騎士ではなく

「それはなんというか……非常によくないのでは?」


 危険信号が赤色で明滅を繰り返す。久川は今年で十八になると聞いている。それでいて学校を辞めているから学生でもない。立派な大人だ。本人が許可すれば同居しても問題はない。落葉の心配は置いておき、法律的には。

 天音はクリップで留められた書類の束を差し出した。《国家重要人物警護区画の管理について》と表題にある。


「あと、こっちも」


 別の束を手渡される。今度は《影武者管理機関について》と書かれていた。


「事務的な手続きだ。汗水は流さなかったけど、覚えたたてのパソコンで一生懸命作った資料だぞ。君も組織の一員に加わる儀式と思って目を通しておいてくれ。ま、ただ読んでも退屈だろうから、俺が話した内容が合っているか確かめながら読み進めてみるといい。俺に対する不信感も払拭できるだろう」

「退屈だったらそうします」


 抑揚のない声で受け流す。落葉は受け取ったばかりの束の表紙に目を落とした。


「国家重要人物警護区画、ですか。随分と長ったらしいですね」

「ここにいる連中は大概、この場所のことを『里』と呼ぶ。だが『里』じゃあ事情を知らないとちんぷんかんぷんだろ? 長ったらしいが説明的。それが正式名称ってやつの役割だ」

「不毛な指摘ですが、『里』のほうが先で、あとからその長い名前を付けたのでしょう?」


 テーマパークを彷彿とさせる広大な敷地に囲まれた小さな町――ここにいる者は自分たちの暮らす土地を『里』と呼ぶ。古くから〝影武者〟の一族が居を構えるこの土地は、歴史の始まりから影武者の里と呼ばれてきた。

 発祥より影武者の存在は常に秘匿されてきた。それゆえにその存在を知る者は少ない。『里』という名称も同様で、国から管理を任された限られた関係者たちにより綿々と受け継がれ、現在に至る。


「ご指摘はごもっとも。現在の正式名称は後付けだ。大勢に詮索されても面倒なのでな、ある程度は『ふーん』で聞き流してもらえるような名前で紹介と説明を兼ねてるわけだ」

「〝彼女〟はそうだとして、他にはどれくらいの生き残りが?」

「ちょうど五十人だったのが、三日前に一人消費して四十九になった。キリの悪い数字はどうも落ち着かないが、こればっかりはどうしようもない」

「その人たち全員、この役所で管理を?」

「管理はな。俺たちの仕事はそれだけじゃあない」


 その質問を待っていたと言うように、天音は椅子に座りなおす。


「里では影武者の斡旋はしない。ここで担当する業務はごくありふれた退屈なものだ。里はそれなりに栄えていても人口的には限界集落と変わらん小さな町だからな。管理する側もされる側も生活を営む以上、それを陰で支えてやる縁の下の力持ちが必要で、ここが役所と呼ばれる所以はソレだ」

「それなら、里では影武者の個人情報すらないわけですか」

「住所に電話番号、学歴や家族構成、一般的に市役所にありそうな情報は全て揃ってる。一応、役所なんでな」

「そういうわけではなくて」


 落葉の追撃を天音の手のひらが遮る。


「わかっている。柊くんの想像してる通り、ここに影武者が活躍した履歴や、どこの誰のために命を捧げたかなんて情報はない。犠牲になれば住民名簿から抹消して、それで業務終了だ。生きていた証は、外の本部で保管されてる依頼主との契約書くらいかもしれんな」


 生を受けた環境が悪かった。それだけの理由にしては惨たらしい運命。

 罪を犯したわけでもなければ、選択を間違えたわけでもない。後悔しようにも何を後悔すればいいのかさえ誰にも答えられない。

 影武者の子供として生まれ、影武者の能力を継承してしまえば当たり前の人生は許されない。道具のように管理され、道具のように使い捨てにされる――そんな影武者の境遇を知れば、自由を許された一般人の多くは哀れみを向けることだろう。

 落葉は別の考えを持っている。目的もなく生き続けるのは苦痛で無意味で、人生に意味がなければ死んでいるのと変わらない。けれども、生きる目的と出会うのは案外難しいものだ。子孫を残し育む行為が最も納得される目的だろう。確かに次世代に命を繋ぐ行いは生物としても素晴らしいが、それだけで人生を終えるのは勿体ない。

 しかし、やはり人生の目的を見つけることは難しい。やりたくとも、自分にできなければ願望は成立しない。では自己研鑽すればいいと思えば、人生は一般的に年齢を重ねるにつれて自分の時間は失われていく。だから、他人に胸を張れる大業を為すのは困難なのだ。

 世間の人々が生きる意味を見出せず苦悩する裏側で、影武者の一族に生まれた者たちは生まれながらにして最終目的を与えられる。生まれた瞬間から自分が何者なのかと苦悩するストレスを免除されるのだ。


 それがどれほどの幸福か。


 何者にもなれず死にゆく人々には羨ましく映るだろう。誰かの身代わりとして生まれるとは、憐憫だけを向けられるほど悲劇的ではない側面もある。大業を果たして死にゆく様は、一部からは羨望されもするだろう。

 落葉は昔、そんなふうに考えたてみたことがあった。

 世界の裏側には影武者として生きている人々がいると、恩人の武林恵理奈から初めて教えられた頃に。


「影武者が多く住まう里でも〝彼女〟は特別なんですよね?」

「事前に説明した通りだ。当面は彼女が使命を果たす日は来ないから、長い付き合いになるかもな。互いに挨拶は済ませたようだが、第一印象はどうだ? 気に入ったか?」

「想像していた女性とは真逆でした。誰かの代わりとして死ななければならないのだから、もっと暗く、心を閉ざしているかと。予想に大幅に反して、底抜けの明るさを振り撒くギャルでしたけどね」

