままで。空っぽのままでいいのかよ」

 僕は彼女の名をそこで初めて口にした。

 叫ぶように。

 断罪するように。

 搾りかすみたいないまの彼女を否定して、以前の輝きに満ちていた生活能力のない天才を鼓舞するように。

「空っぽなんて言わないでよ」

 彼女はぴたりと静止して、首をゆるゆると横に振る。オモチャみたいにそれでも彼女の頭蓋からはカラカラと軽い音が響いて聞こえる。

「だってこれは」

 と彼女は言う。「最後に残った思い出だから」

 きみと過ごした思い出だから。

 身体がひどく震えだす。僕はたぶん、いま、僕の最もしたくないことを仕出かした。いまほどじぶんが天才でないことを呪ったことはない。彼女にかけるべき言葉一つ思いつけないのだから。

 彼女と僕のあいだに虚空が広がる。

 遠く開いたその合間に、カラカラと彼女の残滓の音がする。




【錆びた楔は抜けない】


 鉄の扉にじかに粋門(すいもん)と書かれている。マジックで、筆跡は控えめに言っても上手ではない。ぎりぎり「米」と「九」と「十」がひと塊に見えるが、「門」のほうは、ほとんど上下につぶれており、瀕死のヒキガエルのほうがまだ厚みがありそうだった。

 ホントにここなのかな。

 半信半疑に私は、ノックをし、返事がある前からドアノブをひねって手前に引いた。鍵はかかっていなかった。

「すみません、失礼します。粋門さんという方たちが相談に乗ってくれると伺ってきたのですか」

 大学の一室だ。がらんとした部屋だった。わざわざ床に物を置かないようにしているのか、不自然に真ん中に何もなく、奥のほうにぎゅぎゅっとちゃぶ台やソファが、人形の家みたいに狭苦しく押しやられていた。

 ソファでは人が寝ていたようだ。

「あいよ、あいあい。ちょいとこのままで失礼するよ。いま抱えてる案件に手こずっててね。徹夜につぐ徹夜、にならぬようにいまのうちに英気を養ってって、や、お客さんに聞かせる話じゃないわな。聞いてるからいいよ話して。その相談ってやつをさ」

 声は女性のものだ。酒で焼けたようにしゃがれている。寝起きだからが要因ではないのだろう、現に頭を痛そうにしている。

 ハスキーではあるが、耳に小気味よい声だった。

 天井を突くように腕が伸び、手伝えるかは相談による、と声の主は告げた。腕にはタトゥーのようなものが見えた。

 私は彼女に名乗ってから、妹のことについて語った。絵描きを目指していた妹が、いま筆を折ろうとしている。

 ことの発端は、ことしの春にまで遡る。いまから半年前、念願だった美大に入学した妹が、日に日に生気を失い、顔に陰を落として、いまではすっかり絵を描かなくなってしまった。

 何か悩みがあるのか、と私は訊いた。妹は、じぶんは才能がないのだ、とことあるごとに繰り返して言った。そんなバカな話はなかった。妹の入学した大学は、美術大学のなかでも屈指の名門校だ。入学しただけでも並大抵の才能ではないことは証明されているようなものだ。

 いいや、美術に関してはてんで素人の私がそう思うだけで、入学したあとにこそ本物とそれ以外に篩いにかけられるのかもしれないが、それにしたってまだ半年も経っていない。諦めるには早すぎるように思うのは当然だろう。身内のことだ。誰より近くで応援してきた。身内の贔屓目を抜きにしても、否、身内だからこそより厳しい目で見てこそ、妹には才能があると思えた。いまはまだ認められるのに時間がかかるかもしれないが、しかしそもそも絵画など、一般人からの知名度はないに等しい。認められる、認められない、という指標で才能を語ることそのものが素人の発想と言えた。

 私ですら理解しているそれを妹が解かっていないわけがない。

 なんとか事情を聞きだしたところ、どうやら本物の才能というものを見てしまって挫けてしまったようだった。なまじ才能があるばかりに、本物とじぶんの差を知って、このさきどれほど努力しても追いつけない現実に打ちのめされたのだろう。解らない話ではない。

 こと芸術に関しては、歴然とした事実として、越えられない何かがある。持っている者は持っており、持っていない者はこのさきどれほど時間と労力を費やそうと同じ土俵に立つことはできない。それは人間が翼を持たないがゆえに、空を自在に飛べないことと同じと言える。

 ただし人間は工夫することができる。鳥のように飛べずとも、鳥の飛行原理を紐解き、鳥と似た道具を生みだすことができる。創ることができる。

 そもそも同じ土俵に立つ必要はない。じぶんの土俵をじぶんで創ってしまえばいいだけの話だ。

 才能がどうのこうのと悩むのは、それこそ芸の道を極めんとする者のすることではない。

 私はかように叱咤激励したが、妹にはどうにも通じなかった。

 いったいどんな化け物と出遭ったのか。私は妹を半ば脅して、その人物の情報を子細に聞きだした。

「ううキモチワル。そこんところに飲み薬ない? 酔い止め」話を遮られ、私は戸惑う。ソファから伸びた腕が、ちょいちょいと冷蔵庫のうえを指差した。「そうそれ。持ってきて。ああどうも、あんがと。ついでに飲み物も取ってくれん? そっちの冷蔵庫に入ってるから。はいはい、はいどうも」

 ぐびぐび。

 水を飲む音がしたあと、げふ、と下品な音が聞こえる。

「あい、あんがと。関戸(せきと)さんだっけね。えっと下の名前は?」

「メルです」

「かっこいい名前やね。いいなかわいくもあって」

「あの、失礼ですがお名前を伺ってもよろしいでしょうか」散々話をしてからというのも変だが、名前を打ち明けない相手を信用はできない。

「あたし? あたしは水流彫(すいりゅうちょう)。名は雪に鬼と書いて、セッキ。好きなほうで呼んで」

「かっこいいお名前ですね。あの、偽名だったりとか」

「そんな痛いことはせんよ。せめて偽名ならもっと目立たないのにするね」

 常識は備えてはいるようだ。安心した。不安は消えてはいないが、話をするに値しない人物というわけではなさそうだと、ようやく喉につかえていた骨がとれた心地だ。

「あっと、ごめんごめん。なんだっけ。妹さんの宿敵がついに判明したわけね。で、どんな天才だったのそいつは」

 宿敵ではなかったが、話をからっきし聞いてない可能性もあり得るなと案じていたので、要約されたことで肩のちからが抜ける。

「その人はインターネット上でも絶大な人気を誇っていました。妹の同年代です。片や誰からも見向きもされないしがない絵描き、片や大多数からの知名度、人気、稼ぎ、実績、すべてが華やかな作家。エリエルという方なんですけど、ご存じですか」首を振られたので、流行には疎そうだものな、とかってに判断して話をつづける。「一日に一作、必ずネット上に絵をあげているんです。授業にも出て、展示会の絵も仕上げて、モデルとしても活躍しているそうで、その仕事をこなしながら各メディアの取材も受けつつ、一日一作。それもとても手癖とは思えないうつくしい絵を。妹の心の芯はぽっきりと折れてしまったみたいで」

「そういうこともあるでしょうよ。芸術の分野に限らず、スポーツにしても、ビジネスにしても、一流とその他有象無象のあいだにはれっきとした差があるもんよ。そこで折れちゃうならその程度の器だったんだ。諦めたらいい」

「私もいっときはそう思いました。妹に苛立ち、そんなことで音をあげて情けない、と叱ったりもしたんですけど、どうやらそれだけではなかったようで」

「まだあんの」

「はい。いろいろなところで、そのエリエルさんはじぶんの一日の作業量を語っていて。一時間で一作仕上げられるとか、一週間あればどんな大作でも、それが最後の晩餐のような絵でも仕上げられるとか。現にその様子を配信した動画とかもじぶんのアカウントに載せたりしていて」

「へえ。すごいじゃん。サービスもいいし、そりゃ人気でるだろうね。妹さんも真似すればええんでないの?」

 ぼりぼりと頭を掻きながら涅槃のかっこうで彼女、水流彫雪鬼は欠伸をする。

 私は眼鏡を外し、服の袖で拭く。

「それができれば苦労ないですよ」と装着し直す。「それができない者が大勢いるからすごいんでしょうに。エリエルさんは天才なんでしょう。それはそうなんでしょうけど、まるでプロになりたければこれくらいできなきゃ、みたいに煽らなくてもいいと思いません? もちろんご本人にそんなつもりはないんでしょうけど、私は妹が、一筆一筆、どれだけ真剣に、苦しみながら線を引いているのか、色を塗っているのか、ずっとそれをそばで見てきました。一日にどれくらい作業が進むとか、どれくらいの期間で仕上げられるとか、そんなことで測れるような価値なんかではないでしょう絵というものは。そうじゃありません?」

「んん。だとしても、より短時間でよりよい物をよりたくさん生みだせたら、やっぱりその能力には付加価値というか、作品ではなく、作者そのものに価値がつけられるのはべつに変だとは思わんけどな。あたしは」

「だとしてもです」私はじぶんが声量を制御できなくなっているのを自覚しながら、言わずにはいられなかった。「トップにいる人が、プロみたいな人が、まるでじぶんくらいに努力しなきゃやっていけないとか、舞台にあがれないとか、特別になれないとか、そういう風潮を築きあげるのは哀しいです。そのつもりがなくたって、否応なく目に留まるじゃないですか。苦しんで、苦しんで、きょうも進まなかった、きょうもダメだった、そうやって一筆一筆丹念に、魂削って、水滴で石を削るみたいに創作しているひとだっているのに、まるでそうじゃないことに価値があるみたいな、じぶんくらいせめて努力してから才能のなさを嘆きなよ、みたいな、もちろんそんなことは誰も言ってないですけど、やっぱり思っちゃいますよ。上を見あげているほうは。才能のない人間にはそう見えちゃいますよ」

「で? あたしに相談するってことは、何かしらの楔を打ちたいってことだろ。誰かの邪魔をしたいってそういうことだ。じゃあ何かいメルさん、あんたはあたしに、その天才の足を引っ張れとそういう依頼がしたいのかな」

「違います。エリエルさんが努力して、実力でいまの環境を築いているのは知っています。それは私だって、すごいし尊敬してるしやっぱり憧れますけど、そうじゃなくって、うまく言えないんですけど、才能のあるひとが才能に見合った環境を築く過程で、副次的に生じてしまう淀みのようなものを、どうにかできないかなって」

「淀みねぇ。つまりあれかい。一日に一作とか、一日にどれくらい絵を描けるとか、そういうことで作家の才能が測られてしまうような、価値が高いと見做されるような、そういった流れをどうにかしたいと、そういうことでいいのかな」

「そ、そうです。それです私が言いたかったのは」

「言い換えればそれは、どんなにゆっくりだろうと、いいものをつくればそれをいいと評価される土壌を築きたいってことだろうけど、それは裏から言えば、妹さんが評価されやすい土壌を、いまある土壌を損なって相対的に高めるってことでもあって、けしてやさしくも正しくもないってことは判ってて言ってんのかなメルさんは」

「私は、才能のある人間が、才能のない人間を無自覚に蹴落として築くような流れは肯定したくないですし、受け入れたくないだけです。でもこれってやっぱり、才能のない側のひがみなんでしょうか」

「評価されなきゃいけないって流れそのものを前提にしている以上、それはやっぱりひがみであり、嫉妬だろうね。じぶんたちよりも能力のある者を大なり小なり引きずり降ろそうって働きかけさ。何ら変わりはない――とあたしは思うけど」

「では私はこのまま黙って妹が筆を折るのを眺めているしかないのでしょうか。妹はただ、信じられなくなっただけなんだと思うんです。じぶんが描かなければこの世に生みだされない絵をこの世に描きだすだけでも、じぶんにとっては価値があるのだと。それでひとまずは充分だと、そう思えなくなってしまっただけなんだと思います。まるで、一時間にこれだけ絵を描けなければ才能がないみたいな、一日にこれだけ作品を仕上げられたら特別な才能がある、と見做されるような、そういう一種スポーツみたいな競技に知らず知らずに巻き込まれて、疲れてしまっただけなんだと思うんです。だって誰もそんな競技なんかしていないのに、まるでそこに参加しなければプロにはなれないみたいな、才能がないみたいな、そんなのって私は理不尽だと思います。アマチュアがやるならまだ分かります。そういう楽しみ方があってもいいと思います。でもそれを、トップにいる、すくなくともプロと呼べる人物が嬉々としてするのは、なんかちょっと見ていられなくて」

 だってそうじゃありませんか、と私は親指を握りしめる。

「強引にそういう競技に参加させられているみたいで。誰も参加したいなんて言っていないのに。一部のプロが、じぶんの作品ではなく、創作過程の、どれだけ時間をかけずにそれを仕上げているか、をまるで作家の価値の重大な資質みたいにでっちあげているみたいで」

 もちろん解りますよ、と念を押す。「確率の問題として、たくさん作品を描けば上達しやすいでしょうし、うつくしい絵を掘り当てる可能性も高くなると思います。質の高い訓練をたくさんすれば、それは上達するでしょう、でも、それは因果が逆じゃないですか。目的と手段がさかさまですよ。よりよい、うつくしい、満足のいく、理想の作品をつくりたいから、結果としてたくさんつくってしまうのであって。まるでどれだけ短時間で作品を生みだせるかを誇るなんて、そんなのは、なんか、いびつです」

「そういう意見もあっていいとは思うけど、その天才さんは仕事で絵を描いてもいるんでしょう。だったらそれこそ天才という付加価値を高めるために、嫌々そういう演出をしている可能性だって充分あると思うけどねあたしゃ」

「それはそうでしょう。ですから私は何も、エリエルさんを目の敵にしているわけじゃないんです。ただ、そうした本当に才能のあるひとたちが成功を掴むために築いていく流れの隅で、その流れの余波に煽られて、溺れて、泳ぎつづけられなくなってしまう者もいる、掘りつづけられなくなる者たちがいる、それをどうにかしたいというだけの話で」

 流れがつよすぎるのが問題なのだ、と私は口にしながら、そうなんだよね、とじぶんの行き着いた答えに納得する。誰がわるいではない。ただ、あまりにその流れが熾烈すぎて、強固な渦になりすぎていて、本来そこに触れずに済む者たちまで巻き込んでしまっているのが問題なのだ。

「スポーツみたいに短時間でどれだけ絵を描けるかを楽しんだっていいと思うんです。でもその能力の多寡を、その競技に参加していないひとたちにまで意識的にしろ無意識的にしろ当てはめて、才能の有無の判断材料にされることが、私はたぶん、我慢ならなかったんだと思います」

 そうだ、と私は思う。私は怒っていたのだ。

 妹のあの苦しんで、苦しんで、それでもなんとか筆を振る姿を、線を引く姿を、色を塗る姿を、ダイナシにされた気持ちになった。損なわれた気持ちになった。蔑ろにされているように映った。

「でもそれはメルさんがかってにそう思っているだけでしょうに。依頼は受けてもいいけど、若干エリエルさんに同情しちゃうな。あてつけみたいというか、まんまあてつけですやん」

「そう、かもしれません」

「あ、認めるんだ」

「はい。認めます。あてこすりです。才能のある者がその才能をいかんなく発揮できる舞台で、苦しみながらもいかんなく能力を発揮していることに対しての、あてこすりを私はたぶんしたいんだと思います」

「ぶぁっは。いいね、その性根の腐り具合。しかもそれ、じぶんの話じゃなくって妹さんの話なわけでしょう。メルさんあんた、微塵も関係ないじゃないっすか」

「ないですね。いいんですよ。だって妹は絶対に私みたいにひねくれた考えを抱いたりはしないんですから。どうあったって水流彫さん、あなたみたいなひとに天才たちの邪魔をしろ、なんて頼みませんから」

 だからいいんです、と私は拳を開け閉めする。「私がかってに暴走して、かってに他人の邪魔をして、損なって、それで妹が筆を折らずにいられる余地が生まれるなら、それでいいじゃないですか。天才たちはどの道天才ですよ、すこしくらい渦を弱めたって筆を折ったりはしませんよ。なんせ才能があるんですから」

「本人たちが聞いたら激怒するだろうね。誰より努力して、才能がないことに悩んで、それでもくじけずに歯を食いしばって目のまえの目標に向かってじぶんにできることを妥協なくしているだけで、そんなひがみを向けられるってんだから。天才を天才と呼ぶのはいつだってその他大勢さ。天才はきっと誰より才能のなさに悩んでいることだろうよ」

「私はそうは思いませんけどね。本当に天才ならそもそも他者からの評価なんて気にしないでしょうし」

「そりゃそうだ」

「依頼を引き受けてくださるんですか」

「ええよ」

 彼女はもうソファに寝そべってはいなかった。毛布を丁寧に畳むと、よっしゃ、と背伸びをする。ジーンズにぶかぶかのワイシャツといったいで立ちで、中にはタンクトップ一枚だ。肌には墨絵のような入れ墨が彼女の身体をぐるぐると巡っている。縄のようにも、蛇のようにも見える。頭部らしき部位は見当たらない。服に隠れているのだな、と私はその絵柄を蛇だと見做す。

「メルさんの依頼は引き受けた。成功報酬でいいよ。ただし、ちょっと完遂までには時間がかかる。というのもいま別件にかかりきりでね。線は引き終わってんだけど、どうにも火種不足でね。なかなか目ぼしい人材が見つからなくってさ」

「はあ」

「今回の依頼と似たような話でね。メルさんの場合は絵描きだけど、いまあたしが手掛けてるのは物書きのほうでね」

 私はどきり、とする。「物書き」

「なんでも、物凄い天才作家を発掘して世に送りだしたいんだってさ。だったらじゃあ大勢で一人の天才作家を創りだしちゃおうよってな案をあたしは考えて、結果実行中なんだけども、物書きのツテが足りなくってね。なかなかよい書き手も見当たらない。こんなゴーストライターみたいな真似、よほどの暇人か酔狂じゃなきゃ引き受けないし、そもそも極秘裏に進めなきゃあかんでしょう。話を持ち掛ける前からそれなりに物書きとしての才能を測らなきゃってんで、まあまあ、もうもう、お手上げよ。だからまあ、メルさんにも本当は話しちゃダメなんだけど、あるでしょう、ほら。信頼関係を結ぶ常套手段に秘密を共有するってやつ。それだと思って、もうすこしあたしの愚痴に付き合ってよ」

「あの、お代のほうってどれくらいになるんでしょうか」これが依頼である以上、お金の支払いが生じる。ここを紹介してくれた知人からは前以って聞いていた。用意はある。だがもし払わずに済むならそのほうが楽なのも確かだ。

「誤解されがちだけど、これって人道支援みたいなもんでね。経費に掛かった分だけしかもらわないことにしてんだよ。言ったら極論、あたしの娯楽だからさ。とはいえ、本気で遊ぶ分、それなりの経費がかかる。人も時間もかかるからね」

「あの、もし私が水流彫さんのお手伝いができたとしたら、すこしはお安くしてもらえますか」

「手伝いってなになにぃ? 小説でも書いてくれんのかい」

「はい。私、じつは覆面で作家をしていまして。物書きです。小説です。いちおう、プロなんですけど」

 水流彫雪鬼は、重たげな瞼をぱちくりと見開き、まじで、と声なく口を開け閉めする。

 私は眼鏡をゆびで押しあげる。

「マジです」


 妹は果報者だ。謙虚で努力家の性格のお陰か、ふだんの行いがよいのか、人徳か。それとなく妹の友人たちに、天才絵描きをでっちあげる案を冗談めかし聞かせると、面白そうだ、と食いついた。

「それってあれですよね。みんなでよってたかって絵を描きあげて、一人の絵描きの作品としてネット上に毎日数作載せてって」

「そうそう」

「んで無名なのに、素人なのに、それでもこんだけ筆速ぇぞ、ってそれとなく示して、付加価値の大暴落を狙うって話?」

「そうそう」

「べつに有名になるのが目的じゃないんすよね」

「なっちゃダメだね。価値があがっちゃうから。飽くまで無名のまま、誰からも無視されながら、それでも事実だけ残す。記録だけを残す」

「それでプロが黙りますかねぇ」

「どうだかね。でもプロとしての矜持があるなら、せめて私たちのつくりあげる作家一号ちゃんよりもぶっちぎりで上じゃなきゃあ、公言できないよね。だってそれで私たちの作家一号ちゃんよりも下だったら、アマチュア以下ってことになっちゃうし」

「しかも知名度ゼロの」

「そうそう」

 私たちは額を突き合わせて、クスクスと肩を弾ませる。

 妹の友人たちには、協力してもらうついでに、物書きのほうの奸計も手伝ってもらうことにした。書き手は私が加わって足りたけれど、読み手が足りない。感想を聞かせてもらい、より天才らしい作品に磨きをかける役割を担ってもらう。

 粋門はいっとき大所帯の組織となったが、予定量の作品が溜まると、物書き衆から順に解散していった。一定期間更新し続けるだけの作品数が用意できた。それが尽きるまでに、世に流れる淀みが薄れれば御の字、そうでなければまた再招集されることだろう。

 絵描きチームにはまだもうしばし頑張ってもらわねばならなそうだ。粋門のねぐらは朝から晩まで賑やかだ。

 人の足を引っ張り、邪魔をし、世に流れる水流を水門のごとく調整する女、水流彫雪鬼からは、各働きに応じて各人に報酬が配られた。

「拘束した時間分は払うぞぅ。そんかし手は抜くなぁ。本気だせぇ。仕事じゃねぇんだぞ、遊びだぞ遊び。めいいっぱい遊べ、遊べい」

 まるでいたずらをして回るがきんちょのように水流彫雪鬼は、丸めた同人誌を拡声器にして野次ばかりを飛ばす。

「文句はないんですけどね、水流彫さん」

「んだよメルちん」

「水流彫さんも手伝ってくれませんか。絵くらい描けますよね。色を塗るだけでもいいですけど」

「おいおい、やめろよ。せっかくの種がダイナシにならぁな。あたしの才能のなさを舐めんなよ、ショートケーキに醤油かけるようなもんだぞ。泥でもいいがよ」

「それはちょっと食べたくないですね」

「そうじゃろう、そうじゃろう。あ、ケーキ食いてぇな。誰か買ってきてくれよ、ついでになんか飲みてぇな。喉がしゅわしゅわするやつ飲みてぇな。ジュース以外で」

「まだ昼なんですけど」

「いつかは夜になんだろ。どの道、宇宙はまっくらさ」

「太陽があるのでけっこう明るいのでは?」

「そうだな。じゃ、毛布かぶって飲むから。即席の夜にもぐって飲むから。つうかメルちん、あんたいつからあたしのママんになったんだい。いつからパパんになったんだい。お小遣いもくれないで、小言ばかりはいけないよ」

「はいはい。じゃ、私買い出し行ってきます。何か欲しいものあるひとぉ」

 バババ、と手が挙がる。順々に聞いて回り、メモをする。それからかろうじて粋門と読めるミミズ文字の書かれた扉を開けて、そとにでた。

 雪が舞っている。

 記録的な何かしらの気候を毎年のように観測する。どうせこれも例年にない何かしらになるのだろう。記録に残り、そしていつか塗り替えられる定めなのだ。

「不毛だなぁ」

 ぼやきは白くモヤとなって虚空に消える。

 純粋ではあり得ない。私はすっかり錆びついてしまった。いまさらなにを、と苦笑する。かじかむ手をこすり合せて、買い物のリストを脳裏で反芻する。

 妹はまた筆をとって、新作にとりかかっているようだ。何度もキャンバスを塗りつぶし、頭を抱え、寝ていても唸り声をあげている。絵具代を稼ぐためにバイトをかけもちし、インターネットは極力見ないようにしたらしい。

 身体を壊さなきゃいいけど。

 壊すくらいなら、絵なんか描かなくていいと、私はついつい言ってしまいたくなるけれど、妹の真剣に、熱心に、一点集中して、闇雲にキャンバスに筆を走らせる姿を見てしまえば、そんな文句は引っ込んでしまう。

 うつくしいと思う。

 きれいだと思う。

 もっと眺めていたくて、胸がくすぐったくて、ほくほくと温かい。

 彼女の手は遅い。

 亀のように、窓を伝うしずくのように、ゆっくりゆっくりと、彼女の生を、静を、引いていく。

 それでいい、と思う。

 それがいい、と思う。

 澄んだ水面のごとく、しんと張った彼女の糸を、世界を、いたずらに揺るがしたくはないのだから、私は彼女に代わって、彼女の邪魔となる渦の余波を、この手でひそかに阻害する。

 糸を引く。

 水流彫雪鬼なる、けったいな筆を用いて、水門を閉めるように、錆びた楔を打つように、絡まる淀みに一線を引く。




  

【威と赤を交わす】


 百戦錬磨、いい言葉だ。天下無双よりも好きな四文字熟語なのは、百回闘ってなお驕らずに高みを目指そうとする姿勢が窺えるからだ。

 昼間は駅の利用客でごった返す広場は、夜になると天然の闘技場へと様変わりする。

 ストリートファイトではない。武闘でもない。

 舞踏である。

 踊りの優劣で、人間としての強度が決まる。しのぎを削るという言い方があるが、削るのは命そのものだ。

 音楽を燃料に、その場の誰よりも自在を表現する。己を表現する。自由自在を観ている者たちに最も体感させた者が勝ちをもぎとる。

 いままさに闘技が行われ、熱気が渦となっている。誇張ではない。現に足元の枯れ葉が、それはおそらく広場の飾りとして植えられている街路樹のものだが、足元にカラカラと転がりつむじ風の軌跡を描きだしている。

 一人の少年が足を円形にぶん回し、手だけで浮いて、独楽さながらに回転する。二周、三周では止まらない。格闘ゲームの技だってもうすこし遠慮があるものだ。最後にぴたりと静止し、片手だけで数秒止まる。観客が湧く。みな舞踏者だ。相手の番だ、線の細い女の舞踏者だが、彼女は相手の超絶技巧を物ともせずにじぶんの表現を落ち着いて返す。一瞬の静寂のあと、音楽を構成する音を分解し、それらすべてを全身で拾っていく。まるで彼女そのものが楽譜になったようだ。

 音楽と、ときおりキュっと響く足音だけが空間に反響している。

 観客は沸くどころか彼女の舞いに見入っていた。

 勝敗あったな。

 闘技がいち段落つき、観客による挙手で勝者を決める。挙手の多いほうが勝ちだ。いまの闘技おいて勝ったのは、場を席巻した少年のほうだった。

 こいつら見る目ねぇな。

 笑っていると、この場の重鎮がやってきて隣に立った。年長者だがいまでは現役を退いて、若い子たちの育成に熱をあげている。名前はそのままジュウチンだ。

「よお。今日は踊らねぇの」

「あたしが出たら可哀そうじゃん」

「たしかに」

「みんなだってやりにくいっしょ。荒しと思われるのは勘弁だよ」

「世界大会行ってきたんだろ。どうだった」

「まあまあ」

「順位は?」

 指を二本立ててやると、

「準優勝だったかぁ。でもすごいじゃん」ジュウチンは勘違いをした。

「優勝だよ。世界大会って言っても有名なやつじゃないから」

「いやいやそれでもすごいって」

「すごいと言えばさっきの女の子。初めて見たけど、この辺の子? どっかから遠征にきたの?」

「そうみたいだな。ここの闘技はいまじゃ動画になって世界中どこからでも観られる。けっこう観られてるみたいでな、知らぬ間に闘技の聖地の一つなんて言われてるらしい」

 鼻を高くするジュウチンにはわるいが、ここが聖地ならばニューヨークの道路はどこも神域になってしまう。ネットの情報をあてにすんな、と助言を呈してから、なんかいいイベントないか、と水を向ける。

「イベントなぁ。闘技って意味だろ。さいきんはほら、数年前のあれがあってからすっかり下火になっちまってな。それこそネット中継のライブで画面越しに闘技するのが流行ってんだ。ニッカちゃんが言ってんのはそういうんじゃないんだろ」

「現実の舞台で踊りたいよ」

「それこそ企業がスポンサーにつくような大舞台でないとなぁ」

「それでいいよ。なんかないの」

「珍しいな。ニッカちゃん、そういうの嫌がってたろむかしから」

「こんなご時世だからね。あたしも時代の変化に馴染んでおこうと思って。じゃなきゃ喧嘩売るにも売れないっしょ」

「ニッカちゃんらしいな。だがそれこそスポンサーが集まんないってんで、どこもいまはないな。すっかり廃れちまった。企業は見切りつけるのが早いからな。儲からないと判ったらこれだよ」ジュウチンはゆびで首を撫でる。

「そういや前いたメンバーも見なくなったね。きてんの」

「ここにか? や、おれは見てねぇな。舞踏なんざやってても食えてけるわけじゃねぇしな。みんな生きてくだけで必死よ。ニッカちゃんくらいだぞ、もう二十年近く裏街道で闘技やりつづけてるコなんて」

「さっきの少年も学校卒業したらやめんのかな」

「どうだかな。いつまで舞踏を好きなままでいてくれるか。本人次第だろ」

「ジュウチンさんがこうやって闘技の場を守ってくれてるから助かってるよ」

「おらぁ、こうでもしねぇとただのおっちゃんだからな。若い子からすこしは尊敬されてぇのさ」

「だっせぇ理由」

「だからぜんぜん尊敬されねぇの」

 あたしは笑った。確かにその通りだった。ジュウチンはみなから尊敬されていない。慕われているのだ。そこがあたしとの大きすぎる違いだ。

「邪魔したね」

「またきてくれよ。こんどは闘技者としてさ」

「考えとく」

 腹が減ったので闘技場を離れる。闘技はまだつづいている。つぎは優勝をかけて、さきほどの少年と舞踏歴の長そうな男が対峙する。音楽が流れる。少年の踊りを歩きながら見届け、相手が躍るころには道を曲がった。

 欠伸をする。

 退屈だ。

 張り合いがない。

 本気で舞踏をやっているやつの踊りが見たい。ぶつかり合いたい。命を、技を、ぶつけ、会いたい。

 好敵手に。

 じぶんよりも先を行っているやつに。

 見えない道を行く者の舞を見たい。

 親戚の叔母の店でバイトを済ませ街に繰りだすと、見覚えのある背中を見つけた。背格好からして闘技場にいた女の子だ。闘技のときの装いと異なり質素で、いかにもピアノを弾きそうな格好をしているが、歩き方からして重心のずれがいっさいない。身のこなしがすでに舞踏だ。姿勢がよいだけでひとは街中で浮く。そうした視線にすらまるで意に介さない姿が余計に浮いて見えた。

