明かされる事実
カーテンのない剥き出しのリビング。床に仰向けで大の字に寝転がり、全身で照明を浴びる。二日目の夜、久川の心は虚ろだった。まるで命が終わったしまった生き物のよう。実際それは間違いではないのだと、何をする気も起きない自分の感情を肯定した。
「久川さーん、いますかー?」
鉄柵の嵌められた窓枠から声が聞こえる。応対しなければと気持ちは沸いても、身体が起きてくれない。呼びかける声色からして火急の用件ではないだろうと、そう決め込み周囲に張った意識を緩めると同時、リビングの鉄柵付きの窓が外側から開いた。
「いますね! いなかったら困りますけど。おつかれですか?」
「引き篭もって寝転がってるだけなのに、いつもどおりにお腹が減って、いつも以上に身体が疲れてる。どうしてだろうって考えてたら、またお腹が空いてきた。そんな感じ」
頭に浮かぶ欲求を言い並べただけの返答に、夜間の警備を担う若い管理者の眉根が寄る。
「うーん、とりあえずご飯を食べたら元気が出るんじゃないでしょうか。ここからでは渡せないので、玄関にまわりますね」
どうして最初からそうしなかったのか。いくらプライバシーがなくても、久川はギリギリ少女と呼ばれても変ではない年頃の女性だから、男性の加藤としては事前に入っても問題がなさそうか偵察したのか。まったくズレている。それはそれで立派な覗き行為で、無断で玄関から入ってくることと遜色がない。
そんな迂闊な男が警備をしていて大丈夫なのか。しかし視点を変えてみれば、そんな無防備な加藤が監視しているのは自分なのだ。彼が見張りをする夜間なら、脱走の難度は著しく下がるのではないか。
久川の画策に感づいた様子もなく、部屋に入ってきた加藤は小ぶりの紙袋を座卓に置いた。床から見上げていた久川が上体を起こす。机に置かれた紙袋には店の名前が印字されていて、その文字の並びに久川は見覚えがあった。
「こんなお店、里のなかにあったっけ?」
「ありませんよ。外にある弁当屋から運んでもらったんです。里からはそう遠くないんですがね。珍しいでしょ?」
「昨日も同じやつだった?」
「そうです。高井さんから、今日は味わってもらえるかもしれないと聞きましてね。確かに昨日は心配でしたが今日は調子が――良いとまでは言えませんが、昨日よりは幾分マシに見えます」
「本人的には、マシになってるかわかんないけどね」
わざとらしく添えたため息に、加藤は目を細めた。安っぽい同情の色が瞳に灯る。それが普通なのだろう。不思議なことに、久川の近しい人物は彼女に可哀想な眼差しを向けなかった。天音も、落葉も、春久は同類だから除外するとして、昼間に檻を警備する高井もそうだ。
久川の漏らした深い息は、実際にわざとだ。自分を監視する人物がどれほどの器量か値踏みする試金石だった。
結果は語るまでもなく、第一印象から変わらない。
「高井さんからも言われたと思いますが、やりたいことや欲しいものがあったら遠慮なく相談してください。何でもとはいきませんが、なるべく叶えられるよう尽力しますんで」
「お弁当を食べながら考えてみる」
「それがいいです。おいしいものだって、久川の知らないものがたくさんあると思うんすよ」
「最後の晩餐ってこんな感じなんだろうね」
絶望を演出する受け答えに、加藤は想像通りの反応をした。
どうしてこんなにも素直な人が管理者になったのだろう。世の中に仕事はいくらでもある。社会の裏側で理不尽に目を瞑る仕事なんて、加藤のようなマトモな感性の持ち主に向いているはずもない。
あからさまに暗い表情で顔を背ける加藤の姿を見て、急に湧き上がった疑念の答えが自然と久川の脳内に広がった。
この人もまた影武者と同じだ。違うのは自分から進んで役目を請け負ったこと。誰かがやらなければならない管理者の役目に、自己犠牲の精神で立候補した極端な善人で、大勢から偽善者と罵られるタイプの人種なのだ。
「加藤さんは、いい人なんですね」
捕らえる身と囚われの身。管理する側とされる側。交われど同じ視点を持てるはずのない関係でも、同じ方向を見ることはできる。この世界では生命を授かった日に生涯を通して果たすべき役目を与えられる。影武者も管理者も結局は同じ。生命を授けてくれた世界への恩返しに義務感を抱く律儀な生き物だ。
「……また明日、お弁当の感想を聞かせてください」
賞賛したつもりが、加藤の胸には存外響いた。これから夜間の警備だというのに、疲れ果てた痛々しい笑みを精一杯に浮かべ、床に置いたビニール袋に収められたままの弁当を一瞥して部屋を出ていった。
鉄格子の壁が閉まる音を聞いた。むくりと緩慢に立ち、久川は袋を机にあげて弁当を取り出した。木目調の二段重の弁当箱が強烈な高級感を放つ。その弁当を選んだ男の顔を思い浮かべる。
加藤が相手なら、檻の鍵を奪うのは簡単そうだ。呼び出して部屋に招き、拘束して鍵を奪う。何の心配もなく成功する確信があった。脱獄はすぐにバレるとしても、外に出られればどうとでもなる。里は山に囲まれているのだ。ゲートを通らなくても、外壁さえ越えれば逃げられる。要の外壁にしても、梯子があれば上れる高さしかない。
当然、どこから抜けたって里の外に出ればバレる。里の四方に待機している管理者に捕らえられ、強制送還の後に再び檻に投獄される。しかし久川には全影の能力がある。外に出て化けてしまえば、追跡は極めて難しい。
もしも逃げるなら――親友の久田がいなくなって以来、数え切れないほど逃亡のシミュレーションをしてみたが、呆気ないほど明瞭で結果はいつも変わらない。全影の久川が本気で逃げれば管理者たちに追跡はできない。自由の身は、案外手が届く場所にあるのだと久川は知っていた。
