40話 総督府。
全ての場所に思い出がある。
広大な敷地には、屋敷以外にも幾つかの建造物が在った。
聖堂、迎賓館、警備詰所、使用人別棟――。
そして、亡き母の愛した庭園は、今も豊かな花を咲かせていた。
子にはさほどの興味を示さなかった為、印象に残らぬ女だったが、幼心に美しい人という記憶はある。
その庭園の中央に
兄二人の背に隠れ、幼きウルリヒは他のことに思いを馳せている。
――つまんない話しが終わったら、次は何して遊ぼうかなぁ。
――聖堂は怒られるし――中庭の――いや、あそこも怒られるけど――でも――。
――どうしよう――いや、あ、終わったぞ!
「ねぇ、兄さん。次は何して遊ぶ?ボクは中庭に――」
兄弟の中で最も頭が良く、温和だった兄ニクラスが振り向いた。
見慣れた柔和な笑みを浮かべながら、妙に大人びた声音で告げる。
「ウルリヒ――それよりレナを――私の妻を返してくれないかい?」
直後、豹変したニクラスの浮かべる凶相に怯え、幼きウルリヒは悲鳴を上げる。
「な、なんの事?怖いよ――ル、ルーカス兄さんッ!」
救いを求め、ウルリヒは兄ルーカスの袖を引く。
常から兄弟達の先頭に立ち、最も頼りがいのある男が振り向いた。
どんな問題であれ、この兄が解決してくれたのだ。
ウルリヒは、いつかは兄のような男になるのだと決めている。
誰からも尊敬され、誰にも気遣い、そして誰よりもベルツを愛する男に――。
そう、決めていたのだ。
――え?
少年であるはずの兄の
それは、消せない罪の証しだ。
残り少ない毛髪は、刻印を失い金色となっていた。
それは、ベルツへ捧げた忠誠の代償だ。
どこを見ているか分からぬ瞳は、異様な輝きだけを持っている。
それは、かつては未来を見ていた眼差しだ。
兄は、口端から涎を垂らし、口を大きく開いた。
「ベネディクトゥスが光に満ちる日は近いッ。そのためにはベルニクの死が必要なのだあああ」
絶叫した兄は、ウルリヒの頬を、骨ばった拳で殴りつける。
「や、やめてよ、兄さん――やめて――」
何度、許しを請うても、気を失うまで殴打は続く。
居室の外には、耳を塞ぎ肩を落とすだけの老人達がいるのだろう。
「や――め――」
優しい思い出も、不変と信じる愛も、輝かしい未来も、いつかは手から砂の如く零れ落ちる。
ウルリヒ・ベルツには秘したる確信があった。
残るのは、常に絶望だけである。
◇
「たたた大変ですわよ~」
今度は何だ、とウルリヒは思った。
――この女が口を開くと、必ず良くない事が起きるな。
因果関係の逆転した発想であるが、ウルリヒにとって悪い報告であるのは間違いない。
「な~んと、ゲートが開いちゃいましたわぁ。化け物艦が来そうですの」
謳うような口調でイヴァンナは敗報を告げる。
化け物艦とは、トールの旗艦である重弩級艦を指す
既に正式な艦名もあるのだが、その公表をトールが嫌がっており一般には知られていない。
「とはいえ、カドガンの援軍があるのだろう?」
カドガン領邦に救援を頼んだ旨は、イヴァンナから共有されている。
彼女の背後関係を知らぬウルリヒであったが、ようやくその一端が見えた。
実のところ、ベネディクトゥスを追われたベルツ家残党は、そのほとんどがカドガン領邦へと逃れている。
彼らが地下に潜って活動する限り、存在を黙認されてきた。
――まさか、矢面に立つほどの味方になるとは思わなかったが……。
九条発令も無く攻めて来たベルニクといえど、叛乱軍を
それを表立って邪魔立てするとなれば、カドガン領邦は帝国に弓を引いたも同然であろう。
おまけに、ベルツ家再興の承認についても、先陣を切るというのだ。
「来ます。向かってます。なんですけど~」
浮かれた様子で話すイヴァンナであるが、危地に有るとは理解している。
フェリクス宇宙港に出した部隊で、いつまでベルニク軍の侵攻を抑止できるか分かったものではない。
――
ベネディクトゥスの叛乱は、エヴァンの意向に従い各所で起こした乱のひとつに過ぎない。