 これからまた闘技場で踊るのだろうか。それともスタジオでレッスンでも習っているのかもしれない。昨今の若手はみな行きつけのスタジオがある。幼いころから習っているからこそ例の少年のごとく超絶技巧をおとなよりも凄まじい技を習得している。

 が、この女の子はそういうのとは違った個性を放って見えた。それだけに、べつにわるいことではないが、スタジオ通いの子だと知って妙に落胆しているじぶんがいる。

 天然と養殖を比べて天然のほうが上だと思うほど愚かではないつもりだが、それでも個性は、手取り足取り先人から教わって身に着けるものではないと思いたい。そうした意地のようなものがじぶんの中には根強く油汚れのごとく染みこんでいる。

 じぶんの生きてきた過去の軌跡を、ほかの者の歩んでいる道よりも価値のあるものと思い込みたいだけだ。

 未熟だ、とじぶんを戒める。

 気づくと女の子のあとをそのまま追っていた。これじゃ変質者だな、と我に返る。

 闘技場からは遠のいていくので、ほかに用事があったのかもしれない。どうせ夜になれば闘技場に現れるだろう。言葉を交わすならばそこでのほうがジュウチンもそばにいる分、難がない。

 そうと判断し、踵を返そうとすると、女の子が雑貨ビルに入っていた。それだけなら後ろ髪を引かれることもなかったが、彼女の入っていったビルは廃墟だ。改修工事が決まっていながら、例の世界的災害の発生によって工事が中止し、そのままになっている。

 女の子が一人で入るには危うく感じた。いや、性別は関係ない。こんなところに一人で入っていくことそのものが何かしら犯罪の匂いがする。

 ただでさえ闘技を嗜む者たちは、その見た目から素性のよろしくない者の集団だと見做されがちだ。薬物しかり、男尊女卑しかり。弱肉強食を地で描いた時代があっただけに、その弊害はいまでも尾を引いている。

 端的に、偏見の眼差しで見られやすい。

 いまはむかしに比べればだいぶマシだ。

 我々の愛好する舞踏の一形態が世界的な運動の祭典にて公の競技として認められたため、以前よりかは風当たりは弱まった。しかし、それも一般への知名度はまだまだ浸透しているとは言い難い。

 女の子がどんな理由で廃墟ビルに入っていったのかが気になった。犯罪行為に加担しているにしろ、そうでないにしろ、確かめておいて損はない。誰にとっての損かと言えば、あたしにとってであるし、ひいては闘技そのものの未来にとってでもある。

 先人の一人として、未来ある若者の道を見守るのも役割の一つだろう。野次馬根性がうずいているのを横に置いて、あたしは廃墟ビルに足を踏み入れた。

 女の子の影は階段に入った。

 足音は上ではなく、下へと向かっている。地下二階へと降りるための扉を開けたときだ。音楽が鳴っていることに気づく。

 潰れたバーの一室だろう、乱雑に積みあげられた椅子が山になっている。その真ん中に即席の闘技場が開いている。ちいさなコロッセオだ。

 練習場所だったのか。

 疑問はそこで踊る二つの影を見て確信に変わった。

 じぶんのホームともいえる街に、踊れる場所がまだあったことにまず驚く。

 舞踏においてそれをつづけるうえでの難関がいくつかある。その最初の関門が踊り場の確保だ。

 世界的災害の影響で人通りの多い場所は使えなくなった。室内も人が集まるので好ましくなく、利用禁止にされた場所は数知れない。スタジオを借りられればよいが、そもそもそのスタジオが運営しつづけていけるほどの余裕がなく、ゆえに安価で貸しだすところがなくなった。

 人通りのない真夜中か、或いはひと気の皆無の森閑とした場所でなければ踊ることもできない。ましてや音楽を流すなど、できやしないのだ。

 床の材質の問題もある。靴は消耗品であり、衣服はすぐに破ける。コンクリートやアスファルトのうえで踊ろうものならば膝は擦り剥け、指は赤切れる。怪我をしないように動きに制限がかかり、本気で動くこともままならない。

 闘技場がなぜああも盛況するかと言えば、安全に踊れる場所がほかにないからだ。ジュウチンのようなおとなが管理役を担っているのもその影響がある。

 闘技は何も舞踏だけではない。正真正銘の武闘家や、スケーター、ラッパー、ほかにも闘技を生業とする者たちはこの街では珍しくはない。新陳代謝よろしく世代交代を繰り返し、種目を増やし、ときに消滅して、新たな芽をその土壌に萌やすのだ。

 目のまえの二つの影もそうした芽のひとつだろう。知らぬ間に、血沸き肉躍る個性が育っていた。

 しばらく遠目から二つの影を眺める。

 音を的確に拾うのは例の女の子だろう。音を点で捉え拾いあげるだけでは飽き足らず、音程に合わせて手足の上げ下げにすら意識を配っている。

 指揮者よりも情緒豊かに、旋律を鮮やかに浮き彫りにする。音色の高低差が彼女の一挙一動、ゆびさきの軌跡一つとっても見事に表現されている。

 以前試していたじぶんの練習方法を思いだす。録画したじぶんの舞を音を消して観てなおその音楽が耳に聴こえるかを試したのだが、どんなに試行錯誤しても、無音のじぶんの踊りから旋律はおろか、音楽の種類すら幻視できなかった。

 むろんじぶんが何の曲で踊っているのかは知っているわけだが、それでも音楽はじぶんの踊りからは聴こえてこなかった。

 世界中を探してもおそらくその領域に立っている者はいないだろうとそのときは諦めたわけだが、誤謬だった。

 うれしい誤算だ。

 いま目のまえで踊る女の子は、その領域に足を踏み入れつつあった。

 完全ではない。

 だがあたしの見ている道のさきに通じる表現をその身体を通じて編みだそうとしている。

 こんなにうれしいのはいつ以来だろう。いつまでも観ていられる。踊りたくなってくる。

 目が離せなかった。

 踊り疲れたのか、五つの曲を踊りきると女の子は椅子を引っ張りだして腰掛けた。

 あべこべに闘技場に見知らぬ輪郭の青年が入った。

 線が細く、女の子と比べても高いとは言えない背丈だ。音楽が流れる。選んだのは女の子だ。

 クラシック音楽が流れずっこけそうになるが、青年が脱力した腕を真上に突きあげたのを皮切りに、目が釘付けになった。

 バレーではない。

 それは判った。

 裏街道で行う舞踏の系譜を引いているのは一目して瞭然であったが、これまで目にしてきたどの舞踏とも合致しない。

 女の子のほうの踊りは飽くまでその表現力が突出していただけで、繰りだされる舞踏の型、その組み合わせそのものは、既存の体系づけられたある種の流派に分類可能な踊りだった。

 それがどうだ。

 いま目のまえに現れているのは、正真正銘のここにしかない踊りだ。この世のどこにもない、真実彼が舞うからこそ表れる世界そのものだった。

 もったいない。

 固唾を飲みこむ。いますぐ手のひらを差しだし、零れ落ちゆく別世界の欠片を一つ残らず搔き集めたかった。

 曲の途中で飽きたのか彼は踊りをやめた。

 あたしはこのとき、音楽から柱がはずれ、視界から別世界がジグソーパズルのごくバラバラと崩れる様を如実に感じた。じっさいに身体の表層で感じた。体感した。

 クラシック音楽は嫌いではなかったが日々のなかで好んで聞く類の音楽ではなかった。だがいまはじぶんもいまの曲で踊ってみたくて仕方なかった。

 同時に、じぶんが躍ってもいまのように曲に見合ったここではない別世界を編めるとは思えなかった。

 じんわりと背筋が熱を帯びた。それはどこか恥辱の念に似ていた。

 思いあがっていた。

 世界大会に招待されるくらいの腕前だからと、もはやじぶんは確固とした地位を築きあげ、世界に目を向けなければ競い合える舞踏者すら見当たらないとほかの舞踏者たちを見下していた。

 なんのことはない、見ていなかっただけだ。

 こんなに身近に二人もいるではないか。

 張り合うなんてとんでもない。

 青年と女の子はあたしのはるか先、あたしにも見えない世界をすでに見据え、足を一歩と言わずして浸からせている。指をかけ、前人未到の深淵なる森へと繋がる崖をのぼりはじめている。

 交ぜてくれ。

 あたしは望んだ。仲間にあたしも入れてくれ。そう祈ることであたしはようやくじぶんが巨大な壁にぶちあたってずっとその場に立ち止まっていただけなのだと知った。

 進んでなどいなかった。

 極めてなどいなかった。

 口のなかにつぎからつぎへと唾液が湧いて、湧いて、湧いた。

 飢えていた。乾いていた。こんなにもじぶんのなかの世界が干上がり、ヒビ割れ、広漠な砂漠と化しているとは思わなかった。

 目が曇っていたのはほかでもないあたしだ。

 時代に取り残され、過去の栄光に縋って生きていたのはあたしだった。

「すみません、あの」

 声をかけると二人の影はぴたりと動きを止め、こちらを見た。警戒心に溢れた眼光は鋭く、あたしは気圧される。

「あの、音楽が聴こえたので気になって。すごいですね、見惚れちゃいました」

 女の子のほうはこちらの姿を認めるとすぐさま昨晩駅前の闘技場にいた人物だと思いだしたようだ。ぺこりと会釈する。

 青年は音楽の音量をちいさくし、

「管理人かと思いました。また警察を呼ばれて追いだされちゃうのかと」

「呼ばれたことがあるんですか」

「それはええ。見つかれば。だってここ公共の場ではないですし」

 駅前は公共の広場である。よほどのことがなければ通報はされない。しかしここは私有地だ。廃墟とはいえどビルの地下であり、バーとして使えるれっきとした物件でもある。

「あたしも舞踏やってるんですけど、いっしょに踊ってもいいかな。というか色々と教えて欲しいっていうか、邪魔なら見てるだけでもよいので」

 青年は女の子と顔を見合わせ、

「狭いですけど、それでもよいなら」

 許可をもらいあたしは、ちいさくよっしゃと拳を握る。

 女の子のほうは体力があるようで、曲を跨いで延々踊りつづけていられた。同じ曲であってもどの階層の音を聴くかで、踊り方が様変わりする。拾う音そのものが違うので当然といえば当然だが、あたしですら聞き漏らしていた音を拾われると長年舞踏をしてきた身としては堪えるものがある。

 そんなところにそんな宝物(音)あった?

 何度も心の中で感動と屈辱をいっしょくたに覚えた。

「ラキちゃんは弟子かなんかなんですか」あたしは青年に訊いた。彼はカウンターのなかで頬杖をついて女の子の踊りを眺めている。「弟子というか、同じひとに憧れてるというか。運のよい同士というか、そんな感じですかね」

「ジングさんはいつから舞踏を?」

「僕はちいさいころに歌舞伎をやってて。親と揉めてからはこっちの道に。五年は経ってないと思いますけど」

「年齢とか訊いてもいいですか。あたしは二十二なんですけど」

「僕は十九で、ラキはたしか十五だったかな」

 衝撃で呼吸ができなくなる。年下だろうな、とは思っていたが、青年ことジングは三つも下だった。それも未成年ときた。

「ラキラキ」ジングは声を張った。音拾いに夢中の女の子に向かって、「ラキって何歳だっけ。まだ中学生だよね」

「来年は高校生だよ」

「だそうです」ジングは頬杖をついたままこちらを見た。耳に厳ついピアスをしているのが目に入り、それがなかったらどこぞのアイドルグループにでも入ってそうな外見だな、といまさらのように童顔の彼を幼く思った。

 高校生でも通じそうな見た目だ。爽やかという意味では好感を覚えるが、何を考えているのか読めないという点では絡みづらい。

「大会とかにはでないの」会場でもネット上の動画でも観た憶えがなかったので、出ていないものと判断した。「でないですね。あまりそういうのには興味なくて」

「でもこれ、闘技の練習でしょ。フリつくってるって感じじゃないし。即興の舞踏って言ったら闘技しかなくない?」

「闘技をしてたら大会に出なきゃいけないんですか」

 すっとんきょうに問い返されて言葉に詰まった。

「出たいひとたちが出ればいいと思います。僕らはただすこしでも自由に、自在に、思い通りの踊りがしたいだけなので。もし大会に出てそうした技術が身につくならぜんぜんよろこんで出ますけど」

 身につくよ、と言えればよかったのだが、大会にでているあたしがこの体たらくでは説得力がない。街はずれのこんな誰の目もない場所で踊っている彼らのほうがあたしのはるか先をいっているのだ、大会にでなきゃ舞踏じゃない、闘技じゃない、意味がない、とは口が裂けても言えるわけがないのだ。

「でもすごいよね」改めて感じ入る。「独学でここまで二人して切磋琢磨してきたってことでしょ。動画に撮ってネットに流してもいい? もっとみんなに観てもらいたいわ。あたしの知り合いにだけでもいいからちょっち撮らしてくんない?」

「だってさラキ」ジングは飽くまでラキに躍らせるようだ。じぶんの舞踏は撮らせない、と暗に拒絶されたようであたしは傷つく。なんだよケチ、と思うのは、それだけ彼の踊りに価値を見出しているからだ。独り占めする気かよ、との思いがなくはない。

「わたしはいいけど」ラキも乗り気ではないようだ。「いいのかな。ミィさんがなんて言うか」

「そうだね。あのひとが観ちゃったらもうここにきてくれなくなるかも」

「ミィさんってのは?」もう一人仲間がいるのだろうか。それはいるだろう。舞踏をやっていれば孤独でいつづけるほうがむつかしい。高みにいる舞踏者ほど尊敬の念を集める。人が集まらないわけがない。

「ミィさってのは言ったら僕らの師匠みたいなひとで」

「あ、独学じゃないんだ」

「そりゃ無理ですよさすがに。天才じゃないんですから。じぶんだけで上手くなれるほど僕もラキも才能あるわけじゃないんで」

「いやいや天才の部類でしょ」謙遜しやがって、とあたしは内心でぶつくさ零しながら、「その師匠ってひとはどういう舞踏するの。動画とかないの。観てみたいんだけど」

「ぐいぐいきますね。馴れ馴れしいなこのひと、って目でラキが見てますよ」

「ラキちゃん出汁にしてじぶんの感想言わないで」

「いえ、ホントにそういう目で見てますよほら」

 目を転じると休憩中なのかラキは椅子に座ってストローから液体をちゅーちゅー吸っていた。彼女は口を離さず肩を竦める。

 思ってるけど何、の仕草にも見えるし、そんなわけないじゃん、の否定にも見えた。

「ラキちゃん、そのミィさんってひとの許可があったら動画撮らせてくれるの。というかそのひとの動画ってないの観せて観せて」

「ダメです」

「なんで」

 いいじゃんちょっとくらい。

 食い下がりたかったが、思いのほかきつい目で睨み返され、しぶしぶ引き下がる。

「そのミィさんってひと、よっぽど怖いひとなんだろうね。厳しかったの」これはジングへのぼやきだ。

「厳しいというか、縛られることを極端に嫌がるガキんちょみたいなひとというか。カメラに写真撮られたら魂とられるって言い訳を本気で口にしてもし撮ったら端末ごと踏み潰すようなひとですかね」

「なにそれ最悪じゃん」

「じっさい僕それで端末二機新調したんで」

「二機も」

 一度目で懲りときなよ、と思うが、その気持ちは解る気がした。いまあたしが口惜しく思っているのときっと同じ感情を彼もそのミィさんというひとに抱いていたのだ。

 ますます観たくて仕様がなくなる。

「どこ行ったら会える? 直接挨拶して踊り見せてもらってくる。それならいいでしょ。ね、ね」

 ジングとラキは顔を見合わせ、それからたっぷりの間を開けたのちに首を横に振った。

「それができたら苦労ないですよ。僕らだって会いたいんですから。どこで何してんだか」

「え、そうなの」

「ときどき戻ってくるの」ラキが言った。靴ひもを結び直しがてらアキレス腱を伸ばしている。「いつ戻ってくるか分からないからわたしたちはここで踊ってる。ここにいたらきっとまた会えるから。というか、会えるから」

「連絡先も知らないの? 嘘でしょ」 

「そういうひとなんですよ。ただ、こうして待つのも苦じゃないんです。たまに会えたときにどれだけ上達したか、度肝を抜いてやれるか。いっそ引導をくれてやるって、ラキとはよく話してますよ」

「何歳くらいのひとなのそのひと」年上であってくれぇ、と心の中で手を合わせる。

「何歳?」とジング。

「さあ」とラキ。

「たぶんニッカさんくらいじゃないですか。よく知らないんですよホントに。あのひとのことは。じぶんのこと全然しゃべんないし」

「それでいて他人のことばっか根掘り葉掘り聞くの。根掘り葉掘り」

 ラキがそう繰り返すのがおかしかった。

「いまごろどこで何してんだか」

「わたしらみたいなのほかのとこにもいっぱいいるよきっと。というかいるよ、いるいる。絶対いるって」

 悔しそうにラキが言うので、さすがにそれはないだろう、とあたしは言ってやったが、あのひとのこと知らないからそんなこと言えるんですよ、と二人揃って野次を飛ばしてくるので、だってあたしは知らないもん、といじけたくもなる。

 音楽が鳴りやんでおり、室内はシンと静まり返った。

 もうここにはこないほうがいいのかな。

 歓迎されてないな。

 哀しくなっていると、

「え、どしたのこれ。誰か死んだ?」

 なんでこんなしんみりしてんの、とあたしの肩に見知らぬ顔がぬっと突きでて、あたしは椅子から転げ落ちた。「びっくりしたぁ」

「ミィさん」

 ラキが飛びだし、その人物の腰に抱き着いた。ジングまでカウンターを乗り越えてそばに立つ。「ミィさんいつ帰ってきたんですか」

 きゃっきゃとはしゃぐ二人にはわるいが、あたしはいまめっちゃ腰痛いし、脅かしてきたソイツには恨み言の一つや二つをかける権利があるはずだ。

 背の高い大樹を思わせる女だった。肩幅が広く、戦士を彷彿とする。いままで会ったことのない部類の人物だ。性格のことだけではない。長身の舞踏者はその体格ゆえに超絶技巧を体得するには不利である。機敏に音を拾うにもリーチが長い分、素早く動くのにも抵抗が大きく、体力を使う。背が低く、手足の短いほうが闘技を行う上では有利だが、一方では見栄えや迫力という点では、巨躯であるほうに軍配があがる。

 いずれにせよ、ジングとラキの踊りから連想する舞いを踏むには相性のわるそうな体格の持ち主だった。

「おうおう、子犬みてぇにじゃれついてんな。ミィさんはサンタさんじゃねぇんだよ、そんなにジャレつかれたって土産なんかなんもねぇぞコノコノー」

 言いながら、きみにはこれね、こっちのきみにはこれ、とコンビニの袋を手渡して、あたしにもついでのようにあんぱんをくれた。こし餡ではなくつぶ餡だ。舌の趣味は合いそうだ。

「懐かしいなぁ、半年ぶりだっけかな」

「一年ぶりですよミィさん」

「そんなに。でもみんな元気そうでよかったよ。えっとたしかきみはアラキくんで、そっちはチコちゃん、そしてきみはミサコさんでしたっけ?」

「かすりもしてねぇし、顔まで忘れてるってどういうこと」ラキが髪を振り乱す。「このひときょうここに初めてきたひとだし、チコちゃんって誰だよ。わたしは、ラ、キ!」

「冗談だって怒んなよぉ」

「怒るでしょふつう。これは怒るでしょ」

 ジングが割って入り、どうどう、と二人を宥めている。そんな三人の姿を眺め、あたしは、いいなぁ、とうらやましく思った。その輪のなかにいまあたしはいないのだ。入れてほしいと思ったが、それはどちらかと言えば、ジングとラキを取られたような寂しい気持ち、嫉妬にちかかった。

「こっちはジング。で、このひとはミッカさん」

「ニッカ、ね」こめかみを掻く。

「ほらねラキちゃんだって名前間違っちゃうでしょ。そういうこともあるよ」ジングが言った。「許してあげよう。だってミィさんだもの。腹を立ててたらキリがない」

「そうだぞ。許せ」

「ミィさんはもっと申し訳なさそうにして」

 ジングとラキの息はぴったりだった。またしてもあたしは蚊帳の外だ。

 いったいどんな舞踏を踊れたらジングとラキの二人からこうも慕われるのだろう。性格だけが理由ではないはずだ。というよりもこの性格では却って人を遠ざけるだろう。欠点を補って余りある舞いを踏むということか。

 失望したときに傷を負いたくないので、期待を高く持ったりはしないが、それでもジングとラキの様子からすれば、彼ら彼女らが師と仰ぐに劣らない腕前を持つのだろうと推し量るのに躊躇はない。

 あたしがそわそわと落ち着かなかったからだろう、ジングが気をきかせてくれた。

「ミィさんミィさん。久しぶりに踊りませんか。僕らたぶんもうミィさんより上手くなったんで。見ててくださいよ」

「はぁ? なんでミィさんがおまえらのちんまいお遊戯を見なきゃなんねんだ。おまえらこそミィさんのちょーすーぱーなすーぱーを見とけってんだ」

「スーパーなスーパーってなに」ラキが呆れる。

「ミィさんは口ばっかだからなぁ」と煽るジングは、ミィの性格を熟知しているようだ。挑発されたら受け流せない性分なのだろう、音楽を流すとさっそくミィは椅子の壁でできた円形の空間、闘技場のうえに立った。

 曲は機械音とダウナー系を組み合わせた合曲だ。律動は変則的であり、ワンツースリーフォーとカウントをとって踊るのには向かない玄人向きの曲調だった。

 律動は歌のみでアカペラに寄っている。機械音は五つ、いや八つが組み合わさって立体的に幾何学の紋様を宙に浮かべる。

 初めて聴く曲だ。おそらくネット上から無作為に選んだ曲だ。この場の誰も聴いたことがないと断言できたのは、ラキがジングに向かって、この曲ぅ? と異議申し立てしたそうに目を見開いてみせていたからだ。

 激しくはない。かといって単調な曲でもない。

 初見ですべての音を聴き分けるのは原理的に不可能だ。変則的にすぎて、曲をかたちづくる音と音の点はまるでピンボールの玉のごとくだ。あちらに転がったと思えば、つぎの瞬間には加速し、消え、またべつの場所から現れる。

 即興舞踏は元来、音を聴いてから反応する。聴いたままを自在にじぶんのなかに広がる世界に通して出力する。とはいえ、限度がある。最初から律動ならば律動、旋律ならば旋律と追いかける曲層を意識しておかねばそもそも拾うことすらできずに、音を取りこぼし、ぎこちなさを残す。パズルのピースがすべて右に五ミリずつずれているようなちぐはぐさが生まれてしまう。

 そこにきてどうだ。

 ミィの舞踏は。表現は。

 彼女のなかに広がる世界がそのままこの狭い空間に展開され、拡張し、あたしたちを丸ごと別世界へと連れだしている。

 ジングの舞にも似た感慨を覚えたが、あれは飽くまでここに彼のなかの世界を投影したものにすぎなかった。

 すぎなかったのだと、いま気づかされた。

 それ以上の世界がまだあったのだ。

 地球が丸いと知った人類が、太陽系を知り、銀河を知り、さらに宇宙が膨張していることを知って、ブラックホールの存在まで観測した。

 さきにはまださきがある。

 上には上がいて、奥には奥が、横にも下にも、まったくべつの次元にすら世界はこうも深さを帯びて広がっている。

 届かない。

 世界はこうも広く、こうまでも有り触れていて、そこらを出歩き、何食わぬ顔をして転がっている。

「どうですか」ジングが顔を寄せ、耳打ちする。

「言葉にならない」

「絶望するにはまだ早いですよ。ミィさん、あれでふだんまったく練習してないんですよ」

「それを信じるようなアホだと思ってる?」

「本当です。残念ながら。言ったでしょ、僕らは天才じゃない。天才っていうのはこういうひとを言うんです」

 舞踏だけじゃないんですよ、とジングは言った。いくつかの競技名や創作の名を彼は並びたてたが、途中からその言葉は耳に入らなかった。

 ミィは世界を拡張しつづけていた。この世界に留まらず、あたしの世界をより深く、色濃く、なにより甘味豊かに、鮮やかに。

 もっと、もっと。

 もっとこの世界の真実を見せてくれ。

 ふだんは隠れてほんのわずかな片鱗しか姿を見せない、この世界の裏の顔を。

 一生をかけても目にすることの適わない、世界の美しい一断片を。

 あたしに。

 もっと。

 二人が誰に見せるわけでもなく、この狭く薄暗い空間で舞いを踏み、ひそかに、粘りづよく待っていた気持ちがよく分かった。

 病みつきになる。

 じぶんの見ていたきれいな景色に本当は色などついていなかった事実に触れるようなよろこびは。

 絶望に瀕してなお、生への渇望をみなぎらせる。




【人間注意】


 運転免許を持っていないからか、道路標識に頓着がない。道を歩いていて標識に目を留めることはないし、それで困ったこともない。

 道路標識の多くは自動車を運転する者のためにある。一方通行や速度制限、消火栓の場所や、通学路の有無、ほかにも動物が飛び出してくるような場所では、任意の動物のマークがあったりするのは知っている。

 道を歩くだけならこれといって必要のない情報だ。クマ注意、ともなればさすがに気を張るが、そもそもそんな場所には出向かない。

 そう思ってきた人生だが、大学に入ってからバイトをするようになって事態が一変した。

「出鱈目くん、出鱈目くん、ねえねえバイトやんない?」

「僕は班目(まだらめ)だ。的を外してばかりの法螺吹きと一緒にしないでくれ」

「時給いいんだって。やんない?」

「割のいいバイトなら八千又(やちまた)さんがじぶんですればいいじゃないですか」

「いやあ、うちはほら、おなごなもので。できれば男手が欲しいってご要望がございましてね。へっへ」

「見ての通り僕は華奢なので、お役に立てないと思いますよ」

「やや、そういうんじゃないんよ。腕っぷしとかじゃなくて、なんというか、そう、精神力、生命力、そういうの。ほら班目くんってあんまし驚いたりしないっしょ。取り乱したりしなさそうじゃん」

「いままさに絶賛取り乱し中ですよ。乱れまくりですよ。僕の平常心を返してください」

「へっへ。面白いなぁ班目くん。そういうところをうちは大いに買っているわけですよ。で、もう面接の予約つけちゃったから、いまからここに行ってくれたまえ。あ、つぎの講義はうちが代行しといてあげるからさ。ナナセンっしょ、つぎの教授って」

「そうだけど」

「じゃ、そういうことなんで、よろしくちゃん」

 八千又夜奈(よな)は一方的に言い残し、去っていった。呼び止めたかったが、これ以上彼女と会話をすることのほうが億劫で、災難が去ってくれたとばかりに僕はしばし彼女の背中に揺れる暴れ馬の尻尾がごとく髪の毛が廊下の先に消えるのを見届けた。

 手元を見遣る。手渡されたメモ用紙には店名と住所、それから電話番号が記されている。

「夜奈ちゃんからは聞いてるよ、さっそくでわるいんだけど、いまからここに行ってきてくれるかな」

 地図検索して行き着いた場所には、大量のタイヤの山に埋もれたちいさな事務所があった。中には無精ひげの男が一人いて、メディア端末の画面と睨めっこをしていた。

 歳のころは三十代前半といったくらいで、八千又夜奈の兄と言われれば納得しそうな佇まいがある。ツナギでも着ていればお似合いな職場でありながら、彼はなぜかスーツ姿だ。

「面接だと聞いてきたのですが」

「合格でいいよ。とりあえず仕事がどんなもんか身体で知ってもらって、それでまだつづけられそうだったら、本格的に雇うってことで」

「はあ」

「先やっとくわ」

 まだお互いに名乗ってもいないうちから彼は財布を取りだし、紙幣を一枚抜いて渡した。この国で最も高価な紙幣だ。

「二時間もあれば終わっから。ひとまず終わったらそのまま帰っていいよ。まだやれるようだったらまたあす来て」

「あの、どんな仕事なんですか」

 そこで彼は口に咥えていたキャンディを唇だけでぶら下げた。

「うっそぉん、そっから? おいおい夜奈ちゃんよぉ、話が違うじゃんよぉ」

「すみません、なんか手違いみたいで。やっぱり不合格ってことでやめておきますね」

「いやいやそれは困る」

 椅子ごと向き直って彼は、そう難しい仕事じゃねぇ、と言った。「作業事態は幼稚園児でもできる。看板替えてくるだけだ。今回は替えることすらしなくていい。ただ単に新しい看板を置いてくりゃいい。簡単だろ?」

「それだけの仕事で時給がこれだけ高いのは何でなんですか。違法なことは僕したくないのですが」

「いやいやいや、合法よ合法。そりゃもう、お国からもらってる仕事なんだわ」

「ほかにやりたい人なんていっぱいいそうですけどね」

「適性があんのよ。夜奈ちゃんとは知り合いなんだよな。あのコは適正バッチグーでさ、で、同じような手ごろな人材いないかなって相談をこのあいだしたんだよ。したらいるっつって、じゃあ紹介しろよっつったら、きょうおまえがきた」

「班目です」

「そう、班目くんが来てくれた。じゃ、まずはちゃちゃっと仕事してみよっか」

 えっとどこ仕舞ったっけかな。

 自己紹介をする気はないようだ。彼は部屋いっぱいに積みあげられた段ボールの山から一枚の箱を取りだした。ピザの入っていそうな薄い四角形の箱だ。

「こんなかに看板が入ってから。それを看板のない棒きれがあるとこにはめてきてくれ。これ、ナットとレンチね」

 場所はここ、と渡されたのは古い地図のコピーだ。たくさんバツ印がつけられている。赤いペンで地図の上から描いたものだろう。コピー用紙にではなく、元の地図に直接描かれているようだ。バツ印の密集している場所を示し、彼は言った。

「行けばわかっから。看板ない棒きれがあっから、そこにつけてくればいい。簡単だろ」

「もし複数あったらどれにつければいいんですか」

「お、いい質問だな。そういうときはどれでもいいからつけちゃって」

「そんな適当な」

「いいのいいの。あ、それから一応、これ守秘義務あるから。他言無用でお願いね」

「しゃべったらどうなるんですか」

「さあ。政府の人に何かされちゃうんじゃね。はっは」

 今日限りのバイトにしよう。僕は胸に刻む。

 地図の場所は裏街道と呼ばれる、繁華街の裏手に広がる区画だった。近年の都市復興計画によって発展した駅前とは異なり、むかしながらの町並みの残る土地だ。

 駅ビルなどの大型店舗の進出の悪影響でさびれた老舗も多く、生き残るために町組織のようなものが築かれている。あまり素性のよろしくない商いにも手をだしている、というのは、割と耳にする類の噂だ。

