33 魔物の王
リーシャの決意に怖じ気づいたのはホシボクロだ。
「待ってよ、リーシャ。あんたを行かせたりしたらライナムルに叱られちゃう……いーや、叱られるのはどうでもいい。あんたに何かあれば、たとえ魔物の王を倒してもライナムルは喜ばない」
キキーッとオッキュイネも鋭い声をあげる。怒っているのかもしれない。
フンと鼻を鳴らしたのはリーシャだ。
「自分は死んでもいいって? でも、わたしはダメなの? ホシボクロ、そんなの狡いわ」
「なに言ってるんだよ。リーシャ、あんたは特別なんだ。ライナムルの特別な人――仮とは言え、婚約者なんだろう?」
「そうよ、仮だわ。だから、正式な婚約者じゃない。ライナムルには他に正式な婚約者がいる。その人が見つかれば、わたしなんかお払い箱よ」
リーシャの言葉にオッキュイネが激しく反応する。ギーギーと声を張り上げ冠羽を逆立てた。
「クリセントの失われた姫ぎみを言っているのかい?」
ホシボクロが尻尾でオッキュイネのお腹を撫でながら穏やかな口調で言った。オッキュイネの憤りのせいで、却ってホシボクロは冷静になったようだ。
少しだけ俯いてリーシャが答える。
「そうよ、侯爵さまの姫ぎみ――王子さまにはわたしなんかより、お姫さまがお似合いよ」
「本気でそんなことを言うの?」
「だって仕方ないじゃない――自分にもしもの事があったらって考えたら、そう思うしかないじゃない。わたしの代わりにライナムルを元気にしてくれる人がいたほうがいい」
「リーシャ――ヤケを起こしちゃダメだ」
「ヤケなんかじゃないわ。わたしだって頑張るもの。魔物の王を出し抜いてやる」
ホシボクロに宥められ黙っていたオッキュイネが、キッキュと鳴いた。
「オッキュイネが言ってる。リーシャは高いところが苦手、すぐ気を失う」
「あ……」
「魔物の王の部屋はオッキュイネの塔の高さに崖の高さを足した、ずっと下だ。壁に開けた穴は相当高いところになる――その高さを急降下して、剣を取ったら急上昇する。リーシャはそれに堪えられる? ってオッキュイネが心配してる」
ホシボクロを見ていたリーシャが、ゆっくりと視線をオッキュイネに移す。もうオッキュイネは怒っていない。自分を見たリーシャに頭を寄せ、リーシャの頬に擦りつけた。
オッキュイネの首に腕を回し抱き締めて、リーシャが言った。
「オッキュイネ――わたしを連れて行って。そして連れて帰って」
ホシボクロは何も言わず、窓に向かって歩いていく。
「あなたがわたしをここに連れてきた。わたしのライナムルへの思いは、この部屋から始まったんだわ。オッキュイネがわたしをここに連れてきたから始まった――だからオッキュイネ、ちゃんと責任取って。必ずわたしをここに連れて帰るのよ」
それはオッキュイネもやはりまたこの部屋に帰るという事だ――わたしとオッキュイネは必ずライナムルのところへ帰る。
「わたし、じっと目を
キュンとオッキュイネがリーシャに答えた。窓辺にいたホシボクロが
「準備ができたようだよ」
とリーシャに言った。
オッキュイネが立ち上がり片足をリーシャに向ける。頷いたリーシャがオッキュイネの指の上に立ち、細い足にしがみ付く。タンタンとオッキュイネが窓に向かえば、ホシボクロが道を開ける。
フワッとリーシャが感じたのは、オッキュイネが窓枠に乗ったからだ。そして次には落下して――
翼を広げる気配とともにオッキュイネの姿が消えた。リーシャがギュッと目を閉じる。羽ばたく音、塔から離れる感覚。旋回し塔に向かって突進する。風がリーシャの頬を切る。オッキュイネが翼を閉じた、そして塔に突っ込んでいく――
落ちる、落ちる、落ちる……塔の中、方向を下に定めたオッキュイネ、羽ばたきをやめて、ひたすら下に向かっている。力を込めてオッキュイネの足にしがみ付くリーシャ、目を閉じているせいもあるのか、上下の感覚が消えている。そんなリーシャの耳に咆哮が届く。
「何者!? 宙を飛ぶ人間など見たこともない!」
咆哮が聞こえるほうが下だわ、とリーシャが思う。あの声はきっと魔物の王、魔物の王には姿を消したオッキュイネが見えない――
「魔法使いか? 我に
魔物の王の高笑いが壁に反響し、リーシャの身体を振動させる。フワッと身体が浮くのを感じたリーシャ、下に着いたのだと目を開ける。だが――
オッキュイネは羽ばたいて、その場を動かずにいる。少し下には黒いモアモアしたものが漂っている。霧のようで、でもひと塊で、目も口もない。だけどあの声はこいつだ、とリーシャは思った。それにこいつはわたしを見ている――
「なんだ、まだ子どもじゃないか。どうした? わたしが恐ろしいか?」
笑いを含んだ声が筒状の部屋に木霊する。
