フェルディナン・バダンテールは壊れた彼女の心を取り戻せるか
@arikawa_ysm
第1話 フェルディナン・バダンテールは壊れた彼女の心を取り戻せるか
『カロリーナ。お父様とお母様は政略結婚だったけれど、愛を育むことが出来たわ』
『だからね、キャロル。何も悲しむことはないのよ。あなたが心を向ければ、きっと殿下も心を向けてくれるわ』
『母さま。わたし、フェル様がすきよ。だからなにも、かなしくなんてないわ』
◇◇◇
カロリーナ・ベランジェ公爵令嬢は、この国の第一王子であるフェルディナン・バダンテールの婚約者だ。
幼い頃から決められた役割を、カロリーナは当然のことのように受け入れた。
勉学はもちろん、マナーや各種作法、王妃教育。「公爵家の娘に生まれたのだから」と、自分の役割はそうなのだと、カロリーナは弱音も吐かずに勉強に励んだ。もちろんすべてが順調というわけではなく、何度も躓いてはやり直し、やり直しては躓いて。文字通り血の滲むような努力の甲斐あって、カロリーナ・ベランジェ公爵令嬢という完璧な淑女が出来上がった。
王子の婚約者として相応しい。これほどの令嬢はそういない。社交界ではそんな声がよく聞かれる。
カロリーナは優秀であったが、それを鼻にかけるような傲慢な真似はしなかった。
自分より格下のものや平民に向けても、常に穏やかで優しかった。妬むものもいたが、それ以上に愛された。
だがカロリーナが優秀であればあるほど、好かれたら好かれるほど、その婚約者であるフェルディナンは劣等感を抱いていった。
彼は決して無能ではない。勉学も剣技も、情勢を見る能力にも長けている優秀な男だ。だけれどカロリーナが優秀すぎた。本当にひとつも、欠点などないように見えていた。
幼い頃は気にならなかった。こんな素敵な子が自分の結婚相手になるんだと、素直に喜んでいた。自分はその隣に並ぶに恥ずかしくないくらい、立派な王になろうと誓っていた。
それが、彼女が優秀になればなるほど、とてもその隣に並ぶ資格などない気がして。「完璧な公爵令嬢」を見る度に、苛立ちを感じるようになってしまって。
だからなのだろう。
彼が彼女に対して、子どもじみた反抗期のようなものを迎えてしまったのは。
そのことが取り返しのつかない事態を起こすことなど、気づかずに。
◇◇◇
フェルディナンの素行が悪くなっていったのは、十六の頃。彼らが協調性や社交性を身につけるための学園に通い始めてからだった。
何人かの子息たちとつるみ、貴族らしからぬ振る舞いをする。婚約者がいるにも関わらず色んな令嬢に声をかけては浮気の真似事のようなことをする。実際を手を出すまでの度胸はないらしいため、あくまで真似事だ。
それでも第一王子としての体裁は良くない。カロリーナは婚約者として、何度も行動を改めるよう注意した。
けれどその度フェルディナンは曖昧な返事を適当に返すだけで、真に受けない。
そんなことを繰り返していたある日のこと。
カロリーナがフェルディナンを呼び出して、いつものように王子としての行いを、と告げたときだった。
「……うるさいなぁ、本当」
ぽつりと漏らされた声に、カロリーナが目を見張る。
「いつも会えば文句ばかりで、他に言うことないの?」
「文句ではありません」
「なら説教? お小言? もうね、ウンザリ。なんできみに僕の行動を制限されなきゃならないの?」
「わ、……私は、フェル様の婚約者として」
ふん、とフェルディナンが鼻で笑う。
「婚約者だから? 僕の交友関係に口出ししてもいいとでも?」
「ご友人は慎重に選ぶべきと申し上げたまでです。素行の悪い方を友と選ぶのなら、その行いを改めるように窘める必要があります」
「別に誰に迷惑をかけているわけでもない」
「何度も申し上げております。それはフェル様が第一王子という身分であるから、迷惑だなどと口に出せないだけであると。授業の最中に突然ゲームを始めたり大声で笑ったり、ましてや教師を侮辱するような発言ははっきり申しまして迷惑です」