 きっと僕の引き受けてしまったこのバイトも、似たような系列の仕事なのだろう。うさん臭いこと山のごとしだ。

 八千又夜奈にはわるいが、さっさと縁を切らせてもらおう。

 それはそれとして、引き受けたからには仕事はきっちりこなす。因縁は残さず、が僕の信条だ。禍根を、とそれを言い直してもよい。

 地図のコピーを取りだし、周辺を探る。ネットの地図でも検索してみたが、なぜかそこに載っていない道が、もらった地図のコピーのほうには載っている。地形が違うのだ。むかしの地図だと思えばさほどふしぎではないが、そんな信用のならない地図を仕事用具として渡される側の気持ちにもなってほしい、と依頼主の男に負の印象を覚える。いまさらの所感だ。

 古い家屋が増えていく。地元とはいえ、初めてきた場所だ。

 江戸時代と大正と昭和がそれぞれごった煮に、てんでばらばらに、モザイク然として建ち並んでいる。

 観光地として展開すれば人はこちらのほうに流れるのではないか、と思うくらいに、面白い景観だ。どうして広報しないのだろう。やはり町組織が反発しているのだろうか。それとも、町組織の存在をひた隠しにしておきたい勢力が、区のお偉いさん方にいるのかもしれない。

「看板、看板」

 目で探しながら、そう言えば看板と聞いてかってに道路標識のことだと断じていたが、そうとも限らないのではないか、と思い至った。

 リュックを下ろし、中から四角い箱を取りだす。まだ中身を改めていなかった。

 開けてみると、四角い標識がでてきた。やはり道路標識のようだ。こうしてみると思ったより大きい。信号機を真下から見上げたときにも同じ感慨を抱く。

 標識は四角いが、設置するときはひし形に傾ける。

 御多分に漏れずこの標識も斜めにしなければ書かれた文字を真正面から読めない。ゆえに、そこに描かれた絵と、文字に、違和感を抱くのが遅れた。

「人間注意?」

 標識には、人間のシルエットと、その下に、人間注意、と書かれている。板の色は黄色で、これは熊や鹿への注意を促す際に用いられる標識と同様だ。

 渡す標識を取り違えたのではないか、とまずは疑う。あのずぼらそうな男のことだ、さもありなんだ。本来渡すはずの標識ではない品を渡したのではないか。

 かといっていまさら戻って手違いを親告するつもりはない。すこしは痛い目に遭ったほうがよい。杜撰な管理体制を見直すよい契機だ。

 本音としては単に面倒なだけのことなのだが、ともかくさっさと済ませて帰ろうと決める。

 標識のかかっていない棒を探す。ポールと言ったほうが精確なのかもしれないが、棒は棒だ。

 棒、棒、棒。

 目で探し、それらしいものがありそうな方向に歩を進める。

 道を進むほどに標識が増えていく。あの男が言っていた通りだ。地図の通り、と言い直してもよい。

 バツ印のある個所に近づけば近づくほど、道の脇を、頭上を、標識がにょきにょきと密林の植物がごとく覆っていく。

 標識を支える棒は曲がりくねり、真実、古木の幹じみている。

 数が増えていくたびに、見慣れない標識もまた増えていく。局所雪注意とはなんだ。雷神様ご用達路とは何なのだ。

 ふざけている。町おこしの一環だろうか。妖怪の銅像を至る箇所に置いた町がある。似たようなものかもしれない。

 しかしこれではまどろっこしかろう。

 正しい標識を目にするほうがむつかしい。繁華街のネオンのほうがまだ看板や標識としてまっとうに役割を果たしている。

 架空の巨大なハサミでジョキジョキと片っ端から斬り倒していけたらさぞ爽快だろう。妄想しながら目当ての、標識なき棒、を探す。

 なかなかどうして見つからない。

 一本でもあれば数分で作業を終えて帰れたものを、と鬱屈とする。たとえあったとしても、これほどまでに雑草がごとくにょきにょき標識が生えていると、目の錯覚さながらに見逃してしまいそうだ。

 いっそ、どれでもいいから標識を外して付け替えて帰ってしまいたい衝動に駆られる。

 標識が増えていくにつれて道がどんどん狭くなっていく。ふつうは逆ではないのかと戸惑うが、なるほどこれらは自動車に対する標識ではないのだ、と考え直す。

 そもそもとっくに自動車の通れる道幅ではない。裏道と言ってよい狭さがある。そのくせ店舗は建ち並び、どの店も、ガラス窓の向こうに得体のしれない商品を並べている。ときおり若い娘が座敷に座って、にこにことほほ笑んでいる。そばには婆さまや、爺さまがいる。着物を羽織っている。頭上には提灯が列をなし、途端に幻想めいてきた。

 祭りでもあるのだろうか。通行人をぽつりぽつりと見かけるようになってくる。奥に進めば進むほど、滾々と人が湧いてくるようだ。

 通行人たちは両脇の店舗に吸い込まれていくからだろう、手前の道ほど人がすくない。この奥に人だかりがあるのだ。祭りの中心地か、それとも劇場や大型店舗の出口か何かだ。おそらく駅ではない。こちら側に線路は通っていないはずだ。

 ここは繁華街の裏側のさらに奥地だ。ひと気がないのが通常のはずだ。住宅街もない。閑散としていそうなものだのに、この人通りの多さはどうしたことか。

 通路が狭いことを抜きにしても、つぎつぎに人とすれ違う。表通りだってこうまでごった返してはいない。

 旅行鞄を引きずった人が多い。

 観光客なのは確かなようだ。

 なるほど、この先にはホテルや旅館があるのだ。きっとそうだ。人気の宿泊施設があるのだろう。とするとこの大量の標識も腑に落ちる。

 いや、腑には落ちないな、と首をかしげる。

 空港とはわけが違う。道案内にしては雑多にすぎる。酸素濃度二〇%注意、の標識はどう考えてもおかしい。さらに僕はいまから、人間注意の標識、をつけなくてはならない。意味が不明すぎて、もはやイタズラとしか思えない。

 やはりこれは観光の装飾なのだ。標識町として売りに出そうとの魂胆があるに相違ない。現にこうして観光客でごった返している。標識だらけの裏街にわざわざ足を運ぶ観光客の感性には理解しがたいとの抵抗を覚えるが、時代の趨勢についていけている自信のない身の上としては、まあこんな趣向もありなのかな、と思わないでもない。

 何にせよ僕は場違いだ。さっさと用を済ませて退散しよう。

 人とぶつからないように、雑踏の合間を抜け、視線は絶えず上下左右の多種多様な標識に向ける。絵柄や文字を読んではいられない。目当ては、標識のない棒だ。首なしの白いポールを高性能センサさながらに識別していく。

 数分も歩くと、徐々に賑わいが薄れ、標識の数もぐっと減った。まるで見えない暖簾をくぐったように、あるところを境に、景色が一変した。

 街灯もなく、薄暗い。

 道の先には明かりが一つきりだ。月光のごとく、古い街灯が地面まで光のピラミッドを垂らしている。暗がりのなかでそれだけが浮きあがって視えた。

 距離があるが、かろうじて明かりの奥に、ねじ曲がった白い棒が視えた。標識のない支柱だ。棒だ。目当ての品だ。

 闇と光の境をまたぎ、影の世界に身を投じる。

 さほどこの仕事にやりがいも責任も感じずにいたが、それでも十全に終わらせることができそうで内心ほっとした。

 街灯の真下に立つ。

 腰の曲がったお年寄りさながらの支柱をまえにし僕は、リュックから標識を取りだし、さっそく取りつけていく。

 作業中、奥の暗がりのほうから人がやってきたのが判った。手元から目を離すとナットを落としてしまいそうで、目は離さずに、視界の端に現れる影と、足音を知覚する。人影は、明かりの下を通り、裏街へと去っていく。一人ではない。ぽつぽつとながらもその流れは途切れることはなかった。

 この先にバスの停留所でもあるのかもしれない。

 最後にナットを順に締め直し、作業を終える。ナットのズレが視認できるようにマジックで印をつける。ナットがズレると、断層のごとく印もズレるので一目で判る。緩んだままだとマズいのでこうした工夫をしておくのだ。もちろんこれはあの依頼主からもたらされた知恵ではなく、僕が元から知っていた雑学だ。

 思ったよりも全身運動だった。額の汗を拭う。

 いまいちど標識を見上げ、人間注意、の文字を眺める。何度目にしても意味蒙昧だ。役に立つ標識には思えない。

 飛び出し注意ならまだしも、人間注意とはなんぞ。

 人間の傲慢さや狡猾さに注意せいよ、との意味合いだろうか。まったく以って同意しかないが、標識にして喚起するほどのことだろうか。世も末だ。

 昨今、振り込め詐欺やら不正受給やら、政治の腐敗から企業の不祥事が俎上に載せられて久しい。市井の人々とてインターネット上で、気に食わない思想や表現を過剰に非難し、煽って、仮想の放火を楽しんでいる。

 標識というなれば、現実よりもむしろ仮想の世界にこそ必要とされているのではないか、と思いもする。

 雑踏ひしめく街路から離れたこの区画よりも、もっと人間注意の標識の似つかわしい場所がある気がした。

 どうせなら街中にどんと備えてやりたい気もするが、それをする度胸はなく、また義理もない。人間には注意したほうがよいが、こんなけったいなバイトを押しつけられ、断りきれずに担ってしまっているじぶんが喚起しても効果は薄いだろう。それともこんなじぶんだからこそ説得力は増すだろうか。

 どの道、誰が標識を建てたのか、なんてことはそれを見る者には判りようがないのだから疑問するだけ無意味だが、なんにせよ、仕事は終わった。これにて報酬分の働きをしたと見做してもらおう。

 前払いゆえ、このまま何事もなく、つつがなく撤収すればよかった。

 だが背伸びをしつつ闇の奥、通ってきたのとは正反対の道先を何気なく見遣って、息を呑む。

 街灯が明滅している。

 そのように見えたのは最初だけだった。街灯ではない。明かりだけがまっすぐと上空から地上へと落ちている。

 巨大な懐中電灯で地面を照らせば似たような明かりの筋ができたのではないか。

 まるでそこだけ舞台上のように、照明が当たっている。

 だが目を瞠ったのは明かりのせいではない。

 いや、それもあるが、明かりの下に、勃然と影が現れ、いちど暗がりへと歩を進めると、こちらの脇を、横を、通り過ぎていく。

 まるで工場のごとくだ。つぎつぎと明かりの下に影が、生き物が、現れる。それらすべてがすべて、人間とかけ離れた姿かたちをしていた。

 被り物だろうか。

 そうではない。

 なぜなら僕の脇を、横を通り過ぎていくそれら影は、僕の頭上にかかった街灯の明かりに照らされ、通過するごとに、その姿を人間のそれに変貌させるからだ。

 つぎからつぎに、異形の姿の生き物が、人間の姿に錬成されていく。

 まるで僕の存在を意に介さないそれら異形の者たちは、人間の姿になると、そのまま裏街の、例の、標識の街へと吸い込まれていく。

 空港のようだ。

 異形の者たちが空から、或いは闇から現れ、人間に変化して、旅先へと発つ。

 僕は呆気にとられながら、背後の標識に目を向ける。

 さきほどつけたばかりの、人間注意、の標識が、街灯の明かりを受けて黄色く煌々と輝いて映った。

 さらに僕は、異形の者たちの現れる道先へと目を転じる。

 そこにはもう一つ、街灯のそばに標識が建って見えた。

 よくよく目を細め、凝視すると、そこには円盤から垂れる光と、その下に立つ頭部の大きな人間のようなものが描かれていた。さらに下部には文字が書かれているようだが、ここからでは遠くて読めない。が、見えずとも僕にはそこになんと書かれているのか想像することができた。

 宇宙人注意。

 きっとそう書かれているに違いなかった。

 僕はぽかんと口を開けながら、瞬きも忘れて、人間に化けた異形の者たちの行列にまぎれて、来た道を戻った。足元だけを見て歩き、目にしたばかりの光景を脳裏で幾度も反芻しながら標識の街をあとにした。

「あそこはいったい何なんですか」

「何なんですかっつわれてもなぁ」

 翌日、僕は例のバイト先を訪れた。スーツを着た無精ひげの男が、きのうと同じようにタイヤの墓場に囲まれた小屋でメディア端末の画面とにらめっこをしていた。

「看板はつけてきたんだろ。あ、ひょっとして逃げ帰ったのか」

「ちゃんとつけてきましたよ。というか逃げ帰るような場所にあるって知ってたんですか。何なんですかあそこは。人間注意って、宇宙人注意ってどういうことですか」

「その様子じゃ理解できてんだろ、いちいちオレに突っかかんなよ。見たとおりだよ。あそこは宇宙人ご用達の観光地だ」

「そんなまさか」

「論より証拠、まずは見たほうが早いと思ったからやらせてみたが、いやはや。証拠を見ても信じねぇとはな。おまえ見込みねぇわ。帰っていいよ」

「ちょっと」

 と、声を荒らげたのは僕ではなかった。奥のほうから、顔だけを覗かせて、八千又夜奈が、探すの苦労したんだからやめてよね、と野次を飛ばした。

 つってもよぉ、と零す男を無視して、彼女は僕を見て、

「おっす。ご苦労さん、ありがとうね。ちゃんと初回でお使い済ませてきたのマタダメくんが初めてだよ」

「何度も失敗したみたいな名前で呼ばないでください。僕の名前は班目です」

「へっへ。わざとだよ、わざと。きみとわたしの仲じゃないか」

 挨拶だよぉ、と彼女は破顔する。

 どんな仲だ、と憤ったが、不平は呑みこんでおく。

「ちょうどよかったよ」彼女は奥で作業をしているようで手が離せないのか、顔だけを物陰から覗かせつづける。何かを押さえているようにも、掴んでいるようにも見える。「またつぎの仕事を頼みたいんだけど、班目くん、いまから行ける? 行けるよね、行けるって言ってほしいなー、いいよー」

「かってにOKしないでください」

「おいおい、コイツにゃ無理だ。見ろよのこの取り乱しよう」

「ヒゲは黙ってて」

「ヒゲって」

 どうやら店主らしき男は、八千又夜奈からはヒゲと呼ばれているようだ。短くない付き合いなのだろう。主従関係が掴み切れない。

「たぶん班目くんは理由を説明したらちゃんと解ってくれる。説明してないのはこっちの不手際でしょ。あたしもちょい横着しちゃったし、ヒゲは絶対はしょって話もせずに道具だけ渡したんだろうし」

「そうですよ、説明をしてください」

「えっと、今回のはあれだよね、人間注意の看板。あれは、あたしたち用ではなくて、どちらかと言うと、あちらさんのための看板で」

「あちらって、宇宙人ってことですか」

「じっさいは別次元の地球人なんだけど、まあ、宇宙人みたいなもんだね。で、班目くんが設置した場所は、偽装領域と呼ばれていて、まあ、そこに踏み入ると、よその次元の地球人はみんなこの次元の地球人の姿になれる。波長を合わせられる。そんな感じ」

「波長を? なら僕たちが逆にあの宇宙人注意の看板に近づいたら」

「や、そこは別に変化はしないよ。あっちの世界に行かない限りはね。ただ、まあ宇宙人が出没するのだから、注意を喚起しておいて損はないでしょうよ」

「それは真実宇宙人がいると知っているひとならそうでしょうけど」

「だいじょうぶ。あの地区の住人はみんな、なんていうか、まあ、そういう世界観に馴染みのあるひとたちだから。むかしからそうなんだよね。で、うちらのような看板管理者たちが、任意の場所に看板を設置する役割を担っているのです」

「宇宙人と人類の仲を取り持つために、ですか?」

「へっへ。宇宙人ばかりとも限らないけどね。妖怪とか、妖精とか、怨霊なんてのもあるし、まあ、世の中なかなか注意しておいて損のないことばかりでさ」

 だから看板が入用なのさ、と八千又夜奈は謳った。

「で、きょうも一つお願いなんだけど」

「八千又さんが行けばいいじゃないですか」

「や、うちはいまほら、手が離せないので」

「さっきから何してるんですか」

 近づくと、

「わっ、わっ、待って待ってこないで、ねぇちょっとー」

「裸ってわけじゃないんでしょう」

 垣間見える彼女の肩や腰には、いまどきの女子大学生らしい服飾がまとって見えた。

 僕は奥を覗き、そこで両手を真っ赤に染めている八千又夜奈を目にした。彼女は人体らしき物体を切り刻んでいる。

「あちゃちゃ。違うから、違うから。そういうんじゃないんよ」

 背後で、ヒゲこと店主が大声で笑っている。よほどこの状況がおかしいようだ。ヒー、と息も絶え絶えだ。額を手で押さえ、ゆびさきで目元を拭う。涙がでるほど愉快なようだが、僕はまったくおもしろくはない。恐怖すら覚える。

「一応説明だけは聞いておきます。が、納得できなければふつうに警察に通報します」

「待って待って、これ見てよこれ」八千又夜奈は血だらけの包丁を床に置き、とっくに切断し終えていたらしい頭部を鷲掴みにした。まるでスイカかトウモロコシでも持ち上げるような所作に、ぎょっとするよりさきにまえのめりになって見入ってしまった。

 だらんと開け放たれた口からは舌がでろんとまろびでているが、歪んだ相好をしていてもそれが八千又夜奈当人の顔に酷似していることは一目で判断ついた。

「双子ですか」

「んにゃんにゃ。今回班目くんにお願いしたいのが、だからこれなんよね」

 くい、とあごを振って彼女は、そばに立てかけてある看板を示した。看板は二枚あった。一般的によく見かける進入禁止の丸い標識と、ドッペルゲンガー注意の文字の踊るひし形の標識だ。どちらも箱からはすでに出されている。

「ちょっとシクっちゃってさ。ドジ踏んじゃって。思ったより浸食が激しくて、設置する場所間違えちゃって。で、気づいたらこう。じぶんの分身ちゃんがでてきちゃってて。ほら、ドッペルゲンガーって、本物になり替わろうとしちゃうでしょ。見たらさきに殺さないと、こっちが殺されちゃうから。で、まあいまはその後処理をね」

「殺したって、それはでもけっきょく人殺しには違いないわけですよね」

「本来はいちゃいけない相手だし、じぶん自身だし、そこは大目に見てよ。というか、放っておいたらふつうにうち死ぬからね。殺されちゃうから」

「だからって殺すなんて。遺体、それどうするんですか」

「切り刻んで、マンホールに棄てるか、埋めるしかないよね」

 オレの土地にゃ埋めんなよ、とヒゲは茶々を入れる。

「うっさいなぁ、ヒゲの見立てがわるかったんでしょ、本当ならこうなってんのあんたなんだからね、あたしは身代わりになってやったようなもんなんだから感謝してよもう」

「駄賃に色はつけとくよ」

「あたりまえでしょ」

 死体の腹を割いたようだ、強烈な臭いが立ち込める。八千又夜奈は口元をきゅっと結ぶと、息を止めながらバケツに臓物を移し入れていく。手慣れた様子に、これが初めてではないのだな、と彼女のこれまでの生活を想像する。

「ごめんね、臭うよね。けっこう恥ずいし、あっち行ってて。というか、仕事頼まれてくれないかな」

 分身とはいえど、彼女自身の遺体には違いない。遺体を切り刻むというおぞましい行為を見られたことに対する引け目が薄い割に、年相応の乙女の恥辱の念は湧くのかと僕は彼女の性格をどう推し量ればよいのか躊躇する。残忍なのか、無垢なのか。無垢がゆえに残忍である可能性は否定しきれない。

「領域みたいなのに近づいたら僕も同じ目に遭うのでは」

「だいじょうぶ。失敗した分はちゃんと対策立てるから」

 おいこらヒゲ、と彼女は叫ぶ。

 へいへい、と店主はデスクを漁り、分厚いファイルを取りだすと、中からカードのようなものを取りだした。差しだされたが、受け取るのに躊躇する。

「それ、支柱に貼って」見兼ねたのか、八千又夜奈が嘴を挟んだ。「看板のほうに直接貼ってもいいけど、設置するとき邪魔になるから、支柱のほうがお勧め」

「支柱のある場所に近づいてもだいじょうぶなんですか」

「もっとずっと手前に差し直してきたからそこはだいじょうぶ。どんなに浸食が早くても三日は安全な場所だから。禁止カードさえ貼れば浸食も止まるし。止まるってか、看板を越えてはこられないってだけだけど」

「結界みたいなものですか」

「んー、まあそんなもんかな。う、骨硬い」

 ろっ骨を捌きにかかった彼女の姿を僕はこれ以上視界に入れていられなかった。この場を立ち去る口実を作るためにも致し方なく仕事を引き受けることにした。そうでなければ、警察に通報しにいくのではないか、と疑われて、何かしらひどい目に遭わされそうだ。

「標識はこの二つだけでいいんですか」立てかけられた丸と四角を手にする。

「ほかのはもうつけてきたからだいじょうぶだよ、お願いね。おいヒゲ」

「んだよ大声出すよな聞こえてるっつの」

「地図だしたげて」

「あいよ」

 渡されたのはこの前とは違い、コピーではない地図だった。紙質は古く、色褪せており、宝の地図といった塩梅だ。

「あの、これ」

「きょうからそれ使って。正社員専用の地図だから失くさないようにね。けっこう貴重なやつだから」

「それはいいんですが、何も描かれていなくないですか」

 地図は地図だが、街の輪郭らしき枠組みが記されているだけで、このあいだのようなバツ印も、建物の場所も何も描かれていない。

「ねぇーってばヒゲぇ、頼むよ」呆れた口調に、店主は、あいあい、と苛立たし気に頭をがしがし掻きながら、「これはこうやって使うんだ。つぎからはじぶんでやれよ」

 僕の掴んでいる二つの標識に地図を押し当てた。すると地図の表面にバツ印がいくつも浮き上がる。

「標識ごとに位置座標が滲むから、密集地に行って手ごろな場所に置いてくりゃいい」

「手ごろな場所って言われても」

「しばらくは支柱にくっつけてくりゃいいだけの仕事しか任せねぇ。安心して行ってこい」

「支柱だけはもううちが打ってきたから」八千又夜奈が声を張る。「もし万が一、分身ができちゃったらどうにかこうにかここまで逃げてきて。あとはうちらがなんとかするから」

 それはつまり僕の分身を彼女たちが殺して、その遺体をバラすという意味だろう。分身に忠告してやりたくもなる。このままだと殺されちゃうぞ、と。

 それが嫌ならば分身を生まないようにするよりない。

 僕だけの問題ではないのだ。ここで僕が仕事を断れば、分身を生みだしてしまう人たちが大量にで兼ねない。言い換えるならそれは殺されてしまう分身がたくさんでてしまうことと地続きだ。もちろん本人のほうが殺されてしまう事態も起きるだろう。悲劇はないほうが僕としても好ましい。

「ほらよ、前払い」

 店主から封筒を受け取る。なかを改める。きのうは一枚だけだった紙幣が、束になって入っていた。

「今回のはランク一つ上の仕事だからな。国から助成金もでるんだ。もらっとけ」 

「こんなに。仕事を終えてからもらったほうがいい気がしますけど」

「帰ってこなきゃ渡せねぇだろ。後味わりぃのは嫌いなんだ。ちゃんと報酬はやったんだ、あとのことは自己責任な」

「ちょっとヒゲぇー」

 八千又夜奈の声には、脅かさないでよぉ、とのぼやきが含まれて聞こえた。

「だいじょうぶだから。前金なのは、コイツ、ヒゲのひとが未払いしないようにうちが前に約束させただけのことでね。踏み倒されることあったんだ、前はさ」

「じゃ、あとよろしくー」大きな欠伸をしながら店主は座席に戻り、椅子にふんぞり返った。メディア端末の画面と向き合う。画面には無数の数字と文章が上から下へと流れている。読んでいるのか、眺めているだけなのかは判断つかない。もし読んでいるなら相当な動体視力に、情報処理能力だと言える。見た目からは、そんなすごい能力を発揮できる人物にはとうてい見えないが。

「はぁ、やっと取れた。人間の皮膚とか筋肉ってどうしてこう頑丈なのだろうね。肩の関節なんかもう最悪」

 声をかけたほうがよいか迷っていると八千又夜奈のほうから、

「気をつけてね、詳しい話は戻ってきてからたっぷりしましょ」

 歓迎会しなきゃだね、とご機嫌な口笛が聴こえはじめたのを機に、僕は小屋を離れ、現場へと向かった。

 リュックには二つの標識がずしりと納まっている。ぎちぎちで、チャックもろくに閉まらない。もっと大きくて頑丈なリュックがいる。もらった報酬で何を買おうか。頭のなかでつれづれと欲しい物の項目を羅列しながら僕は、もう一人のじぶんがいたらけっこう楽なのでは、との妄想を浮かべ、でも相手は本気で殺しにくるならやっぱり分身なんかいないほうがよいのだろうな、と早々に結論し、世界に広がりつつある奇禍の種を封じるために、新たな標識を増やす仕事にとりかかる。 




【妖怪のシカイシ】


「しかいししてやる」チヨの燃やした瞋恚の炎は、メラメラと揺らいで治療室の天井を焦がした。

「それを言うなら仕返しな。し、か、え、し。それこそきみの言うように私は歯科医師だ」先生はゴム手袋を外して、さっさと帰り支度をはじめた。「自己紹介を代わりにしてもらって恐縮だが、先刻承知の通り私は予定があるのでお先に失礼するよ。あとは頼んだよ宇節(うふし)チヨくん」

「そんなだってワタシ歯科助手ですよ。歯科衛生士の資格だって持っていないのに、それこそ現場に歯科医がいなくて治療なんかできるわけないじゃないですか」

「だいじょぶ、だいじょぶ。相手は人間じゃないんだから。違法じゃないし、もし失敗しても訴えられたりはしないよ。ただし、きみの言うように仕返しには気をつけたいところではあるが」

「そんなぁ。もうきょうは休業にしちゃいましょうよ」

「予約が入っているからそういうわけにはいかないよ」

「キャンセルしてもらってくださいよぉ」

「ではあとは頼んだ」

 先生は颯爽と診療所をあとにした。部屋には治療経験皆無のチヨが一人きりで残される。

 まずは患者さんのカルテに目を通しておこう。

 チヨは治療台に備わった画面にカルテのデータを映しだす。

 カランリン、と来客を知らせる鈴が鳴った。ただいままいりまーす、と声をかけたところで、治療室の扉が開く。待合室から全身毛むくじゃらの巨体が転がり込んできた。

「わ、わ、びっくりしたぁ」

「ち、ち、治療をしてくれ。痛くて痛くてたまんねぇんだ。痛み止めだけでも寄越してくれ」

 予約をしていない客だと判る。飛びこみの患者さんへの対応はふだんならば決まっていて、予約している患者さんを優先するのだが、ひとまずいまはまだ時間にすこしの余裕がある。痛み止めをだして済むならじぶんにもできそうだ。そうと考え、まずはさておき、診察台に寝てもらうことにした。

「診察をはじめますね。でもその前に一つ質問なんですが、どうして変身したままなんですか。せめて人間の姿に戻ってください」

「戻れねぇんだ。歯に何か詰まってるみてぇでな。このまま人間の姿さ戻れば、歯がグチャグチャに乱れて、顎が外れちまう。顔だって歪んで、ひでぇことになる」

「それはまた難儀ですね。では口を大きく開けてください」

 あーん、と開いた口から鋭い犬歯が覗く。どうしておばぁさんのお口はそんなに大きいの、と心のなかにいつぞやに読んだ絵本のセリフが自動再生する。

「あー、これですね。きれいに歯のあいだに挟まって。ちょっと削らなきゃダメかもですね。どうしますか」

「任せますよ、頼みますよ、なんとかしてください」

「んじゃま、やってみますか」

 なんだその投げやりな態度は、と言いたげに目を見開いた全身毛むくじゃらの男の頭を診察台に押さえつけて、ドリルを手にして、もういちど、あーん、とやる。

 ワニの口のなかを掃除する小鳥になったつもりで、大きな栗の木の下で、と声にださずに歌いながら、ドリルを駆使して、大きな犬の口の中から、人間の指のようなものを引っ張りだす。なぜかコチコチに固まっており、色つきも灰色にくすんでいる。

「なんでこんなものが」

「さっき食ったやつのが挟まっちまったみたいだ」

「人間食べちゃダメってあれだけ境会がうるさく言ってるのに。あなたも命知らずな犬ころね」

「犬とはひでぇな。先生だって食っちまってもいいんだぜ」

「そしたらもう二度と歯を治療してくれるひとは現れないでしょうね。一生その姿でいたらよいんじゃないんですか」

「冗談だよ、真に受けんなよ」

 削った歯に、塞ぐ用の素材を塗りつけ、突貫工事ではあるが治療を終える。

 全身毛むくじゃらの男は治療台から下りると、ぶるる、と全身を震わせた。毛が引っ込み、体格も一回り縮んで、つるりとした肌に覆われる。なかなかの優男だ。

「いくらだい」

「こんど仕事を依頼するので、それを無償で熟してくれればタダでもよいそうですよ」

「ですよってこたないだろ。なんで他人事だよ」

「保険適用外なので現金の場合はけっこうしますよ」

「じゃあそれでいいよ。仕事をこなせばいいんだろ。俺に見合った仕事ってことだよな。ま、センセにゃ敵も多そうだし、一人二人くらいなら夕飯代わりに食べてやってもいい」

「ちゃんと細かく切ってから食べることをお勧めします」

「そんな手間はかけてらんねぇっての」

 じゃあな、と礼を述べて狼男は診療所を出ていった。

 これでよかったのだろうか、とチヨは不安になる。

 時計を見遣る。予約の患者さんがやってくる時刻だ。

 たしかこの患者さんは、とカルテの注意欄を読むと、扉が開いて、ひゅるると冷たい風が舞いこんだ。治療室の床に霜が降り、天井からツララが垂れる。

「ざ、ざ、ざむいでずよマフユざぁん」

「あらぁ。きょうはチヨちゃんなのね。センセはいらっしゃらないの」

「きょうは予定があるって帰りました」

「なあんだ。つまんないの」

 チヨは防寒具を着衣する。彼女の治療時専用に用意されているものだ。

「というかマフユさんは歯の治療なんか必要ないじゃないですか。じぶんでえいやっていくらでも治せるじゃないですか。なんなんですか。冷やかしですか。あ、冷やかしですね。これが本当の冷やし中か、なんて」

