避けられない運命

 久川の自宅を出た落葉は、役所から歩いてきた道を戻り、途中で一本逸れた。落葉に割り当てられた家は、役所から徒歩で五分くらいの距離にある。久川の家とは時間にして十分ほどしか離れていない。

 初日は挨拶程度に留めておこうと言って久川との初対面を終えた。世界の終わりのような赤みがかった夕日を横顔に受けるが、眩さは気にならない。眩しさを気にする余裕がないほど、考えるべきことが多かった。

 久川楓について、落葉は里に来る前から話を聞いていた。主には天音からだったが、落葉の育ての親である武林も久川について教えてくれた。武林も里に興味を持っていて実際に住んでいた時期もある。その繋がりで天音とは知り合いで、落葉が管理者となるきっかけになった。


 昔の久川は、控えめでおとなしい真面目な子だった。別段目立つ性格ではなかったが、優等生とまではいかずとも充分に優秀と評価されるだけの能力があり、学校生活にストレスを感じている様子でもなかったというのが天音の見解だ。

 そんな天音の予想に反して、久川は学校を辞めた。彼女の決断を、彼女の周りにいるあらゆる人が意外だと目を丸くした。久川楓は学校を中退するなんて大胆な決断を下せる度量など持ち合わせていない。誰もが彼女をそう認識していたから。その根拠はひとつ。彼女は昔から、親友だった久田碧に付きっ切りで、自分から何かをしたいと望んだことさえなかったから。

 久田が提案した遊びに乗っかり、久田に頼まれれば断らず、困れば久田に助けを求め、悩めば久田に相談した。自分で生きる能力の欠落を当時の天音は気にしていたが、影武者には無縁な要素と割り切った。久田に文句がなければ、自由にさせようと考えていたらしい。


 久川は、久田が影武者としての使命を果たしたあとも何も求めなかった。

 親友を失って二年が経ち、久川は中学生になった。たまに同級生の半影が依頼に応じたきり帰ってこないこともあったが、唯一の全影である彼女に向けた依頼は皆無で、平穏だった。牽引する久田を失い同級生に干渉しなくなった久川は、必然的に干渉もされなくなった。そんな状態で一年を過ごした末、久川は中学校を辞めたいと言い、天音は学校の責任者から承諾してよいのかと相談された。

 天音に逡巡はなかった。好きなようにさせてやれ、とだけ伝えて快諾した。落葉からしてみれば退学を快諾なんてまったく頓珍漢である。

 事前に聞いていた過去と今日の実体験。ふたつを関連付けた初日の活動報告を書き上げきろうとしたとき、ジリリリリッと甲高い音が部屋に反響した。部屋に最初から繋がれてあった電話機だ。音の振動が機械を載せた台をぶるぶると揺らしている。椅子を立ち、なんと答えようか迷いながらも受話器を手に取った。


「はい、えぇと、柊です」

「おつかれ。君が尊敬してやまない上司だよ」


 案の定、といった具合だった。直で話すより、天音の声は高く聞こえた。


「おつかれさまです。ひとまず久川さんに挨拶は済ませてきました。天音さんの言っていたように学校には行っていないですが、不良というわけでもなさそうですね。見た目は少し派手でしたけど」

「彼女なりに色々と考えた結果、学校に行かない選択をしたそうだからね」

「学校が嫌いだから行かない、ではないんですね。楽しいからこそ行きたくない、と」


 そう語っている間の久川の鎮痛な面持ちを思い出す。

 受話器の先で、天音は興味深そうな声をあげた。


「初日でそこまで話してくれたのか。気に入られたようだね。俺にその話をしてくれるまでは一ヶ月くらいかかっのに」

「歳が近いゆえの親近感があるからじゃないですかね。彼女、同年代の友達がほとんどいないそうですし、そのせいもあるかもしれません。自分と同じくらいの歳の相手に、自分がいかに過酷な運命を強いられているか知ってほしかった、あるいは教えたかったのかもしれません」

「そこまで自己顕示欲の強い性格ではないと思うけどね。ちょっとした下心のようなものがあるのかもしれないな。まず自分を知ってもらって、何か相談したいとか」

「初対面どころか、里に入ったのも初めてな何も知らないボクに?」

「何も知らないからこそ都合が良い場合もあるだろ?」


 たとえば……と呟いて天音は沈思黙考する。すぐに喋る気配がないから、受話器を耳から少し離して肩の筋肉をほぐした。ゴリゴリと音が鳴る。そういえば運動をご無沙汰気味だ。


「たとえば、里を抜け出す相談とか」


 背筋に冷たい感覚が走った。駆け抜けたと表現したほうが適切か。それくらい一瞬。そうでなければ声に動揺が出てしまうから、驚愕が表面に出る前に鎮圧する。

 通話だから相手の顔は窺えない。確信をもってか、デタラメか。

 久川と歩いている間、天音だけではなく管理者側と思しき人物の姿も周囲には見当たらなかった。だからといって久川に際どい質問を投げた事実を知るはずがないと判断するのは楽観が過ぎるか。監視カメラに盗聴器など、影武者の行動を監視する手段がどれだけ配備されているかを落葉は知らない。知りたいと願いでても、天音は馬鹿正直には答えないだろう。

 監視する仕組みが構築されているなら、管理側の離反者を炙り出すために活用することも充分に考えられる。


「アレ、俺の声届いてる? 柊くん?」

「ああ、失礼しました。天音さんがいきなりドぎつい憶測を話すので混乱してしまいました。久川さんは脱走を企てているんですか?」


 『ボクが彼女を連れ出そうと?』とは答えないように気を張った。天音はいやいやとおどけた様子で続ける。


「ちょっとしたジョークだよ。久川くんに限らず、影武者は名誉ある命の使い方に納得しているはずだからね。ただまあ、我々のような誰でも代わりのきく人の感覚からすると、逃げ出したいと感じることもあると思うだろ? 俺はここに来たばかりの頃、何人かに質問したんだ」

