大鴉様の使い
「コル、コル」
先生の声がする。
コルはゆっくりと重い頭を上げた。先生が心配そうな表情をしている。
「顔が青いよ。大丈夫かい」
「はい、先生……なんとか」
「“神を覗く者”に相当怯えていたようだけれど、何かあったのかい」
「何も……何もないです。ただ、少し驚いてしまって」
先生は何も言い返しはしなかった。コルの驚愕を受けて、彼は丸眼鏡を直す。
「コル。君が怯えたのならば、その恐怖を大切にすること。その恐怖で周りの人を脅かすのは愚かなことだけれど、君の中にしまうことは、大切にすることは間違いではない。君は君だけのものだからね」
「はい、先生」
「立てるかい。バルドゥール画伯が待っているんだ。君のことも心配している」
「ええ、わかりました……」
なんとかしてコルは立ち上がろうとする。しかし彼女の身体は思うように動かず、前に倒れそうになった。
手すりを越えて落ちてしまう! コルは覚悟して目を瞑った。
しかし彼女の身体は一階へと落ちなかった。代わりに腹の辺りに、しっかりとした腕の感触がある。
「……大丈夫かな?」
腕は先生のものだった。彼はしっかりとコルを受け止め、ぐい、とコルの体勢を元通りにさせる。
想像以上にひょろっこくなく、寧ろ筋肉質なのではと考えてしまう腕つきをしていた。コルは何よりもそれに驚いていた。
「やっぱりもう少し休ませて貰おう。バルドゥール画伯には僕から言っておくから、ここで……いや、“神を覗く者”の視線のないところで――ってコル?」
「先生、隠れて鍛えていたんですか?」
「え?」
「先生がそんな筋肉質なわけがありません! 絶対隠れて鍛えていたに違いありません。どっ、どうしたんですかそんな、そんな……」
「ああこれ? これって言うのもおかしいけれど……旅をするのなら鍛えておいた方が良いかなって」
あっさりと先生は認める。シャツをまくり、力こぶを見せるような格好をするのでコルは喚きたくなった。そんなの先生らしくないです! そうは言えまい。彼なりに考えた結果なのだろうから……。
ぐっとコルは堪えながら立ち上がった。するりと立ち上がるので今度は先生が驚く。
「もう大丈夫なのかい? もっと休んでいても誰も文句は言わないよ」
「大丈夫です! わ、私も鍛えます。腕立て伏せをします!」
コルはばたばたと逃げるようにしてその場を後にした。先生も彼女を追い掛ける。
そんなおかしな二人が登場するものだから、バルドゥールは軽快に笑い飛ばした。「どうしたのですか」と問われても、「先生が筋肉質だったので……」と言うわけにはいかず、コルは愛想笑いで回避することにした。
「それにしてもお嬢さんは大丈夫でしたか? “神を覗く者”の発表から具合が悪そうにしていましたが……」
「わ、私は大丈夫です! 少し驚いただけです……圧巻されてしまいました」
当たり障りのない言葉を選びながらコルは話す。本当のことを言ってはいけないだろうことは、想像に容易かった。
「あれは子どもも驚いて泣き叫びますからな。年に一回の葬式を繰り返せば、なんとなくそういうものかと飲み込みますが、お嬢さんは一回目ですから。あれ先生は? どうでしたか?」
「僕も驚きましたが……それよりも原理が気になってしまってそれどころではありませんでした。あの七色に発光する管から伸びたものは一体?」
先生が問う。声が上擦っている辺り、相当あの装置が気になって仕方がないらしい。
するとバルドゥールは困ったように頭を掻いた。
「あれは……どうなのでしょうね。話していいものか。正直に申し上げますと、“神を覗く者”の管理者は神郷画家の私ではなく、司祭らなのですよ。ですからナーナに聞いた方がよろしいかと」
「司祭らですか。つまりバルドゥール画伯は言ってしまえば、絵を描くだけだと?」
「そういうことになります」
少し照れくさそうにバルドゥールが返す。
「これまで堂々と話していながら……と思われるかもしれませんが、神郷画家はアグラヴィータの顔ですからね。迎賓の出迎えは私がしたほうが何かと楽なのですよ。その一方で、ナーナたちが“神を覗く者”を厳重管理する。そうやって成り立つわけです」
「表の顔と裏の顔……とも言えますね。素晴らしい美術の裏には、大量のデッサンやメモがあるのと同じように」