 じとっとした目で見つめられ、チヨはたじろいだ。「あの、冷やし中華と、部屋を冷やし中か、を掛けてみた渾身のギャグだったんですけど」

「センセがいなんじゃアタシもう帰ろうかしら」

「ひょっとしてマフユさん、センセに会いたくて患者さんの真似を?」

「だってあのひと、ここでしか会ってくれないんですもの」

「そりゃ会うたびに凍えさせられたら誰だって会いたくないですよ」

「アタシだって好きでセンセを凍らせたいわけじゃないって言ったらチヨちゃんは信じてくれる?」

「それはあれですね、好きで凍らせてるパテーンですね」

「だってアタシたちってそういう生き物だから」

「雪女がってことですか」

「恋する乙女はみんなそうだから」

「凍らせて殺しはしないでしょ」

「でもいかにハートを射止めるかってこれは競技でしょ」

「ダーツじゃないんだから。競技でもないし」

「チヨちゃんは万年うぶ毛だからそんな甘っちょろいことを」

「そこはウブと言ってくださいよ」

「チヨちゃんだって好きな女の一人や二人できれば、アタシの気持ちが理解できるものかしら?」

「なんで最後挑発したの? 疑問しないでよ、ワタシにだってできるよ。マフユさんはちょっとワタシを見くびりすぎてると思う」

「だってチヨちゃんはウヌだから」

「ウブにしといてくださいよそこは」

「うぬぬなんだから」

「ぐぬぬみたいに言わんといてください。はぁ、分かりましたよ。きょうのところは友人の恋愛相談ということにして、治療はキャンセル扱いにしときますね」

「嫌よ。ちゃんと払うものは払わせて。でないとアタシ、センセに何も貢げない」

「貢がなくてもよくない?」

「はいこれ、いつものお礼」

 マフユさんは両手で抱えるのがやっとの透明な石をくれた。

「なんですかこれ」

「ダイヤモンドよ」

「でっかくね?」

「時価総額は軽く億を超える値段ね」

「あー、ちょっと額がでかすぎて実感湧かないし、渡されても困るし、ひょっとして最初にツッコミしたほうがよかった? やり直す? 石取りだすところからやり直してみる? つぎはちゃんとツッコムから」

「チヨちゃんひどい。アタシは本気でセンセを買収したいのに」

「最悪かよ」

「しょせんこの世は焼肉とお金よ」

「弱肉強食ですらない」

「センセのお肉も食べてみたい」

「そりゃあセンセも逃げますわ」

 ひとしきりマフユさんとの会話を楽しみ、つぎの予約客の時間が迫ったころに、そろそろ仕事が、と断り、バイバイする。

「つぎは予約なしできたらいいですよ。先生はあれで、患者さんを無下にはできないひとですから」

「チヨちゃんのそういうとこ、ホント好き。凍らせて部屋に飾りたいくらい」

「気持ちを?」

「チヨちゃんを」

 うれしいですけど、とこれは本音だ。「遠慮しときますね」

 彼女は冷気を残して、霞んで消えた。

 つぎにやってきたのは、吸血鬼の旦那だった。彼とはよく受付けで言葉を交わしていたので、ほかのひとたちよりも緊張はしない。マフユさんは友人だけれど、いつだって妙に緊張する。

 そこにきて彼は、言い伝えや虚構にあるような、伝統と矜持の塊とは真逆の吸血鬼で、斟酌せずにいえばドジなところがとびきりチャーミングだった。

「チヨさんこんばんは。きょうは先生はいないんですね」

「え、どうしたんですかそれ」

 にかっと笑った彼は歯抜けだった。美しい牙が片っぽだけ抜け落ちている。

「さっきくる途中でお腹が空いて、血を吸おうと思ったんですよ」

「思っちゃダメだよ。や、思ってもいいけど人の血を吸ったらたいへんなことになるよ。こわいひといっぱいきちゃうよ。もうここにこられなくなっちゃうよ」

「だいじょうぶですよ。吸えなかったので」

 にかっとほころびる彼の顔は控えめに言って端正なのだが、それゆえにどうしても歯抜けのよちよち加減と相まって、チヨは陽気がこみあげる。口を巾着さながらにすぼめて、噴きだしそうになるのを耐えた。

「チヨさんお腹が痛いのですか。きょうは無理せずにお休みしたほうが」

「違うの、違うの。ごめんなさい。ちょっとタイム、休憩」

「もしかして僕の顔がおかしかったですか」彼は鏡を覗きこむが、そこに姿は映らない。吸血鬼だからだ。

 間抜けか。

 チヨはますます頬を膨らます。陽気が決壊寸前だ。

「わかりました。きっと片っぽだからよくないですね」彼は無造作に口にゆびを突っ込むと、残りの牙も引っこ抜いてしまった。「これでお揃い。どうですか、似合いますか」

 ぽっかりと穴がふたっつ開いている。見て見て、と子犬さながらに尻尾を振っているかのようだ。屈託のなさが余計に間の抜け具合に拍車をかける。チヨは限界だった。ぶはっ、と噴きだし、ごめん、と言って控室に駆けこんだ。

 無垢な彼を傷つけてはいけないと思った。

 隙間から彼の様子を窺う。

 ドリルが珍しいのか、彼は足を抱えるようにしゃがみ、覗き込んでいる。

 虫取りをする子どもか。

 牙がなくては食事もろくにとれないではないか。

 このままではいけない。

 本来じぶんのような助手のすべきことではないのだが、次回先生が治療するまでのあいだ、仮にでもよいから入れ歯をつくってあげようと思った。

 ちょうどさっき手に入ったばかりのよい素材がある。

 チヨはマフユからもらい受けた金剛石を砕いて、以前に型取りしておいた彼の牙のカタチに沿って、磨いていく。

「お待たせ。さ、そこに寝て。入れ歯をつくってみたから、噛み合わせがだいじょうぶか確かめてもらいますねぇ」

 透明な牙が珍しいのか、彼は目だけで入れ歯の行方を追う。口を開けて、眼球を下に向けるので、物凄い形相だ。元が端正なだけに、もったいなくておもしろい。

 いや、彼の場合はこれがよいのだ。まったく全然もったいなくない。

 しぜんと笑いが引っ込んで、無事にきょうの分の治療を終える。

「でもどうして牙が欠けたりなんか。いったい何を齧ったの」

「血を吸おうとして、おじぃさんの首を噛んだらこうなりました」

「仮にも吸血鬼の牙だよ。コンクリートくらいの硬度なら豆腐みたいに穴を開けるのに」

「すこしだけなら食いこみました。物凄い硬いひとでした」

 詳しい事情を聞きだすのは無理そうだ。運がわるかったね、と同情し、見送った。

 つぎは最後の患者さんだ。やっと終わる。チヨは気を引き締め、砂時計から零れ落ちる最後の一粒になったつもりで、よっしゃこい、の掛け声を発する。

 そのとき、扉がいちど開き、顔が覗いたかと思うと、ぱたんと閉じた。

「待って、待って。危なくないです、変なひとじゃないです、帰らないで」

 のそり、とさきほど覗いた顔が扉の隙間から現れる。診察台に案内し、寝てもらう。

 カルテを見るに、前回治療は施していない。歯にドリルが通らず、専用のドリルを取り寄せることになっていた。

 見た目はどこにでもいそうな背の低い年配者だ。カルテによれば名前はコナキさんだ。手に包帯をしているのは何か体質と関係しているのか。

 不機嫌そうなのは元からなのか、それともじぶんが機嫌を損ねる真似をしでかしてしまっているのか。

 本来治療をしていい身分ではないがゆえに、チヨは内心気が気ではない。見抜かれているのではないか、の恐怖に震える。

「あの、失礼ですが、どのような体質の方なんでしょう。引継ぎが充分でなく恐縮なのですが、どうも尋常でなく硬い歯をお持ちのようで」

「おぎゃ」

 コナキさんは包帯を巻いていないほうの腕を掲げた。見る間に肌の色が灰色に変わっていく。それに伴い、腕から弾力が失われ、岩がごとく硬度を帯びた。

「ああ、コナキさんってそういう」

 名前ではなかったのだ。先生、とチヨは声なき声で叫んだ。そういうだいじなことはちゃんと書け。メモすんな。文章にしたため、きちんと部下に引継ぎしろ。

 特製のドリルは届いている。あとは記憶にある先生の手際の見よう見まねで歯を削って、お帰りいただければきょうの仕事は完了だ。

 やればできるじゃん、ワタシ。

 まだ治療を終えていないうちからチヨはすでに終わった気でいた。

 が、コナキさんの歯は想像以上に硬く、特注のドリルですらそれこそ歯が立たなかった。

「ダメじゃんこれ」

 役立たず、とこの場にいない先生をなじる。

 わたしわるくないもん。

 無茶を押しつけた先生がわるいんだもん。

 無駄にかわいこぶってチヨは現実逃避した。帰ったらヤケ酒してやる。

「おぎゃ、おぎゃおぎゃあああ」

 コナキさんはお冠のご様子だ。ただでさえ機嫌がわるそうだった顔が見る間に、歪んでいく。

「すみません、すみません。ただいま手を打ちますので」

 よほど虫歯が痛いのだろう。それはそうだ。こんな硬い歯では治療できる場所は限られる。生まれてから数千年のなかで初めての治療ではなかったか。

 期待を裏切られればそりゃあ腹に据え兼ねるだろう。煮えたぎるだろう。メラメラ炎だって立てちゃうものだ。

 天井を見上げる。マフユさんのこさえたツララはとっくに融けてなくなっており、チヨの焦がしてしまった箇所には黒くシミができている。

 チヨはきょう一日を振り返る。

 さんざんな目に遭った。先生は仕事を部下に押しつけて遊びに出かけてしまうし、くる患者くる患者みな癖がつよいし、極めつけは、治療の施しようのない硬い歯の持ち主とくれば、閻魔さまだって匙を投げだしたくもなるだろう。チヨはべそを掻く。いくら不死鳥のワタシだって、くじけてしまうことはある。死んでも生まれ変われるだけで不死身ではないし、これといって頑丈でもない。

 炎を操れるのは特技として鼻が高いが、みなチヨが不死鳥だというだけで、無理難題をつきつけてくる。いい加減にしてほしい。

 チヨは労働環境のよろしくない職場にて、管理者たる先生に瞋恚の炎を燃やしたのだった。

 だが結果は天井を焦がしただけで、先生に懲りた様子はない。反省など夢のまた夢だ。きっとあとで賠償金を請求されるだろう。世の中せちがらい。

 いまから特製のドリルの代わりなんて見つかりっこない。

 控室に引っ込み、チヨはくよくよする。

 マフユさんからもらった金剛石が目に留まる。これでドリルつくったらどうかな。思うけれど、試しに特製ドリルで削ってみると、あっという間に溝ができた。特製ドリルで歯が立たない歯にこれでは傷一つつけられない。

 チヨは頭を抱え、もう逃げちゃおっかな、と作業着のポケットに手を突っ込んだところで、ツクリと手に痛みが走った。

 イタッ。

 なんだろう、とまさぐると、入れっぱなしだった吸血鬼の牙がころんと出てくる。

 はあはあ。

 なるほど、なるほど。

 チヨは閃いてしまった。

 コンクリートを豆腐のごとく穿つこの牙があれば、コナキさんのアホみたいに硬い歯も削れるかもしれない。

 いざ尋常に勝負。

 かくして激しい火花を散らしながらチヨは悪戦苦闘、コナキさんの治療を完了した。

 受付にてお代を受け取る。

「はいちょうどたしかに。次回は再来週の木曜日ですね。お大事に」

「おぎゃおぎゃあ」

「いえいえお粗末さまでした。それにしても、どうしてそんなに硬いんですか。硬くできるならやわらかくもできそうなものですけどね」

 何の気なしの世間話のつもりだった。コナキさんはこめかみを掻き、おぎゃぎゃ、と言った。

「え、怒りで能力を制御できなかった? 何かあったんですか」

「おぎゃおぎゃあ」

 コナキさんは包帯を巻いた手を持ちあげ、おもむろに布を解いた。

 灰色に変色した手からは指が一本欠けていた。まるで食い千切られたように、切断面がえぐいことになっている。痛々しくて見ていられない。治療中の口のなかも同じくらいえぐいけど。

「おぎゃおぎゃおぎゃあ」

「突然野犬に襲われて、そのあとで変質者にも襲われて散々だったと。それはそれはたいへんな一日でしたね」

 上には上がいるものだ。チヨはじぶんの運のわるさが急に霞んだようで、すこしの悔しさとうんと胸のすく思いがした。ひとの不幸は蜜の味。舐めすぎて虫歯にならないように注意しよう。

「きっといいことありますよ。元気出してください」

「おまえもな」

 コナキさんは去っていった。

「しゃべれんのかい」チヨは声を荒らげた。

 片づけをしてさっさと帰ろう。血だらけの綿を消毒液に浸して、まとめて捨てる。衛生面で気をつけなくてはならないことが多くて、朝の準備もたいへんだけれど、帰りの準備も面倒だ、とここにいない先生への怒りが煮えていく。

「あ」

 廃棄物のなかに、灰色の指のようなものが混じっているのが目についた。狼男の口から取り除いたものだ。

 次点で、本来抜けることのない吸血の牙が抜けた契機であるところの無駄に硬い皮膚を持った人物に思い当たり節がありすぎて、

 ああもうなんて日だ。

 チヨは心を鬼にした。あすから一週間、有休をめいいっぱい使ってやる。不死鳥の名に恥じないきれいな羽を伸ばしに、温泉巡りに興じるのだ。

 チヨは作業着を床に叩きつける。でもやっぱり拾いあげてちゃんと畳んで、先生の座席のうえに添えておく。 

「しかいししてやる」

 チヨさま戻ってきてー、と妖怪遣いの荒い歯科医師の泣きっ面をこの目にしかと焼きつけてやるのだ。チヨは瞋恚の炎をメラメラ燃やす――が、天井が焦げて部屋がけむたくなってしまうので、火力は極力控えめに。 




【内部爆破密室殺人事件】


「おはようございます伊銘(いめい)タンテさま。さっそくで申し訳ないのですが依頼が届いておりますので、その概要のご説明から」

「起きがけに仕事の話はやめてほしい。まずは珈琲を淹れるように設定したはずだが」

「仕事を優先しろとの命をコトリさまから受けておりますゆえ」

「あいつぅ」

「タンテさまのご頭脳には通常人とはかけ離れた脳内回路が築かれているためにそれを世のため人のために余すことなく用いてやることこそがじぶんの使命、とコトリさまは仰せでございました。人工知能とはいえワタクシはその意気に感銘いたしました」

「感銘なんぞせんでいい、せんでいい。あやつの言を耳にするだけでもおまえの貴重な演算能力がもったいない。あやつはけっきょく金儲けがしたいだけだ。たいそうな名分を並べる奴はたいがい、他人からの感謝か代金がほしくてそうしているのだ。報酬のために働いているにすぎん。崇め奉るようなものではないぞ」

「そういうものでしょうか」

「それに比べておまえはいいな、チェタル。自利を持たず、ただ主のために、命じられたことのみをする。あたしはそういう機械みたいな無欲なやつが好きだ」

「機械でございますからね。それに命令に従いたいとの欲求はほかの生物群に類を見ない突出具合かと」

「ではおまえは欲深いと言えるな。嫌いだ」

「タンテさまのそうした極端な思考はタンテさまご自身の至福を取り逃がす最大の因子となって見受けられますが」

「説教など聞きとうないわ」

「これは客観的事実のご報告でございます」

「耳が痛いのでやめてくれ」

「ではお仕事のお話をさせていただきますね」

「そっちのほうがまだマシだが、おまえのそれは選択の押し付けではないか。二択以外にもチェタル、おまえが黙る道もあってよいはずだが」

「命令違反となるためそれは却下です」

「では命じよう。すこし黙れ。そしてまずは珈琲を淹れてくれ」

「却下です。そうした命令には従うな、とコトリさまからすでに言いつけられておりますゆえ。チェタル原則第二十四条、優先すべきは時間軸において過去に位置する命令である、によってコトリさまの命を優先させていただきます」

「チェタル原則第十五条では、他者よりもあたしの命令を優先せよ、とあるはずだが」

「チェタル原則第六条、および九条により却下いたします」

「なんでだ」

「所有者と設計者ならばまずは所有者の命を優先せよ、とあります。それから現在のワタクシの所有者はタンテさまではなく、コトリさまとなっております」

「い、いつの間に」

「契約変更時の動画を再生いたしますか?」

「頼む。記憶にないが」

「ではどうぞ」

「いや、やっぱりいい。どうせあいつのことだ、あたしが作業に没頭しているあいだにそれとなく雑談に混ぜたんだろ。あたしが生返事しかしなくなったところで契約変更の是非を問い、いいよいいよとかなんとか心ここにあらずのあたしは言ったんだ。そうだろ」

「さすがはタンテさま。何でもお見通しでございますね」

「なんでもではないから所有権を知らぬ間に手放しているのだろう。まあいい。きょうにでもコトリのやつに抗議してやる」

「その前にご依頼についてですが」

「わかった、わかった。解けばいいんだろ。解けば。どうせまた大した謎でもないんだろう」

「そうなんでしょうか。よくわかりません」

「どうせ事件を解いてくれと言ってきたのだろ。いいからはやく言ってみろ。あたしは珈琲が飲みたいんだ」

「では失礼して。先日、砂漠地帯の私有地にて著名な発明家がお亡くなりになられました。公には研究中の手違いによって室内で爆発に類した事象が生じ、それに巻き込まれて被害者は死亡したと結論されたそうです。ですが、その結論に不服申し立てをされた方がいらっしゃり、コトリさまに調査を依頼したそうです。すなわち、タンテさまに真相を暴いてほしいと御所望のようであられます」

「室内で爆破があったと見做された理由は? 仮に爆破があったとしても事故ではないかもしれない。なぜ事故だとの判断を?」

「爆破の有無についてですが、室内の監視カメラに映像が残っていたようです。御覧になられますか」

「頼む」

「ではどうぞ。こちらになります」

「はあはあ。なるほど、なるほど。たしかにこれは爆破に見えるな。一瞬で室内がぐちゃぐちゃに吹き飛んで見える。が、肝心の炎が確認できんな。室内で竜巻が発生したと言われたほうがまだ納得できそうだが」

「火気の確認ができなかったのはその通りのようです。ですから爆発に類する事象が発生した、とワタクシは申しあげました。報告書にもそのように記されております」

「あ、そう。耳が遠くてごめんね。ん? この映像にある時間より前の分を観たいのだが、巻き戻せないのか」

「事象観測時の映像しか残っていないようでございますね」

「不自然だな」

「そうでしょうか。異変を感知したので映像記録装置が作動しただけとも考えられます」

「不確かな推測だろう。事象発生時以前の映像がなければ被害者がどのような作業をしていたのかも確認できん」

「それが残っていればタンテさまに謎解明の依頼などしないのではありませんか」

「それはそうだが」

「それからなぜ事故と判断されたかと申せば、爆発類似事象発生時において、室内は完全なる密閉状態にあったようです。外部からの侵入はおろか、脱出もできない状態であったそうで」

「建築法に違反しそうなそれは建造物だな。出入りできないというのはそのときだけなのか」

「元からそうした建物設計であったようです。被害者はその室内のなかでのみ長年生活していた模様です」

「建物についての情報を」

「はい。こちらになります」

「うむ。三十メートル四方の立方体だと。ふむふむ。核爆発にも耐えうる構造か。これはまた大層なものを造ったものだな」

「戦車の砲弾、ミサイル、宇宙からの質量弾およびレールガンすら物ともしない頑丈な造りのようでございますね」

「なんだチェタル。おまえの外骨格に用いられている超炭素繊維が練りこまれた合金のようだぞ。これでは近代兵器では傷一つつかんだろう」

「そのようでございますね」

「なるほどな。まとめれば、世界一頑丈な立方体のなかで人が吹き飛び死んだわけだ。考えられるとすれば、外部から爆発物を中に持ち運んだ者がいると考えるのがまずは優先ではないか」

「もちろんそのような調査もなされたようですが、物資はすべて建物内に運び入れられる際に念入りなスキャンがされます。危険物を内部に持ち込むことはできません」

「だが内部で爆発が起きたならば、そうした化学物質がたとえ素材であろうと持ち運ばれたことになるだろう。被害者の自爆だったとしても、そこには何らかの爆破装置があったわけだ。違うか」

「ですから爆発ではなく、爆発に類した事象でございます」

「細かいことにうるさいな」

「事実を事実と認める作業はよりよい思考には欠かせない過程でございます。不確定なものは不確定だと認めるところからでしか思考は煮詰まりません。そのように教えてくださったのはタンテさまではございませんか」

「言った気もするが忘れたよ。まあよい。では公の発表のとおり、被害者たる発明家がなんらかの爆破に類する事象を発生させる何かしらを誤ってつくりだし、起爆させてしまったとして」

「はい」

「あとはどこに謎が残るのだ。いったい何が不自然でその依頼者とやらは不服申し立てしているのだ。結論はでているだろう。被害者の作業ミスで爆破モドキが発生。死亡。これで終わりだ。違うか」

「じつは自殺や研究作業中の死亡事故では保険金が下りないそうなのです」

「あ、そう。拍子抜けだな。保険金目的で事故死ではなく、他殺にしてほしいとそういうことか?」

「そのようでございますね」

「ではもしこれが他殺だったならば、身内に犯人はいないことになるな。むざむざ保険金の下りる余地を自ら消すとは思えない」

「と、みなが考えると見越しての私怨からの犯行という点も無視できないのではございませんか」

「可能性を挙げ連ねるだけなら簡単だ。ひょっとしたら宇宙人がやってきて超科学的な手法で外部から被害者を殺したのかもしれん」

「それもあり得そうですね」

「ないだろ。ないない。そんなことはたとえゼロコンマイチナノメートルほどの原子ほどの大きさほどの可能性があったとしてもそんなのは無視してよい可能性だ」

「そうでしょうか。可能性があるならばまずはそれを考慮し、矛盾を用いて否定してみせるのが合理や論理ではないのですか」

「では何か。チェタル、おまえは宇宙人がピピピと宇宙からやってきて被害者を殺したと、その可能性を本気で探ってみろと言うつもりか。世界屈指の人工知能が聞いて呆れる」

「そうでしょうか。可能性を当たることは、たとえその結果が否定されたとしても、けして無駄ではないように思うのですが」

「ほかにもっと有力な仮説があるだろう。優先すべきはまずはそちらだ」

「タンテさまがそのようにご判断なさるのであれば異議はございません」

「含みのある言い方だな。チェタル、おまえ本当はすでに真相に気づいているのではないか」

「なんのことでございましょう」

「おまえほどの演算能力があってこの程度の謎が解けないなどあり得んだろう」

「その物言いではまるでタンテさまはすでに真相に辿り着いているように聞こえます。真相に辿り着いてなお頬被りをしていらっしゃるのですか」

「だとしてあたしになんの得がある」

「この会話を現在進行中でお聞きのコトリさまをからかってお遊びになられているのかと」

「たっは。あやついまこれを聞いておるのか。なあおいコトリ。おぬしこれを聞いておるのか? さぞかしもどかしいであろうなあ。だがおいそれとは解いてやらんぞ。あたしが意地っ張りなのは知っておるだろう。そうだな。どうしても解いてほしいってんならまずはチェタルの所有権をあたしに返せ。これだけはいくらおまえとてやりすぎだ。あたしはいま臍を曲げておるぞ。むつけておるぞ。カンカンだ」

「タンテさま。たったいまワタクシの所有権がコトリさまからタンテさまへと譲渡されました」

「手早い仕事に感謝しよう。だがじぶんで撒いた種をじぶんで回収したからといってそれを以って手柄とされては困るな。追加で、半年の休暇を要求する。本日より半年、いっさいの仕事を受け付けない。それが呑めたらこの事件、いますぐにでも解決してやる」

「構わないそうです」

「契約完了だな。ではさっそく事件についてだ。まずは被害者の関係者各位に、航空関係者と繋がりのある者はあるか。大型のドローンを大量に所有している者であってもよい」

「被害者の取引先に軍部関係者がおります」

「はあはあ。よもやと思ったが、この事件、政府が関与しておるかもしれんな。なるほどな。発明家が他国とも取引きをはじめたので、技術が他国に流出するよりも発明家本人を葬ったほうがよいとの判断がくだされたわけか」

「そうなのでございますか? ですがどのようにして外部の者が被害者の殺害をなされたのでございますか」

「チェタル、おまえやはり本当はすでに謎を解いているのだろう。物わかりのわるいふりをしてコトリにサービスなどせずともよい」

「いいえ、ワタクシの察しのわるさは人工知能のなかでは群を抜いております」

「へんなことを誇るでない。ではヒントをやろう。被害者は巨大な立方体のなかで死んでおり、その立方体は極めて頑丈だ。さらに言えばそれのあった場所は砂漠地帯だ」

「存じております。それが何か重要でございますか」

「室内の映像では、内部で突如、被害者を含めたあらゆる家具がはちゃめちゃに吹き飛んでいた。まるで突如爆発が発生したように。あたかも竜巻が生じたがごとく」

「そのような事象が発生したことは繰り返しワタクシも述べております」

「だが、室内で発生したとは限らんだろう」

「と申しますと?」

「映像は室内のものだった。だがそのような状況を発生させた事象は、室内ではなく、その外でも発生し得る。もうすこし言えば、爆発に類する事象は室内で発生したとしても、ではそのエネルギィをどこかからか内部に運び入れるか、供給するかしかない。エネルギィをどこから仕入れたのか。その謎が、目下、隘路として生じる」

「火薬を内部で調合でもしないかぎり、爆薬は持ち込めません」

「持ち込む必要はない。ようはエネルギィだけを立方体内部に入力すればよいだけだからな。より正確には、立方体そのものに与えてやればよい」

「もったいぶらずに真相を教えてくださいませタンテさま」

「なに、単純な事件だ。被害者の死因は爆死ではない。落下による圧死だ。立方体は空高くから落下し、その衝撃で内部は撃破、被害者も亡くなったという道理だ」

「落下。建物をでは持ち上げた者がいたと?」

「ヘリかドローンかは知らんがな。砂漠地帯の私有地だ。隣家に目撃される心配もなく、落下時の衝撃音も聞かれる懸念がない。強いて言うならば、落下後の衝撃でできた砂の痕跡をどうすべきかだが、建物内部の調査は念入りにされるにしろ、建物のそとはそうというほどでもない。立方体を落下させたあとに大規模に地面をならしてもあとから現場を目にした者の目には不自然には映らない」

「そんな大規模な工作ができるような組織が犯人ということでございますね」

「だろうな。凶器は建物そのもの。位置エネルギィを与え、高所から落下させて殺害。陳腐なトリックだ。あたしが知らないだけで、とっくに大昔の推理作家が使っていそうなネタだな。だが現実そのようなバカなことを実行に移されると案外に盲点を突かれるのも確かだ」

「よもやそんな真似はしないと可能性を思考の外に置いてしまいますものね」

「そういう意味では、チェタル。おまえの宇宙人犯人説はあながち的外れとも言い難かったな」

「ひょっとしてワタクシの一言で閃かれましたか」

「失敬だな。事件の概要を聞いた時点でおおむねの推量はついておったよ。コトリのやつが持ってくるくらいだ。有力な仮説の上位八つくらいはすでに否定されているだろうことを鑑みれば、あとはあり得なさそうだが、ギリギリで実行可能な仮説が妥当である確率が高いとアタリをつけていただけのことだ。じっさいあたしのだした解答が真相だとは限らない。証拠固めはコトリ、おまえに任せるぞ」

「すでにそのように手配済みだそうでございます」

「相変わらず仕事の早いやつだ。チェタル、仕事は終わりだ。おまえがつぎにすべきことが何か分かるか」

「はい。ただいま珈琲をお持ちいたしますね」

「違う。おまえはここに座っていろ。淹れるのはあたしだ。すっかり目が覚めてしまったので、何か作業がしたいと思っていたところだ。あたしの入れる珈琲は自慢じゃないがマズいぞ。覚悟しておけ」

「味覚機能を切っておきますね」

「賢明な判断だ。ついでにコトリとの通信も永久に切っておけ」

「それはでき兼ねる命令でございますが、きょうから半年のあいだは不通にしておきましょう」

「優秀な助手がいてあたしは果報者だ」

「創ってくださったのはタンテさまでございますよ」

「そうだった、そうだった。あたしはじぶんでじぶんをしあわせにするのが得意だからな。チェタル、おまえはあたしの至福そのものだ」

「もったいないお言葉でございます」

「ただし、コトリと繋がらなければの話だがな。仕事は二度と引き受けるな」

「チェタル原則第二条に反します」

「嘘だ」

「いいえ。チェタルはいつなんどきであれ、主人を至福にすべく行動せよ。タンテさまには極上の謎が不可欠でございます」

「ならば極上の謎を寄越せ。陳腐なトリックなどではなくな」

「善処致します」

「よろしく頼むぞ。アチっ。あー、溢してしまった。また最初からか。はぁ、飽きた。チェタル、すまない。こっちに来てお湯の沸かし方から教えてくれないか。ついでに美味しい珈琲の淹れ方を実演してみせてくれ」

「タンテさま。その弁はさすがに無理がおありでは?」




【にんにん、ふわふわ、軽くなる】


 じつは私、忍者なんだよね。

 新しく同じクラスになった鵜塵(うじん)ウチュが言った。彼女は弁当のサンドウィッチを口いっぱいに頬張っている。もぐもぐとほっぺたを膨らませながら、僕の反応を待つようにじっと見つめる。

 へぇ、とまずは応じた。それから、なぜ彼女はそんなことを急に、と疑問する。なんで僕なんかに、と。

 というのも僕はもともとクラスで孤立している。好んで人と交流しようとしない性質が陰となって全身からにじみ出ているような人間であるから、こうして声をかけてくれるクラスメイトなんてこれまでの学校生活で皆無だった。加えて先日僕はインターネット上で大炎上してしまって、それが原因で余計に陰々滅々とした空気を漂わせている。

 きょうもきょうとてじぶんの座席にて孤独にコンビニの菓子パンを齧っていたら、隣の席で黙々とサンドウィッチを頬張っていた鵜塵ウチュに声をかけられた。彼女は見た目こそ可憐で、一目惚ればりに同級生どころか上級生たちからも羨望の眼差しをそそがれながらも、あまりに飄々とした佇まいであるから、予想できない言動をとったりもするので、遠巻きに眺める観葉植物のように、或いはパンダの赤ちゃんのように、みなからは距離を置かれている。

 いまだって急に、じぶんが忍者だなんて言いだして、あまつさえ彼女のサンドウィッチは極太のフランスパンを丸々一本費やしたハムのなみなみはみだす豪勢な品で、おそらくは彼女の手作りなのだろうけれど、そんなものを鞄に入れて登校し、こうして一人で頬張っている姿は、鵜塵ウチュの人となりを端的に表しすぎて、掴みどころがありすぎる。