「幼い頃は柊くんの当初のイメージとさほど変わらなかったんだがな。何があったのか、中学時代に容姿をがらりと変えてしまった。その後も徐々に暗く心を閉ざしていた性格を方向転換させ続け、一年前には今の感じになった。何に影響されたのかは知らんが」


 久川楓が派手な格好をするようになったのは最近のこと。一年前であれば彼女は高校二年生。服装はともかく、髪を茶色に染めるのは学生の身分に適しているとはいえない。いえないが、問題はない。落葉は事前に、久川が中学二年の頃から学校に通わなくなった事実を天音から聞いていた。退学後、その事実を話した張本人である胡散臭い男が家庭教師となって、生きるために必要な知恵と知識を久川に伝授した。天音自身がそう語っていた。

 天音は出世して里の最高権力者となった。支部長の職位に就いた天音が久川の教育を続けるのは厳しく、落葉に協力の声をかけた。正確にはもうひとつ理由があるらしいが、落葉が尋ねても毎回久川本人に会ってから直接訊けと言われ、はぐらかされた。


「ボクを教育役に選んだのは彼女自身だって言ってましたが、どういうことなんですか? 彼女とはさっき初めて会ったばかりのはずなんですが」

「直接訊いたほうが話が早いと言わなかったか? でもまぁヒントを出すなら、名指しじゃあなかった。どんな人を教育役にしたいか要望を訊いた結果、彼女の要望を満たすには俺の人脈では柊くんが最適だったわけだ」

「教員免許も高校も出ていないボクに教育者として適している点があるように思えないのですが……ここで追求しても仕方ありませんね。彼女の家に赴き、改めて挨拶と事情の確認をさせてもらいます」


 立ちあがり、座っていた椅子を長机の下に収納する。

 指を切らないよう渡された紙の束を注意して揃え、自前の手提げ鞄にしまった。鞄の留め具を閉めている最中に、対面の男が立つ気配があった。


「最後に、失礼を承知でひとつ忠告させてほしい」


 手を止め、落葉は顔をあげる。


「柊くんは男性で、久川くんは女性だ。円滑な管理のために仲良くするのは大切だが、親密になりすぎて妙な気は起こさないようにな。君は俺と同じく管理者として、国の貴重な財産である影武者が役目をまっとうするまでを監視するために雇われている。歳が近いからといって油断して、己の立場を忘れるなんてのは勘弁してくれよ?」

「そんなのは当然です。そもそも影武者の生はそう長くありません。発展途上にある小国はこの瞬間にだってそこら中で戦争しています。影武者を提供して重要人物の暗殺を防ぎ、あるいは騙まし討ちに活用し、その勝利を確実なものにすることで恩を売る。そんな楽な方法で国の価値を底上げする手段が通用するケースがいくらでも転がっているのが世界の現状ですから。すぐに死んでしまう人と関係を結ぶなど、ありえないでしょう」

「だが、久川くんはなかなかの容姿だろ?」

「天音さんでも、『かわいい』とか『かわいくない』とか思うのですね。まぁ、魅力的だとは思いますよ。だからこそ、影武者として生まれなかった彼女に会いたかったですが」

「あまり言い過ぎないほうがいい。人の心はコロコロと変わりやすいものだ」


 音を立てて椅子に戻り、天音は机に肘をつく。肘の先にある手のひらに頬を預ける。


「この場で柊くんがいくら否定しても、それこそ命を賭けて誓ったとしても、一週間後に同じ熱量が残っているとは限らん。影武者との恋愛を『理解できない』と言っている君が、一週間経つ頃には里の誰よりも理解に近づいている可能性だってある」

「ボクが久川さんを連れて夜逃げすると?」

「そういうことがあっても不思議じゃない。久川くんを囚われの姫と喩えるなら、救いたくなるのがナイトの性分だ」

「ボクはせいぜい門番です。分不相応の情事に手を出す度胸なんてありませんよ」


 一礼して、落葉はひとり会議室を後にした。扉を閉めて視界から消えるまで、天音は椅子に座ったまま落葉から目を離さなかった。


 ◆


 落葉は役所の扉を開けて外に出た。時刻は正午を過ぎたあたり。真上に燦然と煌めく太陽が視界を照らす。手を日傘代わりに陽光を防ぎながら、天を仰ぐ。

 あまりに多くの嘘をついた。

 天音の目の届く範囲から逃れた安堵が、張り詰めていた心を弛緩させる。

 影武者が誰かの身代わりとして命を捧げる日まで人間らしく生きられるようサポートし、影武者が役目を果たす前に命を投げ捨てないよう精神面を支える。それが影武者管理機関の使命で、管理者の一員に加わった落葉もまた、国のために重要な影武者の保護に努めなければならない。


 ――そんなの、どうだっていい。


 全てが偽りだった。管理者になったことも、国のために働く誓いさえも。

 全ては里と呼ばれるこの土地に侵入するためで、他に一切の理由はない。

 落葉の目的はひとつ。生まれた瞬間から他人に人生を捧げる運命を強いられた彼女に、誰も差し伸べなかった手を差し伸べること。


 久川楓を理不尽な影武者の運命から救う。


 それが、落葉の見つけた生きる意味だったから。

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