第15話、少女が魔女になった日

 半刻ほど前、王都を出て最初の宿場町――


 街道脇の茂みに立つのは、大きなスカーフで髪を隠した身なりの良い少女。足元では三毛猫が用を足している。


「あら、かわいい。猫ちゃんよ」


 道行く人が、地面を掻いて砂をかける猫を振り返ったときだった。突如、三毛猫の身体が発光し始めたのだ。


「どうしたの!?」


 少女も驚いて、片腕で目元を隠す。光が収まってきたかと思ったとき、


「きゃーっ、痴女が出た!」


 通行人の悲鳴がのどかな街道に響き渡った。


「えっ、お母様!?」


 目を開けた少女が見たのは、四つん這いになって砂を掻いている女の背中。一糸まとわぬその姿に急いで、自分のスカーフを外してかける。 


「騎士様、こっちです!」


 誰かが通報したらしい。


「お母様、逃げるわよ!」


 少女は女の手を引いて、茂みの奥――林の方へ走った。下生したばえが足にからみつくのも構わず、二人はひたすら街道から遠ざかる。


「誰も追ってこないようね」


 ハーハーと肩で息をしながら、少女は大木に背をあずけた。


「まったくなにが痴女だ! 私は魔女よ!」


 全裸の女――もとの姿に戻った魔女アルチーナは憤慨した。大判のスカーフで身体を隠す母親に、


「お母様のパニエお返ししますわ。お履きになって」


 ドラベッラは大きく広がったドレスの下から、器用にパニエだけを抜き出すように脱いだ。


「よかったよ、お前にそれを履かせておいて」


「パニエを二重に履くなんて、重くて暑くて大変でしたわ! しかもお母様のパニエ、内側に色々縫い付けてあるし」


「それがまた役に立つのさ」


 アルチーナはパニエの中から銅貨を取り出すと、


「これで庶民の古着でも買ってきておくれ」


「分かりました。その恰好では宿屋に戻ることもできませんものね」


 ドラベッラは大げさにため息をついて、林から出て行った。


 一人になったアルチーナは木の幹に寄りかかったままひとちた。


「なんだろう―― 遠い昔、スカーフをかぶせられて、誰かに手を引かれて走ったような――」


 梢を渡る風が耳もとをくすぐり、時おり鳥たちが高い声で鳴き交わす。


「そうだ、かか様と王宮へ行った日……」


 アルチーナが魔女になるずっと前、まだ彼女の母親が生きていた頃――


 王都の社交界で人気を独占した高級娼婦クルチザンヌ、それがナナと呼ばれていた若き日の母親だった。ナナは高位貴族の間を渡り歩き、ついには当時の国王の愛人となった。そしてアルチーナを身ごもったのだ。


 国王にはすでに妃がおり、王子や王女も生まれていた。ナナは王宮で生活することはできなかったが、王都内に離宮を与えられ、贅を尽くした暮らしを謳歌した。


 アルチーナが生まれて幾年かが過ぎたころ、王都を流行り病が襲った。ナナも罹患りかんし、大金を積んで医者を雇い全快したのだが―― 彼女の美しかった顔面には無数のあばたが残ってしまった。


 いくら話が面白く教養があっても、美貌を失ったナナの離宮を国王が訪れることはなくなった。


 やがて彼女は娘と共に住まいを追われ、王都の北に巣くう貧民街の一角に部屋を借りることになった。


『こんなみじめな暮らしに耐えるなんて――』


 暖炉の火も消えたアパルトマンの一室で、ナナはかじかむ手をこすり合わせながら唇をかんだ。


 同じアパルトマンに住むほかの女たちは、昼は窓辺の明かりで針仕事をし、夜は街頭に立ち春をひさぐ。だが一度頂点へ上り詰めたナナに、そんな暮らしは我慢ならなかった。高級娼婦時代にあまたの男たちから巻き上げた大金は、すべて浪費済みだった。


 ある冬の日、ナナは娘の手を引いて生活の援助を求めるため、王宮へ陳情に上がった。


『このは国王陛下の血を引いています。ですが今の私は貧しく、娘の高貴な血にふさわしい生活をさせてやることができません。どうぞ陛下にお目通り願います』


 堀に架けられた橋の上の門番が、すぐに彼女たちを追い返すことはなかった。だが耳たぶの感覚がなくなるような寒空の下、さんざん待たされたのち、


『陛下はナナという女に覚えがないから、城内に入れてはいかんとのことです』


 無慈悲な返答が告げられた。


『なんていうことだい! この子は王女なんだよ!』


 ナナは娘の頭にかぶせていたスカーフをはぎ取った。


『よくご覧、この子の緑がかった瞳を! 王家の血を引いている証だよ!』


 宮殿を取り囲む堀の前には王都のメインストリートが走っている。道行く人々が皆、みすぼらしい親子を振り返る。


『宮殿の前で騒ぎを起こす者よ、今すぐ立ち去れ!』


 衛兵が現れて長い矛槍ハルベルトを向けると、ナナは驚いて娘の手を引き逃げ出した。


 だが地道にお針子をする気も、庶民の男たちを相手にする気もないナナは、毎日王宮前に現れる強請ゆすりと化した。


 七日後の夜、いつものようにき瓶を手に酒屋へ寝酒のワインを買いに行ったナナはそのまま姿を消した。いくら待っても、暗くて寒い部屋に戻ってくることはなかった。


 翌朝、薄氷の張った川に遺体が上がって来た。外傷はなく、酔って川に落ちたものとされた。


『そんなわけない。かか様はほとんど毎晩ワンブロック先の酒屋に行っていた。川になんか用事ないもの』


 まだ子供だったアルチーナの主張は無視された。貧民街の元娼婦の死など、あっという間に王都の人々の記憶から消えた。


 アパルトマンの部屋を追い出されたアルチーナは、全財産を持って王都のはずれに小屋を構えた占い師を訪ねた。




『そりゃプロの仕事に違いないね』


 犯人を占ってほしいと頼んだアルチーナに、異国訛りの老婆は開口一番、断定した。


『あんたの母さんは毎晩ほとんど同じ時間に、同じ酒場へ通っていたんだろう? 殺人を生業なりわいとする者たちは事前にターゲットの行動を調べるのさ。大方、布に染み込ませた睡眠薬を嗅がせて意識を失ったところを、冬の川に運んで投げ入れたんだろう』


 それから声をひそめて、


『殺しのプロを雇えるなんて、よほど裕福な者さ。あんたの母さんは、この国で一番力を持つ人間に邪魔者と見なされ消されたのさ』


 両眼に涙をためて歯を食いしばる子供に、占い師は提案した。


『復讐したいならアタシの知識をお前さんに授けてやってもいいよ。アタシはもう先が長くない。最後に弟子を取るのも面白そうだ』


 こうしてアルチーナは母親が望んだ通り、いつの日か王家に帰る日を夢見て、年老いた魔女の弟子となった。


『この子は王女―― かか様は何度もそう言っていた……』

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