「2017年 辰巳真司 48歳」act-13 <夏祭りの夜②>
呼び鈴を鳴らすと小柄な白髪の男が顔を出し、あからさまに警戒の表情を浮かべた。「平井さんいますか?」と言う辰巳の言葉に男が何か言いかけた時、奥から先日の女性が顔を出した。
「辰巳さん!」
彼女は白髪の男を押しのけるように前に出ると「あなた、由美がいつも話してる辰巳さんですよ」と言った。それを聞いた白髪の表情が、崩れるように柔らかくなる。
「おお、あなたが辰巳さんかね」
男は嬉しそうにそう言うと、「由美、辰巳さんが来たぞ」と大声で出した。
廊下の奥にある階段を降りる音がして、Tシャツに短パン姿の平井由美が現れた。辰巳は、反射的に視線を外す。
「どうしたの、辰巳君」
「今日お祭りで、今みんなと会場にいるんだけど、平井さんも呼ぼうってことになって‥」
彼女より二人の反応の方が早かった。
「そりゃいい、行っておいで由美」
満面の笑みの二人に急かされた彼女は「ちょっと待ってて」と辰巳に言って、階段を駆け上がった。そして、白いブラウスとGパンに着替え、後ろで髪をひとつにたばねながら戻って来ると「ばあちゃん、これ借りる」と言って、小さな赤い鼻緒の下駄をつっかけた。
「誘ってくれて嬉しい」
暗い夜道に、カラコロと下駄の音をさせながら平井由美は言った。湯上りなのか、彼女の髪からはシャンプーの香りがする。
「父さんが、平井さんも呼んだらって」
「えっ、そうなんだ。だから辰巳君のお父さんて好き」
辰巳は彼女の横顔を盗み見た。聞きたいことがいっぱいある。何で父親がいないのか?母親はどこにいるのか?どうしてこの学校に転校してきたのか‥。
しかし、言葉にして聞く勇気がない。
ふたりの間には、小さな下駄の音だけがあった。
会場に着いた辰巳達を、真っ先に見つけたのは雅子だった。“呼んできてあげたら”とは言われたものの、辰巳の心中は複雑だ。ふたりに向かって手を振る雅子は元より、隣でにやけている友人達は、あの相合傘が書かれた教室で、散々辰巳を囃し立てた連中である。
しかし、その後は予想外の展開となった。平井由美の飛び入りは、祭りの夜という特別な環境の盛り上げに一役買ったらしく、雅子も友人達もすぐに彼女を輪の中心に取り込み、彼女も気負いなくそこに溶け込んだ。
平井由美は自分だけに心を許している‥辰巳のそんなちっぽけな自負は、友人達に囲まれ、はしゃぐ彼女の笑顔の前に消し飛んだ。
最後は全員で彼女を家まで送って行った。くしゃくしゃな笑顔で何度もお礼を言う老夫婦と、辰巳達に向かっていつまでも手を振る平井由美‥
その帰り道、雅子が辰巳の耳元で囁いた。
「平井さん、いい子だね」
唯一可哀想だったのは辰巳の父親か。平井由美を連れた辰巳が会場に戻った時には、すっかり出来上がって組合のテントで眠りこけていたようで、その晩「平井さんが来た時、何で起こさなかったんだ」という愚痴を、散々聞かされることになった。
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