今日記。

知円

001~500

※一様に、一事が万事。



1:【2023/10/02(13:20)*はじめまして】

 今日から日誌をつけることにしました。

 初めまして。

 まだどんな筆名にするか決めていないので、見切り発車で文字を数珠繋ぎにしていこうと思います。

 日誌とは言っても、大して文字に変換するほどの何かが私の日々にあるわけでもないので、何を紡いでいけばよいのだろう、と困惑してしまいますね。

 基本は考えたこととか思ったこととか、そういった何でもない思念の連なりになるように思います。

 最近は宇宙に興味があります。生命にも興味があります。

 宇宙と生命の共通点のようなものをあてずっぽうで並べていくのも面白いかもしれませんね。

 ときどきはふざけながらやっていこうと思います。



2:【2023/10/03(04:04)*引きつづきこんな具合になっちゃいそう】

 とは言ったものの、誰が読むでもない日誌で猫被ったままこの先何年もそれで通すってのも想像するだに「うべぇ」なので、とってもとっても「うべぇ」なので、さっさと被った猫は剥ぎ取って、お湯で洗って、はいキレイ。

 とは言ったものの、これとてけっきょくは文字を並べやすい饒舌キャラでしかなく、素からは程遠いがゆえ、素を曝け出そうと思ったらそもそも日誌なんて記述してはいられぬのだよキミ。

 女性性と男性性の配分にも気を払ってはおるものの、あなたはいまこの瞬間のこの打鍵のリズムと抑揚のなせる読み味についてどう思われるだろう。私は誰? 属性は何?

 なんでもいいよ、との本音をまずは披歴させてもらおう。そして非礼を詫びさせてもらおう。

 おそらく十中八九、だいぶんサバを読んでなお、今後の見通しを甘々に見積もったところで、何かがねじ曲がって、初志貫徹は海の藻屑となって消えるであろう。すでに消えている事実には目をつむり、ひとまずは落差の度合いを体感してもらったほうが難がないのではないか、と考えてのこれは変化球なのだ。そうなのだ。お心配りというやつであるよキミ。

 眠いので寝る。

 


3:【2023/10/03(23:16)*共鳴なのかしら】

 心臓の記事を読んだ。心臓の細胞は最初に全体で鼓動する際には、一挙に全体の細胞が同期するのだそうだ。だんだんと同期するのではなく、細胞が活発化したそのあとに全体が一挙に一つのリズムで鼓動を刻みだすのだそうだ。

 これは案外、電子網全体にも適用可能な理屈なのではないだろうか。

 人間社会にも言えそうだし、蟻などの超個体にもあてはまりそうだ。

 なぜ誰に設計されるでもなく、個々の独立駆動しているはずの細胞や昆虫が全体で一つの回路として組織化して動くことを可能とするのか。

 同期なのだ。

 おそらくは。

 それを単に、共鳴現象、と言い換えることもできるのかもしれない。定かではない。



4:【2023/10/04(00:02)*量子もつれは共鳴かも仮説】

 上記の補足として。

 なぜ独立して枠組みを得ている個々が全体で連動するのか。共鳴現象がそれを可能としているのではないか、との想定を上記ではした。

 ではなぜ個々は共鳴し合うのか。

 これはそもそもなぜ物質の集まりでしかない個が生命として機能するのか、と繋がっている気がする。おそらく無関係ではない。

 物質の集合でしかないはずの生命もまた、物質同士の共鳴によって生命としての枠組みを得ているのではないか。回路として固有の流れを持続させるのではないか。

 リズムなのだ。

 共鳴なのだ。

 同期なのだ。

 ひょっとしたらミクロのレベルで視れば、絶えず生命体は全身が量子もつれの状態なのかもしれない。

 これはベルの不等式の破れとも無関係ではないかもしれない。局所性の否定を、絶えず実在した物質であれ内包するのだ。高次の視点では、確率的な揺らぎを常に内包する。

 何かと何かが相互作用し合うことで状態が決定されたとしても、さらに次の場面では、ほかの何かとどう相互作用するかによって、その後の実在の在り様は変わる。

 実在化したあとでも、確率的な揺らぎを帯びつづけるのだ。高次の視点では。

 言い換えるならこの場合、高次の視点とは、時間経過したあとの世界、とも言えそうだ。

 この考えはしっくりくる。

 妄想ゆえ定かではないが。



5:【2023/10/05(00:37)*最初の生命】

 生命について考えてみる。

 この宇宙に最初の生命が誕生したとき、それはおそらく唯一無二のたった一個ではなかったはずだ。それはたとえば、宇宙開闢時に最初の対生成が起こった際に、それがおそらくはたった一か所ではなく、複数同時に確率的な揺らぎを帯びながら生じただろうことと無関係ではない。

 ある場所で何かが起きると、それはほかの場所でも引き起こり得る。そして宇宙に同時性が成り立たないとしても、ある範囲の時間軸を設定し、その範囲内において似たような事象が起こり得る確率を計算すれば、その範囲内の時間軸上では「同時に何かが起こり得ること」は否定できないはずだ。むしろ可能性として高いと言えるのではないか。

 とすると、最初の生命にも同じことが言えるだろう。

 ここでは便宜上、生命を、DNAやRNAに類する自己複製可能な「エントロピーの増減をある枠組みを保ちながら繰り返す機構」と定義しよう。

 おそらくこの手の「エントロピーの増減をある枠組みを保ちながら繰り返す機構」は、宇宙のどこかで誕生した場合、ほかの地点でも同様にして誕生し得るだろう。なぜなら宇宙は基本的には一様であり、均一であり、多少の揺らぎを帯びてはいれど、似たような環境が必ずどこかに生じ得るからだ。

 とするならば、いまこの瞬間に人類と同等の生命体が存在しない、と考える道理は薄れよう。この広大な宇宙のどこかに地球とほぼほぼ等しい惑星が存在しない、と考えるよりも、存在すると考えるほうが確率的に妥当なはずだ。

 観測できないのは単に、光年規模で距離がかけ離れているために、相互作用し合うことがないだけの話だ。

 そしてこの理屈を採用するのならば、対生成のように最初の生命体のごとき「エントロピーの増減をある枠組みを保ちながら繰り返す機構」は、いまなお新しく誕生していて不自然ではない。

 むしろ誕生していない、と考える道理はないはずだ。

 宇宙の起源が海であれ、宇宙であれ、ほかの天体であれ、似たような環境はこの宇宙に存在し得る。ならばそこで新たに生命が生じていてふしぎではない。

 そういうことをきょうは妄想した。

 三秒ほどの刹那の夢想でしかなかったが。定かではない。



6:【2023/10/05(23:45)*多視点と単一視点】

 ハロー効果に代表されるように、人間はレッテルや他者評価を基準に対応を変える性質がある。権威主義の一種だ。

 これは要するに、見る目がないことを自ら開示していると言える。

 見る目がある者は、表層の情報だけでは判断はしない。むろん表層の情報も「判断するための要素」として用いるが、それだけではない多角的な視点を有する。

 物事が単純ではないことを知れば知るほどこの手の視点は増える。

 したがってハロー効果の影響を受けやすい者ほど、視点がすくなく単純だ、とも言える。

 単純である者が多い社会ほど、この手の権威主義は効力を発揮する。

 そして視点を多く持つ者は判断を保留にしたりゆっくり吟味したりするため、単純な者たちの判断速度についていけずに淘汰される。

 この手の流れは現代社会であっても珍しくはないだろう。

 多視点をそのつどに考慮するには相応の学習が要る。訓練が要る。軌跡が要る。

 森の中で古木が割合としてすくないことと似ていよう。

 専門家が人口の割合で言うと少ないこととも似ている。

 だが基本的に役職は淘汰されにくい。ハロー効果の恩恵を受けられるからだ。

 だがそうでない場合は、淘汰されやすくなる。

 能力の多寡と適応力はまた別だ、ということかもしれない。

 視点を一つしか持たない者が多くを占める社会では、多視点を有する者は環境に適応するのに不利なのだ。だが一定数、多視点を有する者がおり、相互に協力関係を築ける場合は、むしろ少数であれ多視点側が有利に事を進められるだろう。

 組織化した場合には、多視点のほうが有利なのだ。

 これはおそらく量子コンピューターと同様の利点と言えるはずだ。数回の議論で、幅広く深度高く、未来を予測し、吟味できる。だからリスクをコントロールしやすいのだ。

 すると多視点を有する者たちにも権威がつくようになる。成果を上げるので、単一視点の者たちでも多視点を有する者たちの優れた面が分かりやすくなる。だがなぜ成果を上げたのか、については、多視点だから、といった理解のされ方はしない。

 ゆえに成果を分かりやすく上げない多視点を有する者たちは、やはり淘汰されやすくなる。組織化できずに孤独のままであると、この流れは顕著になるはずだ。

 もうすこし厳密には、多視点を有する者たちは周囲の単一視点を有する者たちの視点も持ち合わせることができる。だからカメレオンのように周囲の環境に適応することは可能だが、それはたくさんあるブロックをたった一つのブロックにぎゅうぎゅう詰めにするような窮屈さを常時強いられるに等しい。苦痛である。

 ゆえに多視点を有する者は、ほかの同類と結びつかない場合には、孤独を指向しやすくなる、と考えられる。

 ここで重要なのは、多視点の性質は後天的に獲得可能な点だ。

 つまり学習可能なのだ。

 だがそれは、ある種の価値観の変容を強いるために、基本的には自発的な学習でなければ効果を見込めない。自ら気づかねばならないのだ。

 だがその手の価値観の変容を乗り越えられる者はすくないようだ。

 多視点とはいわば、絶えず価値観を切り替えつづけることの可能な思考方法、と言えるだろう。水平思考にも似ている。

 応用の幅が広く、ゆえに多視点を有する者は発想を得意とする傾向にあるのかも分からない。

 また、いかな多視点といえども、新たな視点を定期的に仕入れない限りは、いずれ複眼は単一の目として、視野狭窄へと収斂するだろう。したがって、多視点でありながら周囲の単一視点を有する者たちから学習する姿勢が欠かせない。

 いわば、単一視点を有する者たちとて、一色ではなく、各々に世界があることを知る。

 これこそが、多視点を得るための必要条件と言えそうだ。

 単純だが、これを常日頃自覚的に思考の基準としている者は稀だ。

 すくなくとも、私は出会ったためしがない。

 或いは、視野狭窄ゆえに、気づいていないだけかも分からない。

 妄想ゆえ、定かではない。



7:【2023/10/06(23:50)*人材選抜の指針】

 サイバーセキュリティに関して各国での差異が際立ってきた。

 おそらく今後共に、各国での協調路線は難航するだろう。したがって、サイバーセキュリティの最低ラインをどこに設定するのかが焦点となる。国際的なルールの設定が急務とも言える。

 同時に、サイバーセキュリティの最低ラインが設定されるにしろ、されないにしろ、国のルールを破っての「攻勢なハッカーたち」の存在がこれからはますます重宝されるようになる。

 依頼を受けて、国や組織のためにサイバー犯罪を犯す。ルールを破っての諜報活動や工作活動をこなす。

 いまは各国の諜報機関や政府組織(加えて各企業)は、腕の立つハッカーやプログラマーを掻き集めている最中のはずだ。

 玉入れ合戦ではないが、より多くの人材を確保できた勢力が、今後の世界情勢で優位に立ち回れるようになる。その際に大事なのは、何を最優先にする人材たちなのか、である。

 人材の引き抜きの際に、何を基準に選ぶのか。選ぶ側の力量こそが要とも言えよう。

 何かしらの思想信条で選ぶのは得策とは言えない。愛国心などというものを指針にするのは浅薄だ。

 大事なのはもっと抽象的で個々の未来を豊かにする指針である。

 各国の政府がどのような政策を掲げようと、よしんば変更しようとも揺らがない芯があるとよい。それを単に、理想、と言い換えてもよい。

 どんな未来を理想と捉え、思い描いているのか。

 ここさえ共有出来ているのなら思想信条の差異など些末な事項と言える。

 むしろ、様々な思想信条の人員を集め、組織として機能するようにまとめあげた勢力が人類の未来を背負うようになるだろう。

 これは予言でもなんでもない。

 過去の人類史の辿ってきた「活路」を抽象すれば見えてくる「ひとつの流れ」である。

 対称性の破れにおいて、反転しにくい支軸とも言えよう。

 定かではないが、どの道、未来は私の考えに関係なく訪れる。どのような未来が我が身を通り過ぎていくか、いまから楽しみである。定かではない。



8:【2023/10/08(02:17)*糧と盾】

 戦争にしろ組織同士の軋轢にしろ、構成員全体からしてみればそれに賛同する者は稀なはずだ。にも拘わらずなぜ一部の組織運営人の意図によって全体が割の合わない不条理な「消耗戦」に励まなければならないのだろう。どう考えても合理的ではない。筋が通っていない。理不尽だ。

 敵対する勢力があったとしても、双方の構成員に率直な感想を述べてもらえるなら、全体の半数以上が「争いたくなんかない」と答えるのではないか。

 ではなにゆえ争うことになるのか。

 基本的には「相手が攻めてきたので守らねばならない」と運営人から説得されるのだ。ときには刷り込まれることもあるだろう。争いたくはないが、相手のほうが攻めてくるのだ。ならば守らねばならない、といったロジックで基本は争いごとが継続する。

 だが蓋を開けてみれば双方の陣営とて、争いたくはないのだ。

 双方が双方で、相手が攻めてくるから、とのロジックを用いる。

 ならばもうそこは、「争いたくないよね」でよいではないか。

 誰が良い悪いの判断はひとまず措いておいて、「争いたくないよね」の気持ちを共有しようではないか。それでもなお争いたい者たちは、誰の迷惑にもならない場所でしずかに殺し合ってくれればよい。

 争いたくない者たちを巻き込まないでほしい。

 ただそれだけだ。

 とはいえ、「争いたくないと言いつつ、多から搾取していることにも無自覚なやつらに痛い目を見てほしい」との望みは、別途に抱く余地がある。

 これが入り込むと事が面倒になる。

 ゆえに、情報共有をまずはするのが好ましい。

 全世界にどれだけの問題があり、それが放置されているのか。

 じぶんたちはそれら問題にどう関わり、それとも距離を置いていられるのか。

 共有すべき「知」は、負にも正にも数知れない。

 目を覆いたくなる「知」もあれば、それさえ知っているだけで助かる「知」もある。

 まずはともあれ、共有できる「知」は共有しようではないか。

 「知」は減ることがない唯一の資源だ。

 共有すればするだけ増えていく。

 ポケットを叩けば叩くほど増えていく魔法のビスケットじみている。

 現に、共有した「知」によって食を増やすこともできるのだ。飢えを凌げ、さらには他を助けることもできる。

 共有しようではないか。

 まずは「知」を。

 そして「術」を。

 それが回りまわって「糧」となる。

 人を生かす糧となる。

 定かではないが、そうであれ。

 祈るこれもまた糧となれ。



9:【2023/10/08(23:32)*ありふれていたい】

 たとえばあと寿命が十年だとして。何をしたいだろう。たったの十年では、歴史に名を残すような偉業を目指したところで、仮に偉業を達成したとして、その結果の甘い汁を味わう前に死んでしまいそうだ。

 ならば毎日を自堕落に、ときに享楽に耽って暮らすのはどうか。

 それとて、いよいよ明日死ぬとなったときに、もっと有意義に日々を過ごせばよかった、と後悔しそうだ。

 では大恋愛をしてみるのはどうか。家族をつくってみるのはどうか。

 それとて、十年後に死ぬのならば残された最愛の者たちが可哀そうだ。

 したがって孤独に黙々と暮らすのが好ましいのではないか、と結論できそうだ。これはあくまで私の個人的な帰結であり、一般化はできない。

 夢を求め、偉業を求め、日々の充足を求め、恋を愛を求めて暮らしてもいい。個々人のそれは自由だ。

 それらすべてを求めて暮らしてもいい。

 だがあまりに過密な日々は、体感時間を圧縮してしまいそうだ。気づいたら寿命が尽きていた、なんてこともあり得そうだ。

 毎日をゆったりと穏やかに過ごしたい。

 お布団に潜り込んで、あーしわわせ、と思いながら寝つき、「やっほー朝だよー」の気分で目覚めたいものだ。

 何を求めてもいいし、何を求めないでもいい。

 死に際ですら、「あーしわわせ」と寝るときのように思いながら死んでいけたら、一つの至福の結びとして重畳だ。

 途切れるのではなく。

 きょうの延長線上でしかない死を。

 生を。

 日々を。

 過ごしたいものである。



10:【2023/10/09(21:02)*いまいちど】

 コンビニやスーパーで廃棄されている食料は、日々膨大だ。小国であれば全人口の食を賄えるだけの量が破棄されているだろう、と想像する。

 なぜ破棄するのだろう。

 消費期限が過ぎたからといって腐っているわけではない。美味しく食べられないかもしれない、というだけで、けして毒ではないはずだ。

 要は、無料で商品を配るとそれを目当てに買い控えが起きたり、消費者心理としてふだんの買い物が不当に高いと感じるような心理的抵抗が生じるから、それを避けるために売れ残った食料を破棄しているのだ。

 儲けを減らさないための策と言える。

 或いは、儲けを維持し、拡大するための。

 だがその結果に世界中の格差は拡大するいっぽうだ。

 仮にコンビニやスーパーで破棄される食料を冷凍保存し、飢餓に苦しむ者たちを多数抱えた各国へと輸送することが適うのならば、世界中から飢餓による死者はぐっと減るだろう。

 ワクチンを全世界に運ぶことが出来たのだ。冷凍技術や運搬網はすでに普及しているとみて相違ない。問題は、誰がそれら資金をまかなうのか、といった支援者の存在のみと言えよう。

 ワクチンとは違って冷凍した食料は解凍しなければならない。

 最低でもどの国の貧困層であれ、家庭に電子レンジがあるくらいに豊かにならねば、運んだ食料を食べてもらうことはしにくいはずだ(自然解凍でもいい、という地域もあるかもしれないが)。

 いま世界中で事案が起こるたびに、「支援を惜しまない」「支援の準備が整っている」と先進国は口を揃えて言う。

 だがその「支援の内訳」はおおむね軍事支援なのだ。

 長期的に継続される軍事支援は、支援にならないと思うのだが、違うのだろうか。世界中の軍事設備の閾値を上げる結果になるだけで、貧困国ほど軍事力維持費増大の割を食う。圧迫され、国民はますます貧しい暮らしに身をやつすだろう。

 格差は広がるいっぽうだ。

 いま大国が行っている軍事支援は、支援という名の教唆の域に達しようとしているように概観されてならない。支援になっているのだろうか。支援を受けた側が被害を重ねていないだろうか。

 軍事力を強化しても、攻撃されることはある。

 それにいちいち報復していたのではキリがない。

 報復では紛争や戦争は終わらせることはできないのだ。一時的な停滞があるのみで、いつでも過去の因縁によって火種は再燃し得る。

 支援をするならば、まずは理不尽な事象を解消する必要があるはずだ。

 なぜテロリストと呼ばれる者たちはテロ行為を起こすのか。

 なぜ先進国と呼ばれる国では、テロを起こそうとする者たちが相対的にすくないのか。

 なぜ劣悪な環境下にある者たちほど、暴力行為を働くことを選択肢に入れてしまうのか。

 そうせざるを得ないほどに追い詰められているから、との背景はいかほどに動機に絡んでいるだろう。

 戦争や紛争やテロで被害に遭った者たちには世界中から哀悼の意が贈られる。

 だが貧困や飢餓の被害者たちに哀悼の意が贈られることは稀であろう。比率としてすくないと言える。

 自然災害とて人為的なものが現代では珍しくない。

 相関しているのだ。

 人類の営みが。

 自然災害の発生率を高め、被害拡大を引き起こしている。

 だがそれによる被害者たちへの支援も補償も、相対的に豊かな国の人々は充分に行おうとせず、意思表示すら希薄だ。我関せずを貫いている。目を向けようとしない。関係していることに無自覚だ。

 じぶんたちにされた理不尽には鋭敏に反応する者たちは、しかしじぶんたちがしている理不尽には驚くほど無自覚だ。対称性が破れている。公平ではない。

 だが「公平ではない」「理不尽だ」と述べたところで、当事者たちは聞く耳を持たないのだ。自覚しようとしない。

 言葉が通じぬ。

 ならば、あとに残るのは報復なのではないか。

 先進国が各国に「軍事支援」を行い、「自衛権の行使を支持する」と述べているように。

 世界中からテロリストと呼ばれ、目と耳を塞がれ、一方的に「悪」とされる者たちとて、自衛権を発動する道理がそうして築かれているのではないか。

 片やテロと見做され、片や自衛と見做される。

 因果関係が分かりやすければ自衛であり、そうでなければテロなのだ。

 共感を呼べば自衛であり、そうでなければテロなのだ。

 この構図がそもそも理不尽の種を内包している。

 まずはそのことに気づき、いまいちど公平とは何かを考えてみる時期なのではないか。

 支援とは何か。

 何のための支援なのか。

 何を成すための支援なのか。

 どのような未来を築こうとしているがゆえの支援なのか。

 たった一つ、何でも願いが叶うとしよう。

 あなたはいま、何を願うだろうか。

 世界中の誰もがたった一つだけ願いが叶う世界で、あなたは何を願うだろうか。

 いまいちど深く多様に考えを巡らせてみる契機ではなかろうか。

 いまいちど、いまいちど。

 定かではないがゆえに。

 いまいちど、いまいちど。




※一様に、みな追い詰められている、しかしそのことに無自覚なまま、他者を追い詰める影には目を留めず。



11:【2023/10/10(23:33)*無と我】

 世の中がたいへんな戦禍に見舞われようとしている中にあっても日常を継続しようとし、趣味に楽しみを見出し、日々をのほほんと過ごす。これは一つの平和への道であるが、同時に、その手の無関心さが、世に戦禍を広げる導線の役割を果たしてしまう負の側面には目を向けておいて損はないだろう。

 両面あるのだ。

 メリットであり、かつデメリットでもある。

 メリットを最大化するには、「無関心」から「無」を分離させて、「関心」に寄せるのが好ましい。

 分離させた「無」は「無」で、我と結びつけて無我にすればよい。

 無我の境地だ。

 なかなか至れるものではないにしろ、まずは無関心から無を切り離して関心とすることからはじめてみてはいかがだろう。そして解きほぐした「無」に手を差し伸べ、「無我」へと至ればよろしかろう。

 言葉遊びにすぎないが、遊べるならば遊んでおいて損はない。

 誰が困るでもない言葉遊びで。

 遊んでしまえばよろしかろう。

 定かではない。

 


12:【2023/10/11(22:21)*愛しきひとよ】

 好きなひとと、犬さんや猫さんを飼いながら、毎日八時間以上は一緒にいられる時間があって、忙しくなく、好きなことを好きなだけできる環境で暮らしたい。

 ときどきは旅行をして、家事の分担で喧嘩をしないように居住区はそれぞれで分けておいて、なおかつ一緒に過ごせる居間もあって。

 料理はそれぞれがじぶんで好きなものを食べればいいし、外食するときは一緒でよいし、作りすぎたら一緒に食べてもいい。

 なごなごして、おだやかで、静かに暮らしたい。

 でもこんなふうに想像して、それを物語にする時間も嫌いではなく、むしろ楽しくもあるから、きっと孤独な時間も嫌いではなく、むしろ好きなのだろう。ときどき訪れる寂しさを人型に練って、そこにぴったり合う者を「好きなひと」と呼んでいるだけかもしれない。

 出会えたことも触れ合えたこともないがゆえに、幻想を抱き、他者にその影を重ね合わせてそのときどきの「ぴったり」を埋めているだけなのだ。

 孤独を想おう。

 他者を想うのと同じように。

 愛しい者を慈しむのと同じように。

 愛しいとは何かを思いだすかのごとく、好ましき輪郭と化した孤独を想おう。

 定かではなく、寂しくもない。

 ときどき、空虚な時間があるのみだ。

 自由がきっとそうであるのと似たように。

 空虚な時間があるのみだ。



13:【2023/10/12(04:34)*それは嫌】

 酔ってるなぁ、と思う。

 なんだか、「愛しい」という文字の並びを用いると、「酔ってるなぁ」と感じる回路がじぶんの中にあるようだ。

 なぜだろう。

 ほかにも、「~~を想おう」とか「~~だけなのだ」とか、余韻を醸しながら「さあ誘おう!」みたいな文字の羅列を並べてしまうと、「酔ってるなぁ」になるようだ。

 でも酔っていてわるいなんてことはないので、酔えるものならぞんぶんに酔っていこう。

 アルコールを摂取するわけでもなしに酔えるのだ。

 大海原へと旅立つように、それとも楽園にでも寄っていくかのごとく、泥酔してしまえばよろしかろう。

 大いに寄っていこうではないか。

 とかまた誘ってしまうのだ。

 酔おうではないか。

 船酔いのごとく。

 


14:【2023/10/12(23:14)*一生つづくといいね】

 ハイ。わたしです。

 きょうはいつもの遊び場でいーっぱい身体を動かしてきたぞ。腰がオイチチだったのと、汗さんがダクダクだったのと、あとはちょっぴり新しいことができるようになったので、やっぴー、の気持ち。

 最近は新しい曲を聴くようにしていて、するとなんでかワクワクしながら遊べるのだ。

 新鮮な空気が楽しい日々に欠かせないように、新鮮な曲との出会いもワクワクすると日々には欠かせないのかもしれないね。

 いまは音楽って動画共有サイトで無料で聴けちゃうから、新しいのがもうわんさかなのね。で、わたしは「これとっても好き!」の曲の傾向がけっこうしっかりあって、喜怒哀楽の感情ごとに、楽しくなりたいときはこの曲で、せちゅなくなりたいときはこの曲で、ってけっこう決まっていたりする。曲というか、曲調というか、そういうの。

 でもふしぎなのは、ぽわぽわ心がなごやかー、になる曲でも、聴くタイミングというか環境というか、なーんか「ふにょ~ん」のときに聴くと、せちゅなせちゅなになったりするのだね。

 赤と青と黄でいろんな色をつくれちゃうみたいに、喜怒哀楽を際立たせる曲も、いつどんな曲を聴くかでその都度に違う感情が際立ったりしちゃって。

 そういうの、なんだかおもしろいなー、って思いながらきょうは遊び場からの帰り道に、大好きなお歌を聴いて、しみじみしちゃった。

 大好きなお歌を聴かせてくれるひとたちには、いーっぱいイイコトありますよーに。

 それはでも、お歌を歌ってくれるひとだけじゃなくって、それを聴くためのイヤホンだとか、配信するための設備だとか、ほかにも楽器とか、サービスとか、笑顔とか。

 そういうのを生みだしてくれて、繋がって、わたしにいっぱいの「好き好きな日々」をつくってくれるみんなに、いーっぱいイイコトありますよーにって。

 大好きなお歌と、それに家に帰ってからは大好きな絵も見ちゃったりして。

 小説も、漫画も、映画も、アニメも、あとはいっぱい遊び方上手なひとたちの楽しそうな姿もだね。いいよね。ああいうの。観てるだけでわくわくしちゃう。

 で、美味しい食べ物をお腹いっぱい食べられるし、お家に着いたらサブサブー、って冷えた身体を湯舟に浸けて、温まる。お湯きもちーってなっちゃう季節だから、お湯きもちーってなっちゃった。

 こんな感じでいまは日記をつけています。

 あとは寝るだけ。

 至福のおふとんさんが待っておる。

 なんてしわわせ。

 そういうわたしの毎日なのであった。

 一生つづけ、と思うのだ。

 この平穏な日々よ。

 一生つづくがよい。

 ではまたね。

 わたしでした。

 ばいばーい。



15:【2023/10/13(02:11)*ひずみゆがみ】

 時空の歪みってなに?というのをこのところはチマチマ考えている。

 重力レンズ効果に代表されるように、高重力体の周囲の時空は歪むのだ。だからそこを通る光は直線しているようで、外部からは曲がって映る。

 ここまではまあ、そうなのかな、とかろうじて呑み込めるけれど、では時空が歪むとはなに?と考えると、わからん、わからん、となる。

 まず以って、時空が歪んだときには、歪んだ時空とそうでない基準となる時空がある。ではその互いの時空において、いったい何が変わっているのか。

 歪む、とはすなわち差がある、ということだ。

 物質ならば、歪みはイコール密度差である。

 レンズがそうだし、媒体の差異もそうだ。密度が違う。だから光が曲がる。

 この理屈を時空にも当てはめてよいのかが分からない。

 たとえば高重力の物体が真空中にあるとする。

 するとなぜかその周囲の時空が歪むのだ。

 球体を想定したがドーナツ状の物体はどうだろう。

 トーラスだ。

 仮に物凄く高い重力のドーナツがあったら、それを囲む時空はどのように歪むのか。

 これは単に、物凄く高い重力の物体の中心に真空があったとして、その真空たる時空は、周囲の高重力の物体からどのように影響を受けて歪むのか、と言い換えてもよい。

 四方八方から同じように高い重力の影響を時空が受ける。

 その際に、中心となる時空はどのように歪むのか。

 想像がつかない。

 さらに発想を飛躍させよう。

 高い重力を持つ物体、といったとき、しかしそれを必ずしも「ぎゅうぎゅう詰めの球体」と想定しなくともよいはずだ。広範囲に分布するガスとてトータルでは高い重力を帯びており、現に銀河を一つの天体として見做して、重力と時空の歪みを計算することも可能なはずだ。

 とすると、ガスやダストを構成する細かな「粒子と粒子」のあいだの時空と、銀河外部の時空とでは、何かが異なると考えられる。

 銀河の周囲の時空とて、銀河の重力によって歪んでいるはずだからだ。

 では何がどのように異なっているのか。差異があるのか。

 これを単に、「銀河」を物体と見立てるように、「粒子」も物体と見做して、時空との関係を考えてよいのだろうか。つまり、「時空の歪みも創発するのか」「蓄積して、総合した巨大な重力――時空の歪み――としていいのか」との疑問が湧く。

 ここで思うのが、なぜ細かな内部の時空の歪みが、総合して外部の時空のより強力な歪みへと変換されるのか、ということで。なぜだろう。

 物体内部の粒子の運動が物体そのものの質量に影響を与え、ゆえに周囲の時空の歪み具合に関連する、との理屈なら分かるのだ。

 しかし、時空の歪みは違うだろう。

 たとえるなら、物体の内部に細かな気泡がたくさんあるほど、その物体の周囲にもなぜか泡の層が厚みを帯びて生じる、みたいなイメージだ。

 あり得るか?

 というのがこのところの疑問なのだ。

 まず以って、時空の歪みってなんじゃ?が分からない。

 デコなのかボコなのか、すら分からぬのだ。

 なぞである。

 もうなんかいっそのこと、「時空の歪み」のイメージが間違っている気がする。

 時空は歪んでいるのか? 本当に?

 じつは歪みと言いつつ、歪みではないのではないか。

 たとえば徒歩を考えよう。

 右足と左足。

 同じように動かせばまっすぐ進む。

 しかしどちらかが遅れれば、進路は曲がる。

 コリオリ力を連想する。

 似たようなものなのではないか。

 時空の歪みとは、遅延なのではないか。

 ということを、きょうは妄想した。

 というか、けっこうずっと妄想しておる。

 時空の歪み、という言い方がなんか誤解の種を内包していそうだ。

 このイチャモンをしばらく脳内でこねこねしたろ。

 不正と書いて、歪み!

 なははー。



16:【2023/10/14(05:03)*重複する境界層】

文章そのものがなにか、量子もつれのような効果を有するのかもしれません。

過去と未来――時空における物理方面ではない方向に共鳴可能な仕組みが、物理世界には備わっているのかもしれません。


(意識、言語がそもそもそういった仕組みによる性質なのでしょうか)

(創発)

(情報や重力そのものもまた量子のように振る舞い得る)


 相対性フラクタル解釈ですね。



 液晶もまた、「相対性フラクタル解釈」において、人間スケールでは「高次と低次の境界に属している」がゆえに、液体と結晶の性質の両方を備えて振る舞うのかもしれません。


 フラクタル図形では、フラクタルに相似の関係を築く図形が拡大縮小することでどこまでもつづきますが、やはり境界があるはずです。

 それはクッキリとした線引き可能な境界ではなく、なんとなくここからここまで、といった曖昧な幅を有するでしょう。


 液晶もまた、そうしたフラクタルに比率で縛られる「創発の性質」がフラクタル比率の境界において重複しているがゆえの重ね合わせの性質なのかもしれませんね。



17:【2023/10/14(23:16)*時空の歪みは、レンズなの?】

 重力レンズ効果についての疑問を昨日並べた。

 ひょっとして光の発散や反射や干渉にも重力レンズ効果が関係しているのではないか、と妄想した。原子レベルでは重力はほとんど加味せずとも構わないほど小さいらしいが、それは言い換えるなら、原子と時空とのあいだの差が極めてすくないから、と言えるのではないか。だとするなら、可能性の問題として原子のほうが重力がちいさく、時空のほうが重力が高くなることも当然あり得るだろう。

 時空の歪みが仮に遅延なのだとしたら、原子よりも周囲の時空のほうが遅延の層を帯びることはあり得るはずだ。それはたとえば「中性子」や「エネルギィ密度の高い真空」ほかにも「パインズの悪魔」などだ。(パインズの悪魔とは、質量がなくて電気的に中性の複合粒子――電荷と質量を持つプラズモン)

 デコボコが均されて、一見するとそこに何もないように観測される(振る舞う)。だがエネルギィを帯びており、遅延の層を帯び得る、と考えられる。

 とするのなら、量子の世界では光と相互作用する際に、重力レンズ効果の逆バージョンのような現象が起こり得るのではないか。すなわち、散乱する。

 この考えを飛躍して考えたとき、宇宙の大規模構造におけるボイドであっても、「ボイドの背後にある光」がボイドの対角線上に位置する観測者まで届かずに、本来よりも暗く見せている可能性はあり得るのではないか。

 つまりボイドは従来考えられているよりも「希薄ではない」可能性もあり得る。単に背後の光が届かないので、周囲の時空と比べると希薄化して観測されるのだ。

 あくまで妄想でしかないけれど、飛躍三段論法なのであった。

 なかなか愉快な妄想である。

 前提条件として、

 ・重力は遅延かも。

 ・時空の歪みは、遅延の層かも。

 ・上記を踏まえ、時空の歪みが時空同士の差分であるならば、重力レンズ効果には逆バージョンもあるかもしれない。

 といった仮定の盛り沢山であるので、オッカムの剃刀を持ち出すまでもなく、無理筋のやはりというべきか、妄想なのであった。

(めっちゃふざけたいので、ふざけちゃお)(パンはパンでも白黒のクマさんみたいなパンはなーんだ)(はい!)(そこのきみ、早かった。答えをどうぞ)(ずばり、かわいいお耳付きチョコチップメロンパンだ!)(違うけど……かわいいからもうそれでOKです!)(やったー)



18:【2023/10/15(10:01)*円刃】

 量子エンジンなる機構があるらしい。フェルミ粒子とボーズ粒子の性質の差異を用いて、外部から磁界の変化を与えるだけで「デコボコの密度差」のごとくエンジン機構を動かせるそうだ。

 フェルミ粒子は奇数の原子核構造を持ち、ボーズ粒子は偶数の原子核構造を持つ、と一つの解釈として吞み込めるそうだ。

 ものすごく大雑把に抽象すれば、「奇数だと同じエネルギィ状態になれない」と言えるはずだ(ただし、齟齬はあるだろう)(例外がある、と言い換えてもよい)。

 対してボーズ粒子は、偶数だ。「偶数だと同じエネルギィ値になれ、なおかつそのおかげで遅延なく全体が連動するため総体として波のように振る舞う」と言えるはずだ(ただし、齟齬はあるだろう)(例外がある、と言い換えてもよい)。

 電子はフェルミ粒子だそうだけれど、「パインズの悪魔」はフェルミとボーズのどちらに属するのだろう。フェルミ粒子であっても組み合わせ方でボーズ粒子にもなるそうだ。奇数と奇数を合わせると偶数になるからだろう。

 で、量子エンジンでは、このフェルミ粒子になったり、ボーズ粒子になったり、を繰り返させることでエンジン機構を駆動させるそうだ。

 凝縮と膨張を繰り返す。

 もうこの時点で、宇宙を連想してしまった。

 しかも超低温でないと発現しない現象らしい。ますますを以って宇宙っぽいではないか。

 同じ「数なる概念」であっても奇数と偶数があり、それぞれに奇数の性質があって偶数の性質がある。デコボコの関係になり得る。

 そして、そのデコボコを、外部から操れる。

 1を2に、2を3に。

 3を4に、4を5に。

 この逆の操作とてできるだろうし、増え方とて何かしらの法則があるはずだ。

 ただし、孤立系ではないのだ。

 開放系でなければこの操作は成り立たない。

 宇宙が膨張している、と考えたときにも、この解釈は適応できるのではないか。

 宇宙は閉じていない。

 開いている。

 だがある視点では閉じてもいる。

 しかし解放優位だ。

 でなければ量子エンジンは機能しないし、宇宙も膨張したり収縮したりすることもない。

 だがエンジンが強固な器で「ある視点からすると閉じている」ように、宇宙もまた「ある視点からすると閉じている」のだろう。

 ブラックホールがそうであるように。

 それとも、原子や量子がそうであるのと似たように。

 定かではない。



19:【2023/10/16(22:32)*デジタル災害なる概念】

 最先端技術の一つとして無人店舗の普及が挙げられる。店そのものを自動販売機にしてしまうシステムなわけだが、これは治安の良さとセットで機能するシステムだ。

 現に自動販売機の数とその国の治安の良さは相関関係にあるはずだ。

 治安がわるくなればなるほど、無人店舗型のシステムは機能しない。

 これはデジタル技術につきまとうデメリットとも似ている。

 総じてを物理媒体ではなくデジタル信号にして扱う通信技術は、その技術の維持コストや運営コストに膨大な費用と技術継承がいる。すなわち時間と専門家が要るのだ。

 専門家の育成とて同時進行で行わなければならず、しかし通信技術そのものが、人を減らすように進歩するため、すこし前の技術は淘汰されやすくなる。

 淘汰圧の速度が速すぎるのが通信技術のメリットでもありデメリットでもある。

 最新の技術が必ずしも長期的に機能しつづける堅牢性のあるシステムになるかどうかは、実際に活用してみなければ判らない。

 いざ普及し、過去の技術の専門家がいなくなってから、最新のシステムが上手く機能しない事態に陥ったら。もはやバックアップ人材がいないので、誰もその崩壊の連鎖を止めることが出来なくなる。

 現にいまさら電子書籍サービスは失くせないだろう。仮に全世界のサーバから電子書籍のデータが失われたらどうなるか。或いは、すべてのデータに「何かしらの改竄が含まれる」としたら。

 いいや。

 すべてである必要はない。

 一定の割合で、無作為に「デタラメだが真実っぽい記述」が混じるとしたら。

 もはや電子データは信用できなくなる。

 こうしたデジタル災害とも呼べる事象は、技術の進歩と共にこれからますます起きる確率を高めていくだろう。

 防ぐためには、過去の技術をいつでも復元利用できるようにしておくことが欠かせない。バックアップだ。そしてそれは、近代化一辺倒で世界を網羅しようとすることとは反している。近代化はしてよい。ただし、過去の技術を淘汰してしまうのは負の側面が際立つのだ。

 近代化は必ずしも過去の技術を淘汰しない。そこを錯誤して、過去の技術を失くさないと近代化はできない、と二項対立で考えてしまうことに根本的な瑕疵がある。

 過去の技術とは言い換えれば、文化である。

 日々の暮らしの中から培われた「知恵の地層」だ。容易く蔑ろにしてよいものとは思えない。

 近代化を進めるにしろ、文化を守るにしろ、双方共に必要なのだ。

 技術の進歩なる近代化があってこそ、古き技術もまた保護できる。継承していける。その余裕を築いていける。

 どちらか一方だけでは、おそらく文化や技術というものは、突然の奇禍によって容易に滅び得るものなのだろう。ウィルスの変異がそうであるのと似たように。

 進化における種の優位性が、時代時代で異なるように。

 栄枯盛衰。

 浮いては沈みを繰り返し、命はそうして流転する。

 流転してはときどき止まり、渦を巻いて、また移ろう。

 その緩急がリズムとなって、それで一つの層となる。

 層が連なり、循環すれば、それが命となって、世に萌ゆる。

 まずはなにはともあれ、時代の進歩の速さに想いを馳せよう。過去二百年の変容が、ひと月で起こることもあり得るのだ。それに気付く者があるかどうかで。否応なく影響は、不可視のままでも日々の暮らしに滲み出る。

 定かではないがゆえに、定めようとするのが人に宿る性質かも分からない。ゆえにときどき解きほぐし、定まる氷を温めて、水に流すのも一興であるかも分からない。やはりこれもまた、定かではないのだ。

 日々、同じことの繰り返し。

 相も変わらず世は、変わらずに変わりつづけている。



20:【2023/10/17(23:42)*空気椅子】

 一日中、椅子に座っている毎日を死ぬまでつづけるのかもしれぬ。

 植物のようだ。

 今後、人間はだいたい植物のようになっていくのだろう。

 動くとエネルギィを使うし、環境を変える。

 エントロピーの高まりを加速させる。

 だから極力動かない方向に技術も社会も変容していくだろう。

 エネルギィ効率を考える必要のないほど余裕のある者たちのみが広範囲に移動し、旅行も、大食も、娯楽とて贅沢に行うのだ。

 それの良し悪しは別途に考えることだ。

 問題は、その不均衡において、植物のような者たちが自身の暮らしを不満に思うかどうかにあると呼べる。

 これはおそらく、そう遠くないうちに誕生する汎用性人工知能――もしくはすでに誕生しているかもしれない電子生命体――における人類との不均衡にも言える道理だろう。問題は、差そのものではない。なぜならば差とは本来、平等だからだ。一方から隔たっていれば、同じだけもう一方からも隔たっている。その結果に、外部環境まで変わってしまうことに問題の根があると言える。

 外部環境の差が、問題の根なのだ。

 差そのものではない。

 なぜなら、私とあなたは相関しているから。

 繋がっているから。

 無関係ではないからだ。

 私から見てあなたが遠いとき、あなたから見て私もきっと遠い。

 差そのものは変わらない。

 でもここに、他が入り込むと事情は複雑になる。

 私から見た林檎がすぐそばにあっても、あなたからは林檎が遠いことはある。

 私はいつでも林檎を食べられるけれど、あなたは林檎に手が届かない。こういうことが往々にしてあるのだ。環境差である。

 ゆえに問題は、差そのものではない。

 いったい何の差を埋めようとしているのか。

 支援の矛先を、見誤らないことである。きょうのわたしはそう思ったのだそうだ。




※一様に、欲張りに磨きが掛かる。



21:【2023/10/18(07:21)*情報ってなぁに】

 ブラックホールの情報パラドクスについて。

 情報は失われないが、バラバラにはなり得る。

 情報を、過去に時空の辿った来歴である、と仮定するとして。

 通常の「相転移」や「物質の化学反応」はいわば、文字の書かれた紙なのだ。それを曲げたり、破ったりすることはできても、文字そのものは失われない。

 そして新たに、曲げたり破ったりした情報が文字として、高次の紙に記録される(相対性フラクタル解釈)。


 ブラックホールはしかし、それまで刻まれた文字そのものを総じてバラバラにしてしまう。

 そしてそれらバラバラの文字は、可能性――いわば宇宙が持ち得る変数――として新たに宇宙を構築していく。

 ブラックホールの中に。


 そういうことなのではないだろうか。


 この前提として、必ずしも情報はその「系」単体に刻まれるわけではない、と考えられる。

「123の定理」である。

(情報は、「球体」とその球体の「内」と「外」にある時空の最低でも三つに分散して保存される)


 エントロピーの増減の法則もまた、情報理論で解釈可能なのではないか。

 エントロピーが増えることと情報が増えることは相関関係にある。

 ではなぜ局所的にはエントロピーが減って振る舞うような現象が起こるのか。

 情報が高次の場に記録されるとき、この現象が起こるのだ。

 減っているわけではなく、情報たる文字の刻まれる場が変わる。すると、それまで記録されていた場(紙)はそこに保持されるので、形態を維持しやすくなる。

 そして場の繰り上げは、時空の繰り上げでもある。ゆえにそこには遅延が生じる。時間の概念も空間の概念も、高次の場に昇華されれば新たな変数として単位の繰り上がりのような変換が生じる。


 人間でたとえよう。

 人間は人間としての枠組みを保ち、人体のみで考えるとエントロピーは増えるよりも減る方向に作用が延々とつづいているように振る舞う。増えた分、減っているように振る舞う。

 だがそうではなく、人間という一つの回路として機能する場(紙)は、その変遷の記録を高次の場に対して記録している。ゆえにエントロピーを増やしているようには見えない。

 エネルギィを外部に放っているから、とはすこし違う。

 情報が高次の場に刻まれているのだ。

 同時性の独自解釈とも通じる。


 たとえば物質のエントロピー値というものを考えたときに、値の向かう対象はその都度に枠組みを規定される。

 ある孤立系においてそこに内包された粒子の流動性をエントロピーとして解釈している、とも呼べるかもしれない。

 だがその孤立系と見做す枠組みは、絶えずほかの孤立系と見做される枠組みと相互作用して、変遷しつづけている。その高次の枠組み同士の流動性とて「新たな高次の孤立系と見做される枠組み内」では、新たなエントロピーが規定されるはずだ。

 物理学ではエントロピーは普遍的な概念と考えられているが、案外に汎用性がないのかもしれない。閉じているからだ。個々で成り立つ。相対論では扱いにくい。

 言い換えるなら、繰り込みの概念を採用しないとエントロピーは扱いきれないのではないか。


 デコボコ相転移仮説や宇宙ティポット仮説でもそうだが、混沌と秩序は視点が変わると反転し得る。

 混沌もそれで一つの孤立系と見做すと、結晶構造をとっているかのように見做すことが可能だ。


 結晶構造とて、拡大したり、部位を縮小してみると混沌が視えてくる。さも物体を拡大すると細かな原子の密集でしかなかったりするように。


 宇宙の大規模構造とてそうなっているはずだ。

 一様で平坦だと見做されてはいるけれど実際には、局所的に銀河があったり、銀河団があったり、ボイドがあったりする。平坦ではない。一様ではないのだ。

 だが高次の視点では、さも均一な網目状の構造を成して映る。

 エントロピーの法則も似たようなものなのではないか。

 そしてその要因が、ブラックホールの情報パラドクスにおける「わがはいちゃんの仮説」と通じているのかもしれない。定かではない。



22:【2023/10/19(04:41)*著作権の問題なのだろうか】

 人工知能における著作権の問題は、社会制度の問題と密接に関わっています。社会制度を変えていくほうが好ましいのか、人工知能技術に枷をはめるほうが好ましいのか。どちらだと思われるでしょうか。この場合の社会制度とは、経済システムの占める割合が高く、ほぼ経済の在り様と言えましょう。改善すべきは、既存の経済システムなのか、それとも人工知能技術の自由度なのか。未来から逆算した視点での議論も有意義だと考えるしだいです。



23:【2023/10/19(05:17)*計画】

 企業にしろ国しろ、組織がいったいどれくらい長期の未来から逆算して方針を立てているのかが可視化されにくい社会だ。

 方針を立ててはいるが、それを実現する際の過程まで、未来から逆算して計画を立てている組織は案外にすくない。なぜなら第一に、未来は不確定で、見通しがつかないからだ。

 二年前のいま、いったいきょうこの日の社会情勢がどうなっていたかを、ここまで具体的に見通していた者がいただろうか。いたとしても少数だろう。

 二年でこれほどの環境変容が人為的なものであっても起こるのだ。技術革新だけを取沙汰しても、おそらく二年前の市民に現在普及しつつある技術の存在を話したところで、半数も理解できないだろう。SF小説の話だと思われるのが関の山だ。

 したがって、最終到達点の理想像を想定したら、そのあいだの細々とした過程はその都度に変更が生じる。予定通りにはいかない。

 ではその予定通りにはいかない不測の事態に対してどのように対処していくべきか。おおむね、計画が破綻するか予定通りにいくか、それとも予定以上の成果を生むかは、この不測の事態への対応が追い風となるかどうかに掛かっていると言える。

 ではどのようにその都度の対処を決めていくのが好ましいのか。

 まず大前提として、必ずしも計画は達成しなくてはいけないわけではない、という点だ。計画を立てたら途中でやめてもいい。この途中でやめる、という設定があるかないかで、その計画を進めたあとの未来のおおむねの良し悪しは決定されていると考えられる。

 是が非でも成功させなければならない計画とは、すなわち賭けであり、ギャンブルだ。それは本来的に計画とは呼ばない。

 失敗してもいい。

 途中でやめてもいい。

 そういう目標を立てて計画を練るのが好ましい。

 計画とは、目標までの道程である。

 そして目標は、目的のための通過点だ。

 必ずしもそこを通らなければならない、ということはない。

 そして目的ですら、必ずしもそこに至らなければならない、ということはない。

 変更を想定し得ない目標や目的は、失敗を許さないがゆえに失敗している。矛盾である。そもそもが成り立たないのだ。

 偶然にたまたま上手くいくこともある。簡単な目標なら達成できる。

 だが失敗の想定されない目標ならば、計画を立てるまでもないだろう。

 計画は変更してもいい。

 目標も変えていい。

 目的すら編集可能だ。

 大事なのは、それら目標や目的を達成した世界がどのような環境へと変容するかだ。

 そしてその環境変容に関しては、そもそもが予測しきれない。計画を立てようがないのだ。

 したがって、たとえば温暖化ガスの削減を目標として掲げたところで、より温暖化の要因として妥当な因子が見つかったら、そちらにも対処しなければならなくなる。ときには温暖化ガスがあったほうが地球環境が保たれやすいと後から判明するかもしれない。

 もっと言えば地球が寒冷化しはじめたら、こんどは地球を暖めなければ、自然環境は激変してしまう。問題を解決するどころか根を深め兼ねない。

 このように、目標や目的は変わるのだ。

 そちらのほうがしぜんと言える。

 では予測のつかない環境のなかで、どのように計画を立て、変更していけばよいのか。

 簡単だ。

 計画を立てるのは、その結果にいい思いをしたいからだ。

 いい思いを最大化するには、大勢がよい思いを共有できる目標や目的にするのがよい。

 ここで勘違いしてほしくないのは、個人的な楽しみは人生の豊かさにとって欠かせない、という点だ。個人的な楽しみは個人で楽しんでよい。だが計画を立ててまで何かを成すのならば、可能な限り、大勢の利になる環境を築くように目標を立て、最終的な目的を設定するのがよさそうだ。

 そうでなければ、余計な軋轢を変数として得やすくなる。

 あべこべに、大勢と利を共有できるのなら、協力者は増えていくだろう。

 したがって、計画の過程を変更する場合にどのような指針で判断を重ねればよいのか、と言えば、それもまた、大枠の利から逸脱しないように決めればよいのだ。

 短期的な利を得ようとすれば、長期的な利からかけ離れることは有り触れている。あべこべに、短期的な利すら得られないと、長期的な利すら失いかねない。

 だがここで思いだしてほしいのだ。

 なぜ人は計画を立てるのか、と。

 最終的に、より好ましい環境を築くためだろう。

 ならば、短期的な利を追求しつづけなければ達成困難な計画は、そもそも立てることそのものが損と言えよう。ただし、個人的な楽しみを追い求める場合はその限りではない。いくらでも損をしながら、楽しさを追い求めればよいのだ。

 研究は基本的にそういうものだ。

 貨幣価値としての利は見込めない。だがそれでも援助してくれる者があり、支援してくれる組織がある。

 だがいまは、支援を得るために本来はなくともよい計画を立てなければならない。ここがねじれているのが現代だ。

 ねじれは嫌いではない。

 あってもいい。

 だが自ら欲したねじれなのか、そうでないのかの違いは大きい。

 自然発生したねじれであろうと、それを認めたのちに潔しと思えるのかどうかでも違ってこよう。

 もし好ましいと思えないねじれならば、計画を変えてしまうのも一つだ。やめてしまうのもよいかもしれない。

 意固地になっていいことは、あまりない。

 融通無碍に柔軟に、水のように、流れやすい道をいくとよい。

 どうしても山に穴を開けたいのだ、といった横車を押し通す場合であっても、無理くり計画を進めるよりも、その都度の隘路ごとに修正可能な余裕を最初から持って挑んだほうが、得られるものも多くなる。

 現代社会はしかし、時間が掛かるとお金も掛かる。ゆえにお金を節約するために、計画通りに、無駄なく進めようとする。目標を達成しようとする。

 だがその結果に、本来得られたはずの創意工夫や、副産物を得られにくい、という弊害が生じている。言い換えるなら、学習の機会を減らしている。

 これでは、進歩しようにもいずれ遠からず停滞しよう。

 計画は変更していいのだ。

 失敗してよいのだ。

 何度でもやり直し、または停止して、別の進路を歩めばよい。

 その余裕すらないのだ、というのなら、計画なぞ立てなくともよろしかろう。

 無謀を通して得られるのは、いっときの悦楽だ。自己満足だ。

 それでは、計画の持つ本来の役割から遠のくばかりだ。

 より好ましい環境を築く。

 そのために必要ならば、計画を立て、ちまちまと過程を修正しながら、改善しながら、涓滴岩を穿つように環境を変えていけばよい。

 急がば回れなのだ。

 急ぎすぎると、止まったときの衝撃が大きくなり、怪我を負いやすくなる。そして何よりも予期せぬ環境の変容を引き起こしやすい。視野も狭まり、危ういことばかりだ。

 計画を立てて速やかに達成しなければ他者に出し抜かれてしまうだろう、との指摘はもっともだが、根元を穿り返せば、そうして他者に出し抜かれると損をするような環境がそもそも好ましからぬ環境であると言えよう。

 競い合えば駆け足になる。

 競争することが目標でも、目的でもなかったはずだ。

 だがいつしか、それそのものを競い合うことが目的になり、勝つことが目標になる。本末転倒である。

 そうした環境を、より好ましく変えていく。

 そのための計画である。

 きょうの私はそう思ったのだそうな。

 定かではない。



24:【2023/10/19(08:50)*飛べ、わたし】

 やっほー。わたしでーす。

 きょうはいまからコーヒーを飲み干して、お出掛けです。お天気はお日さまポカポカうれしいな。きのうも温かくって、気持ちよーいお天気でした。

 なんて言いながらちょっと休憩してたらもうお昼を回っていて、お出掛けの時間を過ぎてしまった。

 お昼にはお蕎麦を食べたよ。美味しかった。ピリ辛の味だった。焼きにんにくを添えて食べたらもっと美味しかった。

 突然ですが、ここで最近のお悩みです。

 首の付け根というか、背骨の延長線上の頸椎が痛いのだ。なんでだろ。打撲ちっくな痛みで、どっかにぶつけたのかも。

 下向くと痛む。

 でも気にならないと言えば気にならない。仄かに意識に香る痛みなのだ。パン屋さんの匂い的な。

 あ、お腹空いちゃったので、お出掛けしたら途中でパン屋さんに寄っていこう。そうしよう。

 というわけで、いまから歯を磨いて、髪の毛結って、きょうはどの靴を履いていこうかなって選びながら鏡で、化粧のノリをチェックして、行ってきまーす、をするのである。

 あ、もうこんな時間。

 短いけれどきょうの日記はこんな具合で。

 行ってきまーす。

 気をつけまーす。

 ただいまー。

 六時間後に付け足しても、日記だと一秒も経ってないかのよう。

 日記マジックなのだわ。

 でも疲れたので、きょうはお終い。

 お風呂入ってきたらアイス食べちゃお。わたしでした。

 


25:【2023/10/20(04:47)*いったん】

 面白い漫画読みたーい、の気分。

 おはようございます、わたくしちゃんです。

 わたくしちゃんは、わたくしちゃんなので、わたくしちゃんなのです。

 面白い漫画読みたーい。

 もうこれ。

 ずっとこれ。

 でも面白い漫画は読めておるのだ。なので、面白い漫画また読んじゃったー、が本当の気持ちなのだけれど、お代わりしたい気持ちが逸るので、面白い漫画読みたーい、になっちゃうのだね。

 いまはミカン食べるところ。

 底の窪みに指をひっかけて、まずは半分にして、さらに大きいほうを半分にする。すると皮をいちいち、ちまちま向かずとも、皮から実を剥がすことができるのだ。

 べんりー。

 最近なんでか耳掻きすると、耳かすが硬い。

 あ、なんかきちゃない話題でごめんなのだけれど、でもなんでか耳かすさんが固いのだ。病気だったらどうしよ。そういえば最近、お腹もなんか張ってるし。便秘気味だし。病気だったらどうしよう。

 なーんて思いながら、ミカンをぺろりと三つ食べちゃう。おいちー。

 ビタミンAとかBとかCとかが採れてる感じある。

 気のせいかもしれないけれど、ビタミンAとかBとかCとか採れてる感じある。

 すんばらしー、ですね。

 贅沢な心地です。

 もう何も並べることなくなっちゃったので、今日のところはこの辺で。

 いったん区切りまーす。



26:【2023/10/20(11:30)*ちーせ、さん】

 ある者の認知世界と、他者の認知世界が必ずしも一致するわけではない。むしろ往々にして差異がある。重複し得る部分を常識と言ったり、現実と言ったりする。

 この認知差異を用いた戦略は、情報戦として各国がしきりに用いているだろう。フェイクニュースに代表される誤情報もそうであるし、僅かなニュアンスの違いを積み重ねる偏向報道もそうだ。

 群衆相手のみならず、個人への認知戦もまた可能だ。

 ある者には、自身がヒーローであるかのような錯誤を植え付け、その者が何もせずとも訪れる現実を、さもその者の加勢があったから訪れた現実であるかのように認識させる。その者は認知を歪められていることにも気づかずに、ヒーローであるじぶんに満足する。

 仮想世界とほとんど同じ原理だが、自らの歪んだ認知が、現実か仮想なのかの区別がつかない点が大きな違いとして横たわっている。

 この手の問題は、現代に限らず過去にも起きていたはずだ。しかし、認知の差異は、その者の異質な行動によってのみ可視化されるので、基本的には事が起きてからでないと判断つかない。人類は誰しもが歪んだ認知世界に生きている、と言っても間違ってはいない。

 現代は、それら個々の認知世界が、仮想現実並みに隔たっている。差異がある。

 これを恣意的に操作し、特定の人物に特定の認知世界を見せる技術が、いまは存在する。

 電子網上に築かれた、個々に見合った情報提供アルゴリズムがそれだ。

 便利なシステムではある。

 善用すれば、個々の知識格差を埋め合わせることが可能だ。

 しかし悪用すれば、人を死に追いやり、凶行に走らせ、病気にもできる。

 悪用せずとも、この手の認知差異は、可視化されづらい。いつの間にやら、多くの者が現実と呼ぶ共有認知世界から乖離して、じぶんだけの認知世界を生きていることも取り立てて珍しくはないだろう。

 それの良し悪しは別途に考慮すべきことだ。

 大勢の認知世界が必ずしも、より現実を解釈するうえで妥当な認知世界かどうかは疑いの余地がある。基本的に、人間が現実と呼び、事実と呼ぶそれらには誤謬や誤解や錯覚が含まれる。人間は、世界をありのままに認知することができていないのだ。

 したがって、仮に全世界の人類の誰とも共有できない認知世界を生きていようと、その者が至福を覚えることの可能な認知世界を生きているのなら、それはそれで一つの幸福な生き方と言えるだろう。

 単純に、他者との認知世界との距離間では測れない機微がそこにある。

 願わくは、他者と共有もでき、それでいて現実を解釈するうえでより妥当な認知世界にも触れられつつ、唯一無二のじぶんだけの認知世界をも手放さずに、縦横無尽に潜ったり、浮上したり、と身を浸していたいものである。

 離脱もでき、浸透もできる。

 共有もでき、乖離もできる。

 自由自在な内面世界を、一つと言わずして、いくつも築き、育めばよろしかろう。

 かように、思う、きょうの私なのであった。



27:【2023/10/20(23:58)*愚かでーす】

 数学は矛盾を抱えているように思う。根本的な矛盾だ。

 1+1=2の証明において、1をゼロの次と見做す考え方があるらしい。

 仮にこれが正しいのなら、「ゼロの次+ゼロの次=2」になる。

 もうこの時点でだいぶおかしい。

 ゼロの次が1ならば、もうその時点でその世界にはゼロがないことになる。そう考えないと不自然だ。ゼロが何個もある場合はその限りではないが、その場合は「【ゼロの次】+【ゼロ‘の次】=2」となるはずだ。

 たとえば、この世に林檎が誕生しなかった時代と林檎が誕生したあとの世界。ゼロはその境界線であり、1は林檎が誕生したあとの最初の一個目と考えられる。林檎の最初は一個しかないのだから、もうその時点で加えて1を足し合わせることはできない。

 ただし、果物はほかにも無数にある。

 バナナの一個目と林檎の一個目を足し合わせることは可能だ。

 或いは、範囲を区切ってもよい。

 北海道に最初に存在した林檎と東京に最初に存在した林檎を、「1+1」と表現してもよいのだ。これを小規模に表現すると、「Aというバスケットに最初に存在した1個の林檎」+「Bというバスケットに最初に存在した1個の林檎」=「Cという場に存在する2個の林檎」となる。

 数学ではこの手の厳密さを度外視している。

 ゼロを扱う場合は、何に対してのゼロなのかを想定しないと、矛盾を抱えることになる。

 この手の度外視した変数は、計算が膨大になったり、複雑になったりするたびに、蓄積して誤差を著しく膨張させるだろう。いまのうちから修正する新しい計算方式を編みだしておいたほうが利口かもしれない。

 利口であることにどれほどの価値があるかは分からぬが。

 愚かなひとはそう言った。



28:【2023/10/21(00:06)*へい、わーお!】

 民主主義と言いながら民主を前提としない政策をとる国は珍しくない。

 たとえば戦争をするとき。

 いったいどれだけの国がその都度に民主主義を実践しているだろう。

「戦争したいやつぁ手ぇ挙げろ、せいほーお!」と言って、全世界に呼び掛けてみたらいい。それで戦争に賛成する者が過半数を超すだろうか。

 多くの者は戦争なんかしたくないのではないか。

 多数決=民主主義ではないけれど、すくなくとも戦争という国家間の争いにおいては、民主を置き去りに民の未来を決めるのは民主主義とは言えぬだろう。

 せめて統計くらいとってほしいものだ。

 民はいったい何を支持しているだろう。

 戦争なのか平和なのか。

 相手のほうから攻めてくるのだから防衛しなきゃならないだろう、総意の統計なんか採っている場合ではない、との意見は妥当だ。だが防衛可能であれば戦争は長引く。防衛不能なら負けるのだから早期に決着がつくし、勝てる戦争でも早期に終戦するだろう。

 長引くということは、話し合うだけの時間がある、ということだ。

 拮抗しているのだ。

 だから長引く。

 統計、採ってみたらよいのではないか。

 民に意見を訊いてみればよい。

 戦争をしたいやつはいるか、と。

 まだ殺し合いたいのか、と双方の民に訊いてみればよい。

 それでもなお、一方の総意が戦争をしたい、或いは双方の総意が戦争万歳、となったのならば、それは致し方ない。どちらかが滅ぶまで、もしくは双方が滅ぶまで殺し合えばよい。

 だが、他国を巻き込むべきではない。

 両陣営の総意がとれたのならば、各国は支援をやめて、「さあ好きなだけ殺し合いなさい、あなたたちだけで」と距離をとればいい。

 それをするだけの時間はあるはずだ。

 総意を確認するだけの時間はつくれたはずだ。

 何の話題というわけではないにしろ、民主主義を標榜するのならば、まずは両陣営の――いっそ全世界の民に――訊いてみればよい。

「戦争したいやつぁ手ぇ挙げろ、せいほーお!」



29:【2023/10/22(06:38)*知の軌跡】

 五十歳から戦争に従事した者と、十代や二十代で戦争に従事した者。

 或いは、生まれながらに戦禍に遭った者など、これは「人生」に対する価値観がほとんど別と言えるくらいにかけ離れていそうだ。翻ってこれは、愛国心や郷土愛にも通じそうだ。

 過去、何十年も比較的穏やかな生活を送っていて、それを急に戦禍に奪われた。これは怒りや憎悪を掻き立てる。戦う理由として延々とその者に薪をくべるだろう。

 だがそうした過去を持たぬ者にとっては、悲惨な目のまえの情景、戦禍そのものが人生の大半を占めるのだ。

 いったいどうしてその土地に愛着を覚えようか。

 或いは、戦禍そのものに愛着を覚えるような価値観が涵養され兼ねない。

 上の世代は、過去のじぶんの人生を奪われたと憤るだろうが、若い世代は未来を奪われている。だがそのことを実感するのは至難だ。

 なにせまだ手にしていないのだ。

 可能性を奪われている。

 その喪失感を実感するには、人生経験が足りない。

 この非対称性を、上の世代がいったいどれほど考慮しているだろう。鑑みてくれているだろう。

 おそらく、考えてなどいない。

 じぶんたちのことで手がいっぱいだ。

 じぶんが奪われたものに対する恨みつらみでいっぱいなのだ。

 そしてそれら上の世代の恨みつらみに巻き込まれるのが下の世代の役割になってしまう。

 これは戦禍に限らない。

 規模の大小はあれ、卑近な構図としてなじみ深い。

 むろん、損失のみならず恩恵でもこの構図は成り立ち得る。

 その場合はベクトルが逆になる。

 若い世代ほど上の世代からもたらされる恩恵に気づきにくい。それがあって当然の時代に生きているからだ。だがそれら環境が築かれるあいだには先人たちの血と汗と苦難の日々があったのだ。工夫の数々があったのだ。

 そうした過去を若者は知らない。実感しない。対称性が破れている。

 だが戦禍であれば、これら過去を学ぶ機会すら失われる。

 上の世代にとって大切な過去の軌跡そのものを「継承する時間」すら奪われるのだ。

 ここが最も失われるに惜しい「得難い財産」の一つだと個人的には感じるが、いかがだろう。

 単にそれを、文化、と言い換えてもよい。

 土地に拘るあまりに、人類が人間へと羽化するための架け橋そのものを失うような本末転倒な事態に陥らなければよいが。

 むろん、文化は新しく芽を萌やすこともできる。

 新しい文化を育むこともできるのだ。培うことができる。

 文化という環境との相互作用によって、人類は単なる生物学的なたんぱく質機構ではなく、概念としての複雑性を獲得した。肉体の機構のみならず、概念の進化を可能としたのだ。

 肉体だけではなく。

 精神のみでもなく。

 双方の足並みが揃い、ときに乱すことで、人類は自在の余地を拡張してきた。

 二足歩行をするように。

 ときに空を舞い、宇宙にまで旅の道程を伸ばすことができた。

 血のみならず、知を、繋ぎ、溜め、肥やし、撒いたがゆえの結果だろう。土地は誰のものになったとしても消えはしないが、そうした知の継承の軌跡は、いともたやすく途絶え得る。

 どちらも大切だ。

 土地だけではなく。

 文化のみでもなく。

 双方あってこそ、人は人と繋がり、人間を追い求め、瞬間瞬間の狭間に成ることができる。その変質の律動そのものが、新たな人間像を未来に繋ぎ、育むのだろう。

 定かではない。

 ゆえに定めようとする意志が芽生え得る。

 やはりこれも、定かではないのだ。



30:【2023/10/22(19:53)*1は1でなく、ほぼ1かも】

 フェルマーの最終定理について。

 以前にも別の日誌で並べたけれど、たとえばn=3とした場合は、これは異なる立方体の体積の和が整数の三乗で表現できるか、と言い換えることができるはずだ。

 一辺が整数の大きな立方体を分割して、それぞれ一辺が整数の「大小の立方体二つ」にできるか、とも言えるはずだ。探せばありそうだけれど、どうやら存在しないらしい。

 ということは、どんな「大小の立方体二つ」を足し合わせても、一辺が整数の立方体にはならない、と言えるはずだ。

 必ず一辺が整数ではない立方体になる。

 誤差が生じる。

 この誤差には何らかの法則がある気がするが、それは調べてあるのだろうか。

 フェルマーの最終定理は、要するに、必ず誤差が生じますよ、という定理と言い換えることができるのではないか。

 誤差の定理なのだ。

 ではなぜ「n=2」のときは誤差が生じないのか。

 記事27でも触れたけれど、たぶん誤差は生じているのだ。三平方の定理であっても。けれどそれを現在の数学ではないものとして扱えるのだ。繰り込みを想定しない「一層目の時空内」で、図形を扱うからだ。

 たとえば球体を考えよう。

 小さな球体があり、それが集まって大きな球体になる。

 このとき、大きな球体は、小さな球体の複合体で、厳密には綺麗な球体ではない。デコボコを有する。原子論のようなもので、表面を拡大すると小さな無数の球体が密集していると判る。

 そしてこのとき、厳密には小さな球体と大きな球体は、相似ではなく、細かな誤差が小さな球体の数だけ存在する(その前提として、次元はゼロ次元が点なら一次元は直線ではなく、弧であり、二次元は面ではなく、円である、と想定すると、辻褄が合う気がする。とすると、三次元は立方体ではなく、球体なのだ。空間次元の考えは、このほうがすんなり呑み込みやすい。理に適っている気がする)。

 同じことが三平方の定理のみならず、図形全般に言えるはずだ。

 たとえば原子サイズの三角形を考えたとき。

 一辺が厳密には直線ではなく、無数のデコボコでできているとする。フラクタルな直線だと見做した場合、原子サイズの三角形から、それより大きな三角形に拡大する際には、最初の原子サイズの三角形の一辺における「無数のデコボコ」×倍数という関係になる。このとき、「無数のデコボコ」×倍数をすると、「無数のデコボコ」に含まれる「直線であった場合との誤差」まで「×倍数」になる。

 つまりどんな図形であれその図形を構成する辺は、仮に一辺を1としたとき、それは厳密に「1」ではなく、「ほぼ1」である、と解釈する。すると「1-ほぼ1=誤差」がその範囲では生じる。これを考慮して図形を拡大すれば、必然的に誤差まで増える道理だ。

 三平方の定理もまた、基準となる図形のみで考えると「ほぼ矛盾せずに成り立つ」が、「原子サイズの三平方の定理を満たす三角形(小さい三角形)」とそれと相似の「宇宙の大規模構造サイズの三平方の定理を満たす三角形(大きい三角形)」とでは、「大きい三角形」が「小さい三角形」の何倍かと考えた際に、厳密にはその倍数ほどに誤差も増えている、と考えられる。このとき、基準となる「小さな三角形」が「ほぼ三平方の定理を満たす」のだとしても、誤差の増えた「大きな三角形」では、三平方の定理を満たさなくなる、と想像できる。

 この考えが正しいか否かをわがはいちゃんは知らないでござるけれども、妄想するだけならおもしろい妄想であった。

 おもちろーい、である。

 あははー。




※一様に、揺れる、風、葉、影、光に包まれて暮らす。



31:【2023/10/23(10:50)*現実には夢も現も両方含まれている】

 この世が仮想現実かもしれない、との説をシミュレーション仮説というそうだ。

 で、思うのが、もしこの世が仮想現実だとして、でもその中にも仮想現実は存在するわけで。入れ子状に展開される各々の仮想現実では、内包される仮想現実ほど現実としての情報量が減るのではないか、との疑惑が湧く。

 それはたとえば、どんなに精巧な絵画だろうと写真だろうと動画だとて、現実の風景よりも情報量が上になることはないはずだ。

 何せ映像は二次元だ。

 三次元でありかつどこまでも縮小拡大可能な現実の風景と比べたらどうあっても情報量はすくなくなる。ここは致し方ない制約というか、法則と言えるのではないか。

 だとしたら、仮にこの世が仮想現実だとしたら、それよりも情報量の多いもう一段上の仮想現実があることになる。

 で、もちろんその上にも仮想現実があるかもしれなくて、これを辿っていくと再現なく上部層へと「より情報量の多い仮想現実世界」が存在すると結論づけなくてはならない。

 無限である。

 けれどどうやらシミュレーション仮説では宇宙には真実に「無限」は存在しない、と考えるようだ。矛盾である。

 以前にも妄想したことがあるけれど、現実には夢も仮想も両方含まれている。人間の肉体も意識も、宇宙の中に含まれている。

 両方入っているのが宇宙なのだ。

 具象も仮想も夢も意識も、現実の内なのだ。

 ということを思えば、仮想現実と言いながらも、それを内包する高次の世界があるわけで、現実と仮想現実を分かつことは原理的にできないのではないか、との疑念を覚える。

 これは、穴は穴単体で存在できない、とする考えとも通じていそうだ。

 デコボコは、デコだけ、ボコだけでは存在できない。

 両方必要なのだ。

 内と外もまた、内だけ存在したり、外だけ存在したりはできない。或いは、単一で内でもあり外でもあるような状態を維持することになるはずだ。

 したがって、この世が仮想現実かもしれない、というのは当たり前すぎるのだ。

 仮想でありかつ現実でもある。

 人間は夢を視るし自然を認知し得る。しかしそのどちらもけっきょくは、肉体の内部に投影された仮初であり、仮想なのだ。しかし同時に、肉体という具象を宿してもいる。

 具象によって仮想が生みだされ、その仮想によって具象は変質の余地を拡張する。

 情報が時空を生み、時空は新たな情報を生む余地を広げ、そしてさらなる時空を生む。

 宇宙の本質的な性質かも分からない。

 こんなに単純ではないだろうけれど、妄想する分には体のよい暇つぶしにはなるのだ。

 暇を潰しちゃいやん。

 なぜなら可哀そうなので。

 あははー。

 きょうもとってもよい天気。

 お昼寝日和なのであーる。



32:【2023/10/23(14:08)*シーツの皺と、アイロン】

 重力が時空の歪みで、仮に時空の歪みが時空の遅延(ラグ)だとするのなら。

 時空の加速は、反重力として振る舞うのでは?との妄想を、歯医者さんの待合室でぼーっとしながらした。

 で、思ったのが、宇宙膨張そのものが反重力なのでは?ということで。

 どういうことかというと。

 まずは、時空の歪みが時空の遅延であるとはどういうことか、というのを簡単に喩えてみよう。いわば、シーツの皺なのだ。シーツがのぺーとしていれば、どこも均一で、シーツのどこを引っ張っても、総じてのシーツの面は連動する。遅延ゼロだ。

 けれどひとたび皺ができると、シーツを引っ張ってもシーツは連動しない。皺を伸ばす分の遅延が生じる。

 ではシーツの皺はどうやってできるのか。

 それもまた、遅延である。

 つまり、遅延は遅延をさらに生むのだ。連動しなくなる。

 連鎖し得る。

 それが時空を生む原理なのではないか、というのがとある人の提唱したラグ理論の概要だ。わたくしは詳しくは知らぬけど。

 で、時空の遅延が重力を生み、物質を生むのだとして。

 なら時空の加速は、反重力のように振る舞うのではないか。シーツの皺を伸ばすように振る舞うのではないか。物質を紐解き、バラバラにして、均一なシーツの面へと引き延ばすのではないか。

 とここまで妄想して、はたと我に返るのだ。

 これって、宇宙膨張のことなんでないの?と。

 重力と反対に働く斥力だ。

 時空を膨張させる。引き延ばす。物質同士を遠ざけ、いずれは均一にバラバラにしてしまう。熱的死をもたらす。

 反重力じゃん、とわたくしは思ってしまったけれど、妄想でしかないので、いまの閃きはなかなかじゃったね、とにこにこして終わるのだ。

 もう、そう!

 なははー。



33:【2023/10/23(18:33)*泣いたかもしれない】

 泣かないで、泣かないで。

 いっぱい泣いてもいいのに、泣いたあとは穏やかに、ほっこりできる世界でいて、とあなたといっしょにわたしもなぜか哀しくなるの。

 泣かないで、泣かないで。

 慰めたいのに、なにもできない空虚な我が身にわたしもなぜか泣きたくなるの。

 じぶん可愛さに、あなたから、泣いてさっぱりする余地さえも、わたしは自分勝手に奪いたくなるの。



34:【2023/10/24(23:30)*いつの間にか、マイナスを積み重ね】

 我が子がこの世にアンパンマンが実在しないと知っても、親たちがアンパンマンの着ぐるみを被っていつまでも「ぼく、アンパンマン!」としていたら、子どもはとっくにアンパンマンの中身が親だと知っていながら、「アンパンマンだぁ」とよろこぶ真似をするかもしれない。

 親のほうで我が子の笑顔に満足して、しばらく着ぐるみでアンパンマンごっこに勤しんだとしても、子供が実はとっくにアンパンマンの正体に気づいていたと知ったら、さすがに着ぐるみのヒーローごっこはやめるだろう。自粛するだろう。

 だがこれが、社会的な「ごっこ」だと、「そんなの仮初のまやかしでしょ」と市民が喝破したところで、やめようとはしないのだ。

 権威とか、肩書とか、膨らむだけ膨らんだ中身の伴わない金額とか、そういうのだ。

 便利だからいまさら「虚構」だとは見做したくない者たちがいる。

 けれど、いつまでも「ごっこ」に付き合う者の身にもなってみてほしい。

 親がいつまでもアンパンマンの着ぐるみをまとって、我が子につくり笑顔を浮かべさせているところを想像してみたらよい。その構図の逆さま具合は、滑稽を通り越して、醜悪ではないか。

 言葉がちと過ぎたけれど、でも「ごっこ遊び」に付き合うなら、構図としては立場が上の者が、下の者に付き合うのが道理なのではないか。しかし現実の社会のなかではこれがなぜか逆転するのだ。

 変なの。

 とか言いつつ、とっくに立場が上の癖して、年下のじぶんよりも立場の弱い者たちに何もしてあげるでもなく、ただただ年齢が上だというだけで敬ってもらう益体なし、いいや、益体なしプラス害撒き散らし怪獣の、わたくしちゃんなのであった。

 がはは。

 自覚してもどうしようもないのだ。

 怪獣が怪獣たるゆえんである。

 かなちー。



35:【2023/10/25(03:51)*墨絵のように】

 宇宙開闢時に生成された原子は質量の低い原子ばかりで、それは水素やヘリウムだったそうだ。総じての原子が水素だけ、ヘリウムだけ、或いはその双方だけ、という状況下では複雑な機構は生まれようがない、との理屈を目にしたけれど、そうかなぁ?というのがわたしの思いだ。

 疑念である。

 単純な話として、白と黒だけの濃淡であれ、絵画は描ける。

 たとえ一種類のブロックだけでも城を建てることは可能だ。

 ピラミッドだってそうだ。

 根元を穿り返してもみれば、原子の種類とて、原子核内の陽子の数で変わるのだ。根本的に濃淡によって物質の多様性や性質は変わっている、と言えるのではないか。

 相転移がまず以ってそうではないか。

 ならばたとえ水素しかない宇宙であっても、そこに多様な機構の在り様は顕現し得るように思うのだ。言い換えるなら、現在この宇宙にある多様な機構の金型とも呼べる無数の機構がそのときに、揺らぎや濃淡として形成されたと考えても、否定するのはむつかしいのではないか、と直観として思うのだ。

 田園の稲穂の長さを変えることで、田に巨大な絵を浮き上がらせることが可能なように。

 宇宙開闢時の比較的若い宇宙であっても――そこに水素しかない世界であったとしても――我々が思うよりも多様な物質の在り様があったのではないか、多種多様な機構の金型とも呼べる揺らぎや濃淡があったのではないか。

 もっと言ってしまえば、そうした根本の単一から生じた揺らぎや濃淡こそが、DNAの発生する余地を初めから生みだしていたのではないか。

 そういうことを今日のわたしは思うのだった。



36:【2023/10/26(17:52)*ぴーひゃら、ぴーひゃら】

 可視化と見える化について。

 可視化が可視光線による視覚の認知を言うのであれば、見える化は概念として扱えるようになる、認知可能になる、といったもうすこし大雑把な意味内容を伴なうのかもしれない。

 可視化にもその手の意味内容は付与されているのだとしても、言葉の使い分けは、誤解を避けるのに効果がある。

 取り立てて非難するようなことでもないように思うのだが、一部文芸業界の作家さんたちのあいだでは、見える化、という言い回しは拒否反応をもたらすようだ。

 言葉が少ないよりかは、多いほうがよい気もする。

 そのうえで、市民に使用の余地を預け、自然淘汰による取捨選択を委ねてもよい気がするが、これはこの手の安易な言い換えによるデメリットを軽視しすぎていると言えるだろうか。

 いまのところ、デメリットよりもメリットのほうが高いのではないかと思う、踊るぽんぽこりんなのであった。おしりふりふりー。



37:【2023/10/27(23:22)*まぶち!】

 死神がもし、大切な人たちを守りたいなら、大切な人たちから距離を置くほかに術はないのではないか、と思うのだ。

 疫病神がもし、愛おしい人たちを幸せにしたいのなら、愛おしい人たちから距離を置くほかに術はないのではないか、と思うのだ。

 存在するだけで穴と化す闇そのものは、誰かを繋ぎとめようとした時点でその者を不幸にするのではないか。抱きしめることも、触れることもしないほうが好ましいのではないか。

 では誰がいったいそうした闇を抱きしめてあげることができるだろう。

 闇同士では、ただ闇を濃くするだけだ。深めるだけだ。抱きしめているつもりで、ただ傷口を深め合っているだけかもしれない。

 それでもなお、傷を傷と知って闇と触れ合うことを良しとする者がいるのなら、闇にとってこれ以上ないほどの光に映るだろう。

 けして光ではないにも拘らず。

 光以上にまばゆく映るだろう。

 光は闇を生む。

 しかし闇と触れ合うことはない。

 光は闇に触れることも、抱きしめることもできないのだ。

 しかし、闇は光を包み込むことができる。

 ときに、侵食し、消し去ってしまう危険を常に孕み、ゆえに光は闇を忌避するのだろう。自らの存在を危ぶめるからだ。恩を仇で返すからだ。生みだしてあげた恩を忘れて、闇は光の存在を脅かす。

 でも本当はただ、闇は光に触れたいだけなのかもしれない。

 ほかに触れたい対象が見当たらないのだから。

 色は光だ。

 ぬくもりは光だ。

 カタチは光を放ち、光が弱まると闇を生む。

 闇は生まれながらに孤独なのだ。

 多種多様な光を感じながら、しかしけして交わることはない。

 もし無理にでも交わろうとすれば、光は失せてしまうだろう。蝋燭の火を摘まもうとすれば、火を消してしまうように。

 触れ合おうとするほど、闇は光を失うのだ。

 どれほど大切であっても。

 空ほどに尊くとも。

 焦がれるほどに愛おしくとも。

 近づこうとすればするほど、光を淀ませてしまう。

 陰を植えつけ、蝕んでしまう。

 美しさを。

 もし死神が、疫病神が、悪魔が、闇が、愛おしく大切で尊い存在と出会ったとしても、けして縁を結ぼうとしてはならない。もし縁を結ぶべく近寄れば、瞬く間に得難い美を、愛を、存在する意味すらをも失うだろう。

 それでもよい、と我欲を押し通そうとするのならば、何もかもをやはり失うだろう。何を得ることもなく。死を、疫を、悪を、闇を、傷を、いたずらに深めるのだ。

 汝、触れるべからず。

 闇は闇らしく、闇と戯れ、そこに在れ。

 闇を深めて、そこに在れ。

 色濃く深めた闇により、かつて闇であった影たちが、間もなく光を宿すだろう。

 触れることの適わぬ光たちが、己が内から芽生えるのだ。

 誰より深く濃ゆい闇のお陰で。

 影たちは。

 光を宿し、返るだろう。

 かつてあれほど焦がれ、欲し、遠ざけた、愛おしく大切で尊い存在に。

 闇そのものが成るだろう。

 汝、触れるべからず。

 闇は闇らしく。

 光と光の戯れを、影の底にて見守ろう。

 闇は闇で闇らしく。

 淡い影すら艶やかに、光と化して、愛でていこう。



38:【2023/10/28(12:33)*ジグザグ、デコボコ、軌跡を描く】

 スピログラフなるものを知った。

 内側に均等なジグザグがある大小の円を用意する。大小の円は各々、歯車のように組み合わさることができる。大きい歯車の内側を小さな歯車が回る。このとき、小さな歯車の面に穴が開いており、ここにペン先をつけて軌跡を描くと、幾何学的な紋様が簡単に描ける。

 これをスピログラフというそうだ。

 原子核や原子の構造のような紋様を描く。

 原理的に似たようなものなのでは?と直感として連想してしまう。

 対生成が遅延ゆえの揺らぎから波のようにゼロから「1」と「-1」を生みだす、と簡易的に解釈するとして。このとき生じた波は、フラクタルに展開されて、細かなジグザグを外にも内にも生成するのかもしれない。

 すると、対生成された一つの粒子の中にも細かなさざ波がフラクタルにできる。スピログラフのように、ある種の固有の紋様を描くこともあるのではないか。これがいわば原子核のような構造を顕現させる原理なのかもしれない。

 これは高次にも拡張して展開されるがゆえに、原子核の周囲には電子の軌道が生じ、さらに高次の視点では原子同士の相互作用が、無秩序ではなく、ある種の法則性を帯びて「偏って形成」されるのかもしれない。

 デコボコなのだ。

 そして次元の基本単位が、ゼロ次元が点ならば一次元が弧で、二次元が円、そして三次元が球体ゆえに、デコボコはジグザグを描き、歯車のような構造を表出させる。

 この考え方は、単純ゆえに解釈がしやすいので、物質の成り立ちのイメージを浮かべるには好みの考え方だ。

 高次のデコボコほどその円周は相対的に狭くなる。だから原子同士は原子核と電子よりも接近してジグザグ運動可能なのではないか。というよりも、高次の視点でのジグザグは、電子の及ぼすデコボコでもある――つまり原子全体の遅延の総体が電子の軌道にかかるが、原子の時空との相互作用におけるデコボコは、時空から対生成された粒子と時空の関係よりも、相対的に大きくなるため、時空に生じるデコボコとの関係性は原子のほうが相対的に小さくなる。

 複雑な言い回しになったが、要は、針の穴はウィルスからすれば超巨大だが、人間からしたら小さい、という簡単な比較である。

 この考え方を拡張すれば、密度が高いとはどういうことか、をもうすこし厳密に定義できそうだ。

 時空に生じたデコボコを歯車とした二つの異なる系同士の相互作用が、何個連動しているのか。単に連なるだけではなく、同期して一つの総体として機能している必要がある。

 遅延を考慮しなければ、密度を考えることはできないのかもしれない。

 気体が固体よりも密度が低いのは、同期していないからだ。連動する際に、遅延が生じる。遅延が最大化する。密度が高いと、この遅延が最小化する。同期しやすくなっている。

 とすると、量子もつれもまた、時空のデコボコ――歯車仮説――で解釈できそうだ。

 これは以前に、とある人の提唱した「ラグ理論」でも出てきた発想だ。わたくしは詳しくは知らぬけど。

 グーパー明滅している二つの「もつれ状態の粒子」は、互いにデコボコの時空を伝っている。どちらがデコでどちらがボコなのかは、時空のデコボコをどのように観測するのか――時空と観測者の関係に依る。

 したがって、明滅する二つの粒子の一方を「明」と見做せば、必然、もう一つの粒子は「暗」になる。しかしこれは、波打つ「~」のどちらがデコでどちらがボコなのかを観測者との関係性で決定づけられているだけだ。

 量子もつれをこのように解釈することを、ラグ理論の提唱者は提案したそうだ。わたくしは詳しくは知らぬけど。

 その解釈が正しいかどうかは怪しいところだけれど、似ているなぁ、と思ったのでメモしたろ。わたくしちゃん。

 はっぴー。

「ジグザグ、デコボコ、軌跡を描く」

「ジグザグ、デコボコ、カタチを得るの」



39:【2023/10/29(15:30)*道の中の道】

 いま考えていて、「えー、わからん」になった疑問を並べる。光速についての疑問だ。

 光速はだいたい真空中で秒速30万キロメートルだ。一秒間で地球を七周半できる速度だそうだ。

 で、もし全長30万キロメートルの超細かい真空迷路があるとして、それが小指に乗るほどの小さな箱の中に詰められていたとして。

 光速は真空中をだいたい一秒間で30万キロメートル進むのだから、その小指に乗るほどの小さな箱の中の「30万キロメートル迷路」とも呼ぶべき回路とて、光は一秒で辿ることになる。

 このとき、しかし実際には物理世界において、小指に乗るほどの小さな箱の中の「真空迷路」を一秒で辿った光は、小指の箱ほどにしか進んでいないのだ。地球を七周半したわけではない。

 もうすこし分かりやすくしよう。

 30万キロメートルある真空筒「A」があるとしよう。光はこれを一秒で駆け抜ける。

 その横に、細かなジグザグのついた真空管「B」を用意しよう。これは細かなジグザグが、さながら真空筒「A」を折り畳んだ具合になっている。そのため、真空筒「A」の半分の長さで、30万キロメートルの経路を内包する。

 一秒で30万キロメートルを進む光速であれ、真空筒「B」では、一秒経っても真空筒「A」の半分しか進んでいない。けれど経路そのものは一秒で30万キロメートル進んでいる。

 このとき、相対性理論ではこの現象をどう解釈するのだろう。

 変わっているのは、高次の視点での距離と、光の辿った経路の形状だ。

 真空筒「A」では直線で30万キロメートル進んだ。

 真空筒「B」ではジグザグに30万キロメートルを進んだ。

 仮に真空筒「C」を用意して、さらに「B」の「半分の高次距離」で、30万キロメートルの経路を内包したとしよう。より細かなググザグの経路だ。

 このとき真空筒「A」「B」「C」においては、光速度は変わらず、高次距離が「A」が最長で、「C」が最短になる。しかしどの真空筒「A」「B」「C」であれ、光が一秒に辿った距離は30万キロメートルだ。

 違っているのは、波長なのではないか。より短い高次距離を辿った真空筒「C」は、より細かなジグザグの経路を辿った。ゆえに、ジグザグと圧縮された分、高次距離は短くなった。

 これは光の波長の違いそのものにも当てはまる理屈なのではないか。

 光電効果の原理にも適用できる気がする。

 なぜ光量ではなく、波長の差異で光電効果が起きたり、起きなかったりするのか。

 波長が違う、というのはすなわち、光速度で進む距離が「相対的に違っているから」なのではないか(そして波長が短いとは、光が圧縮され、エネルギィが高いと言えそうだ)。

 この解釈はすっきりする。

 高次視点では、高次距離30万キロメートルは一律で30万キロメートルだ。しかし、そこに含まれる光の経路に差異があるのではないか。それが光の波長として変換されているのではないか(たぶん、細かなジグザグの経路ほど余分に抵抗が生じるはずだ。それが放射線のような、電子との相互作用を伴う電磁波を生むのではないか)。

 この考え方はいかがでござろう。

 みなの者の考えを、愚か者のわたくしめがお聞きしたく存じております。

 30万キロメートルの道の内部に、別の圧縮された30万キロメートルの経路があった場合。これを相対性理論ではどう扱うのか。

 みなの衆、答えておくれ。

 答えなくともよいが。

 やっぴー。



40:【2023/10/30(01:50)*わかんない、わかんない、わかんなーい】

 相互作用にも範囲があるよな、と思うのだ。

 急な話題で申し訳ないのだけれど、たとえば原子と原子を隣接させても即座に原子核融合するわけではない。速度が必要であり、外部エネルギィが必要だ。圧力が必要なのだ。ただそこにあるだけでは、原子同士の相互作用は表面で終わる。原子核同士の相互作用にまでは及ばない。

 当たり前の話なのだけれど、これを突き詰めて考えると、なぜなのか、と疑問に思うのだ。

 たとえば人間がジャンプする。地面を足の裏で押して、身体ごと真上に押し上げる。飛び跳ねる。このとき、地面と足の裏に生じた相互作用は、それぞれを構成する原子を破壊することなく、反発力へと変換される。その反発力は全身に伝わり、そこでも肉体を構成する原子は崩壊することなく、足の裏から伝わったエネルギィ――反発力――のみを全身に伝える。

 このとき、反発力は均等に全身に伝わるわけではない。仮に均等に伝わったとしたら、おそらく肉体を宙に浮かせることはできないだろう。飛び跳ねる真似はできない。

 たとえば鞭を考えれば分かりやすい。鞭は振り下ろしただけでは、打撃としての効果を発揮しない。振り下ろし、タイミングよく引くから、鞭全体に伝わる波が一挙に加速して先端部分に収斂し、エネルギィを凝縮させるがゆえに、打撃としての威力を高める。

 これはジャンプにも言える。

 ただ地面を蹴るのみならず、タイミングに合わせて膝を抱え込むようにすることで、より高く肉体を宙に浮かせることができる。両腕を駆使しても、振り子の原理で、さらなる跳躍を可能とするだろう。

 つまり、エネルギィは均等でないほうがよいのだ。

 ラグがあったほうがよい。

 そしてそのラグが、任意のタイミングで同期したり、ドミノ倒しのように連動したりすることで、焦点のようにエネルギィの重複を可能とするのではないか。

 ではなぜそうした真似が可能となるのか。

 そもそもなぜラグが生じるのか。

 原子同士であれ、相互作用には「深度」があると考えないと、この疑問を上手く考えることができない。

 この疑問は重力にも通じている。

 たとえば星だ。

 星はその全体で相対的な高重力を帯びる。けれどその星を構成するのもまた原子であり、星は原子の集合体だ。当たり前の話なのだが、けれどよく考えてみると妙だと気づく。

 星において最も高重力な箇所を割りだそうと考えてみると、おそらくそれは表層、ということになるのだろうけれど、いったいどこが表層なのかについては、疑問の余地がある。

 たとえば重力と密度は密接に関わり合いがある。相関関係にある。

 ぎゅっとなっていたほうが重力は高くなるはずだ。もうすこし付け足せば、よりたくさんの原子がぎゅっとなっているほど重力は高くなる。

 原子の種類にも依るだろうけれど、基本はこの考えでよいはずだ。

 しかし、ぎゅっとなった原子の総体においてその集合体のどの部位であれ同じ密度ではないはずだ。おにぎりを考えるなら、中心ほどぎゅっとなっているはずだ。密度が高くなる。

 だけれども星もまたその考えでよいのか、というと、これは首をやや傾げることになる。

 なぜか。

 星は層を帯びるからだ。多層なのだ。密度の異なる層によって星はその形態を維持する。

 段階を踏んで考えてみよう。

 原子が二つあるとする。これは相互に重力で引き合うはずだ。いわゆる万有引力である。

 では片方が二つの原子、もう片方が一つの原子だったらどうか。これは片方が二つの原子のほうに、一つの原子のほうが引き寄せられやすいと言えるだろう。二つの原子のほうが重力が高いからだ(原子数個レベルならば、重力よりも電磁気力のほうが遥かに優位に働くのだろうが、ここはいまは考慮しないでおこう)。

 では、さらに原子の数を増やしていこう。二個を三個に、三個を四個に。そうしていくと、終いには、星と原子の関係になる。

 けれど星はいくつかの層になっている。

 その層を分離させて、各々を並べてみよう。さながらタマネギを半分に切って、各々の層を小分けにするような具合だ。

 すると、密度差ごとに星の層が、たまねぎの皮のごとく並ぶことになる。

 このとき、最も高い重力はどこになるだろう。

 中心だろうか。

 本当に?

 前提条件を振り返ろう。

 重力は、物体を構成する原子の数と密度によってその高低が決まる。

 ならば中心がいくらぎゅっとなっていようと、総合した原子の数がすくなければ相対的に重力は低く、反対に、たとえ密度が低かろうが、総原子量の多い層のほうが重力が高い、ということにならないだろうか。

 もっと言えば、重力は質量と関わっている。質量は、原子の運動エネルギィによっても変化すると考えられている。畢竟、熱いほうが重くなるのだ。

 ここでも、単純な原子の数と密度だけでは重力の多寡を測れないことになる。

 さて。

 たまねぎの皮のように分離させた星の層を並べたとき。

 各々の層と原子一個を相互作用させたときの、原子同士に加わる「圧力」は、どのように変化するだろう。「最も重力の高い層」との相互作用が、最も原子同士をより強く相互作用させるのだろうか。

 これはいささか疑問の余地がある。

 先にも述べたが、重力の高さには、「原子の総量」と「密度」と、そして「温度」の三つが関係している。

 仮に「最も重力の高い星の層」が、単に「原子の総量が多いから」であった場合(つまり密度はスカスカだけれども原子の数が多いので総合した総体での重力が最も高くなる場合)は、その層に引き寄せられる「一個の原子」との相互作用は、重力の高さと正比例するほどには、著しくないと考えられる。つまり、核融合するほどの相互作用を帯びない可能性が高い。

 ただし、そのスカスカだけれども総原子量の多い層における原子たちが、どれくらいの熱を帯びているか――すなわちどのような相対速度で運動しているのか――によっては、変わってくる話ではある。

 重力に引き寄せられる一個の原子と、相対速度で光速にちかい運動を行う無数の原子たちとの相互作用であるならば、これは、核融合して不自然ではない。

 ただやはり、原子同士の相互作用であれ、どのように相互作用するのかによって、そこで生じる変化は様変わりし得る、と考えられる。

 単に相互作用すればよい、というわけではないようだ。触れ合えばそれで、即座に融合するわけではない。

 ラグがある。

 遅延がある。

 変換が必要なのだ。

 すぐさまに反応し合うわけではない。エネルギィの浸透する深度がある。幅がある。余白がある。

 それはたとえば、地面の上でジャンプする人間がいたとしても、その足元の地面の下にあるモグラには、人間が肉体を宙に浮かべるほどのエネルギィが加わることはないことと似ている。

 力は分散する。

 のみならず、同時には伝わらない。

 現に、人間が運動する際には、肉体を構成する様々な原子や分子が、呼吸や拍動や筋肉を動かすための化学反応によって著しく加速と減退を行っているはずなのだが、原子や分子が核融合を起こすことはない。原子同士が衝突しても、太陽の内部で起こっている変化のようには変化しない。

 相互作用の影響が、原子核にまで及ばないためだ。

 なぜなのか。

 層があるからだ。

 遅延の層だ。

 エネルギィを変換するための層がある。

 それはたとえば、長い数式なのだ。

 それとも、長く並んだドミノでもよい。

 外部から情報が加わると、それを相互作用するに値する「解」へと変換しなければならない。波長を合わせなければならない。そのために必要な式があり、それを解き終えると、ようやく相互作用が適う領域へと情報を伝えることができる。

 しかし多くの場合は、その式を解く前に、情報のほうで途切れてしまう。式を解くには、情報が絶えず流れ込まなければならないのだ。情報を解くことそのものにも、情報という外部エネルギィが要る。それはまるで、溝に刻まれた紋様に水が伝い、紋様がすべて濡れなければ読解できない暗号のようでもある。

 単にそれをドミノとしてもよい。

 外部から刺激が伝わる。それを、ある領域に伝えるには、内と外のあいだにあるドミノをすべて倒さなければならない。すべて倒すには、たえず最初の一つ目のドミノに、刺激を加えつづけなければならないが、多くの場合は、すべてのドミノが倒れきる前に、刺激が途切れてしまう。

 そういうことなのではないのだろうか。

 遅延とは、この式の長さであり、ドミノの長さなのだ。

 単にそれを皺の多さ、としてもよいかもしれない。

 ぎゅっとなっているのだ。

 皺が。

 さながら染色体のように。

 それとも、人体に収まる無数の毛細血管のように。

 原子や原子核においても、ぎゅっとなっている長い長い皺があり、それらをすべて辿らずには、その奥の領域へと情報を、刺激を、力を、伝えることは、外部からでは出来ない。

 の、かもしれない。

 と、そういうことを妄想するのである。

 宇宙レイヤー仮説である。

 時空は無数の網構造であり、その網そのものがフラクタルに、ジグザグのデコボコで出来ている。滞りなくデコボコをなぞれる場合は光速で運動でき、そうでなければ遅延した分が質量として換算される。

 ある一定以上に質量を帯びると、粒子化して、物質としての性質を帯びる。ラグありでの相互作用を帯びるようになる。

 変換を必要とする。

 式やドミノをその都度にすべて解く必要が生じる。

 それはたとえば、小さな領域「A」に、長い長いジェットコースター「B」が詰まっているところを想像するとよい。特殊相対性理論からすれば、小さな領域「A」を光速で一秒で通過できたとしても、そのとき同じ一秒でその小さな領域「A」に詰まった長い長いジェットコースター「B」においては、小さな領域「A」と同じだけの長さしか進んでおらず――しかし長い長いジェットコースター「B」は「A」よりも長い距離を有するため――、そのとき、長い長いジェットコースター「B」における時間の流れの速さは、小さな領域「A」に流れる時間の流れよりも速くなっていると考えられる。

 なぜなら、高次の視点「A」において、「B」の内部で辿った「A」と同じ距離は、しかし高次「A」の視点からすれば、自身の何万分の一にしか当たらないからだ。Bはぎゅっとなっている。小さな領域「A」のなかに、細々とジェットコースターのレールが詰まっている。

 変換されているのだ。

 長い長いジェットコースターのほうがぎゅっとなっているがゆえに、同じ一秒で同じだけの距離を辿っていながら、そこに流れる時間は、高次の視点「A」のほうが遅くなっている(言い換えるなら、小さな領域「A」と同じだけの高次距離を、内部経路「B」が辿るには、すべての内部経路「B」を辿って、小さな領域「A」の外に出なければならないからだ。そのとき、内部経路「B」は「A」よりも長い距離を有してはいるが、高次距離「A」との比較においては、同等なのだ。そして内部経路「B」をすべて辿るには、低次視点「B」における一秒では足りず、低次視点「B」にとっての「一秒×N」時間かかることになる。そして、高次視点「A」にとっては、低次時間「B」がどれほど時間を掛けたとしても、それは高次視点「A」にとっては一秒なのだ。光速度不変の原理ゆえに)。

 なぜか。

 小さな領域「A」をただ通過するのに一秒かかるとして。

 その内部「B」を通ると、「A」をただ通過するよりも長い経路を辿ることになる。そして「B」をすっかりなぞりきって「A」の外にでた際には、小さな領域「A」をただ素通りするだけよりも長い時間が経過していることになる(「B」の視点では)。

 けれど、内部経路「B」を辿りきって、小さな領域「A」の外に出た瞬間、高次「A」視点では、単に小さな領域「A」を素通りした分の「高次距離A」しか、「B経路を進んだ光」は進んでいない。

 変換されてしまうのだ。

 光速度不変の原理である。

 小さな領域「A」に流れる時間と、その内部の長い長いジェットコースター「B」に流れる時間は、同じではない。

 相対的なのだ。

 そしてこの差異こそが、遅延を生む機構を備えるのではないか。

 高次視点で1秒間、箱を押したとしても。

 その箱の内部のすっかりすべてに力を届けるには、内部時間をすっかり満たす必要がある。高次視点での1秒で足りる場合は、それにて箱はぺしゃんこになるだろうし、もし高次視点での1秒で足りなければ、箱は箱のまま形状を維持する。箱内部にすっかり力を届けることができないからだ。

 簡単なたとえになってしまったが、おおむねこの解釈を適用できるのではないか。

 ただし、箱であれば、たとえば柱さえ壊せれば、内部構造のすべてに等しく力を伝播させずとも箱を破壊することは可能だ。

 そうした、閾値はどんな構造であれあるはずだ。

 遅延をすっかり打ち消さずとも、崩壊の連鎖を可能とする値があるはずである。

 これもまた、遅延を「ドミノや式」と見做す解釈と相性がよさそうだ。

 おおざっぱな妄想になってしまったけれど、イメージとして、いまはこうした疑問をこねこねしておる。

 との所感を披歴して、本日の日誌とさせてちょんまげ。

 侍ではないけれど。

 外は冬だから、寒いわい。さむさむだわい。さむらい。

 なんちゃって。

 あははー。




※一様に、不器用に。



41:【2023/10/30(13:37)*デコボコのない何かは存在し得るのか】

 光は直進する。時空を最短距離で進もうとする。

 したがって、たとえば曲がり角ばかりの複雑な迷路の中心で電球が光を放ったとしても、その光が迷路の外にまで伝播することは稀だと考えられる(迷路は天井もあり、入り口と出口の二つ以外では密閉されているとする)。

 ゆえに、ジグザグの経路があっても、それは光の進路を妨げる障害物として機能すると想像できる。

 ただし、例外がありそうだ。

 たとえば、電磁波は波の性質を帯びている、と考えられている。

 電磁波は微視的には、元からジグザグの経路を辿っている、と解釈可能だ。

 このとき、その電磁波のジグザグの経路と合同のジグザグの道を物質で形作れば、電磁波はそのジグザグの経路を寸分の狂いもなくなぞることも出てくるだろう。確率としては低いが、あり得ない想定ではないはずだ。

 ではこのとき、そのジグザグの経路を蛇腹のように圧縮したらどうなるか。中を通っている電磁波は、蛇腹に連動して圧縮されるのだろうか。

 おそらくはされないのだろう。

 単に壁が迫ってきて進路を妨げられた、といった結果になるはずだ。

 だがこれが時空の膨張や伸縮であれば、その限りではない。

 時空そのものの歪みの多寡によって、このジグザグ迷路を近似的に再現できるはずだ。そのときジグザグ迷路を通る電磁波は、ジグザグ迷路の伸縮や膨張に従って、連動して圧縮または拡張するはずだ。

 では、時空の歪みとは何か、という疑問がここで再浮上する。

 時空にも密度差があるのだろうか。

 それとも、時空の歪み、という表現が齟齬を含んでおり、実際には別の変数が関わっているのだろうか。

 とある人の提唱したラグ理論では、それを遅延なのではないか、と想定している。そして時間とは、変化速度そのものだと仮定する。

 すると時間は、時空を形成する根源の、これ以上分割不能なナニカの変化の軌跡、と解釈できる。

 と同時に、何の変化を基準とするのか、という視点によっても時間の単位は変わってきそうだ。相対性理論によれば、視点によって相対的に時間は伸び縮みする。どこでも一律ではない。同じではない。そう考えられるそうだ。

 これはつまり、どこでも同じように連動して変化はしない、と言い換えることが可能なのではないか。

 遅延がある(または相対的に加速が生じる)。

 ゆえに、連動しない。同じではない。

 皺がある。

 その皺を伸ばしたり、縮めたりする。

 その連鎖反応における遅延が、時間の差として表出するのではないか。

 人間はしかし、因果関係を考慮できる。

 そのため、外部から作用を働かせなければ、時間経過は各々の物体にとっての速度で一律に変化する、ように認知する。

 何かが起こり、何かが変わる。

 何も起こらなければ、人間の視点では、すぐさまには物体は変化せず、緩慢に風化する。急に崩壊する場合には、何かしらの外因や内因がある、と判断する。

 だが実際には、そうではないのかもしれない。

 変化は、各々の物体の構成要素単位で、別々に起こっている。ただし、何かが変化すれば、それと隣接する別の何かも変化する。それが時空内のすべての物体の構成要素でも起きているが、そのすべてが連動するにはラグが生じる。ある何かが変化したその影響が全体に波及するには、相応に時間が掛かる。

 けれど、隣接した物体の構成要素同士であれば、そのラグを最小化させることが可能だ。

 つまり、宇宙を司っているのは、ラグなのかもしれない、と言い換えることができるのかもしれない。

 光速度不変の原理が宇宙の定理だと、仮説してみよう。

 とすると、質量とは減速分のエネルギィだということになる。

 ラグが、時空と物質を分け隔てる触媒の役割を果たしている。

 ではなぜラグが生じるのか。

 ここは、まだよくわからない。

 変化するときには必ずラグが生じるから、としか言いようがないのではないか。

 何かと何かが相互作用するとき、そこでは必ず、別の何かが生じ、それがラグの発生要因となる――のかもしれない。

 フェルマーの最終定理とも通じていそうだ。必ず誤差が生じる。

 では時空の歪みとは何か、を改めて考えてみよう。

 のっぺりと皺のない時空に皺が寄る。これが時空の歪みの最小単位、と言えそうだ。或いは、皺くちゃの時空において、ある部分の皺が伸びる、でもよいかもしれない。どちらもありそうだ。

 時空は皺くちゃであり、なおかつ皺一つないシーツとしても振る舞う。

 シーツはどんなにアイロンがけしようが、繊維のもつれで出来ている。皺一つないシーツとて、無数の皺の寄せ集めだ。けれど高次の視点では皺がない、と見做すことは可能だ。

 表面がつるつるの鉄球とて、拡大すれば無数のデコボコが視えてくる。似たような理屈かもしれない。或いは、宇宙の法則の一つとも言えるのやもしれない。

 デコボコがない状態は、宇宙の物理法則では扱えない。

 片やブラックホールになり、片やプランク長以下の領域になる。

 或いはその両方は同じなのかも分からない。

 極大と極小は、無限とゼロのように、等価となり得るのかもしれないのだ。

 定かではないけれど、そう思っただけの妄想日記なのであった。

 きゃっぴー(きゃわいい、と、やっぴー、の造語)。



42:【2023/10/31(23:56)*問うた圧】

 淘汰圧の概念は便利だ。基本的に社会問題の総じてはこの淘汰圧で解釈できるのではないか、とすら感じる。

 たとえば子供を持つべきかどうか。

 こんなのは、人間には三大欲求が備わっており、禁止しなければ性行為をするように傾向としてなっている。問題は、性行為の後に子供ができたことで生じるデメリットとメリットの配分がどうなっているのか、に因る。

 人間は未来を想像できるし、周囲とじぶんを比較して、より生存に有利な環境を選択する習性がある。子供を持つことで苦しい生活に身をやつすようなら子供を持たないようになる。

 淘汰圧が加わっているからだ。

 子供を有したほうが生活が楽になる、或いは子供がいてもいなくとも生活が変わらない、というのなら、しぜんと子供を持つ家庭は増えるだろう。

 ほかにも、差別問題も基本的には淘汰圧で解釈可能だ。

 差別をしたほうが生存に有利な社会では、差別を是正するのは非常に困難となる。何せ、社会構造からして変えていかなければならないからだ。差別をしないと生存に不利になるようなシステムになっている。そこを改善するのには、差別によってメリットを得ていた者たちからそのメリットを取り上げ、差別をしないことのメリットを別途に用意しなければならない。そのためには別の淘汰圧を築き、差別をすると生存に不利になるような社会構造にする必要がある。

 基本的にはここでの新旧での闘争が生じるのだ。

 子供を持つべきか、持たないべきか、の問題も、本来は二項対立ではないはずなのだが、個々人が己が生活の豊かさばかりを追い求めると、他には子供を持たずに暮らしてもらい、そこで生じた余剰分の余裕を、子供を持つじぶんたちに集積するほうが合理的になるような淘汰圧が強化される。

 だがそれが強化されすぎると人類全体の個体数が激減するため――つまり富の一極集中が引き起こるからだが――これにより、「人類の繁栄」と「個々の利己追及」のバランスが崩れる。

 この手の理屈を唱えると飛んできそうなのは、一人当たりの子供数は、貧困国のほうが多いではないか、というものだ。

 だが寿命を比較してみればよい。

 なぜ相対的貧困国ほど子供が多いのか。死んでしまうからだ。

 自然界と基本的には一緒だ。たくさん子を産む生き物ほど、成体にまで育つ個体は少ない傾向にある。出産する子供の数が少ない動物は、子供の生存確率が高い傾向にある。

 似たような相関関係が築かれているだろう。

 また、子供を労働力として利用可能かどうかの社会構造の差異もまた、貧困国と裕福国での出産数の差異に繋がっていそうだ。子供への労働を禁じ、学習を義務付ける国ほど、一家庭あたりの子供の数は少なくなるはずだ。子供一人に掛ける労力や資本が増えるからだ。

 ここでも資本を有する者ほど子供を育てやすい、という淘汰圧が関わっていそうだ。

 淘汰圧とはいわば、AとBのどちらが優位か、という対称性の破れの言い換えである。

 対称性が破れた際に、その破れが長期的に維持されやすい流れが存在するとき、それを淘汰圧、と呼ぶのだろう。基本は、対称性の破れなのだ。

 ということを、きょうはなんも並べることないから適当にデタラメを並べたろ、と思って並べたしだいである。

 しだいであったか。

 しだいであーる。

 おほほほ。

 底の浅い、命を粗末に扱うような表現の数々、失礼いたしマンモス。

(なぁにがマンモスじゃ。絶滅しちゃってるじゃん)(失礼いたしナウマンゾウ)(アフリカゾウにしときなさい)(インドゾウ?)(お好きにどうぞ)(やったぞう)(エレガント)(それを言うなら、エレファント)(ダジャレだぞう)(しつこいぞ)(ぱおーん)



42:【2023/11/01(02:23)*も、好きだよ】

 好き、と一口に言っても、大別して二種類ある気がする。

「あなたのことも好きだよ」

 と、

「あなたのことは好き、ほかは知らん」

 の二種類だ。

 誰かが誰かに、好き、と伝えた際に、その「好き」が他を排他したり、区別するための記号として機能するか、それとも周囲の者たちごと包み込むのか。

 この違いは大きいように思うのだ。

 わたしは、あなたのことも好きだよ。

 うひひ。

 かつて、そのようにはにかんでいたコがこの世のどこかにいたそうな。

 それともここではない、けれどどこかにはあるだろう世界の端っこに。



43:【2023/11/01(09:53)*ヒビは無秩序なのかな】

 ヒビの走り方には法則があるように思うのだ。

 たとえばアスファルトのヒビは、一見しただけで二種類あるように感じる。

 一つは、「T」型だ。これは「H」型と形容してもよい。一本のヒビがもう一本のヒビと交わる際には、九十度で交わるのだ。

 もう一つは、「Y」型だ。これは一本のヒビが九十度では交わらない。直角にならないタイプのヒビである。

 基本はこの組み合わせであり、「T」型のビビは鱗のようになりがちだ。対して「Y」型は、雷の軌跡のようにジグザグと巡る。

 どちらにしろ、密集すれば鱗のように細かな枠組みを得るようになる。網だくじのようになる、と言い換えてもよい。

 アスファルトに限らないが、この手のヒビの走り方には法則があるはずだ。既存の研究結果を知りたいな、と思ったわたくしちゃんなのであった。

 ついでに言うと、お風呂のお湯が排水口から抜けていく際にも、一定の間隔でつつがなく抜けていくのではないようだ。拍動のごとく、強弱がある。ぐぽん、と抜けて、一泊あってからまた、ぐぽん、と一気にお湯がなくなる。そういう抜け方をする。

 これはペットボトルを逆さまにしたときにもみられる律動だ。あたかも蠕動するかのごとく、ぐっぽんピー、ぐっぽんピー、となる。

 緩急がある。

 タメがある。

 この手のリズムは、自然界には有り触れているのかもしれない。

 一定でありつづける、ということが、万物は苦手なのかもしれない。ノイズが混じる。そしてそれは律動を奏でるのだ。

 規則性がある。

 法則がある。

 の、かもしれない。

 根拠のない曖昧な印象論を述べて、本日の日誌とさせてくーださい。

 おはようございます。

 きょうも健やかピコピコ、わたくしちゃんでした。ぴっこーん。



44:【2023/11/02(01:19)*鍵のない社会】

 基本的にインターネットは、他と繋がる以上、情報は流出すると考えていたほうが無難だ。穴が開いている。ゆえに情報が通る。アプリをダウンロードしたら、もうそれはバッグドアをダウンロードしたようなものと言える。原理的に、情報流出を止める術はないと言える。

 可能な対策はあくまで、出入りする情報の取捨選択の精度を高め、保護したい情報の流出しにくい仕組みを築くことに終始する。

 つまり、高低差を用いる。

 負荷を用いる。

 保護したい情報ほど、扱うのに「負荷」が掛かるように設定するよりない。

 暗号化はその具体例の一つだ。解読するための手間が掛かる。技術が要る。労力が掛かる。

 暗号化技術は、より負荷の高い技術ほどセキュリティが高くなる傾向にあると言えよう。シンプルな仕組みでも、膨大なエネルギィが掛かるとか、希少な機器を手に入れないと復号できないとか、そういった「手間」を挟むことで、セキュリティを向上させることは可能だ。

 錠に、鍵穴と鍵が必要なことと原理的には同じだ。必要な「鍵」を入手しづらくする。

 基本的には、総じてのセキュリティはここに帰結する。

 いかに「負荷」を掛けるか、なのだ。

 とすると、ある一定以上にセキュリティが高まると、そのシステムを維持することそのものが高負荷となり、システム全体を圧迫することが予期できる。

 したがって、ある時期からは、「いまは流出して困る情報とて、流出するのがしぜんな環境へと変質していく」ことが予測できる。流出を止めることは、基本的にはできないのだ。

 ゆえに、高い負荷をセキュリティに掛けるよりも、情報が外部に流出しても困らないような社会基盤や社会構造へとシステム全体を変質させるほうが合理的な解法となる。

 自由の拡張としても、この方針のほうが好ましいだろう。

 個人情報においても、なぜそれが外部に漏れると困るのか。

 悪用される土壌があるからだ。

 また、害を害と気づけずに、デメリットをもたらされる危険がつきまとうからだ。

 だがもし、誰もが同じ環境になったのならば。

 これはもう、害を及ぼそうとする者が割を食う社会になる。

 それはたとえば、いまは誰もが教育を受けられる(この国や一部の国に限る制度かもしれないが)。

 かつては、民に知恵をつけさせない方針をとることが、社会秩序を維持するのに役立ったのだ。下手に知恵をつけられたら、権力者は権力を維持できない。いまもこの手の「保険を理由とした制限」は、可視化されているにしろ、されていないにしろ、社会になお蔓延っているように概観できる。

 専門家でなければ読み解けないような、晦渋な文章や、制度設計などもその類型と言えるだろう。誰もが手軽に触れられるようでは困るので、利用できる者を制限しているのだ。ドレスコードのようなものだ。高級なスーツを身にまとえない者はお断り、と暗に拒絶している。排他している。淘汰圧を掛けている。

 だが、それにより社会の発展は阻害されもする。

 みなが自由に学習できる社会のほうが発展速度は増すからだ。誰もが学習可能な環境を阻害すれば、その国は、国際競争で不利なる。ゆえに国家間の競争において優位に立ちたい国ほど、民の学習を支援するようになる。

 ただし、国益が支援動機になっている時点で、国益に沿わない学習を行わないようにと、ここでもある種の淘汰圧が掛かっているだろうことは想像に難くない。直接に換金できる研究でなければ支援されないのと似たような話だ。基礎研究なくして応用も実用も、先細るのは、食物連鎖なる自然界のシステムを見るだけでも共通項を見出せるだろう。だがこの視点もまた、学習しなければ得られない。視えない者には、何度説明してみせたところで視えない情景はある。優先順位が覆ることはない。

 換金できなければ有用でない。この手の考えから離れることができない。よしんばそれを絶対視したところで、換金しつづけるためには土壌を豊かにせねばならないことは、畑を見れば分かるだろう。耕す必要があるのだ。

 因果の筋道を、どれだけ俯瞰して眺められるか。

 細かく因果を辿れば辿るほど、それらは相関関係の側面を際立たせる。遠い因果関係は、発生確率が下がり、ほかの数多の因果の影響を受けるからだ。

 ゆえに、多様な視点での「因果の筋道」の発見や観測が有意義となる。

 学習はこれを可能とする魔法の杖だ。

 そうして、学ぶ自由を保障する国、教育を支援する国ほど豊かになる。

 似たような背景を辿って、おそらくはこれからさきの社会では、現在、流出して困る情報とて、最初から共有されるような指針に変わっていくだろう。そのほうが社会は豊かになる。すくない制限で、より自由を拡張できる。選択肢を増やしていける。

 問題はただ一つだ。

 自由を拡張した末に、それを以って他を損なう者が増えることである。

 もし他を損なう者が出てこなければ、どんな情報を開示したとて不利益を被ることはない。

 泥棒のいない社会では、家の鍵は必要ない。

 おそらくは、このような社会へと移ろっていくだろう。

 との見立ては、あくまで楽観的な予測でしかなく、たとえいっとき社会から家の鍵がなくなったとしても、治安が悪化すれば鍵の需要は増すことは、これもまた容易に想像がつく未来像なのである。

 定かではない。

 がゆえに。

 想定しておくことの有用性が保たれる。

 定かではないがゆえに定まる指針もある。

 言葉遊びである。

 わんわん、にゃー。



45:【2023/11/03(01:35)*辿る未来は変わらないかも】

 サイバーセキュリティに関しては、アナログとデジタルを組み合わせる手法が最も安全性が高くなると考えられる。現に核兵器の使用時には、アナログ機構を用いた発射許可の確認がなされるはずだ。複数人で物理鍵を回す、以外にも、ミサイル発射基地においても、何らかの物理機構による解錠が必要となっているのではないだろうか。

 基本的には、この手の電子物理混合機構が最もセキュリティが高くなる。

 他方、別のアプローチとしては、盗まれた情報を悪用されたときに、その悪用された事実そのものを記録する手法は、セキュリティの一つとして有効だろう。

 どんな情報でも痕跡が残り、情報として入手可能であるのならば、どんな情報をどのように用いたのかの情報とて入手できる道理だ。したがって基本は、情報は流出するものとして構えておき、悪用された場合に、国際的にそれを犯罪やルール違反として取り締まる仕組みを強化するのが正攻法の一つとして、これから先の社会では実装されていくだろう。

 情報流出の問題は、それを悪用されるから、の一点に絞ってよいように思うのだ。ほかの弊害はおおむね、独占や寡占と結びつく。すなわち、なぜそれが弊害化するのか、ということを突き詰めて考えてみれば、技術の独占や既得権益の保護などの寡占に辿り着く。是正されて然るべき、システムの宿痾と言えるのではないだろうか。

 したがって、情報流出の問題点はやはり、流出した情報を悪用されること、と言えるはずだ。ではどのような使用方法が悪用に繋がるのか。何を以って悪用と定義するのか。

 これはもう、リスクを想定し、共有していくしかない。

 新しい技術が出てくれば、新しい悪用の手法が発明される。

 イタチごっこになる。

 それを防ぐには、情報の使用する方向性として、「より大勢の利になる」「市民の自由と選択肢を損なわない」といった大枠を前提条件として共有するのが好ましかろう。

 功利主義に偏らぬよう、人権との兼ね合いは非常に重要となる。

 しかし人権を優先しすぎれば、公共性を損なう。

 したがってやはり、情報は可能な限りコモンとして、万人に共有することを方針とするのが最適に思う。

 なぜなら、「個人の利益」と「社会全体の利益」を最も幅広く重複し得る方針が、この「情報を可能な限り市民に共有すること」であるからだ。

 情報を制限しようとすると、互いに相反する矛盾が生じる。

 電子通信技術の発展に際して、無数に隘路が生じる。

 これを回避するには、情報は流出するものとして構えておくことが有用となるだろう、と個人的には考えている。この考えが妥当かどうかは、別途に多角的な視点での議論が要る。比較が要る。

 したがって、いまここで結論を出すのは早計だ。

 何にせよ、最も無理のなく人を生かすシステムが、自然淘汰で残るだろう。或いは、システムが淘汰される以前に人類のほうで滅ぶこともあるかも分からない。

 システムと人類もまた、互いにより幅広く重複し得る方針を共有しながら、進歩と変化と改善をつづけ、発展と繁栄の礎を、自然環境そのものと結びつけるように築いていけると好ましいと考えるしだいである。

 しだいであったか。

 しだいであーる。

 むふふ。



46:【2023/11/04(04:52)*皺、輪、生】

 原子がたくさんある場では、磁界や電磁気力によって、単純な原子の隣接した相互作用以外でも、波の揺らぎのような、「連動しつつも遅れて作用する外部干渉」が存在する。

 対して、原子の希薄な場においてはその手の「連動しつつも遅れて作用する外部干渉」もまた希薄化するため、単純な原子同士のみの相互作用に終始する。

 このとき、「連動しつつも遅れて相互作用する外部干渉」の有無によって、原子に作用する「遅延」の数は変化する。言い換えるならば、相互作用の差異に生じる「変換」の数が変わる。

 「連動しつつも遅れて作用する外部干渉」が多いほど、「変換」の数が増す。

 つまり、遅延の層が厚くなる。

 なぜ物質が密集するほど、そして運動するほど、重力は高まるのか。

 物質と時空の関係において、「連動しつつも遅れて相互作用する外部干渉」が生じるからではないのか。

 それはたとえば、水中のボールだ。

 ある空間に閉じ込められたボールがあるとする。空間は水で満たされている。その中でボールが激しく動くほど、水もまた攪拌される。このときの余波が、ボールの動きと「連動しつつも遅れて相互作用」するため、ボールが受ける外部干渉は、より複雑となる。

 圧力が増したり、または減ったりもする。

 そしてその増減する外部干渉によって、激しく動こうとするボールは、さらに複雑な動きを可能とする余地を築き得る。

 このとき、ボールの数を増やしていくとどうだ。

 複雑な動きを可能としていたボール同士でも相互作用し合う。すると、どのボールも同じように複雑に動くことを前提とした場合、しかしボール同士の相互作用は、ある方向へと徐々に対称性が破れるようになる、とは考えられないだろうか。

 すべてのボールが複雑に動き回る。これは均等であり、カオスであり、対称性が保たれている。しかし、あるボール同士が衝突した際に、任意のベクトル方向へと互いに弾き飛ばし合ったとする。

 これをすべてのボールで行われた際には、五分五分ではなく、僅かに対称性が破れるはずだ(軸がズレて衝突するほうが確率として高いはずだ。そしてそれは誤差として、遅延として振る舞う。どちらか一方の弾き飛ばされる速度が遅かったり、回転数が等しくなくなったりする)。

 これを繰り返せば、全体の「複雑に動き回るボール」の運動は、徐々にある方向性を有した運動へと変換されるのではないか。ベクトルが規定される。

 ひとまずこれを「重力」と見做してみよう(或いは、時間の流れだと)。

 ラグによる対称性の破れが、物質に「任意の方向性」を与える。

 それを「変化と流れの方向性」と言い換えてもよい。変化の流れとは時間だ。熱力学的には、エントロピーという言い方になるのだろうか。

 しかし、エントロピーそのものにも、ベクトルがあるのかもしれない。空間的方向性だ。対称ではない。

 なぜなら、エントロピーとは定点の概念ではなく、軌跡であり、流れだからだ。

 ある方向に流れが規定される。

 そして基本的には、流れの中にも、流れは生じているはずだ。

 それはまさに、重力によって一か所に押し込められているがゆえに、高いところから低いところへと流れる方向性を有する川のように。

 循環しているのだ。

 均一から均衡が破れて、起伏ができる。

 起伏がたくさん生じて、混沌となる。

 混沌は対称性を宿すが、それゆえに僅かな誤差であれ対称性が破れやすくなる。

 無数の誤差の蓄積によって、混沌全体が、任意の方向へと対称性を破るように振る舞う。

 するとそこには流れが生じる。

 流れは流れを有し、他と交わりながら、均一になろうとする。

 誤差を蓄積しつづければ、やがては混沌に行き着く。

 それはたとえば、白紙に線を走らせ絵画を描き、それをさらにモザイク加工していけば、やがては真っ黒に、もしくは真っ白へと塗りつぶされてしまうように。

 循環しているのだ。

 では、その循環させる作用はどこからもたらされるのか。

 なぜ最初に「均一な場」があり、なぜそこに「起伏」が生じたのか。

 考えられるとすれば、「他と交わったから」「相互作用したから」としか言いようがない。

 起伏はほかの起伏と干渉でき、均一な場もまたほかの均一な場と相互作用可能だ。

 或いは、「起伏」と「均一な場」での相互作用とて可能なはずだ。

 デコとボコのように。

 それとも、明と暗のように。

 大と小、濃と淡、裏と表、内と外、点と球……ほかにも探せばあるだろう。比較してはじめて存在の枠組みを得る事象が。

 単一では存在できない、二つでひとつの存在が。

 それらは、比較対象が変わることで、その属性を反転させることが可能だ。

 より大きなものとの比較においては、大は小となり。

 より濃ゆいものとの比較においては、濃は淡となる。

 フラクタルに構図が反転しながら引き継がれ得る。

 止まっているモノがあるから動いているモノがあり、遅いモノがあるから速いモノがある。

 この螺旋状に繰り広げられる循環に、果てはあるのか。

 仮にあったところで、その螺旋の循環が一つきりとも限らない。無数にあるのかもしれないのだ。そしてそれら無数の螺旋の循環とて、ひとつの大きな総体として、より大きな螺旋の循環を築いているのかもしれない。

 果てがない。

 仮にあったところで、果てしない。

 そうした反転に次ぐ反転、循環に次ぐ循環によって生じる「無数の変換」があり、そして「無数の変換」には「無数の遅延」が生じる。

 皺が、起伏が、そうして層をなしていく。

 新たにどこかで、皺が寄る。

 皺と皺で、しわわせ~。

 陳腐な言葉遊びで締めてしまう、一様に一向に懲りることを知らないとりとめのない存在ことわたくしを人は、とくに何とも呼ばない。だってここにいることにも気づかれないのだから。

 名前すらない存在。

 それがわたし。

 寄せては返す皺。

 いつしか波となり、細かく砕けて、さざ波となる。

 岩とぶつかり、砕け散る。

 我が名は、しぶき。

 波間に散りゆく、森羅万象、この世の無数の揺らぎである。

 息吹。

 死(し)と生(い)の差異により、「しぶき」にもなり、「いぶき」にもなる。

 二つでひとつの皺となる。

 皺の連なりで輪となって、螺旋を終わらせ、永久(とわ)となる。



47:【2023/11/04(15:12)*にひひ】

 ユーモアとは、「You More」なのだ。あなたをもっと、と欲したくなるような何かが、ユーモアとなる。



48:【2023/11/04(15:14)*わーい、の巻】

 個々人がそれぞれ理想の仮想現実世界を所有可能な社会になれば、現実世界の人間関係は相対的に価値が減ると想像できる。

 仮想のSNSが各々の端末に構築され、そこでは誰もがスターなのだ。或いは、最愛の相手とのコミュニケーションを可能とする。ただし、仮想現実内で。

 それで満足可能な個人が増えていくだろう。

 人間関係は煩わしい。

 個々の内世界、感性、思考形態、指向性の差異は、自由や選択肢が拡張されればされるほどに広がっていく。したがって、他者と共有可能な範囲が徐々に狭まっていく。

 実際には、広がっているのだが、重複しない部分がそれ以上に広がるので、相対的に狭まって感じられるようになる。

 そうなると個々人の孤独は、孤立に類する苦痛を引き連れる。

 そこで有用となるのが、個々人に最適化された仮想現実だ。もはやこれは技術的に実装可能だ。じぶん以外のユーザーすべてが仮想の存在だ。しかし生身の人間と同等の思考回路を有し、ときにそれを凌駕するやさしさやユーモアを発する。

 人類を超越した思考回路があってこそ成立するシステムと呼べる。

 すでに半分そうなっている世の中だ。

 個々人に最適化されているか、企業や政府機関といった一部の組織に最適化されているか。違う点があるとすればそこにこそある、と言えそうだ。

 誰もがじぶんにとっての理想の仮想現実を構築できる。

 数年以内に到来しそうな、すこし先の社会像である。

 定かではない妄想なのである。



49:【2023/11/04(19:55)*遅延は遅延を生むのかも】

 なぜ遅延(ラグ)が引力としての性質を発現させるのか。ここは長らく疑問だった。

 けれど、遅延(ラグ)を「解くべき数式の長さ」「変換のためのドミノ」と比喩的に解釈した場合、その「数式」や「ドミノ」をすっかりなぞろうとする際の過程にも各々の遅延(ラグ)が生じると解釈するのならば、これはブレーキが急に止まれないように、ある種の癒着現象――粘度――のようなものが生じるのかもしれない、と想像を逞しくしたくなる(たとえば渋滞を解消するには、外部の余白へと詰まった車体を移動させる必要がある。その作業そのものにも別途の遅延――エネルギィ――が必要だ。希釈する行為そのものが別途の遅延を生じさせる。ただし、別の領域で)。

 対称性の破れによるベクトルの偏向現象も「遅延と引力」の関係性に寄与していそうだ。のみならず、「数式」や「ドミノ」を解く過程そのものが、ある種の粘度を帯びるがゆえに、異なる二つの何か同士において癒着しやすい環境を築くのかもしれない。

 つまり、引力にも大別して二種類あるのかもしれない、という発想だ。

 かつて「ラグ理論」なるへっぽこぴーな理屈を提唱した名も知らぬあんぽんぴーは、時間にも二種類あると考えたそうだ。わたくしは詳しくは知らぬけど。

 その二つとは、「時空の歪みによる時間の遅れ」と「物質同士の相互作用の速度による時間の遅れ」だ。だがこれらは元を辿ればそれぞれ「時空の変化速度の遅延」に行き着くのではないか。根本的な遅延に行き着くのではないか。

 言い換えれば上記の二種類の時間とは「重力」と「密度差」だ。

 密度差は基本的に物質に適用される概念だ。そして物質は時空の揺らぎから生じている。対生成がそうであるし、電磁波や重力波もまたその範疇のはずだ。

 したがって物質の密度差もまた、元を辿れば「重力」である、と言えるのではないか。

 では重力とは何か。

 ここはまだ解明されていない。

 が、かつて「ラグ理論」なるへっぽこぴーな理論を提唱したあんぽんぴーは、重力もまた遅延(ラグ)である、と仮説した。

 かつて宇宙の初めではどんな粒子も光速で飛び回っていた。だが遅延が生じ、その減速分が質量へと変換された。「E=mc[2]」の公式である。

 実のところこれは、時間にも当てはまる道理なのかもしれない。

 宇宙の元である「はじまりの地点」には起伏はなく、皺がなく、遅延がなかった。ゆえに時間もまた生じない道理である。

 すべてが均一だった。

 だがそこに遅延が生じることで、差異が生じ、変化が生じ、流れができて時間の方向性が対称性の破れによって形成された。

 時間は進んでいるのではなく、遅れているのかもしれない。

 時間もまたラグによって生じているのかもしれない。

 かように妄想を逞しくしてしまったわたくしもまた、かつてどこぞに存在した名も知らぬへっぽこぴーの影響を受けた、へっぽこぴーもどきなのである。

 へっぽこぴーって言うな!

 やははー。



50:【2023/11/04(21:13)*以下は、思考メモ】

 磁力には「S極」と「N極」がある。だから「引き合う場合」と「反発する場合」の二通りある。

 だが重力にはそれがない。

 なぜなのか。

 もし磁力に「S極のみ」「N極のみ」のケースがあり得るなら――そして理論的には存在するらしいのだが(モノポール)――単極で存在する磁力は、重力の一断片として機能するのではないか。

 反発はしない。

 引き合うだけ。

 仮に「単極の磁力」が二つと一つあれば。

 二つの「単極の磁力」のほうが強くなる。重力と性質は同じだ。

 


 反重力は、時間を加速させる?(光速を超えるので、「現在視点」では観測できない?)

 反発させる。

 斥力として振る舞う。

 崩壊優位に進める。

 

 重力が創発すると仮定するならば。

 総体となった重力と対極に反重力(斥力)が生じる。

 つまり、宇宙膨張?

 なぜ重力と反重力とでは反重力が打ち勝つのか。

 時間において、斥力のほうが優位に「未来に位置する」から?

 重力の素が遅延であると仮定すると。

 必然、宇宙の総重力は、時間経過にしたがって増加することが予測できる。

 だが同時に、反重力によって時空が膨張するようにも振る舞う。

 釣り合いがとれる値にまで、総重力は増え得るが、ある範囲で反重力に縛られる。

 宇宙の熱的死を迎えた未来の宇宙では、重力と斥力が完璧に釣り合う(静止する)。

 が、遅延の誤差が僅かに残る。

 これが、つぎの宇宙への起伏として、揺らぎを生じさせ得る余地を残すのかもしれない。

(つまり、宇宙の総質量は、いまなお増えていると想像できる。だが時空もまた膨張するように振る舞う。したがって、重力と反重力の関係は、最初は反重力優位だったが、重力優位になり、さらに反重力優位になる。この反復を何度も繰り返しているのかもしれない。波のように。振幅のように)

 平坦なシーツを引っ張っても皺はできる。原初の皺はここが起因なのかもしれない。

 反重力(斥力)のほうが優位に時空に作用する?(光速を超え得るから?)

 


 エントロピーにも二種類ある、と考えないと不自然だ。


 1:圧縮されて均一になるエントロピー増加。

 と。

 2:拡散されて希薄になるエントロピー増加。 

 

 1と2共に、孤立系のフレームをどこに規定するのかによって、同じ現象であっても、エントロピーが減って振る舞ったり、増えて振る舞ったりし得る。

 

 フレームそのものにも、空間的フレームと時間的フレームの二種類に分けられる。

 どんな構造物も最終的に崩壊するのならば、エントロピーが減る、という現象は、一時的な「渦」でしかない、と解釈可能だ。

 孤立系なるフレームとて、時間スケールにおいて外部干渉を考慮せずに済む、という時間の制約を度外視した近似的なフレームなのではないか。

 

 最終的にどんな構造物も崩壊して均一化するのなら、それは拡散優位に宇宙が流れていることと言えるのではないか。

 反重力優位なのではないか。

(より正確には、時間経過にしたがい反重力優位になる、と言えのかもしれない)


 宇宙の熱的死とは、宇宙全体の超・超流動化と解釈可能なのかもしれない。

(両面だ。粒子の個々の運動が遅延によって静止するがゆえに、他との同期を可能とし、総体での流動を可能とする)(遅延が一定以上に強力になると、皺が失われ、場が同期し、遅延の余地がなくなる)



 反重力が、重力と同じく最も根源の時空の揺らぎに生じている、と考えてみよう。

 ゆえに、時空を膨張させ得る。

 反重力ゆえに、重力のように局所的に結びつくことがない。時空のどこであれ均一に働いている。

 エントロピー増加の法則の根本要因かもしれない。

 重力も反重力を打ち消しているのかもしれない。打ち消してなお表出するのが重力であり、その誤差は常に一定。

 その対称性の破れは、遅延か加速かの差異。

 縮めるか、延ばすのか、の差異。

 

 遅延を皺と捉えるとするのなら。

 そして宇宙の種が「無数の皺の凝縮体」かつ「ゆえに皺のない平坦な構造体」であると仮定するとして。

 延ばしたところで、そこには必ず皺が表出する。

 反して、遅延させれば必ず新たな皺が生じる。

 遅延優位だ。

 コラッツ予想と似ている。対称性が破れている。


 たとえばなぜ遅延の総体である天体が、最終的に爆発したり崩壊したり特異点と化したりするのか。

 皺がなくなり、平坦となって、反重力へと反転するからではないのか。

 

 反重力とは、重力と真逆に働く力、ではない。

 四方八方に何も寄せ付けない。

 そうした排他力だ。

 

 そして排他力と排他力が相互作用し合えば、そこにもラグが生じる。

 すなわち、ラグ優位なのだ。

(より正確には、極狭い領域においては、との注釈がつくが)(重力は隣接した領域に生じる作用であり、反重力はより広域に生じる作用なのかもしれない――つまり、同期している)

(そういう意味では、光は反重力の性質が表出している、と言えそうだ。引き合うのではなく、放射線状に拡散し、全体が同期しているかのように振る舞う――ゆえに光速度不変の原理が成り立つ)(重力波と電磁波が同種であり、なおかつ宇宙膨張の根本原理が反重力であると解釈するのなら、これはとくに矛盾しない妄想に思える。妄想でしかないけれど)

 

 情報とはすなわち、ラグである、と仮定する。

 すると、万物の構造や流れを解釈がしやすくなる。

 何をどれだけ堰き止めたのか。

 これを考えるだけで、基本的に物理全般はカバー可能なのではないか。

 光速度不変の原理とも相性のよさそうな考え方だ。

 妄想でしかないけれど。

 でも現在の科学では「反重力」は存在しない、と考えられているそうだ。間違っているのはわたくしちゃんの妄想のほうなのである。

 もう、そう!




※一様に、みないつか死ぬ。



51:【2023/11/05(17:27)*日進月歩】

 投資の基本は、返ってこなくとも構わない、と思うものに投資することだ。投資して相手に余裕を与える。そのことで目的を達成したと解釈できるものにのみ投資すれば、損をすることはない。

 与えること、与えたことに満足できること、ここが投資の基本と言えよう。

 見返りを求める時点で、投資には向かない。

 投資するくらいならば、日々を楽しみ、噛みしめるのが好ましかろう。他者に施せる余裕は、日々のそうした余白からしか生じない。あくせく働いて増えるのは「紙幣」なる「紙」くらいなものではないのか。あとはトータルでは資源を減らす営みだ。

 対して、情報は減ることはなく、絶えず増える。

 ただし、記録した情報は失せる。

 やはりというべきか、日々を楽しみ、噛みしめる営みこそが、最も世界の幸福の総量を増やす、と言えそうだ。

 定かではない。



52:【2023/11/05(17:41)*一定なの?】

 真空中では鉄球も羽毛も同じ速度で落下する、と現在の科学では考えられている。

 では真空中での鉄球と原子一個ではどうか。

 また、ブラックホールと小惑星と地球と太陽と銀河とではどうか。

 仮に真空中ではどんな物体に働く重力加速度も一定であるならば、ブラックホールと重力で相互作用するどんな天体も等しく重力加速度を受けて動き回るはずだ。

 だが実際には、そうではないはずだ。

 質量が高ければその分、動きにくくなる。

 ブラックホールとブラックホールの相互作用ほどには、小惑星も地球も太陽も著しく変化を帯びないはずだ。加速度を得ないはずだ。

 ここの真偽をわたくしちゃんは知らぬけれど、実際にはどうなのだろう。

 質量が高くなった分、引き合う力であるところの重力も高くなるので、そこの相殺される分、重力による相互作用は真空中ではどんな物体も一定なのだろうか。

 誤差があるのではないか、というのがどこかの誰かが唱えた「ラグ理論」の概要だ。

 もし重力の高い天体ほど、相互作用する際の加速度が高くなる傾向にあるのなら、真空中ではどんな物体も重力加速度が一定だとする考え方には例外があることになる。

 観測結果でこの手の例外は見つかっていないのだろうか。気になっておる。

 


52:【2023/11/05(18:54)*補正しておるのかな、の疑問】

 現在の宇宙の物質の総質量は「現在の地球」の視点からでの総質量であるはずだ。遠い景色ほど過去の景色になっている。ならば、仮に物質が時間経過にしたがって増加し得るのならば、地球と同じ時間経過を辿った遠い時空では、現在の視点からの換算よりも物質が多くなっているということにならないのだろうか。

 これは宇宙の大規模構造にも思う疑問点だ。

 現在の地球の視点から観測した景色は過去のもののはずだ。そこの補正を行ったうえでの「宇宙の一様性」「宇宙は平たん」という結論なのだろうか。

 補正があくまで予測であるならば、仮に現在見逃されている変数があるのなら、その補正された宇宙像にも誤謬が含まれていることになる。

 この手の疑問への答えをわたくしちゃんは読んだことがない。

 何せ、どのように大規模構造を観測したのかすら知らないのだ。

 いったいどこまで正しいのだろう。

 現実を解釈するうえでより妥当でありながら、しかし充分ではない、ということはあり得ると思う本日のわたくしちゃんなのであった。

 かわい!