「こんなところに何用だ? いつかのネズミと同じように、中を覗いて落ちたのか?」
ふとリーシャが思う。なぜ魔物の王はわたしを攻撃しないのだろう? 子どもだから? 女だから? いいや、きっと違う。攻撃できない理由が何かある。
それにしてもオッキュイネはなぜここで止まってしまったのだろう? 怖がっている? それなら上に向かって逃げ出すはずよ。足にしがみ付いたまま、リーシャはオッキュイネを見上げた。
オッキュイネは姿を消している。しがみ付く足だって見えていないのだ、離したらリーシャは二度とオッキュイネに捕まれないかもしれない。さらにしっかりとしがみ付き、リーシャはそっとオッキュイネに呼びかけた。
「オッキュイネ?」
ぶるぶるっとオッキュイネが身体を震わせたのがリーシャに伝わる。そして再び下降を始めた。
「待て! どこへ行くつもりだ!」
魔物の王の声が響く。
「剣を取るのか? そうはさせない!」
ガタガタと壁が揺れた。風が吹き始め、オッキュイネの進路を阻む。堪らずオッキュイネが姿を現した。
「なに!? 魔鳥の王? 娘、魔鳥の王を味方につけたか!?」
魔物の王の声に焦りが見える。
「えぇい! 魔鳥の王は葬ったはず、再び現れたのなら再度葬るのみ!」
さらに強まる風、筒状の部屋の中では吹く方向も定まらない。それでもオッキュイネは下へ下へと向かっていく。
「あった! あそこよ、オッキュイネ!」
すぐ下、床も見えている。リーシャでも飛び降りられる高さになると、しがみ付くのをやめて床に降り、剣の許へと走った。後ろにオッキュイネが着地した気配を感じる。
「待て! 待て!」
魔物の王は相変わらず、声を荒げ、風を吹かせているようだ。だが、リーシャは全く風を感じない、なぜ? でも今はそんなことはどうでもいい、まずは剣を抜いてオッキュイネのもとに戻る、それだけ……
リーシャが剣の柄に触れた。すると剣が輝き始めた。
「ぐわぁっ!」
魔物の王は叫び声をあげた。
「眩しい! 剣に触れるな! 触れないでくれっ!」
魔物の王の願いなど聞くわけがない。リーシャは力を籠め、剣を引き抜こうとする。だけど思ったより深く剣は扉に刺さっているのだ。こうなったら――
「えぃ!」
両手で柄を持ち足で扉を押さえ、リーシャは全体重とともに力を込めた。
すっぽーーーん!
「きゃあ!」
やっとのことで抜けた剣、勢いで尻もちを
「帰るわよ、オッキュイネ!」
リーシャが急いで振り返る。だけどオッキュイネは――
「オッキュイネ!」
振り向いたリーシャの目の前に、オッキュイネは力なく横たわっている。駆け寄ってよく見れば翼がヘンに曲がっている。魔物の王が起こした風で折られてしまったのか? 触ったらきっと痛む、床に投げ出されたオッキュイネの頭をそっと撫でるだけにしたリーシャだ。オッキュイネが申し訳なさそうにキュルルと鳴いた。
黒いモアモアはリーシャから離れた壁際に漂っている。だけど少し黒さが増し小さくなった。モアモアが集結したように見える。
「きさま! 娘! 何者だ?」
モアモアの中で声が響く。
「まぁ、何者でもよい。魔鳥の王はもう飛べない。おまえはここから出られない」
クスクスと魔物の王は笑っている。でも強がりなんじゃない? リーシャにはなんとなくそう聞こえる。
「娘、どうだ、どうせなら仲良くしようじゃないか? 我は魔物の王。この崖の外に続く果てしない森の魔物たちを統べる者。おまえがわたしに協力するなら、悪いようにはしない」
こう言って外ネズミにも近付いたのかしら? 声にしないでリーシャが考える。だとしたらわたしに魔力を使う気ね。それを阻止するにはどうしたら?
「娘、どうせならもっと近くで話をしよう――それにしてもその剣、眩し過ぎはしないか? そこに横たわる魔鳥の王の下にでも隠してしまえば、我に取り返される心配もない。一石二鳥と言うものだ」
つまり、オッキュイネの下に剣を入れろ、と? フン、そんなんじゃ騙されない。剣の光を浴びたくないのが見え見えよ。
「剣を持っていたいのならそれもいい――だが、もう少しこちらに寄らぬか?」
どうしよう? 迷ったリーシャは一歩ずつ黒いモアモアに歩み寄ることにした。魔物の王は剣の光りが苦手、もしそうならば近寄ればなんらかの動きがあるはず。
「うむ――我はこの部屋に閉じ込められて久しい。ここは陽の光が届かない、光に弱いのだ」
魔物の王が弱音を吐き始めた。でもまだ何か隠している、それだけじゃないはずだ。
リーシャが近づくにつれ、黒いモアモアは
(魔物の王が怖がっているのは剣じゃない?)
まさかわたしを怖がっている?
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