「その通りです先生。我々にも、誇りたくない部分があるのです」
そう語りつつも、しっかりと話してくれるのがバルドゥールの良いところなのだろう。
三人はお披露目の後始末をしているナーナを待った。彼女が来るまでの間、バルドゥール家族の――セティのことで話は持ちきりになった。セティは文字よりも早く絵を学び、瞳の色と同じように空を見つめるのが好きな子どもなのだとバルドゥールは話す。これぞ神郷画家と教会に従事する者の英才教育だ。先生とコルは拍手を送る。
話をすればそのナーナとセティはすぐにやって来た。ナーナは目が見えない代わりに聴覚が優れているようで、三人の話が聞こえてしまったらしく、照れながらの登場になった。その隣、彼女を支えながら歩いてきたセティは何事かと首を傾げる。
バルドゥールがセティを抱きしめて高く持ち上げた。
「私の才能に溢れた子ども! お前の描く空が楽しみだ!」
突然持ち上げられたセティはナーナそっくりに頬を染めた。
「ところで、奥様」
ナーナの登場にすかさず先生が問う。
「あの七色のに発光する物体はなんですか? 見たところ“神を覗く者”の原動力にもなっているようですが、それはなぜですか? 僕は気になって仕方がありません」
まるで口早に口説いているかのような物言いだった。コルは少しげんなりしながら――その理由は彼女も知らないが、先生の問いにどうナーナが答えるのかが気になった。
ナーナはゆっくりと何かを思い出しているようだった。
「七色……でしたっけ? バルドゥール。先生は異色の指先のことをお話ししているのよね?」
「そうだねナーナ。異色の指先のことで間違いない」
バルドゥールに確認をすると、彼女は胸を張った。
「すみません先生。私が過去に“神を覗く者”を見たのはもうかなり昔のことですから。その、見えていた時期……色を失う前の時期ですね」
「ああ……すみません。僕としたことが配慮が足りませんでした」
「いいのです。それで、先生が気になったというものは異色の指先と呼ばれるものです。あれは色彩探知機のようなもので、色を持ったものに反応をします。今回は黒ウサギでしたけれど、白ウサギを入れれば黒ウサギになります。白を黒へ。黒を白へ。有色を白へ。そのように感知する生き物……そうですね、生き物と呼んだ方がいいでしょう」
「生き物?」
先生とコルが同時に言う。
“神を覗く者”は装置ではない? 二人がそう問おうとしていた矢先、ナーナが答える。
「巨大な生物装置、とした方がいいのかもしれません。あれは間違いなく、こちらを覗いているのですから」
ナーナはそう言い切った。
それから根掘り葉掘り聞こうにも、ナーナは口を固く閉ざしてしまう。これ以上は部外者の触れられない領域だ。
先生は仕方ないと言って諦めた。ただ先生はナーナからちゃっかり、“神を覗く者”の資料があるという図書館の地下資料庫の話を聞き出していたので、コルは肩を竦めた。自分の好奇心に負けず劣らず、強欲な先生なのだ。
バルドゥール家族と話し終えた後、早速コルと先生はアグラヴィータの図書館を訪れた。図書館には本よりも図鑑が、図鑑よりも美術品が多かった。この場所では本ですら美術と扱われ、装丁は規格外の豪華なものが多く存在している。
「……何を読んでも、普通に文字を飾ってくれないので読みにくいです。先生」
「あはは……でも地下資料庫の本はそうでもないんじゃないかな。許可をもらえないか交渉してくるよ」
アグラヴィータの書物はとにかく読みにくかった。何を書いているのかわからなくなるまで飾り付けた文字に、こだわった紙たち。めちゃくちゃなレイアウトの文章。もはや読ませるのではなく、見るためだけに発行されたのではないのかと錯覚するほどだった。
何を読んでも、手に取っても同じような本が続く中で、コルは一応読める本を見つけた。『色無き小人』というタイトルの絵本で、色のない小人がこの世を彷徨い、色を吸って生きているという内容のものだった。色を吸われた自然は枯れるというもので、枯れるという現象を上手くアグラヴィータの様式に当てはめたものだ。
コルはその本を読んで、あの司祭の言葉を思い出す。
――これは命さえ奪わない!