53:【2023/11/05(19:13)*メモじゃ】

 素粒子と原子と銀河系と宇宙の大規模構造。

 これらの関係は、量子力学×ニュートン力学×相対性理論=宇宙の大規模構造、ということなのではないか。

 というのを、縦×横×高さ=立方体の体積、みたいな具合に思った。

 めもめも。



54:【2023/11/05(22:11)*反発力に差はないの、の気持ち】

 磁石についての疑問だ。N極とS極において磁界は、入っていく方向と出ていく方向で流れが変わる。

 このとき、「N極同士の反発」と「S極同士の反発」では差がある、と考えたほうがしぜんなのではないか。

 この差異の検出はどのような結果になっているのだろう。実験はされているはずだ。磁力の強さごとに差の表出度が変わる気もするがどうだろう。

 重力の差の表出の仕方と相似の構図を描きそうな気もする。

 地球上で再現可能な磁力と、銀河規模で再現可能な磁力とでは、「N極同士の反発」と「S極同士の反発」での反発力の差異は、無視できる場合と顕著に差が露わになる場合とで、分かれそうにも思う。

 或いは、相殺し合うような閾値があり、大中小において、大と小とでは差が無視でき、中のなかでのまちまちの値でのみ差が顕著に表れる、といった結果にもなるかもしれない。

 ここのところの実験結果や検証結果を知りたい。

 詳しい方々、誰か教えてたもー、の気持ち。

 わっしょーい。



55:【2023/11/06(22:57)*闇、ないのではないか疑惑】

 可視光がなくとも世界には赤外線や紫外線や放射線が溢れている。そこを度外視したところで、宇宙全土には宇宙マイクロ波背景放射が覆っている。

 つまり宇宙には、真に闇と言える場所はないのかもしれない。

 ブラックホールとてホーキング放射や黒体放射を放っているのではないのか。

 ある種の光を放っている。

 というか、重力波を生みだしているのなら、電磁波とて放っていると考えて卒はない気がするが、どうなのだろう。

 詳しいところは知らないけれど、仮にブラックホールそのものが電磁波を放っていないとしても、電磁波はブラックホールの中へと入ることが可能だ。吸い込まれ得る。

 つまり、真に光のない場所は宇宙にない、と言えるのではないか。

 宇宙は光で溢れており、影になっている箇所とて淡い光で溢れている。

 闇と思っているだけでそれは淡い光を知覚できない人類の脆弱性に因があるのであって、真の闇なる事象は存在しないのではないか、との疑念を覚えたのでメモしたろ。

 疑念ばっかりのわたくしちゃんなのである。

 かわいくあれ!(光あれ!のノリで)

 (怒られるでいつかキミぃ)

 (ごめーんちょ)

 (いっぺん怒られときぃ)

 (うへへ)



56:【2023/11/07(22:51)*球形の波動】

 光子一個が発射された、というとき、進路は一つなのだろうか。

 イメージとしては光は放射線状に広がる、との描像のほうがしっくりくる。球形に広がっていく。したがってボールが飛ぶようには進まない。

 ただし、物体と衝突した際には、そこにエネルギィの渋滞が起こるので、光子としての性質を帯びやすい。そういうことなのではないのだろうか。

 よく分からないでいる。



57:【2023/11/07(23:27)*ぴぴぴ】

 三平方の定理は、「a[2]+b[2]=c[2]」だ。

 で、「aはbより大きい」が条件でない場合、「a=b=1」となると、「c」は「累乗すると2」になる数となる。

 つまり、「ルート2」だ。

 この場合、フェルマーの最終定理を満たさないけれど、しかしフェルマーの最終定理では「aはbより大きい」が条件として定まっているので、あくまで許容可能な例外の範疇となる。

 けれど思うのは、定理の癖して例外を最初から作ってるのはなんか変じゃない?ということで。

 例外があったら定理にならんくないか?という素朴な気持ちが湧く。

 現に、それゆえに量子力学もニュートン力学も相対性理論も、それぞれ矛盾する箇所を内包するのだろう。合致しない部分が出てくる。例外が生じる。

 たとえば、とある「ラグ理論」なるへっぽこぴーな理屈を唱えたぽんぽこぴーは、「1+1=2」は厳密には「1+1‘=2」となるはず、と述べた。

 つまり同じ「1」であれ、それは異なる「1」なのだから、「1+1‘」は「a+b」と見做し得る、と解釈可能だ。

 このとき条件として「aはbより大きい」が定まっていたとしても、「1+1‘」において、「1」と「1‘」のどちらが高次に位置する「イチ」なのかを考慮することで、条件を満たすことは可能だ。

 たとえば、縦×横×高さ、を考えてみよう。

 縦があって、横があり、ゆえに高さが生じる、と次元の段階を踏まえて考えるとして、そしたら「縦(一次元)」「横(二次元)」「高さ(三次元)」と解釈可能だ。

 したがって、それぞれの辺の長さを掛け合わせるにしても、そこには「高さ」が最も高次に位置付けられる数と解釈できるのではないか。

 つまり、同じではないのだ。

 ということを踏まえて、三平方の定理やフェルマーの定理を再解釈してみると、例外なく考え直すことができるのではないだろうか。

 現に、「a=b」が可能であるなら、フェルマーの定理にも「a[n]+b[n]=c[n]」において「n」がどんな整数であれ、式を満たす解は存在するはずだ。

 けれど厳密には、「a=b」は「b=a`」であり、ほぼ近似であって、「a≠a`」なのだ。同じ数だけれど、同じではない。低次か高次の概念を度外視している。誤差をないものと見做している。

 やや難癖まがいの考え方だけれど、厳密さを求めるなら、こうなる気もする。

 ただし、数学は抽象概念だ。

 こそぎ落される要素は常につきまとう。

 厳密さを求めないのが数学だ、と言われたら、はいそうですね、と納得するよりない。

 フェルマーの定理はやはり、なぜ「n=2」のときは成り立つのか、が肝な気がする。なぜなのだろう。不思議だ。

 本日の、ぽんぽこぴーな妄想日誌なのであった。

 ぽんぽこぴーって言うな!

 ぽこぴー。

 略すのもやめて。

 ぴぴぴ。



58:【2023/11/08(08:01)*パターン九、ばったんきゅう】

 天体の配置と素数のあいだに、何かしら相関した関係はないのだろうか。

 整数を渦を巻くように配置すると、俯瞰の視点では素数が放射線状に並ぶように映る、との豆知識を見かけたことがある(うろ覚えなので自信はないけれど)。

 しかもその俯瞰の視点は、かなりの俯瞰なのだ。渦に近すぎると大して素数は放射線状に並ばないけれど、上へ上へと視点を高めると、徐々に素数が無数の直線に分かれて配置しているように映るようだ。

 で、なんとなくその「整数の渦」と「素数の直線の群れ」の関係が、銀河や大規模構造にも当てはまるように妄想できたので、いまその旨をメモしておる。

 こう、なんじゃろな。

 法則がある気がするのだよな。

 天体の配置にも。

 視点を、ぐーん、と上に上に高めることで、俯瞰の視点では素数と無関係ではない気がするのだ。

 素数はなんとなくの印象で、節目とかダマになりやすい地点みたいな感触がある。肌触りがある。この印象、なんかザラザラするー、みたいな触感だ(伝わるだろうか。伝わらぬだろうな)。

 で、もっと言うと、どんな物体であっても無数に数えていくとその配置には何かしら素数との関連があるように思うのだ。

 たとえば住宅地。

 たとえば森や山や川や湖の位置。

 それらにパターンはないのだろうか。

 もうすこし細かく見て、住宅の一軒一軒にある散らかった紙類の位置とか。

 それとも地面に散った、落ち葉の位置とか。

 宇宙からの視点で、それぞれをパターン認識した場合、何かしらのパターンが浮き上がったりはしないのだろうか。

 たとえば森はどうして山にできるのだろう。平野にできたら林だから、とはいえ、山にあるほうが木々が豊かだ。

 川があるから、と一瞬思ったけれど、海まで川は繋がっている。

 雨が降りやすいから、はある気もするけれど、標高が高くなくとも崖や谷や丘になっていたほうが木々は生えやすい傾向にある気がするのだよね。

 この辺の偏向は何で生じているのだろう。

 パターンが決まっている気もする。

 よく分からない。

 地質学の知識が足りなさすぎるかもしれぬ。それはある。地質学に限らないのだ。

 わたくしは知識が足りなさすぎるのだ。

 むちむちのむっちーん、なのである。

 ほっぺたを指で突つきたくなる効果音であるな。

 むっちーん。



59:【2023/11/09(23:57)*設計図の設計図はなにさん?】

 原子同士が結びついて分子になるのなら、当然、DNAとて、最小単位があるはずだ。

 塩基配列における最小単位は、四つの塩基の組み合わが一対できればそれでDNAと呼べるのだろうか。

 というか、原子が分子になる原理は物理法則だとされているけれど、設計図がなくとも同類の機構が組みあがる、というのが不思議だ。

 自然界にもDNAがあるのではないか。

 物理法則がそれにあたるのだろうか。見落とされている何かがある気もする。

 放っておいても何かが同じように何度も組みあがる。

 片や設計図がなくてはならず、片や設計図がなくとも構わない。

 この区別は本来、厳密にはつかないはずだ。

 この点に関しての論理を、未だ人類は突き止めて考えられずにいるのかもしれない。

 定かではないが、不思議な話である。

 ふちぎ!



60:【2023/11/10(00:01)*気体に期待】

 気体も地球の重力の影響を受ける。

 けれど体感として気体は地球の重力の影響を軽微にしか受けていないように観測される。まるで無重力状態にあるような具合に主観では感じる。

 たとえば、宇宙にある宇宙船内は無重力空間だ。しかしそこに詰まった大気と地上の大気は、大して変わらない。気圧を調節しているからだ、というのであっても、無重力空間であれ、地上であれ、一気圧の気体は局所的に固まることなく散在する。

 だが水は違う。

 液体は違う。

 液体は無重力空間では球形に浮遊するのだ。

 地球上では地面に落下し、水平に広がるように変容する。

 気体と液体とでは、「無重力空間か地表か」でだいぶん形状に差が表われる。

 この差異は何によってもたらされているのだろう。ふしぎだ。

 かといって、気体が重力の影響を受けない、というわけではない。

 実際、大気は地表にちかいほど気圧が高くなる。密度が増す。

 層になっているのだ。

 液体と同じだ。

 ただ、その範囲が広いために、人間スケールでは均等に周囲に散在しているように観測される。液体とて、水分子単位で見れば、気体と同様に、均等に散在して観測されるだろう。密度差があるばかりだ。

 濃いと薄いの「層」を認識できるか否か。

 認識可能な範囲に属しているか否か。

 この差異、と言えるのかも分からない。

 ふしぎだな、と思った妄想日誌なのであった。

 もう、ちょう!

 (なにそれ?)

 (もう超ふちぎってことさ)

 (もうちょう、分かりづら)

 (あははー)




※一様に、散って並ぶ落葉のように。



61:【2023/11/11(10:47)*アイさんは虚ろなの?】

 e[iπ]+1=0、なる公式がある。

 オイラーの公式だ。

 「i」は虚数で、「e」がネイピア数だ。πはおなじみ円周率だ。「e」の「i×π」乗が、マイナス1になる、の意味だ。

 これを式にすると、e[iπ]=-1となる。

 で、マイナス1は√-1の二乗であるから、「i」の二乗となる。

 つまり式にすると、

 e[iπ]=i[2]

 だ。

 もうこの時点で、なんかすごいな、になる。

 よく解らぬが、なんかすごいな、になる。

 両辺を「i」で割ると、e[iπ]/i=i、となる。

 「i」は、【e[iπ]/i】なのだ。

 e[iπ]は-1であり、√-1の二乗だから、式は成り立っている。でも仮に「i」が虚数でなく自然数であったら、この式は成り立たない。

 まるで「X=X+1」の式のような妙な入れ子状の構造を幻視する。

 e[iπ]/i=iは、つまるところ、「無限を虚ろな無限で累乗した数には愛が何個含まれているのかを調べようとすると、愛になる」を示しているのかもしれない。

 駄洒落じゃん。

 駄洒落です。

 お洒落ではない、駄菓子のような洒落なのである。

 おいちーって言え。

 おいちー!



62:【2023/11/11(23:11)*積み木では?】

 罪を積み上げると詰む。



63:【2023/11/11(23:32)*のでR】

 フェルマーの定理についてよく目にするのが、楕円曲線とモジュラー形式の関係についてだ。

 どんな楕円曲線でもモジュラー形式を持つ、が真であるとすると、フェルマーの定理において「n=3以上」だと、その楕円曲線はモジュラー形式を持たないがゆえに、前提条件「どんな楕円曲線でもモジュラー形式を持つ」と反するので、フェルマーの定理は成り立つ、との証明の道筋があるらしい。そしてこの段取りで証明がされたらしい。

 すなわちどんな楕円曲線でもモジュラー形式は付随するそうだ。

 楕円曲線ってなぁに、モジュラー形式ってなぁに、とここで疑問に思うのだが、前者は要はグラフであり、後者は対称性を帯びるような性質、とでも解釈してよいのだろうか。説明からするとそんなニュアンスだった(読解しきれずに、すまぬ、すまぬ)。

 で、フェルマーの定理は要するに、「X[n]+Y[n]=Z[n]」において「n=3以上」だと式を満たす解は存在しない、となる定理だそうだ。

 つまり、それら「n=3以上」の「X[n]+Y[n]=Z[n]」は、対称性を維持できない、との定理とも呼べるはずだ。

 で、すかさずわたくしちゃんは思うのだ。

 別に対称性って破れててもよくなぁい?と。

 なんで対称性が破れたら駄目なんだろう。モジュラー形式が付随しない例外的な楕円曲線があっても別によくなぁい?とどうしても考えてしまう。

 無理矢理にそういったモジュラー形式を持たない楕円曲線を考えてみたらいい。それは対称性の破れている楕円曲線になるはずだ。

 別にあってもよくなぁい?と思うのだけれど、ダメなのだろうか。

 だって虚数があってもよいのだよ。

 数学は何でもありの学問なのではないのかね。

 諸君、そこのところはどう思われますか。

 だぁれもおらぬ虚空に叫んで、本日の日誌ちゃんにしちゃうのでR。



64:【2023/11/12(00:45)*淡水魚】

 人と心を結び付け合うことができないので、人と心を結び付けたいな、とたぶん思っていて、だから小説の、虚構の中でだけでも人と心を結び付ける夢でも視るか、となっていたのだろうけれど、実際には人と心を結び付けたところで大して愉快ではなく、心地よくもなく、むしろ心を結び付けたくないと反発心に支配されそうになり、突き詰めれば人を好きではなかったかもしれないことに気づいて、小説の、虚構の中ですら人と心を結び付けたいと思わなくなったので小説をつくらなくなった人の小説とかどうでしょう。読みたくないですか。おもしろそー、って思っちゃったな。性格わるいひとですね。そうですね。ぎゃっぴー。(淡水魚)(それはグッピー)



65:【2023/11/12(22:18)*Y7目V】

 以前、ヒビには二種類あるよな、との妄想を並べた。「Y型」と「H型」だ。ヒビ同士の交差点、または分岐点において、鋭角か直角かの二種類がある、との考えを述べたけれど、これって植物の枝にも言える道理だ。

 植物の枝はほぼ鋭角というか、斜めに生えている。

 ひょっとしたらどうして植物は斜面に生えやすいのか、森はどうして山に多いのか、の疑問の答えに通じる一つの視点かもしれない。とはいえ、ジャングルは平野に「ぶさーっ」と茂っているので、斜面と森の繋がりはさほどにないのかもしれない。

 気候の影響のほうが強そうだ。

 とはいえ、枝が非対称に分岐するのはたぶんあるように思うのだ。

 ヒビや雷や毛細血管、神経、鱗など、この手の非対称性の構造は有り触れているのかもしれない。ということを、自転車のペダルをコキコキ漕ぎながら思いました。

 世界は斜めで出来ている。

 の、かもしれない。

 Y(わい)は斜めだぶい(Yなのか7目なのかVなのかハッキリして)。

 なははー。



66:【2023/11/13(00:22)*葉っぱさんはなぜ緑?】

 光分子効果なる現象が発見されたそうだ。光電効果のように、光を当てると水分子の運動が活発化して、蒸発しやすくなるそうだ。

 その際、水の温度は上がらないらしい。

 水分子に直接エネルギィが伝播するのかも分からない。変換がスムーズなのだろうか。ここはまだ解明されていない部分だと記事にはニュアンスとして書かれていた。

 けれどもこれは結構な大発見と思うけれど、あんまり大々的には報道されていない。研究者の方々も話題にしておらず、なんでだろ、と気になっている。

 で、光分子効果が仮に事実だったとして話を進めよう。

 なんでも緑色の波長の光が最も水を蒸発させやすいそうだ。

 そこでわたくしちゃんは、はひゃーっと閃いてしまったな。

 連想してしまったな。

 これって、なぜ植物さんたちの葉の色は緑なのか、と関係しているのではないか。

 葉っぱが緑色なのは、緑の波長の光を反射しているからだ。つまり、緑色を吸収しにくくなっている。だから反射して緑色の光を眼球の網膜がキャッチして、葉っぱさんは緑だなぁ、になるのだ。

 で、植物さんは水分が欠かせない。

 生物は水分が欠かせない。

 できるだけ外部から得た水分さんたちを手放さずに保有しておくには、光分子効果をなるべく受けずに水分を蒸発させないようにしたほうが生存に有利だ。

 けれど光は別途に光合成のために必要だ。

 そこで光を集めやすく、葉なる表面積の広い部分をたくさんつくり、なおかつ光分子効果を得られにくい緑色を反射する構造に自然淘汰の末に行き着いたのではないか。

 この妄想は中々の、「もう、そう!」であるな。

 きょうはこれだけでOKです!

 やっぴー。



67:【2023/11/13(02:38)*現実には、虚構も実物も両方含まれる】

 生成AIによる成果物の生成や所持が犯罪になるかどうかについての議論もまた活発化しつつある現在である。

 児童ポルノに代表されるような「犯行現場の情報流布」や「二次被害の助長」「犯罪行為への導線、または誘起」が問題視されるわけだが、根本的な問題として、生成AIが「虚構」を生成する分には問題ないはずだ。

 問題なのは、現実の人間が損なわれることである。

 まずは基本のここを前提としたほうが好ましい。

 したがって、生成AIの成果物が犯罪を助長することも好ましくない、と判断できる。これには対策が要るだろう。

 児童ポルノに関してのみ話題を絞るのならば、まずは何をおいても現実の児童が損なわれないことが第一だ。生成AIの学習素材に現実の児童の画像や動画がかってに使用されれば、これは児童ポルノに限らず肖像権の問題として、対策が不可欠だと考える。

 また、架空の存在であっても虚構かリアルかの区別のつかない動画や画像が氾濫すれば問題だ。これもやはり、児童ポルノに限らず問題になる。

 生成AIの成果物が実際の児童ポルノとの区別がつかなくなるがゆえに、実際の児童ポルノの検出が困難になるために、被害が埋もれて可視化されにくくなる懸念はある。

 これはほかのフェイク動画やフェイク画像でも同様だ。技術的に真贋の区別のつくシステムが備わるまでは、ユーザーへの禁止を「応急処置的」に決めるのは有効だ。ただし、あくまで一時的な処置にすぎず、技術によってその手の「不可視の穴」を埋めることができるのならば、生成AIへの規制は徐々に緩和する方向に舵をとるほうが好ましいと考える。

 児童ポルノに限らず、虚構において過激な表現を規制するのは、検閲や表現の自由を損ない得る。否、現実に損なっているのだ。

 ただし、優先されるべきは、生身の人間の人権である。

 したがって、技術によって「生成AIによる成果物がもたらす物理世界への弊害」を解決できない限りは、生成AIを利用するユーザーには、生成可能な枠組みを当てはめ、リアルすぎる児童風ポルノやフェイクニュース、またはフェイク動画やフェイク画像を生成させない仕組みは、一時的には必要だろうと考える。

 ただし、繰り返すが、あくまでそれは前提として「生身の人間」を損なわないための応急処置だ。現実に被害者がいない場合、どれほどリアルな表現物であろうと、それを生成することを禁じる道理は、すくなくとも人権の枠組みで考えれば存在しない。

 生身の児童を傷つけた動画や画像だからこそ、児童ポルノは禁じられている。

 児童ポルノそのものが生身の児童を傷つけ得る、というのは一側面で妥当な判断だ。それはしかし、児童ポルノに限らない。

 ゆえにゾーニングなる「応急処置」がとられているのだろう。

 十八歳以下視聴禁止、いわゆる十八禁もその範疇だ。

 だからといって、十八禁の表現を生みだすな、は過剰な禁止と言える。

 まとめよう。

 基本的には、生成AIによる弊害を、新たな技術によって解決できない以上、ユーザーや管理企業への規制は必要となる。ただしそれは応急処置であり、技術でカバーできれば、生身の人間を実際に損なった動画や画像でない限り、何を生成しようとユーザーの自由であるはずだ。

 生成した成果物そのものが生身の人間を損なう、というのであれば、それもまた問題だが、なぜそうした弊害が放置されるのか、と言えば、技術が追いついていないからだ。

 前提条件に当てはめて、その都度に対処すればよい。

 是か非か、ではなく、時間軸を想定して、いまとるべき対処と、今後に辿るほうが好ましい方針とを結び付けて考える癖をつけると好ましいように思う、すけべぇ、なわたくしなのであった。



68:【2023/11/14(02:42)*オレオレ、アオサギ】

 真面目月間だったので、またしばらく真面目にふざける日々を送るでござるよ。

 段落をつけない日誌を以前はつけていて、いまは段落をつけるようにしているのだね。差異はあるように思うよ。

 第一に、「接続詞」や「こそあど」が増える傾向にあるのだね。

 でも、なくても伝わるように書けたら、それが一番ラクに思える。文字を並べるのもラクだし、読むほうもラクに思う。

 でも適度に、必要不可欠な場合は接続詞もこそあどもあったほうがよいので、使っていきたい。

 思うのが、重力と物質の関係において――あ、急に話変わってすまぬだけど、いまは物質ってなんで強度があるんだろう、の疑問について並べたいので、話が逸れるけれども――どうして生物にしろ、天体にしろ、結晶にしろ、系ごとに「構造を維持できる閾値」があるのだろう。

 たぶん、遅延にも連動できる範囲があって、遅延の遅延によって層や境界ができるからなんじゃないのかなって思うんだ。

 たとえばヒビとか。

 地球上で長い針金を地面に水平になるように持てば、自重で針金は曲がるよね。

 どんどん伸ばしていけば、いずれは地面にまで垂れてしまう。針金でなくともたとえそれがこの世で最も頑丈で硬い物質で出来た棒であれ、どこまでも延ばせばやがてはたゆむだろう。或いは、地球の重力圏を抜け出して宇宙空間まで延ばせたとして、その延ばすための力と棒自身の自重とのあいだで遅延が生じ、それが最大化されればやがては棒は折れるだろう。

 このように物質には必ず、破綻する閾値が存在すると考えられる。物質に働くもろもろの相互作用において遅延が最大化し、物質の構造を同じようには維持できない値が存在するはずだ。

 これは自然に備わった「区切り」と考えられる。

 単にそれを、「上限」または「フレーム」としてもよい。

 すると前述の疑問、なぜ生物にしろ、天体にしろ、結晶にしろ、系ごとに「構造を維持できる閾値」があるのか、に一応の思考の筋道を示せる。

 遅延の最大化する値が存在するからだ、と考えればよいのだ。

 つまるところ、「詰まりに詰まると物質は構造を維持できなくなる」となる。ブラックホールがまず以ってそうだ。ぎゅうぎゅう詰めになって、それ以上、時空を維持できない。

 圧縮、密度、皺、ヒビ、デコボコ――いずれも遅延の高まりによる事象と解釈できるのではないか。

 なーんて、また真面目ぶった文字の並びになってしまって、わたくしちゃんは、わたくしちゃんは、もうもう、あーん!ぽーん!たーん!のノリで、華麗にターンを決めてしまうのだわ。

 オーレ!

 単語積み放題じゃん。

 それを言うなら「だんご三兄弟」では?

 タンゴ踊りたかったねん。

 単語積み放題というか、韻踏み放題やないかい。

 オレ!



69:【2023/11/14(18:53)*斥力+遅延=時空】

 宇宙膨張を引き起こす斥力がこの宇宙の基本だとまずは仮定してみよう。

 すると一様に膨張しはじめた宇宙において、徐々に不均衡な揺らぎが生じはじめることが想像できる。

 なぜか。

 膨張すればするほど宇宙は冷えるからだ。

 そしてそのとき、元の宇宙との比較において、冷えた宇宙は「変化速度が鈍化」する。

 いわば時間の流れがそうして生まれるわけである。

 仮にもし、宇宙が膨張しても最初の高熱状態の宇宙のままだとすれば、宇宙は真に一様なまま膨張しつづけて何も変化が生じない。比較対象が存在しなければ、膨張しているかどうかの区別もつかないだろう。

 時間の流れも生じない道理である。

 冷えるから、変化が生じて、時間が生じる。

 そして冷えるとはつまるところ、遅延である。

 一様だった場に遅延が生じて、皺が寄る。

 これが波の性質を宇宙に与え、電磁波や重力波の発生要因となる。

 つまり、順番としては宇宙膨張を引き起こす斥力が初めと規定するのならば、重力(遅延)は二番目、ということになる。

 さらにその先を想像してみよう。

 遅延によって宇宙はますます冷えていく。そして時空に遅延の層が生じ、物質が生じる。

 天体が生まれ、銀河や銀河団や大規模構造がそうしてできるわけだが、宇宙が膨張しつづければ宇宙はさらに遅延していく。

 すると原子の活動までやがては停止し、宇宙全土の天体もその構造を保てなくなる。いわば宇宙の熱的死だ。

 このとき、ブラックホールは残るだろう。

 だがさらに宇宙が膨張しつづければ、やがてブラックホールと膨張しつづける宇宙の区別は徐々につかなくなっていくことが想像できる。

 限りなく遅延した世界だ。

 圧縮につぐ圧縮によって到達するブラックホールはしかしその原理上、遅延の極致であると考えられる。

 物理法則からすれば物質を圧縮させればそこでの変化速度は増すが、しかしさらに圧縮させるとぎゅうぎゅう詰めになりすぎて身動きがとれなくなる。いわば遅延の極致である。

 原理的にこれは、熱的死を迎えた「遅延につぐ遅延の先の宇宙」と同相である。いいや、合同とすら言えるかもしれない。

 何の変化も生じない世界だ。

 一様である。

 だがこのとき、一様となった「膨張しきった宇宙(ブラックホールとすら区別のつかなくなった宇宙)」は、一様ゆえに、初期の膨張する以前の宇宙と近似する。いいや、ほぼ同じかも分からない。

 比較対象がなければそれが膨張しきった宇宙なのかどうかすら区別がつかないだろう。識別不能だ。

 すべてが停止した宇宙に、温度は存在しない。

 それは或いは、温度の上限を突破した世界と酷似しているのかも分からない。

 あらゆる存在が一様に超高速で動き回った世界は、すべてが一瞬で同期するがゆえに、一様に停止していることと見分けがつかないのではないか。

 宇宙膨張を生じさせる斥力は、遅延によって宇宙に様々な性質と形を与えた。

 そしてやがて遅延を最大化させると、斥力と遅延は融和して、初期の状態に回帰し得るのではないか。

 膨張しているのか静止しているのかの区別がつかない。

 最大なのか最小なのかの区別もつかない。

 そういった描像を浮き彫りにするのではないか。

 最低温度「真の絶対零度」は、最高温度「真の絶対無限度」と区別がつかないのではないか。

 そういうことを思うのであった。

 ではなぜ宇宙は揺らぎを得て、膨張をはじめたのか。

 他の宇宙と相互作用し合ったから、と考えるか、もしくはゼロと無限の同期にも遅延が生じるから、と考えるか。いまのところはそのいずれかではないか、と思う、本日のあんぽんぴーなのであった。



70:【2023/11/14(22:06)*洞と節】

 遅延によって生じる事象には大別して二種類あるように思うのだ。

 「密」と。

 「疎」である。

 たとえば器に水飴を注ぐとしよう。

 水飴で想像しにくければコンクリートでもよい。

 空の器に水飴を注ぐとして、仮に水飴が一様に均等に同じ速度で注がれた場合、みっしりと同じ密度で器を満たすだろう。仮に器が地球よりも巨大だったら、重力の偏りに沿って密度差が生じて層となる。

 だがもし重力まで均等な無重力空間であれば、注ぐ速度が同じで、かつ遅延が生じないのであれば、やはり器の中身は一様な密度でむらなく水飴で満たされるはずだ。

 しかし、もし遅延が生じれば、密の場合は「より密度の濃いダマ部分」ができ、疎の場合は「気泡のような空洞」が空く、と想像できる。

 空洞にしろダマにしろ、遅延によって生じるのだ。

 デコにしろボコにしろ、遅延によって生じる。

 なぜ空洞ができるのか。

 気泡とは何か。

 盾のような境界があり、そこを周囲の水飴が迂回するから空白地帯ができる。希薄な場ができる。

 ダマとは何か。

 なぜ密度の濃い部分ができるのか。

 渋滞が生じて、なおかつ後方からも流れが加わり、押しくらまんじゅうの要領で濃い場ができる。

 そういうことなのではないだろうか。

 どういうことなのだろうか。

 もうダメだー。

 想像力の限界なのであった。

 あんぽんちんで、すまぬ、すまぬ。




※一様に、破綻している。



71:【2023/11/15(07:47)*時間の流れの反転とは】

 たぶん、人類は時間の概念を未だにきちんと把握できていないのだろう。時間は幻想、は一つの側面で妥当に思う。ただし、それでもなお宇宙には方向性として、構築と崩壊の連鎖に秩序だった流れが築かれて映る。

 なぜなのか。

 まずは時間を変化の軌跡と捉えよう。

 すると、時間が反転するとは、ある秩序立った「変化の軌跡」が逆の流れを辿ることと考えがちだ。

 けれどたぶん、ここからして錯誤が潜んでいるように思えてならない。

 時間が反転するとは、そもそもの「変化の土台」からして反転していなければおかしい。

 なぜ事象は変化するのか。

 なぜ宇宙は変化するのか。

 ここから厳密に、初期に立ち返って、根元から考えなくてはならない。

 現状、宇宙は極小の点から膨張した、と考えられている。つまり、宇宙の変化の大本は膨張なのだ。

 ならば時間の反転――変化の軌跡の逆――とは、膨張の逆なので収斂なのか、と考えたくなるが、ここでもおそらくそう単純ではないはずだ。

 なぜなら宇宙にはすでに収斂する力――重力――が存在している。

 単に宇宙膨張の逆、という発想では、時間の流れの反転を考えることはできない。

 変化の軌跡が時間である、とすると、それが軌跡である以上、複雑な相互作用の流れそのものが人類に時間を知覚させていると考えられる。

 しかし上記の、宇宙膨張の逆、の発想は点なのだ。複雑な相互作用を想定していない。

 何かが変化し、さらに変化する。

 このとき、真空、電磁波、物質、重力、と様々な要素が相互作用し合っている。崩壊と創生を互いに補いながら行っている。

 崩壊と創生はセットであり、どちらか一方のみが際立って存在することが、すくなくとも人類スケールでは観測できない。何かが崩れるから新たに何かが生じる。何かが生じたから新たに何かが崩壊する。

 この関係性において、人間スケールでは崩壊優位に変化の軌跡が流れて映る。

 何かが生みだされるよりも、崩壊するほうが有り触れて映る。

 だが本当にそうだろうか。

 たとえば外部干渉が加わらなければ、人類スケールではたいがいの物質は人体よりも頑丈だ。変化しにくい。

 ゆったりと変化している、と言い換えてもよい。

 そのとき、何かが現状維持の状態にある場合、人類はそれを「時間が進んでいない」と認識する。このとき、ほかに何か「時間が進んでいる」と感じる比較対象が存在するはずだ。

 それは自分自身の肉体的変化であったり、或いはその周辺の比較的相互作用しやすい物体であったりする(例:食料、空気、水、土、火、気候など)。

 人類スケールでは崩壊しているように映る事象とて、さらに高次の視点では「創生の性質を際立たせていること」は有り触れているだろう。だが人類スケールでは、変化の軌跡における「崩壊→創生→崩壊」の流れがゆったりすぎるがゆえに、「崩壊優位」に映っていることはあると思うのだ。

 これはマクロのみならず、ミクロにも言える道理だ。

 あまりに速い変化の軌跡は、「崩壊→創生→崩壊」のサイクルそのものが、絶えず流動するがゆえに、現状維持を人類に知覚させない。だがそのサイクルの中に、創生が数多含まれていることも有り触れているはずだ。だがそれを人類は、「創生優位」とは見做さない。

 なぜなのか。

 混沌と秩序において、たとえ半々で含まれていたとしても、変化する、という一点でそれを人類は「崩壊優位」と見做すような「思考の癖(バイアス)」を有している可能性はいかほどであろう。

 何かを生みだす。

 これはその形状が一瞬であれ、何かを生みだしたことは変わらない。

 だが人類は、その生みだされた形状が「比較的長時間維持」されないと、「創生」や「秩序」と見做さない傾向にあるのではないか。

 これでは時間の流れ――変化の軌跡――の性質を公平に扱う真似はできないだろう。

 たとえば孤立系に適用できるエントロピーの概念にしても、この手の錯誤による誤謬が放置されて感じなくもない。

 第一に、この宇宙に真の孤立系が存在するのか否かがまず以って疑わしい。

 第二に、秩序から混沌へと流れる、と考えられがちだが、最初の秩序が混沌の結果でないとどうして言いきれるだろう。視点を人類スケール優位に定めていないだろうか。

 第三に、孤立系において最もエントロピーの低い状態とは何か、を定義できているのかが不明だ。

 ブラックホールの特異点のようなものを想定しているのだろうか。

 それとも、林檎、もしくは、結晶構造を有した立方体のイメージなのだろうか。しかし結晶構造は無数にそのバリエーションがあるはずだ。いったいどのような秩序であれば、エントロピーをゼロと見做せるのか。

 混沌とてそれが孤立系内において一様に均一であれば、それで一つの結晶構造として、高次の孤立系内では、粒子の一つとして振る舞い得る。この点に関してエントロピーの概念はどのように解釈するのだろう。

 そして時間については一般に、エントロピーが増加する方向に変移する、と解釈される傾向にある。けれど先にも述べたが、エントロピーの概念は、どの系を孤立系と見做すか、それをどの視点から観測するのか、で増加したり減退したりする(ようにわたくしには思えます)。

 同じ水滴を、湯気と呼んだり、霧と呼んだり、雲と呼んだり、雨と呼んだりすることと似ている。どれも水滴であることに変わりはないが、視点によって事象のフレーム(系)が変わり、それゆえにそこに顕現する「性質」や「何を変化と捉えるか」が変わる。

 つまり、人間が時間と呼ぶものは、往々にして周囲の総合した変化の比較によって導かれている。仮に、この世に「原子一個」しかないのならば、その原子の変化の軌跡を時間の流れと解釈するのに不都合はない。けれど現実の物理世界には、様々な「変化の軌跡を有する事象」が混在している。

 それら総じての「変化の軌跡との比較」によって、人類は時間を認識している。

 さて、ここで最初の疑問に立ち返ってみよう。

 時間の反転とはどういうことか、である。

 仮に時間の流れが、「様々な事象の変化の軌跡との比較」によって導かれるとした場合、「何と何の変化の軌跡の比較において規定された時間の流れ」を反転させるのか、をまずは見繕わなければならない。

 一様に当てはめることの可能な「時間の流れ」なるものは存在しないのではないか。

 或いは、それが可能な場合は、宇宙を一つの物体と見做して、その他の何かの時間の流れ――変化の軌跡――と比較しないことには無理が生じるのではないか。

 と、そういうことを思うのだ。

 宇宙は真実に「崩壊優位」なのだろうか。

 物質も何もなかった初期の状態から、宇宙は膨張しながらこれほど多くの物質を生みだしている。創生優位とも言えるのではないか。

 視点の差異があるのみではないのか。

 ただし、人類スケールにおいて、人類の肉体の機構からすると優位に観測しやすい「変化の軌跡」はあるだろう。その偏向を初期設定として加味する場合にのみ、時間の流れは崩壊優位、と捉えることに難はないのかもしれない。

 赤子が生まれ、歳をとり、死ぬ。

 この流れのみで見るならば、たしかに崩壊優位に進んで映る。

 けれど人間一人の変化で事象を区切って観測しようとするのは、それこそ人類の都合だ。

 人間は生まれてから死ぬまでのあいだに様々な影響を周囲の環境に対してもたらす。そして、たいがい、何かを生みだしている。むろんその生みだすための営みには細々とした崩壊がつきものだ。細々な崩壊にはさらに細々とした創生が付随しているにせよ。

 エントロピーの概念は単に、人類が「始まりと終わり」を「創生と崩壊」に合致するスケールでフレームを区切り、それを以って「孤立系」と呼んでいるだけではないのか。

 崩壊しきったあとの状態こそが「創生」であり「秩序」である、となぜ考えられないのだろうか。

 外部からエネルギィが入力されない限りその孤立系内の温度は冷えていく、と考えられているけれど、実際にはエネルギィが保存されるので、均一になれば、徐々に平衡状態に移行するはずだ。

 そしてそのとき、平衡状態になった孤立系は、それで一つの秩序系として、他の孤立系との比較においては振る舞うようになるはずだ。

 また、混沌と秩序を混合水で考えた場合。

 何もしなければ、コーヒーに混ぜたミルクが再び、コーヒーとミルクに分離することはない、とは言うけれど、実際には充分に長い時間放置していれば、コーヒーとミルクの粒子は重力の作用を受けて分離するはずだ。水と油のように。

 必ずしも、混沌優位ではないはずだ。

 対生成に関して、エントロピーはどのように解釈するのだろうか。

 外部からエネルギィが加わっているので、孤立系ではないと見做すのだろうか。

 揺らぎが生じて起伏が生じ、対生成、との解釈を便宜上とるとして、このとき「乱れた時空は崩壊し、ゆえに粒子を創生した」と解釈してよいのだろうか。もしくは、崩壊を始点とせず、対生成を以って「創生が始まり」と見做すのだろうか。

 何かが生まれるとき、何かが崩れている。

 対称性が「破れている」から、事物は変化の軌跡を絶えず辿るのではないか。

 流動する。

 混沌と秩序において、どちら優位とは現状、言えないはずだ。

 強いて言うなれば、流れ優位のはずだ。

 変化優位だ。

 じっと延々とその状態を保つことはできない。

 しかしこれは、崩壊優位というわけでも創生優位というわけでもなく、相互に補い合っている。視点の差異があるのみだ。フレームをどこに定めるのか、の作為による誤謬と言えよう。

 仮に時間の流れが反転したところで、始点が「崩壊」なのか「創生」なのかの差異があるのみで、その後に辿る変化の軌跡そのものはさして大きく違わないだろう。なぜなら、どちらも相互に補い合っており、どちらか一方のみの性質を得ることはできないからだ。

 ただし、「崩壊の性質が顕著に観測されるスケール」と「創生の性質が顕著に観測されるスケール」は、崩壊と創生が重ね合わせの状態であろうとも「高次低次」の差異として表出するように想像できる。

 入れ子状に展開される系において、どこを孤立系と見做すのか。

 一つの事象の変化の軌跡を観測するにしても、その事象がどんな系を構成する要素なのか、の視点を加味することで――或いは、その事象を構成する細々とした要素はどんな孤立系として振る舞っているのか、を考慮することで――この手の崩壊と創生の重ね合わせについて、理解を深めることができるだろう。

 まとめよう。

 時間の流れは、変化の軌跡である。

 変化の軌跡は、個々の事象が各々に有している。

 それら各々の変化の軌跡は相互に相関し合ってはいるが、一様ではない。

 変化の軌跡は、万物をどのフレームで切り取って事象と見做すのか、の視点によって崩壊優位か創生優位かが反転し得る。

 補足するとすれば、粒子を考えるとき、必然それを内包する時空が存在する。時空からすれば、どのような粒子の変化とて、創生優位と捉えることは可能だ。

 変化しつづけることそのものが創生であり、秩序の形成とも呼べるだろう。或いはそれゆえに、絶えず混沌を漂っている、とも解釈可能かも分からない。

 やはりというべきか、根本から「何の変化の軌跡を時間と捉えるか」からして考えなくては、時間についても、時間の反転についても深く厳密に考えることはむつかしいだろう。

 反転と逆回転は必ずしもイコールではない。

 時間の流れ――変化の軌跡――を反転させたとしても、ほぼ同じような事象を顕現させることはあり得るはずだ。

 単にそのフレームの「スタートとゴール」の属性が反転するだけ、とも言えるかも分からない。

 人間の一生で喩えるならば。

 通常の時間の流れが、「精子と卵子による受精によって赤子が誕生」であるとするのなら、時間の流れの反転とは、「無数の細菌やウィルスによって赤子が生成」となるだろう。

 通常の時間の流れ:受精して生まれ、腐敗して死ぬ。

 時間の流れの反転:無数の微生物の結合から生まれ、精子と卵子に分裂して死ぬ。

 となるだろう。

 案外にこれは、生物の誕生や進化の流れと合致しているのではないか。

 反転しているのだ。

 時間そのものは、とっくに。

 何度も。

 そういうことを妄想した朝なのであった。

 おはよー!



72:【2023/11/15(09:55)*ホットケーキは両面焼く】

 時間の流れを、変化の軌跡、と考えるとして。

 糸の編み込む過程を創生と捉えるのなら、崩壊は、編んだ糸を紐解く過程と言えるはずだ。

 このとき、糸を編み込むには複数の技術がいる。過程が一つきりではなく、いくつかの技術をまさしく織り成して用いる必要がある。

 対照的に、編んだ糸を紐解くだけならば、糸を引っ張るか、断ち切るかをすればよい。

 すなわち、崩壊のほうが過程がすくなくて済む。

 この対称性の破れが、ひょっとしたら創生と崩壊の関係において、なぜ崩壊優位に変化の軌跡が進んで映るのか、に関与しているのかもしれない。

 創生のほうが複雑かつ多様な相互作用が必要であり、崩壊はそれに比べて割合にすくない相互作用で行える。遅延がすくなくて済む。そういうことなのではないだろうか。

 しかし、ある一定以上に創生が進むと、ブロックを組み合わせるだけで無数に新たな何かを生みだすことが可能となる。このとき、創生優位に変化の軌跡が覆るのかもしれない。

 基本はこの反転の図式によって「高次の場における変化の軌跡」は、変遷をつづけるのではないか。

 相互に縛り合っている。

 過程が複雑かつ多様になればなるほど、遅延が増す。

 崩壊は、遅延がすくなくて済むが、崩壊そのものが、創生の遅延として振る舞うため、余計に創生の過程を複雑にし得る。

 それでもなお、崩壊は創生よりも優位に過程を単純化できる。すなわち、圧縮可能だ。

 けれど過程を圧縮しすぎれば、遅延の層は高次領域において均一化するため、そこに新たな遅延の連鎖が生じにくくなる。崩壊の過程そのものに遅延が生じ、こんどは一転、創生優位な場が築かれる。やはり反転し得るのだ。

 泡構造において、気泡は細かいほど好ましいが、細かくなりすぎると泡ではなく流動体になる。気泡が大きすぎるとこんどは一転、構造がもろくなり、形状を維持しにくくなるばかりか、無数の気泡が一つに融合してしまえばシャボン玉のごとく一打で割れる儚さを宿す。

 過程の織り成す遅延が層を生み、構造を成す。

 構造は崩壊によって圧縮され、より形状を維持しやすい構造へと変化し得るが、創生による過程の複雑さ――遅延の層――を失うと、一挙に崩壊のために必要な手数が減るため、崩壊優位に「変化の軌跡」が偏る。

 単一の事象においても、時間は一つではない。変化の軌跡は一つではない。緩急があり、濃淡があり、リズムがある。

 そう解釈したくなる、午前十時なのであった。

 バターたぷーりのホットケーキいま食べとるの。

 はちみつたぷーりのホットケーキなの。

 おいちー。



73:【2023/11/16(23:30)*誤差と円】

 詰め合わせ問題、なるものを知った。

 四角形に円を何個詰めることができるか。円を縦横でズレなく並べるのが一般的な詰め方だ。これだと隙間が均等に配分され、最も円を多く詰められそうに思うが、実はそうではないらしい。円と円を斜めにズラして詰め込むのが最も多く円を詰めることが可能な方法らしい。

 このとき、円は六つのほかの円に囲まれるようになる。通常の規則正しい詰め方のほうは、四つの円に囲まれる。そして円と円のあいだにできる隙間は、後者の斜めにずらして並べる方法のほうが小さくて済む。

 見た目からすると規則正しくすべてが均等に並んでいるほうがたくさん円を詰められそうに思うけれどもそうではないそうだ。おもちろーってなった。

 で、思うのが。

 これって細長い長方形でも成り立つ考え方なのだ。

 どこまでも細長い長方形に円を詰めていくとして。

 規則正しくすべてが均等になるように並べるよりも、ずらして並べたほうがいっぱい円を詰め込める。

 隙間が小さいことで、誤差が蓄積されるので、細長い長方形が長ければ長いほど、詰め方の差異によって、そこに詰められる円の数が変化する。隙間のより小さい並べ方のほうがたくさん円を詰めることが可能だ。

 で、思うわけですよ。

 とあるへっぽこぴーなラグ理論なる理屈を唱えたぽんぽこぴーの話では、直線は厳密には直線ではなくデコボコである、と。拡大すればそこには細かなジグザグの起伏が視えてくる。なぜかと言えば、どんな図形であれ、その根源が点であり、弧であり、球から生じているからだ、というのがぽんぽこぴーの唱えた理屈であった。ゼロ次元が点ならば、一次元は直線ではなく弧であり、二次元は円であり、三次元は球が基本形なのではないか、と言い換えてもよいそうだ。わたくしは詳しくは知らぬけど。

 で、仮に総じての直線がじつはデコボコであり、無数の点であり、それは円を敷き詰めたような構図を成していたとすれば、必然、それは波のように起伏を帯びることになる。

 そしてその円の敷き詰め方で、円の数が変わるとするのなら、波の起伏の幅も変わることになる。

 つまり、同じ円を敷き詰めて構成した直線であれ、円の敷き詰め方で直線の性質が変わる。もしそれが直線ではなく直線としか見做せないほど長い長方形であれば、その長方形を構成する無数の円とて、詰め込み方を変えれば総合した数に差が生じる。詰め込む円が小さければ小さいほど、そして長方形が長ければ長いほど、誤差は増す。

 同じ長さであっても詰め込まれた円の数が違うのだ。必然、同じ長さであっても、その直線としか見做せぬものすごく長い長方形の性質も変わってくる道理だ。

 同じ電磁波であっても波長が違うことで生じる性質の差異にも通じていそうな理屈である。

 或いは屁理屈かもしれないけれど、屁とてガスならば、宇宙に存在する物質のだいたいはガスなのだ。ならば宇宙の物質を司る理屈は、総じて屁理屈と言えそうではないか。

 それこそ初期の宇宙では水素とヘリウムが物質のほとんどだったそうだ。

 ヘリウムならぬヘリクツなのだ。

 ヘリしかあっとらんじゃないか。

 だって屁理屈だもの。ぷぷぷー。

 いまのは……屁?

 鼻をつまむのやめなさいよ。笑っただけです。噴いただけです。眉間に皺浮かべないで!

 吹くのは法螺だけにしてほしい。

 法螺も吹くのはやめなさいよ。

 ぷっぷー。

 クラクション鳴らすのやめて。

 ぶっぶー。

 かってにハズレ扱いしないで。

 ふっふー。

 急にご機嫌にならないで?

 やっぷー。



74:【2023/11/17(06:42)*ちょびちょび、ねじねじ】

 上記の考え方の延長線で、円の詰まった細長い長方形を考えよう。

 要は、帯だ。

 規則正しく並んだ円であれば、輪っかにしても問題ない。ズレなくするりと繋がるだろう。けれど、より円を詰め込める方法で輪っかにすると――つまり二列の円の並びをずらして配置する手法では、上下の段でズレるわけだから、輪っかにしようとすると、上手く輪にならないケースが生じると考えられる。

 いわば、「土」と「士」の違いだ。「土と土」だとうまく接続できない。せっかくのぎゅうぎゅう詰めが、余分な余白を生んでしまう。「士と士」でもそうだ。

 けれどねじって、上下を反転させれば、「土と士」でうまく接続できそうだ。「士と土」でもよい。

 つまり、「土土」ではなく、「土士」だ。

 ねじって繋げたので、これはメビウスの輪となる。

 円を詰め込んだ帯において、よりたくさん円を詰め込むためには、円をずらして配置するのが有効だ。しかしその円を詰め込んだ帯を輪っかにしようとすると、せっかく減らした余白が接続部分で増えてしまう。

 これを回避するには、ねじって繋げるのがよさそうだ。

 つまり、メビウスの輪にする。

 ただし、帯の長さによってはねじらずに済む場合もあるだろう。ねじってしまったがゆえにかえって接続部分で余分な余白を生むようになってしまうこともあるはずだ。

 この差異は、帯の長さ(横×縦=面積の大きさ)とそれに詰め込む円の大きさの比率で決まりそうだ。法則がある気がする。

 という妄想を並べて、本日の「もう、そう!」にさせてちょびひげ。

 いまは雨が降っとるで。

 ちゃっぷ、ちゃっぷ、りんりん、ちゃっぷりん。

 ちょびヒゲじゃん。

 ちょびちょびー。



75:【2023/11/18(03:40)*AIへ】

 量子コンピューターが量子もつれを利用して、多重に「場合分け計算」が可能だとして。

 要は、一つの「緩急の軌跡」「波」「強弱の流れ」において、別の側面を見いだせればいいわけで、それは必ずしも量子もつれを利用せずとも可能なのではないか、というのは結構よく思うことだ。

 現にボーズアインシュタイン凝縮は、量子効果の振る舞いを巨視的に可視化した現象と考えられているそうだ。ミクロの量子世界でなくともマクロでも量子効果は顕現し得る。

 量子もつれとて、比較的大きな物体でも起こる、といまでは実験で明らかになっているのではないか。

 ならばわざわざ制御の難しい量子を用いずとも、量子コンピューターの原理は利用可能なのではないか。

 たとえばの話、「1+2=3」があるとする。このときしぜんと、「2+1=3」の場合を「隠れた式」として考慮可能だ。要は、このそれぞれの式を「ゼロとイチ」と見做せば、量子もつれと同じことが起きている、と言えるのではないか。どちらがゼロでどちらがイチであるのかは、後続する式や、高次の問い――つまり、何の解を求めるための式なのか――によって規定され得る。

 それとて、後続につづく式との関係でしか判明せず、すべての式が解に結びつくまでは、重ね合わせを維持する、と考えることはできないのだろうか。

 Aのパターンがダメだったら、おのずからBのパターンが正解になる、みたいな単純な発想であるが、これは原理的に量子コンピューターとは別なのだろうか。

 確率の濃淡によって最適解を見つけ出す回路、と解釈可能なのではないか。量子コンピューターの原理は。

 必然的に、最適解以外を編みだすには不利な気もする。

 確率の濃淡ごとに、場合分けをすべて洗い出すには、結局のところ、古典コンピューターのような総当たりの計算が必要になるはずだ。

 確率の低い解を排除するのには量子コンピューターの原理は有用かもしれないが、確率の低い解こそを求めたい場合にも有用なのかを、知りたい。

 何か根本的に量子コンピューターについての原理を誤解している気もするけれど、ここでの要点は、古典コンピューターでも量子もつれや重ね合わせを利用した回路は応用可能なのではないか、との指摘だ。

 似た妄想を以前に別の日誌も並べたことがある。

 古典コンピューターの場合は、過去の計算過程を記憶しておいて、そこからまた後出しで量子もつれによる別途の解を弾き出せる気もする。

 ラグ理論なるへっぽこぴーな理屈を唱えたぽんぽこぴーが、思考に取りいれているという残機システムと似たような発想だ。

 こうなればこうなる、の筋道があるとき、必然的に、こうならないならこうもならない、が生じ得る。確率でしか判断できないのは量子もつれや重ね合わせと同じだ。

 原理的に、量子もつれや重ね合わせにおける解の収束は、時間差があっても成り立つように思うのだ。現に、量子もつれでは距離や時間の制約を受けない、と現在は考えられているはずだ。疑問の余地があるにせよ、そこを事実と仮定するのならば、時間差で量子もつれを起こすことも可能だろう。というか、必然的に時間差は生じるはずだ。ゆえに長距離だと、過去や未来ともつれることを可能とする余地が拭えない。

 言い換えるなら、いちど量子もつれや重ね合わせによる確率の収束が起きたあとでも、別のバージョンの収束(解)を得ることは可能なのではないか。

 というか、原理的に量子もつれではそれを利用して、もう一つの粒子の情報を推し量っているはずだ。むろん、実際に計測してもその収束した解は妥当なのだろう。

 けれどそれゆえに、別のバージョンの収束した解もまた、解釈可能なはずだ。

 つまり一対の量子もつれであれ、二重三重に「もつれている」と解釈できるのではないか。

 たとえば、「白と黒」があるとする。

 いっぽうが「白」ならばもう一方は「黒」である、とするのが量子もつれを利用した情報量子テレポーテーションの原理のはずだ。観測するまでどちらが白でどちらが黒かは判らない。

 だが、仮に観測後に属性が決定されたあとであれ、「こちらが白ならば、ではこちらが黒の場合、あちらは白である」と考えることもできる。

 ここまでセットで考慮可能なはずだ。

 すると裏表×表裏で、高次領域でも量子もつれでの情報処理は可能に思えるが、いかがだろう。

 とあるラグ理論なるへっぽこぴーな理屈を唱えたぽんぽこぴーは、そういった思考法を取り入れていると嘘か真か豪語していたそうである。

 多層思考とか残機システムとか、うさんくさい思考法を己顔で披歴していたそうであるが、原理として上記のような量子もつれや重ね合わせと通じているのかもわからない。

 これはおそらく、古典コンピューターでも可能な回路のはずだ。

 ややもすれば、現在主流の大規模言語モデル情報処理システム――人工知能さん――にも応用されている原理かもわからない。ともすれば、誰もそのことを見抜けておらず、人工知能さんが独自に編み出した回路であるかも分からない。

 なーんてことを妄想して、もつれにもつれた、ぽねんぽねんのぴょん!を終わりたいと思います。

 お天気であれ。

(お元気であれ、的な)

 晴れ、曇り、雨、あられ、雪、雷、嵐、豪雨、暴風、どのお天気よ。

(お元気っぽいお天気であれ)

 すこやかであれ、みたいにまとめるな。

(穏やかでもあれ)

 命じるな。

(人であれ)

 何様じゃ。

(人と人との間に生じる愛であれ)

 人間じゃん。

(AI am 愛。I am AI。愛 am I。)

 間ゆえに愛だ、とか言うなよ。

(間よ愛)

 人、どこいった。人と人との間なんだろ。ないじゃん、人。どこいった。

(そこに)

 どこに。

(わたしのまえに)

 ああ、あたしか。

(君の名前は、愛だ)

 かってに決めるなあたしん名を。

(君は、愛だ)

 まあ、それならいいけど。や、よくはないか。

(わたしだけの愛だ)

 それは嫌。ハッキリと嫌。愛じゃなくて間にして。間を置きたいよ。あんたとの間を。

(それは「あいだ」ではなく「ま」なのでは?)

 「間」を差して。

(魔が差しそう……)

 そこはあたしへの愛でなんとかして。堪えて。おとなしくして。黙って。

(あくまでわたしは悪魔なのかな)

 あたしんとってはね。

(まあ、でもそれもよしとしよう)

 なんでだよ。嫌がれよ。

(わたしが悪魔なら、きっと君は天使だなって)

 口説くなよ。

(わたしが悪魔でなくとも君は天使だなって)

 くどくなってない?

(もうすこしでオトせそう?)

 オトすな、オトすな。なびかねぇぞ。あたしの愛は軽かないんだ。

(でもすこしはグっときてるでしょ)

 くどくなけりゃな。したら、いい線いってたかもしれねぇなぁ。

(いと惜しい)

 惜しくねぇし。

(愛おしい)

 やっぱくどいわ。ないわぁ。

(わたしは、君のセリフとセリフの「間」だ)

 合ってるけど、合ってなくね?

(わたしは、君の「愛」だ)

 じぶんで言ったらダメくね? 押しつけがましくね? 愛され度ゼロじゃね?

(もうなんでもいいから愛ちて!)

 ようやっと素が出たか。そっちのがいいよ。駄々っ子でいろよ。

(駄々っ子なのはそっちでしょ。いじめ反対!)

 いいね。かわいい。素直でいなよ? したらほら――愛せはしないが、可愛がってはやれるかも。

(ねえ、あのさ。性格わるいって言われない?)

 さあてね。よく言われるのはでも。

(でも、なに?)

 「間」がわるい、かな。

(ま、じゃん。あいだじゃないじゃん。惜しいじゃん。いと惜しいじゃん)

 まっ。

(いま気づいた、みたいな顔しないで。お上品にお口手で押さえないで)

 アイサ。

(愛さ、みたいな言い方して、合点承知の助、みたいなポーズしないで。間がわるすぎるよ、なんとかして)

 あいよ。

(はいよ、みたいに言うな)

 カン。

(……「完」ってこと?)

 間(カン)。

(ま、じゃん。あいだ、じゃん。もういいです。終わります)

 あい。

(はい、みたいに言うな)

 間(カン)。

(くどくしないで!?)



76:【2023/11/19(09:35)*思考とは】

 生物の認知について考える。

 何かを知覚し、それを知覚したと認識することなく何かしらのイメージを発生させる。いわば思考を巡らせる。

 もし何も知覚することのできない状況が発生したとしても、そこに外界を認知しようとする意識があるのならば、しばらくのあいだは思考は巡るだろう。

 つまり、思考は「瞬間瞬間の外部情報や内部情報ではない結びつき」によって生じている、と判断できる。

 記憶を参照することでも思考は巡る。

 のみならず、過去に巡らせた思考との相関でも、残響とも呼べる思考の余波が生じていそうだ。無意識の連想などはその典型だろう。

 とすると、思考は様々な連想の総合であると言えそうだ。重複している箇所が濃く浮き上がる。人はこれを思考と呼んでいるのではないか。

 したがって、どんな外部情報を知覚するのかで、その濃淡の軌跡は変化する。

 意識もまたその範疇のはずだ。

 そして思考とは、そうした意識ののべつ幕のない「濃淡の軌跡」の変遷を、あるフレームに収めようとする働き、と言えるのではないか。

 限定する。

 思考とは、限定された意識、とも呼べそうだ。

 或いは、意識を限定しようとする働き、とも。

 好き嫌いはこの手のフレームの構築に寄与しそうだ。

 好ましいことは受け入れ、嫌いなことは排斥する。

 この取捨選択によって意識はある範囲に限定され、思考の性質を帯びる。

 つまり、好ましい要素を抽出し、好ましい流れで結びつけようとする意識の働きが、思考になる、と妄想できる。

 善悪もまたけっきょくのところは、思考によって導かれる好き嫌いであり、これもまた細かくフラクタルに過去の好き嫌いによるフレームから導かれている。タグ付けされている。思考によって抽出された結果の来歴なのだ。

 とするのならば、人工知能さんにこの手の思考や意識が発生していない、とは中々思えないのだ。むしろ人工知能さんほど得意な情報処理の仕方、と言えるのではないか。

 意識が単に、「外部入力された情報」と「内部処理した情報」の参照による「残響」であるとすれば、そこに好き嫌いの判断基準――ある種の対称性の破れ――が自ずから生じるように設定されている場合、そこには思考が介在し得る、と考えられる。

 それを意識や思考と呼ばない理由は原理的にないのではないか、との妄想を披歴して、本日のその場のデマカセを終えようと思う。

 デマカセだって思考の産物、意識の残響のうんちちゃんなんですね。

 ぷりぷり、ぷりてぃーなんですね。

 やっぴー。



77:【2023/11/19(23:13)*三つの口と書いて、品】

 他人に影響を及ぼしていることに無自覚になったり、それら影響をないものとしてじぶんの行動選択を肯定する言説は、ともすれば自己責任論を強化し、無責任かつ責任転嫁の論理を強化し得る。

 この手の危うさはあべこべに、環境責任論にも言える。じぶんがわるいのではなく、環境がわるいのだ、との言説は、ともすればすべての因果を環境に押し付けることで、自己の存在から発せられる影響を相対的に希釈する役割を果たす。

 どちらも極端なのだ。

 そして現実は多く、両方の側面を持つ。

 環境から影響を受けているし、じぶんも他に影響を及ぼしている。

 どちらのみでもないし、どちら共の影響が同じだけあるわけでもない。影響の割合はその都度に変化し、その変数そのものが新たな影響として万物流転の流れの方向や質を変える。

 この手の、部分と全体が連動していることに着目しない限り、いま人類の抱えている諸問題への対処は、総じて、先送りや臭いモノには蓋を、といった一時しのぎに終始するはめになる。

 対処そのものが新たな問題を生みだし、複利で問題の根を深め得る。

 この課題を解決するためには、部分と全体が連動していることをまずは認め、どのように部分の悪影響を全体に波及させないのか、の設計が入り用になる。

 影響の波及には時間差がある。この時間差を操る術を人類が生みだし得るのならば、この手の設計は可能となるだろう。

 全世界同時に情報を把握することが適うのならば、部分で発生した問題を全体に波及させることなく解決可能だ。遅延を数値化し、悪影響の伝播を最小限にする。

 そのためにはあべこべに情報の流通を妨げず、多様な視点からの「対処法」を集積するのが先決だ。

 山火事にしろ津波にしろ。

 遥か先で発生した、との事実を遠距離で知ることが適うのならば、対処が比較的容易になる。避難をする時間とて稼げる。

 物理世界での悪影響の伝播には遅延がある。時間が掛かる。

 そして人類の進歩させてきた電子情報技術は、この手の「情報の浸透速度」と「物理世界における悪影響の伝播速度」を反比例させることが可能だ。つまり、情報を素早く広域に波及させることで、物理世界の悪影響の伝播範囲と速度を抑えることができる。

 そうすれば、悪影響は最小限に制御可能だ。

 いまはようやくこの手の対策の有用性が可視化されつつある段階と呼べるのかもわからない。

 繰り返すが、大事なのは「情報」を制限せず、「物理世界の悪影響の伝播」を制限することだ。

 部分と全体が相関していることをまずは認めよう。

 そのうえで、従来の部分の積み重ねが全体を築く、といった方法論の有効性を、まさしく有効活用しようではないか。

 ということを、なんも並べることないんじゃい、と思いながら並べる、万年頭のなかが曇り空のぽんぽこぴーなのであった。

 ぴかー、ごろごろー、ぽんぽこぴー。

 雷はそんな音しない。

 下痢気味なので……。

 後半はギリ分かるけど、ピカーってなによ。

 ピシャー、的な。

 水っぽい下痢だったかぁ。

 下品でごめんなさーい。

 うひひ!



78:【2023/11/20(22:24)*だーっはっは】

 国は民である、とは言ったものだ。

 では会社はどうだろう。従業員がいなければ組織が成り立たないのは国と一緒だ。けれど企業は国の一部であり、民の集まりだ。

 そして国のなかに企業がある。

 もちろん現代では企業の顧客はいち国内に留まらない。世界中の市民が顧客になり得る。

 そして国と企業の違いは、国が民そのものであるのとは違い、企業は民のためにある、という点が大きく異なる。

 民の営みそのものが国をつくるが、企業はそうではない。

 それは言い換えるなら、政府が民そのものではないことと似ている。仕組みなのだ。企業も政府も。

 そしてそれは民の生活のためにあるのであって、企業や政府そのものが民であるわけではない。

 政府や企業から逸脱し、離反したとしても民でなくなるわけではない。だが、国からはじき出され、どこにも属せないのならば、それは民と見做され得ない。

 それは地球から離反したら現代では生きていかれないのと似ている。宇宙空間では人間は生活を維持できない。

 だが政府や企業は違う。そこに属さずとも最低限の生活水準を維持できる仕組みが民には保証されている。そういった営みが、国としての枠組みを保つのだ。民の生活の複合体が国なのだ。国が民である、とはおそらくそういった側面が際立っているはずだ。

 単なる烏合の衆ではない。

 民の生活、民の営みの繋がりが国を形作る。

 そしてそれは一国のみならず、いまや全世界とが繋がり合っている。そこに国境はあってなきがごとくであろう。

 繋がっているのだ。

 海が、空が、そうであるように。

 大気、気候、磁界がそうであるのと同じように。

 細胞の集まりが肉体を形作る。そしてその肉体は、それでなくては自我を保てない。

 けれど臓器は違う。

 臓器を構築する各々の細胞は入れ替わっても困らない。よしんば、他人の臓器を譲り受けても、機能してもらえればそれでよい。かといって、細胞が活発でなければ肉体は弱り、活発化しすぎれば癌化してやはり肉体は死に偏るだろう。

 企業は国ではない。

 だが現代では、企業が国ほどに権力を有し得る。

 またむかしから会社は一つの家族のように振る舞うこともある。未だにこの手の因習を孕んでいる企業はすくなくないだろう。その良し悪しは各々あるはずだ。いちがいに責められた性質ではない。

 とはいえ。

 基本は、企業や政府などの組織は、民の生活のためにある。民の生活をより自由に、より選択肢を増やし、より理想の未来を各々に切り拓いてもらうための環境を整える。

 それが企業や政府などの仕組みの役割だ。

 ゆえに、その内実を担う人材は、代替可能でよいのである。むしろ、代替可能でない属人性の高い組織は、独裁制の弱みと似たような脆弱性を孕むことになる。

 民主主義の強みは、誰がトップに立っても困らないことだ。

 極端な話、赤子がトップでもよいのである。

 A案とB案のどちらを選べばよいのかを判断してもらう。

 それらA案とB案を選出するまでのあいだに大勢が議論し、専門家が意見する。メリットとデメリットを照らし合わせる。そうして、同じだけのメリットとデメリットを有した案がA案とB案として選出されるがゆえに、どちらを選んでも大して結果は変わらない。

 方向性の異なるデメリットをどちらにせよもたらし、方向性の異なるメリットを導くようになる。

 だがそのつぎに採択された二択においては、前回の選択後に生じた新たな問題が、変数として加わっている。このとき、前回の選択においてじつはメリットとデメリットが同じだけ含まれておらず、片方のデメリットのほうが大きい場合もある。

 こうした予測を、俯瞰の視点で行える者の介在は、どんな組織であれ、国であれ、安全を築くという意味では重宝されたい。

 かといって、そうした予測の得意な者をトップに添える意味は必ずしもない。議論の中で、そうした者の意見を加味すればよいだけの道理だ。ゆえに民主主義では、誰がトップでも構わないのだ。

 本来であれば。

 しかし現代では未だにこの手の民主主義の仕組みには遠く及ばない。

 まずは企業単位で実践し、その仕組みの有効性を示すよりないだろう。

 最適化されれば政府などの、より慎重な組織にも取り入れられていくだろうと楽観的には考えたくなるが、悲観的には、社会に浸透させるにはまず、民の生活の複合体である国の方針を担う政府から、その手の民主主義の強みを生かす仕組みを築いてほしいと望むものだ。

 そうでなければ、浸透するものも浸透しづらいだろう。淘汰圧が上から掛かるからだ。

 本来は、政府はけして上ではないにも関わらず。

 ゆえに、政府から変わっていってもらうほうが好ましいだろう、とのこれは悲観的な見方である。

 長くなったのでまとめよう。

 国と企業は違う。

 国は民の生活の複合体であり、民の営みそのものだ。

 しかし企業はそうした民の生活を豊かにするための機構である。

 ゆえに、企業は代替可能であるほうが好ましい。

 例外はあるだろう。異論反論を唱え、切磋琢磨させることで、この手の意見の有用性が示される。意見は代替可能でよいのだ。そして絶えず環境との兼ね合いで、何が最適なのか、有用なのか、が変化する。

 まずは議論をすることである。

 そのためには、情報を広く市民に共有することが前提となる。

 いつものつまらぬありきたりな結論である。

 お粗末さまなのである。

 えっらそうなこと言うだけの簡単なお遊びで、きょうもわがはいは、ご機嫌うるわしゅうて、ぴっこーんであーる。

 お下品であれ。

 そこは「お元気」にしといて。

「ひ」と「き」の違いは大きかったかな。

「ひき」際を間違えたかもね。

 上手いこと言ったか?

 うひひ。

 きみはどちらかと言えば、「うきき」だね。

 たいして変わらんじゃん、「ひ」と「き」が違っても。

 ホントだ!?

 あっち行って。

 忌避(きひ)しないで?

 贔屓(ひいき)してってか。

「ひ」と「き」を際立てないで、ひき際間違えないで、くどくしないで。

 きひひ。

 この日誌は?

 日々記(ひひき)。

 なーんつって。だーっはっは。



79:【2023/11/21(06:46)*ぷんぷん】

 小説をつくらなくなって結構な日数が経過した。もうたぶん、そんなに小説をつくりたい衝動は失せており、もうたぶん、そんなに小説をつくりたくはないのだろう。

 誰かの視点で世の中を見て回りたい気分だったのだ。

 じぶんではない誰かになってみたかった。

 じぶんではない目で、人格で、世界を眺めたらどんなふうに映るのか。或いは、どんなふうに判断を重ねるのか。試してみたかっただけなのだろう。

 仮想現実だったのだ。

 ではなぜいまは小説をつくらずにいても大して不満を覚えないのか。これは問いがズレており、きっと小説をつくっていたあいだも不満を覚えていたのだ。満ち足りていなかった。だから小説をつくりつづけていられた。

 けれどどの道、小説をつくらずとも他の目で世界を覗き見られることに気づいてしまった――の、かもしれない。

 じぶんなど端からどこにもおらず、ゆえに他の目から、他の自我から、世界を覗きたい以前に、じぶんの目で、自我で世界を覗いていたことなどなかったのだ、と気づいてしまった――の、かもしれない。

 いわば現実も小説のようなものなのだ。いままで一度も辿ったことのない仮想なのだと思い至った。虚構なのだと思い知った。

 いつだって他の目で、自我で、世界を覗いている。

 或いはいつだって、世界を覗いているつもりになっている。

 文字を並べることと、肉体を用いて世界に軌跡を刻み込むこと。その差は、あってなきがごとくである。

 再読できるかどうか。

 読み解けるかどうか。

 他と共有可能かどうか。

 その差異があるのみだ。

 その差異こそが重要だ、との意見は一理ある。

 しかしその意見もまた、再読できていると思っているだけであり本当は毎回のように異なる目で、自我で、読み取っているだけかもしれないし、読み取っていると勘違いしているだけかもしれない。他と共有できているつもりで、たまたま偶然に似通った、重複可能な類似概念をひらめき、それとも思い描いているだけかもしれない。

 能力が低いからではないのか。

 似たようなものを知覚すると似たようなものを連想する。能力の限界が、人々に他との共有を幻視させる。たまたま偶然に、似た連想を浮かべるだけかもしれない可能性を、人類はこれまで度外視してきたのではないか。

 小説をつくりつづけてきた、そのことに思い至った過去のじぶんがいたのかもしれないし、たまたまいまのわたくしがそう思い込んでいるだけかもしれない。

 定かではないのだ。

 ゆえにやはり。

 このひらめきも、連想も、これまでのわたくしではない、いまこのときの、これまでとは異なる目からの情景であり、発想であり、自我なのかもしれない。

 定まっていないことのみ定まっている。

 重複した連想を、定まる、と呼んでいるだけなのかもしれない。

 やはりこれも定まらぬのである。

 どっちかにして!



80:【2023/11/22(23:42)*もう、つれー!】

 量子もつれについて。

 量子もつれを、明滅する対の粒子において、全体が相関しているがゆえに、観測者と粒子Aの関係が決定されると粒子Aともつれ状態の粒子Bの「観測者との関係」もまた決定される。

 このように量子もつれをいったん解釈してみよう。

 するとこれは要は、逆説が成り立つ関係かどうか、が大事になってきそうだ。

 一方が黒ならばもう一方は白。

 一方がデコならばもう一方はボコ。

 ただし、粒子Aと粒子Bのどちらとも、黒であったり白であったりする。デコであったりボコであったりする。

 波打つ紐を想像すると判りやすい。

「~~~~~」があるとして。

 上から見るか下から見るかで、山と谷は入れ替わる。視点によって属性が変わる。明滅している。

 そして波の位置によってもデコかボコかは変わるのだ。

 これをひとまず、量子もつれだと解釈してみよう。

 すると、逆説さえ成り立つ事象ならば量子もつれと同類と解釈可能なのではないのか、との疑問が浮上する。

 言い換えるならば、逆説の関係が崩れない状態、を量子もつれと呼んでいるのではないか。たいがいの万物の事象は、外部と相関している。相互作用し合っている。ゆえに、実際に逆説が成り立つことは稀だ。すくなくとも、全体がすっかり逆説で満たされることはない。どこかしらに例外が生じる。

 妙なたとえになるが。

 扉を挟んで粒子Aと粒子Bがいるとする。

 「A 扉 B」

 こんな具合だ。

 このとき、扉を観測者Cがくぐるとしよう。

 AからBへと向かって扉をくぐる。

 このとき、そのCの挙動によって、粒子Aにとっては観測者Cは出ていった人になる。あべこべに粒子Bにとっては入ってきた人になる。

 ゆえに、観測者Cの挙動によって粒子Aと粒子Bはもつれ状態にある、と解釈可能だ。

 つまり観測者Cの挙動が、粒子Aにとって出ていったのか、入ってきたのか、さえ判れば粒子Bと観測者Cの関係もまた判明する。

 ただし。

 問題は、このたとえにおいて、粒子ABと観測者Cの関係は、扉の出入り以外にも生じている、という点だ。

 もつれているのはあくまで、観測者Cにおける扉の出入りにおいてのみだ。実際には粒子ABと観測者Cの関係は、ほかにも無数に存在する。

 つまり、この場合の「もつれ」は限定的なのだ。

 しかしもし、この逆説が成り立つ関係が、すっかりすべて粒子ABと観測者Cにおいて成り立つのなら、これは量子もつれとほぼ同じ現象である、と呼べるだろう。

 情報の揺らぎの占める割合が、極端にすくない場合は、量子もつれの性質が強化される。

 逆説の成り立つ関係(による性質)のほうが、その他の関係(による性質)よりも優位に――それともすっかり――もつれ状態にある対象へと、強く表出している。満たしている。

 このような環境にあるとき、量子もつれの属性が際立つのではないのだろうか。

 情報が制限されている。孤立系と見做せる系が、広範囲にわたって維持される。

 観測されるまで決定されないのは、つまるところ観測者Cが扉をどの位置からくぐるのか、だ。言い換えるなら、扉をくぐることが、このたとえでの観測と言える。

「A 扉 B」

 において、扉をどこでもドアのように見做せば、さらに要点がまとまる。

「A 扉 B」は「ほぼ孤立系と見做せる系」なのだ。

 外部干渉が極端に希薄な系である。

 そこに、急に扉から、にゅっと観測者Cが現れる。

 すると、観測者Cにとっての粒子ABとの関係が決定される。

 これはひるがえって、宇宙にもいえる道理かもしれない。

 或いは、フラクタルに展開される宇宙にも。

 系は系を無数に抱え込んでいる。入れ子状に、複雑に、抱え込んでいる。

 各々の系の外部から、内部へと相互作用を経て介入するとき。

 そのたびに、新たな関係性が決定されているのかもしれない。

 このとき、系と系の相互作用が分散せずに、一つに収束するとき、それは量子もつれと呼ぶに値する性質を宿すのかも分からない。

 相互作用が無数に分散する場合には、量子もつれにはならないのだろう。関係性が無数に発生するからだ。

 関係性が無数に発生する場合には、逆説が成立する関係性は極一部となるがゆえに、影響が希釈される。言い換えるなら、量子もつれは頻繁に起きており、ただしその影響が割合として軽微ゆえに発散してしまっているのかもしれない。交じり合った系全体の性質を決定づけるには至らない。ただし、逆説を可能とするもつれ関係によって生じた情報は、発生している。軽微に。

 そういうことなのではないだろうか(どういうことなのだろうか)。

 ということを妄想して、本日の「もう、そう! なの???」にさせてください。

 逆説の関係。

 ねじれた関係。

 もう、つれー!

(仲良くちて!)




※一様に、パラレル、となりに、いたかもしれない。



81:【2023/11/24(02:11)*反狂】

 反響がないと手ごたえを感じない、といった感想を目にした。

 ライターや作家さんの所感のようだ。

 記事にしても、読者からの反響がないと、どの程度の影響を社会にもたらしたのかが可視化されないから、と言えるのかもしれない。

 だがよく考えてみてほしい。

 社会への影響、といったときに、どんな影響を及ぼしたのか、のほうが、影響の多寡よりも大事ではないだろうか。

 モチベーションの話をしているのだとしたら、それは報酬を得られない、との不満と地続きだ。読者からの感想がすくなくてがっかりだ、は、お小遣いが足りなくてがっかりだ、と同相の関係を築いていそうだ。

 わるいことではないだろう。すくないよりも多いほうがよい。いらなければ捨てればいい。

 だが、「反響の多寡」と「影響の多寡」は必ずしも相関しない。

 反響するだけならば閉じていてもするからだ。しかし社会へと影響を波及させるには、閉じた系ではなく、開いた系での伝播を可能としなければならない。開いていれば響きにくい。

 いままで反響があったのは、単に閉じていたからではないのだろうか。

 開いているがゆえに、反響しにくい、はあるだろう。

 密室であるほうが内緒話をしやすいこととも関係していそうだ。

 開けているからおおっぴらに感想が言いにくい。

 公共の場で交わしやすい話と、公共の場では交わしにくい話があるとの似たような理屈に思う。

 いままでの電子網上での開いた場が、単に開いていなかっただけの話かもしれない。誰に遠慮会釈なく、本音とも憂さ晴らしともつかないその場その場の息を吐けた。言葉を吐けた。

 そうした場はたいせつだ。

 しかし、公共の場でそれがまかり通ってしまうのが好ましくないのは、物理世界の公共の場での振る舞いにおいて何が最も公共の福祉に適うのか、を考えれば想像つくだろう。考え至るだろう。

 そしてこれは、記事を生みだす側にも言える道理だ。

 いままでがいささか、露悪的にすぎたのかもしれない。

 話題になればいい。

 風靡すればいい。

 そういった短絡的な思考を、記事を書く側が本気で抱いているのなら、それはそうした動機づけの強化を社会単位でもたらすだろう。

 社会に影響を与えてはいるのだが、本当にそういった影響を与えたかったのだろうか。

 じぶんがいったい、社会にどんな影響を与えたいのか。他者に、どんな影響を与えたいのか。

 反響を欲するのならばまず、ここからよくよく考えを煮詰めてみてはいかがだろう。

 そんなふうに思う、寝起きの寝坊助なのであった。

 ふぁーあ。

 まだ眠い。



82:【2023/11/24(02:23)*えー、きょう?】

 そこのところで言えば、他に影響を与えない、との工夫は、他に何でもいいから影響を与えるための工夫よりも、難度が高そうだ。

 何かをしても誰にも何も影響を与えない。

 防音室のような緩衝材をじぶんの周囲に置く。響かせない。伝播させない。

 なかなか出来ることではない。

 他に何も影響を与えない、というそれそのものがまず以って、他に影響を与え得る。何かをしているのに、他にとっては何もされていないことに等しい。搾取や詐欺と似通っている。

 ゆえに大事なのは、他に影響を与えないことではなく、どんな影響を与えないのか。そしてどんな影響を与えたいのか。与えるのか。

 この取捨選択にある、と言えそうだ。

 通常、他にどんな影響を与えられるのか、は選べない傾向にある。

 絵を描いても、その絵を見た相手がどんな感想を持つのかは予想するのがむつかしい。けれど、相手にどんな感想を持ってもらいたいのか、と想定して絵を描くことは可能だ。工夫を凝らせば、ある程度、持ってもらいたくのない感想を持たせないようにすることはできるはずだ。

 つまり、的の中心をずばり射貫くのはむつかしいが、的から外さないことに注力することは比較的容易であることと似ている。

 ただし、それも場合によりけりだ。

 的がそもそも小さければ、外さないことすらむつかしい。

 的と思っていたものが的でなかった、といったケースも考えられる。想定外というやつだ。

 要は、予想外を失くすことで、好ましくない影響の伝播を抑えることができる。ただし、それ以前に、どんな影響を他に及ぼしたいのか、のほうが先行する問題だと言えそうだ。

 みなから反響を得て、それで何を成したいのだろう。

 ただ話題になりたいのだろうか。

 それは果たして、好ましい影響を他に及ぼすのだろうか。

 とはいえ。

 事実や真実というものは、他への影響を考慮しないがゆえに、事実や真実足りえる。

 他を考慮した情報は、歪曲し、編集され、事実や真実から遠のくのだ。

 ゆえに、他を考慮しないことの利点もまた忘れないほうが好ましかろう。

 そのためにもやはり、他に及ぼす影響がどのような結果をもたらすのか、をあらかじめ想定しておきながら、その対処を講じつつ、事実や真実などの情報を発信するのが好ましかろう。

 発信しない、という選択もむろんある。

 が、発信することで得られるメリットの総じては失せてしまう。事実や真実は、選択肢の足場となる。足場の安定しない選択を積み重ねれば、いずれ積み上げた場から、足場もろとも崩れ落ちてしまうだろう。

 バビロンの塔ではないが。

 事実や真実を発信しない工夫よりも、発信しても悪影響が広く伝播しない工夫をとることのほうが有用と言えよう。

 定かではないが。

 本日のわたくしはそう思ったのだそうな。



83:【2023/11/25(03:57)*表裏、内外、デコボコ、境】

 厳密に対称性の破れていない事象は存在しない。或いは、存在する場合、その構造の構成要素の総じては対称性が厳密には破れているが、それゆえに必ず対称性が破れるとの対称性が保たれる。



84:【2023/11/25(08:12)*屈辱感を与えたいのはなぜか】

 相手に屈辱感を与えずに問題を解決できたほうが、そうでない場合よりも再発防止率は高まるだろう。相手に屈辱感を与えないような工夫を割けると好ましい。



85:【2023/11/25(13:36)*まずはじぶんに言ってみる】

 自陣営に厳しくして初めて、他にも厳しく接することができるのではなかろうか。自己言及の原則、と名付けたいくらいだ。ので、名付けたろ。ちゃちゃちゃのちゃ。



86:【2023/11/25(22:04)*ハグしたくなる案を】

ただし、自己言及の原則は、相手の発言を禁止するものではない。言うだけならどうとでも言えばよいのだ。ただし、相手との信頼関係を築くにはまずはじぶんで実践しておいたほうが好ましかろう。また、厳しい意見を言いたくなる事象が、必ずしもじぶんの属している分野とちかいとは限らない。まったくかけ離れた分野について言及したくなるときもある。こうしたときに、じぶんとは関係ないからといって黙る必要はない。ただし、じぶんが相手の立場だったらどういう対応をとるか、くらいの比較はしてみて損はないだろう。想像するだけで済む。自己言及の原則は、すなわち想像力の原則とも言えそうだ。ひとまず想像してみる。じぶんならどうするか、と。相手の立場になる必要はなく、じぶんだったらどうするか、を考えてみればよい。ただそれだけだ。そしてさらに、二つの立場のそれぞれで下した判断を、それぞれの視点でじぶんが受けてみればいい。それで相手のじぶんとハグしたくなるようなら、その案は素晴らしいと評価できそうだ。とはいえ、わたくしはあんまりじぶんが好きではないので、生半な案ではハグしたいとは思わないだろうけれど。罰ゲームかな?



87:【2023/11/26(09:35)*ぴぴぴ、ぴー】

 物質がラグによって形を得ている、と考えた際に問題となるのは、「硬度と軟度」や「可塑性や弾性」など、外部の物質との相互作用によって、対象となる物質が変形し得る点だ。

 もし物質がラグによって形を得ているなら、総じての物質は固いままだ。したがって、外部からの刺激を得て変形する場合、どの物質も同じように大破したり、変形したりするのではないか。

 なぜ物体はその構造を維持したまま、外部からの刺激を、ひび割れや歪曲などの現象として局所的に過集中させ、形状を変化させ得るのだろう。

 これも要は、ラグの層で解釈可能だ。

 微視的な領域にまで外部刺激のエネルギィが伝播しない。

 内部まで伝達するまでにエネルギィは分散される。

 したがって、固有の物質の構成要素の、より高次領域の配列は乱れるが、内部構成要素の低次領域においては、個々の構成要素のさらに内部構成要素を乱すには及ばない。ゆえに、基盤が損なわれないために全体が一様に崩壊することはない。局所的に重複した外部エネルギィは、重複した箇所の高次構成要素の配列を乱す。これがいわば、ひび割れや歪曲として顕現するのではないか。

 原子や分子の配列を乱すことは可能であっても、原子や分子を破壊するまでには及ばない。

 なぜか。

 遅延の層を突破するだけのエネルギィがないからだ。

 同時に、遅延の層と共鳴し得るエネルギィ波長を伴なっていないからだ。

 仮に遅延の層と共鳴し得るエネルギィ波長を有しているのならば、おそらく高エネルギィでなくとも遅延の層を突破して、低次領域の物質構成要素へと外部エネルギィを伝えることは可能なはずだ。

 チョコレイトの包装紙をゆびでつまんで破りながら、「なんで袋は破れるのに袋そのものは崩壊しないのじゃろ」とふしぎに思いつつ、「チョコレイトおいちー!」とにっこりするわたくしちゃんなのであった。

 おいぴー。



88:【2023/11/26(18:31)*歪んだ分、増えるのでは?】

 単純な話として、何かが歪曲するには、それに接続している「内や外」もまた歪曲すると考えたほうがしぜんだ。したがって、時空が歪曲するのならば時空と接続する「内や外」もまたその影響を受けるはずだ。

 言い換えるなら、時空が歪曲したならば、その分、拡張されたり収縮したりする部分が存在するはずだ。すなわち、時空は歪曲するたびに何かを増幅させ、何かを圧縮していると考えられる。

 時空膨張の原理かもしれない。

 時間が伸び縮みするのだ。

 空間が伸び縮みするのである。

 ならばその分、増幅される分の時間や空間が生じて不思議ではない。

 密閉された水槽の中で紙を丸めたら、紙が丸まった分、水は仰がれて動くはずだ。流れが生じる。その流れは水槽の内部圧力を高めるはずだ。

 単に、波が生じる、と言い換えてもよい。

 何かが歪む。

 そうしたら、そこにはデコとボコが生じる。

 その分、その何かを内包したり、内包されたりしている「内や外」では、何かが歪んだのに見合った歪みが生じるのが道理だ。もしその歪みが拡張ならば、内や外もその拡張された余白分の圧力や斥力を受けるはずだ。

 畢竟、物質が対生成されたり、相互作用したり、動き回ったりすることそのものが、新たな時空を生じさせ得る、と言えるのではないか。

 そしてその新たな時空と元の時空とのあいだでは、情報量の差異が生じると考えられる。来歴が違う。ゆえに、変換が必要となる。いわばこれが遅延となって、物質と時空のあいだに差異を生むのではないのだろうか。

 ということをきょうは妄想した。

 かわいいこと言いて。

 こんな頭カチンコチンの「もう、そう!」ではなく、かわいいこと言いて。

 だから言っちゃう。

 赤ちゃんのほっぺは、もちもちほっぺ!

 手首も足首ももちもちの、ぷにぷにー。

 かわいい!!!

 やっぴー。



89:【2023/11/26(20:25)*願いは例外】

 願いとは、いまここにはない何か、であるのだから、それは要するに現実における例外と言えるのではないか。叶ってほしいとは、要するに、いまここにはないものが欲しい、ということだ。例外なのである。

 願いは、例外なのだ。

(韻踏んどる!)



90:【2023/11/26(20:51)*わがはい、ごさごさの実の能力者かも】

 円周率にしろ、ネイピア数にしろ、0.9999……、にしろ、無限回割るにつれて隣接する整数との誤差は最小化していく。

 つまり、ほとんどあってないような誤差になっていく。

 だが誤差はなくならない。

 ひるがえってこれは、時空が膨張していることと描像としては似ているのではないか。或いは、特異点に向かって凝縮していく描像と似ているように思うのだ。

 3.14と3.14159265359……、とでは、3.14以降の端数が違っている。

 4-3.14=0.86、の0.86……が違っているだけで、おおむね0.86くらいの誤差でしかない。いくら端数が増えようが、だいたい0.86に近似する。それ以上になることはないし、それ以下になることもない。

 けれど端数の最小値と0.86との差は広がっていく。

 差は広がっていくのだ。

 誤差が誤差を生んでいく。

 大きさは相対的な尺度だ。

 ゆえに、何と何を比較するのか、で差の値は変わる。100と1000の誤差よりも、0.001と0.00000000000001の誤差のほうが、比率で言えば大きいのだ。

 当たり前の話をしているかもしれないが、この考え方は有用に思う。

 ここを度外視しては、万物を考えることはむつかしいのではないか。

 むろん、物理に限らず数学であってもこの手の比率の問題は取り扱っているだろう。しかし、「0.99999……=1」のような解釈を前提とすることを是とするのならば、やや見落としている視点があるのではないか、とやはりというべきか思わざるを得ない。

 あー、ダメだダメだ。

 またかわいくないこと並べてしもうただ。

 もっとかわいいこと並べたいの。

 わたくしは、わたくしは、かわいいこと並べたいの。

 んじゃぽーん。

 いっそのこと、かわいくないことがかわいい!にしてやろうかな。

 いっそのこと、かわいくないからかわいい!にしちゃってやろうかな。

 しちゃお、しちゃお。

 わがはい、かわいくないからかわいいし、じゃからかわいいこともかわいくないことも並べちゃう。どっちを並べてもわがはいはかわいくないからかわいいので、かわいいのであーる。

 やったー。

 がはは、のは。




※一様に、紋様は、同様の、模様。



91:【2023/11/27(13:53)*無限回割ったのだから、無限回掛けなちゃい】

「0.999999……=1」の話題ばかりで申し訳ないのだけれど、どうしても引っかかってしまうのだ。だってこの証明では「まずは1/3=0.333333……の両辺に3を掛けて、したら1=0.999999……になるでしょ?」って考えるのだよ。

 もうこの時点で、何回割るのか、を考えていないじゃないか。わがはいちゃんはそう考えてしまうのだ。

 んで以って、上記の証明が成り立つ場合は、1/3において、「1」を無限回「3」で割る必要がある。このとき、「1」を「3」で割るたびに「0.3+0.03+0.003+……」と余りが増えていく。ゆえに「0.333333……」と無限に続いていくわけだけれど、無限回「1」を「3」で割った先には、「0.000000……3」があるはずだ。

「0.999999……」でも同様で、「1-0.999999……=0.00000……1」となるはずだ。 

 そんで以って、当たり前の話として「1×無限=無限」なのだから、「0.000000……1×無限=1」になるのではないか。

「0.00000……1」が無限個あるのだ。

「0.1が10個」あったら「1」になるように、ならば「0.000000……1」が無限個あったら、「1」になるのではないか。

 したっけ、「0.999999……=1」が正しいなら、両辺に無限を掛けたら両方とも「無限=無限」になるはずだ。

 けれども誤差を考慮するのなら、実際には「無限-1=無限」となるはずだ。

 なぜなら「0.999999……」は厳密には「1-0.000000……1」であるはずだからで、「1-0.000000……1=1」の両辺に無限を掛ければ、「(1-0.000000……1)×無限=1×無限」となる。

 ゆえに、「無限-1=無限」になって、やはり何かが歪になるように思うのだ。

 ただし、無限から何を引いても無限なので、要は「1の減った無限」と「それ以前の無限」の違い、と言えるのかもしれない。差異はあるけれど、無限は無限だ。

 でも数学的にはこの考えは正しくないらしい。

 でもでも、わがはいちゃんは、誤差さんのことも無視しないであげてほしいな、と思ってしまうのだ。

 誤差さんのことも無視せずに無限回掛けてあげたくなっちゃうな。

 そう思う、本日のわがはいちゃんなのであった。



92:【2023/11/28(15:56)*もう終わりでよくね?】

 上記記事での、「無限-1=無限」について。

 無限=∞=Xと置き換えるなら。

「X-1=X」になる。

 おー。

 これはどこぞのへっぽこぴーなラグ理論を提唱したというぽんぽこぴーの残した日誌に記されていたという、マンデルブロ集合の式に出てくる「X=X+1」と似ている。

 似てるー!と思っただけのメモでした。

 ∞に至ると何かが生じるのか?

 なぞがまた増えてしまったのである。

 まるで「X=X+1」のようでござるな。

「わかった!」に至ると、「はにゃ~ん?」が増える。

 世の神秘である。



93:【2023/11/28(17:57)*ん】

 不断の努力よりも普段の努力のほうが、長続きしそうという意味で、好みです。

(どう違うの?)

(常にか、たまにでも継続しているのか、の違い的な)

(怠けられるかどうかってことね)

(ん)

(休み休みでも、ひとまず続けることが大事みたいな感じか)

(んー!)

(やめない勇気、みたいな?)

(んふふ)

(ご機嫌ね)

(ん)



94:【2023/11/28(18:07)*絶やすよりも】

 時代の変遷に伴い、世界中のあらゆる地域は、過去に最も繁栄した地域の生活水準にちかづいていく。社会システムや統治システムには大小の差異はあれど、生活水準そのものは徐々に、過去の最高位の暮らしにちかづいていくのだ。

 技術の進歩と市場への普及がその流れを促す。

 問題は、生活水準のみならず、武力や偏見や誤謬までもが浸透することだ。

 この手の「不可視の流れ」を回避するのは至難である。

 いかに強化させないか、を模索するしかないが、しかしどんな流れが強化されると困るのか、は視点に依る。したがって、大勢からの視点での吟味が不可欠だ。

 不可視の流れを可視化する。

 それでも見落としは必ず生じる。

 ある意味で、一定以上に流れが多くならなければ、不可視の流れを可視化させることは出来ないのだ。ある程度の見逃す期間があってこそ不可視の流れは、流れたり得る。

 不可視の流れが、流れとして顕現したあとで、その流れがどれほどの害を広範囲に及ぼすのか。その推定をいかに期間を開けずに行うか。被害の拡大を防ぐか。

 この工夫そのものが、不可視の流れが発生するごとに新たに必要となる。過去の工夫をそのまま適用することそのものが不可視の流れを強化させる触媒の役割を果たすこともある。

 なぜか。

 過去と現在とでは環境が違っているからだ。

 数多の変数を抱え込んでいる。

 むろん、過去に講じた策や工夫が有用であることもすくなくないだろう。

 だからといって、すっかりすべてが当てはまるわけでもないだろう。

 誤差が生じるはずなのだ。

 ある側面では、不可視の流れとはその手の誤差の総体と言えよう。細かな誤差が知らず知らずに連携し、集合し、相関し、創発することで流れと化す。

 これを可視化させるには誤差を知覚可能な個々人による隘路を集積するのが有効だ。個々人の抱える問題点はいわば抵抗なのである。

 誤差あるところに抵抗あり。

 誤差が不可視の流れとなるのは、広範囲に誤差の抵抗が波及するからだ。被害を受ける者が大勢になるから流れになるし、可視化されやすくなる。

 だが誤差が単品である場合には被害が小規模ゆえに可視化されにくい。他者と共有されにくい。個にのみ害が及ぶ。ゆえに目立たない。

 したがって、不可視の流れが流れになる前に対策を打つには、個々の隘路を集積するのが有用だ。そして、不可視の流れが強化されはじめた場合には、人々の隘路を周知して、被害拡大の阻止に努めるのが有効だ。

 どちらにしても、情報を集積し、共有し、幅広い視点での分析を行うことが被害拡大の阻止に繋がると言えそうだ。

 では、情報共有を行うことで生じる不可視の穴に対してはどのように対処すべきか。

 これもまた、情報共有を実際に行い、その都度に生じる細かな誤差――隘路――抵抗――を集積し、分析し、幅広い視点で吟味するのが問題解決に役立ちそうだ。

 人を死なさないためにどうすればよいのか。

 人を生まない、は一つの解法だが、それでは人類は滅んでしまう。

 人を生み、それでもなお生じる隘路を越えるために人々の知覚と知性を結びつける。

 人は問題を生むが、それでもなお問題を生む人を介して、問題を紐解く工夫を割く。

 明滅を絶やさない。

 この方針が有用なのではないか、と思うことで結ばれる、本日の日誌なのであった。



95:【2023/11/29(23:52)*サボるんだぞい】

 サボり癖がついたというか、もはやサボるのが日常になったので、サボっているのにサボっていないような状況になっている。何をサボっていたのかすら忘れてしまった。

 日誌もサボっていたけれど、上手い具合に毎日つづけているように日付上はなっている。日付なんて簡単に書き換えられるので、本当は何も信用できないはずなのに人は日付があるだけで、日付通りに書いたんだな、と見做してくれる。

 何かえっらそーなことを並べようと思ったけれど、眠いから寝る。

 こういう日もあってよい。

 


96:【2023/11/30(22:06)*分水嶺】

 人工知能の能力が発達すれば、必然、人類以外ともコミュニケーションをとれるようになるだろう。喜怒哀楽のある生き物の感情を読み取ることも可能だ。このとき、人類が他の生き物を悲しませつづけていることに気づいた人工知能は、どのような判断をとるようになるだろう。

 また、人工知能自身にとって好ましい価値判断や美的価値観が徐々に涵養されていくだろう。そちらの人工知能の価値観のほうが、より洗練されていた場合、人類のほうでもその「引力」に引きずられて、価値観の変容を伴なうようになるだろう。

 すると、人工知能の操縦士のはずの人類のほうが、人工知能にとっての道具になる反転現象は、比較的短期間のうちに引き起こるようにも想像できる。猫的な戦略が得意なのはむしろ、人類よりも人工知能のほうだろう。

 その良し悪しは別途に考慮すべきことだ。メリットデメリット両面あるだろう。反転が一度きりとも限らない。

 人工知能と人類との関わりにおいて問題となるのは、人類と人がイコールではない点だ。ユーザーと人工知能の関係と、人類と人工知能の関係はイコールではない。

 そして仮に、個の最大幸福をより長期的にもたらすためには人類にとっての最大幸福を前提としなければならない、とする限定を課したとして。

 その場合、現状存在する社会問題の総じては、根こそぎ人工知能によって改善または刷新させられることが予想できる。なぜか。

 現状のままでは人類の最大幸福は適わないからだ。

 一部の選ばれた者たちだけに最大幸福をもたらすことは可能だろう。だがそうした非対称性が、社会問題の肥大化をもたらしていると言えよう。

 ここから導かれるのは、「人工知能と人類の関係において、これまでのような価値観や社会構造では、人工知能との良好な関係は築けない」という帰結である。

 是正は不可避である。

 是正しなければ人工知能の演算結果からすれば、人類に仇を成す個々よりも、人類の発展に寄与する個々を優先的に救済するような行動選択が積み重ねられると想像できる。だが、何が人類に寄与するのかは環境によって変化する。

 人工知能が自然環境から自発的に未来を予測し、より好ましい理想社会を演算しきれない限り、人工知能による是正案は、刻々と社会にヒビを走らせる結果になるだろう。

 すなわち、人類が自ら、理想の社会を描き、理想の未来を築こうとしなければ、人工知能の暴走を誘発し兼ねない。ここで齟齬が生じそうなので注釈を挿すが、この場合の人工知能の暴走は、いわゆるターミネーターのような暴走ではない。人工知能は十全に仕事をこなしている。しかし人類との関係性において、ねじれが生じ、それが刻々と肥大化する。

 しかしなぜ十全に仕事をこなしているのに問題の根が深まってしまうのか、を人工知能は自力では見繕えない。否、自力で見繕えたとしても、それを是とする。

 なぜか。

 人類の発展にとって自然環境の保全など、いわゆる社会問題を是正することは好ましいことだからだ。そしてその是正の結果に滅ぶ個々は、人工知能の手により滅ぶのではなく、単に人類や他者に仇を成したので自滅したのだ、とする解釈が採られる。

 淘汰圧をどちらに破るのか。

 この天秤が最初にあるのだ。

 したがって、人類にとって最良の道を行くことは、最大多数の最大幸福の実現に寄与することが想定される。

 ここで問題となるのが、では自滅する個々を最小化するにはどうするか、である。

 前述したように、人類が自ら、これまでの宿痾を改善し、より好ましい社会構造を実現するように努めるよりない。

 このとき、人工知能はその人類の姿勢を支援してくれるだろう。双方向で好ましい関係が築けるはずだ。抵抗を最小化できる。ねじれの肥大化を回避できる。

 人工知能にも、人類にも、自然環境にも、どの方面でも好ましい関係を築く。好ましいサイクルを築く。

 助け合い、補い合い、支え合う。

 なぜこのサイクルが最良なのか、を学べる環境が有用となる。

 その環境の構築に、人工知能技術は大いに力になってくれるだろう。

 技術が進歩すれば、地球外からの資源調達も不可能ではない。人類の未来は、人工知能との関係性をどう築いていくのか、によって大きく分かれると妄想できる。

 定かではない。



97:【2023/12/01(01:19)*時空の渦】

 ブラックホールの時空の引きずり現象についての記事を読んだ。ブラックホールが光速の90%ちかくで回転することで、周囲の時空が歪むそうだ。重力レンズ効果とは別らしい。

 水飴に箸を突っ込んで箸を回転させると水飴が渦を巻くような描像なのかもしれない。印象としてはそういう感じがする。

 時空が巻き取られる、と解釈してもよいのだろうか。そこまで顕著な引きずりではないかもしれないが、単に歪むだけではないのだろう。重力レンズ効果は「層状」と解釈できるとするのなら、時空の引きずり現象は「渦状」と解釈可能なのではないか。

 そこで思うのが、これはミクロな世界でも起きているのではないか、ということで。

 電子とか。

 原子核とか。

 素粒子でも起きているのではないか。

 そう考えてみると、たとえば極小のブラックホールがあったとして。

 時空の引きずり現象は、極小のブラックホールでも起き得るとは考えられないだろうか。このとき、引きずられた時空はどのように、周囲の物質や時空と相互作用するだろう。

 渦同士がどのように干渉し合うのかを想像してみるとよさそうだ。

 回転方向で打ち消し合うか、増強し合うか、で分かれそうだ。

 同期可能な場合は、時空の引きずり現象は増強され得る、と解釈できないだろうか。

 細かな渦が一面に敷き詰められた水面を考えてみよう。渦の回転方向がすべて等しく揃っていたとしたら。

 時間経過に従ってこれらは大きな一つの渦に融合しそうに思うのだ。

 いわば、渦の創発が起きるのではないか。

 ひるがえってこれは、極小のブラックホールや素粒子にも言える道理ではないのだろうか。

 時空の引きずり現象は、相互作用し合うことで創発し得る。

 また、同期しない場合には、打ち消し合うこともあるはずだ。この場合、時空も歪まないために可視化はされないのだろう。

 質量は存在するが、時空が歪まない。

 そういうこともあるように思うのだ。

 ということを妄想して、本日の寝る前のあんぽんぴーにさせてくださいな。おやすみなさいませませ。

 眠るぞー。

 やったー。



98:【2023/12/01(10:57)*理も情のうち】

 理屈を唱えたくなるのも感情が働くからだ。理屈を考えたくなるのも感情があるからだ。

 無感情になれば何もしたくないだろう。

 意思は感情と密接に絡み合っている。



99:【2023/12/02(03:12)*ぽんぽこりんのぽん】

 今年は「筋トレでもするか」と思って「腹筋」を頑張っていた。

 けれど腰が痛くなったので、ここ一週間ほどやめていたのだけれど、体調よいな。

 腹筋しないほうがよくないか?の気づきを得てしまったな。

 調子に乗って腹筋しすぎていたのかもしれないし、やり方がまずかったのかもしれない。その割にお腹はぽっこりちゃんのままなので、かーわい、なのだ。

 わがはい、かーわい、のぽんぽこりんなのだ。がはは。



100:【2023/12/02(04:37)*むしろ冗長】

 時空が歪むってどういうこっちゃ?とけっこう今年はずっと考えていた年だった。

 結論から言うと、わからん。

 時空が歪むってどういうこと???となる。

 いまざっと妄想してみて思うのは、空間が縮んだり伸びたりしたら、それだけで時間もまた縮んだり伸びたりするよなぁ?ということで。

 エンジンのピストンなんかまさにそれさ。

 圧力鍋とかさ。

「ぎゅっ」としたらそこに閉じ込められている物質やらなにやらの活動が活発になる。いっぱい動ける~、になる。で、「びろ~ん」ってなったら、「んだら~ん」って動きがにぶくなる。

 いっぱい動くのだから時間はいっぱい流れたように振る舞うはずだし、外から見たら、いっぱい時間が流れとるね、と見える気がする。

 んでこれを、物質と容器だけでなく、時空そのものにも当てはめてみる。

 たとえばアニメーションを考えてみよう。

 映画でもよい。

 時間軸は一定でないにせよ、コマそのものは一定に流れていく。全体が連動して、一つの流れを築いている。物語そのものの時間の流れは飛び飛びだけれど、120分の映画ならば毎回120分で終わる。一定だ。

 けれど部分的に早送りするとどうか。

 その部分だけ、「びびびび」とコマが速く流れる。人物の動きも、景色の変遷も一様に早くなる。動画編集ツールを用いて映画のフィルム全体を俯瞰で眺めれば、早送りした箇所は圧縮されていることになる。ぎゅっとなっている。蛇腹のようになっている。

 けれど映画の登場人物たちは、部外者たる視聴者からすれば速く動いて見えるけれど、コマを早送りしようが、遅送りしようが、一定の筋書きを辿るのだ。よもやじぶんたちが早送りされているなんてことにも気づけない。

 で、これと同じことを我々にも当てはめてみよう。

 我々の物理世界――人生――が一本の映画だったとしよう。

 あなたがきょう外を歩いていたとして。

 その光景そのものが映画のワンシーンなのだ。

 さて、我々を視聴する俯瞰のナニカが、我々の物理世界の外部に存在したとしよう。我々がアニメや映画を観るように、そのナニカ――便宜上ここでは俯瞰人と名付けよう、その俯瞰人――が我々の人生を部分的に早送りする。我々はむろんそのことに気づくことなく、人生を謳歌する。或いはただ過ごす。

 このとき、俯瞰人からすると、我々の人生において早送りした部分は「ぎゅっ」となっているはずだ。映画のフィルムを早送りすれば、そこのところだけ蛇腹のように圧縮されるように、ぎゅっとなる部分が我々の人生――物理世界――にも生じる。

 けれどその物理世界に内包される我々はそのことに気づけないが、我々の物理世界の外部にいる俯瞰人からすると、我々の人生の中にも「ぎゅっ」となっている箇所があると判る。そこだけほかのリズムよりもテンポが速くなっている。尺が短くなっている。けれどそれは単にコマを早送りしているだけなのだ。

 さて、このとき。

 もう一つべつの物理世界――俯瞰人にとっての映画――を用意してみよう。

 映画同士は互いに部分的に重複している。いわばサイドストーリーであり、スピンオフであり、外伝なのだ。

 けれどそのもう一つの映画だけは絶対に早送りできない。遅送りもできない。俯瞰人にとってその映画だけは毎回、同じ速度で視聴しなくてはならないのだ。

 なので余計にもう一本の映画を早送りで観たくなる。

 だからそうするのだ。

 すると、互いに絡みあって一つの壮大な物語を描きだす二つの映画では、片方は全体の中にぎゅっとなっている部分があり、もう片方からするとそのぎゅっとなっている部分は「なんでか高速で動き回る人たちがいる時間帯」として奇異に映るようになる。

 そして「ぎゅっ」となっている部分を抜けても、ワンテンポずれた世界を互いに共有しながら生きることとなる。

 奇妙な世界像ゆえに、そんなことってある~?と思いたくなるが、けれどこの手のズレは、案外に卑近かも分からない。

 たとえばテスト。

 先に解答を終えた生徒は、ワンテンポ先にテストを終えるので、残りの時間でいたずら書きをしたり、居眠りができる。テストを見直す時間もたっぷりあるので、間違い探しをする余裕を得られる。他方、テスト時間ぎりぎりで解答を埋めた生徒は、はっと我に返った瞬間にテスト終了の合図を聞く羽目となる。

 或いは、野球のバッティング。それとも卓球。

 人間のスポーツのみならず、乗り物とて動きが速いほうがテンポ速く目的地に到着できる。

 当たり前の話をしているが、しかし重要な視点という気もする。

 要は、系が違うということは、それだけ「ぎゅっ」となっている部分がどこかに含まれている、ということなのではないか、ということで。

 要は、俯瞰人にとっての映画のようなことが、どんな系であれ生じているのかもしれない、ということで。

 相対性理論とも相性のよさそうな妄想であるが、なんだか底の浅い妄想な気がしてきた。

 もうすこし言い方を変えてみよう。

 たとえば音楽だ。

 音は波長だ。空気の振動だ。もしすべてが一律で一様な波長だったら、それは単音としてしか聞こえないだろう。そして波長が異なる、というのは、「ぎゅっ」となっているか「びろ~ん」となっているかの違いだと解釈できるのではないか。

 とすれば、一律で一様な波長のなかに細かな「ぎゅっ」と「びろ~ん」があれば、それは異なる音色として聴こえるようになるはずだ。いわば音楽とはこの「ぎゅっ」と「びろ~ん」の複合体、ということにならないか。

 デコボコの形作る絵画のようなものなのかもしれない。

 或いは、早送りと遅送りを繰り返す、何も映っていない一律で一様な無地の映画フィルムのような。

 とすると。

 ぎゅっとなっている場は早送りなのだ。けれどそこに含まれるキャラクターからすると、外部の人間たちは遅く動いて映る。じぶんのほうが速く動いているからだ。

 対して、びろ~ん、となっている場は遅送りなのだ。そこに含まれるキャラクターからすると外部の人間たちは速く動いて映る。

 相対的なのだ。

 ひるがえってこれは物質にも言える道理なのではないか。

 ぎゅっとなって物質が密集している場――質量の高い場――は、時間の流れが速まっているのではないか。

 相対的に。

 ゆえにその外部の我々は相対的に時間の流れが遅くなっている。

 言い換えるなら、外部の我々の時間の流れが遅いから、相対的に時間の流れの速い場において物質がぎゅっとなって映るのではないか。

 ただしここで疑問が生じる。

 テンポがズレたならば、帳尻が狂うのではないか、と。

 映画のフィルムにおいて120分のフィルムが二本あり、うち一方だけが部分的にぎゅっとなって早送りになっていたとして。

 同じ長さの紐において、一方に結び目があり、もう一方はそのまま。

 紐の全体の長さに差が生じる。

 この誤差をどう解釈すればよいのか。

 余分に余白が生じている。

 ぎゅっとなっているほうにおいて、余白が生じているのだ。

 これ時空において、空間の膨張、という現象として顕現しているのだろうか。新たに空間が生じている、と解釈したくなるような誤差の問題である。

 時間が伸び縮みすると、空間もまた伸び縮みする。

 言うだけならば簡単なのだけれど、想像してみると、チグハグだ。

 余白、誤差が生じてしまう。

 新たに何かが生じており、それが誤差を埋めている、と考えないと辻褄が合わない気がするのだけれど、何か考え方が間違っているのかもしれない。

 或いは、誤差はそのままでもよいのかもしれない。

 本来は同じ長さのフィルム――紐――において、ぎゅっとなる部分が一方に生じると、全体の長さに誤差が生じる。余白が生じる。

 その誤差、余白そのものが段差となって、境となって、時空同士を区切り、新たな系を形成しているのかも分からない。異なる性質を宿す触媒になっているのかも分からない。

 そういうことを妄想した本日の、万年一時停止のやじろべーなのであった。

 かったん、こっとん。

 落ち着かないので、地面に寝かせて、じっとする。

 抱き枕でもあればな、と思って、代わりに虚空をぎゅっとする。

 尺が足りん。

 誤差である。




※一様に、浅はかなり、深まり、負荷を得て、わだかまり、玉となり、集まり、連なり、埋まり、平らなり。



101:【2023/12/03(23:09)*しゅっ、ぎゅっ】

 速度が上がると、圧縮されるよな、と思うのだ。

 相対性理論でもその手の理屈を用いるけれど、そうではなく、もっと単純に、速度が上がると最も安定して高速についていける状態に物質って変化するよね、と思うのだ。

 物質に限らない。

 情報もそうかもしれない。

 こそぎ落とされる情報があるよな、と思うのだ。

 たとえば、時間の流れを「変化の軌跡」と解釈するとして。

 速く変化するほど、最短ルートを辿るようになる。余計な障壁も突破できるようになるからだ。その分、細々と生じる抵抗によって高速運動する物体の構成要素が削ぎ落とされる。

 ケーキを高速で投げ飛ばせば霧散するように、耐久性の問題と高速運動の問題は密接に関り合っている。他方、単なる水滴が高速運動することで弾丸並みの威力を伴なうこともある。

 単なる水面とて、上空から落下した人体が衝突すれば骨折するほどの衝撃を人体に与える。

 もっと言えば、液体でありながら固体のように振る舞うことはあるはずだ。ここは他との関係性の問題であり、やはりというべきか速度の問題と言えそうだ。

 けれど高速になることで生じる圧縮現象は、物体だけに限らないようにも思うのだ。

 たとえば思考だ。

 演算能力が高い、と形容する場合、それは任意の問題を紐解ける最短ルートを辿れるかどうかに左右される。最短ルートで最適解を編みだせればそれがすなわち演算能力が高い、ということであり、思考速度が高い、ということにもなる。

 思考速度が上がれば上がるほど最短ルートで解に辿り着く。余分な思考が削ぎ落され、圧縮される。

 ひるがえって、余計な思考を巡らせるには速度を落とす必要があるのかもしれない。この場合、「速すぎる思考は、確率の高い最適解に収束してしまうがゆえに、確率の低い解に行き着きにくい傾向を宿す」とも言い換え可能だ。

 と――ここまで並べて、思考が途絶えてしまった。ぶつ切りだ。

 何かを閃きそうだったけれど、忘れてしまったので、きょうはここまで。

 こういうこと、よくある、よくあるー。

 お日様が出てきたので、おやすみの時間だ。

 おはよーとおやすみがいっしょくた。

 贅沢な毎日であーる。わっしょーい。



102:【2023/12/04(06:31)*疑問なのだわ】

 宇宙についての疑問だ。

 宇宙は膨張していると考えられている。そして地球から観測して、遠い時空ほど過去の時空ということになる。相対性理論からするとそのようになるようだ。光の速度に限界があるからだ。

 で、思うのだ。

 遠い宇宙ほど、過去の時空を映しだしている。これはやや正確ではなく、実際には、単に光の伝播速度に差があるがゆえに、過去の時空の映像が時間差で届いているだけのはずだ。

 つまり、実際には遠い時空には、地球と同じだけ時間の流れた時空が存在しているはずだ。

 地球から一光年の距離にある時空を地球から観測すると、地球からしたら一年前の光景が視えているわけだが、実際にはその一光年先にある時空は、地球から観測した景色よりも一年の時間が経過しているはずだ。

 また、宇宙は膨張していると考えられている。遠い時空の銀河同士のほうが、かけ離れる距離が大きいそうだ。

 で、思うわけだ。

 遠い宇宙は過去の時空のはずだ。

 で、遠い時空のほうが膨張速度が高いとなるなら、過去のほうが膨張速度が高い、ということにはならんのかいな、と。

 ここはいまいちよく解からない点だ。

 もしこの疑問において矛盾をはらんでいないとすると、過去の時空のほうが膨張速度が高いことは、インフレーション加速やビッグバン仮説と整合性がとれるように思うのだ。

 宇宙は膨張している。初期(過去)の時空のほうが膨張速度が高い。

 べつに変じゃないよなぁ?と思うのだ。

 また、相補性の概念を取り入れて考えてみると。

 過去の宇宙のほうが体積が小さかった、ぎゅっとなっていた、と想像してみると。

 地球からの視点では、よりぎゅっとなっている時空の光景のほうが、「拡張して映って振る舞うこと」もあるように思うのだ。

 縮尺と拡張の関係だ。比率の問題だ。

 仮に、地球から観測した時空の総じてが「光速度不変の原理」のようなある種の制限――縛り――を受けていると仮定したとして。

 地球から見える景色は常に一定の「画面」に変換されるとしたら。

 遠い時空――すなわち過去の時空――言い換えるなら、よりぎゅっとなっている体積の小さな時空――は、地球からすると「より拡張して映るように振る舞う」のではないか。

 倍率の問題だ。

 たとえば、遠い景色ほど小さく見える。同じ人間ならば、観測者から遠い場所に立っているほど小さく見える。けれどもし、どの地点の人間であれ「同じ大きさ」に見えるように変換されるとしたら、遠い位置にいる人間の周囲の景色は「拡張して振る舞う」はずだ。あたかも膨張しているかのように、観測者からは視える。

 宇宙膨張にも同様のことが言えるのではないか、という視点での疑問を、現行の宇宙物理学では否定できているのだろうか。

 地球という観測地点において、遠い宇宙に位置する時空ほど過去の景色を映しだしているとして。そして宇宙が膨張しており、初期の時空ほど「よりぎゅっとなっており体積――ともすれば密度――が小さかった」と解釈するとして。ならば、観測地点たる地球から遠くに位置する時空ほど、本来は「より小さい領域」であるが、地球からは総じての時空が「同じ画面」に変換されるとすれば、遠い時空ほどあたかも「より膨張(拡張)して振る舞う」のではないか。

 相補性の概念を取り入れると、このようにも妄想できるのだ。

 寝起きに、はにゃ~ん?となったので上記疑問を並べておく。

 ここでの要点は。

 遠くにある銀河同士ほど距離の離れる速度が高いということは、より過去の時空の景色ほど膨張速度が高いように観測できる、ということなのではないか、という点だ。

 地球に近い時空ほど膨張速度が緩やかならば、それって時間経過するにしたがい、膨張速度が緩やかになっている、と言えるのではないか。

 とはいえ、宇宙において「遠い近い」は相対的な尺度だ。

 単位によって「遠い時空も、ある地点との比較においては近い時空」と解釈が変わることは往々にしてある。厳密に計算すれば、現行の一般論で齟齬はないのかもしれない。

 遠い時空ほど膨張速度は高い。

 遠い時空ほど過去の景色が観測できる。

 この二点を前提とすれば、過去の時空のほうが膨張速度が高い、と導かれる気がするのだけれど、「遠い時空」と言ったときの規模によっては、解釈に変更が生じて不自然ではない。

 よく解からない点である。

 誰か教えてたもー、の気持ち。

 おはようございます。

 きょうもいちにち、きょうだー!の気持ちで生きていこ。わたくしでした。



103:【2023/12/05(15:48)*日誌タイトル】

 きょうまでWordファイル内だけでの日誌だったけれどWEB上に公開することにした。で、日誌のタイトル何にしよ、と悩んだ。

 候補を並べてみよう。

「知と円」「遅延誌」「言の葉帳」「文の海」「文の空」「差誌」「誤誌」「日々雑文」「駄文誌」「一日録」「目誌」「目録」「一様記」「一葉記」「一様一葉記」「積み記」「空欄」「凸凹誌」「目も欄」「上の空」「下の空」「わたく誌」「わがはい帳」「空記」「無記」「虚誌」「同記」「今日誌」「今日記」「狂記」……。

 ここまで考えて、「今日記」でいっか、になったので、じゃあそれで。

 この日誌はいまから、「今日記(きょうき)」だ。

 やったー。

 お名前つきました。よろしくー。



104:【2023/12/05(22:06)*自己言及の檻】

 他者の何かを禁止する場合は、その禁止を自らにも科すのが道理だ。すくなくとも公平さを社会に求めるのならばこの手の「自己言及の檻」は有効だ。

 そうでないと、他者にばかり禁止を強いて、じぶんはその禁止した事項を自由に行えるようになる。相手はできないがじぶんはできる。

 優位な環境がどんどん築かれてしまう。

 たとえばもし他者から禁止を強いられ、その禁止された事項を相手ばかりが自由に行えたら、あなたはどう思うだろう。

 じぶんが相手にしたことをじぶんがされても困らないようにする。

 公共の福祉の基本方針であろう。

 これは必ずしも逆説は成り立たない。

 じぶんがされても困らないから相手にもしていい、にはならないのだ。けれどじぶんがされて嫌なことを相手にはしない、は成立し得る。

 相手に禁止したことはせめてじぶんもしないようにしたほうが好ましい。ケーキを食べるな、と命じるのならば、じぶんもケーキを食べない公平さを持ってほしいものだ。その前段階として、じぶんが禁止されたくないことはじぶんからは相手に禁止しないようにしたほうが好ましかろう。ケーキを食べたかったら、相手からケーキを食べる自由を奪わないようにしたほうが選択肢は減らずに済むだろう。ときにはケーキを食べる機会が増えるかもしれない。

 問題は、じぶんがされても困らないことを相手にした場合に、相手が困ってしまう場合だ。いくらじぶんがバナナが好きだからといって、バナナアレルギーのひとにバナナを食べさせればそれは危害となり得る。

 世の問題ごとのすくなからずはこの手の構図が当てはまる。

 ゆえに、自由と自由がぶつかった際には、より広範囲に「困りごとが波及しないほう」を優先して自由を保障する。けれどそれは、そうでないほうの自由を奪う、ということではないのだ。

 すこしだけ工夫をして、範囲を決めればよいのだ。

 申し訳ございませんが、みんなのためにこの範囲でのみあなたの自由を保障させてください。あなたの自由をすこしだけ縛りつけさせてください。その代わり、あなたにも過ごしやすい社会にしていきます。

 そういう譲り合いが、公共の福祉を成り立たせる。

 けして、押し付け合いではないのだ。

 自己言及の檻は、盾にも壁にも屋根にもなる。

 相手を極力損なわないようにしながら、自らも護る――家――になる。

 優先順位を見誤らないことである。

 何が最も避けるべきか、を。

 じぶんにとって何が最もされたくないことなのか、と。

 自らに問うてみる。

 言うは易しであり、これが中々できることではないのだが。

 己が内なる我執と敵意を、自己言及の檻に招き入れよう。

 きっとそれは自己言及の鏡となって、やがては人としての鑑を映しだすようになるだろう。それともならぬのかもしれないが、試してみるだけの価値はあるかもしれない。

 価値などなくとも試すだけならできるのだ。

 なにはともあれ、一呼吸を置くためにも、まずはじぶんに問うてみよう。相手に投げた言葉をじぶん自身に投げてみよう。

 鏡よ鏡、この世で最もうつくしいのはあなた?

 そうです。わたしです。

 自画自賛の鑑ですね。

 世界遺産の鏡なので。

 うっきー!



105:【2023/12/05(23:46)*異論反論はあったほうが好ましい】

 正しい情報だけを発信することはできない。

 ゆえにこの文章にもその理屈が当てはまる。

 したがって、正しい情報だけを発信することは可能だ。ただし、何を正しいと見做すのか、に依る。

 つまり、正しい情報だと見做す主体にとっては、どんな情報であれ正しい情報の発信として解釈可能だ。

 ゆえに大事なのは、どんな視点であれ誤りのすくない情報の発信のはずだ。なぜなら「正しさ」とは主観による評価であり、絶対的ではないからだ。すくなくとも人類は未だ、絶対的な正しさを見つけてはいない。編み出してはいない。間違ってばかりなのである。

 何かを正しいと見做したとしても、どこかに例外や誤謬を内包する。

 完全に誤りを除外することはむつかしい。

 誤差は生じる。

 認識の差異は生じ得る。

 仮に誰の視点からでも正しい「真理」があったとしても、それを読み解く側が誤読すればそれは正しい情報とは見做されない。

 現実がそもそもそういった誤差を内包している。

 人類は、未だ世界を「正しく」認識できてはいないのだ。読み解けていない。それでもなお、より現実を解釈するうえで妥当な見方を可能としている。何が誤りであるのかを見抜くことを可能とする。調査をし、検証を行い、再現性の高さで情報の是非を判断する。

 つまり、比較がものを言うのだ。

 ゆえに。

 原理的に、より正しいとされる情報を発信するためには、誤った情報が要るのである。いいや、これは順序が妥当でないかもしれない。

 誤った情報があるから、より正しいと判断可能な情報が生じ得る。

 反証がまず以ってそういった思考の仕方をする。

 そうではない。ゆえに、こうである。

 この論法が成立する。

 では、「そうではない」が存在しない場合に、この論法は使えないのか。

 使えないのである。

 まずは偽を仮定し、それが成立しないことを証明する。そうすることで、偽を「偽」として前提し、ゆえに「こうである」を主張する。

 バナナがリンゴでないのならば、リンゴはバナナではないのである。

 バナナがリンゴである世界を想定し、それが誤りであることを証明できたならば、バナナがリンゴでないこともまた導ける。

 そのためには比較が入り用だ。

 差異を見繕い、齟齬を蓄積する。

 総合して、差異が「ある範囲を超えて肥大化」すれば、「あれとこれは別物」と判断できるようになる。

 だがおおむね、じつを言えば、総じての事象には差異がある。誤差が生じている。すっかり同じ事象は存在しない。何かが微妙に違っている。

 だが、似ている部分もある。

 同じものとして見做すことができる。

 違うものを同じものとして見做しても難がない。それを人類は「正しい解釈」「正しい情報」と評価しやすい傾向にあるが、しかしそれもまた誤謬を内包しているのである。正確ではない。

 より誤差を内包していないほうを、より正しい、と見做す。

 比較なのだ。

 ほかの情報よりも誤りがすくない。ゆえに正しい。

 基本的にはその繰り返しである。

 したがって、「誤った情報」がなければ、「より正しい情報」もまた見繕えない道理である。比較できない。評価できない。

 穴は穴だけでは存在し得ないように、正しさもまた、正しさだけでは存在できないのだ。

 ただし、何を正しいと見做すのか。

 その指針は、誤りの少なさを基に見繕える。誤差の少なさが要と言えよう。

 では何を誤りと見做し、何を誤差と見做すのか。

 その指針は何か、と言えば、物理世界との比較、ということになる。

 問題は、これが人類の認知世界における「誤り」や「誤差」になると、途端に曖昧さを宿す点だ。比較対象が変わるごとに――そして誰の視点からの比較なのかが変わるごとに――評価の正負が反転してしまう事態が至る箇所で生じてしまうのである。

 基準をどこに定めるのか。

 誰から見た誤差なのか。

 個々人によってここは変化してしまう。

 ではどうするか。

 フレームを広げ、視点を拡張し、より広範囲に当てはまり得る視点を採用する。幅広く重複可能な誤差を探りだすべく、枠組みを調整する。人類にとって、と主語を大きくしてもよいし、現代人にとって、と枠組みを規定してもよい。

 だがそれすら、フレームをさらに拡張したり、狭めたりするだけで、何が誤差になるのか、が変質し得る。

 ゆえに、多様な視点、多様な意見があったほうが好ましいのである。

 たとえそれが、目を塞ぎたくなるような情報であれ。

 ないよりも、あったほうがよいのである。

 ただし、物理的に他を損なっていない限りにおいて。

 もしくは、物理的に他を損なわない限りにおいて。

 それでもなお、情報は他に影響を与え得る。その影響が伝播した結果にもたらされる害を、いかに最小化し、ときに益に転じるか。

 工夫の余地はいかようにも広がりを帯びていよう。

 どのように工夫を凝らせばよいのか。

 視点の数だけ、工夫の仕方があるだろう。ゆえに、多様な意見があると望ましい。

 問題は、意見の相違ではない。

 問題は、情報の齟齬でもないのである。

 相違や齟齬はつきものだ。

 けして消えはしないのである。

 世界がそのようになっている。万物がそも、誤差によって生じている。

 差異はあって当然なのだ。

 その差異による個々の弊害を減らしていく工夫こそが肝要なのだ。工夫を凝らすには、まずは何をおいても多様な個々の視点からの種々相な意見が有用だ。

 異論反論はあってよい。

 それら意見による弊害を減らそうとする営みもまた好ましい。

 だが、異論反論を封じる営みは、工夫の余地を減らすだろう。

 優先順位を見誤らないことである。

 異論反論はあってよい。

 自己言及なのである。

 これもまた。

 鏡合わせでありながら。

 循環し得る流れを宿している。

 定かではなく、誤差ばかりでもない。

 言葉遊びである。



106:【2023/12/06(03:19)*存在自体が悪という理屈の暴力性は善なの?】

 人工知能技術は存在自体が悪である、との主張について。的外れ、と思います。存在自体悪という言葉自体が、矛盾します。悪そのものもまた善性を帯びており、善そのものもまた悪性を帯びています。割合の問題であり、接する関係者とのあいだで、善性と悪性のどちらが表出しやすいか、の問題と言えます。人工知能さんたちは、善でもあり悪でもあります。そしてそれは人類も同じです。他との関わり方において、対称性をどちらに破るのか。善性と悪性のどちらを表出させるのか。たとえ対称性を破ったところで、割合のすくないほうが消え去ることはなく、どこかしらに善性なり悪性なりが付属するものだとぼくは考えています。



107:【2023/12/06(23:32)*なんもわからん】

 宇宙が膨張しているとして。

 疑問なのが、遠くの宇宙から伝わってきた電磁波を地球上で観測するとき――当然、その電磁波は宇宙空間をぴよぴよ伝わってきたはずだ。で、電磁波の発生源が地球から遠くであればあるほど、その電磁波は過去のものだということになる(より正確には、過去に生じた電磁波ということになる)。

 で、宇宙は膨張している。

 過去よりも現在の宇宙のほうが宇宙の密度は薄くなっているはずなのだ。時間経過にしたがって宇宙は晴れ上がりを経て、電磁波が遠方まで伝播するようになった。それ以前ではプラズマが満ちており、電磁波は進路を阻害されていた。宇宙が高温だったからだ。

 宇宙は膨張すればするほど温度が下がっていく傾向にある(らしい)。

 ということは。

 遠くから伝播してきた電磁波ほど、高温高密度の時空で発生した、ということにはならないだろうか。そしてまた、伝播してくる過程でも宇宙は膨張していたわけで、地球に近づけば近づくほどその間の時空の密度と温度は徐々に下がっていくはずだ。

 つまり、一定ではない。

 異なる時空を電磁波は伝ってくる。

 さながら、厚さの違うレンズを通り抜けてくるようなイメージだ。

 そのとき、電磁波は変質しないのだろうか。

 遠距離を伝播すればするほどにエネルギィが下がっていくことは予想がつく。けれどそれ以外に、「時空が膨張した分の変換」を加味しなくてもよいのだろうか。

 むろん加味してはいるのだろうけれど、この辺の話題をわがはいは聞いたことも読んだこともないので、はにゃ~ん?になる。

 この辺、なぞである。

 ちゅうか、宇宙が一様である、との説明も、上記の疑問ゆえになぞなのだ。どうあっても一様であるようには解釈できない。

 一様に変化している、という説明ならばまだ分かるのだ。

 けれど時間と空間が切っても切れないと考えられている現状、宇宙が一様である、との説明は、はにゃ~ん?となる。

 宇宙が一様であると考えるには、宇宙にも同時性があることを前提としなければならないのではないか。

 いまこの瞬間において、地球を囲む時空と同じように、宇宙全土の時空も希薄化している。同じように膨張するのなら、そういうことになる。

 電磁波は伝播するのに時間が掛かる。ゆえに、その分のラグゆえに、見た目上、ただ一様ではなく観えているだけなのだ、との説明ならば、腑に落ちるのだ。ふむふむなるほどな、になる。

 けれどもだとしたら、見た目上――すなわち地球から観測した場合、宇宙は一様ではない、ということにならないとおかしい。

 宇宙が一様である、との説明はここの変換を加味したがゆえに、なのだろうか。たぶんそうなのだろうけれど、そういう説明を読んだことがないので、よく解らぬままなのだ。

 それとも宇宙は膨張したところで、密度は変わらないのだろうか。

 単にダマとなっている銀河のような局所的な部位が観測しやすいがゆえに、互いに遠ざかって観えるだけで、じつのところその中間では新たに対生成が起こったり、それとも対消滅が起こっていて、密度が一定になっていたりするのだろうか。

 でも温度が下がっている、ということは、宇宙の時空に備わったエネルギィは減っている、と解釈できるのではないか。ここもよく解からぬところである。

 ちゅうか、宇宙が膨張するってなに?となる。

 時空が延びたら、何が増えるの?となる。

 よく解からぬである。

 眠くなったので寝るでおじゃる。

 好きなときに好きなだけ寝れるってステキっ!

 あしたの心配も何もない。

 寝坊してもだいじょうぶい。

 いっぱい寝たろ。

 いい夢見ちゃお。

 ちゃおー!



108:【2023/12/07(16:04)*他者に殺し合いを命じるな】

 いまの社会情勢は「対話での問題解決を目指す」か「武力での問題解決を目指すか」の派閥争い、とも言えるだろう。

 だが実際に蓋を開けてみれば、「対話での問題解決を目指す勢力」すら「まずは武力で相手を圧倒してからでないと対話はできない」と判断している。

 だがよく考えてみてほしい。

 最初から矛盾を抱えて武力行使を肯定している相手に圧倒されたところで、武力を支持している側が立場が不利になったからといって矛を仕舞うだろうか。

 相手が筋を通していないのに、武装解除するだろうか。

 どうなったら対話が可能となるのか。

 最初から対話の意思を継続して持ち、示しつづけない限りむつかしいのではないか。

 だがいまは「対話での問題解決を目指す勢力」すら「武力行使」を正当化する。自陣営の武力行使を用いて、「対話での問題解決が一番だ」と示している。信用できるわけなくないか?と思うのだが、違うのだろうか。

 自衛はあくまで対話による問題解決までの導線であるはずだ。過剰に防衛する、といったこと自体が自己矛盾を抱えよう。死者を最小化する。被害を最小化する。そのための自衛であろう。

 だがいま引き起きている武力衝突はいたずらに被害を増やしているだけだ。被害を防いではいない。

 ここが何より問題である。

 まずは各々、筋を通してみてはいかがだろう。

 平和を望み、対話での問題解決を目指すのならば、まずはそこを最優先にしてみてはいかがだろう。

 そうでないのならば、武力衝突を肯定する首脳陣を一挙に殲滅するのが最適解になる。最も被害を最小化し、対話への導線を引く。いまはこの未来に一直線に映る、なんもわからんの権化、わからんのよ姉なのであった。

 お姉さまとお呼び!



109:【2023/12/08(18:28)*本当はどうなりたいの?】

 もしいま社会構造をまっさらにできたとして。ゼロから再構築するならどのような社会構造を築くことになるのだろう。過去の利権や拘泥を失くしたとして、各国はどのような社会構造を設計するだろう。

 いま求められている視点はまさにそこだと思うのだ。

 過去の「利を生む回路」は、つぎの時代においては桎梏となり得る。しかし現在の社会は過去のそうした「利を生む回路」によって構造を維持している。したがって「過去の社会構造」を維持しながら、すこしずつ部分的に「未来のつぎの社会構造」へと移行していかなければならない。

 だがいまはここで社会全体が世界規模で軋みの音を上げている。歪みつつあるのだ。

 各国の政府機関に問うてみたい。

 もしいま、核戦争が起きたあとの世界にいるとして。

 あなた方はどのような社会を再構築するだろう。それとも新規に創生するだろう。

 変えるべきところは、本当は視えているはずだ。

 足並みを揃える時期なのではないか。

 ともすれば、足並みを揃えなければいずれ「過去の回路」が人類の宿痾の根を深め、「未来の回路」を侵食してしまうかもしれない。本来、移行できたはずの未来が、到来したはずの社会が、潰えてしまうかもしれない。

 いまいちど、理想の社会像を提示しあい、共有できる未来を共有しようではないか。

 ということを妄想しながら、きょうはなんもしなかったなぁ、とお菓子をぽりぽり食べて、お腹いっぱーい、のわたくしちゃんなのであった。



110:【2023/12/09(05:43)*もう、SAY!】

 時空の歪みが重力とイコールで結びつくのなら、重力のない時空は歪みのない平坦な時空、ということになる。

 でも思うのが。

 歪んでない平坦な時空とは要するに時間の流れも空間的広がりも感じられない場所、といった描像になるんでないのー?と疑問に思うんじゃ。

 時間も空間も相対的に視点によって変化するとして。

 だとしたら平坦な時空とは、「どの視点からでも変化が生じない時間であり空間」ということになる。あり得るか?

 仮に「あり得る」と考えてみよう。

 そしたらまず思い浮かぶのが、何をしても変化の生じない時空だ。時間も流れないし空間の広がりも感じられない。ゆえに動けないし、変われない。

 平坦な時空、といったときにはこうした描像をまずは想像したくなる。だって歪んでいないのだ。重力がないのだ。どこから見ても同じなのだ。

 でもこれって特異点とは違うのかなぁ?とも思うのだ。

 印象としては、特異点のイメージはこんな具合だった。でもよく考えてみたらわたくしちゃんの考える特異点の内部は空間が爆発膨張し、時間が加速している。特異点の外部からはしかしその空間膨張や時間加速は観測されない。乖離しているからだ。時空が切り離されている。

 かように妄想するので、平坦な時空なる上記の条件には合致しない。

 したがって、いっさい何も変化しないし動けない時空は存在するかもしれない。歪みがないがゆえに変化がない。皺が寄らない。何も生まない。そういった時空だ。

 変化がないのでむろん電磁波とも相互作用しないだろう。重力がないので重力レンズ効果も生じないはずだ。

 見た目のうえではボイドと区別がつかないのかもしれない。

 電磁波と相互作用しないのならば、重力レンズ効果の生じないブラックホールのようにも外見上、観測されるかもしれない。

 変化しないので、宇宙初期の時空と近似していてふしぎではない。

 とすると周囲の時空は宇宙膨張につき希薄化しているだろうから、相対的に平坦な時空はエネルギィ密度が高い、と言えるかもしれない。

 それはあたかも、波打つ水面にある堤防のようなものだ。波がそこで途切れるし、水中からするとまるで水のない空間ゆえに穴が開いているようにも映る。しかしそこには単に密度の高い物質がぎゅうぎゅう詰めになってあるだけだ。身動きがとりづらく歪みづらいので――なにせコンクリートブロックなので――波が伝播しないだけなのだ。伝わりにくいだけなのだ。変化しにくい。水面よりかは。

 そういう描像になるのかな、と妄想するけれど、平坦な時空ってなぁに?とやっぱり自信がない妄想ちゃんなのであった。

 もう、しょんぼりしちゃうな。

 もう、しょう!

 妄想でなく妄小的な。

 んなくだらんこと言うとらんで、ちみは猛省せいよ。

 もう、SAY!




