生の定義
春久が派遣されていたのは裕福な国ではなかった。一日に三度も食事を摂れるのは限られた成功者に限り、大半の国民は過酷な労働に不釣合いな薄給を文句も吐かず受け取り、粗末でも日に二度食べれたら幸せを感じられる環境だった。
けれど、世界規模で見ればその程度は珍しくない。
恵まれた国に産まれた落葉では当事者たる某国の民の前で偉そうに弁舌を振るうのは憚られるが、裕福と呼べる暮らしができている人は少数派だ。自宅のトイレで水が流れれば充分に贅沢と言えるくらい、世界には貧しい生活を強いられている人が多い。
過酷な環境を生き延びるために、人々は心の支えを求めた。春久が化けていた人物は生前、国民の心の拠り所となって適度にストレスを取り除き、国家転覆に繋がりかねない大規模な暴動を抑止していたのだ。平和を願った一人の男が立ち上げた宗教が数え切れないほどの信者に安寧を与えた。
国にとって欠けてはならない男が重病に倒れたのだから、世の中は残酷だ。男を支えていた国家が他国で治療を受けさせようとしたが、既に時間は切れてしまっていた。男の病が身体の深奥まで侵攻していたのは、長い間不調を隠して信者を支え続けた代償だった。
間もなく男は亡くなったが、国家はその事実を隠蔽せねばならなかった。でなければ、心の拠り所を失った信者が妄想を膨らませ、国が男を見殺しにしたと突飛な結論に達する可能性も低くはない。
男は元々、身の安全のためにローブで顔を覆っていたから都合が良かった。貧しい国ゆえに顔の造形まで模倣できる優秀な影武者を借りれる資金はなかったが、片腕だけなら格段に安く、暴動を抑え時間稼ぎをする間に鎮圧準備にも費用を充てられる。影武者は声を似せられないから、病気で喋れない設定にした。喋らずとも、本人だと確信さえしてもらえれば納得させられる。あらかじめ病気だと触れ回っておけば、実は重病に冒されていて亡くなったと数ヶ月遅れても説得力がある。
春久は時間稼ぎ要員として仕事を依頼されていたと、尋ねた落葉に天音はそう説明した。
「予想外だった。病に苦しむ教祖サマを救おうと、歪みきった善意から信者が自爆テロをしかけるなんて……」
一方的な善意は時に悪意を凌駕する。天音の語る理不尽が過ぎる動機が、春久小太郎の死因となった。
◆
「
いつかの公園。一週間前には、確かに春久と話した。
春久は未来の心配をしていた。影武者なんてものを使って利益や他国の信頼を得ようだなんて残酷で間違っている。この狂った仕組みを撤廃できないものかと、初対面の落葉は縋るように相談をされた。明日には影武者として派遣されるとわかっていたはずのに、春久から死に対する不安は感じられなかった。
あのとき、落葉は彼の満足する回答をできただろうか。自分の受け答えが彼の死に繋がったわけではない。落葉が彼に指示をだしていたわけではないのだ。ただ、この世を去る前に彼の憂慮の一端を担えていたか。一人で悩み続けてきた彼に、希望を与えられていただろうか。
答え合わせをしたくとも、正解を知る者とはもう会えない。
「死ぬなんて思ってなかったんだよ、タロウは」
あの日と同じように、ジャングルジムの天辺に腰かけた久川が言った。落葉はあの日に春久が握っていたパイプに背中を預け、頭上から降ってくる声に耳を傾ける。
「死を覚悟してないなんて、よく考えたらおかしいよね。あーしたちは死ぬために生まれたのに……それは普通の人も同じか。なんて言えばいいんだろ。あーしたち、何のために生まれたのかな」
泣いてはいなかった。声の響きが悲痛なだけ。それだけで、落葉の心は抉られた。
春久は落葉に救いを求めていた。影武者という残酷な仕組みを壊してほしくて、影武者として生きる必要性を消してほしくて。管理者側にいる落葉になら、自分たちでは届かない場所に届くと期待してくれていた。
落葉にも彼に応えたい気持ちはあった。
間に合わなかったのだ。胸中は、春久に彼の知らない景色を見せてやれなかった後悔で破裂しそうだった。。
「ごめん、お葬式をしない理由はよくわかんない」
「いいですよ、謝らなくて。話の糸口を探して訊いただけです。だいたいの理由は、天音さんから聞いてますし」
「正直すぎるし。喋るきっかけなんて、そんなの言わなくていいのに」
彼女らしくない返答だった。そんな些細なことを気にする性格ではないはずなのに。
「でもさ、嬉しかったよ。すぐに来てくれて」
春久の死を告げられた落葉は、その場にいた高井と名前も知らない春久の死を告げた同僚に断りをいれて久川の家に走った。どんな名目で失礼したのかはよく覚えていない。たぶん、ふたりの同僚に落葉の焦りは伝わっていなかった。『久川さんのところに行かなきゃ』とか、有無を言わせない感じだっただろう。