疑っている訳ではなかった。ただ、色を失った後のあのウサギたちは、もう黒ウサギとしては生きていけない。新しく白ウサギとして生まれ変わったと言えば聞こえは良い。けれどそんな簡単なことではないように彼女は思う。彼らは失ったのだ。色というアイデンティティを。
命を奪わないからと言って、色を奪って良いのだろうか。コルは小人が色を吸い、生き生きと描かれる様を見て、形容し難い気持ちに包まれた。
「お待たせ、コル。結果は許可が下りるまで待機にことになったよ。学士の街っていうカードを切ったけど、それでも時間がかかるみたいだ」
先生がやれやれと顔に書きながら戻ってくる。
彼はコルの向かいに座った。背後にある絵本の棚からいくつかの本をごっそりと抜き取り、机に置く。そうして何冊かをぱらぱらと読み始めた。
図書館は静かだった。何処の図書館もそうだが、アグラヴィータの図書館は美術館のような一面がある――その美術品のような装丁の本が多いためだ。それ故に余計に静かに思えるほどだった。
ふと、先生が言う。
「七色のあれは、きっと小鴉だ」
彼ははっきりとそう言った。
「小鴉……ですか?」
周りの少ない来館客に聞こえないよう、コルが繰り返す。先生は頷いた。
「ああ。あれは黒鉄粒子と言ったもので出来ている。それによって作られた、小鴉だ。知っているね?」
「え、えっと。黒鉄粒子は、大鴉様の翼が黒い理由で……夜空そのもので……小鴉ということは、人でも動物でもない、大鴉様の使い、ということですよね?」
先生は頷いた。
「そうだね。小鴉は、大鴉様がこの世界を観察するための存在たちだ。僕たち人間とは全く違う」
「ま、待ってください。小鴉なら、どうして操れるのですか? その仕組みがわかりません。だって小鴉なら、触れてはいけないものではありませんか」
自由あれ、と小鴉については教えられている。それは学士の街でも、そうでない場所でも同じはずだ。大鴉様の使いを制限する必要は何処にもない。彼らは自分たちを見守っているのだから。
真剣な面持ちで嘘一つなさそうに先生が語るので、コルは戸惑ってしまった。いくら先生が神話に長けているとはいえ、彼の話す小鴉が何か制約を受けて、活動を制限されているとは思えなかった。
「例えば――その、コルが読んでいる絵本が事実だとしよう」
先生は『色無き小人』を指す。
「その小人は、どんな現象だと思う?」
「現象……ですか?」
現象の擬人化だと彼は言いたいのだろう。コルは先生の意図を汲み取ったうえで、こう答えた。
「枯れる……命の衰退のことだと思います。その現象が、擬人化されている」
「そうかもしれないね。じゃあ話を戻して“神を覗く者”が何の現象かを細分化しよう。あれは色を抜き、抽出し、インクにしている。けれどそんな現象は自然界には存在しない。あるとすれば……そう。枯れているんだ」
「無理矢理過ぎませんか? 枯れているんだなんて、一体何を……」
「物の風化、人の老衰。木々は再度芽吹けど、大半のものはそうはいかない。コル。僕の推測が正しければ――あの機械は、小鴉の力で、その退行を行って、インクを抽出しているのだと思う」
そんなことがあるのだろうか? コルは疑ってかかる。が、事実として黒ウサギが白ウサギに変わってしまっている。
「でも、どうして小鴉だと思うのですか? 鳥の形すらしていませんでした」
「……大鴉様が常にその形状を維持しているわけではないと思われる。何せ大鴉様の翼は夜であり、その色は黒鉄粒子なる特別な物質であると信じられている。黒鉄粒子で大鴉様そのものが構成されているとしたら、夜という羽毛のないそれが――大元がどうして翼、鳥だと信じられるのだろうか」
「じゃあ、あれは……“神を覗く者”は小鴉であり、ナーナさんの仰ったように巨大な生物装置だと?」
「僕はそう考える。しかも小鴉……人が扱えない、現象が命を持った存在だと考えるよ」
真剣な面持ちのまま、先生は語った。
コルの頭はぐるぐるしていた。小鴉? 鳥の形をしていないのに? 大鴉様の使い? 見守るのではなく、捕まえている? コルは今にも後ろに倒れそうなのを、どうにか背もたれによって耐えていた。
けれど、先生は本気で話している。その事実が彼女の心を補強する。先生の言うことは、大抵真実ばかりで嘘がない。そもそも彼が追っている神話ですらおかしなものばかりではないか、今更だ――と彼女は思うことにした。
「あの、先生」
「なんだい?」
「もし小鴉という推測が正しかったとして……美術神郷はどうして保ち続けているのですか? だって、文字通り大鴉様の使いなのでしょう?」