ウルリヒ・ベルツは、使い勝手の良い駒である。
エヴァンとしては、速やかに討ち取り始末したいところであろう。
だが、イヴァンナの
エヴァンの求めに応じ、乱までは引き起こしたが、この地に帝国の影響が強まる事を望まなかった。
理由などイヴァンナには与り知らぬ事とはいえ、いかなる手段を使ってでも、当面の間はウルリヒに夢を見せねばならない。
それゆえの、カドガン参戦ではあったのだが――、
「間に合わないかもですわぁ」
多少の遅れはあっても、カドガン
遅れてくる帝国軍とて返り討ちに出来よう。
それだけの兵力を、カドガン領邦は保持している。
間に合わないのは、ウルリヒの命――はどうでも良く、イヴァンナの命であった。
「逃げましょ。今すぐ逃げるほかありませんわッ!」
ここに至っては任務など二の次である。
まずは、身の安全を図り、後はカドガンに何とかしてもらえば良い。
「宇宙港に揚陸されたのだ。どこに逃げる?」
妙に落ち着いた声音でウルリヒが告げた。
この日が来るのを、心のどこかで覚悟していたかのようでもある。
「軍事基地があるじゃありませんの。そこから高飛びしましょ。ささ、荷物の整理を――」
「首領ッ!!」
総督府を守る兵士のひとりが駆け込んで来た。
「領主と呼べ」
「わ、分かりました、首領」
ウルリヒの眉間に、ひとつ皺が入った。
「フェリクス宇宙港に送った部隊千名が壊滅しました」
「千――だと?」
拳を握りイヴァンナを睨むが、彼女は素知らぬ顔で窓の外を眺めていた。
――これでは、屋敷に残っているのは、せいぜいが二百ではないか……。
その他は、治安機構、主要インフラ及びメディアの制圧に回されている。
「ベルニク軍は我が方の輸送機を奪い――」
「もう良い。さっさと他の場所に回した兵を戻せ」
「無理ですわ~」
イヴァンナが窓の外を指差しながら言った。
「今、来ちゃいましたもの」
ウルリヒに伝わった情報は、致命的なタイムラグがあったらしい。
屋敷の上空に、既に輸送機が飛来しており、そこから多数のベルニク兵が降下していた。
降り立ったベルニク兵は、敵ながら見惚れるような動きを見せる。
敷地の各出入口に向かい、守勢に在った兵達を蹴散らすと、即座に守備陣地を構築し封鎖した。
聖堂などの各建造物の入り口も封鎖している。
全てが一瞬の出来事に思えるほど、彼らの動きは統制が取れ、なおかつ熱狂的であった。
得体の知れぬ情動に突き動かされているようにも見える。
「これが――ベルニクか――」
ここに至り、ウルリヒの心は不思議に落ち着いていた。
「――いや、これが――兵というものか」
封鎖用部隊を残し、百名程度の部隊は、怒涛の如く屋敷に向かい進軍を開始する。
先陣を切る白い兵士の大剣は、数多の肉を斬り――いや叩き潰していた。
隣に立つ者とて、細身の剣で器用に相手を屠っている。
善悪で考えるならば、この兵を率いる将はいっそ罪深い。
「ど、どうしますの?これが兵というものか――じゃありませんわよおおお」
叫びながら、イヴァンナは生き残りの方策に思いを巡らせている。
彼女に有るのは、神々しいまでに先鋭化された生への執着心なのだ。
「――ウルリヒ様」
執務室の隅で、うっそりと控えていた老臣がウルリヒの元に寄る。
「もはや――」
「分かっている。それしか手は無い」
「え?え?手がありますの?初耳ですわ~」
耳ざとく聞きつけたイヴァンナは、ウルリヒに自身の四肢を絡み付けた。
ウルリヒは顔を顰め、それを手で払ってから告げる。
「ベルツを伴わねば入れぬ場所へ行く」
「はい?」
「――お前は、どうする?」
仔細は語らず、ウルリヒが尋ねた。
性根の良からぬ女とはいえ、一応の恩義は感じている。
――
――この女狐が居なければ不可能事であったろう。
「早く応えよ。時が無い」
執務室を見回し告げる。
「
彼女にとって、自身の生き残りを賭けた一世一代の賭けが始まる。
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