どこまでも真摯な眼差しだった。
何も間違ったことは言っていない。フェルディナンも、自分がしていることの過ちを理解している。
だけれどそのことをカロリーナに告げられるのは嫌だった。認めたくなかった。彼女こそ正しく、自分は間違っているのだと――彼女の言葉で認めてしまうことが嫌だった。
フェルディナンはカロリーナに聞こえるように舌打ちをした。
「きみは本当に、僕の心を冷ますのが得意だよね。どんなに楽しいことをしていても、きみがいるだけで全部台無しだ」
カロリーナの喉が、ひく、と震えた。
「今このときだけだよ、友人たちと楽しく騒げるのは。この学園を卒業したらいよいよ次期国王としての務めが始まる。そしてきみと結婚して、毎日顔を突き合わせなきゃならない。きみの小言を毎日毎日聞かなきゃならない」
「フェル様、」
「政略結婚だから仕方ないけどさ。僕は本当は、可愛くておしゃべりで、どこか抜けてるようなそんな子が好きなんだ。きみと正反対のタイプのね。どうせ最終的にはきみと結婚しなきゃならないんだから、それまで自由にさせてよ」
はぁ、とわざとらしくため息をついて顔を背ける。フェルディナンはそのとき、カロリーナがどんな表情をしているのか見ていなかった。
「少なくとも今の僕に、キャロルは必要ない。わかったらもう、僕のことに口を出してこないで」
そのまま背を向けて、カロリーナから離れて行く。カロリーナが追ってくる気配はなかった。
少しばかり胸の奥が痛んだが、これでいいと思った。
どうせ逃げられない政略結婚だ。だったら学園にいる間くらい、好きにさせてくれ。
◇◇◇
コレット・アルノー男爵令嬢は、密かにカロリーナに憧れていた。
コレットだけではない、学園に通う令嬢たちにとってカロリーナは尊敬と敬愛の的だ。
別け隔てなく向けられる笑顔、優雅な仕草に口調。いつかあんなふうになれたらな、と思うものは数多くいる。
「あ、来たっ」
コレットは、幾分か熱狂的なファンだった。先程の「密かに」という表現は即撤回しよう。毎朝決まって、門のそばに張り付いてカロリーナが登校してくるのを待っている。偶然を装い、朝の挨拶をするのが日課であった。
「カロリーナ様、おはようございます!」
いつもなら優しい笑顔で、「おはよう、コレット」と返してくれる。呼び捨てにして欲しいと懇願したのはコレットの方で、最初は戸惑っていたカロリーナも次第に自然にそう呼ぶようになっていた。
頬を紅潮させて、カロリーナの言葉を待つ。けれど言葉が返ってくることはなく、コレットは顔を上げた。カロリーナはとっくに、コレットの横を通り過ぎて行っていたのだ。
「……え?」
何が起こったのかわからず、呆然とする。カロリーナは振り返ることなく教室へと向かって行ってしまった。
「コレット嬢。門の前で立ち止まると邪魔だぞ」
声をかけたのはアベル・カルリエ侯爵子息。将来騎士になることを夢見ている彼は、コレット、そしてカロリーナと親しかった。コレットが毎朝カロリーナを待ち伏せしているのを知っているのだが、今日は何か様子が違うように見えていた。
「カロリーナ嬢はどうした? 今日は一緒じゃないんだな」
「アベル様。それが、その……わ、私、カロリーナ様になにかしてしまったのかも……」
今にも泣きそうな顔を見せるコレットに、アベルはぎょっとする。
「と、とりあえず教室に行こう、遅刻する」
慌てて促すと、コレットも素直に頷いて二人は教室に向かった。
教室の中でカロリーナは、自分の席に座って本を読んでいるようだった。アベルから見て別段変わった様子はなく、首をかしげる。
「カロリーナ嬢がどうかしたのか?」
「あの、私、いつものように挨拶したんですけど、その……無視、というか、スルーされたというか」