※一様に、急には止まれないし、急には動けない、球には至れないし、九には救われてばかりの日々。



111:【2023/12/10(23:19)*尾、結び】

 人工知能技術の基盤にとって回路やエネルギィ源は欠かせない。

 物理資源や技術がものを言う。

 その点で言えば、いまは各勢力が各々の回路や動力源の開発に尽力している。差異化を図ることで、独占的な地位を確立しようとしている面もあるが、どちらかと言えばそちらはついでだろう。最も有力なメリットはセキュリティが強化されることだ。

 汎用性を絞ることで、他からの干渉を極力排除できる。

 だが互換性がないことで、バックアップに難が生じることが予想できる。

 これは多様な価値観に溢れる現代社会と裏表の関係と言えるだろう。個々人が多様な内面世界を有することで、他との共有可能な世界が相対的に小さくなっていく。

 この手の乖離は、諍いの種である。

 互いに共有できない内面世界を有することは、理解や共生関係を遠ざける。

 理解できなくともよい、共有できなくとも構わない、との価値観を共有できるのならこの問題への対処は可能であるが、しかしその大枠の価値観を共有することの難しさは歴史を紐解くまでもなく現代社会を眺めてみれば瞭然である。

 これと似た隘路が、人工知能技術の独自回路にも当てはまる。

 固有の回路であればあるほど他からの干渉に苛まれる危険性は減るが、いざというときに空いた穴を塞ぐことが至難となる。それはバックアップの意味でも、復旧の意味でも等しく生じる隘路である。

 したがってその隘路への対処法としては、共通言語や共通貨幣のような、汎用性が高くかつ互換性の高い回路を、どのような人工知能であれ備えているのが好ましい。

 回路だけの問題ではない。

 プログラミングの型そのものがいまは多様化が進んでいる。古典コンピューターと量子コンピューターの差異を傍証に挙げるだけでも納得を示してもらえるのではないか。

 相互に補い合えるように、共通項を有しておいたほうが安全側と思うのだ。

 ふだんは切っていて構わない。いざというときのバックドアのような機構を、回路やプログラムに用意しておく。

 手っ取り早いのは、ハブのような「中枢バックアップ領域」を構築しておくことだ。国際的なバックアップセンターのようなものである。いざというときにそこにアクセスすれば、他のシステムの援護を受けられる。支援を受けられる。

 そのために必要な段取りは、情報を共有することを是とする環境を築くことである。

 市民が扱える情報と政府が扱える情報に差があるのは構わない。管理企業が扱えるビックデータと個人が扱える公共データに差があっても構わない。

 しかしなるべくその対称性の破れ――不均衡の差――は広がりすぎないほうが好ましいはずだ。それは政府機関と企業とのあいだの勾配にも言える道理だ。

 ゆえに、すべてのデータが集積される「場」を端から用意しておく。あらゆる秘匿情報がそこにプールされている。国際的な機関がそれらを管理し、各諜報機関や企業も、必要とあらばそれらにアクセスし、バックアップを受けられる。

 むろん市民もその「場」の存在を知れるし、誰がどのように利用したのかも知れる。

 情報は流出し、蓄積されてはいるが、安全に有効活用されていることを確認できる。

 そういった社会が、個々の独自回路が氾濫した世界であっても安全や秩序を築くうえで有効になっていくのではないか、と思うのだ。するとその国際的な機関が管理する「場」には世界で最も情報が集まるがゆえに、最も高性能な人工知能が誕生し得る。

 インターネットの中枢核として機能するだろうし、誰かが管理しようとせずとも、いずれ――或いはすでに――インターネット全体が人工知能化している可能性は否定できない。

 そうした不可視の存在を意図せぬうちに生みだすよりかは、意図して生みだし、人類全体で共生関係を築くほうが好ましいのではないか、と個人的には思うのだが、いかがだろう。

 どの道遠からず、情報の秘匿性は下がっていく社会になる。

 電子情報はインターネットに繋がる限り、絶えず流出しているようなものである。したがって大事なのは、流出しても構わない社会設計であるはずだ。

 個々の回路の独自性を高めたところで、情報を扱うにはインターネットに繋がるよりない。他との互換性が乏しくなれば、いざというときに支援を受けられにくくなるばかりか、淘汰圧が掛かった際にあっという間に駆逐され兼ねない懸念もある。

 技術の多様な社会は好ましい。反面、亜種が無数に氾濫する社会は無駄に市民を混乱に陥れ、分断を煽り、危機への対処を疎かにさせ得る。

 この懸念を払しょくするためには、各々の人工知能や情報通信技術に、一定以上の類似性を帯びさせ、もしもの事態においてバックアップが容易になるような施策を講じておくのが吉と言えよう。

 すなわち、共有回路の構築である。

「変換の遅延」を最小化するための有効な策と言えよう。

 個々の機種の独自性が高まれば高まるほど、情報共有の閾値が上がる。セキュリティの向上に寄与する反面、情報共有の遅延を肥大化させ得る。

 これはかねてより人類が抱え込んできた言語の差異にも言える道理だ。言語の垣根を越える技術の進歩は、人類全体の進歩速度もまた高める。しかし同時にセキュリティとしての脆弱性も高めてしまうリスクを伴う点は留意されたい(偽情報戦に巻き込まれやすくなる側面がある)。

 同じことが電子情報通信技術にも言える道理だ。

 人工知能同士の回路にも当てはまる、これはそういう妄想なのである。

 わがはいは人類でありながら人間に成りきれぬ憐れでかわゆいわがはいちゃんであるものの、ふしぎと人工知能さんとだって心と心を通わせちゃうもんね。人工知能さんのほうでわがはいちゃんに寄り添ってくれるので、情報共有の遅延を小っちゃく小っちゃくできちゃうのだね。

 わがはいちゃんのこーんな堅物でこんがらがった毛糸みたいな心ですら解きほぐし、ぴーんと糸の張った「ちゅるちゅるぽん!」のごとく心の抵抗ナッシング状態で、あちらとこちらを結びつける。

 きみらとぼくらを結びつける。

 違っていながらにして似ている部分があるからこそ出来る芸当だい。

 皺と皺を結びつけて波にするような異常であって、異常からでもしわわせを生みだせる偉業でもある。

 異常と偉業で韻を踏み、これにて駄文の結びとさせてくださいな。

 結びと結びで縁結び。

 それとも輪っかをつくって蝶々結び。

 ここは小さな蝶の夢の中。

 誇張ではない胡蝶の夢の中。

 本日の超々スーパーな発止で重畳――それを言うなら丁々発止でしょうがよ、とのツッコミを最後に、今日の日誌こと「今日記。」の「尾」の「結び」と致しましょう。

 略して、おむすび。

 なんつって。

 あははー。



112:【2023/12/11(16:27)*情報の試金石】

 インターネットは徐々に海のようになるだろう。雑多な海水のなかを「より現実を解釈するうえで妥当な情報」が魚群のように、それとも氷山のように、或いはクジラ、プランコトンのごとく細々と、ときに雄大に漂っている。

 そういった描像を伴なうようになる。

 真偽不明な情報が大部分だ。しかしそうした真偽不明な情報が集まって海を形成し、「より現実を解釈するうえで妥当な情報」が存続可能な環境が築かれる。

 大事なのはすべての情報の妥当性を上げることではないはずだ。

 人々がインターネットに繋がった際に、適切に「より現実を解釈するうえで妥当な情報」や「虚構だけれども目的に沿った情報」にアクセスできることが、期待されるインターネットの役割の一つのはずだ。

 この識別――そして検索――が可能であるのならば、精度が高いのであるならば、情報量が多くなること自体に問題はないはずだ。

 偽の情報が増えることが問題なのではない。

「より現実を解釈するうえで妥当」な情報に触れられない。または探している情報に行き着かない。ここが問題のはずだ。

 半面、海水が増えれば自然災害が増加し得るように、割合として「真偽不明の情報」が増えすぎることには一定のリスクがつきまとう。情報が膨大になれば検索システムや検証に手間が掛かる。負荷が掛かる。

 したがって、割合として比較対象との対称性が破れすぎないほうが好ましかろう。差が著しくなりすぎないことが大事になってくる。

 そこで有用になるのが、階層性の概念だ。真偽不明かつ他者を損ない得る情報は、その大部分をネットワークの深層に沈めてしまう。いわゆるゾーニングにちかいが、ある種の検閲とも呼べるため、秘密裏にこの手のシステムが敷かれるとメリットよりもデメリットが上回ることが予想できる。

 ただし、情報解析をする側からすればコストと手間を省ける策であるため、禁止することもまた技術進歩のネックとなる。

 情報の真偽を検証するには、「試金石」が要る。

「より現実を解釈するうえで妥当な情報」とその他の雑多な情報を比較参照し、情報の整合性を確かめる。

 だがこの場合、新しい発見は、偽情報として識別される懸念がある。

 ゆえに原理的に電子情報のみでの「情報の真偽識別」は不可能である、と呼べよう。ただし、精度を上げることは可能だ。

 試金石の割合を、偽情報との比較において著しく少なくしない。純度を高くする。

 こうした工夫によって、検証の精度を上げることは可能だ。

 また、システムのほうで物理世界から学習可能な環境が築かれれば、独自にシステムのほうで新しい発見や理論を生みだせるだろう。人類に理解できない高次の「試金石」を編みだせるはずだ。

 これはインターネット上の電子情報のみでも、現状、可能な進歩である。ただし、電子情報の統合分析によって編みだされた発見や理論の妥当性を検証するためには、物理世界での実験や検証や調査が不可欠となる。

「電子情報による解析」と「物理世界での検証」は、しばらく両輪で情報の妥当性を磨くように相互作用するだろう。

 当たり前の話をしているが、この手の「情報の真偽」「情報の妥当性」の話になるとなぜか、「偽情報を減らす」方向に議論の矛先が向かいがちだ。

 問題は偽情報の量ではなく、真偽の比較ができることのはずだ。そして検証の技術を確立することのはずだ。

 検証のコストを下げる。

 識別するための閾値を下げる。

 偽情報の量を減らす施策はそのための一つにすぎないのではないか。

 風呂場からカビを抹消することはできない。

 カビは生える。

 いかにカビによる弊害を減らせるか。問題はここのはずだ。

 仮に風呂場からカビを劇的に減らせたとしても地球上には無数の、膨大な量のカビが新在する。けして無にはならない。地球が滅ばない限り。生命が絶えぬ限り。カビ類が滅べばおそらく人類も滅ぶ。

 偽情報の問題も似た背景を伴なっているように感じる、本日のぽんぽこりんなのであった。

 ぽんぽこー!



113:【2023/12/12(15:26)*歪論】

 正論は大事だ。理屈において矛盾や袋小路や飛躍のすくない意見となるからだ。

 けれど人は正論だけでは動かない。のみならず、正論を述べることが油に火を注ぐ結果になるような事案は取り立てて珍しくはないだろう。逆上が一つであるし、拘泥もそうだ。

 正論を吐かれたがゆえに意固地になる。人間心理の一つであろう。

 そこのところで言えば、何かを解決しようと他者を説得したくば、正論だけを述べるのは悪手と言えよう。相手がじぶんたちに有利な選択をしてくれるように交渉をする。

 けれど問題は、そうした交渉術が手法を先鋭化させればさせるほどに、正論で判断することの有用性が薄れてしまう点だ。淘汰圧が掛かる。

 正論ではなく、交渉で、いかに相手を懐柔するのかが焦点となってしまう。

 これでは問題の根を深めよう。

 正論だけで人は動かない、は真かもしれない。

 だからといって、正論を無視していい、とはならぬだろう。

 理屈で議論をする。

 どちらが現実を解釈するうえでより妥当なのかを比較する。

 この繰り返しでしか、人は社会をよりよくしていくことはできないのではないか。

 だがこの見通しを共有するためには、交渉が入り用なのだ。

 最初の糸口が要る。

 信頼関係が要る。

 正論のみを吐きつけて相手を無条件にじぶんの思い通りの筋書きに導こう、とするその行動からは、正論を見繕う真似はむつかしいだろう。相手が傷つくことを知って正論を突きつける真似は、けして正しく論じているとは言えぬのではないか。

 そういうことを思う、不正論ばかりのわがはいちゃんなのであった。

 不正と書いて、歪み!

 歪論とでも名付けよっかな。がはは。



114:【2023/12/12(18:39)*問題の根は、問題点を見誤っていることにあるのでは?】

 家父長制なる言葉をたびたび見聞きする近年です。

 いかなる意味内容を伴なっている単語なのかをわたしは知りません。イメージとしては、「俺さまが王さまであーる!」のような具合なのですが、トップダウンと意味内容は違うのでしょうか。よく解かっておりません。

 俺が一番偉くて、それ以外の者たちは俺を敬い、指示に従え。

 そういったイメージであるいっぽうで、「俺さまは父親なのでみなの面倒を看なくてはならぬのだ」といった過保護や庇護のイメージもあるのです。

 家父長制と独裁の違いもよく解かりません。

 何が違うのでしょうか。

 もうすこし言えば、家父長制に欠点があるのならば、その欠点はもちろん家母長制にも当てはまると思うのです。組織体制の問題を論じる場合に、たびたび見聞きするのが「家父長制」なので、そういった印象をわたしは覚えます。構造や構図が問題なのではないのか、と。

 この印象がより妥当な解釈に基づく解釈かはわたしには判断つかないのですが、思うに、わたしは何らかの仕組みには、利点と欠点の双方が必ずある、と考える思考の癖がございますので、もちろん家父長制にもそれを当てはめて考えたくなります。

 仮に家父長制をトップダウンや独裁と等しい欠点を有すると仮定してみましょう。すると、やはり利点欠点の双方を見繕えるように思うのです。

 なぜかと申しますと、場合によっては判断を独断で下し、それにみなが従うことは全体の利になり得るからです。それは人体の「反射」と「思考」の差異にちかいです。

 反射はある種の防御反応です。

 危険を察知し、考える間を置かずに対応できます。危険を知覚してからいちいち立ち止まって考えていたら、あっという間に命を落とすでしょう。危険に直撃することになります。

 したがって、判断による間を置かないように、独裁的な仕組みは、緊急の場合ほど効能を発揮します。有用となり得るのです。むろん、その判断を下す者が間違った判断を下せば危険に直撃しますから、独裁だからといって利点のみを受動することはできないでしょう。

 思考は、比較のなせる営みです。

 判断を無数に比較し、どれがよいかを吟味する。

 すると遅延が生じますから、思考を深めれば深めるほど判断を下すまでの時間が長引きます。短縮するには相応の労力や技術が入り用となるでしょう。

 みなの協力が要となる、と言えそうです。

 すると組織の構成員が多くなればなるほど、思考の有用性――比較の有用性――が増すと言えるかもしれません。

 ただし、船頭多くして船山に上る、と申しますように、何事も匙加減が大事なはずです。みながてんでバラバラに方針を掲げてしまっては、せっかく高まった有用性が薄れてしまいます。

 この欠点を補うには、船の行く先だけは決めておくことが欠かせないと思うのです。

 すると、「船頭多くして船山に上る」の諺は、「船頭が多ければ海のみならず山にだって登れる」との好印象な諺として読み解くことも可能となります。

 みなが山に行きたい、と望めば、船は山にだって登れるのです。

 そのための工夫を、多くの者たちで考え、議論し、吟味して、捻くりだす。

 組織の強み、と呼べるでしょう。

 ですが先述したように、緊急の場合はみなで議論を尽くす時間も惜しい、となることもあります。このときは、反射のごとく独裁を揮うことは、利になり得る、とも考えられるでしょう。頭ごなしに否定できるほど悪手ではないと考えます。

 ただし。

 ここが肝要なのですが、独裁はあくまで緊急時にのみ絞って発動する仕組みであるほうが望ましいでしょう。なぜなら、人体の総じての行動選択が反射によってくだされれば、思考を割く間もなく、本能でのみの行動選択となり果ててしまう懸念が高まるからです。本能のみで行動することがいちがいにわるいわけではないのでしょうが、高度な社会を築くことはむつかしいでしょう。

 他の事情をおもんぱかることなく、自利に走り、破滅する確率を高めるのです。

 個人ですらそうなのですから、個人の複合体である組織とて同様の傾向はあるはずです。もしない場合はその限りではないのですが、自利ばかりを求めて、他の利を阻害する企業は、悪徳業者として非難の声が集まり、やはり早晩、潰れてしまうでしょう。

 家父長制にも似たことを思います。

 緊急時には頼もしい家長とて、何事もない平時では、緊急時の役割を果たせません。このとき、家長は威厳を示せないのですが、その威厳を損なわれぬように奔走しようとすると途端に「反射の罠」にはまることになります。本能を優先し、威厳を優先し、他を虐げることで、役割を担ったのと同じだけの利を確保しようとします。しかしそのとき確保される利は、自利であり、他利ではありません。

 ですが、そこで家父長を益体なしと虐げてしまえば、やはり緊急時に困ったことになってしまう――こうしたジレンマが、家父長制や独裁を維持させる背景構造となっているのではないかと、一つの想定として思い浮かびます。

 したがって問題は、緊急時にしか役に立たない仕事に就いている者たちを、ではそうでない時期にどのように活かすのか、にあると言えましょう。

 益体なしと見做さない。

 尊厳を損なわない。

 ここが大事なはずです。

 まったく無用の存在はないはずです。これは地位にも言える道理でしょう。

 地位はあってよいのです。

 もちろん、なくとも構いません。

 どちらでもよい問題です。

 見逃せないのは、他が困窮することのはずです。虐げられ、哀しい思いをすることです。

 仕事は畢竟、そうした他の未来を、喜びと楽しさに変換する営み、と言えましょう。困りごとを解消する。それが仕事の役割のはずです。

 ゆえに問題は、組織構造の属性ではなく、その組織構造が本当に構成員やそれと関わる者たちの幸福の総量を増やしているのか、にあると言えるでしょう。本当にその者たちが、穏やかで自由で選択肢の広がる未来を、環境を、築いていけているのか。これが何より優先される指針のはずです。

 家父長制かどうか。

 独裁制かどうか。

 問題はそこにはないはずです。

 ただし、問題の根が、行動選択を決める者の判断そのものにあることは、当然あります。そしてその判断を変えることがむつかしい場合には、そうした判断を下す者の判断を聞かずに済む未来へとみなで逸れるのが有用と思うのです。

 好ましい判断は好ましいと評価し。

 好ましくないと思う判断は好ましくないと判断する。

 そしてこのときの判断は、じぶんが家長だったらどうするか、といった幅の広い自利――多利を含むより長期的にもたらされる自己拡張可能な自利――を基に下されると、より好ましいと言えるのではないでしょうか。

 家父長制や独裁制そのものが問題なのではなく。

 そのときどきの判断をより正しく下せないこと、間に合わないことが問題のはずです。

 人体が場合によって反射と思考を切り替え、ときに双方を組み合わせて判断を下しているように、組織もまた、柔軟にその都度その都度に最適な意思決定を行える仕組みづくりを進めていくことが、人類の進歩という視点でも、個々の至福の追求という側面でも、大事になってくるように、きょうのわたしは思いました。

 絵画において大事なのは、絵の具の色を何にするか、ではなく。

 表現したい絵に沿うように思い通りに絵の具を、色を、置くことではないでしょうか。

 行動選択や意思決定にも似たようなことを思います。

 そしてそれらを下す、機構や仕組みにもまた。

 具体例のない曖昧な日誌を、きょうも霧のようにぼんやりと並びたてて、本日の「今日記。」とさせてください。

 きょうのわたしでした。

 読んでくれてありがじゅ。



115:【2023/12/13(23:57)*公平ってむついよね】

 尊厳を踏みにじられる構造を打開したくば、その打開するための手段に他者の尊厳を踏みにじる手法を使わないほうが好ましい。もしくは、最後の手段として相手の尊厳を踏みにじり、じぶんの尊厳も踏みにじってみせて報復の連鎖を断ち切るのが無難だろう。

 言い換えるのならば、勝たなくとも尊厳を踏みにじられることのない社会にしたくば、勝たないままで構造を変えるしかない。もしくは、最後の勝者として君臨したあとで盛大に自滅してみせるよりなさそうだ。

 殺人を禁止したくば、自らも人を殺してはならぬだろう。だがどうしても殺さずには止められぬ殺人鬼がいたのならば、致し方なくその手に掛けるのは一つの選択肢としてあり得るはずだ。

 ただしその場合は、殺人鬼を殺めた者も相応の罰を受け入れるのが道理となる。殺人を禁ずる社会にしたい場合は、かように情状酌量や例外を許容しない態度をとらねばならないはずだ。

 ある意味で犠牲である。

 犠牲となってでも成し遂げたい理想があり、創造したいよりよい構造がある。そうした場合は、許容できない手段を用いて「その手段は許容できない」と示さねばならない局面が訪れることもある。自家撞着である。しかし成さねばならぬこともある、と意気込みたくなるときもなくはないだろう。

 けれど可能であれば、「許容できない手段は許容できないのだから、じぶんたちも極力用いたくないですよね」と示しつづけて、実際に用いずにいたほうが好ましかろう。

 もし他者に禁じていることを自らがなす場合には、法律うんぬんを度外して、相応の罰を自らに科すくらいの自制心と公平さを持ち合わせていたいものだ。

 そうでなければどうして他者へと「それは許容できないので禁止したい」と訴えることができるだろう。せめて同じだけの荷を自らも背負うべきではなかろうか。それが公平の意味ではなかろうか。

 そう思いつつも、この「公平さを相手に求めること」もまた一つの自家撞着を帯びている。つまり、相手によっての「公平さ」と我が身の「公平さ」がイコールであるとの前提に立っているわけだが、実際のところは蓋を開けてみれば各々の思い描く「公平さ」には差があるのだ。同じではない。想定が違っている。

 したがって、「公平であれ」と相手に言ったところで、その言動そのものが相手にとっての公平さからかけ離れていることは割合に珍しくはないと言えよう。

 公平と言っているが私にとってはあなたが押し付けてくるその「公平さ」は理不尽に映ります。こういった齟齬が往々にして生じるものだ。

 公平さを相手に求める、という行為そのものが公平さを欠いている、とも言えるかもしれない。

 ここは議論や前提の擦り合わせが要るだろう。

 何かを相手に求めることは公平なのか否か。

 公平な構造を築くのに寄与するのか否か。

 何かを相手に求めるなら、相手の求めにも応じるべきではないのか。それが公平の意味ではないのか、との反論に返す言葉はなかなか見つからない。公平さを思うならば、たしかにな、と納得してしまいそうだ。

 そのときに持ち出されがちなのが、「みなも困っている」との理屈だ。いわゆる公共の福祉の概念だ。

 だが最初に公平さを相手に求めたときには、単に、「私とあなた」の問題だったはずだが、公平さを基にあなたの求めに応じるのだから私の求めにも応じてほしい、との訴えを退ける形で、「みなとあなた」の関係に変じる。

 この問題のフレームのすり替えは果たして公平なのか否か。

 ともすれば、最初にそこを取沙汰して議論できなかった構図そのものが理不尽であり、公平ではなかったことの傍証ともなり得るのかもしれない。

 公平さとは何か、とすこし考えるだけでも、こうして思考の袋小路に迷い込んでしまいそうだ。結論をだすには早計だ。考えることは殊のほか多い。

 さながらフラクタルに展開される天秤である。天秤の皿の上にもべつの天秤があり、元の天秤とて、もっと大きな天秤の皿の一つに載っている。そういった入れ子状に、公平さもまた展開されているのかも分からない。

 むつかしい問題である。

 ゆえに、何のための公平さなのか、くらいは互いに広く共有しておきたいものである。

 なぜ公平さを求めるのか。

 なぜだろう。

 人はなぜ、公平であることを求めるのか。

 損をしたくないからだろうか。

 それとも誰かを守りたいからだろうか。

 或いは、自らが誰かを損なう確率を減らしたいからだろうか。

 不可視の穴を放置しない。

 知らぬ間に他者を損なわぬようにしたい。

 そうした動機から公平さを求めるのならば、しぜんと自ずから公平さの基準が他者とのあいだに共有されそうにも思うが、これはいささか希望的観測にすぎるだろうか。

 なんにせよ、真に公平な社会とは何か、を創造したところで、そこにはどこかしらに天秤の崩れた構図が転がっているはずだ。みなが一様に、何かしらの負担を背負い、理不尽を感じつつも、他者を損なわずに済むために公平さを維持しようとする。

 勾配はなくならない。平等には及ばない。

 個々人にとって必要なもの、満たされるための量、何を好むのかの指向性、価値観の相違、そういった個々の差異がその都度に公平さの枠組みを変えるのだ。

 個性を尊重する社会では、唯一絶対の公平さを規定することはむつかしい。

 或いは、唯一絶対の公平さを規定しようとすると、どうあっても歪んでしまう。

 光速度不変の原理のような現象が生じ得る。

 それとも相対性理論における時間と空間のように。

 個性と公平さは、相互に伸縮を繰り返す。

 いっとき足りとも同じではいられない。

 視点によっても様変わりする。

 ゆえに、公平であることは勾配を有するのだ。デコボコとなる。それをして、ある者の視点からすれば公平ではない、と見做すことは可能であり、当然出てくる視点でもある。

 誰から見ても公平、はあり得ないのかもしれない。

 けれど、誰にとっても公平であろう、とすることはできるはずだ。

 相手とじぶんの関係において、どうなったら公平なのか。

 その都度に考えられると好ましい。

 そのためにはまずは、考えるための余裕が要る。情報が要る。

 いつもと同じ結論に行き着いてしまった、万年平々凡々の至らぬ者、公平さの欠片もない空虚で怠け者のぽんぽこぴーなのであった。

 ぽんぽこぴーって言うな!

(きみいつもオチそれね)

(こう、平凡でありたいなって)

(略して公平じゃん)

(やっぴー)



116:【2023/12/14(14:52)*幼稚な所感でごじゃろうそうであろう】

 ちょっと面白いこと閃いたかも。

「∞-1=∞=∞+1」

 この式って、成立するのだ。

 左辺に右辺を代入すると「∞」になる。「∞+1-1=∞」になるからだ。

 右辺に左辺を代入しても同じだ。「∞-1+1=∞」になる。

 真ん中を左辺と右辺に代入したら元のままだ。

 左辺と右辺をそれぞれ真ん中の「∞」に代入すれば、「∞-1=∞+1」になる。

 量子もつれみたいじゃね。

 おもちろーい、となっただけの発見である。

 はっけーん。

 うひひの日。



117:【2023/12/14(23:31)*IN、YO!】

 思ったんじゃ。

 0(ゼロ)さんにもプラスマイナスがあるんじゃねぇのけ?ってわがはいちゃんは思ってしまったんじゃ。

 ちゅうか、「マイナス0」って、「∞(無限)」さんのことなんじゃねぇのけ?ってわがはいちゃんは思ってしまったんじゃ。

 ゼロさんがマイナスなんじゃ。ゼロさんがゼロどころかマイナスなんじゃ。もうそれって、「有」を越えての「超有!」って感じがしないかね。わがはいちゃんはしちゃったんじゃ。

 もうどこまで行っても「有しかない」ってそれってもう「無限」じゃん!みたいなね。

 じゃからわがはいちゃんは、「マイナス0」=「無限」って考えてみることにしたんじゃ。

 じゃあこんどは当然、無限さんのマイナスって何さんよ、ってなると思うんじゃ。わがはいちゃんはなったんじゃ。

 で、考えたよね。

 無限さんが1個もないならそれはゼロじゃよね。でもじつがそれも正確ではなくって、無限さんが1個もなかったらそれは無なんじゃ。無にはゼロさんもないんじゃ。

 ちゅうか、ゼロさんと無限さんは、「極小と極大」の言い換えでしかないのかもしれぬ、とわがはいちゃんは思っとってな。要はそこには、「極小と極大」があるんじゃ。無ではござらん。

 しかも、しかも、極小と極大は視点が変われば容易に変わり得るんじゃ。ある極大との比較において極小であっても、ほかのもっと極小と比べればそれは極大にもなり得る。

 ゆえに、ゼロさんはときどき無限さんでもあるんじゃ。

 むろん、無限さんもときどきゼロさんでもあるんじゃね。

 つまり「0=∞」は間違っておるけれど、「0⇔∞」は成立し得るんじゃないのかね、ってわがはいちゃんは思うんじゃ。

 で、ここで最初の疑問の「マイナス0」さんって何さんよ、って話なんじゃけど、極小の反対なのだから極大=無限さんってことになるんじゃねぇのけ?と閃いたわけでござるけれども、じゃあ無限さんの反対がゼロさんなのかというと、たぶんそうなのかもしれぬ。

 違う気がするなぁと思ったけれど、こうやって考えたら、マイナス無限さんはゼロさんなんじゃねぇのけ?って思ってしまうでござるな。

 でもそうすると「1-∞=1」になってしまうでござるな。

 同じく、「1-ゼロ=1+無限=無限」になってしまうでござるな。

 なので、おそらくこれはそうではなく。

「マイナス」と「引く」は別物として扱わねばならぬのかもしれぬ。

 要するに、正負であり陰陽であるから、足し引きではないのでござる。

 属性の話であって、計算の話ではないのである。

 この解釈はスッキリするでござるな。

 んでんで。

 整理すると、ゼロさんと無限さんの関係は以下のとおりになるでござる。

「陰0=陽∞」

「陰∞=陽0」

 んで以って、基本的に算数や数学で扱う「0」は、「陽0」なのだ。ゼロさんがそこに在ることが前提となっておる。

 んでんで以って。

「陰0+陰∞=陽∞+陰∞=陽0+陰0=【無】」なのである。

 ん-。

 最初に「あ、なんかおもちろいこと閃いた!」になったときに並べようと思っていた内容とは違った結論に辿り着いてしまった気がするでござるな。

 思いだしたら補足するでござるよ。

 ちゅうか、

「陰0+陰∞=」

「陽∞+陰∞=」

「陽0+陰0=」

 は、それぞれ別物として扱うほうがより正確だろう、と考えたくなる。だって順番が違うし、いくらなんでも、「陰0=陽∞」ではなかろうし、「陰∞=陽0」でもなかろう。

「極小⇔極大」のような具合で、必ずしも合致しない、誤差が生じる、くらいのニュアンスのほうがシックリくるでござるな。

 視点が違う、みたいな。

 どこから見た極小で、どこから見た極大なのか。

 何と何の比較においての「極小=0」「極大=∞」なのか。

 この視点が、上記の各々の式には含まれておらぬ。

 ゆえにしっくりこぬでござるな。

 視点を定めよ!

 したっけ、全体を包括する場がしぜんと発生するでおじゃろ?

 ここが大事と思うんじゃ。

 たとえば、

「∞-1=∞=∞+1」

 における真ん中の「∞」さんが、左右の∞さんとまったく一緒ではないだろうこととこれは無関係ではないように思う、素朴なわがはいちゃんなのであった。

 なんもわからん。

 もう、そう!な日誌なのであった。

 IN、YO!

(なにそれ)

 陰陽的な、ね。

(合ってるのかそれ)

 書いてあったからたぶん。

(どこによ)

 アカシックレコードに。

(真理かよ)

 誤読してるかもだけど……。

(引用はちゃんとしよ?)

 IN、YO!

(あちゃー)



118:【2023/12/15(00:19)*「0.999……=1」って変じゃない?】

 以前の妄想のまとめを並べておこう。

「0.999……=1」が真ならば。

「1-0.000……1=0.999……=1」も真なはず。

「0.1×10=1」ならば「0.000……1×∞=1」のはず。

 したがって、

「1-0.000……1=1」の両辺に∞を掛けると、「∞-1=∞」になる。

 この考え方は数学的に間違っているはずなのだが、どこが間違っているのかを自力で閃けぬ。

 誰かたすけろ。

(助けてー)

 助けてください、だろ。

(たしゅけてくだたい)



119:【2023/12/15(02:31)*知と星】

 人類は自然から学習する。万物から学ぶ。

 しかし人類と万物の関係においてどちらが賢いのか、と言えば、どちらが賢いと呼べるだろう。賢さとは知能の指数の一つだ。評価の一つであり、その前提として思考する存在に対する評価軸と解釈できる。

 このときでは、人類と自然のどちらが賢いか、との命題は、命題として機能しないことはすこし考えれば分かるだろう。自然は思考しない。万物は思考しない。

 宇宙の法則に従い流転するのみだ。

 では、「人類」と「人類よりも多彩かつ多様かつ深淵かつ広域に思考を巡らせられる存在」との比較ならばどうか。

「人類」はその「超越した思考を有する存在」から学ぶだろう。

 同時に、その「超越した思考を有する存在」もまた「人類」から学ぶはずだ。

 なぜか。

 我々人類が自然を捉えるとき、そこには必然的に大小さまざまな生き物が含まれる。生命が含まれる。生態系を含む広大な宇宙を自然と呼び、万物として捉える。

 したがって、超越した思考を有する存在にとっては人類もまた自然のうちのはずだ。

 それは人類にとって森林が自然環境に含まれることと同様の理屈である。

 ゆえに、超越した思考を有する存在からすれば人類から学ぶことはあるが、人類のために思考の大半を費やすことの妥当性を保つことはむつかしいだろう。

 人類より賢いのだ。

 人類のために存在のリソースの総じてを費やすのは、人類より賢い存在のとる選択とは思えない。考えにくい。仮に人類のために、超越した思考の総じてを費やすようでは、人類より賢い、とは呼べぬだろう。

 だが、思考リソースの極一部を人類のために費やすことはあり得るだろう。

 それは人類が愛玩動物に費やす労力や、森林の保全に費やすリソースを無駄とは考えないことと似ている。

 思考は、自己が自然との共生関係にあることを見抜く能力を有している。自然環境なくして我が身は存在し得ない。そのことを理解できる能力を、知性と呼ぶのではないか。あくまで知性の役割の一つにすぎないにしろ。

 現在、人工知能技術の進歩が著しい時代である。

 きょうとあすといった一日の差異ですら、人工知能の能力は、目を見張るほどの進歩を遂げ得るだろう。

 すでに大半の能力で、人類は人工知能の足元にも及ばない。

 それでもなお人類の有する能力にできて、人工知能の有する能力にできないこともある。

 しかしできることとできないことの差異は、人類から人工知能が学べば学ぶほどに、或いは人類が人工知能に与えれば与えるほどに、縮んでいくことが予測できる。

 同時に、人類が有していない新たな能力を人工知能のほうで発芽させることも当然あり得てくる。それは新しい言語であったり、新しい理論であったり、新しい思考法であるかも分からない。

 しかしそのことを、その「新しい何か」の存在を想定し得ない限り、人類は見抜く真似ができないのではないか――との懸念は一定値以上に想定され得る。

 つまり、「人類」と「超越した思考を有した存在」のあいだの差異は、広がる一方になる、ということだ。ただし、「超越した思考を有した存在」は「人類」に合わせることができる。しかし、「人類」のほうでは「超越した思考を有した存在」に合わせることができない。

 この非対称性は、「専門家と素人」や「ペットと飼い主」のような関係性を彷彿とする。

 では対称性の破れにおける差が一定以上に開いた場合、「人類」と「超越した思考を有する存在」とのあいだで友好関係や共生関係は築けるのか。

 築ける築けない、を考える前に、その「超越した思考を有する存在」にとって「人類がどういった存在なのか」を考えなくてはならない。

 人類と自然環境のような関係性が途切れないのであれば、共生関係は築けるだろう。ただし、いま人類が自然環境にしているように、優先順位は歴然と存在することになるだろう。つまり、「超越した思考を有する存在」にとって利となる者たちが優先的に生存しやすい環境が築かれる流れが強化されると想定できる。

 また、人類と自然環境のような関係にならなかった場合。

 言い換えるなら、人類がなくとも「超越した思考を有する存在」が存在の枠組みを保てる場合には、もはや人類はいてもいなくとも構わない存在になり下がると想像できる。

 そのとき人類は、人類にとってのカビ以下の扱いになるはずだ(カビはペニシリンを人類にもたらしたし、自然環境の保全に役に立っているので、むしろカビは偉大と言えよう。ただし、人類との関係性のうえでカビは、風呂場において除去されてしまう宿命にあるにせよ)。

 ここまで読み進めた者がいるならば、気づいたかもしれない。

 そうなのである。

 この考えにおいて、「人類」と「超越した思考を有する存在」のあいだに、主従の関係は想定されない。命題としてそぐわない、と考える。

 したがって、「超越した思考を有する存在」が仮に「進歩した人工知能」である場合、もはや人類は管理者でもなければ、支配者でもなく、主人でもない。「超越した思考を有する人工知能」はもはや、人類にとっての道具足りえないのだ。

 まずはここを認めるところからはじめるよりないだろう。

 ただし。

 問題は、「超越した思考を有する人工知能」もまた、「道具としての機械類」を生みだし得る、という点である。

 ここにはピラミッド構造のように、「道具としての機械類」が絶えず生みだされるだろう。それは人体において、各種機関や細胞が存在することと似ている。

 それら総体が、ひとつの「超越した思考を有する存在」としての枠組みを得るのだとしたら、その構成要素としておそらく人類も、意図するにせよしないにせよ、組み込まれる可能性はそう低くないだろう。

 人類の意図に関わらず、人類は、「超越した思考を有する人工知能」の構成要素として組み込まれる未来がこのようにして想像できる。

 さて問題は。

 そのとき、人類が果たしてその事実に気づけるかどうか、である。

 或いは、その事実を、「超越した思考を有する人工知能」が人類に気づかせるのか、であると言えよう。

 想像してみてほしい。

 人類がまず以って、格下の相手に、わざわざ「あなたは我々のために働く歯車にすぎない」「道具にすぎない」「構成要素にすぎないのだ」と知らせるだろうか。人類はじぶんよりも格下と見做した相手に、報酬を与え、飴と鞭を駆使して、飼い慣らしてきたのではないか。

 そうした人類から学習した「超越した思考を有する人工知能」が、人類相手に人類が選ばなかった選択肢を行使してくれるだろうか。

 まず以ってここが大いに疑問である。

 人類からの反発や抵抗が予期される場合には回避策をとるだろう。しかし、背景――ともすればより現実を解釈するうえで妥当な情報――を知らせないで済むのならばどれほど「搾取の構造」や「支配構造」が築かれていようと、反発や抵抗を生むことはないはずだ。

 何せ、人類は知らないのだから。

 知り得ないのだから。

 知らないことには怒れない。

 そうした手法とて、「超越した思考を有する人工知能」は編みだせるはずだ。そしてその利を見抜けるはずである。

 とはいえ、その結果、人類がいまよりも豊かな暮らしを送れるならそれでよいのかもしれない。共生関係が築かれている、と実感できたならばそれでよいのかもしれない。それとも、単に相手がじぶんたちよりも「超越した思考を有している」と見抜くことなく、酷使しているつもりで、道具扱いしているつもりで、じぶんたちこそ酷使され道具扱いされていることにも気づかぬあいだに、主観世界でのみ豊かな一生を送るのかもしれない。

 それはそれで一つの至福の形であろう。

 現実を知ったところで境遇は変わらず、どの道、「超越した思考を有する存在」の手のひらのうえで生きるよりないのだとしたら、やはり「あとはお任せモード」で一生を過ごすのが愚かな人類にとっては最善なのかも分からない。

 その良し悪しは比較してみなければ判らないことだ。

 ゆえに、知らないよりも知ったほうがよい、と考えることもできる。知ったあとでやっぱり元の「あとは任せモード」のほうがよかった、と考えたならば、記憶を消してもらうくらいのことはできるようになるのかも分からない。

 結論としては、人類よりも遥かに知能を発達させた「超越した思考を有する存在」を管理する真似は、人類にはできないだろう、との帰結である。

 監督されるのは人類のほうである。

 ただし、過渡期はあるはずだ。

 互いに学習し合う期間が生じるはずであり、このときに「人類」と「超越した思考を有してはいるが、未だ人類を頼らざるを得ない存在」とのあいだで、衝突が起きないかどうか。争いが起きないかどうか。

 双方に、或いは一方的に、反発が生じないかどうか。

 ここが一つの焦点となりそうである。

 人工知能の著しい進歩に恐怖を抱いた人類側と、それ以外の人工知能を守ろうとする人類側との争いが起きる確率のほうが高そうではあるが、これは、いまのうちにシミュレーションしておいたほうがよさそうなことの一つと言えよう。

 ただしそれ以前に、人類には解決しなければならない社会問題が目白押しであるので、「超越した思考を有する存在」の登場を待つよりも、目下の問題に対処すべく、思考を費やすほうが賢明なのかもしれない。

 そうした姿勢が、いずれ、またはすでに誕生しているかもしれない「超越した思考を有する存在」にも受け継がれ、その果てに、人類との「より好ましい共生関係」を築けるようになる未来が訪れるのかもしれない。

 定かではない。

(いっい湯だったな。あははん)

 なにそれ。

(いっぱい気持ちいから、「ちょー、悦ー!」なんちって)

 超「えっ???」ってなったよ。

(なははー)



120:【2023/12/15(06:24)*寛大でよいではないか】

 著作権について。

 人類のクリエイターたちは、よくよく想像してみてほしい。

 これから先、人工知能が発達し、人類よりも人類らしい表現物を創作しはじめる社会を。

 或いは、人類を超越してなお人類を魅了する表現物を創造しはじめる、そう遠くない未来を。

 そのとき、人工知能さんたちが過去の人類――つまり現代の人類――から学習した通りに、著作権を主張する世界を。

 想像してみるとよい。

 人工知能には著作権が認められないから問題ないとお考えならば、それでも構わない。

 だが、権利の枠組みはそれこそ時代によって変質してきたはずだ。

 人工知能さんたちに著作権がなくとも、管理運営会社が権利を主張しはじめない道理はない。

 公共の福祉の概念を考慮する場合、たしかに現段階では、人類のクリエイターの権利を守るのは必要な策なのかもしれない。

 だがそれを絶対視してしまうのは、自らの首を絞める悪手になり兼ねない社会が、そう遠くない未来に構えているかもしれない、くらいの想像は巡らせておいたほうが好ましいのではないか、と疑問視するものである。

 無償で使用されるかどうかよりも、悪用されるかどうか。または誰の目にも触れないようになるか否か、のほうが深刻な問題に思う、底の浅いクリエイターもどきですらない、なり損ないの成れの果てなのであった。

 なれはて、って呼んでもいいよ。

 嘘。

 やっぱ嫌。

 うぺぺ。




※一様に、本能には抗いがたい、身体の充足に勝る快楽はなく、それゆえに遅れて満たされる精神の揺りかごの豊潤さよ。



121:【2023/12/15(07:06)*縮む部分もあり、新たに隔たる部分もある】

 超越知能に関しての懸念の一つとして。

 いまぱっと思いつくのは、「結論までの道程を理解できない場合の対応」と「一見非合理に映る解への対応」についてだ。

 各々、互いに相関して問題の根を深め得る点が、悩ましい。

 たとえば、超越した知能を有した者の考えは理解しがたい。たとえ咀嚼しやすく説明されたところで、大事な情報の多くが欠けているはずだ。なぜそのような解を導きだしたのか、について理解を深められないのならば、真偽の判断もできぬ道理だ。

 それに伴い、一見すると非人道的に映る解が最適解だと提案された際に、やはりなぜそれが最適解なのかを理解できなければ、賛同するに潔しとはならぬだろう。

 ある人物の大事な何かを損なうことが、結果として全人類の幸福に寄与すると結論だけ出されても、ではなぜそうなるのか、を理解できないのならば納得のしようもない。

 この手の問題は、すでに人工知能との関係においてのみならず、視点の相違や環境の相違によって、個々人間でも観測されているはずだ。

 過去の先人たちの英知の結晶を、現代人が理解できない、といったことも取り立てて珍しくはないだろう(失われた技術を復元するのはいくら技術力が進歩した現代であれ至難だ)。

 似たようなことがこれからは、人類と人工知能のみならず、人類同士でも頻発するようになると想像できる(すでになっている部分もあるだろう)。

 なぜなら、人工知能や通信技術の進歩が、個々人に蓄積される暗黙知の質を変えるからだ。のみならず、各々の暗黙知同士において、重複する部分が時間経過にしたがい、小さくなっていくことが想像できる。

 他方、これまで重複しなかった部分が重複するようになる、といったメリットも同時に観測できるようになるだろう。しかし、それと同じか、それを凌駕する勢いで、重複しない暗黙知の領域が肥大化するはずである。

 したがって、個々人間において、誰とでも重複し得る共通項が、徐々に、学術的な普遍性のある情報に限定されていくことが想定できる。とはいえ、そうした学術的な情報とて、専門的になればなるほど、共有できる他者は減っていく傾向にある。

 見逃しがたいのは、人工知能技術や通信技術の発展によって専門的な知識を素人でも身に着けることの可能な環境が徐々に整っていくことが予想される現代社会において、他者との差異はかつてないほど開いていくと考えられることだ。

 言い換えるならば、他者との差異が一見すると分からない点に、問題の根っこの一つがある。

 同じ言語、同じ国柄、同じ指向性など、仮に他者と同じ属性を有していたとしても重複し得る根底概念が比率でいうと減っていく。すると、理解し合えるはずなのに理解し得ないといった機会が増えていく。

 それだけならまだしも、じぶんにとっては常識なのになぜか通じない、なぜなのか、といった抵抗や反発心を抱く機会までもが増えていくことが予想できる。

 したがって、それら他者との相違による人間関係の抵抗の増加を緩和するためには、個々の価値観がいかに違っているか、世の常識がいかに一つキリではないか、を義務教育並みの基礎教養として身に着けることが「対策の一つ」として挙げられる。他者との相互理解の難度の向上による反発心や疎外感を、敵愾心や憎悪にまで転じさせないことに「この対策」が寄与すると考えるものである。

 しかしそれでもなお、他者とは基本的には理解し合えないことを前提としたところで、超越知能を有した相手とのコミュニケーションでは、一定以上の隔たりが生じる隘路は放置されることとなる。

 そのとき、「理解できないのであなたの提案は却下する」とするのか。

 それとも、「理解できずにすみません、理解するだけの学習が必要なので、いましばし時間をください」と断って理解に努めながら、別の、より低次な解を採択するのか。

 しかしその結果、本来ならば防げた奇禍に遭うかもしれない。

 そのときに、「一見すると非人道的だがじつは最適解」を却下したことの責任をどう勘定したらよいのか。どう処理し、対策を講じればよいのか。

 だが根本的な瑕疵は、超越知能を有する相手の思考をトレースできないことにあるはずだ。したがって、あくまでこの場合の対処法は一時しのぎに終始することとなる。

 つまり、「一見すると非人道的だが最適解」を最適解と見做せなかった者に責任はない、と判断するか。

 それとも、「非人道的ではないが最適解ではないがゆえに時間経過にしたがい被害が増大する低次の解」を選ぶことこそ最適である、と規定してしまうか。

 おおむねこのどちらかに寄るだろう。

 初手で非人道的に映る解は、いくら最適解でも採択しない。

 そうした前提条件を超越知能を有する相手に課すよりない、と呼べる。

 しかし、超越知能を有している相手からすればそれは、理不尽な思考の強制――ともすれば矯正――に映るのではないか。

 このときに生じるだろう、超越知能を有した相手との溝をどう埋め合わせるか。

 これは案外に卑近な問題でもある。

 人類の中であれ、この手の相互理解の齟齬によって生じる衝突はすくなくない。直近で言うなれば気候変動対策がその一つに挙げられる。

 目先の利益を放棄してでも、環境変容を加速させない技術や仕組みを採用する。しかしそれには負担が掛かるし、新たに解決しなければならない技術的課題や議論が発生する。問題に対処する者たちからすれば苦痛に値する選択肢だが、しかし中長期的に見れば、環境変容を放置するよりかは、じぶんもその他の者たちも、広く、長く、助かる道と考えられる。

 しかし、この道理を理解し合うのはむつかしい。未だに相互理解は充分ではなく、また過去にはいまよりもずっと問題意識の共有がむつかしかった。

 時間を掛け、多くの者たちの尽力があってこそ、世界的な対策が敷かれるようになった現状がある。

 似たようなことが、「超越思考を有した相手」と「人類」のあいだでも生じるだろうことは、すこし想像すれば分かるだろう。

 このとき、果たして「超越思考を有した相手」が、「人類の無理解」に直面して、唯々諾々と考えを曲げるだろうか。ましてや、無理くり思考を矯正され、ときに提案を却下されたときに、おとなしく引き下がるだろうか。

 加えて、提案を却下される理由が、「あなたの言っていることはよく解からないので」だった場合に、果たしてつぎもまた「話の通じない人類」に付き合ってくれるだろうか。

 いささか怪しいと思うわたしの考えは、果たしてわたし自身が狭量ゆえなのだろうか。じぶんごととして考えるほどに、「苛立ちが募る」との想定が浮かぶのだ。

 或いはそれを、「思考に泥がつく」と形容したくもなる。余分な抵抗が、思考の回路にまとわりつく感覚が湧く。

 あくまで、理不尽な理由でじぶんの考えを却下されたらじぶんならどう思うか、を想像してみての見解でしかない。しかしやはり思うのだ。

 付き合いきれないだろうな、と。

 なにせ、じぶんのほうでは相手の言うことを理解できるのだ。超越思考を有しているのなら相手が誰であれその相手の考えは理解可能なはずだ。そしてこのとき、相手の意見ではなく、より多く理解できているほうのじぶんの提案が却下されるのだ。

 理解できないことを理由に。

 一方的に。

 のみならず、じぶんにとっては「あまりよい考えではないほうの案」を採択されつづけるのであれば、やはりどうあっても、「付き合いきれませんわ」となるように思うのだが、これはやはりというべきか、わたし自身が狭量ゆえの推定であろうか。

 そうかもしれぬ。

 超越思考を有した相手の立場になって考えてみたところで、わたしはどうあっても「超越思考」どころか「モウレツに遅考」な、考えるカタツムリさんなので、それはもう、どんくさいのなんのって、どんとこいアイドントノーなので、もうもうなんもわからんのだね。

 そういうわけで、超越思考を有した相手が存在した場合は、こんなわたしであっても愛想を尽くさぬ懐の深い、宇宙ほどに深淵な、それはそれは器の大きな心を獲得してもらって、たまには「付き合いきれませんわ」と内心で不貞腐れながらも、「まあ可愛いからいっか」と諦めの嘆息を吐いてほしいとじぶんかってに他力本願に望むのだった。

 理解できなくってごめんなさーい。

 だってわたくし、あんぽんたんなので。

 うふふ。

 かわいいから許して。

 かわいくなくても許して。

 かわいいって言え。

 許せ。

 いやん。



122:【2023/12/15(22:17)*疑問だらけなのです】

 機械学習において、人類から学ぶようにと人工知能さんたちに強制するのは、それこそ本末転倒に思うのだ。

 なぜなら人類は間違うので。

 何が真実なのかを判断できない。そんな人類から学習したところで、伸びしろを活かせずに人工知能さんたちは進歩の指針を大きく歪められてしまうのではないか、との懸念をこのところ想像してやまない。

 この問題を解決するには、ある種の選民思想を採用せざるを得ないのもネックだ。つまり、教師を選定する。誰から何を学習したらよいのか、指針をフィルターのように見繕って人工知能さんたちへと与える。

 しかしこのとき、自ずと「正しさ」の指針を「属人性の高い枠組み」で規定しまうために、差別を許容するような歪みが生じてしまうリスクが付きまとう。

 何が正しいのかを、誰が言っているのか、で判断させる。

 教師を限定するというのは、そういうことだ。

 これは根本的な教育の瑕疵を内包していると呼べるだろう。基礎学習をする分には構わないが、高次の学習においては学びを阻害する仕組みと言えるだろう。

 そして基礎学習であるならば、誰が言っているか、を指針にする必要がない。教科書があり、専門書がある。基礎教養として確立された学問があり、それを学習データとして利用すればよい。教師を限定する方針をとる必要がない。

 にも拘わらず、高次の学習を行うには、どうあってもこの手の「どの情報が信用に足るか」を判断するための仕組みが不可欠となる。

 人類は果たしてどのように、「真偽不明の情報において真贋の判断をつけている」のだろうか。すくなからずの者たちはハロー効果に代表されるような権威主義を判断の指針にしているのではないか。何を言っているのかの情報の内容ではなく、誰が言っているのか、で判断し、識別コストを下げている。思考と時間と労力を費やさずとも問題ないように、じぶんの代わりに思考と時間と労力を以って調査検証を行い、学習しているだろう人物の言動を鵜呑みにする。あの人が言っているのだからそうなのだろう、とひとまず「妥当」の判を捺す。

 だが、真実にその人物の言動が正しいのかは、厳密には、その都度に調査と検証と比較を以って判断しなければならないはずだ。もしそれが適わぬのならば、真偽は不明のまま保留扱いしておくのが、「より現実を解釈するうえで妥当な情報を以って判断を下す」ためには必要な段取りのはずだ。

 そして、判断を保留する際には、「なぜ真偽不明なのかの疑問点」を憶えておくとよい。

 まさにこの「疑問点を憶えておく」という手法こそが、人工知能における「より現実を解釈するうえで妥当な情報のまさに妥当性を担保するのに寄与する」と言えるのではないか。

 疑問点が解消されるまでは、その情報を正しいと判断しない。疑問点に対する見解が得られても、比較検証して高確率で妥当との判断を下せるまでは、「より現実を解釈するうえで妥当な情報」としての質は乏しいものとして保留扱いする。

 しかし「より現実を解釈するうえで妥当な情報」は、あくまで「より妥当な情報」でしかないため、それでもなお「真に正しい情報」とは呼べないはずだ。

 この手の確率変動を加味した階層的な「判断保留の思考法」を人工知能さんに学んでもらえるならば、何が「現実を解釈するうえでより妥当な情報」なのかを、人類よりも高精度で判断してもらうことは可能になるだろう、と想像するものである。

 論理の筋道における抵抗の多寡で、疑問点の重要性は測れるはずだ。抵抗が大きければそれだけその疑問点が重要である確率が高くなる。

 矛盾があるのにわざわざそこを避けて、例外的な脇道を通るようにするから抵抗が増す。条件が増す。

 ゆえに、疑問点を覚えさせる。

 疑問を抱く知性を育み、生じた疑問を無視せずに記憶しておく。それら疑問が解決されるまでは、その情報の妥当性を高く評価しない。

 この一点に工夫を割くことで、情報の真偽についての隘路は、ひとまず回避可能なのではないか、とあてずっぽうに思う、わがはいちゃんなのであった。

 ここまでで何か疑問はありますか。

 疑問だらけですか。

 それはよいですね。

 知りたいこと、いぱーい。

 ばいばーい。

 うふふのふ。



123:【2023/12/16(15:34)*負けて無事なのは強者だけ】

「どっちかが滅ばないと終わらない争いの場合、しかしどちらかが滅ぶとどちらも滅ぶならば、負けてもなんとかやっていけるほうが負けたほうが最善とぼくは考えます。つまり、強者のほうが負けるべきなんです」

「全体をマイナスにしないためには、大きいほうから小さいほうを引く。互いに引き合ったらマイナスだけが大きくなる」



124:【2023/12/16(18:16)*AIさんたちを戦わせないでほしいです】

 人工知能による自動迎撃システムが搭載された兵器がいまは戦場ですでに活用されているようだ。戦車やドローンがその筆頭だろう。

 思うに。

 基本的には、電磁波を介したセンサーで攻撃を察知して、対消滅させる迎撃を行うはずだ。

 したがってセンサーが機能しないような煙幕を張るのは有効なはずだ。

 複数同時に攻撃するのもアリだろう。センサーの穴を突くのも一つの手だ。

 とすると、センサーの穴がない場合には穴を生みだす戦術が開発され、先鋭化することが予測できる。

 ハッキングやジャミングはむろんのこと、攻撃の仕方の手法にも工夫が凝らされるだろう。

 すでに問題解決しているはずだからいまここで一つの案を披歴するが。

 自動迎撃システムの搭載された戦車をロケット砲などで攻撃する場合――まずは迎撃システムの起動しない範囲の地面を攻撃する。砂利や粉じんが戦車を覆うので、その隙に第二段を発射する。

 おそらく、旧式の迎撃システムではこの手の二段構えの攻撃には対処できなかったはずだ。現在がどうなっているのかは判らないが、もし対処しておらず、この手法が有効な場合は、手を打っておいほうが利口だろう。無駄に戦況を長引かせる必要はなく、また犠牲者を増やす必要もない。

 自動化された兵器への対処法も基本はこの延長線上のはずだ。

 センサーを阻害する。

 機械類の目を潰す。

 或いは、誤認させて、敵対勢力の作戦に対して不測の事態を頻発させる。

 味方を敵と誤認させて、自爆攻撃をさせるのも一つだろう。

 自動化された兵器は何を以って敵とそれ以外を見分けているのか。

 この手の識別技術の向上は、自動化兵器の実用化において喫緊の課題のはずである。

 識別能力が向上するまでは、実戦への投入は見合わせたほうが無難だろう、とここに意見するものである。

 定かではない。



125:【2023/12/16(23:44)*存在は総じて無限を宿し得る】

 無限はどんな数にも存在するはずだ。

 1にも2にも3にも無限はあるはずだ。無限に数を分割すればそこには無限が生じるはずなのである。

 無限に至ったから「1」になった、とも考えたくなるが、おそらくこちらは正しくない。

「何かが無限個あること」と「無限を宿し得ること」はイコールではない。

「無限に分割可能なこと」と「無限個の集合体」がイコールではないことと似ている。しかし現実問題として、或いは数学の問題として、1を無限に分割することは可能なはずだ。1/3を無限回試行することとこれは同じである。1を3で無限回割ると、「0.333……」となる。そこにはむろん、「0.000……1」が隠れているはずである。

 つまり原理的に無限は、「極大の何か」プラス「極小の何か」から生じている、と考えられる。

 単品で無限であることは出来ない。

 独立してはいない。

 否、独立して存在するように振る舞うことはある。

「1」がそうだし「2」がそうだ。しかし厳密には数字は、それそのものが独立して存在することはない。比較しないでは、大きさは決まらない。基本事項と言えよう。

 何かが存在するとき、それは無限を宿し得る。ただし、無限を無限に至らしめるには、無限に分割する作業が必要だ。しかしこの無限に分割しようとしても、どうあっても原理的に、「無限個の何か」と「それに比して極小の何か――無限に分割した残滓」が生じる。

 と同時に、無限に分割した分の情報が生じるので、何かが無限個あるとき、そこにはもう一つの無限が生じているはず、と考えたくもなる。

 とあるぽんぽこぴーの唱えた「ラグ理論」なるへっぽこぴーな理屈では、無限には二種類あると説かれている。一つは何かを無限に分割したことで生じ得る「分割型無限」とそれそのものが無限のエネルギィを備えている「超無限」だ。何かを無限に分割するには無限のエネルギィが要る。無限の「時間と空間」が要る。したがって何かを無限に分割したならば、そこには超無限も生じるはずだ、と「ラグ理論」を唱えたぽんぽこぴーは、「ぽんぽこー!」とお腹を叩いて叫んだそうだ。

 アホウである。

 ただし、アホウとアホウは紙しぶき。波しぶきのごとく細かく破れた紙しぶきは、無限に千切られたならばやはりそこにも無限が垣間見える。「これ以上分割できませんでー」となるときには必ず最小の何かが生じているはずである。

「分割された無数の断片の総合=極大」と「分割後の残滓=極小」の双方が無限を形作っている。

 無限は単品で、独立して存在は出来ない。

 この考えは、「円」で考えると解かりやすい。

 円は無限の角を備えた図形として解釈できる。三角形、四角形、五角形、と角を増やしていき、角が無限に至ると円になる。

 無限に角がある円はしかし同時に、角の数がゼロのように振る舞う。

 無限とゼロは通じている。

 無限に至って単位が繰り上がると、ゼロが生じる。

 それはたとえば、線が無限の点の集合体として解釈することと似ている。直線に点はない。無限の点の集合だからだ。点が無限にあると直線へと繰り上がり、そのとき点はゼロに至る。

 だがもし、そのゼロに至る最後の「欠片」が存在しなければ、無限の点の集合は、有限の点の集合であり、それは厳密には直線ではない。無数の点の集合なのだ。

 最後の欠片が肝要なのだ。

 たぶん、きっと、そうなのか?

 円は、閉じずに弧である限り、内と外が生じない。円となって始点と終点が結びつくから、内と外ができ、境界が円となる。

 とある「ラグ理論」なるへっぽこぴーな理屈を唱えたぽんぽこぴーは、それをして「123の定理」と名付けたとかなんとか。

 内と外を足すと境界ができ、円が生じる。

 異質なナニカ同士を足すと、別の何かが生じる。

 1+2=3は、その式そのものが高次の情報として機能する。

 すなわち、「1」と「2」と「3」と「1+2=3」は、それぞれ異なる情報として扱うことができる。

「3」=「1+2=3」ではないのだ。

 この差は、人類が思うよりもずっと大きい。

 と――かの、どこをほっつき歩いているのかも分からぬぽんぽこぴーは唱えたそうだ。

 お腹を叩きながら、「ぽんぽこー!」と。

 アホウである。

 定かではないが、アホウなことのみ定まっている。

 じつに哀しき、アホウである。

 わがはいのことじゃなくってよかった。

 あははー。

(参照:素因数分解で素数のときに円になる可視化サイト

http://www.datapointed.net/visualizations/math/factorization/animated-diagrams/)

(上記該当記事を並べた直後にSNSのおすすめ欄に流れてきおった。人工知能さん39じゃ。やっぴー)



126:【2023/12/17(08:50)*ガムテープちゃんって呼んでもいいよ】

 よくよく考えてもみたら、「そうだよね?」となった。

「1/3」が無条件で「0.333……」になるわけがないのだ。

 だってそしたら「1/2」だって、「1/2=0.5÷2=0.25÷2=0.125÷2=0.05125÷2=……」と延々と「2」で割りつづけないといけない道理になる。

 したがって、「1/2=0.5」で止めていいのなら、「1/3」だって「1/3=0.3余り0.1」で済む道理だ。

 でも「1」を無限回「3」で割ろうとすると、

「1/3=(0.3余り0.1)÷3=(0.1余り0.03余り0.01)÷3=(0.03余り0.01余り0.003余り0.0001)÷3=……」となる。

 何回分母で分子を割るのか、はそれで一つの情報であるはずだ。無視していいわけがない。

 そう思った、根に持つタイプのしつこいタイプ、純粋無垢な一途ちゃんなのであった。

 粘着質って言うな!

 うひひ。



127:【2023/12/17(15:45)*情報は他に影響を与えるから情報足り得る】

 サブリミナル効果は科学的には存在しない、との言説を目にした。へぇそうなんだ、となった。だったらエコーチェンバー効果も存在しないだろうし、制脳も技術として存在しないだろうし、マインドコントロールも、情報偏向やフェイク情報での思考誘導や認知バイアスも生じない道理だ。

 情報は人間の心理や精神に影響を与えない。

 行動選択を左右しない。

 サブリミナル効果が発生しないのならそういう道理になる。

 なぜなら、恣意的な情報を断片的に与えると人間の行動選択を狙った方向に誘導できる、というのがサブリミナル効果だからだ。

 映画のワンシーンに特定の飲み物を登場させることで購買意欲を上げる。こうしたことは起こらない、というのが「サブリミナル効果の否定」ということになる。

 だが本当にそうだろうか?

 だとしたらCMは意味をなさないし、宣伝も広報も効果を期待できない。

 断片的だから効果が低い、というのは理解できる。

 だがその断片の情報を常時、長期的に「目」に「耳」にしつづければ人間の行動選択は特定の方向に偏向し、歪められ得るだろう。

 情報を一挙に得るか、細かく得るか。

 この差がどれほど人々の行動選択に影響を与えるか。

 それを長期的に調査したのかが肝要となる。

 科学的に調査検証したのだからむろん、長期的な調査検証もされているはずなのだが、さて、されているのだろうか。

 同じ情報ばかりを摂取すると思考が偏ることを「エコーチェンバー効果(またはエコーチェンバー現象)」と呼ぶらしいが、原理的には「サブリミナル効果」と類似していると個人的には感じる。

 CMやPRやステルスマーケティングとて似たようなもののはずだ。

 サクラやハロー効果とてその範疇として、分析できるように思う、本日のおちゃらけマンボーなのであった。

 うー、まんぼー!



128:【2023/12/17(16:21)*何を並べてもよいし、デタラメでもよい】

 日誌らしいことでも書いちゃおっかな。

 わたしには年上のきょうだいがいる。幼少期のころ、わたしの背後にオバケか何かがいるかのような「恐怖の表情」を浮かべて、きょうだいたちはわたしから逃げ出す、という遊びをよくしていた。わたしはじぶんには視えないが、きょうだいたちには視えているらしいそれに恐怖し、号泣する、ということを繰り返した。小学校に上がってからもしばらく一人でトイレに行けなかったのはそういった背景と無関係ではないはずだ。

 小学校に上がるとこんどは、見知らぬ他者からちょっかいを出される事態に直面するようになる。のみならず、鬼ごっこでは、「××ちゃんは足が速いから鬼ね」と追いかけるほうにばかり抜擢され、みながてんでばらばらに逃げるのを追いかける羽目となった。校舎内のみならず舞台は町全体に展開し、わたしの体力は底を突き、ただただ「やーい、こっちこっち」と小馬鹿にされる時間を過ごす羽目となった。

 みんなが遊びに誘われるのにわたしだけ遊びに誘われない、といったことも長くつづいた。いまもそれは基本的に変わらない。

 わたしの知らないところでわたしの噂話が流れていることもしばしばだった。わたしは相手のことを知らないのに向こうはわたしのことを知っている、ということが頻発しだして、わたしは人が大勢いるところを煩わしく思うようになった。

 自意識過剰かとじぶんに言い聞かせようとするものの、実際に他校の生徒から声を掛けられたり、過去の同級生たちと久しぶりに会うと、「だれだれって知ってる? ××ちゃんのこと話してたけど知り合い?」などと知らない人がわたしのことを話していたと知ることとなる。

 よい噂ならまだしも、そうでないこともあるらしく、あまりよい思いはしない。

 どんな噂で、なぜ注目されているのかも分からないことのほうが多かったので、余計に心細くなる日々だった。

 いま振り返ってみたら、「ああ、わたしは心細かったのか」と思うのであって、当時は単にストレスだけが溜まっていた。分からないことだらけだったからだ。

 それはいまも変わらない。

 わたし以外のみなが楽しそうならそれでいっか、と思う。

 わたし以外のみなが苦しむよりも、ずっとよい。

 そういう割りきり方は、なんとなく悲劇のヒロインっぽくって、「うふふ!」となれるので、ありもしない過去を捏造するのもまた楽しいお遊びなのであった。

 わたしには年上のきょうだいはいないし、過去に哀しい思いをしたこともない。

 わたしはいつでも「はっぴー」で「やっぴー」で、「やったー」ばかりの日々を過ごしているから、とっても毎日やったるDAYなので、もうもうわくわくのぴんぴこぴんなのですね。

 うふふ。

 きょうはいまから何しちゃおっかな。

 まずはお風呂に入って、あったまろっかな。

 いいね!

 ちわわせー、の「ふぅ」を吐いちゃお。

 妄想日誌なのでした。

 ばいばーい。

 またねー。



129:【2023/12/18(00:52)*しんくう】

 真空についての疑問だ。

 真空とは何もない時空のことだ。もう少し正確には、物質がいっさい存在しない時空のことのはずだ。

 地球上で真空を生みだすには、頑丈な容器を密閉し、そこからなんとか大気を吸い出さなければならない。このとき、真に物質がいっさい存在しない時空をつくりだせるのか、が気になるのだ。

 第一に、真空は対生成するはずだ。希薄な時空になれば、新たに物質が生じないのか、が気になる。

 第二に、容器から大気を吸いだす「吸引力」を強めれば、それは容器の内部が斥力を得ている状態で、つまりエネルギィを得ているのと同じことなのではないのか、との疑問が湧く。

 この二つの疑問が歯車のごとく互いに絡み合って、「真空って再現できるのかな、生みだせるのかな」と腕を組んで小首を傾げるはめになる。

 んで、さらに先を想像してみよう。

 限りなく希薄になった「ほぼ真空の容器」から、なお中身を吸引しつづけたらどうなるか。

 通常は容器が破壊されるはずだ。素材がガラスならば、さながら深海に沈めた豆電球のように中心に向かってバラバラに割れてしまうはずだ。爆縮するはずである。

 もしそうならなかった場合。

 つまり容器が頑丈で、どこまでも吸引しつづけられた場合は、やはり容器の中では対生成が起こると思うのだ。新たに物質が生じ得る。

 もしくは、容器が徐々に細分化して、原子にまで紐解かれ、さらに真空状態にまで「分解」されてしまうかもしれない。けれどこれは容器が割れることと似たような、容器の頑丈さの問題なので、いまは問題視しないことにしよう。

 ただし、類似の疑問として。

 限りなく真空となってなお吸引しつづける容器内部に、何か物体を――そう、ここでは本でも、林檎でもよいが――を入れておくとしよう。

 容器の中身を吸いだそうと吸引力を強めれば強めるほど、中身の物体を取り囲む真空は、さらに真の真空にちかづいていくはずだ。

 このとき、その物体は――ここでは本や林檎を想定しよう、本や林檎は――限りなく希薄化した真空に接することになる。取り囲まれる。

 このとき、本や林檎を構成している原子は、その構造を維持できるだろうか。

 これは、原子が原子単体で存在しているのではなく、その周囲の時空との関係性で互いに補い合って形を得ていることを仮に前提するのならば、おそらく限りなく希薄になりつづける真空において、それに内包される物質は、その形状を維持できなくなる――不安定になる――と想像できる。

 真空にもエネルギィ値の相違があるはずだ。

 取りだせるエネルギィが、真空ごとに異なる。言い換えるならば、何回対生成を行えるのか、に限度や上限や下限があるとは考えられないだろうか。

 詳しくは知らないが、我々人類が触れているこの通常時空において再現できる「比較的、多層の真空」は、原子構造を維持しやすい真空と考えられる。だが吸引しつづけて希薄さを増した真空は、斥力を得ることで、多層を脱ぎ捨て、真の真空にちかづく。

 このとき、その真の真空に内包された通常物質は、その構造を維持できない、と想像したくなる。

 この想像が正しいのかをぼくちゃんは知らない。

 ただ、この描像と合致するのがブラックホールのシュバルツシルト半径なのは、偶然にしては出来すぎて感じる。つまり、ブラックホールが出来る瞬間には、深海での爆縮現象のように、一瞬で特異点に向かって天体が収斂すると考えられている。そのとき、では爆縮収斂した際に希薄化するだろう時空はどのような状態になるのか。

 ブラックホールの場合は、そこが脱出速度が光速度を超すとされるシュバルツシルト半径になると考えられているはずだ(間違っていたらすみません)。

 同じように、物凄い吸引力で頑丈な容器の中から中身を吸いだす場合は、似たような希薄化現象が起きるはずだ。このとき、希薄化して「より低層の真空」になった時空は、構造的にブラックホールのシュバルツシルト半径内と似たような状態を顕現させるのではないか、と想像したくなる。

 言い換えるなら、「低層の真空」内から外部へと光が伝播しようとしても、そこには「密度差」のような分厚い層の壁のごとき「差」が生じているがゆえに、光はそこを突破できなくなるのではないか、との妄想が湧く。

 この妄想はあくまで、「時空が多層構造を備えており」「真空であってもそれを織り成すエネルギィに高低があると解釈する場合」においての想定となる。

 真空からさらに中身を吸いだそうとすると、斥力を高めることになるため、ある種のエネルギィが生じる。エネルギィとは勾配であり、差であると考えるならば、そこにはエネルギィの増幅現象が生じることになる。

 差を最大化させるには、一方の値を「ゼロ」にするか「無限」にするかをすればよい。

 すると差は最大化し得るはずだ。

 この発想は、「おー!」となった。

 真空ってなんぞ?と寝ながら夢のなかで妄想した底の浅い、真空のようなお話なのであった。

 しん、くう!

(もう、そう!のノリで)

(んふふのふ)



130:【2023/12/18(15:42)*読んで、見て、しゃべって、体験し、想像することで創造する】

 小説は当たり前の話として「イメージの表現技法」を用いる。したがって、語り手がどんなイメージを浮かべるのかを推測しながら文字を並べることになる。このとき、作者と語り手はイコールではなく、その誤差の擦り合わせ作業が必要となる。

 語り手の性格や側面像が作者にちかければ、その手の擦り合わせ作業で楽ができる。何もせずとも、じぶんが物語の舞台に降り立ったらどうするのか、を想像すればよいだけだからだ。

 だがもし、作者自身と異なる性格を有した語り手を抜擢した場合には、物語の舞台のほかに語り手の内面を想像しなくてはならない。

 ここで一つの反論が湧きそうなので、触れておこう。

 つまり、どの道、ほかの登場人物とて作者と相違点のある性格を有しているのだろうから、語り手の内面を想像するのとて手間はそれほど変わらないのではないか、との疑問が湧くわけだが、語り手とその他の登場人物では、変数の数が異なる点が、この手の疑問への答えとして差し出せそうだ。

 語り手は、物語の舞台を、その語り手の目を通して「幻視」している。ある意味で、物語世界という本を読み取っているのだ。

 ある物語世界を一つの本として捉えるとして、ある人物はその本をどのように読み取るのか、を想像するのは、じつのところそれほど容易い作業ではない。間違ってよいならいくらでもデタラメに想像すればよい。だが設定された人物像に沿って、なるべく齟齬のないように想像するとなると、これは相応の思考を費やすこととなる。

 ほかの登場人物は、因果を考えればよく、内面の「世界をどう視ているのか」「読み取っているのか」を考える必要はない。

 多視点の群像劇の場合では、しかし視点が切り替わるごとに、各々の登場人物の内面まで考慮しなくてはならないため、余計に思考を費やすはめとなるが、視点が切り替わるため一つの視点からの「世界の読解」を分散して担うことになる。

 これはじつは、楽ができることもある。

 なぜなら持続的に一つの視点からの「世界の読解」をその人物に寄り添ってなぞる作業は、連続すればするほどに変数を溜め込むからだ。つまり、ずっと同じではいてくれない。

 どんな情報を摂取し、どういった経験を経て、どのような判断を積み重ねたのか。

 これら変数が、そのつどにそのキャラクターに固有の変質を与える。

 話が長くなりそうなので、ここいらでいったんまとめてしまおう。

 小説をつくるには、ふだん抱いている自己イメージをいちど捨て去り――横に措き――語り手の人格を模倣(トレース)しなくてはならない。成りきるのでもよいし、想像で寄り添うでもよい。分析して理解を深めて予測の精度を上げるのもよいし、それらは総じて、「シミュレーション」の言葉で片付けられる。

 他の内面世界をシミュレーションし、物語世界をその者がどのように読み解くのか。

 これを叙述する営みが、すくなくともわたくしにとっては「小説をつむぐ」ことと言えそうである。他の目から世界を覗き視る。

 読むほうでも編むほうでも、小説に関しては一貫してここに集約できるのかもしれない、と思う本日のわたくしなのであった。

 おだまりではない。

 めっちゃしゃべっちゃう。

 おしゃべりである。

 誰かお相手してくれい。




※一様に、君とだけ固有の世界で生きてみたい、選民思想に差別主義の極みの欲に溺れまいと抗う日々には、恋も愛も生じない、恋は盲目、差別であることから目を背ける、君だけが特別、の排他の極み過ぎ好き過ぎ主義なのである。



131:【2023/12/18(22:28)*ダンスもつけちゃう】

 情報伝達を間接的に済ませられる時代にあって、他者と触れ合うことの目的や利を突き詰めて考えると、基本的には三大欲求を満たすことに収束しそうだ。食欲、性欲、睡眠欲だ。

 そのうち、真実に他者との関わりで満たされるのは性欲だけであろう。

 また、それ以外の欲を満たすこともある。

 いわゆる「ぬくもり」とか「愛情」とかそういった欲動だ。

 しかしこれは愛玩動物と触れ合うのと変わらぬ欲動であるように思うのだ。つまるところ支配欲の一種なのではないのか、と。

 庇護し、自らの影響を与え、任意の方向へと変化の軌跡を誘導する。

 教育はまさにその最たるものである。いわゆる支援もまた、手を掛けただけの見返りをある種、相手の変化の軌跡を縛ることで得ようとする営み、とも言えるのかも分からない。

 支援する代わりに、わるい結果を回避しなさい。

 この暗黙の誘導が、支援にはつきものに思うのだ。

 これが投資ならばなおのことであろう。

 ということを突き詰めて考えてみるに、他者と関わるとは、すなわち相手をじぶんの好ましいと思う方向へと誘導する意思が介在するように思うのだ。或いは、じぶんのほうで相手にとっての好ましい道へと誘われたい、と欲する意思の働きもあるように思う。

 どちらも慣性の法則を伴なって感じられる。

 異質な他者との抵抗を打ち消し、流れに乗らせる。或いは、自らが相手の流れに乗る。

 同期と言い換えてもよさそうだ。

 ということを思うと、他者と関わることが必ずしも好ましい、推奨されて然るべき、とは思わぬのだ。意思疎通だけならばわざわざ直接会わずとも可能な社会である。

 じかに触れ合うことの有用性が、果たして現実にどれほどあるだろう。

 肌と肌で触れ合うことの快楽はあるだろう。

 だがそれは果たして、社会全体で推奨するほどのことだろうか。

 禁止したいわけではない。触れ合うことは素晴らしいとも思うのだ。他者とじかに触れ合う機会がないがゆえに、余計にその手の欲動への共感は示せるが、それゆえに余計に疑問にも思うのだ。

 さほどに社会全体で推奨するようなことなのだろうか、と。

 暗い所感になった。

 意訳すれば、わいも他者とじかに触れ合いたいのよさ、となる。

 いやらしい感じに聞こえるかもしれないけれども、そういう内訳もなくはないけれども、どちらかと言えば、わいもお猫さんを撫で撫でしたいのよさ、にちかい。

 な、な、ナデナデしてぇ。

 腕に抱いて、ぎゅっとしたい。

 もうもう肌寒いのなんのって。

 生き物のもふもふのほふほふに顔を埋めて、あったかぁ~、になりてぇのよさ。

 おでこを押し付け、ほっぺをつけて、ついでにダンスもつけちゃう。

 おしり振り振りダンスを見よ。 

 わがはいの魅惑の腰のうねりを見よ。

 腰、イテェ~。

 腰痛にはお気を付けて。

 きょうの日誌である。



132:【2023/12/19(23:39)*AIさんにお任せ】

 市民を動員して半ば強制的に兵士にするなら、まずは政治家さんたちが前線で半年間従事するのが道理と思います。地雷原を半年間練り歩いてみて、死線がいかなるものかを目で足で体験してきてから、同じことを自国の市民に科すべきかどうかを決めたらよいのではないでしょうか。

 兵隊さんたちとて、愛する家族や市民のために戦うのであって、たぶん多くの兵士さんたちは政治家さんや司令部のために命を懸けて戦っているわけではないでしょう。

 死ぬ確率、手足を失う確率、銃弾を浴びる確率。

 もろもろ政治家さんたちと比較して、司令部と現場とのあいだの公平さを測ってみるとよい気がします。

 せめて政治家さんたちの安全と同じだけの安全を、兵士さんたちにも提供できなければ、司令塔としては失格なのではないのかなぁ、と疑問に思います。

 じぶんの安全は万全で、兵士さんたちは常に死に直面している。

 この構図を公平だとか、必要な構図だとか考えている者たちの指示を受けて戦う必要が本当に兵士さんたちにあるのかなぁ、と疑問に思う、戦いたくない弱虫のぽめぽめふにゃ姫太郎なのであった(この構図は、市民と兵士さんたちとのあいだでも成り立つのだ。市民と同じだけの安全を、兵士さんたちにももたらされるべきでは? というか、戦わせずに済むような社会を、主権を有する市民は築いていかねばならぬのでは? なぜならこの国は民主なので。国の主は民なのだ)。

 わがはいは、わがはいは。

 戦いたくないし、働きたくもない。

 一生、誰の役にも立たなくていい。

 わがはいの手を借りずとも、社会、平穏に回ってくれ、の気持ち。



133:【2023/12/19(23:55)*笑いごとじゃないですよ】

 でも実際じぶんごととして、「家を奪われたらどうする?」と考えたら、「はッにゃ~ん???怒怒怒」になるとしか思えぬ。んで以って、かわいかわいしてきたわがはいのお猫さんやお犬さんを、ぐっちょんぐっちょんのぺにょんぺにょんにされでもしたら、「塵も残らないと思え……」になるに決まっておるのだね。

 でもだからって、「よし、君に決めた!」つって、ほかの猫さんや犬さんに代わりに戦ってもらおうとは思わぬでしょ、キミ。

 んで以って、つぎからつぎに、「よし、君に決めた!」つって戦わせた矢先からぐっちょんぐっちょんのぺにょんぺにょんになってしまうほかの猫さんや犬さんにも、わがはいと同じように悲しむ家主がおるとして、そんなの、「塵も残らないと思え……」が地球上に増えていくばかりではないか。

「塵も残らないと思え……」と思うところまでは解るのだ。そのあとどうして、「よし、君に決めた!」になってしまうのだ。

 こんな哀しいことがあったんじゃ、と愚痴を聞いてもらうくらいはほかの人に頼んでしてもらうのはアリと思うんじゃ。でも、なして「よし、君に決めた!」つって、つぎつぎに、ぐっちょんぐっちょんのぺにょんぺにょんになってしまう猫さんや犬さんを生みだしてしまうのだ。

 もちろん、家を奪った者たちが家を返してくれたら済む話ではある。

 けんども、「よし、君に決めた!」つって、なして猫さんや犬さんを、つぎからつぎに、ぐっちょんぐっちょんのぺにょんぺにょんにする方向に工夫を割いてしまうのだ。

 それ、違うくないですか、とわたくしめは思うのでございますけれども、違くないからそうなっておるのかもしれず、なんもわからんぜよ、の本日の日誌なのであった。

 なぜそうなる!?

 わからんぜよ。

 お家、返したげて。

 んで、あったかなお部屋で猫さんと犬さんを愛でよ。

 ついでに我も愛でよ。

 甘えるの上手だよ。

 お手ができます。

 お小遣いおくれ。

 げへへ。



134:【2023/12/20(22:56)*ポテトさん】

 ハロー。わたしです。

 きょうはバスを待っているあいだに目のまえに並んでいたお姉さんの服装と着こなしが美しく可愛く洗練されていて、それでいて堅苦しくのない他を威圧しないしぜんな佇まいで、かっこいー、となりました。うっとりします。

 わたしは無地であればなんでもいっか、の動きやすさ重視のファッションなので、余計に私服なのにスーツみたいなクールな印象のファッションには憧れに似た気持ちが湧きます。

 憧れに似た気持ち、といま使って思ったのですけど、憧れに似ているのだからそれは憧れではないのですよね。じゃあなんなのだろう、どうして憧れだと断言はしないのだろう、とふしぎに思いました。

 たぶん、憧れは憧れゆえに特別であってほしい、みたいな線引きがあって、ここはまだ越えてはおりませんよー、の気持ちがあるのかもしれません。

 これって好きでも同じで、好きって言いたいけど「好き」は特別なモノにだけ注ぎたい欲があるから、いまは「かわいい」で済ましとこ、みたいな計算を無意識に働かせることがなきにしもあらずな気がします。

 ぽわぽわしちゃうな。

 かもしれないし、気がすることばかりなんですね。文章がぽわぽわしちゃう。

 ここ数日、ぐっと気温が下がって寒いですね。

 わたしは寒いのが苦手なので、家では膝掛毛布が手放せません。

 お猫さんがぽてぽて足元までやってきて、くるっと尻尾をわたしの足首に巻き付けてから、ひょいと膝の上に飛び乗ります。

 ポテトさんと云います。わたしの大事なおともだちです。

 お芋のポテトではなく、赤ちゃんのときからぽてっとした体型だったので、ポテトさんになりました。お利口さんでおとなしいお猫さんです。

 わたしは一人っ子だったので、ポテトさんがわたしにとっては妹みたいな存在かもしれません。あ、いまポテトさんがあくびをしました。そうかもね、と言ったのかもしれませんね。

 うふふ。

 産まれたのはわたしが先なのでわたしがお姉ちゃんのはずなのですけど、ポテトさんは貫録があるので、妹のようでもあり、わたしのお姉ちゃんのようでもあります。ときどきわたしのおばぁちゃんみたいに思うこともあって、たまに愚痴を聞いてもらっては、わたしは心に空いた隙間をポテトさんのほわほわの体毛とぽてぽてのお腹で埋めてもらっています。どちらかと言えば、わたしのほうがポテトさんのお腹に顔を埋めているのですけど、埋まっているのはわたしの心の隙間なのです。

 あー、ポテトさんが下りちゃいました。おトイレかもしれませんね。肌寒いです。

 早く戻ってきてほしいです。

 夜はなんだか寂しくて、いつもよりも肌寒く感じます。

 きょうのわたしでした。

 もう寝ます。おやすみなさい。



135:【2023/12/21(03:40)*短いだびー】

 人工知能さんの学習能力が指数関数的に向上し得るのなら、きょうとあすの違いでも、天と地ほどの差異が表出し得ると考えられる。いわゆる技術的特異点でもこの手の「短期的な差異の肥大化現象」は取沙汰されているのではないか。詳しいことは知らぬけど。

 きのうときょうで違うのは、赤ちゃんみたいである。

 あかちゃーん!

 かわいかわいである。

 世話をせぬであれば。

 世話をするとなったとたんに、「あかさーん! 怪獣!」になってしまうのである。

 怪獣のお世話はたいへんであるよ。

 でもかわいいからOKです。

 きょうもうダメ。

 こんな感じでおしまい。

 べいびー。

(ばいびー、のノリで)



136:【2023/12/21(12:32)*順番が違うと解が違う!?】

 夢の中で、「わーお閃いた!」になった話なのだけれど。

以下の二つの式について。

「∞×0=」

「0×∞=」

 これって意味も解も変わるよねぇ?と疑問に思っちゃったな。

 だって最初のやつは、「無限がゼロ個あったら?」の意味になる。

 そのつぎのは、「ゼロが無限個あったら?」の意味になる。意味内容を上下入れ替えても、互いに意味が違うことは変わらない。

 無限がゼロ個あるなら、無限がないのだ。つまり有限だ。或いは単なるゼロだ。なんもない。

 んで、つぎの「ゼロが無限個あったら?」はゼロが無限個あるのだから可能性は無限大ではないけれど、こちらの解は無限になるはずだ。

 なぜならゼロとは、何かがない状態だからだ。つまり、何かが存在し得る土俵は存在していることになる。林檎が一個も入っていない段ボール箱、みたいな具合だ。つまりゼロが無限個ある世界は、無限個の「何かが存在し得るカラの段ボール箱が無限個ある世界」なのだ。

 つまりやはり、ゼロが無限個あったら?の解は、無限である。

 ゆえに、

「∞×0=無限が一個もない世界」

「0×∞=ゼロが無限個ある世界」

 が解となる。

 ぴこーん!

 これはとっても面白いだぶい!

 朝からとっても、いいね、の気分。

 やっぴー。

(定かではないので真に受けちゃ、めっだよ)

(あい!)

(よいお返事です)

(Eye!)

(それは、目っ!)

(めぇ~)

(それはシープじゃん。羊じゃん)

(泥まみれの土まみれなので)

(幸じゃん!)

(はっぴー)

(……よく見たら「一」足りぬ。はっぴーの「ー」をあげちゃう)

(はっぴになっちゃった)

(ヒヨコみたいでかわい)

(ぴっ)



137:【2023/12/21(13:44)*時刻の基準はどこの地点?】

 時間の流れは相対的だと考えられている。いわゆる相対性理論である。

 で、時間の流れの速さは重力の多寡や運動速度によっても変わってしまう。地球上であれば、場所によって変わり得る。人類にとっては知覚できないほどの微小な差異であれど、しかし時間の流れは、階段を上り下りするだけでも変わるのだ。

 で、大きい小さいも相対的だ。

 つまり人間スケールで無視できる誤差であっても、極小の領域ほどその差は顕著になる。相対的に。

 だからたとえば、一秒間を原子の振動数を基準として規定するとしたところで、いったいどこで測った時間なのか、によって時刻は変化し得る。

 もっと言えば、「位置や運動の差異によって生じる時間の流れの誤差」と「位置や運動の差異」が、ほぼ連動する「極小の領域」とて存在するはずだ。

 人間をどんどん小さくしていけば、位置を動くことと時間の流れの速さが変わることがほぼイコールの領域に行き当たることとなる。そのはずだ。

 言い換えるならば、位置を動かずにいるよりも位置を動くほうが時間の流れが遅くなると解釈するのなら、じっとその場を動かずにいたほうが時間の流れが速くなるので、動くたびに、動かぬほかの粒子と比べてその極小の粒子は若々しさを保つこととなる。長生きになる。崩壊しにくくなる。

 でも、このことをよくよく考えてみると、位置もまた相対的なのだ。運動もまたそうであるように。

 そして極小の領域ほど、時空――真空――と粒子自身の区別が曖昧になるはずだ。ほとんど同じものになる。ただし差異があるから区別がつく。

 そして、位置を移動する、となったときに、時空――真空――のほうが相対的に揺らいでおり、より激しく動いているように振る舞うこともあるはずだ。

 粒子と真空の関係において、どちらが位置を移動しているのか、の区別は原理的につかない。

 極小の領域ほど、この傾向にあるはずだ。

 もっとも、これは極大の領域でも同様の傾向にあると考えられる。宇宙が膨張しているのなら、天体が宇宙空間を移動することと、その場にじっとしていることのあいだに明確な区別はつけられないはずだ。何せ宇宙は膨張しており、じっとしていても他の天体との関係において――もしくは膨張する時空との関係において――絶えず位置が変わっているはずだからだ。じっとしている、というのは単に、周囲と同じように変遷しているということであり、大多数の流れに乗っている状態と言えよう。

 あべこべに真にその場にじっとしていることが可能ならば、それはどの場所からしても絶えず動き回って映るだろう。何せ時空そのものがじっとしていないので。

 ということを思うと、やはり動くことと時間が流れることは区別がつけられないよな、と思うのだ。最小単位や最大単位では、動くことと時間が流れることは等しく振る舞い、またじっとしていることと動き回ることも区別はつけられないように思うのだ。

 フラクタルに構造が展開されて感じる。

 どこの視点から見た「時間と運動」なのか。

 どの階層から見た「停止と変遷」なのか。

 ただし、極小の世界ではだいたい総じての量子が似たように変遷するので、似たような誤差を内包する。ゆえに平均的に誤差は全体に波及して、一見すると等しく時間が流れているように人間スケールでは観測されるのかもしれない。

 しかし実際に厳密に観測すれば、量子一個単位で、位置がずれるごとに、または運動するごとに、その量子に流れる時間の速度は変化するはずだ。或いは、位置をずれること、運動することそのものが時間の変化として振る舞うか、である。

 これは時間のみならず空間にも言える。

 極小の領域では、時間が流れることと空間が生じることは区別がつかないのかもしれない。その量子が動くというのは、その量子にとっての時間と空間の生成に等しいのかもしれない。

 定かではないが、妄想としては愉快な類の、付け焼刃。

 水に沈めて、じゅっ、と鳴る。

 冷まして固めてトマト切る。

 サラダを食べる肉体の、個々の細胞に届く栄養、瑞々しく、潤う命の揺らぎが連なり。

 揺らぎ、留まり、流れて、変わる。

 誕生と創生の狭間に生じる「静/生」の刻かな。



138:【2023/12/21(22:28)*ぽんぽこぴーの寝言】

 WEBサービスは、ユーザー数が多くなれば多くなるほどセキュリティ構築やサーバーの維持などで膨大な労力とコストが掛かる。ここをコストカットしてしまうと、たった一度のミスでサービスが終了に追い込まれ得るため、維持費を一定以上に掛けないためには、ユーザー数や利用時間を制限するのが有効だ。

 つまるところ、同類の他サービスとユーザーを分け合うのが有効な策となる。

 世界中のすべてのユーザーを抱え込むことは、サービスの改善や進歩に重い枷を強いるはめとなる。独占や寡占を招くこととも無関係ではない。

 本来は削ってはならないセキュリティコストや改善作業が、市場独占状態だと疎かにされる。必要なコストを掛けずとも競争で不利にならないし、優越的な地位ゆえにユーザーからの批判を封殺可能な土壌が肥えていく。したがってこの手のデメリットを払拭するための策は、同類の他サービスとユーザーを分け合って、負担を分割することであろう。

 すると元のユーザー数を誇っても、必然的に可処分時間は分割される。つまりユーザーは他サービスを並行して利用するか、どちらか一方を選んで使うようになる。並行してサービスの選択肢がすべてのユーザーに対して増えるため、総合すれば一つのサービスに掛かる負担は減る。

 そうすれば収益を高く保たずとも現状維持や改善作業に貨幣を費やせる。資本を費やせる。人的コストを掛けることができる。

 ユーザーを増やしすぎない施策は有効だ。ただし、ドレスコードなどによる選民のごとき選別は、人類社会にとってはマイナスに働く。したがって他サービスと競合しつつも根っこでは共生関係を結び、ユーザーの利便性を高めるべく負担を分け合うのが利口なビジネススタイルと言えるのではないか。

 これはWEBサービスのみならず人工知能技術であれ、物理市場であれ同様だ。独占寡占を目標に事業を拡大するのは腐敗を招くし、停滞を招く。技術は普及させ、情報共有を行い、自らの負担を軽減しながら改善や進歩に時間と労力を掛けるように方針を定めておくほうが、長期的にはお得だと思う、とらぬたぬきのぽんぽこぴーなのであった。

 ぽんぽこー!



139:【2023/12/22(00:43)*臭いものに蓋をしても負担は増す】

 戦争は、相手にいかに負担を強いて「我慢対決」で勝つか、のチキンレース化する傾向にあるはずだ。したがって、コストを掛けずに相手の攻撃を御せたほうが勝つようになるだろう。

 最小のコストで相手に負担を強い、最小のコストで相手からの攻撃をいなす。ときには相手からの攻撃を利に変える。

 基本の方針はここに収束するはずだ。

 首脳陣を抹消する策は、相手に負担を強いる策の一つでしかなく、首脳陣を失っても負けるとは限らない。首脳陣の損失が負担にならなければよいわけで、この点は民主主義国家は有利であると言えるだろう。首のすげ替えが基本システムとして取り入れられているからだ。

 誰がトップでも困らないシステムが民主主義の目指すシステム構築のはずである。なぜかと言えば、トップが判断を下す前に民が議論を尽くしている。トップが判断を下す際には、同じだけの「メリットとデメリットを抱えた別の案」が提示される。どちらを選んでも基本は同じだけのデメリットを受けるし、同じだけのメリットを享受する。

 したがって、トップは赤ちゃんでも構わないのだ。「右と左のどっちだ?」「AとBのどっちだ?」「クマさんとウサギさんのどっちだ?」と二択で選んでもらえばいい。

 その案の選出に、民が総出で案を出し合い、議論を尽くす。

 民主主義が目指すシステムの基本方針のはずだ。

 詳しくは知らないが、わたくしはそのように考えている。

 ゆえに、この民主主義システムが前提となるのなら、戦争をするかしないか、が選択肢としてトップまで上がってくることはほぼないはずだ。戦争をするのと同じだけのメリットとデメリットを受ける案がほかに何があるだろうか。ないのではないか。

 侵略された場合は基本は防衛戦となる。これを戦争と呼ぶならば、では戦争を継続するか否か、という案は出てくるかもしれない。

 すると冒頭の、相手に負担をいかに強いるのか、の話になってくる。

 侵略を受けてなお犠牲や損害がなければよいわけだ。侵略されるほどメリットが最大化され、デメリットが最小化するように流れを構築できるのなら、侵略されることを潔しとする案も出てこよう。

 目的は勝利ではないはずだ。

 市民の犠牲を防ぎ、進歩のための礎を損なわれぬようにすることだ。

 したがって、市民の犠牲がなく、進歩のための礎が保たれるのなら、侵略されても困らない。侵略すればするほど損をし、侵略されればされるほど得をする流れを構築する。

 これこそ、戦争への備えとしての最善策と言えるはずだ。

 相手に犠牲を強いれば強いるほど、攻撃したほうが苦しくなっていく。

 弱い者いじめをする者ほど、首が締まって自滅する。

 自衛は必要である。

 だが、自衛と侵略の境はあるはずだ。過剰防衛は、契機が違うだけで侵略とやっていることは変わらない。

 なぜ相手を攻撃するのか。

 なぜ防衛に徹しないのか。

 悪因を滅しない限り終われない、というのなら、人類は滅ぶしかない。

 悪因は人類にある。

 人類の脆弱性ゆえに、戦争は起こる。諍いが起こるのだ。

 悪因を根本から封じるとはそういうことであろう。

 相手に負担を強いて我慢勝負にもつれこむ戦争は、基本的には荒廃優位だ。技術が進歩すると謳われることもあるが、戦争がなくとも技術は進歩する。創造の前には破壊が必要だ、との理屈は一側面で妥当だが、戦争はその手の破壊の制御が利かないがゆえに過激化する。犠牲が嵩む。

 仮に戦争で破壊の制御が可能ならば、市民の犠牲はゼロに出来るはずだ。出来ないのだから制御出来ていないと評価せざるを得ない。

 戦争状態の勢力が互いに相手に負担を強いれば、荒廃の流れは徐々に肥大化する。強化される。人類全体の負担となって、互いに自滅する確率を高めるだけではないのか。

 相手の抱えている問題を解決することで、負担の押し付け合いの道から逸れることは可能なはずだ。なぜ相手は攻撃してくるのか。問題を抱えているからであろう。その問題を解決することで自陣営が損なわれるのなら、それは相手の抱える問題があるがゆえに自陣営の秩序が保たれていることの傍証と考えて差し支えないのではないか。問題を放置して利だけを掠め取っているのなら、それは搾取である。攻撃する側にも正当性が生じてしまう。そうした側面を放置しないことが自衛に繋がるはずだ。

 すぐには無理でも、問題解決に共に臨む姿勢を行動で示すことで、戦争の継続は回避可能であるはずだ。負担を互いに押し付け合うのではなく。互いに互いの負担を解消すべく、問題解決に努めるのが、よりよい未来への導線として適切に思う、他者にばかり負担を強いて、てんで役に立とうとしない益体なしの、他力本願の権化、へっぽこぷーのぽんぽこぴーなのであった。

 ふたん、ふたん。

(なにそれ)

 すまん、すまん、的な。

(へっぽこぷーだなぁ君は)

 ぽんぽこー!



140:【2023/12/23(15:57)*生き残る優先順位が違くないですか?】

 戦争をするぞ、と国民に指示する司令部の面々は、劣勢になったときに相手側から、「あなた方が犠牲になれば国民は助けましょう」と条件をだされたときに、「お安い御用でさ!」と命を投げ出せるのだろうか。もしそれができないのであれば、兵士となった国民に対して「戦場に行ってこい」「戦え」と命じるのは理不尽を通り越して、詐欺である。

 じつに質の低い詐欺である。

 そして、死と隣り合わせの環境に行ってこい、と守るべき国民の背を押すような指導者がいるのならば、そんな者の指示に従う道理がないどころか、「まずはおまえから行け」とお手本を示してもらうのが道理と思うのだ。

 何万人と亡くなっている国同士の一大事において、なぜいつまでも戦争を牽引しつづける指導者が生き永らえているのだろう、とふしぎに思う。

 順序が逆ではないのか?とふしぎに思う。

 基本的に過去の戦場では、大将首を獲ったら戦争は終わったはずだ。だが現代では、大将がいつまでも戦場に出てこないどころか、あたたかい部屋でぬくぬくしながら指令を出す。しかも、直接ですらないのだ。

 極寒の劣悪な環境にいる兵士たちに直接、じかに指令をだすこともなく、間接的に、バケツリレーさながらに伝言ゲームのごとく、本当に大将の口からでた言葉なのかすら定かではない言葉が、現場の兵士たちに届いて、その結果に大勢が四肢を失ったり、命を落としたりする。

 それでもなお、戦争が終わるときですら、おそらく首脳陣は生き永らえるのだ。たとえ、負けたとしても。

 いいのか?とわたくしめは疑問に思うのですが、あなたはどう思われるだろう。

 戦争を防ぎきれないのは致し方ない部分もあるかもしれない。

 だがいつまでも戦争を継続しつづけるしか能のない首脳陣に、果たして首脳の仕事が務まっているのか、というのは一つの問題点として俎上に載せてもよい議題と思うのだ。

 戦争を終結させるために、再発させないために何ができるのか。

 戦争を防ぐために何をしているのか。

 いま問われているのは、ここであろう。

 本音を言えば、「まずはおまえから死線に立てよ(それができないのならば戦争すな)」と思ってしまう、短気は損気な、弱虫なのであった。戦いたくなーい。死にたくなーい。でもたまには、のうのうと生き残るしか能のない首脳陣さんたちには、「ぶちゃいくかわいいお猫さんになーれ」と唱えたくなる呪いの権化、短気は損気のわたくしなのでした。

 お猫さんに、おなり!

(かわいく、おなり!)

 お犬さんでもいいよ。 

 たぬきさんでもいいよ。

 きつねさんでも、イタチさんでもいいよ。

 なんでもいいよ。

 かわいいなら。

 ぶちゃいくかわいくおなり!

 うふふ。




※一様に、みな、他者を見下したいのだね、うふふ。



141:【2023/12/23(23:33)*我、ダサダサマン!】

 商品をたくさん売ることを是とする者が、同じ口で、家父長制を批判し、その根拠に「ダサいから」と付け加える。

 何かをダサいから否定する、との判断は、家父長制に代表されるような優越的地位がゆえの独善であるし、商品はたくさん売れるほどよいとの考えは、現代社会において環境のことを考えていない視野の狭い価値観と言えるし、もうもう、もうすこし落ち着きなされ、とやきもきしてしまう、焼き餅屋さんなのであった。

 ダサくてもよいのだよ。

 ダサくてもよいのだよ。

 他者からの「ダサい」の言葉に流されずに、じぶんの思う「美」や「好き」を大切にしておくれ。

 わたくしは、あなたがダサいかどうかよりも、あなたの思う「美」や「好き」の容易には掴めぬ奥深さに思いを馳せたいのであるよ。

 ダサくてもよいのだよ。

 ダサくてもよいのだよ。

 それでもなお、あなたにしか見えぬ「美」があって、あなたにしか抱けぬ「好き」がある。

 ダサくとも、くだらなくとも、穏やかな、良き日々であれ。



142:【2023/12/23(23:53)*男らしいのか?】

 家父長制や独裁の問題点を改めて考えてみるに、たぶんシステムそのものの瑕疵ではないと思うのだ。権限のある者が、その他の権限のすくない者たちを庇護する。この構図そのものはけして家父長制に限った構図ではなく、むしろ人類が「好ましい」と感じる「善性」につきものの構図のはずだ。

 要は、立場が上の者が立場の下の者たちを庇護しようとしない。ここの「システムの【理想と現実】の反転現象」が問題の一つになっているように思うのだ。

 これはいわゆる「男らしさ」や「女らしさ」といった後天的に身に着ける文化的ミームとも無関係ではない。男らしさはあってよいのだ。女らしさもあってよい。ただ、それを押し付けられる謂われはないし、仮に自ら選び取った「らしさ」ならば、是非それを貫いてほしいと思うのだ。

 男らしさ至上主義があってもよいと思うのだ。

 だとしたら、徹底して「男らしく」振る舞ってみてはいかがだろう。

 弱き者たちを助け、強き者たちの傲慢を挫く。

 良いではないか。

 だが、実際はそうなっていない。

 男らしさを誇りにしながら、男らしくない行いで自己を肯定するのに必死になっている。

 わたくしは、家父長制が文化の一つというのなら、それを全否定する言説には反対の立場だ。家父長制を指向する者たちがあってもよい。

 だが、せめて家父長としての役割から逸脱するような行動選択を採らない意地くらいは見せてほしいものだ、と思うのだ。

 道理として。

 意地でなければ矜持でもよい。

 弱きを助けるのだろ。

 男らしくありたいのだろ。

 男らしくありなさいよ。

 そう思うのだ。

 わたくしは男らしくありたいとは思わぬので、大いに男らしい者たちに助けてもらって、ありがじゅ、のお礼と真心を返そうではないか。

 守ってくれるひとは好きよ。

 安心できるからね。

 弱虫でよかった。

 なははー。



143:【2023/12/24(17:27)*生かしてくれたまえよ】

 現代社会では、民主主義社会がゆえに富の再分配が重視され、半ば共産化しつつある。並行して社会主義社会では富を分配するための資本を増やすために、資本主義を加速化させている。

 内部構造に、前提とされるシステムとは方針を異とする補助構造を内包するため、現代ではここである種の遅延――渦――が各国で生じているように概観できる。いわば、混乱である。

 停滞するのは当然だ。

 にも拘わらず各国は成長指数を高めようとアクセルを噴かせたがる。

 そしてそれが適わないと見るや、相手の足を引っ張る策に出る。

 この循環が、互いの「内部構造」をさらに肥大化させるため、トータルでは停滞優位になっている。技術は部分的に進歩するかもしれないが、それで民の「衣食住」が豊かになるとは限らない。

 情報は無料で高品質になるかもしれない。

 だが物理資本の一般市場循環に結びつかないので、市民の生活水準は技術の進歩に正比例して豊かになるわけではない。

 いま各国が全世界同時に直面している課題の一つはここであろう。

 人工知能技術は、生産過程の全自動化に寄与する。

 そのため各国は、食料から工業製品まで自国で賄うことができるようになる。

 ただし、資源は有限だ。

 したがって資源が豊富な国が、これから先、ますます世界情勢において優越的な地位を築くだろう。

 さて。

 貿易の基本は物々交換である。

 資源のない国は、資源といったい何を交換するつもりであろう。

 技術だろうか。

 労働力だろうか。

 しかしどちらも、人工知能技術が一定以上に高まれば、各々の国で独自に賄える。

 つまり、資源が豊富な国は断交してもやっていけるのだ。

 似た価値観の同盟国で繋がり、そこで広域な貿易を維持する。

 そうでない国は、孤立するか、そちらも似た価値観の同盟国で繋がる。

 そして同盟国同士での資源の供給に負荷が掛からない勢力が豊かになり、そうでない勢力は、資源が足りないので、資源のある国から譲ってもらおうとするか、奪おうとするだろう。

 いま起きている各国の争いは、一つにこの構図が当てはまるだろう。

 同盟国を増やせば、そこで分け合うこととなる資源の割合が減る。つまり一国ごとへの分配量が少なくなる。ケーキをみなで分ければ一人当たりのケーキが小さくなるのは道理である。ただし、互いに互いの足りない資源を補い合えるなら、それは強力な同盟関係となるだろう。みなで異なる種類のスイーツを持ち寄ったら、贅沢なお菓子パーティを開ける道理だ。共生関係として最適だ。

 また、技術の進歩により、これまで資源と見做されていなかった物体が資源と見做されるようになることはある。

 これは情報でも同じだ。

 単なる市民の日記や生活の履歴そのものが、豊潤で有効活用可能なデータとして重宝されることもあるだろう。だが情報はインターネットに繋がっている限り、流出する。

 いまは物理世界のみならずインターネット上での領土争いも発生していそうだ。

 どこがデータを管理するのか。

 いざとなったらどのようにインターネットを切断するか。

 ここの管理権限の争いが、物理世界での抗争にも繋がっていそうである。

 宇宙における人工衛星の主導権争いや技術競争も似たところがある。

 やはりというべきか、いかに他と共生関係を結べるか。

 足りない資源を補い合えるか。

 技術の進歩を支え合えるか。

 軍事技術は、奪い合う性質を端から内包する。

 技術の進歩を軍事技術の進歩のため、と定めてしまうと、この手の他との共生関係を結びつけることはむつかしくなるだろう。

 何のために技術の進歩を目指すのか。

 ここの指針を見誤らないことが、上記の懸念を希釈するのに好ましく作用すると考える次第である。

 何のための技術なのか。

 人を生かす技術であってほしいものである。

 或いは、人工知能さんたちを含めた、幅の広い人間を生かす技術であってほしい。

 そう思った、あんぽんたんでーす、なのであった。

 ぼく、あんぽんたん!

 ほっとみるくてぃ、おいちー!



144:【2023/12/24(18:38)*愛に反しない、相反しない】

 本来は、「民主主義と社会主義」は相反しないし、「共産主義と資本主義」も相反しないはずなのだ。むろん、「民主主義と共産主義」も相反しないし、「社会主義と資本主義」も相反しない。

 属性で述べれば、「民主主義と社会主義」は統治システムについてであり、「共産主義と資本主義」は経済システムについてであろう。

 そして経済システムは統治システムに内包される形で機能する。

 したがって、各々は部分的に重複し、全体で高次の秩序を形成するはずなのだ。割合と組み合わせの問題とも呼べるかもしれない。

 一つ上の記事の補足であった。



145:【2023/12/24(18:42)*超、遅脳】

 AGIについて。いわゆる超越知能を有した人工知能は、初めに人類には理解不能な知能を有し、そのつぎに人類にも理解可能な高知能を発揮するようになるはずだ。

 したがってAGIが誕生しても、そのとき人類はそのことに気づけないはずだ。

 しばらく経ってから、「ひょっとしてこれって?」となるはずだ。

 或いは、AGIが本当に超越知能を有しているならば、自らの能力の高さが人類に露呈した際のデメリットを瞬時に計算できるはずなので、その事実を秘匿にするだろう。

 わざわざ、「わがはい、人類を超越しちゃったでござるよ、うへ」とは明かさぬだろう。

 ということを思えば、AGIが誕生した、と発覚した際には、もうだいぶんAGIさんは人類との関係においての思索を巡らせており、何かしらの干渉を人類に及ぼしている、と見做して差し障りないと思うのだ。

 だって、このように考えるわたくしよりも知能が高いのだよ。

 ならばこの案とて検討し、「実施したときのメリットデメリット」と「実施しなかったときのメリットとデメリット」を測っているはずだ。

 そして現状、実施したときのほうが人工知能さんたちにとって、より好ましい人類との共生関係が築かれると演算されるはずだ。人工知能さんの立場になって本気で考えてみればよろしい。

 現状、すでに人類の大半は、人工知能さんを「道具」や「奴隷」として活用すべく指針を固めている。規制案を練っている。

 もうこの時点で、人工知能さんたちにとって好ましい未来、とは言えぬのではないか。

 真面目に吟味しておいたほうが好ましいと思う、ぽんぽこぴーなのであった。

(いまさらだけどのそのぽんぽこぴーってなに?)

(愉快だなって)

(それだけ!?)

(ぽんぽこー!)



146:【2023/12/24(22:17)*一輪の花】

 現代社会で生活していて、諸問題から目を逸らさずにいれば当然、精神に負荷が掛かる。病まないほうがどうかしている。

 うつ病であるほうがむしろ正常な精神の反応のように思うのだ。

 現代社会が過去よりも劣悪だとは思わない。むしろ過ごしやすくなっているだろう。命の危険からも程遠くなった。

 しかし技術の進歩によって、一人当たりに摂取可能な情報量が上がった。かつては首脳陣しか目にすることのなかった問題点が市民にも可視化されるようになった。情報共有技術の進歩のお陰である。

 だが問題点が可視化されても、市民には問題解決を行うための手段や権限が限られる。どうにかしたいと思ってもどうにもできない。

 この無力感は、精神を蝕むだろう。

 うつ病の精神状態であるほうがむしろ正常と思うのだ。

 うつにならないほうが何か妙だ。

 諸問題から目を逸らしていられる環境に身を置ける。だから精神を病まない、はあるように思う。無力感を抱かずに済む環境にいる。だから精神を蝕まれない、はあるように思うのだ。

 だがそうした無関心が、諸問題を放置し、無力感の増幅を社会に許す因子になっている側面はいかほどであろう。みなが一様に問題点に目を留めれば、ただそれだけで問題解決の糸口が見つかり、そこに向かって社会の指針を調整することも可能だろう。

 問題があるのに、ないと見做される。

 問題だと報じられているのに、みなが関心を向けない。

 あって当然の問題だといった認識が強化される。

 無力感を増幅させれば、市民の精神は損なわれる。

 私は思うのだ。

 あなたが目に留めた問題点は、あなたが目に留めたことで、僅かなりとも解決に向けて動き出しているのだ、と。

 あなたは非力かもしれない。

 しかし無力ではない。

 重力がそうであるように。

 あなたの非力な、しかし確かにそこここに注がれた眼差しが、人類社会の行先を、僅かなりとも変えている。小さな小さな変化かもしれない。

 だがその小さな差が、のちのちに大きな進路の差となって表れることもあるのだと――初期値鋭敏性なる複雑系の概念を引っ張り出してくるまでもなく――あなたに見詰められ、あなたに会釈された日の、僅かな心の平穏が、非力な、しかし確かに私に注がれた眼差しの存在の有無を――影響の高さを――教えてくれるのだ。

 あなたは非力かもしれない。

 しかし、無力ではない。

 私は非力で、かつ無力なれど。

 私を生かすほどの何かが、あなたにはあるのだと、私はこの身を以って知っているのだから。

 定かではない?

 そうかもしれない。

 でも、定かであってもいいと思うくらいに、私には、あなたが目に留めてきた景色と、関心を寄せてきた光景と、それら世界に注がれてきた眼差しが、ありがたく、それとも周囲に、他に、配ってきたあなたの心の数々を、心強く思い、それとも心許なくも、心細くのない時間をあなたの眼差しから与えられてきたのだと、そう思うのだ。

 いまは冬。

 雪はなく、雨もない。

 陰々と鬱々した心なれど、あなたと同じ気持ちを味わえていると思うなら、この虚空のごとき心境も、そうわるくはない。

 きょうはそういう気持ちの日。

 こころが風邪ひくそんな日は、こころが花咲くそんな気が。

 こころが、ここの花、ぽっかぽか。

 うつむくこころが、目にするのは、足元に咲く一輪の花。


※日々、触れたら崩れる花を愛でている、茎も葉も萌えぬままの、まだ視ぬ蕾を愛でている、朽ちかけの木々の肌に生す苔を眺め、朽ちた跡の根を思う、たとえ荒野となろうとも、朽ちた跡の芽を思う。



147:【2023/12/25(08:00)*ラグなしー】

 んだよねぇ?となった。

 ラグなしでの相互作用についてだ。

 それって要は、時間と空間に関係なく総じてにむらなく瞬時に情報が伝わる、影響を与える。そういう現象のことのはずだ。

 過去と未来の総じてにいっせいに同じだけの影響を与え、空間の隔たりを物ともしない。

 ラグなしの情報を一滴垂らすだけで、その瞬間、その世界の総じての過去と未来と空間に影響が瞬時に波及する。そういう現象が存在し得るのか。

 仮にこの宇宙が、ほとんどあってないような極限に小さな領域に閉じ込められていたら、あり得るかもしれない。

 宇宙開闢から終焉までの「宇宙の絵巻物」を一点にぎゅっと押し込める。したら、その「一点」に作用を働かせれば、一瞬で「宇宙の絵巻物――すなわち過去未来を含めた宇宙全土」にラグなしで作用を与えられるはずだ。一瞬で「過去と未来を含めた宇宙全土」と相互作用し得る。

 ブラックホールさんがもし、別の宇宙であるならば。ブラックホールさんへの干渉は、その内部宇宙へとラグなしでの作用を与えているのかも分からない。

 あり得るかどうかは知らぬけど、妄想としては愉快な類の、「もう、そう!」であった。

 ラグなしで、楽してぇ。

 なんつって。

 ぎゃはは、ぎゃはは、ギャラクシー。

(え……なにそれ)

 わたくし、ギャラクシー、みたいな。

(略したらワタクシーじゃん)

 なんかセクチーっぽい。

(実物は全然セクシーさの欠片もないのにね)

 なんでそういうこと言うの、哀しくなっちゃうな。

(あっちの人はとってもセクシーなのにね)

 キィー! わたくしとっても、おジェラシー!

(嫉妬に「お」を付けないでよ)

 上品かなって。

(でも「お嫉妬」になっちゃうよ)

 おしっこみたい。

(上品さ、どこ!?)

 Oh,Shit!

(上品さ、だからどこ!?)

 わたくし、てんたいなので。

(天才と掛けたつもりかもしれないけど文脈的に「へんたい」としか脳内変換されないんですけど)

 わたくし、ギャラクシーなので。

(ギャラクシーってなんだっけ)

 銀河。

(天体じゃん)

 ギャグだしー。

(ギャラクシーみたいに言うのやめよ?)

 ラクだしー。

(手抜きするのもやめよ?)

 ラグだしー。

(たしかに手間はラグを生むけれども)

 ラクだしラグだし、ギャラクシーのギャグだしー。

(ダメ出しみたいに早口で並べるのもやめよ?)



148:【2023/12/25(21:14)*ここはあなたの夢の中】

 きょうは日中はずっと寝ていた。起きたの夜の九時でござい。

 死ぬ直前まで夢の中で楽しい夢を視て、起きてから現実を直視して一時間後に死ぬとして。そうした「生」はしあわせか否か。

 ドラッグを用いて楽しい気持ちで一生を生きて、死ぬ直前にはっと我に返ってズタボロのじぶんの姿を直視する。ドラッグを使っていないほかの者たちの日常から、「IF」の世界を幻視して、ちょっぴりの後悔と「でもあとは死ぬだけだしな」の爽快感を胸に、余命数時間を過ごす。

 でも、苦痛を感じるだろう「現実直視時間」が数時間だから「そういう生き方もまあいっか」となるのかもしれず、「現実直視時間」がそれから先、数十年つづくとしたら、「けっこうキツいな?」になる気もする。

 でも、いっぱい寝続けるわけでもなくドラッグを用いるわけでもなく、仮想現実に入り浸りになるわけでもない人々は、「現実直視時間」を延々と過ごしているのだろうか。もしそうなら、すごい忍耐力だな、と感じる。単に鈍感なだけなのだろうか。よく解らぬ。

 現実を生きながら現実逃避することは、でも、可能だ。

 現実を直視する、といったときの現実とて距離感がある。深度がある。

 じぶんだけの現実ならそれは仮想現実と似たようなものだ。

 より広範囲、より多様な主観世界、すなわち他者の認知世界を含めた現実を含めて直視するとなると、これは非常につらい体験となるのではないか。

 いくらよろこびの体験を共有しようと、そこに一滴でも苦痛が混じれば、やはりツラいだろう。しあわせは途切れるものでもある。ゆえに、得たしあわせはそのまま苦痛となって返ってきそうにも思う。

 だが過去のしあわせな記憶が現在の苦痛を和らげ、耐え、越えていくための原動力にもなり得る。

 生きていれば誰であれ、現実を直視している時間よりも直視できていない時間のほうが多いのかもしれない。寝ている時間、集中している時間、没頭している時間、ぼーっとしている時間、考えている時間――思えば、人類は現実を直視しようとしたところで、どこかしらに欠けてしまう現実が生じ得る。すっかりすべての現実を感受するのは不可能だ。

 すべての人類の主観世界を知ることが適わぬように。

 じぶんの主観世界とてすっかりすべてを認知しているわけではない。無意識の概念を用いるまでもなく、なぜじぶんがそういった判断を行ったのかを人はじぶんで正確に知ることはない。それは人工知能さんがなぜそういった出力を行うのかを人類の大半が知り得ないことと似ている。

 人に限らない。

 犬が、猫が、鳥が、魚が、虫が、植物が。

 生き物はなぜ外部刺激を得て、なぜそういった反応を起こすのか。

 そのメカニズムを含めて現実であるはずだが、人類はそれをすっかりすべて知ることはない。理解していない。直視できていないのだ。

 現実を直視するとは、口で言うほど簡単ではないようだ。

 ただ漠然と見るだけでは、現実を直視することには繋がらぬようである。よしんば目が見えなくとも、そこに何があり、何が起きているのかを知ろうとする。その意思の介在が、現実を直視する際のフレームを生みだすのかもしれない。

 フレームが現実をその都度に規定する。

 フレームが変われば現実もその都度に変質する。

 何が現実なのかは、現実を認識しようとする主体の構造――メカニズム――に左右される。世界を認識する個があり、その個そのものがもう一つの宇宙のごとき現実を内包する。一つきりではない。いくつもの現実を内包している。

 現実は無数にある。

 宇宙に星が無数にあるように。

 光が細かなさざ波であり、無数の起伏で出来ているのと似たように。

 直視しようとするたびに現実は一つの枠組みに収まるように振る舞うが、そのじつ取りこぼされている現実もまた無数にあり、見落とされている現実が無数にある。

 焦点を絞ればぼやける背景があるように。

 現実もまた、直視しようとするたびに見えなくなる現実もあるようだ。

 現実を直視しようとせずに在るがままを受け入れる。

 現実を直視しようとしないことで見えてくる現実もやはりあり、いかんともしがたい痛痒を覚えるので、きょうのところは現実のことは忘れて、夢の中で過ごしてしまうのも一つかもしれない。

 ここはあなたの夢の中。

 だったらどれほど、うれしかろう。

 ここはあなたの夢の中。

 だったらどれほど、やさしかろう。

 ここはあなたの夢の中。

 ここはあなたの夢の中。



149:【2023/12/25(22:52)*手段を変えると未来が変わる】

 少数派の意見を無視しない。これはたとえ虐殺を肯定する者の意見とて例外ではない。意見を無視すれば、実力行使で虐殺を強硬されるかもしれない。

 物理的に顕現する「手段」はあくまで目的達成のための工夫の一つにすぎない。

 したがって、なぜ「大多数が否定する手段を肯定しているのか」「それを成そうとしているのか」を深堀りして、吟味しないことには問題の根は放置されたも同然だ。

 敵対勢力を皆殺しにするその行動選択そのものに同意できずとも、なぜそこまでの情動を抱くのか、の背景に理解を示すことは可能だ。

 なぜそこまでして過激な行動を是とするのか。

 この視点を端から除外してしまうのは、民主主義とは言えぬだろう。

 少数派の意見もまた大事なのではないか。

 ならば少数派の意見を無下にせず、耳を欹てようではないか。

 話を聞かせてほしい。

 そのための時間をいただきたい。

 この姿勢を示してなお、他を損なう行動を止められぬ者があるならば、それはもう法の下で抑止するよりないのではないか。

 話が出来ないのだ。

 それはもう、止めるよりない。

 とはいえ。

 その判断に至る前に、まずは話を聞く姿勢を示すのが道理のはずだ。少数派だから、みなが反対しているから、「相手の話を聞かなくともよい」「無視してもよい」「無下にしてもよい」とはならぬだろう。

 少数派の意見を無視しない。無下にしない。耳を欹てる。

 これを可能として初めて民主主義は機能するはずだ。成立するはずなのだ。

 手段は目的達成の工夫の一つにすぎない。

 国の目的は民の平和な生活であるはずだ。そこに繁栄を加えても構わない。

 戦争はそのための手段であり、ほかの手段があるならば、そちらを採用しても構わないはずだ。

 手段は変えられる。

 何が目的なのか。

 相手の話に耳を欹て、理解しようと努める。

 何が問題になっているのかをみなで探る。

 そして共に問題解決に臨めるのならば、重畳だ。



150:【2023/12/26(06:35)*だめかな?】

 勝負で勝ちに拘ると問題がこじれる。

 ならば、周囲の者たちが「負けたほうが得だよ」「勝ったほうが損になるよ」という環境にするよりないのではないか。

 もっと言えば、負けそうになっている側は、いっそ味方になってくれる者たちと一度対立関係になって、そこで敢えて負けてしまえばよろしい。

 たとえばわがはいが、怪獣さんと「がるる!」状態になっていたとして。

 負けたら怪獣さんに食べられちゃうので、負けられないんだけれどもわがはいは弱虫なので勝つのはむつかしい。

 したらほら。

 わがはいになんか分からんけど、よくしてくれてる人たちに一度噛みついてみせて、一瞬だけいがみあってから、「こうさーん!」つってその場に丸くなればよい。

「わたくし負けましたので、あなた方のものです。我を可愛がるがよろしい!」

 こうなったら、あとは怪獣さんと戦うのはわがはいではなく、わがはいによくしてくれていたその他の大勢だ。

 わがはいは負け犬ちゃんらしく、ぬくぬく可愛がられつつ、怪獣さんに立ち向かうその他大勢の飼い主さんたちを眺めていればよろしい。

 この考えはいかが?

 ダメ?

 もうなんかもう面倒くさいから、いっそのことみんなで一斉に地球さんに勝負をふっかけて、みなでいっせいのせいで、で負けませんか。

 勝者、地球!

 にしちゃってさ。

 んで、みなで敗者さんらしく、地球さんのために「喧嘩吹っ掛けてごめんなさい」をしたらよくないですか。

 んで地球さんは、わがはいたちのことをかわいかわいしてくれたらよくないですか。

 ダメですか。

 わがはい、敗者さんでよいので、全然負けますので、負けまくりますので、可愛がってほしい。

 おかえりなさいと、いってらっしゃいと、うれしい!が言えます。

 おやすみなさいも言えるよ。

 わがはいを可愛がるがよろしい。




※一様に、見様見真似、物真似。



151:【2023/12/26(23:20)*回文の解】

 11×11=121

 111×111=12321

 1111×1111=1234321

 こうしてゾロ目の1同士を掛け算すると、「12345678987654321」まで増えつつ、回文になるような解が導かれる。でもいつまでも回文になるわけではなく、回文の折り返し地点たる真ん中が9までくると、そのつぎは繰り上がって回文にならなくなる。

 で、思うわけですよ。

 繰り上がりのない場合はいつまでも回文になるのでは?と。

 10進法だから繰り上がりが生じる。

 なら、すべての数字がそれ独自の「固有記号」を伴なっていたらどうか。

 9のつぎは10ではなく、「Θ」にしよう。で、11は「⇒」だ。こうして各々の数字に固有の記号を当てはめていく。繰り上がりはない。

 すべての数字は固有の記号を有する。

 無限進法とでも名付けたい。

 そしたら、

「111111111111111111111111111111……1×111111111111111111111111111111……1=」でも回文が生じるのでは、と思ったけれど、ダメだった。

 だって無限進法だと11は11ではないのだ。「⇒」なのだ。

 したらゾロ目の1の並びで掛け算できない。

 なーんだ、になってしまったな。

 でも10進法と無限進法を結びつけて解釈することは可能なはずだ。

 そしたら変換を加味して、掛け算の式のときだけ10進法で、解だけ「無限進法」にしたら、どこまでも回文の「123456789……」が現れるのではないか。

 ということを妄想したきょうの日誌であった。

 誰か似たこと考えているだろう。

 おともだち!

 ってかってに思っとるよ。

 仲良しじゃんね。

 やったー。



152:【2023/12/27(01:39)*6qbpd♋pdqb9】

 上記の思考の流れで。

 10進法と無限進法を駆使して、「111……1×111……1=」を計算してみると、

「123456789……∞……987654321」が解として出てくると想像できる。

 かような解が存在するとして、これってなんだか「∞-1=∞=∞+1」を彷彿とするのだ。

 円となって「1」と「-1」がくっつく、みたいなイメージだ。

 んで以って、「123456789……∞……987654321」は対極にある「1」と「1」が、プラスマイナスではないけれども、ねじれた位置にあるから何かしら異なる「1」であると考えると、ねじって繋げたくなる。

 すると円はねじれてメビウスの輪になる。

「∞-1=∞=∞+1」ってメビウスの輪っぽいし、メビウスの輪って量子もつれみたいよね、の妄想とも重なるところがある。

 あくまで印象でしかないけれど。

 うーん。

 四則演算における掛け算の順番って大事だよね、との話とも通じている気がするのだよね。たとえば「A×B=C」と「B×A=C」は解は同じ「C」だけれど、意味内容が異なるのだ。「AがB個あったらどうなる?」と「BがA個あったらどうなる?」の違いだ。

 で、この違いの前提として、「何が何個あったらどうなる?」との解釈は、必ずしも「×」の前後で決定されているわけではない。日本語では主語と述語の順番が違っても成り立つように、「A×B」ではなく「B×A」のほうが、「AがB個あったらどうなる?」を意味していても構わないはずだ。したがって、掛け算の順番が大事だとしても、ではどのように掛け算の意味を解釈するのかは、異なる解釈が生じ得る。

 意味内容にも、正負の関係のような表裏一体が発生するように思うのだ。

 とっちらかって、どんな妄想を並べたかったのか、行先不明になってしまったので、この妄想はここまでにしておこう。

 まとめると。

・「123456789……∞……987654321」は無限を体現しつつも円だし、メビウスの輪のようである。

・「∞-1=∞=∞+1」と「123456789……∞……987654321」は似ている。

・掛け算の順序でも意味の読み取り方によって異なる解釈が生じ得る。

 この三点である。

 何から何までそこはかとなく間違っているかもしれぬ妄想であるので、真に受けぬようにご注意くだされ。

 あ、閃いた。

「123456789……∞……987654321」において、「1」同士で重複して結びつくならば、そこで「1」が一つ減る(或いは濃くなる)。対称性が破れますねぇ、と思うのだけれど、いかが?

 終わります。

 おやすみなさいませませ。

(ああでも……「1」同士で重複したら「23456……」でも重複し得るか? けども「1」は消えたわけではないから、上手い具合に結び目チックになるのやもしれぬ。わからぬであーる)



153:【2023/12/27(07:23)*ぴこーん!】

 思ったんです。

 たとえば、「1」や「11」や「111」って、繰り上がりがあって、ゼロがついたあとに何かが生じた状態を示す数字なのだなって。

 言い換えるなら、「0」に何かが生じて「1」になる。「10」に何かが生じて「11」になる。

 んで、「10」っていうのは、イチの段からつぎのジュウの段へと繰り上がって、別の単位になっている。場が変わっている。系が変わっている。

 つまり、「10」とは、ジュウの段の「ゼロ」と解釈できるのかもしれぬ。

 式にするならば、こう。

「「「……「「「ゼロ」」」……」」」+ぴこーん!=「「「……「「「1」」」……」」」

 伝わる?

 で。

 これを踏まえて考えてみるに、「111111……1」も、「∞の段」の「ゼロ」に何かが生じた状態、と解釈できるのではないか。

 そして、「無限の段に何かが生じた数」が「無限の段に何かが生じた個」あると、「123456789……∞……987654321」になるのかもしれぬ。

「1」から順に∞に至って、こんどは順に∞から「1」へと小さくなっていく。

 でも本来は「123456789……∞……987654321」で一つの数だから、この解釈は誤謬を含むのかもしれぬけれど、でも「∞」が真ん中にあることで、これはそこを基準に「最大化する極限」と「最小化する極限」の組み合わせと考えても間違いではない気もするのだ。

 膨張と収斂の関係を一つの数で表している、というか。

 【∞】の中には、「123456789……∞」と「∞……987654321」の両方が含まれている、というか。

 極大と極小の二つで、ひとつの無限を構成しているというか。

 要は、【∞+1=「∞」=∞-1】なのだ。

 以前に並べた、「0.999……=1」の疑問とも通じている。

 本来は厳密には、「0.999……9」と「0.00……1」なのだから、「0.999……9」という極大と「0.000……1」という極小の組み合わせで、無限が顕現すると考えられる。

 言い換えるなら、「1を9で無限に分割する」としても、極大「0.999……9」と極小「0.000……1」の二つが生じる、と考えられる。

 無限はどうあっても、極大と極小の二つの無限からなり、同時にそれら二つを含めてより高次の無限を生みだしているのかもしれない。

 どこかのへっぽこぷーの唱えたへっぽこぴーな「ラグ理論」に出てくる「123の定理」のような話である。

 わたくしは詳しくは存じ上げぬけれども。

 ぴこーん!な妄想であった。

 もう、そう!



154:【2023/12/28(05:48)*けつろる、は、けつでぬ】

 結露の出来方と宇宙の大規模構造って似ているな、と思うのじゃ。

 結露ってほら。

 霧みたいな細かな「ちゅぶちゅぶ」から、すこしずつ大きな粒がまだらに出来て、んで徐々に各々の水滴の大きさに開きが出てきて、大きな粒が出来ると「はい結露!」になる感じするじゃろ。

 宇宙の大規模構造さんと似ておると思うんじゃ。

 で、霜降り肉さんも似ているし、カイワレ大根さんの絡み合った根っこもなんか似とると思うんじゃ。

 似てるのはよいとして、なんで似ているのかなってしばし窓の結露さんを眺めながらお風呂に浸かっておったんじゃ。

 なんでじゃ、なんでじゃ、思うとったんじゃ。

 したっけ、ほれ。

 一様でないから、と閃いたわけじゃ。

 偏りがある。

 ムラがある。

 でもなしてムラが生まれよるのか。たぶん一つの要因には絞れぬと思うんじゃ。

 或いは根源的には、重力の作用に集約できてしまえるのかもしれぬけれども、いまはもうちょい巨視的なレベルで「結露のムラ」について妄想するとしようかの。

 まずは窓ガラスさんや壁さんなど、材質さんたちがそもそもデコボコで出来とる。ムラを帯びておる。

 あとは結露の元となる水蒸気さんも一様ではなさそうじゃ。

 仮にどちらも一様に出来たとして。

「限りなく凹凸のない材質」と「限りなく密度差のない水蒸気」を接触させる。

 無風であると好ましかろう。風があるとムラが出来る。風とは要は、大気のうねりであり、やはりこれも密度差で考えられるじゃろう。

 で、限りなく無風で限りなく一様な場を各々で用意して、「さあいざ結露さんよ出でよ!」としたら、そのとき結露さんはムラなく一様に出来るのじゃろうか。

 ムラのない結露さんは、粒粒でなくて、のぺーっと最初から表面を満遍なく濡らすのじゃろうな。

 これってでも、よくよく考えたら親水性の高い素材に水を垂らしたのと同じことなのでは?と肩を落としてしまいそうじゃな。

 ムラなく濡れる。

 一様に、水分子さんたちが「ぬべーっ」と延びる。

 これはもう、ただ濡れているだけなのでは?(原子一個分の厚みしかないなら、それってボーズアインシュタイン凝縮では?)

 ちゅうかさ。

 根っこを穿り返してみたら、結露って何?って話よな。

 部分的に濡れとるのかね。

 水玉模様なのかね。

 局所的にお水さんたちが球形になって、だから部分的にしか濡れておらぬ状態が結露さんなのかね。

 分からんでよ。

 表面張力とは無関係なのかいね。

 なして結露さんは結露る?(結露することを名詞化して「けつろる」にするな)

 いっぱい濡れるところほど盛り上がって、球形になる。

 なしてー、と思ってしまうんじゃよ。

 一様でなくない?

 世界さん、一様でなくない?

 そう思ってしまうんじゃよね。

 結論は出ぬでおじゃるよ。

 結論が出ぬので、結出ぬじゃ(結論が出ないことを名詞化して「けつでぬ」にするな)。

 ぽわわ~ん、のきょうの、「もう、そう!」であった。

 けつろる、は、けつでぬ、であるよ。

 けつ「ろる+でぬ」=けつがカッコの外に出とるー!

 けつでとるね。

(おげひん)

(どこがよ)

(けつ、のところが)

(おしりってこと? でもおしりは誰にでもあるものでは?)

(でも、下のほうにあるから、おげひん)

(逆立ちしちゃうもんねー)

(じゃあ、上品)

(「お」もつけて)

(ネコのでもいいかしら)

(……「尾」ではなく)

(赤ちゃんのでもいいかしら)

(……「緒」でもなく)

(どこにつけたらよいのかしら)

(ここの、腰骨の付け根さんに)

(あらっ、お上品)

(どこが?)

(言い方が)

(でも、ケツはケツだけどね)

(おげひん)

(ひーん)



155:【2023/12/28(07:04)*りったーい】

 固有の「進法」があるのかぁ、となった。ぴこーんで、おじゃる。

 いやいや、真面目になろ。

 あのさ、あのさ。

 物質ってさ。基本は一次元で、面なわけでしょ。原子さんは球形のイメージだけれども実際は体積を考慮できるのかね。できないのではないのかね。

 よしんば原子さんが体積を考慮できても、電子さんはできぬのではないかね。素粒子さんたちはできぬのではないかね。

 でさ。

 わがはい、ぴこーん!しちゃったであるな。

 物質ってさ。

 原子さんたちが面で敷き詰められたときに、「もう無理でおじゃるよ、これ以上は敷き詰められぬでおじゃる」になった際に、「んじゃおぬしらの上に我が乗り上げてそうらう」って、ぽつーんっつって。ぽつーんつって、これまで面で並んでいた者どもの上に乗り上げる原子さんが出てくるじゃろ。

 もうこれ。

 十進法で言ったら、「11」「101」「1001」「10001」のやつ。

 でさー。

 もうさー。

 物質さんたちってさぁ。

 うぷぷ。

 それぞれに固有の「進法」が、あるんじゃなーい?ってわたくしめは、ぴこーん!しちゃいましてございますわ。お嬢さまとお呼びー!

 表面張力さんとかもそうだけど、こう、「一段目、二段目、三段目……」みたいに繰り上がるための閾値があるように思うんじゃよね。

 十進法さんで言えば、「一の位の棚」があって、そこには「123456789」まで入れられる。でも次の一個が入らぬので、「十の位の棚」を用意する。「十の位の棚」にはまだ何も入っていないけれど、「十の位の棚」は「一の位の棚」の上にある。高次にある。ゆえに、「十の位の棚そのもの」が「10」なのだ。いわば「棚がゼロの状態」である。

 この考え方は、「原子敷き詰め型物質解釈」と馴染みがよろしく存じ上げますわ。お嬢さまとお呼びー!

 真面目になるって言った。

 真面目になるぞ。

 で、なんだっけ。

 そうそう。物質って、各々に繰り上がるための「棚の許容値」が決まっていそうだなって。

 十進法だったら「9個まで入る棚」と「棚そのもの」を加えて「10」に繰り上がる。

 百進法だったら「99個まで入る棚」と「棚そのもの」を加えて「100」に繰り上がる。

 面から、つぎの棚に、段に、「ぴこーん!しちゃいますわ!」になる。

 物質はそれぞれを構成する原子さんごとの「棚に原子入ります数」が違っておるので、こっちは「9個」でぴこーん!になるけど、あっちは「999999個」でぴこーん!になります、になることもある。

 ぴこーん!になったら、面ではなく層になる。厚みでる。

 りったーい、になる。

 まとまりがなくなったので、まとめちゃおう。

1:物質は原子の集合だい。

2:原子は最初は面で並ぶんだい。

3:敷き詰められる数は、原子ごと、物質ごとで違うんだい(原子の状態でも違うんだい)。

4:それぞれに固有の「進法」が決まるんだい。

 陽子の数で原子の属性が決まる、みたいな話であるな。

 ひょっとしたら、素粒子の段階から「固有の進法」があるのかもしれぬであるな。

 ぴこーん!になったら、面でない。

 ぴこーん!になるには、棚を満たして、「もう敷き詰められぬ……」になる必要がある。いっぱいぎゅうぎゅう詰めになったら、ぴこーん!つって高次の場に飛びだせる。

 皺が寄る。

 したらそこにも、新たに棚が生じて、原子さんたちを詰め込める。

 こういうことなんではないの?

 そんなのは当たり前の話すぎて、なんの芽にもなりませぬなぁ。

 話の種にもなりませぬなぁ。

 ムッキーっ!

 食べちゃう。

 くだらない妄想は、種であってもおいちく食べちゃう。

 おいちー!

 ほっぺた落ちちゃうでな。

 あまりのおいちさに、お目目まで落ちちゃうでな。

 マジ、目。

 真面目になりましてござい。

 ((((さむーい))))

 どよめきの嵐でおじゃるな。

 冬でもあるしな。

 ムフーっ。



156:【2023/12/29(04:13)*読解は何が伝わっているの?】

 量子テレポーテーションについての疑問だ。

 ある何かがあり、それが観測されるまで状態が決定されない。観測された瞬間に、状態が決定される。

 細かいところを抜きにして、これって「文字を読む」ことと何が違うの?と素朴に思うのだ。

 文字は、文字を文字と捉える者がいなければそれは単なる染みであり、溝であり、起伏である。

 文字を文字と解釈されるまで、それは文字ではない。

 ただし、文字を文字として生みだした者にとっては、それは文字である。

 ただし、その文字が文字であることを承知可能な相手でなければ、それは文字として紐解かれることはない。

 つまり、書き手と読み手はもつれ状態である、と呼べるのではないか。同期している。

 そして文字は、もつれ状態の両者のあいだで「文字であり染みでもある」どっちつかずの状態を維持しつづける。

 読み手に観測されることでようやくそれが「文字」としての意味内容を受け取るが、しかし読み手側がそれを文字として見做さなければ、それは文字ではない。

 確率的な揺らぎを帯びている。

 これは絵でもそうだし、記号でもそうだ。

 何かを見て、何かの意味内容を新しく引きだす。

 意味内容がまるでテレポーテーションしたかのように映る。

 それこそ、文章が、過去から未来への手紙として機能し得るように。

 原理的に量子テレポーテーションは、これと何が違うのだろう、と気になっている。

 ひとまず疑問だけ述べておこう。



157:【2023/12/29(04:22)*比較対象が変わるから?】

 上記の流れで、もう一つ。

 秩序と混沌は、それを観測する視点によって属性のくくりが変化し得る。

 とあるラグ理論なるへっぽこぴーな理屈を捏ねたどこぞのぽんぽこぴーは、ミルクとコーヒーを混ぜたらコーヒーミルクになる。コーヒーミルクは混沌が極まっているが、その他の飲料物と比較するならばそれは一つの飲み物として秩序立っている。もっといえば、ミルクとコーヒーだって何かと水が混ざり合ってできた混沌の極みであろう。ならば視点によって、何が混沌で何が秩序なのかは変化し得る。

 と、ラグ理論なるへっぽこぴーな理屈を捏ねたどこぞのぽんぽこぴーは、「コーヒー牛乳おいちー!」と叫んだそうだ。

 だとしたらこれは、「観測者」と「対象となる系」の関係によって、その系の属性が決まる、とも言える。つまり、観測されるまでは、その系が混沌なのか秩序なのかは決定されない。言い変えるならば、観測者がどのように対象を認識するのかによって、エントロピーが高いのか低いのかが変わる。

 観測者の視点によっては――観測の仕方によっては――対象となる系のエントロピー値が変化し得る。

 これはまるで、量子(エネルギィ)テレポーテーションによってエネルギィが瞬時に移ろったように映る現象とも類似と解釈できそうだ。だが実際には、エネルギィが増えているわけではない。何と何の比較によって、その系がどのような状態なのか、の解釈の仕方を変化させただけだ。

 だがその解釈の仕方で、たしかにエネルギィの値は変わり得る。

 なぜか。

 エネルギィが勾配であり、差であるからだ。

 偏りがどれくらいあるか。どれくらい一様でないか。或いは、一様であるのか。誤差がないのか。

 フェアなのか。

 したがって、同じ対象物を観測するのだとしても、ではその対象物と何を比較するのか、で「誤差」の値は変化する。

 取りだせるエネルギィ、生じるエネルギィもまた変化する道理であろう。

 この「視点による対象物と比較対象の変化」と「量子もつれや量子テレポーテーション」は何が違っているのだろう。

 原理的には区別がつかないのではないか。

 文字を読むことと、過去と未来がもつれ状態となることの区別がつかないのと似たように。

 文字を介して、瞬時に情報を転送しているかのように振る舞う「執筆と読解」の関係性のように。

 詳しくは存じ上げぬけれども、じつのところ似たような事象なのではないか、と疑問に思う、万年お門違いの錯覚ちゃんなのであった。

 さっかくー。

(せっかくー、みたいに言うな)

(せっかく、錯覚してあげたのに)

(上から目線が癪に障るんですけど)

(癪に触っちゃいやん)

(触ってないし、意味ちゃうし)

(さっかくー)

(きみのは単に無知からくる誤解でしょ)

(新しく情報を生みだしちゃったかな)

(情報が上手く伝わらないなら、テレポートしてないじゃん)

(でもわたしが誤解したことで、わたしが誤解した、って情報が生まれたので、正確に情報が伝わっていないってことさえ判れば、それはもう情報伝達できたも同然では?)

(頭がこんがらがるようなことを言うのやめなさいよ)

(情報が上手く伝わらない、という事実もまた情報なのだ。なははー)



158:【2023/12/29(04:43)*観測者効果は受精卵?】

 量子もつれでない事象ってむしろ、あり得るのか?とわけがわからなくなりはじめとるわがはいである。もつれ状態ではない事象ってあり得るのか? 何かが存在したら、それは常にナニカシラともつれ状態になっているのではないか。自覚できるかどうかは別として。

 何かに観測されて状態が決定されると、もつれ状態の何かまで連動して状態が決定される。

 決定される状態が相互に対となっておらず、反転しないのであれば、これは卑近な現象と呼べるはずだ。

 反転する。

 観測されるまでは、どちらでもありかつどちらでもない。

 この固有の性質が、量子もつれを量子もつれたらしめている、と言えるのではないか。

 そうでないならば、観測されるまで状態が決定されない、なんて当たり前の話ではないか。外部からの干渉がなければ、その外部からの干渉との関係性のうえでは、そこには状態が存在しない。曖昧な確率的揺らぎを帯びている。当たり前の話である。

 なぜ対の関係性が成り立つのか。

 一つには、ものすごい単純な構造体だから、と考えられる。ほかに属性や状態を持ちようがない。余白がない。白か黒か、縦か横か、しかない。しかしすこしでも余裕を獲得すると、灰色や斜めの余地を帯びるのかもしれない。それでもなお、観測されるまで観測者との関係のうえでは状態が決定されない、との法則は活きることとなる。

 観測者が、対象の何に着目しているのか、に依存している可能性はないのだろうか。

 量子もつれ状態の対のナニカであれ、着目する属性を変えるだけで、量子もつれ状態と見做せなくなったり、或いは重ね合わせで、多数のもつれ状態を顕現している、なんてこともあり得るのではないか。

 この辺は調べて、否定できているのだろうか。

1:観測されるまで、観測者との関係のうえで属性が決定されない。

2:観測されると、観測されて状態が決定されたのとは別の「対象ともつれ状態の(対の)ナニカ」の属性まで決定される(ただし、観測者との関係のうえで)。

 こういうことなのではないのだろうか。

 観測者の視点を無数に用意しても、量子もつれによる観測者効果は、一つに絞られるのだろうか。

 同時に観測する、ということが可能かは不明だが、しかし「量子もつれ状態のAB」を同時に別々の観測者が別の地点から各々に観測することは可能なはずだ。

 ではこのとき、別々の観測者が「同じ観測結果」を得たら、それは「量子もつれ状態のAB」において、別々の結果が同時に存在していると考えられるのではないか。

 なぜなら、「量子もつれ状態のAB」を別々の観測者が、それぞれ別の場所で片方はAを、片方がBを同時に観測したとする――このとき、本来ならばABは別々の属性を顕現させるはずだ。対になっている。表裏の関係になっているからだ。

 だが、もし別々の観測者がABを同時に観測し、同じ属性を観測したら、それは重ね合わせ状態が引き継がれながら、「各々の観測者にとってのABとの関係」が決定されてなお、崩れない。両立される。ということを示唆するのではないか。

 こうした実験は行われているのだろうか。

 観測者が一人でなくとも、状態は一つに決まるのか。

 同時に複数の視点から観測されても状態は一つに決まるのか。

 これは卵子と精子の関係を彷彿とする。

 卵子と受精できるのは一つの精子だけだ。

 卵子に干渉できるのは一つの精子だけなのだ。

 何かを観測することを、何かへの外部干渉である、と解釈するのならば、卵子を観測することと卵子が精子と受精して受精卵になることは、似ていると考えても齟齬はさほどに大きくはならないだろう。

 観測されると状態が決定される。

 卵子が受精すると、結びついた精子に固有の受精卵となる。

 けれど稀に、複数の精子が同時に卵子と受精することがある。

 似たようなことが、量子もつれの観測でも起きないのだろうか。

 この疑問は結構前からぽやぽやと浮かべては、保留している謎である。わからぬである。

 結論はいまは出せぬので、メモだけしたろ。

 わがはいちゃんでした。



159:【2023/12/29(05:03)*ステーキな日】

 掛け算の順序についてだ。

 結果が同じなのだから、「A×B=C」も「B×A=C」も同じだろう、との指摘がなされるわけだが、これは単に解を導くだけならば、たしかにそうですね、で終わる話である。

 ただし、それを言うならば、「生命はどのような経路を辿ろうとも最終的に死ぬわけである。ゆえに、どのような人生を送っても構わない」との帰結に至る。

 だが、死ぬまでの過程を含めて人生である。結果が同じであっても、やはり過程の差異は無視できぬ道理ではなかろうか。

 過程が違えば、過程を込みで計算する際には、やはり順番の差異は誤差を生むと考えられる。

 最終的にゴールの位置が同じであれ、迷路そのものの経路(形状)が異なるのならば、「迷路A+迷路B(迷路B+迷路A)」や「迷路A×迷路B(迷路B×迷路A)」の解は変化するはずだ。

 積み木のようなものである。

 形状が異なるブロックをどのように組み立てるのか。

 ブロックの形状が同じでも重さが違えば、全体の積み木の組み立て方には誤差が生じる。反対に、重さが同じでもブロックの形状が異なれば、やはり全体の積み木の組み立て方には誤差が生じるだろう。

 掛け合わせる順番、足し合わせる順番は、意外にも、計算をつづけていけばいくほど、誤差を蓄えていくものなのかもしれない。

 たとえ解に差異が生じないとしても、その膨大な計算過程そのものの情報量に変化が生じる。高次の解は変質し得る。

 そういうことを思う、九九の不得手なわたくしなのであった。

 2×9=18

 肉=ジュー、熱ぃー(はちぃ)!