先生は目をぎゅっと瞑る。相当参っているようだった。
「それが……わかったら苦労しないよ、コル」
そして苦笑する。
「そもそも小鴉というものは、自由気ままに旅をしたり、人に紛れて過ごしたりするものなんだ。動物に知性が宿り、コミュニケーション可能なものであると考えた方が良い。もちろん、さっき語った通り形は不定形。契約や取引と言ったものが、おそらくは可能……だと思うんだけど、ね」
「その鍵となるものがわからない、ということですね。先生」
「その通りだよ、コル」
先生は絵本を閉じて机に突っ伏した。丁寧にコレクション兼実用として愛用している丸眼鏡を、きちんと外してから机に突っ伏した。
「小鴉こそが“神を覗く者”であったとして、その実証はできないだろうしね。司祭らがそれを許さないだろう。だから僕は……僕はどうやって“神を覗く者”の正体を掴もうか悩んでいるよ」
「先生……」
「コル。君のレポートは普通に書いてくれて良いよ。小鴉のことなんて一切気にしなくて良い。君が思う美術神郷の素晴らしさとその文化を伝えて欲しい」
顔を上げても何処となく参っているのが伝わっている。コルはどうしようもないので、「いつでもお手伝いします」と呟く。
「ありがとう、コル。応援してくれることが、とても嬉しいよ」
先生は丸眼鏡の向こうで笑った。その笑顔が見られるだけで、コルのざわついた心はなんとなく落ち着いた。
それからコルは小鴉についての本をいくつか借り――それもなかなか厳重な書物とされていた。先生曰く、小鴉を知ろうとする者はよほどの信者か愚か者だそうだ。
「なら、私はれっきとした愚か者ですね。先生も」
「ああ、適度に愚かでいよう。何もかもが聡明に見えるように」
とにかく、コルは小鴉についての本を借りた。借りたうえで、その日は宿に閉じこもり、黙々と読書に耽った。
小鴉について真新しく知ったことはあまりなかった。先生は要点をかいつまみ、わかりやすく説明をしてくれていたらしい。感嘆の息を漏らしながら、コルは余さずランプの光の中に渦巻く文字たちを追っていった。
おそらくは、動物に餌をやるような感覚で――けれど厳かに――契約や供物によってその小鴉は扱えるようになるという。事象、現象を意のままにできるという感覚を想像しながら、コルは文字を自身に溶かし込んでいく。それはまるで大剣で大地をなぎ払うような、途方もないようなことなのだろう。もしかすると、馬鹿げた話なのかもしれない。
コルは一刻も早く呑み込みたかった。あの“神を覗く者”が起こした現象について、しっかりと自分で理解をしたかった。けれども文字の渦に流されれば流されるほど、より理解が難しくなっていく。よりそれが扱えないのだと理解をしていく。
扱えないと知ったところで、どうして手が止まらないのだろうとふいにコルは不思議に思った。夜半のことだった。
寝るのも忘れてめくるページの重さと言えば、それも言葉にし難いものだった。すべてを呑み込もうとすればどんよりと重く、気を負わずに娯楽だと楽しめば余裕に軽くなるのだから、気の持ちようは大切だった。どちらかと言えばコルの心象は楽しさが上回っている。最初は重くて仕方が無かったページが、どんどん軽くなっていくので、寝るのも忘れ、ランプを点けるに至ったのだ。
こうした夜には思い出す。旅立ちの前日に厳選に厳選を重ねた本たちの中から、どれを携帯するかを選ぶべく先生を呼び出したことを。
殆どの書物は――学士の街から出ることを許されない禁書で無い限りは、大抵の図書館で同じ本を借りることができるだろう。ただ、自分が読み慣れた本というのは手の形や癖というものを馴染ませ、特別な一冊になっていることが多い。
先生は言った。
「君の相棒を、僕以外に一人連れて行くこと」
そう言われて、コルは相棒を十五冊まで絞った。
問題はそこから先だった。彼女には相棒が選べない。どの本も素敵で、自分の思考を和らげてくれるリラックス剤だった。だからコルは先生を頼った。どの本が旅の心に寄り添ってくれるかなど、彼女には想像もつかなかった。
先生は悩み、相棒たちを手に取ってぱらぱらとめくり、大胆な発言をした。――全部持って行こう。それは前提をぶち壊す言葉だった。
開いた口が塞がらないまま、勝手に先生は十五冊の相棒をくるくると紐で綴じ、トランクに入りやすい形にまとめていくではないか。コルは必死に止めた。こんなに本を持っても重いだけだという彼女の言い分に頷きながら、先生は「それでも君の大切な相棒じゃないか」と言ってのけた。そうなのだけれども!