「気づかなかっただけ……ってわけでもないか、他でもないコレット嬢だし。ちょっと確認してくるから待ってろ」
「お、お願いします!」
祈りでも捧げるように両手を組んで、コレットは言う。アベルにとって妹のような存在のこの少女は、カロリーナの一番のファンだ。言葉を交わせることを誰よりも喜び、また常に彼女の仕草を見ては自分にも出来ないかと試行錯誤している。その努力をカロリーナも理解しているため、急に彼女がコレットを無視するなんてことは考えられなかった。
「カロリーナ嬢、ちょっといいか?」
「……」
少しの反応も見せないカロリーナに、アベルはぱちりと大きく瞬きをする。
「カロリーナ嬢?」
ほんの少しも、表情が動かない。それが自分の名を呼ぶ声だと、わからないはずがないと言うのに。視線は持っている本に落とされたままで、アベルの存在すら気づいていないようだった。
何だ? と、アベルは思う。
昨日まで普通に会話をしていた。自分とも、コレットとも。ランチを共にとって、帰るときもまた明日、と笑っていたはずだった。
「カロリーナ嬢。おい、呼んでるだろう? カロリーナ嬢、……キャロル、……カロリーナ・ベランジェ公爵令嬢!」
大きく声を張り上げてようやく、カロリーナははっと顔を上げた。
ぱちぱち、と驚いた様子で瞬きをし、じっとアベルを見上げる。
「アベル……?」
「あぁそうだ、俺以外に見えるのか?」
カロリーナは微かに眉を寄せて瞳を細めた。さらにアベルを見つめてから、もう一度ゆっくりと瞬きをする。
「あぁ、アベル、ね。アベル……どうしたのかしら?」
「どうしたのかしらって……」
何かおかしい。どこか違和感がある。焦燥感にも似たぞわぞわとした感覚が胸に浮かんで、アベルは小さく息を呑んだ。
「――コレット嬢が、挨拶をしたのに返されなかったと……」
「まぁ、コレットが? ごめんなさい、どうして気づかなかったのかしら、私ったら……」
こっそりとアベルの背後から様子を伺っていたコレットは、カロリーナの言葉にぱっと表情を明るくさせた。意図的に無視されていたのではなかったのだと、心底安堵する。すぐにひょこりと姿を見せて、カロリーナの前に立つ。
「カロリーナ様! たまにはそういう日もありますよね! 良かった、私が何かしちゃったのかと」
カロリーナは目の前にいるコレットを、ぼんやりと見ていた。コレットがあれ、と身を屈め、カロリーナの様子を伺い見る。
「どうかしました?」
「……コレット……えぇ、そうね、コレットは……」
「カロリーナ様……?」
「ベランジェ公爵令嬢! 少しいいだろうか」
教師に呼ばれたカロリーナは、すぐに立ち上がった。そしてすぐに、そちらへ向かって歩いて行く。アベルとコレットは明らかな違和感を覚え、顔を見合わせた。何かがおかしい。どこかがおかしい。
「体調が悪いのかしら……」
「それにしては足取りは軽かった。……少し調べて見たほうが良さそうだな」
アベルの呟きに、コレットは強く頷く。
先程のカロリーナの表情は、今まで見たことがなかった。ぼんやりとして、焦点が定まっていないような。コレットの姿を、見ていないような。ぎゅっと胸の奥が痛んで、表情が沈む。
何事もなければいい。戻ってきたら、いつものカロリーナ様だといい。
そんなコレットの希望が叶うことはなかった。
◇◇◇
『フェル様、フェル様。わたしきっと、立派な王妃様になります』
『じゃあ僕は、立派な王にならないと』
『それならおれは、立派な騎士になる。カロリーナ王妃専属の護衛騎士だ!』
『まぁ、すてき! 私の騎士様ね』
『頼もしいな、アベル。きみがついていれば、キャロルは絶対安全だ』
『そうだわ、アベル。私よりもフェル様を守ってちょうだい。フェル様が怪我なんてしたら嫌だもの』
『僕だってキャロルが傷つくのは嫌だ』
『おい、おれをダシにしていちゃつくなよ!』