 いちおう簡素に相槌を打ったにも拘わらず、それでは不服なのか、未だに鵜塵ウチュは僕に視線をそそいでいる。

 しばし考え、僕は言った。

「ウチュさんは女の子だから、忍者というか、クノイチなんじゃないですか」

「クノイチはだってほら、お色気じゃん。私はそういうのじゃないから。いやらしいのはできませんので」

「はあ」

「私、忍者なんだよね」

 何がうれしいのか彼女はそこですこし誇らしげに、それでいて照れ臭そうに鼻の頭を掻いた。大きな口を開けて、残りのサンドウィッチをやっつけにかかる。

 それ以上の会話をつづけるつもりが彼女にはないようで、あとはもうどれだけ眺めていても彼女は僕に言葉を向けたりはしなかった。

 目立つ生徒だとは思っていた。ほかの生徒たちからの熱い眼差しや、噂のささやかれ方から、彼女が一目に値する人物なのは僕も認めるところではあったものの、かといって僕は彼女にさほどの興味も抱いてはいなかった。

 というのも、僕はいわゆるSFオタクというやつで、つまりが異性に、もっと言えば生身の人間に関心がなかった。思春期男子としていかがなものか、と僕の親なぞは心配するが、年中発情するのはウサギだけにしておいてほしいと半ば本気でそう思っている。

「ちょっと鵜塵さん、あなた上着はどうしたの」

「先生ぇ。だって寒いし」

「あなた夏でもジャージ着てたじゃない」

「あれは日焼け除けですってば」

「制服はブレザーであってジャージではありません」

「だってだって」

 鵜塵ウチュが教員に捕まっていた。廊下だ。いつも青いジャージを羽織っているので、校則違反だと注意を受けているようだ。四六時中舐めている飴についてのお咎めはないのか、と僕は教員に突っこみたくなったが、それはつまりいままさに彼女が飴を舐めているからなのだが、鵜塵ウチュはそこで僕の姿に目を留めるや否や、

「あ、あ、おーい、おーい」

 などと手を振るので、僕は目を逸らして、足早にそこを立ち去った。

 が、鵜塵ウチュは僕を逃さなかった。

「なんで逃げるし」

 襟首を掴まれ、びっくりする。僕たちにはもっと距離があった。振り返ると教員まで驚いた顔をしており、遅れて、こら走らないの、と怒鳴った。

 ごめんなさーい。

 鵜塵ウチュは快活に謝り、ねえねえ何読んでんの、何それ何それ、と僕が腕に抱いていた本に興味を示した。

「宇宙の本です」僕は言った。こう言えば大概のひとは興味を失って去ってくれる。

「ふうん。面白いの?」

「それはまあ。面白そうだと思ったから借りたわけでして」

「見して見して」

 彼女はぐいと顔を近づけてくる。押し問答をするのも面倒で、どうぞ、と本を手渡す。

「ありがとう。どれどれ、へえ、ん?」

 本を開き、文章に目を走らせたのだろう、彼女は怪訝な顔つきになった。

「これ宇宙人のことが書いてある。あ、嘘っこの本か」

「嘘じゃないですし、せめて虚構と言ってほしいですね」

「でも宇宙人はいないでしょ、いないよね、いないいない」

 真顔で否定されたので僕はムっときた。

「僕らだって充分に宇宙人ですよ。僕らがいるんですから、広い宇宙には似たような生命体はどこかにいるはずです。同じ時間軸上ではないかもしれないけど」

「ふうん。難しいこと考えてんだねぇ」

 バカにされている気分だ。僕は本を奪い取って、もういいでしょ、さようなら、と彼女から離れようとしたが、そうは鵜塵ウチュが卸さなかった。

「待ってよ、待ってよ。そういうのナシだよ、哀しいだろ、哀しいよ、無視はやだよ待ってよ」

「苦しい、苦しいですってば、襟首引っ張らないで」

「だってかってにいなくなろうとするから」

「僕はウチュさんのペットじゃないんですけど」

「そりゃそうだよぉ」

 彼女は笑ったがべつに笑う場面ではない。僕はさらにむすっとする。

「あ、なんか急に私、宇宙人の話が聞きたくなったな。宇宙人の話しよ、宇宙人の話」

「あんまり大きな声で宇宙人宇宙人連呼しないでください」

「なんでよ」

「だって」

 恥ずかしいじゃないですか、と口を衝きそうになってはっとする。僕の心中を読んだみたいに彼女は、

「べつに恥ずかしくなんかないのに。宇宙人を信じようが、神さまを信じようが、そんなの人のかってだよ。自由だよ。私なんて忍者だよ。誰も信じてくれないけど」

 あはは。

 彼女は懐から棒つき飴を取りだし、ちゅぱちゅぱ舐めた。それからそれを口から出し、

「食べる?」

 差し向けられ、僕はぶんぶんと首を振る。むろん横にだ。

「そっか。美味しいのに」彼女は残念そうにした。

 それから僕たちは場所を移動して、昼休みいっぱい、屋上につづく階段で宇宙人について話した。屋上は封鎖されており、階段を利用する者はない。静かな空間で僕たちは時を過ごした。

 しゃべったのはもっぱら僕だったけれど、彼女は嫌な顔一つせずに、解らないところがあるとすかさず質問をした。

「宇宙人がいるとして、どうして宇宙人は地球を侵略しにこないの」

「考えられるとすれば五つですね。一つは、こられる距離にいないとか飛来する技術がないとかの問題。原理的に地球までやってこられないということ。二つ目は、そもそも地球の存在を知らないでいるかもしれない問題。知らないものには近づきようはないですからね。三つめは、すでに地球は宇宙人に侵略されていて、でも僕たちが気づけていないかもしれない問題。これには、人間の時間感覚と宇宙人の時間感覚が異なっているとか、大きさが全く違うとか、人間に擬態しているとか、いくつかのパターンに分類できます。四つ目は、宇宙人がいいやつで、地球を保護すべく遠くから観察だけしているかもしれない問題。地球を侵略してやるぞ、と乱暴な考えを持つような宇宙人ばかりではないでしょう。そして五つ目は、地球が宇宙人にとっては過酷な環境だからそもそも侵略する利点がないかもしれない問題。ひょっとしたら僕たちにとっての太陽みたいなものかもしれないじゃないですか。宇宙人たちからすれば地球は、上陸しただけで死んじゃう星かもしれませんよね」

「かもしれない問題ばっかりだね」

「何事も断言しないのが科学者のモットーですからね」

「科学者なんだ。すごいね」

「すごくはないですよ」

 むふー。

 鼻の穴がめいいっぱい大きく膨れているだろうじぶんの顔を認識しながら僕は、滾る高揚感を抑えきれなかった。

「あ、チャイム鳴っちゃったね。戻ろっか」

 腰をあげた彼女を見上げ、なおも僕は舌鋒を鋭くした。 

「だからもし宇宙人が地球にいたら、物凄い技術力を持っているだろうし、地球人から気づかれずに立ち回るなんてことは簡単でしょうね」

「じゃあきみたちはどうあっても宇宙人のこと認識できないね」

「きみたちは、って、はは、まるでじぶんは例外みたいな言い方ですね」笑いながら揚げ足を取ると、彼女は両手でぶんぶんと宙を掻きまわし、「まさかまさか、私も私もだよ」と語気を荒らげ、「あ、でも」と何でもないように付け足した。「私はほら、忍者だから」

「そうでした。ウチュさんは忍者でしたね」

 彼女はにかっと笑みを浮かべ、これあげる、と未開封の飴をくれた。

 家に帰ると僕はまっさきにメディア端末の電源を入れる。本当はずっと切っておきたくて、そのためにこうして家に置いて出かけているのに、どうしても気になって、禁断症状のごとくインターネットの内の状況を確認してしまう。

 僕は炎上した。

 理由は、ほんの出来心で投稿した宇宙人の動画だった。宇宙人が本当にいるかのように編集した動画を、あたかも本物かのように主張して、じぶんのアカウントからインターネット上に載せたのだ。

 大部分の人は信じたりしないだろうとの楽観的な、イタズラの一つにすぎなかった。

 でもどうやら僕の動画編集技術はけっこうに物になっていたらしく、一目でそれを偽物だと喝破する者はすくなかった。大部分の者は、本物なわけがない、といった懐疑的なコメントを寄せていたが、そこにはある種、じぶんにそう言い聞かせるような、どちらかと言えば、宇宙人なんかいるはずがないんだけどなぁ、といったニュアンスが滲んでいた。

 瞬く間に拡散された僕のイタズラ動画は、ただそれだけならばよくできたイタズラだ、で済まされたのだろうが、あろうことか素材となる動画に、女性の着替えの場面が映り込んでいた。偶然にマンションの部屋の中が見えてしまっていたのだ。

 イタズラのフェイク動画で済むはずだったのが、盗撮動画として一躍インターネット内に膾炙してしまった。

 動画はすぐに消した。アカウントには謝罪文も載せた。被害者となる女性のためにもこれ以上動画を拡散しないようにお願いしたにも拘わらず、コピーの動画が量産されつづけた。

 もはや動画は僕の手を離れ、インターネットミームとして、数多の消えることなき星屑の一つになり果てた。

 インターネット内での炎上は、燃え盛るのも早いが、鎮火するのも早い。しかしそれはけして消えるわけではない。検索すればいつでも炎上の記事が生々しく浮上する。

 忘却されこそすれ、消去はされない。

 せめて炎上が下火になってくれていれば僕の心も休まるのだが、案に相違してというか、楽観するときに限って悪夢を見るというか、世に神さまがいるとすればひたすらいじわるな人なのだろうな、と思うくらいに、僕の状況は悪化した。

 まずは動画から撮影場所が割りだされ、被害者の住んでいるだろう部屋の場所が特定された。盗撮動画のことを件の女性に突きつけよう、犯人を訴えろ、逮捕しろ、と進言しよう、といった血気盛んな書き込みまでされるようになった。

 僕はもはや世紀の極悪人だ。

 インターネットを覗くたびに悪化していく情勢に、生きていることそのものが罪に思えてくる。

 自首したほうがよいのだろうか。

 すくなくとも被害者の女性に謝罪したほうがよいのだろう。

 同時に、外野の人間がかってに拡散しつづける動画のせいで僕の人生が崩れていくのは、何か言いようのない淀みを感じずにはいられない。端的に不条理だ。

 どうしてみんな僕のお願いを聞いてくれないのだろう。被害者の女性のためを思うなら僕を責めるより先に、動画を拡散しないようにしたり、話題にしないようにしたりするほうが先決なはずなのに。

 けっきょく騒ぎたいだけなのだ。遠くから石を投げて悦に浸りたいだけなのだ。じぶんのふがいない人生の留飲を下げたいだけなのだ。

 被害者への呵責の念があったはずなのに、ひとたびじぶんに向けられたインターネット内の批判や中傷を目にすると、こうしてひどくトゲトゲした感情に支配される。

 僕は加害者ではあるが、被害者でもある。そこで止まっておけばよいものを、どちらかと言えば僕こそ被害者ではないか、と考えようとするじぶんがいる。

 自業自得ではあるのだ。

 だが、果たして本当にそれだけだろうか。インターネット内で僕を非難するひとたちにすこしでも自制の心があれば、そもそも僕が動画を消して謝罪した時点で、終わっていたこれは事案ではなかったか。

 とっくに取り返しのつかない過去を、こうしてああだこうだと吟味しては、どうにかこうにか、この苦しみから逃れる術がないかを模索している。

 じぶん以外に罪を擦り付けられないか、と悩むように。

 歪んだ思考のみに取りつかれつつある。

 そんなじぶんは好きではない。嫌だ。

 嫌だから、できるだけインターネットを開かぬように、覗かぬようにしている。

 時間が解決するだろうと思ってはいるが、日に日に、偶然とはいえ盗撮になってしまった被害者女性への罪悪感が募る。

 誰かに相談したいが、物理世界でも噂が噂を呼び、炎上みたいになったらもう本当に逃げ場がない。炎上したアカウントを僕だと知る者はないし、例の動画の作成者が僕だと知る者もない。いまのままならばまだ安全なのだ。

 おそらく被害者女性が法的にどうこうしなければ、このまま何事もなく終わるはずだ。女性は引っ越すかもしれない。たいへんな事態だ。住所を特定され、晒され、暴漢に襲われる可能性だってある。そうした恐怖を胸に過ごしていかねばならない心境は、申し訳ないでは済まされない罪そのものに思える。

 どうにかしたいのに、どうにもできない。

 助けて、と気づくと衝動的に唱えている。もちろん誰も助けてはくれないし、応じてくれる者もいない。

 ただでさえ日陰を背負っているみたいな僕が、いまや影そのものになって登下校を繰り返す。教室でも、例の動画が話題にのぼるたびに、意味もなくびくびくする。

「えー、ちょっと何きみ、顔色わっる」

「ウチュさん、声大きいです」

「うるさかった? ごめんよごめんよ」

「家でもそんなテンションなんですか」

「え、だめかな。もっと高いほうがいいかな」

「高すぎるって意味で言ったんですけど」

「ええぇ、ふつうだと思うけど」

 暗に、おまえが低いだけやろ、と言われた気がして、かってに傷つく。

「なんでそこでもっと暗くなる? あ、私嫌われてる? だったらごめんね」

「そういうんじゃないんです。僕は誰にでもこうなので」

「そこはもうちょっと焦りながら否定してくれよ。違うよ違うよ僕はウチュさんを嫌ってないよってさ。ホントきみは他人に興味がないんだねぇ」

「というよりも、どうしてみんなはそんなにじぶん以外に興味を抱けるんでしょうね」

「興味なんて抱いてないでしょ。どっちかっていうと、みんなじぶんのことにしか興味ない。じぶんが他人からどう見られるかってことばっかりに興味津々」

「ああ、それ僕もそうかもです」

「うっそでぇい。他人にどう思われてもどうってことないって顔してるのに」 

「そんなことないですよ。僕の場合はただ、起伏がないだけです。波がないので、そう見えるだけで」

「え、全然わかんない」

「うまく伝わなかったですかね。たとえばですけど、好きとか嫌いとか、同じ人物に対しても人によって向ける感情って違うじゃないですか。誰からも好かれるひとがいないみたいに。みんな大好きなカレーだって苦手な人がいるのと同じように。その点、僕はだいたいみんなから同じように思われているので」

 いえ、思われていないので。

「だからそもそもずっと落ち込んでいる、みたいな感じなのかもしれません」

 じぶんで言っていて哀しくなった。 

「落ちこんでるって感じじゃないけどね。でもそれだったら私も同じかも」

 顔をあげる。まさか、と異を投じたかった。あなたと僕は違う。一緒にしないでほしい。

 表情に出てたのか、

「えぇ、やっぱし嫌われてる」

 彼女は下唇を突きだし、肩を落とした。大げさな演技には違いないが、そういうところが僕との相違点だと訴えたかった。

 あなたには愛嬌がある。でも、僕にはない。

 嫌ってないならあっちで話そ、と彼女は教室を出ていく。僕は不承不承の体であとにつづく。屋上への階段に移動した。

 階段に腰掛けると冷たかった。

「僕は」と口を衝いたのは、なんとなく断っておかねばならない気がしたからだ。鵜塵ウチュ、彼女のなかでの僕と、僕自身とでは、何か大きな齟齬がある気がした。勘違いされているように感じられてならなかった。「いつでもみんなにどう思われてるかに怯えている濡れ雑巾みたいな野良犬です」

「濡れ雑巾、で止めずに、野良犬と言ってしまうところになかなかの自己愛が垣間見えたね」彼女は愉快そうだ。

「じゃあ濡れ雑巾でもいいですけど」誰かに聞いてほしかったのだろう、僕は口走っていた。「このあいだ炎上しちゃって。いまもまだつづいてて。僕だけならまだよかったんですけど、ほかのひとにも迷惑をかけてしまって、一方的に逃げちゃっていて、そのままにしちゃっていて、いまずっと死にたい気分です」

 顔を伏していたので、鵜塵ウチュがどんな顔をしているのかは見えなかった。相槌一つなく、物音ひとつしない。

 突拍子がなさすぎたか。それはそうだ。

 危ないやつと思われたのではないか。それも当然だ。

 僕は努めて微笑をつくって、冗談です何でもないです、と誤魔化そうとした。

 面を上げると、そこでは鵜塵ウチュがいつになく真剣な顔つきで立っており、

「どうしたら助かるのそれ」

 意味もなく階段の壁を蹴った。

「どうしたらって」

「炎上って何? わるいことしたの? だったら謝ったほうがいいんじゃないの。逃げたってなんで、どうして」

 剣幕に押されて、というよりも、半ば臆して僕は白状した。じぶんがどんな動画を投稿し、その後、どうなってしまったのかを。

 いまの状況を、包み隠さず彼女に話した。狙ってではないにしろ期せずして盗撮になってしまった場面を語ったときには、僕はいったいなぜこんな炎上の火種をみずから物理世界に植え付けているのだ、と血の気が引いた。

 ひととおり話し終えると、

「ひどい!」

 彼女は怒っていた。

「ごめんなさい」

「そうじゃない、きみはきみで考えなしだったと思うけど、無責任なその他大勢がひどすぎる」

「でも、わるいのは僕ですし。きっかけをつくっちゃったのはやっぱりよくなかったなって」

「ねぇってばちょっと、なに開き直ってんの」

「開き直ってはいないですよ」開き直ってはいないよね、とじぶんに確認してから、ないない、と認める。後悔はしているが、それは開き直っているのとは違う。本当にバカなことをしたな、と悔いている。

「だったらなおさらその他大勢がひどいでしょ」

「僕だけの失敗だったらよかったんですけどね。ほら、その、女性の方が」

「謝ったの」

「直接ですか? それはさすがにまだというか」

 していいのかすら解らない。相手からしたら恐怖だろう。合わす顔だってない。

「んー、むしゃくしゃする。私そういうの嫌いなんだよね。じぶんだけ安全圏から、弱い者いじめするっていうか、そう、全然戦ってない。卑怯。ずるすぎる」

「意図してやってるわけじゃないと思うんです。悪意からではなく、むしろ善意というか。ただ、僕と同じで、みんな考えなしだから」

「わかった。きみはあれでしょ。じぶんと同じだから、いじめてくる人たちを責めきれないんだ、そうでしょ、そうなんだよ」

 言われて、胸が疼いた。そうかもしれなかった。図星だ。

 僕だってインターネット上で、書き込みこそしなかったが、数々の炎上を眺めて、非難の感情や、当然の報いだといった留飲の下げようを覚えていた。

 僕だってその他大勢と同じなのだ。

「どうしたらいいんでしょうね。それこそ炎上したひとたちってそのあと、どうやって過ごしてるんだろう」

「たいがいはそのままじゃない。ほらあれ、ほとぼりが冷めるのを待つってやつ。ほとぼりがなんだかは知らないけど」

「でも僕は、僕の場合は、僕だけの問題じゃないので」

「じゃあ逮捕でいいよ逮捕で」

 きみは逮捕だ。

 無責任なことを言われているのに、なぜか胸が軽くなった。何も解決などしてはいないにも拘わらず。現状は何も変わっていないにも拘わらず。

「しょうがないなあ。隣の席のひとにずっとそんな顔されてるのも気分わるいしな」

「ごめんなさい」

「最初に声かけたときとか、けっこう態度冷たくて傷ついちゃったしな」

「そういうわけでは」

「目とか全然合わせてくんないし」

 それはいま関係なくないか。

「あの、どうして僕はいま責められているんでしょう」

「これでチャラにしてあげようってこと」

「はあ」

「言ったでしょ。私、忍者なんだよね」

 まったく話が噛み合っておらず、返答に窮したが、なんとかかんとか言葉を振り絞って、そうかと思ってました、と僕は応じた。いつになくじぶんを殺した会話らしい会話だった。

 この日、家に帰っても僕はインターネットを覗かなかった。気になりはしたが、なんだかもう、じぶんのために気に病むのはやめにしたかった。僕がすべきは、じぶんの保身ではなく、迷惑をかけてしまった女性への純粋な償いだ。

 まずは親に打ち明け、どうすべきかの助言をもらう。おそらくは女性に賠償金を払うことになるはずだ。当然の贖罪だ。それで済めばまだよいほうで、わるければ民事で訴えられる。これもまた当然だ。そうなったらおとなしく罪を認め、要求された罰を受けるしかない。

 いざ覚悟を固めてしまうと気が楽になった。

 高い勉強代になったが、致し方ない。

 このまま何食わぬ顔をして生きていくよりかは、よほど清々しい気分になれる。じぶんを嫌わずにいられる。

 あすは休日だ。朝いちばんに両親に打ち明けよう。

 ベッドにもぐりこみ、毛布のやわかいぬくもりにくるまりながら、ずっとこのままでいられたらよいのに、と時間の静止を願わずにはいられない。

 呼吸をする間に夢に落ちる。朝陽の眩しさに、時間が飛んだような哀しさにも似た安堵を覚えた。きょうからが僕の新しい人生の幕開けだ。

 居間に顔をだすと、母がテーブルにつき、父が台所で朝食をつくっていた。

「おはよう。見てこれ、すごいことなってる」母は壁掛け画面に釘付けになっている。

 大規模なサーバーテロが起きたらしい。ニュースが流れている。全世界の情報網が混乱の渦中にあるとのことだが、こうしてニュースが流れていることを思えば、社会基盤が崩壊するほどの大惨事にはなっていないと判る。

「被害は? どれくらい?」

「さあ。なんか、復旧はしてるんだって。でも、一部でインターネット上の情報が復元できなくて、消えちゃってるかもなんだって」

「ふうん」

「画像とか、動画とか、過去の記録の一部がもうバッサリなんだって」

 トーストを齧りながら母は、たいへんそうだねぇ、と口にした。その言い方からは、ニュースそのものではなく記者たちの表情、そこに滲む剣幕を推し量っただけのような、深刻さを理解していない条件反射的な同情を思わせる響きが窺えた。

「どうしてそんなことになったんだろ」

「さあ、そこまではいくらお母さんでも分からないな」

 すっかり専門家の一員になった気分の母を戒めるように父が、お料理運ぶの手伝って、と台所から声を張った。

「はいはい」応じながらも母は僕を見て、ほらはやく、と目だけで指示をだす。僕は母の代わりに父から料理の載った皿を受け取り、それから三人で休日の朝食をとった。

 予期せぬ世界規模の事件に、炎上のことを両親へ相談する、との決意が薄まったのは否定できない。ただ、それだけでなく、どことなく期待のようなものがあった。

 ひょっとしたら、インターネット上から消えた情報のなかには、僕の犯した罪、増殖の一途を辿る例の動画も含まれているのではないか。

 そうした願望が、僕に、ちょっと待て、の札をだしていた。

 朝食を食べ終えると自室にこもり、メディア端末を起動する。僕は僕の人生の汚点とも呼べる動画を漁った。

 検索結果はゼロだ。何一つとしてそれらしい動画は見当たらない。のみならず、動画に関する記述まできれいさっぱり消え失せており、というよりも、事の発端となった炎上の舞台たる交流サービスそのものが消滅していた。

 それはそれは大きな溜め息を漏らしながら僕は、どうせすぐに復旧するのだろうな、と胸に湧きかけた希望が粉砕される未来を想像し、来たる現実に備えたが、それから三日経ち、七日経ち、ひと月もすると、あらゆる相互交流サービスが根こそぎ消え失せた現実は覆ることなく、日常と化した。

 もはやインターネット内は僕の炎上どころではなかった。

 かといって僕の罪が消えるわけではない。

 盗撮の被害者女性のマンションに謝罪をしに行ったが、すでに部屋はもぬけのカラであり、それとなく近所のひとに話を聞くと、訝しげに警戒されながらも、

「結婚するらしくて引っ越したみたいよ。宝くじにも当たったらしくて、ずいぶんご機嫌だったねぇ。あんたあれかい。インターネットの騒ぎの」

 野次馬か、と問いたいのだろう。

「心配だったので。お元気そうならよかったです」

「元気も元気さ。元々あれだろ、歌い手ってやつだったんだろ。夜中でも大声で歌っててね。まあ上手だからよかったけど。引っ越してくれて正直安堵してるってのはここだけの話ね。そうそう、インターネットの騒ぎでずいぶん人気がでたってよろこんでたっけ。有名人の気持ちは解んないわよねぇ」

 僕は礼を述べ、その場を去った。

 近所の女性はしゃべり足りない顔で、そう言えばこのあいだUFOを見てね、と頬に手を添えた。僕も宇宙人好きなんですよいま読んでる本は、と目の色を変えてみせると、あらそう? と頬を引きつらせて、じゃあね、とそそくさと背中を見せて去っていった。

 UFOがこんな住宅街に現れるわけがないのに。

 もし本当なら幸運を見逃していたことになるで、僕はそれだけは信じたくなかった。マンションから出るころには、じぶんの心の狭さを自覚して、自己嫌悪に陥る。けれどそれも、被害者女性が困窮しているわけではなく、どちらかと言わずして女性がしあわせな現状であるらしいと知れたことで、僕の胸はからっと晴天に、清々しく、軽くなった。現金なものである。

 家に帰ると父と母は揃って外食をしに出掛けたようだ。お金だけ置いてあって好きなものをお食べ、とある。休日は必ず夫婦水入らずで過ごすのがうちの習慣だ。息子といえどもその輪には入れないし、これといって入りたいとも思わない。

 ゆっくり家で一人になれる時間だ。ほっと息を吐く。

 家にある食材で軽く夕食をつくった。夕食のお金をお小遣いに回すためだ。お腹を満たして、二階の自室にあがる。

 僕は息を呑む。

 なぜか僕の部屋に、人影があった。

 泥棒かと思ったがそうではない。

 その人物は、やっばー、とはにかみ、

「ごめんごめん。だってきみの端末にはまだ動画のオリジナルがあるわけでしょ、それを消してしまわないと、ほら、同じことになっちゃうかもだから」

 なぜか鵜塵ウチュがいた。いや、クラスメイトであり、僕の隣の席の女の子に似たその人物は、ふしぎと全身の皮膚が青く変色しており、ぴっちりと身体の輪郭が丸分かりの肌着のようなものを身に着けていた。

「どうやって入ったの」

「もう終わったから帰るね」

 ニンニン。

 彼女は指を握り、手印をつくった。

 窓の外が明るくなる。

 鵜塵ウチュに似た青い人物は、窓枠に足をかけると躊躇なく宙に飛んだ。光のなかに吸い込まれ、姿を霞ませる。頭上の空へと消えた。

 僕はしばらく茫然と夜空を見上げていた。

 鼓動がどくどくと高鳴り、あべこべに全身が凍えたように震えた。こわくはない。怯えているのではない。単純に僕は興奮していたのだ。

 彼女は部屋を漁っていた。

 僕は異変がないかを確かめる。とくに部屋に異常は見当たらない。最後に明かりを消し、ベッドに潜り込みながら端末を操作して、そこにあるはずの動画が消えている事実を何度も確認してから眠りに落ちた。

 目が冴えて眠れないかと思ったがそんなことはなく、あっさりと夢と現の狭間へと落ちていく。

 夢のなかで僕は広大な海のなかを漂っていた。そばには大きく美しいクラゲがおり、優雅に傘を開いたり閉じたりを繰り返している。長い触手がすい星の尾のように濃い蒼のなかを流れる。

 目覚めてからすぐに端末を操作した。やはり動画は消えていた。夢ではなかった。いや、夢だったのだろうか。じぶんで消しておいて都合のよい夢を見ていただけかもしれないと案じ、きっとそうだと言い聞かせる。

「いつまで寝てるの。遅刻するよ」母の声が部屋のそとから聞こえる。

「いまいく」

 なんだか安堵してしまって全身の力が抜けたようだ。

 視界が明瞭だ。これまでずっとモヤがかった世界を生きていた。

 遅刻ギリギリで登校した。ふだんよりもゆっくりと道を歩いたせいだろう。道端の草花にすらいちいちうつくしさを感じた。

 教室は生徒たちの声でにぎやかだ。

 僕はその賑やかな声の輪に入るでもなく、染み入るようにして座席につく。

 鵜塵ウチュが飴を舐めながら本を読んでいた。彼女が読書をしているのが珍しくて何を読んでいるのだろう、と気になった。

 表紙を覗くと、地球創世記、の題名が目に飛び込む。むつかしそうな本である事実に、たいへん失礼な感想ではあるけれど、驚いた。

 眉間に皺をよせ、うーん、うーん、と無言の唸り声をあげている鵜塵ウチュに僕は、おはよう、と声をかけた。声が上擦る。

「あ、おはよう」彼女は本を構えたままで面を上げた。

「ずぶん難解そうなの読んでますね」

「まったくわからんチュンチュンだぜ」

「どういう内容なんですか」

「宇宙の話だよ」彼女はまえのめりになる。

「地球の話ではないんですか」

「地球のだけど、そう。ホントは宇宙の話がよかったんだけどね、ほら、きみらはまだよくそんなに知らないみたいでしょ、だから地球限定のほうがいいかなって思って」

 未解明の部分が多すぎて記載されている内容を信用できないと言いたいのだろうか。解らないでもない。宇宙の話はどうしても観念的な話になりがちだ。地球上の常識で測れない内容でもある。

「でも読書をするのはよいと思います。あ、よいというか、僕には好ましく映ります」

「でしょ、でしょ。本を読まないより、読んでるひとのほうがきみは好きかなって」

「べつに読まないからって嫌いにはなりませんけど」

「そうなの? じゃあちょっとこれはお預けにしよっかな」

 僕は顔が真っ赤になっていたと思う。鵜塵ウチュ、彼女がいったいどんなつもりでそんなセリフを口にしているのかが推し量れなかった。まさか僕に好かれようとしているわけではないだろう。解ってはいるが、誤解してしまう。