先生の無邪気さに微笑ましくなる。無謀とも言う。けれど、相棒を彼なりに考えた故なのだ。聞けば、先生も十冊以上の相棒を従えようとしていたとのこと。
結局二人は相棒を半数以下にして、トランクに収めることとなった。それでもトランクが膨れっぱなしなのは、二人が荷物整理を得意としていないからだ。
ふふ、とコルは微笑んで窓の外を見た。
旅立ちのあの日と同じではないが、星空が広がっていた。白い点が空に浮かんでいる。黄金の月も見えている。
「大鴉様は、私たちを見守っている……」
その群青より豊かな色をした夜空に手を伸ばす。
夜こそが大鴉様の羽根である、と言われている。
コルもそう信じて止まない。彼女にとっては今もっとも美しいものがこれだ。神に通じる夜――夜空こそがこの世でもっとも美しいと思っている。
けれど先生は夜以上に素晴らしいものがあると言った。この世には美しいものが山のようにあるのだと。目を輝かせるべき空が、景色があるのだと。彼はそう言った。そう信じて止まない声を発していた。
コルは、その声と彼を信じたいと思った。
けれどもし――アグラヴィータの司る、その神というものが人を恐怖に晒しているとしたら。
あのおぞましい気配を当然のように受け入れているとしても、先生は同じように美しいと言い切るのだろうか。
それからコルはランプの灯りを消して眠った。眠る直前まで本と共にいたためなのか、寝起きの彼女の頬には本の痕があった。
翌日は先生の講演準備にコルは付き合った。彼はコルに手伝われることをあまり快く思っていないようだったが、終わるはずのものが一切手つかず――ましてや今から取りかかるのだと言われれば、手伝うしかあるまい。
「先生は謎の自信ばかり持って、作業をおろそかにしがちです」
「あはは……でも締め切りに遅れたことはないんだよ? どんな論文でも、書籍でも……僕は締め切りだけは守っていたんだ」
「けれど周りの人を不安にさせる仕事の仕方です。現に私は、先生のことが心配で仕方がありません」
「そうだね。それは注意しよう。教え子の手を借りないようにするよ」
悪気無く先生は言う。けれどコルは言い返してやりたかった。恥ずかしいことなんてない、と。自分はあなたと一緒にいられるのなら、これくらいの作業はなんてことないのだから、どんどん使ってください、と言いたかった。
頬を膨らませながらコルは先生の指示に従い、どんどん書類をまとめていく。書類の間に先生の書籍の宣伝が書いてある紙を挟み込みながら、朝から何も食べていないと話す先生がきちんと食べているかを監視する。
「あんまり見られていると、食べにくいよ」
「先生は食事を疎かにしがちですから。だって、この前も本を読みながら食べていると思ったら、食事を忘れて読みふけっていましたし」
「あれは――あれこそ君に読んでもらいたい本だよ、コル。アグラヴィータの色彩学から見た神話解釈が書いてある。どこだったかな……ああ、僕のトランクの中にあるから、これを食べ終えたら貸そう」
先生は色無し卵のクロックムッシュを頬張りながら言う。指先をぺろりと舐めてくずを食べようとするので、すかさずコルは口を拭くよう言った。
「先生、お行儀が悪いです」
先生はコルから布巾を受け取ると、大人しく口を拭いた。
「先生。この作業が終わったら何をしましょうか」
「それが終わったら……明日の資料を読んで欲しい。その資料を読んで大体の具合が掴めるかどうかを確かめて欲しいな」
「……先生。それは刷る前に確かめるものでは?」
「……コル。締め切りに間に合わせるためには、時として無理をすべきなんだよ」
二人は、肩を並べて苦笑した。
コルは言われたとおりの作業を終えると、完成された小冊子のうち一冊を手に取った。『神郷美術史・新解釈』と銘打たれたそれは講演と全く同じタイトルだ。何せ補填資料なのだから当然――という話なのだが、とにかくコルはその小冊子をパラパラと捲り、読み始めた。
――神は彩部に宿られている。
その言葉の意味するところを、再度掘り返すというのがテーマの小冊子だ。
神郷美術史によれば、アグラヴィータの色彩は元からあったわけではない、とされる。
美術に関心がある者が集まる集落であることは間違いないが、特別何か美術に関する良いものが採れるというわけでもなかった。同好の者が好きなだけ美術に心酔できる場所。それがアグラヴィータだった。
