第九話:神郷彩園アグラヴィータ
先生の説明はこうだ。
美術革新が行われた。理由は“
何故美術革新が必要なのか? その問いに先生はこう答えた。「インクを抽出し、そこから生み出される創造にだけ満足するのではなく、その先の創造――インクまでもを創り出す、その創造にこそ神は満足と希望を見出す」とのことだった。
先生の演説は事実上手くいった。もちろん先生の言葉に不満を抱く者も居たが、美術革新の台頭者が、かの神郷画家バルドゥールであることを知り、彼らはすぐに手のひらを返した。
色が戻った――インクの帰巣が終わった
それこそ葬式の日々が永劫続くような、色褪せない街が広がっていた。白黒の家具や家は元から色がなかったわけではなく、一度材料を“神を覗く者”に色を吸い上げてもらう禊ぎを行う必要があった。そのためインクが戻った今、非常にカラフルな、しかし目が痛くならない程度の絶妙な塩梅での鮮やかな街並みがあった。
コルはぼろぼろになった教会から出て、改めて美術神郷を見渡す。
そこにはコルが一番最初に思い描いていた美術神郷があった。何処を見ても鮮烈な色彩があり、センスが感じられ、髪色や肌色の統一されない人々がいる場所。そんなものを想像していたから、彼女はついに空想が現実になり、なんとも言えぬこそばゆい気持ちになった。
「なんだか……二つの街を行き来しているようです」
コルの感想に先生は頷いた。彼は一つにまとめていた髪を結び直しながら、コルの隣にやって来た。
「そうだね。ここまで変わるとは僕も思わなかったな」
「先生は思いつきで行動をしているのに、どうしてあんな風に上手くいくんでしょう? やっぱりバルドゥール画伯が仰ったように、大鴉様から祝福を受けているんじゃありませんか?」
「さあ、どうだろう? でもね、きっと不思議なことはこの世にはないし、解明できるもので溢れていると僕は思っているよ」
「……“聖体”もですか?」
「そうさ。寧ろ僕は論文にしにくかろうと、それを知りたくてたまらない! だってインクを、色を食べて生きるだなんて面白いと思わないかい? それに契約というものをして生き長らえるというのも、生物的……というか、僕ら人間に近しい感覚がする。だから知りたい、と思うのは当然じゃないかな?」
嬉々として先生が話すので、コルは首を傾げた。それ以上の問題が山積みだというのに、この人はいつだってある種前向きだ。知識に貪欲で、好奇心に負けっぱなしなのだ。
コルと先生の滞在はそれから予想以上に長期となった。
先生にレポートを急かされながら、美術革新が完了するようコルと先生はバルドゥールらと共に奔走した。革新と名が付けばそれらしくなるものの、いかにして美術神郷が白黒ではなくなったかの、それらしい理由を知るのはあの場にいた人間しか知り得ない。ましてや先生の口車に全員が乗っているような状態だった。地盤はいくらでも硬い方が良いだろうと、先生はどこまでも協力を惜しまなかった。
結局コルと先生が美術神郷を出たのはそれから一週間後のことだった。葬式の間だけの滞在のつもりが、倍以上になってしまった、と先生は苦笑する。
美術神郷の街並み――人となりは、予想外な方向へ飛んだ。
自分の家屋に色彩的センスがないと言い出し、家屋の染色を一から始める者たちがいた。
自分の戻った髪色と瞳の色に納得がいかず、インクをかぶったり、インクに目を浸して病院は大変なことになった。
インクを混ぜながら「あなたの色に染まりたいの! 調合を教えて頂戴!」という愛さながらの台詞が響いた。
どの色がどの色彩を生み出すのか忘れた人々は、色彩辞典なるものを作り出した。
そういった大きな変化が、美術神郷を埋め尽くしていった。
変わったと言えば、バルドゥール画伯も頭からインクをびっしゃりと被った人間だった。「私も夜になりますぞー!」と言いながら、自分で調合したインクをかぶり、彼の髪色は赤に近いものから青に寄り添った。その様子を認めたアグラヴィータの人々が、ならば自分も! と様々にインクを調合し、髪の色や様々なものを染めた。
その町並みを見て、ナーナ夫人は言う。
「これじゃあ
そのようになるのは、時間の問題だろう。
滞在の間に先生は髪を切った。肩まで伸びた髪を、耳たぶまでばっさりと切り落とした。というのも、コルが進言したからだった。
「最後に切ったのはいつですか?」
「ええと……数年前、かな?」
それでは切られるのも仕方が無い! コルは自ら鋏を握り、先生の髪を切った。先生の髪は少しごわごわとしていた。髪色のアッシュグレイは一本ずつが白髪のように輝くので、コルは先生の年齢がわからなくなった。
そういえば、先生のことを何も知らないのだとコルはその時に気づいた。長躯で細身――のわりには筋肉があり、着痩せをするタイプ。知識欲と好奇心だけは少年並みで、頭脳はおそらく明晰。学問的には高い学位を持ち、学士の街では希代の天才と呼ばれていたはずだ。
なんだ、それなりのことは知っているではないか、とコルは胸を撫で下ろそうとする。しかし逆に言えば、コルはそれ以外のことを知らないのだった。自分のことを守ると言ってくれた人のことを、恐ろしい程に知らないのだった。
――帰り道には、先生とたくさんおしゃべりをしないと。
コルはそう思いながら帰路につくため荷物をまとめた。人と仲良くなるには対話から。画材と仲良くなるには一筆書きから。そうアグラヴィータの絵本にも書かれていた。
ついでと言わんばかりに、コルはセティの前髪を切る作業を頼まれていた。決してコルの鋏さばきが素晴らしいから、というわけではなく、セティからのお願いだった。
「セティくんは前髪を切って、インクを被るんですか?」
「ううん。僕は、パパみたいに、しない。この黒髪、すき」
「それもいいですね。でもどうして髪を切ろうと?」
セティの前髪は確かに伸びきっていたが、先生ほどではなかった。というか、先生が伸ばしっぱなしにしすぎているのだ。おおよそ予想は付く。本を読むときにだけ、邪魔になってきたら前髪だけ切っているのだろう。そんな気がした。
もじもじとセティがみじろぎしながら「誰にも言わないでね」と前置く。
「美しいもの、いっぱいみれるよう、切るのです」
にか、とセティは笑った。
その言葉にぞわぞわとコルは背筋が震える思いをした。そうだ。こんなことを言われてみたかったのだ! ドキドキ高鳴る胸を押さえながら、コルは「ええ!」と頷き、セティの髪に鋏を入れた。
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