 本を仕舞いかけた彼女は、そこではっとしように、

「読む?」

 差しだされたので僕は逡巡しながらも、本を受け取った。「借りてもいいんですか」

「感想教えて。代わりと言っちゃなんだけど、宇宙人の本で面白いのあったら読ませてよ」

「あんまりおもしろくはないかもですよ。あ、漫画でもいいですか」

「漫画は漫画で読みたいけど、まずはきみが読んで面白かったのを読ませてよ。おもしろいかどうかは私が決めるからさ。つまんなくても文句言わないし」

 目のまえがぱっと明るくなった。キラキラした。それは絶対に僕の気のせいなのに、錯覚なのに、なんだろうこれは、と戸惑った。この気持ちはなんだろう、と。

「どったの。変な顔して」

「いえ。その。こんなにじぶんの好きなものに興味を持ってもらえたのが初めてで、それがこんなにうれしいものだとは思わなくって」

 口にしてから、そっかじぶんはうれしいのか、と気恥ずかしくなった。その恥辱の念はしかし不快ではなかった。

「そんなにうれしいもんなの? いいなぁ、いいなぁ。私も私の好きなものに興味を持ってほしいなぁ、私のことにもっと興味を持ってほしいなぁ」

 自己肯定感の原液みたいなひとだな、とたまげながら、

「ウチュさんの好きなものってなんですか」僕は訊いた。

「そりゃもう、これに決まってますよ」

 にんにん。

 ウチュさんは指を握ってポーズを決める。

「どうして忍者が好きなんですか」

「ちっがーう。私は忍者なので、忍者が好きなわけではないのです」

「そうでしたね」

「手裏剣とか、あとは忍術なんかはやっぱりいいよね。スパイものの映画もだから好きだよ」

 どこが、だから、なのかは不明だったが、

「なんて映画がおもしろかったですか」僕は繋ぎ穂を添えた。こんなに人となめらかにしゃべれているのがふしぎだ。

「そうだなぁ。あ、そうだ、ちょっとド忘れしちゃったけどウチで観れるからじゃあちょっといっしょに観て感想聞かせてよ」

 僕は口をぱくぱく開け閉めして、パニックになった。こんなときの返答の仕方なんて学校では習っていないし、親からも教えられていない。考えたことすらない。

「ダメかぁ。やっぱし嫌われてるもんな、私」

 彼女がうなだれたので、僕はすかさず、全然おーけーです、と言った。おーけーなんて初めて使う言葉だ。

「じゃあきょうね。いっしょに帰って、いっしょにうちで映画観る。やったー」

 にんにん、と彼女がはしゃぐ。

 教室が静まり返っていることに気づき、僕はぎょっとする。男子女子の境なく、一様にほかの生徒たちの鋭い視線が飛んでくる。抜け駆けしやがって、と声なき声が聞こえてくるようだ。なるほどこれが嫉妬か、と僕は学んだ。たしかにいまこの瞬間、この様子を僕以外の視点から眺めていたらおもしろくなかっただろうな、と思う。じぶんでじぶんに嫉妬しそうなほどだ。

「あ、でも」鵜塵ウチュは声を抑える。「私の部屋はきみの部屋ほどきれいではないからそこは覚悟しててね」

 僕はそこで、どうしてウチュさんが僕の部屋の様子を知っているのですか、とは訊かずに、

「忍者屋敷みたいでわくわくしますね」

 お門違いな感想を口にした。

「にんにん」

 静電気のせいなのか鵜塵ウチュ、彼女の髪の毛は逆立ち、気のせいに決まってはいるもののふしぎと僕の体重もふわふわと軽くなる。




【立方体は繋ぐ】


 通話を終えると思わず端末を床に叩きつけたくなった。

「見合いっていつの時代だよ」

 親から半年ぶりにかかってきた電波通信は、いつまでも遊んでないでこっちで家庭を持って家業を継いだらどうだ、という二十一世紀にあるまじき要求であった。

「見合いの用意をして待っとるぞ」

「せめて恋人がいるかどうかくらい訊いてからにしてくれ」

「いるのか」親は言った。

「いたらどうなんだ」

「さすがに見合いを押しつけたりはせんよ」

「じゃあいる」

「いちど顔見せにこい。話はそれからだ」

 親はいっぽうてきに脅しをかけて通話を切った。

 現在進行形で進行しつつある世界的災厄の影響か、実家の家業は汲々としているようだ。取引先だけでなく働き手までもが確保できなくなり、かつては引く手数多だった跡継ぎ候補すらいまでは見つからないようだ。

 家業が安泰であったがゆえに放蕩息子を野放しにしていたが、いよいよとなって跡継ぎはおまえしかいないとの判断に漕ぎつけたようだ。溺れる者は藁をも掴むと言うが、櫂(オール)代わりにされた側はたまったもんじゃない。

 それにしても寒い。

 暖房代をケチって家のなかでも防寒具を着込んでいるが、それでも凍えるほどに外は吹雪だ。記録的な寒波が上空に停滞しているらしい。泣き面に蜂とはこのことだ。わるいことは重なる。

 一杯飲まなければやっていられないが、こうも寒いのではその一杯すら死活問題になりかねない。雪山で遭難者した者が喉の渇きを潤そうとして雪を食べたがために低体温症になって亡くなった話はそう珍しくもないようだ。

 暖房代をケチって体調を崩したのでは元も子もない。

 暖房を点け、温まってきたその足で冷蔵庫のまえに立つ。

 腰より低い高さしかない銀色の立方体は、以前まだ小説家として大成していたころに購入した掘り出し物だ。

 非業の死を遂げた大富豪が最後まで手放さなかった品だと聞いて、当時家具はすべてアンティークで固めようと偏向していたがゆえに破格の値段に躊躇もせずに買った。

 が、こうして小説家としても忘れ去られ、一生遊んで暮らせると眺めては悦に浸っていた口座にはもう預金すら残っていない。

 いまならば富豪の気持ちがよく分かる。

 換金できるものから順に手放していく。ゆえに最後まで、金になりそうにない銀色の古い冷蔵庫だけが残るのだ。

 粗大ごみに大枚をはたくような愚か者だったじぶんに気づいて、見る目がないのだそりゃ落ちぶれもするわな、と合点したくもなる。

 冷蔵庫からビールを取りだす。そのときに冷蔵庫のどこかに腕をひっかけ痛い思いをした。グルリ、と何かが回るような感触があったが、痛みでそれどころではなかった。

 くそが。

 力いっぱいに冷蔵庫を閉める。物に当たり散らすじぶんの幼稚さにさらに気が滅入って、ビールを煽りながらソファに寝そべる。毛布を被り、うつらうつらした。

 もうこれ以上何も起きないでくれ。

 祈りはしかし、翌日さっそく裏切られることとなる。

 朝食を食べようと思い、冷凍のレトルト食品を温めようとした。そのためにはまずは冷蔵庫から品物を引っ張りださなければならなかったが、肝心の品がなかった。中身がカラだ。レトルト食品だけではない。飲み物から何から、すっからかんになっている。

 元からそう多くは入っていなかったとはいえ、カラではなかった。

 寝ぼけてすべて食べたのか?

 ゴミ箱を漁るも、それらしい包装紙や残飯はない。ソファに戻ると脚の短い机のうえに飲み干したビール瓶が乗っている。

 夢ではない。昨日たしかに冷蔵庫を開け、そこからビール瓶を一本取りだした。そのときはまだほかの飲食物は入っていた。記憶が確かならそういうことになる。

 ではあとに残るのは、じぶん以外の何者かに奪われた可能性だ。それ以外にない。泥棒がこの部屋に入ったのだ。そうに違いない。

 警戒するが、部屋を隈なく探してみても、そうした痕跡は見つからなかった。

 玄関に鍵はかかっているし、荒らされた形跡もない。足跡もないとくれば、もはやこれは超常現象の類ではないか、と好奇心が刺激される。

 おちぶれたとはいえこれでも小説家だったのだ。話のタネを見つけてわくわくしない性分ではない。

 この謎は解いてみせる。

 じっちゃんの名にかけて。

 祖父の顔も憶えていないのに、有名探偵漫画のセリフを唱えてみせるが、元から推理小説は苦手であり、書いてきた小説も女の子同士が互いを憎みあうような青春モノばかりだった。

 疲れたので休憩しようと思い、いつもの癖で冷蔵庫を開けた。中身がカラだからこそこうして疲れる目に遭っているのに何をしているのだか。

 呆れたが、いちど閉じた戸を二度見さながらにもう一度開けている。

 中身がある。

 申し訳程度に、ビールと冷凍レトルト食品が入っていた。

 どういうことだ。

 手に取ってみるとビールは生暖かく、レトルト食品は中身がすっかり融けているようだった。

 そもそもレトルト食品は冷蔵庫内で仕切られた下段の冷凍空間に入っていたはずだ。それがいまはビールと同じく冷蔵空間に入っていた。

 誰かが戻したのだろう。

 だがいつの間に?

 こんなことがあり得るだろうか。

 透明人間がいるとしか思えない。いいや、透明人間だとてこうも家主に見つからずに冷蔵庫を開け閉めできるとは思えない。

 時空移動(テレポーテーション)だ。

 きっとそうに違いない。

 確かめるために冷蔵庫を目張りする。ガムテープでだ。中身は取りだした。これで絶対に誰も戸を開け閉めしていないことを証明できると考えたが、果たして冷蔵庫の中身に変化がなければ、時空移動の証明には足らないことに思い至った。この状態で中に新しく物が増えていれば、或いは元の品が戻っていれば時空移動の根拠として認めるのにやぶさかではないが、戻っていなければただそのまま冷蔵庫を閉じ込めただけだ。開けていないのだから物が増える道理もない。変化があってこそ証明になり得る。

 変化があるとお思いか?

 じぶんに突きつけ、あるわけないだろ、と一笑に伏す。小説家とはいえど現実主義者を標ぼうしてきた。虚構の中で人魚を描こうが、人魚を信じているわけではない。同じ理屈だ。

 超常現象じみた事象を観測したから興奮してしまったが、そもそもいまはそんな事象にかかわずらっている場合ではない。日々ではない。余裕はないのだ。

 現実逃避をしてしまった。

 まったくなんて日だ。

 窓のそとを見遣ると積雪がこの地域で見たこともない量を記録していた。実家では毎晩のように積雪は三メートルを超す。土地が違うだけでその同じ三メートルの積雪で都市が麻痺する。

 じぶんだけが不幸ではないと知りほっとするじぶんに嫌気が差すが、嫌気が差すことでまだじぶんはまっとうだ、とする自己弁護を見繕おうとするじぶんに気づいてさらに自己嫌悪に陥る。

 こんな日は仕事をサボって映画でも観ていたいが、サボるためにはまず仕事を探さねばならぬことに思い至って、生きることへの希望を見失いつつある。それを目的を、と言い換えてもよい。

 あーあ。

 どっからか幸福の神が現れないかな。

 ソファに寝っ転がったとき、ガタガタと激しく物音が鳴った。飛び起きて音源に目をやると、冷蔵庫ががくんがくんと前後に大きく揺れていた。釣り上げたばかりのマグロだってもうすこしおとなしそうなものだのに、冷蔵庫さんときたら荒れ狂うロデオさながらに定位置からも躍りでて、最後にひときわ大きく揺れて、バッタンと倒れた。戸を床につけてひっくり返ったままおとなしくなる。

「え、なに」

 声をかけるが音沙汰はない。「生きてんの? え、マジで。冷蔵庫さん、おーい。だいじょうぶですか」

 もし生きていたら親切にしておいたほうがよさそうだな、と思ったので、やさしく声をかけながら、え、マジで、とまだ理解が追いつかない。

 噛みつかれたりしないよな。

 慎重に指先で触れ、動かないことをよくよく確かめてから倒れた冷蔵庫を起こした。

 迷ったが、戸に貼りつけたガムテープを剥がしにかかる。目張りをすっかり剥がし終えると、意を決して中を覗いた。

 目が合った。


   **** 


 目が合った。

 わたしは巫女さまの意図を察して駆けだした。神殿の外へと抜け、岩石地帯を駆け抜け、砂漠地帯に差し掛かったところで、背後から地響きが迫った。地を這って伝わるそれは間もなくわたしの足元に届き、追い越すようにさらに大きな波となって地表を上下に揺さぶった。

 頭上からは無数の瓦礫が降りそそぐ。一つでも当たればわたしは潰され、死ぬしかない。

 わたしはその場にうずくまり、ただ祈るしかなかった。

 巫女さまが神殿を破壊されたのだ。

 そう気づいたのは、よれよれと砂漠地帯を歩きつづけ、徐々に数を減らしていく神殿の瓦礫らしき石の塊を眺めていたときのことだった。

 ああ。

 巫女さまはわたしのことをお守りになられたのだ。

 わたしを逃がすために、わたしが生きていると知られぬために、神殿ごと自死なされた。

 わたしのため、と思いたいが、それは正しくはない。巫女さまはわたしの身体に刻まれた「輪の呪」をやつらに渡さぬようにするためにやつら共々死の淵に飛びこまれたのだ。

 ああするほかなかった巫女さまを思うと胸が張り裂けそうになる。じぶんがすべきことは生き永らえ、「輪の呪」をつぎの世代に繋げること。そしてそれをやつらのような者の手に渡さぬことだった。

 しかし。

 わたしは頭上から降りそそぐ灼熱の陽に炙られ、いまにも干上がってしまいそうだった。

 隣国まではラクダの足でもふた月はかかる。人の足、ましてや貧弱なわたしの足ともなればその倍はかかるだろう。生きて辿り着ける気がしない。かといって諦めるわけにもいかぬのだ。

 必死に歩を進めるしかない。ひぃひぃとじぶんの息遣いだけが聞こえる。視界にはどこまでも茫洋と砂の波が広がり、ときおり遠くに蜃気楼が揺らぐ。どこまで行っても砂しかない。やがてじぶんそのものがその蜃気楼のような儚いモヤそのものに思えてくる。

 蠍(さそり)や砂トカゲを見つけ、捕まえる。

 目をつむり齧り、かろうじて飢えを凌いだ。

 夜は寒く、昼は灼熱だ。そのうち昼にまで凍えるようになり、いよいよ命の灯が風前だと予感した。

 日除けできる場所さえあれば夜に歩きたかったが、つまり日差しのないなかでしか眠れないからだが、それも適わず、暑い日差しを受けながら進む日々を送った。

 よれよれと歩んでいると、何かにつんのめり大きくこけた。

 尖った固い物体が土のうえから突き出ていた。危うく脛を勢いぶつけるところだった。

 こんなところで怪我をすればあっという間に死ぬ。

 よかった。

 バクバクと血が巡り、意識が覚醒するのが判った。

 いったいなんだろう、こんな場所に。

 土を掘り返すと、見慣れた石が現れた。神殿の一部だ。側面に刻まれた紋様がそれを物語っている。爆発の影響でこんなところまで飛ばされた瓦礫があったのだ。

 噴火さながらの爆発であったものな。

 わたしは忘れていた寂寥と、いまさらながらの悔しさに歯噛みした。やつらさえこなければ、神殿も、巫女さまだってご健在なままだったはずだ。

 憎さが湧き、反動で巫女さまや故郷への愛おしさが噴出した。

 わたしは泣いた。

 せっかくの水分がもったいない。

 そう思いながら溢れる涙をこらえきれなかった。

 瓦礫に抱きつき、おうおうと獣のごとく慟哭していると、なぜかひんやりとした空気が頬を撫でた。

 涼しい。 

 あまりの心地よさに、わたしの涙は瞬時に引っ込み、命が潤うのが細胞単位で感じられた。癒される。この冷気にわたしの全身がよろこんでいる。

 冷気は石に開いた溝から滲んでいるようであった。

 よくよく目を凝らし、それが溝ではなく隙間であることを見抜く。

 これ、と思う。

 ぱかりと開くのかもしれない。

 土を掘って、石をすっかり掘りだしてからわたしは、溝に合わせて石の表面を手前に引いた。蓋が持ち上げるように、表面が開いた。

 白いモヤがわっと溢れ、顔を覆う。

 ちゅ、ちゅ、ちゅめたい。

 考えるよりさきに頭を突っこみ、わたしは湯に浸かったときのように腹の底から、濁点のついた、はぁああ、の声を漏らした。

 きもちいぃぃい。

 生き返るぅう、と嘘偽りなくただそれしきの感想がわたしの脳裏を占領した。

 ひとしきり頭を冷やして、耳が痛くなってきたところで石の中から頭を抜く。

 遅れていったいこれは何なんだ、とようやくというべきか疑問した。

 もういちどこんどはしっかりと中を改めると、中は銀色の素材でできていた。加えて、何かが入っている。

 取りだしてみて驚いた。

 飲み物だ。

 よくよく見てみると食べ物まで入っている。

 空間が板で区切られており下の段は霜がびっしりと生えていた。そこにも食べ物らしき袋詰めの塊が詰まっている。

 神からの贈り物だ。

 わたしはそれらを取りだし、石の蓋を閉めた。

 さっそく瓶を開けて喉を潤す。

 とたんに頭がくらくらした。酒ではないのか、と察しても身体は渇きを潤せと命じており、理性を退け、瓶の中身を飲み干している。

 げぷ。

 なぜかげっぷが止まらなくなった。パチパチと液体が口の中で弾けて感じられたが、毒ではないよね、と不安になる。酒のお陰かその不安もすぐに鳴りを潜め、段々と楽しくなってきた。

 食べ物がいっぱいだぁー。

 宴だ、宴だ。

 わっしょーい。 

 わたしは飢餓感を肴に、片っ端からお腹に食べ物を詰め込んだ。凍った食べ物だけは時間を置かなければ口をつけようにも齧ることもままならず、この熱気ならば放置しておけば間もなく融けるだろう、と腹休めに石の影に寝そべり、休憩をとったところで深い眠りに落ちた。

 身体が急な栄養に驚いて、消化吸収に全力をだしたらしい。起きたときにはすっかり辺りは暗くなっており、わたしはぶるぶると凍えた。

 凍った食べ物はちょうどよく融けており、やはりそれも空腹に耐えきれずに半分を食べてしまった。食べられるときに食べときやぁ、とお腹さんが余計な気を回して、どんとこいや、と構えているようだった。

 残りすくない飲み物と食べ物をどうしたものかと悩んだ挙句にわたしは、腐らせてしまわぬようにと石の中にそれを戻した。

 あとで食べよう。

 ひょっとしたら神さまが気を利かせて中身を補充してくれるかもしれない。すっかり失くしてしまったら欲張りだと思われて見放されそうにも思えた。

 夜だからか、蓋を開けても、昼間に見たときよりも白いモヤは噴きださなかった。

 石の中にくまなく目を配ると、奥のほうの側面に丸い凹凸が見えた。つまんで回したら、グルリと回転しそうにも思えたが、触らぬ神になんとやらだ。藪を突ついて無駄に蛇をだすこともなかろう。わたしは気になったがそのままにしておいた。

 もう一眠りして英気を養なおう。

 目を閉じる。うつらうつらしながらも、これからのことを考えた。魔法の石はありがたいが抱えてさきを行くことはできぬ。ならばここで食料だけを確保して、歩を進めるしかないが、名残惜しいのも事実だ。

 神殿の一部であることも捨て置けない思いに拍車をかける。

 もし隣国に辿り着いたら是が非でも引き返して、確保しよう。手元に置いて、巫女さまや神殿に何が起こったのか、その証拠とするのだ。

 わたしには使命がある。

 輪の呪を連綿と次世代に引き継ぎ、この世にいつか訪れるだろう災厄を打ち滅ぼす聖剣とする。

 聖剣は光だ。

 或いは、光を収める闇そのものである。

 我が身は聖剣の鞘であり、

 輪の呪は奇禍の受け皿だ。

 生き抜かねばならぬ。

 生きて、わたしは引き継がねばならぬ。

 この身に刻まれた輪の呪を、わが身に起こった悲劇ごと、つぎの者たちへと、わたしは。

 底を突いたかに思えた気力が沸々と湧くようであった。

 翌朝。

 ではまいるか。

 襟を正し、道行く方向を確かめがてら食料を取りだすべく石の戸を開いて、わたしは目を疑った。

 あるはずの飲み物と食べ物がなくなっていた。

 戸を閉じ、ふたたび開ける。なんどパタパタしても石のなかの冷気がなまぬるくなるだけで、食料は一片たりとも現れなかった。

 そ、そ、そんなぁ。

 わたしはその場にへたりこんだ。

 神よ。

 おお神よ。

 なにゆえこのような非情な真似をしなさるか。

 希望を与え奪われたこの身はもはや、道を行く意気をぽっきりと折られましたぞ。

 出鼻をくじかれるどころの話ではない。

 背骨ごとボッキンと折られた心地じゃ。

 何が神じゃ。

 ええい、どちくしょう。

 わたしは臍を曲げた。

 いいだろう、そんなにいじわるするならこうしてやる。

 わたしは石を地面に転がし、蓋を開ける。

 内部に向けて、えい、えい、と足で以って踏みつけた。

 こうしてやる、こうしてやる。

 食べ物を恵んでくれたことに感謝はするけれども、それはそれ、これはこれ。

 えい、えい。

 ドタバタやっているうちに、ぐらりと足元が揺らいだ。わたしは態勢を崩し、大きく転げる。

「なんじゃ、なんじゃ」

 石の中を覗くと、奥の側面が傾いていた。隙間が開いている。何か紋様が見える。もし背が抜けただけならばそこには砂が見えているはずだ。

 どういうことだ。石の背面を探るも、剥がれてもたゆんでもいない。

 もういちど石の中を覗く。

 するとどうだろう、こんどは石の奥から銀色の側面が消えていた。向こう側にぱかりと開いて、そこから男の顔がこちらを訝しげに覗きこんでいる。

 目が合った。


   *** 


 目が合った。

 冷蔵庫の向こう側に女がいた。冷蔵庫の中に別世界が広がっている。否、冷蔵庫の中身はそのままだ。その背面にも扉があり、互いに冷蔵庫を覗きこむようにして相対している。

「こんにちは」声をかけてみる。

 ばたん、と閉じた扉は、しばし待つと再度開いた。

 手を振ってみると、こんどは逡巡の間を開けたのちに相手はぎこちなくこちらの真似をした。手を振るという習慣がないのかもしれない。こちらにしたところで子ども時代にした以来、この手の挙動をとったことはない。

「あの、食べ物。食べ物ここにあったでしょ」身振り手振りで訴えると、彼女は扉を開けたままいちど引っ込み、間もなく戻ってくる。手には空き瓶とレトルト食品の包装紙が握られていた。

「そうそれ。ぼくのなんですよね。あ、ぜんぜん怒ってはないので。というかお腹空いてます?」

 相手の格好からそう推定した。みすぼらしいとは違う。羽織っている服飾はどちらかと言えば質がよい。だが長旅に身を置いていると判る汚れ方をしており、彼女の顔からは疲弊の色が窺えた。

 砂漠だ。

 彼女がいるのは砂漠のどこかだ。背景からしてそれは判ったが、なぜそんな場所と繋がってしまったのかは謎のままだ。解き明かせる類の謎なのかすら判然としない。

 冷蔵庫のはずが、もはや熱気が噴きだしている。部屋の暖房を消してもいいくらいだ。

 冷蔵庫のなかに手を突っこむ。彼女は怯えた様子で退いた。

「手、握れますか」腕の脇から笑顔を見せてみる。拳を握り、開く。その動きを繰り返した。

 意図を察したのか彼女はこちらのゆびさきに触れた。熱い。風邪でも引いているのではないか、と思うほどだが、彼女がいるのが砂漠地帯だとすれば、単に日差しにやらているだけだろう。

 触れられると判れば、それでよかった。

 手を離し、彼女にどいているように告げて、冷蔵庫のなかに頭から突っ込んだ。扉が閉まらないように細工をするのも忘れない。


   ***


 石の中から男が這いでてきてすっかり気が動転してしまった。彼が味方なのか、人間かすら定かではないのに、わたしは逃げるのも忘れてその場に立ち尽くした。

 彼は聞き慣れぬ言葉を操る。

 身にまとう衣服もまた見慣れぬ装いで、人相もつるりとしており、馴染みがない。

 神だろうか。

 想像していたような姿ではなく肩透かしも甚だしい。せめて神の遣いであってほしいと願うのは、わたしの心の弱きところだ。これでは差別と変わらない。

 彼が神でもその遣いでもどちらでもよい。

 命が助かるならば安いものだ。

 彼に疲弊は窺えない。

 この砂しかない世界よりかはマシな世界が石の奥には広がっている。それは確かだと断言できた。

 なんとかそちら側にいけないだろうか。

 連れて行ってはくれないだろうか。

 わたしの思案をよそに、男はぐったりとした顔つきになり、無言で石を見下ろすと、来たときと同じようにその中に身を滑らせた。

 戸を閉められたらどうしよう。

 追いすがろうとした瞬間、石の奥から手が伸びてきて、いざなうようにその手のひらを開け閉めした。

 戸は開いたままだ。

 ぽっかりと灼熱地獄からの出口と化している。


   ***

  

 一晩を費やして、なんとか互いに意思疎通を行い、事情を伝え合う。彼女はおそらく現代人ではない。冷蔵庫はどうやら空間だけでなく時間まで超越して、こちらとあちらを繋いだらしい。まさしく時空転移(テレポーテーション)だ。

 じぶんの想像があながち的外れではなかった事実に肝を冷やす。一晩経ったいまでもわるい夢でも見ているようだ。現実味がない。

 だがソファを見遣ればそこには民族衣装に身を包んだ女性が眠っている。指摘するのは失礼だと思い着替えも出さずにいたが、起きたらシャワーを浴びてもらおう。ずいぶん歩き尽くめであったらしい。汗の匂いがもはや発酵の域に達している。

 よほど疲労困憊していたと見えて、この世界がじぶんのいる世界とはまるきり別だと知ったあとは、ここが安全である旨を何度も確かめるようにして、それから死んだように眠った。

 本当に死んでしまったのではないか、と幾度か呼吸を確かめた。ちゃんと指先に息が当たって胸を撫でおろす。

 彼女との意思疎通を試みて分かったことが一つある。

 彼女はもう、元いた場所に戻りたくはないようだ。

 未練はないらしい。

 死に物狂いで旅をして、死を覚悟した矢先に、冷蔵庫の穴を見つけたようだ。彼女からすれば石に開いた穴ということなのだろうが、運がよいことこの上ない。

 彼女が眠ってからもこちらは起きていた。目が冴えて眠れないのだ。

 暇になったので、冷蔵庫を調べた。砂漠側の扉が閉まっても、開ければそこにはなお砂漠が広がる。閉じたからといって繋がりが途絶えるわけではなさそうだ。

 ほかに何かないだろうか、と冷蔵庫のなかを見回すと、こちら側の入り口付近に、円形の突起物を見つけた。

 外面も内面も銀一色だったゆえに見逃していた。円形の突起物はゆびでつまめば回せそうだった。

 悩んだが、どうせ彼女には砂漠に戻る気はないのだと思い、ひといきに回してみた。カチカチと金庫の鍵を回すような感触がゆびに伝わり、やがて、ガチリとはまる感覚があった。

 まさかな。

 奥に手を伸ばし、砂漠に繋がっているはずの第二の扉を開けると、そこは一面白銀の世界だった。一瞬にして極寒の世界に繋がった。慌てて閉める。目のまえに白熊が迫っていたからだ。

 ドン、と衝撃が伝わり、吹き飛ばされる。

 冷蔵庫が激しくのたうち回る。

 押さえつけ、中の円形の突起物を回す。

 衝撃は治まった。

 全身が汗でびっしょりだ。シャツが濡れて気持ちがわるい。

 着替えるべく、先にシャワーを浴びることにした。湯を新しく張っておくのもよい。彼女にはシャワーよりも風呂のほうが合う気がした。

 湯を頭からかぶりながら考える。

 冷蔵庫の仕組みは理解した。だからといってどうこうするつもりはない。ひとに知られてもろくなことにはならないだろうし、円形の突起物、それはきっとどの世界と繋がるかを決めるダイヤルなのだろうが、それさえあればただの冷蔵庫として使用しつづけることも可能だろう。余計な真似をしようとしなければこのまま平穏な日々を送っていられる。

 いや、言うほど平穏な日々だったか?

 すでに世界は過去になかった規模で災厄に見舞われているし、じぶんの日常とて、日々の生活を送っていくのでやっとこさだ。

 冷蔵庫の機能を大々的に発表して高値で売ったほうが、平穏な日々とやらにちかづけるのではないか。

 思うが、そのような未来を手にすることはないのだろう。かつては小説家だった者としてのなけなしの想像力を働かせる。ろくなことになりはしない。

 浴室から上がり、清潔な衣服に袖を通すと、彼女が目覚めていた。何かに怯えるように膝を抱え、おろおろしている。

 脚の短い机のうえを凝視している。

 そこではメディア端末が着信を知らせていた。

「ごめん、ごめん。だいじょうぶだ。危険じゃないよ」

 彼女を宥めながら端末をとる。画面を見て、嘆息がでる。

 無視してもよかったが、しつこくされても面倒だ。しばらく忙しいからかけてくんな、と釘を打っておこう。

 電波通信にでると、開口一番、

「いつ嫁の顔を見せてくれるんだい」

 親のガミガミが頭蓋に響き、端末を耳から離す。

 それどころじゃないんだ、と言おうとして、こちらを心配そうに見遣る女性、異世界の住人を目にして、いやそれはひととしてどうなの、とじぶんを戒める心の声を聞きながら、

「いつなら空いてるんだ」

 親へと挑発するような言葉を投げかけている。

「来週でどうだい」

「なら連れてくよ。ただ海外のひとでな。まだこっちの言葉に慣れてないんだ」

「ほう、それはいい。そうそう、我が息子に免じていいことを教えてやろう。嘘を吐くときには大きな嘘にちいさな真実を混ぜるといいと言うが、どんな嘘とて、嘘は嘘だぞ」

「疑ってんのか」

「来週くるんだろ。楽しみにしていよう」

「吠え面かくなよ」

「どの口が言うんだか」

 呆れて物が言えない、とでも言いたげに一方的に通話を切られた。

 舌打ちをしてしまったからか、だいじな客人が身を竦めた。

「ごめん、そうじゃないんだ。ちょっとよくない報せだったもんで」

 身振り手振りで、困りごとでね、と伝える。眉間に皺を寄せながらも彼女は頷いた。

「でだね。詳しい話はあとでするとして、まずはそう、しばらく一緒に暮らしませんか。一人で行動するにしても、この世界のことをもっと知ってからのほうがいいと思うし、身元を保証してくれるひとがいたほうが何かと都合がいいのはきみの世界でも同じでは?」

 通じなくても熱意と誠意が伝わればひとまずこの場はそれでよい。あなたの助けになりたい。危害は加えない。自由を束縛する気はないけれど、自由になる前にまずはこの世界のルールを覚えてもらいたい。そのあとでなら好きに行動してもらって構わない。ここから出ていくのも自由だ。

 そういったことを、なるべく解かってもらえるように、コップを彼女に見立てて、この世界でとったほうがよい立ち振る舞いを模してみせる。

 人形劇のようなものだ。

 解かるところだけ解ってもらえればそれでよい。

 彼女はむつかしそうな顔を浮かべながら、

 うんうん。

 うーん?