◇◇◇
「一体何のようだ、アベル。それと、きみは……」
「コレット・アルノーです。カロリーナ様とはよくお話ししていました」
カロリーナの様子がおかしいとアベルたちが気づいてから、一週間。彼らはカロリーナの家にフェルディナンを呼んでいた。
なぜよりにもよってカロリーナの家なのかと、フェルディナンの機嫌は悪い。
客間に通された彼は腕を組んでソファーに座っており、その向かい側にはアベルとコレットが座っている。
「カロリーナ嬢の話、何も聞いていないのか」
アベルの問いかけにフェルディナンは、ふん、と鼻で笑った。
「誰にでも優しいはずの公爵令嬢が、下位のものの呼びかけを無視しだしたという話か?」
「……噂しか聞いていないんだな。つまりお前は、ここしばらくカロリーナに会っていない」
アベルとフェルディナンは幼馴染である。ゆえに公式の場以外での口調は砕けており、それが普通だった。
「だから? 結婚したら嫌でも毎日会うようになるんだ、学園に通っているときくらい会わなくても何ら問題はない」
コレットは思い切り不快感を顕にした。
フェルディナンの話は、学園にいるものなら知らないものはいない。第一王子でありながらたちの悪い子息とつるんで授業を妨害したり、あちこちの令嬢に声をかけては遊んでいるという。カロリーナという婚約者がいながら、と、コレットはめいっぱい眉間にシワを寄せていた。
なんでカロリーナ様はこんな男と婚約してるのだろう。という気持ちが顔に出ており、アベルは小さく咳払いをしてコレットを正気に戻した。
「その態度、今の彼女の姿を見ても変えずにいられるのか?」
「……どういう意味だ」
「見てもらった方が早い」
アベルは立ち上がって、フェルディナンについてくるように促した。思いつめた表情をしていたコレットはそれでもゆっくり立ち上がって、二人の少し後ろをついて行く。
カロリーナの家には過去何度も足を運んでおり、アベルはもちろんフェルディナンも部屋の場所を把握している。目的の場所につくと扉の前には、侍女が二人立っていた。フェルディナンの姿を認めると、深く頭を下げる。アベルが侍女の一人に声をかけた。
「カロリーナ嬢は」
「はい、中に。侍女長と執事長が共におります」
物々しい雰囲気に、フェルディナンは眉を顰める。現在カロリーナに何が起こっているのか、彼は何も知らなかった。
カロリーナの様子が変わった、と聞いたのは、カロリーナに突き放す言葉を告げた翌日のことだった。声をかけても無視された、というものがほとんどであったが、フェルディナンは気にしないふりをしていた。
自分が完璧な公爵令嬢などいらないと言ったから、態度を変えたのか。そこまでして気を引きたいのか。そんな傲慢な考えがあったためだ。
そこで絆されたら突き放した意味がないとあえてカロリーナを見なかった。まして、会おうなどとは考えもしなかった。
侍女が扉を開けると、カロリーナは執務机に座ってペンを走らせていた。両親が外交や接待で留守になりがちなベランジェ公爵家では、当然のようにカロリーナが両親に代わって仕事をしていた。
何もおかしなところはないじゃないか、と言おうとして、フェルディナンは息を詰めた。
扉を開き、三人が部屋に入ってきても、カロリーナは顔を上げないでいる。書類に目を通し時々ペンを走らせ、また書類に目を通す。
気づかないはずがない距離にいるというのに、カロリーナの意識は決してフェルディナンたちには向けられなかった。
アベルが執事長に目配せして合図を送ると、初老の執事長は眉を下げて頷き、カロリーナに声をかけた。
「お嬢様。ベランジェ公爵令嬢様」
「……ん。なぁに、じいや」
「アベル様にコレット様、それから……フェルディナン殿下がお越しです」
「まぁ、殿下が? 大変、すぐにおもてなししなきゃ」