春久の死を伝えても、久川は冷静だった。彼女も心のどこかで春久が死を危惧して、覚悟していたのだ。落葉もそうだった。春久が死ぬ危険に鈍感だったのは本人だけだ。
春久の亡骸は今朝帰ってきていた。火葬される前に別れを済ませようと、落葉と久川は里の入口に向かい、全身が焼け爛れながらも顔だけは比較的綺麗なままの春久だった存在と対面した。変色した左腕だけ骨が浮き上がるほど痩せこけ皺だらけなのは、最後の瞬間まで彼が役目を果たした証左だった。
落葉は天音に彼の亡くなった経緯を確認した。久川は瞼を閉じた春久の亡骸に質問を投げようとして、二度と返答をもらえない事実に気づいて口を噤んだ。久川は涙を流さなかった。
公園に行きたいと言い出したのは久川だ。春久と会った最初で最後の日に三人で歩いた道を、一人が欠けた状態で歩いた。道中、彼女も落葉も一言も喋らなかった。一人が欠けて、ふたりの間にあった言葉のいくつかも失われてしまった。
ようやく落葉の口から出た話題が、先の葬式についての質問だった。
「あーしはわかんないけどさ、タロウが前に、お葬式をしない理由を話してた。タロウが行ってた国ではお葬式があるんだけど、亡くなった人と近しかった人たちがわんわんとお墓で泣くんだって」
久川の育ってきたこの国でも、里の敷地を一歩出れば同じ風習があることを彼女は知らない。
「死に向き合うから、みんな悲しくなる。でもそのあとで、みんな亡くなった人の分まで生きたいと願うんだって。高齢で寿命をまっとうしたなら、せめてその人と同じ歳までは生きたいとか。そうやって必死に生き抜く覚悟をまた固める」
「ですが、里の事情を考えるとそのような覚悟は……」
「うん。タロウもそう言ってた。影武者に長生きしたいと思われると都合が悪いから、お葬式をせずに『立派に務めを果たしました』とだけ告げて、他の影武者にも立派に死にたいと思わせようとしてる。それが管理者の目論見なんでしょ?」
「立派な死を目指すのは間違いではありません」
久川の眼差しが鋭さを帯びる。彼女から明白な嫌悪感を向けられるの初めてだ。
「キフユ、やっぱり管理者側なんだね」
「若くして亡くなることを肯定しているわけではありません。春久さんの推察も、だいたいはボクが天音さんから聞いた内容と同じです」
「殺されたんじゃないんだよね?」
自信のない声色。そんなはずはないと自己否定しながらも、小さく開いた唇から零れ落ちた一言は剣呑とした響きを放つ。主語はなくとも、誰を犠牲者と考えているかは明白だ。
落葉は顔を背けて否定した。断言してもいい。事実は彼女の妄想を肯定しない。
「『殺された』のは報告にあった通りです。久川さんが疑う相手は理解しているつもりですが、まずありえないとボクは思います。春久さんには反感がありましたが、里の仕組みを変えられる力はありませんでしたし、ただ一人が国家転覆を目論んだところで国は相手にしません。春久さんは文句を並べつつも影武者としての役目から逃げなかったわけですから、多少の愚痴で働き続けてくれるなら、むしろ国とっては助かっていたでしょう。
春久さんを手にかけたのは例の宗教団体の信者との話ですが、加害者に殺意はあっても悪意はなかったようです。恐ろしいことに、生活を続けられなくなるほどの窮地に立たされたその信者にとって、死を迎えることが最大の救いで、人生における最大の幸せとなってしまった。己の歪んだ価値観と信仰心が混ざり合い、崇拝する偉大なる教祖サマにも救いを与えたいと人生最後の願いと感謝を原動力に事を起こした。自分が生きた意味をひとつだけでも残したかったのでしょう」
「馬鹿げてる。身代わりだってバレたからじゃないんだ」
「簡単にバレる生半可な能力ではないと、久川さんならわかるでしょう?」
「タロウが変えれるのは腕だけだったから。いくら特徴があったとしても、腕だけじゃあ疑われるのがフツーだと思って」
「そうでもありません。たしかに普通ならわかりませんが、彼と彼を取り巻く環境は特殊でした。相手が知り合いか判断する時、久川さんはどこを見て判断しますか?」
ジャングルジムの頭上から目を向けられる。落葉が合わせると気まずそうに目を伏せ、控えめに唇が動く。
「顔……? 考えたことなかったけど」