その色彩が一変したのが“神を覗く者”の登場だった。
元はただのインクを抽出する機械だったという。それが次第に改良を重ねられ、今に至る。それは神の発明だった。神は彩部に宿られているという言葉は、そこが語源だと言う。
“神を覗く者”が上手く改良されるにあたり、抽出されるもの、インク――その色彩に神が宿る――色彩にこそ存在していると考えるのは、なかなかに上手い文句だとコルは思う。
インクが特産品になったあの場所は美術だけでなく文筆を共にする人間も生まれた。そこから絵本ができ、小説に挿絵がつくようになった。印刷業も生まれ、しかしアグラヴィータの者らは複製されるものよりも、たった一つであることに感動を覚えたため、印刷を生業にする者は次第にアグラヴィータを離れていく。
こうして真に好事家が集まったアグラヴィータは色彩に重きを置いた美術に傾倒していく。彫像に見向きもせず、絵画を作り、何かを描かねば生きていけなくなった。次第に売れる者を神郷画家と呼び、値打ちの保証とした。“神を覗く者”なくして生まれないインクは神の思し召しとされ、値が張り、生活の中心となった。
まとめると彩部に宿られているものが神であるというのは、生活に根付いたものなのだ。彼らの生活を支える神が、インクであったというだけなのだ。
「……もっと何か、神話めいたものがあるのかと思っていました」
「最初はね。けれどアグラヴィータは後々神を感じるんだ。君と同じように」
先生がページをめくる。
大鴉神話というものが伝播してから、美術神郷はさらにその色を増していく。
大鴉神話はアグラヴィータよりもっと遠く――有翼類がいるとされていた地方の神話だった。それがアグラヴィータのインクを知った者が、「神を語るのにふさわしいインク」として認め、輸入しようとしたことがきっかけで大鴉神話がもたらされたという。
朝は空を飛び、その姿を小鴉にして、私たちを見守っている。夜はこの世界という止まり木に降り立ち、その羽根で覆う。『大鴉様の旅立ち』に描かれているものが殆どであるその内容に――子細に語れば途方もないそれに、アグラヴィータの人々は感銘を受けた。
色を喪う世界こそ、夜こそが至高だとした。同じように自分たちも色を失うことで、大鴉様に近づけるとした。色を使うときは神を宿す時であるから、細心の注意を払った。生活に座る
だから彩部に神は宿られているという言葉は、代名詞になった。美術神郷を語る言葉として。彼らが神を宿さぬための文句として。
「……そういった背景があったのですか?」
「僕はそう考えているよ。コル。これは僕の一説であり、考察である。鵜呑みにするもよし、別解釈を掲げるもよし、だ」
先生はコルを覗いた。むつかしい表情をしているので、先生はコルから小冊子を取り上げる。そうして山積みになった小冊子のひとかたまりの中に、それを戻してしまう。
「君のレポートに、どんな美術神郷史の解釈があるのかが楽しみだよ」
それは脅しです、とコルは言いたくなった。全く白紙のレポートを思いながら、コルは小さく返事をする。
「もしかして、まだ進んでいない?」
コルが黙ったので、先生は無言で数冊の本を渡してきた。彼女はそれを受け取り、本を広げた。
迷わずコルは先生から借りた色彩学と神話解釈の本を読み耽った。
その本には「色彩ある世界がアグラヴィータにもあった」と書かれていた。それはその昔、まだ大鴉の神話に影響されていなかった頃のこと。まだ人々が様々な色を使って身なりや生活を潤していた頃の話とされていた。
コルは想像する。葬式の日々がずっと続く――そんな世界がアグラヴィータにも存在していたのだ。
想像して、弾んだ。コルは先生に断って外へと飛び出した。
鮮やかな世界が広がっている。
当然のように色彩がある。それが普通のことなのだと、そう思いながら彼女は生き続けてきた。白黒の世界になど読書の時に飛び込む程度で、存在しないものだと思っていた。
嗚呼、それがどういうことだろう。あと数日でこの場所は、美術神郷はまた色を失うのだ。
そのことが正しいかどうかは、コルに区別がつかない。ただ、彼女は思う。人間にくらい、色を与えたって良いのに。そう彼女は散歩をしながら思った。バルドゥールのかつらは、よく似合っていたのだと。そう思わずにはいられなかった。
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