立ち上がったカロリーナは笑っていた。笑っていたが、フェルディナンはその顔にぎくりとした。
瞳に、光がない。擦り切れたガラス玉のような目をしていた。
「キャロル……?」
小さな声で名を呼ぶ。だけれどカロリーナは気づかない。
「公爵令嬢様、おもてなしの準備なら私どもが」
「あら、いけないわ。殿下は私の婚約者ですもの、そのくらいのことはさせて?」
「公爵令嬢様、アベル様とコレット様もお越しですよ。どうか準備は任せて、ゆっくりおしゃべりなどなされては」
「……アベル、と……コレット? ……あ、あぁ、そうね、そうだったわね。えぇと……」
カロリーナの視線が動く。コレットが泣きそうな顔をして前に出た。
「ベランジェ公爵令嬢様、コレットはここです」
「――あぁ、コレット。コレット、そう……なんだか、久しぶりのような気がするわ」
「昨日も会いましたよ」
「そう、そうだったわ。最近忘れっぽくてダメね。私ったら……」
「きっと働きすぎなんだよ、ベランジェ公爵令嬢。じいやの言うことは聞いたほうがいい」
「あら、アベル。今日はお客様の多い日ね。そうだわ、とっておきのお茶があるの。持ってくるわね」
「……あぁ、殿下、も、楽しみにしてるって」
「ふふ。殿下と会うのはいつぶりかしら? もう随分会っていないわ」
そう言いながらカロリーナは、「殿下」の横をすり抜けて部屋を出ていった。侍女の二人が静かに、その後ろを追いかける。
フェルディナンは、状況が全く理解できなかった。
彼らが揃って、カロリーナを「公爵令嬢」と呼ぶ理由。カロリーナの瞳から光が消えていた理由。
ただ呆然と、目の前で繰り広げられるやりとりを見ていることしか出来なかった。
カロリーナのいなくなった部屋で、アベルがフェルディナンを振り返る。険しい顔をした彼は、けれど静かに言葉を漏らした。
「わかったかよ、カロリーナ嬢に何が起きているのか」
「……なに、が……」
「……カロリーナ様は、……ご自身がカロリーナ様であることを、理解していないのです」
震えるコレットの声に、フェルディナンは疑問符を浮かべるだけだった。
カロリーナはカロリーナで、それ以外にありえない。だからコレットの言っている言葉の意味が、飲み込めなかった。
じいやと呼ばれていた執事長が、短く息を吐く。
「発言してもよろしいでしょうか」
「あ、あぁ」
「一週間ほど前でしょうか。お嬢様の様子がおかしくなってしまったのは。私どもの呼ぶ声が聞こえてないかのように振る舞うようになったのです」
悲しみを声に乗せて、執事長は語る。
最初は耳が聞こえなくなったのかと思った。慌てて医者を呼んだら、医者の言葉には反応を示した。どういうことかと思ったが、よくよく聞いていると医者はカロリーナを「公爵令嬢様」と呼んでいた。試しに執事長が彼女をそう呼ぶと、驚くことに彼女は反応を示した。だけれどやはり、「カロリーナ様」という言葉には反応を示さなかった。
「それからお嬢様は、いつも以上に仕事に没頭するようになりました。学園での時間があるのですから、執務は最低限、よほど重要なもの以外は後回しで構わないと言われているのにも関わらずです。いつもの二倍、三倍、もしかしたらそれ以上。家で過ごす時間のほとんどを、この部屋で過ごされています」
「学園での様子も変だった。俺たちの呼ぶ声には曖昧な反応なのに、教師やあまり親しくない奴らから『公爵令嬢』って呼ばれるとすぐに反応する。……それから、人の顔の判別もちゃんとついてるか怪しい。俺とかじいやとか、あとはコレット嬢のこともなんとなくわかってるっぽいけど……さっきのカロリーナ嬢、見ただろ。お前に気づいていなかった」
胸がずきりと痛んだ。
執事長とアベルの言葉に、自分がカロリーナに言い放った言葉が頭を過る。
今の僕に、キャロルは必要ない。
まさか、そのせいで?
その言葉のせいで彼女は、「カロリーナ」であることを止めてしまったのか?