「ボクもそう思います。憶測ではありますが、世の中の大勢が顔で相手を認識しているでしょう。顔を判断材料にするのは、特徴的なパーツが多いからです。とはいえ顔の一部分、たとえば鼻を見ただけでは、よほど稀少な造形の持ち主でなければ特定は難しい。顔で判断とは、実のところ髪、眉、目、耳、鼻、口、輪郭など多くのパーツを同時に確認しているのです。ただ、顔以外では相手を特定できないわけでもありません。顔の確認と同等に集中すれば、片腕にしたって毛の量や濃さ、掌の大きさや指の長さが、その人の唯一無二だと気づけます。加えて掌には手相があります。普段から注視していれば、腕を見ただけで本人か判断は可能なのでしょう」
一息に捲くし立て昂ぶった気持ちを、落葉は軽い息をついて落ち着ける。
「春久さんは手相も変えていたのですからバレようがなかったでしょう。身体の他の部分を隠蔽するローブを奪われたら一発アウトでしょうが、春久さんに身代わりを依頼した方たちが隠し通しました。対策をしていても、残酷ですが天災のような個人の凶行に見舞われ命を落とすことはあります。影武者でなくても、この瞬間にも理不尽に死を迎えている人がいるのです」
しかし今回の件に関していえば、影武者なんかにならなければ助かった命だった。春久小太郎は閉鎖された里で影武者として生まれ、影武者として死ぬしかなかった。他に生き方はなく、他の道を選びたくても許されない。彼が春久小太郎である限り。
「なんだっていいよ。タロウは殺された。ちゃんと身代わりになってさ。相手はタロウだから殺したんじゃない。それって役目をこなせたってことで、喜ぶべきなんでしょ?」
答えられなかった。落葉は管理する側で、命の価値は低い。命とは、その価値が低ければ低いほどに安全が保障される破綻した仕組みだ。価値ある命の使われ方に正解があるとして、そのひとつが影武者という形だとしても、落葉には腑に落ちない。
「わたしたちって、生きてるっていえるのかな……」
落葉が答えるまでもなく、影武者の一人である久川は悟っていた。生まれてから今まで、一日たりとも忘れられなかった己の使命でありながら、正しいと知りながら否定したい。成長して、あるいは慣れて隠すようになった本音を零した久川の一人称は普段と違っていた。
軽い調子で振る舞い、人生を豊かにしようと己自身を騙しているのだろう。
「てかさ、生きるって結局なんなの? いろんな人がいろんなふうに言ってるけどさ、納得できたことは一度だってない。生きるってなに? 呼吸すること? 朝起きて夜寝ること? おばあちゃんやおじいちゃんになるまで死なずにいること?」
今度は明瞭な問いかけ。変わらずジャングルジムの天辺に腰掛ける久川と視線が交錯する。
強烈な眼差しから逃げず、落葉は頬を緩めた。久川の緊張した顔が意外そうな驚きを帯びる。
「ボクも昔、生きるって何なのかを考えた時期がありました。といっても、今でもたまに考えるんですけどね。たぶん誰もが考えるのでしょう。考えて、だけどわからないから気にしないようにする。そうではなければ、達成が困難だから目的が見つかっていないフリをする。どちらも等しく“生きている”と、人々を導く偉大な方は言いそうですね」
「キフユもそう思う?」
即座に首を振った。久川の動揺が増す。
「薄っぺらい意見ですよ。そんなに甘くありません。ボクは自分で見つけました。そうやって自分自身で意味を見つけ、納得して、達成しようと奮闘する行為が生きてるって概念なんだと信じています。春久さんは生きていました。里の仕組みや影武者の存在に疑問を持って、反対の意思を固め、行動を決意してボクに相談した。彼は何かを変えようと奮闘していました」
「じゃあ学校で洗脳されたみんなも生きてるってわけ? 世に役立つ重要人物の身代わりになれるなんて素晴らしい! 喜んで役目を引き受けます! ――だなんて、誰かのために存在してるだけなのに?」
「洗脳は言いすぎです。きっと皆さん納得しています。影武者という立場を理解して、命の使い方に納得したからこそ進んで犠牲になるのでしょう」
里に来てから今までに、何度か登下校する生徒を見かけた。話を聞いたわけではないが、遠くから見た限りでは外の世界の子供と変わらなかった。下校時は無邪気に友達と談笑していたり、登校時は眠そうに眼を擦りながら学校を目指していたり。
『洗脳』を咄嗟に否定したが、実のところ落葉も同感だった。ただ、洗脳で植えつけられた理由だとしても、本人が納得しているなら口を挟んでもしかたない。
落葉が同調してくれず不満なのか、眉を歪めた久川は不機嫌を隠すように顔を背ける。
「キフユの生きる理由ってなに?」
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