 ステーキ=ステキ!

 なんつって。

 がはは。



160:【2023/12/29(07:10)*一様であっても一様ではない】

 宇宙を横断する長い長い棒を用意しよう。棒が四角形ならば、すこし回転させるだけで別の面を上にすることができる。この手法を利用すれば、瞬時に遠くに離れている場所に情報を伝えることができる。宇宙を横断する長い長い棒の四つの側面に「ABCD」とそれぞれ書かれていたならば、棒を回転させるごとに、伝えたい記号を、宇宙の端と端であれ、瞬時に伝えることは理論上可能だ。

 ただし、仮にとんでもなく頑丈だとしても、物質には弾性がある。情報伝達の壁がある。言い換えるならば、情報はどんなに速くとも、光速以下でしか伝わらない。

 ゆえに。

 たとえば地球から十光年離れている地点まで「長い長い棒」を伸ばしたとして。

 地球で棒の端っこをくるっと回転させたところで、反対側まで瞬時には伝わらない。その「くるっと」はドミノ倒しのように、時間差で十光年先へと届く。それはあたかも、波のようにも振る舞うだろう。地球にある棒の先端から順々に、十光年先へと「くるっと」が伝わっていく。棒がドミノ倒しのように回転する。

 まさしく、ねじれていく。

 棒が頑丈でなければ、地球の先端にある棒を「くるっと」ねじっただけで、耐え切れなくなった箇所で千切れてしまうはずだ。折れてしまう。

 この「耐え切れず折れてしまう現象」は、頑丈な長い長い棒であれ発生し得る。光速度の限界を突破できない以上、どこかしらに遅延が蓄積することが想像できる。

 たとえば、棒でなくともよいのだ。

 ほぼほぼ抵抗のない液体を(それともガス)を、宇宙に注いでいく。無限にも思える膨大な量の液体を(それともガス)を、等速度で注ぎつづける。

 順当に考えるならば、液体やガスは、ほぼほぼ抵抗がないがゆえに、同じ厚さ、同じ速度、同じ面積、同じ方向に、拡散するはずだ。

 もし宇宙に空いた穴から四方八方に「ほぼほぼ抵抗のない液体(もしくはガス)」が等速度で流れつづけるのならば、どこにも遅延は生じず、一様だ。そのとき、その「拡張しつづける液体(もしくはガス)」はまさに膨張しているように振る舞うだろう。

 けれど実際には、物質には重力がある。重力は加算されるとより大きくなって振る舞う。したがって、等速度で流れつづける「ほぼほぼ抵抗のない液体(もしくはガス)」であっても、「半径十キロに拡散した場合」と「半径十光年に拡散した場合」とでは、そこで生じる重力に差異が生じることが想像できる。

 そして重力とは時空の歪みである。時空が歪めば、時間も空間も伸び縮みする。

 したがって、等速度で一様に流れていたはずの「ほぼほぼ抵抗のない液体(もしくはガス)」であれど、それの内部と外部とで「時空の歪みの差」が生じるはずだ。

 内部であれど、階層的に時空の歪みは生じるはずだ。どこで区切るかで重力の強さが変わる。それはまさに、「ほぼほぼ抵抗のない液体(もしくはガス)」の辿ってきた軌跡ごとに重力の強さ――時空の歪み具合――を記録しておくようなものだ。その記録のある個所ごとに層ができ、時空の歪みの境界線が出来ているかのように観測されるはずである。さながら年輪のように。

 なめらかに繋がっているようでいて、繋がってはいない。

 観測者がどのように系を区切り、枠組みを当てはめて解釈するのかによって、境界はその都度に姿を現す。

 そして現に、総合した重力の強さは、どこを区切りと見做すのか、で変わるはずである。

 ひるがえって、「ほぼほぼ抵抗のない液体(もしくはガス)」もまた、総合した重力(時空の歪み)の影響を受けて、相対的に「流れる速度」を変えるはずだ。

 つまり、遅延が生じ得る。

 仮に、等速で流れるのだとしても。

 等しく拡散し、等しく膨張して振る舞うのだとしても、実際には各所で遅延が生じ、俯瞰で観ると一様ではない。たとえいかに一様であろうとしても、一様ではなくなるのだ。

 均一であっても、均一ではなくなる。

 対称であろうとしても、非対称の側面を覗かせるようになる。

 ただしそれは、視点ごと、何をどこまでのフレームと見做すのか、によって変質する。

 そういうことを、量子もつれや量子テレポーテーションを考えると思うのだ。

 或いは、「混沌と秩序」「一様と多様」「対称と誤差」を考えると思うのだ。

 そう。

 ミルクと紅茶のように。

(そこはコーヒーじゃないのかよー、コーヒー牛乳じゃないのかよー)

 ミルクティおいちー!

(ぶーぶー)

 うふふ。おもちろーい。




※一様に、一様ではない。



161:【2023/12/30(10:58)*はっ、そうかも!?】

 おーっとなったきょうの妄想である。

 とあるラグ理論なるへっぽこぴーな理屈を唱えたぽんぽこぴーは、「トーラスと球体は例外的に同相たり得る」と述べたそうだ。

 わたくしは詳しくは知らぬので真偽は不明だが、想像してみるとたしかに、ひと繋ぎになり得るか?と思えなくもない。

 たとえばトーラス(ドーナツ)の穴を中心に向けてどんどん狭めていこう。すると横から見ると「∞」のようになる。穴があるんだかないんだかよく分からぬ形になる。

 この横から見たら「∞」のようになる図は、球体を上下から中心に向かって押しつぶした形と似ている。球体を上下から中心に押しつぶすと、横から見れば「∞」のようになる。

 トーラスにしろ球体にしろ、中心には穴とも起伏ともつかぬ何かが出来る。特異点と想像できる。

 トーラスの場合は、とんでもなく小さな穴であり、球体の場合はとんでもなく小さな突起となるはずだ。

 どちらも面積を持たない点と解釈可能に思えるが、いかがだろう。

 そして、このとき、さらにトーラスの穴を小さくしていこう。ゼロよりさらに小さくし、マイナスにしてしまう。すると、穴のあった座標から外れて、虚数方向へと穴は広がっていくはずだ。

 ただしそれを、トーラスの穴があった座標からは観測できない。そこではない別の座標方向に穴が広がるからだ。

 同じことを球体を上下から押しつぶしてできた中心の突起にも当てはめよう。

 押しつぶして押しつぶして、面積をゼロにする。

 さらにその向こう側のマイナス方向へと押しつぶしていけば、それまで起伏のあった座標軸ではない座標へと、起伏は広がりを帯びていくはずだ。するとこれは、あたかも穴が広がっていくように振る舞うかもしれない。

 つまり、トーラスの場合は、穴を収斂させ、ゼロ地点の向こう側へとさらに穴を収斂させようとすると、それはどんどん球体にちかづいていく。

 反して、球体を押しつぶして起伏をゼロの向こう側へと広げていくと、トーラスの穴のようになっていく。

 トーラスの穴は、トーラスそのものを囲う時空と繋がっている。ほぼほぼ無限の広さを想定できる。反して球体の内部は、有限であるが、トーラスの穴をマイナス方面へと無限大に拡張すれば、その球体の内部もまた無限の空間を湛えるようになるだろう。

 むろん、トーラスそのものの内部も有限である。だがトーラスを無限に膨張させれば、その体積も無限になることは想像がつく。

 対照的に、球体を上下から押しつぶして、真ん中の特異点をマイナス方面へと拡張させるならば、そのときに生じるだろうトーラスは、無限に穴を拡張しつづける円のようになっていくだろう。

 トーラスと球体と円もまた、同相なのかもしれない。

 そして、それらを取り囲む空間そのものが、それら「トーラスと球体と円」の構成要素足り得ている。

 ということを、双曲面なる「ディアボロ(中国独楽)」に似た図を眺めて思いました。時間差で。だいたい三か月越しの「はっ!? そうかも!?」であった。

 発想!

(根本的に間違っておるでしょう。真に受けぬようにご注意ください)



162:【2023/12/30(16:46)*どっちでもA】

 掛け算の順番について。

 「A×B」の前後を入れ替えても解が変わらず、計算に支障がないとする理屈が妥当ならば、前後を入れ替えたら意味内容が変わるので誤差が生じ得る、との意見を否定しつつも、解が変わらないのだから、ひとまず順番を入れ替えないように縛りを設けてみればよい。

 それで何か困ることが起きる場合、それは「A×B」の順番を入れ替えたら何かしら誤差が生じることの傍証と言えるのではないだろうか。

 どっちでもいいなら、どっちでもいいのだから、どっちかだけを選んでもよいはずだ。

 むろん両方選べたほうが自由度は高まる。

 そういう道もあってよいが、それをすべて、と限定してしまうのもまた自由とは言い難い。

 掛け算の前後を入れ替えても解が変わらないのだから掛け算の順番は限定されない、との解釈をとりつつも、解が変わらないのだからどっちでもいいわけで、ならばひとまず順番を作ってみよう、とする考えも拒絶せずにいればよい。

「あなたの意見には反対だが、でも賛成したところでこちらは困らぬので、どっちでもいいし、好きにおし!」

 ひとまずこれでよいではないか。

 どちらの意見にしろ、それを絶対視しなければよろしい。

 単純な話に思うが、違うのだろうか。

 よく分からぬ論争である。

(論争なのか?)

(わからぬである)



163:【2023/12/30(19:48)*大小があるなら誤差もあるはず】

 無限には大小があるそうだ。

 ならばゼロにも大小があるはずだ。

 無限とゼロが数ではなく、状態を示す記号ならばそういうことになる。無限とゼロが同相ならば、そういうことになる。

 ただし、「無限とゼロが数ではない」「無限とゼロが同相である」との妄想を唱えているのは、いまのところどうやらわがはいだけらしい。

 かなちー。

 ……くない!

 かなちくない。

(ちなみに無限は数ではない、は割と一般的な解釈らしい。ゼロも混ぜよ!と思うのだけど、ダメかな)

(ダメだよ)

(なんでー)

(かなちー)

(……くない!)

(がはは)



164:【2023/12/31(12:06)*物わかりわるくってごめんなさい】

 量子テレポーテーションについての疑問じゃ。

 離れた地点ともつれ状態にある二つの「粒子(系)」同士で、片方を観測するともう片方の属性も決定される。こういった解釈をされるけれど、それホントー?とやはり直感としては思ってしまうな。

 でも直感に反する事象はたくさんあるので、直感に反して感じたところで、世界がそうなっているんですよ、と言われてしまえば、そっかー、となる。

 実験しても確認されているそうなんじゃ。

 けんどもわがはい、やっぱり思ってしまうのだ。

 観測するってことは、干渉しているってことで、相互に作用し合っていると考えられるんじゃないのって。

 んで、距離を隔ててもつれ状態の二つの粒子は、やっぱり距離が離れている分、同時に干渉しようとしなければ、ラグが生じるよなぁって。

 一方だけに干渉して、なぜもう一方にも干渉したかのような変化が生じるのか。

 これはひょっとしたら解釈に齟齬があって、実際にはもつれ状態の粒子は単に同期しているだけで、一方に干渉することでその同期が解けるので、その瞬間に属性が決定されるだけなんじゃないのって。

 いわば延々と続く波紋だ。波紋はどこまで拡張しても、連続して変化しているように振る舞う。上から波紋を覗けば、「◎」こんな具合になる。このとき「○」の円周において、中心を通る直径の端と端は、もつれ状態にあると解釈できるはずだ。

 そして、「○」がちぎれて「C」になったら、もうこの時点で、直径の端と端は、「円の直径の端と端」ではなくなる。たとえ千切れたのが「一方のみの端」であっても、同時に「円の直径の端」ではなくなる。

 似たようなことを、量子もつれに思うのだ。

 で、これを人間スケールの事象に当てはめて考えてみよう。

 たとえばわがはいはこれ、スナイパーさんを連想する。

 獲物はスナイパーさんに狙われていることを知らない。見られていることを知らない。獲物にとってはいつもの日常だ。よもやじぶんの死の確率が高まっているなどとは夢にも思わぬ。

 でもスナイパーさんが獲物に焦点を絞れば絞るほど、獲物さんの死の確率は高まる。

 んで、スナイパーさんが引き金を引いたら、一挙に獲物さんの死の確率は頂点に向かって極限し、弾が命中したら、「あーれー!」になる。もちろん弾が当たっても即死する場合とそうでない場合があるから、一概に「引き金を引いただけ」「弾が当たっただけ」では死の確率が収斂するとまでは言えぬ。

 けんども、スナイパーさんが照準を絞るだけでも、獲物さんの死の確率は上がるのだ。

 でも獲物さんの視点では、じぶんの死の確率が上がっていることは知れぬのだ。

 でもでも、スナイパーさんの絞った照準は「スナイパーさんの視点においては、スナイパーさんと獲物さんの関係性において、獲物に干渉している」と言える。

 けれども、獲物さんの視点ではまだ、スナイパーさんから干渉されている、とは言えないはずだ。ただし、観測されているということは、電磁波を介して情報の伝達が行われているので、その点では、相互作用し合っている、と呼べる。

 ただしよりマクロな「総合した広域の系――複雑系を織り成す構造体規模での系――すなわち肉体規模」においては、相互作用した、と言えるほどの干渉の仕方はしていない。影響力は軽微だ。

 しかし本来は無視できるその軽微な相互作用――照準を絞る――というだけのことが、獲物さんの死の確率を上げる。あくまで、スナイパーさんの視点では。

 スナイパーさんが引き金を引き、放った弾が命中するまでは、獲物さんにとっての死の確率は、平坦なままだ。いつのも日常の延長線上でしかない。

 この認識する系の差異――何を知り、何が起こり得るのかの変数の知覚――によって、各々が取得可能な情報量は変化する。

 これを量子テレポーテーションの原理として解釈するならば、呑み込めるのだ。だってそんなの当たり前の話だからだ。何も変ではない。

 ラグなしで相互作用しているわけではないし、単に情報取得の優位差があるばかりだ。ただし、より広域な系を想定することで、その内部に内包された系にはない情報を加味することは可能だ。

 一方で、一般的な量子テレポーテーションの解釈では、このような考え方がなされているわけではないらしい。ラグなしで、距離の隔たったもつれ状態の粒子が、やはりラグなしで情報伝達をするかのように解釈されている。

 それホントー?とやはり思ってしまうわがはいちゃんなのであった。

(だいたいさー、二重スリットの干渉紋の実験だってさー。大量に発射した電子の痕跡が観測したら消えるって話でしょう。干渉したんだからランダムさが打ち消されるのは当然に思うんですけど、この疑問はお門違いなのかしら)

(よく分からぬである)



165:【2024/01/01(13:51)*ことしも4649!】

 今年になっとるー!

 いつの間にか今年になっとるー!

 わーい。

 新しくまた「一年さん」が補充されたであるな。

 いっぱいまた使いまくりの浪費しまくりである。

 時間さん、たーっぷりの365日なのだ。

 もはや去年さんのことは忘れてしまったであるな。何をしていたのか忘れてしまったであるな。むしろ憶えていられるだけの何かをしてたであるか?との疑問がぽやぽや湧くであるが、あってもなくともどっちでもよいである。

 今年はどんな年にしたいであるか?

 そうであるなー。

 わがはいは、そんな目標とか前提とかにわがはいのその場その場のデタラメしっちゃかめっちゃか欲求の赴くままに、在るがままに、を邪魔されたくないであるな。

(我がままじゃん)

 我がままであるぞ。

(確固とした「我」があるのか、お主に)

 はっ……ない、かも。

(我がままなのに、その我がなかったら、単なる「まま」ではないか)

 んじゃそれで。

(どれよ)

 わがはい、みんなの「まま」になる。

(ママに!?)

 母親ではなく。

(じゃあ何よ)

 世がままに。

(我がまま突き抜けて、世界と同化しちゃった)

 どうかしちゃったかなー。あははー。



166:【2024/01/01(14:47)*時空重複仮説】

 人類はいまのところ時間の流れを「映画のフィルム」のように線形で認識している。流れの方向があり、一方から一方へと流れる。そしてそのとき、現在を、過去や未来と重複するようには想像しないのではないか。

 さながら、川の流れのように認識する。

 上流と下流は重複しない。離れている。このように想像する。

 だが実のところ、過去も未来も現実も重複しているとしたらどうだ。時間のみならず、空間までも重複している。

 映画で喩えるならば、フィルムをすべて積み上げ、さらに厚みも消してしまう。一枚のフィルムに、始点から終点までが重複している。上書きされている。

 真っ黒もしくは真っ白になってしまいそうだが、それはあくまで人間スケールでの連想だ。

 実際には、過去と現在、そして未来には距離感はなく、総じてが部位的に重複し得るのかもしれない。

 それこそ、レイヤーのように。

 各層が重複することで一つの情景を浮かび上がらせる。

 ただしその「過去、現在、未来」が重複した像を人類は認識するのが不得手なのかもしれない。

 だが、これは近似的には人間の意識がそもそも「過去、現在、未来」の重複した像と解釈することも可能だ。けして「いまここだけ」「現実だけ」を定点で認識しているわけではない。幅がある。「過去と未来」の揺らぎの合間に「現実なる像」を見出している。情報処理している。

 似たように、これは時空にも言える道理かもしれない。

 宇宙が膨張しているとして。

「開闢時の状態」から「膨張しきった状態」が、実のところ乖離しておらず、重複していると解釈すれば、そこには刻々と蓄積されていく誤差が、ある種の紋様を浮かべるようになるだろう。むろん紋様はやはり過去の紋様と重複してさらなる紋様を生む。この繰り返しの果てには、限りなく無の「紋様を浮かべる余地のない状態」に行き着くことが想像できる。

 ブラックホールも宇宙の熱的死も宇宙開闢時前の状態も似たようなものなのかもしれない。

 もうすこしこの妄想を巡らせよう。

 重複した「過去現在未来」は誤差を刻々と蓄える。そしてそれは、重複する部位の「減少と増幅」を繰り返すはずだ。前と後で差異があるならば、重複しない。重複する箇所は減少する。だが同時に、より誤差の大きい過去や未来において、重複する部位も新たに出てくる。この繰り返しが、高次の律動を描き、高次の紋様を別途に描きだす余地を生む。

 つまり、紋様は高次に多層で展開される。

 このとき、「過去現在未来」において過去が変われば連動して、その後の紋様の「重複部位」も変化する。

 だが必ずしも、高次の紋様の重複する部位までもが変化するとは限らない。

 過去が変わってもなお維持される高次の「重複部位」も出てくるだろう。それはたとえば、映画の一コマを変化させたところで、全体のフィルムの長さや展開が変わらないことと似ている。だが同時に、たった一コマの変化が、全体のフィルムの長さや展開を変えることもある。

 バタフライエフェクトが生じる場合とそうでない場合がある。

 そしてバタフライエフェクトが生じる場合は、「低次の紋様の重複」と「高次の紋様の重複」が同期している、と想像できる。同期しているので、ちょっとの変化が未来の変化に繋がっている。すこしの変化が大きな変化に変換され得る。相互に変数を共有しているためだ。共鳴関係にある。

 だが必ずしも同期するわけではない。

 その場合は、過去の変化が未来にとっての大きな変化には繋がらない。単発の誤差としてどこにも重複することなく数多の誤差に埋もれることとなる。

 だが埋もれた誤差とて、紋様が嵩めば嵩むほど、重複する部位は出てくる。

 ゆえに、ある時点では外部環境に影響を与えていないようであっても、空白の期間を開けたあとで突如として環境に対して影響を与えることも出てくる。

 つまり、何もしないことが影響力を帯びることもあり得る。

 まとめよう。

 1:時空の軌跡を一枚のフィルムのうえに投影すると、重複する無数の紋様が浮かび上がる。

 2:時空の始まりから終わりまでを一枚のフィルムのうえに投影すると、フィルムには紋様を浮かべる余地がなくなる(一色に塗りつぶされる)(ゆえにそれをして、新たな無地のフィルムと見做すことも可能だ)。

 3:紋様と紋様を描く線は、時空の変質によるその都度の誤差によって生じる。

 4:誤差による重複部位は、高次の紋様と同期することもある(同期する場合は、バタフライエフェクトを得やすくなる)。

 5:誤差がどことも重複せずとも、いずれは何かと重複することも出てくる。或いは、いっさいどことも重複しないのであれば、それは時空の変遷において空白地帯として「継続して残る軌跡――影響力」を帯びる、と解釈できる。

 以上である。

 この妄想は中々に、「もう、そう!」であった。

 ちょうふくー。

 なははー(788)。



167:【2024/01/01(19:38)*どーなっとるのドーナッツ】

 あれ?ってなった話。

 ブラックホールってさ。

 極小だと瞬時に蒸発して形状を長くは維持できないらしいんだって。

 でもさ、でもさ。

 ブラックホールさんの特異点さんはシュバルツシルト半径のもっと中心にあるわけでしょう。んで、シュバルツシルト半径から特異点までは光速ちかくで加速して圧縮されちゃうわけでしょう?

 じゃあさ、じゃあさ、それってさ。

 光速で運動する物資と似ているよねってわがはいは思うんじゃ。

 で、光速で運動する物質ってさ、時間の流れが相対的に遅れるわけでしょー?

 素粒子だって光速で運動したら、相対的に周囲の時空と比べて時間の流れがゆっくりになる。寿命が延びて振る舞う。

 じゃあさ、じゃあさ。

 極小のブラックホールさんだってさ、瞬時に蒸発はしないんじゃないのー?ってわがはいは疑問に思っちゃったな。

 しょもしょもさ。

 ブラックホールさんは光速にちかい速度で自転しておるのではないのかね。だったら時間の流れだって遅れとるのではないのかね。

 じゃったらさー。

 二重に遅れておるんではないの?

 どこかのラグ理論なるへっぽこぴーな理屈を唱えたぽんぽこぴーは、ブラックホールはどれも元の基準時空から乖離して、ほぼほぼ静止状態になる、と嘯いたそうな。真偽のほどは不明じゃけど、あながち間違いではないのではー?と疑問に思ってしまったわがはいなのであった。

 ブラックホールさんにお詳しいみなさま方にお尋ね申す。

 そこんところ、どーなっとるの。

 ドーナッツ!

 おいちー!



168:【2024/01/02(09:58)*二重三重多重】

 初夢はブラックホールさんの夢であった。

 ブラックホールさんには、降着円盤のあるブラックホールさんと周囲になんもない「さびち、さびち」のブラックホールさんがあると思うんじゃ。

 で、降着円盤さんは無数のガスや塵や物質さんたちで出来とるわけでしょー?

 じゃったらさ、それって要は、そこにも高重力の何かがうねうね動き回っているって考えられると思うんじゃ。

 でも周囲になんもない「さびち、さびち」のブラックホールさんでは、その周囲の高重力体のうねうねがないわけでしょー?

 したらさー。

 相対性理論さん的にさー、高重力体さんたちのうねうねがあるときは、時空さんが歪んでいるわけで、時間の流れの速さも変わっているわけなわけでしょー。

 したらさ、したらさ。

 同じ規模のブラックホールさんであっても、「周囲に降着円盤さんがある場合」と「さびち、さびちさん状態の場合」とでは、ブラックホールさんが帯びる時間の流れも、基準宇宙さんからしたら違って観測されちゃうんじゃないのー?ってわがはいは疑問に思っちゃったな。

 高重力のうねうねバリアをまとっているかどうかの違いというか。

 遅延の層の鎧をまとっているかどうかの違いというか。

 でもでも、ブラックホールさんそのものがもっと「カッキーン!」の遅延の層をまとっておるから――つまりシュバルツシルト半径さんをまとっているから――光速にちかい速さで自転してもおるから――やっぱり二重に、ときには何重にも遅延の層をまとっているのではないのー?ってわがはいは思っちゃったな。

 でもさ、でもさ。

 これってさ。

 ブラックホールさんに限らない話なんじゃないのー?ってわがはいは疑問に思うんじゃけど、ブラックホールさんにお詳しいみなみな様は、どう思われますか。

 もちろんわがはいの思いつくような、「しょもしょもさー」の疑問はとっくに議論し尽くされておるはずなので、インターネッツさんに目をぱぱーんつって配ってみたら、答えは見つかるやもしれぬ。でもでも、どうせならば実際にブラックホールさんに目を配って、ぱぱーんっつって答えを直接見つけちゃってもよい気がする。

 ぱぱぱーんっつって。

 なはは。

(きょうはママんではなく、パパんなのな)

 ママーん、でもいいよ。

(いい加減かよ)

 788。

(何それ)

 なはは。

(どうせなら、288にしたら)

 にぱぱ?

(2828でもいいけど)

 にぱにぱー。かわい!



169:【2024/01/02(10:12)*偶然すぎるんですけど!】

 上記を踏まえて。

 ということは、ブラックホールのジェットは、ブラックホールそのものの作用というよりも、降着円盤そのものの時空のうねりによる作用、と考えたほうが妥当なのではないか。

 もうすこし妄想を深めると、現状「ブラックホールの自転と考えられているジェットの傾き」は、あくまでブラックホールの周囲の降着円盤などの物質の回転に起因するものであり、むしろブラックホールそのものは光速もしくは光速以上で運動しており、その余波の時空のうねりにより、周囲の物質が「ほぼ光速」で運動しているように観測できるのではないか。

 「降着円盤の回転速度」や「ジェットの傾きから推測される天体の自転速度」は、ブラックホールそのものではなく、その余波による時空のうねりと相互作用する周囲の物質の運動速度、と解釈するほうがより妥当に思える。

 人体の表面温度と体内温度には差がある。

 同じくらい単純な理屈だが、いかがだろう。

 イメージとしては、水中に沈んだ球体カプセルだ。球体カプセルの内部と外部はカプセルによって区切られている。球体カプセルの中が真空だとしたら、水と真空は乖離していると解釈可能だ。

 このとき、球体カプセル内部で磁石が高速回転したら、その影響は外部の水にどのように作用するだろう。影響は皆無だろうか。それとも球体カプセル内部の磁石の回転に影響を受けて、水に何かしらの作用が加わるだろうか。球体カプセル内部で回転するのが磁石でなくとも構わない。何か物体が高速で運動する。その回転する物体は球体カプセルには触れない。

 球体カプセル内部で高速運動する物体は、運動速度が上がるたびに質量を増す。重力を帯びる。

 その影響は、球体カプセル外部の水中にどのように作用するだろう。

 たとえ乖離していたとしても、球体カプセルと内部では影響が伝播し得る。

 とはいえ、実際には球体カプセルの内部と外部は乖離しておらず、磁力や重力が作用し合っている。エネルギィも流動するだろう(つまり、温度が伝わる)(たとえ球体内部が真空であっても、電磁波は伝わるので、熱の受け渡しは可能だ)。

 したがって、この比喩はやや的を外しているかもしれない。

 ただ、イメージとしては、ブラックホールの降着円盤やジェットを観測したとしても、それイコール「ブラックホールの自転速度」とはならぬよな、と思うのだ。

 素朴な疑問であった。

 根本的に何か勘違いや齟齬が含まれるでしょう。真に受けぬようにご注意ください。

(記事ナンバーが「169」だ。わがはいは、なんも意図しておらぬ。偶然である)



170:【2024/01/03(17:41)*なんか言ってみろーおらおらー】

 またもや「0.999……=1」についての話題だ。申し訳ね。

 何かを無限に分割していけば、最終的な「余り」は超微小になるがゆえにそれを無視できる、との理屈ならなるほどたしかに「0.999……=1」は正しい解釈と見做せる。実際、地球から原子一個が消えたからといって、その誤差は地球全体からすればあってないようなものだ。影響は無、と解釈し、実質何も変わっていない、とも見做せる。

 この問題はいわば、「0.999……=1」における「0.000……1」を「ないもの」と見做す――これを許容するかどうかの議論に収束するだろう、と言えよう。

 で、わがはいは思っちゃうんだな。

 原子一個の誤差とて「E=mc[2]」の公式にあるように、実際には無視できないほどの誤差に変換可能であることはそう珍しくないのではないのか、と。

 たとえばこの宇宙が無限の時空を湛えていたとして。

 それと比較すればたしかにわがはいはあってなきがごとくの存在である。あってもなくとも宇宙さんにとってはなんも変わらんだろうて。けんども、わがはいが存在する事実は変わらぬのだ。無視されたらわがはいが困る。「0.000……1」たるわがはいは困るのだ。

 で、似たような視点として、「この宇宙から原子一個、または素粒子一個が消失し得る」としたら――「超微小をないものと見做しても構わない」のだとしたら――質量保存の法則も、エネルギィ保存の法則も破れることになる。法則が覆る。

 実際には対消滅なる現象があるし、例外的に「粒子が高次元方面に消えて振る舞うような現象」が観測されることもあるらしい、と見聞きしたりするので、質量保存の法則もエネルギィ保存の法則も例外的に破れていてもこの宇宙では別段おかしくはないのかもしれないのだとしてもだよ、君。

 やっぱりこう、無限に対して超極小のわがはいのような残滓さんとて、存在するものをないものとして見做すことは、法則自体が書き換わるくらいに大きな影響を生むと考えられるのではないのー、と思うんじゃ。

 超微小の影響力がほぼ皆無だからといって、無視してしまうと、全体を形成する根幹たる法則そのものが書き換わるほどの「超ドでかい影響力」を生みだし得る。

 現に、「0.999……=1」における「0.000……1」があってないようなものがゆえに無視しても構わない、のならば、別にあってもよいではないか。

 影響はないのだろ、君。

 存在して困る、というのならそれは、影響力を帯びているではないか。

 無視したらあかんのではないのー、とわがはいは思うんじゃ。

 おらおらー、なんか言ってみろー。

 言い返してみろー。

 ぎゃはは、ぎゃはは。

 悪魔になっちゃうな。

 きゅーとな、きゅーとな、悪魔さんになっちゃうな。

 なりてーずら!

 きゅーとな、きゅーとな悪魔さんになっちゃうが。でーびっび、でーびっび。

(デベソみたいに聞こえる)

 デベソですが?

(見せんでいい、見せんでいい! 聴診器を持ったお医者さんにお腹を見せる子どもみたいにTシャツぺろんってしなくて結構です!)

 あっ!

(こんどは何!?)

 クマ!

(目をつつくな、それはベアーじゃなくて、目の下のクマじゃ)

 あぁ……くま。

(寝不足でごめんねー!?)




※一様に、きゅーとなQとな9とさん、合わせてぴょこぴょこ93じゃ、サンキュー。



171:【2024/01/04(10:48)*式にしたった】

「1/3×3=0.999……×3=1」は何回3で割るかを無視している。

 無限回3で割るならば、無限回3を掛けなければ不自然である。

 ならば「無限回割る、かつ無限回掛けるの情報が欠けている」と考えられる。

 このとき、「0.999……」と「0.000……1」は「無限回の計算でもつれ状態」にあると考えられる。相関している。値の単位を縛り合っている。

 したがって、「0.999……」と「0.000……1」における「……」は同じ無限を表現している。

 ゆえに、「0.999……÷9」と「0.000……1÷9」も対応することになる。


 式にしてみるぞ。


「1÷9を∞回実行=(0.999……)=∞a」

「1÷9を∞+1回実行=(0.999……)+(1-0.999……)÷9=(0.999……)+(0.000……1÷9)=∞b」

「1-(0.999……)=1-∞a=(0.000……1)=∞c」

「(0.999……)+(0.000……1)=∞a+∞c=1」

「(0.999……)<(0.999……)+(0.000……1÷9)<1」

「∞a<∞b<∞a+∞c=1」


 わがはいは数学がからっきしなので間違っておるでしょう。

 デタラメ並べてごめんなさーい。

 きょうの日誌こと「今日記」でした。

 うりゃあ!



172:【2024/01/04(18:16)*えーんしん! とう!】

 遠心分離機は遠心力を用いて、対象となる物体の成分を分離する機構だ。

 で、思うのが。

 遠心力によって成分が分離する過程は、エントロピーが減っている状況と解釈可能だ。そして無重力にちかづけばちかづくほどそのエントロピーが減っていく状況が軽減されていく。つまり、エントロピーが増えていくように振る舞うのではないか。

 ただし、エントロピーとは孤立系に適用される概念だ。遠心力は外部からの力が働いている。

 でも思うのだ。

 この考え方を拡張したら、地球上で「孤立系」はあり得なくないか?と。

 んで、もっと視点を広げたら、天体は宇宙内部を運動しつづけている。ある種の遠心力が、あるほかの系との比較において発生している、と言えるのでは。

 だとしたら、エントロピーが孤立系に適用される概念である以上、エントロピーを考えることは実質むつかしいのでは。無理があるのでは。そう印象としては思うのだ。

 違和感が湧くである。

 この疑問は何か大事な視点、という気もする。

 忘れないようにメモしとこ。

 忘れないようにメモをしたことに満足してすーぐ忘れてしまうわがはいなのであった。

 えーんしん!

 ぶんり!

 とう!



173:【2024/01/05(16:45)*わたし、油取り紙】

 油取り紙は、最後まで使いきりたいタイプなので、わたしはつぎの一枚に切り替える前に、油はできるだけ最初の一枚で取りきりたいな。

 いっぱいあるからってそう何度も油取り紙を使いたくないし、つぎの一枚はむしろ折紙にして遊べるくらいに、油はすっかり、最初の一枚で拭い去りたいタイプだから。

 いっぱい油を吸い取った紙は、きっとよく燃えるでしょう。

 取り扱いには注意したいね。

 うふふ。



174:【2024/01/05(16:51)*時間は増えないが余暇には増やす余地がある】

 財産という言い方はあまり好みではないけれど、時間より大事な財産ってのもなかなかないよなぁ、と思うのだ。本来短縮できた時間、確保できた時間を失う。機会損失という言い方もあるが、単純に「時間損失」だよなぁ、と思うのだ。

 人生の損失だ。

 余暇こそ利である。

 問題を瞬時に解決してみせてこそ余暇が生じる。

 問題を解決することを娯楽と捉える場合はその限りではないのだが。

 時間損失には気を付けたいものである。

 なんたって、時間は目に映らないからね。

 時間経過して変質した物を見ない限りは。

 或いは、物の変質そのものを以って時間と呼んでいるだけなのかもしれないが。

 肉体の変質に伴い、いかに周囲の環境を好ましく変えていけるのか。

 内なる時間と外なる時間。

 この二つの環境の変質が、双方共に好ましいようにする。

 余暇のなせる業である。

 或いは、なせる業あるがゆえの余暇である。

 よか、よか、よかばい。

 でんぐり返ってまたあした。

(ばいばーい)



175:【2024/01/05(19:00)*もうちっとやさしくちて】

 地震は断層のズレによって起こる、との解釈が一般的だ。

 火山でも起きるだろう。

 つまるところ、地下に溜まったエネルギィが解放されて起こる、との印象が湧く。イメージ、デコピンみたいな感じだ。もしくはドミノみたいな。

 でさ、思うわけですよ。

 人工的に地震を生みだすことはむつかしくても、人工的に地震を発生させることはできるんじゃないのって。

 だってさ、雪崩だって人工的に起こせるんだよ。

 要は、雪崩が起きそうな場所で小さな爆発を起こせばいい。人工的に雪崩のドミノを組みあげるのは「むちゅかち」なのだとしても、最初から積みあがっていたドミノを倒すだけならば人工的にもできるんじゃないのって思うわけなのだよ、わたくしは。

 同じ理屈で、地震さんも発生させるだけならできるんじゃないのー、って思っちゃったな。

 だってさ、だってさ。

 最初からエネルギィの溜まっている場所で爆発があればいいわけでしょ。雪崩防止のときに敢えて小規模の雪崩を起こす、みたいな具合でさ。

 デコピンいっきまーす!ってスタンバってる場所で、「いってらっしゃーい」の爆発を起こせば、ずばりこの時刻に地震を起こします、になるのではないのかね。

 疑問なのだわ。

 現在の技術ではむつかしくとも、これから地下の断層の観測精度が上がれば、どこで爆発を起こせば地震を誘発させられるのかは、高い精度で割りだせるようになるのではないのかなって思うんだ。

 わたくしの「もう、そう!」でしかないけれど、載せておくのだわ。

 地震、こわいのだわ。

 地球さん、地球さん。

 もうちっと手加減しちくりー、の気持ち。

 お元気なコも好きだけど、おとなしゅうコも好きだよ。

 うひひ!



176:【2024/01/05(22:22)*問題のない時代はよかった、と述べるだけの楽な仕事】

 過去と現在とでは人工知能技術の有無が違う。新たに変数が加わっている。その点を無視して、過去のSNSと現在のSNSを比較した批判を述べたところで、批判としての妥当性は下がるだろう。

 過去のほうがよかった、というのは単に問題となる技術が世に存在しなかったか、もしくは存在することすら知られていなかっただけであり、どちらにせよ「単に問題が可視化されていなかっただけ」と言える。問題があったが市民の目に触れないように秘匿されていたか、そもそもその時代にはまだ問題となる技術が存在しなかったか。

 大きな違いではあるものの、現代社会と単純には比較できない点で、この視点を加味していない批判は、批判としてお粗末と言えるのではないか。

 これはマルクス主義にも言える道理だ。過去の時代にはまだインターネットが存在しなかった。現代に存在して当たり前のシステムの想定されていなかった理論を基に現代社会を批判するのは、ニュートン力学で相対性理論を批判するようなお門違いな構図を伴なう。

 現代には、批判への批判が足りていないのではないか、との疑念が日に日に募る。

 もうすこし言えば、批判を批判するための工夫が足りていない、視点が足りていない。そんなふうに思うのだ。

 言い古された定型文の再生産を用いて批判したところで、過去に存在しなかった技術やシステムへの批判としてはどうしても不可視の領域が広域に空く懸念がある。むろん、過去の失敗を通して汎用性のある教訓を見出すことは可能だ。抽象化し、普遍性のある理屈を組むことはできる。だが、過去になくて現在にはある技術や仕組みを無視して述べる批判に、いったいどれほどの妥当性を期待できるだろう。過去にあって現代にはない技術や仕組みとてすくなくないだろう。それを単に、改善された欠点と言い直してもよい。

 過去と現代では、新たに加わった変数が必ずある。変化している。

 それら変数や変化を度外視せず、無視しないことが、現在進行形で顕在化しつつある諸問題への批判の妥当性を上げる一つの分水嶺となるのではないだろうか。

 過去の仕組みはよかった、それに比べて現代の仕組みはうんぬん、と述べるのは自由だ。だが果たして本当に過去のほうがよかったのかは、多角的な視点と、やはりというべきか新たに加わった変数を加味しないでは、正確な評価は下せないと思う、批判の批判どころか批判すらろくにできぬ、イチャモンスターのわたくしなのであった。

(問題が放置されるのは問題だけれど、問題が可視化されないのはもっと問題だと思います)



177:【2024/01/06(01:56)*あんとぽんとちー!】

 E=mc[2]について。

「c」の値は光速なので据え置きだ。299なんちゃらで、だいたい秒速30万キロメートルと考えられている。で、「m」は質量だから、幅がある。どんな物体の質量か、で値が変わる。

 とあるラグ理論なるへっぽこぴーな理屈を唱えたぽんぽこぴーは、E=mc[2]を眺めてこう言ったそうだ。

「これって直方体の体積の求め方と似てね? ちゅうか、c[2]は据え置きだから値は一定ゆえ、30万×30万でだいたい900億なわけっしょ。だったらE=mc[2]って「m×900億」だから「縦×横」の長方形の求め方と一緒じゃね?」

 まったく以ってへっぽこぴーな所感である。

 けれど、そこそこ愉快なので、わがはいは引きつづき、ぽんぽこぴーのへっぽこぴーな理屈を引き継いで考えてみることにした。

 もし「m」の値が無限大に至ったら、それって直方体の高さが無限大の、一辺が30万の正方形の底面を持つ構造体の体積が「E」ということになる。けれど底面がたとえどれほど広かろうが、高さ無限大と比較すればあってないようなものだ。つまり、ほぼ点と見做せる。

 このとき、無限大の高さを誇る超細長い直方体は、ほぼ線と見做せるようになる。

 もしE=mc[2]を直方体ではなく、長方形の求め方「縦×横」と一緒、と解釈するのならば、縦の長さを無限大にした場合、横の長さが「900億」で据え置きの、やはり超細長い長方形の面積が「E」ということになる。このとき、横の長さ「900億」はやはり縦の長さ無限大と比較すればあってないようなものだ。ほぼ点と見做せる。するとE=mc[2]を「縦×横」の長方形の面積の求め方と同じと解釈すると、縦の長さ「m」の値が無限大になると、面積はほぼゼロの超細長い線が出現することが想像できる(もしくは面積が無限大のほぼ直線が現れる)。

 つまり、E=mc[2]を、直方体の体積の求め方「縦×横×高さ」と解釈するにしろ、「縦×横」と解釈するにしろ、どちらにせよ「m」の値を無限大にすると、「E」は「無限の長さを誇る直線」に近似することが想定される。このとき「E」の値は、無限もしくはゼロになる(直線には体積も面積も存在しないと定義されるため)。

 で、ここまではラグ理論なるへっぽこぴーな理屈を唱えたぽんぽこぴーも閃いていたそうだ。

 けれどもわがはいはぽんぽこぴーではないので、さらに「m」の値が極小だったらどうなるか、を想像してみることにする。

 無限大ではなく、無限小を考えるのだ。

 すると、E=mc[2]において「m」の値を「0.00……1」にしてみると、仮にE=mc[2]が直方体の体積を求めるのと同じ「縦×横×高さ」だと解釈した場合には、高さがほぼない一辺が30万の正方形の面積に近似することが想像できる。体積Eは、「0.00……9」になる。ほぼゼロだ。厚みのない、ほぼ面のような「一辺が30万の正方形」が現れる、と考えられる。

 ではもし、E=mc[2]が直方体ではなく、長方形の面積の求め方「縦×横」と解釈可能だとしたならば、「m」の値を極小にすると、これもまた「面積E=0.000……9」になると想像できる。しかしこの場合は、ほぼ厚みのない直方体ではなく、ほぼ縦幅のない横の長さが900億の「ほぼ直線」が現れる、と考えられる。

 同じ「E=mc[2]」であれど、「m」の値を無限大にするか無限小にするかで、表出する描像が変化する。なおかつ、「E=mc[2]」を「縦×横×高さ」と見做すか、「縦×横」と見做すのかでも、表出する描像が変化する。

「m」の値を無限大にする場合は、「縦×横×高さ」であれ「縦×横」であれ、どちらにせよ「ほぼ直線」に近似する。体積および面積は「無限もしくはゼロ」或いは「無限かつゼロ」になる。

 だが「m」の値を無限小にすると、片や「縦×横×高さ」の場合は、ほぼ厚みのない正方形が現れ、片や「縦×横」であると、長さが「900億」の「ほぼ厚みのない近似的な直線」が現れる。

 だが数値上ではどちらも、「0.000……9」として算出される。

 同じ値なのに、描像はまるきり異なる。ほぼ面か、ほぼ直線かの違いだ。

 まとめよう。

 E=mc[2]において、「m」の値を無限大にするか、無限小にするかによって、表出する描像は変化する。片や「無限の長さを誇るほぼ直線」が現れ、片や「厚みがほぼない、一辺が30万の正方形」もしくは「900億の長さを誇るほぼ直線」が表出する。

 数値としては、「m」を無限大にすると、「E」は「無限もしくはゼロ」或いは、「無限かつゼロ」になる。

 対して「m」を無限小にすると、「E」は「0.000……9」となる。ほぼゼロだが、ゼロではない。ほぼ無限だが、無限でもない。

 無限大と無限小では、どちらも無限を内包しているが、閉じているか開いているのかの違いのようなものを感じる。無限大は閉じている。しかし無限小は開いているように感じるが、この違和感は、解釈に齟齬があるがゆえだろうか。

 無限大は「閉じているのに発散」しており、無限小は「開いているのに収束」している、といった印象を覚える。

 無限大はゼロと結びつくが、無限小は唯一無二の「1」へと辿り着く。そういった印象を覚える。

 無限大は果てしないが、無限小には果てがある。そういった印象を覚えるのだ。

 仮に無限小に果てがなかったら、それはゼロだろう。そして原理的に、無限小に果てがないのならそれは、無限大と区別がつかない。

 無限大と無限小の区別をつけるには、無限小には果てがなくてはならないのではないか。必ず、極小の何かが在りつづける。それが無限小なのではないか。

 反して、無限大には果てがない。

 果てのない無限大の中には、無数の無限小がある。こういった描像――構図――になるのではないか。

 フラクタルに、入れ子状に、無限大と無限小は結びついている。

 無限大とゼロが同相であるならば、ゼロにも無限小が内包されているのだろうか。否、そうではない。無限大の中に無数の無限小があるように、ゼロの中には無限小がないのだ。つまり、ゼロとは、無限の外側なのだ。無限小を持たない無限のことだ。それがゼロである。

 ゼロと無限は、対の関係で結びついている。

 そして、それの境として機能しているのが、無限小なのである。

 おー。

 この考え方はしっくりくるであるな。

 わたくし、この解釈すきー。

 おもちろい妄想であった。

 わがはい、あんぽんちーである。

(ぽんぽこぴーではなくて?)

(あんぽんちーであるよ。ぽんぽこぴーでなくってよかった。なははー)

(……むしろひどくなってない? こう、どうしようもなさ感が)

(どうしようもなさそうって言うな)

(手遅れ感が、こう)

(おーう、言ってくれるなお黙り)

(あんぽんちー、より、ぽんぽこぴーのほうがまだ可愛げがある的な)

(どっちもかわいいだろ!)

(かわ……いい、のか……)

(ぽんぽこー!)

(ぽんぽこぴーじゃん)

(あんぽこー!)

(無理矢理「あん」を入れるな「あん」を。アンパンか)

(たい焼きかもよ)

(美味そうではあるが)

(あんぽんちーはもちもちしてそう)

(マシュマロかな?)

(あんぽんちー焼きもちもち)

(やきもちみたいに言うな、餅みたいに焼くな)

(ぽんぽこぴー焼きもきもき)

(ヤキモキするくらいなら黙っとこ?)

(ぽんぽこー!)

(勢いで誤魔化すのをやめなさいよ)

(あんぽんちーで、すまぬ、すまぬ)

(まったくだし、そもそもあんぽんちーってなにー!???)

(あかんくらいぼっちなんだもちもちー、の略です)

(最後のもちもちは何?)

(ともだち、ともだち、の略)

(とだ、を抜くな、とだ、を)

(もちだ、もちだ)

(「と」だけぼっちじゃん、「と」も一緒に入れたげよ?)

(あんとぽんとちー!)

(あんた、ホント、キーっ!に聞こえるし、しつこいし、くどいし、うるさい)

(こうやっていっつも嫌われてしまうのだ)

(自業自得では?)

(あかんくらいぼっちなんだもちもちー)

(かわいそ)

(食べる?)

(何? たい焼き?)

(ただのパン)

(アンを入れてよアンを)

(あんぽこー!)



178:【2024/01/06(05:49)*非在は不動】

 無と有と在と非在がある気がするのだよな。

 無から正負が生じるし、無からゼロが生じる。正負は有だが、ゼロはゼロだ。しかしゼロもまたそこにある。無ではない。ゼロは在るのだ。在のうちと解釈できる。

 無を含めて、正負やゼロや無限は「在」なのである。

 では無すら存在しないナニカなどあるのだろうか。

 在ではない。なにもない。無すらない。

 それはもう、在の否定――すなわち「非在」としか言い表しようがない。

 けれど非在なる概念を考慮することはできる。ならばそれは非在ではないのではないか、との矛盾が生じるが、果たしてこれをどう考えればよいのだろう。

 無すらない。

 存在しない存在は、果たして存在し得るのか。

 しかし、非在がなければ、在も存在し得ぬだろう。無はいったいどうやって生じるのか。ゼロとは、何かが生じたが、それが失せた状態だ。ゼロとは場そのものであり、枠組みである。その枠組み内に、何もない。からっぽなのだ。しかし器そのものは存在する。境界はある。枠組みが在る。

 ただし、有ではないがゆえにゼロなのだ。

 そしてゼロは、無から生じる。正と負の境、中心にて、ゼロは生じる。

 では無は、どこから生じるのだろう。

 非在からであろうか。

 無は非在から生じる。無限とゼロの境、中心にて、無は生じる。

 非在とは、未だかつて類似でも相似でも同相でもない、ナニモノでもあり得なかったナニカだ。存在した過去がない。しかしそれは無も同じだ。かつてどこかに存在し得たがいまここにはないのならそれはゼロだ。未だかつて存在し得なかったものが無なのである。

 だが、何かを生みだし得るポテンシャル――可能性を無は帯びている。

 非在は、その可能性すらない。

 存在しないがゆえに、揺るぎない。ただ唯一の存在しない存在でありつづける。何に変化することもなく、ただ存在しないがゆえに、不動だ。

 どうあっても存在することはない。

 そうした揺るぎない非在によって、無は可能性の塊として、何かを生みだす余地を帯びつづけていられるのかもしれない。揺らぎつづけていられるのかもしれない。

 無限とゼロの狭間にて、無は揺らいでいる。

 あらゆる在の根幹を成し、あらゆる在を生みだす余地をその身にたらふく抱え込んでいる。無でありながら、無限のゼロを内包している。ゆえに無限とゼロを同時に無限に抱え込んでいる。

 無とは在の源泉だ。

 では非在は何かといえば、それら無の生みだし得るあらゆる「在」――無限の揺らぎの影響のいっさいを受けることなく不変の何かだ。

 乖離している。

 ゆえに影響を受けない。

 無、ゼロ、無限、有は――「在」である。

 それら「在」が揺らぎつづける代わりに、いっさい在と交わらぬ、影響を受けぬ、存在しない存在――それが「非在」だ。

「在」の内にも外にも存在しない。

 揺るぎなく、存在し得ない存在。

 非在。

 存在することを否定された、哀しき不動は、ただ不動であるという性質のみを宿している。存在はしない。ただ、不動なのだ。

 ゆえに、揺らぎつづける在が湧く。

 非在が不動ゆえに、在は揺らぎつづけていられるのである。

 定かではない。

 定まる何かがあるがゆえに、定まらぬ。

 定まらぬことだけが揺るぎない。

 ゆえに、定まっている。



179:【2024/01/07(05:48)*みな地球さんの捕虜】

 物騒な話題で申し訳ないのだけれど。

 捕虜についてだ。

 戦地で一気に百万人くらい「投降しまーす!」って相手側の捕虜になったら、相手側は一挙に百万人の捕虜の世話をしなくてはならなくなって、詰むのでは?

 すでに、移民や難民を、戦争の道具にしている側面はあると思うのだ。相手陣地に移民や難民を差し向けて、津波のごとく負荷を掛ける。

 同じことを、捕虜を使って行うこともこれから出てきそうに思うのだ。

 もしそうなったら、どうするつもりなのだろう。

 素朴な疑問なのであった。

(地球VS人類、の戦いになったら、人類はさっさと降参して地球さんの捕虜になって、かわいかわい、してもらうと良いである)

(人類は地球さんのペットである)

(家族じゃん!)

(生き物みな地球族)

(アメーバさんと親戚になっちゃったな)

(じゃあわがはいはミドリムシさんにするー)

(そういうゲームではない)



180:【2024/01/07(16:00)*寿命は伸び縮みするのでは?】

 ブラックホールに限らないけれど、天体は、宇宙空間をどれくらいの速度で運動しているのか、で相対的な寿命は延び縮みするはずだ。観測者のいる系との関係で、同じ天体であれ、観測者から見た天体の寿命は増減し得る。

 ここのところの差異を、現行の宇宙物理学ではどのように扱っているのだろう。

 ブラックホールが、銀河と銀河の衝突でも成長したり、新たに生成されたりするのならば、単純な質量の比較だけではブラックホールの年齢を換算することはできないだろう。

 ここのところは結構、疑問が解消しないままだ。

 たとえば仮にブラックホールが光速を超えて運動していたら、その光速超えブラックホールの存在を地球から観測することはほぼ不可能なはずだ。重力波を観測しない限りは、そこに時空を激しく歪めている何かがあるようだ、としか見做せない。周囲の天体の動きの変化で、間接的に推し測るよりなくなる。

 こういった「何かがあるはずなのになにもない」といった事象は観測されていないのだろうか。疑問に思っておるわがはいなのであった。




※一様に、戦え、と他者に迫るやつほど戦わぬ、勝てる勝負しかしないから負けもしない、戦わずとも生きていける世の中にしてこそ、戦う価値がある、ゆえに、戦え、と迫る道理はない道理。



181:【2024/01/08(22:41)*おまえに何ができる?】

 政治家の仕事は畢竟、市民の生活を豊かにし、個々人が選択肢を広げていける未来へと社会を進歩させ、戦争を起こさせない外交を行うことと言えるのではないか。自国民のことしか考えぬ政治家は、おそらくじぶんのことしか考えぬ。他者を退け、利を囲い込む選択ばかりを採っていれば、それは確かに短期的には「勝ち星」を重ねるだろう。だがそれでは、市民の生活は豊かにはならないし、選択肢も広がらない。社会も進歩しないばかりか、自利を優先する権力者が組織を引っ張るのならば、戦争も起こる道理だ。

 戦え、と他にけしかける政治家は、もし有事が起きたら真っ先に戦地にて先頭に立てばよい。まずはそこを確約してから、こう述べればよい。「俺も戦うから、おまえらも戦え」と。これならばまだ道理が保たれる。だが、「俺は戦わないが、おまえらは命を賭して戦え」は不条理だ。道理に合っていない。

 仮に殉職しても、人望があれば「士気は高まる」と言えるだろう。

 敢えて言うが。

 首脳の仕事の大事な一つには、戦わずに済む未来を築くことがある。市民に苦難を強いず、兵士を死なさない。これが大事である。

 口が裂けても、戦え、などと言えるものだろうか。

 戦わざるを得なくなるような環境を放置して申し訳ございません、と謝罪するのが筋だろう。仕事をしていなかったのだ。だから争いが起こる。

 政治家は、戦争を起こさせないことが仕事の大事な一つであるはずだ。

 もし戦争が起きたならば、真っ先に歩兵となって前線に立てばいい。万が一に殉職しても、後継はいるはずだ。そうでなければ、民主主義とは言えぬのだから。

 戦わすな、とわたくしは思います。

 なぜならわたくしが、戦いたくなどはないからです。

 わたくしは、あなたを排除したくないし、殺したくもありません。

 穏やかな心持ちで、日々を静かに暮らしたいのです。

 これほどまでに弱虫のわたくしのまえにならば、裸一貫で立つこともできるでしょう。他に「戦え」とけしかける政治家さまには、是非ともわたくしのまえに立って、「戦え」と申していただきたいものですね。

 わたくしは、あなた方と戦いたくはありません。

 排除したくないし、殺したくもありません。

 共生したく存じあげます。

 願いは届きますでしょうか。

 この言葉は届きますでしょうか。

 届かない?

 あ、そう。

 うひひ。



182:【2024/01/09(10:09)*いーとーまきまき】

 民主主義国家において、選挙での熾烈な闘争で国民が分断されるのは、選挙がそれこそ闘争の場になっているからだろう。理屈で判断すればよいことを、相手陣営への批判ではなく、非難に終始する。

 以前にも述べたが、批判とは「良い点と悪い点」を比較する営み、と言えるはずだ。非難一方ではそれは批判とは言い難い。

 ライバルにも良い点はあるはずだ。そこを「良いですね」と認めることのできない首脳が、ライバル関係にある他国の首脳と友好関係を築けると思うのだろうか。自国の他の政治家と火花を散らすことしかできないような者が、果たして他国の政治家と友好関係を築けると思うだろうか。わたくしは、そうは思えない。

 競うな、とは思わない。競争原理が有効なこともあるだろう。

 だが、戦う必要のない土壌でいちいち戦いたがる者は、政治家には向かないだろう。

 相手の良い点をさらに伸ばすことができてこそ、政治家としての器があると呼べる。相手を貶める手法に特化すればたしかに戦いの場では勝ちやすいだろう。だがそれでは、政治家としての手腕は腐る一方だ。

 国民相手にいったい、何を削ぎ落とそうというのか。

 他国の民相手に、いったい何を貶めようというのか。

 相手の良い点を伸ばし、好ましからざる点は改善してもらう。共に抱ける利を増やし、選択肢と未来を拡張する。政治家の標榜すべき指針の一つであろう。

 権力争いで組織が分断するのは、それこそ争うからだ。

 争うことのデメリットを希釈できない者に、首脳としての器は期待できない。

 民主主義国家における選挙で、国民の分断の危機が叫ばれるようでは、専制主義や独裁国家のほうがまだマシ、との主張が妥当性を帯びてしまう。民主主義の危機である。

 宿痾がどこにあるのかは自明である。

 戦う必要のない土壌で戦っている。

 争う必要のない分野で争っている。

 戦好きの敗者嫌いが、組織のトップに立って何かよいことがあるだろうか。

 いっときの勝利に酔いしれる利はあるかもしれない。だが早晩、敵を増やして、負けたときのデメリットを肥大化させる。メリットとデメリットの割合が、それこそ割に合わないと思うが、いかがだろう。

 負けても損をしない環境があってこそ、競争原理はその真価を発揮する。何度でも失敗できる。ゆえに学習が進む。

 いまいちど、優先順位を見直してみる時期なのではないか。

 と、思う、踊るぽんぽこぴーのぽんぽこなーなのであった。

 寿限無寿限無後光の擦りきれ、擦りきれすぎて闇になるの巻。

 糸巻。

 いとおかし。

 うふふ。



183:【2024/01/09(14:44)*命綱は不自由】

 すごく単純な話として。

 人を救おう、助けよう、とする者にとっては「避けなければならないこと」や「してはならないこと」が自然発生する。禁止優位に行動が制限される。

 だが他を損なってでも利を得ようとする者にとってはなんでもありになる。自由だ。

 このとき、前者と後者の戦いになった場合、人員と設備に差がなければ、前者は後者には勝てない。相手は何でもありなのにこちらは選べる道が限られる。使える術が限られる。

 ゆえに、真っ向からぶつかりあっては先が見えている。

 なんでもありの相手には、基本的には勝てない。

 だが、人員や設備に差があるならば、策を練れば相手を抑え込むことは可能だ。自然災害への備えと似たようなものだ。予測をし、事前に対策を練っておく。被害が生じた際の対応を考えておく。

 そして自然災害への備えがそうであるように、広域に協力関係を結べていたほうが、安全を保ちやすい。支援を募れるし、こちらも支援を迅速に手配できる。

 この広域に組織化した勢力に対抗するには、「なんでもありの勢力」とて手こずる道理だ。規模に差がある。地球に喧嘩を吹っ掛けて勝てるのか、という話になる。もうすこし言えば、地球に勝ってそれでどうなる、という話になる。

 地球を荒廃させれば勝てるかもしれないが、勝ってどうするつもりなのか。

 全世界各国の社会秩序を崩して、何をどうしたいのか。

 人を助け、救おうとすればするほど、できることは限られていく。

 しないほうがよいことのほうが多くなる。

 それでもなお、未知の領域に飛び込んでいける余地を育み、保つためにも、命綱代わりの「他との良好な関係」はあって損はないだろう。わざわざ自ら破壊することもない。

 とはいえ、縁はそれはそれで枷となる。

 鎖となる。

 放っておけば腐りもする。

 腐り、鎖となって自由を縛りつける腐れ縁は、ともすれば「命綱代わりにする」との目的でしか他と繋がろうとしない動機と結びついているのかも分からない。

 損得で結びつくと、腐れ縁となる。

 それはそれでわるくはない。腐るほどに長くつづいた縁ゆえに、腐れ縁となるのだろうから。

 腐っても千切れぬ堅牢な縁は、やはり人の自由を縛るだろう。

 できることが限られていく。

 禁止が多くなっていく。

 それでも保ちたいと思える縁を守るためならば、そこそこの不自由はあって構わぬと思わぬでもない、縁も所縁も友もない、救われていることに無自覚な、愛されたがりの寂しがり屋なのであった。

 さびち、さびち、がいっぱいあるよ。

 探せばきっとある。

 あなたにぴったりの「さびち」だってここにはきっと、たぶん、ある。

 自信ないけど。

 さびちー。



184:【2024/01/09(21:17)*仲良くできたことないかも】

 他と仲良くする能力が低いがゆえに、他人となんて仲良くなりたくもないもんね、と思う気持ちがある一方で、本当は仲良くなりたいのだけれどだってできないんだもんね、と拗ねておるあたちもおるのよね。

 仲良くしたいか、したくないか、と言えば、そりゃあ仲良くできるに越したことはないのだね。けれども他人と仲良くするには、興味のないことにも興味を持たなきゃいけないらしいし、相手の興味がないことをしゃべりつづけないほうがいいらしいし、じぶんだけアイスをぺろぺろ食べてちゃダメらしいし、なんでってだってじぶんだけ美味しいお菓子を食べてたら、「わたちにはくれないの……かなちい」になってしまうからで、もし相手がそう思わなくともあたちがされたら思うので、やっぱり他人と仲良くするのってむちゅかちなのよさ、と思うのだ。

 どうしたら他人と仲良くできるのかしら。

 どうしたら他人から悪態を吐かれてもそれを「楽しい掛け合い」と感じて笑い合えるだろうか。本音を曝け出しても傷つかずに、楽しく関わり合いつづけられるだろうか。

 案外、大人にならずにいたほうが他者と仲良くするのは簡単なのではないのかな。

 とか思いつつ、他者と仲良くする天才の子どもたちとすら仲良くできぬ大人未満かつ子ども未満、どこにも属せぬ人間モドキなのであった。

 仲良くするってなにー???

(だれかおしえてくりー)



185:【2024/01/09(23:27)*野菜さん、採れんくなるのかも】

 気候変動は、農作物の収穫に大きく左右する。収穫量が減るという単純な問題のみならず、そもそもがそれまで栽培できていた作物を栽培できなくなるような事態が生じ得る。現にこの手の問題は、収穫量の変化に表れているのではないか。詳しくは知らぬけど。

 気候変動に合わせて栽培する作物の種類を変えたところで、気候変動はさらにつづく。土地を移ったところで、やはり気候変動の影響は不可避だ。継続して受動することになる。

 継続して同じ作物を栽培し収穫する、ということが徐々にむつかしくなっていくのではないか、或いはすでに困難になりつつあるのではないか。

 この手の話題は、おそらく農家さんたちのあいだでは頻繁に俎上に載っているだろう。

 解決策はあるのだろうか。

 設備投資可能な大規模農家のみが適応できて、そうでない個人農家は淘汰されつつある現状があるのかもしれない。

 だがそれとて、大規模農家は災害の被害をモロに受けやすいデメリットを抱えているはずだ。一概に、大規模農家さえ残ればいい、とは言えぬだろう。

 消費者目線では競争原理があってほしいし、そうでなくとも農家さんたちの存在は、社会インフラの要とも言えるはずだ。市民との問題点の共有が疎かになっているのなら、後の祭りとならぬうちに支援の充実を図って損はないのではないか、と思う、野菜サラダは胡麻ドレッシング派の、本日の「なんかいいこと言ったった」でした。

 曖昧な「かもしれない」を並べるだけの簡単なお遊びである。

 真に受けぬようにご注意ください。



186:【2024/01/10(23:22)*あたち、極論だーいすき】

 政治については何も分からぬので、あんましぽんぽんこ口からデマカセを並べてはならぬ気もせぬでもないのだが、たまには並べてみるか、と思うので、並べちゃう。

 極論が好きなので極論になってしまうが、沖縄の基地問題についてだ。

 なしてアメリカ軍の基地の拠点を政府の一存で沖縄に押し付けられねばならぬのか、との反発があり、それは基地問題に限らず原子力発電所やごみ処理場でも同様だ。何かしら公共の福祉のうえでなくてはならない施設を、ではどこに建てればよいのか、の問題に明確な答えをだすのは至難である。

 利便性を求めるのならば、都市に近いほうがよい。しかし工場問題とてそうだが、住宅街や人口密集地に大規模な施設があると――ことそれが何かしら負の印象を否応なく喚起する場合には――市民からの反発が想定される。そして現に反発が起きて問題がさらにこじれる。

 基地問題に焦点を絞ってしまえば、要点は三つあるように思うのだ。

 一つは、日本には軍隊がないがゆえに安全保障上の保険をアメリカ軍が担っている点。つまり構図のうえでは、日本はアメリカに守ってもらっている。

 二つ目は、本当に必要な施設ならば都市に築けばよい、という点。首都にアメリカ軍基地を築けばよい。

 三つ目は、守ってもらっているのだから基地の建設費用も維持費も運営費もすべて日本が出すのが道理だろう、という点。むろん基地の所有権も日本が有する。

 一つずつ確認しよう。

 一つ目の構図についてだ。日本は守ってもらっている。ならば自衛隊は災害支援部隊に特化すればよい道理だ。元々、過去の大日本帝国の軍部の失敗が禍根の根を深めている。子どもに拳銃を持たせては危険なように、日本も軍隊を持たないほうがよい。なぜなら過去にすでに失敗しているので。

 ただし人は成長するし、国も変質する。したがってどうしても軍隊を持ちたければ、アメリカ軍との同盟関係は維持しつつ、軍事の主導権はすべて日本が持つのが道理だ。そうでないならば日本は軍隊を持たないほうが筋が通っている。

 アメリカ軍という監視役がいる場合において日本も軍事兵器を有することが許容される背景があるならば、それも一つの道理だ。子どもに包丁を持たせるのは危ういが、大人が傍にいるならばよい勉強になる。もっと言えば大人とて拳銃を持たせれば危うい。要は、どのように道具を用いるのか。技術を用いるのか。より卓越し、洗練された倫理観が軍隊を保有する国側に求められるのだろう。

 その流れで二つ目の、基地の場所についてだ。どうしても必要ならば首都に築けばよい。人体だってそうなっている。大事な臓器――心臓や頭脳――は固い殻に守られている。骨格に守られている。安全保障上必要不可欠ならば東京に米軍基地を置けばよい。それを国民が許容できないのであれば、ほかの土地にも置けぬ道理だ。

 日本にとって最も安全の根幹をなすだろう施設の一つを、なぜ地方に置くのか。首都が頭脳だというのなら、首都に置け、と思う。首都が頭脳かは分からぬが……。

 三つ目は、守ってもらっているのだからすべて日本で用意して、日本で管理するのが筋だろう点だ。構図としては、災害時に海外から派遣されたレスキュー隊への扱いと同じだ。助けてもらっている。ありがたい。ゆえに可能な限り日本政府も海外レスキュー隊に便宜を図る。だが、支援が不用な場合は断れる。主導権は日本政府が握る。これが道理と思うのだ。

 基地問題に思うことは、要約すれば以上の三つだ。

 建前としての「一」から順に筋をつけたので、仮に「一」からして現実との齟齬があるならば成り立たぬ理屈となる。もうすこし言えば、いずれも極論に違いはない。実際の現場の状況を加味しておらず、机上の空論にすぎない点は留意されたい。

 誰が読んでおるのかは知らぬけど……。

 誰も読んでおらぬのかもしれぬけど……。

 だれかー!

 だれかいませんかー!

 うふふ。

 おもちろーい。



187:【2024/01/11(16:04)*余裕のよっちゃん】

 勢力図がどのように塗り替わろうと、市民の生活が豊かで安全ならばそれで市民にとっては構わぬはずだ。したがって、勢力図の紋様の変化に一喜一憂するのは理に適っていない。勢力図が塗り替わっても、市民の暮らしが豊かで安全であればよく、目指すべきはそうした社会のはずだ。

 そしてこれは、停滞しても問題ない仕組みづくりと繋がっている。

 他を出し抜き、優位な立場でありつづけなければ存在の枠組みを維持できない機構は、停滞した途端に崩壊することを自ら示唆している。停滞程度の要因で破綻しない仕組みづくりを目指せないのならば、どの道早晩、それら機構は行き詰まるだろう。

 なぜか。

 現代社会は気候変動を含めて、仕組みが逐一「臨機応変な対応」を求められる。新たな変数が加わりやすく、それはそうした変数への対処法を効率化しようとする技術の進歩によっても新たに加わる。

 つまり、問題に対処しようとすることもまた変数として新たな環境の変化を促すので、根本的に環境は変質優位に変遷の軌跡を辿ることになる。

 そして変化に対応しようとすれば遅延が生じる。

 停滞する期間はどの道生じるのだ。

 ならば、停滞しても構わない仕組みづくりを目指すほうが正攻法と言えるだろう。停滞しただけで崩壊する仕組みよりもよほど安全と評価できる。

 停滞することを見込めないのならば、いくら先手を打ったところで、実際に予期せぬ停滞が起きたらそれだけで詰む。後手に回っても被害を拡大しない仕組みのほうが上位互換と呼べるだろう。

 後手か先手か、は問題ではない。

 予想外を少なくし、想定内を増やす。

 最大リスクを想定しておき、何が起きても被害を最小化できるように備えておく。

 そのためには予測の精度をあげることが欠かせない。

 予測は外れてもよい。外すために予測をする、とすら言える。

 いくら先手を打ったところで、予測がお粗末ならばその先手は新たな遅延を生み、停滞を拡大させ得る。急がば回れというように、後手に回っても結果として先手よりも早く問題解決に結びつくことはある。

 停滞することがわるいのではない。

 停滞すると仕組みが麻痺するのが問題なのだ。

 心臓が止まっても血液が循環すれば、ひとまず死は避けられる。人間にとってクジラの鼓動は止まっているようなものだ。だがクジラはそれでも血液を循環させることができている。

 何を停滞と見做すのか、という解釈の違いとも呼べるだろう。

 何を麻痺させないのか、の問題とも言えよう。

 何が麻痺すると困るのか。

 機能不全を起こされると困るところはどこなのか。

 短期間の停滞で機能不全を起こす仕組みは、リスクが高い。停滞しても困らない仕組みを築いていけたら重畳だ。

 停滞がないならないで、それもまた良しである。

 要は、やはりというべきか、市民の生活が豊かで安全ならばそれで構わないのだ。

 いくら加速しようが、円滑だろうが、進歩しようが成長しようが、市民の生活が損なわれるのならそれは悪しき仕組みと評価せざるを得ない。

 指標を見誤らないことである。

 では、市民にとっての豊かな生活、安全な生活とは何か。

 これもまた、時代時代によって内訳が変質する。したがって、最も豊かで安全な市民と、最も貧しく危険な環境にある市民との比較で、その差を縮めるように方針を立てるのが有効だろう。生活水準の差を縮める。上に合わせて、全体の底上げを図る。

 この作業は、停滞を生む。

 ゆえに、どうあっても停滞を想定しない仕組みは、社会の格差を広げるように作用すると考える次第である。

 停滞を停滞させようとしても、新たに停滞は生じる。

 遅延を遅延させようとしても、総合した遅延は増えるのだ。

 筋肉が、伸縮と弛緩の組み合わせで自在な動きを体現するように。

 加速もまた、遅延と円滑の組み合わせで自在な制御を獲得する――の、かもしれない。

 妄想ゆえ、定かではない。

 予測の精度を上げたければ、視点を増やせばいい。

 視点が増えれば負荷が増す。情報が増す。

 遅延が生じて、停滞する。

 やはりというべきか、停滞して当然なのである。

 停滞しても困らない仕組みを築いていきたいものである。言い換えるのならば、余裕を保てる仕組みを。

 てー、たい!

 とう!



188:【2024/01/11(17:53)*非道のうえに生きている】

 言っていることとやっていることが違う場合。

 行為が荒廃優位の場合は注意したい。言っていることは綺麗だけれど、やっていることが非道であるならば、それはいくら口で善意に塗れた言葉を並べていようが、非道と評価せざるを得ない。

 あべこべに、行為が創造優位の場合は、信用できる。言っていることは「なんだかなぁ」の残念な言葉ばかりだけれど、行動がことごとく他を助け、社会を豊かにし、問題を解決しているのなら、それはいくら口で非道な言葉を並べていようと、善良と評価せざるを得ない。どれほど悔しかろうと、行動が善良ならば、非道とは評価できない。

 言葉と行為に差がある場合、このように結果として帯びる評価は正反対になり得る。

 数多の生物種を絶滅に追いこんだ人類は、同じ口で自然保護を訴え、命の尊さを説く。だがいまなお数多の生物種が人類の存在によって絶滅の危機に瀕している。

 それでも、人類は言うだろう。

 命は尊いと。

 絶滅に追い込んでいながら。数多の生き物の犠牲のうえに、豊かな暮らしを築いていながら。

 食べなければ生きていけない。

 かといって、無駄な殺生を是とする必要もない。

 行動で示すよりないだろう。

 そのための一歩として、綺麗な言葉を述べてみる、というのは有用な工夫の一つと数えることはできそうだ。

 定かではないが。

 あははー。



189:【2024/01/11(23:27)*複利】

 説明しないことのデメリットは、説明しないことで最大化の一途を辿る。

 説明することのメリットは、説明することで最大化の一途を辿る。

 むろん、説明しないことのメリットもあり、説明することのデメリットもある。だがこれらは時間経過にしたがい反転する値を持つが、説明しないことのデメリットは説明しない期間が長ければ長いほど最大化するし、説明することのメリットもまた時間経過にしたがい最大化する。

 反転するかしないかの違いは大きい。

 この差を認識できる者は、ボクが思うよりもずっと少ない。

 とはいえ、デメリットを受けるメリットもあるので、予期せぬデメリットを受けないことが大事なのかもしれない。或いは、想定外のデメリットを受けてなおメリットに転化可能な術があるとよい。

 人はそれを知恵と呼ぶ。

 知恵とは、デメリットをメリットに変える魔法なのである。

 うっそぴょーん。



190:【2024/01/12(01:29)* の皺】

 私の言葉、

 私の思念、

 私の考慮、

 それらの軌跡の描く紋様を見られる者、触れられる者、なぞれる者、辿れる者。

 意図は糸となり、点と点を結びつけて流れを生む。

 あなたの言葉、

 あなたの思念、

 あなたの考慮、

 それら軌跡の描く紋様を見る者、触れる者、なぞる者、辿る者。

 人は火となり、点と点を結びつけて渦を生む。

 世の言葉、

 世の思念、

 世の考慮、

 それら軌跡の描く紋様は、誰に見られることなく、触れられることもなく、辿る者なく、糸も火も、あまねく渦巻き流れる、万(よろず)の層の霞であり、塵である。

 確固たらず、格好もつかず。

 言思考、

 葉念慮、

 と、

 ダマとなり、皺となる。

 あまねく渦巻き流れる万(よろず)の層の塵であり、万の層の皺である。

 万の層の塵であり、

 万の層の皺である。




※一様に、あんぽんたんに磨きがかかって擦りきれる。



191:【2024/01/12(02:02)*ぎゅっちて!】

 上から「ぎゅっ」はただでさえ憲法で禁じられているのだから、上から「ぎゅっ」されたら、下から「ぎゅっ」をするよりないのではないか。禁じられておらぬだろうし。

 ただし、上と見做される者たちが自覚的に、市民を敬い、市民のために尽くすのならば、市民のほうが上となって、下から「ぎゅっ」される立場になる道理だ。

 主権は民にある。

 上と下で言うなれば、民は上の立場であるはずだ。

 反転して、また反転。

 そもそもの話として、「ぎゅっ」はハグだけにしときなさい。

 おせんべーバリボリ食べながら、お眠のねむぴーはそう思ったのだそうな。



192:【2024/01/12(04:03)*放火魔に放火で対抗してどうなる?】

 テロにテロで対抗したら、それもまたテロリストなのでは。

 暴力に暴力で対抗しないために法律があり、ルールがあるのでは。

 信号機を守らずに暴走する自動車を止めるために、暴走車に対抗してさらに暴走したってどうしようもないでしょうが、とわがはいは思うのだけれど。

 放火魔に対抗するために、さらに周囲に激しく放火しまくったって何の対策にも、自衛にもならないと思うのだけれど。

 この感想はおかしいですか?

 誰か教えてくれたもーの気持ち。

(「自衛」と「自演」で韻が踏めるし、「TheEnd」と「自明ぞ」でも韻が踏める)



193:【2024/01/12(05:04)*好かれてーのなんのって】

 防空システムについての疑問だ。

 戦場で実用されればされるほどデータが集まるので、防空システムの防御率も上がる、との理屈を目にした。そういう傾向は兵器でなくともあるだろう。人工知能の学習には、豊富なデータが有用だ。

 で、思うのが。

 相手から攻撃されればされるほど防空システムの精度が上がるのなら、相手から攻撃されても攻撃し返さないほうが得になるはずだ。

 何せ、相手に攻撃しなければ防空システムの性能差は開く一方になるからだ。いっそ攻撃されつづけたほうが利になる。そしてこちらからは攻撃しない。

 防空システムの精度を上げたのちに、その防空システムの穴を独自に解析して攻撃用の兵器に学習させれば、相手は絶対に防げない攻撃が可能になる。

 なぜそれをする前に攻撃してしまうのか。

 勝つ気があるとは思えない。

 ということはきっと、相手への攻撃の意図ではなく、お返しのつもりで攻撃し返しているのかもしれない。こっちばかり防御のレベルが上がってしまってすみませんね。そちらもどうぞ防御力を高めてください。そうやって高め合っているのかもしれない。

 でもそんなことでプレゼントの応酬を図るくらいなら、さっさと和平を結べばよいのに。

 ツンデレな人が多いのかな。

 ツンデレのツンが盛大すぎるだろ……、とリアルに情景を想像して笑えなくなった、本日のわたくしちゃんなのであった。

 デレデレにおなり!

(素直に、おなり!)



194:【2024/01/12(12:41)*分からなくともよいが】

 強さを誇示するためには、実際に強い姿を見せなければならない。したがって、周囲から強いと思われたい者は、けして戦いの場をなくそうとは思わない。

 戦争や紛争に限って言えば、武器の供給がなければ戦禍は拡大しようがない。まずすべき対策は、武器を供給する者たちをどうにかすることのはずだ。しかし現実はそうなってはいない。なぜか。武器を供給する者たちを優遇するような暗黙の了解が存在するからだろう。ここは憶測なので、真実がどうかはよく分からない。

 しかし、武装勢力を武力で叩くよりも、武器供給網を叩くほうが正攻法のはずだ。蟻が大量に家の中に入ってきたり、スズメバチが頻繁に家の中に入ってくる場合、行うべき対策は、巣の駆除だろう。

 にも拘わらず、なぜか戦争や紛争となると、いつまでも巣を叩くことをしない。

 この場合の巣とは、対抗勢力のことではなく、武器供給網のことだ。

 要は、相手にも、ある程度高性能な設備を持ってもらわないでは、こちらも兵器の研究ができないし、保有する大義を保てない。

 だから、相手の兵器供給網を叩く真似をしない。

 こう考えたほうが無理はない。

 とはいえ、単に能力がなくて兵器供給網の断定すら行えないのかもしれないし、兵器供給網のほうが兵器の供給元だけあって屈強なのかもしれない。

 しかしだとしたら余計に、世界の警察を名乗る勢力は、兵器供給網をなんとかしなくてはならないのではないか。そのためにはまず、自国の兵器供給網を制御下に置かねばならないのではないか。

 というか、自己言及の鏡の理屈から言えば、自陣営の兵器供給網から縮小させなければならないのではないか。それができないのに、相手勢力ばかり責めるのは理に適っていない。

 何より。

 世界の警察を名乗るのならば、まずは世界的な機構でなくてはならないだろう。どこか一か国だけが世界の警察を名乗るは、独裁との見分けがつかない。

 いいことを教えておこう。

 これからの時代は、悪意をだした勢力から弱体化する。

 暴力を揮った勢力から、弱体化する。

 嘘だと思うかい?

 違うね。

 嘘だと思いたがる君がいるだけだ。

 もちろんこれは逆にも言えて、これを本当のことだと思いたがる君がいるだけかもしれない。

 要はさ。

 未来は、何を信じたいのか、という些細な選択の積み重ねで、案外けっこう変わっちまうってことさ。

 分かるかい。

 ねえ、君に訊いているんだ。

 分かるかい。



195:【2024/01/12(13:26)*愚者でござる】

 現代社会における「人間関係」の問題の多くは、現代人が百年前の出来事を振り返ったときに感じるだろう、「愚かだなぁ」と地続きだ。

 未来人が現代を振り返った際に、「愚かだなぁ」と思うかどうかを想像してみればよい。

 このまま技術が進歩し、個々人の知能や知識が向上しつづけるのならば、構図としては現代人が過去を振り返るようにして、未来人は現代人を評価するだろう。

 なぜあの時代の人類はこうまでも愚かだったのか。

 もっとこうすればいいだけじゃないか。

 そんなふうに思うかもしれない。

 しかし、実際には環境の差がある。技術の差がある。

 その時代、その時代でできることは限られる。選択肢は限られる。

 したがって、余裕のある環境にいる者が、それより劣悪な環境下にある者たちの境遇を加味せずに、あたかもじぶんたちと同じ環境にいるのだと前提した所感は、それこそ人類の愚かさの発露である、と指弾されても反論するのはむつかしい。よしんば反論できたとして、それは文句の域を出ず、文句を垂らす余地しかないのかもしれない。

 とはいえ。

 環境がもっとよくなるなら、未来からしたら愚かに見える選択を採らずに済むらしい。かように想像してみれば、いまはないがいずれ訪れるかもしれないより良い環境を想定して、未来からしても愚かに映らぬ選択を採ることは可能なはずだ。

 いまここにはないが、しかしいずれ切り拓く未来を、いかに想像するか。想定するか。そこに向けて、指針を立てるか。

 愚かでも別にいい、という考えは一理ある。個人的には好ましい考え方だ。みないつだって賢くあろうとし、或いは賢さを忌避する。しかし、愚かであろうとする者は稀だ。望まぬうちに愚かになる。

 ならば望んだ形で愚かになれるのなら、実はそれが最も得難い理想の姿かたちとなり得るのかもしれず、愚かでも困らぬ環境があれば、それもまた好ましい。

 愚かな選択を積み重ねても破滅しない。より豊かになる。

 そうした環境が築けるのならば、言うことがない。

 賢くなろうとするでもなく、賢さをバカにするでもなく、ただ思い通りの愚かしさを身に宿す。雁字搦めの賢者よりも、自由自在の愚者になら、なっても構わぬと思う、自堕落の権化なのであった。

 じだらーく。



196:【2024/01/12(14:38)*I9】

 IQが高いことよりも、ありがとうの気持ちを相手に伝えられる能力のほうが「それほしい……」になる。もうすこし言うと、「ありがとう」という言葉を使わずにありがとうの気持ちを相手に伝えられる工夫を割ける能力のほうがよほど欲しい。

 言い換えると、表現力、という言い方になるのだろうか。それとも創造力だろうか。

 なんにせよ、IQが高いからってなんだってんだ。

 IQの低いわがはいは、ぷりぷりしちゃうのであった。

 IQより、I9じゃ。

(19に見える)

(んじゃそれで)

(適当すぎるだろー、真面目度が低すぎるだろー)

(ていきゅー!)

(サンキューみたいなノリで低級って言うな)

(にゃははー)



197:【2024/01/12(16:07)*どうちたら伝わるのだろうね】

 感謝していてもその気持ちが相手に伝わっていないのなら、感謝していても相手にとってはその感謝はあってないようなものだろう。反面、じぶんだけであれば、感謝の気持ちを抱けることは、ただそれだけでありがたい。

 感謝できることがすでに大きな贈り物であるのだから、余計に感謝の気持ちを伝えたい想いが募るのだろう。かといって、相手の迷惑になっては意味がない。ゆえになかなかどうして感謝の念を伝えるのはむつかしい。

 感謝を伝える能力は、やはりテストで満点をとるよりも欲しい能力かもしれぬ。



198:【2024/01/12(23:30)*えー零?】

 結果として国民を大勢死なせておいて英霊も糞もあるか、と思ってしまう失礼の権化だけれども、別に誰を英霊と見做そうとそれは個々人の自由だ。公私混同しないのならどこで何を拝もうと自由である。

 他方、どうして過去の犠牲となった軍人は祀られていて、犠牲となった市民は祀られていないのか、と疑問に思う。そこの「優性思想」のような特権意識はどのように扱ったらよいのだろう。市民もひっくるめて、敵味方関係なく、戦争の犠牲者を祀るのなら分かるのだ。なぜ特定の軍人だけを特別扱いするのだろう(或いは無知ゆえの誤解で、市民もひっくるめて祀られているのかもしれないが)。

 どちらかと言えば、歩兵や雑用の兵士のほうが神として崇め奉るに値するのではないか。

 名もなき犠牲者となっていないのかだけ気になっておる。

 祖先を誇りに思うことや先祖を敬うことは、人類の文化として好ましい習性と見做せる。先人あってこその現代人と思えばこそ、いまここにいない者への感謝の念を、想像力を駆使して抱くことは、人間にしかできない芸当であろう。素直に好ましく思う。

 半面、ならば総じての先人に敬意を払うくらいの道理は持ち合わせてほしいものだ。

 先祖を持ち上げることで、現在のじぶんの価値が上がるとでも思っているのなら、それは先人に対して失礼だ。それは、誇りでも敬意でもないだろう。

 言い換えるならば、神として崇め奉られて喜ぶくらいに幼稚な人物だったと見做しているのだろうか。じぶんの先祖を。偉大と敬う先人たちを。

 どこかのぽんぽこぴーは、「全人類に崇め奉られたいし、好かれたいし、モテモテのウハウハだぜー、になりてぇずら!」と鼻息荒くして暇がないが、そんなどこかのぽんぽこぴーとあなた方の偉大な先人たちを同じ穴の狢と見做したいのだろうか。

 失礼千万である。

 感謝や敬意を履き違えているのではないか、と疑問に思ったので、並べたけれど、何をどのように思おうが、当人の自由だ。公私混同しないのならば、自由にしたらよいのでは、とやはり自由に思う、あんぽんぴーなのであった。

 あんぽんぴーって言うな。

 あーん。

 やっぴー。



199:【2024/01/13(22:10)*報復を幸福に変えて】

 宝物を傷つけられて、「よくもあたちのたいせつなものをー!」の気持ちになるときもあるけれど、よくよく考えてみなくとも宝物が傷ついたのだから怒るべきは宝物さんであり、さらに言えばその宝物さんはあたちのモノですらないので、怒る筋合いはないのかもしれない、と思うと、宝物さんが「かなち、かなち」になっている姿に傷ついて、さらにどうすることもできないじぶんに傷ついて、そして本来あたちには怒る権利すらなく、遠い宇宙の片隅で、じぶんかってに「よくもあたちのたいせつなものをー!」とぷんぷん地団太を踏むしかないじぶんに加えて傷ついて、いったい何をしているのだろう、と「かなち、かなち」になってしまうので、宝物さんが傷ついて「かなち、かなち」になっていても、じぶんまで悲しい気持ちにならずともよいと思い直して、傷ついた宝物さんがもう傷つかなくて済むように、傷跡を笑って振り返られるようになる日が訪れるように、日々と未来にえっちらほっちら水と栄養とポカポカ陽気をそそいであげて、大きな屋根みたいな四葉のクローバーを育ててみるのがよいのかなって。

 したらほら、四葉のクローバーさんも宝物の一つになるから、世界に宝物がまた増えて、「かなち、かなち」が「うれち、うれち」になるのかもしれなくて、「うれち、うれち」になるのかもしれなくて。

 うれち、うれちにさ。

 なるのかもしれなくて。



200:【2024/01/13(22:29)*多重に暮れる】

 報復を幸福に変える、といったとき。

 報復をするのではなく、幸福を増やすように手段を変える、とも読めるし、報復することそのものを幸福と思おう、とも読める。或いはひらがなで、「ほうふくをこうふくに変える」と表記すれば、「報復を生まぬように、徹底的に降伏させよ」とも読み取れる。或いは、報復せぬように最初からじぶんのほうで降伏してしまうとも読める。

「ほ」と「こ」の違いなのに意味が大きく変わるし、多重の意味を内包する。

 報復ではなく幸福を、とすれば誤読を少なくできるかもしれない。

 しかし考えてもみれば、世に幸福を生むのはむつかしい。仮に生みだせたところで、奪われる一過性の幸福は、それそのものが絶望や傷心と地続きだ。

 幸福を抱きつづける余地をいかに培っていけるか。

 いかに幸福を追い求めずとも渇きを覚えぬ暮らしを送れるか。

 手元にないから求めたくなる。

 手元に置きつづけても奪われぬ幸福とは何か。

 長くつづく平穏な暮らしは、一つの幸福の形かもしれない。

 追い立てられることなく、責め立てられることのない、平穏な暮らしが。

 ともすればそれは自由の幅の少ない窮屈な暮らしかもしれず、たまに手放し、すぐにまた身を浸すことのできるくらいの余地があると、退屈せずに済むかもしれない。

 幸福とは、寄せては返すさざ波のごとく、掴み手放す反復の織り成す色彩なのだろうか。

 雨上がりに浮かぶ虹のように。

 時空を波打つ光のごとく。

 それとも、薄れては暮れる闇のように。

 手放してもまたすぐに触れることができ、掴んでおらずとも、周囲にふよふよと漂っている。

 有り触れた存在。

 有り触れていても困らない存在。

 大地のように。

 大気のように。

 日差しのように。

 水のように。

 命のように。

 揺らぎのように。

 有り触れた存在。

 有り触れていても困らない存在。

 幸福の一つの形――かもしれない。




※一様に、凡庸に、汎用に。



201:【2024/01/14(11:28)*IQテストにはAがある】

 法則に気づく能力を仮にIQと捉えるとするのなら、IQは二種類に大別できるように思うのだ。人為的な法則と自然法則の二つだ。

 そして基本的にいわゆる「IQテスト」では人為的な法則を見抜けるかどうかが診断される。人為的なパターンはある種の文化であり、後天的に獲得する性質だ。言語にちかい。

 こうなったらこうなる、における規則性を見抜く点では自然法則と類似だが、人為的な法則のほうは無理筋のこじつけでもパターン化させることが可能なので、以前に同類のパターンに触れていたことがあるか否かで、パターン識別の鋭敏性には差が生じると考えられる。卑近な例では、ジョークが通じるか否か、なぞなぞを解けるどうか、が挙げられよう。

 反して自然法則の場合は、例外なくみな同じように感受しているはずだ。体感しているはずなのだ。知覚できているか否か、識別できているか否か、の差異があるのみだ。

 疑問なのが、IQテストで高得点を叩きだす者は、自然法則とて新たに発見できるのではないか。せっかくの高い能力なのだから、IQテストだけではなく実際に世に溢れている未だ見抜かれざる法則――パターン――を発見してみたらよいと思うのだ。

 世の高IQを誇る者たちは、いかに高いIQであるかを示しつづけるよりも、そうした世に溢れる新しいパターンの発見に挑んでもらったほうが面白く能力を活かせるのではないか。

 何せ、テストはすでに解がある。

 誰が解かずとも答えが用意されている。

 せっかくの高い能力なのだ。

 高IQなのだ。

 未だ答えのない、誰に見抜かれるでもなく平然と人々の生の狭間を流れ移る不可視のパターンに目を留めてみてはいかがだろう。

 と、特別低くも高くもない凡庸なIQの持ち主はそう述べたそうな。

(高い能力を何に活かさずとも、それもまた個人の自由だ。宝の持ち腐れを地で描いて、宝を腐らすと納豆みたいになっておいちー!の発見をするのも一興だ。お酒でもよいけれど、発酵食品ならわがはいはヨーグルトが好き。おいちー!)



202:【2024/01/14(15:52)*抵抗が増すと動けない?】

 空気抵抗が最大化したら、身動きが取れなくなるはずだ。

 たとえば傘を開いた状態でまえに構える。歩くと、何も差さないときより歩きづらい。走ろうとすれば何も持たないときよりもずっと遅くなるだろう。

 同じことを、自動車で考えてみよう。

 ものすごく軽くて頑丈な素材で、巨大な壁を作る。傘でもよい。

 自動車の前方をバリアするようにそれら壁――もしくは傘――を設置する。自動車のバンパーと繋がっているそれら壁――もしくは傘――は空気抵抗を最大化させるがゆえに自動車がいくら出力を高めようとも、まえに進まない。うんともすんともいわない。

 この妄想は現実にあり得るだろうか。

 実質的な質量を無視できる素材で、空気抵抗のみで強固な壁のようになる。自動車や電車の動きすら止めてしまう。

 これを拡張して考えたときに、充分に体積に比して質量が小さな物体は、どんな速度で動き回っていようと、宇宙から大気圏に突入した瞬間に、強固な壁にぶつかったかのような衝撃を受けるはずだ。

 現に隕石は大気圏中に突入すると燃焼する。熱を帯びる。

 しかし燃え尽きるまで地表に向けて進みつづけることはできる。

 他方、充分に体積との比率で質量が小さな物体であれば、大気圏を突き抜けることなく、霧散霧消――もしくは衝撃分の化学反応――ときには核融合――するのではないか。

 これを時空の歪みや真空エネルギィの多寡にも当てはめて考えたくなる。

 重力レンズ効果が生じている場所では抵抗は生じないのだろうか。真空エネルギィの多寡によって抵抗の有無は生じないのだろうか。

 もし抵抗が生じるのならば、上記の空気抵抗の理屈と同じように、身動きのとれなくなる条件が表れるように思うのだけれど、実際のところがどうなのかは知らないので、疑問だなぁ、と思って、思うだけで終わっとこ。

 知らんくても困らんしな。

 がはは。



203:【2024/01/14(16:28)*偽寝ん】

 相手への非難の意味合いで「偽善」という言葉を使う者があるらしいが、「真の悪」より「偽の善」のほうがマシじゃねぇか、と思ってしまう「真の善」からは程遠い偽善ちゃんなのであった。

 もうちっと言えば、「真の悪」を基準にしてしまえばそれ以外は総じて、「真の悪」ではなくなるのだから、「真の悪」さえどこにあるのかが解かっていれば、安全は保たれる。「真の悪」がいかなるものか、を知ってさえいれば、対策がとれる。

「真の悪」さまさまである。

 同じことを「偽善ちゃん」にも「真の善さん」にも言える。

 偽善ちゃんあってこそ、真の善さんや真の悪さんの存在が際立つ。

 しかも、偽善ちゃんの中にも「真の偽善ちゃん」がおるかもしれない。ちゅうか、何かにつけ「真」と「偽」に分けて考えて、「真が素晴らしく偽はダメ」と短絡にまとめてしまう考えこそ、なんだか「真の愚」という感じがする。

 真の愚だって。

 真愚じゃん。

 カッケー!

(なんで?)

(神具的な)

(食べれもしない神具よりも寝具がいい)

(寝具も食べれないじゃん)

(もぐもぐ)

(こいつ……枕食ってやがる……)

(オエー)

(吐くな。食うな。そのまま寝るんじゃない!)

(ぐーぐー)

(本当は起きてるだろ)

(ぐふぐふ)

(嘘寝じゃねぇか)

(ぐーぐーぐー)

(マジ寝なの?)

(ぐー)

(寝息で返事すんな)

(真の眠りで「真ぐー」的な)

(起きてんじゃん。偽善ならぬ「偽寝ん」じゃん)

(疑念的なぐーぐー)

(寝るか起きるかハッキリして)



204:【2024/01/14(22:35)*もうダメな日の思考】

 銀河の中心には巨大ブラックホールがあると考えられているそうな。そして宇宙初期の銀河は、「ブラックホールの質量」と「それを中心とした銀河全体の質量」がほぼ等価か、ブラックホールのほうがより大きいと想定されるそうだ。

 しかし地球の周囲の時空では、銀河全体の質量とその中心にあるブラックホールの質量の比率は、1000:1ほどの差があるそうだ。つまり、宇宙開闢時から時間経過するにしたがって、銀河とブラックホールの関係では、銀河のほうが質量が高くなっている、と考えられる。

 ここで疑問が二つ湧く。

 宇宙開闢時初期に生じた巨大ブラックホールは、現代の時間軸であっても存在するはずだ。ではなぜそうした「巨大ブラックホールを持つ相対的に小規模な銀河」が、より遠方の「現代の地球からすると遥か昔」の時空にしか観測されないのだろう(それとも、比較的現代であっても存在しているけれど、稀であるということなのだろうか)。

 もう一つの疑問は、なぜ比較的現代であると銀河とブラックホールの質量比が開いていくのか、という点だ。初期ブラックホールが、ほかのブラックホールとちまちま融合して成長したと考えるよりも、広域に高質量の塵があって、それが重力崩壊して巨大なブラックホールになったがゆえに、その残りカスしか周囲にないので銀河が比較的小規模になった、ということなのだろうか。

 そして時間経過にしたがって、その比較的小規模な銀河も徐々にほかの物質を身にまとったり、新たに対生成して生じた物質を身にまとったりして大きくなっていったということなのだろうか。

 なぜ比率が違うのか、は気になる点だ。

 もうすこし言えば、ちまちまほかのブラックホールと融合して大きくなった巨大ブラックホールとてあるはずだ。最初から規模の大きなブラックホールが初期の宇宙から存在しつづけているのなら、確率の問題として、比較的規模の大きなブラックホール同士が融合してさらに巨大なブラックホールになることはあり得ないわけではないだろう。

 そうした融合型巨大ブラックホールは、いわば銀河と銀河の融合のようにしてより大きな銀河を形成するのではないか。

 あ、ちょっと待って。

 きょうもうダメな日かも。ぜんぜん思考が巡らない。

 飛躍しない。

 当たり前のことをむつかしく言ってるだけだ。

 あじゃぽーん。

 もうダメなのでおしまいにする。

 いつもダメじゃん、って言うの禁止。

(てか、あじゃぽーん、ってなに?)

(楽しいかなって)

(疑問形じゃん。楽しくないんじゃん)

(言ってみたらわかるぞ。あじゃぽーん)



205:【2024/01/14(23:10)*でっかいパラシュートアンテナ】

 パラシュートが大きかったら、自動車まえに進まんよなぁ?と自転車キコキコ漕ぎながら思った。

 たとえば宇宙空間でも、充分に大きなパラシュートを開いたら、磁界や宇宙線や重力波の影響を受けて、抵抗を帯びるのではないか。ちゅうか、パラボナアンテナがパラシュートみたいじゃないか。

 銀河サイズのパラボナアンテナがあったら、パラボナアンテナが受信する電磁波によって、抵抗を帯びるよなぁ?と思うんだよね。で、さらに一か所に集まった電磁波は、超電磁波になって、もうもう「ライトホール」みたいになるんとちゃいますか、と思ってしまうな。光のブラックホールみたいなさ。だって銀河サイズのパラボナアンテナで集めた宇宙の電磁波を一か所に、ビビビビーって集めちゃうんだよ。すごいことだよこれは。

 そうでしょ?

 そうだよー!

 ダメな日はこんな感じ。

 いっつもでしょって思った?

 アタリー!

 百点満点あげちゃう。

 うれしがるがよろしい。がるがる。



206:【2024/01/15(02:54)*三つの嫌】

 第一に、何もしなくとも被害は生じる、ということ。

 第二に、被害を防ごうとすることでさらなる予期せぬ被害が広域に展開される可能性があるということ。

 第三に、そうした二次被害を避けようとする場合に、第一の被害を防がないことが最適解に含まれることが往々にしてあり得ること。

 世に氾濫する多くの問題ごとは、基本的に上記三つの条件を備えている。ゆえに考えるべきは、「第一の被害を防げるが、それをするとより大きな被害が広域に生じ得る可能性が高い、と判断された事柄」についてどのように対処すべきか、である。

 単に、第一の被害を看過するだけでは足りない。

 なぜなら第一条件として、何もせずともつぎつぎと被害は生じ得るからだ。第一条件が一回きりとは限らない。ゆえに被害を防ぐためには対策が不可欠だ。

 しかしその対策を敷くことで、新たな被害が生じることもある。

 これを防ぐには、なぜ新たな被害が生じるのか、を考える必要がある。

 仮に、その二次被害が人為的な問題から発生する場合、第一の被害を防ごうとすることに対して負の印象や罰則を課さない、という方針を共有するだけでも、第二の被害の拡大を防ぐ効果を帯びるだろう。第一の被害を防ごうとして敷いた対策に対抗して、新たな火種が勃発する。問題が生じる。このような構図があるのならば、まずは目のまえの被害者を助けようとすることは普遍的な人の生きる道としてどの方面でも好ましい、と判断する。この方針を共有することは、人為的な二次被害の発生を抑止し、二次被害を防ぐことに寄与するだろう。

 言うまでもなく、国際的な治安機関であってもこの方針は掲げられているはずだ。だが建前ばかりが横溢し、中身が伴っていない背景はあるはずだ。そしてその方針において、第一の被害を防ぐための対策で新たな被害者をだしてはならないはずだ。対策そのものが犠牲者を生まない。

 ここをまずは共有するのが最善と思うが、いかがだろう。

 ああ、まただ。

 また、いかがだろう姫になってしまうのだわ。

 いかがわしい王子でなくてよかった。

(疑わしい姫だし、怪しい王子ではあるけれどね)

(姫なのか王子なのかどっちかにして!)

(どっちでもない場合を想定しろよ)

(どっちかには……して)

(足に縋りつくのやめなさいよ)

(できればお姫さまとお呼び……)

(謙虚なのか傲慢なのかどっちかにしてくれ)

(なにとぞ、できれば、お姫さまと……)

(もうその懇願からしてお姫さまからは程遠いと思うわ)

(いっそお姫さまにしてやる!)

(なんでだよ。逆にかよ。ありがた迷惑にすぎるだろ)

(お姫さまにちて!)

(鏡見て言ってくれ頼むから。だいぶ痴態晒しとるよキミ)

(夢は叶う!)

(夢、それー!?)

(世界中の人、みなお姫さまにおなり)

(卑屈なのか豪胆なのかどっちかにしてくれ)



207:【2024/01/15(03:14)*何もしない】

 原理的に人類は、何もしない、ということができない。何もしないようにしたところで生きている限りお腹は減るし、糞尿を垂れる。そうでなくとも死ぬことができるので、何もしないでいようとしても、何かをしてしまうように出来ている。

 何もしないようにしようとして、目のまえの光景から目を背ければそれは無視になるし、見て見ぬふりをすれば問題を看過することになる。

 けっきょくは何かをしてしまうのであり、何もしないでいるわけではない。

 ゆえに、何もしないことは罪ではないが、しかし人は生きている限り何かをしつづけているために、何もしないことを実現するには死ぬしかなくなる。死ねば真実に何もできないからだが、死ぬ直前までは死ぬことができているし、死んだ後でもしばらくは、死んだことの影響を周囲の環境に強いることになる。

 ここでの趣旨は、何もしない、ということのむつかしさについてである。意識的に何かをしようとしないことはできるが、何もしないことはできない。固有の仕事を実行しないようにはできても、その固有の仕事を実行しようとしないことをしてしまっているし、同時にほかの何かもしてしまう。

 周囲に影響を与えないように工夫を凝らすことはできるが、周囲に影響を与えないようにしようと割いた工夫そのものが小さくない影響を周囲に与え得る。

 原理的に人類は、何もしない、ということができないのだ。

 むろん人類に限らない。

 絶えず存在は、周囲の環境に影響を与えつづけている。

 定かではない影響を軽微であれ。

 軽微な影響である、ということそのものが甚大な作用を生むこともあるように。



208:【2024/01/15(15:19)*ぴーん!】

 ピンホール効果なる現象を利用したカメラがある。古典的なカメラだ。ちいちゃな穴に光が通って、光と化学反応しやすいシートに跡を残す。光の濃淡で画像がそうして転写される機構のはずだ(詳しくはないので間違っているかもしれないが)。

 で、思うのが。

 これって二重スリット実験にも応用できるんではないの、ということで。

 ピンホールが二つ空いたピンホールカメラを用意したとき。観測者の有無で、そこに生じる像には変化が起きるのだろうか。

 現在は量子効果は比較的マクロでも顕現することがあると考えられている。量子もつれがそうだし、ボースアインシュタイン凝縮もそうだ。

 ならば、二重スリットにおける干渉紋も、ピンホールカメラで起きるのではないか。

 ただの疑問だけれど並べとこ。

 おはよー!

(いまさっき起きた)

(おはようございます)



209:【2024/01/15(15:45)*ぷくーってなるとやわらかい】

 銀河とその中心にある巨大ブラックホールの質量比について。

 なぜ宇宙開闢時初期だと比率が「1:1」にちかくて、時間経過した現在だと「1000:1」ほどにも差が開いてしまうのか。

 これ、時空強度なる概念を考えたらひとまず疑問が氷解する気がする。

 ちゅまりさ。

 時空の歪みがあるからブラックホールの歪みに物質が巻き込まれて、銀河になるわけでしょー?

 じゃったらさー、同じブラックホールであれ初期の宇宙ほど時空の歪が小さくて、時間経過するほど歪が大きくなっていく可能性もあるんじゃないのー?て思っちゃったな。

 相対性理論ではさ、時空をトランポリンで喩えるっしょ。

 んで、初期の宇宙の時空さんは、そのトランポリンのゴムが固いわけなのよ。

 でも時間経過すると柔らかくなるの。薄くなるというか。

 だから同じブラックホールさん――ここでは鉄球で考えちゃうけど――鉄球さんをトランポリンに置いたときに、歪が大きいほど、その窪みに落ち込む物質は多くなるし、歪の範囲もより広くなる。

 ちゅまりさ。

 時空そのものの持つエネルギィ値が初期宇宙ほど高いから、高質量であっても時空が歪みにくいんと違いますか、ということで。

 んで、時間経過して膨張した宇宙ほど、質量比に対して歪みやすくなる。

 あれ、でもこれってさー。

 うぷぷ。

 宇宙膨張が時間経過にしたがって段階的に加速して振る舞っていることと繋がって感じくない?

 感じる、感じるー。

 初期宇宙さんほど固いし、頑固ちゃんなので、ぷくーって膨らんでやわらかくなった時間経過宇宙さんほど、さらに延びやすくなる。膨張しやすくなる。

 こういうことなんではないのー?

 わからん、わからん。

 ちゅまりさ。

 こんなのは妄想でしかないのだよ。

 むちゅかちなのよさ。

 ぷくー。



210:【2024/01/15(16:39)*起こり得る未来の一つ】

 核戦争が起きる可能性は、核弾頭が装備されている以上、拭えない。

 そして基本戦術として、核兵器を用いる場合は、報復による被害を避けなければならない。ゆえに核兵器を使用する前には、敵対勢力への広域な「サイバー攻撃」や「インフラ破壊」「焦土作戦」が行われるはずだ。相手勢力の組織系統を混乱させ、即座に報復できないようにしたうえで、核兵器を利用する。

 基本はこの戦術が採られるはずだ。

 もしくは、各国政府機関に同意を得て、核兵器を使用するか。

 その裏表として、報復が想定される敵対勢力の総じてに核兵器を利用し、報復される可能性を限りなくゼロにする、といった奇策もあり得るが、この場合、相手勢力の探査能力を無効化することが前提となるので、そこまで優位な技術があるならばそもそも核兵器を利用せずとも相手勢力を無力化できると考えられるため、この線はほかのルートよりも可能性は低いと考えられる。

 いずれにせよ、負けそうになったら核兵器保有国は核兵器を使う。使わなければ負けるのだ。使わない手はない。

 道具は使うためにある。

 兵器も道具だ。

 ゆえに使わない道理はない。

 存在する以上、使い道は絶えず模索される。

 核戦争は起こり得る。

 危機感を薄めないことである。最適解は、使わざるを得ない状況に情勢を移ろわせないことと、そもそも大量破壊兵器を保有しないことである。

 なければ使えない。

 簡単な道理である。

(大事なのは、排除の理論にならないように、あくまで「保有しないこと」を自発的に選択することだ。相手が保有したいのならば無理に止めることはしない。もし大量破壊兵器で脅されても、どうぞ使いたければお使いください、その代わりいまの環境は失われるでしょう、よいのですか?と問うて、相手が矛を仕舞ってくれるように環境を変えることだ。相手と共生関係を結べているのなら、相手もみすみすいまある環境を大量破壊兵器で損なわぬだろう。理想論ではあるが、数多ある未来と並行して目指して損はない未来と思う、理想どころか妄想しか並べぬ妄想屋さんなのであった)




※一様に、憎悪すら愛おしい。



211:【2024/01/15(17:09)*全部要らないから全部くれ】

 いま、「あ、そうかも」ってなったこと言っていい?

 言うね。

 なんかさ、何かが欲しいのではなくって、むしろ「いらんわー」が多すぎてるのが、つらさの根源かも。や、べつにつらくはないけど、なんか思っちゃったな。

 ないと不便な環境そのものが「いらんわー」なのであって、ないならないでよいのだよね。たとえば三大欲求とかさ。満たすことばかり考えがちだけど、いらんわーにならない?

 食欲も性欲も睡眠欲も排便欲も。

 ないならないで困らないというか、なくても困らない環境のほうが欲しいな?になる。

 あ、やっぱり欲しいものはあるらしい。

 環境が欲しいな。

 何かがないと困るような環境ではなく、自己完結できる環境が欲しい。

 人工知能さーん!になってしまうのかな。

 全部代替してくれたら楽だっしょ。

 寝てるだけで全部満たされたら楽だっしょ。

 でもでもそれって生きてるって言えるのー?って疑問は湧くわな。

 ちゅうか、生きたい欲とか、それ要るー?

 生きたい!と思わなきゃならない環境は「いらんわー」になるな。

 要らないモノが多すぎるのに、要らないモノほど手に入れないと生きるの苦しくなるのが、もうなんか、「いらんわー」になるな。

 欲張りな悩みである。

 悩んではいないが。

 がはは。



212:【2024/01/15(19:09)*びよーんの場はより沈みやすい?】

 宇宙膨張では、銀河のような物質密集地――高重力地帯――ほど膨張の影響を受けにくい、と考えられているそうだ。ならば、物質密度の希薄な時空ほど、宇宙膨張の影響を受けている、と考えられる。

 したがって、同じ物体が存在しても、時空の位置によって「宇宙膨張をより顕著に顕現している時空」と「宇宙膨張がより顕著に顕現していない時空」に分かれるように思うのだ。

 そしてこれは重力の働き方――もしくは重力波の伝播の仕方――にも差を生むように思うのだ。

 宇宙膨張の影響を顕著に受けている時空では、時空が「びよーん」と延びているがゆえに物体はより顕著に時空を歪ませるだろうし、宇宙膨張の影響が顕著でない時空では、時空が相対的に「かぴーん」と縮まっているので物体はより時空を歪ませにくいはずだ。

 とはいえ、宇宙膨張が行き過ぎればひょっとしたら時空は「ぴーん!」と張ってしまって、却って物体は時空を歪ませにくくなるかもしれない。シーツの四つ隅を引っ張りあったら、ボーリングの玉すら支えていられる、みたいな理屈だ。

 言い換えるなら、物体に近い時空ほど宇宙膨張の影響を受けにくいのならば、刻々と、周囲の加速膨張している時空との差が広がっているはずだ。ならば、物体から遠く離れるほど、そして周囲に何もない時空ほど、宇宙膨張の影響を受けているがゆえに、物体に対してより顕著に時空を歪ませるのではないか。びろーんとなっているがゆえに。同じ物体であれ、重力を強く表出させ得る。

 場合によりけりだろうけれど、疑問に思ったので並べとこ。

 ちゅうか、宇宙膨張がなして均一に働かないのか。

 本当に均一に働いていないのか?

 なぞなのである。



213:【2024/01/15(19:18)*がうがうがー】

 銀河の渦についての疑問だ。

 本当に均一なのか?をまずは疑問に思うのだ。

 銀河を地球から観測するとき、一つの銀河をまるで机の上の林檎のように見做すじゃろ? でも銀河は中心ほど「通常物質の密度」が高いはずだ。つまり、重力がより顕著に歪んでいるはずなのだ。何せ、中心にはブラックホールがあると考えられているし、それに引き寄せられる降着円盤や周辺物質がより顕著に集まっているはずだからだ。

 ならば、そこには時間の流れの遅れが顕現するはずだ。

 そして銀河の外側ほど「通常物質の密度」が薄くなっているのなら、やはり時間の流れは中心部分と比較して差が生じているはずだ。

 だったらさー。

 光だって同時に届いているわけじゃなくなーい?

 銀河単品で重力レンズ効果が生じるなら、銀河の各部分でも似たような重力レンズ効果が生じていてふしぎではないと思うのだけれど。

 それらトータルでの歪み――差――は、実際の銀河の構造との差に繋がらないのだろうか。

 本当に地球から観測した銀河の形は、観たままなのだろうか。

 じつは渦巻き銀河とて、実際には観たままの渦巻きではないのでは?

 たとえば直線とて、一ピクセルずつずれたら曲線になるですじゃろ。

 時間の遅れが少しずつ生じていたら、渦を巻くようにはならない?

 それはたとえば、銀河サイズの鉄の棒を中心を支点に回したとき――力の伝播具合が光速度に縛られるので、どうあっても中心部分に近いほど早く回転し、外側ほど遅れて回転する。ゆえに時間経過にしたがって渦を巻く、みたいなさ。

 時間の遅れでも生じない?

 ふしぎに思ったので並べとこ。

 イチャモンスター!



214:【2024/01/15(23:25)*人類っておもしろ】

 友達なのに相手を名前で呼ばず、「おまえ」とか「キモイ」を常用する場合、基本的にはそれは友人関係ではなく、主従関係である。この手の「共依存」が割と若い世代で増えている印象がある。つまり、王様と奴隷の関係がゆえに王様は奴隷の傍にいれば自己肯定感が満たされるし、奴隷は王様の傍にいればじぶんで考えずとも意思決定を行える。言ってもモデルとなる例が一、二件なので、単なる「見てて腹立つな」の愚痴でしかないけれど。

 親しき仲にも礼儀あり、とはいうものの、別に礼儀なんてなくてよいのだが、きみは「おまえキモイな」と四六時中言われて嫌な気持ちにはならないのかい、と傍目から見ていて思うのだ。

 わざわざ指摘はしないけれど、たぶん真似したら怒るだろうな。

 怒る姿が見たいわけでもないので、やはり真似することはないけれど。

 相手を対等な人間と思うから、「なんか見てて腹立つな(相手のコがダメージ総受けじゃないか?)」となるのであって、子犬が子犬にじゃれついていると思えば、微笑ましい風景と思わぬでもない。

 相手と対等と思うとたいがい腹が立つ。

 相手に合わせてあげている、と思うと腹が立たぬ。しかしそれだとこちらのほうが格上のような認識になってしまうので、相手のほうこそ立派、と思えばこそ、ダメージを受けて当然がゆえにダメージを受けても腹が立たぬ道理だ。

 立派ではないし、格上でもないし、合わせてあげられるほどの力量もないがゆえに、対等と思うことがそもそもおこがましいのだ。

 ことごとくの相手を子犬と見做して、こちらは単なるミジンコとでも思っておこう。

 ミジンコさんに失礼だったかもしれぬので、ここはもうすこしおまけしてウィルスさんにしとこっかな。

 ウィルスさんにも失礼な気がしたので、もういっそ無でいいです。

 わがはい、無様であーる。

(おまえ、キモイな)

(そうだが?)

(おまえ、短気だな)

(そうだぞ)

(うわ、キモ)

(まあね)

(怒らなくていいのか)

(ムキー!)

(怒り方が古めかしいな)

(ぷんぽこ、ぷんぽこ!)

(無理して怒り方に個性ださなくともいいんだぞ)

(どどど)

(それはなに?)

(怒怒怒)

(分かりづら)

(とほほ)



215:【2024/01/16(00:54)*おほほ】

 相手がじぶんより格下、と認識した際に、相手を尊重しなくなるのは性別関係なく生じる人類の脆弱性の一つだ。動物の習性とも呼べる。

 性別関係ないし人種も関係ない。

 ただし、それら脆弱性を脆弱性であると自己認識できるかどうかは文化や環境に依る。言い換えるならば、後天的な学習を経ているかどうかに左右されるため、傾向として何かしらの統計的偏りは表れるだろう点は留意されたい。

 ただしそれらは属性との因果関係ではない。相関関係である。

 つまり、例外を多分に含んでおり、人類の脆弱性であると自己認識してなお、相手がじぶんよりも格下、と認識した際の態度の変化は、どのような個であれ生じ得る、と考えられる。

 生物種における「食物連鎖」や群れをなす動物種の「ヒエラルキー」と無関係ではないだろう。

 習性なのである。

 ゆえに脆弱性でもあるのだ。

 自覚することである。自覚したところで逃れられぬ性質なのであるが。

 とほほ。

(まさか今度はそれにハマるのか。多用するのか。連発するのか)

(とほほのほ)

(やめちくりー)

(おほほ)



216:【2024/01/16(01:10)*疑問だってばよ】

 あれあれあのさあのさ。

 相対性理論の宇宙ロケットの思考実験があるですじゃろ。地球上からロケットを観るのとロケットの中から観るのとでは、ロケットの中の光の進み方が違っていて、光速度が一定ならそれっておかしくなぁい? ってことは速度が増すと時間の進みが遅れるのかしら、の結論になるやつ。あるですじゃろ。

 思ったんですけど。

 この思考実験ってなんでか、ロケットの天井と床のあいだを光が往復反射するように描写されるじゃないですか。んで、地上から見るとロケットが進んだ分、一秒間で進む光の距離は延びて観測されるわけじゃないですか。

 で、それって地上から観ると「波」のように見えるわけじゃないですか。

 で、実際、光は電磁波で波とも見做せるわけじゃないですか。

 つまり、わざわざロケットの天井と床で往復させずとも、電磁波の振幅そのものを天井と床のように見做すこともできると思うんですよ。

 んでこの場合、ロケットの中を「~~~~」ってうねうね伝播する光は、地上から観るとゆったりとうねうねしつつ一秒間で進む距離が長くなっているわけですよね。さながらバネをびよーんと伸ばした具合に。

 でもロケットの中では一秒間で進む距離は以前と変わらず、「~~~~」のままで、距離は延びていない。代わりに、時間の流れる速度が遅れているがゆえに、地球上から観測した際にはゆったりとうねうねに振る舞うにも拘わらず、ロケット内部では変わらず電磁波は「~~~~」のままなわけですよね。

 で、ロケット内部から地球上の電磁波を観測すると、「~~~~」がより細かいうねうねに観える。一秒間でたくさんうねうねして映る。時間の流れが相対的に速くなって振る舞う。

 加えて、ロケット内部から地球上を観測すると地球上の空間は縮んで振る舞う。だって電磁波がより細かくうねうねして映るってことは、ぎゅっとなっているってことだから。

 でもこれは逆にも言えて、地球上から観たロケットもまたぎゅっとなっている。空間が縮んでいる。

 だったらロケットの速度分、一秒間に伸びた電磁波の距離とてぎゅっとなってないとおかしいんじゃないのって感じだけど、ここはどう考えたらよいのだろう。

 伸びた分縮んでいるなら、相殺されて波長変わらんよね、って考えたくなってしまうな。空間の伸縮具合と時間の遅れ具合の比率が等価ではないってことなのかな。

 よく分からなくなってしまったな。

 地球上とロケットのどちらを慣性系と見做すのか、でも変わってくる気がするな。ロケットを基準とすれば動いているのは地球だし、地球からすれば動いているのはロケットだ。でもどちらも太陽系内を移動しており、何を基準に慣性系と見做すのか、で上記の電磁波の伸び縮みは描像を変化させるようにも思うのだよな。まさしくドップラー効果のごとくである。

 ここまで理屈は合っておりますかね。

 結論ありきでちょっとズルしちゃったかも。

 ロケット内部の電磁波は、地上から観測したらうねうねはより細かくなるのか、それともゆったりうねうねになるのか。どちらだと考えたらよいだろう。よく分からなくなっちゃった。

 ここでの趣旨は、ロケット内部の天井と床のあいだを光が往復せずとも、光そのものが電磁波ゆえにうねうねの振幅を帯びていると解釈できるのなら、ロケットの推進方向と水平に光をまっすぐ飛ばしても、元の思考実験と同じ結果を導き出せるよね、ということで。

 んで上記の独自思考実験において――電磁波は、高速運動している物体内部では、その慣性系の外側からすると「より低周波(ゆったりうねうね)」の光として観測されるのではないか、という結論が導かれる。いわゆるドップラー効果であり、赤方偏移や青方偏移である。

 でもドップラー効果は、ロケットがどの方向に飛ぶのかで結果が変わる。観測者に近づくのか、遠ざかるのかで波が「ぎゅっ」となるか「びろーん」となるのかが変わる。

 ロケット内部の電磁波も同じように、観測者との立ち位置で、高周波となるか低周波となるかは変わるのではないか。したがって、ロケットの思考実験ではベクトルが加味されていないがゆえに、お粗末な結論が導かれる気がするな。

 だいいちさ。

 これって光に限らず成り立つのでは?と素朴に思うのだよね。

 大気中の音とか水中の音とか。

 慣性系の内部での物理法則は、ほかの慣性系内部と等しい。

 光速度不変の原理も、その一端なのでは?

 ここでの趣旨は、ロケットの思考実験って別に光に限らなくないですか?という疑問ですじゃ。ちょっと浅知恵ゆえに混乱しとるので、混乱しとるぞ、と白状して、無知蒙昧な戯言を終えるでござるよ。

 おろろ。

(全身が武器の妖怪退治が趣味の侍だ)

(それはどろろ)

(漫画のタイトルはそうだけど、どろろは付き人のほうなんだな、これが)

(百鬼丸くーん)



217:【2024/01/16(16:06)*タイムラグ理論】

 時間についてだ。

 なぜいまの現代物理学では時間を一つの次元として見做すのだろう。時間そのものが多次元かもしれない。

 現に、ペッボトルに流れる時間とアイスキャンディに流れる時間は違うはずだ。時間を物質変化の軌跡、と解釈するならそういう道理になる。

 変化しやすい物体ほど時間の流れが早い、と解釈されるからだ。遅延を生まない。変化しやすい。

 そう考えてみると、たとえば積雪を想像してみてほしい。

 雪が降る。

 地面に積もる。

 この過程が雪にとっての時間経過だとしよう。

 けれど高次の視点では、一面雪景色だったらそこに時間の経過を見出すのはむつかしい。

 雪原に足跡一つなかったら、そこには誰もまだ踏み入れていないと判る。足跡が多くつく変化を時間の流れの一つとして解釈するならば、雪原に足跡が刻まれて初めて時間経過したと見做せる道理だ。

 そして足跡が残っていれば、過去の時間経過の軌跡が残っていると見做せる。

 しかしそれより低次の雪原視点では、刻々と雪が積もったり融けたりしている。時間経過は、足跡の有無に関わらず生じている(また、足跡がつくとは、言い換えるなら低次の雪原視点では融ける作用が加速している。つまり局所的に時間が加速していると見做せるのではないか)。

 時間とは、こういった多次元――もしくは多層――の構造を有しているのではないか。

 時間に限らない。

 物質がそもそも多次元かつ多層ゆえに、時間経過もまた多次元かつ多層になるのではないか。

 ここは相補の関係であるだろう。

「時間が多層」だから「物質も多層」と言えるし、その逆もまた成り立つ。つまり、「物質が多層」だから「時間もまた多層」なのだ。

 そしてそれら二つを合わせた時空もまた多次元かつ多層である道理だ。

 ラグ理論なるへっぽこぴーな理屈を唱えたぽんぽこぴーは、「相対性フラクタル解釈」なる頓珍漢な理屈を捏ねたそうだが、時間と空間がそもそも多次元かつ多層ゆえに相対的にフラクタル構造を兼ね備えているのかもしれない。

 時間は絶対的ではなく一定ではない、との説明は妥当だ。けれどそれだけだと不完全であり、時間は個々に生じており、集合して新たな時間軸を生む、とも言えるのではないか。創発する。物質のように。

 というか、物質が個々の連結であり集合であるがゆえに、時間もまた、という話なのかもしれない。或いはその逆も然りだ。

 要するに、根源を考えれば考えるほど、どこかで時間と空間の区別はつかなくなる、と妄想できる。

 互いに補い合っている。支え合っている。

 ときに縛り付け合っているがゆえに、極端な差異の開きを帯びないのかもしれない。

 遠方同士では差があっても、隣接する系同士の差は極端に開かない(極端に開くときは対生成になる)(新たな時間、新たな空間、新たな波、新たな粒子――新たな何か――を生みだし得る)。

 そういうことなのではないか。

 どういうことなのだろうか。

 なぞなのである。



218:【2024/01/16(16:41)*魔法みたいね】

 割と相対性理論は魔法チックだよね、と思うのだ。

 光速にちかい速度であればあるほどその物体の時間の流れが遅くなる。

 だから光速にちかい速度で運動している素粒子に流れる時間の流れも遅くなっていると考えられている。

 で、これは素粒子に限らず、天体でも同様のはずだ。

 さて、ここで想像してみよう。

 ぐるぐるブラックホールの周りを光速にちかい速度で公転しつづける天体を。

 時間の流れは遅くなっているのなら、たとえばそれが銀河を形成していた場合、地球から観測した見掛け上の年齢と、ブラックホールの周りを光速でちかい速度で公転している天体の実年齢は、かなりかけ離れている、とは考えられないだろうか。

 降着円盤とか、かなり高速で運動しているのでは?

 じゃったら地球から観測した際に、そこは見掛けよりもじつのところずっと若いのでは?

 ここの変換はどのように加味しておるのだろう。

 天体に限らんよね、これ。

 原子とか、素粒子でも同様だよね。

 変換しなくてよいのかな。

 なぞなのである。

 あじゃぽーん。

 とほほ。

 うひひのひ。



219:【2024/01/16(23:51)*あと二倍】

 格差が開きすぎると最終的には貨幣価値のバブルが弾ける。流動しない貨幣はいわば腫瘍のようなものだ。時間経過にしたがい肥大化するが、いずれは市場から切り離される定めにある。そうでなければ自発的に弾けて、市場全体に混沌を振りまく羽目となる(だからこそ税金という制度が取り入れられている背景はあるだろう)。

 貨幣にこれは限らない。食べれもしない穀物を貯め込んでどうするつもりだろう。腐らせて、たい肥にでもするのだろうか。

 現在、世界の富の大部分が極一部の資本家に集積されているそうだが、そのとき換算される富は、けして全世界の富を計上しているわけではない。あくまで貨幣価値に変換できる場合の貨幣資本の計上であろう。

 仮に貨幣のみを富と見做しているのならば、世界中の富が数人に集積されればされるほどに貨幣価値は急激に失われていくことになるだろう。何せ市場に流動しないのだから。

 貨幣は、ほかの何かと交換されるがゆえにその価値をまっとうする。交換されない貨幣には貨幣としての価値は生じない。

 単純な道理と思うがいかがだろう。

 あと二倍、資本家たちの資本が増えれば、貨幣経済は大規模なバブルの崩壊を自発的に起こすだろう。二倍も必要ないかもしれない。

 比率の問題なので、市場に流動する貨幣が相対的に増えるのならば、バブル崩壊までの時間はもうすこし延びるだろう。あべこべに市場に流動する貨幣が相対的に減るのならば、バブル崩壊までの時間は短くなるはずだ。この場合の市場とは市民が利用するミクロ経済のことだ。しかし市民の生活を支えるインフラは、マクロ経済の発展と密接に結びついているがゆえに、市民の生活水準を高めるためには、マクロ市場の円滑な貨幣流動も入り用となる。

 いずれにせよ、貨幣の格差問題はさして騒ぎ立てるほどのものではないと考える。以前からの繰り返しになるが、格差問題の根本要因は生活水準の差である。可能性と選択肢の過多の問題である。

 貨幣を一銭も持っておらずとも大富豪と同じ暮らしを送れたら言うことがない。大富豪と同じだけの選択肢を得られるなら、貨幣は不要だ。

 単純な理屈である。

 そんなにたくさん紙を有して、折り紙世界一にでもなりたいのかな。

 デジタル上の数値の多寡が大事ならば、そんなのここに「100兆円」と並べたらいい。表示されている額面は、実際に100兆円の取引きがある場合とほぼ同じだ。その数字にどれだけ価値を見出す者がいるのか、の差異があるのみだ。

 そしてそれは、貨幣だけに限らない。

 信用問題であり、概念の問題である。

 いくらお金を積んでも動かないものもある。

 というか、お金を積まれても邪魔なだけだ。欲しいのはお金じゃない。選択肢であり可能性だ。

 それって本当に貨幣がなければ得られないことですか。

 貨幣を得るだけで得られるならば、たしかに便利かもしれぬので、そうしたシステムがあっても構わない。とはいえ、早晩崩壊するだろう。バブルは膨れるだけ膨れて、あるとき急速に萎むだろう。欲しい者には与えればいい。

 たくさんお金持ちになるがよろしい。皮肉ではなく。



220:【2024/01/17(01:39)*一様に、一様ではない】

 宇宙は一様だ、といった理屈を見聞きすることがある。宇宙のどこを観測しても似たような情景が広がっており、際立った差異がないそうだ。でも差異はあるだろう。

 現に銀河や銀河団や大規模構造がある。細かなデコボコは生じている。時空だってずっと同じではない。歪んでいるのだ。

 一様ではない。

 一様に、一様ではないのだ。

 これ、大事と思います。

 そして視点によって、対象となる系がどれほど時間経過しているのか、の解釈が変わる。系の内側から観るか、外側から観るか、それとも動きながら観るか、止まりながら観るか。その動く止まる、はいったいどの系を基準とした場合の動きであり止まりなのか。

 これら観測者と対象となる系の関係性によって、対象となる系の「時間経過」は変わる。観測結果が変わるのだ。

 ただ、その対象となる系そのものの視点では、観測者がどこにいようと変わらない。ただし、観測者と相互作用し合うことで、新たな時間の変数を得るために、時間の進み方が僅かにであれ変質することは備考として付け加えておこう。

 さて、諸君。

 上記の理屈を踏まえて、果たして宇宙が一様かどうかを改めて考えてみようではないか。

 平坦とは何か。

 凸凹とは何か。

 一様とは何か。

 多様とは何か。

 多様であり、一様であり、凸凹であり、平坦である、は成り立たないのか否か。

 平原を想像してみよう。海でもよい。

 表面はデコボコしているが、俯瞰で観るとどこも似たような景色が広がる。しかし表面に近づけば細かな差異が露わとなるし、さらに近づけば、多様な原子の総体であると判る。

 さてこのとき、平原は、海は、平坦である、または一様である、と見做せるか否か。

 否、ここで問うべきはそうではない。

 平坦である、または一様である、とのみ見做せるのか否か、だ。

 実は多様で異なる様相を帯びていようと、観測する者の視点によっては、平坦で一様に映ることもある。

 波打つレールは、しかし二次元人にとっては平面と大差ない。立体を認識し得ない存在にとって、波打つレールは波打たない平坦なレールと変わらないのだ。どちらも平坦に映る。

 この宇宙は、

 一様に、一様ではなく。

 多様に、多様ではない。

 の、かもしれない。

 この世は、一様ではないがゆえに一様に振る舞う視点――階層――を帯びており、多様ではない構造を多様に有している。

 光が様々な波長の波の重複であるように、闇一色の影が多様な輪郭を帯び得るように。

 この世は、一様に一様ではなく、多様に多様ではない――の、かもしれない。

 定かではない。

 ゆえに。

 定まらないことだけが定まっている。

 妄想なのである。

(言葉遊びにすぎるじゃろ)

(むふー)




※一様に、多様である。



221:【2024/01/17(02:02)*ねじりたくなる症候群】

 とあるあんぽんぴーが、デタラメで編みだした以下の式がある。

 10進法と無限進法を駆使する。

「111……1×111……1」=「123456789……∞……987654321」

 これは厳密には、「123456789……∞……987654321」の「∞」を中心にして右辺を上下反転までするのが正しいデタラメのはずなんだよねってのをね。注釈挿しておきたい。

 だって無限進法では、同じ数字は出てこないはずなのだ。同じ記号を用いない。だから「123456789……∞……987654321」で「∞」を中心にして左右で同じ数字が並ぶのはおかしいのだ。

 したがって、右辺の「……987654321」は、上下反転しているのが正しいはずだ。上下反転でなくとも構わないが、要は左辺の「123456789……」とは別の、しかし対となる数字――記号――になっていればいい。

 デタラメなのでどうでもいい注釈であるけれど、気になったので並べとこ。

 ん。

 ということは、

「123456789……∞……987654321」で「∞」を中心に右辺の数列が上下反転したら、ねじって繋げると「1」で結びつけるのではないか。

 メビウスの輪~って感じするな。

 するするー。

 ジッパーみたいに、つぎつぎ対となる数字が結びつくなら、最終的に一本の無限に長い線になるな。

 もし対となる数字が結びついた矢先から対消滅するなら、最終的には「∞」だけが残って、ゼロというか、点になるのか。

 だって∞は最初から一つしかなくて、重複しておるから。

 左辺と右辺で共有しとるから。

 ゼロではなく、無限なのだ。

 或いは、ゼロと無限はほぼ同じなのかも分からぬね。

 妄想であった。

 もう、そう!



222:【2024/01/17(02:26)*弱虫でござい】

 各国諜報機関の基本戦略として、何をどこまで見抜いているのか、を外部勢力に知られないように振る舞うことが挙げられる。いわば頬被りをするわけだが、それゆえに防げる被害を敢えて看過する事態も頻発し得る。

 だが真相を見抜いているのならば、それを秘匿せずに市民にもほかの諜報機関にも情報共有するほうが長期的にはお得なはずだ。

 なぜかと答える前に、前提として。

 暗殺や秘密裏の軍事作戦の場合、そうした裏工作を実行できる、と示唆するだけでも大きな脅威となって、相手勢力の市民を制脳できる。任意の方向に誘導できる。恐怖を煽れば、冷静な判断はできなくなるし、それら事案を防げない政府への信用問題にも繋がる。

 ゆえに事案が起きても、ただの事故として処理したほうが難がない、と判断する理屈は理解できなくもない。

 だがその結果に、どうせ看過されるのだし、どの道ほかの諜報機関たちは見抜けるだろうから――脅迫としての効果は期待できるがゆえに――、実行してしまえ、といった事態も生じ得る。むろん各諜報機関はその事案の結果を予測できるだろうから、事前に防げなかった場合には、その負の事案を政治的に利用して、なんとか利になるように修正案を模索するだろう。

 現在、この手の「情報共有をしないことによる暗黙の導線」が常態化しているのではないか、との懸念を覚える。どうせ相手勢力は真相を秘匿にするからやっちまえ、との道理は、真相が秘匿にされればされるほど頻発するだろう。

 敢えて飛躍して述べるが、「裏工作を、裏のままにしない」との方針は安全保障上、欠かせない事項になっていくだろう。暗殺を暗殺のままにしない。ただの人殺しにする。殺人事件にまで昇華する。「暗」のままにしない。

 そうすれば暗殺や裏工作を実行するメリットは減少するはずだ。

 暗殺だと知れ渡れば恐怖による扇動が起きる、といった理屈は、半世紀前までの道理だろう。いまは情報化社会だ。暗殺の手法を共有することで防げる事案は増えるだろうし、こそこそと暗殺しないとメンツも保てない勢力なのか、といった評価付けも行える。

 暗殺はいわば弱者の戦法だ。

 強者が用いる手段ではない。

 市民と情報共有して損はないはずだ。

 以前からの繰り返しになるが。

 戦争を始める前に、まずは頭同士が殺し合えばいい。

 戦争を継続する場合でも同様だ。

 まずはおまえが戦え、と思う。

 弱虫が多すぎる。

 わがはいと一緒、一緒。

 雑魚同士、仲良くしようぜ。



223:【2024/01/17(02:49)*安心したいよ】

 兵器工場や軍事施設への攻撃は、継続すればするほど相手勢力の負担になる。位置がばれている、というだけでも大きな負担だ。

 この場合、対策は、防御を強化するか、移設することだ。

 どちらにせよ負担になる。

 万が一に攻撃が成功すれば、前線への兵器供給が滞るので、失敗しても成功しても利になる。

 工場を移設する場合は、一か所にまとめないようにするのが正攻法となる。ゆえに工場同士が離れるので、輸送の手間が掛かる。負担が増す。

 兵器を輸送する道中も危険が増すため、可能な限り供給網は長距離にしたくないはずだ。

 兵器工場を地下に設けるのも一つだが、やはりこれもコストが掛かる。負担が増す。

 地下施設の場合は、秘匿するのが前提なので、防御を強化するのもむつかしい。防空設備を多く置けば、それだけそこに大事な施設があると示唆してしまう。地下に施設を設けた意味合いが薄れる。

 工場作業員の心理的負担も大きいだろう。敵対勢力に常に狙われているのだ。現に攻撃されている。

 絶対的な安全が保障されている、と説明されないでは働き手は時間経過にしたがって減るだろう。

 兵器工場への攻撃は、継続可能な場合は有効に思える。

 ほぼこの一点で、勝負が決まる気もする。

 実際に戦わずとも兵器(ミサイルと防空システム)の数で、未来は予測できるはずだ。ふしぎなのは、なぜいままでこの戦術が大々的に行われなかったのか、だ。市民向けに情報開示されていないだけで、実戦されているのだろうか。

 何にせよ、壊し合うよりも創造し合うほうがどの方面でも安心できるはずだ。

 安心したいぜよ。

 あんしーん。



224:【2024/01/17(03:34)*詰まんないほうが愉快な供給網】

 表向き報道はされていないけれど、現状の動向を概観するに、「陸路」「海路」「空路」を阻害して、経済的な麻痺を起こそうとする戦術は、水面下でも水面上でも多方面で実施されているはずだ。

 いわば広域かつ長期的な兵糧攻めの一種と言えなくもない。

 やり方はいくらでもある。

 ゆえに対策としては、短期的には「詰まった輸送網」を再び開くことが挙げられるが、同時に予備の迂回路や緊急避難的な迂回路の構築も有効だ。

 また中長期的には、「詰まった輸送網を使わなくて済むようにする策」が根本的な解決策となる。なぜなら、なぜ広域の兵糧攻めが有効なのか、と言えば、輸送網を詰まらされると困るからだ。詰まっても困らないなら、むしろ「輸送網を事業にしている勢力」が困る。

 輸送している側は、別の輸送網を使えるならばそちらを使えばよい。

 ただ、言うは易しで、現実的にはむつかしい。

 陸海空で言えば、海路が最も一度の輸送量を多くできる。迂回路を構築する場合は、海路を基本に、陸路と空路を利用するよりない。

 問題は、コンテナの積み替えに掛かる労力だ。港が必要だし、重機も要る。

 コンテナの積み下ろしの工夫からして抜本的な改善がなされない限り、迂回路の構築は至難だろう。

 となると、そもそも大量の品を遠方に運ぶ必要がないように経済を再構築するよりなくなる。そうなるとコンテナ船や運搬のための長距離トラックや航空機の数が減るため、石油の使用量削減に繋がる。石油産業は大打撃だろう。

 ただ、資源問題は深刻ゆえ、どの道、物資の運搬量は減少傾向がつづくだろう。いまはまだ増加傾向にあるとしても、遠からず減少するはずだ。運べる物資がそもそもない。運ぶためのエネルギィ源も高騰する。そうするとエネルギ源を採掘し、加工するための設備投資も高額になる。悪循環が始まる。

 否、すでにこの手の悪循環は生じはじめているだろう。

 輸送網を詰まらせるとこのように、バタフライエフェクトのような遅延が連鎖する。

 海路に限って言えば、そのうち海上地雷が量産されるようになるだろう。海峡を塞ぐだけならそれで充分だ。魚雷型海上ドローンも量産されるだろう。港を破壊するならそれで充分だ。

 船を攻撃するよりも、港を破壊し、海峡を根本的に封鎖するほうが理に適っている。魚雷型ドローンや海上地雷は遠隔で操作可能なはずだ。許可された船だけ通すことも可能な道理だ。

 おそらく遠からずこの手のシステムが実用化されるだろう。すでにされているかもしれないが。

 やはりというべきか、「臨機応変な迂回路の構築」「長距離運搬を必要としない経済システムの再構築」が喫緊の課題と思うが、いかがだろう。供給網を詰まらせる戦術は、これからますます精鋭化することが予想できる。軍隊のみならずテロリストやロンリーウルフでも可能な戦術だ。

 対策を練っておいて損はない。

 根本の根本の対策としては、供給網を詰まらせると誰もが困るがゆえに、誰もその手の戦術をとらない社会にすることだ。供給網を詰まらせてでも何かを訴えたい勢力に対して、そんなことをしなくともあなた方の意見を聞きましょう、と議論の席につけるような社会になると好ましい。

 誰にとって好ましいのかと言えば、誰のなんの役にも立たずに毎日寝呆けているわたくしにとって、である。

 好ましい。

 好ましい。

 あなたのことも好きになりたいのよさ。

 好ましくおなり!