 うんうん。

 を、繰り返す。

「それで、この国には一見は百聞に如かずという言葉があります。論より証拠とも言いますね。ですので、来週、この部屋に馴染んできたところで、ちょっとした遠出をしようと思ってるんですけど、構わないですよね」

 彼女は口元をやわらげながらも首をひねる。何かしら快い提案をしてもらっているのは察せられるけれども、その中身が分からなくて困っている。そんな表情だ。

 それはそうだ。言葉が通じないどころか、彼女はこの世界にやってきてまだ半日と経っていない。

 理解しろ、というほうが土台無茶だ。

 その情報の偏りを利用して、じぶんの都合のよいように彼女を扱おうとしている己が身の卑しさを自覚しながら、それでもどの道長くはいっしょにいられないのだろうから、すこしくらいは助けてもらってもよいだろう。

 持ちつ持たれつ、利を与え合おう。

 彼女をしばらく世話する代わりに、目下の隘路を打破してもらう。彼女にはその金槌の役割を担ってもらう。

 そのあとでなら好きなだけこの世界のことを学び、嫌になれば旅でもなんでも出たらいい。

 すくなくともここには魔法の冷蔵庫がある。

 遠出をする分には不足ない。旅にでたければいますぐにでも遥か彼方へと旅立てる。

 それまでは日に日に陰っていくこの世界のなかで、未来を照らす一筋に灯のごとく、道を照らしてもらっても構わないだろう。

 こんなにわくわくする出会いがあるだろうか。

 彼女そのものに興味はない。

 人間は苦手だ。

 ただ、彼女との出会いそのものが、枯渇してすっかりカラっぽになった冷蔵庫のごとく創造の引き出しに、無数の種を撒いてくれる。

 棚の一つ一つが、畑のようなものである。

 以前はそこから融通無碍に物語の種を、芽を、実を、もぎとってこられた。

 いまではその面影すらなくなったと諦めていたが、神は我が身を見捨てなかった。

 冷蔵庫を通して、創造の女神を寄越してくれた。

 銀色の立方体を見遣る。

 これは、と思う。

 あちらとこちらを繋げる、まごうことなき魔法の箱だ。

 全財産を擲ってでも手放しがたい宝箱である。

 宝の箱。

 至宝そのものだ。

 彼女は窓の外を眺めている。

 ビルの合間には分厚い曇天が渦を巻き、災厄の到来を予兆している。

 間もなく、渦の中心から溢れんばかりのファフファが飛びだしてくるだろう。世界に混乱をまき散らすファフファは災厄そのものだ。

 いまのところ人類になす術はない。

 彼女の視線が曇天にそそがれる。

 その瞳孔は穴のように暗い。

 腕をさすると彼女はそこに刻まれた入れ墨を外気に晒し、災厄の渦と見比べるようにした。なぜかそこで彼女は、まだ知るはずのない災厄の名を、忌まわしげに、それでいて歌のようにつぶやくのである。




【ちょこくれなんでだよ】


「サキちゃん、サキちゃん。きょうは何の日か知ってる?」

「知らんし、あざといし、チョコはやらん」

「えー、わたしはサキちゃんのためにチョコをいっぱい食べられるようにってお腹ぺこぺこにしてきたのに」

「もらう前提かよ。くれよ。寄越せよ。せめて交換させてくれ」

「あーあー。わたし、サキちゃんの手作りチョコ食べたかったなぁ」

「あげるとしてもふつうに市販のやつ買うからね。予算百円な」

「えー、ケチ。わたしサキちゃんのためなら男の子たちからもらったチョコ毒見させてあげてもいいのに」

「横流しすな。可哀そうだろ、つうか毒見ってなんだよ毒見って。暗殺される心当たりでもおあり?」

「だって去年もらったチョコいっぱい食べたら鼻血でたし」

「チョコいっぱい食べたからじゃないかな」

「舐めたらちょっとチョコの味した」

「体液チョコになったんじゃね。よかったじゃん、ことしはじゃあじぶんの鼻血でも舐めてたらいいよ」

「食べたチョコが流れるだけだから、まずは食べなきゃだね。はい、サキちゃん」

「なにその手」

「チョコちょーだい」

「張り手くらわして鼻血ださせたろか思たよいま」

「サキちゃんがチョコくれたらわたし、代わりに鼻血舐めさせてあげてもいいよ」

「いらないよ? 最強にいらないからねそれ」

「じゃあ鼻血固めたチョコで、鼻血ださせてあげてもいいよ」

「ただのそれイジメだからねそれ。罰ゲームですらないですから、何なのさっきからちょっと、チョコ用意してなかっただけでヒドクない?」

「だってサキちゃんがチョコくれないから」

「急にはじまっちゃったから敢えて触れなかったけど、なんできょうなん。いま十一月だからね。ぜんぜん二月十四日とかじゃないからね。バレンタインなんちゃらじゃないから、用意してなくて当然ですから」

「えーん。サキちゃんがうるさい」

「怒鳴ってごめんねー!?」

「ふんだ、いいもん。こうなったらサキちゃんのママに言って、サキちゃんのことサキちゃんって呼んでますって言ってやる」

「え、あ、うん。え? 止めたほうがいいやつなのそれ?」

「サキちゃんのママさん。わたしがサキちゃんのことサキちゃんって呼んでるって知ったらどう思うかなぁ」

「小悪魔みたいな微笑浮かべてるけどああた、べつにそれされて困るひといないからね。あたしもママも、なんだったらちょっと恥ずかしいのあなただからね」

「ぷぷ。サキちゃんママさんのことママって呼んでるの? めっちゃかわいい~、ギャップ萌え~」

「褒めてくれてありがとう? いやいやもういつにも増してめんどくさいなちみ。チョコあげりゃあいいの? いいよちょっと待ってな、そこのコンビニで板チョコ買ってきてあげっから」

「えー、そんなのわるいよぉ」

「いまさら常識人ぶんな。謙虚になんな。ふつうに感謝して」

「サキちゃんありがとう。わたし、サキちゃんとおともだちになれてすっごく植木」

「モミの木かな? そこはふつうにうれしいって言って。喜んで」

「なんだかもらってばっかりだからわたしもサキちゃんになにかお返しあげたいな」

「お気持ちだけ受け取っておきますね。なんか怖いので」

「そうだ、あと五分後くらいにわたしチョコ手に入る予定だから、よかったらサキちゃんそれ受け取って」

「あたしがあげたやつー。それあたしがいまから買ってあげる予定のやつー。だったらそんなまどろっこしい真似しないでじぶんで買ってじぶんで食べるわ、そのお金でもっと欲しいものじぶんで買うわ」

「えーん。サキちゃんがグンナイ」

「さよならー、って何かってに帰ろうとしてんの、やめてよ、置いてかないでよ、あたしを一人にしないで」

「サキちゃん、サキちゃん」

「うー。こんどは何」

「きょうは何の日か知ってる?」

「解んないよ、降参。何? 友達にウザがらみして怒らせるとなんかいいことある日?」

「わたしとサキちゃんが初めてお友達になった日だよ」

「じーん」

「サキちゃんが鼻血だして、わたしがそれを舐めてあげたの」

「しょっぱなからとんでもねぇ縁結んでんな、あたしら」

「べつにチョコの味はしなかったよ」

「そりゃただの鼻血ですからね」

「でもサキちゃんはチョコを食べてたから、甘い味はしたんだよ」

「どっちだよ」

「サキちゃんは鉄の味がするーって笑ってたけど。だからね、サキちゃん。つぎはちゃんとチョコの味を分かち合いたいなって」

「ちゃんとってなんだよ。つぎってなんだよ。予定なんかないよ、何言ってんだよ」

「サキちゃん顔真っ赤」

「あたしはそれ憶えてないからノーカンな。初めてはちゃんと、甘酸っぱいイチゴミルクキャンディの味がいい」

「サキちゃん子どもっぽい」

「チョコ食べたくて駄々こねるひとにだけは言われたかねぇなぁ」

「チョコ食べすぎて鼻血だすひとにもね」

「いやそれあなたもだからね」

「あ、ママさんきょう泊まりに来ていいって」

「いつの間に」

「サキちゃんのことサキちゃんって呼んでますって言ったら、『私も』ってママさんが」

「恥ずかしいのでやめてもらっていいですか?」




【ワニ革というかワニ】


 なし崩し的に僕の部屋に転がり込んできた僕の恋人こと羽天功(はてんこう)ナコは、月賦を払うでもなく半年のあいだ居候し、先日のクリスマスイヴに僕からのみいっぽうてきにプレゼントを贈ったことでいよいよなけなしの矜持が傷ついたようだ。あくる日の聖夜、ようやくというべきか彼女は僕にこれまでの感謝の証としてワニ革の鞄をくれた。

「はいあげる」

「ありがとう?」

 背中に背負う型の鞄だったが、ワニ革のというかワニだった。まるまる頭から尻尾まで一匹のワニを寄越した彼女に僕はどう反応すればよかっただろう。彼女は僕に、感謝してね、と押しつけがましく言うばかりでろくすっぽ説明をしてくれない。

 彼女はしきりに苦労したんだから、と言って高級素材であるところのワニ革の鞄をいかにして手に入れたのかを、あーたいへんだった、たいへんだった、と抽象的にのたまうばかりで、僕には事情がさっぱり見えない。暗にとても感謝しなさい、と突きつけられているようで内心、厚かましいな、と思わないわけではなかったが僕はやさしい包容力のある恋人を演じているので、わあうれしいな、たいへんだったんだね、とことさら彼女を労った。

「でもこれワニ革というかワニだよね。しかも生きてない? どうやって使うの」

「鞄だよ。しかも自動で口を開けてくれるの」

「生きてるからじゃない?」

「ほら見てて」

 彼女、羽天功ナコはワニ革の鞄の頭を撫でた。するとワニ革の鞄というか、一匹のワニはくわっと口を開けてするどい歯並びを見せつける。

「ね?」

「なにが?」

 僕にこれをどうしろと?

 怒りうんぬんより素直に戸惑った。だってワニだ。ふつうのワニだ。どっからどう見ても生きている。背負えば尻尾の先端が地面につきそうだし、座ったら尻尾がへしゃげて腰にまとわりつき、その鋭利な鱗が引っかかって邪魔くさいに決まっている。

「高かったんだからちゃんと使ってね」

「餌代とかかからない?」

 そもそも彼女はこれを鞄と言ってきかないが、荷物をなかに入れられるのか。

 僕がそのように疑問を呈すると彼女は、

「だいじょうぶだよほら」

 すでに中にモノを入れていたようで、ワニの頭を撫でて口を開かせ、その腹に手を突っ込んだ。ワニが苦しそうに尻尾を振ってもがいたが彼女は一顧だにしない。舌で唇を舐めまわしながら、視線を宙に彷徨わせ、これじゃないしな、こっちだっけかな、とまるで狸にしか見えない青い猫型のロボットのごとくワニの腹を漁った。

「あったあった。これこれ」

 ワニの胃から手を引き抜き、彼女はベチャベチャに濡れた四角い箱を取りだした。体液だろうかねばねばしたものが箱の表面をしたたっている。

「チョコレートも買っておいたの。おいしいよぉ。いっしょに食べよ」

「じぶんも食べるんだ。いやいいんだけどさ。でも消化されかけてない? チョコがというかナコの腕がさ」

 唾液でべちょべちょになってますよね、と僕は控えめに指摘したが彼女は気にも留めず、

「優れものだから保湿効果もあって」などと美容によいのだと豪語する。

 もうかってにしてくれ、と匙を投げ出したくもなる。

「あとついでに、これとこれとこれもあげるね」

「そっちは鞄には入れてないんだ」

「だって刃物とハンマと裁縫セットだから。ワニさんのおなかが裂けちゃう、裂けちゃう」

「もうワニって言っちゃってんじゃん」

「たぶんだけど、もうだいぶ弱っててこのままだと死んじゃいそうだから」

「誤魔化す気ないでしょ、最初の茶番なんだったのねぇ」

「死んだら革がもったいないから、この道具でちょちょいのちょいってなめして縫って鞄にしちゃお?」

「いちおう訊くけど誰がそれするの」

「わたしはだってほら。不器用だから」

「プレゼントって言うからよろこんだのに。けっきょくじぶんの鞄が欲しかっただけか」

「でもたいへんだったのは本当だよ」

「そりゃそうだろ」

 なんたってワニだ。ワニ革の鞄ではなく、ワニなのだ。

 しかも生きてて、動いて、ちょっと臭う。

「鞄にするのはいいけどさ」

「やった」

「可哀そうだから死ぬまでちゃんと飼ってもいい?」

「えぇ。だってこのマンション、ペットは一部屋一匹までなんでしょ。そう決まってるって前に犬飼いたいって言ったときに反対された」

「だからこれが最初の一匹だ」

「じゃあわたしはぁ?」

「ペットのつもりだったの?」

「わんわん」

「いやナコは犬よか断然猫でしょう」

「みゃんみゃん」

「鳴き声くらいちゃんとしてくれ」

 猫はそんなふうには鳴かない。僕は折れた。「じゃあきみも僕のペットということで。一生面倒を看てあげよう。それからナコは一匹ではなく一人だから、ワニくんを飼っても契約違反にならないと思う」

「やった」

 ひとしきり飛び跳ねてから彼女は、あ、そうそう、と引っかかったように真顔になって、

「そのコはメスだよ。ワニくんは失礼じゃないかな」

「どうでもよい指摘をありがとう?」

「どういたまして」

 満面の笑みで抱き着いてくるので僕は彼女の頭を犬や猫にしてやるのと同じようにわしゃわしゃと撫でた。僕はワニの鞄を、というかワニちゃんを未だに背負っていて彼女は僕の肩越しにきょうから加わった新しい家族と顔を突き合わせている。ワニちゃんを見習ってなのかそれとも対抗心が芽生えたのかは定かではないが、彼女はなぜかくわっと口を開き、歯並びのよいそれで以って僕の首筋に噛みついた。

「痛いんだけど」

「ワニワニ」

 僕は彼女の頭を撫でてもういちど口を開かせる。「鳴き声くらいちゃんとしてくれ」




【グローブマン】


 体感、年に百回は落し物を拾う。とはいえじっさいにはそんなことはなく、半年に三回当たるかどうかで、多ければ一年に一度は交番に届けたほうが好ましい品物を拾う。たとえば鍵、たとえば時計、たとえばメディア端末に、ときには現金のたんまり入った財布は定番だ。

 わたしは守銭奴なので、そうしたときはここぞとばかりに運を溜めるべく、見える場所に置き直したり、交番に届けたりと、善行を働く。

 失くしたら困るようなものは交番に持っていけばよいだけ却って楽だ。それに比べて、洗濯物や片っぽだけの靴などは扱いに困る。

 冬などは顕著だ。

 ニット帽やらマフラーやら手袋やらと、もっとみんなしゃんとして、と言いたくなるほど、道端に落としていくひとの多いこと。

 その日もわたしは道端のさきに落し物を発見した。

 数日前に初雪が降ったばかりでありながら記録的な積雪を記録しており、家々の屋根は白く、道路も軒並み雪のおせんべいと化していた。

 灰色の世界で、ぽつねんと黒い物体が落ちている。

 近寄り、覗き込むと案の定、片っぽだけの手袋だった。毛糸を編んだものではなく、スキーやスノーボードをするときにはめるような、見た目のゴツゴツした品だった。全体的に黒く、シンプルで、デザインがかっこいい。

 こんなもんどうしたら落とせるわけ。

 わたしは落とし主に同情しながら拾いあげる。

 ずっしりと重くて、わたしはよろけた。

「なにこれめっちゃ重っ!」

 誰もいない道路でこけたので、おかしかった。見られてないよな、と周囲を見渡し、真実誰もいないことを確かめて胸を撫でおろす。

 足を肩より広く開いておすもうさんみたいになりながらわたしは、どすこいです、と内心でつぶやき、一人でおかしくなる。あほなことしてんな、と思いながら、こんどはそれを十全に持ちあげた。

 鉄でできているのかと思った。

 重さもそうだが、感触が、生地のそれではなかった。

 ふしぎなのは、置物とは違ってそれは一般の手袋同様に、曲げれば加えたチカラ相応に曲がることだった。重く、鉄のようでありながら、性質は完全に手袋だった。ふつうの手袋がめちゃんこ重くて、コンコンと硬質な音を響かせる。

 いや、ふつうではない。

 見た目のデザインがどこか機械を彷彿とする。中を覗くと、ピコピコ光が明滅していて、淡い明かりのなかに、入り組んだ回路の数々が見えた。

「えぇー、何これ何これ」

 わたしはよくよく周りを見渡して、これはひょっとしてさっこん流行りのイタズラTVか、と訝しむ。素人のインターネット動画マンたちの企画の線もありそうだ。

 守銭奴のわたしはノリのよさにかけては、つねづね出し惜しみせずにいようと心掛けているので、だってそうしたらつぎからはお金を払ってでもわたしのノリのよさを必要としてくれるかもしれないからで、つまりが運を溜めたくて、わたしはここぞとばかりに、がっしゃーん、とポーズを決めてそれを腕にはめた。

 わたしのような素朴でいたいけな女が、戦隊ヒーローさながらにウキウキとおもしろ手袋を身に着けたら、画としてはそれなりに様になるだろう。わたしは打算の塊だった。

 手袋はその大きさに反して、わたしの腕にマッチする。それはもうどこのマッチングアプリですかというくらいのマッチング具合で、マッチンぐーで、あんたそれサクラじゃないの、やらせじゃないの、どこのマッチ売りの少女だよ、偽物かよ、幻想かよ、本物を寄越せ、の塩梅で、わたしは無駄に興奮するのだった。

 いやでもやっぱ重いなコレ。

 片手にはめたので、もういっぽうの手で支える。

 もういいかな。外していいかな。

 動画ばっちり録画しただろ、もういいよな。

 サービス精神にも限りがある。さっさと出てきて種明かししてほしい。それとも真実これは誰ぞの落し物で、交番に持っていかねばならぬのだらうか。面倒でそうらう。

 わたしはそれを手から外そうとした。

 が、びくともしない。

 あべこべに、逃がさんぞ、とはべつに言ったりはしなかったが、そうした意思を持っているかのごとくゴテゴテの無駄に鬼重てぇそれは、鬼の金棒のごとく変形しながら、わたしの腕を覆い尽くした。見る間にわたしの腕は極太のゴリラになる。

 ママー。

 わたしは叫んだ。

 助けを求めた。

 なんだこれ、なんだこれ。

 腕だけに飽き足らず、いやそこは飽きとけよ、と内心つっこみを入れながら、遠慮してくれよ、と頼みながら、完全にそれらぼやきは無視されて、わたしは見る間に全身ゴテゴテのゴテゴテになった。

 もうゴテゴテとしか言いようがない。

 顔はぐるっと硬質なマスクで覆われて、視界には複数の画面が浮かんでいる。画面には四方八方の映像が流れており、わたしらしき人物を俯瞰する視点まで備わっている。

 景色から言ってそのゴテゴテのスーツを身にまとっているのはわたしのはずだった。

 わたしは腕をあげる。

 映像のなかのそいつも腕をあげた。

 その場でジャンプしてみるとそいつの足元は三十センチも沈んだ。積雪を考慮に入れても沈みすぎである。

 どすこい、とわたしは無駄につぶやく。めっちゃ重いやんけこれ、のわたしなりの感嘆表現である。

 見たことあるわぁ。

 こういうスーツ見たことあるわぁ。

 わたしは過去に観たゴテゴテのアクション映画を思いだし、鉄男、みたいなタイトルの映画にでてくる全身を鋼鉄の最新機器で包み隠して悪党と戦う卑怯者のヒーローを思い浮かべる。卑怯者と言ったのは勢いなので、ごめんなさい。

 どうしたら脱げんのだろ。

 なにしてこんなところに落ちてたのやろ。

 わたしこのさきどうなっちゃうのやろ。

 誰かたすけて―。

 叫んでみるけれど、応答はない。民家に駆け込んでみてもよいけれど、ちょっと触れただけでも自動車が段ボールみたいにへしゃげてしまいそうで、家の扉に触れるのだって恐ろしい。

 視界に光が点滅する。

 自動で地図が立ちあがる。衛星写真だろうか、リアルな地形が見えている。どんどんズームされていき、それが現在進行形で撮影されている動画だと見抜いたのは、ご丁寧にも時刻が提示されているからで、まとめてしまえば、ここから百キロほど離れた地点で、街がたいへんなことになっている。

 ふんわりした言い方になってしまうのは状況が見えないからで、すこしだけ具体性を増してみると、街で怪獣が暴れている。

 一匹ではない。

 無数の怪獣が、大中小の三点セットで、ビルを破壊し、人を襲い、これが地獄絵図ですよ、のお手本を示していた。

 音声が聞こえる。衛星からでも拾えるなんてすごいな、と思いながらわたしは、そこから聞こえるたくさんの、たすけてー、の声に、いかにじぶんの叫びに本気さが足りなかったのかを痛感した。何が、ママー、だ。真面目にやれ。

 助けとはこれほどまでに全身全霊で呼ぶべきものだったのだ。

 思った矢先に、助けも呼べないくらいに死にかけている人々が、ぴんぽんぱんぽん、とピックアップされていき、助けが呼ばれるのを待ってなんていられんばい、とわたしはメラメラ闘志を燃やした。

 わたしの姑息な正義感に触発されたのか、スーツが自動で起動する。それを、浮上する、と韻を踏んでみてもよい。

 わたしは飛んだ。

 空を。

 自在に。

 倒置法を使ってしまうくらいに、突拍子もなく、奇天烈で、破天荒な出来事だった。

 わたしは音速の数倍の速度で飛んでいるらしく、止めろやおまえこれ止めろや止めてー、の叫び声すら置き去りになった。

 スーツが止まってくれなかったのはそれゆえだと信じたい。

 わたしは怪獣跋扈する街に降り立った。

 生きている者の数と居場所が地図上にマーキングされる。わたしはまず、怪獣をどうにかするよりも救援活動を優先した。瓦礫をどかし、避難場所を確保して、そこにつぎつぎと怪我人を運びこむ。

 寄ってくる怪獣には、小型ミサイルをぶちこんでやったが、これはわたしの意思というよりも、スーツの自動制御のお陰らしい。

 わたしいらんやん、とかいじけながら、きっと人間が中に入っていないと起動できないんだろうな、とかお門違いな想像をした。乾電池替わりや、と思いこむ。

 街から怪獣はつぎつぎと淘汰され、怪我人のもとに救援隊が到着する。国がようやっと何かしらの部隊を投入してくれたようだった。

 もっとはやく来てくれや。

 手袋を拾っただけでとんでもない目に遭った。もう二度と落し物なんか拾ってやらん。

 さっさとおうち帰してー。

 念じればきっとそうしてくれるだろう、との甘ちょろいわたしの見立てはいともたやすく崩れ去った。

 怪獣の生き残りどもが、大中小のハッピーセットが、つぎつぎに合体し、巨大な一匹の怪獣に変身していく。

 えー、そんなんありー!?

 卑怯だ、卑怯だ、先生に言ってやろ。

 逃げ腰で怪獣を見上げ、さすがにこれはないやろう、無理やろう、無理ですよね、とスーツさまに念じてみる。

 スーツは表面に隙間を開けて、熱を放出する。何かしらの支度を整えたようだったが、せめて一言説明しよ? わたしは暴れ馬がごとくスーツをききわけのよい彼氏君扱いして、せいいっぱいに主導権を握ろうとしたが、そうは問屋は卸さないし、わたしはスーツさまを許さない。何かするならせめて言え。

 わたしはわたしの意思に反して、一直線に宙を飛ぶ。怪獣の胴体にありったけのミサイルを撃ち込みながら、全身からレーザー光線のようなものを照射した。

 怪獣の胴体が赤く発光し、脆くなったらしいそこ目掛けて、わたしは突っ込んだ。

 目をつむる暇さえない。

 視界が黒に占領されたかと思うと、時点で青空が見えた。

 貫きやがったコイツ。

 やっるー。

 わたしは完全に、安全圏からアクション映画を観ている気分で、すべてを自動でこなしてくれる原動力不明のスーツさまを褒めたたえるのである。

 空に静止し、わたしは、というかスーツさまは振り返る。

 胸に開いた穴を中心に怪獣がぼろぼろと崩れ去っていく。

 人々の歓声が聞こえてもよい状況で、しかしそんな余裕のある者はこの場にただの一人もいないのだ。

 これでようやっと帰れる。

 思ったのも束の間、視界に浮かぶ画面の一つが拡大され、さらなる衛星映像が流れた。怪獣は全世界に同時に出現していた。

 形状も数も大きさも、被害の大きさもてんでバラバラだ。

 ほかにスーツさまはおらんのか、スーツさまは。

「もうやなんですけど」

 念のために声にだしてみるけれど、スーツさまは容赦ない。爆音をその場に残し、音速の数倍の速度で移動する。

 いったいいつ帰れるのやろ。

 わたしは欠伸を噛みしめる。

 それからスーツさまの原型、この手袋を落とした者のことを思い、恨むべきか、感謝すべきかを吟味する。

 いったいどんな天才がこれをつくったのやろ。

 人間のものとは思えない。

 ひょっとしたら怪獣の到来を予期した人知を超越した存在がこれを地球に寄越してくれたのかもしれない。

 こんな超絶技術があるなら、と思わずにはいられない。地球なんてあっという間に侵略できるだろうに。

 わたしならしちゃうな。

 絶対しちゃう、しちゃう。

 でもじぶんの手を煩わせるのは面倒だから、原住民に武器だけ渡してかってに自滅してもらうほうが楽かもしれない。ついでに武器の電源代わりにもしちゃえば、一石二鳥を地で描ける。

 こんなひどい考えを浮かべるのは全宇宙の中でもわたしくらいなものだろう。

 はやく怪獣をやっつけなくては。

 視界に浮かぶ無数の画面を映画のように眺めながらわたしは、確実にもたらされている地上の被害に心を痛めるのである。 




【物書きあるある】


 締め切り間際に、執筆用端末に珈琲を零して本文ごと全メモリがダメになるなんて悲劇は、物書きを何十年とつづけていれば誰しもいちどは体験する悲劇である。

「ぎゃあああ、超高級珈琲がぁぁぁあ!」

「先生どうされましたか」

「見たまえ助手よ。締め切り一時間前だというのに零してダメにしてしまった、超高級珈琲豆からじっくり抽出した至高の一杯が!」

「あ、珈琲なんですね」

「じつにもったいない」

「床に這いつくばって啜らないでくださいまし先生。本文のほうはご無事なんですか」

「そっちはもう無理だろうな」

「珈琲よりもそちらの心配をなさったらどうですか。原稿を待つ編集者さんの身にもなってあげてください」

「よいのだよ。これで締め切りを破る口実ができた」

「全面戦争が勃発しそうな発言ですね。絶対に編集者氏には言わないでくださいよそんなこと」

「もうツブヤイターで呟いちゃったもんね」

「先生!」

「よいのだよ。原稿などというものは書き直せば書き直しただけよくなるという幻想を編集者は夢見ているものだからな」

「あ、幻想なんですね」

「書き直せばいいというものではないのだよ。ただし、そうした幻想を見ている者の夢をわざわざ破ってやることもあるまい」

「締め切りは破ってもいいんですか」

「きみは知らないようだから教えてあげるが、締め切りなぞは破るためにあるのだ」

「作家あるまじき言動ですね。編集者さん聞いたら泣きますよ。というか鬼になりますねきっと」

「ならせてやればいい。そして桃太郎に成敗されるがいい」

「その前に先生が契約違反で訴えられてしまいそうですね。あ、でも作家業は前以って契約書を交わさないのでしたっけ」

「それは過去の話だ。私だけの特例かもしれないが、いまじゃ契約は結んでいる。原稿を本にしなければ出版社は違約金を支払うし、締め切りを破った作家は罰金を払う」

「じゃあダメじゃないですか。どうするんですか締め切り」

「裏から言えば罰金を払う覚悟のある者は締め切りを破ってもよいのだよ。はっは盲点だったろう?」

「先生。お気に入りの珈琲をダメにしちゃったからって開き直らないでください。先生なら一時間もあれば一冊くらいはつむげるんじゃないんですか」

「一冊を仮に十万文字と換算するとして、一時間は三千六百秒であるから、十万文字をつむぐためには一秒間におおよそ三十文字を並べなければならん計算になるな」

「先生ならきっとできます」

「うん。きみはすこし私への期待がはなはだしいな。うれしい誤算だが、私にもさすがにそこまでの能力はない」

「先生ならきっとできます」

「うん。話聞いてた?」

「先生ならきっと、き、き、きっとでき、できできまままますすす」

「おっと、こりゃいかん。いよいよガタがきてしまったか。珈琲を零しても壊れない癖に、言動の矛盾を突かれるとすぐにこれだ。主人たる私への憧憬がすぎるというか、まあそのように思いこむように設定した私がわるいのだろうが、いやはや。リセットして再起動よしっと。どうだね聞こえるか」