逃げられると知っていても、本気で逃げようと思ったことは一度もない。今だってその気持ちに変化はない。加藤を出し抜ける自信はあっても、実行に移す気は全くなかった。
親友の久田の犠牲を無駄にしないためにも、久川には悲しみの連鎖を断ち切る決死の覚悟があるのだから。
箸を割り、久川は弁当から米やおかずを小さくすくい、一口ずつ噛み締めるように味わった。昨日は感じなかった美味しいの感情が、久川の味覚を刺激する。
さっきまでわからなかった最後の晩餐の意味が、少しだけわかった気がした。
◆
弁当を食べ終えたあと、暫くしてまた訪問者が現れた。朝は高井、日が沈む頃には加藤が来て、一日の終わりに顔を出したのは天音だ。
天音はゴミ箱に突っ込まれたビニール袋で縛った空の弁当箱を見て、結び目の先端を釣り上げるようにして持った。
「ゴミは回収していこう」
「そのためだけに?」
「ゴミの回収というのは、様子を見にいく良い口実だろ?」
本当にたったそれだけのために来たらしく、天音はゴミ袋を拾うなり踵を返した。
「ちょ、ちょっと待ってっ!」
久川は慌てて追いかけ呼び止める。リビングから漏れる明かりが差し込む薄暗い廊下で、大小の影が向き合う。
「私がしたいことをできるだけ叶えてくれるって管理者達に言われたけど、おじさんの指示?」
「俺は特に言ってない。二人とも個人的な感情から言ったんだろうな」
「じゃあ、実際に私がお願いをしたらどうする?」
「それぞれが個人にできる範囲で対応してくれるんだろ。俺に訊かれても困る」
「おじさんにお願いがあるって言ったら?」
「内容しだいだな」
天音はゴミ袋をぷらぷらと揺らす。
「うまい飯を食べて、残りの生活を前向きに考えられるようになったか」
「どうかな。すごく未練がましいお願いなんだけど」
「会いたい人がいるとか、か?」
これから世界とおさらばするのに、いまさら誰かと会ってどうする。
それでも会いたいと願ってしまうのは、未練がましいことこのうえない。天音は相変わらず看破していた。人が最後に願うのは深く考えるまでもなく、誰かに会いたいとか、そんなものくらいなのかもしれないが。
誰に会いたいかまで天音は悟っていそうな顔をしていた。
「お母さんに会いたい」
案の定、天音は驚いた顔をした。別の人物の名前を予想していたようだ。
意外だったのは、その驚きがすぐに引いたこと。天音はしばし視線を斜め上に投げて目を閉じ、今度は彼が久川の反応を窺うように彼女の瞳を覗き込む。
「会いたいか?」
完敗だった。久川の鼓動が爆発して、余裕を保とうとしていた思考が白くなる。
久川の母親は、父親が影武者として命を捧げて以来、同じく影武者の運命を辿る久川を置き去りに里を出た。一度里を出た者が例外なくそうであるように、彼女もまた帰ってこず、行方不明の状態が現在まで続いている。久川が聞いた話では、里を出た影武者の親は子供を残して逃げた罪の意識から逃れられず、人知れない場所で命を絶つ人が多いそうだ。自分の母親がどうだったか聞いたことはない。真実を知るのが怖かったから。だからせめて、最後に自分の母親の結末を知っておこうと「会いたい」なんて回りくどい聞き方をしたのに。
天音の返答は、久川の想像を覆した。
「悪く思わないでほしい。訊かれない限り、里を出た者の状況は答えないというのが管理者側のルールでな。久川くんから尋ねられたのは初めてだから、こんなタイミングでの告白になってしまった」
「ずっと、どこにいるか知ってたの?」
「一応は国家が管理している組織だ。常にとはいかないが、かつて里に関係していた連中は全て監視下にある。管理者側の人間も例外じゃない」
「ほんとうに、会える……?」
久川の感情は目隠しで適当に具材を放り込んだ鍋のようで、自分でもわからない。母親に会いたかったから天音に願ったのではない。残酷な運命から目を背け、我が子を置いて逃げた母親がどういった結末を迎えたか知っておきたかっただけ。興味があったのではなく、聞いておくべきと思うだけの色のない義務感が質問した動機で、知っておかなければ死にきれないと感じただけのこと。
単に知りたかっただけなのに、とうに同じ空の下にはいないと決め付けていた母親に会えるという。突如として突きつけられた想像を逸脱した真実に戸惑いを隠せない。
「しかし、柊くんから聞いてなかったのか?」
このうえ何を言い出すのか。答えようのない問いかけに声も出せず、わけがわからないまま首を小さく横に振る。
「そうか。まぁ、聞いていれば俺に一言くらい罵言を浴びせに来ていそうだもんな」
「意味不明なんだけど……なんでお母さんの話にキフユが出てくるわけ?」
「武林という名前に聞き覚えはないか?」
覚えている。落葉が恩人だと言っていた人物だ。
久川にとっては目の前にいる落葉が大事で、彼を取り巻く環境にさほど興味がなかった。血の繋がっていない他人と一緒に暮らしているなんて相当に特殊だと思ったが、それで落葉に向ける感情を変えたりなんてしない。いずれ仲が深まれば、あるいは余命が明瞭になったら訊こうとぼんやり考えているうちに、彼と離れてしまった。
だから、武林について久川は尋ねていない。
どうして落葉は言ってくれなかったのか。
「柊くんが『武林さん』と呼んでいたのは、君の母親だ」
落葉が隠し通した理由に、久川は思い至れなかった。
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