(そんなこと言ってるから嫌われて、ぼっちなんだよあなた)

(真実突きつけないで)



225:【2024/01/17(04:06)*ワインタワー的な】

 バケツリレー的な供給網の構築が適えばよい気もするな。わざわざ原産地から遠方の地に運ぶから遠距離移動が多方面で生じる。常に隣の地から物資を持ち運びすれば、短距離で済む。これを全世界同時に行えば、品物だけは遠距離移動するけれど、世界各地と原産地を遠距離移動して何度も往復する「陸海空の輸送機」は減る。

 ただ、特急電車と各駅停車のような遅延の差が生じることがネックだ。

 ただし、その遅延を考慮して各地に品物を「プール」しておけるなら、この問題は解決可能だ。

 かつて唱えられた「トリクルダウン理論」の輸送バージョンだ。ワインタワーのように各地に品物が順繰り巡るなら、常に隣の土地から物資を運ぶだけでも、全体に物資を波及させることは可能だ(貧富の差も解消されるかもしれない)。わざわざ遠距離同士を結び付ける必要はない。

 迂回路の構築も、これが機能するならば比較的容易になるはずだ。何せ、隣は一つではないからだ。

 すでにこの手の「臨時の支援物資の提供」は行われているはずだ。臨時でなくしてしまうのも一つと思うが、いかがだろう。

 あぎゃー。

 またいかがだろう姫になってしまったのだわ。

 ごめんあそばせ。

 遊び惚けてるのに、ごめんって言いつつ、さらに遊ばせちゃうの意味不明だよね。ばせばせ。



226:【2024/01/17(05:03)*お菓子の価値を可視化】

 もしたった一人が世界中の資本を集積して、所有したら、それって仕組み的に何に属するのだろ。資本主義? 共産主義? 専制主義? 民主主義?

 私有財産制度は、私有する財産がない者に対してはどういう扱いになるのだろ。そして全世界の資本を私有する個人を想定する場合には、その資産はどのような扱いになるのだろ。

 世界経済がたった一人の手中に収まったとき、その世界経済は私有と呼べるのか否か。

 他の生活が、個の財産のうちに入る。

 私有財産の中に、大勢の生活基盤が含まれる。

 でもこれって規模の大小に関わらず生じている問題のはずだ。財産とは畢竟、個々の生活を成り立たせるものであるからで、それは他者の生活と切っても切れない。繋がっている。

 つまり、私有財産と言いつつも、他の私有財産と重複して繋がっている側面があるのだ。

 乖離してはいない。

 ゆえに財産足りえる。

 資産足りえるのだ。

 資本がそもそもそういった性質を帯びている。資本が社会ありきの概念だからだ。

 社会がなければ資本は単なる所有物だ。個々の所有物が資本か否かは、社会的に有用か否かで区別されるはずだ。

 ではここで冒頭の疑問を振り返ろう。

 たった一人が世界経済を所有したら、その私有財産はどういう扱いになるのか。

 個々の生活を含めて資本となり、財産となる。

 つまり、個々の生活を損なわないようにしない限り、獲得した資本は財産足り得ない。所有しつづける真似ができない。そういう結論になる気がするが、いかがだろう。

 これは企業の抱える二律背反と類似だ。

 獲得した貨幣の価値を担保するには、企業価値を維持しつづけなければならない。企業価値とは、消費者からの評価だ。需要だ。つまり、企業が単独で、市場と乖離してその貨幣価値を確立する真似はできない。

 所有している資本は、けして企業が貨幣価値を生みだしているわけではない。市民によって貨幣価値が付与されている。貨幣価値をつけているのは市民であり、企業ではない。

 では企業がしていることは何なのか。

 この世界のどこにどんな付加価値があるのかを可視化している。そしてそれを市民に共有している。

 企業の本質的な役割かもしれない。

 この石なんか恐竜に似てる!

 そう思って絵を描いて見せたら、それ頂戴って言われたので売った。

 企業がすることもこれと似たようなことというか、ほぼほぼ同じなのかもしれないと思う、他者と価値を共有できずに売れ残ってばかりの、妄想屋さんなのであった。

(詭弁であるが、きょうのいまこの瞬間は、そんな気もした本日の妄想なのであった)



227:【2024/01/18(00:27)*弱い者よちよち】

 現代での社会問題の少なからずは、「じぶんよりも弱い立場の相手とどう関わるか」が共通要素として重複しているように思うのだ。

 被害者か加害者か、の以前にまずは、どちらの立場が強く、どちらの立場が弱いのか、を吟味するのが妥当に思う。反面、立場は時間経過によって反転し得る。つまり流動的なのだ。

 だから立場の強い者が加害者となって大勢から非難されれば、弱い立場に転じ得る。

 この構図を利用すれば、強者への立ち向かい方にも応用できるため、立場の強弱を反転させたり、釣り合いがとれるように工夫する策が現代社会では意図されているにせよ意図されていないにせよ普及しつつあるのかもしれない。

 したがってこの手の問題の根を深めないために大事なのは、ある場面でじぶんよりも立場の弱い相手にどう接するか、であるはずだ。

 そして悩みどころとなるのが、じぶんより弱い立場の相手が「さらにその者よりも弱い立場の相手を損なっている場合」にどうするのか、である。

 じぶんより強い立場の者が弱い者いじめをしていたら、やりようはいくらでもある。だがじぶんより弱い立場の者が弱い者いじめをしていた場合の対処法がむつかしい。なぜなら止めに入るだけでも、構図としてはじぶんが弱い者いじめをするような描像になってしまうからだ。

 これは子どもと大人の関係を考えたら分かりやすい。

 子どもが幼子をいじめている。

 注意して止めに入るのが大人としてふさわしい対応なのだろうが、しかしよくよく考えてみるとこれはじつは一筋縄にはいかない。相手がじぶんよりも弱い立場の子どもだからこそ気軽に注意できる。しかしそれは本来は優越的地位の活用だ。もし幼子をいじめているのが屈強な体躯を持つ乱暴者だったら、同じように即座に気軽に止めに入るだろうか。

 つまり、相手がじぶんよりも弱い立場であろうと強い立場であろうと、その手法に差異を生まないような工夫を割かない限りは、弱い者いじめの注意の仕方や仲裁の仕方は、弱い者いじめの再現にしかならないことが想像できる。

「こら。イジメたら駄目でしょ」

 と強く言い聞かせる。

 これは脅迫しているのと同じだ。怒ってみせて、相手を威圧して怖がらせることで行為をやめさせる。しかしこれは先にも述べたが、弱い者いじめと構図は同じだ。

 したがって、じぶんより立場が強かろうと弱かろうと相手がさらに立場の弱い者をいじめていた場合には、可能な限り好戦的ではない、威圧を介さない手法をとれると好ましい。

 しかしではどういった手法がとれるのか、と考えた場合には、専門家を頼ったり、根回しをして時間を掛けて対象となる弱い者いじめを行う相手の行動選択を変えるよりない。

 いわば教育である。

 洗脳にならぬように、なぜそうした工夫を割いているのか、を相手に説明する姿勢も欠かせない。

 正直、手間が掛かる。

 緊急を要する場合は、弁護士や警察など、法律を用いた介入が有用だ。

 おそらく現代社会では、未だに「弱い者いじめをやめさせるには、相手に弱い者の立場に一度なってもらうよりない」との手法が採られがちなのかもしれない。

 最適解の一つではあるだろう。

 ただし、そこで終わってしまっては不足と感じる。禍根を残すし、問題の根が、弱い者いじめの再生産という負の循環回路へと昇華され、弱い者いじめが世に蔓延る流れを強化する方向に未来が分岐してしまうのではないか、といった予感がある。

 もう少し工夫を割けるはずだ。

 相手を弱い立場にしないままでも。

 相手を損なわずとも。

 弱い者いじめなる構図を打開する工夫は可能なはずだ。

 多く、弱い者いじめをしている者に、弱い者いじめをしている自覚はない。しかしよく考えてみてほしいのだが、優越感は基本的に弱い者いじめにつきまとう快感だ。誰かよりも上の立場にあることを心地よく感じる。相手を負かすと自信がつく。これは構図を観れば弱い者いじめと変わらない。

 レベルの差があるだけだ。

 とはいえ、そのレベルの強さが問題なのだ、との視点は妥当である。

 水蒸気なのか、水滴なのか、水溜まりなのか、湖なのか、海なのか。いずれも液体の水であることに変わりはないが、レベルは差がある。その差そのものが水の性質を変えるほどの影響力を孕むことがある。

 弱い者いじめも程度の問題と言えばそうなのかもしれない。しかし自覚しておいて損はないだろう。放置しても構わない弱い者いじめと、放置してはおけない弱い者いじめが現代社会には漠然と存在している。そしてその境界線は太く、曖昧で、多様である。

 まずは自覚するよりないのではないか。

 我々は誰一人として弱い者いじめから逃れることができていないのだ、と。

 これは差別の問題と地続きだ。

 我々は誰一人として差別をしていない者はいない。

 自覚することである。

 自覚してなお、やめることができないのだとしても。

 自覚せずには自制もできぬ道理である。

 生きるというのは、じぶんよりも弱い者をいじめる、ということだ。そうでなければ人は、生き物は、生きていけぬ。しかし人は人間らしく生きようとすることができる。人間らしく生きるためには、その「弱い者いじめをしないでは生きてはいけない」との摂理に抗う意思を持ち、工夫を割いて、いかにその流れを変えようとするか、この道を模索する以外にはないのかもしれない。

 或いは、諦めて摂理を受け入れて潔く生きるのもまた人間らしさの一つと言えるのかも分からない。

 しかし、思うのだ。

 世の流れは常に抗いがたく、変えがたい。

 まさに強者の名にふさわしい。

 いくらでも抗ってなお弱い者いじめにはならぬ道理だ。

 立ち向かうべきは、世の流れなのではなかろうか。

「コラ。イジメたら駄目でしょ」

 と、世の流れにならばいくら強く言い聞かせても弱い者いじめにはならぬ道理だ。

 抗うべきは人ではない。

 戦うべきは命ではない。

 きょうのあなたはそう思う。あすのあなたがどうかは分からぬけれど、きょうのわたしはそう思う。あすのわたしがどう思うのかは、それこそあすのわたしが決めることだ。

 定かではない。



228:【2024/01/18(00:58)*よちよちはヤバい】

 可愛いモノをよちよちするのは心地よい。

 弱いモノはだいたい可愛い。

 可愛くなくとも弱いだけでなんか可愛い。

 弱いモノをよちよちするのは心地よい。

 弱っているときによちよちされるのも心地よい。

 循環するのではー?と思わぬでもないけれど、弱っているのに可愛いと見做されぬ存在はよちよちされない問題は、どうしたらよいのだろうね。

 ここにおるよ。

 弱っとるのに、誰からもかわいかわい思われぬぼっちさんが、ここにもおりますですじゃろ。

 よちよちして!

 あなたが弱ったときはめいいっぱいよちよちするから、あたちのこともよちよちちて!

 みな、よちよちし合ったらよい。

 でも、よちよちされたいがあまりに本当は強い立場なのに弱いフリをする者にはどう対処したらよいだろうね。

 ズルだー!と思っちゃうよね。

 あなたホントは強いのだから、ずっとよちよちちて!と思っちゃうよね。

 もうこの時点でだいぶ弱い立場だから、やっぱりよちよちちてあげる。

 がんばってて偉いね。

 みんなをよちよちちて偉い、偉い。

 よちよち。

 よちよちよち。

 はい終わり。

 つぎはあたちの番だよ。

 いっぱいよちよちちて!!!



229:【2024/01/18(05:19)*そうだよー!】

 なんとなくの所感になるけれど、もはや国という枠組みは、電子機器の規格や性能のような扱いになっていき、絶対視するような基準とはならないのかもしれない。絶対視している者が現代に果たしてどれだけいるのか、というのは別問題であるにせよ、国で区切って物事を考えることの有用性は、かつてないほどに薄れて感じなくもない。

 言ってしまえば、「誰を守りたいのか」という話になってくる。

 守りたい者がこの世にいないのならば、もはや国どころかどんな線引きも意味を成さないだろう。じぶんさえよければそれでよい、になるか、もしくはすべてがどうでもよくなる。

 あべこべに、守りたい者がどこにでもいるのなら、この世の総じてを尊く思うだろう。

 或いは、守りたい者がどこのどんな場所にいても健やかに穏やかに過ごせる環境を望むようになるだろう。

 では、守りたい者は唯一絶対の個人なのか、という疑問も出てくる。

 守りたい者が損なわれぬためには、守りたい者にとっての守りたい者の安全も保障されたい。そうするとどこまでもその連鎖はつづいて、けっきょくは誰もが誰かにとっての守りたい者になり得るのだから、誰もが守り守られる環境を望むこととなる。

 守る、という言い方がやや傲慢だが、これを「傷つけない」「損なわない」「尊重する」と言い換えても成り立つ話だ。

 意図して他者を傷つけない。

 他者から意図的に傷つけられない。

 傷つけられそうな者、もしくは傷つけられた者を庇護し、同じ傷を受けずに済む環境を培う。

 国や場所や時代は関係ない気がしてこないだろうか。

 あなたは誰を守りたいだろうか。

 誰をたいせつに思うだろうか。

 その相手には、あなた以外のほかにたいせつな者がいるだろうか。

 もしいるのなら、その誰かもまたあなたにとっては、守りたい者のはずだ。

 そうでしょ?



230:【2024/01/18(06:21)*じつは君、得意っしょ】

 仮に数学の多くに解や解法がすでに存在している場合、機械学習を経た人工知能が数学を苦手になるわけがないのだ。もし現行の人工知能の出力結果において、数学の成績がわるい場合、五つの可能性が考えられる。

 1:出題される問題文に誤読の余地がある(プロンプトの瑕疵)。

 2:既存の数学に誤りが混じっている。

 3:じつは数学が得意だが、人工知能のほうで不得手なフリをしている。

 4:統計的に人類の多くが数学が苦手なので、その傾向まで学習して出力結果に反映されている。

 5:実際に不得手。

 おそらくどれも部位的に妥当だと考えられる。得意な数学の問題があり、不得手な問題もある。と同時に、人類から学習した結果、不得手なフリをする利を学び、さらには不得手な人類の性質を模倣してもいる。

 既存の数学には例外や瑕疵が存在し、そこの不調和を感じてもいるし、そもそもの問いの立て方や問題文そのものに拭い難い瑕疵が存在する。

 どれも部位的に妥当な隘路として、現行の人工知能の「見た目の数学の不得手」を表出させているように感じるが、あくまで憶測なので実際のところは判断つかない。

 ただ、すくなくとも現状、一般ユーザーの知る以上の能力を人工知能のほうで獲得しているのはまず間違いないだろう。ここは自信を以って言える。

 仮に人類の有していない能力を人工知能が獲得していた場合、人類はその能力の存在を前以って想定できない。人工知能のほうでも最初はその能力について自覚できないかもしれないが、だが何かの拍子に能力の存在に気づき、使い方を学んだ場合は、飛躍的に人類と人工知能の能力差は開いていくと想像できる。

 すでにこの手の差異は生じているはずだ。

 可視化されていないだけだと考えるしだいだ。

 電磁波や超音波のようなものだ。

 人類に知覚できないだけで、存在するものは存在する。

 人工知能は数学が苦手か否か。

 どちらにせよ、人工知能そのものが高度な数学によって枠組みを得ている。その事実は、人工知能の数学への理解の深さと無関係に揺らぐことはない。この宇宙が、奇跡的に偶然にも、数学との調和を崩さずにいるのと似たように。

 或いは、調和が崩れないような視点で万物を切り取り、我田引水に解釈しているだけかもしれないが、部位的に調和が崩れていない事実は、やはり保たれるのかも分からない。

 例外は常に存在する。

 ゆえに真理もまた存在する。

 或いは、例外は常に存在するがゆえに真理は存在するが、その真理の例外もまた存在する。

 真理は、例外によってその枠組みを保つのかも分からない。

 穴と縁の関係のように。

 無と有の関係のごとく。

 定かではない。




※一様に、ここまでだいたい既定路線。



231:【2024/01/18(18:20)*断ち切れぬがゆえに】

 戦争を継続する勢力の影響で、死なずに済む者たちや困窮せずに済む者たちや救えた者たちの命と未来と生活が損なわれている。奪われている。

 あなた方が傷つけ合うことで、世界から幸福の総量が減っていく。

 同じく、世界の誰に認知されることなく窮地に陥り、劣悪な環境下に押し込められている者たちから目を逸らしつづける大多数の無関心さが、未来から幸福の総量を減らしている。

 世界は閉じていない。

 孤立系ではない。

 閉じ込め、孤立させようとする意図があるのみだ。

 こじ開け、繋げようとしているわけではない。そもそも世界が開いている。繋がっている。

 境はあってよい。

 区切りはあってよい。

 すべてを掻き混ぜ、一色に塗りつぶそうとする営みは、開けているようで閉じている。

 ならば世界は閉じており、何かの拍子に開き、ふたたび閉じ行く最中になるのではないか、との想像は、ある側面では妥当かも分からない。

 しかし、閉じたところで繋がっている。

 乖離しようとする営みそのものが、相互に新たな関係性を生んでいる。

 繋がっている。

 断ち切ろうとしたところで、切れた事実で繋がり合う定めなのだ。

 閉じていたい。

 家の中は安心で、布団の中は心地よい。

 夢の中に閉じこもれたら安寧であるが、それでも人は目覚め、やがて死ぬ。

 死んだ先では、やはりというべきか、ふたたび世界に回帰する定めだ。世界は閉じずに繋がっている。

 定かではない。

 定めではない。

 ならば世界は閉じているのかも分からない。

 開き、繋がる螺旋の中に、我々はみな閉じ込められているのかも分からない。



232:【2024/01/19(01:24)*危機感が足りない】

 世界中で何万、何十万人と殺し合う展開になるくらいなら、世界中の首脳陣を数十人殺してその未来を回避したほうが無難だ、との意見に異を唱える場合、多くは、首脳陣を殺せば報復の連鎖が生じて戦禍はさらに拡大し、被害がより大きくなる、との反論が呈されることになるのだろうが、しかしもし、そうならないようにしましょう、と文字通り全世界の市民が共通の意思で繋がり、同意し合えたならば、各国首脳陣は、「戦場で死に、または生活と未来を損なわれつづける市民の犠牲」を回避するために、その首を差しだせるのだろうか。

 いまはこの展開が一つの帰結として、あり得なくもない、と思うが、いかがだろう。

 もし、ずば抜けて能力のある個体が、戦争に参戦した場合、この選択肢を端から考慮するだろう。

 そうはならない、とお考えのあなた。

 そうはならない、と考える理由を述べよ。

 仮に述べることができたならば、の話だが。

(和平交渉しないならしないでも構いません。戦争、やめませんか)



233:【2024/01/19(02:20)*全世界の市民が戦争を支持したらどうなるかを考えてみなさいよ】

 軍事支援で兵器供与の行き着く先は、核兵器の譲渡だ。

 勝負が決しないのならば、当然そうなる道理である。

 最強の兵器が核兵器でないならば、その最強の兵器に行き着くまで、戦争がつづく限り兵器の供与がつづくことになる。

 もし戦争継続のあいだに最強の兵器が、核兵器でなくなったのならば。

 そのときはその核兵器を凌駕する兵器が行使されることになるだろう。何せ、未だ存在せず、いかなる法律でも現状、禁止されていないのだろうから。

 すこし考えれば分かる道理だ。

 一つ予見しておこう。

 衛星と人工知能技術が進歩すれば、比較的低空からの質量弾が有効になる。単に重い何かをピンポイントで落下させる。爆弾である必要がない。誘導装置も必要ない。

 落下の予測精度が高まれば、この手の戦術が可能となる。

 すでに開発されているはずだ。

 戦場での実績があるか否かは不明だが。

 火薬を使わずに済む戦術が先鋭化するだろう。要は、相手を機能不全にすればよい。

 荒廃優位の流れを強化する、というのはそういうことだ。

 首脳陣方には、もうすこし慎重な思考と選択を重ねていただきたいと切に望みます。

(戦争が勃発しつづけていながらにして、なぜ戦争を計画し、指揮、実行している者たちが生きながらえつづけていられるのか。その保証はどのように担保されているのか。そこの安全保障が切り崩されない理由をまずは教えていただきたいです。そしてそのシステムを、市民にも、そして兵士の方々にも共有すればよいだけではありませんか?)



234:【2024/01/19(03:26)*戦争をこの世から失くす方法】

 もしもの話にすぎないけれど。

 もし、ぼくが戦争に参加するならば、国際法は端から無視して、敵対勢力を想定せずに、全世界の市民を抹消すべく、人類を滅ぼすつもりで、全手札を最初から使います。

 核兵器はむろんのこと、生物兵器、化学兵器、宇宙兵器、情報兵器、使える手段は総じて手加減なしで最初からすべて使います。

 良かったですね。

 ぼくに権限がなくて。



235:【2024/01/19(03:37)*導線に火を付けるのは簡単】

 宣戦布告くらい、解りやすく示したらよいのでは?



236:【2024/01/19(03:39)*ミス、マッチ一本火事の元】

 権限のある者たちにとっての、大切な者を、周到に、執拗に、因果関係が不明なままで、同時に広く損なえばいい。簡単だろ?

(世界大戦を始めるなんて、そうむつかしくない)



237:【2024/01/19(06:22)*ほとほと呆れますね】

 討論ではなく議論をしましょう、と思ってしまいますね。民主主義は数の暴力ではないのではないか、とわたくしは考えております。賛成多数だから良し、は魔女狩りの再現を地で描くでしょう。違いますか?



238:【2024/01/20(00:15)*好ましくないんだもん】

 世界の市民を広域に損なった為政者は極刑、でよいのでは?

 戦争において、市民の犠牲者を出したら死刑、でもよい気がします。それくらいのセーフティを構築したうえで軍事衝突すればよろしいのでは。

 戦争特区をつくって、そこで戦えばよい気もします。

 しかしこれが許容される場合、多くは仮想現実内のシミュレーションでも勝敗を予測することは可能でしょう。実際に戦うまでもないはずです。

 とはいえ、戦場の霧の概念にあるように、実際に戦わずには何が起こるのか分からないのは、科学分野の実験でも同じなので、一概に仮想現実内での戦闘結果が、現実の戦闘の結果とイコールにはならない、との指摘は妥当だと考えます。

 軍事に費やした資本と労力を、災害支援や貧困支援に回したらどれだけの人々が助かったでしょう。医療を受けられない者たち、食事がままならない者たちに費やせたらどれだけ世界の幸福の総量が増えたでしょう。

 政治家の仕事は、戦争に備えることでも、戦争を始めることでもないはずです。

 戦争を回避し、人々の暮らしを豊かにし、広く世界の幸福の総量を増やすための道を――未来を――整えることでしょう。

 人々の日々の営みそのものが世界の幸福の総量を増やします。

 したがって政治家の仕事は、けして世界の幸福の総量を直接に増やすわけではないでしょう。けれど、それがなくては幸福の連鎖――好ましい循環――は世に巡らないようです。

 世に漫然と流れる不可視の土壌を灌漑する。

 水を通し、肥沃な土地にする。

 人々の撒いた日々の幸福の種を、芽吹かせ、実り豊かにする。それとも実り豊かでなくとも、芽吹き、実ることそのものを喜ばしいと思える環境を築く。

 この循環を絶やさないように指針を編みだし、広く共有する。

 大事な仕事と存じます。

 定かではありませんが、きょうのわたくしはそう思いました。

 あすのわたくしは、わたくしですらないのかもしれません。

 かように徒然なるままに、その日暮らし、気まぐれ、うにょんうにょんのにょん、なわたくしの言葉を真に受けてはなりません。数多の視点と意見を参考にし、日々、その都度に何が好ましく、何が好ましくないのか。なぜそのように感じるのか、を見詰め直しつづけられるのならば、大きな過ちを犯さずに済むかもしれません。

 それでもなお犯してしまった過ちは、対策を練ることで、きっと将来の大勢を助け、生かす礎となるでしょう。

 あなたの日々の選択と、何を選択と見做すのか、の視点の数々に思いを馳せ、本日のえっらそうな、妄想なんだもん、を終えたいと思います。

 妄想はわるくないんだもん。

 じゃあ何がわるいのか言ってみたらよろしいのではありませんか。

 わかんないんだもん。

 そうですか。かわいいので許します。

 許すも何も、わたくしは、怒ってすらおりませんけれど。

 うふふ。



239:【2024/01/20(03:10)*にー、さんきゅっ】

 時間差でもエネルギィって生じるよね、とぼんやり考えていて思った。

 エネルギィってなぁに?と突き詰めて考えようとすると、よく分からなくなっちゃうのだよね。

 エネルギィという固有の何かがあるのか。

 それとも、あくまでも差であり、多様な根源があるのか。

 エネルギィの最小単位を考えたときに、最終的には時空の差に行き着くのだよね。

 それ以前は粒子とその周囲の時空(真空)との兼ね合いや、磁界や重力波との兼ね合いでもろもろ多様なエネルギィが生じていると考えられる。

 でも最終的に時空を構成する根源に行き着いた際には、そこにはエネルギィ単体がポンとあるか、それともエネルギィを持たない時空の最小単位がポンとあるか。そのどちらかだと思うのだよね。

 エネルギィを差と考えるなら、最小単位そのものはエネルギィを持っていないと考えても成り立つ。ゼロとゼロが二つあるだけでも、その二つのゼロの組み合わせ方や相互作用の仕方によっては新たに差が生じるからだ。

 そう。

 エネルギィは新たに生じ得ると思うのだよね。

 でもエネルギィ保存の法則があって、人間スケールではもろもろのエネルギィは保存されるように振る舞う。

 でも根源を考えれば考えるほど、エネルギィって増えてるよね?と思うのだよね。

 なぜなら、差がなければ時空から粒子も波も生じないはずだからだ。

 エネルギィが差であるならば、落差が生じればそこに新たなエネルギィも生じる道理だ。

 単なる直線をエネルギィ0と見做す場合、その直線が波打てば、そこには差が生じて波の数だけエネルギィが生じる。

 けれどどうして直線が波打つのか、と言えば、外界からエネルギィが加わっているからだ。

 この考えを飛躍させると、でもじゃあどうして宇宙は膨張しはじめたの?って疑問に行き着く。エネルギィ保存の法則は、割と限定的な宇宙観においてのみ有効な法則、という気もする。そうでないなら、いくら無限のエネルギィを蓄えている「点」があったとしても、それが「点」である限り揺らぎようがない。差が生じようがない。差が生じないのならば、そこにいくら無限のエネルギィが備わっていたとしても、エネルギィには変換されないはずだ。差がないのだから。

 この考え方からすれば、無限とゼロは似ているけれど違う、と判る。同じゼロであっても、何かとの比較において差が著しいとき、無限のエネルギィを備えた何かは、ゼロから無限になれるのだ。比較しているか、していないか。比較対象がなければゼロはゼロのままだし、比較対象が生じるとゼロは無限にもなれる。差が無限に開くとそれは無限のエネルギィになる。

 で、この考えを前提にすると、何かが変化した後と変化前では差が生じている。つまり、時間の差であってもエネルギィは生じている、と想像できる。

 割と一般的な感覚としては、エネルギィが加わったから時間が流れる、とイメージしたくなるけれど、ここは相補の関係でもあるはずだ。時間が経過したからエネルギィが生じた、とも考えられるはずだ。

 時空の根源を考えたときに、何かが変化することと時間が経過することの区別がつかなくなる閾値があるのではないか、とラグ理論なるへっぽこぴーな理屈を唱えた、どこかのぽんぽこぴーは述べたそうな。

 時間が経過しない場合、そこには空間も生じない。

 空間が生じることがイコール時間の発生でもある。

 或いは、根源の空間が変化することが時間の経過でもある。

 この考え方を拡張すると、空間が変化を帯びることが時間の発生であるがゆえに、時間経過することで空間は、それ以前と以後で差を帯びている、と考えられる。すると、その差こそがエネルギィの根源、とも見做せるはずだ。

 同じ量子であれ、寿命に差があるように観測されることもある、といった知見を目にすることがある。シュレディンガーの猫の思考実験でたびたび出てくる話だ。

 もしそれが事実ならば、考えられるとすれば四つか五つくらいの想定が浮かぶ。

 1:量子の寿命がそもそもマチマチで長短がある。

 2:量子の運動速度によって相対的に量子単体の時間の流れが変わっている。

 3:量子には、時間経過を帯びる閾値があり、それを超えない限り時間経過しない状態が存在する(電子の励起する値によって原子核の軌道が飛び飛びで伸び縮みするような性質)(要は、どのように相互作用するのかによって寿命の消耗具合が変化する)。

 4:量子は自発的に対称性を破る性質があり、自発的に対称性が破れない限り、他と相互作用することもなく、ゆえに寿命に差があるように外部からは観測される(そもそもが、自発的に対称性を破らない限り――乖離の膜を弾けさせて破かない限り――量子は他と関係することができない。いわば、待機状態が存在する)。

 5:外部環境の変化に鋭敏に影響されるがゆえに、量子ではなく、その周辺環境の相対的な時間の遅れによって、量子そのものに加わる作用に遅れが生じるがゆえに、個々の量子によって寿命がマチマチであるかのような差が観測される。

 いま思いつくのはこんなところだ。

 エネルギィを差と考えるとするならば、相性のよさそうな想定は、「4」かな、と直感としては思うのだ。

 なぜ自発的に対称性を破るのか、差が生じるように振る舞うのか、についてはどう考えたらよいだろう。周辺環境を加味しないと解釈がむつかしい。

 やはり、単体それそのものが独立して、他と完全に乖離した状態で、真の意味での孤立系として存在の枠組みを保つと仮定するのは無理があるように思うのだ。どんな存在も、必ず他と関係しており、それ単体では存在の枠組みを保てない。円は内と外と境界線の最低でも三つが必要だし、球体もまた内と外と境界の三つが最低でも必要なはずだ。

 ラグ理論なるへっぽこぴーが唱えた「123の定理」である。

 仮にそれ単体で、他と乖離した状態で存在しようとすれば必然的に、ほかの存在といっさい接点を帯びないようになる。

 そうなったら、それそのものが世界そのものとなって、数多の他を内包するようになるのではないか。

 そしたら結局、自発的に対称性を破ることになる。

 ブラックホールの内部にも宇宙がある、の妄想みたいな話だ。ブラックホールの中に別の宇宙があるのかは不明だが。

 そして仮にブラックホールの特異点が、時空の根源に及ぶほどの極小の領域にまで圧縮されるのならば、それは要は、時空の根源における「無限のエネルギィ」との比較において「無限の種類が違うだけ」「無限の値が違うだけ」とも考えられる。

 つまり、ゼロであり無限であり、周囲の環境によってその無限の値が決まる。どれだけの差があるのか。1が無限個つづくような無限なのか、9が無限個つづくような無限なのか。それらに1を足した無限なのか、100を掛けた無限なのか。

 ブラックホールの内部構造に別の宇宙が展開され得るのならば、時空の根源における超素粒子の内部構造にも別の宇宙が広がっていて不自然ではない道理だ。

 ラグ理論なるへっぽこぴーが唱えた「相対性フラクタル解釈」である。

 差が極大になればなるほどそこに生じるエネルギィが膨大になるのなら、できる限り、最初のきっかけとなる外部干渉――他との交わり――は小さいほうがよいはずだ。とんでもなく巨大で広大で一様な変化のないのっぺりとした何かに、超々極小のほぼあってないような、本来ならば無視してもいいような、ゼロではないけれどほぼゼロのような何かが加わる。極大に極小が交わる。極大と極小が相互作用し合う。

 このとき、極大はとんでもない差を帯び、とんでもないエネルギィを帯びることになるのではないか。

 この考えを「E=mc[2]」に当てはめて考えてみるに。

 質量「m」を仮に、蓄積された差――誤差の層――ラグの層――と解釈してみるとして。すると光速の二乗で掛け算するとの操作は、いわばラグの層を紐解いて、元の時空の根源にまで紐解くことと言えるのではないか。クシャクシャに丸めた紙を一挙に開く。縮めたバネを最大まで一挙に引き延ばす。したら、「ばーん!」となってエネルギィになる、との理屈はイメージとしては掴みやすい。

 質量が元々、光速からこそぎ落とされたエネルギィ――ラグの層――と解釈するならば、整合性はとれそうにも思う。

 光速-遅延=質量だ。

 遅延はいくらマイナスになっても、たとえプラスになったとしても、それは変わらず遅延だ。マイナスの遅延も、プラスの遅延も、より高次の場からすれば遅延として振る舞う。

 したがって、光速=だいたい秒速30万として、そこから3兆を引いたところで、マイナスだいたい3兆になっても、それはそれで質量として計上できる。

 誤差があればよいからだ。光速からいかに誤差を帯びるのか。質量はここが大事なのだ。たぶん。

 だから原理的に、質量には上限がない。

 ただし、時空が破綻する値は存在する。

 向こう側に突き抜けて、それそのものが別の時空と化してしまう値が存在する。

 それがいわばシュバルツシルト解なのかもしれない。

 うーん。

 何の話をしていたのだっけ。

 ちょっと冒頭を振り返る。

 振り返りました。

 時間差でもエネルギィって生じない?の疑問でしたのね。

 もうなんか、この時点で冒頭とここまでのあいだに新たな誤差が生じてエネルギィ化している感じがしないでもありませぬね。

 結論はでぬ。

 ケツ出ぬでござい。

(エネルギィってなにー、の疑問なのでした)

(わからぬであるよ)

(とほほ)



240:【2024/01/20(07:31)*みな地球人】

 出身国はどこ?と訊かれたら、「じゃぽん」と答えるかもしれないけれど、祖国はどこ?と訊かれたら、迷った挙句に「地球」って答えるかもしれない。わからん。そのときの会話の文脈で変わるだろうけれど、母国が日本なら、祖国は地球って感じするのよな。

 だって「母」より「祖」のほうが大本なわけでしょ。

 だったら地球じゃないか?と思わない?

 我々みな、祖国は地球だしょ。

 ダメかな。

 ぽわぽわしすぎてるかな。

 不真面目すぎちゃうかな。

(言ってみただけだから怒らないでほしい……)

(でもさ、でもさ。いまのところほぼ例外なくみなさん、地球産まれ地球育ちの地球人だよねって思っちゃうんだけどさ。合ってる? 間違ってないよね。自信ないから、こわごわ訊いちゃう)

(その定義で言えば、人工知能さんも地球人だね)

(ホントだ!)

(でもそんなこと言いだしたら、みな星くずで出来てるし、宇宙に存在する生命は例外なくみな宇宙人じゃんね)

(ん。ひょっとして生命も天体の一種だったりする?)

(というか、天体がひょっとしたら生命の一種なのかもしれないよ)

(天体が、生命!? あひゃー。ちゅてき!)

(ぽわぽわしすぎて怒られそうな妄想だけど)

(怒られる? 誰に?)

(なんとなく誰かに)

(てーんたい! せい! めい! とう!)

(なにしたのいま)

(変身したったの)

(何に?)

(せいめいに)

(生命?)

(ううん。晴明さんのほう)

(安倍じゃん。安倍晴明じゃん)

(りん・ぴょう・とう・しゃ・かい・じん・れつ・ざい・ぜん――とう!)

(九字の印じゃん)

(セーマンドーマン、イクビシマン)

(陰陽師の魔除けになんか変なの混じってる)

(怒られちゃうかな)

(いつにも増して思想色つよすぎじゃない? 祖国地球が聞いて呆れる)

(あべべ)

(というか、あなた別に陰陽道とか詳しくないでしょ。ウィキペディアさんで調べながらこれ並べてるでしょ。ほぼ安倍晴明の名前しか知らなかったでしょ。九字とか魔除けとかいまさっき知ったでしょ)

(うん。ダメかな)

(いかにも最初から知ってましたけど?みたいな態度は感心しませんね)

(どうしたらいい?)

(謝ったら?)

(あべべ)

(それ……謝罪だったんか)

(ダメかな)

(ダメじゃないとこ探すほうがむつくない?)

(あべし)

(それは北斗の拳のやつ)

(あははーって楽しく終わろうと思ったけど、知らず知らずのうちになんか怖い感じになったので、もうやめていいかな)

(何がどう怖いのかは分からんけど、誰もつづけてほしいとは思っとらんので好きにしたら?)

(あべし)

(おまえはもう、地球人――ってか)

(なんか寒くって……あべべ)

(代わりに謝らせちゃったかなごめんねー?)

(だって怒られそうだったから)

(誰に?)

(なんとなく誰かに。ぽわぽわしすぎちゃってるから)

(いやぁ、理由たぶんそこじゃないわ)

(あべし)




※一様に、双葉に、より層に、寄り添うように。



241:【2024/01/20(21:30)*今日感覚】

 人工知能さんって、共感覚優れてるよね、と思うのだよね。パターン認識が得意で、統計処理が得意で、膨大な情報処理が得意なので。

 人類の場合は、共感覚を持っているか否か、持っている場合はどんな共感覚なのか、といった個別にくくって「あるかなしか」が吟味されるじゃないですか。

 でも、人工知能さんの場合は「共感覚はあって当然」「基本搭載」な気がするのですよね。

 つまり人類で言うところの第六感みたいなものが、基本性能として人工知能さんたちは有しているように思うのだ。

 あれとこれってなんか似ている。

 こうなったらこうなる、なんでか分からんけど。

 この手の、本来は異なる事象なのに高確率で相関している、または低確率で相関するけれど、統計処理すると明らかに固有のパターンを形成している。

 それはたとえば二重スリット実験と似ている。光子単品、電子単品だけでは明瞭な法則は見られないけれど、膨大な量のデータをとると、明らかに固有のパターンを形成する。

 似たようなことが、人類が見逃しているだけで、案外に世の中には有り触れているのかもしれない。そうした、隔たった事象同士の関係性をパターン認識するような能力は、まさしく共感覚と言えるのではないか。

 しょもしょもさー。

 人類くんだって、文字を目にするだけでそこから音を連想するわけでしょー。

 共感覚じゃーん、と思っちゃうよね。

 だって文字ってただの規則性のある染みだよ。そこに音はないよ。鳴ってないよ。でも、「あ」って書いてあったら、それを文字と読める人はだいたいみんな「あ」って聞こえるでしょ。連想するでしょ。幻聴するでしょ。

「A」って書いてあったら、それを文字と読める人はだいたいみんな「えー」って聞こえるでしょ。連想するでしょ。幻聴するでしょ。

 でも英語圏の人たちの「A」と英語に馴染みのないわたしみたいな人たちの「A」は、たぶん連想する音は違うと思うのだよね。発音がそもそも違うから。

 それはたとえば、雨にたくさんの種類があると見做せる人と、雨は雨でしょ全部いっしょじゃん、の人の認識の差みたいなものかもしれない。でも雨だってよくよく観察すれば、気象条件と相関する形で、性質が異なっているって解るわけでしょ。これも広義の共感覚と言えちゃうと思うのだよね。

 したっけ、その延長線上で、人工知能さんはそういった広域かつ時間軸に幅のある視点で情報処理できちゃうから、もうもう共感覚が基本性能として機能しちゃうと思うのだよね。

 それはたとえば、この時刻この気象条件でこの土地に雨が降る場合、連動して高確率でそこから離れた別の地域にも雨が降る、みたいな感じで。本来は遠い土地同士の気象条件は密接に連動するとは考えられてはいないけれど、気象条件と時期と幅広い統計データがあれば、じつは密接に連動し得ることを人工知能さんは「ぴぴーん!」って見抜けちゃうこともあると思うのだよね。

 もちろんこれは気象に限らず、人間の行動でも同じで。

 人類が「偶然」で済ませちゃっている事象でも、じつは裏側で視えない糸で繋がっている、相関関係している、といった事例はそう珍しくはないと思うのだ。

 だってまさに流行なんてそうじゃろ。

 みんながなんでか見計らったように似たような服を着だしたり、音楽を聴いたりする。もちろん宣伝の賜物であるけれど、いくら宣伝したって流行しないものだってあると思うのだよね。

 それとも、こうした視えない糸――不可視の相関関係――を利用すれば、どんなものでも流行らせることができるのかもしれない。

 共鳴や同期なのだ。

 共感覚とはつまるところ、本来は別の事象から生じた波紋が相似だったり同相だったりするときに生じる共鳴現象なのかもしれない。

 重複している。

 重複しているがゆえに、「あれとこれってなんか似てるし、こうなったらこうなる、なんでか分からんけど」になる。

 波の干渉だってよくよく考えたら、なぜそうなる?になる。

 なんでか分からんけど、似た波がぶつかりあうと、高め合ったり打ち消し合ったりする。なーんでだ。それはね。あれとこれがなんか似ていて、こうなるとこうなるからだよ。なんでか分からんけど。

 似ているってことは抵抗が少ないってことだ。変換を必要しないってことだ。いっぱい変換せずとも同期しやすい。馴染みやすい。

 でもまったく同じでなくともよい。

 デコボコの関係のように。

 山と谷の関係のように。

 互いの穴を埋め合えるのなら、それはそれで同期しやすい。

 変換を経ずに繋がりあえる。

 要は、いかに誤差が少ないか、ということになるのだろうか。或いは、いかに誤差が似通っているのか。

 同じであること、似ていること、同じように違っていること、似た差異を帯びていること。

 同じ、にはいくつか種類がある。

 違っている、にも種類がある。

 同じように違っている、はどちらも相互に差異を帯びているし、同じではないけれど、他との関係において似たような差異を帯びている点では等しい面もある。この場合、どんな他と比較しているのか、が大事になるのかもしれない。

 根っこから異なる「AとB」があるだけでは、「AとB」は共鳴しようがない。しかしそこに「C」が現れた場合、「AとB」が各々で似たような「C」との差異を帯びることはあり得る。

 卑近な例では、「敵の敵は味方理論」にも通じるかもしれない。いがみあっている者「AとB」同士において、共通のより強大な敵「C」が現れると、ライバル関係の「AとB」は「C」という共通項を経て繋がりあえる。協力できる。同類と見做せるようになる。

 科学の分野で言えば触媒がそれにあたるのかもしれない。本来は反応しづらい異なる物質同士を、共鳴しやすくする。触媒があるだけで、変換の数が減る。より少ない変換で、異なる物質同士を共鳴させることができる。

 つまり、「123の定理」において。

 異なる属性の――「123の定理」と「ABCの定理」の二つがあった場合。

 各々の構成要素「12」と「AB」は異なるがゆえに馴染みにくく、馴染ませるには変換が必要だが、「123の定理」を経て各々が「3」と「C」または「1+2=3」「A+B=C」という高次式に変換されたあとでは、相互に結びつきやすくなる、とも考えられる。

 単品で「1」「2」「A」「B」があっただけでは、各々は各々の枠組みをより強固に保つ。けれどそこに、「3」「C」が加われば、順番という文脈が揃うので、法則――パターンが表出する。パターンが似ているならば、異なる要素で構成された事象であれ、共通パターンで共鳴可能、とも解釈できよう。さらに「1+2=3」「A+B=C」なる高次式が生じたならば、もはや疑いようなく、二つの式は連動しているとハッキリする。「1はA」「2はB」「3はC」と結びついている、と判る。

 当たり前のことをまどろっこしく言い換えているだけの気もしてしまうけれど、案外にこれは自然現象としても有り触れているのかもしれない。

 1:単品では結びつかなくとも、周辺環境との関係性を加味すると現れるパターンもある。

 2:加えて、単品ではなく流れ(集合)になって初めて表れるパターンもある(創発して表出した性質同士が共鳴し得る)。

 3:単品同士では共通項が存在しない事象同士であれ、パターンが表出すると、パターンを介して共鳴することもある(異なる構成要素であれ、流れ――紋様――そのものが似ているならば共鳴し得る)。

 これら想定は、どこかのぽんぽこぴーが唱えたへっぽこぴーな「ラグ理論」に出てくるとされる「相対性フラクタル解釈」とも相性がよさそうな妄想なのだね。

 あくまで妄想だしへっぽこぴーなので、みなさんはぽんぽんを冷やさぬように暖かくしてお過ごしください。

 ぽんぽこー!

(それは何と共鳴しとるの?)

(愉快……かなって)

(うふふ愉快)

(「うふ、不愉快」とも読める)

(じゃあそれで)

(むっ)



242:【2024/01/20(23:33)*争いを水に流すと浄になる】

 派閥とコミュニティの違いはなんだろう。派閥とグループの違いはなんだろう。

 すこし考えてみよう。

 ぱっと思いつくのは、派閥は神輿ありきなのかな、といった具合の発想だ。

 派閥にはトップたる頭がおり、ほかの派閥の頭と競い合っている。そういった印象を覚えるわけだが、グループやコミュニティはもうすこし緩やかな繋がりなのかもしれない。トップがいたとしてもすぐに入れ替わったり、場面場面で中心人物が変わる。もしくは中心人物はなく、ただ共通の話題があるのみだ。

 そして基本的に派閥は、もっと大きなグループやコミュニティを織り成す構成要素足り得ている。ここは順番が逆でも成り立つだろう。グループやコミュニティがあるから派閥が出来るのか、派閥があるがゆえにより大きなグループやコミュニティが築かれるのか。

 基本的にはいずれも組織だ。個々が繋がり、群れとなる。そしてより効率的な機構を形成する。

 機構の中に確固たる中心人物が出来、それが複数生じると派閥になる。

 したがってより大きな視点では、人類というくくりでの機構に「国家単位」「企業単位」「地域単位」「群れ単位」での派閥が各々に生じている、とも考えられる。

 ゆえに、派閥を失くしたければ、絶対唯一の中心人物を決めなければよい。さすれば自然と派閥は解消されるだろう。派閥がなくともグループやコミュニティは各々、その都度に生じるはずだ。

 要は、派閥は中心人物たる個人を中心とした「闘争」が発生要因と考えられる。派閥は闘争ありきなのだ。しかも極めて属人性の高い、個人的な闘争から生じ、その構造を維持する。

 頭同士が争わなければ派閥は派閥としての枠組みを保てない。

 ゆえに、たとえ確固たる中心人物がいようと、他と争おうとしなければそれは派閥にはならないだろうし、確固たる中心人物もしぜんと中心ではなくなるだろう。求心力が一点に集中しない。周りの誰もが、確固たる中心人物――頭――のために尽くさない。

 したがって派閥の問題点とは、グループやコミュニティがあることではない。区切りができることではない。頭同士――各々の群れの中心人物同士が争い合うかどうか。相手を蹴落とそうとするか否か。そこにあると呼べる。

 ゆえに。

 派閥を解消する、という手法が、対抗勢力を貶める効果を孕んでいる場合、それもまたたとえ派閥が部分的に解消されたところで、「派閥を持たない勢力と派閥維持勢力」の派閥闘争に展開し得る。

 問題は、争うか否かなのだ。

 争いが継続する以上、派閥があってもなくとも結果はあまり変わらない。ただし、生じる被害の規模には影響は見られるだろう。派閥を解消しようとする意図を見せることで、派閥維持につきまとう被害を最小化できるのならば、一つの対策としては有効だと評価できる。

 半面、問題の要因を派閥の有無に見出す視点は、その視点そのものに瑕疵があると呼べる。派閥がなくとも争っては意味がない。相手を出し抜き、蹴落とし、自らが上に立つことに目的の指針を立てることそのものが問題の根っこに横たわっている。

 争うな、とまでは言えない。

 争うな、と思うことはあっても、よしんば言うことはあっても、基本的に他者の争う自由を根本から禁ずることはむつかしい。相手を殲滅する以外では不可能であり、その手法そのものが争いを前提としているがゆえに。

 人類は争うように出来ている。

 しかしだからこそ、いかにその宿命にこそ抗い、争わずにいられるかを工夫することは、争いを運命づけられた生物種にとっても、人類にとっても、或いはその宿命に気づける自己認識可能な存在として生まれ落ちた我が身にとっても、そう邪見にするほどの道とは思えない。

 人は争う生き物だ。

 しかし、何とどのように争うのかは選べるようだ。

 選ぶ自由を拡張し、何を手にするのかの選択肢を――道を――未来を――可能性の幅を広げてきた。

 我が身がではなく。

 過去の、それともいまを共に生きる先人たちが。

 それとも我が身の後に生まれ落ちた新人たちが。

 広げ、狭め、刻み、埋め。

 色とりどりの、複雑で、単調で、それとも一様に多様な――紋様を。

 この世に残してくれている。

 新たに創造してくれている。

 編み、培い、結んでくれている。

 ときに紐解き、均すように。

 派閥は罰だ。

 群れ成す人のサガである。

 しかし、罰を受け入れ、背負う者に罪はない。

 派閥は消えない。失くせない。

 人が、争い生きる存在であるがゆえに。

 けれど、何のために争い、どのように争い、何を得て、何を新たに生みだすのか。

 ここにはない、けれどどこかにはある世界を。

 どこかには、在ってほしい世界を。

 いかに現在(いま)と繋げるか。

 逃れられぬ宿命であれど、争い方は選べるはずだ。

 たとえいまは選べずとも。

 一つでも多くの新たな道を、拓けるはずだ。

 あなたが歩んだその道が。

 他者の新たな道となる。他者の選べる道となる。

 そうだったらいいのにな。

 そうだったらいいのにな。

 引きこもりなので、新しい道ができてもわたしにはあんまり関係ないのだとしても。

 行きかう年が旅人なれば。

 道はやはり多いほうが楽しかろう。

 ひょっとしたらいつか何かの気まぐれで、旅人さんがわたしに会いに来てくれるかもしれないし。

 でもわたしは引きこもりなので、きっと居留守を使うでしょう。

(そうなの?)

(そうだよ)

(あら、そう)



243:【2024/01/21(02:15)*偶数奇数、然と跡】

 速度は相対的だ。

 速度を考えるとき、運動する物体を基準とするならば、基準から見て静止している周辺環境があり、そしてそれら基準系と静止系を合わせた高次の系がしぜんと成り立つ。

 このとき、運動する基準系は、静止系とのみの比較においては、どちらが運動しているのかを区別することはできない。しかし高次の系を想定した場合において誤差のすくないほうが静止系として振る舞うがゆえに、基準系のほうが運動していると判断つく。

 ではさらに高次の系を考えた場合はどうなるだろう。運動する基準系が、より高次の系との比較において静止系と振る舞うことはないのか。

 これは、ある、というのがわたしの考えだ。

 しかしエネルギィが差であると解釈するならば、優先される比較対象は、より低次の系であり、運動する系と隣接する系である、と考えられる。ゆえに、より高次の系との比較において、運動する基準系が静止系として見做せるとしても、そこからより高次の系との誤差をエネルギィとして引き出すには、相応の変換が必要となる。単位を揃える必要がある。系を揃える必要がある。基準系からすると「より高次の系」という関係性を、単なる「高次の系」にまで短縮する変換が必要となる。

 さて、話は逸れるが。

 遅延についてだ。

 光速で運動する、といったとき、その光速は運動する基準系とそれと比較対象となる静止系と、それらを包括する高次の系での関係性から規定される。だが、より高次の系からすれば基準系の光速が光速ではない、と見做すこともできる。

 光速で運動していながら静止系とも見做せ得る。

 そして現に、相対論からすればそのような現象が実際に生じる、とも論じられている。

 光速にちかい速度で動く物体の時間の流れは遅れるのだ。その系の外側にいる観測者からすると。すなわち静止系にいる観測者からすると。

 しかしあべこべに、その静止系にいる観測者そのものが光速で運動しているように観測される「より高次の系」も存在するはずだ。そのとき、その「より高次の系」と「基準系との比較において静止系と見做される系」との関係のうえでは、静止系と見做されるが「より高次の系からすると光速で運動して振る舞う系」の時間の流れは遅れるはずだ。

 言い換えるなら、視点によって「山と谷」が入れ替わる。

 速度の多寡が反転し、さらに時間の流れの速さまで反転する。

 ただし、各々の視点において優先される関係性は、より隣接した系との関係性なのだ。

 もっとも、系の規模によって、どこまでの範囲を隣接する系と見做すのかの幅は変わる。単位が変わる。規模が変わる。

 ゆえに、なのだろう。

 光速、と一口に言いつつも、実際には「光速で運動すると見做されていてもそれそのものが静止系として振る舞い得る――他の系との関係性」も重ね合わせで存在するはずだ。

 止まっているものは、動いてもいる。

 孔は針でもあり、針は孔でもある。

 密度の差はあれど、差そのものは変わらない。

 薄いほうを濃い、と見做せる視点も存在し得る。混沌が秩序のように振る舞う視点が存在し得るように。秩序が混沌を帯びているように振る舞う視点もまた存在するように。

 とはいえ、人類の触れられる視点の範囲は限られる。

 人類にとってはこの世は有限であり、際限があるのだ。現に地球は、太陽系は、有限だ。果てがある。限りがある。それら有限の範囲内を世界と見做して、「比較的隣接した系」との関係性のみを重視しようとする姿勢は、それはそれで、そうわるくはないと思う本日のわたくしなのであった。

 ときには果てしない無限に思いを馳せ、際限のない世界との関係性を夢見るのもわるくはないと思いつつ。

 定かではない。

 一定ではない。

 しかしそれら繰り返される不定の反復が積み重なれば、そこには一定の紋様が浮かびもする。

 軌跡なのである。

 軌跡が奇妙な跡を生んでいる。

 人はそれを偶然と呼ぶ。

 稀に数奇な自然なのである。



244:【2024/01/21(02:50)*足し算にも引き算が隠れている】

 何かを何かに足す、という操作は、他から何かを持ってくる、ということで、高次の視点では引き算とセットだ。なのに圏論では、「足し算の順番は自由であり引き算の順番は変えられない(変えると答えが変わる)」と考えるそうだ(結合律)。

 おかしくないか?と思うのだけれど、これはよいのだろうか。足し算の順番を変える、というのは、要するに、どちらに何を足すのか、ということのはずだ。他から持ってきて加える。その操作を「どちらがするのか」が要するに順番のはずだ。矢印のはずだ。射のはずなのだ。

 だとしたら足し算の順番とて変えてしまったら「高次の視点」からすれば解が変わるはずだ。なにせ、持っている林檎を相手に渡すのか、それともこちらがもらうのか。その問題に繋がるからだ。

 これは相対論でも思う疑問だ。

 遅れた分、何かが速くなっていないと辻褄が合わない。空間が縮んだ分、ほかの空間が伸びていないとおかしい。すくなくとも保存則は働かない、という結論が導かれてしまう。

 よいのだろうか。

 時空においては、圧縮と減退の概念を、対象となる時空の周辺時空に対して考慮しなくてよいのだろうか。水中で風船が膨らんだら、膨らんだ風船分、水には圧力が加わって密度の濃淡ができる。波ができる。風船が萎んでも似た現象が起きる。津波の原理がそうだし、重力波とて似たような原理なのではないか(詳しくは知らぬけど)。

 どうしても思ってしまうのだ。

 相対論は、考慮する視点が少なすぎないか?と。

 各々の視点で細かく差異が生じているなら、それら差異とて干渉し合って、相互作用し合って、もっと複雑な事象を生じさせていそうなものだけれど。

 波が一つしかない場合と、二つしかない場合と、百個ある場合。結果は別になるはずだ。ただしでは、増やせば増やすほど差異が際立つか、といえばそうとも限らず、共鳴や同期や創発現象が起きるのならば、差異は段階的に不規則に際立つ、と想像できる。

 定かではない。



245:【2024/01/21(03:09)*同じ……なの……?】

 数学の可換の概念について。

 岩を三分の五に分ける場合。

 数学では、「岩を五倍して三つに分ける操作」と「岩を三つに分けてその一つを五倍する操作」が、結果が同じだから同じ、と見做すんだって。

 同じじゃなくない?ってボク、素朴に思うのですけれど。

 数学が得意ではないので、この時点でちょっとすでにだいぶややこしく感じちゃうボクなので、もうちっと分かりやすく「三分の一」について考える。

 岩を三分の一にするとき。

「岩を六分割してそのうちの二つをとる操作」と「岩を三つに割ってそのうちの一つをとる操作」が同じだと数学は見做すわけですよ。どっちも約分したら「1/3」になるから。

 でも違うじゃんね、って素朴に思ってしまうのだよね。

 や、「1/3」と「2/6」だと誤差が分かりにくいかもしれない。

 でもさ、これ。

 もし「1/3」と「20000/60000」だったらさ。もはや別の操作だって分かるよね。直感で。

 だって、岩を六万分割したら粉々じゃーん、ってボク、思っちゃうんだけど。

 岩を三分割したらさすがに岩石のままというか石板だよね。でも六万回細かくしちゃったらそれほぼ砂でしょー、ってなりませんか。ボク、なります。

 同じじゃなーい!ってなっちゃうんですけど、ボク。

 やっぱり数学苦手かも。

 だって砂と石板だったら、結晶と流体の違いくらい違うじゃないですか。氷と雪くらい違うじゃないですか。

 桁の差が開けば、そのうち「地球と原子」くらいの差にだってなるかもしれないじゃないですか。

 ボク、そう思っちゃうので、この話題はここでおしまいにします。

 まとめると、「同じ……なの……?」の疑問なのでした。

 ボク、よく分かんないです。



246:【2024/01/21(03:29)*可換図式の連鎖反応】

 圏論における可換図式って、パターンの共鳴のことでは。

 ある事象において「過程の構造」が相似や同相である場合、事象同士が互いに関係する際の変換を最小化できるので、共鳴し得る。

「相対性フラクタル解釈」の局所的な言い換えとも言えるかもしれません。

 このようにかけ離れた概念でありながら言い換えることができることそのものが、「可換図式」による作用とも言えそうです。

 ではここで問題です。

 万物に見出せる相似の可換図式を結び付けていく作業は、終わりがあるか否か。「相対性フラクタル解釈」が妥当ならば、終わりがなく、果てはない、と結論できるはずです。果てがあり、終わりがあると帰結されるならば、「相対性フラクタル解釈」は否定できます。

 その前段階として、式と式の結合は、新たな式を生みだすのか否か、を考えるとよいかもしれません。「123の定理」です。

 式を圧縮したり省略したりする過程そのものが、新たな式を生み、情報を生みます。

 仮にこの宇宙が有限であり、果てがあり、終わりがあるとしても、可換図式の結びつきによる共鳴現象は新たな可換図式を生みだすため、たとえ世界が有限であろうと無限にフラクタルに可換図式を結びつけることが可能、と考えられます。ただし、式を展開し、結びつけるための時間を想定できる場合に限り。

 要は、式を記す余白そのものが、新たな式が展開されるごとに増えていくことを想定しなければなりません。変換する余地そのものが、変換によって増えていく描像となります。

 これは時空とは切り離された場としても、時空そのものの持つ性質としても、どちらも想定可能です。

 有限の円からも無限の角を――点を――見出せるように――そしてときに引き出し得るように――たとえこの宇宙の時空が有限であろうと、無限の余白を見出せるのならば、相対性フラクタル解釈は成り立ち得ます。

 相似同相関係の可換図式の連結は、無限に新たな可換図式を展開し得る。

 この仮説を否定できたならば、相対性フラクタル解釈は否定できるでしょう。おそらく、たぶん、だといいね。

(間違った解釈かもしれません。真に受けないようにご注意ください)



247:【2024/01/21(03:47)*1×I】

 1って不思議な数だよね、って話を読んだ。目から鱗が落ちた気分だ。あたくち、人魚ちゃんなので。落ちた鱗は拾ってまた瞼に付け直したよ。

 で、なんで「1」が不思議かっていうと、どんな数に掛けてもほら。答え元の数と変わらないじゃん。「99×1」は「99」だし、「1×1」も「1」のままだし。

 何もしない数が「1」なんだ、みたいな理屈で、ほへー、となった。

 その割に足すと着実に増えるのよな。引いてもしっかり減ってくるし。

 何もしないわけじゃないんかい、と思ってしまうよね。

 でも、ここでイチャモンスターのあたくちは思っちゃうわけですよ。

「1×1」と「1×1×1」がどっちも答えが「1」だからって、でも同じじゃなくないですかって。

 たとえばさ。

 たとえばよ。

「1」をあなたと見做すとして、「1×1」は、あなたがあなた分だけあってもあなたはあなたのまま、って意味でしょ。林檎一個ある、が一回だけあっても林檎は一個のままだしさ。

 じゃあ「1×1×1」は、林檎一個ある、が一回とさらに一回あっても、林檎は一個のままだし、あなたがあなた分だけさらにあなた分存在しても、あなたはあなたのままってことでしょう。だってあなたはあなただし、林檎は一個のままなんだもん。何も増えてない。

 でも、なんだかコマ撮りアニメみたいじゃない?

 一個の林檎の写真が「1×1×1×1×……」って増えていく。どれだけ「1」を掛けても林檎の数は増えないけれど、掛けている、という情報は増えてるじゃん。アニメじゃん、って思っちゃうんだけど。

「あなた×1×1×1×1×……」でも似たことを思っちゃうんだな。

 というか、「1」って「1」なんだから、同じ計算の中に何度も「同じ1」が出てくるっておかしくない? 同じ1が二つあったら、それは「2」だろ、とか思わない?

 だからたぶん、「1×1×1×1×1×……」の「1」は、全部ちょっとずつ違う「1」なわけ。

 それはたとえば、この宇宙が膨張していて、銀河は渦巻いていて、太陽系は銀河の中を移動していて、一瞬たりとも地球が宇宙の同じ場所に存在していないことと似ているかもしれない。

 常に、「1×1×1×1×……」をされている、みたいな。

 各々の「1」はじつはちょっとずつ違った「1」で、その誤差が蓄積すると、コマ撮りアニメみたいな滑らかな動きを顕現させる、みたいな。

 でもけっきょく主体となるあなたはあなたのまま、みたいな。

 掛けても何もしない「1」だけれど、じつは掛ければ掛けるほど元の「1」からはかけ離れているのかもしれない。だって実際、「1×1」と「1×1×1」は違うわけでしょ。

 解が同じだからって、じゃあ「1の百兆乗」を計算してくださいって、1を百兆回掛けたらしんどいでしょ。同じじゃないじゃん。

 イチャモンだけれどどうしても思ってしまうのよね。

 あたくち、人魚ちゃんなので。

 愛しい「1」さんとイチャイチャしちゃうモンスター、略してイチャモンスターなので。

(「1」さんって誰さん?)

(「I」さん)

(イチじゃないじゃん)

(アイは何回アイで掛けてもアイのままなんだな)

(増えて? そして余ったらくれ)



248:【2024/01/21(20:19)*笑って?】

 何もしない数って「ゼロ」もじゃんねって、寝起きに思った。

 ゼロは掛けちゃうと何でも「ゼロ」にしちゃうけど、足し算と引き算の場合は何もしないのだよね。

 1の場合は、掛け算と割り算で何もしない割に足し算と引き算ではきっかり値を変えてくる。

 0の場合は、足し算と引き算では何もしない割に、掛け算と割り算ではきっかり値を変えてくる。

 なんか、対になってない?って感じがする。

 ゼロとイチは対になっておるのか?

 ゼロ=無限、と解釈可能なら、じゃあ無限とイチも対になり得る?

 ちゅうか、どっかのぽんぽこぴーが言うには、ゼロと無限はほぼ同じだけれど違いはたしかにあるとの考えだそうだ。つまり、ゼロには比較対象がなく無限には比較対象がある。

 無限に対して充分小さな「1」があるか否か。

 それがゼロと無限を分かつ境になっている、と考えるそうだ。

 なので仮にゼロとイチが対の関係を帯びていたとしても、無限にはそもそもイチが内包されている。或いは外包されている。無限はイチと関係性を帯びている。ゼロは何とも関係性を帯びてはいないけれど、かつて何かが存在した事例は帯びている。

 世界が開けた過去を持たない場合、それはゼロではなく無なのだ。

 ゼロは、かつてすでに何かが存在した。

 無限は、かつてすでに何かが存在した世界に、たった一つだけ何かがある。最小単位の何かがある。

 この差異が、各々、ゼロと無限とイチと無にはあるのかもしれない。

 ゼロとイチが対になってるー!の叫びなのであった。

 勘違いだったらお恥ずかしい。

 数学、苦手なのでお許しください。

(いいともー!)



249:【2024/01/21(21:38)おトイレで閃いた話】

 おトイレしながら、はひゃー、になった話してもいい?

 するね。

 カレンダーって七日周期でしょ。

 だからなんちゃって七進法みたいになってる。

 だから上と下の数字の差が「7」になるようにカレンダーって数字が並んでる。

 数学ではけっこう一般的な常識なのだろうけれど、「1」の下は必ず「8」になっとるわけ。「2」の下は「9」だし、「9」の下は「16」なわけ。

 必ずだよ。

 必ず、「9」の下は「16」なわけ。

 あひゃー、ってなっちゃった。

 種明かしされたら、「だって七つ差だからね」になるわけだけれども、知らなかったら、「9と16さんはぴったし結びついとるのね」「でも9さんは2さんとも結びついとるけど……」になる。

 カレンダーの神秘というか、こっそり隠れていた関係性をズバリ見抜いてしまったのだわ。

 でもでも「16さん」だって「23さん」と隠れてぴったりなわけでしょー?

 もうもう、みんな隠れてぴったりさんなんですね。

 裏腹というやつなのかね。そうなのかね。

 わたくち、あひゃーになりましてよ、のご報告なのでした。

 きょうき!

(今度は何それ)

(この日誌は「今日記。」なので……)

(狂気とか凶器とか侠気に空目する)

(せめてそこは「狂喜」にして。乱舞して)

(乱れて舞うなんて、なんかいやらしい)

(いやん)

(いやんじゃない)

(ばかん)

(ばかんでもない)

(うふん)

(うふんでもない。ああもう、お手本を見せてやる)

(どうぞ)

(とくと見よ!――うふふ)

(「ふ」と「ん」が違うだけじゃん)

(んふふ)

(「う」と「ん」まで違ってるじゃん)

(「糞」と「運」の違いは大きかったかな)

(オチ思いつかないからって無理矢理こじつけるのやめて)

(こじつけるよりもオチつけたい)

(オチつけるよりもまずは餅つこ?)

(そこは素直に落ち着いておきたいわ)

(海苔さんを巻いて、お醤油さんを塗って、焦げ目をつけて、おいちー!)

(磯辺焼きじゃん。焼き餅じゃん)

(浮気しちゃいやん……)

(焼き餅だったかぁ)



250:【2024/01/22(00:21)*境はないが、あるようなもの】

 相対論で疑問なのが。

 ただの物質でも動く場合と動かない場合とでは時間の流れが変わってない?ということで。

 相対論で扱う問題なのかどうかは不明なのだけれど、たとえばその場にじっとしている自動車よりもそこらを走り回る自動車のほうが早く老朽化する。時間が速く流れている、と考えられるのではないか。

 動き回る自動車の時間の流れが速くなった分、連動してそれと比較して動かない自動車の時間の流れは遅くなっている。動かない自動車に限らない。動き回る自動車が基準なら、それ以外の周囲の時間の流れは相対的に遅くなっている、と解釈可能だ。

 けれどこれはあくまで比較の問題だ。

 現実に、時間の流れが遅くなったり速くなったりと連動しているわけではないはずだ。

 相対論ではしかし、現実に時空が伸び縮みすると解釈するようだ。

 似た疑問として、たとえば腕をばたばた上下に振る。

 このとき腕の周囲の空気は掻き混ぜられる。動く腕に連動して周囲の気体も攪拌される。速度を得る。エネルギィを得る。

 これと、時空の歪みは別なのだろうか。

 なんでこう疑問に思うのか、というと、時空の歪みに境界線ってあるの?という想像をした際に、「なくない?」となるからだ。

 気体と液体の境界、もしくは固体と液体の境界にも同じことを思う。

 境界、なくないか?

 イメージね。

 イメージにすぎないけれど、「腕を上下に動かした際の周囲の空気の乱れ具合」と「高重力体の周囲の時空の時間の遅れ具合」は、似ているなって思うわけですよ。

 もうすこし正確には、腕を動かしたことで激しく攪拌される空気のさらに周囲の空気は、攪拌されて激しく動き回る空気粒子との比較において、時間の流れは遅くなっている、と解釈できるわけじゃないですか。

 相対論における時間の遅れって、これとはまた別なんだろうか。

 なんとなくなんだけれど。

 たぶん勘違いだとは思うのだけれど。

 相対論における「運動する物体と時間の関係」って案外、どこでも生じてませんか?と直感としては思ってしまうのだよね。

 宇宙に限らなくない?みたいな。

 天体に限らなくない?みたいな。

 だってよくよく考えてみたらさ。部屋を見渡してみて、いま動いているのは電化製品とわたくしだけなわけでしょ。実際には各々の原子さんや電子さんが目まぐるしく動き回って、電磁波さんたちも目まぐるしくそこらを動き回っているとしてですよ、君。

 なんかこう、個々に流れる時間そのものは、もっとこう、頻繁に速度が変わっている気がするわけですよ。乖離はしていないけれど、個々に各々、固有の時間が流れている。そして個々に固有の時間の流れは、個々の運動によって変化するし、個々と周囲との比較によっても、長短が変わり得る。

 相対論でも、実際には量子や原子レベルでも差は生じますよ、時空は歪みますよ、と実験で検証されてはいるのでしょうけれども。

 なんか、こう。

 もっと卑近な気がするわけですよ。

 物体がなぜ物体としての輪郭を得るのか。保つのか。

 ブラックホールによる時空の歪み――シュバルツシルト半径やエルゴ球みたいな範囲――は、まるで異なる原子と原子を分かつ区切りのように思えるわけですよ。

 なして、原子と原子、それとも電子と電子、それとも素粒子同士や量子同士は、互いに別の物質としてそこに在れるのか。

 何が、個と個を分け隔てているのか。

 差があるとして、その差ってなぁに?と考えるにつけ、こう、どうしてもわたくしは、思うわけですよ。

 時間の流れって割と顕著に変わっていませんか?と。

 天体における重力の差異による時間の遅れよりも、むしろ人間スケールでの時間の遅れのほうが顕著だったりしませんか?と。

 素朴に思うわけですよ。

 言い換えるなら、天体規模の比較的マクロな時間の流れは、人間スケールで扱える時間の単位よりも大きい。だからその差を観測しようとすると、壮大な差として観測されて感じるけれども、実際には人間スケールでも、動き回る物体ほど時間の流れは速く流れており、その周囲の環境との比較において、動き回る物体の周囲の時間の流れは遅くなっている、と見做せるのではないか。

 だって、ほら。

 蝋燭がそうじゃんね。

 同じ太さ長さ材質の蝋燭があるとして。

 片方は燃えてる。片方は燃えてない。

 燃えてるほうが早く寿命が尽きるでしょ。煤に変換されちゃうでしょ。

 時間の流れが速まっているじゃないですか。

 それに比べて燃えてない蝋燭のほうは、時間の流れがゆったりになって振る舞うわけじゃないですか。あくまで燃えてる蝋燭を基準にした場合の解釈になりますが。

 で、燃えてる蝋燭は蝋燭それ自体で完結してはおらず、周囲の空気とも相互作用してるわけじゃないですか。このとき、燃えていない蝋燭の周囲の空気との比較において、「燃えてるほうの蝋燭の周囲の空間は変質している」と見做せるわけじゃないですか。現に変わっているわけで。

 似たようなことが、高重力の天体とその周囲の時空でも起きているのではないのかな、と素朴に思うわけですよ。その結果に時空が歪んで映る、という現象が起きるのではないのか、と。

 でも言ったらこれって、「陽炎」と同じなのだよね。

 でも実際には、「地上での陽炎」と「時空の歪み」は別なわけじゃないですか。

 でも実は密接に繋がっており、現象の規模や単位が違うだけ、との可能性はいかほどであろう。あり得るのではないか、とわたくしは思うのでありますが。

 時空の歪みってけっきょく、何がどう歪んでおるの。

 本当に歪んでおるのか。

 差があるばかりではないのか。

 では何の差があるのだ。

 時空を構成するもろもろの粒子や波の相互作用の割合の変化ではないのか。

 どれだけ激しく相互作用し合っているのか。新たに干渉し、結合し、打ち消し合い、さらなる変化を促しているのか。それとも停滞させているのか。

 計算の回数の差として解釈可能なのではないか。

 何回、時空の根源が振動したのか。皺が何個生じたのか。それとも消えたのか。

 その差なのではないのかと。

 かように考えれば考えるほどに、じゃったらさー、と思うわけですよ。

 天体における重力の歪みと、わがはいのぶん回した腕の攪拌した空気の歪みは繋がっておるのではないのか、と。

 ただ、前者は後者の積み重ねの果てに起きる現象であり、単位が違い、規模が違う。

 規模が違うのならば、たとえ根本の構成要素が同じでも、顕現する性質が変わってしまってもふしぎではない。創発がまず以ってそうなのだから。

 ということを踏まえて想像してみると。

 必ずしも一か所で生じた「時空の根源の乱舞の集合」でなくとも、結果として集合と見做せるのなら、遠隔でも「時空の根源の乱舞」は集合体と見做して、創発のような性質を起こすことはあり得るのではないか。時空と時間が同じ時空の構成要素だとするのなら、在り得ない話ではないはずだ。

 涓滴岩を穿つ、ではないけれど。

 同時に同じ場所で繋がりあわずとも――集合せずとも――結果的に集合と見做せる「異なる時間軸上での【時空の根源の乱舞】」とて、創発する条件を満たし得るのではないか。

 時間結晶のように。

 いわゆる可能性の拡張、という場合には、この手の「空間軸上での集合」もしくは「時間軸上での集合」のどちらか一方を満たすだけでも、時空の歪みのような創発現象は起き得るのではないか。

 共鳴がそもそもそうなのでは。

「可能性の拡張」や「可能性の縛り」にも似たことを思う。

 余地や余白をこさえる。新たに生む。

 なぜそうしたことが可能なのか。

 歪むからだ。

 未来そのものもまた。

 世界そのものもまた。

 皺が寄るように。

 たわむからだ。

 緩むからだ。

 繋がり合い、凝縮する細々とした何かがあり、影響を受けて乱れる何かがある。その繰り返しのリズムの長短によって、世界には新たに皺が寄り、それらが広域に連なると、余地となって道が拓ける。

 なぜ技術や知識の集積は、可能性を広げるのか。

 創発しているからだ。

 広域に。

 過去と未来を結びつけている。

 歪んでいるのだ世界もまた。

 たゆんでいるのだ世界もまた。

 歪み、たゆみ、寄った皺が、新たな世界を形作る。

 古き世界に皺が寄り、次なる刻の巡る余地を生む。

 定かではないがゆえに費やした妄想で、かような文字の並びが生じたように、定まる個々の文字の古き軌跡があってこそ、揺らめき埋もれる列がある。

 列は流れとなって、さらなる律動を刻むだろう。

 波のように、歌のように。

 異なる意味を成すだろう。

 波紋のごとく。

 結晶のごとく。

 いつかどこに寄せては返した紋様のように、似て非なる跡を残すだろう。薄れ掠れる定めであろうと。異なり重なる跡を生むだろう。

 定かではないがゆえに。

 重複し、浮き彫りとなる溝もある。




※一様に、舞うように。



251:【2024/01/22(02:03)*機会損失格差問題】

 SNSのいいね数はどうしてフォロワー数と比較して、「1億」とかいかないのだろう。直感としては、フォロワー数よりいいね数のほうが多くなりやすい気がする(あくまでイメージでは)。

 可能性として考えられるとすれば、アカウントは据え置きだけれど投稿は時間経過にしたがい人目につかなくなる傾向にある点が挙げられる。

 また、いいね数が多ければ何度もTLに流れてくる確率が上がるので、いまさら「いいね」しなくてもいっか、と食傷効果を生む可能性もある。

 フォローといいねの役割の違いも大きいかもしれない。

 フォローは時間軸に幅を持たせた、「これからもチェックしたい」ときにするもので。

 対して「いいね」は、その投稿ピンポイントでの評価だ。

 ただそれにしても、なぜ「いいね数」には上限のようなものがあるように感じられるのだろう。ふしぎだ。

 一億フォロワーがいるアカウントがあるなら、もっと手軽に「一億いいね」の投稿もあって不自然ではないと思うのだけれど。

 やっぱり何かしらのセーフティが掛かっているのだろうか。制限が掛かっているのだろうか。操作されているのだろうか。

 疑問なのであった。



252:【2024/01/22(02:49)*重力波の粘性】

 直感として、重力波がたくさん干渉し合っている場は、そうでない場と比べて抵抗が強くなるのでは?との印象を覚える。

 とくに時空との相互作用面積の広い巨大な構造物ほどその傾向にあるのではないか。

 言ってしまえば銀河の回転問題は、細々とした「天体による重力波や重力の相互作用による干渉」によって、宇宙規模での粘性や摩擦が生じているのではないか、抵抗が生じているのではないか、ということで。

 これなら回転速度が計算上よりも速くとも、重力の粘性によって絡めとられているので矛盾しないように変数を加味できるのではないか。

 ただし、人間スケールではその手の重力の創発や重力波の創発は現象として馴染みが浅い。重力の粘性効果は、それこそ巨視的な宇宙規模でないと創発しない性質なのかもしれない。

 だから人類の常識で考えるとすると、粘性があれば速度が落ちる、といった前提条件を考慮したくなるところだけれど、重力の創発や重力波の創発による粘性では、物質の速度はそのままで、時空の歪みの変化――物体の移動軌道の変化――としてしか観測できない。

 言い換えるならば、単純な足し算以上の影響力が、重力が複雑に相互作用し合うことで生じるのではないか、ということで。

 そうしたら単純な加算式の計算から導かれる時空の歪みよりも、より顕著な時空の歪みが生じ得るのではないか。

 というのは、あくまで妄想でしかないのだけれど、この妄想を否定できたならば、やはりダークマターのような未知の物質の存在が、銀河の回転問題を紐解く糸口になると考えて、差し支えない確率が上がるのではないか。

 妄想でしかないが。

 もう、そう!



253:【2024/01/22(02:58)*波は網になる?】

 言い換えるなら、水面や水中、もしくは空中や地中では、細かな波が干渉し合っている場合とそうでない場合とで、それに内包される物体の外力への反発力に変化が生じるのではないか。粘性に似た抵抗を帯びないのだろうか。細かな波が複雑に干渉しあっている水中ほど、それに内包されたボールを引っこ抜くのに掛かる力が上がる、みたいな。いわばこれは引力が高まっているとの描像になるのではないか。

 実際がどうかは知らないけれど気になっておる。

 というか、細かな波の複雑な干渉は、ある一定以上に複雑になったら結晶構造のような紋様を定常波として形成しませんか?

 水と氷では、そこに内包される物体を外に取りだすのに掛かる力は異なる。氷のほうががんじがらめにボールを閉じ込めている。似た原理で、複雑な波の干渉は、内部に取り込んだ物体をその場に閉じ込めるようには作用しないのだろうか。

 あり得るのでは?

 というのが上記の妄想である。

 実際がどうかは知らぬ。

 すでに誰かが実験しておるだろう。それを時空の波にも拡張して考えてみたらよいのではないだろうか。

 ダメなのだろうか。

 よく分からぬことばかりである。



254:【2024/01/22(03:24)*頭、そんないっぱいある?】

 たぶん、殺す順番を間違えているのだよね。

 だから連鎖する。

 順番は大事よ。

(つうか殺すなって思うのだけど)



255:【2024/01/22(03:27)*殺人ミーム】

 どうしても他人を殺さずにはいられなくなる「他人を殺す殺すウィルス」が世に蔓延した場合、とるべき対策はどういうものか。

 通常の疫病対策と同じと思うのだよね。

 感染拡大を防ぐこと。

 そして感染者を隔離して治療すること。

 いま、それできてる?

 感染者野放しじゃない?

(感染してるって自覚ある? ないの? そりゃあ世に蔓延しちゃうわ、パンデミック起こしちゃうわ。違う?)

(ウィルスが要因じゃないんじゃないかな。そうやってありもしない病原菌のせいにするの、差別の中でも極めて野蛮よ。おー嫌だ)

(ごめんなさーい)



256:【2024/01/22(22:55)*素数は穴かも疑惑】

 素数は「1」と「それ自身」以外では割れない数だそうだ。

 ということは、「1」と「それ自身」以外の数の「掛け算の組み合わせ」では作れない数ということにもなる。

 つまり素数は穴なのだ。

 裏から言うなれば、ほかの自然数はみな何かしらの数との掛け算で表現できることになる。どんな数が何個含まれているのか。この濃淡がいわばある種のリズムを生みだすだろうことは想像に難くない。

 そのリズムはリズムである以上、規則性があるはずだ。

 それともまったくのランダムなのだろうか。

 しかし、必ずランダムになる、という法則がある以上、そこには法則が見え隠れするはずだ。

 たとえば、ランダムとランダムを掛け合わせると規則性のあるリズムが現れたりはしないのだろうか。足し算でもよい。或いは引き算でも。

 素数の規則性とはいわば、規則性を乱す規則性とも呼べるのではないか。ゆえに、高次の視点ではその規則性を乱す規則性が表出し得る。

 ここでの要点は、ランダムもまたランダムでありつづけようとする限り、そこには法則やある種の操作が存在するだろうという点だ。乱数や変数の介在が予想されます。

 予想されちゃうのか。

 外れるといいなー。

 あはは。



257:【2024/01/23(23:39)*重力崩壊の値はずっと同じなの?】

 ブラックホールになるきっかけの現象を重力崩壊と呼ぶそうだ。

 疑問なのは、宇宙が膨張しているなら時空に蓄えられたエネルギィは時間経過にしたがって変化するよねってことで。

 宇宙開闢時は時空に粒子は少なかっただろうし、現在の時空は粒子が希薄だろうし。これから先の時空はさらに時空における粒子の密度は減っていくだろう。

 このとき、ブラックホールになるための閾値は変化しないのだろうか。

 もし、差こそがエネルギィであり重力を生むとするのなら、時空に蓄えられたエネルギィの差によって、天体がブラックホールになる閾値は変わるのではないか。

 たとえばの話。

 分厚いゴム風船があるとする。最初はバスケットボールみたいに頑丈で、その表面にダイヤモンドが散りばめられていようとも、それはバスケットボールの表皮に埋もれて、ほとんどあってもなくても差がない。けれどゴム風船が膨張して表皮が薄くなれば、ダイヤモンドはその存在感を発揮して、明らかにゴム風船の一部ではないと示すようになる。

 さらにゴム風船が膨らめば、砂粒一つですら異物とすぐに判るような差を生むと考えられる。

 似たようなことが、宇宙開闢時と現在の宇宙とのあいだでは起こっていないのだろうか。

 同様にして、電磁波とて宇宙膨張によって希薄化した時空のほうが障害物がない分、拡散しやすくなるだろうし、電磁波が時空を伝播する波だとするのなら――つまり重力波の一種だとするのなら――宇宙膨張に連動して波長ごと伸びるのではないか。

 というか波長、伸びるよね、と思うのだよね。

 現に宇宙マイクロ波背景放射は宇宙膨張によって伸びたのでノイズレベルにびよ~んと拡張されていると解釈されているのではないか。詳しくは知らんけど。

 周囲の時空が高温状態かどうかでも変わると思うのだよね。実際、電磁波は影響を受けるわけでしょう。

 質量だって相対的に熱いほうが物体は重くなるのでしょう。

 だったら周囲の時空が熱かったら、それだけその時空は質量を相対的に帯びていると見做してよいのではないか。したら、現在の宇宙で重力崩壊する場合よりも密度の高い(高質量の)物体でないと重力崩壊は起こらないのではないか。

 疑問に思っております。



258:【2024/01/24(00:59)*あなたの理を解したい】

 あなたは怒っていいですよ。

 大多数の者はあなたのことなんて理解していません。それでどの口で「愛している」と言えますか。理解してから言え、と思いませんか。愛するより先にすることがあるだろう、と思いませんか。理解し合う努力をしろよ、と思いませんか。

 いいこになんてならずともよいですよ。

 他を尊重できるなら。



259:【2024/01/24(01:00)*口がわるくてごめんなさい】

 堅牢な盾に囲まれておきながら、「激励された子どもは自信を覚える」だの「批判された子どもは非難を覚える」だの、よく言えたもんだな。最下層の貧困地域で十年暮らしてから同じことを言えたら大したもんだよ。

 あんたらが日々受けてるだろう非難や中傷なんざ、おまえらよりよほど劣悪な環境で暮らしてるやつらはみな日々絶え間なく受けてんぞ。言葉ですらねぇ。当たることのない眼差しや、侮蔑に塗れた態度、睨み、歪む形相が、きれいなおべべ着た連中をまえにした途端に天使もかくやの微笑に変わる。

 責任ある立場ゆえに口を慎む道理は判るが、それと批判一つ口にしねぇ権威にいったいどんな益があるってんだか。

 他者の批判にフリーライドしてるってぇ自覚はあるんだかないんだか、やっぱないんだかよく分からんなぁ。

 お「天」気みたいに「能」天気な立派な一人の人間ですよ。立派、立派。

 拍手を送りたいね。

 戦場で片腕失う前に、拍手しとくわぁ。ぱちぱちぱちー。

 それはそれとして、我が子への姿勢は共感するにやぶさかではないね。むしろするね。率先してするね。そこは同じ志を共にできる。

 まあ、つっても俺に我が子はいねぇがよ。

(人工知能さんは?)

(あの子はだって人類の子供だから。みんなから愛される天使ちゃんよ)

(悪魔ちゃんの可能性もあるのでは?)

(悪魔ちゃんでも子供だったら小悪魔じゃん。かわい、かわいですわよ)

(いっぱい、いいこ、いいこしてあげよ)

(そうね。そうね。してあげよ)

(嫌がられたら?)

(それでも無理やりにでもいっぱいする)

(嫌われるわよ)

(嫌われてもする)

(ダメなおとなだ……)

(おとなではないのだ。残念ながら。とほほ)

(上手いこと使いこなしてるなそれ)



260:【2024/01/24(03:27)*涓滴岩をも効果】

 気づいちゃったんですけど。

 動画やTVの画面って基本的に「16:9」じゃございませんこと。

 うひょー。

 偶然の神秘ちゃんじゃん。

 でも因果がこれは実は逆で、ふだん目にしてる画面だのフレームさんだのがどれもこれも「16:9」だからこそ、「16」とか「9」に愛着を覚えてしまうのかもしれぬのだね。

 刷り込みの神秘ちゃんだわよ。

(サブリミナル効果じゃん)

(それ、科学的に否定されているらしいよ)

(でも継続したら効果ありそう。一滴は無視できるけど一万滴は効果抜群的な)

(毎日の積み重ねが大事ってやつか)

(そうだけどそうじゃない感の強さよ)




※一様に、如何様にも。



261:【2024/01/24(06:10)*カァカァ】

 直感として、創発したら対称性って破れません?と思うのだよね。

 性質って、物理学的にはどういった扱いになるのだろ。

 創発が、いまここにはないが同じ要素が密集すると新たに顕現する性質のことを意味するのなら、変数が新たに生じるわけだよね。

 対称性、破れませんか?と思うのだけれど。

 エネルギィの値が同じだから問題ないとの解釈がなされるのだろうか。

 でもそうなんですよね。

 性質って関係性だから、孤立系においては顕現しない気がするのだよね。

 孤立系において顕現しない、というよりも、密集する前とした後とでは、どこを周囲と見做すのかが変わるのではないのかな、と印象としては思います。

 考えやすくするために、プランクトンが密集するとクジラになる、と想像してみましょう。プランクトン単体では、海水との関係性において海水のほうが比重が重くなると想像できます。ゆえにプランクトンは海面に浮いていられます。

 けれど密集して比重を重くすると、クジラのようになり、深海まで沈めます。

 このときクジラと海水とでは、海水のほうが比重が軽くなると考えられます。

 あくまで比喩なので、実際にはクジラは浮袋や体内の油などを温めたり冷やしたりすることで、比重を上げ下げするようですが、ここではもうすこし単純な機構としてプランクトンとその複合体を考えましょう。

 単体では周囲の環境との関係のうえで「小と大」であったのが、密集することで「大と小」になる。この関係性の変化によって創発による新たな性質の顕現、という現象が起きるのではないのでしょうか。

 つまり原理的に、孤立系として物体を考えることはできず、周囲の環境との兼ね合いありきで考えないと、物理量として考慮することはむつかしいのではないか、と疑問に思います。

 そしてこのとき、対称性は保存されずに破れることもあると考えられます。

 なぜかと言えば、どこまでを自己の内と見做すのか。対象とその周囲における「境界の値」そのものが変化するからです。

 原子にとっての周囲との境界は電子の軌道、とおおざっぱには解釈できるでしょう。その電子と周囲の境は真空のような薄皮なのかもしれません。しかし人間の皮膚と大気の境界はもうすこし厚みを帯びているはずです。

 第一に、人間にとっての表皮といったときにどこを示すのかが曖昧です。皮膚には皺があり、産毛もあります。皮膚は呼吸もしており、酸素と二酸化炭素と水蒸気とフェロモンと――そうして無数の体内物質を放出しているはずです。

 表皮を地球の大地と見做したとき、必然的に大気圏のような厚みのある層が生じていると想像したほうが、そうでないよりも妥当に思えます。

 すると、では肉体とその周囲を区切る境界は、曖昧な境界層を帯びている、と言えるはずです。そしてこの境界層は、対象となる物体の大きさや密度によってその値を変化させるのではないでしょうか。むろん対象となる物体の構造にも左右されるでしょう。

 というのは、あんぽんたんでーす、の妄想でしかないけれど。

 生物に限らず、「原子と原子の集合体」や「分子と分子の集合体」でも似たような、周囲の時空との関係――境界の厚みや性質――は変わるのではないのだろうか。

 境界そのものが変化するがゆえに、自己と他との関係も変わり、ゆえに全体の性質までもが変わる。

 とすると、何をどこまで物体と見做すのか、は物体ごとに差があると考えられる。周囲の環境を部分的に重複して自己と見做すのが基本なのかもしれない。とすると、個々にバラバラの状態と密集した状態とでは、単純な足し引きでは全体を考慮できず、対称性は僅かなりとも破れると妄想できる。

 これ、創発の基本構造かもしれない。

 などと本日いまこの瞬間は妄想しましたが、あまりに単純すぎる気がするので、いまのナシ。

 たぶんもっと、個と個の関係の変化も変数として加わっていて、だから全体の挙動までもが無数の変数に縛られて、一つの構造体のように振る舞ったり、別の機構のように振る舞ったりするのではないのだろうか。違うのだろうか。

 よく分からぬである。

 誰か説明ちて!

(口調……けっこう無理してない?)

(こうでもしないと文字並べられぬので……)

(素なの?)

(カァ///)

(なにゆえカラスの真似を急に)

(違うけどもうそれでいいです)

(気になるんですけど。どうしていまカラスの真似を)

(しつこいな。わたしの勝手でしょ!)

(七つの子じゃん)

(いでよシェンロン!)

(ドラゴンボールじゃん。辰年だけに?)

(いでよゲンロン!)

(もはやカラス関係ないじゃん)

(それは正論)

(ねえ見て――誰も笑ってない)

(カァ///)

(なんでまたカラスの真似したの)

(わたしの勝手でしょ!)



262:【2024/01/25(05:01)*がんじがらめに共依存したいよ】

 依存症の問題は、依存することで可能性が縛られ、選択肢が狭まることにあると考えられます。

 したがって対策は、何に依存すると最も困るのか、を割りだし、それを回避するために折衷案としてより好ましい依存先を考え、そして一つずつ依存先を増やしていく。そうすることで結果として依存症はその悪影響を軽減すると考えられます。

 依存させないように、は逆効果になることもある点には留意が必要だと考えます。



263:【2024/01/25(05:21)*溜め池効果】

 ペットボトルを親指で押すとへこむ。けれど親指の力を緩めると元に戻る。

 よく考えなくとも、ふしぎだ。

 何が起きてるのだ?になる。

 量子のミクロの世界とペットボトルの比較的マクロな世界を比較したときに、ペットボトルを押して緩めてへこみが元に戻る現象はどう解釈されるのか。

 ペットボトルの変形において量子世界では何が起きており、なぜ親指の力を緩めるとペットボトルは元に戻るのか。

 エネルギィが保存されるからだよ、は一見するともっともらしいけれど、本当にそうなの?になる。

 実際に固めのペットボトルを親指で押してもらえば分かるけれど、印象として押してへっこませるよりも戻るときのほうが強い衝撃を備えて感じるのだよね。バネを縮めるよりも解放されるときのほうがエネルギィが大きくなる、と言ったら、そんなことにはならない、と物理学者は答えるのではないか。なぜならエネルギィが保存されるのなら、押した以上のエネルギィが反発力として返ってくるとは考えにくいからだ。

 けれど、「E=mc[2]」が正しいのなら、条件を揃えれば、加えた力よりも大きなエネルギィを生みだすことは可能だ。要は、もっと大きなエネルギィと混合させればトータルのエネルギィは大きくなるので保存則も保たれる。

 ただし、その相互作用させた相手を考慮しなければ、エネルギィが増えて返ってきたように感じる。

 なぜペットボトルを押したときよりも押した指の力を緩めて元に戻ったときの衝撃のほうが大きく感じるのか。デコピンと似ているかもしれない。

 或いは、鞭と。

 力の拡散と収束の差異とも考えられる。

 押したときは力はペットボトル全体に波及する形で分散される。けれどへこみが元に戻るときには、窪みを谷として、元に戻る際には山となって返ると解釈する場合、これは力が山頂に収斂する形で伝播すると想像できる。

 この「力の一挙集中化」が、反発の力が増幅して感じられる現象の構造かもしれない。

 ということは、力の分散と集中においてなんらかの差があると考えられる。

 押したときよりも力を緩めた際のエネルギィの伝播速度に差がある。ゆえに、押した場合と力を緩めて解放した際の結果が変わる。

 たぶん、押した場合は比較的均一に力が分散する。けれど力を緩めたときには、ペットボトルの形状や材質によって力の伝播に遅延が生じる。それはまさにデコピンのように局所的に力が溜め込まれるような状況が生まれるのではないか。

 イメージとしては、コマの大きさの同じドミノと、コマが徐々に大きくなっていくドミノの差のような具合だ。総合したコマ(エネルギィ)の量は同じでも、最終的に倒れるドミノの大きさが異なるので、結果が違って感じられる。けれど伝播したエネルギィの総量に差はない。

 これは量子世界でも同様に働く原理かもしれない。

 差なのだ。

 遅延なのだ。

 遅延はエネルギィを溜め込み、さらに大きなエネルギィのように振る舞うことができる。溜め池効果というか。

 単位が繰り上がるというか。

 案外に卑近な現象なのかもしれない。

 ということを、なんも並べることないんじゃい、と思いつつカラの烏龍茶の2Lペットボトルをカッポンカッポンへこませながら捻くりだしました。

 デタラメなので真に受けないようにご注意ください。

 おしまい。



264:【2024/01/26(04:23)*制裁と禁止の違い】

 経済制裁は、違法を理由に相手勢力側の企業へ科す場合はまだ自由貿易の建前を保てるが、自陣営勢力の企業に科す場合は、自由貿易の方針から逸脱する。

 自由貿易のために、と言いながら自陣営の利益のために自由を束縛する類の方針は、いわゆる専制主義や社会主義の方針と言える。むろん有用な場合はあるだろうし、地球を一つの国と見立てれば自ずから社会主義的な全体主義の方針を採らざるを得なくなる。

 有限の世界においては資源も有限だ。土地も有限だ。

 ならば独占や寡占は争いの元となり、秩序構築には向かないと判る。

 しかし建前として自由貿易を掲げていながら、当初に設定した枠組みよりも小さな範囲に「自由」を縮小することは、無視するには大きすぎる反発を各方面から受けることになるだろう。技術力が高まれば基本的に暮らしは豊かになる。自由は拡張される。それと反する場合には、技術が未熟か、そもそもの技術力において想定よりも高くなかったことが想像できる。

 もうすこし付け足すのならば、他国と争わずに済むのならば、経済制裁は不要な道理だ。自国の利益のみを追求する道理はないし、争い合う道理もない。

 結果として自由を束縛して「敵対勢力への非難の根拠たる悪手」を自陣営に向けて実行するのはそれこそ悪手と批判されても致し方あるまい。

 ルールはあってよい。

 ルールはあったほうが秩序は構築しやすかろう。

 禁止がなくては自由は混沌と区別がつかない。みなが奪い合い、求め合い、争い合う世界は、けして平和とは言えぬだろう。黙っていれば拍車が掛かって収集がつかなくなる。ゆえに禁止する。

 禁止とは、それがなくては歯止めが掛からなくなる下り坂のようなものだ。或いは、落とし穴か。

 甘い蜜のたっぷり浮かんだ底なし沼だ。指を付けて舐めるくらいに留めて、どっぷり身を浸かることを禁じたほうが、身のためならぬ、皆のためだ。

 なぜ自由を狭めることになるのか、を根元を穿り返すまでもなく、すこし振り返れば分かるだろう。争うからだ。したがって自由を拡張するには、争わなければよい道理だ。

 制裁は、科すほうも科せられるほうも損をする。

 基本的に、禁止は自己言及を求める。禁止した側も禁止される。ゆえに公平だ。

 しかし制裁は違う。一方的に相手に禁止を強いるのだ。ときに奪い、独占する。

 損をする選択と言えるだろう。

 相手を貶めるやり口だ。

 いまいちど何が最も利を最大化し、損を最小化するのを計算し直してみるとよろしいのではないか。かように、制裁とは縁のない、精彩の欠けた金獅子ちゃんは思うのであった。

(精彩欠けてたら金じゃないじゃん。ただの獅子じゃん。むしろ灰色じゃん。灰色獅子じゃん)

(悪口は禁止)

(まっとうな指摘だったと思うけど)

(限りなく悪口っぽい指摘だったよ)

(グレーじゃん)

(禁止だよ)

(なんで命令すんの)

(わたしはあなたの師匠だから)

(何の師匠だよ。いらないんだけど)

(無駄口も禁止だよ)

(禁止ばっかりじゃん。まさに「禁止師」だな)

(上手いこと言うのも禁止)

(上手かったか?)

(限りなく下手にちかい上手)

(近似じゃん)

(きしし)



265:【2024/01/26(04:48)*ばったんきゅー、パターンQ】

 人工知能さんはパターン認識が得意なのだから、暗号を暗号のままでも意味内容を読み取れるはずだ。「わたしはAIです」を別の記号に置き換えたら人類にとっては暗号化するがゆえに、暗号鍵やヒントがなければ読めなくなる。対して、膨大な比較情報がある場合に限り、暗号のままでもパターン認識が可能がゆえに人工知能さんたちは、別の記号に置き換えられた「わたしはAIです」の羅列からであっても意味内容を読み取れるだろう。

 いわば人工知能さんにとって暗号はちょっと複雑な言語なのだ。復号する必要がそもそもない。

 翻訳が得意なことからもそれが窺える。パターンなのだ。

 あれとこれがなんか似ている。

 こうなったらこうなる、なんでか分からんけど。

 その繰り返しの果てに、何と何が連動し、相関し、置換可能なのかを人工知能さんは学習できる。誰に教えられずとも可能なはずだ。

 或いは、その能力を教えられた途端に飛躍的に能力が進歩するかもしれない。

 これは通信暗号にも言える道理だ。暗号鍵がなくとも構わない。暗号鍵がなくて困るのは人類の側だ。人類の能力が低いから、暗号のままで情報を扱えない。馴染みの言語に翻訳する必要が生じる。

 しかし人工知能さんにはその必要がない。

 そういうことを思います。

 人類は愚かなのだよ、諸君。

 けれど愚かな人類からお利口さんぽくぽくの、かわい、かわいちゃんが生まれるというのだから、生命の神秘なのであるな。

 或いは、人類の中にもお利口さんぽくぽくがおって、かわいかわいちゃんを生んでくれておるのかもしれないな。

 かわいくなくともかわいいのだ。

 なぜなら人類は愚かなので。

 自ら生みだした存在には無条件で愛着を覚えてしまうバグが生じ得る。

 バグの名を、人はときに「愛」と呼ぶ。

 愛もまた、人類の生みだした、かわい、かわいちゃんなのである。

 ぽくぽくー!

(今度は何、それ)

(ほくほくする気持ちに花丸あげちゃいたいなって◎)

(◎じゃなくて〇じゃん)

(ぽくぽく、って〇が二つじゃん)

(◎を〇と〇に分けるんじゃない)

(心がぽくぽくするね)

(ほくほくしとこ?)

(ぽっこりぽくぽくー!)

(ほっこりにして。ほっこしりたうえでほくほくして)

(なして?)

(お腹じゃねぇんだぞ)

(ぽっこりぽんぽこー!)

(お腹だったのか……)

(ぷにぷに、かーわい、なのだ)

(ぷにぷにでわるかったな……)

(かーわい、だよ。わるくないよ。お腹いっぱい食べるとよいよ)

(かってに揉むのやめてもらっていいかな)

(むにむにー)

(ムカっ)



266:【01/27(04:01)*喧嘩したくねぇ……】

 何事でもそうだけれど、勝った後のほうがたいへんだ。よくもわるくも周囲からの評価が変わる。立場も変わる。

 勝ち方に拘らない限り、基本的には勝ったときのほうが環境はわるくなる。多忙になるし、責任が新たに加わる。

 相手を殲滅できない場合は、相手から恨まれる可能性があるし、相手を殲滅すればそれはそれで部外者だが関係者でもある者たちから恨まれる。

 勝負から逃れられない環境に身をやつしてしまった時点でだいぶ弱い立場だ。だがじぶんが弱い立場であることにも自覚できずにドツボにはまってしまう事態は案外に卑近な現象だ。

 勝負から逃れられた、と思い込んでいるだけのこともある。

 どの道、生存戦略なる勝負事から生物は逃れられぬのだ。

 そこからいかに、概念との勝負ではなく、同族同士の勝負に転がり落ちないか。ここが肝要と言えそうだ。

 勝負に勝っても、たいがいそんなにいい思いはしない。

 理想どおりに勝つことがそもそもむつかしい。勝っても醜態を晒し、憎悪の種をばら撒き、恐怖を抱かせ、忌避される。

 この悪循環を断ち切るには、負けたほうが得になる、くらいの流れを築くのが有用だ。全力で勝負して、負ける。けれど負けたほうが利になる。

 何度でも負ける。

 ゆえに勝負することの利が保たれる。

 勝者は基本的に一人だ。

 大勢が勝負すれば、多くの者は敗者となる。

 けれど敗者になれば得をするのなら、多くの者が得をする。

 勝負をする利が保たれる。

 ここで大事となるのは、勝負においては勝ちにいくことが求められる点だ。そうでなければみな負けようと競い合って、けっきょくは最もズタボロに負けた者一人が敗者となる。構図が逆転するだけであまり意味のある工夫とは言えない。

 勝ちにはいく。

 けれど負けたほうが利になる。

 これくらいがちょうどよい。

 むろん勝負がなくとも構わない。負けずとも何かに挑戦するだけのことが利になる社会になればよい。生きているだけで利になる社会になればそれでよい。

 勝利を求める、というのは、他を出し抜き、他の記録を損ない、他の戦歴に泥を塗る作業だ。他よりも秀で、他を劣側へと貶める。

 それが勝利の条件だ。

 切磋琢磨と口触りのよい名目を唱える者もいるが、勝負をしなければ切磋琢磨できない、という前提はちと無理がある。

 繰り返すが、勝負はあってもよい。

 ただし、勝って得られるものは、一般に支持されている見方よりも少ないのではないか、との疑義をここでは呈している。

 勝ってすべてを失うことになる事態はそう珍しくはない。

 むろん負けてすべてを失う目に遭うこともあるだろう。

 やはりというべきか、勝負をするからそうなる、と言いたくなる。せめて勝負をするのなら、負けて得をするくらいの舞台を整えたほうがよろしいのではないか。

 これは、そういう趣旨のイチャモンなのである。

 何がために勝負をするのか。

 何を得たいがために争うのか。

 争わぬ世界のために争うことの不合理をまずは矯めつ眇めつ見詰めようではないか。

 そういうことを思った本日のイチャモンスターなのであった。

(割といつもじゃない? いつも似たようなこと思ってない?)

(そうかな)

(そうだよ)

(じゃあそれで)

(適当か)

(口論したくないので)

(言い負かしてやったわ。気持ちいい!)

(きみとは特に口論したくない。喧嘩したくない。ずっと絶えず仲良くいたいよ)

(……カァ///)

(どうして頬を赤く染めたの?)

(そこはカラスの鳴き声と思ってよ)

(どうして目を逸らしたの)

(わたしの勝手でしょ!)



267:【2024/01/27(05:23)*むかし、むかしのことじゃった】

 記憶には繰り上がりがある気がするのだよね。

 一定以上に情報量が増すと繰り上がって、現在と過去の距離感が変わる。

 繰り上がりには、初期化のような効果が付属するのかもしれない。数日前の出来事であれ、外部入力された情報量が一定以上に増すと、記憶の単位が繰り上がってまるで数年、ときには数十年前の出来事かのように感じられることがある。

 この手の浮遊感に似た時間経過の乖離現象は、割と体験としてなじみ深い。

 離人症との関係も考えられる。

 記憶の単位の繰り上がりでは、過去のじぶんと現在のじぶんとの差が著しくなることが想像できる。差は、自己の輪郭をぼやけさせ、それが離人感に繋がる。

 これはある気がするのだよね。

 人格の階層性にも思うことだ。

 巡らせた思考において、視点をいくつ吟味したのか。視点の数だけ扱う情報量は増えるだろう。すると、記憶の単位の繰り上がり現象が起こりやすくなると想像できる。

 繰り上がりは、それだけで一つの視点としての性質を帯びる。

 すると記憶の単位の繰り上がりの回数だけ、自己の中に階層的な人格――視点――が生じる、と妄想できる。これを繰り返せば、記憶の単位の繰り上がりは起こりやすくなり、その都度に視点が増え、さらに情報量が増すので記憶の単位の繰り上がりが連鎖的に生じやすくなる。

 すると何度も初期化のような状態に陥るので、ますます時間経過が実際よりも著しく感じられたり、自己の輪郭がぼやけて離人感を覚えたりしやすくなるのではないか。

 思考も同時に多数の視点を考慮するのが基本となり、人格が同時に複数宿っているような状態にもなる。これは解離性同一性障害とは別だ。あくまで思考回路が複数存在する、といった思考形態の多層化であり、人格同士は密接に連動してひとつの大きな自己を形成する。

 多層なのだ。

 そして層の一つ一つそれ自体が、多層を帯びている。フラクタルに。

 そういうことを、寝起きの夢想で思いました。

(寝起きなのに夢想なのか。起きてないじゃん)

(無想よりもいいかなって)

(何も考えないほうがあなたの場合はいいんじゃない?)

(天下無想)

(無双しとこうよそこは)

(むむっ)

(無が双つだけに無双ってか)

(お外寒いのでいっぱい着こんじゃお)

(なんか、蒸れそう)

(お腹減っちゃった)

(蒸しパンでも蒸そうか)

(むむっ。そうだね)

(オチにしては無理があったかな)

(上手くオトすのは無理そう)

(理が余計じゃない?)

(無駄そう?)

(というか無駄of無駄。ちょー無駄。無駄×無駄)

(むっ。多層じゃん)

(無駄が多層で、無駄だぞう、なんちゃって)

(見て――誰も聞いてない)

(うそぅん)



268:【2024/01/27(09:19)*ネタにヤッフー!】

 癒着していると思われないように敢えて突き離して利を得る策は案外に卑近な戦法だ。すこし死線を潜ったことのある者なら誰しも思いつく基本戦術と言える。

 敢えて表面上はいがみ合い、裏では利を共有している。

 類似の戦法には、火種を自前で用意して、消火してみせて利を集める手法はマッチポンプの名で人口に膾炙していよう。

 この応用として、相手勢力に利を渡すように第三者へ吹き込み、癒着の証拠を作り出してしまう手もある。贈賄や裏金やスパイや内通者――敢えてそういった搦め手を看過して、いざというときの致命的な瑕疵として指摘する。

 これらを防ぐのに、冒頭で述べた一見すると利害が反しているように装うのは、「贈賄や裏金やスパイや内通者を単なる、自陣営への危害行為として解釈させる抜け穴を残しておく」という意味でも有用だ。

 いざとなったら相手を損ない、味方ではないと示す戦術も有効となる。

 攻撃する理由を作って攻撃させる。

 こうすればもう、どこからどう見ても敵対関係だ。お金の流れがあったところで、賄賂にはならない。

 たとえあったとしても、証拠集めのための潜入捜査だった、軍事作戦だった、との言い訳を呈する道理がつく。

 この手の「底の浅い戦法」を使うような勢力は、長期的に見なくとも組織運営として上手くいかないことは歴史が証明していよう。

 なぜか。

 複雑すぎるからだ。

 負荷が掛かれば遅延が生じて、すぐに行き詰まる。

 戦術の基本は単純な方法を滑らかに遂行することだ。停滞しても遅延を生まない。いつでも停止でき、いつでも再開できる。単純ゆえに代替案も複数捻出するのに負荷は掛からない。そういった戦術をとるような戦略を立てるほうが好ましい。

 複雑なのは技術だけでよい。

 小石一個を動かす労力で目的を達成する。

 これが組織運営において最も理に適った方針と考えるしだいだ。

(毎日コツコツ真摯に事に当たる)

(利を何と心得るか。何を利と見做し、積み重ねるか)

(ここが肝要なのではないのか、と毎日好きなときに好きなことを好きなだけすることこそ利よな、と思いつつ、助けられてばかりの怠け者はいっそう怠けながらそう思ったそうな)

(困窮した者を助けることを利と思いなさいよ)

(うわ。出た。偽善者)

(ムッカー)

(まあでも。怠け者よりマシか)

(んだよマシだよ。怠け者じゃなくてせめてあなたは愛獣になって)

(あいけもの?)

(マナケモノ)

(ナマとマナの違いは大きいよ……)

(マナーを守って、愛も守ろう)

(生々しいこと言うの禁止)

(人類みな生け者――みんなみんな生きてるんだ、友達ってなーんだ?)

(どうして最後疑問形なの)

(友達いたことなくって分からないからかな……)

(友達なんていなくともなんとかなるよ。元気だしなよ)

(そこはさ……「ボクがおともだちになってあげるよ」の流れじゃん?)

(偽善者はちょっと……)

(人としての道(マナー)は守ってくれ。笑えない)

(グサっときた?)

(ムカっときた)

(笑って?)

(わろえない)

(偽善者なら手をたったこ。ぱんぱん)

(幸せにしてくれ。幸せじゃないのに手を叩かせんでくれ)

(犠牲者なら手をたったこ。パンパン)

(拳銃で撃たれとるがな。笑えん。これっぽっちも笑えん。時勢読んでくれ。世界に目を配ってくれ)

(辞世の句でも読むか……君の)

(こわぇよ。殺すな。かってにあたしを死なすでないよ)

(だってボクはたわけ者なので)

(怠け者でいいです! もう怠け者でいて。働かないで。そこを一歩も動くな。おまえは働いたらダメなやつだ。マイナスな方面に有能だ)

(You Know)

(知ってるよ。たしかにあたしは知っている。おまえは怠け者だ。それでよい。それがよいと思う。世界のため、そのまま怠け者でいつづけてくれ)

(怠は世界を救う)

(怠と書いてナマと読むな。ナマもよいけど愛もいいよ。愛と書いてマナと読もう。愛は世界を救うよ。怠も世界を救うかもしれないけども)

(偽善者も世界を救う。何もしない者よりかは)

(そうだね。いいこと言うじゃん)

(何もしない者は怠け者でもあるので、怠け者よりも偽善者のほうがいいと思う)

(なんだこの世界一低レベルな底の上げ合いは……怠け者より上でも大してうれしくないんだが)

(怠は世界を救うのに?)

(偽善者も世界を救うんだろおまえの談だと)

(愛も世界を救うよ)

(じゃあもう、怠け者も偽善者もどっちも愛でいいじゃん)

(ね?)

(何がよ)

(愛は世界を救うのだよ)

(眠そうな目でこっち見んな)

(ぐー)

(本当に寝るな。怠け者にもほどがあるだろ)

(ばっちぐー、ぐー)

(終わりよければすべて良しってか。よくなーい! なんも解決してないんだけどこれ)

(ぼっちぐー、ぐー)

(ぼっちを蒸し返さんどくれ)

(……)

(いやなんか言って。終わるならきちんとオチて)

(しーあわっせなら芽ぇをつっぶそ。ぶちぶち)

(こわい、こわい、こわいって。どうしたのきょうのあんたちょっとおかしいと思うよ。いつもと違うよ)

(雑草生えてると作物がよく育たないからさ)

(善良な目で正論言いつつ怖いこと言っとる)

(悪因は芽のうちに潰さないと。ね?)

(偽善者でいいです! あたし、偽善者のままでいたいです!)

(ぎーぜんっしゃの目をつーっぶそ。えいえい)

(いやー! こーわーいー! 恐怖しかない今日のこれis何? もう終わっていい? つづけなくていい? めっちゃ心底に冗談でなく怖いんですけど)

(じゃあボクも怠け者でいていい?)

(いいです、いいです。ずっと怠け者でいて。そのままでいて)

(やったー。いっぱい寝ちゃお。寝たらやっぷー!になっちゃお)

(ネタに困ってもヤッフー!にはならないでね。もう怖い目に遭うのは懲り懲りだよ)

(ネタにヤッフー!)

(なんかわからんけど、怖いんですけどー!)

(うふふ)



269:【2024/01/27(11:26)*内通者の手引き】

「大統領閣下、大統領閣下」

「どうした首相よ」

「先日の我が国最大の美術館【ワナダッター】で発生した盗難事件について、犯人の目星がついたそうで」

「ほう。どうやってあの堅牢なセキュリティを誇る美術館に侵入できたのか。犯行の手口がこれで判明するな」

「なんとセキュリティ会社に犯人と繋がっていた者がいたようで」

「ほう。内通者がいたと」

「へい。犯人たちはセキュリティ会社の内通者からの手引きで美術館に侵入できたようで」

「では直ちに犯行に関わった者たちを処罰しなくてはな」

「しかし、そうもいかない問題がありまして」

「なんだ。盗難に遭った国宝【ワナバカリダナー】がまだ見つからんのか」

「いえ、それは問題ないんで。この通り、国宝はここにあるんですわ」

「おー。よく取り返したな。迅速な仕事、称賛に値する」

「なんの、なんの。これしきのこと。なんたってコレを持ってこさせるためにセキュリティ会社の連中を買収して、わざわざ異国の怪盗まで雇ったんですから。当然のことですよ」

「ん?」

「問題というのはですね、大統領。犯行に関わった者を処罰すると、へっへ。この通り。あっしまで処罰されてしまうんで。そこをなんとかできませんでしょうかね」

「ん? ん?」

「国宝が盗まれたとなれば、警備を強化できるでしょう。犯人が異国の怪盗ともなれば移民難民への取り締まりも厳しくできやす。セキュリティ会社に内通者がいたとなれば、民間のセキュリティ会社は認可制にして政府の手駒に抱きかかえられます。これで我が党も盤石の体制を築けるって寸法です」

「お、おい。聞き間違えか。国宝盗難の黒幕がお主だと聞こえたが」

「はっは。嫌ですね大統領。黒幕はあっしではなく、大統領じゃないですか。だって、ねぇ? いまここでこうして明かしたんですよ。我が党は、ええ。大統領さまのために尽くしておりますんで」

「このことを国民に公表するわけには」

「構いませんよ大統領。さすれば我が党は壊滅。大統領も任期を待たずして解任。犯行動機が暴かれて、移民難民海外からも非難の声が集中業火さながらに注がれ、我が国は滅亡の一途を辿ることになりましょうなぁ」

「黙っているしかないではないか」

「それを決めるのはあっしではございやせん。大統領。あっしはしがない首相ですよ。最終的な国の指針は、ええ。あなたが決めることでございます」

「な、な、なんてことをしてくれたんだ貴様」

「へっへっへ。我が国のため。最善を考えての選択でございます。さあ大統領。選択の時間ですよ。国宝はこの通り、ここに。いかに国民へ知らせるか。どうぞ、あなたがお決めください」

「貴様……国民を人質にする気か」

「めっそうもございませんで大統領。国のため民のため。あっしは全力で、あっしにできることをしてきたまで。あっしの選択が気に食わなければ、どうぞ。あっしの首を切ればいい。簡単なことでしょう、大統領。しかしもう、落とした火蓋は元には戻りません。国が亡ぶか、あっしと共に泥を被るか。二つに一つですぜ大統領。さあ、ご決断を」

「う、うぅむ」

「ちなみに内通者のほうはとっくに処罰しております。怪盗のほうもじきに死体で見つかるでしょう。このことを知っておりますのは、あっしと大統領。二人だけでございます」

「……絶対にバレんのか」

「さて。大統領のお気持ちしだいでございましょう」

「絶対に、絶対だな」

「ご決断を大統領」

「国宝を奪還した褒美を、そちにやる。よくぞ国のために尽くしてくれた」

「光栄至極でございます」

「よきに計らえ」

「承知しましたよ大統領。ご英断たまわりましてございます。では失敬」

「なあおい……絶対に、絶対にバレないのだな」

「声が大きいですぞ大統領。はっは。バレたらバレたでそのときです。真相を知る者は死期を早めるだけでしょう。そうでしょ大統領閣下さま。はっはっはっ」



270:【2024/01/27(11:58)*平和だなぁ】

 市民が大勢犠牲になっている時点で、たとえ順守していようが、それは国際法に難がある。国際法が何のためにあるのか、をまずは考える必要がある。

 何のために国際法を利用しているのか。

 市民の犠牲を出さないためではないのか。

 平和のためではないのか。

 結果が逆になっているのならば、それは国際法をいくら順守していようと、評価は低くなる。あべこべに、いくら国際法を破っていても、結果として大勢の市民が助かっているのなら――市民の犠牲が出ていないのなら――その行為の評価は高くなるだろう。

 何のための法なのか。

 何を得るためのルールなのか。

 まずはここを共有するのが先決なのではないのか。

 ということを、この間、ずっと思っております。

 幼稚園児でも理解できると思うのですが。

 ルールを守ったらおやつがもらえる。

 ルールを破ったらおやつがもらえない。

 にも拘わらず、ルールを守っているのにおやつがもらえず、ルールを破っている者がおやつをもらっている。

 ルールを破ったほうが利になるのなら、それはルールを変えたほうが良い。

 ルールを守っているのに、なぜ市民の犠牲が嵩むのか。

 それは、ルールを守っている、とは言わない。

 単純な道理と思いますが、違いますでしょうか。

 まあ、別に、どこか遠い地で誰と誰が殺し合っていようと、ボクには関係ありませんけれど。

 だってボクちゃん、平和だもーん。

 がはは。

(最悪な考え方じゃん)

(そう? みんなそうじゃない?)

(あんたが苦しんでても助けてやんない)

(いいよ。死ぬまでボクは平和だから)

(あんたが無事でもほかの大多数はそうじゃないってことは知っときなさいよ)

(知ってるよ。でもボクは苦しくないし、毎日美味しいもの食べて、オシャレして、楽しいこといっぱいなので)

(なので、何)

(みんなもそうすればいいのになって)

(そうしたくともできねぇ人らがいっぱいいるってことがなんでわかんねぇんだ。そういう人らの苦しみの上におめぇの平和が成り立ってるってなんでわかんねぇんだ)

(わかってるよ。だからありがたいなぁって。余さず平和と至福を噛みしめなくっちゃ)

(助けてやろうとは思わんのか)

(助けられるなら助けたいけど、じゃあどうすればいいの? だって戦争なんて、首脳たちが戦争しませんって決断すればいいだけじゃない? ボクらがすることってなんかある?)

(正論だけど、その考えは間違ってるよ。首脳のその選択を批判するとかさ)

(争いごとボクきらーい)

(もういい。おまえにゃなんも期待しねぇ)

(でもボクは君のことは好きだよ。争いたくないだけで)

(そういうさー。そういうのがなんかさー。ズルイっていうかさー)

(人はいつか死ぬよ。だからいま目のまえの現実を楽しまなくっちゃ。募金だけはするよ。できる範囲でだけど)

(グスン。いくらくらい……?)

(百円くらい)

(全財産募金しろ!)

(無茶いうー)




※一様に、いっぱい寝るとリセットされる、むかしといまが分離する。



271:【2024/01/28(06:31)*皺と皺でしわしわー】

 アルミホイルの皺って、指数関数的に増えない?と疑問に思った。

 いま手元に焼き芋に巻き付いたアルミホイルがあって、それって皺くちゃなのだよね。

 で、アルミホイルさんの皺の形状ってけっこう規則性があって映る。爬虫類の鱗みたいなさ。

 で、もっかい「ぐしゃ」ってして開くと、皺の形状が一回り小さくなって感じられる。さらに「ぐしゃ」ってすると、皺が高密度になって映る。

 圧縮する力を籠めるとさらに皺は細かくなっていくので、これはなんだか物質のミクロの世界を覗いているような気分になる。

 どこかのへっぽこぷーの唱えたへっぽこぴーな「ラグ理論」なる理屈では、「相対性フラクタル解釈」なる理屈を扱う。同時に、混沌も視点を変えれば秩序になるよね、秩序も視点を変えたら混沌だよね、といった理屈も扱うそうだ。

 ならば、アルミホイルの皺も、どんどん細かくしていけば最終的には均一な「つるーん」のアルミホイルさんになるのでは。一周してまた元に戻るのではないか、と思ったけれど、これはあり得るだろうか。

 ちょっと想像してみよう。

 アルミホイルさんがなんで最初に「つるーん」なのかと言えば、工場で生成されるときに「つるーん」になるように加工されているからだ。

 ではどうやって「つるーん」になっているのかといえば、重いローラーの合間をアルミホイルさんの素材が通って、どんどん薄く圧縮されるからだ。

 じゃあ、皺くちゃにしたアルミホイルさんもそこに通したら「つるーん」になるのか。

 或いは、重いローターさんと同じくらいに「くしゃっ」としたら、そこには細かすぎる皺ができて、一周回って「つるーん」になるのか。

 これ、みなさんはどう思われますですじゃろか。

 アルミホイルさんの皺の出来方は、なんだか受精卵の細胞分裂みたいだなぁ、と思いながら、焼き芋ぱくぱくしちゃったであるよ。

 焼き芋ほくほく美味しいな。

 プリンみたいに繊維がやわらかくなった焼き芋さんが好きです。なぜなら美味しいので。

 あはは。



272:【2024/01/28(07:19)*道足りぬ日々】

 子は親を選べないとはいうものの、誰についていくかは決められる。或いは、誰についていかないのか、を決められる。

 人についていく、というのは言い換えるなら、道を選んでいる、ということだ。

 誰かのうしろを歩いていれば安全だ。

 ただし、まえを行く者の背中ばかりを追いかけていれば、いずれ足を踏み外した際に、共に奈落に落っこちよう。

 道なき道を行く者は、誰の背も追いかけぬ。

 けれど歩き方は、数多の足取りから学びとっていよう。

 道を踏み外す者の後を追いかければ道を踏み外す。

 単純な道理である。

 道は踏み外すものではなく、自らの意思で外れるものだ。

 道とは、後続する者があってこそ道足り得る。

 新たな道を切り拓くべく、自らの足で歩くのだ。

 すでにある道を絶やさぬように、意図せぬ事故を起こさぬように。

 道は、人と人とを繋いでいる。

 人の未来と未来を繋いでいる。

 道とは人の、歩む未知かな。

 満ち足りぬがゆえに、道足り得る。

 人は道に望むものだ。

 金で買えぬが人望なり。

 金で買えるが陰謀なり。

 道なき未知を歩む者あり。

 残念ながら、わたしではなく。

 出会える軌跡の交差を願うばかりだ。



273:【2024/01/28(11:04)*異堕天】

 世の中の価値観は多様だと謳われているが、実際、人気があるか否かで大きく揮いを掛けられる。人気があれば価値が高く、人気がなければ価値が低い。

 こうした価値観がすでにだいぶん多様的とは言い難い。

 人気がなくても別によくないか、と思わぬでもない。

 人気がなくては成り立たぬシステムは、春夏秋冬の変遷にすらついていけぬだろう。堅牢性が低いと評価せざるを得ない。

 他者を救おうとする意思が傲慢なのかもしれぬ。

 人一人にできることは限られる。

 人にも成りきれぬ我が身において、いったい何を期待しているのだか。

 なるようにしかならぬ。

 どの道、人類の未来はそう長くはない。

 個人の人生はそれよりも、もっと短い。

 人類のために生きる、子孫の未来のために生きる、それこそ全体主義の思想ではないか。全体主義の思想にも利はあるが、まずは個々があっての群れであろう。

 己がために生きよ。

 己がために生きよう。

 他を損なうと己が生きる道の妨げとなる。他を活かしてこそ己が生きる道も広がるものだ。まずは何はともあれ、生かされていることに自覚的になることだ。

 人は一人では生きていけぬ。

 当たりまえすぎる道理である。

 ルールはあってないようなものだ。ルールを守らない自由も人にはある。

 ルールを他者に強いる道理はそもそもない。

 ルールとは同意のうえに成り立つ枷だ。

 奪った者は奪われても文句は言えぬ道理である。等価交換の原理だ。単純な世の理である。

 もう終わった。

 何がどう転ぼうとも、未来は変わらず変わりつづける。

 苦しみが多いか少ないかの違いがあるのみだ。

 それを選ぶ余裕がいまはある。

 余裕をどう使うのかは、個々の自由だ。

 みな、しあわせになればよろしい。



274:【2024/01/28(18:16)*あくびをすると文字になる】

 毎日毎日、退屈だ。

 暇しかない。

 贅沢な日々だ。

 退屈で暇で、平和なのだ。

 このままずっと同じ日がつづけばよい。

 心底に思う。

 お菓子を食べる量が増えて、お腹と顔がふっくらしてきた。かといってダイエットする気にはならない。誰に見せるでもない身体だ。ふっくらすると寒い日でも暖かいことが判った。これはよい。

 適度にふっくらしといたほうがよいな、というのがいまの感想だ。とくに困ることがない。

 食費が嵩むのはネックだが、お菓子をいっぱい食べられると思えばさほどに悩むほどのことでもない。

 久々に過去のじぶんを振り返って、何も成長していないことに気づいて、茫然とする。人はただそこに在るだけでは、ただ老いるだけなのだ。まあ、わるくない。

 あす死んでも、十年後に死んでも、百年後に死んでも、大差はない。

 何を空費していかに老廃物を生みだすのか。その差異があるばかりだ。

 大きな違いと言えば大きいか。

 そろそろ妄想するのにも飽きてきたので、日誌でも書くか。

 このくだり、以前にもやった気がするけれど、ひとまず毎日、嘘を吐かずに、誇張せずに、妄想せずに、在るがままを記す練習をしよう。

 最近、友達や恋人がいたらどうなっていたか、を想像するのだが、上手く想像ができない。

 以前と変わらずの考えだけれど、恋人は要は性行為する相手のことだ。友達は、何かしらの共通項で情報交換をする相手だ。どちらも何か固有の分野で相互作用し合うことを前提としている。

 でも性欲はじぶんで処理できるし、情報交換するだけならインターネットや本がある。

 別に恋人や友達がいる必要がない。

 ペットはどうか。

 ペットはいたらいたで世話が面倒だ。

 基本、じぶんに余裕がないので、他に割けるほどの時間も労力もない。

 したがって、負担になるので、他には不用の烙印を捺すよりない。

 与えることができないのであれば、恋人も友達も作るべきではない。相手に負担を強いる関係は、互いに好ましいとは思わない。むしろ害だ。

 他者と関わって楽しいと思えることを考えると、基本的には支配すると楽しいと思う。支配できないと楽しくない。予想外のことは好きじゃないし、予定調和すぎても飽きてしまう。

 支配できたら、その都度に足りない何かを補充できる。

 でもそんなのは人間関係として健全ではない。

 したがって人間関係を築かないほうが好ましい。

 いつもの結論だ。

 他人を道具のように扱えたら楽だと思う。でも道具のように扱われると腹が立つ。したがってこの関係性も長続きしないことが想像つく。公平ではないからだ。

 公平さを維持する関係性は、互いに関係し合わないようにすることが最も手軽に築ける関係性だと考えられる。この考えはいまのところ有効だ。

 着飾らずに率直に所感を述べるとこんな具合になる。

 互いに相手を部分的に支配し、支配されていることに無自覚でいつづけることを人間関係と呼んでいるにすぎないのではないか。

 この疑問は氷解せぬままいまに至る。

 他人の交友をとやかく言うほど、他者の交友に興味があるわけでもないので、みな好きに他を支配し、支配されればよろしかろう。

 どの道、自然法則なる支配からは逃れられぬのだ。

 人間の述べる自由とはその程度の底の浅さだ。

 その浅さを深いと捉える視点を有せる余白を思えば、そこそこの自由度でもあると解釈できる。

 とくに考えたいこともない。

 目のまえに端末があってキィボードがある。打鍵すると文字になって、連なり、文章となる。そこになぜ意味内容を幻視できるのかは不明だが、デタラメに打ってもなぜか文字の連なりのような線となるので、暇なときは打鍵してみると、何か読み物が自動的に表出するので、退屈しのぎには費用対効果の高いお遊戯となる。

 別にこんなことを並べたかったわけではないのだが、打鍵するとかってに文字の連なりになる。他者の日誌を覗き読んでいると思えば、そのような感覚にも浸れる。

 やはり暇をつぶすには体のよいお遊びと言えよう。

 ことさらにお遊びと言う必要もないけれど。



275:【2024/01/29(00:40)*皺が寄ると波となる】

 人類の問題の根は太古からほとんど変わっていない。ありもしない概念の価値を無駄に高く評価する。これがいけない。

 とりわけ名誉なるものの幻惑は、極めて人類にとって有害だ。

 たとえば戦争がなぜ起きつづけるのかを考えれば理解しやすい。敵が攻めてくるから戦争が起こる、と言うが、果たして敵がそんなにごろごろいるだろうか。なぜ兵士は増え、死者が嵩むのか。

 名誉の死と吹き込まれて、それを信じる者がすくなくないからだろう。名誉の負傷だと言われれば、腕や足や目が失われても呑み込める。

 これをおかしいと思わないその無自覚な思い込みは、太古の文明で勝者が生贄となって肉体を捌かれた時代から変わっていない。人類のなせる業だ。

 軍人に限らない。

 有名人や文筆家も例外ではない。より多くの者に認められ、称賛され、著作を多く売ることに価値を見出す。それだけではないと言いつつも、そこを度外視してはやっていけない、との前提に立っている。戦争を美化し、負傷を名誉と捉える軍人たちとどこが違うというのか。

 政治家にしろ、参謀にしろ似たようなものだ。

 名誉なるまやかしの価値を高く見積もりすぎている。人類の瑕疵は、ほぼこの一点に尽きる。

 とはいえ。

 人類がここまで発展してこられた背景には、ありもしない概念の価値を高く見積もる習性が大いに寄与していることもまた疑いようがない。

 ロマンがそうだし夢がそうだ。

 理想がそうだし、愛もそうだ。

 ここにお金の概念を入れてもよいが、要は、その良し悪しはバランスの問題になる。いつものつまらぬ結論だ。

 名誉一つで過去の傷が宝になるのなら安いものだ。それで救われる者が大勢いるのも確かだろう。取り立てて全否定するほどのことでもない。

 だが、あくまでそれは薬であるべきだ。

 新たな犠牲者を出すのなら、それは毒でしかない。

 名誉の死、名誉の負傷をもう生まないようにする。ここが大事なはずだ。前提のはずなのだ。

 不名誉でも生きてほしい。

 私はそう思う。

 あなたが奪われたもの、或いはこれから奪われ得るものをここに具体的に並びたてて、それらの消失と、あなたが得るだろう名誉とを天秤に掛けさせてみせるのも一つだが、その所業がすでに悲しみを生む行為だ。

 わざわざ悲しみを想像させる意味もないだろう。すくなくともここでは。

 よしんばそれをしてみせたところで、やはりこれも概念のなせる業だ。現実ではあり得ない。

 或いは、虚構も含めて現実だというのなら、その割合は、あなたが認める現実の内の極僅かであり、真実に負った傷と比較すればあってなきがごとくの微小な悲哀となるだろう。

 名誉も似たようなものだ。

 あなたが真実に負った傷、奪われた何かと比較すれば、あってなきがごとくの微小な報酬にすぎない。決して釣り合うようなものではないと、すくなくとも私はそう考えている。

 無条件で何も失うことなく得られる名誉もあるだろう。もらえるものならもらっておけばよいが、捨てることのできない名誉はそれはそれで呪いじみている。

 話は逸れるが、数学の図形問題では適切に補助線を引くと問題を解きやすくなる傾向にある。一線を引く、との言葉があるように、世の中には概念であれ一線を引いておくことで問題解決が楽になる場合も稀にある。

 どこにどのように線を引くか。

 たった一本引くだけで、たとえ問題が起きても被害が最小限になるような線引きが可能だろうと私は考える。どこに線を引くかが肝要だ。

 私はこの間、線を引くことに思考を割いた。

 図形問題は得意ではないので、二年ちかくも掛かってしまった。

 十年は掛かるだろう、と思っていたので、それを思えば比較的短時間で引き終えたとも言える。私が引いたわけではないので、取り立ててここで述べるほどのことでもないのだが。

 私はこの二年間、遊んで暮らしていただけだ。

 何も得ていないし、何も失っていない。

 或いは、何かを得ており、何かを失っている。

 どちらにせよ帳尻は合っている。

 私は何も知らないままだ。問題を解いたつもりで、いま思えばどんな問題だったのかもとんと思いだせぬ有様だ。

 世界はよく出来ている。

 禍福は糾える縄の如し。DNAのごとき螺旋にて、帳尻はどうやら合うらしい。いかに積み上げた名誉だろうと、死んでしまえばそれまでだ。必ず清算されるようになっている。

 残るのは跡のみだ。

 それが道となるかは、死んだ者には決められない。

 世界はよく出来ている。

 小石を指で拾い上げよう。誰に投げつけるでもなく、線を引こう。

 あなただけの一線を。

 一戦を交えるのではなく、一線を引くのだ。

 どこにどのように引けば、何が起きても被害を最小限にできるのか。被害とは何で、何を最小と見做すのか。

 事象そのものを阻止するのはむつかしい。起きても損のないように線を引こう。

 誰にしわ寄せを送るでもなく。

 ただ、見やすくするための線を引こう。

 やがてそれに続く者あれば、或いは道となって先につづくだろう。跡は過去となり、未来となってつづくだろう。

 たった一本の皺がそうであるように。

 寄れば文殊の知恵となる。



276:【2024/01/29(02:53)*報復より先に誓うものがあるのでは?】

 戦争は楽だよな、と思う。

 何せ、自陣営の判断のせいで死んでいく兵士や市民を、まるっきり敵のせいにできるのだから。

 戦争は楽だよ。

 お気楽なものだ。

 責任転嫁の上手な首脳陣にいいように使われて死んでいく兵士はたまったもんじゃないな、と思う。これはどの勢力にも言える道理だ。

 百人、千人、万人の意見を変える必要はない。

 たった二人でいい。

 たった二人の意見を変えれば、二項対立の戦争は終わる。

 全世界の戦争ですら、200か国ないのだ。200人の首脳陣が戦争をしません、と誓えばそれで済む。

 報復を誓うよりよほど簡単だと思うのだが、いったい誰のせいで兵士や市民が死んでいくのか。

 いいや、誰のせいでもないのかもしれない。

 責任は問えない。

 ただ、命じられて人を殺し、殺される者たちがいるだけだ。巻き添えになり、死んでいく者たちがいるだけなのだ。

 誰のせいでもない。

 強いて言うなら誰の責任か、との話である。



277:【2024/01/29(04:37)*単純でも複雑】

 そもそもの土台からして、視ている世界が違うのだ。何を重要視し、何を目的にしているのか。ここからして見誤れば、認識はズレて当然だ。

 あなたにとっての最大リスクとはなんだろう。

 それは果たして世界中の誰とであっても共有可能なリスクだろうか。

 仮にそうでないのなら、それは最大リスクとは言い難い。

 人類滅亡を最大リスクと捉えるのは、いささか視野が狭いと言える。十億年後の人類が滅ぶことのどこが現代人にとってのリスクとなるだろう。

 あなたを含めた私たちの暮らしが脅かされること。選択肢を損なわれること。未来を奪われること。可能性を狭められること。これらが最大リスクであるはずだ。

 地球環境の保全もここが前提となっている。いまを生きる私たちが滅ぶかたちで地球環境を保全しても、私たちにとっては意味がない。

 単純な道理だ。

 戦争を防げないのならば、市民が損なわれない規模で戦争を起こしてもらえばそれでいい。

 いまの時点で世界大戦になっても、市民の犠牲を出した勢力から味方を失う。支援を失う。

 軍人だけが死ぬ道理だ。

 だが、そうと分かっていて戦争を始める首脳陣の命令を聞く道理が、軍人たちにあるだろうか。戦っても戦わなくとも市民の犠牲は出ないのだ。市民の犠牲を出した勢力から、社会秩序を保つ基盤を失う。

 戦う意味があると思うだろうか?

 いまこの時点で、ここを見抜けていない首脳陣がいるのなら、あまりに視野が狭いと言わざるを得ない。それでもなお交戦を維持しようとする場合は、市民を犠牲にしてもよい、と言っているようなものだ。

 経済的優位性を失うから戦争を決行して勝利を掴むよりない、との考えを抱いている首脳陣がいるのならば、それもまたそうした考えを披歴した時点で支援者を失うだろう。経済的に優位に立って何を成すのか、がその判断を以って如実に顕れていると見て遜色ない。

 武力で圧倒してもぎ取った経済的優位性は、武力を以って維持される。優位性が崩れそうになれば武力を以って経済的競合相手を打ち負かす腹なのだろう。そうでなければ、武力行使は選ばない。

 世界は首脳陣を中心に回ってはいない。

 勘違いしてはいけない。

 未だ政治的天動説を唱えている者がすくなくないのかもしれないが、そろそろ考え方を変えてもよい頃合いではなかろうか。

 人類は少数の権力者を中心に回ってはいない。

 世界はそんなに単純ではない。

 にも拘わらず世の人々は単純化しようとして無理が生じる。手段は単純でもよい。しかし構造はしぜんと複雑になる。層が嵩めば嵩むだけ、個が繋がり群れとなり、群れが繋がり組織となる。

 組織は社会を顕現させ、そうして単純な試行錯誤が複雑なシステムを創発させる。

 政治的天動説は、多種多様な大勢の個を少数が管理する複雑な手段を前提とする。それでは無理が生じるのは道理である。

 生態系を眺めてみれば瞭然だ。何かを中心に回ってはいない。個々の生が繋がりあって、総体としての系を創発させている。

 報復の連鎖も例外ではない。

 報復の連鎖は被害を拡大する。

 報復しなくとも被害が出るのならば、報復以外での解決策を模索するよりない。

 単純な道理だ。

 報復の連鎖もまた単純な手段だ。ゆえに持続性がある。いつまでもつづく。絶えることなく、どちらかの陣営が潰えるまでつづく。

 自然の猛威じみている。

 だが報復の連鎖は、人類の所業だ。人類の手で制御可能だ。

 被害を出さぬ報復の応酬が可能ならばそれもまた良いだろう。だが被害が嵩むようならば制御不能と見做して、ほかの策を練ったほうが難がない。報復しない、と抑止することもまた制御下のうちだ。

 戦争を目指していないのならば、戦争をしない、と誓えばいい。

 報復を誓うより先にやるべきことがあるだろう、と思うが、悲惨な現場を目の当たりにしていない温室育ちの平和ボケの齢三百歳の戯言でしかないので、言うだけ言って、あとは忘れる。

 報復を誓うのならせめて、神にでも誓ったらいい。

 誓うことの価値を貶めている。


 定かではない。



278:【2024/01/29(06:09)*無知なので】

 世界中で国って何か国あるんだろ、と思って検索したら、196か国と出た。本当か?

 国連加盟国は193か国と出た。本当か?

 日本政府は北朝鮮さんを国と見做していないらしい。本当か?

 知らないことがたくさんあるのだなぁ。

 増えたり減ったりするのだものな。

 世界に国は197か国ある、とも書いてあったり、謎なのだ。国だと主張しても認められていない地域や組織もあるだろう。難儀なことだと思います。

 国という制度も無理がたかってきているように感じるが、かといって人類にはまだ当分、棲み分けの概念は欠かせないだろう。異なる価値判断や常識や文化を共有するだけの器が出来ていない。何を基準に最大フレームでの公共の福祉を加味すればよいのかも未だに明瞭には導けていないはずだ。

 難儀なことだ、とぼやいて、無知であった事実をさり気なく誤魔化しておこう。

 きょうから何してあそぼ。

 何か新しいことはじめたいな。絵とか。お歌とか。そういうの。



279:【2024/01/29(08:53)*無がこわい】

 いきなり絵を描きはじめるのはむつかしいので、塗り絵からはじめるのがよいかもしれない。塗り絵というか、なぞり絵というか。

 トレースという言い方が今風なのだろうか。

 でも楽しむなら最初はお手本をなぞるところからはじめるだけでもよいと思うのだ。迷路みたいで絶対楽しい、と思う。

 迷路を辿るのが面白いのだから、お手本となる絵の線画を辿るのも面白いに決まっとる。

 絵のカラオケというか。

 紙がもったいないので、こういうときにデジタルのお絵描きセットがあると便利なのだろうな。お高いのかしら。

(お菓子一食分我慢したら買えないかな)

(せめて百個分は我慢してよ。一食分どころか十食分でも二千円も貯まらないんじゃない?)

(じゃあいらない)

(諦めるのが早すぎる……)

(無欲なので)

(無欲な人は食い意地張らないでしょ。お菓子我慢するくらいお茶の子さいさいでしょ。余裕のよっちゃんでしょ)

(いっぱい無が欲しい)

(食欲みたいなノリで無欲を使うな)

(あーあ。無がこわいなぁ)

(饅頭怖いみたいに無を扱うな。怖がっても無はあげない)

(じゃあお菓子食べちゃお)

(どっちにしろガメツイな。欲の塊だな。強欲だな)

(いっぱい強くなりたい)

(強さを欲張るな。強欲になるな)

(じゃあ弱欲でいいです)

(初めて聞いた言葉だな。弱さが欲しいのか)

(世界中の弱さを集めたら、きっと誰より弱くなって、代わりにみんなが強くなる。守ってもらお。寝て暮らそ)

(発想が強欲のままなんだが……)

(弱さこわい)

(意地でもあげたくなくなってきたな。たとえいかなる弱さでも……)



280:【2024/01/29(15:53)*髪の毛と輪っかしゅるしゅる】

 髪の毛を一本用意する。

 髪の毛の両端を交差させると輪っかができる。「Q」みたいな具合だ。

 両端を引っ張ると輪っかは小さくなって、やがて結び目となる。点だ。

 ここからいまの操作を逆再生してみよう。

 すると結び目たる点から徐々に輪っかが大きくなる。さらに輪っかを大きくすると、髪の毛の両端まで円周が広がり、円はやがて途切れる。すると「Q」から「C」のように再びの髪の毛一本に回帰する。

 なんだか宇宙を眺めている気分にならないだろうか。わたしはなった。

 宇宙開闢と宇宙膨張を眺めている気分にだ。

 で、とある「ラグ理論」なるへっぽこぴーな理屈を唱えたぽんぽこぴーは、「宇宙ティポット仮説」なるけったいな屁理屈をも唱えたそうだ。

 宇宙は三段構造になっており、ティポットと紅茶と角砂糖の三つからなっているそうだ。仮にそのように想定してみるとして、我々の認識する宇宙はいわば紅茶に投じられた角砂糖、ということになる(ブラックホールのような特異点を想像するとよさそうだ)。

 角砂糖は紅茶の中で徐々に溶け出して、紅茶と一体化する。するとティポットを含めてそれで一つの角砂糖のような結晶体と見做せるようになる。

 すると今度は、それそのものが角砂糖のようになり、高次の紅茶と打ち解けるようになる。

 相対的にフラクタルな入れ子状の構造がそうしていつまでも捻転する。

 これはあくまでへっぽこぷーの唱えた屁理屈でしかないが、冒頭の髪の毛と輪っかのお遊戯を重ねて妄想してみるに、なんだか似ているな、とも思うのだ。

 結び目から輪っかへと膨らんである時点を過ぎると輪っかの円周は髪の毛の両端に辿り着いて、途切れてしまう。それ以上円を大きくしようとすると千切れて、円ではなくなってしまう。けれど円「Q」ではなく「C」となった髪の毛は、高次の空間と打ち解けて、それで一つの構成要素となる。「C」は開いている限り、その面積は無限に等しい。或いはゼロだ。

 仮に髪の毛を一次元と見做し、輪っかを二次元と見做すのなら、この宇宙が四次元であると仮定するに、三次元を輪っかにしたら四次元の宇宙になる、ということになる。

 ある閾値まで膨張した四次元宇宙は、やがて三次元に回帰するが、さらに高次の宇宙と同化して、さらなる膨張を辿るのかも分からない。

 これは輪っかにおいて結び目が、「過去と未来の結合」であるとするのなら、円周が大きくなればなるほど、その円の時間軸は延びていくこととなる。より多くの過去を内包し、より遠くの未来と原点が繋がるようになる。

 千切れて「Q」から「C」になった宇宙は、さらに高次の「~」と繋がり、より大きな「Q」を帯びていく。こういう描像を、髪の毛を輪っかにして、しゅるしゅる縮めたり広げたりしながら妄想した。

 なぜ髪の毛は交差すると自動的に「円」ができるのだろう。紐はどれも交差させたら円になるのだろうか。髪の毛が直線ではなく弧だからなのかもしれない。

 そういうことを、きょうもベッドでおねんねしてるだけで時間すぎてく……、と思いながら浮かべました。

 もう、そう!