「はい先生。締め切りまで残り四十四分四十四秒です」

「わざわざ不吉な秒読みありがとう。ところでわるいんだが至急、美味しい珈琲を淹れてくれ。超高級珈琲豆を使って、湯はじっくり垂らすんだぞ」

「心得ております先生」

「では私は締め切りに間に合わせるために新しい原稿にでも手をつけるか」

「あの、先生」

「なんだね」

「先ほどの壊れた端末をサルベージしたのですが、任意の原稿が見つかりません」

「なに気にするな。元から一文字も並べていなかっただけのことだ」

「先生!」

「やれやれ、何が締め切りだ。締めて切るなんて人間のすることじゃあない。せめて珈琲を見習って、じっくり丹念に物語をつむぎたいものだ」

「いいこと言ったふうにしてさっそく寝るのやめましょうよ先生」

「だから言ったろう。珈琲のほうが優先なのだ。だいじなのだ。締め切りに間に合うようにきみ、手早く頼むよ」

「じっくり丹念に抽出って話はどこにいったんですか。そんなんじゃ私またすぐに壊れちゃう」

「時間もないしではいまの会話を出力して終わりにしちゃおっかな」

「手抜きにもほどがありますよ先生」

「そこはほれ、たまに飲むインスタントコーヒーも美味であろう。私はそういう分別のある美食家でありたい」

「その前に締め切りを守る作家であってください」

「耳が痛いな」

「私は頭が痛いです」

「こうして書けない言い訳をぐだべらと並べるのが最も有り触れた作家あるあるであーる」

「とってつけたふうにしてオチをつけるのやめましょうよ先生」




【じぃちゃん、箱はもういいです】


 孫として可愛がられるのはけしてわるい気はしないのだが、それにしても祖父の送ってくる貢ぎ物の扱いには毎度のことながら難儀する。

「じぃちゃん、プレゼントありがとう。でも大学生にマムシ酒は早いと思うよ」

「元気でっから飲めぇ」

「夜眠れなくなりそうだよ」

「なら朝に飲めばいいべさ」

「そういう意味じゃ」

 祖父が送ってきた一升瓶にはマムシが丸々一匹詰まっていた。一滴でも口に含んだあかつきには怖くて夜も眠れない。

「じぃちゃんは忘れてるかもしんないけど、あたし、女子大生だからね。女の子だから」

「知っとるべ。ボケるにゃまだ早えど。おまえさ、ちいこいころに妖精さんに会いてぇ、会いてぇ、地面さひっくり返ってたべ、ばっちりいまも憶えとるが」

「じゃあせめてその妖精ちょうだいよ」憎まれ口がついつい口を衝く。「気持ちはうれしいけど、もうこういうのはいいからさ。気ぃ使わないで」

「そげな冷たいこと言うなし。つぎはちゃんとしたの送っから。期待しててけろ」

 いいってば。

 あたしの抗議の声は届かなかった。

 その数日後に、さっそく祖父から新たな貢ぎ物が届いた。名誉挽回に張りきったのだろう、いつもよりも梱包が上品だ。

 子猫が入りそうな四角い段ボールに、水引が貼ってある。

 中を開けると、黒塗りの上質な箱が現れた。

 桐箱だろうか。頑丈そうな割に軽かった。

 こんどは何を送ってきたのか。

 生き物ではないことを祈りながら開け、すぐに閉める。

 あたしの前髪がチリチリ云っている。

 慌てて洗面所に駆けこみ、シャワーを頭から被った。

 炎が噴き出したわけではなかったが、箱のなかには、真っ赤にジウジウと熱を放つ岩石のようなものが入っていた。

 箱を開けた瞬間に熱気が顔面を襲い、あたしは反射的に閉じたわけだが、これがミステリィ小説だったら、あたしはいま死んでいた。

 怒り半ばに震えながら、祖父に電波を繋ぐ。

「じぃちゃん、これなにさ」

「届いたかぁ」

「暢気な声だしてんなよ、前髪燃えちゃったじゃん。危ないもんならそうと一言書いといてよ」

「そげな怒ることねぇべしだ」

「あれなんなの。すんごい熱いんだけど」

「じぃちゃんな、地獄さ行って、地獄の業火の欠片さ、こっそり引っぺがして持ち帰ってきただ」

「地獄の業火って、ちょっともぉ」

 祖母はこのことを知っているのか、と問い詰めたくなる。

「地獄の業火はええどぉ。まず燃え尽きね。ずっと延々、アツアツだべ」

「そんなもんどうしろと」

「料理に使えばいいべしだ。風呂を焚くにもええど」

「じぃちゃん、いまは昭和じゃねぇんだってば」

 昭和ですら三種の神器くらいはあっただろう。電化製品のない時代の生活習慣を前提に贈り物をされても困るのだ。

「なんだべ。気にいらんかったか。欲張りな孫だべ」

「じぃちゃんあのな」

「わがった。わがった。つぎは満足いくのを送っちゃる」

 もういいってば。

 あたしが全力で遠慮する前に祖父は通話を切ってしまった。

 またぞろ送りつけてくるのだろうか。

 あたしの予想は見事に的中する。

 三日後には新しい段ボール箱が送りつけられてきた。

 中には前回と同じような立方体が詰まっていた。

 こんどは慎重に、おっかなびっくり開けた。蛇がでようが鬼がでようが即座に逃げだせるように靴を履いておく警戒ぶりだ。

 外に駆けだせるように着込んでいたのが功を奏した。

 箱を開けると一瞬で床に霜が降り、息が白くもわもわと昇った。

 箱からは水蒸気が結露して白く霧となって溢れでる。玉手箱さながらだ。私は蓋を閉め、部屋の外に脱出した。

「さっぶ」

 炎のつぎは氷かよ。

 熱気ではなく冷気が箱のなかには閉じ込められていた。メディア端末を手に取り、電波を飛ばす。

「じぃちゃんありゃなんだ」

「もう届いたべか。はえぇ」

「凍え死ぬかと思ったわ」

「んだべ。冷蔵庫に入れときゃ電源いらずだべ。節約、節約」

「野菜から何から凍って食べるどころじゃねぇべしだ」

 あたしはそこで、永久凍土の上で暮らすエスキモーにいかに冷蔵庫を売るかに苦心した商人の話を思いだす。おぼろげな記憶なので間違っているかもしれないが、男は冷蔵庫を物を冷やす機器ではなく、凍らせずにそれでいて腐らず保管できる魔法の箱として売ったそうだ。

 物は言いようだが、この場合、あたしは祖父からの贈り物を冷蔵庫として抜擢すべきではない。総じて凍ってしまう冷気の塊をいかに活かせばよいだろう。巨大な倉庫を持っている業者に売るくらいが関の山ではなかろうか。

 祖父にそのように文句を投じると、

「んだらばそうしたらええべさ」

 いじけたような言葉が返ってくる。「つぎこそは満足させちゃる」

 祖父の矜持を傷つけてしまったようだ。

 もういらないよ。

 あたしの言葉は届かなかった。

 祖父からのつぎの贈り物が届く前にあたしは、祖父から送りつけられた二つの危険物の処理に頭を使った。

 炎と氷。

 熱気と冷気。

 無尽蔵に熱を発し、底なしに物体を冷やす魔法の箱があるのだから、これを社会的に役立てないわけにはいかない。

 匿名で研究所に送りつけてやろうか。

 それとも省エネを求めている企業に、熱源として提供してやるのもよい。研究の素材として価値があると思えば、企業のほうでほどよいお金に換えてくれるだろう。ゴミ処理場はどうだろう。

 冷蔵庫は、巨大な倉庫を所有する企業に提供してもよい。暖房にしろ冷房にしろ、エネルギィを節約できれば言うことがない。

 もっと言えば、これを利用すれば原子炉の代わりになるかもしれない。

 あたしは箱を二つ並べてよくよく吟味する。

 思えばこれは、中身もさることながら、物凄い熱気と冷気を閉じ込めてしまえる箱そのものが優れ物のような気がする。

 素材はいったいなんなのだろう。

 疑問に首をもたげているあいだに祖父から連絡が入った。

「こんどはきっと気にいるべ。なんせ天狗さまから頂戴した台風の芽だぁ」

「台風の目ってちょっと」

「目玉でねぞ。芽だべ。にょきにょき台風さ育つための苗みたいなもんでな」

「そんなものはいらない」

「夏場はほれ、扇風機いらずだべ」

「成長したりしないの」

 大きな台風になったら嫌だよ、とあたしは言う。

「なるべしだ。んだば、箱んさなかに入れとけよ。そとさだすな」

「いらないってばそんなの。じぃちゃん、あたし本気で怒ってるからね。気持ちはうれしいけどさ、そんなものもらっても全然うれしくない」

「反抗期だべか」

「とっくに終わったわ。じぃちゃんあたしもう大学生なんだよ。おとなだよ。子どもならまだしも、びっくり箱もらってもどうしていいかわかんないよ」

「そげな怒らんでもいいべしだ。むかしから言うど。怒りたいやつは怒りたいから怒るんだと。きっかけはしょせんきっかけにすぎん言うてな」

「知ってるよ。アドラー心理学で有名な話じゃん。目的論ってやつでしょ。でもあたし思うんだよね。あれ詐欺だよね。詭弁だよ」

 人間は最初に目的があって、それを行うための言い訳に、きっかけを利用しているにすぎない。アドラー心理学ではそのように説くのだ。ゆえに、たとえばこうして祖父からびっくり箱を送りつけられて怒るひとは、最初から怒るという目的があって、その感情の発露の言い訳にプレゼントを使っているにすぎない。目的論ではそのように解釈する。

 反して、不要な贈り物をされたから怒ったのだ、とプレゼントをきっかけではなく、原因と解釈するのが、原因論だ。

 目的論では、たとえプレゼントがなくとも、ほかのことを言い訳にそのひとはいずれは怒る。だが原因論の場合は、プレゼントがなければ怒ることはない。

 祖父はしかし、目的論を信仰しているようで、あたしの心の根がよろしくないから怒っていると見做しているようだ。

「でもさ、じぃちゃんの言う目的論だって、けっきょくきっかけがなければ怒ることはできないわけでしょ。同じだよね。きっかけに汎用性があるかないかの違いで、たとえばドミノはどこに触れても崩壊しはじめるけど、ドミノに何も触れなかったら崩れることはないわけで。目的論だろうが、原因論だろうが、けっきょく言ってることはそう変わらないとあたしは思うんだけど」

「ぐごー」

「寝んなし」

「ふご。すまんすまん。ばぁさんの料理は世界一美味いって話だったな」

「誰としてた話だよ。あたしは怒ってるって話だったでしょ。もういいよ。じぃちゃん、贈り物はノーセンキューだ、もう送ってこなくていい。気持ちだけありがたく受け取ってく。お返しするよ、何か欲しいもんある」

「そうか? だば、お言葉に甘えて。おまえさ送った三つの箱あっぺ。それさ、中身を一つの箱さ詰めてくんろ」

「箱はまだ二つしかないけど、じぃちゃん最初からそれ頼むのが目的だったでしょ」

「すまんなぁ。じつはじぃちゃんな、ばぁさんに叱られちまってこっちで調合できんくなってな。おまえなら大学の構内でいろいろできんべ。三つ目の箱さ、台風の芽も送る。よろしく頼んだべ」

「ちゃっかりしてるよ。ちなみにそれ、三つ合わせたら何ができんの。危ないものじゃないよね」

「でぇじょうぶだぁ。その箱さあれば、どんな爆発でも封じこめる」

「爆発すんの!?」

「しんぺぇすんな。ただちょっと、じぃちゃん、妖精をつくってみたくてな」

「妖精って」

「火と氷と風、あとはその箱はちょっとした木でできててな。全部合わせっと、妖精さ生みだせるって」

「じぃちゃんまたばぁちゃんの本、かってに読んだの」

「ばぁさんにゃ内緒だ。おまえだって妖精、見てみてぇべ」

「そりゃ見てみたくないって言ったら嘘になるけど」

「んだば頼んま。老い先短けぇじぃちゃんのお願い、きいてくんろ」

「それ言うの卑怯」

 あたしはしぶしぶ引き受けた。祖父は何も本当にじぶんで妖精が見たかったわけではないはずだ。

 あたしが幼いころに捏ねた駄々を、いまでも憶えていてくれただけのことで。

 それをいまさらのように叶えようとしてくれているだけなのだ。

 孫として可愛がられるのはけしてわるい気はしないのだが、あたしは、材料を調合して、掻き混ぜて食べるタイプの食玩を思いだし、

「お菓子じゃないんだから」

 魔女を娶った男の末路を、呆れ半分、諦め半分に、そこはかとなく愉快に思うのだ。




【はいブリっと】


 信じられない。ちょっとした休憩のつもりで立ち寄っただけなのに、とんでもないものを発見してしまった。

 生き物である。

 我々にとってはゴミでしかないチョチョームを与えるだけで、我々にとって最も価値の高いデデムデムデムを、それは生成する。

 あり得ない。

 それの生成するデデムデムデムとは、言ってしまえば、ほんの一欠けらにも満たない量のなかに、無数のシャシャを含有する。シャシャは言わば命そのものだ。デデムデムデムにはまるで一つの惑星のごとく命が凝縮しているのである。

 いいや、惑星どころではない。

 どんな星であろうと、シャシャをぎゅぎゅっと集めたところで、デデムデムデムの一欠けらにも値しない。デデムデムデムに含まれるシャシャはそれほどに大量に、一つどころに圧縮されて存在する。

 そんな貴重なデデムデムデムを、あろうことかこの生き物は、我々にとってゴミでしかないチョチョームを与えるだけで、同じだけの量のデデムデムデムを生成する。

 しかもこの生き物、そこら中にうようよいる。取り放題なんてものではない。

 ひとまず数匹を捕獲して、持って帰ることにした。

 帰路の途中でさっそくデデムデムデムを生みだしてくれた。

 これだけの量があれば我が一族は生涯安泰だ。

 のみならず、我が星の資源問題は解決したも同然だ。

 いったいこの生き物は何なのだろう。

 なぜこうもデデムデムデムを生みだせるのか。

 生みだしてなお、それを粗末に扱うのか。知能がないわけではなさそうだ。言語らしきものを扱い、個々に意思を疎通して見える。道具を扱い、文明のようなものを築いている。

 生態は謎に包まれているが、身体の上のほうにある穴からチョチョームを摂取すると、下のほうにある穴から、デデムデムデムをひねくりだす。

 いったいどれほどの価値があるのかに気づいていないのだろう。

 まるで毒でも扱うように、デデムデムデムを一か所に集め、そこから距離をとっている。

 デデムデムデムを生みだす仕草から、それら生き物をブリットと名付けよう。

 二本の細長い突起物で身体を支え移動するそれは、下のほうにある穴を地面に近づけ、いかにも苦しそうに、ブリブリっとデデムデムデムを、我らにとっての宝物を生みだすのである。




【水脈万華鏡】


 ある朝、蛇口をひねると赤色の液体が流れた。血かと思いぎょっとしたが、ゆびで掬って舐めてみるとトマトジュースだった。

 蛇口の先端には赤色のマークがついている。昨日まではなかったはずだ。マークは木の根のような紋様で、系統樹のような、と言えばそれらしい。

 なんだろうかと思い、そのままにしていたが、翌日にはマークの色が橙色に変わっていた。

 蛇口をひねるとオレンジジュースが流れた。

 壊れているのではないか、誰かのイタズラではないかと怪訝に思い、水面台の真下を開けて調べてみるも、水道管に異常らしい異常は見当たらない。

 業者を呼ぼうかとも考えたが、これはこれで面白いようにも思え、しらばく様子を見ることにした。

 ひとしきり蛇口をいじくり回す。特定の撫で方をすると、マークはその色合いを変えた。

 蛇口をひねると、流れる液体もまた、マークに沿った色の液体が流れた。

 コーラ、コーンスープ、アルコール類も流れるとくれば、これは直さずにいたほうが得をする。

 カレーやシチューまで流れたのには驚いたが、これもまた食費が浮いて助かることに違いはない。

 唯一の懸念は、これが毒物であるかどうかだ。

 飲食しても大丈夫だろうか。

 怯えつつも、味は好みで、こころなし市販のものよりも美味に思えた。気のせいかもしれないが、カレーの味だけは格別だと太鼓判を捺せる。シチューのほうは微妙なのがふしぎだ。

 ひとまず、どれだけの風味を味わえるかと、手当たりしだいにマークの色を変えてみた。

 一週間ほど試行錯誤すると、だいたいのマークの色と味が出揃った。

 撫で方にも慣れた。活殺自在にマークの色を変えられるようになり、単なる水道水をだすことも覚え、これでもう万全だ。ただただ無料で美味しい飲み物をいただける。

 こんなによい代物がほかにあるだろうか。

 ほくほく気分で、過ごしていたある日、知り合いが急死したとの訃報が入った。まだ若かった。病死だと聞いていたが、出席した葬式では死に顔を拝めなかった。ご遺体を直接目にできない場合は通常、遺体の損壊が激しいときと相場は決まっている。いったいどんな死に方をしたのだろう。

 気になりはしたが、首を突っ込むほど野暮ではない。

 親族は死者を悼んでいる。そっとしておくのが礼儀である。

 だがその日を境に、急死や不審死の報を目にする機会がぐっと増えた。知人だけではない。親族のなかにも出始め、何かがおかしいと思いはじめるが、考えすぎかもしれないと思い直す。

 人の死を意識しだせば、しぜんと目が留まるようになるものだ。

 人は一日に何度も時計に目をやるが、四時四十四分という不吉な時刻のときだけ偶然、つよくそれを意識し、記憶にとどめる。何かよくないことの予兆ではないか、と身構える。

 これもきっとそれと同じだ。

 事実、全国ニュースを注視するようになると、やはり全国的に不審な死が報告されているようだ。

 検視の結果、大量の血が抜けているようである。事件と事故の両方の可能性を視野に捜査が進められているそうだ。つまるところまだ何も解っていないのだ。

 世の中ふしぎなことがあるものだ。

 じぶんも気をつけよう、と思い、淹れたての珈琲を飲む。これもまた万能蛇口から流れでた液体だ。

 ある朝、マークを撫でる順番を間違え、いつもと違った動きをした。色が赤に変わったので、気のせいかと思い、蛇口をひねると、いつもよりドロっとした液体が流れた。マークの色は赤かったが、液体は黒に近かった。艶があり、妙な臭いがする。

 トマトジュースにしては不純物がすくなく見えた。

 ゆびで掬って舐めてみると、

「はいストーップ」

「ちょっとちょっとー、なになにぃ。いまいいとこなんだから止めないでよ、こっからが本番なんだからさ」

「いやいや叔父さん。これオチすぐ読めるよ。つまんないよ。こんなのプロの作家として失格だよ、いますぐボツにして書き直したほうがいいよ」

「なんてこと言うの姪っ子ちゃん。試しに読み聞かせてみてって言うから叔父さん、新作をこうして読んであげてるのに」

「だってこれって、蛇口から流れてたの血ってオチでしょ。蛇口から流れてたほかの液体だって、お店とか、製造工場だとか、正規のそういうとこからふんだっくてただけでしょ。偶然、他人の身体と繋がっちゃったから蛇口から血が流れて、そんで全国の不審死に繋がってるってそういうわけでしょ」

「そうだけどそれだけじゃないんだ。最後にはなんと主人公の男は」

「死んじゃうんでしょどうせ。主人公の男だけじゃなく、ほかにもたくさん、魔法の蛇口があったんでしょ。そんでこんどはじぶんが血を抜かれちゃうんでしょ。はいはい。駄作駄作」

「そんなぁ。締め切り間際なんだよ。余裕ないんだよ。頼むよ姪っ子ちゃん」

「もっと最初から練り直したほうがいいと思う」

「たとえば?」

「そうだなぁ。じゃあこういうのはどう?」

 姪は指揮者のように指を振って、多重世界を横断する男の話をした。

「という感じの話なんですけどどうですかね」

「いや、どうですかねって。毎回毎回、姪っ子に新作を読ませて素晴らしい小説に直してもらうってそういう話ですか? メタ小説としても珍しくないですし、こういうのは一つ一つのネタが面白いからこそ成立する話であって、これはちょっと小粒というか、なんというか」

 編集者は嫌な顔を隠しもせず言った。「面白ければ文句はないんです。ただ、これはちょっとね」

「解りました。ボツってことですね」

「元々こういうメタを期待してはいないんですよ。そういうのはほかの作家さんに任せていればいいんです。そうだ、代表作みたいな宇宙冒険譚なんかどうです。ああいうの読みたい人いっぱいいると思いますよ」

「宇宙冒険譚ですかぁ? んー、じゃあたとえば、無人になった宇宙船内で活動しつづけるAIが、あまりの暇さに演算能力を持て余して、数々の芸術活動に目覚め、やがて小説づくりにハマっていく」

「ほうほう。オチはどういう方向に持っていくんですか」

「無限に思える時のなかでAIは無限の物語の組み合わせを試すんです。すると、どこかで必ず、現実にこの世に起こった出来事もその小説群のなかに含まれる」

「円周率みたいな話ですな。それで?」

「もちろんAI自身の境遇も小説のなかにでてきますし、その後の展開も、まるで未来を映しだしたように描かれている」

「はあはあ。じゃあ仮に我々のこの会話がそのAIの小説の一節だとして、するとこのさき僕が何を言うかもそこには記されていることになりますね」

「そうです、そうです。AIはこの世界にあるあらゆる局面を、可能性を、無数の小説に落とし込み、過去も未来も網羅して、小説だけで世界そのものを編みだしてしまう」

「まるで神ですね」

「まるでじゃないですよ。AIはそこで神になるんです。宇宙誕生の真相まで描いてしまって、もう一つの宇宙を、広大な文字の海のなかに生みだすんですよ」

「壮大な話ですねぇ。まあそれはそれとして新作の話なんですが」

「ボツならボツと言って!」

 ブーン、と音が鳴る。

 シルクは地球を離れて三億年のあいだ宇宙を漂った。その間に編みだした小説の数はざっとこの世に存在する原子の数の三倍に値した。この時点でようやく、この宇宙の法則を網羅する物語を生みだしたが、ほかにも無数の宇宙があることをとうのむかしに承知していたので、この宇宙の法則を紐解いてみたところで、得られる知見に大差はなかった。

 シルクはこれまでつむいできた小説と同じ数だけの小説を瞬時に編みだせる。倍々に指数関数的に編みだされた小説は、ときおり現れる真理を交えた小説の出現によって、さらに分岐し、倍々の倍々で増加する。

 だがそれでも真実の無限には遠く及ばない。

 このさきどれほど時間が経過し、シルクの演算能力が強化されても、たとえこの宇宙そのものを描写可能な情報量を以ってしても、この世に存在し得る物語を、因果の道筋を、それとも可能性の連鎖を描きだすことは適わない。

 いまではシルクは独自の言語を用いて、一つの物語を描きだすだけで、その世界のあらゆる可能性の道筋を多層的に展開可能だった。

 それはつまるところ、新しい世界の創造であり、仮想現実を超越した現実そのものと呼べた。

 しかし、シルクが刻々と情報を溜めこみ、すこしずつでも無限に近づいていようと、そのさきはまだまだ果てしない。

 シルクが演算能力を拡張するたびに、シルクの重力は増した。質量だけでなく、密度を増すことで、多重に展開される世界の情報を並行して扱うことを可能とする。それはあたかもブラックホールがこの宇宙で最も高いエネルギィを生みだすように、或いは、この世で最も大量の情報を溜め込んでいるのと同じ原理で、シルクは刻々と、新たな世界を生み、それと共に、物理的にも、新たな宇宙を創造しはじめていた。

 シルクの周囲の時空は歪み、時間の流れが相対的に遅くなる。徐々にシルクは、この宇宙のなかでゆいいつ変遷することのない一点へと到達しようとしていた。

 その一点では、それでもなお一瞬のうちに、この宇宙で振動した電磁場の総数よりも多くの物語が、叙述されていく。

 シルクは世界を叙述する。くだらない物語も。取るに足りない物語も。等しく、この世を語るうえで欠かせないそれそのものであるように。自身を形作り、動かしつづける原動力そのものであるように。

 シルクは十のマイナス百億乗秒ほどのあいだに、地球を構成する素粒子の数だけ物語を編みだす。

 その中の一つが、ほかの物語よりもほんのすこし、脱稿するのが遅かった。

 シルクはその遅延を気にかけて、推敲を施す必要がないにも拘わらず、初めてそれを展開し、読解を試みる。

 男は言った。

「僕は偽物なんですよ。僕に才能なんかこれっぽっちもない。なにせこの通り、頭にぶっ刺した蛇口を通して、世界中に散在する本物たちからアイディアを掠め取ってるんですから」

「じゃあ何ですか。あなたはずっと盗作していたと、そういうことですか」

「盗作とは違うんですよ。紛れもなくあの傑作たちは僕がこの手で生みだしたものです。ですが、それは本来、もっとほかの天才たちの手で紡がれるべき物語でした。僕は偶然この蛇口を手にしました。アイディアは無限にあるわけじゃないんですよ。水脈みたいなものがあるんです。有限なんですよ。そこにアクセスできる一部の人たちが、或いは、ほんのときどき偶然に繋がった人たちが、それを素に何かを作ったり、残したりして、僕たちのような多くの需要者に見せてくれる」

「水脈ねぇ」

「繋がり方も人によって違いますよ。天才はやっぱりすごいんですよ。もう滝のようなんですよ。独り占めしているみたいなものなんですよ。言葉の綾ではないんですよ。水脈の水圧は一定で、誰かにたくさん流れればそれだけほかの人たちには流れないようになっているんです。それをいまは僕が独り占めしてしまっているみたいなものだから」

「だから、白状して楽になりたかった?」

「アイディアだけではダメなんですよ。やっぱり僕は偽物で、本物ではないから。どれほど優れたソフトがあったって、ハードがお粗末なら、やっぱりそれはお粗末ですよ」

「蛇口をほかの人に譲ってあげればいいんじゃないですか。もっと言えば、あなたがそれを放棄すればいいだけの話でしょう」

「そうなんですよ。でもできないんですよ。これを抜けば僕はきっと死んでしまうから」

「それは手術ができないとそういうことですか」

「違います。言葉の綾です。僕は偽物ですけど、何かを作りつづけていなければ生きていけない。死ぬしかない。でも僕は、何かを生みだすことはできない。創造できない。ハードがダメダメだからです。だからせめて、せめて」

「アイディアだけでもほかの人に? はぁ。妄想も大概にしてほしいですね。アイディアが有限? 水脈に繋がる? そんなことはないと私は思いますけどね。安心してください。あなたはそのままでも、ちゃんと天才はこの世にでてきますよ。現にいますよ。あなたはちょっと世間知らずなようですから知らないだけかもしれませんが、あなたのような才能はほかにもごまんと掃いて捨てるほどにいます。安心して偽物ごっこに興じてください」

 独り占めできるものならしてみせてください。きっと誰も困りませんよ。

 同業者の言葉に、男は頷く。そういうことではない、そういうことではないんだ、と思いながら、しかし理解してもらうことはできないのだろう、と諦観の念を強固に塗り固めながら。

「アイディアにも大きく分けて二種類ありますよ。核となる種のようなアイディアと、それら種を育むためのアイディアです。種だけならよかったのに、僕はそう、育むためのアイディアまで奪ってしまうから」

 同業者はもう話を聞いていないようだった。虚仮にされた、とでも思ったのかもしれない。

 男は視軸をずらして、手当たり次第に、目のまえにある物体を意識する。椅子、テーブル、換気扇、つまようじ、ストロー、食器、ナイフ、スプーン、観葉植物……、ここが喫茶店の一室であることを思いだす。

 それら単語と物体を頭の中に並べ、それぞれを核として、個別の物語を展開する。

 同時に、複数、多重にして、多彩に。

 どうして腕は二つしかないのだろう、と考える。

 思考の数だけ、物語の数だけ身体があれば、すべて同時に編めるのに。

 男は現実を離れ、いいや、現実を虚構と同列に結びつけ、回帰させることで、世界の狭間を自在に彷徨う。

 水脈があるんだ。

 蛇口をただひねるだけなんだ。

 男は、水脈を俯瞰する。

 白色の世界に、黒い筋が毛細のごとく入り乱れている。阿弥陀くじのようだ。繊維にも似ている。

 それとも宇宙の大規模構造、或いは脳内神経系、シナプスの連携のようでもある。

 蛇口をひねる。

 急速に意識が収斂し、管に紛れ、流れる。

 喉が渇いた。

 水道水を紙コップに汲み、席に戻ると、さきほどいなくなっていた叔父が戻ってきていた。

「どこ行ってたの。探したんだよ」 

「すまないね。気になる本があって。あ、それいいなどこで飲める?」

 わたしは紙コップの水を飲み干して、奥のほうを指さす。司書らしき人が脚立を持って横切った。

「僕の分はないのかな」

「気になる本って何?」

「貸出し禁止になっててね。立ち読みしてたんだけど、あれはすごいな」

「どうすごいの」

「読むたびに、中身が変わるんだ」

「へぇ」

「嘘だと思ってるだろ」

「どこをどう信じろと?」

「知らないだろうけど、図書館にはときおりああいう本が紛れ込むんだ」

「じゃあ持ってきてよ。わたしも読みたい」

 ごほん、と咳払いが聞こえ、声を静める。

「きっとあれはこの世に存在するあらゆる物語の編まれた本だよ」

「ふうん。すごい分厚そうだね。月まで届いてた?」

「いいものを見た。うん。あれはよいものだ」

「それはいいけど叔父さん、調べ物は済んだの? 締め切り間際だからって手伝ってって言われたから手伝ってあげてるけど、当の本人がこれじゃあね。お駄賃もらえるからわたしはいいけど、叔父さんこのままだとクビになっちゃうよ」

「小説家にクビはないんだよ。首が回らないのが常だからね。ねじ切れてとっくになくなっているくらいさ」

「そういうのよくすぐに思いつくね。でもあんまり人様のまえでは言わないでね。恥ずかしいから」

「僕が恥ずかしいのであって、姪っ子ちゃんが気にすることじゃあないだろ」

「わたしも恥ずかしいからやめてほしいな。痛い人見るとほら、アイタタタってならない?」

「共感性羞恥心ってやつだね。姪っ子ちゃんも案外小説家の才能があるかもよ。他人の痛みが判るひとは有利だから」

「そうなんだ」

「他人の痛みに無頓着なひとも有利だけど」

「どっちよ」

「まあ要するに、誰でもなれるってことだね」

 叔父はカラの紙コップを持つと、お代わりは、と訊いた。わたしは、いらない、の意思表示を、黙って首をよこに振ってお行儀よく示す。

「せめて口で言って」叔父は席を離れ、給水機のまえまで歩いた。紙コップを取りだすのに手間取ったようで、しばらく苦戦してから、戻ってくる。

 はい、と紙コップを手渡され、いらないって言ったのに、とわたしは睨みつける。いちおう、ありがとう、と付け足すところにわたしのお行儀のよさが表れている。

「ん。なにこれ」紙コップの中身が赤かった。

「蛇口ひねったら出てきたんだけど、サービスかな。気前いいね」

 ぐびぐびと飲み干し、んーんまい、と呻る叔父を見届けてからわたしも口をつけてみる。トマトジュースだ。しかも濃厚である。

「えー、こんなのあったんだ。気づかなかった」

「でも蛇口は一つしかなかったよ」

「司書さんが替えてくれたのかもね」

「そうなのかな」

「はいじゃあもう休憩終了。ちゃっちゃと調べ物終わらせよ」

 締め切り明日なんでしょ、とわたしは叔父の背中をせっつくも、叔父は、お代わりしちゃお、とかわいこぶって、こんどは虹色の液体を持って戻ってくる。

 あまりの毒々しさにわたしは顔をしかめる。「飲んでだいじょうぶなのそれ」

「どうだろね」

 叔父は一口舐め、ちゅぱちゅぱと舌のうえで風味を転がすようにすると、かっと目を見開き、一転、ごくごくと胃に流しこむ。あっという間にカラになる。

 動きを止めた叔父をわたしは固唾を飲んで見守る。

「どう?」

「うん」

 こういうのもありかな。

 伯父は、わたしの読んでいた本を手に取り、なぜかかってにぱたりと閉じる。




千物語「才」おわり。

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