「殿下。アベル様、コレット様。お茶の準備が出来ましたので、客間の方へよろしいですか? お嬢様がお待ちです」
「あぁ、すぐに行こう。……フェル、ぼーっとしてんな。行くぞ」
「あ、……あぁ……」
フェルディナンは、気が気ではなかった。
自分の些細な一言で、彼女が、彼女の心が壊れてしまったのだとしたら。
(そんなはずはない、彼女はそんな弱い女性ではない……)
彼の知るカロリーナは、完璧な公爵令嬢だった。芯の強い、まさに王妃に相応しい女性だった。
だから違う、自分のせいではないと、フェルディナンは何度も自分に言い聞かせる。襲い来る後悔という感情から、逃れるように。
客間でカロリーナは、笑顔を浮かべていた。隣に座っているコレットも笑ってはいるが、時折酷く泣きそうな顔を見せる。アベルは苦笑いを浮かべ、フェルディナンも似たような表情を浮かべている。だけれどカロリーナは気にもせず、にこにこと笑って話していた。
「殿下にお会いするのはいつぶりだったかしら。もうずっとお会いしていなかった気がするの」
「……そんなことないさ、一週間前に……」
「まぁ、一週間前? ……そう、だったかしら? えぇ、そうね、きっと……」
カロリーナは、フェルディナンの顔を見ない。そこにいるのがフェルディナンであることすら、時折忘れているような素振りを見せる。
知らず、フェルディナンの手に力がこもっていた。握った拳を震わせて、奥歯を噛みしめる。
完璧な公爵令嬢は、そこにはいなかった。
話す内容も口調もちぐはぐで、要領を得ない。
だけれどその内容はどれも、「公爵令嬢」のものだった。学園での思い出や、他愛ない話ではなく。国がどうとか、市井がどうとかという、友達とする会話にしては重い内容ばかりであった。
耐えられず、フェルディナンが口を開いた。
「キャロ……ベランジェ公爵令嬢、一ついいかな」
「えぇ、何でしょう」
「……きみの、名前は?」
にこにこ笑っていたカロリーナの表情が固まる。ぱち、ぱち、とゆっくり瞬きをして、視線を泳がせた。
「私の、名前?」
「そう、きみの」
「で、殿下、それは、」
戸惑うコレットの声に、フェルディナンは手を上げて制止する。聞かなければならないと思った。……聞けば思い出すのではないかと、安易に考えた。
「私の名前……私……私は、……ベランジェ……」
「それは公爵家の名前だ。僕が聞いているのはきみの名前だよ、……カロリーナ」
ぱちりと、大きく瞬きをする。
彼女は至極、不思議そうな表情を浮かべていた。首を傾げて、光の灯らない瞳で、はっきりと言った。
「いいえ。だって『カロリーナ』は、必要ないですもの」
フェルディナンの表情が強ばる。アベルとコレットは信じられないものを見るように、カロリーナを見つめていた。
「必要なのはベランジェ公爵令嬢ですから。『カロリーナ』はいらないのです。そうでしょう? 殿下。『カロリーナ』の心は、必要ないのでしょう?」
「な……何を、言って……」
「だって政略結婚ですもの。家同士の都合で決められたものですわ。殿下は本当は、……」
は、と、カロリーナが息を呑む。一瞬泣きそうな表情を浮かべたかと思うとぎこちなく笑顔を作って、ふる、と首を左右に振った。
「大丈夫ですわ、殿下。王妃の勤めは果たします。私は殿下の婚約者ですもの」
婚約者の、ベランジェ公爵令嬢ですわ。
彼女は一度も、カロリーナであると言わなかった。それはいらないものだから、必要ないからと何度も言っていた。
それからカロリーナは同じ話を繰り返すようになった。取り留めのない話を、何度も何度も、初めて思い出したかのように。
その間アベルは、ずっとフェルディナンを睨み続けていた。
仕事が残っているから、とカロリーナが執務室へ戻っていった直後、アベルはフェルディナンの胸ぐらを掴んで揺さぶった。
「おい、お前……彼女に何を言った!」
「アベル、」
「カロリーナの名前を聞いた直後の、お前の顔……気のせいだとは言わせねぇ! 何をしたフェル! 彼女に何をっ……!」
フェルディナンは揺さぶられるまま、抵抗しなかった。視線を泳がせ、それからゆっくりと唇を動かす。
「……僕に、彼女は、……キャロルは、必要ない、と……」
コレットがひゅっ、と息を詰めた。冷たくなる指先を握りしめて、フェルディナンを見やる。
「ど、どうして! どうしてそんなこと、」
カロリーナの話題の多くは、フェルディナンのことだった。幼い頃から決められた婚約者だと聞いていたが、カロリーナがフェルディナンを語る声はとても優しく、愛しさが込められていた。両親と同じように愛を育んでいけたら、こんな幸せなことはないと。王妃になるための勉強は大変だけれど、フェルディナンの隣に立つためなら何も苦しくはないと言っていた。
「か、カロリーナ様は、殿下のことが好きだって、とても大切なひとだって……いつも、いつも……」
そのカロリーナにフェルディナンは、そんな冷たい言葉をぶつけたと言うのか。必要ない、などと。彼のために生きていると言っても過言ではない彼女に、そのようなことを……!