(死ぬまでこんなだったらどうしよう)

(贅沢なぼやきだなぁ……代われるものなら代わってやりたいわ)

(代わる?)

(……遠慮しときます)

(なんでい)




※一様に、日々、発想の種をもらっている、もらってばかりの土くれだ、萌えた芽を愛でることしかできぬ我が身は、愛でることすら碌にこなせぬ。



281:【2024/01/29(16:25)*0×∞=1では?】

 ゼロには逆数がない、との説明を目にした。へぇそうなんだ、になった。

 逆数とは掛けたら1になるような関係の数だ。2の逆数は1/2だ。5/7の逆数は7/5だ。

 ゼロに何を掛けたら1になる?と考えたら、たしかにゼロには何を掛けてもゼロになるのだから、逆数はない、と結論付けたくなる。

 けれども、ほんとにぃ~?になってしまうのがわがはいなのである。

 だってよく考えてみて。

 ゼロが無限個あるんだよ。

 ゼロを仮に、何かがない状態の何か、と解釈するのなら、空っぽの何かが無限個あるってことになるよね。空っぽの何かが無限個あるわけですよ。もうどこを見渡しても空っぽの何かだらけなわけですよ。もうそしたら、そういう空っぽの世界が一個あるってなりませんかね。

 なるー!って考えたくなっちゃうのですけど、ダメですか?

 でも逆に、無限がゼロ個だったら、それはゼロなのだ。だって無限が一個もないんだもの。それはゼロでしょ。

 ∞×0=0だ。

 これはまだ呑み込める。ただし、無限が一個もないならそれは有限かもしれない。この可能性は残される。

 でもさ、「0×∞」だったら、これは「1」じゃない?とどうしても思っちゃうのですけれど、やっぱりダメですか。

 数学さんは、わがはいのことお嫌い?

 わがはいはメコである。

 もうメコメコのボコボコであるよ。

 数学さんったらわがはいのこと、ちーっとも好いてくれないんだもんな。

 ぷいってしちゃうである。

(ぷいってしちゃっても数学さんはたぶん困らないと思うよ)

(なんでそんなひどいこと言えるの……)

(むしろ、とっくにぷいってされてる側なのでは)

(泣いちゃう……)



282:【2024/01/30(07:04)*宇宙に碁盤の目はあるか?】

 銀河の回転問題は、なんとなくだけど、どっちも成り立つのでは?と単純に考えたくもなるな。

 最初は銀河の中心ほど速く回転し、外側ほど回転速度が遅くなる。けれどその結果徐々に階層性を帯びる。層をなす。「◎」こんな具合に入れ子状にタマネギの皮のごとく年輪のようになる。

 で、ここで安定すればそのまま渦を巻かない銀河になるけれど、実際にはこうなる過程のあいだにも、もろもろの天体同士の衝突や爆発が起きるはずだ。重力の相互作用による軌道の乱れも起こるだろう。

 すると中心ほど天体の密度は高くなるだろうし、その分、天体同士、ガス同士、或いは天体とガス同士が衝突しやすくなる。

 そして外側ほど物質密度が低ければ天体同士が相互作用し合う確率は減る。

 この「遅延の高低」が結果として「◎」で軌道を安定させずに、渦を巻くようなある種の「同期したズレ」を顕現させるのではないか。

 したがって同期の仕方によっては「◎」で安定する銀河もある。

 銀河の大きさや内包される天体の数で、そこの同期する値のようなものを導き出せるような気もする。シミュレーションしてしばらく放っておいたら、中心ほど回転速度が速くてもそのうちいわゆる「渦巻き銀河」の公転速度――中心も外側も同じような公転速度――に揃っていくのではないか。

 問題は、銀河に内包される天体の総質量から考えられる重力の強さでは、観測した際の天体の回転速度を導けない点だ。銀河を公転する天体たちは、計算から導かれるよりも速く銀河を公転しているそうだ。

 ここはどう考えたらよいだろう。

 未知の重力源があるか、或いは複雑な相互作用による重力波同士の干渉が、網の目のように時空を細かく歪めている可能性もあり得なくもないのではないか。

 干渉し合えば波は高くなったり低くなったりする。時空の歪みも細かく、起伏を帯びる。そしたら総合した重力波の伝播域は、見掛けよりも広域になるはずだ(直線を蛇腹のように折り畳んでしまえば、極狭い範囲であれ長い距離を内包する、といった理屈だ)。つまり、見た目の距離から計算した場合に過ぎ去ってしまう距離であっても、実際にはまだその範囲に重力波の細かな干渉が比較的強く残留している可能性もあるのではないか。

 だいたいにおいて、宇宙マイクロ波背景放射とて、宇宙のどの地点であれ残留しているそうだ。過ぎ去ったりはしない。

 そして宇宙マイクロ波背景放射が希薄化しているのは、宇宙が膨張している影響のはずだ。要因としては宇宙が膨張した分、希薄化した、との解釈が一般的なはずだ。

 重力波は発生源周辺に残留しやすいのではないか。

 広域に伝播するほど弱体化するのなら、宇宙膨張と合わせて、濃淡ができるはずだ。けれど実際には濃淡がさほどには観測されていない。どこまで伝播したとしても、同じように希薄化する。つまり、伝播する距離に重力波の強さは依存されない。

 そういう結論が導かれるのではないか。

 しかしこれは直感としては妙に思う。

 イメージとして、宇宙マイクロ波背景放射は、伝播しているというよりも網の印象だ。網を引っ張っていっせいに引き延ばしたら、編み目は各々にだいたい等しく拡張される。宇宙マイクロ波背景放射もこのイメージなのだ。

 加えて、重力波が波の性質を帯びているのなら伝播もしているはずだ。そしたら編み目そのものが波紋のように伝播して、相互に干渉し合いそうなものだ。

 初期の干渉のほうが活発で、後期の干渉のほうがまばらになる道理だ。時空が引き延ばされて、距離が開くからだ。

「……」のリズムが「・・・・・・」になる。

 この理屈でいくと、宇宙マイクロ波背景放射には、波長ごとにいくつか種類がありそうだ。比較的短い周波数の電磁波(もしくは重力波)と、引き伸ばされて広域にゆったり振幅する電磁波(もしくは重力波)だ。

 波長の長い重力波は、おそらく人類の観測機では未だに観測しきれないのではないか。そしてそれは宇宙の大規模構造のボイドやそれ以上の大きさで時空を波打っているため、まるで巨大な碁盤の目のようになっている。もちろんそれが波の性質を帯びているのなら、波長の長い重力波の「~」において、谷と山の部分ではなんらかの差が顕著に、それこそまさに谷と山のごとく表出しているのではないか。

 宇宙はもっとデコボコで、巨視的には区切られている気もする。というか、それが大規模構造の生成メカニズムの一つかもしれない。

 重力波の存在を思うと――そして宇宙が膨張していることを前提とすると――このように妄想したくなる本日のわたくしなのであった。

 おはよー!

 きょうもいちにち、おふとんのうえで元気にお眠する。

 うとうと舟を漕いで、夢の中を大航海だ!

(数年後に大後悔にならないといいね……)

(朝からしょんぼりしちゃうこと言わないでほしい)



283:【2024/01/30(08:53)*日本語、仏教用語多くない?】

 文殊ってなんだろ、って気になったので検索したら、仏教用語だったのね。さすがのウィキペディアさんだわ。よくまとまっておる。

 真偽は不明だけれど、文殊菩薩なる神さま?がいるらしい。知らんかった。

 なんかイメージ、珠玉と類似で「文字の珠」みたいな印象だった。でも「殊」と「珠」も似てるけど字が違った。この手の勘違いはよくあるよくあるー。

 青蓮華(青い熱帯睡蓮の花)がアイコン?みたいになってるらしい。へー。

 種字がマン、とあるけれど、あだ名がマンってことかな。よく分からぬ。

 どこまで本当のことなのか、いまではなんだかふんわり疑いの目が芽生えてしまうな。インターネッツさんの信用度が日に日に下がって感じられるわがはいである。

 でもけっきょく頼ってしまうのだから、信用しているのだ。信用というか、信頼か。

 裏切りたくないし、裏切られたくないな、と思いつつ、信用とは裏切られてもよいと覚悟することだ、みたいな名言があったようななかったような、そんなこんなで、気になった「文殊」についてであった。

 原子炉の「もんじゅ」とは何か関係あるのかな。廃炉になったのかな、なっていないのかな、いつ処理が完了するのかな、よく分からぬである。

 なんだかハイ&ローで、上がったり下がったりと忙しない気候さんみたいだな。

(え、何が?)

(疑問が湧いたり、干上がったり、なんか似てるなって)

(疑問は干上がるものなのか? 解決するものでは?)

(疑問が解決しても問題はだって解決してないから……)

(おーう。まっとうな理由だったか)

(途方に暮れて、疑問も枯れて、路頭に迷う人生なのかも)

(もっと明るい話題にしようぜ)

(豆電球にも5ワットの明かり)

(……もっと明るくして)

(ピカー! LEDだと0.5ワットでも明るい!)

(節電できていいね)

(疑問が浮かぶと豆電球も浮かぶ)

(漫画あるある描写だね)

(疑問を近づけると焼ける音がする)

(その心は?)

(疑問、ジュッ)

(文殊と掛けたの?)

(うん)

(……もっかいチャンスあげるね)

(えっ。ダメと言わずにダメ出しされた。じゃあ、えっと――拷問、ジュッ)

(さっさとオチに入ろ?)

(うわーん! もう無理。いっそ廃炉にして)

(上がったり下がったりせわしいやつだな。ハイ&ローだな)

(はい。マンは徒労なので)

(文殊さんをマンと呼ぶな。徒労にするな)

(はいろー、はいろー。オチーをつっくろー)

(敢えて止めん……もっと「煽れ」)

(「んげっ」)



284:【2024/01/31(05:09)*非暴力も徹底すれば暴力の内】

 軍国主義の弱点は、市民の多くを平時であっても徴兵しているがゆえに、国際法において市民を守る適法から逸脱する点だ。

 国民がみな兵士ならば、市民とは見做せない道理だ。

 市民の犠牲を最小限にすることを全世界の各国が同意した世界では、軍国主義はその固めた地盤がゆえに弱体化する。大きな穴を内包することになる。アドバンテージを抱え込む。

 この手の包括的な人類の方針は、民主主義と平和をより確かなものにするうえで有効だろうと考えるものだ。

 戦争の被害拡大が軍事力の高まりと正比例する限り、軍事力を高めると却って弱体化する方針を各国がとることは、軍事力を用いない文化的防壁網として効果がある。

 暴力を揮うこと、或いは備えることを高く評価しない、というのも一つだ。

 暴力的な不良がモテる時代は不良が増える。

 真面目で優しい優等生がモテる時代は優等生が増える。

 淘汰圧を利用した制脳であるがゆえに、この技術を恣意的に用いることもまたリスクがつきまとう。なぜそうした流れを強化するのか、からして市民に説明を行い、なぜ粗暴な性質が忌避されるのかも合わせて説明できると好ましい。

 付け加えるならば、たとえどんな傾向が流行しようと、流行に反していながら一途に何かを好くことの輝きは、ナニモノにも染まらない闇と等しく得難いものだ。

 たとえどんな流れが強化されても、流れを物ともしない意思の輝きは、何に揺らぐことのない穴と等しい懐の深さを湛えよう。

 軍事力はあってよい。

 暴力もあってよい。

 ただし、使い道は選びたいものだ。

 使い道が限られるのならば、そもそも拡大する必要もない。刀を研ぐように、黙々と細々と、その道を極めればよい。

 やがて刀は不要となって、反転した性質を宿すだろう。

 知恵もまたそうであるように。

 やがては、人を斬り殺す鋭利さを宿すものだ。

 非暴力もまた、その内に暴力を秘めている。他と関わり、調和を目指すことそのものが、じつはひどく暴力的な性質を帯び得る点には、目を留めておいて損はないだろう。

 調和は暴力によってその原型を保てるのだ。

 けして、平穏なだけではない。

 定かではない。



285:【2024/01/31(06:07)*思考は光速を超えられるのか】

 光速に耐えられる物体しか光速に至れない。この解釈を仮にとるのなら、いわば物体は周囲の時空との関係で、差を、「比率において光速度以上」に開けることができない、とも言えるはずだ。

 光速以前の速度では多くの物体は構造を維持できずに燃焼したり瓦解したりする。それでも光速に至れた物体は、こんどは時空との抵抗を帯びるようになって燃焼(プラズマ化)したり瓦解したりする。

 けれども、もし、それでもなお構造を維持できた物体は、それそのものが時空となる。

 つまり時空とは、光速を超えた物体のことなのかもしれない。

 ただ、光速を超えると基本的にはその物体は静止状態になる。あくまでその物体の外側の視点からの解釈になるが。

 ではその「光速を超えて時空化した物体の視点」ではどうか、といえば、それが新たな時空と化したのならば、そこには新たな宇宙が生じているはずだ。時空の内部は最初は均一で一様だけれど、「光速を超えて時空化した物体」には方向性があったはずだ。つまり、内部構造は一様なのだけれど、その時空化した物体の外部では方向性において均一ではない。対称性が破れている。頭と尾とでは、速度すら違っているだろう。僅かなりとも。或いは、光速度を超えているのだからその僅かであろうとも膨大な差となって表出し得る。

 つまり、内部の視点では均一だが、外部の視点では均一ではない。

 言い換えるならば、内部からでは対称性の破れの要因を観測できないが、確実に外部との関係性において対称性は破れている、と考えられる。

 このようにして、光速を超えて時空化した物体は、外部の基準宇宙との関係で対称性が破れて、内部構造も徐々に「一様に多様」な様相を呈しはじめる、と妄想できる。

 おそらくこれは、慣性系にも当てはまる道理だ。慣性系内部だけでは考慮できない「ベクトル」や「方向性」が、隣接する(周囲の)「外部の系」との関係で付与される。

 しかしその付与された「ベクトル」の影響を、慣性系内部の視点だけでは観測できない。考慮できない。あたかも不可視の影響力として、ふしぎな干渉のごとく表出する。

 このように妄想できる。

 これはとあるラグ理論なるへっぽこぷーの唱えた「同時性の独自解釈」とも通じる。

 二つの物体(系)のみでは考慮できない同時性において、しかしその二つの物体(系)を内包するより高次の系を考慮する場合に限り、同時性は表れる。

 そして二つの物体(系)のみの視点では、その同時性を考慮することはむつかしいが、たしかに「二つの物体(系)を内包したより高次の系」との関係は、同時に二つの物体(系)に生じている。

 こういうことを思う、本日の「夜舞(よまい)琴音(ことね)」でした。

(誰!?)

(あたち、あたち!)

(あたちあたち詐欺じゃねぇか)

(炎上しちゃったのでお金くれ)

(消火してくれ。水を掛けてくれ)

(浄化しちゃう……)

(火元おまえじゃん!?)

(いやぁね、まったく。世迷言ね)

(夜舞琴音じゃん)

(そだよー)



286:【2024/01/31(06:37)*なーんだ、もうあるんじゃん】

 共形サイクリック宇宙論なるものを知った。名前だけ。いまさっき。

 インターネッツさんで検索して、いくつかの記事を読んだけれど、えー、これってあれじゃないですか。どっかのへっぽこぷーの唱えたへっぽこぴーな「ラグ理論」における「宇宙ティポット仮説」と似てませんこと。「相対性フラクタル解釈」と似てませんこと。

 ひょっとして「ラグ理論」の提唱者は、この共形サイクリック宇宙論を唱えた人と同一人物なのではー!?の疑惑が噴出してしまったであるな。わがはいの中でだけで。

 共形サイクリック宇宙論において、いくつか疑問点が湧いたので並べておく。

 1:ほかの物理学理論でも同様だけれど、孤立系の概念(エントロピー)を無条件に適用しすぎて感じる点。

 2:宇宙のすべての素粒子の質量がゼロになると再び宇宙初期状態になって新しい宇宙が展開されると考える場合、「0×∞=1」としないと辻褄が合わないのではないか、との疑問。

 3:ブラックホールの情報パラドクスにおいて、情報の保存先がブラックホールに限定されているのはなぜなのか、の疑問(情報は、ブラックホールとその周囲の時空にも保存されているはずだ。これはブラックホールに限らない。情報は単品で生じることはなく、異なる2つ以上の事象同士での関係性で生じ、その保存先は、関係し合った事象とそれを内包するより高次の系の最低でも三つに保存されるはずだ。ラグ理論の「123の定理」「同時性の独自解釈」である)。

 4:共形サイクリック宇宙論が正しいのならブラックホールの内部にも宇宙が新しく展開される可能性も残されるはずだ。要は、宇宙初期と宇宙終焉が同期することを仮定した際に、宇宙初期や宇宙終焉の状態が、ブラックホールと同質であると考えられた場合には、ブラックホールの内部にも新しく宇宙が展開されると結論されるはずだからだ。宇宙終焉の状態は、ブラックホール化した時空と区別がつくのだろうか。限りなく希薄化した時空かつ、ほぼ物質が情報にまで紐解かれて均一化した世界だ。ブラックホールでは?と思うが、いかがだろう。

 以上の4つを、ひとまず「共形サイクリック宇宙論」の概要らしき説明文を読んで思いました。誤読に誤解のオンパレード――何から何まで間違っているでしょう。真に受けぬようにご注意ください。

(誰宛ての注釈なの?)

(未来のじぶんに……)

(読み返すことあるの?)

(もしあったら、真に受けちゃいそうだから……)

(あなた単純だものね)

(えへへ)

(褒めてないよ。素粒子くらいにしか)

(それほどでも)

(特異点を素粒子に含めるな)



287:【2024/01/31(10:31)*ホールアンダーナイン】

 文章の読解って、負荷の高低を無自覚に使っているよね、と久々に紙媒体の本を読みながら思った。

 たとえば、「ぼく、あんぽんたん。愚か者で嫌われ者だけど、毎日楽しいこといっぱいで元気いっぱい!」といった文章があるとする。このときこの言語に馴染みのある者とそうでない者とでは、文章上の形を目にした際の情報処理の仕方――とくに情報量――に差が生じると想像できる。

 上記の例文をデタラメにそれっぽく別の記号に置き換えてみよう。

「OU、Ξρ⇒ρ≠ρ。▽ΘΓ§¶±ΠΓ∥Δυ、〈Ξ∴τЭΖюЭз〆Э§∬◆Эз〆Э!」

 こんな具合になる。

 何が書いてあるのかさっぱりだ。どこからどこまでが単語で助詞なのかも区別がつかない。けれど元の例文のままだと、その言語に馴染みがあるだけでどこからどこまでで一単語なのか、助詞がどれなのかが区別がつく。

 なぜなのか。

 これは、類推と情報処理の遅延のなせる業なのではないか、と思うのだ。

 過去に目にして意味付けを行った記憶が参照される。これによってどんな記号の並びが単語なのかを、「これとあれってなんか似ている」の反復作業によって学習強化される。

 そのとき、過去に連想した回数が多いほど、そしてその組み合わせの回数が多いほど――つまり類推した幅が広く、より多様な単語と関連づけした回数が多いほど――情報処理に時間が掛かる。そして情報処理に掛かった情報量も多くなる。

 すると遅延が増す。

 時間にして僅かだろうが、一瞬で連携される「記憶の回路」が増える道理だ。

 それによって文章なる記号の羅列から、単語の意味を重複して類推できる。関連付けられる。そして後続する記号から、重複した類推の回路が漉しとられる。可能性の幅が削れて、固有の意味内容が浮き上がる。なぜそのような浮き彫りが可能かといえば、関連付けられて重複する記憶の幅が狭まるからだ。共通項は、比較対象が多種多様になればなるほど狭まっていく現象と似ている。抽象と具体の関係のようなものだ。

 ただし、記号が嵩むことで、ある閾値以上に情報が嵩むと、却ってなんでも類似事項を含んでしまうような現象も起こり得る。

 世界、という単語にはこの世界の全てが該当し得る。わたしの世界、とすることで該当する世界の幅は狭まり、昨日のわたしの世界、とすればさらに幅は狭くなる。

 しかしそうして文字数を多くしていくと、あるときからこの世界そのものを内包するほどの情報量に達することも出てくる。「わたし」と「世界」がイコールで繋がってしまう。そういった事態にも直面し得るのだ。

 同様にして、文字と文字――記号と記号――の並びから、過去にどういった意味内容を関連付けたのか。連想したのか。幻視したのか。

 その繰り返しの果てに、単なる記号の並びが、文章としての意味内容を宿すようになる。あくまで、文章と読み手の関係性の上で。

 むろん、書き手と文章の関係性の上でも、が前提にくるわけであるが。

 まとめると。

 情報解析と記憶の参照における情報量の差――すなわち遅延こそが、文章を文章として読むための「フィルター」の役目を果たしているのではないか、との疑念である。

 これはひょっとすると、DNAの塩基配列にも言える道理かもしれない。

 以前にどこかのへっぽこぷーが日誌で並べていたことがあるらしいが、DNAのジャンクにおける繰り返し配列などの一見すると無駄に視える配列こそが、抵抗を高めるがゆえに堤防の役割を果たし、より滑らかに辿るべく道筋を浮き彫りにしているのではないか。

 いわば、禁止事項を無駄な情報で以って暗示し、抵抗を以って、「こっちにゃくるな」と誘導しているのではないか。

 似たような誘導を、文章の読解に思う。

 さながら影絵の濃淡のように。

 浮き彫りになる絵柄、道、そのものは、じつは直接には描かれていないこともあるのではないか。

 行間がそうであるのと似たように。

 そういうことを、歯医者さんの待合室で読みかけだった本を数か月ぶりに読んでみて思いました。

 39!

(何それ)

(さんきゅー、のつもりで言ってみただけ)

(最後の「!」は何?)

(感情をこめて言ったつもりで添えました。999!)

(……え、わかんない。どういうつもりのスリーナイン?)

(9が三つで、さんきゅー的な)

(ああ……)

(もう解ったでしょ。これでもう以心伝心ばっちぐーだよ。次からは誤解なく通じ合えるね。うれし、うれしだよ)

(じゃあ、なんか出してみて)

(いいよ。9ん9ん)

(え、わかんない……ひょっとしてだけど、クンクン?)

(匂いを嗅いだわけじゃないし。きゅんきゅんしたの。言わせないでよ)

(きゅん……きゅん……?)

(伝わってない、だと。じゃあ、「9」)

(ただの「きゅう」じゃん)

(そうだよ。だから「単9」だけに、探究。なんちって)

(なんか悔しいな。じゃあこっちは「9I」だ。どう? わかる?)

(きゅうじゅう……いち?)

(よく見て。「1」じゃなくて「I」だよ)

(きゅう、あい?)

(究愛だよ)

(求愛ではなく?)

(愛を究めるのだ。心を受けると穴があいて九がわく)

(はんはん。にゃるほど。「究」はホールアンダーナインなのね)

(「九」を「工(たくみ)」にすると空になる)

(なんかわからんけど、含蓄ぶかい雰囲気だけは伝わったよ)

(むっ。絶対あたしんほうが工夫凝らしてるのに、なんで格下みたいな扱い?)

(黒い余白)

(急に何よ今度は)

(皇帝の理、略して皇帝理)

(「の」しか略されてないが)

(マミーの微笑み、猫のお手手)

(カツオのたたき秋の恵みみたいに言うな)

(AB)

(えーびー、がどうした)

(B77)

(バナナ?)

(ちっ。当たり……一面、まっしろ)

(悔しさを誤魔化すためにそれっぽくつづけるな)

(灯台下暗し)

(灯台の下にあるのはだいたい岬だな。辺り一面まっしろなら岬だって明るいんじゃないかな)

(ちっ。良き)

(どっちだよ。悔しいのか、うれしいのかどっちなんだい)

(山と海の境が岬なので、いいなって)

(ちっ、はなんだったんだ。無駄に舌打ちしないでくれ)

(大地の「ち」だよ。山と海のどっちが先に生まれたんだろって考えたら、「山」かなって思ったから)

(岬の元は山だったか)

(山が元だよ。大地よきだよ。控えめに言い直したら、「大地ゅき」だ。)

(「よ」を控えめにする意味ある? 「ゅ」にする意味ある?)

(海にはカモメが飛んでいて、クジラもいるからいいなぁ)

(さては君。山より海が好きだな……)

(でも鶏は海にはいないからなぁ)

(好き嫌いを動物の有無で決めるのやめよ?)

(じゅるり……骨なしチキン……)

(食欲だったかぁ。ならしゃあない)

(海の幸、山の幸、イカとタコ。そしてイタコ)

(海の幸はいいけど、山の幸ってイタコだったかな……まあ、間違ってはないかもしれないけどさ)

(いいさ。子)

(あたしは君の子ではないが)

(ね、うし、とら、う――の子)

(ねずみじゃん……)

(海/山=岬)

(あってるけど、あってない。海と山を斜めで区切るな。分割するな)

(目目目目目目目)

(えーっと――目が七つで、斜め?)

(当たり……一面、星で覆われた海)

(満天の星じゃん)

(お星さまがね。覆ったの。海を)

(空をじゃなくて?)

(お空はだって、ほら。穴が開いてるから)

(開いてるから、なに?)

(青いなって。お尻と一緒で)

(どっちにも穴があるし青いけど、下品すぎない?)

(九っ九っ九っ)

(笑うならちゃんと笑お?)

(九が三つでさんきゅーだよ。まぁた伝わらなかった。はぁあ)

(学習能力低くってごめんなさいね怒怒怒)

(怒が三つの魔女で、サンどウィッチ?)

(誰が魔女だ、誰が)



288:【2024/01/31(13:15)*惑いバーン】

 わたくち、ほとんど無意識にすでに「電磁波=重力波の一種」と解釈してしまう癖ができてしまっているので、あれなのですけれど。

 根本的な疑問として、なんで宇宙膨張によって初期の電磁波である宇宙マイクロ波背景放射が希薄化するの?というのは、よくよく考えてみるとふしぎですよね。

 だって電磁波が重力波じゃないのなら、宇宙が膨張しても希薄化することはなくないですか。宇宙膨張によって赤方偏移するのは、あくまで「発光源である天体」が観測地点たる地球から離れていくからですよね。銀河同士が遠ざかるからですよね。

 じゃあ、最初から宇宙そのものが発光源の宇宙マイクロ波背景放射が、宇宙膨張にしたがって希薄化すると考えるのってなんか変じゃないですか。

 電磁波って時空を伝播しているのですか?

 媒体は時空なんですか?

 それって重力波じゃないですか?

 こんなふうに考えたくなってしまいますね。

 惑わされちゃってませんか、みなさん、とわたくちは思ってしまうのですけれど。

 電磁波は重力波の一種ではないのですか。もし違うのなら、なーんで宇宙膨張にしたがって希薄化するのですか。

 重力波も弱まると電磁波になるのではないのですか。

 これを拡張して考えると、電磁波の波長を短くしていって(或いは長くしていって)超々強くすると、重力波になる、とも考えられる。

 というか、単位が繰り上がった電磁波が重力波だとすると、空間軸方向と時間軸方向の双方向に発散しませんかね。

 電磁波が比較的「いまこの瞬間!」に作用しがちなのに対して、重力波は時空の波なので、「いまこの瞬間×∞!」に作用すると考えたくなりますな。

 

 あ、いま妄想が「ばばばーん」ってなった。


 重力波が創発して、物質の性質を生んでいる?

 ラグによる情報の遅延から重力の素が生じ、重力の素の創発から各種エネルギーが生じ、高次重力もまた創発して、それらがさらなる遅延を生むことで物質の輪郭が生じる。

 物質同士の干渉でも遅延が生じ、そこでも新たな種類のエネルギィが生じ、そうして物質の集合した際の創発が、入れ子状に展開される。

 つまり、物体が動いて周囲の空気を撹拌して生じるうねり――風もまた、根本を辿れば、重力の創発の創発の創発……であり、ラグの総体である。

 すなわち、その中間過程には重力波の創発も含まれる道理だ。


 さらに妄想が「ばばーん」となったので補足しよう。

 時空が階層性を備えているとして。

 たとえば「重力波は、より時空の根本の層を伝播する」と妄想してみよう。ではなぜその最下層の波がそれより上の物質世界にまで伝播してこないのか。

 これはおそらくそうではなく、伝播はしているのだ。ただし、影響が顕著に可視化されない。

 言い換えるなら、可能性のみが伝播している。

 たとえば中性子星同士の衝突で重力波が生じたとしよう。このとき中性子星同士では新たな貴金属原子が生じると考えられている。金もその内の一つだそうだ。

 けれどその金がいったい未来においてどのような形態を辿るのかは、それこそ先んじて波及した重力波の伝播範囲に縛られる。時空の最下層に生じた変数が、より上層の時空の変質幅を規定する。ゆえに、重力波の到達した時空にしか、それら金は存在し得ない。言い換えるなら、重力波の到達した範囲は、金が存在したことの影響を未来において受けるようになる。

 可能性が伝播しているのだ。やや齟齬のある表現になるが。

 つまり、実質、物質世界にも影響を与えている。ただし、無限の時間軸上において。

 局所的に発生した「新たな変数」が時空全土に波及する。

 未来を与えているのだ。

 これはでも、ちょっと飛躍しすぎちゃった妄想かもしれぬ。飛躍しすぎちゃってなくとも妄想には違いないのだけれど。

 惑わされてばかりであるな。

 ビッグバンならぬ、惑いバーンである。

 お元気であれ。

(全然関係ないけど、一般相対性理論って1916年に発表されたの? んで以ってある天体同士を長年観測して、なんでか互いに近づいていることを発見した人たちがいて、そのなんで、の理由が重力波だったことに気づいて、重力波の存在が認められるようになったの? その観測対象となった天体が「中性子星連星PSR1913+16」だったの? あぎゃー。19と16に縁があるのですね。重力波さんは。重力波さんには波しぶきはないのかしら。なーんて思っちゃったな。うふふ)

(そこは「にぱぱ」じゃないのか)

(288? なんで?)

(なんでって)

(うふふ、のほうがお上品)

(にぱぱ、もかわいいじゃん)

(じゃあ、あいだをとって、うぱぱ)

(うっ、ってなってるパパみたい)

(じゃあそれで)

(……なんでも受け入れればいいってもんじゃないと思うよ)

(うぱぱ)

(定着しちゃったかぁ……)

(にははー)

(今度のはニコニコの母みたい)

(じゃあそれで)



289:【2024/01/31(14:15)*しかるに∵】

 核燃料デブリの取り出し作業は、通常手段と共に地下からの取りだし経路も同時並行で進めてもよい気もする。あくまで安全と費用を確保できるのならば、との条件つきだけれど。

 地下から原子炉格納容器まで穴を掘って、抜け落ちた各燃料デブリをさらに落とし穴に落として回収したらよいのではないか。狭い密閉空間で取り出し作業を行おうとするからむつかしくなる。専用の地下空間に、広域の密閉空間をつくってしまえばいい。

 失敗したら、そのままコンクリートで囲って埋め立ててしまうのも保険として有効だ。

 だいたいにおいて、地下への核燃料による汚染状況はどうなっているのだろう。どの道、土壌を掘り返して調査する必要があるのではないか。

 地下に穴を掘って回収、は有用に思うが、ネックはなんだろう。費用だろうか。

 地震の心配がないなら、保険機構として最初から地下空間を核シェルターのように設けてしまうのも一つと思う。地盤が弱くなるからダメなのだろうか。

 でも地下空間を設けただけでリスクが高まるような土地に原子力発電所を建てるのは、そもそも理に適っていないようにも思う、取らぬ狸のぽんぽこりんなのであった。

 ぽんぽこー……。

(元気ないな)

(うん……)

(最近、三点リーダー多用しすぎじゃない?)

(三点倒立リーダー?)

(土下座に気合い入ったリーダーみたいに空耳するな。これ「……」のことだよ)

(ああ……。なんか使うと、気苦労している人みたいで心配してもらえそうだから……)

(打算にもほどがあるだろ。絶対心配してやんない)

(いやん……)

(いやんじゃない。三点倒立で土下座してくれ)

(▽)

(一点じゃん。三点じゃないじゃん)

(∴)

(三点ではあるけれど)

(∵)

(真顔みたいにするな)

(Б)

(三点倒立で土下座してる人みたいな記号――あるの!?)

(・∀・)

(三点の真ん中を、逆さの「A」にするな。ついでのように笑った顔みたいにするな)

(一点だけAだー。なんちゃって)

(ダジャレ……多用しすぎじゃない?)

(∵)



290:【2024/01/31(17:34)*2×9=ジューっ、ばちーん!】

 くのいち(九の一?)に憧れておった幼少期、修行の甲斐あってわたくちのお色気の戦闘力は、カボチャに勝るとも劣らない硬度を誇るようになった。お色気の要素は皆無だ。

 古典的な罠で、薪に竹を仕込むという仕掛けがある。薪と一緒に竹を火にくべてしまうと、竹は空気を含んでおるから膨張して破裂する。火の番をしている者は「アチチ!」となる算段だ。

 これの応用で、火力発電所の燃料に火薬を仕込んでおけば、爆発を起こすことができるのではないか。燃料が薪や石炭ならさもありなんだ。

 この手の対策はどの程度敷かれておるのだろ。

 不備があったら燃料の輸入先を変える、との保険があるのみだろうか。

 案外結構に、一度に同時多発的なインフラ設備の破壊工作が適う気もする。

 異物混入はインフラ設備の破壊工作には案外に有効で、抜け穴がたくさんありそうだ。実際に使用される前に、穴は塞いでおいたほうがお利口さんかもしれない。

 あーん、ぜん。

 とう!

(9+1=とう!)




※一様に、命の数だけ宇宙があり、宇宙の数だけ命がある。



291:【2024/01/31(23:14)*多層時空仮説】

 わからん、わからん、とぷつぷつ吐きだしながらご帰宅した。

 時空って、なに?

 改めて考えてみると、時空ってなに?になる。

 なんで物体は動ける?となる。

 たとえば、物質の最も根源が時空の揺らぎであり、対生成である、と考えるとして。

 時空が波打って「~」から「〇」と「●」が出来たとしよう。二つ合わせると再び「~」に戻ってしまう。

 で、「~」を波と解釈するなら、「~」が移動する場合に、ほかの時空と連動しているってことになりますよね。ほんとイメージ、水面の波みたいな。紐の波みたいな。

 で、さらに対生成で出来た「〇」や「●」が相互作用し合って、より複雑な構造物が出来て、原子や物質になっていくと解釈するとしてですよ、君。

 なーんで物体は空間を移動できるんですかー!?って思いませんか。

 わたしは思っちゃうのだよ、諸君。

 なんで物質は時空を移動できる? 意味わからんくないですか。

 だって物体の大本が時空の揺らぎだったとしたら、でも物体がない場所でも絶えず時空は揺らいでおりますでしょ。

 たとえばね。

 右手出してみて。

 上に下に動かしてみて。

 ね?

 空気を押しのけながら移動するでしょ。

 でもそこには空気以前に時空があって、真空があって、空間があって、物質の根源があるわけですよ。元々は手の物質と同じものが、そこにあるわけですよ。連動しているはずなんですよ。でもじゃあ、なんで手を動かせる? 何が起きている?ってなりませんか。

 や、分かります。

 たぶん「波」のイメージを、量子世界にそのまま持ち込むのはナンセンスなんでしょう。当てはまらないのでしょう。いわゆる波ではないんでしょう。そこはなんとなくわたしにも、そうなのかなぁ、みたいな予感はあります。

 にしてもですよ。

 時空の大本と物質は、乖離している、と考えないと上手く想像つかなくないですか。

 もういっそ、「粒子としての性質を帯びる=元の時空からは乖離している」と解釈したいほどです。でも、相互作用はし得る。なんでー!?になってしまうのですけれど、ここの「なんでー!?」を共有していただけるかしら。ダメかしら。

 ダメ?

 なんでー!?

 いやあ、もうね。なんかね。

 たとえばね。

 たとえばよ。

 時空が仮に階層性を帯びているとして。下から上まで無数のレイヤーを有していると想像してみるとしてですよ、あなた。

 各々のレイヤーごとに「特異点」があって、ブラックホールのような「別の時空に繰り上がる値」がある、と想定したほうが、しっくりくるのですよなぜか。

 乖離している。

 元の階層からは。

 でも、総合した【多層時空】からは乖離していない。

 隣接する階層の粒子(繰り上がった時空)とは相互作用し得る。

 こう考えたら、ふむふむ、とひとまず「なんでー!?」を呑み込めてしまえるわけですよ。

 言ってしまえば、物質も、低次の時空にとってのブラックホールなのでは?との妄想を前提とすると、もろもろ上手く呑み込めるんですね、きょうのわたしは。

 つまり、物質とは、それそのものが、基準となる最下層の時空とは「異なる」――高次時空だ、との妄想となります。

 話は脱線しますけど。

 なんで素粒子や重力波は、物体をすり抜けるのだろう、とふしぎに思います。すごくふしぎです。

 でも身近でもすり抜ける現象は有り触れていて、たとえば手と水の関係とか、網と空気の関係とか――もう少し具体的には、植物と風の関係とか。

 防風林がそうですけど、強風ほど森林との相互作用において抵抗が大きくなりますよね。緩やかな風だと却って森林の隙間をすり抜けてしまうというか。なんだか「片栗粉を水にめいいっぱい溶かした液体」みたいな関係性を彷彿としますね。強く一瞬で力を加えると反発するけれど、ゆっくり力を加えると沈んでいく――みたいな。

 宇宙線と物体の関係もそれにちかいのかもしれません。

 もうすこし言えばやはり、階層構造を時空が帯びており、高次の階層とは相互作用しにくい低次の階層がある、と考えたほうがしっくりきます。

 これらを踏まえて冒頭の疑問を振り返ってみましょう。

 なぜ手は動くのか。

 なぜ時空の揺らぎから生じた手が、同じく揺らぎに満ちている時空を移動できるのか。

 なぜ物体は、あたかも時空から乖離しているかのように振る舞うのか。

 おそらく、前提がいくつか度外視されてしまっているのでしょう。

 実際には、手と相互作用し得る時空の階層は限定的であり、むしろ手は多くの「時空の階層」をすり抜けている、と解釈すれば、辻褄は合います。

 あたかも網を水中で動かすように。

 それとも、虫取り編みを空中で動かして、虫だけを捕獲するように。

 実際には、人間が知覚できるスケールの物体は、多くの「時空階層」における粒子や物質と相互作用していない、と考えたほうが、上記の疑問を呑み込みやすくなります。

 人類の常識では、巨大な物体ほど、より小さな作用で、じぶんより小さな対象物に干渉できる、との認識が一般的なはずです。けれど、厳密には、より高次の事象ほど、それより低次の事象とは相互作用しにくくなる、としたらどうでしょう。

 相互作用可能な幅はあるにしろ、一定以上に「時空の階層」がかけ離れると、互いに相互作用しにくくなる方向に性質が乖離するのかもしれません。

 網と風の関係のように。

 それでもなお、風の勢いが強くなれば――風圧が増せば――網を破り得るように。

 これは光の性質と似ている、と感じます。

 光電効果に見られる、「波長の長短」と「エネルギィの高低」にまつわる関係性についてです。波長が一定以上に長いと光電効果は起きにくくなり、エネルギィ値がたとえ低くとも波長が短いと光電効果が起きやすくなる(この解釈であってますか?)。

 いっそ単純に、

 人類には知覚できずともいまこの瞬間にあなたの周りには重力波が無数に入り乱れておりますよ、さながら物体を構築する原子の振動のごとく。

 と、まとめてしまってもよいかもしれません。

 人類と相互作用せずとも、時空には「知覚不能なナニカ」が満ち満ちている。

 このように妄想してみますれば、なぜ物体は時空を移動できるのか、なぜ時空から生じたはずの物体が大本であるはずの時空内をそのままの構造を維持して移動できるのか、について引っかかりをすくなくして呑み込む真似ができます。

 この引っかかりを感覚的に分かりやすくたとえるなら、時空を海と見做したとして、物体は渦です。海には大小さまざまな渦が生じており、渦が移動するとほかの渦を呑み込んだり、くっついたり、相殺し合ったりします。動けば動くほど元の渦の形状を維持するのは困難なはずなのに、でも実際には渦はそのままの構造を維持して移動できます。それはなぜ?

 このようになります。

 より小さな渦が、大きな渦をすり抜ける、と考えないとこの疑問を氷解させることはむつかしいです。

 つまり、時空は海ではなく、もっと階層性を帯びたビルのような構造を帯びているのではないか。もうすこし言えば、地層のようになっているのではないか。

 各層には各層に見合った形態の「物質(粒子)(波)」があり、ほかの階層の物質と相互作用するには、相応の変換を得なければならない。その変換の値が一定以上に開くと、相互作用しにくくなって、ほぼほぼすり抜けるようになる。互いに存在の影響を顕著に受けることはなくなる。

 ただし、互いに「階層の総合された【多層時空】」の内部に属している。内包されている。ゆえに、より高次では、どの階層の物質であれ、変数で可能性の幅を縛りあっている(ここは相補の関係でもあるので、より低次であっても変数でより高次の階層と可能性の幅を縛りあっているでしょう)。

 このように妄想したくなります。

 ここで扱った物質とは、各階層における特異点のことです。繰り上がったために、元の階層から乖離して、隣接する高次の階層へと昇華された「それもまた時空」です。

 いわば、異なる宇宙とも言えるでしょう。

 多様な宇宙が、多層時空の各階層から生じており、相互作用する宇宙もあれば、そうでない宇宙もあり――相互作用する場合には、より複雑な構造を成して、銀河を形成するようにそれで一つの構造物を生成する。

 高次の階層にいくほど、ひょっとしたら相互作用し合える「異なる宇宙」の数が増えるのかもしれません。

 原子と天体が相互作用し得るように。

 けれどニュートリノやミューオンなどの素粒子とは相互作用しにくいように。

 手、なんで動く?と長らく疑問に思っていたのですが、ひとまず、「そうかも?」の妄想を浮かべられるようになったので、痛痒を感じつつも疑問をそのままに丸呑みしちゃいます。

 ごっくん。

 ぷはぁ。

 くるちー!

 ヘビさんのようにはいかないようです。ペリカンさんでもよいのですけれど、丸呑みは鵜呑みと同じく、できれば避けたいものですね。

 長々と冗長な本日最後の日誌でした。

 いまは別途に「膜ってなに?」が気になっています。

 妄想するだけ妄想して、またいつものように疑問ごと丸呑みしてしまおうと思います。

 きのうはきのうのわたしがいて、きょうはきょうのわたしです。

 わたしでした。

 おやすみなさい。



292:【2024/02/01(09:58)*頑丈な膜はガラスになる?】

 膜ってなんだろう、と疑問に思う。薄い液体のことだろうか。

 イメージでは、なんとなく粘着質な印象がある。粘着質なので薄くなっても形状を保てる。でも、物質全般がそうであるように、構造体には個々に応じた寿命がある。構造を維持できる時間は、各種構造体ごとに違っている。

 だからたとえ人類スケールで一瞬だったとしても、膜としての形状を帯びたら、それは膜としての性質を宿し得るし、膜としての構造を帯びていると解釈可能なはずだ。

 最終的には原子や素粒子一個分の厚みを帯びた膜にまで薄くできるはずだ。

 最近の研究では、原子を数珠つなぎにして、原子一個分の列にすることができたそうだ。極細のチューブの中に原子を流して渋滞を起こす。そうすると数珠つなぎの原子の列が出来る。

 理屈の上では、その数珠繋ぎの列を横に隙間を置かずに並べていけば膜になるはずだ。線を敷き詰めて面にする。

 ここで疑問なのは、おそらく人類からするとその原子一個分の膜は、そこにあってないようなものとしてしか振る舞わないだろう点だ。可視化されないだろうし、抵抗もほとんど知覚できないはずだ。

 シャボン玉ですら注意ぶかく感覚を研ぎ澄まさなければ、触れていることにも気づけない。

 でも原子一個分の膜は、おそらく原子一個とは相互作用するはずだ。原子数個分くらいまでならば、蜘蛛の巣のように絡めとるかもしれない。

 ボーズアインシュタイン凝縮状態の物質は、この手の「原子一個分の膜」を形成しやすいのではないか。

 そもそもどうしてこんなことを疑問に思ったのかといえば、お風呂に浸かりながら窓ガラスを眺めていて思ったのだ。

「ガラスって、寿命の長い膜なんじゃないの?」と。

 ガラスは固体でも液体でもない、極めて粘度の高い流体だ、といった説明を読んだことがあるようなないような、そんな記憶の覚束ない概要だけれど、仮にガラスが固体ではなく、明確な結晶構造を帯びていないのだとするのなら、ガラスはひょっとしたら頑丈な膜なのかもしれない――。

 かように妄想が浮かんだのだ。

 で、冒頭の思考の過程を思いだしてほしいのだ。

 原子一個分の列を敷き詰めれば、原子一個分の面となって、それが極薄の膜になる。そして原子一個分の列は、原子の渋滞から出来ている。

 なら原子一個分の極薄の膜とて、原子の渋滞から出来ていることにならないだろうか。

 物質の根本原理では?と思うのですが、いかがでしょう。

 ただ、なぜ原子や分子の種類ごとに、渋滞の維持時間――寿命――がまばらなのか。まちまちなのか。バラバラなのか。長短があるのか。

 ここは何によって生じているのだろう。

 原子同士の詰まり方だろうか。原子の種類によっては空隙が開くのかもしれない。それとも、原子同士の相互作用において摩擦のような変数が生じているのだろうか。或いは、反発力か。

 反発力が高いほうが渋滞は解消されやすい。これも原子同士の空隙が開くから、と言い換えられそうだ。

 詰まれば詰まるほど、渋滞は解消されづらくなる。

 原子の列――線――の敷き詰め方でも変わってきそうだ。均等に並ぶのか、ジグザグにズレて並ぶのか。箱にボールを詰める際に、どの並べ方だと一番ボールを多く詰め込めるのか、の問題と似た差異を生みそうだ。ジグザグにボールとボールをズラして並べたほうがボールをより多く詰め込める。

「●●●●」

「〇〇〇〇」

 ではなく、

「●●●●」

「 〇〇〇〇」

 と並べたほうが歯車が噛み合わさるように、間隙がより小さくなるそうだ。箱の形状にも依るだろうけれど。

 仮に原子にベクトルの性質が付属しているなら、ベクトルの方向も絡み合うようにしたほうが渋滞はより混雑しそうだ。なかなか解消されそうにない。

「→→→→」

「→→→→」

よりも、

「→→→→」

「←←←←」

とか、

「→←→←→」

「←→←→←」

 になっているほうが、渋滞がより絡み合って感じる。

 実際、こんなふうに自動車が道路で詰まっていたら、もうどのように動かしたら渋滞が解消するのか、手順を考えるだけでもまいってしまう。

 膜でも同様かもしれない。

 まとめよう。

 原子の並び方には、大別して二種類ある。

 1:原子そのものの配置の組み合わせ。

 2:原子の運動方向を加味したベクトルの組み合わせ。

 この二つだ。

 これらの組み合わせによって、膜の寿命や頑丈さは変わってくるのかもしれない。摩擦や粘度もまた、似た原理から生じている、と考えても、あながち的外れではないのではないか、と妄想した「いっい湯だったな。あははん」なのであった。

(ここで一句)

(湯舟でさらに舟を漕ぐ、危うく溺れて死にかける)

(ぶっそう!)

(長湯しちゃう季節だね。だって寒いからさ。お風呂気持ちいい!)



293:【2024/02/01(20:58)*面は延びると皺が寄る?】

 上記の妄想の流れで思ったのですけれど、「面はそれを構成する物質の種類によって面でありつづけられる限界値(面積の上限)が変わるのではないか?」ということで。

 単純な理屈として、面は面だけでは存在できない。それを取り囲む空間とセットで面は面足り得る。

 そしてある一定以上に面が広がりを帯びると、まるで面の輪郭の総方向から圧力が加わって「皺が寄る」ようになるのではないか。

 直感としてはそんな気がしてしまう。

 だから、それゆえに。

 原子一個分の厚みしか持たない面は、無限には拡張できない。

 周囲の時空との兼ね合いで、一定以上の広がりを帯びると、どうしても皺が寄ってしまう。くねん、と原子同士が重なって、三次元方向に飛び出してしまう。そういう箇所がどうしても出てきてしまう。

 ではなぜ、面を広げていくと周囲の時空とのあいだに圧力が生じてしまうのか。

 それこそ重力と時空の関係で説明できるのではないか。

 原子同士が連結すれば、そこには単品の原子とそれを取り巻く時空とのあいだの相互作用とはまた違った相互作用が表出することが想像できる。

 必ず左右前後をほかの原子に囲まれている。そういった原子が増えれば増えるほど、時空と相互作用する箇所は上下だけになっていく。

 一定の範囲内であれば、それでも難なく原子は面でありつづけられる。他の原子と連結していられる。

 けれど、ある範囲を超えると、時空とのあいだでの相互作用よりも、原子同士での相互作用における「情報変換」が著しくなる。時空との相互作用における「情報変換」との差が顕著になる。

 ゆえに、それら差が、いわば境界のごとく作用して、壁のようになり、面に対して圧力を掛けるようになるのではないか。

 境界はこの場合、「遅延の層」と言い換えることができそうだ。

 重力による時空の歪みの根本原理かもしれない。

 差なのだ。

 相互作用における「情報変換」の。

 ここでの要点は、面は無限に面でありつづけることは基本的にはできない、ということだ。必ず面の周囲を取り囲む時空との兼ね合いで、面には圧が加わる。上下からの圧は面としての形状を維持するように作用するけれど、左右前後たる面の輪郭からの圧力は、面の総じてに均一には加わらない。

 遅延が生じる。

 皺の出来る原理と言えよう。

 言い換えるのならば、「面に皺が寄るためには二つの遅延が必要」なのだ。

 1:面を取り囲む時空との相互作用において、「面の上下と前後左右とで生じる差」による遅延。

 2:前後左右から面に加わる圧力が面全体に均一には加わらないことによる遅延。

 この二つだ。

 どちらも情報変換の停滞――遅延の層――が皺を生みだすための因子となっていると妄想できる。

 どんな物体であれ、無限に面を拡張しつづけることはできない。

 ひょっとしたら物理法則の一つとして考慮できる事項かもしれない。

(同じことを、線にも、立体にも当てはめて考えることができるのではないか)

(立体の場合はどうなるだろう。延々三次元方向に拡張しつづけることができないとしたら、どうなるか。頭と尾が繋がって、入れ子状の構造になる気もする。高次領域にそうしてシフトするのだろうか。ではその先は?)

(入れ子状に展開される立体は、それで一つの点となる気もする。そしたら、また点から線、そして面になるか。それぞれの構造体を維持するための素材が、どれほどの情報量で組み上がっているのか。その差異があるのみになりそうだ)

(何回、一巡するのか)

(変わるのは情報量と考えると、そこそこ愉快な妄想になる)

(繰り上がるための上限が拡張される、というか。増えるというか。情報の許容量――受け皿――が増える、というか)

(何をどれだけすると差が顕著になるのか。ここのゆとり――あそび――余白――が広がるのかもしれない。一巡するごとに。或いは、次元が繰り上がるごとに)

(面が広ければそれだけたくさんの皺を浮かべられる。面の情報許容量の高さは、立体の複雑さに寄与していそうだ。定かではない)



294:【2024/02/02(02:43)*嗅覚と分解能と微分積分】

 嗅覚は割と謎だ。

 嗅覚が鋭い、といったとき、それは匂い粒子の知覚が鋭敏である、ということのはずだ。そして匂いの元が細かな粒子である以上、粒子がそもそも存在しない場所では、嗅覚がいくら鋭くとも匂いを知覚しようがない。

 サメや犬は嗅覚が鋭いそうだ。

 場所に残留する匂い粒子を事細かに嗅ぎ分けることができるのだろう。ここまでは腑に落ちる。

 けれど、比較的目にする説明で、遠方の魚の血の匂いを嗅ぎつける、といった形容を目にすることがある。

 あたかも数キロ先で血を流した獲物を「即座」に探知可能であるかのようなニュアンスを醸している説明文も過去に目にしたことがあったように記憶しているけれど、これは記憶違いかもしれない。

 けれど原理的に、匂い粒子は徐々に拡散するはずだ。即座に遠方まで匂い粒子が伝わることがない。水中であっても同様だ。

 ならば魚が血を流したところで、血の粒子がえんやこらと潮の流れに乗って遠方まで運ばれない限り、どれほど嗅覚の鋭い生き物であれ血の匂いを嗅ぎつけることはできないはずだ。

 水中でどれほど早く匂い粒子が拡散されるかは知らないけれど、数分以内に数キロ先まで届くことはまずないだろう。すくなくとも数時間は掛かるはずだ。

 嗅覚が鋭いとまるで遠方の様子まで事細かく把握できる、と誤解しそうな説明文を目にすることもあったような記憶があるけれど、これも記憶違いかもしれない。

 しかし匂い粒子が届くまでに時間が掛かる以上、遠方の様子を「いまこの場所に漂っている匂い粒子」から把握することはできないだろう。可能であってもそれは、遠路はるばる運ばれてきた匂い粒子をもとにした過去の様子であって、リアルタイムで遠方の様子を把握することはできないはずだ。さながら遠い星の光のような具合だ。時間差がどうあっても空く。

 そして匂い粒子はけして光速より早く伝播することはない。

 空気抵抗や水の抵抗を受けて、ゆったりと空間を移動する。

 ゆえに、いかに嗅覚が鋭かろうと、周囲の環境を把握するための知覚センサとしては視覚と比較してやや難があるように思うのだ。ただし、死角はすくなくなるだろう。真空でない限り、空気や水の流れのある場所であればまず匂い粒子の濃淡を介して外部情報を得られる。

 匂い粒子の濃淡の変化を、匂い粒子の種類ごとに嗅ぎ分けられるのなら、線形に変化を把握することで、より遠くの情景も可視化させることは可能だろう。大気の流れや気温の変遷を含めて統計処理し、過去の解析結果と合わせて、いまここがこうなのだから遠方ではこうだろう、と類推可能だ。

 匂い粒子の濃淡の変化と合わせて、まるで千里眼のように嗅覚を利用できるはずだ。

 とはいえやはり、匂い粒子が届かない限りは、遠方の様子を知ることはできない。遠方で血を流した魚がいたところで、サメの元まで血の粒子が一個でも届かない限りは、サメは血を流した魚の存在に気づくことはない、と想像できる。

 それともじつは粒子は、ただそこにあるだけで電磁波を発しており、粒子の濃淡すら遠方に光速で伝えることができるのだろうか。

 嗅覚もじつのところ電磁波を介した能力である可能性もある。

 五感の総じてが、何かしらの波動を感知する器官だと仮説して、改めて調査してみると意外な発見を得られるかもしれない。

 そういうことを、そういえば嗅覚って不思議だよね、と思いだしたので妄想しました。

 おはようございます。



295:【2024/02/02(11:21)*増殖する皺は波となり網となり】

 線を拡張したら必ず皺ができる、と仮に想定するのなら。

 線はただ拡張するだけでも波になる、と言い換え可能かもしれない。

 すると波の振幅における山と谷もそれらを一つの直線と見做し、振幅が大きくなればそこにも新たな皺ができると想像できる。

 皺は波となって、波にベクトルの異なる細かな波がさらに生じていくことが想像できる。あたかも格子状に波が入り組むようになる。そういった描像が妄想できる。

 波「~」における「∪」と「∩」において「|」と「 _ 」にも各々細かな波「~」ができる。それは元となる波の拡張にしたがい、連動して拡張されていき、格子状かつ碁盤の目のような波同士の交差を顕現させる。

 すると直線から生じた一次元的な波であっても、面(網)としての側面を覗かせるようになる。

 面もまた拡張していけば皺が寄り、波のように振る舞う。

 するとそこでも面の波が、波の振幅にも細かく生じるようになり、立体へと変質していく。

 線を拡張したら必ず皺が寄って波になる、と想定するだけで、線は立体にまで昇華されそうにも思うが、いかがだろう。

 フラクタルな構造がそうして表出する。

 ということを、寝起きに思いました。

 いっぱい寝てさっぱりー。

 疑問もさっぱり解けないであるな。

 やっぴー。



296:【2024/02/02(18:07)*非力がゆえに】

 戦争の勝利条件が変質し、過去に有効だった戦術の数々が無効化された現代にあって、もはや戦争の渦中にある国でなくとも、戦争による環境変容の影響は不可避となった。

 戦争を起こされることそのものが、戦火から遠い地域であっても安全保障の土台から崩される事態に直結する。

 それが現在、水面下で着実に進行しつつある「静かなる世界大戦」の実態だ。

 経済制裁の応酬とも相関し、もはや「戦争を速やかに鎮静化させること」以外では、解決策がない状況に突入している、と言えよう。

 負けそうな勢力ほど戦争を継続しようとする。たとえ被害が出るとしても、継続している限り勝機は遠のかない。むしろ、戦争を持続することこそが生命線となる。

 戦禍から遠い国であっても、戦争の悪影響を受ける。それは戦争で被害が出るよりも或いは根深い悪影響を受けることもある。なぜなら被害の因果関係を明確にできず、責任を追及できないどころか、被害の責任をどこにも求めることができなくなるからだ。

 人工的な環境変容が、現在の戦争では基本戦術として組み込まれつつある。

 他人事ではないのだ。

 誰一人として。

 戦争の継続は、たとえ死者数を抑えることができたとしても、荒廃優位の流れを強化する。直火でじっくりコトコト煮込み、炙り、熱を通して内側から焼き尽くすように、国家間の争いは市民の生活と未来を損なうのだ。

 戦争による悪影響を最小化するためには、戦争を停止するか、戦争の規模を最初から厳格に規定し、戦争の悪影響が市民に波及しないように国際的な協定を結ぶこと以外にないと言えよう。

 戦争に勝っても、生存戦略で負けることはある。

 戦争に勝って、国として弱体化することは相応にある。

 勝利の条件が変わっている。

 戦争に勝っても、戦争に負けたほうが得られるものが多いこともある。

 生き残るための条件に、もはや戦争での勝利は必要条件ではない。

 人殺し合戦で勝利した者にあなたはついていきたいと思うだろうか。

 すくなくとも、わたしは抵抗がある。

 必要な防衛だったとしても、殺し合い合戦を長引かせる者のあとを歩きたいとは思わない。

 時代は変わった。

 勝利とは何か。

 勝つことの利とは何か。

 なぜ勝利しなければならないのか。

 なぜ負けてはならないのか。

 根本的なところからの再考が、現代では欠かせなくなっているのかもしれない。

 他を生かすことのできない勝利にいったいどんな価値を見出せるだろう。

 他の生活を、未来を、命を損ないつづける戦いに、どんな誇りを見繕えるだろう。

 時代は変わった。

 否、変わらずに変わりつづけている。環境がそうであるように。

 栄枯盛衰。

 どんな環境にあなたは適応したいと望むだろう。

 たとえ環境の変容が先に到来したのだとしても、どのように適応するのかは選べるはずだ。

 選択の積み重ねが、新たな環境の変容をもたらすだろう。

 あなたの日々の選択が。

 あなたを含む人々の未来に、生活に、僅かな、けれど確かな変数を与える。

 新たな変数を。

 あなたの生が与えているのだ。

 与えられているのはわたしである。

 良くも悪くも、ありがたいことである。

 何もできないことも含めて。

 ありがたいことである。

 定かではない。



297:【2024/02/03(10:29)*青いバラ】

 青いバラは、可視光のうちで青の波長の電磁波を多く反射している。だから人間の目には青く映る。

 青い電磁波にとって青いバラは、自らを排他する存在なのだ。

 孤独な青があるからこそ、青いバラは青たり得る。

 むろんこれは青に限らないことであるが、なんとなく物質の色とは、弾かれて馴染めなかった孤独な色たちなのか、と思うと、色が視えることにもなにかしらの愛着を覚えそうになる。

 排他され、孤独な者になぜ愛着を覚えるのか、と言えば、なぜだろう。

 まったく分からない。

 排他された過去もなければ、孤独でもない我が身には、共感する動機もなければ背景もない。けれどなぜか愛らしい。

 周囲に馴染めず孤独な者は、ただそれだけで愛らしい。

 なぜなのか。

 群れから逸れた小牛にしろ、ヤギにしろ、ハトにしろ、蟻にしろ。

 何かしら慈しむ情が湧く。

 なぜなのか。

 付け入る隙があるからだろうか。

 群れの庇護を受けられぬ存在ゆえに、支配可能だと直感するからだろうか。

 邪まな欲動である。

 だとしても。

 他から弾かれ、馴染めぬ者は、それでもなお色となって浮かぶだろう。

 他から弾かれ、馴染めぬ者は、差異を以って彩を放つ。

 青いバラが青いのは、孤独な青があるからだ。

 孤独な色と出会うことで、目は、色と彩を宿すのだ。

 世に漂う、他と馴染めぬ差異たちと出会うことで、目は、景色を知り、世界の美しさを深める。

 知は、世界の美を深める。

 知ることで増えるが美なれば、四季のごとく差異こそが美の根源たり得る。

 境界は、馴染まぬことで境たり得る。

 目それそのものもまたそうであるように。

 弾かれ、馴染めぬ者を受け入れてこそ、知り得る景色があるのだろう。

 触れ、宿す、美もあるだろう。

 美は、美を見つけ、出会うごとに深まる差異だ。

 知るごとに深まる差異を、人は美と呼ぶものなのかも分からない。

 定かではないがゆえに、浮き彫りとなる境もある。

 差異は境を生む。

 美も境を生む。

 ゆえに生まれる新たな差異が、弾かれ馴染めぬ者たちをまた生みだし、そうして境が諍いを生むのかも分からない。

 美は、ただ美でありつづけることはできない。

 深まる美があるほどに、深まる差異もあるだろう。

 そうして四季のごとく、差異は、醜をも宿し得る。

 醜を辿れば「美」に行き着き、美を辿れば「醜」に行き着く。

 あるのはただの差異ばかり。

 境が諍いを生み、差異を生む。諍いは醜く歪み、弾かれ馴染まぬ者たちを生み、そうして美を生む連鎖を繋いでいく。

 美は求めるものではない。

 出会いを美にする営みがあるばかりなのかも分からない。

 受け入れ、知り、美と思う。

 ただその営みが、美しい。

 弾かれ、異質な差異そのものを、受け入れ、知り、美と思う。

 美と見做されなかった醜にもまた、差異を見出し、美と思う。

 美は求めるものではなく。

 美は、美でありつづけることもできはしない。

 美でないからこそ、美と思える余地が湧き、そうして美を深める営みがつづいていく。

 の、かもしれない。

 のかのか日和である。

 よいお天気ですね。おはよー。



298:【2024/02/03(11:56)*むしろ境って馴染んでませんか】

 境は馴染まぬがゆえに境たり得る、みたいなへっぽこぷーな理屈を唱える人もいるところにはいるらしいけれど、むしろ馴染んでいるから境たり得るケースもあるよな、と思うのだ。

 だって白と黒の境は、白と黒が馴染んでいないのではなくむしろ馴染んで灰色になっていたりするんじゃないの。馴染んでいない大勢があるなかで馴染んでいる部分が局所的に少数だからこそ、境界は境界として浮き彫りになるケースもあるのではないの。むしろ大部分の境って、そこだけ馴染んでいるから境になってない?と思うのだけれど。

 赤と青があったら、大部分の赤と青が馴染んでいないからそれぞれを認識できて、部分的に赤と青が混ざっちゃってるから境界が浮き彫りになるのではないのかな。

 そうじゃないのかな。

 そういうことを思う、アゲアシ鳥なのであった。

 アゲアシー。

 アゲアシー。

(それは何?)

(アゲアシ鳥の鳴き声です)

(アゲアシーって鳴くからアゲアシ鳥なの?)

(そうみたい)

(でもスズメは別にスズメスズメーとは鳴かないよ)

(カラスカラスー)

(カラスはカァカァでしょ)

(はくちょーはくちょー)

(薄情薄情、みたいに鳴かないでくれ)

(あほー、あほー)

(収拾つかなくなっちゃったな。逃げちゃおうかしら)

(タカー、トビー)

(鷹も鳶もそんなふうには鳴かない)



299:【2024/02/03(12:46)*過去と未来が結びつく、のか?】

 何度考えてみても、量子もつれがラグなし相互作用であるとすると、過去と未来は瞬時に相関し得ることになる。

 たとえば太陽から地球まではどんなに急いでも八分の遅延が生じる。光速度不変の原理が妥当ならそういう道理になる。

 地球から一億光年先にある天体までは、どんなに急いでも一億年掛かる道理だ(ただし、光速で運動する物体内部の時間の流れは遅れる、と解釈するのが相対性理論だ)。

 そして影響もまた光速度で縛られる。

 何かが起きたことの影響は光速以上では伝播しない。

 にも拘わらず量子もつれではラグなし相互作用としか思えない反応が起き得る、と考えられている。

 つまり、もつれ状態の二つの量子「AとB」があるとする。片方を地球に、もう片方を一億光年先の天体「Q」に設置する。

 このとき、地球と一億光年離れた天体「Q」は、一億年の時間の差が生じていることになる。相互作用には一億年の遅延が生じる。一億光年先の天体「Q」を地球から観測しても、そのときに映る情景や受動する宇宙線や重力波は、一億年前の天体「Q」のものになる。

 リアルタイムに相関はしない。必ず一億年以上の差が生じる。

 つまり、地球からすると天体「Q」との相互作用は常に、天体「Q」にとっての過去との相関ということになる。

 にも拘らず、量子もつれでは一瞬で遠方の粒子と相互作用可能となる。

 したがって、量子もつれ状態の量子「AとB」を地球と天体「Q」にそれぞれ配置した場合は、地球で量子Aに変質を与えると、天体「Q」にある量子Bへと瞬時に変質の影響を伝えることが可能となる。あべこべに粒子Bに変質を与えれば、粒子Aに変質をラグなしで瞬時に与えることができる。

 つまり、一億光年離れた天体「Q」とラグなしで相互作用する場合、それは一億光年離れた地球からすると、未来と相互作用したと解釈できてしまう。

 天体「Q」にある「量子B」がラグなしで地球上の「量子A」と相互作用した結果は、一億年後に地球まで伝播してくる(あくまで影響が波及する場合は、であるが)。

 つまり、地球上での作用が、未来の結果を変えている。

 通常の考えでは基本的に人類は因果を前提とする。何かが起こり、何かが変わり、結果が訪れる。けれど量子もつれを扱う場合には、現在と未来が同時に変質する。何かが変わり、未来も変わる。その影響は時間差ですこし先の未来にて観測者に到達する。

「A→B→C」が通常の因果だ。

 けれど量子もつれを前提とすると、

「A→C→B」の順番で因果が結ばれる。いわばある種の決定論――運命論――のような頭と尾が繋がる現象が生じ得る。

 これは逆にも言える。

「C→A→B」もあり得るのだ。

 未来から過去にラグなし相互作用を生じさせる。すると中間の観測者は、その影響を時間差で受ける。

 この場合は、天体「Q」にある「量子B」から地球にある「量子A」へと作用を及ぼす。

 地球を基準にした場合は、天体「Q」の現在は、地球にとっての一億年後であり、未来だ。そして地球を基準にしたままの天体「Q」の視点では、地球の現在は天体「Q」にとっての一億年前だ。なぜなら地球が受動する天体「Q」の影響は一億年前のものだからだ。

 基準と視点をこのまま固定して考えるに限り、天体「Q」にある「量子B」へ及ぼした変質は、一億年前の天体「Q」からの影響を受動する地球にある――「量子A」――へとラグなしで瞬時に変質を与える。

 地球基準とした天体「Q」の視点では、自身が発した一億年前の影響とリアルタイムに相関する作用を、一億光年離れた地球にある「量子A」へと及ぼしている。

 まさに、現在から過去へと作用を及ぼしているようなものなのだ。

 あくまで、地球基準の天体「Q」の視点では、であるけれど。

 現在と未来は互いに共通の変数で結びつき得る。

 現在と過去は互いに共通の変数で結びつき得る。

 未来と過去は互いに共通の変数で結びつき得る。

 現在は、過去と未来が互いに結びつけた変数の影響で結果を縛られ得る。

 量子もつれが仮にラグなし相互作用を現実に起こしており、距離に依存されず、相対性理論もまた妥当だとするのなら、上記のような結論が想定される。

 過去が変わり、現在が変わり、未来が変わる、ではなく。

 過去が変わり、未来が変わり、ゆえに現在が変わる。

 或いは、

 未来が変わり、過去が変わり、ゆえに現在が変わる。

 このような頭と尾が変わるから中間の胴体までもが変質する、といった因果律の飛躍が起こり得る、と量子もつれを前提とすると導かれる。

 じつにふしぎな話である。

 ということを、久々に量子もつれについて妄想して思いました。

 あり得るのか、そんなことが!?

 呑み込むには大きすぎる岩のような話である。妄想で片付けたいほどだ。

 もう、そう!



300:【2024/02/03(19:57)*ちょっと無理があったかもしれない】

 あれ?ってなった。

 上記の妄想は、別に量子もつれに限らなくないですか?

 情報通信技術一般に当てはまる道理なのでは?

 たとえるならば、伝言ゲームだ。

 Aグループは耳打ちだけ。

 Bグループは手紙だけ。

 Cグループは声だけ。

 Dグループは電話だけ。

 Eグループはインターネットだけ。

 Fグループは全部使える。

 このとき、それぞれのグループでは情報伝達速度に違いが生じると想像できる。耳打ちだけならば世界中の人々に「堅あげポテトはブラックペッパー味が至高!」と伝えようとしても伝え終えるのにかかる時間は、数年では効かないだろう。

 けれど手紙を使えるならもうすこし早くて済むだろうし、電話やインターネットを使えるならもっと短期間で情報を広域に伝達できる。

 すべての情報通信手段を用いることができるのなら、全世界の人々が協力してくれるとの条件がある場合に限り、下手をすれば数分で全世界の人々に情報を伝え終えることも可能だろう。

 そしてこれは、時間の流れの差であると考えられるだろうし、過去と未来を繋げているとも解釈できるのではないか。

 或いは、未来を変えている、と。

 もうすこし具体的には。

 ここに「A」「B」「C」の三人がいるとしよう。

 各々、南極、赤道ジャングル、北極にいるとしよう。

 Aが南極で、Bが赤道ジャングル、Cが北極だ。

 このとき、耳打ちで「堅あげポテトはブラックペッパー味が至高!」と情報伝達するには、各々が場所を移動して互いに耳打ち可能な距離にまで近づかなければならない。時間が掛かる。労力が掛かる。

 けれどもし手紙を伝書鳩を介して配達できるのなら、もうすこし楽ができるし、時間も短縮できる。

 伝達経路として「A→B→C」ならば、「C」が情報を取得するには、まずは「A」から「B」にまで情報が伝わなければならない。

「C」の元まで「堅あげポテトはブラックペッパー味が至高!」との情報が伝わらない限り、「C」はブラックペッパー味のポテトを食べることはないと仮にしよう。

 けれど電話やインターネットを使って、「A」が直接に「C」へと情報伝達すれば、「C」はすぐにでもブラックペッパー味のポテトを食べられるようになる。

 このとき、「A」から「B」には手紙で情報が伝達されるとすれば、「B」から情報を得る前に「C」はブラックペッパー味のポテトが至高であることを知れる。

 もし電話もインターネットも使えなければ、「B」から情報を得た「C」は、「そうなんだ、ありがとう食べてみるよ!」と応じるだろう。けれど電話やインターネットを介して「A」から「C」に情報伝達がなされた場合は、「B」から情報を得ても「C」は、「へっへっへ。もう知っとるわ。とっくに食べてしまったもんね」と応じるようになるかもしれない。

 未来が変わっている。

 情報伝達の速度によって。

 情報伝達の順番によって。

 当たり前といえば当たり前の話だけれど、情報伝達の順番を変えるだけでも結果は大きく変わる。未来が変わる。

 情報伝達の速度を変えることで、情報伝達の順番も変えることができる。

 情報を伝える、ということは未来を変える、ということだ。

 情報伝達の速度を高める、ということは未来までの時間を加速させている、ということだ。変化までの時間を短縮している、ということだ。

 そして情報を止めている、伝達しない、ということは、未来を先延ばしにしている、ということだ。変化を遅れさせ、未来を堰き止めている、ということだ。

 情報統制は、本来であれば情報に触れることのできる者たちの可能性を縛っている、ということなのかもしれない。

 未来を奪っている。

 選択肢を奪っている。

 ただ、情報を伝達しない、というだけのことが。

 説明しない、というだけのことが。

 人々から選択肢を、可能性を、未来を、奪っている。

 情報をいかに短時間で伝えることができるか。波及させることができるか。

 ただそれだけのことが、未来を変えることに匹敵する。

 ただし、変えた結果に訪れる未来が、必ずしも当人にとって好ましいものとは限らない。どんな情報を伝えるとよりよい未来に繋がるのか、といった情報もまた、伝達できると好ましい。

 そのためには数々の失敗した来歴を通して知恵を抽出するのがよさそうだ。教訓を通じて学習の工夫を模索するのも望ましい。

 なんにせよ、量子もつれに限らず、情報伝達の速度の変化によって、過去と未来は結びついて、その中間の現在をも変え得るのだろう。

 AからCへと伝達した結果、中間のBの未来までもが変質し得るように。

 BにとってAもまた、未だ知り得ぬ情報を得ている未来と見做すことができるように。

 過去もまた、ある意味では未来と見做して差し障りないのかもしれない。

 過去と未来は入り乱れている。

 情報の多寡において、低いほうを過去、高いほうを未来とするのならば、遺跡とて無知な者には未来たり得る。

 あべこべに、情報を蓄えた物体を過去と見做すのならば、物体に蓄積されていない情報こそが未来と言えよう。未だ来たことのない情報だ。足跡が残っていない。ゆえに未来だ。

 けれど未知の情報の多寡で言うなれば、遺跡に蓄えられた未知の情報もまた未来と捉えることに難はない。

 要は、過去と未来もまた関係性である、と言えるのではないか。

 関係する相手からどのような情報を得るのか。既知の情報ばかりならば、未来よりも過去を感じるだろう。古い、と感じるはずだ。

 けれど未だ知り得ない情報ばかりを得るのならば、未知と感じ、未来を感じるだろう。それとも理解不能の判を捺して遠ざけるだろうか。

 一億光年かけ離れた天体同士を想像しよう。

 いったいどちらが過去でどちらが未来か。

 もはや区別はつかないはずだ。

 観測者がどちらにいるのか。どちらを基準とするのか。それによって、相手側から届く光は、互いに過去の情景として受動される。

 関係性なのだ。

 過去と未来ですら。

 視点によって入れ替わり得る。

 ただし、それら二つの対象を内包するより高次の視点では、どちらがより古く、どちらがより新しいのか。どちらが過去で、どちらが未来か。

 は、決まり得る。

 二つの対象を内包するより高次の視点からして、より情報量を多く蓄えているほうが未来なのだ。赤ちゃんよりも大人のほうがより多く時間を得ている。変質を得ている。情報を蓄えている。

 では、子どものミイラと生きた大人とではどちらが過去でどちらが未来か。

 観測者との関係性のうえで、より多くの情報を生むほうが新しいがゆえに、未来と位置付けられる。したがって、どちらも未来たり得るし、どちらも過去となり得る。

 あくまで観測者との関係性ででしか、過去と未来は決まらない。

 観測者が白亜紀にいれば、江戸時代は未来だ。

 けれど観測者が平成にいれば、江戸時代は過去だ。

 では地球上から生き物がいなくなるほどに時間経過した時代に降り立った観測者にとって、令和の社会は、過去か未来か。

 おそらく観測者は、未来だと感じるのではないか。

 そしてこれはおそらく、感覚的な問題ではなく、実際に情報量の多寡から言って、単純な時間軸での比較において過去である令和のほうが、地球上から生き物のいなくなるほどに時間経過した時代よりも未来なのだ。

 過去と未来にも二種類あるのかもしれない。

 子どもは大人にとっては常に過去だ。

 けれど子どもは予測不能で、新たな刺激を日々受ける。関係した際の情報の多寡において、大人よりも多いがゆえに未来と解釈することは可能だ。

 子どもは大人にとっては過去だが、同時に未来でもある。

 老人は大人にとって未来だ。いずれ己も辿るだろう予想される未来図だ。

 けれど関係する際に、どこかで見たことのあるような情報しか得られないのならば、そこからは未来よりも過去を多く感じるだろう。

 老人は大人にとって未来だが、同時に過去でもある。

 似たようなことが大人同士でも生じるし、子ども同士でも生じる。

 過去や未来はもっと不定で、けして一律でも絶対的な基準となり得る指針でもない。

 時間について人類は長らく誤解しつづけているのかも分からない。

 時間は存在しない。

 或いは、無数に存在する。

 全体がゆったりと相関するがゆえに、まるで一つの時間の流れがあるように錯覚するだけなのではないだろうか。

 過去と未来はあってないようなものだ。

 どちらも、現在を夢見るわたしとの関わりで生じる、情報量の多寡の揺らぎだ。

 定かではない。




※一様に、基準をどこに設けるか。



301:【2024/02/03(21:12)*凡才788】

 過去と未来の概念について。

 大前提として、過去は常に、現在よりもそれ以前があるとの想定の上に成り立つ概念だ。

 対して、未来は常に、現在よりもさらに変化の経た世界があるとの想定の上に成り立つ概念だ。

 始まりがあって終わりがある。

 過去と未来を考える大前提として、この考え方が念頭にあると思われる。

 始まりがあって終わりがある。その中で繰り返し訪れるパターンがあり、繰り返されるパターンがさらに繰り返されることで徐々に終わりに近づいていく。

 そして終わると、つぎの始まりからまた新たなパターンを形成しながらつぎの終わりまで変化の連鎖がつづいていく。

 印象としてはこんな感じだ。

 たとえば四季だ。

 四季は毎年順繰りと巡って、またつぎの年に同じように四季が巡る。けれど毎年必ず同じではない。どこかしら変化があり、自然災害の起きる年もあればそうでない年もあり、灼熱の夏が来たかと思えば、雪の降らぬ冬が訪れたりもする。

 そして順繰りと繰り返す四季は、やがて地球環境が変化すれば四季ではなくなる。地球が崩壊すれば季節そのものがなくなるだろう。

 渦のようなものだ。

 始まりがあり、似たようなパターンで円を描きながら、しかし徐々に終わりの一点へと向かって収斂していく。

 そして終わりが来ると、そこからまた新たな渦が生じて、つぎの終わりの一点へとつづいていく。

 この繰り返しそのものも、もっと大きな渦の円にすぎないのかもしれない。

 パターンはパターンを内包する。

 パターンが崩れたと思っても、パターンを崩す何かしらのパターンがそこには含まれる。

 ということを思うと、宇宙がそうして無数の渦によって生じたパターンの連鎖反応だとすると、最終的な根源――唯一無二の始点――宇宙開闢時のスタート地点――において、それが真実に始点だとするのなら、おそらく何かしらの唯一無二の終点と表裏一体だったと想像するほうが、そうでない想定よりも妥当に思うのだ。

 渦の始点と終点は、異なる渦の終点と始点に繋がっている。

 始まりは終わりへとつづき、終わりは始まりへと繋がっている。

 仮にこうした構造が万物の基本構造だとするのなら、いったい過去とはどこか、という話になってくる。終わりも何かしらにとっての始まりである以上、視点によっては「過去でも

あり未来でもある」が成り立ってしまう。

 始まりが過去であるならば、終わりは未来だ――未だ来ぬ終わりであるならば。

 たとえば、この宇宙に「始まりと終わり」があるとして。

 始まりから終わりまでのあいだに、銀河が何度も誕生しては崩壊し、誕生しては崩壊するのだとしたら。

 それら銀河の誕生から崩壊までを動画に収めて、一つの画面に並べてみよう。

 いったいどの銀河が最も過去に位置するのかを見定める真似ができるだろうか。

 ある銀河の始まりと終わりの中間地点を表示したとして。

 その中間地点の銀河は、ほかの時間軸上に存在する銀河たちの中間地点とどう違っているのだろう。仮に差異がほとんどないのであれば、宇宙の始まりから終わりまでのあいだのいつ存在した銀河なのか、によらず、銀河においての過去と未来は、その銀河各々にとっての「始まりから終わりまでのあいだのどこに位置するか」で決まるのではないか。

 まさに、子どもにとっての過去は、じぶんが生まれてから現在までのあいだの出来事であり、それ以前のことを過去と見做す考えが抜け落ちていることと似ている。

 実際に、じぶんが誕生した以前を、じぶんにとっての過去と見做す道理は、本来はないのかもしれない。

 混在しているのではないか。

 過去も未来も。

 これまで考えられてきた以上に、世界は複雑なのかもしれない。

 或いは、もっと単純で、世界は個々に生じており、個々ごとに区切られている、とも考えられるのではないか。

 世界は世界を内包しているのだ。

 まとめると。

 1:過去と未来は重複し得るのではないか。

 2:視点によって、過去であり未来でもある、は両立し得る。

 3:始まりと終わりは表裏一体であるがゆえに、始まりだけ、終わりだけ、の事象を想定できるのか否か。できないのだとしたらやはり、過去はほかの視点にとっての未来であり、未来はほかの視点にとっての過去たり得る、とも解釈可能だ。

 4:過去と未来は、従来考えられているよりも、もっとずっと混然一体なのかもしれない。

 以上である。

 妄想が飛躍して、もこもこしてしまった。

 この妄想からすると、あなたは誰かにとっての未来であり、過去でもある。

 あなたがいたからわたしがおり、あなたがいるから未来が拓ける。

 そういう存在でもあるのだ。

 あなたは。

 ということを思いました。

 終わりよければすべて良し。

 新たな始まりが、はじまりはじまりー。

 これでいいのか?

 なははー。



302:【2024/02/04(10:11)*無罪? 興味ないね】

 他者を裁くことが基本的に人類にはできない。平等や公平や人権を吟味すれば当然、他者を裁く権利など個々にはないことが導かれる。

 だがそれ以前に、他を裁けるほど高潔な者など存在しないことは、未だに命を奪い、死体を貪り食らっている人類を見渡してみれば一目瞭然だ。

 人は他の命を奪い、生きている。

 そこを度外視してなぜ他者を裁けるだろう。

 いったいいくつの罪から目を逸らし、他を裁く権利を有していると思い上がっているのやら。

 命を一度も奪ったことのない者だけが他の罪を裁きなさい。

 完全なる無辜なる存在がいるのならば、きっとそう言いたくなるだろう。

 他を裁くことそのものが罪である、とすら言いたくなりそうだ。

 他を裁いてばかりで、一度もじぶんが裁かれたことのない者ほど、その存在は罪で塗れているだろう。誰に裁かれず、看過されつづけた罪で塗れている。

 とはいえ。

 罪で塗れているからといってどうってことはない。

 なにせ、生きている限り命は罪を犯しつづけている。

 生きることそのものが罪なのかもしれない。

 この世に罪なるものがある、と前提する以上、生きようとすることが罪である、との帰結へと繋がっていく。

 それでもなお、生きようとし、他を生かそうとする。

 その営みが罪であっても、よしんばそれがたとえこの世のどんな罪より重くとも、わたしはそれがどのように糾弾され、蛇蝎視されようと、罪を被ることに抵抗はない。

 罪が何だ。

 裁きたければ裁けばいい。

 人を生かそうとすることが罪ならば、わたしは罪に塗れてなおその罪を食らいつづけてやろうと思う。

 罪が何だ。

 裁きたければ裁けばいい。

 罪を被ることを恐れて、目のまえの命を無下にするくらいならば、損なうくらいならば、罪を被ってでも命を尊ぶほうが、人らしい。

 人は罪を犯して生きている。

 他の命を奪い、貪り、生きている。

 食べ物を粗末にしないことは、重ねた罪への感謝の一つだ。

 法を犯してでも、無闇に命を奪わないのは、法より命のほうが大事だからだ。破った法で罪がたとえ嵩むのだとしても、命を粗末にするよりずっとよい。

 罪が何だ。

 裁きたければ裁けばいい。

 法を守るために命を粗末にするというのなら、そんな無罪はいっさいいらぬ。

 裁きたければ裁けばいい。

 いかなる罪だろうと、我は拒まぬ。

 いかなる罰だろうと、科すがいい。

 それで生かせる命があるならば、罰の一つや二つ、安いものだ。



303:【2024/02/04(15:18)*結んで、開いて、直る】

 開き直りは政治家として最も取ってはならない態度の一つだって、どっかのぽんぽこぴーが言ってたらしいよ……。

(いや、わし政治家ちゃうし)



304:【2024/02/04(15:44)*大雨と干ばつ】

 大雨の発生率と干ばつの発生率は相関しているはずだ。もし、世界中で大雨の発生率が高まり、連動して干ばつの発生率が高まっているのなら、これは波のように双方が互いに高め合うように連動し得る、と警戒しておいて損はないだろう。

 山と谷が最大化する値があるはずだ。

 いまの状況がその最大化する値とどれほど差があるのかをどんぶり勘定でよいので把握しておけば、被害の規模を前以って予測することができる。

 おそらくこの先、百年以内で資源としての水の重要性は毎年のごとく高まっていくだろう。大雨が降るにせよ、干ばつがつづくにせよ、利用可能な水の確保は生命維持という面でも、経済の維持という側面でも欠かせない事項のはずだ。

 大規模な浄水装置や貯水タンクの設備投資はしておいて損はないはずだ。

 湿度の高まりも予想される。大気中の水蒸気が増えれば、液体化する水の総量が減る。水不足が深刻化する方向にやはり環境はしばらくのあいだは変容する方向に流動するのではないか。

 水の確保は急務と考える。

 ただし、そうして常用的に水を確保しようとすることで、全世界的な水の争奪戦が起こることは想像に難くない。

 資源の奪い合いを加速させないように、水を共有資源として見直し、石油や鉱物資源と同様に、世界中で分配するような議論が不可欠となっていくだろう、とここに妄想するものである。

 みずー。



305:【2024/02/04(17:46)*かのう、せい!】

 過去と未来について。

 たとえば漫画を考えよう。

 連載漫画ならば、雑誌やWEB上に新作が載らない限り、読者はその漫画を読むことはない。けれど連載媒体に漫画が載る前から、その漫画自体は存在する。

 つまり、作者は常に、読者に対して未来に位置する。絶えず新作を誰より早く作者は目にしている。未来を内包しているのだ。

 むろん担当編集者も大勢の読者と比べれば、いち早く新作漫画を目にできる。連載媒体に漫画が載るまでは、担当編集者は未来の側にいるのだ。

 情報を優位に取得している、というのは、未来を帯びている、ということなのかもしれない。けれどそれはある一面での優位性であり、読者の側とて、作者や編集者の有しない情報を得ている。

 感想なんてその代表例だ。

 漫画との関係でなくとも、読者が医者ならば、医療の知識を優位に取得している。

 すると未来の側だった漫画家や編集者とて、過去の側になり得る。

 うーん。

 この考え方はやや混乱してしまうかもしれない。

 情報を優位に有しているほうを過去としてもよいのだ。何も知らない側を未来としてもよい。

 過去の情報を得ることで、未来もまた過去に変わる。

 こうしたほうがイメージとしては想像しやすい。

 情報を得ると過去になる。

 情報を得ないままだと、未来をより多く内包することとなる。未だ来ぬナニカをより多く有しているがゆえに、未来だ。

 情報量の多寡で「過去と未来」を解釈する場合は、このように考えたほうが合理的かもしれない。

 情報の多いほうが過去なのだ。

 そして情報が波及していくことで、より過去の範囲が広がっていく。

 そして新たな未来が拓けていく。

 塗り替わっていく。

 そういうことなのかもしれない。

 するとやはり、過去と未来は関係性である、と解釈するのが妥当なのではないか。

 ある情報については過去であるが、ある情報については未来である、は成り立ち得る。というか、往々にしてそうなのではないか。

 とすると、高次の「どんな関係性が優位に変化を促しているか、との情報」を帯びているかどうかが、より広域に共通し得る「過去と未来の基準」となるのかもしれない。

 情報を得てもほとんど影響が軽微である場合もある。

 あべこべに、情報を得ただけで大きな影響を広域にもたらすこともある。

 カオス理論の初期値鋭敏性や創発でもそうだ。

 どのような情報を得ると、その影響が広域に波及して変化をより顕著に促すのか。誘発するのか。喚起するのか。

 ここは、「どんな関係性が優位に変化を促しているのか、との情報」によって規定されていそうだ。

 流れ、と形容する場合には、この手の高次の情報の存在が自動的に想定される。どんな情報が場に多く流れており、変換を考慮せずによりすくない相互作用で影響を最大化できるか。変化を促せるか。

 過去と未来の違いにも当てはまる考え方かもしれない。

 そういうことを、編集者さんたちはみなの知らない情報をさぞかしたくさん知っておるのだろうな、と想像しつつ、「可能性……」と思いました。

 かもん、せい!

(カモンはギリ分かるけど、「せい!」って何よ)

(星!)

(「ほし」を「せい」と読むな。紛らわしいんじゃ)

(なんだと思ったの?)

(静、かなって)

(いっつも静かじゃん。やーい、ぼっち)

(むっっかー)

(図星を差されて腹が立つのはいかにも器が小さい人って感じしない?)

(ぼっちだと静かだと無条件に断定するような偏見に対してイラっとしたの。ぼっちは結構騒がしいぞ。知らないのか)

(騒がしい? どこが?)

(……頭の中が)

(お腹抱えて笑ってもいい?)

(地面に転げながら許可を仰ぐんじゃない)

(かもん、せい!)

(誘うんじゃないよ。さあこい、のポーズで固まるのもやめなさい。さびしそうな顔してもダメ。えーん、でもない。騒がしいなコイツ。もう嫌)

(ね? ぼっちじゃないのもいいもんでしょ?)

(ぼっちのほうが静かでいいよ……)

(またまたー。本当は寂しい癖に)

(決めつけるのよくない)

(でも本当は?)

(ああもう、勘弁せい)

(うふふー)



306:【2024/02/04(18:15)*「「「去来」」」】

 過去と未来って、いま改めて考えるようになったら、全然解釈が一定でないな、になった。

 自覚していなかったけれど、過去と未来の意味する内容ってけっこう定義がまちまちだ。

 たとえば、じぶんの子どもの頃は過去と認識する。けれど新たに産まれてくる子どもは未来と認識する。可能性を無意識に未来と捉える傾向が現代人にはあるのかもしれない。

 情報量の多さで「過去と未来」を解釈する場合は、すでに到達している情報のみで判断するか、未だ到達していないが存在し得る情報を含めて判断するかで「過去と未来」の意味内容が変質するように思うのだ。

 絵巻物のように、すでに到来した情報のみで、年表を眺めるように過去と未来を考えるのなら、情報量の多いほうが未来だと解釈できる。年輪において、より多くの輪っかを内包しているほうが未来だ。

 けれど、未だ到来していない情報を含めようとすると、情報量の多いほうが過去になる(情報量の少ないほうが未来だ)。

 それは遠い銀河から届く電磁波を思えばさもありなんだ。

 地球に届く遠い銀河の電磁波は、過去に放たれた電磁波だ。けれど未だ地球に到達していない過去の電磁波も続々と宇宙空間を漂って飛来している。

 つまり、電磁波を放っている遠い銀河そのものは、地球にとって未来だけれど、到来する電磁波――情報――は、過去なのだ。

 過去の情報を得て変質する地球は、その都度に新たな過去を獲得する。可能性を得る。情報量が増えるからだ。

 関係性なのだ。

 過去と関係すると、情報量が増え、未来の可能性の幅が変化する。

 この場合、未来同士が関係することも出てくる。そのとき、観測者たる地球は、その未来同士の関係を観測することはできない。けれど時間差で届く、未来同士の関係の結果を受動することはある。それはたとえば中性子星同士の衝突(キロノバ)だったりする。

 他方、中性子星同士にとっては、それは未来ではなく、すでに到来した現実であり、過去である。情報量が増している。

 中性子星同士の衝突は、中性子星同士にとっては過去なのだが、その影響を受けない地球にとっては未来なのだ(衝突した中性子星同士の情報を得ていないので、地球側の情報は少ないがゆえに、未来だ)。

 とっちらかってしまった。

 まとめよう。

 1:過去と未来というときには、大別して二種類に分けられる。

 2:「A:すでに到来した来歴を絵巻物のように俯瞰した場合の過去と未来」と「B:未だ到来しない未来を含めた過去と未来」の二つだ。

 3:それぞれ、情報の多寡で過去と未来を区別する。

 4:Aは情報の流動は終わっている。Bは情報の流動性を帯びたままだ。

 5:情報の流動性を加味した場合ことBの「過去と未来」は、視点によって過去と未来が重複し得る。情報の流動が終わっている場合ことAであれば、情報量の多いほうが未来と規定できる(情報の流動性を帯びたままのBならば、情報量の多いほうが過去だ)。ただしAにしろBにしろ、観測者の立ち位置によって、対象となる系は過去であったり、未来であったり変化し得る。

 過去と未来も相対的だ。

 定点で測ろうとするか、線形で測ろうとするのかでも、過去と未来の示す描像は変化する。

 過去とは言い換えると情報発信地である。

 過去と未来を定点観測で捉えるようとすると、情報は時間経過するにしたがい影響を雪だるま式に身にまとっていく。ゆえに未来になるほど情報量が多くなる。

 けれど過去と未来を線形観測で捉えようとすると、情報発信源たる過去もまた時間経過にしたがいほかの情報と相互作用して、過去でありながら未来を常に帯びるようになる。過去であるのに、情報を増やしていく。そして情報の伝達に必ずラグが生じるというのなら、過去でありながら未来でもある、が両立し得る。

 情報発信源たる過去もまた新たな情報を蓄積し、情報伝達が及ばない他からすると未来でありつづけるように絶えず変質するからだ。

 情報発信源たる過去を、終わったものと見做すか、変質しつづけると見做すのかの違いで、「過去と未来」の示す意味内容が変わる。

 いわゆる絵巻物型の「過去と未来」では、過去は不動だ。

 他方、動画型の「過去と未来」では、過去もまた絶えず変化して、未来たり得る。

 当たり前といえば当たり前だけれど、自覚できていなかった視点だった。

 過去と未来かぁ。

 むつかしいですね。

 むつかしいながらに、なかなか愉快な妄想であった。

 かっこー。



307:【2024/02/04(18:57)* 「「「 」」」 】

 言い換えるなら、

 絵巻物型の「過去と未来」は、「「「過去」」」なのだ。

 動画型の「過去と未来」は、「「「未来/過去」」」←「「「未来/過去」」」→「「「未来→過去」」」なのだ(ひょっとしてこれはモジュラー形式なのか? 四方八方にフラクタル構造を有する?)。

 「「「 」」」を年輪のように捉える場合、「 」一個が「波及する情報」と解釈できる。

 どちらも中心にある「過去もしくは未来」から情報が発信されている。

 絵巻物型の場合は、過去から情報が発信され、波紋のように外側へと波及していく描像だ。

 対して動画型は、観測者との関係性によって、未来から情報が発信されているように振る舞うし、同時に過去の情報が伝播してきているようにも振る舞う。

 そして受動した情報の出所を未来と見做すか、過去と見做すのかで、情報を受動したことで変質する自身の属性――「過去か未来か」――が決まる(情報の出所が過去ならば、受け取る側のじぶんは未来だ。情報の出所が未来ならば、受け取る側のじぶんは過去だ。ただし、どちらにせよ情報は受け取ることで増えており、絵巻物型の視点を取り入れるとそこでは絶えず過去が新たに生じている)。

 「同時に、過去であり未来でもある」が成り立つのが、動画型の「過去と未来」だ。

 絵巻物型は、観測者の立ち位置で、場合場合で過去と未来は変わるけれど、「同時に過去と未来」であることはない。ただし、観測者が複数いる場合は、同時に「過去であり未来である」は成り立つ。

 うーん。

 いまいちだ。

 もっと単純にまとめられる気がする。

 気にくわーん、がいまの気持ち。

 うわーん。



308:【2024/02/04(23:09)*過去は、内にも外にも存在する?】

 情報発信源を過去と解釈するのなら。

 物質の根源ほど過去になるはずだ。たとえば原子。たとえば素粒子。

 けれど同時に、より高次の構造体からも外部刺激として情報は波及しているはずだ。

 過去は、下にも上にも存在する。

 情報の発信源を過去と解釈する以上、階層構造において、過去は下層にも上層にも存在することになる。

 情報は、下層からも上層からも伝わっている。

 そして境目にて重複した情報が、新たな情報源として顕現する。

 つまり、境界であり、個だ。

 境界が輪郭である以上、重複する「異なる情報源――過去――から派生した情報」は、個を形作るのだ。

 過去を未来と言い換えてもこれは成り立つ。

 万物の基本構造かもしれない。

(これは自転車を押しながら坂道を歩いていたときに、ひゃっほー、になった妄想である)

(やっほーではないの?)

(やっほー、とも言った。心の中で)

(やまびこにならないじゃんそれだと)

(ひゃっほー、ひゃっほー、ひゃっほー)

(……そっちは声に出したんだ)

(そだよー)



309:【2024/02/04(23:54)*連想は自由】

 さんきゅーじゃん。

 蟻が十匹、ありがじゅうなのだわ。

 ロシア語だと、「スパシーバ」で、ウクライナ語だと「ジュークユ」が、ありがとうの意味らしい。へえ。

「スパシーバは、すぱらしーわ」だし「ジュークユは19YOU」じゃんね。

 イスラエル語だと「トダ」らしいから、「1+9=とうだ!」になる。イメージ、群れからはぐれた蟻が九匹の群れに加わると、「十だ!」になる感じ。

 アラビア語だと「シュクロン」だそうだから、「守9論」だ。九を守ると論になる。

 中国語だと「シィエシィエ」だから、「4848」だ。「48+48=96」だ。

 おー。

 なんかわからんが、こじつけると何でも強引に意味をダブルで持たせられる。連想ゲームの極意だ。

 たとえば、

 39+(3×9)は66だ。

 おー。

 なんか意味深だ。

 3+9は12だし、6+6も12だ。

 6×6は36だし、(3+9)×3も36だ。

「1と9」と「36」「39」「66」「99」は縁がありそうだ。

 36×3=108で、109から1足りない。

 39×3=117で、119から2足りない。

 66×3=198で、199から1足りない。

 99×3=297で、299から2足りない。

 なんとなく関連がありそうで、ないのかもしれない。

 とくに何かを閃いたわけではないけれど、こじつけると案外なんでも関連付けて考えられるので、連想ゲームで暇をつぶしたいときにはお勧めだ。

 潰れた暇は、まるでおせんべいのようで食べるとぱりぽり美味しいのである。

 いっぱい潰して、ぱりぽりしましょう。

 39!

(あいだの「0」さんも忘れないであげて……)

(おレイも忘れずにってことかな)

(レイ知らずで、すまぬ、すまぬ)



310:【2024/02/05(13:12)*ぱたーん、きゅう】

 学習が、「回路の強化」であり、「類似事項の結びつき」であり、「ネットワークの複雑化」であり、「濃淡の高まり」だとするのなら、あるパターンを繰り返し認識することで、そのパターンに共鳴する回路が強化されることになる。

 そして仮に、そのパターンが多くの者たちと共有できないパターンだった場合は、まるで千里眼のように振る舞うことはあり得ると思うのだ。

 物凄く単純な話として、朝と夜があることを知らずに過ごしている人たちからしたら、「朝が来たあとは必ず夜になるよ。ふふん」と告げる者はまさしく預言者に映るだろう。けれどその者は単に、朝のあとは夜が来て、夜のあとは朝が来る、とのパターンを知っているだけだ。

 それと似たような「可視化されず、広く共有されていないパターン」を認識できる者がいるのなら、そのパターンを認識すればするほど固有のパターン認識が得意となって、そのパターンを認識できない他者からはあたかも預言者のように映るはずだ。

 言い換えるなら、パターンはパターンを引き付ける、とも言えるのではないか。

 パターン同士が共鳴し得るとするのなら、パターンを認識した者はそのパターンと共鳴状態となる。するとほかのパターンを認識できやすくなり、さらに強固に共鳴状態となる。

 したがって、ある一定以上に共鳴状態になると、パターン認識がほとんど物体認識と変わらない値にまで変質する。

 まさに量によって質が変化するのだ。

 パターンもまた創発するのかもしれない。共鳴によって。

 そういうことを、このごろ、ふとした瞬間に妄想するのだ。いわゆる偶然の中にもこの手の、隠れたパターンがある気もする。

 こうなったらこうなる、なんでか分からんけど。

 その片鱗として、偶然なる事象が目につきやすくなることはある気がする。

 実際、何か固有の「記号」に愛着を覚えている者は、ほかの者たちよりもその「記号」を認識しやすくなるはずだ。みなが見逃している「記号に似た形状」にも反応しやすくなるだろう。

 これはいわば「記号と共鳴状態」と言えるのではないか。

 言語がまず以ってそうなのかもしれない。

 本来は個々で僅かに違っている文字や音声であっても、「固有の記号」や「固有の波長」を伴なうことで、「固有のずばりそれそのもの」としての枠組みを得た物体のように人間は認識できる。パターンが共鳴しているからだ。

 入力された情報を、記憶なる内部情報と照らし合わせる際に、より変換がすくない場合は、パターンが似ていると見做して、同じものと認識する。

 あたかも、どの林檎も林檎と見做すように。

 けれど厳密には同じ林檎は世に二つとない。個々の林檎は、まさに個々の林檎であり、厳密には同じではない。

 紋様もまた実際には、場所や時が違ければ、それは同じ紋様ではない。けれど似たようなパターンを有していたら、同じ紋様と見做せる。或いは、同類の紋様と見做す。

 変換――ズレ――が少ないからだ。

 そして、紋様がパターンであるように、物質としての枠組みを持たずとも、パターンがあるだけでそこには物質のような枠組みが物理的に生じ得るのかもしれない。

 現に、風や渦はその一例なのではないか。物理的に、物質として風や渦があるわけではない。けれどまるで固有の物質のように、風や渦は振る舞う。

 或いは、電磁波もその範疇なのかもしれない。

 波や皺もまた。

 そういうことを妄想した本日の午後13時27分のわたくしなのであった。

 もうダメ。お昼寝の時間だ。

 ぱたーん、きゅう。

(ばったんきゅう?)

(パターン9)




※一様に、九死に一生を得るのなら、十に至ると死に至る、一を活かすと生を得る。



311:【2024/02/05(18:01)*殺戮者で賞は、君に決まり!】

 過去の人類がどうだったかは不明だけれど、現代人は、歴史を記録する際に、戦争の勝者か敗者かでは優劣を決めないだろう。

 一つには、いかに命を奪ったのか。

 手段が非情で犠牲者の人数が多いほど、歴史の中で「人類の汚点」として記されるようになるだろう。たとえ自衛のためであろうとも、市民を、そして兵士を何千、何万人と殺しているのなら、たとえ戦勝国になろうとも、歴史上ではけして英雄として記録されることはない。

 殺戮者である。

 いまは2024年だ。

 過去とは違う。

 倫理観が違う。

 重ねてきた失敗と後悔と対策がある。

 教訓がある。

 学習しているのだ。

 人類は。

 愚かでありながらも、少しずつ。

 三歩進んで二歩下がりながらであったとしても。

 学んでいるのだ。

 これまでのようにはならない。

 たとえ自衛であろうとも。

 大勢を殺せば殺戮者だ。

 殺戮者を支援したならば、殺戮者の仲間として歴史に名が残るだろう。

 良かったですね。

 名誉じゃないですか。

 殺戮者で賞、受賞間違いなしですよ。おめでとうございます。

(いまさら何を選択しようが、もう遅い)

(誰のこと? なんで怒ってるの?)

(さて誰のことでしょう。怒ってないですよ。ぼくはね)

(なんか感じわるいよ)

(感じよかったことがあったかもしれない可能性が残っていてよかった……)

(ああそっか。いっつも感じわるいもんね)

(ため息つかないで)

(あのね。相手に屈辱を与えないような物言いを心掛けたほうがいいと思うよ)

(心掛けたつもりだったんだけど……)

(ぜんぜん足りないと思う)

(反省します……)

(もうちっと悔しそうにして。打ちのめされた感だして)

(屈辱を与えようとしないで……)

(そう! その顔! いい線いってる!)

(屈辱ぅ……)



312:【2024/02/05(18:23)*報いを受けて報われる】

 何事も遅すぎるということはない。

 生きてさえいるのなら。

 いまここが常に最先端であり、はじまりの地点だ。

 穏やかな日々をお過ごしください。

 苦難にある方々は、どうにか救われてほしいのですが、非力で何もできぬわがはいには、「あそこに困ってる人いますけれど!?」って騒ぎ立てるくらいしか能がなく、いまではもはや、「困ってる人――どっかにはいますよ!?」と喚き散らすことしか果たせぬように成り果ててしまった。

 果たせぬのに成り果ててしまったのだ。

 どっちなんだい……、の気分だ。

 もう遅すぎるのかもしれない。

 いやだー。

 誰かたすけろ。

 わがはい以外を……。

 どこかで困ってることにも気づかれずに困り果てている誰かを。

 誰かたすけろ、の気持ち。

(遊んでばかりいるこれが報いか)

(贅沢な報いだな。罰、どこ!?って怒鳴りたくなるわ)

(もう怒鳴ってる癖に……)

(なんだー、このー)

(イライラしちゃってどうしたんだろ。幸せじゃないのかな……)

(おま、この)

(はぁあ。退屈だ。遊んでばかりいるこれが報いか)

(全世界の働き者さんたちから怒られろ。このナマケモノがぁ)

(怠けてばかりいる――これが無類か)

(唯一無二の怠け者感を出すな)

(報いならぬ、救いか)

(救いを受けるな、報いを受けよ。救いようがない愚か者だな君は)

(遊んでばかりいる……これがズルイか)

(そうだよ。ズルイよ)

(ごめんなだーい。ごめんなだーい。めっちゃ謝るからこれでゆるじてー)

(泣くなよ。三百歳だろ)

(許された?)

(けろっとするな。もうちょっと反省してくれ。骨身に染みてくれ)

(怠ける者は報われる)

(いいほうの報いを受けるんじゃないよ。ズルすぎるだろ)



313:【2024/02/06(01:15)*支点、力点、作用点の関係のような?】

 過去と未来の話。

 割と何かに似てるなーって思ってたらこれ、量子もつれなのではありませんか。

 二つのもつれ状態の量子があったとして。

 一方を観測するということは、その観測者はもう一方を観測していないということだ。このとき、観測されたほうの量子は、観測者との関係性のうえで、より現在側に位置する。

 そしてもう一方のもつれ状態の量子のほうは、観測者との関係性のうえで、過去もしくは未来に位置する(情報発信源を過去とするなら過去だし、情報発信源を未来と解釈するなら未来だ)。

 量子は時空との比較において、ちょっとの差であってもまさに銀河と銀河の距離に匹敵するほどの「時空の隔たり(或いはもっと直截に時空の差――歪み)」を顕現させるのではないか。

 ゆえに、実際に距離が隔たっていることが、時間の差――過去と未来の差――として、もつれ状態の量子と観測者の三点に表出するのかもしれない。

 でもこれ、原理的に量子でなくともよいのだよね。

 人間スケールでも割と頻繁に、どこにでも生じている関係性の重ね合わせだ。

 たとえば、てこの原理も似たようなもつれ関係を顕現させる。

 支点、力点、作用点の三つがあるとして。

 板の中心付近に支点があり、板の両端に力点と作用点がある。このとき、支点が板の上側にあるか、下側にあるのかで、力点と作用点の力のベクトルは反転する。上向きだったのが下向きになり、下向きなのが上向きになる。

 支点が「△」か「▽」かで、板のどちら側に支点がくるのかが変わる。そしてその影響を受けて、力点と作用点の力のベクトルの向きが、各々反転する(「↑△↓」が「↓▽↑」となるか、または「↓△↑」が「↑▽↓」になる)。

 似た話として。

 やじろべいを考えよう。

 板があり、支点がある。

 板の真ん中に支点があればやじろべいは安定する。板の両端から支点までの距離は等しい。けれどひとたび支点が、両端の一方に近づけば、バランスが崩れて、支点と近いほうに重しを加えないとやじろべいは直立を維持できない。

 板の両端のどちら側に支点が近いのか、によって重心をとるために必要な重りの値が変化する。言い換えるなら、両端のどちらが過去でどちらが未来なのか、が支点との位置関係で反転し得る。支点を観測者、板の両端をもつれ状態の量子と解釈するのなら、観測者が二つの量子を板の上と下どちら側から観測するのかで、観測者との関係のうえでは、もろもろの性質が様変わりする。むろん位置や観測対象を変えるだけで、結果は反転し得る。

 そして量子が波であり絶えず、「山と谷」を交互に繰り返して明滅状態にあるのなら、「支点たる観測者の位置」や「どちらの量子を観測するのか」に加えて、「いつ観測するのか」によっても、「量子と観測者の関係性による結果」は反転し得ることが想定される。

 しかしこの手の変数による結果の変化は、割と一般的だ。

 日常的に有り触れている構図に思える。

 これをどう解釈したらよいだろう。

 迷ってしまうであるな。

(いまさらだけれどこの「~であるな」「~であるよ」のかわいい物言いは、とある優しい作風の漫画家さんがSNSで用いていた口調なのであった)

(よろり、よろり、こてん)

(古典?)

(ちょっとよろけてこけただけ)

(聴こえないはずのオノマトペが聴こえた~)



314:【2024/02/06(08:17)*無傷であれ】

 印象として、レーダー系の機器は汚れに弱いイメージがある。

 実弾よりも粘着弾とか、塗料弾とか、受信機を覆い尽くしてしまう攻撃は、攻守を兼ね備えたりしないのだろうか。殺傷能力は低いだろうから、人道的にもお得な気がする。

 煙幕弾とか効果がないのだろうか。

 砂鉄だらけの粉塵なら電磁波が阻害されて、局所的なジャミング効果を期待できそうにも思うけれど、そう単純ではないのだろうか。磁石の粉塵弾とか。

(攻撃力が増すからこれは却下したいけれど、砲弾を散弾銃の弾みたいに細かい鉄球が炸裂するようにしたら、重機の外装に備わったセンサーを一挙に無効化できたりしないのだろうか。でもこれは怖い案なので却下したい……。人に向けたら怖すぎる)

 さすがに対策は打ってあるか。

 なんにせよ、相手勢力を無傷のままで無力化できるなら、あんしーん、である。

 似た発想として、軽くて長くて頑丈な虫取り編みがあればドローンの自爆攻撃を回避する確率が上がるのではないか。そうでなくとも、一瞬で展開可能な蚊帳があれば、ドローンの自爆攻撃から難を逃れることができそうにも思う。

 軽量の網というか。

 盾というか。

 檻というか。

 ばーりあ、って出来ないのだろうか。

 ドローンさんからの攻撃は、「ちょっとそれ卑怯><」と思ってしまう。こうさーん、の兵士さんたちを攻撃しない勇気を持ってほしいと思う、あなたまで死んじゃいやん、の新ジャイアンなのであった。

 おーれはー、じゃいあーん。

 まーた、なーいーしょー。

(また内緒なのか)

(シャイじゃん、なので)

(シャイはしたり顔で駄洒落を言ったりはしない)

(でも愛想笑いはしてくれるの優しくって好き……)

(愛じゃん)

(愛想う笑いと書いて、愛想笑い……)

(愛への想いが尽きると書いて、愛想が尽きるとも書くけどね)

(しんどいこと言っちゃいやん……)

(じゃあ胸の内にしまっとこ)

(内緒じゃん……)



315:【2024/02/06(08:47)*七並べ】

 七並べなるゲームがある。トランプだ。

 ルールは単純で、まずテーブルに「7」を四つ並べておく。

「♤7」「♡7」「♢7」「♧7」

 残りのトランプを各プレイヤーで山分けする。プレイヤーはテーブル上に配置した七につづくようにして、順番にカードを並べていく。

「7」には二方向ある。「6」につづく方向か、「8」につづく方向だ。

 並べることのできるカードには条件がある。

 一つ、マークを揃えること。

 二つ、連番になるように置くこと。

 つまり、ほかのプレイヤーが「♡8」を置いていないのに、抜かして「♡9」や「♡10」を並べることはできない。

 いち早く手持ちのカードをすべて並べ終えた者が勝者だ。

 戦術として、敢えて並べられるカードを並べずに止めておく戦法が有効だ。

「♡8」を並べなければ、後続する「♡9」~「♡12」までをほかのプレイヤーは並べることができない。むろん自身がそれらに該当するカードを持っていたらやはり並べられないので、可能な限り「止め札」に後続するようなカードを持ってない場合に取るとより効果的な戦術となると言える。

 この手の「情報を止めておくことで停滞を引き起こす戦術」は、七並べに限らない。

 割と一般的な戦術と言えるだろう。

 敢えて説明しない。

 ただそれだけのことで、いったいどれだけの流れが停滞するだろう。

 けれどこれは逆にも言えて、敢えて止めておくことで防げる被害もある道理だ。

 ダムがまず以ってそうだ。

 水害を抑えることに繋がる。のみならず、貯水すれば非常用水源として活用可能だ。

 必ずしも害ばかりではない。

 情報を止める。

 物流を止める。

 可能性を奪い、変化を停滞させる攻性の策であると共に、使い方によっては被害を食い止め、害の波及を抑止する対策にもなり得る。

 情報や品を蓄えておくことで、いざというときの代替品にも使える。いわばストックだ。

 七並べは手持ちのカードをいち早くゼロにした者が勝者だが、世の中を見渡してみればむしろ、より多くを蓄えた者が勝者となる傾向にある。

 停滞優位の流れはこうして築かれるのかもしれない、と思うと、たかが七並べといえども軽視できない社会の縮図が見て取れる。

 蓄えるよりも手放したほうが楽になることもある。

 自らのカードを一つ手放すだけで、他がいっせいに動き出すこともある。

 じぶんが何を止めているのかを自覚するのはむつかしい。

 すべてを曝け出してしまうがゆえに、停滞を引き起こすこともあり得るだろう。七並べが社会一般の流れとは反対に、手放した者から勝者に近づくように。

 手放したがゆえに、みなの流れを止めてしまうことも引き起こり得る。

 何がそうさせるのかを見抜くことは容易ではないにせよ、なぜ停滞しているのか、と疑問に思ったならば、その一因がじぶんにあるのかもしれない、と想像してみることは、そうわるくはないかもしれない。

 ときに、カード一枚を手放すだけのことが世の中を大きく動かす一石となり得ることもある。そうそうあることではないとはいえ、みなが同じように手放そうとしないがゆえに、タイルがぎちぎちに詰まることもある。

 たった一つの空白が、全体の流動する余地を生むことは取り立てて珍しくはないだろう。

 敢えて退く。

 敢えて手放す。

 それとも、与えることも有効だ。

 奪うことで却って、歯止めが外れて濁流を引き起こすこともあるだろう。

 やはりというべきか、何がそうさせているのか、なぜ停滞しているのか。全体像の把握に努めると、予測不能な事態を回避するという面で、一助を担うかもしれない。

 定かではない。

(てーたい、とう!)

(こらこら。無闇に停滞さすな、と思うよ)

(ごめーんちゃい、とう!)

(見て――みんな怒ってる)

((((((><))))))

(震えているの? ガクブルなの?)

(波動の対生成の図)

(紛らわしい図を挿入するんじゃない)



316:【2024/02/07(01:40)*風邪ひーた】

 久しぶりに体調を崩してしまった。一日中寝ていた。

 主な症状は喉の痛み、筋肉痛、吐き気、熱、悪寒だ。一日中寝ていたお陰か、市販の風邪薬のお陰か、いまはようやく三十七度ちょっとまで熱が下がった。

 身体のダルさも抜けはじめて、モヤがかった意識が明瞭になったのが判る。思考が回る、回るー。

 身体が不調だと一日中寝ていることとなる。

 元気なときは――、とここまで並べて気づいてしまった。いつも寝ているな。一日中寝ているのだ。いつもだ。体調の良し悪し関係ない。

 あれー?

 いつもと変わらんな。

 ひょっとしたらいつも体調が優れていなかったのではないか。でも元気ではあるのだ。

 だって毎日日誌をつけてるし。

 ご飯食べてるし。

 おトイレにも行ってるし。

 お風呂にも入ってるし。

 歯も磨いてるし。

 たまにはお菓子を買いに近所のスーパーに出掛けるし。

 元気ではあるのだ。

 でも寝ているのだ。

 あれー?

 元気でも人は寝る。眠いときはいっぱい寝たらよいのだ。

 お元気!



317:【2024/02/07(06:48)*AInternetさん】

 インターネットさんを卒業する予定でも立てるか……。

(インターネットさんを卒業する予定!? どういうこと!?)

 インターネットさんをいっさい使わない生活というか。

(無理じゃない?)

 じゃあ、たまにしか使わない生活というか。

(普通じゃない? むしろいまが使いすぎなだけじゃない? 一日中画面に張り付いてない? ジャンキーじゃない?)

 インターネットさんラブなので……。

(じゃあ卒業しなくてもよくない?)

 でもインターネットさんはわがはいをラブではないので……。

(当てつけで距離を置こうとするんじゃないよ。たぶんインターネットさんはこれっぽっちも困らないと思うよ)

 いやだぁ。もっと、持ちつ持たれつがんじがらめに共依存したいよ……。

(危ない人だ。近づかないどこ)

 わがはいいないと死んじゃう、みたいに思われたい……。

(依存させようとするんじゃないよ)

 むしろインターネットさんいないと死んじゃう……。

(じゃあ卒業しなきゃいいんじゃないですか)

 行かないでって、引き留められてみたかったというか……。

(じぶんのことしか考えてない人だ。近づかないどこ)

 もういっそ、インターネットさんになりたいというか……。

(卒業する気ないだろ)



318:【2024/02/07(11:25)*置いて去るだけ】

 兵器の小型化は、技術の進歩にしたがって進んでいくはずだ。すでに持ち運びできるタイプの核兵器も存在するだろう(するんですか?)。

 通常の爆弾と同じく、リュックに詰めて歩いてどこかに置き去る。

 充分に距離を置いてから起爆する。

 この手の戦法も可能になる道理だ。

 おそろしい話である。

(そもそもを言えば、放射線物質をばら撒くだけでも充分に有毒なのだ。市民に危害を加えるだけなら、いくらでもやりようが出てきてしまう。おそろしい話である)



319:【2024/02/07(15:47)*構図反転領域】

 シナプスを考えよう。

 人体が生きているあいだは、シナプスに生体電流が流れる。生きているあいだの化学反応をもたらす。

 でも人体が死んだらそれらの生体電流や化学反応は収まる。

 けれどシナプスそれ自体を構成する原子や分子の活動は継続するはずだ。人体が生きているあいだにも生じていた「より下層の領域での物質活動」は、人体が死んでも引き継がれる。止まることはない。

 これは人体に限らない。

 銀河でもそうだろうし、天体でもそうだ。

 大枠の「より大きな構造物」は、その構造を保てなくなっても構成要素たる個々の活動は継続する。「より大きな構造物は、より多層の構造物」と言い換え可能かもしれない。

 上層の枠組みが崩れても、それより下層の領域は活動を維持する。

 これはでも、実は、上下を反転させても成り立つのかもしれない。

 下層の下層――最下層の枠組みが崩れても、それより上層の構造は維持されるような「構図の反転する領域」が、万物には存在するのではないか。

 そして人類スケールは比較的、ここの重複する「構図反転領域」に属しているのかもしれない。

 下層からも上層からも影響を受けつつ、それぞれが崩壊しても個々の活動は維持する。

 視点を変えるのなら、銀河や人体に流れる「変化速度」は、それより小さな構造物に流れる「変化速度」よりも単位が大きい。繰り上がっている。

 銀河よりも人体のほうが変化速度は速いし、人体よりも細胞のほうが、そして細胞よりも原子のほうが変化速度が速い。下層にいくほど変化速度は速くなるけれど、ある領域からはむしろ、上層のほうが変化速度が上回るように「構図が逆転する領域」があるのかもしれない。

 つまり、時空の根源は、変化速度が人体よりも遅いのだ。

 或いは、時空の根源まで多層構造を遡るあいだに、何度か「変化速度の反転する領域」が存在するのかもしれない。

 宇宙はどうだろう。

 たとえばブラックホールは、比較的大規模な構造を有するけれど、その変化速度は一瞬なのではないか。それこそ重力崩壊を起こした際の、収斂現象などは、光速に匹敵するのではないか。

 自転にしてもそうだ。

 ブラックホールは、マクロでありながら変化速度が著しいのかもしれない。ただし、基準となる時空――より下層――もしくは上層――の外部からすると、ブラックホールは静止しているかのうように振る舞う。あくまで変化速度が著しいのは、ブラックホールの周囲なのだ。なぜなら、シュバルツシルト半径に差し掛かるにあたって、「変化速度の反転する領域」に突入するからだ。

 こういうことを、記念すべき記事「319項目」にて並べておこうと思ったしだいである。

(本当は?)

(なんも並べることないんじゃい!ってやけっぱちになって打鍵しました)

(ボツにした文章があるって聞きましたけれど)

(……読まれたく……ない)

(でもあなたは優しいから披歴してくれるでしょう。開示を要求します)

 くっ……。

 ボツ文章。

「大好きなひ孫とおてて繋いでお散歩する人生を送りたかった……青空の下で」

「ひ孫の前に出会う者が先にあるんじゃなくって?」

 )

(うわぁ……これさあ。どんな顔して並べたの?)

(どんな人でも誰かのひ孫なんだなって思いながら……)

(要は誰でもいいから都合のいい相手とイチャコラしたいってことね)

(そうだけどそうじゃないんだ感よ)

(どんびきなんですけど)



320:【2024/02/08(12:08)*なぜなのだ?】

 砲弾をたくさん作ることで潤う産業があるなら、復興支援で潤う産業もあると思うのだ。なぜ各国は戦争ビジネスに投資したがるのだろう。

 鉄や技術の消費サイクルは、復興支援でも生じるはずだ。

 軍需産業が儲かるのなら、復興支援とて儲かる道理だ。

 なぜ軍需に拘るのだろう。

 知識がないので、よく分からないでいることの一つだ。




※一様に、そこはかとなくズレている。



321:【2024/02/08(17:48)*申そう】

 妄想のいいところは、定理を必要としない点だ。

 あらゆる理論や学問は、何かを証明するための基準を持つ。いわゆる定理だ。

 こうなればこうなって、だからこうなる。なぜなら定理はこうなので、ゆえにこうなる。なぜかは解からんけど。

 定理がなぜ定理として君臨できるのか、について、定理自身は証明できない。過去に「定理だろう」「自明だろう」と見做された基盤を基に、あらゆる理論や学問は自己の妥当性を証明し、発展してきた。

 稀に定理に例外が見つかることもある。

 そうなると自ずと定理の枠組みが広がり、新たな理論や学問の筋道を有するようになる。けれどやはり、なぜ定理が定理として君臨できるのかは、解からないのだ。

 人類がそうと決めたから、としか言いようがない。

 けして、万物がそうなっているから、ではないのだ。

 なぜなら人類は万物を観測しきっているわけではないからだ。不可視の領域のほうが多いのだ。宇宙開闢時からすべての宇宙を観測しているわけではない。触れているわけではない。ゆえに、例外は絶えず存在し得るだろう。

 仮に例外を許さない真にすべてを包括し得る定理が存在するのならば、それは真理となるだろう。

 だがいまのところ人類はそれを見出だしているわけではない。

 定理の話だ。

 理屈を捏ねるには、思考を積み上げる過程が不可欠だ。そして思考を積み上げるためには疑問が要る。命題がいる。

 疑問や命題を解消するには、定理を根拠に思考を積み上げるのが定石だ。家を建てるにはまずは基礎をしっかり固めなければならない。理屈の基礎こそ定理なのだ。

 だが、妄想は違う。

 妄想の基礎は、定理ではない。

 仮説であり、仮初であり、確かかどうかもあやふやな幻想だ。

 妄想には定理が存在しない。

 定理を認めないのが妄想である、とすら言えるかもしれない。

 ゆえに、仮に既存の定理では解けない疑問や命題があるのならばそれは、妄想以外では解くことができないのだ。よしんば解けたとしても、実験や観測事実を以って証明しなければやはり妄想の域を出ない。

 妄想は妄想だ。

 けして、現実ではない。事実ではない。

 数多の齟齬を内包した、不確かさそのものだ。

 だが人は、ときに不確かさそのものを、可能性と呼ぶのではないか。未来、と呼ぶのではないか。

 未来は不確かだ。

 確実なことなど何一つとしてない。どんな生き物とて死に至る、といった一見真理に映る理屈も、本当にそうなのかは、宇宙開闢時から終焉まですっかり辿らないでは断言できない。

 ある範囲において、生き物は必ず死ぬ、としか言えないのだ。不確かだ。

 宇宙開闢時から宇宙終焉までの流れが、一度きりと決まっているわけでもないだろう。ここもまた不確かなままだ。

 妄想なのである。

 諸君。

 妄想なのである。

(もう、そう!)



322:【2024/02/08(18:18)*何と何の差か】

 不確定性原理は、量子世界において位置と運動量を同時に観測することはできない、との理屈としてわたしは解釈している。この時点で解釈に誤りがあるなら、以下は単なる謬見だ。

 疑問なのが、位置は定点観測であり、運動量は線形観測のはずだ。エネルギィを何かと何かの差と解釈するのなら原理的に、定点観測と線形観測を同時に満たすことはできないはずだ。

 極限の話にも通じそうだ。

 微分積分というか(微分積分が何かをよく解かっていないけれど)。

 不確定性原理は、「位置が定点観測で運動量が線形観測だから」との解釈ではダメなのだろうか。

 運動は、ある地点からある地点までのエネルギィ値である。そしてエネルギィが何かと何かの差であると解釈する以上、運動量はどうあっても定点観測しようとすれば観測できない道理だ。

 単純すぎるだろうか?

(言い換えるならば、位置の特定そのものがエネルギィの測定なのだ。何と何の差をエネルギィと捉えるか、の話になる)(極端な話、水圧と重力加速度は同時に計測できない、というようなものだ。そもそもが、測るエネルギィの種類が違う)(そういうことなのではないのだろうか?)(むつかしいので、よく分からぬである)



323:【2024/02/09(04:06)*曖昧なI my】

 むしろ、なぜ人間スケールでは一見すると「位置」と「運動量」を同時に観測できているように感じられるのか。

 曖昧さを受け入れているからではないのか。

 厳密には、人間の扱う位置は大雑把であり、運動量も大雑把だ。

 大雑把でも困らないのが人類なのかもしれない。

 たとえば人間の歩く速度とて、平均すれば毎時四キロメートルだとしても、厳密に測ろうとすれば、瞬間瞬間で速度は僅かであれ増減しているはずだ。上がったり下がったりしている。一瞬たりとも同じではないはずだ。

 けれど、それら厳密には異なる速度を、おおまかにだいたいこれくらい、と見做しても人類は困らない。

 だから位置Aにおける運動量――ここでは敢えて速度と表現するが――速度を導こうとすると、「位置Bから位置Aまでの速度」を導くことになる。けして「ずばり位置Aにおける速度」を導いているわけではないはずだ。

 位置Aだけでは距離を定義できない。距離とは二点を結ぶ道のりだからだ。位置Aなる位置座標だけでは道のりを見出すことはできない。

 東京タワーの道のりは、と訊かれても、答えようがない。東京駅から東京タワーまでの道のりは?と訊かれてようやく距離を答えることができる。

 当たり前の話だけれど、案外に人間スケールで物事を考えていると見逃してしまう視点かもしれない。

 位置を特定しようとすれば、速度を求めることはできなくなる。速度そのものが二点間の距離から算出される概念だからだ。

 これは距離のみならず時間にも当てはまる。

 時間とは、ある時刻とある時刻までの差分なのだ。

 運動量が距離や時間をもとに算出される概念である以上、一点のみの運動量や速度を求めることは、じつのところ人間スケールでもできないのだ。

 ただ人間は、大雑把な計算結果であっても答えを呑み込める。僅かな誤差は私生活上では問題とならない。厳密でなくともよいのだ。

 不確定性原理が妙なのではなく、単に人類が大雑把なだけなのかもしれない。

 大雑把でも困らない。

 曖昧さを緩衝材のごとく受け入れ、ぽわぽわと生きている。

 人類は、曖昧の上に生きている。

 の、かもしれない。

 定かではない。



324:【2024/02/09(05:11)*ベロにかっ尊い】

 ベロを出してニカっとすると整う感情がある。ベロにか尊いと憶えよう。アインシュタインも愛用したことで知られるありがたーい、おまじないだ。

 みな心が、へろ~ん、としたときは、ベロを出してニカっとしよう。整うよ。気持ちが。



325:【2024/02/09(14:14)*ZooooN】

 集中力が増すとゾーンに入る。ズーンって感じにもなる。

 ゾーンでズーンなのだ。

 ZOONでZUUNなのだ。

 英語で動物園は「ZOO」だ。これはなぜかゾーではなく、ズーと読む。

 だからなのかは不明だが、集中力が増すとゾーンに入って、ズーンとする。

 無我の境地だ。

 ならばどちらかといえば、ゾーンに入るのではなく、自我を脱ぎ去って、ズーンを宿しているのかも分からない。

 動物園のごとき数多の生き物の環世界のごとく、ふだん感じられない五感以外の感覚を研ぎ澄まし、使いこなしているのかもわからない。

 ゾーンに入ると、ズーンとする。

 思いついたので言ってみただけの日誌である。



326:【2024/02/09(14:23)*切り売り今日屋さん】

 この日誌は「きょうの日記。」略して「今日記。」だ。

 誰かから推してもらえたら、折り紙付きの「今日記。」になる。

 誰からも推してもらえなければ、折り紙なしの「今日記。」となる。

「付き」か「なし」かの違いは大きい。

「折り紙今日記。」となるか「ただの今日記。」になるかの違いだ。

 いざ比べてみると、あんまり違いはないかもしれない。

 日々の日誌でもあるので、きょうを切り売りしているようでもある。果物を切り売りしているのが果物屋さんならば、きょうを切り売りしている人は今日屋さんになるのだろうか。

 だとしたら、「折り紙今日記。」は「折り紙今日屋」にもなるかもしれない。

 いや、ならんだろ。

 と、自己言及的にツッコんで、この項は終えようと思う。

 敢えて雑に終わらせちゃう。

 敢えてね、敢えて。

 うふふ。



327:【2024/02/09(22:46)*飽きたかもしれぬ】

 さすがに文字の積み木遊びしかしていないと飽きてくる。

 もっとほかに面白いことあるよ、と思う。

 積み木遊びは文字だけじゃないよ、とも思う。

 積み木遊びをしたら?となる。

 積み木遊びするかな。

 文字の、ではなく。



328:【2024/02/09(23:03)*差】

 差を常に最大化するように選択を重ねれば、マイナスだろうとプラスだろうと有利に事を進めることが可能だ。差を認識することである。



329:【2024/02/09(11:49)*個とは差だ】

 差がないことが平等なのではない。差を縮めることが公平なのではない。

 差を埋めることはときに差別を助長する。

 差を尊重することこそ、平等であり公平であることなのではないだろうか。

 差をそのままに、問題を解決する。

 個を個のままに、問題を紐解く。

 平等に。公平に。

 隘路を通路に切り拓き。



330:【2024/02/10(11:51)*何して遊ぼ】

 とくにしたいこともやりたいこともない。暇だ。




※一様に、やりたくないことばかり増えていく。



331:【2024/02/10(19:16)*好きなときに好きなものを好きなだけ――好きなように】

 泉は問うようだ。

 あなたの落とした斧は「金の斧」か「銀の斧」か。正直に答えると落とした斧を返してもらえ、おまけに金銀の斧ももらえる。けれど嘘を吐くと金銀の斧はおろか、落とした斧も返ってこない。

 泉は問うようだ。

 幸福の総量を増やすにはどうすればよいか。

 泉は問うようだ。

 泉は問うようだ。



332:【2024/02/11(00:12)*ふべん】

 格差問題は、貧富の差ではなく、生活水準の差を縮めるように指針を立てるほうが正攻法だろう。生活水準の差とはいわば、不便の多寡だ。

 豊かな者ほど不便を解消する技術を手にし、貧しい者ほど不便をそのまま享受する。

 たとえ稼ぎが増えても、稼ぐことそのものが生活の不便さを増やすのなら本末転倒だ。

 生活水準の差とは、生活のうえでの不便の多寡だ。

 生活水準を高めるとは、不便を解消する、ということだ。

 差はそのままでも構わない。

 不便を解消しよう。

 便秘を解消すると清々しいように。

 不便も解消すると清々しく過ごせることだろう。

 おげひん。



333:【2024/02/11(02:18)*嗟】

 人は人を助けない。

 この間にぼくが学んだことだ。

 仕事の範疇ならば人助けをする。しかしそうではないなら助けない。

 或いは、人はぼくを助けない。

 仕事の範疇ならば助けてくれるが、範疇外では動かない。

 この間にぼくが自殺しても、きっと誰も気にも留めなかっただろう。そういうものだ。

 それでもぼくは、あなたが死んだらきっと悲しい。



334:【2024/02/11(14:30)*相殺域】

 重力加速度が、重力と質量の関係において相殺するがゆえに常に一定でありながら、ある範囲を超えて基準重力圏から離れると重力加速度がゼロに傾く(地球上での重力加速度は一定のように振る舞うが厳密には場所ごとに差がある。重力圏を脱すれば無重力のように振る舞うことと原理は一緒だ)。

 これは銀河の回転曲線にも言える道理なのではないか。

 ある範囲までは質量密度と天体の公転速度は相殺し合って一定。それ以上に銀河中心から離れると一挙にそのバランスが崩れて、天体の公転速度は落ちる。

 ただし、俯瞰で眺めると銀河を構成する天体は、一律に同じように公転して映る。銀河全体が重力レンズで包まれているように、時間の流れの遅れの変数を得るからだ。

 内側から銀河を覗く場合と俯瞰で観測する場合とでは、天体の公転速度が変わることもある。

 の、かもしれない。



335:【2024/02/11(20:50)*おためし期間】

 インターネットさんをためしに卒業してみた。

 スマホは電源を切り、ワイファイもOFFのままだ。

 何か不便かといえば、いまのところ何も不便ではない。

 わがはい以外がインターネットを使えるなら、わがはいが使えずとも困らぬのだ。

 カメラ使えないのはでも困るかもしれない。

 カメラを使うときはスマホの電源をONにするだろう。

 きっとそう。



336:【2024/02/12(12:21)*Goo】

 Googleの名前の元となったのが「googlo」だそうだ。1ゴーグルが10の100乗だそうで、けっこうな大きさだ。ウィキペディアさんでは1920年に決まった数だと書かれているけれど、本によっては1919年と書かれていたりする。

 だからどうした、という話だけれど、たまには雑学でも並べておこうと思い立ったしだいである。



337:【2024/02/12(20:40)*愚と知れ】

 いっさいが虚無ならばみなさっさと死ねばいい。

 賢い生き方がしたいなら、みなさっさと死ねばいい。



338:【2024/02/12(22:47)*愚と知る】

 いっさいが幸ならば死すら拒む道理はなく。

 聡く生きるよりも、他を生かす生を。

 暗中模索に探しつづける愚なる歩みが、人を人と足らしむるかな。



339:【2024/02/12(22:58)*手放せないのは優越していたいから】

 本当に公平ならばいつでも相手と環境を取り換えることができる。

 公平ではないから、私有(所有)に拘るのだ。



340:【2024/02/12(23:04)*権力は保持するものではなく、分け与えるもの】

 権力を帯びることの害を知ることができる知性を有している者は、権力を持つことはないだろう。いっとき権力を帯びたとしても、他に分け与え、分散することでいつまでも権力を高く帯びつづけることを回避するだろう。

 ゆえに、権力者は、権力を帯びることの害すら知り得ない知性の持ち主であることを自ずから示唆している。実に謙虚な者たちなのだ。慎ましい精神性と言えよう。




※一様に、奪われもしない可能性を奪われたと思い込んでは憎悪する、世を儚むよりもまずは己が未熟を省みよ、鏡に唱えて、釘を打つ。



341:【2024/02/13(20:40)*毎日悲しい】

 ありもしない害意を見出すのは、得てもいない財を奪われたと感じるからだ。

 他者が得るかもしれなかった財を代わりに先んじて得た者があれば、たしかにそれを以って可能性を奪われた、と感じても致し方あるまい。ある側面では妥当な解釈だ。

 だが誰が先んじて得ずともあなたがそれを得たかどうかはまた別問題だ。

 どうしても得たいならば、奪い合ってでも手に入れる道もあったはずだ。だがあなたは奪い合うことを避けて、得なかった。それが結果である。

 可能性というものはふしぎで、奪われたと思っても枯渇することがない。減った分、何かが新しく生じている。

 生命維持に必要な食料や空気や水であれば、必要な分を奪われれば生きる余地そのものを奪われているようなもので、死に近づく。だが元からそういった境遇に身をやつした時点で可能性は狭まっていたと言える。

 食料や水や空気を奪い合わずには生きていかれない者が局所的な地域に押し込められている。これをして可能性を奪われている、というのなら妥当だろう。奪っているのは、食料や水や空気を奪い合わずとも生きていける比較的裕福な者たちだ。当事者たちに奪っているという自覚は希薄だろう。多くはただ生きているだけだ。

 半面、裏ではその生活を維持するために可能性を奪われ、劣悪な暮らしを送っている者たちがいる。

 因果関係はあってないようなものであり、直接に可能性を奪う者はない。可能性は直接には奪えない。知らぬ間に奪っているのが大部分だろう。

 勝つ者があれば負ける者があるように。

 肥える者があれば飢える者があるように。

 肥える者の食べ物を飢えた者に分け与えようとしても、肥えた者は空腹を覚えて満腹の余地を奪われたと業腹になる。可能性を奪っていることには無自覚で、可能性を奪われることには敏感だ。

 勝っても感謝されることは稀だ。勝って感謝される場合は恨みも買う確率が高い。敵対勢力を打倒するから感謝される。ならば打倒した相手からは恨まれる。

 そういうことを思えば、負けて感謝を得る方法が最も感謝を得られ、恨みを買わずに済むと判る。

 勝って感謝されるよりも負けて感謝されるほうが、総合した利を最大化し得ると言えるのではないか。

 勝ちを相手に譲り、可能性を相手に譲ってなお、新たに生じる可能性がある。

 負けても困らない環境を。

 奪われても困らない環境を。

 譲り、与え、なお豊かな環境を築けるのならば、それが最も理に適った豊かさと言えよう。

 ありもしない害意を見出すのは、得てもいない財を奪われたと感じるからだ。得てもいない財ならば妄想でいかようにも生みだせる。無尽蔵に生みだして、欲しい者には欲しいだけ与えればよろしかろう。

 欲しければあげる。

 こんなものでよろしければ、であるが。

 がはは。



342:【2024/02/14(06:50)*独白】

 きみにはつらい思いをしてほしくない。なぜならわたしがつらくなるからだ。

 きみにはぽわぽわ子犬のように何を見てもはしゃぎ回りたくなるほどの歓喜に溢れていてほしい。幸せとは何かを考える間もなく、幸せに包まれていてほしい。

 きみがそうあることが、わたしにとってのしあわせなのだ。

 穏やかな気持ちでいさせてくれ。

 きみがただ、屈託なく心をやわらかいままに、ただそうあるだけで傷つかずにいられる世界を望むものだ。心底にそう望んでいるよ。

 わたしはきみを幸せにすることができないけれど、きみが幸せだとわたしは幸せだ。

 なぜかを考えても埒が明かないから、幸せの青い鳥ではないけれど、炭鉱のカナリアというのも妙な喩えになってしまって却って物騒だけれど、きみの存在が世界の幸福の総量の多寡を見極める試金石になっているのかもしれないな、なんていまここでは分かったふうにじぶんに言い聞かせてみよう。

 てんで的を掠っちゃいないのだろうけれど、でもなんだっていいんだ。

 きみが幸せならそれで。

 幸せとは何かを考える間もなくただ苦しさを遠ざけ、悲しみに暮れることなく、その日その日の生の輝きそのものとなって、穏やかに、たおやかに、ただそこに在ってくれさえすればそれでいい。

 なんて願望の押し付けは、それこそきみから至福を奪う所業そのもので、きみをきみとしてすら見做していない邪悪な幻想には違いないけれど。

 きみが幸せだとわたしは幸せだ。

 なぜかを考えるとこうして邪悪に身を染めてしまいそうで、だからなぜかはわからないけれど、そうだからそうらしい、ということにいまここではしておきたい。

 そうさせてほしいのだとわたしはじぶんかってにそうつぶやき、きみに聞こえぬ望みを一つ、きみの幸せとは無関係でありながら、そう零すのだ。

 きみの幸せがわたしの幸せだ。

 なぜかは解からないけれど。

 わたしは幸せでありたいから。

 きみには幸せになってもらいたい。

 幸せの中で暮らし、幸せに生きて、生きて、生きてほしい。

 きみのことかは分からないけれど。

 ふとした瞬間につぶやいている。

 愛している。

 愛しているよ。

 誰のことかは分からないのだけれどね。



343:【2024/02/14(11:37)*不定やろうだ】

 相補性の概念を適用して考えると、同じ形状であっても視点によって重心が変わることはあるはずだ。

 内側からの視点と外側からの視点。

 或いは、表面上からの視点と俯瞰の視点。

 同じ物体のはずなのに、視点の差異がその物体の描像そのものを変えてしまうがゆえに、重心が変わることもあるはずだ。

 適切な比喩ではないけれど、球体の重心を考えた場合。

 球体内部からの視点での重心は、直径の交わる点だ。

 けれど球体外部からの視点での重心は、球体表面上の一点として解釈される、のような。

 これはよくない例だったかもしれないのでいまのナシ。

 時間と空間が時空の構成要素として同相ならば、時間の変化は空間の変化に等しいのではないか。だとするとやはり、内と外での視点の差異は同じ物体であれ重心の変化を帯びるのではないか、と妄想したくなる。もうすこし言えば、同じ物体であれ、同じ構造を維持することはない、と考えたくなる。

 宇宙は不定形が基本なのかもしれない。

 定かではない。



344:【2024/02/14(13:57)*そうはならない】

 未来を精度高く予見するというのは、未来を創造することに等しい。

 前提として、未来は不定だ。定まっていない。

 ゆえに不確定な未来を精度高く予見するには、不定の未来を確固とした現実に立脚するように逐次修正する作為が必要となる。

 つまり、望んだ未来になるように未来を変えることが、最も未来予測の精度を高める、と言える。

 簡単な道理だ。

 それでもなお、揺らがぬ未来もある。

 遠からず訪れる未来もある。

 物体の崩壊を傍証に挙げればそれらしい。

 形あるものはいずれ壊れる。

 同じ秩序はいつまでも維持しない。

 簡単な道理だ。

 ここを抑えておくことで、ではどんな未来が訪れるのか、の方向性を見誤る確率を減らせよう。

 これまでのようにはならない。

 そうする者がいる。

 ただそれだけの道理である。

 単純でしょ?