「囚人が看守に対して、バカ正直に逃げたいなんて言いませんよ」

「監獄に喩えられるのは良い気がしないね」

「すみません。でも、脱走したいって思う人もいるだろうと思います」

「それが普通だよ。俺もそうだった。間近で彼女たちと触れ合って考えを改めたがな」


 あえて柔らかい表現を心がけているのか、それが彼の人柄なのか。落葉はまだ彼の本質を看破できるだけの確信を得ていない。この男は、影武者をどんな存在だと考えているのか。


「その口ぶりだと、影武者全員が自分の務めに納得しているんですね。天音さんの察している通り、来たばかりのボクにはいまいち腑に落ちませんが」

「ここで過ごすうちに徐々にわかっていくだろうよ。里の内側は外の世界とは別物だ。景観こそ同じだが、流れる空気も常識も違う。実感して慣れる頃には、柊くんも立派な管理者になってるだろうな」

「残念ながら、世間からすればあまり褒められる生き方ではないんでしょうね」

「世間から切り離されているんだから、気にすることはない」


 乾いた笑いが受話器から響く。達観しているのではなく、開き直っているように落葉には聞こえた。


「しかし柊くん、随分と世間体を気にしてるみたいだな。君は管理者になることを望んでいたのではなかったかい? 念願が叶った初日だというのに、君の口から出るのはマイナス要素ばかりだ。嬉しそうな感想を求めて電話をかけたんだがね」

「嬉しいとか楽しいを求めて望んだわけではありませんので。ボクは何も知らず暢気に平和を謳歌するより、世界の裏側にあるものを知りたかった。平和ボケした人は興味も持たない、平和を維持しているものの正体に関わりたかったんです」

「それで、実際に目の当たりにした感想は?」

「意外なほど穏やかで驚きました。影武者には役割を強制していると想像していましたから、影武者は厳重な管理のもとで監視されているのかと」

「最低限の監視はしてるが、我々の役目に支障がなければ干渉しない決まりにしている。服従ではなく協力関係にあるつもりだからな。俺を胡散臭いとか単に臭いとか罵っていようが聞かぬフリだ。陰口で気分が晴れるなら歓迎だしな」


 その言葉を鵜呑みにしていいか、疑うべきか。落葉は受話器を持っていないほうの手で頬杖をつく。

 天音の声が途切れる。落葉の意見を待っているのだ。落葉は胸の内にある階段をひとつあがり、一歩踏み込むと決めた。


「協力関係を築くには上っ面だけでなく、本音を共有すべきとボクは考えています。だから、久川さんにはちょっと攻めた質問をしたんですよ」

「ほう。どんな質問を?」

「ここを抜け出す意思があるか確認しました」


 重い空気が天音側から漂ってくる。彼とは電話線を隔て離れた場所にいるのに、受話器から張り詰めた空気が流れ込んできているかのよう。気のせいか、少し息苦しい。

 天音はなるほど、と相槌を打った。


「俺のジョークに動揺した感じがあったのは、実際に本人に確認していたからだったか。久川くんとは初対面だろ? 確かに随分と攻めたな」

「役目に納得していなかったら警戒しなければなりません。天音さんの教育の賜物らしく、そんな気は微塵も感じませんでしたが」

「最初に言ったように、影武者は己の人生の在り方を理解してる。人生は過程が自由でも、終わりと始まりは選べない。外の世界の人々とその点は変わらない」

「久田碧さんも、役目を果たすことを迷わなかったんですか?」


 天音は今度は驚かなかった。久川が初対面の相手に亡くなった友人との思い出を紹介することは不自然ではないようだ。


「久田くんはまだ小学生だったが、自分が何者かを理解していたよ。遠い国の身分の高い女性の身代わりになる人生の終わり方を受け入れていた。送り出す側の俺たちは、何度経験しても慣れないけどな」

「送り出す『俺たち』に、きっと久川さんも含まれていたんしょうね」

「本当に仲が良かったからなぁ。全影の能力を継ぐ二人は生まれた頃から一緒に育って、本当の姉妹のようだった。互いに始祖の血筋だから、親戚ではあるんだけどな」

「久川さんがいなくなれば全影の血は完全に途絶えますから、しばらくは要望があっても応えられない状況なわけですよね?」

「そうだといいんだが、色々あってなぁ」


 ボヤく天音に、落葉の胸が騒ぐ。歯切れの悪い彼の反応は何だろう。久川は里に一人しかいない貴重な全影の能力者で、お腹に後継者がいるわけでも、既に一児の母になっているわけでもない。現段階では絶対に犠牲にはできないはずなのに、どうして天音は明瞭に肯定しないのか。

 落葉の脳裏を巡る疑念に、天音は質問されるより先に答える。


「実はね、彼女の能力をどうしても借りたいと言っている国があるんだよ。今は無理だと抑えているんだけど、じゃあいつなら可能かと催促されていてね。本部で絶賛検討中だ。どうやら、これっきりで全影が絶滅しても構わないと主張する人もいるらしい」


 認識が甘かった。落葉は受話器を落としそうになるのをこらえ、久川の顔を思い浮かべる。

 残酷な運命が待っていようとも無邪気な笑顔を振りまいて、久川は限りある自由を楽しもうとしている。本当は無邪気でなんていられるはずがないのに、それでも精一杯前向きに生きようとする彼女の生き様は落葉の目に眩しく映った。

 その命が、本人の意思を無視して奪われようとしている。

 受話器を握る落葉の手が、みしみしと音を立てていた。

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