コレットの脳裏に浮かぶカロリーナの優しい笑顔に、コレットの胸はこれ以上なく痛んだ。涙が溢れ、止まらなくなる。
アベルは突き飛ばすように勢い良く手を離し、床に倒れ込んだフェルディナンを見下ろして握った拳を震わせた。
「お前、知ってたよな。カロリーナがどれだけ努力していたか。立派な王妃になるんだって、お前を支えられるようにって、小さい頃からずっと……」
知っていた。
彼女が優秀なのは、彼女の努力ゆえのものだと。決して傲慢にはならず、常に謙虚に努力を重ねてきた。
なのに自分は、どうだ。彼女が優秀になればなるほど焦って、努力することを諦めて、勝手に嫉妬して、劣等感を抱いて。
幼い頃、確かに誓ったのに。立派な王になると、彼女に誓っていたのに。
公爵家の一人娘として、当たり前のように政略結婚の道具になった。将来の国母としてかくあるべきと、自分を厳しく律していた。
知らないはずがなかった。ずっと見ていたのだ。
なのに。
「お前は拗ねてたんだよ、不貞腐れてたんだ! だから素行の悪い奴らとつるんで、当てつけのように女に声をかけて! 学生だから? 今だけだから? ――お前は第一王位継承者なんだぞ!」
その通りだ。
自分より先に進んでしまうカロリーナを見ているのが辛くて、耐えられなくて。わざと彼女が不快になるようなことばかりをしていた。
フェルディナンは両手で顔を覆い、項垂れる。
誰よりもわかっていた。誰よりも知っていた。彼女の想いを。彼女が自分へ向けてくれる感情を。その想いに胡座をかいた。最後には結婚するのだからと、思い上がっていた。
アベルはもうそれ以上、何も言わなかった。
部屋の中にはコレットの啜り泣く音だけが聞こえていた。
◇◇◇
カロリーナ・ベランジェ公爵令嬢は、心の病と診断された。
家に戻ってきた両親は娘の様子に、自分たちがここまで追い詰めてしまったのだと悲しみ、彼女に療養の時間を与えた。仕事は最低限にとどめ、出来る限り娘のそばにいるようになった。
カロリーナの症状は、さらに進行していた。
光を失った瞳は、人の顔の判別すらままならなくなっており、「カロリーナ」の話や、「公爵令嬢」の話を脈絡なく繰り返している。
――当然、フェルディナンとの婚約は白紙となった。
フェルディナンは必死に抗ったが、国母となる女性が心を病んでいてはならないと。至極当然の結果になった。
コレットとアベルは、毎日のようにカロリーナの元へ通っている。彼女を、「カロリーナ」の心を取り戻そうと懸命に語りかけた。
彼女という存在がどれほど大切か。自分たちが必要としているのは「完璧な公爵令嬢」ではなく「カロリーナ」であると。
静かに本を読んでいるカロリーナを見つめて、アベルは小さく息を漏らす。
「このままの方が幸せなのかもな」
「そんな……私はカロリーナ様ともっとおしゃべりしたいです」
「それはそうだけどよ。……あぁ、でも、なぁ。……わかってんだ、本当は」
彼女の心を取り戻す方法。
彼女の心を壊したのが彼の言葉であるなら、彼女の心を取り戻すのも、また。
(……わかってんだよ)
彼女の心は、ずっと彼の元にある。変わらず、ずっと。
フェルディナンは、必ずやってくる。決心がついたそのときに、彼女の心を取り戻しにやってくる。
それまで彼女を守るのが自分の役目だ。
彼女の騎士として。
いつまでも、ずっと。アベルに出来ることは、ただそれのみなのだ。
「……私は、カロリーナ様が幸せならいいと思います」
「慰めのつもりかよ。……とっくに諦めてる」
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