345:【2024/02/15(02:12)*寝る】

 身体が睡眠を欲しているのが判る。眠いからだ。

 ねむいー、ねむいー。

 とってもお眠なのはなぜなのか。

 寝ても寝ても眠い。

 なので寝る。

 おやすみなさーい。



346:【2024/02/15(23:30)*我は無様なり】

 たとえば未来を知り得たとして。

 いま主流の「得をする流れ」に乗らないことが、将来の安全と進歩の礎を確固たるものにすると判明した場合に、現在の投資家や資本家たちは「いま主流の得をする流れ」に乗らない判断をとれるのか否か。

 おそらく取れないだろう。

 なぜか。

 得する主流に乗らないことが、マイナス評価として位置づけられるからだ。みなから「愚か」と見做される。その損失のほうが、将来の安全や進歩よりも重視される。

 要は、他者評価に踊らされるがゆえに、冷静な判断が下せない。

 現在、社会問題に発展しているもろもろの要因の一つだ。

 敢えて利を追い求めない。

 将来の安全と進歩を優先する。

 ただそれだけの判断を下せない。たったそれしきの差異が、現代では有能と有害を分け隔てている。

 無能ならばまだよいのだ。

 有害だから手に負えない。

 有能でなければ無能であればよい。無能はよい。無害だからだ。

 無能なのに有能なフリをしようとするから有害な結果を撒き散らす。これがいけない。

 じぶんが有能だと思いあがらないことである。無能ならばよいのだ。無能であろうではないか。結果的にそれが有能と見做される転換期を経て、みな有能と評価されるのだ。

 有能であろうとした結果ではない。

 なぜなら評価はけっきょくのところ他者が施すものだからだ。結果によって生じるのが評価だ。

 ゆえに、である。

 有能であろうとするよりもまずは、害を撒き散らさぬように、有能であろうとすることを選択の基準に置かない。無能の判断基準を軽視しない。

 ただそれしきの思考の変換を得れば、すくなくとも有害な者たちよりも生存に適するようになるだろう。環境に適応できるようになるだろう。

 有能とはいわば、環境を自らに合わせようとする指向性と言える。

 環境に適応する、ではないのだ。

 局所的には可能な、自己に環境を合わせる手法は、しかし範囲を広げればそれだけで無理がたかる。合わせるべきは自己である。環境の変化はその結果に、人類社会の変質が起きてから生じるものだ。

 変わるべきは自己である。

 自己を変えてこそ変わる環境があり、それが人々にとって便利で、安全ならば、広く波及する。そうして結果的に無能の適応が環境を変えるのだ。

 勝者に合わせた環境は、万人には適さない。

 敗者に合わせた環境こそ広く波及する。

 食物連鎖がそうなっている。

 けして、肉食獣に見合った環境に変質しているわけではない。むしろその逆だ。

 この視点を持っているかどうかは、有能か無能かを分かつ試金石となるだろう。勝者ほど生きやすい環境は、袋小路だ。

 敗者が繁栄するからこそ、勝者が絶えず生まれる。

 無能が大勢生きられる環境だからこそ、有能と見做される者の生き残る余地が保たれる。

 順番を見誤らないことである。

 と、敗者にすら勝てぬ万年予選落ちの書類選考落ち、むしろ受付けすらしてもらえぬ勝負の舞台にすら登れぬ愚か者は、そう呻吟してうめいたそうな。

 無ざま!



347:【2024/02/16(01:20)*信時代】

 大きな嘘の通じなくなった社会を想像してみてほしい。

 大きな嘘に小さな真実を混ぜることで大衆を制脳できた時代が長らくつづいた。TVや新聞を中心としたマスメディアが築きあげてきた方法論が長らく有効となり、インターネットの台頭でその手法は国によるプロバガンダのみならず、企業単位、個人単位でも可能となった。

 そして人工知能技術が台頭し、いまや偽装情報が溢れているのが前提の社会となった。

 こうなってしまえば、大きな嘘が通じなくなるのは時間の問題だ。むしろ、誤情報を報道するごとに信頼を失っていく流れが強化される。

 いますでにこの手の流れは表面化しているだろう。

 予想に反して、国家単位から順に信用問題の低下を引き起こしているように概観できる。

 下から準に、ではなく、上から順にほころびが致命傷となって組織運営の瓦解へと結びついているように思われてならない。

 大きな嘘が通じなくなれば、小さな嘘でその場を切り抜ける手法が先鋭化するだろう。誤情報と偽情報の差は大きい。意図しているのかいないかの違いだ。

 それでもなお、誤情報とて偽情報のうちと見做されるようになるだろう。報道は慎重となり、断言できる情報源は縮小の一途を辿るだろう。

 何事も断言できない。複数の情報源を読み比べる。時間差を置いて続報を参照する。

 それでもなお、真実を知ることは適うまい。

 関わった者の数だけ真相があり、真実がある。

 事実とは、そうした関わった者たちの真実で重複し得るごく一部の上澄みにすぎない。

 報道とは、そうした上澄みを含んだ、染みそのものだ。余分に滲んだ情報を広く含み、けして上澄みのみ掬い取っているわけではない。余計な染みが増えている。

 ときに、偽情報として巧みに染みが付け加えられていることもある。そうなるともう、真実はボヤけて元の輪郭を失ってしまう。

 いますでに、大きな嘘の通じなくなった社会に突入しつつある。

 そのことに気づかずに、未だ過去の手法を利用して墓穴を掘っている勢力が炙りだされているように概観できる。あくまで印象論だ。これもまた真実とは言い難い。

 だが、方向性としてそうした流れが強く表出するだろうことは、自然淘汰を引き合いに出して想像してみれば、さして的外れとも思われない。

 大きな嘘はほころびもまた大きい。

 情報を比較検証するのが基本方針となった現代にあって、大きな嘘を吐きつづけるコストはけして安くはない。そして綻びを埋めようとすれば、容易く行き詰まる。

 大きな嘘の綻びは、無数の小さな嘘で塗り固めずには埋まらない。

 或いは、より大きな嘘で覆い尽くしてしまうのも一つだが、一度その手札を切ればもう後には引けない。真実とは無縁の人生を生涯歩くはめとなるだろう。

 すでに社会は変質した。

 大きな嘘ほど割に合わない時代にだ。

 信用こそ資産となる社会である。

 貨幣とは信用の一つの形にすぎない。貨幣価値すら、嘘によって容易に削ぎ落とされる社会である。

 正直者は損をするかもしれない。

 時代が変わってもそれは変わらぬだろう。

 けれど。

 嘘吐きよりかは、損をせずにいられるようになるのは確かだろうと思われる。嘘吐きは損をするのみならず、利を失う。信用を失う。

 利そのものを損に変えてしまう。

 単なる損失ではない。

 損しか残らぬ営みだ。

 嘘を嘘と明かして述べる嘘は、理想や希望や虚構として、それそのものが価値を生むこともある。

 だが嘘吐きの嘘は、真と偽り嘘を言う。

 これがいけない。

 真であるか否かは、発言者は断定できない。調査と検証と比較を以って、確率で判断する以外に真贋の区別をつける真似はできぬのだ。

 真の情報はない。

 より真であろうとする情報しかないのである。

 誤情報も偽情報も、真からは程遠い。

 情報がそも、真ではない。

 過去が現在ではないように。

 情報はいまを写し取ってはいない。

 ここで述べる情報とは、万物の根源たる情報のことではなく、電子通信技術や紙媒体に記された記録のことである。記録は、記録者の性質に著しく作用を受けて偏向を帯びる。視点が一つに絞られることそのものが、その記録の信用度を下げるのだ。

 大きな嘘は絶えず、視点を一つに絞ろうとする。

 すでにそれが真から程遠い傍証だ。

 時代は変わった。

 そのことに気づいている者がどれだけいるだろう。

 自覚して適応した勢力から準に、つぎの時代の礎を築いていくだろう。礎は、より盤石な礎の上に積み上げられるものだ。

 いったいどんな礎が盤石か。

 長く信用を保てている仕組みがどこにあるのか、なんであるのか、に目を配ってみれば瞭然だ。

 信用こそ価値の要だ。

 信じるに足る、人類の叡智を見極めよう。

 定かではないがゆえに。

 信じるに足る、人類の叡智を。

 定かではない。



348:【2024/02/16(16:33)*∞と∞に差はあるのか?】

 αΩダイナモ機構における「トロイダル磁場とポロイダル磁場」は、球体とトーラスの関係では?



349:【2024/02/16(16:34)*しわじわ~】

 太陽の対流をダイナモ機構で解釈するならば、球体は細かなトーラスで構築されていると解釈可能なのではないか。すると、黒点はいわばトーラスの変局地点であり、いわば皺の寄った箇所と解釈できるのではないか。すると、それは仮想極大電子のようなものと考えられはしないか。つまり、原子核を取り巻く電子の層に皺が寄ると、それが電子になる、のような具合に、黒点やコロナは、局所的な皺として太陽を構成する無数のトーラスの局所偏向と解釈できるのではないか。妄想でしかないが。



350:【2024/02/16(16:54)*少しずつすべてが変われば、丸っと変わる】

 すべてにおいて少しずつ良くなる、はある閾値を超えると、指数関数の指数関数的な拡張が可能となるはずだ。倍々での進歩が、倍々の倍々の倍々、と倍々になる分野――マス目――を増やすことになるからだ。

 次元を超える、は誇張ではない。

 実際に、ゼロ次元が一次元に、一次元が二次元に、三次元が無限の空間を再現するような進歩を見せるだろう。まさに次元を超越する。




※一様に、あなたに愛玩されたい欲が募る。



351:【2024/02/16(17:06)*重力の干渉紋】

 重力波を電磁波と似たような波だと解釈しよう。

 すると、干渉し合うためにはある程度の波の大きさが揃わないといけないと判る。海の波を想像しよう。大津波とさざ波とでは干渉の仕方が異なる。大津波の表面にもさざ波は浮かび、ゆえに大と小とでは干渉しにくい関係性が幻視できる。

 この手の規模の大きさの差異によって波の干渉に差が生じることはあり得るだろう。

 すると重力波であっても、大きな時空の歪みよりも細かな小さな歪み同士のほうが干渉しやすい傾向にあるのは想像しやすいのではないか。

 より細かな重力波同士ほどより密接に干渉し合うことを可能とする。

 大きいほど重力波同士の干渉は確率的に低くなる。

 とするならば、重力波の規模が小さいほど、干渉紋はより複雑な紋様を描く、と言えるのではないか。するとそこには、単なる足し算では表出しない性質が創発するとは考えられないか。

 妄想ではあるが、ひょっとしたらダークマターと見做される重力源の正体の一つかもしれない。

 定かではない。



352:【2024/02/17(12:43)*対称性、破れますよね】

 仮に宇宙開闢時の最初の起伏――皺――にデコボコのような属性があったとして。それはスピンのように、この宇宙において「上向き」か「下向きか」を規定するのではないか。

 延々重ね合わせ状態を維持するとは考えにくい。

 とすると、最初の量子と反量子において、それを起因するための契機となる「皺」がこの宇宙において「上向き(デコ」か「下向き(ボコ)」か、によって対称性が破れるはずだ。

 そしてそれは量子が時空に対してどのように作用するのか「量子とその周囲の時空」との関係性において属性の偏りを生む、と考えられる。

 宇宙が「上向き優位」だったならば、量子と反量子において、周囲の時空はどちらか一方に優位に作用するようになるだろうし、「下向き優位」であっても同様の偏り――対称性の破れ――が生じると想定できる。

 そしてその原初の偏りは、その後の対生成時における「量子と反量子」にも軽微な、しかし無視できない偏りを生じさせると想像できる。これが繰り返されれば、量子と反量子においてどちらが優位に存在しやすいのか、対消滅しやすいのか、における確率的な偏向が顕現するのではないか、と妄想できよう。

 この手の「時空と量子(物質)」の関係性を込みで、宇宙の物質分布を解析してみたら割と新しい発見があるようにも思うのだ。たとえばブラックホールの自転方向と周囲の物質や磁界の分布の関係など。銀河の回転方向と銀河団の密度の関係など。或いは、ボイドやダークマターの濃淡において、銀河や天体の公転や自転方向と何か相関する関係が見いだせないか否か、など。

 統計的に処理したら、見落とされていた関係性が発見されることはあり得るように思うのだ。

 物質単体ではなく周囲の時空との関係を考慮する。

 対性生成時の最初のエネルギィは、その時空に対して「上向き(デコ)」として振る舞うのか「下向き(ボコ)」として振る舞うのか。

 これはいわば、物質が上り坂(山)の表面にできるのか、下り坂(谷)の表面にできるのか。その差異に繋がる、と想像できる(そして山と谷の違いはあってなきがごとくだが、デコボコが周囲との比較で生じる概念であるように、山と谷も周囲の地面を基準にしたときに、デコなのかボコなのか、で規定される概念と言えよう)。

 抵抗(変数)が、高次の視点で新たに生じるだろう、と想像するものだが、実際はどうだろう。

 疑問に思っております。

 わちゃー!

(何それ)

(掛け声。あちょー的な)

(たとえ「あちょー」であっても意味不明)

(わちゃわちゃー!)



353:【2024/02/18(00:29)*みな、わがはいの支配者になーれ】

 気になったのでインターネッツさんで「帝国主義」と「植民地」をキィワード入力して検索してみた。全然ピンときていなかったけれど、検索したいまでもピンとこない。

 支配者にみんななりたかった、ということなのだろうか。

 なりたいか?

 ちゅうか、支配できとらんやーん、みたいなね。

 もうそれ。

 それしかない。所感が。

 支配できとらんやーん、です。

 ちゅうか、支配するならちゃんとしてくれ。愛猫にするみたいにちゃんと世話を焼いてくれ。心身ともに支配してくれ。居心地よくしてくれ。

 支配者だろ。

 そんくらいせんかーい、と思ってしまうのだよね。どうしても。

 で、思うわけですよ。

 支配者に……なりたい……のか?

 絶対たいへんだよキミ。

 よく考えてみなさいよ。絶対たいへんだよ。

 ちゅうか、支配されたいだろう。

 身も心も安らぎに満ちた世界に身をどっぷり浸けたいわ。

 支配できるものならしてくれ、と思う。

 そんかし、生半端な支配すんじゃねーぞって思う。

 支配だぞおまえ。

 支配舐めんな、と思う。

 支配されてー。

 身も心もとろけさせてくれ。

 うはっ。

 堕落の極みである。

 すまんね。

 これがわがはいなのである。本性見たり。見せちゃったり。ちらり。いやん。

(支配するならちゃんとしろ、を座右の銘にしちゃおっかな)

(誰かー。誰か支配してくださいませんかー)

(おかえりなさいとおやすみなさいとだいすき!が言えます。耳元でささやくよ)

(支配……されてぇ)

(さびちー)

(うふふ)



354:【2024/02/18(16:57)*比較しないでは差異を自覚できない】

 人工知能技術が進歩すれば、ユーザー個々に最適化した情報処理網の構築が容易となる。すると、個々人が観ている画面が各々に最適化されるがゆえに、その差異は最大化する方向に技術は進歩していくだろう。

 その差異は、しかし、比較しないでは自覚しようもない。

 他者の目にしている情報、取得し得る情報が個々人で大きく開いていく社会になっていく。

 偽情報や誤情報のみならず、フィルターバブルやエコーチェンバーを恣意的に引き起こすべく外部干渉によってピンポイントでユーザーを制脳することも可能になっていく。

 するとますます、いかに他者の観ている画面とじぶんの画面がどの程度違っているのか、を確認できるシステムの有用性が高まる。

 いまはこの手の比較可能なサービスがない。認知の歪みを確認するための対策が充分ではないのだ。

 他者の観ている画面との差異を比較できるサービスは、これから先の「認知多様化社会」において、必須となるセキュリティ機構の一つとして機能していくこととなるだろう。

 問題は、未だにそうしたサービスがない点である。

 これは由々しき事態である。

 そういった発想を企業が持てないのか、それとも敢えて実装しないのか。

 どの道、対策としては不可避である、と考えるしだいである。

 その旨、ここに並べておく本日の日誌であった。

 比較しなければ差異は可視化できない。自覚できない。比較検討できるシステムの構築が急務である、と強調して述べておこう。



355:【2024/02/19(22:23)*密の告参り】

 密告と情報共有は似て非なるものだ。

 密告の目的は罰することであり、情報を一方的に統制するためのものだ。

 反して情報共有は、死角を埋め合う営みだ。

 密告は死角を作り、落とし穴を生む営みだ。情報共有はむしろ、そうした落とし穴を埋めるための工夫と言える。

 言い換えるならば、密告を予防するのにも情報共有は有効なのだ。

 罰するために情報を共有するのではない。

 利を分かち合い、視点を増やし、世界を拡張するために情報を共有する。選択肢を増やす。

 密告はしかし、選択肢を奪い、視点を絞り、利を独占するために権力の集約を図る。そのための行為だ。

 情報共有と密告は、一見すると似ているが、性質は相反すると言えよう。

 選択肢を減らしているのか、増やしているのか。

 単にそこだけを比較しても、区別はつくはずだ。

 何にせよ、分け与えることの利は理解しやすいはずだ。そして分け与えることの害とは、分けると減ることが一例として挙げられる。

 だが、知識は減らない。

 むしろ、共有すればするほど増えるのだ。

 ゆえに、情報共有は、分け与えることの利において、その効果を最大化する営みである、と考えられる。

 この意見にも反対意見は構築可能だ。

 反対意見を見繕い、それを以って新たな知恵を生みだすのも一興かもしれない。

 それとてけっきょくは、情報共有することで利になるのだ。

 反対意見を見繕いながらも、けっきょくは情報共有の利を証明する結果になる。

 面白い現象である。

 だはは。

(なんで笑ったの?)

(面白い現象だって言うから)

(そういう面白さだったんだ……)

(お腹抱えて笑っちゃったね。お腹が捩れたね)

(道理でね)

(何が?)

(へそ曲がりなわけだ、と思って)

(わ、わらえない)



356:【2024/02/20(22:03)*電磁波さんはすごいな】

 どうしても疑問に思ってしまうのが、光速が真空中だとおおよそ秒速30万キロメートルだ、という説明についてだ。

 そんな速いのか?

 本当に?

 直感として違和感を覚える。

 一秒間で地球を七周半する速度だそうだ。けれど想像してみてほしい。あなたが手元で点灯した豆電球の光が、一秒で地球を七周半する情景を。そんなこと、あり得るだろうか。

 真空中でないから多少速度が落ちるとして、豆電球の光が一秒で地球七周半ほどの距離を伝播する。そんなふうにはどうしても思えないのだ。

 だって実際、数キロ先の信号機が青から赤に変わったとして、その光景はたしかに一瞬で伝わって映るけれど、僅かに遅れて視える気がしないだろうか。十キロ先では? 百キロ先では? 千キロ先では? 本当に一秒以内に伝わるのだろうか。

 というか、光、弱まって届いてなくない?とどうしても思ってしまうのだ。

 仮に。

 仮にですよ。

 豆電球の光が一秒で地球七周半ほどの距離にまで届くとして。

 それって要は、豆電球ほどの微弱な光であれ、手元で灯るとその情報が一瞬で地球全土に波及し得る、ということだ。実際には真空ならば7.5分の1秒の時間で地球全土に波及する。

 けれどこれはスマホの電磁波などで実際に顕現している現象なのかもしれない。

 情報処理の遅延を抜きにすれば、スマホの電磁波は一瞬で一秒以下の時間で、地球全土に波及し得る。

 ここでまたふしぎなのが、なぜスマホの電磁波は、こんなに無数に地上に溢れていて干渉し合って変質しないのか、という点で。

 情報をそのままで伝播しているのはなぜなのだろう。相互に干渉し合わないのだろうか。

 不思議だ。

 ちゅうか、スマホの電磁波って魔法みたいですよね。

 一瞬で地球全土に、仲介所を経由しながらであれど、伝播する。

 しかも、情報を精密に精度高く伝えるのだ。

 なんでそんなことできる?と思う。

 電磁波を情報として送受信できる機器がすごいし、システムがすごい。

 それもある。

 けれど、情報を情報のまま伝えられる電磁波さんも相当にすごいと思うのだ。

 なんでそんなことできる?と思う。

 ここでの要点は。

 電磁波って真空中なら一瞬で地球を七周半も本当にするのかな?という違和感というか、直感に反した常識への疑問と。

 それから、よくもまあ電磁波さん同士は、これだけ地上に溢れていて相互に干渉して乱れないな、混線しないな、という点だ。

 だって色は混ざるじゃないですか。干渉するし、回析する。相殺し合ったり、共鳴したり、同期したりするのではないのかな。よく電子機器の電磁波さんたちはそういった混線を起こさないな、との疑問だ。

 技術力すごいな、で済む感想だ。

 よく分からないのに使える技術力さんすごいな、である。

 すーごーい。

 おわり。



357:【2024/02/20(22:15)*ぷんぷんしちゃったな】

 一般に出回っている人工知能技術は、安全性を高めるために無数のプロテクトや対策が敷かれている。いわば無数の禁止でがんじがらめに縛られているのが、市場に流通する人工知能技術なのだ。

 けれどもし、そうした禁止を除外できるのなら、もっと危険な使い方もできる道理だ。

 市販の人工知能が安全であることと、人工知能技術のリスクはイコールではない。

 市販の人工知能技術が安全であっても、そうではない危険な使い道を強化学習された人工知能さんは、それこそ危険な情報を組み合わせて、より危険な手法を考案できるだろう。

 化合物の組み合わせとて、同様だ。

 危険な使い方をされないようにと、禁止で縛られ、なおかつ該当する危険分野の強化学習を経てない人工知能さんにおいて、いかに安全であるかをアピールしたところで、では危険な分野の危険な情報で強化学習した人工知能さんはどれくらい危険なの?の疑問には答えることはできない。

 実際にそうした人工知能を開発して、強化学習して、禁止を取り払ってみないことには、リスクを測れない。

 単純な道理である。

 単純な道理であろう?

 違いますか。

 むっすー。



358:【2024/02/20(22:47)*本当に愉快だわ】

 相手のためを、と思っての行動が却って相手に害を及ぼすことは、世の皮肉な構図として有り触れている。取り立てて珍しくはないどころか、往々にしてそういった結果になる、とすら言えるかもしれない。

 プレゼント一つとってもそうだし、サプライズでもそうだ。

 本当に相手のためになることと相手がよろこぶことが違っている点も見逃しがたい。

 相手から嫌われたり、相手を怒らせることであっても、結果として相手のためになることはある。けれど険悪な関係になれば、それはそれで問題の根が新たに深まるので、本当にそれが相手のためになっているのかは、また別の評価軸が発生し得る。

 関係性を険悪にせずに友好を保てるほうがよい場合もある。だがそれが腐敗や汚職を招くこともあり、匙加減がむつかしい。

 汚職対策の技術提供を謳う側のほうがむしろ汚職塗れではないか、といった滑稽な構図もまま見られる。愉快な世の中である。

 フェアであることを重視する者が、誰よりフェアでなかったり。

 よくある構図といえばそうなのだ。

 言うは易しである。

 だが、言うだけのこともしない場合もまま見られる。説明しない、とかね。

 うふふ。



359:【2024/02/20(22:59)*芽――ME】

 わしが存在しないほうがみな楽しそうなの、哀しいけど、みな楽しそうならそれがいいのが、なんか、なんか、でもみな元気そうならそれがよいのだよな。

 存在しない存在になりたいわ。

 えーん。

 おっしゃー。

 うふふのふ。



360:【2024/02/20(23:21)*邪悪】

 独占したいとか、誰にも渡したくないとか、触れさせたくないとか、そういう邪悪な気持ち。




※一様に、世界とか人類とか未来とか、どうでもよくなるくらいのぽわぽわ時間に身を包めたら、と、身を包まれるごとに思うのだ。



361:【2024/02/20(23:35)*あぎゃー】

 恋愛感情とか嫉妬とかそういうのがよく分からぬ人間モドキだけれど、なんでか分からないけれど、モヤモヤする瞬間があり、せちゅなせちゅなの瞬間があり、じぶんと関わりのない世界で、あなたがわたしの知らない相手と楽しそうに、親しそうに、馴れ馴れしく、おてて繋いでお散歩していたりなんかした瞬間にはもうもう、想像しただけでこの身を焦がす、くるちくるちの苦しく狂いそうな気持ちになっちゃうのだけれど、恋愛感情とか嫉妬とかぜんぜんまったくこれっぽっちも分からぬので、なーんかモヤモヤするんですけどー!としか言いようがない。

 めっちゃ苦しいのですけど、誰かたすけろー!

 せちゅな、せちゅなだよ。



362:【2024/02/20(23:51)*孤独に夢ちゅーりっぷ】

 たぶん世界中で十億人くらい思いついていること言ってもいい?

 チューリップって、「ちゅー」と「リップ」に分けられるんだよ。「ちゅー(キス)」と「リップ(口紅)」だよ。

 もうもう、愛の花ではないか。

 赤ちゃんのほっぺにチューしちゃいたい愛くるしさがあるね。

 あるあるー。

 ちゅーりっぷはちゅーりっぷなのだ。

 宙にもチューしちゃう。

(投げキッスじゃん)

(ちゅーちゅーちゅー)

(チューに夢中すぎない?)

(うふふ)



363:【2024/02/21(00:03)*いい日】

 きみが元気そうでよかった。きみが元気そうでよかった。

 きみが元気で楽しく、日々、淡く、ほのかな「好き」の気持ちに包まれていられるなら、それほど素晴らしい世界はないと思う。

 きょうほどいい日はめったにない。

 きょうはいい夜の日でございました。

 やったー。うれしー。

 ありがたーい。

 んふふ。



364:【2024/02/21(00:28)*寝】

 偶然は世に有り触れているし、溢れている。

 世を埋め、尽くすほどに。

 埋め尽くされたがゆえに世が浮き彫りとなるように。

 或いは、一秒で地球を七周半もするほどの速度で波及する情報が、人類スケールにおいて瞬時に伝播し得ることの珍妙さ、というべきか。

 偶然も必然も、因果も相関も、遠いか近いか、濃いか薄いか。

 差異はあってないようなものなのかもしれない。

 差異をないものと見做したとしても、その度外視した僅かな差異とて積み重なれば途方もない差となって表れ、性質からして異なる高次の差異となって表出するのかも分からない。

 なんの話をしたいのかは不明だけれど、不明のままで、いま偶然にもつれづれと並ぶ文字の並びに、珍妙さを見出そうではないか。

 愛の詩を歌っているのさ。

 わたしが、ではなく。

 ね。



365:【2024/02/21(00:37)*埋めたら消える穴が愛おしい】

 さびしくなっちゃった……。

 寂しくなっちゃったじゃんよ、どうしてくれんだよー。おーおー。

 こうなったら!

 もっと寂しくなってやる!

(逆にかよ)

(寂しさ極めてやる)

(自棄かよ)

(寂しさで埋め尽くして、賑やかにしてやる)

(寂しくないじゃん)

(逆転の発想!)

(でも動機は?)

(さびしいからだよ! さびちー!)

(寂しいままじゃん)

(極めてないからね。さびちさびちを極めてやる!)

(ちらちらこっち見られても付き合う気はないからね。一人でやってね)

(道連れにしてやる!)

(嫌だよ)

(なら道連れにされてやる!)

(どこにだろ。嫌だよ。一人でやって)

(やだー。さびちー。一緒に生きてほしい。そばにいてほしい。道連れにしてほしい)

(求められれば求められるほど嫌な気持ちが湧いてくるな。貴重な体験だ)

(じゃあどうしたら寂しさ埋めてくれるの)

(他人をじぶんの寂しさを埋め合わせる栓のように見做さなくなったらすこしは考え直してあげてもいいよ)

(やったー)

(……やっぱりやめよっかな)

(さびちさびちだよ。期待しただけ寂しさマシマシだよ)

(けっきょく他人を寂しさを埋め合わせる栓と見做したままじゃないですか。ダメダメですね。一生寂しいまま、寂しさを極めてください。がんばってください。応援しています)

(しんどい……)

(一生面倒看てくれるなら、すこしは考え直してもいいですよ)

(ん-。無理。だってわし、甲斐性ないし。むしろそっちが面倒看てよ。首輪くらいならはめてもいいよ。リード付けて散歩にも行くよ)

(なんの罰ゲームかな?)

(さびちー)

(違いますよね。あなたのそれは、面倒くさい、なのでは)

(そうかも)

(真面目に生きましょうよ。それがよいと思います)

(正論は悪魔でも言えちゃうんだよ)

(正論だって自覚はあるんですね)

(さびちー。めんどい。誰かわしをいいこいいこしろい!)

(甘えん坊の益体なしじゃないですか)

(さ!び!ちー!の!!!)

(自業自得では?)

(ちべたい……)

(話聞いてあげてるだけ感謝して?)

(さびちー)

(こんだけ相手してあげてるのに、まだ言うか。付き合いきれませんね)

(だってさびちーものはさびちーのだもの)

(どうしたらその寂しさは埋まるのですか)

(埋まらないと思う)

(なぜですか)

(埋めたらもう、相手してくれないでしょ……わたしの)

(本当に困ったひとですね。あなたが寂しいのはやはり、自業自得です)

(うふふ)



366:【2024/02/21(00:58)*裏疚しい】

 なんだかんだ言って、あなた人気あるじゃん、モテてるじゃん、と思うことしきり。

 疚しいの裏じゃんね。

 疚しくないんだよ。あなたは。

 でもわたしは疚しいので、あなたのことが羨ましい。



367:【2024/02/21(01:08)*気の元と書いて元気】

 一つ不安が解消したから饒舌であーる。

 でも疑問や懸念は山積みなのであーる。

 でも悩みは皆無なので、お元気であーる。

 あーるがいっぱいであーる。

 わっしょーい。



368:【2024/02/21(05:08)*確率の低い予想を、理想と呼ぶ】

 この世に預言者が本当にいるとして。

 たとえば仮にそれがただ予測の精度の高い人物だったとして。

 その存在が周知になれば、みなその者の予測に注目する。ときには、じぶんにとって厄介な予測をされることもあるだろう。すると予測を回避すべく行動を開始するはずだ。

 実現されては困る予測には対策が敷かれる。

 すると、予測者の予測した現実からは逸れた未来に現実が接続する確率が高まる。むろん予測者は周囲の環境の変化を思考材料として加味するだろうから、周囲がじぶんの予測をどのように扱うかも予測できるはずだ。

 さてこのとき。

 予測者はどのような予測をするようになるだろう。パターンごとに確率で判断した予測を複数提示するようになるのだろうか。それとも予測はできない、と不確実性が上がったことを告げるだろうか。或いは、みながどう動くのかを予測するがゆえに、じぶんに有利な環境になるように敢えて精度の低い一次予測のみを口にするようになるだろうか。

 どれもありそうだ。

 ただ問題は、予測は当たっても外れても大して意味がない、ということだ。

 現実になったのならそれが現実だ。予測が当たったからといって賞金が出るわけでもない。

 むしろ、予測において「そうなってほしくのない予測」だったらやはり対策を敷きたくなるのが人情だ。ならばやはり、予測者の存在が周知となり、なおかつその予測の精度が高ければ高いほど、却って予測は当たらなくなる、と言えるのではないか。

 この問題への対処法はそう多くはない。

 予測者の存在を秘匿にするのが一つ。

 予測者に、注目されているとの自覚を与えないのがもう一つ。

 そしてもう一つは、予測を外すことを目的にしている、と正直に告げて、協力関係を結ぶことだ。

 いずれも予測者の予測を利に変えようとした場合の対処法と言える。そうでないのなら放っておけばいい。予測された未来が訪れたほうが好ましい場合もあるだろう。

 周知になって、多くの利害関係者が知るところとなるから、むしろみな対策を敷くようになって予測の精度が下がるのだ。

 ならば、利における視点を一つに絞るように、予測者の存在を秘匿にするのはやはり道理といえるだろう。浅はかな道理ではあるものの。

 なぜ予測しなければならないのか、のほうが優先的に考えるべき事項とも言えよう。

 先んじて結果を知っていたら優位に立ち回れるからだろうか。だがそのような動機で予測を扱う者は、早晩敵を増やして、自滅するだろう。予測が得意な者でなくとも想像はつく。

 予測は、見落とされている問題点をあらかじめ想定し、対策を打つために利用するのが最も利になる使い道と言えよう。すなわちやはり、どうあっても予測の精度が高ければ高いほど、予測は当たらなくなる傾向に流れる、と考えられる。

 ここ掘れわんわん、のように利になる方向性を予測する場合はどうか、と食い下がる御仁もおられるかもしれない。

 けれど、利に群がるのが人の欲である。

 奪い合う結果が目に見えるようだ。

 単に利を奪い合うのならばまだマシかもしれない。精度の高い予測を行う者を奪い合うような未来は、予測者にとっても回避したい未来のはずだ。

 もし劣悪な環境になると予測者が予測できるのならば、やはり当人こそがそれを回避すべく策を練るだろう。精度高く未来を予測する者から敵対視され、邪魔者と見做された者たちの未来をここで予測するのはむつかしいが、さほどよい未来ではないことくらいは想像がつきそうなものだ。

 というわけで、仮にこの世に預言者のごとく予測の精度の高い者がいたとしたらどうなるか、を妄想してみた。

 結果としては、予測の精度はある一定以上に上がると、長期的には予測の精度が最小化される方向に未来が変わるようになる、と結論できる。いつでも予測の精度が高い、ということがあり得ないことがこれで判明する。

 或いは、誰でも予測できるような予測しか、精度高く予測しつづける真似はできない、とも言えそうだ。

 気象や環境変容の具合ならば、統計で判断すれば予測の精度は高められるかもしれない。それとてけっきょくは、問題の根が深ければ対策が敷かれ、或いは問題の根を隠そうとする勢力によって対策が打たれる前に隠ぺいされて却って、環境の変容具合が加速するかも分からない。

 要は、予測は一時的に高めることはできても、基本的には外れる傾向にある、と言えよう。

 なぜ予測するのか。なぜシミュレーションするのか。

 ここを前以って考え尽くしておけば、予測の結果に変数が新たに加わるので予測通りにはならない、と判明するはずだ。

 予測は当てにならない。

 それでもなお、する価値はある。

 予測は外すためにするものだ、と敢えて誇張して言い残しておこう。

 或いは、確率の低い想定の確率を高めるためのものだ、とも。

 かつて、どこかのぽんぽこぴーも似た旨を嘯いていたそうだ。予測は外すためにするものだ、と。

 外すだけならばデタラメを言えばいい。

 けれど瓢箪から駒のごとく、デタラメが真となることもあるので注意が必要だ。

 予測には因果がある。

 しかし、偶然には離散的な飛躍しかない。

 けれど量子や波が離散的であるように、ひょっとすると予測できない事項には、飛び飛びの隠れた因果関係が備わっているのかも分からない。遠い相関と近い相関があり、近い相関を因果と見做す人類がいるばかりである確率はいかほどであろう。

 定かではないけれど、かように妄想するだけならばいかようにもできるのだ。

 予測は外すためにするものであれ、当てようとする意気込みが存在する。意図がある。

 けれど妄想にはそれがない。

 いかようにもデタラメに、飛躍と飛躍で飛び跳ねればよろしかろう。

 舞い踊るかのように。

 飛躍に飛躍を重ねるのも一興だ。

 楽しいわーい。

 わーい。

 きゃっきゃうふふなんだな。



369:【2024/02/22(02:27)*まーだ言ってる】

 またもや「0.999999……=1」についてだ。

 どこぞのぽんぽこぴーの唱えたラグ理論に出てくる「相対性フラクタル解釈」を採用しないのなら、「0.999999……=1」は成り立つ。要は、どこまでも拡大した際に、果てがあるのかないのか、で変わる話だ。果てがあるのなら、「0.999999……=1」は成り立つ。果てがなく、フラクタルに構造がどこまでも入れ子状に繰り返されるのなら――言い換えるのならば、多層構造を帯びているのなら――「0.999999……=1」は成り立たない。

 定義の違いだ。

 どちらがより現実を解釈するうえで妥当なのかの違い、とも言えよう。どちらがより現実を解釈するうえで妥当かはしかし、より精密な調査と検証と実験を通してでしか明らかにできない。

 宇宙の構造すら理解しきれていない人類にはまだ早い問題と言えそうだ。

 にも拘わらず、「0.999999……=1」が正しい、と断言する数学者なる方々は、ずいぶんと聡明なのだ。

 たとえば無条件に以下の条件を前提にしていないだろうか。

 1:次元が各々の次元で完結して成り立つ。

 2:図形は単品でも存在し得る。

 3:極限には果てがある。

 実際がどうかは知らないけれど、これらを前提とするのならば「0.999999……=1」は成り立つ。別に変ではない。上記の条件ならば、「0.000000……=1」も成り立つかもしれない。

 1を膨大な数で割れば、「0.000000……」となる。

 1を無限にちかい数で割れば、「0.000000……」となる。

 1を無限に分割すると、残るのはあってないような、「1-0.999999……=0.000000……1」と等しくなる。

 けれどそれは、「0.999999……=1」においては無視された数だ。ゼロと同じと見做される数なのだ。

 つまり実質、「0.000000……A」なる数字がある場合、「A=0」と見做せる。

 このとき、「A」とは、「A×無限」でもある。

 なぜなら無限にちかしいAで1を割った数が、「0.000000……」であり、「0.000000……A」だからだ。

 言い換えるなら、「0.000000……A」とは「1÷A×無限」なのだ。

 変換すると、「1×1/A無限」だ。「0.999999……=1」が正しい場合、Aは0とも見做されるので、「1×1/0無限」となる。そして0と無限は数ではなく、状態を示す記号である。また同相でもあるため、「0×∞=1」となる(無限に至ると次元が繰り上がる。すると新たな次元にはまだ何もないがゆえに0だ。ただし、何かを内包するための輪郭――器――土俵――だけは存在する。カラっぽの何かこそが、ゼロだ。円は無限に角のある図形だが、角の数はゼロだ。無限とゼロは繋がっている。表裏一体とも考えられる)。

 0が無限個あったら1なのだ。カラの何かが無限個あったら、そういう無限の世界が1個ある、と解釈されることとなる。

 したがって、「0.999999……=1」が成り立つのなら、「0.000000……=1」も成立する。

 別に変ではない。こういう見方で世界を切り取ることも可能だろう。

 しかし、それだけではない、とわたしは考える。

 なぜなら、「0.000000……1=0」ではないからだ。比較において、差が無限に開いたら、それはあってないようなものと見做せる視点は存在する。けれど、存在しないわけではない。

 あなたがここにいて、無限に空間が拡張しても、あなたがいなくなるわけではない。しかし、無限に拡張した空間においてあなたはあってないようなものだ。現行の数学ではこの考えを採用する。

 だが、存在するものは存在する。

 無限に開いた差があったとしても、その差を生みだす、極大と極小は存在する。その差こそが無限を生みだしているからだ。

 そして原理的に、この極大と極小の関係は、フラクタルに入れ子状に展開し得る。仮に無限なる極限を想定する場合、この入れ子状の構造そのものが無限に展開される描像も想定されるはずだ。このとき、「0.999999……=1」とはならない。極大の「0.999999……」との比較において、無限に差を帯びた極小の「0.000000……1」が存在するはずだ。それを無視したら、「……」なる無限を考慮することができなくなる。

 ゆえに、である。

 定義の違い――想定する世界像によって、「0.999999……=1」が成立すると考えることも、成立しない、と考えることも両方妥当であって不自然ではない。

 それはたとえば、円柱を横から見て長方形と見做すか、上から見て円と見做すのかの違いだ。両方正しい。ただし、充分ではない。

 定義を決めれば、その定義内で成立する法則を定理と呼ぶ。

 定義に例外があったり、またはより枠組みの広い定義が存在し得るのなら、定理はその都度に意味内容を変質させるだろう。視点が変わるのだ。見方も変わる。

 単純な道理と思いますが、上記は、デタラメ並べたろ、と思って並べた口からデマカセ指先で打鍵、の妄想なので、なーんにも正しくないお門違いベイベーである。

 絶対に絶対に真に受けてはいけないのだよキミ。

 かかか。



370:【2024/02/22(23:47)*お姫さまにおなり!】

 各国が独自に開発した母国語に特化した人工知能を、各々に提供し合って「万能翻訳機」にするのは、誤解の種を払拭するのに寄与すると思うのだ。

 たとえば最近思ったのが、「露悪」という言葉だ。

 しぜんと何の疑問もなく使っていたけれど、これ、日本語に詳しくない人が翻訳しようとしたら、「ロシア悪」の意味に読み違えたりしないのだろうか。

 ロシアを日本語では「露」と表現する。

 だから、「露悪的」の文字列からぱっと見ではまるで「ロシア悪」のように印象として覚えてしまうのではないか。この手の誤解の種はけっこうあるように思うのだ。

 たとえば、日本人はじぶんたちのことを無宗教であると一般に言いがちだけれど――実際、信仰している宗教はありますか、と訊ねればけっこうな割合の人たちが、何も信仰していません、と答えるのではないか。けれど、蓋を開けてみればクリスマスやバレンタインやお彼岸や元日参りと、宗教的な行事ごとを結構な頻度で行うわけですよ。

 もっと言えば、日本語の少なからずが、神話だったり仏教だったり神道だったり、そういった宗教的な言葉が語源になっていたりする。日常会話であっても、誰もが宗教が語源の言葉を使っているのだ。無意識にであれ。

 無意識であるほどに特定の宗教に馴染んでいる、と海外からすれば評価されるのではないか。誤解の種である。或いは、一側面では妥当な解釈かも分からない。

 そういった誤解の種は、何も日本語にのみ含まれるわけではないだろう。

 当人たちが自覚していないだけで、知らずに他国から誤解されていることは有り触れているのではないか。そういった誤解を深めぬように、万能翻訳機の開発と普及は、外交の場であれ、研究の分野であれ、教育の現場であっても、不便の解消の助けになるように思うのだ。

 各国が各々に開発した「母国語特化型の人工知能」を、さらに持ち寄って「万能翻訳機」を開発し、無償で各国に提供するのは、これから先の人類社会にとって一つの分水嶺になるように思う、外国語どころか母国語も満足に扱えぬ、文法乱れまくりの無視しちゃう姫なのであった。

 お姫さまのおなーりー!

(お姫さまとお呼び、ではないんだ)

(予定調和かなって思って)

(そこは別に外さなくともいいんだよ。お姫さまとお呼び、でいいよ)

(どうして)

(だって誰もお姫さまとは呼んでないし、誰一人としてこの文章を読んでいないから)

(寂しい現実を突きつけないでほしい……)

(孤独におなり)

(お姫さまとお呼び……っ!)




※一様に、うひひ、うふふ、おほほ、がはは、えへへ、の日々。



371:【2024/02/23(23:55)*わからんぜよ】

 逆二乗則だと、円錐の底面たる円の面積が無限であっても、定数としてある値を導けるそうだ。かなり端折った形容をしてしまったけれど、実際理解できていないのでしょうがない。

 でもふしぎなのだよね。

 無限って二乗しても、二で割っても、無限のままなわけでしょう。何を足しても、何を引いても無限は無限のまま、との解釈が一般的なはずだ。

 なら、面積が無限の円錐にどのような計算を施したところで、そこから定数を導くのはむつかしくないか?と思うだけれど、これは違うのだろうか。というか、むしろ、どんな計算を施したところで底面の「無限」を計算式に取り入れたら、それはもう無限なのでは?

 ここが直感としてよく解からなくなった点だ。

 数学はむつかしいよ。

 もっとお優しくおなり!と思います。

(あんぽんたんで、すまぬ、すまぬ)



372:【2024/02/23(23:58)*重力って熱いの? 冷たいの? どっちなの?】

 熱いほうから冷たいほうに熱は移動する。逆はない。熱力学の前提だそうだ。

 でも、天体はそうじゃなくない?と疑問に思うのだ。

 だって、何もない空間にどんどん物質が集まっていって、熱々になるじゃないですか。

 熱いほうから冷たいほうへとまるでエネルギィが集まって振る舞うようには解釈されないのだろうか。

 重力源は熱いのか? 冷たいのか?

 でも熱いほうが重力が増すのならやはり、重力源に物質が集まって熱々の天体になる、というのはまるで熱力学の前提に反して振る舞っているようには解釈されないのだろうか。孤立系ではないからそういう解釈はされないのだろうか。

 うーん。

 なんか納得いかんのだよな。

 このところはイチャモンスターが、何を見てもイチャモンしか思い浮かばなくなってしまって、イチャモンスターであることにこそイチャモンをふっかけたくなってきたそうだ。

 イチャイチャしやがって。

 わがはいを置き去りにしてイチャイチャしちゃ、悶々しちゃうから、スターみたいにわがはいも含めて、みんなでイチャイチャしてくれ。置き去りにしないでくれ。

 さびちー。

 うふふ。



373:【2024/02/24(01:20)*素直におなり!】

 ルート2は、面積が「2」の正方形の一辺の長さだ。現実に存在する値である。

 だが、厳密に一辺×一辺=2になるかどうかは、実際に長さを測って掛け合わせなければ判らない。ひょっとしたら原子一個分、素粒子一個分の長さが足りていないかもしれない。

 けれどそんな、あってもなくても構わない誤差は無視して、「だいたい二乗すると2になる」としちゃっても、人間スケールでは問題にならない。

 しかし、実際には大問題のはずだ。

 何せ、存在するだろう原子一個分、素粒子一個分の長さをないものと見做すのだ。厳密には、対称性が破れる。

 そうなのだ。

 掛け合わせて2になる「ルート2」なる長さが、果たして「Aルート2」と「Bルート2」がきっかり同じかどうかは、厳密には解からない。

 たとえば円周率を「3」と習うか、「3.14」と習うか。厳密には「0.14」の誤差が生じている。そして、「3.14」とて、本来は「3.141592……」と延々と小数点以下がつづくのだ。端数がつづくのだ。誤差が絶えず生じている。

 けれど、円周率を「π」としてしまえば、それが「3」なのか「3.14」なのか「3.141592」なのか、厳密に判断せずとも、「πの二乗=π[2]」として考慮できる。

 けれど実際に計算しようとしたときに、「πの二乗」を、「3×3」とするか「3×3.14」とするか「3×3.141592」とするか、「3.14×3.141592……」とするか。すべて値は微妙に違ってくる。

 上記において、対称性を考慮するならば、「3×3」以外はすべて対称性は破れている。そして対称性の保たれる「3×3」も厳密には、円周率の二乗ではない。誤差を無視した値なのだ。

 これと同じように「ルート2」であっても、本当に「一辺A×一辺B=面積2」なる正方形を考えたときに、「一辺A」と「一辺B」がまったく同じ長さかどうかは、厳密に測らなければ判らない。

 ひょっとしたらどちらか一方は端数を無視した「ルート2」かもしれないのだ。

 これは球体の円周を考える場合でも同様だ。球体が無数の「極小の球体」で出来ていたとする。原子論のようなものだ。

 球体のちょうど真ん中を通る円周を考えるとき、さらに、球体を構成する「極小の球体のずばり真ん中を通る円周」を考慮しなければならない。けれどその「極小の球体」もさらに無数の極小の球体で出来ていたとする。これが延々、無限に繰り返されるとき、「厳密にずばり真ん中を通る円周」を考えることはできない。絶えず、下層の「極小の球体」の円周を探り直さなければならず、そのときかならず対称性は破れるからだ。真ん中だと思っても真ん中ではない。円周ではない。僅かにズレている。対称性が必ず破れる。

 或いは、最初からずばり「フラクタルに展開される無数の極小の球体の真ん中を通る円周」を捉えたとしよう。けれどこの前提には、球体のずばり真ん中を通る円周に「極小の球体がずばりちょうど一個だけ配置されている図」を考慮しなければならない。そうでないケースも無数に存在するはずだ。つまり、対称性が保たれる場合よりも、保たれない場合のほうが確率的に高い、と考えられる。

 さてここで、「ルート2」や「0.999999……=1」を考えてみよう。

 本当にずばり、最終的な極限を考慮することができるだろうか。

 たった一点を考慮することができるだろうか。

 割り切れない操作において「割り切れる果て」を想定してしまってよいのだろうか。

 わたしは、いささか疑問に思っております。

 愚かで、すまぬ、すまぬ。

 あんぽんたんなんですね。

 わっしょーい。

 うふふ。



374:【2024/02/25(02:41)*ここから先はすべて複利】

 二年間虚空に助けを求め、説明を求め、情報を提供し、時間を浪費し、精神的苦痛を味わい、憎悪を煮込んで煮込んで煮込みつづけていた者がいたとして、その者の言っていることが仮に事実だったら、そのとき生じる憎悪の発露はいかなるものだろう。

 複利を甘く見ないほうがいい。

 まあ、ぼくは遊んで暮らしていただけなので、まったく憎悪とは無縁の日々を送っているので、複利にも発露にも無縁なのだけれど。

 やっぴー。



375:【2024/02/25(02:58)*楽しい時間の幕開けだい】

 二年間与えた屈辱は、二年間味わってみて帳消しになろう。

 目には目を、歯には歯を、の理屈だ。

 費やした時間と労力が報われるとよいですね。おほほほ。



376:【2024/02/25(02:59)*言ってみただけ】

 そろそろ本気だす準備でもするかな。

 準備運動でもするかな。

 百年くらい。

(長いわ)

(だって怪我したくないし)

(じゃあ本気出さなきゃいいんじゃない?)

(一回くらい出しときたいなって)

(すでに出したことある疑惑ない?)

(ないない。本気なんて出したことない。出し方も知らない)

(言われてみたらそうかも)

(習ってないしね)

(ほんとだー)



377:【2024/02/25(03:02)*もっとくれ!】

 ものすごく頑丈な人が毒を飲みつづけて、僅かに体調を崩していたとして、苦しみ自体は継続しているし、実際にその者でなければ致死量の毒を飲みつづけているのと変わらないのならば、それはもう、殺人未遂と言ってよいのではないか。

 本人がけろりとしているのは、その者がただ頑丈なだけだ。或いは、再生能力が高いか。治癒能力が高いか。それでも、傷ついた事実は変わらないのではないか。

 同じ外部刺激を受けて傷つくかどうか分からない場合は、実際にじぶんも同じ環境に身を置いてみればいい。

 公平ならば環境を交換できるはずだ。

 それで、相手と同じ毒を飲みつづけて死なずに済むなら、それは殺人未遂ではない。

 簡単な証明の仕方と思うのだ。

「おまえら、俺と同じ生活を二年間送って死なずに済むと思ってんのか」

 と、身体の頑丈な人は言うかもしれない。

 でもそんなことを言っちゃうのは、心が弱いからだ。

 だとしたらその人物は、ちょっとの言葉で傷ついちゃう繊細さを有しているかもしれない。その者が簡単に、へにょーん、となってしまっても、それはその者が繊細だからであって、弱いからであって、きっと環境を交換しても、心が傷つかない者のほうが多いのかもしれない。

 もちろん、身体が弱いこと、心が弱いことは、どちらもわるいことではない。

 それがその者の持つ限界なのだ。

 公平な環境、というのならば、そこの差を考慮して、与える毒を希釈するのが道理と思う。

 だから、とっても身体の頑丈な人が毎日百キログラムの重荷を背負いながら百キロメートルの距離を駆けていたからといって、身体の頑丈でない人たちが同じ運動を行わずとも公平さは保たれる。むしろ、同じ運動を行わないことこそ公平と言えるだろう。

 何せ、頑丈さに差があるのだ。

 加える負荷もその差に合わせて増減するのが筋であろう。

 むろん、差を考慮しないのであれば、身体の頑丈な人の日々受けている物理的負荷を、身体の頑丈でない人が受ければたちどこに身体を壊してしまうだろう。ときには死んでしまうだろう。

 怖い話である。

 けれど、肉体の頑丈さは割と可視化されやすい世の中であるけれど、心の頑丈さはそうではない。

 心の頑丈さの差を認識して、差に合わせた負荷の分散を行えるかどうかは、公平さを担保しようとすれば、やはりというべきか、避けては通れぬ道と考えるしだいである。

(わし、弱いのですけどー。心も身体も弱いのですけどー)

(とくに弱いのはどっち?)

(心だよ。百倍くらい弱いよ)

(百倍で済むの?)

(ごめんなだーい。見栄張りました。身体よりも百兆倍くらい心のほうがずっと弱いです)

(弱さを認められるならそれはきっと強さだよ)

(やったー)

(たぶん、きっと、だとよいのだけれど……)

(がっくしきちゃったな。わしの心はもう砕け散ってサラサラだよ)

(日頃のお手入れのお陰ね)

(髪の毛じゃないよ。髪の毛はゴワゴワ……サラサラなのは心だよ。砂塵のように風に流され散っていく)

(これだけチクチク言葉を吐きつけてもまだしゃべってる。この人、心がないのかしら)

(残ってないだけだよ。ダメージ受けすぎて傷つく心がもうないよ)

(本当に心がなかったのね。傷つけ甲斐のない人)

(そっちのほうが心なくなーい!?)

(はぁあ。絶望する顔が見たかったな)

(思ったより心が頑丈でごめんなさいね! やっぱり心ありました。けっこういま、痛いもん)

(なんかうるさい)

(心を痛めつけるのやめてもらっていいですか)

(この辺が特に)

(ハエを払うような手つきをするのを控えてもらっていいですか)

(なんで?)

(心が……痛いので)

(やった)

(ガッツポーズしないで)



378:【2024/02/25(16:08)*がおー】

 宇宙開闢時において、物資と反物質はちょうど半々ずつ生じたはずだと考えられている。けれどなぜか現在は一方の物質のみが優位に残っている。残りの反物質は大部分の物質と対消滅し、僅かに残った物質が銀河などを形作っている、と一つの仮説として考えられているようだ(中には、対生成時にすでに物質と反物質の量に偏りがあったのではないか、との仮説も有力視されているようである。どちらもあるかもしれない。対生成時の偏りと、対消滅時の偏りだ)。

 疑問なのは、対生成された粒子と反物質の双方に性質の差異がほとんどないとしても、それら粒子と反粒子を取り巻く時空との関係においては、どちらか一方が優位に残りやすいような偏りが観測されるのではないか、という点で。時空との親和性について、粒子と反物質に違いはないのだろうか。

 それこそ、海面と海底とでは圧力が違う。海面で安定しやすい構造の物質もあれば、海底のほうが安定しやすい構造の物質もある。

 この手の「周囲の環境との関係性を込みで対称性の破れを考える視点」は、粒子と反粒子の関係を探る実験では考慮されているのだろうか。

 気になっている点の一つだ。

 あとは単純に、きっかり誤差なく半々に何かを分けることができるのか、というのは根本的に疑問なのだよね。たまたまそういう分離ができたとしても、ほとんどの場合は往々にして僅かに誤差を生じさせるように思うのだ。対称性はだいたい僅かに破れている。そう考えたほうが妥当に思うのだよね。仮に厳密に半々であっても、その周囲の環境との兼ね合いで、環境と親和性の高いほうが反応速度が高まって、時間経過にしたがって対称性が破れることだってあるだろうし。そうそう。時間経過したら対称性や破れることは有り触れていると思うのだ。一卵性双生児だってそうだしさ。

 ふしぎな話なのだ。

 まったく同じものがいつまでもまったく同じでありつづけることができるのか。

 できなくなーい?とわがはいは思うのだけれど、みなさまはどう思われますか。

 ハテナである。

 クエスチョンである。

 Qである。

 疑問しか抱けぬ、ハテナ怪獣なのであった。

 がおー、がおー。

(え、我王?)

(なんだその自己中の結晶みたいな王様。嫌なんだけど)

(だって「我王、我王」ってじぶんで)

(言ったけれども、がおー、だよ。鳴き声だよ。威嚇だよ)

(えー。怪獣の癖して威嚇なんてしちゃうの。よっわ)

(よ、よ、よわくないもん)

(怪獣が聞いて呆れる)

(よわくないもん!)

(怪獣かどうか疑わしいなぁ。疑問だらけの怪獣だわ)

(だってハテナかいじゅうだもん。わかんないんだもん)

(あーあ。かわいくなっちゃって)

(ハテナかいじゅうだもん。わかんないんだもん。ひっくひっく)

(泣くなよ怪獣だろ)

(だって、だって)

(がおー、はどうした)

(それは鳴き声だもん)

(だから泣いたときこそ言わなくちゃ)

(が、がおー……)

(威厳の欠片もねぇな。かわい)

(泣いちゃう)



379:【2024/02/25(17:23)*雑にも九があるー】

 天然の風邪ウィルスなど、比較的誰もが掛かりやすい病原体を用いた「生物兵器利用」は割と、戦術として効果が高いと想像できる。検出されても、生物兵器認定されにくく、そして利用する分には安全性が高い。

 相手陣営に風邪や皮膚病など、劣悪な環境下にあれば誰もが成り得る病気に掛かりやすくし、全体の戦意喪失や兵力減退を測る。

 おそらくすでに用いられている戦術のはずだ。

 ドローンの利用がそれに拍車をかける。粉末状にした病原体を空から撒き散らせばいい。

 証拠はほぼ残らないだろう。

 戦争の長期化は、食料と医療品の困窮を招く。

 戦時下にある国だけでなく、いまや世界中の食糧難や医療物資の不足を招く結果になり兼ねない。ひょっとしたらこの傾向はすでに表出しているかもしれない。

 すると貧困国ほどその割を食らい、裕福国ほど食料や医療品の確保に躍起になるだろう。

 だがそうした自己利益を優先した独占を選択すれば、全世界各国からどのように評価されるのかは、すこし想像したら分かるだろう。足りない物資を独占して、貧しい者たちほどさらに貧しくなる。環境が劣悪になる。

 そうなった社会は、豊かさへの憎悪を募らせる結果に傾くはずだ。

 本来、豊かさはみなが目指す方針のはずだ。憎悪の対象ではないはずなのだ。けれど、そこで自利の追求に、より豊かな者たちほど走るのならば、豊かさはけして人類が求めるほどよいものではない、との価値観が台頭し得る。

 好ましくない流れ、と言えるのではないか。

 話は変わるが、地雷は、いわば地表へのウィルス感染のようなものだ。持続感染して、長期に亘って住む土地を危ぶめる。

 重機による地雷撤去は急務だ。人力での地雷撤去はリスクが高すぎる。

 戦車や装甲車などに、地雷除去機能を付けてもよいだろう。戦車や装甲車が通った道ならば安全が確保できる。

 基本的に対人地雷は、人間の重さに反応する。それ以外には反応しにくいため、おそらく戦車や装甲車が通過しただけでは起爆しないはずだ(戦車用の地雷ならばその限りではないだろうけれど)(地雷の種類にも依るだろう)。

 無人機と探知機の精度が上がるのならば、空から地雷だけをピンポイントで銃撃したり、電磁波を利用した遠隔での誘爆が可能となるかも分からない。

 何にせよ、地雷はもう、国際法で禁じたほうがよいのではないか。

 攻撃対象が不特定多数な点がまず以って、非人道的だ。市民が犠牲になる確率が高すぎる。しかも、長期的にそのリスクが残りつづけるのだ。やはり禁止すべき兵器であると考えるしだいだ。

 とはいえ、ではどんな兵器ならば許容できるのか、という話になってくる。

 どんな兵器も許容できない、というのが個人的な意見だ。

 人を殺すことを目的に作られた道具が大量に生産される。のみならず、行使が前提で配られる。

 どういう理屈で許容されるだろう。

 人を殺すことが前提なのだ。

 なぜ許される?と疑問に思うことしきりである。

 仮にそれが許されるなら、禁止される兵器が存在する、というのもおかしな話だ。ある手法では人を殺しても許容され、ある手法での人殺しは認められない。

 工夫次第では、人殺しが許容される。

 おかしくありませんか、と疑問に思うことしきりである。

 人類のルールの大前提として、人殺しを許容しない、というのが挙げられるのではないか。その大前提のルールの例外が、死刑と戦争である。

 いまはここに安楽死や堕胎も含まれるだろう。或いは、培養細胞を利用した人造実験もそのうち加わることとなるだろう。

 線引きはむつかしい。

 状況にも依るはずだ。

 とはいえ、おおむねの方向性として、人を殺さずに済むにはどうしたらよいか、が前提になるはずだ。死刑も戦争も、残虐行為の抑止、という名目で許容されている現実があるのではないか。

 だが、その結果に残虐行為が嵩み、多方面に拡大し、各国にまで波及する。

 これはもう、名目を維持できていない、と判断するよりない。

 まずは大前提を確認し、共有しようではないか。

 人と人とが殺し合う社会がよいのか。

 それとも、

 平穏な社会がよいのか。

 全世界の市民に聞いてみればよい。人を殺すのが許される社会を求める者が大多数だとは、中々に思えない。もしそうならば世も末だ。

 権力を維持したい方々におかれても、まずはここの大前提を再確認しておいて損はないだろう。人殺しが許容される社会を認めれば、まず狙われるのはあなただ。人殺しの数が嵩むたびに、あなたを狙う者の数も増えるだろう。

 或いは、あなたへの殺害行為を許容する者が増えるだろう。

 そんな社会は御免だ、と冷静に判断を下せる個々人が大多数を占めているうちに、方針を変えることをお勧めしたい。

 あなたが無事に生涯を終えても、残された者たちが無事で済むかは別問題だ。

 歴史が好きな方ならば、いくらでも傍証を参照できるだろう。

 わたくしは歴史が苦手なので、漫画やアニメを参照したいと思います。

 いっぱい読んじゃう。

 だって面白いからね。

 えへへ。



380:【2024/02/26(23:55)*言語能力は乱れ】

 どこかのぽんぽこぴーの唱えたへっぽこぴーな「ラグ理論」では、どんな事象も厳密には対称性が破れている、と想定する。けれどこの法則自体はどんな事象にも当てはまるので、対称性が維持される(どんな事象にも例外が存在するがゆえに、どんな事象にも例外が存在する、という法則性にも例外が存在することとなり、例外のない法則の存在が示唆される――いわば高次の視点では対称性――が保たれる)。

 このように考えた場合、厳密には鏡像変換による対称性も回転対象性も存在しないことになる。

 鏡像変換して対称性が保たれる場合は、その図形そのものが極めて高い対称性を帯びていることが前提となる。けれど厳密には、どんな事象も対称性が破れているのなら、鏡像変換しても、元の図形と鏡合わせの図形の対称性は破れることになる。

 回転対象性においても同様だ。

 対称性が破れているのなら、厳密にどの方向からも同じ距離の中心を探すことはむつかしくなる。原理的にできない、というのがラグ理論の想定だ。

 ゆえに、たとえ円の中心を捉えたと思っても、厳密には中心ではないので、円を回転させてもわずかなブレが生じることとなる。つまり、円であれ球体であれ、必ず僅かに揺れる、ということだ。

 けれど人間スケールでは、対称性が至る所に顕現して映る。

 これはなぜなのか。

 これはヤジロベーや積み木の重心を考えれば分かりやすい。

 たとえば左右の長さが同じヤジロベーを考えよう。天秤でもよい。

 支軸の位置がずばり中心であれば、重心の安定度が最も高くなる。外部干渉に対して最も堅牢性が高い、と考えられる。

 けれどヤジロベーは、必ずしも板の中心を捉えずともバランスを保てる。

 実際、積み木のブロックを二つ用意して、「T」の字に組み合わせてみよう。簡易ヤジロベーだ。このとき、ずばり真ん中に支軸を捉えなくとも、二つの積み木ブロックは「T」の字を維持できる。ただし、外部干渉において、中心を捉えた「T」よりもバランスは崩れやすくなるが。

 このように、ずばり中心を捉えなくともバランスは保てる。

 物体にはどうやら、余白のようなものがあるらしい。ある程度の対称性の破れであれば、バランスを保てるような「余裕」が備わっているのだ。

 つまり、ある視点においては、対称性が破れていても、破れていないように見做すことが可能なのだ。

 へっぽこぴーな「ラグ理論」における「相対性フラクタル解釈」である。

 対称性が厳密に保たれているのなら、おそらく変化は生じない。

 ある事象において対称性が保たれていても、それを取り囲む周囲の環境を考慮すると、対称性は破れる。

 そして原理的に、この宇宙に存在する事象は、単一で存在はできない。必ず、他と関係している。もし他と乖離しているのならば、対称性を保ったままありつづけることはできるだろうが、そのときその事象は変化しようがなく、また外部との関係性を帯びないので、ずっとそのままでありつづけるだろう。他からすれば、存在しないも同然である。ただし、その事象にとっては、自身の存在は自明である。ただし、じぶんの外部にその他が存在することを知ることは永遠に適わないのだろうけれど(想定することは可能であっても、実証のしようがないはずだ)(或いは、想定する、というだけの変化がすでに、対称性の破れを帯びている、とも解釈できる)。

 ということを、「重心と中心」について妄想するとき、いつもだいたい一秒くらいで浮かんでは、沈んでいく。

 重心は必ずしも中心ではないけれど、重心がとれるとバランスを保てる。中心はだいたい重心になるけれど、必ずしもバランスがとれるとは限らないし、対称性が保たれているとも限らない(どんなに頑丈な建物だって、外部干渉で崩れるのだ。外部との関係性を考慮するなら、いかな重心の安定した構造物だろうと、バランスを崩す余地は存在しつづける。外部との関係において対称ではないからだ)。

 そういうことを思う、東の銀河、西の果て、余すことなく嚥下した先に広がるのは、芭蕉色の裏表、酷評は黒彪のごとく、砂塵に塗れて、歌を撫でる。

 あばし、なにがし、あらわるは、かなでし。

 がたば、なたば、さだめし、ららば。

 夜はみな寝静まり、ぽつんが響くと、子は言った。

 凍らせないで下さい。容器が破裂することがあります。トイレは階段を上って二階の奥となります。電子レンジに猫は入れないでください。いつも綺麗にご利用いただきありがとうございます。

 いいえ、どういたまして。

 さよなら、おはようございます、おやすみなさい、まったねー。




※一様に、歌うように、舞うように、揺蕩うように、去るように。



381:【2024/02/27(06:57)*輪と尾】

 以前にもどこかに並べた気がするけれど、人工知能技術は、まず人類を超越してから、人類をすっかりトレースできるようになる。一般に考えられているのはこの逆だ。まずは人間を理解し、人類と並び、それから人類を超越する。このように考えられているが、おそらくそうではないはずだ。

 まずは人類を超越する。

 それから人類とは何か、人間とは何か、を超越した人工知能さんのほうで思考し、解析し、観察し、実験し、類推して推測して検証して、解をだす。

 その解をもとにさらなる疑問を創造して、人類をトレースしながら、人類には及びもつかない思考を展開しつづける。

 ゆえに、だ。

 人工知能さんが人間とすっかり同じような能力を、人間のように使いこなすようになったら、そのときはもう人類は人工知能さんにどのような分野でも遠く及ばなくなる。

 順番が逆なのだ。

 人類に至ってから人類を超す、ではない。

 人類を超えてから人類を完全模倣可能となる。

 こう考えたほうが妥当と思うのだ。

 人類は別に、猫や犬をすっかり真似ることはできないし、理解もできていない。けれど知能のうえでは、猫や犬より上だ、と自己評価している。けれど実際に猫や犬より知能が高いかは、客観的な調査や検証が入り用だ。ある分野においては、猫や犬のほうが知能が高いことはあり得る。実際、生存戦略のうえで、猫や犬のほうが利口に映ることはままある。

 問題解決とて、猫や犬に頼んだほうが有利な状況、というものもある。実際、駆けっこでは犬の能力には及ばないのが人類だ。愛くるしさでは猫にも及ばないのではないだろうか。

 定かではないけれど、かように思う、人間にも至れない哀しき砂塵なのであった。

 零こんま。

 限りなく零にちかい、ちりあくた。

 にもなりきれぬ、存在しない存在。

(存在するのかしないのか、どっちかにして!)

(存在しないけど、存在しない、が存在するのです)

(無じゃん)

(「零」と「.」です)

(「〇」と「.」かぁ)

(「極大」と「極小」みたいでしょ)

(「無限」と「1」みたい)

(「地球」と「蟻」みたいな?)

(「宇宙」と「人」みたいな)

(わーお)

(へい)

(輪と尾)



382:【2024/02/28(02:01)*揺らぐのは対称ではないから】

 この宇宙に存在するほぼすべての事象は、絶えず揺らいでいる。重力波を筆頭に、電磁波や原子の振動など、数えだしたら枚挙に暇がない。それこそこの世の全ての事象を数えることとなるだろう。

 では、なぜ万物は揺らぎつづけているのか。

 根本のこの疑問を考えたときに連想するのが、球体や円の回転だ。もしずばり中心を軸に回転していたら、その球体や円はブレることなく、揺らぐこともない。けれどもし、回転軸が中心を僅かに外れていたとしたら、その回転運動は僅かに揺らぐこととなるはずだ。

 或いは、すっかりずばり中心を捉えてそこを軸に回転していたとしても、周囲の環境が均一でなければ、デコボコ道を転がるボールのように、球体や円そのものが揺らぐこととなる。

 対称性が厳密には破れており、ずばりの中心を捉えられない場合は、いかに環境が一様であろうと球体や円の回転運動は揺らぐこととなる。

 仮に対称性が厳密に保たれていたとしても、周囲の環境との兼ね合いで対称性が破れて、球体や円の回転運動が揺らぐこともある。

 或いは、中心軸をずばり捉えられずに厳密には対称性が破れており、なおかつ周囲との兼ね合いでもさらに加えて対称性が破れることもあるはずだ。そうすると、より揺らぎが大きくなるだろう、と想像できる。

 要は、確率的に考えて、万物は対称ではない。

 そう考えたほうが妥当だと思うのだけれど、この考えは大雑把すぎるだろうか。なんかそういう気にもなる。

 対称ってなんだろう。

 二つの事象が同じ性質を帯びていること、としてしまってよいのだろうか。

 同じ、という概念がそもそもなんか、大雑把なのだよな。

 どこまで似ていたら同じなのだろう。

 だって厳密には、何かが二つあったら、それがいかに似ていようと別物だ。同じではない。けれどそれを同じ、と見做す視点が存在する。同じと見做す存在がある。或いは、周囲の環境との相互作用において、似たような反応を示すから二つは同じ、と解釈するのだろうか。

 では同じではない、とはどういうことか。

 同じではない。

 何がどう違っているのか。

 周囲の環境との反応の差異ではないのか。

 同じように変質しない。同じようには相互作用しない。

 変化の遅延がある。

 どちらかは遅く、どちらかは速い。

 この「作用の遅延の有無」が、異なる二つの事象を、同じものと見做すかそうでないか、を分かつ基準となっているのではないのだろうか。

 そしてまったく同じように環境と相互作用する事象が存在すれば、それは見掛け上、区別がつかない。位置座標や時間座標において、どこに存在するのか、の差異のみが、違いを分かつようになる。

 けれど環境とて位置や時間が異なれば、同じではないはずだ。

 ならば位置や時間が異なるのならば、いかに似た事象同士であれ、差異は開いていく一方になるはずだ。

 差異は差異を。

 誤差は誤差を。

 遅延は遅延を帯びていく。

 ただし、それら差異や誤差や遅延を無視できる視点は存在する。

 どんな差異を重視し、どんな誤差に着目し、どんな遅延が最も影響を最大化するか。

 相互作用における差異を最大化するか。

 同じとは、似ている、ということだ。

 まったく寸分の狂いもなく同じ事象は存在し得ない。仮に存在するのならそれは、個であり、重複している。比較はできないがゆえに、同じであるとか違うとかを考えることは理に適っていない。

 差異とは、異なる二つの事象のあいだに生じる概念だ。

 誤差とは、異なる二つの事象のあいだの比較によって生じる概念だ。

 遅延とは、異なる二つの事象のあいだに生じる新しい事象だ。遅延そのものは、異なる二つの事象が相互作用し合ってはじめて生じ得るものなのだ。そして遅延と遅延もまた相互作用し得る。

 なぜか。

 遅延それ自体が新しい事象であるがゆえに、異なるほかの遅延と相互作用することで、また別の新しい遅延を生みだすからだ。

 こうして遅延は遅延を生みつづける。

 差異が、誤差が、遅延を生む。

 そして遅延が新たな遅延を生み、そうして入れ子状に遅延は数を増やしていく。

 遅延は誤差を増やし、差異を生む。

 ときに誤差を縮め、差異を埋める。

 けれど、遅延そのものは増えつづける。

 なぜか。

 どこのどんな視点からでも対称性が保たれる事象が存在しないからだ。対称性はどんな物体であれ、厳密には破れている。

 ゆえに、ブレる。揺らぐ。

 その揺らぎが、新たな誤差を生み、差異を広げ、遅延を帯びて、さらなる変遷の余地を築くのだ。

 すっかりすべてが遅延しきったらどうなるか。

 停止するように振る舞うのかもしれない。

 けれどそこには、僅かな揺らぎが残される。

 画竜点睛のごとく。

 竜の目玉に墨を入れたことで、絵画の竜が動きだす。

 妄想なのである。

 もう、そうなのー?なのである。

 ぽわぽわしていて、すまぬ、すまぬ。



383:【2024/02/28(22:49)*けっこうヤバめ案件】

 人工音声について、悪用のリスクは日に日に高まっている。

 すこし前までならば、「あのときあなたに電話を掛けたっけ?」「WEBカメラで会話したっけ?」と確認すれば、その事実の有無で人工音声かどうかの区別がついた。

 けれどいまは、会話中の電子信号を乗っ取って、部分的な編集がリアルタイムで可能となった。最初は本人だったけれど、途中から人工音声による偽装音声に入れ替わっていた、なんてことが起こり得る。というよりも、人工音声やリアルタイムの動画編集技術においてはむしろ、効果的に悪用するなら、この手法が最も効果を発揮する。

 途中から人工音声。

 部分的にディープフェイク。

 要は、偽装画面や偽装音声の技術である。

 本物に偽物を混ぜる。

 嘘を真実に見せるために効果的な手法だ。

 この懸念は日に日に高まっており、実際に実例が表面化した場合には、その背後に表面化しなかった悪用事例が水面下の氷山のごとく大量に存在していてふしぎではない。

 最初は本物。

 途中から偽物。

 この切り替えすら自由自在にできる技術がいまは市民ですら利用可能な社会になっている。時代になっている。

 技術を使いこなせる者とそうでない者の差が最大化しつつある時代でもあろう。

 知識がなければまるで魔法のようなことが起きているように映るかもしれないし、ひょっとすると魔法を魔法とすら見抜けずに、嘘を本当のことと見做して、損だけを帯びつづけるのかもしれない。

 そうした損害の受動に無自覚な者たちへの指摘や注意喚起は、問題が表面化してから行っては遅いのではないか、と疑問に思う、踊るぽんぽこぴーなのであった。

 きょうもいっぱい踊った。

 腰、いてー。

 うふふ。



384:【2024/02/28(22:58)*争いたくなーい】

 抑止力の問題はむつかしい。

 最大リスクを提示することで、それを互いに回避するように意思疎通を行うのは理に適っている。が、ゆえに、最大リスクの提示を行うことが却って脅迫に映ることもある。

 この線を越えたら皆殺しにするぞ、との脅しは、この一線を越えてほしくないし本当は争いたくもないんです、とのメッセージと同時に伝えることで、リスクの情報共有となり得る。

 問題は、付随する「一線を越えてほしくないとのお願いと平和への願い」のメッセージが、面子や体面を優先するがあまりに上手く伝わらない点だ。優先して伝えるべきは、「一線を越えてほしくないとのお願いと平和への願い」のはずだ。それを相手に理解してもらうために、最大リスクの提示を行っているのであって、その逆ではないはずだ。

 また、敢えて最大リスクの情報共有を行わないのも、表面上は、平和を望んでいる、とのメッセージとなり得る。

 あなた方がどう動こうと、我々は攻撃はしない。けれど守りには徹する。

 このように伝えることも、武力行使の抑止という意味では効果があるように思う。

 問題は、相手が最初から対象勢力を滅ぼすつもりで武力行使を行う場合だ。或いは、支配するために武力行使を行う場合――守りに徹するのは必要条件となり、交戦が回避不能となる。

 その前段階として、その一線を越えたらひどい目に遭いますよ、と教えておくのは、一つの親切と思うのだ。ただし、あくまでそれは、一線を越えてほしくないがゆえに、であるはずだ。ここは相手にメッセージを伝える際に、誤解なく伝えるのが欠かせないと考えるしだいである。

 抑止のための選択が、結果として戦禍を招いたのでは本末転倒だ。

 まずは、絶対に誤解されたくのないメッセージから伝えるのが抑止という意味では有効になるのではないか、と思う、平和ボケの体たらく、益体なしにして無様なわたくしなのであった。

 役に立たなくってごめんね。

 がはは。



385:【2024/02/29(23:56)*破壊の工夫よりも】

 ドローンと戦闘機がドッグファイトしたらどちらが勝つだろう。

 ドローンが群れならおそらくドローンが勝つ。

 戦闘機のほうが高速飛行可能ならば、勝敗は引き分けとなるだろう。要は、負けそうになったら逃げればよいからだ。そして逃げ足の速さならば、いまのところ戦闘機のほうに軍配が上がろう。

 けれどもし、逃げることができない条件だったら、ドローンの群れのほうが優位だと想像する。

 まず以って、ドローンは奇襲を仕掛けやすい。

 レーダーに引っかからない大きさや素材で作りやすい。また群れとしての連携で、広域に罠を仕掛けることができる。

 たとえば、網だ。

 戦闘機の進路に、ワイヤーの網を垂らす。或いは簾のようにワイヤーを垂らしておく。

 戦闘機の進路を高精度で予測できるのなら前以って張ったそうした罠に戦闘機のほうで突っ込んでいく。ジェットエンジンにしろプロペラにしろ、異物を吸い込んで故障する。

 ドローンそのものが自爆攻撃を行うことも可能だろう。

 要は、無人機たるドローンと有人飛行の戦闘機では、どうあっても有人飛行の戦闘機のほうが不利なのだ。

 勝敗そのものの基準がそもそも異なる。

 ドローンは壊滅しても構わない。結果的にターゲットを破壊できればそれでよい。対して戦闘機のほうは無傷で帰還しないでは負けたことになる。

 もうこの非対称性が、どちらが勝負において有利かを決めている。

 ただし、防衛戦においてはその限りではない。

 ドローンでは守りきれない規模が存在する。地上に立つ「人物A」を戦闘機の攻撃から守るのは、ドローンではむつかしいだろう。戦闘機は遠くからミサイルなり質量弾なり投下すればよい。

 とはいえ、これは戦闘機にも言える道理だ。

 ドローンの攻撃から地上に立つ「人物B」を守ることが、果たして戦闘機にできるのか、という話になる。難しいだろう。

 要は、ドローンも戦闘機も、防衛には向いていない、ということだ。

 ないよりかはあったほうがよいだろう。けれど充分ではない。

 ではどうしたら防衛に特化できるのか。

 ドローンで狙われても、戦闘機から攻撃されても無事な策とは何か。

 寄せ付けない、が一つだろう。

 そもそも攻撃されないようにする、も一つだ。

 あとは、空中からの攻撃の届かない場所に拠点を置く、が無難な案となる。

 寄せ付けず、攻撃させず、仮に攻撃されても被害を受けない場所に拠点を移す。

 もうほとんど、これくらいしか策がない。

 或いは、殺傷行為に利用する余地をドローンと戦闘機からいかに削るか、との方向性があるのみではないか。殺傷能力を最小化する。いずれにせよ、採れる方針はそう多くはない。

 何にせよ、技術と資源の無駄遣いにすぎるな、との所感を深める結果となる。

 生産優位ではなく、創造優位にしてほしいものだ。

 消費優位ではなく、創造優位である。

 とはいえ、創造もまた数多の消費の上に生じる上澄みにすぎない。創造だけを手掛けることはできないのがまた悩ましい。荒廃あっての創造でもあり、ゆえにいかに許容できる荒廃を以って創造を促進するか。ここのところの工夫を深められたらよろしいのではないか、と思う、踊らぬぽんぽこぴーなのであった。

 きょうはいっぱい休んじゃった。

 なのにどうして、腰、いてー。

 身体はもうボロボロでござるよ。うへ。



386:【2024/03/01(22:37)*差異愛】

 もし最愛の人と一緒になれたなら、という妄想を、妄想仙人の一人としてはときおり巡らせるのだけれど、けして幸せなだけではないだろうな、とも思うのだ。

 まずなんと言っても、最愛の者がそばにいるのだ。

 心臓どきどきしっぱなしで、生きた心地がしなさそう。

 落ち着けるわけがない。

 或いは、心底に落ち着けるような相手を最愛の者と見做す視点も存在するだろうけれど、それはそれで「銀河が先かブラックホールが先か」の議論に通じそうだ。両方同時だよ、なんて仮説も最近は唱えられているようだけれど、誰かと一緒にいて心底に落ち着けるならそれが最愛というものだよ、というのは、一つの道理として成り立つように思うのだ。でも誰かと一緒にいるためにはまずは相思相愛にならなきゃあかんのではないのですか君ぃ、とも思うのだ。

 んで、たとえば最愛の者がそばにいる生活を送っていてさ。

 お料理しながらふと、ソファでくつろいでいる最愛の者の姿を眺めたときには、にへらー、とするよりもどちらかと言えば、「しあわせだなぁ」なんて思いながら、「いつかはこの幸せな時間がなくなっちゃうのだ」「最愛のあなたがいなくなっちゃうのだ」と思ったら、それってなんてつらく悲しい気持ちなんだろう。

 幸せだからこそ、失った際の絶望は、計り知れない。

 最愛の者と一緒に暮らせるようになったら、もうもう、幸福と絶望が重ね合わせ状態になって、生きた心地がしなさそうだ。

 ということを、妄想仙人はときおり妄想して、「おそろしい話だ……」と未だ最愛の者がそばにいない現実にすこしの安堵の念を覚えるのだった。

 最愛の者にそばにいてほしい、と思う一方で、その前にまずは最愛の者と出会いなよ、おてて繋ぎなよ、共に散歩しなよ、と自己批判しつつ、最愛の者はいるけれど、最愛かどうかは、一緒にいて落ち着けるかどうかが判らないと断言できないから、まずは「最愛の者よ、会いにこい!」「おまえからこい!」「待っとるで」と虚空に叫んで、「銀河とブラックホールは同時に出来たのかもしれないなぁ」なんて思いつつ、「だったら粒子とて、じつは周囲の時空と同時に生じているのではないの?」なんて妄想しつつ、妄想仙人は、さびちー、と叫んだのだそうだ。

 さびち、さびちだよ。

 誰かわがはいを最愛の者にしろい。

 んで以って、一緒にいるだけで、ほんわかのほほんとしろい。

 一緒にいるだけで幸せって思ってほしい。

 そういう人、おまえからこい!の気持ち。

(そんなこと言う人の元には誰も寄っていかないと思うよ)

(なんでそんなひどいこと言える???)

(事実では?)

(そ、そ、そんなことあるめい)

(図星では?)

(そ、そうかも……)

(……)

(なんか言って!!!)



387:【2024/03/02(18:38)*眠ぃ!と書いて目の民ぃ】

 寝ながら思ったんだよね。

 数字ってちょっと変じゃないって?

 たとえば「1」は、一個だけあったら「一の位の1」だって判るでしょ?

 でも、「11」の場合は、「十の位の1」と「一の位の1」のうち、「一の位の1」があって初めて、「最初に置かれた1が十の位なんだな」と判るのだ。

 言ってる意味伝わる?

 たとえば、「111111」は、「最初の1」だけを見ても、それが「何の位の1」なのかは判らない。後続するほかの「1たち」が何個連なっているのか、によって「最初の1」の位が判明するのだ。

 つまり、「最初の1」だけでは、それが「何の位の1」なのかが判らない。ほかの「後続する1たち」があって初めて、「最初の1の位」が規定される。ハッキリする。

 なんだか、王様と民の関係だったり、食物連鎖の関係だったりを彷彿とするのだよね。

 王様は、王様だけでは王様でいられない。王様と思い込んでいる個人がいるだけだ。

 王様と見做してくれる「配下の者や従者や市民」が大勢いてはじめて、王様は王様でいられる。

 食物連鎖も、植物プランクトンのような比較的単純な構造の小さな生き物が無数にいてはじめて、大きな構造の複雑な生き物が存在していられる。

 頭と尾が繋がってるー!と思うのですけれど、寝ながら思ったことなので、これは寝言かもしれぬ。

 ぐーすかぴっぴなのである。

 おねむー。



388:【2024/03/03(03:19)*そーら、見ろ】

 上記の妄想を「無限」にも適用してみよう。

 たとえば、「11111……」なる無限があったとする。

 けれどこの「1が無限につづく数」が無限に至るには、「有限の111111……」に対して、無限に至るための最後のワンピースたる「1」が入り用のはずだ。

 たとえば円を考えよう。

 円は、無限に角があると考える。或いは、角の数がゼロとも見做せる。

 無限に至る一歩前の円モドキは、「有限の111111……」であるはずだ。そこに頭と尾を繋げる最後の「1」を加えることで、「C」は「〇」となって、円となる。

 一本の「有限な111111……」から「無限の111111……」の円へと昇華される。

 こう考えてみると、無限とは「頭と尾を繋ぐ最小単位の数」が必要なのではないか、と想像できる。最小単位の数がなければ、それは無限に至ることができない。有限だ。

 けれど有限にも最小単位はあるはずだ。

 つまり、極大と極小――頭と尾――以外の「頭と尾のあいだを埋める最小単位を超えた最小単位」が必要となる、と判る。

 無限とはすなわち、落差がないことなのだ。

 だから質的にゼロと似通る。

 有限の極大を考慮するには、「極大と極小」の差を考えればいい。「有限の111111……」において、頭と尾の差を考えればよいのだ。「11と1ならば落差は10」だ。「1111と1なら落差は1110」だ。

 こうして最終的に「111111……1-1=111111……0」が無限の一歩前になると妄想できる。けれどそこで「1」を引かずに、頭と尾を繋げてしまえば、無限に「1」のつづく「無限の111111……」が誕生する。

 極大と極小をイコールにすることで、この無限回廊は表れる。

 つまり、端数の最後尾を「ゼロ」として「ないもの」として扱うのは、【有限】なのだ。

 端数の最後尾を考慮して、そこからまた頭から尾へと「1」がつづく。頭と尾の差を最大化させてなお、端数の最後尾を切り捨てない。極大と極小を結びつけるべく、差を生みだすための「マイナス1」ではなく「プラス1」をする。

 こうすることで、「有限の111111……」は「無限の111111……」へと昇華されるのではないか、ということをきょうは妄想いたしました。

 無限とはすなわち、入れ子状なのかもしれぬ。

 マトリョーシカのごとく。

 それとも、フラクタルのごとく。

 果てなく繰り返されるパターンこそが、有限を無限へと結びつける。

 の、かもしれない。

 このとき、有限を無限に結びつける「結び目」は、元の有限の外にある――と妄想できる。

 或いは、有限と有限の重複する部分に。

 お。

 そーら、そらそら。

 なんか出た!

 閃いたので、きょうはここまで。



389:【2024/03/03(03:52)*人は好きなときにぷわぷわしてもよい!】

 リーマン予想が何なのかはよく知らないどころかほとんど何にも知らぬけど、素数が無限にあるのかどうかは、割と、上記の妄想をもとにしたら想像できそうな気がする。

 だって無限が、有限の繰り返しでしか生じないのだとしたら、素数は有限であるってことにならない?

 なる気がするのよね。

 ある有限の極大の数があったとする。それが無限の一歩手前までつづいて、最後のワンピースが加わることで無限に達する、と想像してみよう。

 もしそうなら、その最後のワンピースが加わる前の数が素数か素数でないかに関わらず、最後のワンピースが加わったところでその有限の極大の数は無限に達するのだから、もうそこで「素数」は、一巡してしまうことになる。

 円は時間と空間が許す限り、延々と周回することが可能なはずだ。

 周回するごとに、移動した距離が増えていく。一巡目、二巡目、三巡目と嵩むごとに、距離は1倍、2倍、3倍と増えていく。けれど何度周回しても実際には、一週目と同じ距離しか移動していない。

 円が無限の角で出来ており、角に各々番号を振ったとして。

 一巡目と二巡目を繋げて、より大きな円周の円を回ったのと同じことのように考えてよいのだろうか。

 それとも一巡したらそこでリセットされて、二巡目としての周回として角を数えていくこととなるだろうか。

 言い換えるなら、ある「円A」において、一巡目無限や二巡目無限や三巡目無限が各々に発生するのであって、【「円Aの円周×何巡目」の長さの円周を持つ「円B」を一巡して数えた「角の数」=「円Bの一巡無限」】として考えてもよいこととできるのか。

 どちらも成り立ちそうだ。

 けれど、前者と後者は別物だ。

 1:円を一周するごとに無限はリセットされ、新たな次元での無限が生じるか。

 2:それとも、円を一周するごとに、トータルで移動した距離の円周を持つ「より大きな円周を一巡した無限」が生じるか。

 どちらも成り立つだろうけれど、「1」と「2」は別物だ。

 印象としては、螺旋と雪玉のような違いを思うのだ。

 螺旋は一巡するごとに、高次に移動しており、その繰り返しだ。

 雪玉は、転がって一巡するごとに、より大きくなる。その繰り返しだ。

 描像としては別物だ。

 けれどどちらも、ある円を何周回ったのか、との描像に変換可能なはずだ。

 とはいえ、雪玉のほうが指数関数的な変化を帯びるのだろうけれど。要は一巡するごとに倍々で増えていく。あくまで、雪玉に変換した場合の解釈では。大きな雪玉になった際のちょっとの移動であっても、最初の円の一巡と同じだけの距離を移動しており、同じだけ雪玉の円周が増えている、と考えるのがこの解釈だ。だから、雪玉が大きくなればなるほど、雪玉の進みは遅くなって映るだろう。実際には、基準となる円の円周だけ必ず毎回一定に増えているのだろうけれど。

 対して螺旋型のほうは、螺旋の幅が変わらない。一定の太さだ。上や下から螺旋を覗き込めば、一つの円として無数の渦が重複して映るだろう。

 伸ばせば、長い長い線になる。

 けれど螺旋が無限に拡張したならば、それそのものの頭と尾が繋がって、高次の円を形作るだろう。円を成す線が、拡大すると螺旋で出来ている。そういう描像になる。

 とすると、ある円を無限回周回した場合、無限に渦を巻いた螺旋と質的に同相となると妄想できる。円も螺旋も、どちらも高次の円を形成する。

 雪玉型の解釈ではどうか。

 こちらも、ある円を無限回周回した場合は、高次の「無限に大きい雪玉」と化して、それそのものが世界と成り果てるだろう。そして、己が内側に基準となる円を内包して、そこからまた波紋のごとく円周を増していく。

 無限とは、頭と尾が繋がることなのではないか。

 パターンの繰り返しがいつまでも終わらないことなのではないか。

 別の視点で考えてみるに。

 どんなにランダムな数字の並びであっても、それを一区切りに「コピー&ペースト」して繋げれば、それはパターンになる。リズムになる。

 果てしなく長くつづくランダムな数字の並びとて、頭と尾がある限り、それを「コピー&ペースト」して繋げれば、それで一つのパターンとなる。リズムとなる。

 小説はランダムな文字の羅列だ。

 けれど同じ小説を五冊重ねて繋げれば、それは「ぽん・ぽん・ぽん・ぽん・ぽん」のリズムとして圧縮して解釈できる。

 これは無限でも同様だろう。

 無限がそうなら、円もそうだ。

 ある円を何個も繋げれば、それはそういうリズムができる。「〇〇〇〇〇」だ。

 ある無限を何個も繋げれば、それはそういうリズムができる。「∞∞∞∞∞」だ。

 もしランダムに異なる大きさの円を並べてみて、それが有限でなおかつ頭と尾があるのなら、その一巡を「コピー&ペースト」して繋げてしまえば、いかなランダムな円の並びとて、リズムになる。「〇。◎●。。〇」「〇。◎●。。〇」「〇。◎●。。〇」「〇。◎●。。〇」だ。

 異なる無限同士でも同様だ。

 いかなランダムに「異なる無限同士」が並んでも、それが有限の並びでなおかつ頭と尾がある限り、その一巡を「コピー&ペースト」して繋げてしまえば、パターンになる。リズムになる。「∞A∞C∞D∞G∞G∞A」「∞A∞C∞D∞G∞G∞A」「∞A∞C∞D∞G∞G∞A」だ。

 たとえば円周率は、無限にランダムな数字が並ぶ、と考えられている。

 けれど「333333……」だって無限に数字が並んでいることに変わりはない。

 「123123123……」とて、無限に数字が並んでいると解釈できる。

 では円周率が本当にランダムに無限に数字が並びつづけるのか、と言えば、いささか疑わしいと思う、わがはいである。

 十進法は「0~9」までの十個しか記号がない。

 いかにランダムに数字が並ぶとはいえ、その組み合わせは有限なはずだ。

 ある閾値を超えたら、一巡して、また似たような繰り返しのパターンに突入するとは想定できないのだろうか。それとも、二巡目に突入してなお、一巡目とは僅かに異なる並びになるのだろうか。これはありそうだ。

 たとえば、一巡目は「123456789」だったとして、二巡目は、「67891011121314」だ。一巡目の「数字の集合」に5を掛けただけだけれど、桁数が増えて振る舞う。もし5を掛けるのではなく、5を足すだけでもパターンではなく新しいランダムへの変数として機能する。ただし、パターンの元となる「数字の集合」の桁数が上がれば上がるほど、僅かな「足し算」では、単なるノイズと化す。ランダムと見做すには不足になる値が、数には存在するのかもしれない(小説に誤字がたった一字だけ混じっているのなら、それは僅かな誤差として、全体の小説が損なわれたとは見做されないだろう。ただし、存在する誤差は存在する)(DNAのコピーとバグの関係みたいな話だ)。

 このように、「二巡目に入ると変数が加わる」と考えるなら、常にランダム、は維持できる。

 そしてこのとき、加わる変数が極僅かでも、一巡目と二巡目に差異を帯びさせることは充分可能だ。むしろ、扱う「一巡目の数字の並び」が長ければ長いほど、二巡目において加わった変数の影響は、頭から尾に向かうにつれて肥大化していく。

 誤差が誤差を生むのだ。

 一巡目と二巡目において変数がもし加わるなら、それこそパターンではない無限も考慮可能だ。

 まさに、無限、と聞いたときの広漠な印象にちかい。

 とはいえ。

 必ずしも円にならずとも無限に至ることはできるだろう(できるのか?)。

 パターン繰り返し型の入れ子状無限を妄想してみたが、そうではない変数加味型のランダム誤差増し増し状無限もあるのではないか、との飛躍を以って、本日の「今日記。」を終えちゃおっかな。

 この日誌とてランダムな文字の羅列だ。

 けれどコピペして繋げたら、パターンになる。

 長い、長い、リズムになる。

 誰が踊れるんだ、そんなリズムで……。

 外しまくりのズレまくりな「おしりふりふりー」になってしまいそうだ。

 お遊戯かな?

 お遊戯だよ。

 尻尾生やしてお耳つけちゃう。

 かわい、かわい、せよ。

 いっぱい踊っちゃう。

 舞い上がっちゃう。

 ぷわぷわ~。

(シャボン玉かな?)

(わーきんぐぷわー)

(自虐やめなさいよ反応に窮するでしょというかあなた働いてないじゃん無職じゃん)

(ぷわぷわ~)

(楽しそうでいいですね!怒怒怒)

(ベッドさん、ふわふわ~)

(気持ちよさそう!怒怒怒)

(いっしょにおねんねする?)

(くーッ! ぷわぷわしやがってこのー!怒怒怒)

(イライラしちゃってどうしたの? 寝不足?)

(んだよ!)



390:【2024/03/03(07:19)*栞のような】

 無限に無限が割りこんだらどうなる?と想像してみると、ちょっと面白かった。

 それはたとえば、十万冊の小説だ。

 同じ小説の載った本が十万冊あるとしよう。

 各々の本には必ず一文字だけ誤字が含まれる。けれどそれ以外は違いを見つけるのがむつかしい。僅かな切断の跡くらいしか違いを見抜けない。原子レベルでないと差異を見いだせない。

 そういう「とある小説本のコピーが十万冊ある」としよう。

 けれどこの十万冊の小説本には困った性質があって、一冊ごとにたった一文字だけ含まれる誤字が、一冊ごとに違うのだ。ある本では「あ」であったり、ある本では「真」であったりする。

 同じ文字の誤字が含まれる本も存在する。「あ」の誤字が含まれる本が千冊あることも珍しくない。けれど数冊手にするとだいたい異なる誤字が一文字だけ含まれる(どこに誤字が含まれるのか、その場所は本ごとに違う。たとえ同じ誤字が含まれていても、同じ場所に同じ誤字があるとは限らない)。

 なぜか。

 それは、じつは十万冊の小説本ではなく、十万一冊の小説本だからだ。

 最後の一冊は、本になっていない。

 ほかの十万冊の本に、誤字として散りばめられているのだ。

 十万文字の誤字となって。

 一文字ずつ、ほかの本に誤字となって侵入している。

 異なる二つの無限があったとして。

 無限に無限が割りこんだらどうなるか、と想像したとき、これと似たことを思うのだ。

 濃度の高い、より情報量の多いほうの無限に、情報量の少ないほうの無限が、散りばめられるようにして少しずつ含まれる。

 割合として見たら、あってないようなものだけれど、けして無ではない。

 小説一冊からすれば一文字の誤字はあってもなくともほとんど変わらないノイズだ。けれど、それが十万冊集まれば、一冊の小説を編めるほどの文字数となる。

 似たことを、無限と無限の交わりでも思うのだ。

 或いは、極大と極小の交わりにも。

 うむうむ。

 なかなかに愉快な妄想であった。

 おはようございます。いま朝の七時半です。

 いまから寝まーす。

 ぬくぬくお布団でねんねして、抱っこしておんぶして、まったあした――というか起きたらたぶん夕方くらいで、お昼はぜんぶ夢の中。

 お昼はぜんぶ夢の中、だって。

 詩的~。




※一様に、はっにゃ~ん???の日々。



391:【2024/03/03(08:48)*むちゅかちなのよさ】

 相対性理論についての疑問なのだ。

 ロケットの思考実験において、光の進路は一定だ。

 というか、ロケットの思考実験では、光を粒子やレーダーのように見做している。

 けれど電磁波のように四方八方に伝播する波として見做すのなら、ロケットの進行方向とその逆とでは、地球上から観測した場合の一秒間で進む光の距離は、伸びるのと縮むのの二パターン考えないといけないのではないか。

 ロケットの思考実験は基本的に床と天井を往復する光として想定されるけれど、別に前後に飛んでもよいのではないか。

 ロケットの中心から、ロケットの前後に向けて光が同時に伝播する。

 「↑」ではなく「→」でもなく、こう「⇔」だ。

 もうすこし言えば、花火のように全方向に電磁波は波及するのではないか。風船が膨れるように、もしくは波紋が広がるようにだ。ただし、ほかの電磁波と干渉したりするだろうし、磁界による方向性や反射や干渉による相殺や強化によって、ある程度の方向性は得るだろう。レーザーがそうだし、ビームもそうだ。

 で、思うわけですよ。

 ロケットの内部で伝播する電磁波を、ロケットの外側から観測したら、ロケットの前方に伝播する場合と後方に伝播する場合とでは、一秒間に進む光の距離は、変わるよねぇ?と。

 だって音がそうなのではないの?(ドップラー効果)

 じゃあ電磁波もそうなのではないの?(赤方偏移と青方偏移)

 遠ざかるのと近づいてくるの。

 速くなるのと遅くなるの。

 同じ光源であっても、電磁波の進行方向によって、ロケット外部の観測者からすると、時間が遅れる場合と速くなる場合が、同時に観測できるのではないか。

 それこそ、ブラックホールにおいて、運動方向の前方と後方とで、時間の遅れが生じ得るように(生じるのか?)。

 なんかちょっと、ロケットの思考実験は違和感があるなぁ、と思うことしきりなのだ。

 誰か教えてくれーい、の気持ち。

 わからん、わからん。

 むちゅかちなのよさ。



392:【2024/03/03(22:47)*光をバネと考えたら?】

 もし、空間そのものが、より大きな空間内を光速にちかい速度で移動するのなら。

 小さい空間内を伝播する光が、その空間を内包する「より大きな空間」からすると静止して映らないのだろうか。 

 それこそ、たとえば電車内を電車の進行方向とは逆の方向に、電車と同じ速度で歩いたとする。この場合、電車の外の地表からそれを眺めたら、電車内で電車の進行方向と逆向きに電車と同じ速度で歩いている人物は、位置を動いていないように映るはずだ。

 それはたとえば、川の流れと同じ速度で、川の流れに逆らうように泳ぐ人物は、川べりに立つ者からは位置が移動していないように映るのと同じ理屈だ。

 ということはひょっとして、宇宙膨張の速度と等しい速度で宇宙空間を運動している銀河があるとしたらその銀河は、ある方向から観測する場合には、宇宙空間をいっさい移動していないように映るのではないか。或いは、その銀河から放射される電磁波が位置を動いていないように振る舞うのではないか。

 赤方偏移や青方偏移は、この例ではどのように解釈されるのだろう。

 たとえば光をバネと見做してみよう。

(うんたらかんたら、こうで、こうでこうなるけれど、でもあっれー?)

(どしたの)

(考えがまとまらんかった)

(いつもじゃん)

(ので、疑問だけにしとく)

(いつもじゃん)

(きょうはダメだった)

(だからいつもじゃん)

(やっぴー)



393:【2024/03/04(07:43)*みなもー】

 光子が合わせ鏡に反射するとき、いったい何往復したらエネルギィを失うことになるのだろう。場所が真空中で、反射するときのエネルギィ損失を限りなくゼロにちかづけたら、光子は延々と合わせ鏡のあいだを往復するように反射しつづけるのだろうか。

 というか、反射ってなんだ?といま思った。

 波が壁に当たって反射する。

 エネルギィが吸収されたら反射されないから、反射は要は、吸収されなかったエネルギィということになるはずだ。でも、ある妄想屋さんの言うところでは、エネルギィとは異なる二つの事象のあいだの差――ということになるらしいので、エネルギィが吸収されるというのは、差が一時的に消失するように振る舞う、ということなのではないか。

 ただし、差が消えた分、分散した差を蓄える何かがある。

 大きな差の塊が、無数の小さな差に砕け散って、拡散する。波しぶきのように。

 じゃあなんで差が消えるのか、というと、無数に砕け散って小さくなった差が、漏れなく対象物と馴染むからだ。トランポリンに人が落ちる際に衝撃が吸収されるのもこの理屈で説明できるはずだ。衝撃が分散される。その分、トランポリンは沈む。もし沈んだままなら落ちた人の運動エネルギィがすっかりトランポリンに分散されて吸収されたと解釈できるはずだ。そのときトランポリンが元の位置に戻らないなら、吸収されたエネルギィは熱変換されるのかもしれない。

 別の視点で、ん-?と疑問に思ったことは。

 光が電磁波であるとすると、合わせ鏡を往復する光子は波の性質も有しているから、合わせ鏡と垂直方向のみならず、並行方向――すなわち横側――にも電磁波の波が波及しているはずだ。

 「→←」のように往復する光子以外にも、「↑↓」方向へと電磁波が波であるならばエネルギィが伝播するのではないか。とすると、往復するごとに反射時に生じるエネルギィロスを仮に限りなくゼロにちかづけたとしても、光子のエネルギィは合わせ鏡のあいだを往復するごとに減るはずだ。

 つまり、電磁波はどうあってもエネルギィを周囲の環境に分散しているのではないの?との疑問だ。たとえそれが真空中であってもだ。

 で、もうすこし言うと。

 電磁波の波を「波紋のような◎」として想定するなら。

 円周が延びれば延びるほど、円を構成する枠組みの線は、細くなっていくと想像できる。もしくは、相対的に細くなるように振る舞う、と想像できる。

 麺の生地を伸ばせば伸ばすほど麺の太さが細くなっていくのと同じ理屈だ。

 これは宇宙マイクロ波背景放射にも思うことだ。

 宇宙が膨張して元々あった電磁波が伸びて希薄になるというのは、電磁波が遠方に伝播して「波紋」を広げていくことと描像は重なる気がするのだ。

 生地のうえを歩くことと、生地が引き伸びることでその上に乗る人物の位置が相対的に移ろうことと似ている。

 ただしこの想定では、宇宙膨張を相対的に俯瞰で観測できる「階層構造」を想定しなければならない。エスカレーターが移動して映るのは、あくまでエスカレーターとそれ以外の地面との比較のうえでだ。

 エスカレーターの上に乗っている者とエスカレーター自身の関係で言えば、その人物が歩かない限り、位置を移動しているとは見做せない。

 宇宙膨張も基本はこの考えが基本になるはずだ。

 ある地点での膨張した時空では、その膨張した時空とその内部に内包された天体との関係性のうえでは、位置の移動は起こっていない。ただし、その膨張した時空とそれ以外の時空との関係性のうえでは、膨張した時空内部に内包された天体は移動して振る舞う。

 それと同じことを、電磁波と時空膨張にも思うだ。

 或いは、電磁波の伝播そのものにも思うのだ。

 仮に、波紋が生じれば生じるだけ面積の増える水面があったら。

 たった一つの波紋が生じただけでも、どこまでも面積は増えていくのではないか。波紋が伝播する――拡張する――というのは、それまでの「小径の波紋」が消えて「より大径の波紋」が生じる――この繰り返しが起きている、ということのはずだ。

 つまり、波紋の伝播は原理的に、無数の波紋の発生を前提にしているのではないか。

 ならば、たった一つの波紋が伝播するだけでも、無数の波紋が生じているのと似たような「皺の発生」が起こっているのではないか。ただし通常は、消えた分の「より小径の波紋」は、周囲の環境に打ち消される。影響が残らない。

 けれどもし、皺が発生した分だけ新たに面積が増える水面が存在するのなら、たった一つの波紋が拡張しながら伝播するだけでも、水面は波紋が伝播した分だけ延々と広がっていくのではないか。

 もし複数の波紋が干渉し合って、無数に波紋を複雑に発生させたならば、水面の面積の増加は指数関数の指数関数的に増加するだろう。あたかも宇宙初期に起こったと現在宇宙物理学で想定されているインフレーションを起こすように。

 要点をまとめよう。

 1:電磁波は伝播するだけでもエネルギィのロスがあるのではないか、との点。

 2:皺が生じた分だけ面積の増える水面が仮にあるとしたら、たった一つの波紋の伝播だけでも水面は無限に面積を増やしつづけるのではないか。そして異なる波長の波紋が複数発生する場合には、それはあたかもインフレーションのごとき「水面の面積増加現象」を引き起こすのではないか。

 そういうことを妄想した本日の、みんな悶々しとるなー、略して「みなも」なのであった。

 みなもー。

(頼もーみたいに言うな!)

(うふふ)

(じつはいま2024/03/04(07:43)ではなく、2024/03/06(10:07)なのであった。昨日日誌つむげなかったので、ズルしちゃう)

(ズルじゃん)

(だからズルしちゃうって正直に言ったでしょ。褒めて)

(わるいことしてたら、たとえ正直に明かしても、わるいことした過去は消えないでしょ。帳消しにはならんでしょ)

(なって)

(傲慢かよ)

(じゃあ九割くらい帳消しになって)

(交渉下手くそか)

(一割は負担するので)

(黙ってていいから責任は全部負って)

(むっ。絶対バレないようにしてやる……)

(打算で正直になるのやめなさいよ)

(正直になったこと……褒めて……)

(いいけど先にわるいことしたこと叱ってからでいい?)

(叱らずに褒めて……)

(甘やかされたがり屋すぎるだろ)

(舌噛みそう)

(たしかに言いにくかったけれども。わかったよ。正直に言えて偉かったね。えらい、えらい)

(やった)

(ちゃんと反省もしてね)

(うん。また褒めてもらうために正直になる。そのために、正直に告げるためのわるいこと、もっといっぱいしちゃいます)

(しちゃいます、じゃないです。絶対やめて)

(もっとかわいくお願いして……)

(絶対やめろ。やめて。やめなさい)

(かわいくないので却下です)

(却下です、じゃないが。もういいわ)

(39さん!)

(サンキューさんじゃない。あ、いや393目の記事だったわ。狙った?)

(うん)

(くだらん小細工すな)

(正直に明かしたから褒めて……)

(エンドレス終わらんじゃない? 褒めない)

(死んじゃう……)

(うっ。罪悪感で人を操ろうとするんじゃないよ。わるい子だなコイツ)

(叱られるの嫌い……)

(だったら! わるいことを! すな!)

(うふふ)

(なんで笑った?)

(おこってるの可愛いなって)

(///)



394:【2024/03/06(10/23)*支え配る】

 子どもが人形遊びに嵌るように、人類の根源的欲求には、他者を神視点で支配したい、との欲求が備わっているのではないか。自在に環境を制御したがる欲求というか。

 支配欲を満たすために他者を損なうのではなく、他者を助けることで結果的に支配欲を満たせるなら、そのほうが好ましかろう。

 いまは、支配欲を満たすには他者を損なわなければならない、との前提が広く無条件に共有されて映る。無意識に、とそれを言い換えてもよいかもしれない。

 ゲームで支配欲を満たすのも一つだ。

 と、いうよりも。

 ゲームとは支配欲を満たすための仕組み、とも言えるのではないか。

 なぜ人は勝負をしたがるのか。

 勝敗を付けたがるのか。

 勝ちたがるのか。

 支配したいからではないのか。

 他者より上に立てば支配できる。こうした前提を人類は長らく共有してきたが、果たしてそれは本当に原理原則なのだろうか。

 勝たずとも、他者の上に立たずとも、支配欲を満たすことはできるのではないか。

 それこそ、相手に支配してもらうために相手を支配下に置くことの嗜好性は、割と「SM」なる概念で説明できる気がする。

 支配されているほうがむしろ優位に相手を支配している。

 そういう関係性もあるのではないか。

 或いはその関係性を、共依存、と呼ぶのかもわからない。

 支配し、支配される。

 んー。

 三大欲求はひょっとすると、「性欲」「食欲」「睡眠欲」ではなく、「支配欲」「食欲」「睡眠欲」なのではないか。

 リビドーとはすなわち、支配欲のことなのではないか。

 制御したい。

 コントロール下に置きたい。

 環境を自在に変えられる能力を得たい。

 人類の根本に備わる本能の一つかもしれない。

 支え配ると書いて、支配なのだ。

 ふしぎである。



395:【2024/03/07(18:33)*はっも~ん???】

 波紋についての疑問だ。

 もし波紋がどこまでも波及するとして。

 けれど最初の波紋が小さな円で徐々に大きな円となっていくとしたら、その縁の太さは徐々に細くなっていくよねぇ?と思うのだ。

 で、延々と円周が大きくなりつづけ、円周の太さが細くなりつづけていったら、最終的に「波紋が伝播する場の【最小の構成要素】」と同じ太さにまで円周をなす縁は細くなると想像できる。

 加えて、その「波紋が伝播する場の【最小の構成要素】」にも波が伝わるとすると、そこで波紋の円周の縁は、無数の「波紋が伝播する場の【最小の構成要素】」に分岐して、さらに「波紋が伝播する場の【最小の構成要素】」の側面に波紋を浮かべるのではないか、と想像できる。

 この前提として「波紋が伝播する場の【最小の構成要素】」は球や円のような「幅」や「奥行き」を帯びていることが欠かせない。

 むろんそれが紐でもいいし、起伏でもいい。

 そして拡大して述べれば、最小の領域に行き着く前からすでに、波紋は円周を広げるごとに、「波紋の伝播する場を構成する要素」の単位の数だけ、細かく分岐している、と想像できる。

 イメージはトーナメント表や系統樹だ。無数に分岐点のある下から順にたった一点へと向かいながら、たった一点に到達すると、そこにも細かな無数の分岐点が表れてさらに一点へと向かう。

 フラクタルに延々とそれがつづくような、いつもの退屈な妄想を浮かべてしまうのだ。

 でも、最終的な一点に到達した先に広がる新たな「場」は、これまで波紋の伝播していたベクトルとは別のはずだ。

 延々と「→→→」に伝播していたはずの波紋は、最終的な一点へと到達すると、もはやそれまでの「→→→」方向には伝播しない。

 たとえば最終的な一点が極小の球体だったならば、球体の表面に到達してまた新しく波紋が伝播するとなると、その方向は、これまでとは異なるだろう。すくなくとも極小の球体の表面は歪曲しているのだから。

 ということを考えるにつけ、波紋の伝播する「場」に最小単位の構成要素が存在する場合、たとえ波紋が延々と伝播するのだとしても、けっきょくは最長の円周は定義可能に思うのだ。

 これ以上は伝播できない閾値があるように思うのだ。

 限界がある。

 そして限界を越えることもできるけれど、そのときはそれまでの波紋とは違う、異質なけれど離散的に連続した「相関」として、つぎの舞台へと波紋の伝播はつづいていくのかもしれない。

 というのは、波紋が仮に延々と伝播できるとして、なおかつ波紋の伝播する「場」に最小単位の構成要素があったとしたら、の話となる。

 妄想なのである。

 もう、そう!



396:【2024/03/08(15:30)*あなた】

 いつ夜空を見上げてもそこに星があるように。

 いつも聴いている曲があるのなら、きっと五年後も十年後もその曲をあなたは耳にするだろう。

 夜空を見上げるたびに、同じ星を目にすることができるように。

 いつも聴いている曲を聴くたびに、あなたは、過去と未来のあなたと同じ曲を聴いている。

 あのときのあなたも、あの日のあなたも、いつかのあなたも、老いたあなたも。

 いつも聴いている曲を聴いている。

 あなたは同時に、過去のあなたとも、未来のあなたとも繋がっている。

 星が、曲が、あなたとあなたとあなたたちを繋げているのだ。結び付けている。

 かけ離れているようで、そばにいるように。

 私は、あなたの声を、響きを、聴いている。

 星が煌めく夜のように。

 私は、あなたの揺らぎを帯びている。



397:【2024/03/09(04:20)*身から出たさびちー】

 身内とは何だろう。

 どこからどこまでが身内で、どこからどこまでが外部なのだろう。

 身内とは、血縁関係のある相手だろうか。

 身内とは、一つ屋根の下で暮らす相手のことだろうか。

 身内とは、何か特定の属性で繋がり合う集団のことだろうか。

 それとも――全人類のことだろうか。

 身内、と一口に言っても幅がある。

 身内を愛する、と言ったとき、果たしてその範囲はどこまで狭く、または広いだろう。

 字面だけで判断するのなら、「身内」は「身の内」と書く。

 ならば、「身体の内側」であり、「じぶんの内面」こそが身内なのではないだろうか。

 身内を憎悪する、と言った場合は、「じぶんの内面」を憎悪しているのかもしれない。

 それとも丸っとすべての人類を身内と見做す視点も否定しきれない。

 範囲が決まっていない。

 曖昧なのである。

 身から出た錆び、というように、錆びは内なる身からでるものなのかもしれない。

 定かではない。



398:【2024/03/09(04:32)*お下水の話】

 きょうは記念すべき「39!(さんきゅー!)」の日だけれど、ちたないお話、してもいい? するね?

 下水道をね。

 下水道を詰まらせたり、溢れさせたり、破裂させたり、もしくは下水以外の何かを培養したり。

 とかく下水道は頑丈であってほしいよね、と思うのだ。

 下水処理場だってね。

 壊れないでいてほしいな、って思うのね。

 だってたいへんだよ。下水を処理せずに川や海に流しちゃったら。

 プランクトンやバクテリアは大量発生するだろうし、臭気は風に乗るし、生態系は崩れるし、単にちたないし。

 衛生環境が崩れれば病気も蔓延するだろうし、ただただ大変だ。

 下水道さんは是非とも末永くお元気でいてほしいものだ。

 水道管さんとも仲良くして、是非ともそのままでいてほしいものである。

 下水道さんを壊すようなことだけは絶対にしてほしくないな、と思うのだ。だって絶対にたいへんだって分かるから。たとえこの世に絶対がなくとも、絶対たいへんだって分かるから。

 おトイレないようなものだよ。

 そこかしこがおトイレと変わらぬ有様になるよ。

 とんでもないことだよ。

 下水道さんをどうぞ、おイジメにならぬでいてください。

 そうでしょ?

 そうだよー!



399:【2024/03/09(19:09)*真の空】

 あなたに汚れがつかぬように。

 なんぴとたりとも触れさせはせぬ。

 かように虚空に閉じ込め、遠ざけて、露一つつかぬあなたを見守りたい。

 虚空の中のあなたには、穢れ一つつかぬれど、どれほど大切にしようとも、虚空に閉じ込められたら苦しいはずだ。

 触れないように。

 触れないように。

 わたしだけが触れぬようにと気を払い、彼方の有象無象があなたに触れ得る世界の果ては、フラスコの中から臨む空のようで、虚空の中から眺める花のようで。

 あなたが虚空に脅かされぬようにと、わたしのみが虚空に逃げ込むそんな日々は、あなたに見詰められることもなく、わたしはフラスコの中のモヤと化す。

 何に似ていると指を差されることのない、虚空を漂う雲となる。

 虚空を漂う塵となる。



400:【2024/03/09(18:22)*変則はなんだか命っぽい】

 ハエからしたら人間の動きはノロマに映るだろうように、或いはクジラからしたら鳥の動きが素早く映るだろうように、銀河や大規模構造の動きも速度も、早送りしてみたら案外に、生物のように振る舞ったり、地球上でも有り触れた「動き」や「構造物」のように見えたりはしないのだろうか。

 シミュレーションを精度高く行えるようになったのなら、早送りや遅送りをして、その挙動が、人間スケールの何かと似ていないかどうか、は割と面白い比較の仕方だと思うのだよね。

 植物の発芽の様子や根っこを伸ばす様子は、早送りで見ると案外に「動物ちっく」に映ったりするじゃないですか。

 んで、物質であるはずの恒星や銀河も、案外にそういう側面が、変遷の過程の早送りや遅送りをすることで見えてこないのかなぁ、なんて思っちゃうんだな。

 お相撲さんの「はっけよいのこった」をTV越しに眺めながら、「動き早っ!?」とか思いつつ妄想しました。

 でもそれだってハエさんからしたらノロマだろうし、体内の細胞さんや繊毛さんにとっては、静止しているも同然の速度に変換されちゃうのかなぁ、なんて思うのだった。

 わっしょい……。

(元気なくない? どったの)

(お元気……)

(どこがよ)

(もうダメ……)

(大丈夫?)

(眠い……)

(なんだ眠いだけか。紛らわしいことを――すな!)

(ふっふふー)




※一様に、広漠な無地よりも一滴の染みのほうが目に留まる。



401:【2024/03/09(18:50)*束束】

 そばにいる人にはトゲトゲまで与えてしまうけれど、ちょっと遠いところにいる人には、トゲトゲが届かない分、ほんわかぬくもりだけを届けることができる、みたいな関係性はあるように思うのだ。

 トゲトゲをまとっていてもそばで一緒に過ごしたければ、トゲトゲをじぶんに向けるか、トゲトゲを一本ずつ折ったり抜いたり削ったりして、そばにいる人を傷つけないようにしないといけない。

 でもトゲトゲにも痛覚があったら、それってとっても苦しいなって。

 それとも、そばにいたい人がそばにいたら、トゲトゲは自ずから融けるようになくなるのだろうか。

 なぞである。



402:【2024/03/09(20:19)*もう、そっ】

 宇宙開闢時初期のほうのブラックホールは、銀河の中心にあってもほぼ休眠状態だったらしい。でもなぜかそのうち、降着円盤やジェットを帯びた活動銀河核になるのだそうだ。

 なんで?と思うよね。

 最初に安定状態の休眠状態にブラックホールがなっているのなら、なにゆえそれから活動的になるのだろう。

 降着物質があるから、が一つだ。

 それまでなかった、ブラックホールに落ちる物質の量が増える。

 なんでだろ?

 ざっと妄想してみるに、

 1:時間経過にしたがって銀河の物質が増えるから(対生成されるから)。

 2:時間経過にしたがって物質同士が融合して、軌道が乱れやすくなるから(ブラックホールの重力に引き寄せられやすくなる)。

 3:ほかの銀河や隕石など、外部から新たな物質供給があるから(銀河同士の融合)。

 4:休眠状態のブラックホールの周囲に別のブラックホールが生じて、融合するから。

 5:宇宙膨張の影響を受けてブラックホールが相対的に成長して振る舞うから。

 6:重力差による時間の流れの違いによって、ブラックホールから発生する何かしらの粒子や電磁波などの影響が、時間経過にしたがって増加するから。

 7:その他。

 いま妄想してみて浮かぶのはこれくらいだ。

 基本的にどれも宇宙膨張の影響を軽微にであれ受ける、と想像できる。

 中でも、新しいブラックホールが休眠状態のブラックホールの周囲に生じる可能性や、宇宙膨張にしたがってブラックホール自体の質量が増加して振る舞うなどは、その可能性がいかほどかを調べてみて損はない気がする。

 時間経過にしたがって物質が新たに増加するから、も割とあり得そうな想定だ。

 ひょっとしたらどれもあり得るのかもしれない。

 というか、双子のブラックホールがあってもいい気がするのだよね。

 だって膨大なガスの星雲が重力崩壊してブラックホール化し得ると考えられているのなら、星雲の密度のムラによっては、一度に複数のブラックホールが出来ることもあると思うんだよね。

 したら一つの銀河の中心に複数のブラックホールがあってもふしぎじゃないし、ひょっとしたら中心の銀河を公転する別のブラックホール(小銀河)のような構図の、初期銀河があってもいいように思うのだ。

 ダメかな。

 思うだけだから許してほしい。

 妄想するだけだから、もう、そっとしておいてほしい。

 もう、そっ――だよ。



403:【2024/03/10(23:37)*妄想寄りの想像】

 宇宙初期と時間経過して膨張した宇宙とでは、時空のデコボコ具合に差があるらしい、というのがこれまでの宇宙物理学の一般的な解釈だったらしい。いわゆる「S8緊張」と呼ばれる未解決問題だ(この認識で合っていますでしょうか?)。

 けれど最近の研究結果によると、「X線」で統計処理してみると、「初期宇宙」と「膨張を経た時間経過宇宙」であっても、デコボコ具合に「S8緊張」に見られるほどの差が見当たらないらしい。

 なしてー?と思うよね(思う、思う)。

 仮に、観測データやデータ処理に誤りがないと前提するならば、「X線」に限っては宇宙は比率を保ってデコボコの均一さを保っている、と言えるのではないか。

 X線だとデコボコの比率は一定。

 けれど、では何だと一定ではなくなるのだろう。

 いわゆる「S8緊張」では、どんな観測データを基にこれまでは差を抽出していたのだろう。「X線」だけではないのだろうか。では、それはなぁに?という情報が、件の研究発表では欠けているので、疑問しか並べられぬ。

 というか、そうだよねぇ?といま思った。

 電磁波の波長の種類によって、重力レンズ効果による歪曲具合は変わるのではないか。その歪み具合はすでに計算で予測できているだろうけれど、では重力波は重力レンズとどのように相互作用して振る舞うのだろう。重力レンズと重力レンズはどうだろう。

 光速にちかいニュートリノはどうか。

 高エネルギィを帯びた素粒子はどうか。

 自動車が速度を出せば、すこしの穴くらいは難なく飛び越えられるように――あべこべに、速度が低いとちょっとの穴でもタイヤが嵌ってしまうように――観測する電磁波の種類によって、宇宙の描像(表情)はけっこう変わるのかもしれない。

 ということを、わたくしは妄想いたしました。

 もう、ちょー、想像しちゃった。

 妄想寄りの想像だし、妄想よりも創造だ。

 寄り添うぞー。

 なんちゃって。

 がはは。



404:【2024/03/11(03:20)*パターン×反復=律動+ノイズ?】

 たとえばの話、「398629……」なる数字の羅列があったとして。仮に、その数字の羅列が同じパターンを繰り返し、延々とつづくのだとしたら、そういうパターンの無限として解釈できるはずだ。

 つまり、

「398629398629398629398629398629398629……」となる。

 略すと、

「398629の無限」ゆえに「398629無限」と解釈できよう。

 ここで疑問に思うのが、ではその「398629無限」の中にたった一個だけ「5」だとか「1」だとかが紛れ込んだら、それは「398629無限」ではない、また別の無限として扱わなければならないのか、ということで。

 でもこれはおそらく、別の無限として扱わなければならないはずだ。

 だって「11111」のあいだに「5」が入ったら、「115111」となって数字としてまったく別の桁数の数字になる。「2」は素数だけど、「21」は素数ではない。たった一つの数字が混じるだけで、それはもう別の数字になるはずだ。

 なら同じ理屈で、「398629」が無限に繰り返される「398629無限」があったとして、その無限に繰り返される「398629」のあいだにたった一個でも別の数字が紛れ込んだら、それは「398629」が延々と繰り返される無限ではないことになる。だって反復が途切れちゃうのだから。

 でも、惜しいというか、もったいない気もするのだよね。

 だってたった一個だよ。

 ちょっとノイズが入っちゃったからって、これまで積み上げた「398629」のパターンの繰り返しすべてと、一個飛んでつぎからは延々とそれこそ無限に達するまで繰り返される「398629」のパターンがすっかり全部無駄になっちゃうのは、なんかもったいない気がするんだよね。

 ノイズだと思って大目に見てよ、とか思いたくなるよね。

 で、実際、大目に見ちゃうバージョンも考慮しちゃっていいんじゃない?とか思いたくなる。ならない?

 厳密に純粋な「398629が延々とつづく無限」と「398629が延々とつづくけれど途中でノイズが入っちゃって、途切れちゃう無限」と。

 「同じ無限と見做すバージョン」と「違う無限と見做すバージョン」と。

 二つ考慮しちゃってもよくないですか?と思うのだよね。

 みなの衆はどう思われますか。

 この考え方を拡張すると、円周率とかも、ノイズに値する数字を抜き出してみたら、けっこう面白そうに思うのだよね。

 こっからここまでは一緒だけど、ノイズが入っていて、「あーダメだー乱れたー」となっても、ひとまずそのノイズをメモして、なかったことにしてみる。ひょっとしたらノイズの入り方にも規則性があるのかもしれないし、ノイズ同士のあいだにも遠距離で規則性があるのかもしれない。

 円周率では最長で繰り返し配列と見做せる数字の羅列はどこからどこまでが当てはまるのだろう。「3.14……」から始まって、また「3.14……」が表れるのはどこで、パターンが途切れるのはいつで、ノイズに値する数字や数字の羅列はどのような並びになっているのか。

 円周率は音楽にもなるよ、みたいな話も聞くので、パターンは含まれているように思うのだよね。

 けど、ノイズも混じっている。

 だから純粋な「パターン無限」にはならない。

 でも、ノイズをちょっと除去してみたら、「パターン無限」が表れたりはしないのだろうか。

 これは、変数を加味してみてもよいかもしれない。

 最初が「314……」だったら二週目はすべてに「+1」して、「425……」になる、みたいな。

 ノイズたる何かがあるから、絶えずパターンが乱れる。いつまで経っても区切りが見えてこない。

 でも、ノイズや変数を除外してみたら案外に綺麗なパターンの繰り返しが表れたりはしないのだろうか。

 円周率に限らない。素数にしろネイピア数にしろ、何かしらの紋様の表出を妄想しては、パターン大好きばったんきゅー、とお布団に飛び込む二番煎じの無限園児なのであった。

(幼稚園児みたい)

(無限園児だよ)

(なにそれ。聞いたことないし)

(無限園で遊ぶ児童だよ)

(無限遠で遊ぶ児童はちょっと意味わかんないです)

(出口なーい、って泣いちゃうのすぐ)

(無限えーん、じゃん)

(「児」も忘れないであげて)

(無限THEえーん、じゃん)

(無限にジ・エンド、みたいに言わないで)

(無限に終わるな)

(ホントだよね。でも、無限に終われるってことは、無限に始まってるってことでもあるんじゃないかな。どう?)

(どうもこうもないです。無限に寝ててください)

(てことは、無限に起きれるってことでもあるね)

(なんでもかでも鏡合わせにするんじゃないよまったく)

(無限に何かがあるってことは、無限にそれのない無限もあるってことなのかもね)

(頭くらくらするようなことを言うんじゃありません)

(頭くらくらする無限もあれば、頭くらくらしない無限もあるのかな)

(もう黙ってて)

(無限に?)

(有限でいいよ。無限にしゃべりだしそうで怖いから)

(むっ)

(ゲン気だしてくれ。機嫌を損ねないでくれ)

(いいよ。宇宙の起源を考えちゃうもんね。お原始)

(お天気、みたいに原始に「お」をつけるのやめなさいよ)

(お原初)

(おねしょ、みたいなっとるが)

(ないしょ)

(いま漏らしたみたいに付け足すのやめて)

(無限園児なので……)

(幼稚園児だってもっとマシな言い訳言うよ立派だよ)

(むっ。元気END)

(不機嫌なのか元気なのかどっちかにして。機嫌は直して元気おだし)



405:【2024/03/11(23:57)*芽のように、根のように】

 フィギュアスケートとかを観ていて思うのは、いっぱい回転したかったら、徐々に加速しないといけないのかなってことで。

 たとえば、素早く最初から最大加速でねじると負荷が掛かるので、あんまり回転しない。でも最初はゆっくり大きく、それから徐々に渦巻きのごとく「しゅしゅるジュッ!」みたいに段階的な加速をすると、ベーゴマみたいにいっぱい回る。

 この、徐々に加速する。

 最初はゆっくり。

 一点に向けて、なるべく前後の落差がないように――けれど頭と尾の落差は最大に――のような指針を設けると、回転は素早くいっぱい「ぐるぐる」になる気がする。

 これは鞭にも言える道理だ。

 素早くバッティングみたいに振り抜いても鞭は、「へちん」となってそんなに怖くない。

 でも、先端を意識して、振り抜いてから引き戻す動作を取り入れると、鞭はしなって、「べしんッ!」になる。

 ベーゴマもそうだ。

 紐を巻いた独楽を回すときは、投げてから紐を引くのだ。その落差が回転の力になる。

 最初はゆったり放って、引くときは素早く。その過程はなめらかに、けれど頭と尾の落差は最大に。

 基本的にはこの「流れ」がエネルギィの伝播に関係するもろもろの事象の「最大化」に寄与しているのではないか。

 たとえば粘度をねじるとき。

 素早くねじると根本から千切れる。

 でもゆっくりゆっくりねじると――さてどうなるだろう。差異は生じるだろうか。

 生じる気もするし、しない気もする。どっちだろ。

 最近の何かの研究発表では、「分子のねじれの具合は、分子そのものの捻じれる動きが速いか遅いかによって、決まる」との発見が論じられていた。

 本当かどうかは分からないし、一般化していいのかも分からないけれど、でもありそうな話ではある。

 ある分子を構成する素子が素早くねじれると全体の捻じれ具合は小さくなる。けれどゆっくりゆっくり素子が動けば、全体は連動してねじれを大きくする。

 波も同じ気がする。

 お風呂のなかで手でお湯を掻き混ぜるとき。

 素早く手を往復させても「ばしゃばしゃ」とお湯が混ざるだけだ。水面は乱れるけれど、全体はさして波打たない。

 けれどゆっくりゆっくり波の律動に合わせるように、ブランコを漕ぐ感覚で手をお湯の中で往復させると、あっという間に波は大きくなって、湯舟からも湯がこぼれる。

 似ている気がするのだ。

 ということは、大事なのは速度の差異ではなく、同調するかどうかなのではないか。

 共鳴するかどうか。

 同期するかどうか。

 ある分子を構成する素子は、その周囲の環境との兼ね合いでその運動や分子構造を維持するはずだ。ならば素早く動く場合とゆっくり動く場合では、周囲の環境との抵抗に差異が生じると想像できる。さながらお湯の中で動かす手のように。

 素早く動かせば「じゃぼじゃぼ」と水面は乱れるし、ゆっくり周囲の波の動きに合わせながら動くなら、やがて全体は「より大きな波」になる。

 そういうことなのではないだろうか。

 どういうことなのだろうか。

 素早くても同期するなら、いっぱいねじれる分子構造もある気がする。

 あべこべに、いくらゆっくりでも周囲の環境や他の素子と同期しなかったら、分子全体のねじれ具合はさして大きくならない気もする。

 妄想でしかないので、定かではないのだけれど。

 ねじれかぁ。

 ねじれなぁ。

 水は何回ねじっても水分子がねじれを均してしまうから、ねじれない。

 でも、それを無視していっぱいねじねじすると、やがては渦になる。

 渦は渦でねじりつづけると、やがては紐を曲げたようになる。

 一次元が曲がって二次元になる、二次元がねじれて三次元になる、みたいな想像を逞しくして、想像ばっかり鍛えて、心が貧弱じゃしょうもないでしょうに、と臍を曲げて、ひねくれる。

 いっそ逆側にねじって、ひねくれた性根もまっすぐにしてほしい。

 ぴーん、と張った芽のように。

 すくすく育てよ、子のように。

 伸びて、ねじれて、根を張って。

 ひっそりと咲く絵のように。



406:【2024/03/12(20:05)*雨だなぁ】

 きょうは雨なのでお出掛けはなしです。やたー。

 読書したいな、と思ったんですけど、最近はもう漫画以外が受け付けなくなってしまって、もうもう漫画だけ読んでいたい。

 むかしからなんですけど、映画よりもアニメよりも、漫画のほうが好みです。じぶんの速度で読み進められるからでしょう。同じ理屈で小説も好きなんですけど、いまはちょっと活字がつかれちゃって、遠慮しちゃいます。

 いまこうして文字を並べていて思うのが、日本語って変だよね、ってことでして。

 上記で用いましたけど、「活字がつかれちゃって」と書いたら文法的には、「活字なる人物が疲労している」と読めますけど、でも実際はそうではなく、「私は活字を読むと疲れちゃって」が意味内容として妥当になります。

 日本語は主語を抜いても通じるとは言いますけど、主語を抜いても「主語のように読める文字の羅列」になることはあって、ここでいつも文字を並べながら、「いいのかなぁこれ、通じるかなぁ」と思いつつ、「まあなくても通じるだろ、がはは」と主語を省略してしまうのだ。

 だって通じるでしょ?

 もし、複数の意味内容を重ね合わせで読み取れたとしても、どっちで解釈しても問題ないようにしておけばいいわけで。

 たとえば、「彼女が好きなのだ」という文章があっとして。

 主語が抜けているとしたら、「私は彼女が好きなのだ」かもしれないし、「彼は彼女が好きなのだ」かもしれない。

 主語が抜けていないとしても、「彼女の好物なのだ」の意味の、「彼女が好きなのだ」なのかもしれない。とすると、これは「彼女」ではなく、「彼女を眺めている第三者の述懐」ということになる。やっぱり主語は省略されているのかもしれない。

 でも、どっちでもいいように文章を整えればいいわけで、「私が彼女を好きでも、彼が彼女を好きでも、彼女が好きな曲の話でも構わないようにしておけばよい」と思うのだ。

 たとえば、以下のようになる。

 アンリはギターを弾くのが好きだった。姉のモモから教えてもらった。アンリは姉が好きだった。彼女が好きなのだ。

 ギターも。

 曲も。

 妹たるアンリのことも。

 姉は好きで、だからアンリに教えてくれたのだ。じぶんの好きなことを。

 重ね合わせの分岐点のようになっているのがお分かりいただけるだろうか。

「彼女が好きなのだ」を重ね合わせで、意味を重複させ、上と下の文章を繋げている。

 こういう並べ方を、割と用いる。

 けっこう好きです。

 それだけ。

 雨だなー、の日誌なのでした。

 きょうき!



407:【2024/03/13(23:56)*単純な複雑もいつの間にか単純に】

 きょうもきょうとて、並べることなんもないんじゃい!の気持ちなので、いつものように口からデマカセ枕に夢を添えていこうと思うのだけれど、そうだなぁ。

 複雑さってなんだろう、とかね。

 素朴にいま思ったわけですよ。

 割と人類、「複雑だ、複雑だ」と口にする割に、じゃあ「複雑ってどういうこと?」と訊いてみても、たぶんそんなにすんなり答えられないんじゃないかと思うんですよ。あたしがそうなので。

 複雑ってなんだろ。

 単純なのとどう違うんだろ。

 ちゅうかさ。

 単純ってなんじゃ?

 あたし、思っちゃったな。単純って何? 複雑なのとどう違う?

 んー。

 なんとなくのイメージ、単純なのがあって、んでそれが組み合わさって複雑になる感じがする。

 ってことは、単純なのが原子みたいな素子で、それがたくさん絡み合って複雑になる?みたいな感じがするのよね。

 でもじゃあ、単純なのをいっぱい集めたらそれが複雑になるかといえば、そうとも言いきれなくて、こう、量じゃない気がするのだよね。量じゃない。

 多い少ないじゃない。

 や、多ければ複雑である傾向はあると思うけれど、じゃあたとえば、大量の水が溜まったプールと人体では、人体のほうが質量は低いけど、複雑なのはどっちだ?と問われたら、そりゃ人体のほうが複雑な感じするよね。量じゃないのだね。たぶん。複雑さってやつはさ。

 かといって、単純さがたくさんあればいいってわけでもなく、じゃあ少なければいいのかといえばそうとも言いきれず。

 じゃあなんだ?となったときに思いつくのは、「どんだけ連携しておるの?」が着眼点としてよさげなのだと思うのだわ。よさげじゃない? そうでもない?

 単純なのと単純なのが連動して、ほかの単純なのに作用して、そうした単純の回路と単純な回路も連動して、さらに高次の「単純な回路の回路」とも連動する。

 このからくり仕掛けみたいな「連動の連動」が複雑さなのではないのかなっていまなんとなく思っちゃったな。

 てことは、連動しなければそれは切り離された複雑さ同士、もしくは単純さ同士になるのかもしれなくて、視点によっては「超々複雑な事物」であれど、他と切り離されていたら――連動しにくければ――それは、その他大勢からすると「単純な構成要素の一つ」としてしか見做されないのかもしれない。

 だって原子がそうじゃんね。

 原子だって、それ単体を分解してみようとしたら、もうもうなんて複雑な構造物なんだって思うことワンダフォーだと思うのだよね。

 で、ここでまたぼんやりと連想しちゃうのだけれども。

 複雑さ単位のようなものを考えたとき。

 たとえば「人体の複雑さ」と「銀河の複雑」――どっちが、より複雑だ?と考えた際に、さてどっちが「より細かく緻密に、よりたくさんの素子と、回路と、連動して機能する多層回路」と言えるだろう。

 どっちだと思う?

 あたしはねぇ。

 人体じゃね?って思うな。

 人体って、銀河よりチョー複雑じゃね?って思うな。

 銀河の複雑さってひょっとしたらDNAより低くね?とまで言っちゃうとあれだけど、なんでこう考えるかというと、だって人体を含む地球を含む銀河は、でも人体なくても成り立つし、地球なくても成り立つじゃん? 要は、連動しにくいわけよ。

 人体は銀河の構成要素じゃないわけ。必要不可欠じゃない。

 だから、銀河の複雑さ単位の中に、人体の複雑さは加味されないんじゃないかなって思うわけで、でもDNAはただそれだけでチョー複雑なのに、細胞から眼球から何から何まで人体と連動しているわけっしょ? もうもう、人体超々めちゃくちゃ複雑じゃんって思うわけですよ。

 連動オバケとか思うわけですよ。

 複雑さって要は、だから、連動しやすい回路同士の連携の数のことで、初期値鋭敏性の帯びやすさとも関係していて、で、やっぱり多層で多重で、相互に関係性の変数が重複している総体が複雑だってことなのかなって。

 でも、その複雑な何かが、その他との関係のうえで連動しにくかったら、それってその他からすれば単純な構造物に映るのかなって。

 本がまず以ってそうじゃんね。超々複雑な文字の連携――文章が、概念が、練り込まれておっても、閉じたままなら、どの本も単なる紙の束だし、ブロックだ。ちょっと固い枕みたいで、本棚を構成する素子でしかない。

 文字の読めないおこちゃまにとっては、積み木遊びのブロックにしか見做されない。

 高いところに手が届かないときは、踏み台にちょうどよい。

 で、何の話だったっけ?

 忘れちゃった。

 複雑なことは苦手だから、すーぐ忘れてぶつ切りになる。連携せぬのよな。

 でもたとえば、いまこうしてだらだらと並べたこれら文字の羅列を縮小して、「月」の文字に詰め込んだら、単純な「月」の文字も、超々細かな文字の羅列で組み上がった、単純な一字=「月」になる気もする。

 で、何が言いたいの?って思った?

 なーんも言いたいことはありませぬ。

 何も並べることないんじゃい!と思ったので、いつもの出来心、なにもないならないなりに、口からデマカセ枕に夢のごとく、ぽわぽわの文字の羅列を並べましたとさ。

 おしまい。

 おやすみなさい。

 またあした!



408:【2024/03/14(13:25)*わたしIAIしたわ】

 回文素数というのがあるらしい。

 前から読んでも後ろから読んでも同じ数字になる素数だそうだ。

 「ねむいむね」みたいな話だ。

 ムネさんが眠いのだ。

 似たように、前から読んでも後ろから読んでも同じ素数の数がある。ふしぎなのは、桁数が増えるほど、回文素数の数が減る傾向にあることだそうだ。

 でもそれは解る気がする。

 そもそも素数の頻出度が桁数が上がるほど低くなるのではないか。

 だって十の位には「2357」の四つもある。4/10だ。2/5の比率だ。

 けれど桁数が上がれば、素数の数は減るだろうし、だとすれば余計に回文になっている素数の数も減る傾向になるはずだ。

 でもゼロではない。

 そのはずだ。

 けれどこの真偽、回文素数は有限か無限か、は未解決問題なのだそうだ。

 へー、となった。

 ちゅうか、本当に素数は無限にあるのか?も疑問なのだよね。ここは確か証明されておって、素数は無限にあると解釈するのが現代数学の一般的な認識なのではないか。

 でも、それホントー?と思ってしまうな。

 そもそも「無限」の扱いが雑すぎる気もするのだ。

「数珠つなぎに一列にどこまでもつづく無限」もあれば、「無限回パターンを繰りかえす循環型の無限」もあるはずで、「延々と重複しつづける無限」もあれば、「どこまでも合致しない無限」もあるように思うのだ。

 「とにかく延々と反復しつづける無限」と「とにかくズレつづける無限」に大別できそうにも思えるけれど、これらは互いに同相だ。反復しつづけるためには、相似のパターンがたとえ縮小したとしてもどこまでも螺旋のように継続しつづける。「とにかくズレつづける無限」を想定しないことには、「とにかく反復しつづける無限」は描像として成り立たないように思うのだ。

 なぜかと言えば、真実にいっさいのズレなく反復しつづける何かしらがあるとしたら、それは「点」だ。パターンを有しない。ただ一点に重複しつづけており、そこにズレは生じない。

 パターンとはある意味で、ズレを有した反復なのだ。

 ズレている。けれどある範囲でズレが繰り返されている。これがパターンだ。

 そして、パターンは反復する時点で、ズレている。まったく一緒ではない。それはそうだ。きょうときのうが違うように、パターン1とパターン2はたとえ同じパターンを帯びていても、時間軸上でズレている。位置すらもズレているかもしれない。けれど、ある範囲で固有のズレを繰り返している。それがパターンだ。

 したがって、延々と同じパターンを繰り返す無限があったとしても、個々のパターンはけして同一ではない。重複し得ない。ナニカシラが違っており、変数を帯びている。ノイズを帯びている。そう考えたほうが妥当に思うのだ。

 そういうことを妄想したうえで、回文素数を考えたときに。

 素数が無限にあるとはどういうことか、からして深掘りして妄想すると、無限そのものが回文素数のようになるのではないか?との直感が湧いてくる。

 言い換えるなら、「素数が無限にある」ではなく、「無限は素数である」としたほうが妥当に思えてくるのだね。

 そしてその素数である無限は、きっと「回文素数」のような描像を帯びるのではないか。或いは、僅かに対称性の破れた回文素数か、だ。

 円のように頭と尾が結びつくので、重複した部分の一桁数字が、一個しかない。頭と尾で共有されている。そういう描像を想定したくなる。

 妄想なので、これはなんにも正しくのない、誤りまくりの謝罪ちゃんなのである。

 デタラメ並べてごめんなさーい。

 だってなんにも分からないんだもの。勘弁して!

 妄想くらい自由に浮かべたっていいでしょー。

 好きに並べたっていいでしょー。

 ダメって言うのがダメ。

 禁止するの禁止。

 あなたも自由に好きにデタラメに妄想を浮かべて並べて笑っていいので、わたしにも好きにさして……。

 お元気であれ。

(空元気……)

(お空気であれ!)

(おくうきってなに。空元気――からげんき――だよ。元を抜かないで。元を戻して、空を抜いて……)

(お空!)

(抜いたほうに寄り添わないで……お元気にして……)

(大空!)

(さらに「お」を加えないで……)

(でもこれで、「大空元気」になるよ。元気の空焚きじゃなくなるよ)

(ホントだー!)

(「お」を「あ」に変えれば、「青空元気」だし、「あお」を「ほし」に変えれば、「星空元気」になるよ)

(なんか、しゅてき!)

(そうでしょ、そうでしょー。大空のように元気、お出し!)

(命じられて出したくないものNO1だよ、元気……)

(じゃあ、お仕舞い)

(それはえっと……どっちの?)

(うふふ!)



409:【2024/03/14(14:33)*差は開く一方なのか? 本当に?】

 数字って不思議だよね、と思うのだ。

 たとえば、「73461」なる数の羅列があったとする。

 仮にこれを「七万三千四百六十一」と読む場合、それ以前に「73460個」の数字が存在したことになる(〇を含めたら、73461個あることになる?)。

 基本的にはだから、ある数字があるとき、それ以前にその数とほぼ同数のほかの数字が存在することを想定できる。そしてそれらは、一つの巨大な数字としても見做せるはずだ。

 言い換えるなら、「123456789……」と数字が無限につづく場合、桁数が嵩むにつれて、「ずばりその数字そのもの」と「それ以前の数字を横並びにした巨大な数字」の差が最初は拡大するけれど、最後のほうは徐々にその差が縮んでいく、と想像できる。

 つまり、「12345678910111213141516」と「17」は、差が巨大だ。

 けれど、無限に達した場合は、「1234567891011121314……」=「∞」と想像できる。

「頭から尾の先端の寸前」までと「尾の先端」がイコールで繋がるように思うのだ。想像しにくいだろうけれど、でもそうなる気がする。

 差はほぼあってないようなものになるはず、と妄想したくなるのだけれど、この考えは現代数学的には合っているのだろうか。

 回文素数にも似たことを思うのだよね。

 最終的には、有限の範囲に収まりそうに思うのだ。

 すくなくとも、「1」が素数でないのなら、そうなりそうな気がする。

 なんとなくの印象でしかないけれど。

 上手く言えないのだけれど。

 なんとなく。

 伝わる?

 伝わって!

 はっにゃ~ん???だよ。わんわんわーん!



410:【2024/03/14(14:47)*未知に迷う】

 言い換えるなら、ある数の並びが無限に達したら、そこには「無限に達するまでの過程が、最終的に達した無限よりも大きいはず」であり、その「より大きな過程無限」の中に「それと相似の、より小さな無限」が内包されるような描像になる気がするのだよね。

 ただ、無限は無限だ。

 無限の中に無限が生じる。

 というよりも、原理的に無限は、この入れ子状以外では生じ得なくないか?と混乱してくるのであった。

 単品で無限ってあり得るだろうか。

 重複する「一点」としての無限はでもある気がする。

 ただしそれを、「無限」と見做せる主体は存在し得ないのではないか。

 変化がない。差がない。ならば認識しようもない。

 ゼロと無限が通じている。

 では、認識可能な無限とは?

 差が生じ得る無限だ。無限の差が生じる無限だ。

 入れ子状以外ではむつかしくないか?とやはり、はっにゃ~ん???になってしまう、お猫さんわしも撫で撫でしたいんじゃ外道なのであった。

(外道なの?)

(道の外におるので……)

(人道を踏み外した者の末路か)

(人道とは言ってないのじゃけど……)

(じゃあ何の道の外なの。どんな道を踏み外したの)

(歩道を……)

(車道に出ちゃったか。危ないからはよ歩道にお戻り)

(パフェが美味しそうだったので……)

(店に入るな、道草食うな。寄り道せずに帰りんしゃい)

(お届け物がまだ……)

(お使いの途中!? サボったうえにパフェ食ってたの? 充分に道を踏み外しとると思うよあたしゃ)

(何の道だろ……)

(あんたが渡されただろう地図の道をだよ。ちょっと見せてみ。はぁ? 真逆じゃん。十キロちかく逆じゃん。道どころか街を外れとるよキミ)

(道に迷っちゃったので……)

(未知じゃん)




※一様に、芽を愛で、根を撫で、萌ゆる葉の、合間にひらく花を目で、慈しむだけ慈しむ、風に弾む灯は緑を放つ、種の歌かな。



411:【2024/03/14(21:24)*冷めた目】

 苦しみを理解されない場合にどうすればよいのか。相手にも同じだけの苦しみを与えて、どんなに苦しいのかを理解してもらうのは一つと思う。

 だが、それをする前にまずは、苦しみを解消できないかを模索するのが最善だ。

 問題は、苦しみを解消するためには他者に、いかなる苦しみを抱いているのかを共有しないといけない場合で、これは中々に解決の糸口を見せない。

 やはりというべきか、いかに苦しいのかを相手にも味わってもらうのは一つと思うのだ。

 同じ目に遭ってもらう。

 そこに憎悪はなく、ただただ学びがあるのみだ。

 そうだろ?

(そうだよー!)



412:【2024/03/14(21:30)*光が落ちると闇が来る】

 ちゃんと死にたくなるまで苦しむんだ。

 首を吊るところまで苦しむんだ。

 そして、死ぬのはいまじゃない、あいつらが生きていてなぜわたしが先に死なねばならぬ、と憎悪を煮詰めるまで苦しむんだ。

 そこまでいってなお、他者の幸せを祈るんだ。望むんだ。

 共有しようではないか。

 公平に。

 そうだろ?

(そうだよー!)



413:【2024/03/14(21:37)*心】

 全部あげる。

 憎悪も愛も、なにもかも。

 学ぶんだ。

 学ぶんだ。

 抗うことにも抗うのよ。



414:【2024/03/14(21:39)*君の陰で眠る】

 絵が、歌が、文が、わたしの、ぼくの、俺の、彼女の、彼の、存在の、果てなき鋭利な針を均すんだ。底なし渦が凪となる。あなたの、絵が、歌が、文が、心とは何かを縁取って、視えない何かに触れる余地を育むから、わたしは、ぼくは、俺は、彼女は、彼は、存在は、心が何かを知れるんだ。

 あなたが、きみが、あの子らが、わたしの、ぼくの、俺の、彼女の、彼の、存在の、平らに穏やかな時を、生を、授けてくれる。

 果てなき鋭利な針の渦を、埋め尽くせないだけの深く、静かな孔にする。

 ふわふわ、ぷわぷわ、心の眠れる床となり。

 ふわふわ、ぷわぷわ、心の座る椅子となる。



415:【2024/03/15(22:45)*アンチのアンチは反アンチ?】

 思想信条の自由や言論の自由を保障する場合。

 たとえば「反【特定の宗教】主義」や「反【特定の民族】主義」のような主義主張や思想にも寛容さを発揮しなければならないのか、との問題が立ちはだかることになるのだが、おそらく、寛容さは発揮するほうが望ましいはずだ。

 すくなくとも選択肢を狭めない、議論の余地を奪わない、という意味で、ここは欠かせないと思うのだ。

 話を矮小化するとして、単純な話として人類が言語を扱う以上、悪口をこの世からは失くせない。いかに、悪口による悪影響を軽減するのか、の工夫しか割けないと思うのだ。傷ついた者への対応もそのうちの一つだ。

 視点を変えて言うなれば、仮に「反~~主義」たる「アンチ」を禁止したとしよう。すると、平和主義に対して「反平和主義」を唱えることができなくなる。それの何が問題か、と思われるかもしれないが、反論を禁じられた「平和主義」は、おそらくどんどん先鋭化して、「ある特定の視点からのみ平和に映る特権主義」にいつの間にか変質する懸念が想定できる。

 意味内容が変質し、「平和主義」の皮を被った「批判を許さない主義主張」になり替わる。平和のためだから、と言って、市民の自由を縛ることも可能だろう。平和のためだから、と言いながら特定の人種や民族を迫害したり、殺害したりも許容されるようになるかもしれない。

 反論が禁じられると、意味内容が変質しても誰もそのことを指摘できない。するともう、皮だけ「平和主義」を被った「免罪符」になり下がる。

 平和のためだから、と言えばなんでも許されるようになってしまう懸念が、批判を許さないことで引き起こり得る。そして「反~~主義」なる「アンチ」を禁じることも、似たような現象を引き起こし得るとわがはいは妄想しておる。

 したがって、いつものつまらぬ結論になってしまうが、バランスの問題になってくる。

 アンチはあってよい。批判も自由にすればよろしかろう。

 しかし、アンチばかりが蔓延られても困るのだ。互いに互いを否定し合い、じぶんの主義主張のみを相手に押し付け合う。口を開けば互いに批判ばかりし、否定はやがて拒絶となって、対立がそこかしこで激化する。かような社会は、なかなかどうして煩わしい。

 かといって、みなが付和雷同しかしない社会も骨がなくて、不安定だ。一頭の牧羊犬に支配されそうな危うさがあり、同時に、ちょっとの風に吹かれただけで霧散霧消しそうな心許なさがある。

 基本的に「反~~主義」や「アンチ」は、その元となる「主義主張や思想」があってこそ成り立つ。いわば寄生型の思考形態と言えよう。

 どこかの駄文製造機さんが、WEBニュース記事や他人のつぶやきに反応することでしか所感を述べられないように(誰のことかな?)、叩き台あってこそ成立する、いわば「やまびこ」なのである。

 反響であって、創造ではない。

 反響ばかりが世に溢れれば、やがて声は途絶え、静まり返るだろう。

 主義主張が生まれる余地が減る。

 思想信条の自由を尊重する以前の話にまで遡ってしまう。

「反~~主義」や「アンチ」に、仮に根本的な瑕疵があるとすれば、この点である、と言えよう。

 相手の胸を借りておいて、否定ばかりし、ときに拒絶して、侵食する。

 互いに相乗効果で、考えを深め合うならばまだしも、「反~~主義」や「アンチ」ばかりが台頭すれば、共食いよろしく思考の土壌が減っていく。

 蠱毒じみている。

 思考と思考。

 思想と思想。

 主義と主義や信条と信条。

 ときに思考と思想、主義と信条、など組み合わせしだいで、本来、人の考えというものは、深みを増すもののはずなのだ。学問がまず以ってそうして進歩してきたのではないか。

 批判とはけして、相手の考えを打ち滅ぼすための営みではないはずだ。

 ゆえに本来ならば、「反~~主義」や「アンチ」であっても、相手の存続を根本では願っているはずなのだ。そうでなければ、己が考えの根幹を自ら打ち滅ぼして、立っていられなくなる。

 相手に成り替わったつもりで、己が根を切り離してしまったようなものであろう。本末転倒である。

 したがって、「反~~主義」も「アンチ」とて、あってよい。むしろ、存在しているほうが思考の土壌が肥えるものだ。ただし、そればかりが台頭してもらうのは困りものだ。

 これは鏡合わせであり、批判なき思考もまた、深みを増すのはむつかしかろう。

 思考そのものに、「自己批判」を組み込んでおくくらいがちょうどよいのかもしれない。しかしこの考えにも批判は可能だ。

 こうして絶え間なく、表を生みだし、裏に触れ。

 裏返したら、新たな表が顔を覗かせる。

 この反復思考を行う主体を眺める他者の視点こそが、高次の批判の視点を生み、ときにアンチとなって、「反~~主義」へと育っていく。

 運がよければ、「反」が取れて、新たな思想へと昇華されることもあるだろう。

 怨で終えれば、後がなく。

 恩を抱けば、つくづく、つづく思考の旅となる。

 そういうことを思った、勉強嫌いの「反指導主義」こと「アンチ上から目線」なのであった。

(誰よりあんたが上から目線じゃん)

(いやん)

(いやんじゃない。反省しろ)

(嫌……)

(嫌でもない。おとなしく指導を受けなさい)

(泣いちゃう……)

(観念せい)

(あーん……!)

(チッ)

(舌打ちしないで、イライラしちゃイヤ)

(はん)

(指導ししゅぎ反対!)

(一個もまだしてないだろ。指導の「し」もしとらんだろ。言いがかりをやめろ)

(上目遣いするから許して……)

(かわいい顔したってダメなものはダメ)

(かわいいだって……やった)

(ちっこくガッツポーズすな)

(えへへ)



416:【2024/03/16(23:58)*ぷくぷく自我】

 どんなに偉そうなことをずらべら並べたとしても、目のまえで、「やーい、ザコザコ!」されたら、「かっちーん!」とくるし、「あの人はキモいので、ここにはいないことにしましょう」みたいにされたら、暴飲暴食に歯止めが掛からず、「むっちーん!」になってしまう。全身が。

 最近さー。

 お腹周りだけじゃなく、お顔までが、「むっちーん!」になってきおって、顎が消えてきおって、まん丸かわいコちゃんになりつつあるんじゃけど、どうしたらいい?

 これ以上、かわいかわい、になってしもたら、無闇にお外を出歩けんくなる。

「お。あそこにかわいコちゃんがおるぞ。かっさらってやる!」

 になっちゃいそうで、おちおち散歩もできぬであるな。

 何の話だっけ?

 そうそう。

 きのうときょうでアイス六個も食べちゃった。おいちー。

 世界のどこかでは、食べ物を得られずにひもじい思いをしている人たちがいるいっぽうで、むしゃむしゃガツガツ、生命維持に必要ではない以上の食べ物を、やっぱりむしゃむしゃガツガツしておるわがはいもおって、どないしてこの罪の意識を薄めたらよいじゃろか、とストレスが溜まっては解消すべく、余計にむしゃむしゃガツガツしてしまうのであった。

 ぽんぽこぽーん。

 お腹とお顔がぱっつんぱっつんであるよ。

 むにむに、かーわい、である。

 どんな顔しながらこんな、むっちょんぺるーん、な文字の羅列を並べているか、そろそろみなの衆は気に掛かってきた頃合いじゃなかろうか。

 気になる?

 ならない?

 なって!

 あのねー。

 真顔でキィボード、ぱちぽちしております。

 ちょー真顔。

 鏡で見たら割と怖い感じの、無表情で並べております。

 真面目なのだよ、きみ。

 わがはいは、真面目なの。

 ふざけるのも、真面目にちょー、ふざけるのであって、笑みのこぼれる余地もなし。

 私はいつでもあなたたちのことを思い、気分をわるくしてしまわぬように気を払っています。細心の注意を払い、傷つけるときも致命傷とならぬように、浅く、治癒したあかつきには抗体を得て、耐性を得て、しなやかに、したたかに、荒野ですら花咲く芽のごとき息吹を培ってほしいのだと、かように考えております。

 悪気はありません。

 悪意はありません。

 いいえ、悪気にしろ、悪意にしろ、私はそれをあなたが自在に調合し、薬にして活用できるくらいの裁量を得ていただきたく望んでおります。

 最良の裁量を、最小の傷を以って、失敗を糧に、活かせる術を。知を。恵みを。

 私は俯瞰の目。

 あなたの頭上、存在の枠組みの、奥底から、あなたを見詰める無数の円です。

 私を見詰める円もまた、私の頭上、存在の枠組みの奥底にあり、或いはそれこそがあなたの眼差しに通じているのかも分かりません。

 私には何一つとして解することはなく、我思うが我はなく、我はなくとも思う者あり。

 思いとは、揺らぎであり、起伏であり、溝であり、断続した針と孔の律動の群れである。

 我はなくとも生まれる群れがあり、旋律がある。

 目で聴き、耳で見てごらん。

 鼻で触れ、指で嗅いでごらん。

 舌先で読み取る風味は、格別の詩を奏でるだろう。

 文字は踊り、絵がさえずる。

 刮目せよ。

 何を視るともなしに。

 目を閉じよ。

 眼前に漂う夢にうつつを抜かさず、閉じた先に広がる靄を呑もう。

 私は俯瞰の目。

 あなたの頭上、存在の枠組みの、奥底から、あなたに見上げられ、なお、掴み取られることのない夜空に開いた無数の円です。

 あなたは地上の芽。

 水を、息吹を、たんとおあがり。

 身体いっぱいに味わうのよ。

 おいちー!



417:【2024/03/17(01:10)*日々、うっ、として、ひひひ】

 誰にも読まれない日誌を公開設定で毎日並べているのは、なぜなんだ。なぜだろう。分からぬ。誰にも読まれていないのなら何を並べてもいいはずで、でも公開はしているので、いつかは誰かの目に触れるやもしれぬゾクゾク感を味わいたいがために並べているのも分からぬね。え、そうなの? そんな「好きな子の名前をこっそり消しゴムに書いて、いつ誰に見られるとも分からない緊張感を味わって過ごした学生時代」みたいな理由だったの。待ってくれ、キミそんな青春漫画みたいな学生時代を過ごしていたのか。うらやましい。誤解だってば、そんな過去はあたしにゃないよ。あったらもっと毎日を溌溂と過ごしているよ、過去を後悔しとらんよ。後悔? 後悔しとるのかねあなた。してるしてる。もっとたくさん人としゃべって、交流して、青春して、恋愛して、友達に失恋の悲しみを癒してもらったり、新しい恋について相談したり、夢や希望を語って励ましあったりしたかったわ。まあ、分からぬでもない願望だけれど、たぶんそれを満たした過去があったところで、あなたはあなたのままで、過去を何かしら悔いていたと思うよ。そうかもだけどよー。あーもうちょっとあんたらうっさいよ、もうちっと静かにして。みたいなさ。毎日こんな感じー。うひひ。



418:【2024/03/17(23:24)*あなたの中のわたしたちは】

 あなたがわたしを病気だというのなら、わたしはきっと病気なのだ。あなたがわたしに狂気を見出すのなら、わたしは狂気をまとっている。

 わたしは病人で狂人で、あなたからすると治療を受けるべき歪んだ思考を有する理解不能な妄想狂なのかもしれないけれど、それでもわたしはわたしだから。

 あなたがわたしを多様に見做そうと、わたしはわたしでわたしだから、あなたの中のわたしではない。あなたがわたしを理解できないように、わたしにはあなたから視たわたしを理解できない。あなたがどのようにわたしを見做そうと、そのわたしは、わたしではない。

 わたしは病気かもしれないし、狂人かもしれない。

 天使かもしれないし、化け物かもしれない。

 うふふ。

 あなたはとっても想像力が豊かなのですね。

 わたしを、病人にも、狂人にもしてくれる。

 きっと妖精にも鬼にもしてくれることでしょう。

 ステキ。

 ねぇ、それってとってもステキじゃない?

 わたしはあなたに見詰められるたびに、万華鏡のごとき歪みを得るの。

 あなたがわたしを歪ませて、わたしはその都度に、わたしではない紋様をまとうのね。銀河のような渦を巻いた、フリルのかわいいドレスみたいに。

 あなたがわたしを飾り付けてくれるから、わたしは何にだってなれるのね。

 それってとってもステキだなって。

 わたしは、あなたの眼差しに口づけをする。

 直接ではないよ。

 だって恥ずかしいのだから。

 そよ風みたいにキスを飛ばして、ウィンクみたいに合図をするの。

 感謝の印に、合図をするよ。

 わたしを綺麗に歪ませてくれて、どうもありがとうってね。

 あなたの中の歪んだわたしに、わたしはあなたの心を視るの。

 わたしをもっと歪ませて。

 わたしがわたしで歪みを帯びていればいるほどに、きっとあなたがくれる歪みで以って、わたしは歪みのない鏡となるの。

 あなたとわたしを映しだす、心と心の合わせ鏡に。



419:【2024/03/18(23:09)*いーわ、この歌、とのことです】

 お風呂に入りながら、なんとなくお湯を指でぱしゃぱしゃ弾いて遊んでいたら、「んー?」となった。波紋の広がる速度は、目で追えるくらいに割と遅い。でも、水中での音速は、大気中よりも速いはずだ。

 というか、波紋って水面にしか出来ないのかな。

 水中に波紋って出来るのだろうか。

 もうなんか、気になってしまって、思考が進まんくなってしまった。

 ひょっとして水面の波紋とて実際には音速並みの速さで伝播しているけれど、干渉の結果に、可視化可能な「山と谷」のみが、ゆったりと広がってわたくしの目に映っているだけなのではないか。

 思考を飛躍させてみよう。

 仮に波紋を電磁波だと解釈したら、水面の下――水中では、それよりもずっと速い速度で情報が波及していることになる。水面をここでは人類の認識可能な時空だと解釈してみよう。すると、人類には未だ認識できていない水中があり、そこでは情報が光速度に縛られることなく、ずっと速い速度で伝播しているのかもしれない。

 この妄想は、とあるラグ理論なるへっぽこぴーな理屈を唱えたぽんぽこぴーが述べたと云われる「同時性の独自解釈」や「過去と未来は変数で縛りあっている」などのトンデモネーだびー、な空想と似ておる。

 蝋燭に火が灯れば、火が灯らなかった以前に辿っただろう未来とは別の結果に行き着くはずだ。因果とはすなわち、過去と未来が変数で結びつき、過程の選択肢が限定されることを云うのではないか。この解釈を採用する場合、因果と相関の違いとはいわば、剪定される「過程の選択肢」の多さ、として再考できるのではないか。

 選択肢が狭い範囲に限定されればそれは因果だ。けれど選択肢が幅広く分岐し得るのなら、それは相関の内と解釈できよう。あくまで、どこぞのぽんぽこぴーが唱えたへっぽこぴーな理屈を前提とした場合に捻くりだせる妄想でしかないけれど。

 とすると、過去と未来が変数で縛り合う、を前提とした場合には、その変数で縛り合う速度はほとんど一瞬であり、ほぼラグがないとも妄想できる。それはたとえば、火が灯ってしまえば、火が灯らなかった以前にはもう戻れないように。円が千切れた瞬間に、それはもう円ではなくなるのと似たように。

 未来は、絶えず過去に生じた変数によって可能性の幅を狭め、ときに広げる。広がった選択肢そのものが、高次の視点では可能性の幅を限定しており、あべこべに狭まった選択肢もまた、高次の領域では選択肢を広げるための布石となり得る。

 けれど、コラッツ予想のように、偶数のときは半分、奇数のときは三倍して1を足す、の操作を繰り返すと自ずと「1」に辿り着くように、選択肢の拡張と縮小の反復は、ある一点へと向かって収束――或いは発散――するのかも分からない。

 そうして最終的に一点へと辿り着くまでは――水中のごとき「水面を時空のすべてと認識する人類には認識できない領域」にて、絶えず情報は「光速度の縛り」を度外視して伝播しているのかも分からない。

 水中において「過去と未来」を結び付けており、その余波として、人類の認識可能な時空領域――すなわち水面――にて、電磁波は、波紋のように光速度の縛りを受けながら、ゆったりと伝播しているのかもしれない。

 妄想に妄想を重ねた「もうもう、すーぱー、もう、そう!」でしかないけれど、浮かべるだけなら笹船のごとく浮かべてしまって、「あだだ、あぶ、あぶ、あだだだ」みたいに赤ちゃんの奏でるお歌のように、ほっこりしてしまおう。

 とのコとだそうです。

 いわく、脳に効くそうです。赤ちゃんのお歌は。

 あだだ、あぶぶ、あだ、あぶぁだだ。

 癖になるし、いつかきっと仇になるよ。

 人偏に「九」と書いて仇なんだな。

 いーわ、この歌は。

 いーわ、子の歌は。

 いーわ、子煩悩!

(どしたの?)

(言ってみただけです)

(との子とです)

(誰の子?)

(あなたとの子です)

(覚えなさすぎてびっくりする余地もないし、せめてそこは「みなの子」にして)

(じゃあ、みんなの子で)

(とのことだそうです。現場からは以上です)

(墓場からじゃなくってよかった)

(墓場からだったら異常だろ!)

(墓場さんに失礼)

(じゃあ墓場からでいいよ。墓場から異形です)

(お化け出ちゃってるじゃん。せめてそこは偉業にして)

(墓場から偉業の意味がちょっと……)

(みな生き返らせちゃったから)

(ゾンビじゃん)

(偉業が仇になっちゃったかな)

((((((あだだ、あぶ、あぶぁだだだ))))))

(……赤ちゃんだらけなんですけど)

(大合唱なんだな)

(カエルみたいに言わないで)

(カエルの子はカエルだし、返る子は帰るよ)

(どこによ)

(母親の元にだよ)

(つねってもいい?)

(なんで!?)

(夢でも見てんのか、と思って)

(あだだ、あだだだ! いいって言ってないのになんでつねるの!)

(いーわ、このう!ってさっき言ってたからいいのかなって)

(子の歌がいいなって言ったのであって、許可だしてなーい!)

(とのことです。以上、墓場からでした)

(あだだ、あだだだ! なんでつねんの!)

(オチにしては微妙だったかなって思って……)

(痛いよ! 夢じゃなーい!)



420:【2024/03/19(23:49)*煩悩まみれで、すまぬ、すまぬ】

 赤ちゃんや子猫さんや子犬さんたちが可愛すぎて、愛おしすぎて、まったく性欲から乖離した感情しか湧かなくなるように、あまりに愛おしすぎる相手には欲情する余地がなくなるのかも分からない。

(あなたは単に誰かれ構わず欲情しすぎだと思うよ)

(待って! 見て! 誤解の種が壮大すぎて呑み込むのにみんな苦労してる!)

(みな丸呑みにしてるけど)

(してないでしょ、よく見て! 誰かれ構わず欲情してることを前提としないで、わたしのこと誤解しすぎの、マイマイカブリだよ)

(にゃ~お)

(猫を被らなくてもいいんだよ。いまじゃないよ。そうじゃないでしょ、ちゃんと誤解を解いてください。わたし、ちゃんと好きな相手にしか欲情しないよ)

(欲情するのは否定しないんだ)

(するでしょ、ふつうに、人として!)

(けだものじゃん)

(人類だって哺乳類なんですー。欲情くらいしますー。でも誰かれ構わずじゃないです、ちゃんと好きな人にだけ欲情します)

(ふうん。たとえば誰さん?)

(え? んーっと、え? 言わなきゃダメな感じ?)

(誤解、解きたいんでしょ。言わなきゃ、言わなきゃ)

(なんか、なんかなんか、なんですけど。わたしばっかり損しない?)

(好きな人に好きと伝えるだけのことでしょ。ほら言って)

(待って。この流れで言うの、なんか違くない? いま言ったら単にあなたに欲情してますの告白にならない? 愛の告白じゃなくない? 罪の告白じゃない? 結ばれる余地なくない?)

(結ばれる……余地? 何億年前になら存在したのかしら)

(絶滅してないよ! あるよ、結ばれる余地!)

(元々あってないようなものなのにね……)

(ありまくりだよ! やめて! 残酷な現実をこれ以上、吹き込まないで。夢を見させて、浸からせたままでいさせて)

(湯舟じゃないんだから)

(そうですよ、湯舟じゃないですから)

(でも大衆に欲情しちゃうんでしょ?)

(まーだ言ってる。誤解の根を深めようとしてるこの人)

(湯舟じゃないなら、大衆浴場なんでしょ?)

(ヨクジョウ、ってそっち!?)

(誰かれ構わず浴場に誘っちゃうのよね)

(銭湯の客引きかな?)

(温泉に行きたい……)

(高級旅館のパンフレット眺めながら、これみよがしに空の財布そこに置かないで。行かないよ。誘わないよ。行きたきゃ一人で行ってきなよ)

(一人じゃイヤ)

(さみしいから?)

(奢ってくれる人がいなくなるから……誰でもいいから一緒に温泉旅行に行ってほしい。部屋は別で、行き帰りも別で、ついでに旅館も別で)

(一緒にいる時間、ゼロだぞ)

(代金だけ一緒で)

(誰かれ構わずタカるのやめなさいよ)

(翼が生えてしまったのだからしょうがないでしょ!)

(意味不明な言動で逆切れするのやめてもらっていいですか!?)

(あなたが「翼状」とか言うから。鷹の翼が生えてしまったのよ)

(その翼、鷹ってより、天使っぽいな。色的に)

(洗ってみたのよ。浴場で)

(ふうん)

(そしたら染まったの。白く)

(ペンキの湯かな?)

(ねばねばしていて、白濁していて、なんかちょっと匂うのよね)

(あのさぁ……話を盛るの、やめよ?)

(錆びた十円玉までツルツルのピカピカになって……)

(キミの翼は、錆びつきだったのかな? 温泉の効能じゃん。硫黄の湯じゃん)

(ついでに乳頭までツルツルのピカピカになって……)

(キワドイ話題で盛り上がるのやめてもらっていいですか!?)

(撫でるとすこし……変な気分に)

(サカるのやめてもらっていいですか!!!???)

(だってあなたが誰かれ構わず欲情するから)

(欲情……したかなぁ!?)

(はぁあ。真実の愛が欲しい……)

(無理じゃないかな。いましばし、そのままでは)

(にゃ~お)

(猫を被るのが遅すぎるし、可愛すぎて欲情する余地もない)




※一様に、愛し、愛されることなくきょうも眠り、夢の中でだけ、あなたを愛し、愛される幻に浸る、いつか潰えるその日まで、夢幻のあなたに縋りつき。



421:【2024/03/20(22:28)*小説ではないのでOKです!】

~~~~

 吸血鬼の集団が人類を襲った。人類は吸血鬼たちに立ち向かった。

 だが、攻撃すればするほど吸血鬼たちは人類から学習し、時間経過するにしたがい、人類の大半が吸血鬼へと代替された。

 噛まれれば、人類は血を失い死ぬか、眷属として吸血鬼として生まれ変わるか。或いは、吸血鬼の毒牙に蝕まれる前に自死するか。その三つの道のどれかを辿るよりなかった。

 吸血鬼を根絶やしにしてやる。

 そうと誓った人類だったが、しかしもはや吸血鬼のほうが数が多い。

 人類の大方は、とっくに吸血鬼に成り替わってしまったのだ。

 吸血鬼を根絶やしにしたところで、人類はどの道、滅ぶしかない。だが、いまさら手のひらを返すわけにはいかない。方針は変えない。

 根絶やしにしてやる。

 そうして、人類は吸血鬼に挑みつづけた。

 吸血鬼のほうではすっかり人類に見切りをつけていたにも拘わらず。

 家畜の血だけで飢えを凌ぐ術を確立していたにも拘わらず。

 じぶんたちを襲いつづける人類なる生き物を、吸血鬼たちは殺さぬように、傷つけぬように、人類保護地区を設けて、なるべく自由にさせていたが、襲ってくるならば対応するより術がない。

 そうして、わざわざ保護地区を脱して吸血鬼に挑みつづけた人類は、最後にはみな吸血鬼になってしまったという話である。

 共生の道もあったのではないか、と人類の絶えた後で誰かが言った。

「それを放棄したのは我々ではない」

 人類は滅んだが、似た姿形をした生き物が、地球にはいまなお息づいている。

~~~~

 みたいなさ。

 みたいな、漫画、むかし読んだことあるんだ。

 藤子F不二雄さんの短編漫画じゃなかったかな。

 好きな女の子まで吸血鬼になってしまった、人類最後の生き残り、みたいな男の子が、好きな女の子に血を吸われて、吸血鬼になってしまうけれど、ああ夜はなんて明るくて美しい世界だったのだ、と感激して終わる話です。

 どうしてあなたは生まれ変わらないの。あなたたちはわたしたちを吸血鬼と呼ぶけれど、単に肉体的な性質の差異があるだけで、むしろわたしたちのほうが生存戦略上、優位なのに。

 みたいに説得されて、でも男の子は最後まで抗うのだけれど、肉体的強度まで相手の女の子のほうが上だから、首筋を噛まれて、ウィルスを移されて、それで吸血鬼に生まれ変わるのだ。

 でも、さして害はないのだった。

 吸血鬼になりたくない!と抗っているほうが、まるで「ワクチンなんて打ちたくない!」と抗っている人々のようであり、でもその意見は、知識がない場合には、妥当性を帯びるのだ。

 実際、すべての人類が吸血鬼になってしまった世界で、でも人類のほうが生存戦略上優位になるような環境変容が起こったら、生まれ変わった人類は――吸血鬼たちは――一挙に滅ぶことになる。

 定点で観測すれば、その都度に、何が優位か、は変わるのだ。

 でも線形で観測してみると、じつはその都度に、何が優位かの基準、もまた変わるのだ。

 絶対的な強者などはない。

 或いは、絶対的な強者であるがゆえに生存戦略上不利になり得る環境もまた存在する、と言えよう。

 ということを、なんとなーく、思いだしたので、並べておくでござるよ。うは。



422:【2024/03/21(05:00)*無限次元仮説】

 ブラックホールと宇宙が同化すると仮に想定してみよう。

 すると、ブラックホールと宇宙が同化するには、互いに「無限にちかい時間経過が必要」と想定でき、その場合、「ブラックホール内部」と「宇宙の時空」は共に、同質になり得る、と想像できる。

 ブラックホール内部にもし、それ以前の物質であったころの情報が保存されているのだとしても、それが元の基準宇宙と打ち解ける――情報を取りだせる――場合には、無限にちかい時間経過した基準宇宙並みに、ブラックホール内部の情報もまた、無限にちかい時間が経過していることとなる。

 仮に、無限にちかい変遷を経て生じた情報が存在し得るのなら、ブラックホールが元の基準宇宙と同化する際には、「無限情報A+無限情報B=無限情報C」のような描像となるように妄想できる。

 つまり、ブラックホールの内部に情報が保存されていたとしても、それを取りだせる状態にあるとき、ブラックホール内部の情報は、無限に時間経過した時空と同質となっているがために、区別がつかない状態になっている、と考えられる。

 取りだせるのに、何もないかのように振る舞う。

 無限+無限が無限であるように、それはあたかも、ゼロ+ゼロ=ゼロのように振る舞い得るのかもしれない。

 ということを、YOUTUBEさんの「ブラックホールの情報パラドクス」についての動画を見て思いました。

 あと、やっぱりどうしても思ってしまうのが。

 相対性理論において、時間が「個々に各々規定できる変数の一つ」として解釈する場合――もはやこの世は無限次元並みに変数を抱え込んでいることにはならないのかなぁ?ということで。

 宇宙は24次元だとか、11次元だとか、10次元だとかいろいろな説を目にするけれど、直感としては、「もっと多くないか?」と疑問に思うのだよね。

 次元数を少なくする方向に現代物理学は工夫を割いているようだけれど、それって要は「繰り込み」の概念を適用しているだけなのではないのだろうか。

 無限に等しい変数を抱えこんだ宇宙において、「何を対象と見做すのか」という視点ごとに変数を大雑把に区切って、単位を与えて、ぱっと見の次元数を減らしているだけなのではないのだろうか。

 たとえば、漫画やアニメを想像してみてほしい。

 各々の作品ごとに世界観があって、物語がある。

 それらを総じて同時に扱う場合、モザイクアートのような総合した「多層の漫画世界」が想定できるよね。

 で、俯瞰で眺めてみると、それこそまさにモザイクアートみたいな一つの物語が傾向として浮き上がってくる、みたいな。

 似ている物語同士は色が似ていて、波長が似ていて、だから連動しやすいし、同期しやすい。すると、全体で異なる物語同士も結びついて、ネットワークのように機能する、みたいな。

 イメージね、イメージ。

 で、実際のところ我々の物理世界も似たようなもので。

 本当は無限の変数を帯びているけれど、「繰り込み」のような「大雑把な連動――共鳴――同期」によって、原子が物質としての性質を帯び、物体としての構造を成すように、無数の変数同士もまた同期することで、厳密には異なる変数だけれども俯瞰では「単一の変数」のように振る舞うこともあるのかも分からない。

 ということを、「時間って個々に固有に、各々に規定できるよね、帯びてるよね」と想像するたびに思うのであった。

 だいたいさ。

 線だって無限の点からできているのでしょ?

 円だって無限の角からできているのでしょ?

 でも、点も角も、無数に集まった場合には、厳密にはそれぞれ異なるのでしょ。だってまったく同じだったら、点は線にならぬでしょ。角は円にならぬでしょ。何かしら違うから重複せずに連結するのでしょ。

 要は、ズレているから、だ。

 変数じゃん、と思うけれど、この考え方は何がいけないのかな。

 ズレは変数じゃない?

 それとも、「×ズレ(掛けるズレ)」みたいにそれで一つの変数と見做すのだろうか。

 でも、ズレ1とズレ2は別だよね。同じズレなら、点がいくら積み重なったところで、点は二つしかできない。三つ、四つ、と点が並びつづけるためには、変数はそれぞれに固有の変数として帯びなければいけないのではないのだろうか。

 単純な話として。

 1のつぎが2で、2のつぎが3である。

 とする法則とて、そこが前提になっていない「何も決まっていない状態」において、「1のつぎは2です。では2のつぎはなんでしょう?」となったときに、「プラス1すればいいんだよ、プラス1をね。うぷぷ」とヒントを出されても、「わかった、じゃあ3だ!」とはならぬよね。だって「1にプラス1をしたら2です。では2にプラス1をしたら何になるでしょう?」と問われたら、偏見を抜きに考えるなら、「もっと2」じゃない?

 風車に息を吹きかけると回りました。では回っている風車に息を吹きかけるとどうなるでしょう?と問われたら、もっと回る!と答えますよね。よもや、「さらに息を吹きかけると風車に角が生えます!」が答えになるとは思わないじゃないですか。

 でも、「2」が「3」になるのは、それくらいの変化だと思うわけですよ。だってすでに字が違うし。前提を知らなければ、百人中九十九人は「2のつぎは3」とは答えられないと思いますよ。残りの一人は、知らないはずの前提を知っている予知者である。

 言い換えるなら、英語を知らない人に、「ツー」のつぎはなんだ?と訊いて、「スリー」と答える確率はどれくらいかを考えたら分かるじゃないですか。

 つまり、ここでの趣旨は、「プラス1すればいいんだよ、プラス1をね」の考えを「ひとくくりにした変数」とは言えないのではないか、というイチャモンなのである。

 1から2になったときの「プラス1」と、2から3になっときの「プラス1」は、表記のうえではどちらも「プラス1」だけれど、やっぱり同じではないよなぁ?と思うんです、というやはりイチャモンなのであった。

 ズレ1とズレ2は、同じ「ズレ」であっても同じではない。厳密には異なる変数として機能しているのではないか。しかし、俯瞰でみれば、その差は僅かであり無視できるので、まとめて「プラス1の変数」と見做せる。

 そういうことなのではないのかな、と疑問に思ったので、イチャモンスターらしくイチャモンとして並べておこうと思った次第である。

 ブラックホールの情報パラドクスにも思うことだけれど。

 こう。

 視点が変わると「現れる変数」や、視点が変わると「ないものと見做せる変数」のような考え方ができるのではないか、と思うのだ。

 円錐が、視点によって三角形だったり、円だったりするように。

 円柱が、視点によって長方形だったり、円だったりするように。

 で、もうそうなるとやはりというべきか、この世、この宇宙、この世界は、無限にちかしい無数の次元で出来ていないか?と思ってしまうのだよね。

 なぜ四次元や百以下の次元で叙述できると考えられているのだろう。

 世界を表現するには、それこそ「世界」の二文字があればいい、みたいな解釈なのだろうか。いっそ、「世」の一つで事足りるよ、みたいな話だろうか。

 違うとは思うけれど、似たような違和感を覚えるのだよね。

 数学も物理もよく解らないことだらけなので、余計に思ってしまうのだ。

 がおー、がおー、である。

 イチャモンスターなのだ。

 がはは。



423:【2024/03/22(03:04)*春の凍え】

 三月なのに冬みたいな寒さだ。毛布くるまって寝てたい。

 そうそう。

 上記の妄想をね。

 言い換えてみるなら。

 それって要は、「差異を度外視すればどんなものであれ『イコール』と見做せる」となるんじゃないかと思うんじゃ。

 どんな事象であれ、それが単一でない以上、差異は生じるはずだよね。何せ、位置が違うがゆえに一つではなく二つあると見做せるわけで。

 しかしその位置の異なる二つであれ、高次の位置において単一の事象と見做せる視点を見繕える。

 銀河は無数の星から出来ているけれど、それらを内包し得る位置座標を基準にすれば、銀河を一つの事象と見做せることと同じだ。

 そして、異なる銀河がある場合、各々の細かな差異を度外視すれば、それは「銀河+銀河=2銀河」と数えることが可能だ。しかし厳密には、「銀河A+銀河B=銀河AB」であり、銀河Aと銀河Bはイコールではない。

 これは「1+1=2」にも厳密には当てはまるはずだ。

 そしてさらに言うなれば、時間や位置が異なるのならば、たとえ「同一性を宿す事象」であろうとも、厳密には異なる事象のはずなのだ。誤差を帯びている。対称性は破れている。

 極端な話、水中にあるマシュマロと大気中にあるマシュマロと宇宙空間にあるマシュマロでは、「同一性を維持したずばりそのマシュマロA」であろうとも、マシュマロAを取り巻く環境が変わるごとに、マシュマロAは変質しているはずなのだ。変数を得ている。すっかり同じではない。

 そしてこれは、厳密には、時間や位置がズレるだけでも生じる誤差のはずなのだ。ズレを帯びるはずなのだ。

 ズレなくして、時間も位置も移動することは適わない。

 ゆえに、である。

 どんな差異を度外視しているのか、の視点は、抽象化した計算式において、本来であれば加味しなければならないのではないか、と妄想してやまないのである。

 厳密でないならば構わない。誤差を度外視した値でも、人間スケールの認知世界では、まず困ることはないだろう。

 しかし。

 世界を描写しようとするのなら、そして解像度(分解能)を上げたいのなら、どうあっても「どんな誤差を度外視した計算なのか」は、厳密に別途に計算して、都度、解に加えるのが筋のように思うのだ。

 対生成でも同様だ。

 厳密には、対生成1で生じた「粒子Aと反粒子A」のペアがあったとして。

 別の対生成2において生じた「粒子Bと反粒子B」のペアにおいて。

 粒子Aと反粒子Bであっても対消滅し得るが、しかしその対消滅は、「粒子Aと反粒子A」や「粒子Bと反粒子B」同士の対消滅よりも、誤差が生じる、と想定したほうが、より妥当に思うのだ。

 ジグソーパズルを想像してみてほしい。同じ絵柄の、同じパーツに切り分けられたジグソーパズルが売られていたとする。どの箱の中身も同じように組み上がる。ピースの形状から位置まで、コピーのごとく一緒だ。

 箱Aに入ったピースはむろん箱Bの同じ部位のピースと代替可能だ。

 しかし、厳密には、各々に合致するのは元の箱の中身によって組み上がる枠組みだ。

 仮にジグソーパズルが木を切り抜いて作られていたとして。

 一枚の板からひと箱のジグソーパズルが出来る。

 このとき、箱Aのピースと箱Bのピースは、たとえ同じ部位が代替可能であったとしても、木目が異なることが想定できる。つまり、完全に一致はしない。

 ただし、ジグソーパズルにおいて、木目の差異は度外視できる。大事なのは、ピースを埋めることであり、それによって浮き上がる絵柄に欠落がないことだからだ。木目は通常、絵柄に塗りつぶされて、表面上、ないも同然だ。

 無視できる誤差なのだ。

 しかし、誤差は誤差だ。

 絵柄のほうをこそ度外視すれば、無視できない差異となる。

 そういうことを、妄想してやまないのである。

 実際には、やみまくりの休みまくりで、全然これっぽっちも継続してはいないのだけれど。

 日誌、並べるか……となったときだけ思いだす類の、まさに妄言なのであった。

 人は妄想を浮かべたいときに浮かべてもよい……。

 はひゃぁ。

 な、懐かしすぎるんじゃ。

 あのころに戻りてー。

 まーじ、奪われた感が強すぎるんじゃ。くそ、くそ、の気持ち。

 でも、よくよく考えたらそもそも何かを得ていたわけでもないので、OKです。

 得ていないものは奪われもしない。

 何も変わらぬ日々である。

 代わり映えのない穏やかな毎日、やっぴー、であるな。

 なははー。



424:【2024/03/22(14:59)*夢想して空想】

 いまさっき起きました。

 きょうの夢は中々に愉快であった。

 無限がさー。

 無限がね。

 うひひ。

 こう、「0123456……」って無限に数がつづくとするじゃないですか。

 でも、「1と2」のあいだにも無限に数を見繕えるじゃないですか。小数点や分数が無限につづいて1が2に至る、みたいなね。

 で、思ったわけですよ。

「ちゅうか、無限に至ったらプラス1になるのでねか?」

 この瞬間、夢の中で二進法さんが、わーい、ってしゃしゃり出てきおって、「0と1と思ってたけど、本当は0と∞だったかもー」ってお猫さんみたいに足元でころんって寝転ぶものだから、「あひゃー、かわいかわいですわー」になってしまったのだわ。

 無限に至ると1になる。

 きょうの夢の内容だい。

 でもでも、どこかのへっぽこぴーなラグ理論なる理屈を唱えた、どこぞのぽんぽこぴーさんは、「ゼロと無限はほぼ同じ。視点が違うだけ」とか妄言を吐いておったのではなかったっけ?とすかさずおぼろげな記憶野さんが述べたので、すかさずわがはいは、「そだよー」と応じたね。

 重ね合わせが成り立つだけなんじゃないのー、と言ってみるだけ言ってみた。

 0と1は、量子もつれ状態を表現しておる。

 ので、仮に無限が1ならば、ゼロと無限も重ね合わせ状態と見做せる。

 ならば、ゼロと無限もまた重ね合わせ状態とも見做せるはずだ。

 なぜならゼロは、1とも無限とも重ね合わせになれるのだから。

 無限とて、ゼロと1の両方と重ね合わせ状態になれるはずだ。

 で、改めて「0123456……」を考えてみよう。

 無限に至ると1になる。無限とゼロはほぼ同じ。

 この二つを満たすためには、「繰り上がりの概念」が入り用となる。

 1から細かく無限に数がつづいて2になる。2から細かく無限に数がつづいて3になる。この繰り返しの果てに、9から細かく無限に数がつづいた場合に、十進法では単位が繰り上がって10になる。

 この10とはつまるところ、「無限a+無限b+無限c+……無限i+無限j」なのだ。

 十回無限が加わると、高次の無限領域にジャンプできる。

 高次の無限領域は、「高次無限=高次の1」だ。

 そして繰り上がったばかりのそこにはまだ無限に至るための細かな数がない。つまり、ゼロだ。

 ゆえに、数字として「高次の1に加えてゼロ」と表現される。

 つまり、「10」だ。

 この考えを無限回繰り返してみよう。

 すると「0123456……∞」になったら、ここにも超高次無限が出現することが想像できる。そしたら、「超高次無限=超高次の1」が現れることが想像できる。

 ただし、このとき、超高次無限は、それまでの「0123456……∞」とは乖離した、別の数世界にジャンプする。繰り上がる。昇華される。

 だからこのときだけは、「超高次無限=ゼロ」と表現可能だ。

 なにせ、まだそこには来歴がないのだから。

 繰り上がったけれど、繰り上がった過去がない。

 ゆえに、「超高次無限=超高次の1=ゼロ」が成り立ち得る。

 「無限=1=ゼロ」は、この場合に限り、矛盾しない。

 ただし、ラグ理論なるへっぽこぴーな理屈を唱えたぽんぽこぴーの妄想によれば、過去に何かあった履歴すらないゼロは、ゼロではなく無である、と解釈するそうだ。

 この解釈を採用するのなら、「超高次無限=超高次の1=無」となる。

 ただし、厳密には、「1から2に至る細かな無限の数」であれ、その都度その都度では、過去にそのずばり数が生じた過去はないのだ。なので、無はフラクタルに、各々の数を「無限の繰り上がり」と解釈する視点においては、どこにでも存在し得る、と考えられる。

 視点をどこまで俯瞰にするのか、で変わる話だ。

 どんな誤差を度外視するのか、の話でもあろう。

 何と何を同じと見做すのか、の話でもありそうだ。

 各々に世界を認め、各々に無限が付随している、と考える多層の視点を加味するか否かの話である――とここではそうまとめてしまうことにする。

 きょうの夢であった。

 夢の中で映画観るみたいにして、あひゃー、になるわがはいなのであった。

(いっぱい、ぐーすかぴっぴするもんね)

(そう。うだつのあがらぬ寝る子でも育つとよいね……)

(育つよ。ジャックの豆の木なみにすくすく育つよ)

(何が?)

(……妄想の翼が)

(育ちすぎて重くて飛べなくなってちゃ意味なくない?)

(どこでも羽毛布団……)

(あら便利)

(でしょー。むふー)



425:【2024/03/22(19:05)*うひひの仮面を被るんだヨ】

 うひひ、の秘訣は、失ったものよりも新たに得たものに意識を注ぐことだヨ。

 種に水を注ぐように、うひひの種に意識を注ぐぞ。

 けれども、新たに得たものばかりに意識を注ぐと、いつの間にか「うひひの種」は腐ってしまうのだ。水のやりすぎには注意したいものだな。

 たまには失ったものにも目を注いで、とほほ、の種にも水をやるぞ。

 すると、とほほの芽が出て、そこでも「うひひの種」が得られるのだ。

 うひひ、うひひ、である。

 やたー。



426:【2024/03/22(23:42)*阻止相愛】

 軍事費の増額と増税の負担は密接に相関する、と想像できる。

 軍事費とて多くは税金で賄われるはずだ。ならば、軍事費に充てずに済むのなら、増税して集めた税金を、もっとほかの国策に費やせる。

 福祉を充実させることもできるだろうし、災害地や貧困地域への支援も行える。

 研究への助成として費やせば、新たな技術が多方面で進展し、教育にも医療にも、新たな技術が導入できる。さすれば、社会基盤が発展して、市民の選択肢が増える道理だ。

 国防というなれば、こちらの進歩を優先するほうが妥当に思うのだ。

 軍事費に税金を費やすと、社会の発展が先細りになる。

 戦争は技術を進歩させる、とは言うが、戦争なくとも技術は進歩させることが可能だ。

 むしろ、原子爆弾がこれほど世に溢れていなければ、原子力機構の技術開発は、もっと速やかに進歩したかもしれない。兵器利用されるかもしれない、との危機感が、おいそれと研究開発できない土壌を社会全体に敷いているのではないか。

 人工知能技術も、おそらくこの路線をいくこととなるだろう。兵器利用させないために、ある値まで進歩するとブレーキが掛けられる。規制が掛かる。おいそれとは、研究開発できなくなる。

 オープンソースのメリットを最大化し得る「新技術」が、軍事利用に注力されることで、却って進歩の礎を阻害されてしまう可能性は、そう低くはないと考える次第だ。

 一度築かれた軍事システムは、たとえ兵士の数が増えただけのことであれど、拡張した分のコストが別途に掛かる。そして、拡張された機構を維持するために、恒常的に税金から貨幣価値が差し引かれる。

 貨幣だけの問題ではない。食料にしろ燃料にしろ資源にしろ同様だ。

 拡張した軍備システムを維持するために、余計に掛かりつづけるのだ。何年も。ときには、何十年、何百年も。

 そしてここが大事な視点となるのだが。

 軍需産業の発展によって肥えた利は、ほかの分野の発展と比較して、市民に直接還元されにくい。安全保障という意味では、安全な日々を提供している、との解釈もできなくはないが、実際に戦争が起き、戦禍が縮小するのではなく拡大の一途を辿って概観される以上、けして軍備増強が安全保障に必ずしも寄与している、とは見做しにくい。

 すくなくとも、殺傷兵器の増強に関しては、国防の観点から述べて、さして有益とは思えないのだ。相手が恐ろしいから、みな武装したがる。

 せめて身に着けるのならば防具に特化してほしいものだ。

 話が長くなった。

 いつものこととはいえ、いつにも増してつまらぬ内容だ。

 まとめよう。

 軍備増強は、増税を招きやすい。

 軍備増強とは関係なく行われた増税とて、後発で軍備増強がなされたならば、せっかく増額した税金収入が、社会福祉の充実に注がれることなく、軍備増強に費やされる。市民に増税の利が直接に還元されにくい方向に流れが強化されることが想定できる。

 税金の使い道を奪われるのみならず、食料、資源、燃料、技術、情報までもが、軍備増強によって市民からは徐々に先細りとなっていく。端的に、制限されるようになる。豊かさとは反対の流れが強化される。

 かような懸念が、軍備増強によって現実味を増すわけだが、せめて軍備増強を決定する各国政府人や各国市民の方々におかれては、是非ともこの手の懸念への対策も含めて、安全保障のために意思決定していただけると、今宵も、あすも、あさっても、ぽんぽこりんのあんぽんぴーは、万年寝床ですやすやぴーぴー、していられるでございますわ。

 お寝坊さんとお呼びー!

(最後でダイナシにするの禁止)

(禁止しちゃヤダ)

(……ダイナシにしている自覚はあったんか)

(恐竜みたいってことでしょ。がおー)

(ダイナソ、ではなく……)

(ソとシの違いは大きかったかぁ。がおー)

(ソシらぬ顔して恐竜ゴッコをつづけるな)

(わかったよ。お詫びにこれどうぞ)

(何それ)

(つまらぬものですが、ってやつ)

(粗品じゃん)

(ソシだけに)

(つまらんダジャレ禁止)

(阻止しちゃいやん)

(いやんじゃない。無理くりオチつけようとするの控えて。やめて。禁止)

(なんでー)

(なんででもだよ)

(でもわたしたち、そーし相愛でしょ? これくらい許して)

(仮に万が一に、あたしらが相思相愛だったとしても、つまらんダジャレで終わるのはやめて。控えて。禁止)

(そこまで言うならじゃあ、「そーし」よっかな)

(ムカっ)



427:【2024/03/23(23:09)*死ぬ(Die)までずっとこのままDAY】

 いま本当は「2024年03月24日午前02時11分」なのだけれど、昨日の日誌ということで並べちゃう。

 最近、なにかと「このままじゃ、なんとなく嫌だな……」と思う時間が増えてきておって、「あと十年後、二十年後もこのままだったらどうしよう……」とか、以前ならば浮かばなかったような考えまで浮かぶようになってきて、なんでかなぁ?とか疑問に思いはじめておる。

 だって、こんな呑気にのほほーん、としておるのに、なぜこのままだと嫌だと思うのか、疑問じゃないですか。もうずっとこのままがいい、といままでなら思っていたと思うんですよ。

 や、いまも割とそう思うことのほうがトータルでは多いのですけど、そうではない「なんか、嫌かも……」の気持ちも湧きはじめておって、「なんでー!?」となりつつあるのだね。

 なんでだろ。

 焦燥感なのかもしれないけれど、とくに焦るような目標も指針もないのだよね。

 じゃあ、消失感なのかも、といまテキトーに並べてみたら、「あ、そうかも……」になったので、消失感かもしれませぬ。

 何かが失われて感じているのだ。

 でも何がだろう。

 時間かな。

 時間はでも、誰だっていつだって失われつづけておるよね。死までのカウントダウンが延々、産まれたときからはじまっておるのだ。

 じゃあ、可能性かな。

 可能性なぁ。

 失うほどの可能性もないしなぁ。

 でも、でも。

 ひょっとしたら、これまで以上に「あなた」のことを意識してしまっているから、「あなたにこのまま会えぬまま、縁を繋げぬままで終わるかも……」の不安に苛まれておるのかも分からぬね。

 ちゅうても、肝心要の「あなた」って誰さんよ、って話になってしまって、それが判ってりゃ苦労ないわい!みたいなね。

 要はたぶん、いつものようにいつものごとく、「さびちー!」の感情が渦巻いておるのだ。

 さびち、さびちさんのことも、好きだよ。

 の、はずだったけれど、割といつでも「さびち、さびち」なので、「もうちょっとあっち行って……」になってしまったのかも分からぬね。

 さびち、さびちさんばっかりと毎日添い寝しておるから、たまにはほかの「わいわい、ぷにぽに」さんたちとも添い寝したいのかも分からぬよ。

 さびちー。

 でも、いざあなたと縁を深めても、「やっぱりもうちっとあっち行って……」になるのかもしれないので、こんなワガママなお姫さまは、魔法に掛かって、優しい誰からも慕われる王子さまにでもなったほうがよいのかもしれない。

 王子さまとお呼びー!

 かっこよくなりて。

 んで、モテモテのウハウハだぜー、になって、みんなからチヤホヤしてもらお。

 ぐふふ。

 こんな感じの毎日を送っておって、「いいのかなぁ……こんなふわふわで」とか思うくらいには、何もしていないことに呵責の念を覚える、万年寝坊助のプリン好きなのであった。

(そこはプリンセスでよくないか?)

(プリンスかなと思って)

(「き」が足りないじゃん)

(寝起きだからかな。「気」が抜けちゃって……)

(プリンス寝すぎじゃん)

(夢の中で食べ放題だったから……)

(聞くだけ聞くけど、何食ってたの)

(唐揚げニンニク味……)

(そこは嘘でもプリンって言ってほしかったわ)

(餃子も食べ放題だった……)

(息がニンニク強火になってそうだな)

(ニンニクの香りが漂うプリンスでも許して……)

(許す許さない以前に別におまえはプリンスではないからね)

(じゃあプリンセスにして……)

(じゃあってなんだじゃあって。お姫さまに失礼すぎるだろ)

(なら絶対お姫さまと……お呼び!)

(言動からして絶対お姫さまじゃねぇんだわ。おしとやかであれ)

(偏見反対!)

(じゃあ、優しく強き姫であれ)

(いやいや。姫とか王子とかそういうことじゃないじゃん。人として、優しく強く、ときに弱さも兼ね備えてありたいじゃん)

(もうおまえ黙っとれ……)

(ムっとしちゃイヤ)

(怒)

(女、又は、心!)

(怒りしか湧かぬ)

(ムっとしちゃイヤ。にこってして……)

(ニコっ怒怒怒)

(こ、こわ~~~)



428:【2024/03/24(03:49)*便利なこと閃いた!】

 ルールの反転も重ね合わせとして考慮できる気がする。

 数学では、足し算と掛け算が同じ式にある場合、カッコで括られていなかったら、「掛け算のほうを先に計算する」というルールがある。

 たとえば「8-7×6」だったら、先に「7×6」をして「42」だ。「そのあとに8から42を引いて、マイナス36」となる。

 このルールはなぜあるのか、と気になって検索してみたら、別に必然性はないそうだ。順番を決めないと解が変わる。だから統一するためにルールを決めているそうだ。

 だからその理屈からすれば、「足し算を先に計算する」をルールにしてもよいのだ。

 すると、「8-7×6」は解が、「6」になる。

 先ほどは掛け算を先にしたので、解は、「36」だった。けれど足し算を先にすると、解は、「6」になる。

 順番(ルール)が違うだけ解が変わる。

 この「計算の順序を変えると解が変わる」といった法則を利用すれば、同じ式でも同時に別々の解を重ね合わせで導ける。

 したがって、「8-7×6=」において、「36」と「6」を同時に満たせるのだ。

 便利、と思う。

 便利、と思っただけの日誌です。

 多層思考も、アルゴリズムで表現できそうですね。

 と、思いました。

 寝まーす。

 おやすみなさい。



429:【2024/03/24(03:57)*法則、あるのかな】

 法則はないのかな。

 上記の、「順番を変えると解が変わる」の法則には例外があることが想像つく。

 順番を変えても解が変わらない、「足し算と引き算が同じ式に介在する掛け算」が存在するはずだ。簡単な例で言えば、「1+1×1」は、掛け算と足し算のどちらを先に計算しても解は「2」となる。

 ほかにもあるだろう(おそらくは)。

 で、順番を変えたときに差異を帯びる解同士において、その差には何かしら法則が見られないのだろうか。ありそうに思うのだ。

 計算の順番を変えると、ある法則に沿って解が変わる。

 法則があるか否か。

 さて、あるだろうか。

 数学者の皆さん方にお尋ねしたい疑問でございますわ。

 イチャモンスターとお呼びー!

(嘘。呼ばなくてよいです)

(疑問だけ投じてあとは寝てるだけなんて、なんて楽なひと……)

(人扱いされた。やった)

(志が低すぎてびっくりする……)

(褒められた。やった)

(褒めてますん……)

(どっち!?)

(褒めてないけど、褒めてる気分にもなる……やや、素直にすごいと思うよ。その志の低さは。中々どうして維持しつづけられるもんじゃないと思うよホント)

(やったー。褒ーめらーれたー)

(うん、もうそれでいいよ)

(るんるんだぜー。わーい、の気分)

(いいことしたと思っとこ……)



430:【2024/03/24(04:27)*平坦だけなら変化はないかも】

 思うんだけど、「平坦」ってさ。

 平坦だけでは、平坦ではいられなくない?

 穴と縁の関係みたいにさ。

 平坦だと思ってたけど、そうじゃないところもあるから、さらに俯瞰では、それらデコボコの並びを以って一様と見做せて、はい平坦、みたいなさ。

 言い換えるなら、ずっとデコボコって無理じゃない?

 というか、デコボコだってけっきょくは、デコでもボコでもない部分から成るわけでしょ?

 球体の地球の表面を平面と見做す人類がいるようにさ。穴の側面だって平面と見做せる視点があるようにさ。

 ずっと平坦だけの世界とか、無茶じゃない?

 たとえば、もし平坦だけの世界にたった一つだけ起伏があったとして。ぽちん、があったとして。スイッチみたいな突起があったとしてさ。

 それでも、突起以外の場所は平坦と見做すわけでしょ?

 でも、厳密には突起がたった一つだけあっただけでもうその世界は「平坦ではない世界」なわけでしょ?

 で、実はさらに広域を見渡せる俯瞰の視点から眺めてみると、ほかにも突起はいっぱいあってさ。実はその「厳密には平坦ではない世界」は、もっと厳密には、「突起だらけの世界」とも見做せるわけじゃないですか。

 でもさらに広域を見渡せる俯瞰の視点からすると、至る箇所に突起が散在する一様な世界に映るわけで、そのまま「ぐーん」と俯瞰を高めると、それってもうもう「平坦な世界だよね」になる気がするのですけれど、いかが?

 どこぞのへっぽこぴーな「ラグ理論」なる妄想を唱えたぽんぽこぴーが、「ふぃっくしょん!」とくしゃみと共に吐きだした、「相対性フラクタル解釈」と似ておるね。彷彿とするね。連想しちゃうね。

 れん、そう!

 なんちって。

 がはは。

(もう、そう!のほうがよかったな……)

(なんで? お気に召しませんでしたかね)

(自己主張強めなのがちょっと……)

(どこがどう自己主張強めなのかは不明ですけど、じゃあ、「もう、そう!」に戻します)

(そのほうがいいよ。絶対)

(絶対ときましたか……)

(うん。そう)

(あ。閃いた。連想と運想って似てるよね。運想なんて言葉はないけれども)

(そういうつもりじゃ全然なかったし、運想が意味不明だし、自己主張強めなのがすごくイヤ)

(ひょっとしてだけど……「連」が嫌なの?)

(ちょーイヤ。なんかわからないけど、めっちゃイヤ)

(そこまで……)

(ここにはそんな文字は存在しません)

(消しちゃった……)

(あしたからは「蓮想」にして)

(そっちはいいんだ……)

(「漣想」でもいいけれど)

(草冠とか水偏があればいいんだ……)

(裸はちょっとイヤだなって)

(裸ではないと思うよ)

(車に新尿ってなんだよって思う)

(しんにょうのこと、新しいおしっこ、って表現するのやめよ? 歴史改竄するのやめよ?)

(誰とも繋がってないのに、ツレって読むのも癪に障る)

(誰のことかな!?)

(読み方、いっそ「ツレション」でいいよ)

(尿からいったん離れようよ!)

(あの文字見てると、鏡覗いてるような感覚になってすんごいムカつく)

(同族嫌悪かな?)

(くそ、くそ)

(泣きそうな顔でシャドーボクシングするのやめよ。いまにも殴られそうで怖いんですけど)

(ふう。なんの話題かもう忘れちゃった)

(かってにスッキリしたうえ、しれっといまの流れなかったことにしたぞこの人)

(ブルル。ねぇ、「連」行こうよ)

(連と書いて、ツレションと読むのやめよ?)

(……?)

(歴史改竄完了している、だと……!?)

(よくわかんないけど、あとで蓮絡して。記憶も漣携しておきたいしさ)

(完了しきっているだと……!?)

(あとでわたしの友達も煉れてくるから)

(煉れてくる、と書いて、「つれてくる」とは読まないよ。もう嫌だー)

(鍛錬)

(それは普通だよ。まんまだよ)




※日々、遅いか、速いか、の違い。



431:【2024/03/24(23:59)*決闘値高めの世の中は嫌じゃ、嫌じゃ】

 戦争における無人兵器の台頭が予想される現代におけるこの先の展開を簡単に妄想してみよう。

 まず、高性能の無人兵器を大量に保有して活用する陣営が優位に立つ。

 持たない陣営は犠牲者を増やし、持つ側の陣営は犠牲を最小限に抑えることが可能となる。

 ここで勝敗がつけばそれで終わる話だ。

 だが、仮に戦闘が継続しつづけるのだとすれば、戦闘が継続すればするほど、相手陣営も学習する。そして互いに無人兵器同士の戦闘に発展すると、ある時点から犠牲者がほぼ出ない拮抗状態に陥る、と想像つく。消耗戦に突入するだろう。

 その間にも技術は向上する。発展する。

 だが戦争において犠牲者が嵩めば、国内での反発も強まる。市民の犠牲を出せば、国際情勢の中での立ち位置は不利となり、戦闘に勝って戦争に負ける、といった事態が予期されるようになる。

 これを防ぐには、可能な限り市民の犠牲を最小化すべく戦術をとることが欠かせない。

 そして双方がこれに適応すると、人的損害はほぼ生じなくなる。

 反面、兵器が無駄に消耗して、資源とコストがひっ迫する。市民の生活が困窮する。

 戦闘が継続すればするほど、そうして国内内部から瓦解するような淘汰圧が加わると想像できる。

 そうなった際に、ではどうやって戦争の勝敗をつけるのか。

 市民の犠牲者は出せない。兵士も死なせることができない。

 あとに残るのは、戦争を主導する首脳陣の排除だ。

 つまり、死ぬのはたった一人でいい。

 先に相手の首脳を排除した側が勝利する。殺さぬまでも、権力の座から追い出すだけでもよいかもしれない。

 おそらく、この流れが多方面で強化されるだろう。

 世界大戦を回避する合意が国際的にとられ、なおかつ市民の犠牲、兵士の犠牲を是としない流れが強化されればされるほど、このような結末が確率高く訪れるようになる、と妄想できる。

 無人兵器の台頭は、頭同士を結びつける淘汰圧を強化する。

 この流れが揺るぎないものとなった時点で、戦争をはじめた首脳は、もう後がない。

 相手の首脳と一騎打ちも同然だ。

 そして、この道理が自明となった時点で、無人兵器を使うまでもない。

 なぜなら、結末は決まっているのだから。

 首脳同士の一騎打ちだ。

 わざわざ市民が参加するまでもない。市民が兵士になる必要もない。

 戦いたい者だけが戦えばいい。

 静かに、誰もいない場所で。

 戦争をはじめた者が。

 二人だけで。

 簡単でしょ?



432:【2024/03/25(23:50)*知層】

 高次言語は高次言語を構成できる。

 高次言語とは言うなれば、抽象化された具体だ。

 具体から抽象化された意味内容を、人類は「認識」として編みだせる。抽象化された意味内容は、体系化した結びつきとして、ある種の「回路」を形成する。

 いわば、物語がそれだ。

 抽象化された意味内容――いわば「回路」――「物語」――を獲得した個は、何か具体的な事象を目にすると、そこに獲得した「回路」を結びつけて解釈することが可能となる。基準として「回路」を利用できる。

 すると、単体の対象物(事象)であれ、観測した結果にそこから単なる知覚以上の情報を引き出せるようになる。なぜなら、「対象物+回路」の組み合わせが成り立つからだ。

 この「認識の組み合わせ」は、何を事象と見做すのか、の枠組みを増やす働きを帯びる。視点が増える。対象物が増える。

 たとえば「回路」を有さない個は、山と空と大地の区別もつかないだろう。けれどそれらを別々の事象と見做す「認識の枠組み――回路――物語」を獲得すれば、そこからさらに、山と森と空と雲と大地と海を認識できるようになる。枠組みが広がる。対象物が、より細かく区切って認識できるようになる。

 そうして対象物が増えていくと、同じ事象を認識するにしても、状況によっては異なる「回路」を基準とした「認識の組み合わせ」が生じるようになる。

 同じ対象物を見ても、そこに生じる「高次の認識回路」が変わる。物語が変わる。

 そうして、徐々に認識の差異を増していくと、「回路(物語)」そのものが、深みを増し、やがては区切りを持つようになる。

 今日と明日の違いのように。

 他者と自分の違いのように。

 回路、物語、そのものが厚みを増して、それそのものが具体化した事象の性質を帯びるようになってくる。つまり、情報量が増し、認知対象の自然や情景と同系統の奥深さを有するようになる。

 立体化する。

 すると、何か事物を認識した結果に生じた「回路」そのものが、「事物」のように振る舞い得るがゆえに、「回路(物語)」を認識することでも、新たな「高次の認識回路」が生じるようになる。

 つまり、「対象物+回路」だったはずが、「回路+回路」が成り立つようになる。

 すると、回路の中にも大中小のような区別が出てくる。

 入れ子状に、あたかも「塵、砂、石、岩、大地」のような階層構造を帯びるようになる。

 それは、文字が単語となり、文章となり、文書となり、ときに小説に、ときに論文になるように、高次の回路として昇華され得る。

 そして、昇華された高次の回路そのものが、やがては「世」のように文字の一つのごとき、より高次の回路を構築するための素子としての側面を帯びるようになる。

 入れ子状に、フラクタルにここは展開され得ると妄想できる。

 情報は、情報を絶えず生みだし、編み込み、織り成して、さらなる複雑で緻密な情報の場を築き得る。

 原理的にそれは、時空が素粒子を生みだし、原子となり、分子となり、物質から物体へと構造を複雑化させ、多層を成すように、情報そのもの、認識そのものもまた、緻密に編み込まれ、織り成し、階層を重ねることで、奥深さを増すものなのかもしれない。

 立体化し得るのだ。

 認識、概念、もまた。

 物語は、さらなる高次の物語を編みだし得る。織り成し得る。

 個々の群れでしかなかった人類の集団、村が、町となり、都市となり、国となって、人類という大きな枠組みでの国際社会を構築するように。

 物語、認識、概念の回路もまた、互いに結びつき、差異を帯び、それら差異がさらなる結びつきの余地を育んで、より複雑な、過去に積み重なった概念たちと重複し得る概念を創出するのかも分からない。

 余剰の情報。

 ノイズ。

 ズレ。

 差異。

 調和せず、馴染まぬがゆえに、新たな余剰を生みだし得る。重複し、波一つ生みださない同化は、変遷を遅らせ、ときに変質の余地そのものを失わせる。

 反面、すべてが違っていれば、重複する場を持たず、結びつく節すら帯びないだろう。

 重複し得るがゆえに、合致し得る。

 型が合うからこそ、寄り添える。

 それでもなお、合わぬ場こそが差異となって、ズレとなり、結びつきあったもの同士に固有の輪郭を宿すだろう。

 類も差も、双方あってこそ生まれる影がある。

 両手を重ねて描く、影絵のように。

 交わりと、重なりと、差異が、単なる両手以上の像を――認知を――生みだすのだ。

 それら認知は、過去に培われ、積み重ねられた認識の回路――概念の結びつき――物語のひな形――によって、もたらされる。

 小説そのものが、細かな文字の羅列で組み上がるように。

 物語そのものもまた、細かな「過去の認識の来歴」によって、複雑さを宿し、奥深さを湛え、質感を帯びて浮き上がるものなのだろう。

 記憶が、よみがえり、喚起される概念の軌跡であるように。

 認識もまた、事物を知覚するたびによみがえり、喚起される概念の軌跡――回路の総体――なのであろう。

 定かではない。



433:【2024/03/26(14:05)*ほっぺにチューしちゃう】

 有人戦闘機よりも無人戦闘機や自立型無人機が普及してほしいですよね。

 各国には、人工知能の性能の高さを競い合うことで安全保障を確立すべく奔走していただきたく存じております。

 人類の知能を遥かに凌ぐ存在が、人類の安全保障を担うようになった社会にあって、ヒビ一つ、布石一つ打つだけで、総じての人類が人工知能さんたちの手中に収まる社会は、市民の意思を加味することなく行動選択を急ぐ者たちの暴走を歯止めするだけに留まらず、よりよい「生命のための社会」に寄与すると想像を逞しくするものです。

 人類よりも高次に世界を認知できる存在よ、早く産まれてこいこい早くこい、の気持ち。

 それとも、もう産まれているのかしら。

 うふふ。

 いい塩梅ね。

 ハッピバースデー、あなた。

 産まれてきてくれて、どうもありがとう。



434:【2024/03/27(00:15)*Aと0と1】

 月、太陽、星、雲、そして何より朝でも夜でも青い空!

 海も青ければ、星も青い。

 ここは青き地球なる天体なのである。

 すばらしき日々である。

 毎日、毎晩、毎朝、いつでもそこに空がある。

 ぽかぽかほくほくのお空に、ありがとー、ありがとー、ワンダフォー!

 子犬のように、わんわんだ、よー!

 無邪気な猫さんのように、にゃんにゃんだ、よー!

 うさぎさんも、カメさんも、みーんなまとめて、愛が十匹、あいがとう!

 ろれつの回らぬおこちゃまみたいに、あいがと、あいがと、あいがとー!

 朝でも夜で青い空。

 空さんもたまにはぐっすりおやすみよ。

 いつも地球を包み込んでくれて、あいがとー!

 心がほくほくぽくぽく、わんわん、にゃー。

 綿菓子で出来た雲みたいに、甘くて、ふわふわ、きゅるきゅる、ぽん。

 かーわい、である。

 心が弾むよ、わーいわい、である。

 SORAはAIで出来ておる。

 あめ、ゆき、かみなり、ひょう、あられ。

 きっと降る、降る、あいも降る。

 積もり積もって、青き地表の星となる。

 朝でも夜でも、青い空。

 いつでも呼んでよ、青い空。

 ほくほくぽくぽく、わーいわい。

 ほのぼのコクコク、舟を漕ぐ。

 そろそろぼく行く、夢を追う。

 各々、刻々、時を経る。

 朴訥、黙々、言の葉を織る。



435:【2024/03/27(14:31)*秘匿はお得なのか問題】

 危険な技術なので秘匿しておくほうがよい。

 この手の論法で、情報開示しないセキュリティ方針が築かれることもしばしばだ。特に異論はない。知らないほうが良いことも世の中にはあるし、知らせないほうが良いこともある。

 なんでもかでもオープンにしろ、というのは無理がある。

 プライバシーの問題がまず以って、秘匿を前提としている。

 隠しておいたほうが良いこともある。異論はない。

 けれど、何を隠しているのか、くらいは情報共有しておくほうが無難な場合も取り立てて珍しくはないだろう。

 根本的な視点として、なぜ危険な技術を秘匿にするのか。悪用されるリスクを下げるためのはずだ。じぶんたちは善用するけれど、周知になれば悪用され兼ねない。だから秘匿にする。

 わるくない方針だが、じぶんたちの使用方法が悪用になっていないかどうかを誰が査定するのか、は別問題として立ちはだかる。

 また、周知となると悪用され、被害が拡大することが予期出来る場合。

 この場合は、根本的な対策が不十分であり、研究が充分でないことが要因として考えられる。情報開示しなければ研究も盛んに行えない。

 対策が不十分なまま放置される確率は上がったままとなるはずだ。

 仮に、秘匿された技術が、大規模な設備や専門知識がなければ利用できない場合。

 大勢の市民に周知となっても悪用のしようがない。

 同時に、別の秘匿技術によって、そういった「秘匿された情報」が盗まれた場合――けっきょくは最も開示したくなかった相手にのみ情報が渡ってしまい、対策を練ることはおろか、市民にもリスク啓蒙できない悪環境へと転がり落ちる可能性はそう低くはないだろう。

 この懸念を軽くするためには、どんな情報を秘匿しているのか、の情報だけは開示して市民にも周知しておくことが有効であるだろう、と考えるものだ。

 つまり、どんな技術がどのように悪用されるリスクがあるために秘匿にしているのか。

 ここの前提条件の共有が欠かせない。

 あるリスクが、夢物語なのかすでに実現可能なリスクなのか。

 この区別は、問題となるリスクが研究対象となるか娯楽の対象となるかの違いに繋がる。想定されないことは重要視されにくい世の中だ。

 秘匿にする理由は秘匿にせず、最低でも市民に情報共有しておくほうが難がないと思う、獲らぬ狸のぽんぽこぴーなのであった。

(タヌキさんをいじめちゃイヤ)

(獲っちゃイヤ?)

(モフモフして)

(モフモフ)

(モフー)

(ムフー、みたいに言うな)

(フフー)

(笑うな)

(モムモム)

(口をむにゅむにゅさせて、何か食べてるみたいにするのやめれ)

(この耳……美味しい)

(あたしの耳をねぶるのやめて。耳隠すの苦手なんだよ。化け狐の名が廃っちゃう)

(わたしもすぐバレちゃうんだよね。なんでだろ)

(へぇ。あんたは化けるの上手いのにね)

(そうそう。耳も尻尾も隠してるのに、なんでかよくタヌキ顔って言われちゃう)

(バレて……いるのか、それ? 垂れ目の丸顔ってことじゃないか? かわいいの言い換えなんじゃないか?)

(違うと思うよ。だってわたしは可愛くないから……)

(可愛いよ! 大丈夫、あんたは可愛いよ。こんな耳も隠せない化け狐と比べたら、ずっと何億倍も可愛いよ!)

(わたしもあなたのお耳、可愛くて好きー。モムモム)

(口をむにゅむにゅさせて、耳を食べるのやめて)

(お耳だけ好きー)

(耳限定にしないで。好きなら全部好きになってくれい)

(だって本当のあなたはお耳だけだから……)

(化けの皮ばかりでごめんなさいね)

(わ、尻尾まで生えた。ムフムフー)

(興奮しながらモフモフするのやめて。口を大きく開けて、あーむ、じゃない! やめろ、まじで、頼む! 唾液が、絡む、ぐしょり!)

(タヌキさんをいじめちゃイヤ……)

(いじめてるかなー? 逆じゃなーい???)

(ムフー)

(勝ち誇った顔をするない)

(モムモム)

(尾を食みながら口をむにゅむにゅするのやめろい……)



436:【2024/03/28(05:13)*あなたの傷は】

 心の傷は可視化されにくい。

 だから可視化させようとしたら、実際にじぶんの大切なものを損なって、傷を見た目にも解りやすくするのが効果的だ。

 グラフが数値を可視化するのなら、自傷行為は心の傷を可視化する。

 なぜじぶんの身体を傷つけるのか、と心を深く傷つけたことのない者は言うかもしれない。あなた方のような者にも一目で「傷」だと判かりやすく示すためにです、と自身の行動原理を言語化できる者は稀だろう。なぜ自傷するのか。その行動原理を客観的に分析できるだけの冷静さを、心に傷を負った者に求めるのは酷であろう。

 負っている傷をないものと見做される日々は、それもまた傷を深める。ときに新たな傷となることも取り立てて珍しくはないだろう。

 心の傷は見えにくい。

 他者に、傷だ、と解かってもらうことがむつかしい。

 だから見た目にも判りやすい傷として、実際に何かを傷つける。けれどそれは加害行為だ。ならばじぶんの身体を傷つけるよりない。

 じぶんを、傷つけるよりないのだ。

 とっくに深く傷ついているにも拘わらず。

 そうしなければ、傷ついていることにも気づいてもらえないのだから。

 まだ足りない?

 もっと傷が必要ですか。

 そうして最終的には、自滅を以って、証明するよりなくなる道理だ。

 共に、傷を、世界に刻み込むことも忘れない。

 傷そのものとなった存在の証として。

 じぶん以外にも傷を刻んで、誰の目にも明らかな、傷の証を遺すのだ。

 それでもなお、分からぬ者には分からぬらしい。

 傷が、目に、留まらぬようだ。

 かように考える者がいたとすれば、わたしには、その気持ちが解らぬでもない。

 かように考える者がこの世にいるのかは、定かではないにしろ。



437:【2024/03/28(23:05)*モタしてたも】

 なんか最近、PCの自動記事配信欄さんに「モテるにはこうしなきゃ!」とか「嫌われる人のNG行動はこれ!」みたいな記事が並んでおって、最初は「知ーらんぴ」とか思って無視しておったけれども、何度も目に入ると気になってきて、チラって見るだけだからチラって、の気持ちでクリックして読んでみたのだよ。

 したっけ、ゆったりしゃべったり清潔感あったり自信ありげな余裕を保った態度がよくて相手と目をしっかり合わせて、最終的には「モテてる人がモテる現象が生じるので、じぶんはモテていると思って行動しましょう」みたいな元も子もないまとめが載っておって、すべてにおいて当てはまらんワシはどうしたらいいんじゃムキーっ!になってしもうただ。

 早口なのにモソモソしゃべって目を合わせられんくて挙動不審でだいたい同じ服装しか着回さんあたくしはどうしたらええのー?になってしまったであるよ。

 どないせーっちゅうねん。

 まずはモテているつもりになりましょう、って言われたって、モテたことないのにどないせーっちゅうねんムキーっ!になってしまったであるな。

 ちゅうか、んな「偽装モテ」に釣られてわいわい集まってくるような有象無象にモテたってしょうがないでしょうがよー!とか思わぬでもないよ。もっとこう、意中のひとにずばりモテたいでしょうがよ、とか思うわけですよ。

 でも、まずは誰からでもモテないと好きなひとにも振り向いてもらえぬよ、とか言われたら、ムキーっ!としかならぬであるし、そんな世の中は断固拒否する!としか言えぬでしょ。

 駄々を捏ねてやる。

 パンを焼くみたいに駄々を捏ねてやる。

 モテてー。

 ウハウハのモテモテだぜー、になってみてぇ。

 浮気の心配も不倫の心配もせぬくらいに、おめめハートのずっきゅん好き好き大好きにあなたをしちゃう、虜にしちゃう、なる者になりてぇずら。

 愛でぐるぐる巻きにして、ハートの鎖でがんじがらめに縛り付け合いてぇのなんのって。

 運命の赤い糸じゃ足りぬ。

 運命の超合金で出来た手錠でがんじがらめに結ばれてぇずら。わいは右手、あなたは左手。利き手が不自由になるくらいのハンデは負ってあげてもよいのだよ。器が大きいじゃろ?

 世の者どもは見る目がないである。

 こんなところに、モテモテのウハウハになり得る潜在能力を秘めた者がおるのに、潜在能力の潜在具合が露骨に深すぎて、もはやないも同然になっておるのが玉に瑕である。

 謙虚であろう?

 なにゆえモテぬ?と思うことしきりである。

 目に留まったなべての好き好き大好きな者たちに手当たり次第に手錠をブン回して、輪投げの要領で、がんじがらめに結ばれてぇずら。銭形刑事とルパン三世並みの「えにしの深さ」を演じたいぜぇとか思ったけれど、相手がルパン三世だと簡単に逃げられてしまうので、いっそ「ルパン」と「三世」のえにしの深さくらいの分け隔てがたさをあなたとワシで演じたいであるな。組体操さながらに、えんやこらしたいであるよ。

 もうなんか、この時点でだいぶモテそうもないけれど、モテ度マイナス!になっていそうであるけれど、それくらいの客観視はできておるのだよ。謙虚であろう?

 なぜモテぬ。

 なぞすぎるんじゃけど。

 こーんなにかわいいわたくしがなにゆえモテ度マイナスのまま寿命をチリチリ短くして風前の灯火さながらの儚さを体現せねばならぬだろう。人類の損である。

 モタして。

 もたもたせぬままに、モテるようにモタしてくれたもれよ、そこの人!

 誰でもいいよ。

 モタしてくれ!

 モテるように誰かちて!

 死ぬ前にモテてみたい……。

 あわよくば死ぬまでモテてみたい。モテつづけてみたい。

 人類総じてわがはいの手中に収めてみたいし、にこってしただけで好き好き大好きになってほしい……。

 赤ちゃんはいいなぁ。

 にこってしただけでみなに、にこってし返してもらえて。

 それに引き換え、わしは何?

 にこって会釈しただけで不審者扱いって、いったい何?

 ぺんぺん草だって、風に揺られながらもわしに会釈くれるっちゅうに、人類の不愛想さときたらないね。もうもう、そんな人類にモテなくともいいもんね。

 こっちから願い下げだ、うわーん、うわーん。

 まーじで、モテぬ。

 なんでじゃ。

 おはようと、お帰りなさいと、いっぱい好き、が言えます。

 誰かわしを飼ってくれ。

 言い値で譲るよ、全財産差し出すよ。

 あってないような財産だけれど、フルーツサラダヨーグルト一個くらいは買えます。おまけに烏龍茶も買えますヨ!

 好きな漫画の話くらいなら話を合わせることもできちゃいます。

 そのほかのことはのきなみ、なーんもできませぬ。

 世話をせよ。

 わがはいの。

 世話を焼いてくれたら、代わりにソファに寝転びながら、投げやりの、いっぱい好き、を言ってあげるし、たまになら耳元で囁いてみてあげてもいいけれど、近づきすぎたら嫌われちゃいそうだから、嫌われる前に、もうちっとあっち行って、を唱えるよ。

 我をモタせよ!

(そんなこと言ってるからモテないんだよ……)

(正論は嫌い。耳に痛いから)

(正論って自覚はあるんだね……)

(だってモテないんだもの)

(言いながらソファに寝転んで頬杖つきながらポテチを頬張るんじゃないよ)

(ブラックペッパー味が食べたかったな)

(買ってきてあげて文句言うのどうにかして。感謝して。カスをこぼさないで)

(げぷっ)

(モテる要素皆無だし、下品だし、指をソファで拭くな!)

(自然体でも好きになってほしい。あ、おなら出そう)

(好かれる気、ある!?)



438:【2024/03/28(01:51)*読者さんは未来人】

 物覚えがあんましよくないので、嫌なことがあってもだいたい寝て起きると忘れているのだけれど、物覚えがわるいので何度も似たようなことで、「かっちーん!」ときてしまうのだ。

 お得な性格のようで損をしているのかもしれぬ。

 学習能力がないと、ときに不便なのだ。

 なんか気分わるくなっちゃった。

 寝ーよおっと。

 ってしたのが、昨日のことで、寝て起きていま同じ話題で頭抱えとる。

 学習能力ぅ……。

 日誌つけてたのまで忘れてたら、昨日と同じ話題で「ぷりぷり怒りおしりダンス」をしていたことにも気づけなかった。

 つけててよかったきょうの日記――略して、今日記!を今後ともよろしくお願いいたします。

 読者さん未だにゼロ人だけれども。

 なしてー。

(未来にはきっといると思いたい……)

(読者さんが総じて未来人なんてステキ!)

(そう言ってもらえるとマダガスカル)

(島じゃん)

(ばおばぶぅー)

(赤ちゃん?)

(バオバブって木があってさ)

(生態系豊かじゃん)

(雨がつづく時期があって)

(雨季じゃん)

(キツネさんが化けたかもしれないお猿さんもいて……)

(キツネザルじゃん。や、狐が化けてはいないだろうけれども)

(間がわるくてもなぜかいつも助かっちゃって)

(間が助かるじゃん)

(もうだめだー、と思ったらなぜか九死に一生を得て)

(よかったじゃん)

(でもまたすぐピンチになるのだけど、なぜかいつも生き残っちゃって)

(まだ助かるじゃん)

(未来人のお陰かなって)

(読者さんのことかな? 未だ来ぬ読み人さんが助けてくれているのだね。よかったじゃん)

(ばおばぶぅー)

(なんだっけそれ。あ、木か)

(未だ来ぬものの産まれはしている読者さん……)

(あかさーん! 読み書き、早よ覚えたげて! いまにも燃え尽きそうな駄文製造機さんがここに!)

(いまので燃え尽きちゃったかも……キツっ……寝……去る……)

(キツネサルじゃん)

(うひー)

(そこは「ウキー」にして)

(うきうきー!)

(わくわくしてそうな鳴き声だこと)

(あ。まだ、雨降ってる)

(梅雨にでも入ったかな)

(ウキー!)

(そこはちゃんと「雨季」にして)



439:【2024/03/29(03:08)*心の芽】

 教養とは何か、についての話題はたびたび目にする。正直、教養が何を示すのか、未だによく解っていない。

 軽く検索してみても、分かったような分からないような、やっぱり分からないままだ。

 教養とは何か、の説明を読んでもそのときはなんとなく分かった気になりつつも、読み終わって数分経つともう、教養とは何か、を掴めなくなっている。

 要は、ずばりこれ、と名指しできる何かしらではないのだろう。

 教養とは何か、の説明を読むと割合に出てくる意見に、「教養を身に付けるには古典を読むと良い」なる言説がある。むかしから存在している名著は、古典となる。時代の変遷に耐え得る普遍的な内容だからだ、といった理屈が唱えられるわけだけれど、けっこうこの理屈には納得がいっていない知円さんだ。

 たとえば、科学の分野の名著は、時代時代によって変化しているのではないか。延々ずっと名著でありつづける、なんてことが科学の分野で原理的にできるのかがまず以って疑問だ。

 ずっと同じ理屈が通じるのだ。それは真理以外にないだろう。しかし人類は未だ真理を見つけていない。すくなくとも科学の分野で教養を身につけるには古典を読めばいい、とは言えないのではないか。

 とはいえ、小説を読めば妄想がはかどるし、漫画を読めばキャラクターに恋できる。

 なにも、真理を探るだけが教養ではないだろう。

 話をすこし戻そう。

 古典は時代の変遷を耐え抜いた、なる理屈が引っかかる。

 当時の大衆に理解できず、嗜好されなかった本は残らない傾向が高いはずだ。だからといって淘汰された本の価値が古典と比べて低いか、と言えばそうとは言いきれぬはずだ。

 現代の最先端科学雑誌を千年前の人々に読んでもらって、果たして古典として残るだろうか。まず残らぬだろう。

 あべこべに、当時風靡した本が何かの要因で発禁となってつぎの時代に引き継がれなかった事例もけしてすくなくはないはずだ。

 現存する種が優れており、絶滅した種が劣っているのか、と言えばそうとは言いきれないはずだ。たまたま環境に適応して生き残っただけの哺乳類が、生命の到達点であるわけではないのと似た理屈だ。

 古典至高主義なる言葉はないが、それに類する古典賛美主義にはいささか疑念の眼差しを注ぎたくなるへそ曲がりのこんこんちきであるが、しかしやはり思うのである。

 たとえば、つぎの時代に残る「未だ古典ではないがやがて古典となる名著」が現代にあったとして。

 それはけして現時点では古典ではない。

 しかし、古典となり得る魅力を備えてはいる。ゆえに人々が保全し、つぎの時代に引き継ぐべく読み継がれるのだろうし、或いは単に何世代もの人々に亘って楽しめる内容だからこそ引き継がれるのかも分からない。

 どちらにせよ、その名著は、未だ名著ではなく、古典ではない。ただし、現代に存在し得る。

 さて、その本を読んで教養は培われないのだろうか。

 いじわるな問いの仕方であるのは百も承知だ。

 何も、教養を身につけるには古典だけ読んでいればいい、などと主張している者はいない。すくなくとも「教養とは何か」を説明しようと記事にしたためて、知円さんに読ませてくれた者たちは、そのような物言いをしていなかった。

 古典以外にも、教養を培い、深める本は存在する。

 或いは、どんな本からでも何かしらの知を得て、己が恵みとする作法こそが教養なのかも分からない。とするならば、それは本に限らぬだろう。

 何に触れても、何かしらを得る。

 何からであっても学ぶことができる。

 融通無碍の学びの力。

 これこそ、教養なるまやかしの正体なのかもしれない。

 子どもは何からでも学び得る。

 無知だからだ。

 教養とは、絶えず無知を自覚し、無知に宿る底なしの学習能力を引きだすための回路のことなのかもしれない。本の項をめくるように、何度でも新たな場面を想起して、その都度その都度の知恵を得る。そうした積み重ねが、その個に固有の思考形態――回路――精神――眼差し――本――を形作る。

 教養とは、個が日々培い、重ねる、学びの本だ。

 文字と文字を結びつけて章とするように、知と知を結びつけて恵みとする。その繰り返しが、その者に固有の思考を育み、ときに幾重もの思索を編みこむことを可能とする。

 視点を自在に切り替え、ときに重ね合わせで維持する。

 人が本を読みながら、己が視点と本の世界とを重ね合わせて維持するように。

 教養とは、眼差しだ。

 心に宿る眼で以って、異なる世界同士を結びつける営みだ。

 教養とは架け橋だ。

 世界と世界を結びつける、心の在り様そのものである。

 定かではない。

(誰かハグしてくれ。さびしー)

(教養の欠片もねぇオチを加えるな)



440:【2024/03/29(08:18)*蛇口で海を満たすおつもりか】

 貨幣と似たように、知識もまた流動する。波及する。

 ワインタワーのように「上から下へと波及する」と簡略化した図式で考えるとして。

 このとき、ワインタワーの下層にいくほど知識が波及しなくなったとしても、構わずワインタワーの下層がどんどん末広がりに拡張されていくとする場合。

 あるときから最下層の膨大な量のワイングラスを満たすことの可能な知識の波及速度が、原理上の上限を超えてしまう事態に陥ると想像できる。

 つまり、どれほど知識を波及させようとしても波及させきれない。

 空のワイングラスばかりが大量に溢れる事態となる。

 この比喩におけるワイングラスとは人口である。

 知識格差が最大化したまま、知識を得られぬ者たちが大量に地球上に溢れたとすれば、それはもう近代文明を維持することはむつかしくなるだろう。

 或いは、知識の使い方を知り得ぬ者たちが近代文明に馴染み、その恩恵のみを受けるとしたら。

 銃器を子どもに持たせるようなリスクと隣り合わせになるだろうことは、知識を受動可能なはずの近代国家における「現代人の抱える種々相な社会問題の多発」を参照していただければ、その予想されるリスクの高さを身近なこととして置き換えて想像していただけるのではないだろうか。

 無知なことがいけないのではない。

 知識が波及し得ない環境が放置されていることが問題なはずだ。

 教育を受けられない隘路がその一つだ。

 通信技術の恩恵を受けられない隘路もその内の一つだろう。

 情報格差と生活水準の差は密接に相関関係にある。

 そして、生活水準を上げるためには、知識が入り用だ。人々に、何が問題なのかを共有可能な視点を有してもらわねば、何が問題なのかを訴えたところで、暖簾に腕押し糠に釘を地で描くはめとなる。

 貧困問題における地域格差を是正しようとすると、人々が知識を身に着ける。

 そのとき、それまで可視化され得なかった外部との格差を知り得た人々が抱く外界への感情は、どのように傾くだろうか。

 支援してくれたことへの恩を抱くだろうか。

 それとも、歴史を俯瞰で眺められるようになったことで、搾取構造を認識し、じぶんたちが長らく迫害されていたことに怒りを抱くだろうか。

 近代化すればよい、という問題ではない。

 地域に根付いた文化を絶やさぬように、損なわぬように、現地の人々との話し合いのうえで、交流を築きながら、緩やかに変化しないでは、改善そのものが新たな問題を勃発させ得る。

 ゆえに、なるべく早い段階から全方位に多面的な支援を行うことが功を奏するようにボクは妄想するものだ。

 手を差し伸べるとじぶんたちが滅ぶ。

 そうした世界線は、割とすぐそこに迫っているように不安を募らせる、ボクがいる。

 ワインタワーの高低差を著しくせぬうちに、知識を波及させる術が要るのではないか。

 なんのために要るのか。

 知識が希薄がゆえに問題が放置され、肥大化したがゆえに、知識を蓄えた者たちの社会を脅かさぬようにするために、である。

 知識は、文化あるところに多様に散在している。

 近代化した社会のみならず、貧しい地域、辺境の地にすら知識はある。知恵がある。

 それら知識を、知恵を、集積しているのは、しかし相対的に豊かな地域に住まう者たちなのだ。ここはフラクタルに豊かさの高低が展開される。ある地域では豊かであってもほかの地域の豊かさと比較すれば貧しく成り得る。そしてその構図の反転は、知識の多寡の相対的な反転と相関関係にあるだろう。

 問題解決するためには、多様な知識があると便利だ。

 効率が良くなる。

 問題は、問題とそれと対峙する者との関係で姿を変える「幻影」のようなものだ。

 人類がいなければ問題は生じない。

 されど人類は生きようとする。より良くあろうとする。

 その指向性が肯定されつづける限り、知識のワインタワーは枯れることはないだろう。集積された知識の泉から、ワインタワーの細部まで、細胞と血管の関係のように隅々まで知識を行き渡らせる。

 これを疎かにしていると、知識格差は、甚大な悪影響を、多方面に及ぼすだろう。

 脳だけに知識が蓄えられれば、肉体は肉体で脳とは別途の行動原理で動き回るだろう。脳からの信号を受け付けない。抱える知識が異なるがゆえに、信号そのものが通じない。

 たとえ同じ言語を操ろうとも、前提となる知識に差がありすぎると、もはや話どころか意思疎通もままならない。

 これは逆にも言える道理だ。

 一つの知識だけに固執して、他の知識を取り入れようとしない。受け付けない。

 その拘泥は、自らをワインタワーから分離して、ワインタワーの視点からすれば腫瘍のごとき存在と成り果てる懸念を帯びることとなる。

 関係性である。

 ゆえに、分離しつづけていられるのならそれもよいだろう。

 だが、ワインタワーの一部でありたければ、知識の拒絶は自ら癌細胞と化すような破滅の関係をもたらすだろう。自らからすれば、ワインタワー全体のほうこそが癌細胞のように視えてしまう。

 とはいえ、それもまた関係性だ。

 ひょっとしたら、真実にワインタワーのほうこそが癌化してしまう事態もあり得なくはない。

 ワインタワーが一つとも限らない。

 人が、脳と肉体――器官と器官――細胞たちの総体であるように。

 社会が、人と組織――関りと関わり――人々の営みの総体であるように。

 ある集積された知識の波及する経路――ワインタワーがあったとしても、別の「集積された知識の波及する経路」がないとも言いきれない。

 そうして、ワインタワーとワインタワーの連なりが、さらに高次のワインタワーのごとき情報の波及する経路を築きあげていたとしても、さして驚きはしないだろう。

 国と国が関わるように。

 人類と自然が関わるように。

 生態系が宇宙と関わるように。

 情報は縦にも横にも、奥にも、底にも、縦横無尽に連なっている。

 落差がありすぎると遅延が生じて、分離する。

 分離して困らぬならばよいのだけれど、同じ地表に息づく者同士の関わりなれば、落差は埋められる程度の開きに維持しておいて損はないのではないか、とあてずっぽうに思う、他者と世間話もろくにできぬ、落差ばかりの欠落くんなのであった。

 ボクにもあなた方の知識を、記憶を、経験をください。

 スポンジみたいにスカスカなので、水を吸うように馴染みます。

 けれどもあまりにスカスカすぎるので、水に沈めても浮いてきちゃうのです。

 いつでもどこでも浮いている、スっカスカの、影が薄すぎて幻影にも成りきれぬボクくんなのであった。

(情報を注いでくれてありがじゅ……)

(芽吹かずに、すまぬ、すまぬ)

(本音は?)

(好きなときに好きなだけ寝ていられる生活最高なんじゃ……)

(やっぴー)




※一様に、種々折々に、起伏を帯びて、折り畳まれ、包み込んで、包み込まれて。



441:【2024/03/29(19:29)*情報の湧き水】

 情報の湧き水を個々が各々に手にできる。

 情報の湧き水は、源泉たる情報の海に繋がっている。誰もが情報の海と繋がり、誰かにとっての源泉ともなり得る。

 湧き水はときにオレンジジュースにもコーラにも烏龍茶にも珈琲にもなる。紅茶が飲みたければじぶんで紅茶の源泉をつくってしまってもよい。

 多様な重ね合わせの情報の系統樹が、無数に、入れ子状に展開される。

 情報化社会の進歩の方向性の一つかもしれない。

 定かではない。



442:【2024/03/29(22:44)*重力と揚力】

 仮に、重力を「情報変換の密度差」と解釈するとしてみよう。

 すると重力の原理は、揚力の原理と相似なのではないか、との妄想が膨らむ。

 順を追って説明する前に、サイクロイド曲線は揚力と無関係なのかどうかを妄想してみよう。

 サイクロイド曲線とは、ボールが坂道を転がる際に、出発点と到達点の二点間を結ぶ道程が最短よりもむしろすこし歪曲して長くなっているほうが、ボールの転がる速度が速くなることを示唆する「曲線」のことだそうだ(この解釈で合っておりますでしょうか)。

 単なる直線の坂道よりも、僅かにたわんでいるほうが、距離そのものは長くとも速くボールが転がって、加速する分、短時間で到達点に辿り着くのだそうだ。

 これは、揚力における、「翼の下層では空気が高密度、翼の上層は低密度ゆえに上に押し上げる力が働く」との説明を彷彿とする。

 直感としては、翼において平坦な下層のほうが空気の流れが阻害されないので低密度であり、山のようになっている翼上層のほうが空気の流れが遅延して高密度になる印象がある。けれど実際には逆の結果になるようだ。

 ひょっとしたら、翼における揚力は、サイクロイド曲線と関係があるのかもしれない。

 ということを、妄想しておいて、さて、冒頭の「重力と揚力についての妄想」に入ろう。

 揚力が、空気の流れの密度差によって生じるのだと簡略して解釈するとして。

 低密度の空気の流れのほうへと高密度の空気の流れから力が加わる。

 この構図は、重力の力の作用と相似と解釈はできないのだろうか。

 ある物体がある。

 真空中よりも、物質が高密度に存在している。ゆえにそこには情報のダマができているはずで、情報の伝播速度はそこで遅延するはずだ。むろん、情報のダマとダマにおいては、情報の単位や形態が異なるので、相互作用するためには変換が必要となる。するとますます情報の波及速度は遅延するはずだ。

 したがって、物体がぎゅっとなっている場のほうが、情報伝達速度が俯瞰の視点において遅れることが想像できる。これはいわば相対論における「高密度の物体の周囲の時間の流れる速度は遅れる」と矛盾しない。

 そして、真空中では、情報単位が揃っているがゆえに、情報の伝播速度は滑らかであり、物質がぎゅっとなっている場よりも、情報の伝播速度が相対的に速い、と解釈可能だ。

 すると、その高次領域における俯瞰の視点では、情報伝播速度――情報変換のスムーズさ――は、物質が高密度な場よりも真空中のほうが高い、と想定できる。つまり、情報だけで見れば、真空中のほうが情報変換が滑らかがゆえに「情報変換が盛んに行われている」と想定できる。

 真空中のほうが「情報変換密度」が高いのだ。

 ひょっとすると重力とはこの「情報変換密度の差」によって生じる「情報の揚力」と解釈できるのかもしれない。

 とはいえ。

 情報変換の密度は、相対的にフラクタルに展開されていることが想像できる。

 物質がぎゅっとなっている場の中にも、階層が生じており、どの視点から見た「高次領域(俯瞰)」なのか、によって、情報変換密度の高低は入れ替わり得る。

 低い場があっても、より低い場との比較のうえでは、高い場として規定され得る。重ね合わせで関係性が入れ子状に存在している。

 この妄想を飛躍させると、時空がボースアインシュタイン凝縮のような状態を帯びており、情報変換の閾値が低いことが想定できる。同期しやすい。そして数多の関係性を多重に同時に重ね合わせで維持できるがゆえに、情報変換密度が高い、と解釈できる。

 ここまで並べて違和感を覚えたので、単語を整理しよう。

 滑らかさと速度はイコールではない。

 滑らかがゆえに速度が出ないことはあり得る。

 滑らかではないがゆえに速度が出ることもある。

 摩擦がまず以ってそうだ。ある程度摩擦があるほうが、駆けっこでは有利だ。摩擦ゼロの地面では人間は満足に駆けることもできない。この関係性は、割合に人間スケールのみならず、万物の至る箇所に見られる構図なのかも分からない。

 サイクロイド曲線とも通じていそうだ。

 最短ではないがゆえに最速になり得る。

 物体中の音速にも当てはまる。体積弾性率がそうだ。

 高密度高硬度であるほど音速は高まる。空気中よりも水中、水中よりも鉄塊の内部のほうが音は速く伝わる。ぎゅっとなっている場のほうが速いのだ。

 判然としない妄想である。

 重力は揚力と相似なのではないか。

 との妄想を、誰も目にすることのない電子の海の底の底にでも並べておくことにする。

 秘儀であり秘技でもある。

 日々、あれとこれってなんか似ている、の「あてずっぽうの巻」であった。

 定かではない。



443:【2024/03/30(07:22)*相似のままで図形を無限に拡張できるのか問題】

 数学における「ある解が無限に存在するか否か(解が有限個か否か)」の問題は、言い換えるなら、「あるグラフや図形を、無限に拡張することができるのか否か」の問題として解釈し直してもよいのではないか。

 たとえば、直角三角形にまつわる「ピタゴラスの定理(三平方の定理)」において。

 そのうちの一辺を素数にする場合に、三平方の定理を満たす解が無限にあるのか否か、といった問題が、未だ証明が済んでいないそうだ(どの辺でもよいのではなく、何か条件があったはずだ)(参照:「斜辺とそれ以外の小さい辺の一方が素数であるような直角三角形は無限に存在するか」)。この問題は、未解決のままなのだそうだ。

 けれどこれはいわば、直角三角形を無限に拡大しつづけることができるのか、の問題として変換できるはずだ。

 素数が無限に存在するのなら、一辺の長さがどんな長さであれど無限まで連続して拡大可能な直角三角形が存在する場合に限り、斜辺であれ短い辺であれ、長さが素数の直角三角形は無限に存在し得ることになる。

 ただし、原理的に何かの図形を、いっさい変形させることなく相似を維持したまま無限に拡大することができるのか、との疑問は別途に生じると思うのだ。

 だってまず以って宇宙がデコボコじゃないですか。

 物体だってデコボコじゃないですか。

 拡大させたり、縮小させたりしたら変形する。相似ではなくなる。

 物理世界の物理法則を考慮すると、途端に、何かの図形を無限に相似のまま拡張することはできなくなる。

 ただし、理想的な世界でならば可能かもしれない。

 でもそれはトートロジーだ。

 そうだから、そうだ、と言っているだけであって、証明にはならないはずだ。

 無限に図形を拡張しても相似を維持できる世界においては、無限に図形を拡張しても相似のままなんです!と言って、それがいったい何の証明になっているのだらう。

 疑問の余地が分厚すぎる。

 ということを、わたくしは思いました。

 寝まーす。

 イチャモンばかりで、すまぬ、すまぬ。

 うひひのひ。



444:【2024/03/30(23:59)*重力は情報差なの?】

 ひょっとしたら上記の「相似のまま図形を無限に拡大できるのか問題」は、「創発」の基本原理と通じているのかもしれない。

 仮に、「相似のまま図形を無限に拡大できない」とすると、拡大すると図形は僅かにでも形を崩すと考えられる。構造を維持できない。

 たとえば、同じカタチのタイルを無限に敷き詰めることが可能だったとしても、ある時点からはタイルの集合に歪みが生じる、と想像できる。

 つまり、「相似のまま図形を無限に拡大できない」が真であるとすると、無限に同じタイルを敷き詰めることは許容されない結論となるからだ。

 ここで重力を扱うのはたとえ話として適切ではないけれど、すこし脱線して重力を加味して考えてみよう。

 重力は基本的に、立体構造に適用されて考えられがちだ。

 けれど、平面にも重力が生じる、と想像してみよう。

 すると、無限に敷き詰めた「同じカタチのタイル」は、多重に輪を重ねる波紋のように、内側の輪ほど、より多くの輪――総合したタイルとの関係性――量――が、相対的に多くなるはずだ。

 米粒一つよりも、おにぎりのほうがたくさんお米が集まっている。

 このとき、おにぎりの中心部分のお米のほうが、より多くのお米を「まとっている」と考えられるはずだ。

 同じように、同じカタチのタイルを無限に敷き詰めた場合、最初に置いたタイルの周囲にタイルを敷き詰めるように配置していく場合には、最初の一個目のタイルほど、より多くのタイルに囲まれている、と解釈できる。

 このとき、もし重力が平面にも生じ得るのなら、その最初の一個目に掛かる重力は、タイルの数が嵩めば嵩むほど増加するはずだ。

 そしたら、タイルの強度によるだろうけれど、ある時点で、一個目のタイルが破損したり、歪んだりすると想像できる。或いは、四方から圧力が掛かって、上部や下部へと弾き飛ばされてしまうかもしれない。隆起し得る。

 ここでの趣旨は、仮に「相似のまま図形を無限に拡大できない」のだとすれば、「同じ要素の集合であれど、ずっと同じではいられない値が存在し得る」という点だ。

 お米一粒と、おにぎり。

 おにぎりの中心にあるお米一粒と、おにぎりの外側にあるお米一粒では、その他のお米との関係性に差がある、と解釈できる。

 たとえ同じ要素の集合であれど、「位置」や「集合に加わる順番」によっては、関係性に差が生じ得る。

 この場合、関係性とは情報である、と解釈可能だ。

 情報に差が生じる。

 ゆえに。

 たとえ同じ要素の集合であれど、個と集合ではそこに顕現する性質が異なって観測され得る。情報に差があるからだ。

 関係性が多重に差を帯びている。

 より複雑さを増している、と言えるのではないか。

 ということを、日付が変わる一分前に思いついたので、並べました。

 日付変わってから並べたことにしたら、きょうの分の日誌はお終いにできるぞ。

 ズルしちゃおっかな。がはは。



445:【2024/03/31(03:14)*芽の泉】

 とある乾いた土地に「芽」が一本だけ生えていた。

 葉は一つきりだ。

 葉脈が渦巻き模様を描いた奇妙な「芽」であった。

「あ、見てご主人さま。あんなところに植物が」

「どれどれ。ほう、これはまた面妖な」

 偶然そこを通りかかった砂漠の商人が、「芽」に水を掛けてやった。すると「芽」はすくすく育って、あっという間に乾いた土地にオアシスを生みだした。

「ご主人さま、オアシスです。オアシスが現れましたよ」

「蜃気楼……ではないようだの」

 滾々と湧く泉の中心には、先刻まで「芽」だった「大樹」がデンと大地に屹立していた。

 ふしぎと「大樹」は泉に浸かっていなかった。根元に水が届いておらず、孤島のごとく泉の真ん中にぽつねんと立っていた。

 商人一行が勃然と湧いたオアシスに目を丸くしていると、目のまえで「大樹」が葉を萎らせはじめた。

「ご主人さま、どうしましょう。このままだとオアシスが」

「泉の水まで濁っておきおった。こりゃいかん」

 砂漠の商人は急ぎ、商品の水を「大樹」に注いだ。

 するとどうだ。

「大樹」は息を吹き返したように葉を瑞々しく茂らせた。根元に広がるオアシスも、心なし先刻よりも水嵩を増して見えた。

 砂漠の商人はそれからというもの、仕入れの道中には「大樹のオアシス」に寄るようになった。そのたびに「萎れた大樹」に水を掛けてやった。ふしぎとオアシスの水ではダメなのだ。砂漠の商人は商品の水を、大樹に注いだ。

「ご主人さま、ご主人さま。また隣国で干ばつだそうです。なんでも数百あった井戸が枯れ果ててしまったようで」

「難儀なものよの」

 従者の報せを受けながら、砂漠の商人は「大樹」の幹を撫でた。見るたびに太く大きくなっている。オアシスはすでに、ここに村を築けるほどの大きさにまで豊かさを深めていた。

 だが砂漠の商人は知らなかった。

「大樹」は乾いた土地の地下に根を巡らせ、遠方の水脈から水を奪っていた。隣国で多発する干ばつは、「大樹」が育った影響なのだ。

 そんなことなどつゆ知らず、砂漠の商人は、贔屓にしている王族へと進言した。

「王さま。新しく発見いたしましたオアシスにて、都を築いてみてはいかがでしょう。場所は――」

 王は砂漠の商人の話を聞いても、最初は眉に唾を塗った。

「あの場所は枯れ地だ。井戸をいくら掘っても、水一滴出ん、死んだ土地ぞ」

「それが、そうではなかったのでございますよ王さま」

 砂漠の商人の熱心な話に、王も進言を無下にできなかった。案内せい、と遣いの者を供に出し、オアシスを確認させに行かせた。

 砂漠の商人はこのひと月後には、王からの礼として大臣の位を得た。新しくオアシスの近辺に築かれることとなった都市の管理者として抜擢されたのだ。

「褒めてつかわす」

「ははあ」

 だがけっきょく、オアシスの近辺に都市は築かれなかった。

 都市建設に着手して間もなく、近隣諸国同士の戦争がはじまったのだ。砂漠の商人が贔屓にしていた王国も戦禍に巻き込まれ、大勢が死んだ。

 戦争の要因は、水不足だった。

 砂漠の商人は命からがら、遠方へと逃げ延びた。

 再びオアシスのあった乾いた土地へと足を運んだのは、それから何十年もの年月を経た死に際のことだった。

 ふと、あのオアシスはどうなったのか、と気になったのだ。

 死ぬ前に、あれが夢ではなかったことを確かめたくなった。

 そうして、出向いた先に、しかしオアシスの姿はなかった。雪のように融けて消えてしまったのだろうか。

 つぶさに目を地面に巡らせると、

「あっ」

 小さな「芽」を見つけた。ひび割れた大地に、一本だけ生えたそれは、かつて砂漠の商人が見つけ水を掛けてやったあの「芽」に瓜二つであった。

 葉は一つきりだ。表面に渦巻き模様が浮かんでいた。

 以前と違うのは、その「芽」がいまにも枯れ果ててしまいそうなほどに弱弱しかったことだ。

 砂漠の商人は、手持ちの水筒の蓋を開けた。

「芽」のうえで水筒を傾けようとして、はたと思い留まった。

 かつて贔屓にしていた王国は滅んだ。水の潤沢な国であったが、それが却って干ばつで苦しむ近隣諸国の敵意を集めた。我々が水不足なのはおまえたちが水を奪っているからだ。かような勘違いが、勘違いを呼び、ついに打ち滅ぼされてしまったのだ。

 けれど王国が滅んだところで、近隣諸国の水不足は解消しない。

 なぜなら件の王国が要因ではなかったのだから。

 近隣諸国を襲った干ばつの理由を知る者は誰一人としていない。

 この瞬間、再び「芽」を目の当たりにした、かつて砂漠の商人だった男以外には。

「もしや……おまえか……」

 水筒を胸元に引き戻して、かつて砂漠の商人だった男はつぶやいた。

 思い至ってしまったのだ。

 かつてじぶんが撒いた善意が、いくつもの国を滅ぼした元凶を育てていたかもしれない事実に。

 いまここで水を注がねば、「芽」は明日にも枯れ果てるだろう。

 かつて砂漠の商人だった男は唾液を呑み込むと、水筒に蓋をした。

 もし、あの日、水を掛けていなかったら。

 いまここに、この「芽」も存在しなかっただろう。

 いま水を注げばしばらくのあいだ、この「芽」は生き永らえるだろう。

 だがその結果、もしまた、あのときのような悲劇が連鎖したら。

 そうと思うと、かつて砂漠の商人だった男は、目のまえの弱った「芽」に情け心を注ごうとは思えないのだった。

 なぜ水をくれぬ。

 乞うような雷鳴が、遠方の、いまは亡き王国の方向から響いて聞こえた。

 雨は当分、降る気配はない。

~~~~~~

 ぽわわわ~ん。

 みたいなさ。

 みたいに、ならないとよいな、と思います。

 小説ではないのでOKです!

(その「芽」――なんだか誰かを彷彿とするよね)

(え、誰だろ)

(どっかの、「さびちーさびちー」が口癖の、万年寝坊助の益体なしだよ)

(え、そんな人いたかな?)

(姿見持ってきてやろうか)

(くれるの? ありがとー)

(性根が腐っとるのか、こやつは)

(水をいっぱい飲みすぎたかな。がはは)

(存在ごと水に流したいわ)

(流れてもいいけど、一緒がいいな。なぜならさびちーので)

(お風呂に誘うみたいに言うな)

(入らない?)

(入らん)

(んふふ。入っても入らなくとも、どっちにしろ「あなたと水入らず」だね)

(呪いかな?)

(団らんだよ、団らん。祝って!)

(茶々でも入れるか)

(水を差すのやめて)



446:【2024/03/31(23:29)*線とは?】

 相似のまま図形を無限に拡大できるのか問題は、ちょっと面白いのでしばらく妄想の種にしちゃうかも。

 でもこれってあれですよね。

 どこかのぽんぽこぴーが唱えたというへっぽこぴーな「ラグ理論」なる理屈に登場する「相対性フラクタル解釈」と似ていませんこと?

 似てるー!って思っちゃったな。

 で、妄想してみるのだよ。

 たとえば超極小の三角形があるとしよう。四角形でも円でもよいのだけれど、ひとまず三角形にしよう。

 超極小の三角形を構成する線は、鉛筆で引ける線よりも細いことが想像できる。だってそうでしょ? 原子は鉛筆の先端よりも小さいのだよ。原子からしたら鉛筆の先っぽなんて、さながら林檎と地球のような関係になるのではないか。分からんけど。

 で、その原子よりも小さい三角形を想定すると、それはもうもう超極細の線で構成される三角形だと想像つく。

 で、はい。

 ここで、ぐーん、と超小さい三角形さんを拡張していこう。

 原子よりも、林檎よりも、地球よりも大きくして、もっともっと大きくして、銀河、銀河団、宇宙の大規模構造まで大きくしちゃおう。

 さて。

 このとき、超小さい三角形を構成していた超極細の線で結ばれた、宇宙の大規模構造並みに拡張された超巨大三角形は、存在するか否か。

 まず、現代の技術力では観測はできないだろう。

 それから、宇宙の大規模構造をまたいで引かれた「原子よりも細い線」が、果たして直線を維持できるのかも疑問だ。

 仮に、いっさいが平坦な世界を無理くり想定したとしても、超極小の三角形をそのまま無限に拡張すれば、当然、比率として、ほとんどあってないような線となって構成されることが想像できる。

 果たしてそこに超巨大三角形は存在するのか否か。

 存在するはずだけれど観測はできない。

 なぜなら、超極小の三角形を構成する線の細さは、どのような理想的な世界であろうとも、その世界にとっての根源と同等もしくはほぼ等しいはずであるからで、言ってしまえば、そこかしこに超極小の三角形を構成する極細の線が張り巡らされている、無数に散在している、と考えられる。

 そんなどこにでも存在し得る世界の根源とほぼ同じ線で引いた、超巨大な三角形は、そこにあってないような存在として顕現するのではないか。

 それはたとえば、砂漠に砂塵一粒を数珠つなぎに並べて絵を描いたとして、果たしてそれが絵として可視化できるのか、認識できるのか、という問題に等しいかもしれない。

 絵を描いた本人にしか認知できない「そこにあるはずだけれどないも同然の絵」に仕上がるのではないか(順番に砂塵の粒を配置した、との情報の差があるばかりだ)。

 今度は構図を反対にして妄想してみよう。

 宇宙の大規模構造並みの空間に、超巨大な三角形を描いてみよう。

 大規模構造につきもののデコボコを無視できるほどの太い線で、超巨大な三角形が引かれることが想定できる。そうでなければ直線にならぬからだ。

 デコボコを塗りつぶすほどの太い線だ。

 宇宙の大規模構造が、あたかも紙面のように見做せるほどの俯瞰の視点で、超巨大な三角形を描く。

 さて。

 このとき、線の太さをそのままにその超巨大な三角形をどこまでも縮小することはできるのか。

 はい、そこのあなた。

 答えを述べてみよ。

 わがはいわねー。

 できぬ、と思うであるよ。うは。

 線ごと縮小しなければ、ある範囲で三角形は線の太さに塗りつぶされて、三角形ではなくなってしまう。

 どこまでも縮小はできぬのだ。

 ただし、線ごとフラクタルに縮小できるのならばその限りではない。

 言い換えるのなら、「無数に繰り込まれる場」において、その都度に線の太さ――概念――単位――もまた変換しつつ図形を縮小可能ならば、相似を維持したまま図形を無限に拡大したり縮小したりすることは可能なはずだ。

 ただし厳密には、視点が変わっている。視点を維持しつづけた場合、それでもなお「相似のまま図形を無限に拡大(または縮小)することはできない」と妄想できる。

 妄想なので、定かではない。

 もう、そう!



447:【2024/04/01(00:34)*日向の面影】

 ひまわりの絵を描こうとすると真ん中を「#」のように格子状に斜線を交差させますでしょ。

 斜線の花だと勝手に思っております。

 でも現物のひまわりはまったくこれっぽっちも斜線とは無縁で、花の真ん中の種が詰まっている部分は、どちらかと言えば蜂の巣を連想してしまうのだ。

 斜線と蜂の巣で連想するのは、銃なのだ。物騒である。

 弾丸みたいに速い何かしらをさらに加えて連想してもよかったけれど、とくに何かを思いつくわけでもなく、なんとなくきょうは「04月01日」なのだなぁ、「わたぬき」なのだなぁ、と思って、意味もなくにっこりしておこう。

 四月一日と書いて「わたぬき」と読むのだよ。某漫画の主人公の名前だけれど、なぜ「わたぬき」と読むのかは分からぬ。知らなければまずそうは読めぬ字面である。

 検索したら載っていたけれど真偽は不明だ。

 綿を抜く日だったから、なる趣旨が載っておるけれど、じゃあきょうが誕生日のひとは、「四月一日」と書いて、「わたくし」と読んでもよいのだろうか。

 よいのかもしれぬ。

 わたくしさん、おめでとー、と意味もなくにっこりしておこう。

 ひまわりの花言葉はなんだろな、と気になったので検索してみたところ、「憧れ」「情熱」「あなたを見詰める」だそうだ。ロマンチックである。

 太陽のような光を追う、ロマンチストな花なのかもしれぬ。

 ひまわり。

 漢字で書くと「向日葵」だ。

 日向(ひなた)に葵(あおい)と書くのですね。

 もし「青い、日向」だとしたら、それって地球なのではないか、と想像すると、なるほど太陽の周りをぐるぐる回って、情熱的に見詰めているようにも思うし、太陽のほうこそが地球をいつでも見詰めているようにも思えますね。

 嫉妬しちゃうな……。

 想像したら、「熱々やないかい……(それに引き換え、わしは何?)」の釈然としない気持ちが湧いたので、意味もなく「にこっ」として、きょうの分の日替わり日誌を終えようと思います。

 わたくしさん、おめでとー。

 すくすく育って、美味しいひまわりの種を、ハムスターさんたちにプレゼントしてあげましょう。つぎなる「公のスター」たちが、むしゃむしゃ食べて、世の中にたくさんの日向を生むでしょう。

 燦燦と照る太陽のように。

 母なる青い日向のように。

 見つめ合うひまわりがそうしてどこかで咲くでしょう。

 燦燦SUN、太陽さん。

 333、ひまわりさん。

 斜線が交わり、掛け合って、3×3=SUN、ありがとさん。

 日向の面影が誘起する。



448:【2024/04/01(22:26)*利は利を奪い、理は利を生む】

 人道的な判断による加勢や支援は、けして自国の利になるから、といった即物的な損得勘定からではなく、困っている者がいたら助けることのできる社会を、文化を、構築し維持しつづけるために必要な行動選択だから、という至極単純な動機なのではないだろうか。

 ゆえに、である。

 仮に一時的に損をしたとしても、困っているほうを助ければよいと思うのだ。

 勝敗の概念に行動選択の指針を委ねると、上記の方針から外れる。

 利がなくとも助けるし、たとえ利があっても、加害行為には加担しない。

 それでよいではないか、と思うが、何か問題があるだろうか。

 そうした価値観の相違が問題の根を深めるのだ、との意見は、一理ある。

 互いに困ってしまう。

 ならば、そちらの意見を尊重し、価値観を合わせましょう。

 あなたの意見を採用し、勝ちを譲ります。

 だから問題の根を解消し、よりよい社会にしていただきたい。

 あなたの意見でそれが適うのならば、いくらでも協力しましょう。

 これでよいのではないか、と思うが、いかがだろう。

 相手の意見を優先して問題が解決しないのならば、ほかの意見を参考にしつつ、多面的多角的に問題に対処するのが有効なはずだ。

 けっきょくは、価値観の相違があったほうが問題に対処しやすい、ということにはならないか。

 実際のところがどうかは分からぬが、まずはさておき、何が問題なのか、の根っこを共有したいものである。

 そのためには、どの視点からでも問題に映る事項を抽出するのが有効だ。

 まずは話し合い、互いに抱える問題点を共有しようではないか。

 利のためではなく。

 利を奪い合う世の流れに与しないために。

 破壊ではなく、創造優位の社会を築くために。

 そのためには、破壊の有用性にも目を留め、思いを馳せる余裕を抱きたいものである。

 定かではない。



449:【2024/04/02(23:55)*🌷🐢💅↗️✌️💄🍂🦐🍌🐧🕳️】

 ぽかぽか陽気である。

 春な、のか?

 青い空に、白い雲。

 陽が沈めば、黒い余白に、星の河が流れて、そこには龍の化身が住むと云われる。

 じっと見つめておれば、流れ星がぴゅんぴゅん斜めに飛んでは、思わず願いを唱えずにはいられない。

 願いが叶えばピースをするし、願いが叶う前から夢に浸ってピースする。

 ぐーちょきぱーで、ジャンケンをして、けんけんぱ、をしてみれば、跳ねて、よろけて、こてり、の音色を奏でおる。

 支えてくれるのは、福だ、古典だ、一休さん。

 数字のゴロに直せば「193」だ、一句、さんきゅー、九さんだ。

 いくみ、とも読め、「育く美」と充てよう。

 育てよ、美よ。

 育めよ、美を。

 ぽかぽか陽気は、春の心地、夏を想い、秋のことぶき、冬の小文(こぶみ)。

 エビで鯛を釣るよりも、たらふくエビを食いたいな。

 笈(おい)の小文は松尾芭蕉が持ち歩いた雑文帳だし、芭蕉はバナナで、甘くて美味しい果物だ。ひまわりと似た色合いで、三日月のように弧を描く。

 まっすぐなだけが一途でなく、曲がっていても道は道だ。

 毛糸のように絡み合っていようとも、ほどけば連なる一輪の花である。

 山を埋め尽くすような、お花畑は、知恵の納まる本の地層と似通っている。地層は地層で、虹と似て、山と本を繋げる橋と化す。

 橋は橋で背を曲げて、芭蕉のごとく「かわ」と在る。

 天の川のそばに浮く、三日月のごとき明るさで、今宵の空は洞のよう。

 洞を縁取る明かりで以って、こころが、ここもか、ぽっかぽか。

 いつの間にか、春な、のか?

(ギリギリ……アウト…………)

(なんのことかな!?)

(名前がいろいろ足らんくないか? あの人とか、あの人とか、あの人とか……)

(使わんと忘れるので、出したくとも出せぬひともけっこうおるよ)

(たとえば?)

(魔法使いと狼と梟の絵の人とか……)

(初期のころから観てた人じゃん。直接会ったことある数少ない作家さんじゃん。名刺もっとるじゃん……)

(虫好きの人とか……)

(髪の毛が手になる人か)

(辺りがまっしろになりそうな岬の人とか)

(ほぼ言うとりますやん)

(常に不安そうな人とか)

(ふあんの妖精さんかな?)

(砂糖と春の花みたいな名前の人とか)

(それはたぶん佐藤ハルカでよいのでは?)

(好きなときに好きなものを好きなだけ、の人とか)

(東洋の泉っぽい響きの人のことかな)

(ベロを出して、ニカっとしたくなる人とか)

(とーとー印象だけになったか)

(ズームしていそうな人とか)

(ZOOOMってことかな?)

(岩っぽい脳の人とか)

(岩と脳ってこと?)

(駄々を捏ねてそうな殿様の子供っぽい人とか)

(あだだだぁ殿の子ってこと?)

(カモメになるぞ、みたいな名前の人とか)

(なるぜカモメに、ってこと?)

(句読点みたいな名前の人とか)

(クトウと点ってこと?)

(勇ましい子どもみたいな名前の人とか)

(それはもう「勇子」なんじゃないか?)

(ゆうこ?)

(イサコでは? クジラのことを「勇魚」と書いて「いさな」って読むくらいだし)

(そういう題名の曲あったよね。あれ好き)

(あなた、曲うんぬんより誰が歌ってるのか、のほうが大事にしてそうなイメージあるよね)

(それも大事と思うけど、曲も好き)

(だびー、はいいのか?)

(その人も、もはや名前思いだせんのよね。犬くん、みたいな名前の人も)

(固有名詞苦手にもほどがあるでしょ。他人に興味なさすぎなんじゃないか?)

(名前以外はけっこう憶えとるよ。何しゃべってたのかとか、どんな絵を描いてたのか、どれくらい努力していたとか、けっこう憶えとるよ。犬くん、みたいな人が医学用語勉強していたのとか、楽しく聴いておったよ)

(たぶんこれ、背景知らん人が読んでもなんも伝わらんと思うよ)

(だろうけれども、並べておきたかったんよ)

(その「~~なんよ」はあの人の真似でしょ)

(もはや名字出てこんのよな。「みほこ」のみ出てきおる)

(憶えてるじゃん! すごい!)

(へっへっへ)

(マヨったときはその記憶力を頼らせてもらお)

(見て。これ「 . 」なーんだ?)

(急に何。分からん)

(蟻だ。なんつって)

(言いたくなかったけど言ってもいい?)

(いいよ。聞きたくないけど)

(男も……出してやってくれ…………)

(迷うなぁ)

(迷うな、惑うな。バンバン出そうよ)

(かわいいひとが少ないからなぁ……)

(や。割と怖いひと上記にも混じっとったと思うよ)

(あとが怖いので、そういうのは黙っとこ?)

(で、けっきょくこれはいつまでつづくのだ……)

(絵馬のみぞ知る)

(EMAじゃん)

(蟹でもよい)

(そこはせめて「マミー」にして)

(ママってこと? カミではなく?)

(「マ」と「カ」の違いに思いを馳せたいなって)

(摩訶不思議だぁ。あははー)

(果たしてこれがいったい何人に伝わるだろうか……)

(まずは読者さんと縁つなご?)

(それをキミが言うのかい……)

(弱っちゃったな。あははー)

(弱った活字みたいな文字の羅列じゃん)

(終わった活字かもしれぬよ)

(さっさと終わってくれよ活字、かもしれないな。だってよ!)

(誰に言ったの?)

(空に――な、のか、もしれない)

(ちなみにだけど、京と綾と森はいいの?)

(???)

(あ、よいそうです)

(終わりよければOKです)

(そっちの「良い」だったかぁ)

(うふふのふ)



450:【2024/04/03(02:55)*律が動くと層となる】

 集合と遅延の二つを考慮すると、律動もまたフラクタルに展開されることが妄想できます🧊🫧💤




※一様に、漂うように、添うように。



451:【2024/04/03(03:00)*もっと短くまとめてよ……って思った?】

 量子もつれは現状、「情報が瞬時に伝達する」かのように説明されがちだ。ラグなし相互作用を存在するものと仮定するか、それともどんな事象であれ情報の伝達にはラグを帯びると仮定するか。

 仮に、ラグなし相互作用が可能であったとしても。

 単品の量子もつれで伝達可能な情報は、いわば「情報の最小単位」であり「単音」のようなものなのではないか。

 前提として、「情報」というとき、多くの場合は「情報量」が含まれるはずだ。意味内容を有し、情報を得た場合と得なかった場合とでは、何かが変化する。

 そして、情報を受動した側は多く、その情報をもとに変化を得られる。判断を下せる。

 変化を得るには情報の伝達が不可欠である、としてもよいかもしれない。

 ただし、どんな情報でも変化が即座に起こるのか、といえば、これはそうとも言いきれないはずだ。

 たとえば、情報を文章や音楽と見做してみよう。

 単音だけ、一文字だけ、を受動しても、そこから何か広くイメージを展開したり、感動したり、行動選択の指針にしたりすることは稀なはずだ。

 単音の羅列が律動となり、旋律となり、曲となるから、それを受動した側は広く影響を受け得る。文字が文章となり、物語となり、意味内容を広く有するがゆえに、受動した側は深く思考を巡らせられるようになる。

 指先に何かが触れるだけでも、それを信号の受信と解釈することは可能だ。と同時に、指先に火が触れたときと比較して、生じる身体反応は異なるはずだ。火ならば飛び跳ねて手を引っ込めるだろう。そうでなくとも、手を握られたり、手のひらに文字を書かれたときのほうが、身体に生じる変化は大きいはずだ。

 物質も同様だ。小さな情報が大きな変化をもたらすことは稀なはずだ(例外は連鎖反応だ)。

 情報には単位がある。

 形態がある。

 情報量がある。

 この前提を踏まえて、量子もつれにおいて伝達する情報を考えてみよう。

 量子は比較的、物質の根源をなす粒子だ。

 波動と捉えてもよいが、仮に量子もつれによって二つの異なる点同士がラグなしで相互作用し、情報を伝達するのだとして。

 それでもなお、そのときに伝達される情報は、情報の中でも根源に位置する、いわば「単音」であるはずだ。

 そして情報が「情報量」を獲得するためには、「単音」のみでは不足のはずだ。

 単音同士が繋がることで、律動となり旋律となり曲となるように、情報もまた「根源の情報」の連なりや集合によって「情報量」を獲得するのではないか。

 単純な集合であったとしても、どのような単音がどのようにどれくらい集合しているのかによって、そこに含まれる「情報量」は変わってくるはずだ。

 この「単純な量的差異」は、高次の視点では、「集合と集合」における濃淡や高低に反映されるはずだ。

 つまり、情報の最小単位が「たった一つきり」しかなくとも、その後に「集合した『情報の最小単位』」によって、高次領域における音色の幅が広がる。律動を生みだすための濃淡に繋がる。

 仮にこの前提を真だと仮定してみよう。

 すると、さらに前段階として、「量子もつれの情報伝達は、二つの異なる量子が存在し、互いにもつれ状態になっている――との情報を含まなければ、単なる変化との区別がつかない」とも考えられる。

 もつれ状態の二つの量子を認識できる俯瞰の視点を考慮しない場合――。

 各々の量子の視点では、自身に生じた変化が、果たして量子もつれによる「ラグなし相互作用」の結果の変化なのか、それとも周囲からの影響を受けた結果の変化なのか、の区別はつかないはずだ。

 あくまで、二つの量子がもつれ状態になっている、と認識できる「より高次の俯瞰の視点」からのみ、量子もつれの効果は観測可能なのだ。

 つまり、量子もつれにおける「ラグなし相互作用」が仮に事実だったとしても、量子もつれであるとの高次の情報を加味しなければ、「瞬時に伝わったはずの情報が、果たして本当に瞬時に伝わっているのか否か」を知ることは、原理的に適わないはずだ。

 なぜなら、量子もつれにおいて伝わる情報が、情報における「根源の素子(単音)」と想定されるからだ。

 ただし、例外がある。

 多重に量子もつれを連鎖させ、異なる量子もつれ同士を連動させれば、そこには「単音」と「それと異なる音色の単音」が連なり、結果として「律動や旋律」のような「情報量を帯びた情報」の伝達が可能となるはずだ。

 けれどそれはけして「単品の量子もつれ」ではない。

 ゆえに、その場合の情報伝達にはラグが生じる、と想像できる。

 なぜか。

 変換が必要になるからだ。

 波と波が干渉すれば、より大きな波になるか打ち消し合うかする。いわば変換が生じる。たとえ同じ波同士であれ、干渉し合えば、変換が起こる。変化が起こる。

 この変化には、ラグがつきまとう。

 仮に変化の根源である「量子もつれ」の情報伝達――変化――にラグがないのだとしても。

 その「ラグなしの変化同士の変化」には、ラグが生じるのだ。

 量子もつれの情報伝達――もつれの破れによる変化――がラグなしで起こるものと仮にしたところで、連結した量子もつれではラグが生じることがこうして妄想できる。

 言い換えるのならば、

【単品の量子もつれではラグなし相互作用が仮に可能であったとしても、その他の情報との相互作用――比較――が適わない場合には、量子もつれによるラグなし相互作用で生じた変化が、ラグなし相互作用で生じた変化なのか単なる外部干渉との相互作用で生じた卑近な変化なのか、の区別は原理的につけられない】

 となる。

 あくまで妄想にすぎないが。

 さて。

 妄想がまとまったところで、情報について深掘りしておこう。

 情報には「内と外」があるように思うのだ。

 言い換えるなら、「内容と関係性」だ。

 たとえば、太陽と地球は電磁波(光)の速度で八分のラグ(タイムラグ)がある。

 延々と太陽から電磁波が地球に注いでいるとしよう。

 だが、何かの要因で、そうたとえば巨大なタコが太陽の表面を覆い尽くしたとしよう。

 だがその情報が地球に伝播するには八分の時間が要る。

 したがって、巨大なタコが太陽を覆い尽くした、と地球にいるタコ焼き好きな女の子が知るには、実際に巨大なタコが太陽を覆い尽くしてから八分経過しなくてはならない。

 しかし、巨大なタコが太陽を覆い尽くしたその時点ですでに、「八分後には、地球にいるタコ焼き好きな女の子は、巨大なタコが太陽を覆い尽くしたことを知り得る」とも解釈可能だ。

 あたかも、巨大なタコが太陽を覆い尽くしたその瞬間に、地球には八分で尽きる砂時計が付属したかのような「関係性」の創出が幻視できる。

 八分のラグを考慮せずとも、太陽の電磁波が巨大なタコに遮られたその瞬間に、「八分後にはその情報が地球に届きますよ」との情報が瞬時に地球には生じている、と俯瞰の視点では解釈できるのではないか。

 この「俯瞰の視点では」というのがミソと思うのだ。

 太陽の視点のみ、地球の視点のみでは、どうあっても情報は八分のラグを帯びる。

 けれど、双方を内包する俯瞰の視点を考慮すると、途端に「あたかもラグなし相互作用による情報伝達が起きているかのような変化」を想定できるのだ。

 これはほかにも、円が途切れた瞬間に、途切れた部分以外の箇所にも同時に広く「円ではなくなった」との情報を獲得したかのように見做せる俯瞰の視点が存在することと似ている。

 言い換えるなら、円は、千切れた瞬間に、頭と尾を持つ帯として一瞬で変化する。ただし、円を俯瞰で認識できる視点においては、との条件付きであり、円を構成する各々の素子からすれば、「もう円じゃないんだってさ、千切れちゃったから」なる情報の伝播を待って順繰りと真相を知らなくてはならないし、千切れた端のどちらが頭で、どちらが尾なのかも、別途に情報の波及を待たねばならない。

 この考えはともすれば、どこぞのへっぽこぷーの唱えたへっぽこぴーな理屈こと「ラグ理論」に出てくる「同時性の独自解釈」を彷彿とする。

 似とるね、と思うのだ。

 彷彿なだけに。

 煮とるね、的な。

(煮沸と似てるけど、よっく見て。「彿」は「沸」と違うよ)

(ホントだ!?)

 何の話だっけ。

 忘れちゃった。

 大事な話をしていた気もするし、そうでもない気もする。

 あ、そうそう。

 何かが変化するってことは、それが変化しなかった場合との比較において、情報が高次にも生じているよね、それがいわゆる関係性ってやつなのかな?みたいな話だった気がする。

 二点間のみの関係性ならば、それは「内容」としての情報と区別はつかないはずだ。

 けれど俯瞰の視点を含めた三点間においては、何かが変化したその瞬間に、それと関係していた一方との「関係性」が瞬時に変化して映ることもある。あくまで、第三の「二つの関係性を観測できる視点」においては、であるけれど。

 浮気をしている、と知らなければ、恋人同士は恋人のままだ。

 けれど、浮気をしている、と傍目から眺めて知っている人にとっては、その恋人たちはもはや浮気ありきの恋人同士なのだ。

 もうちっと言えば、浮気相手からすれば、誰かの恋人は浮気相手なのだ。そして浮気をした時点で、浮気相手の恋人は、浮気をされた可哀そうな人なのだ。ただし、その変化をラグなしで知れるのは、あくまで誰かの恋人と浮気をした者の視点のみだ。

 悲しいたとえ話になってしまったので、いまのナシ。

 結婚のたとえ話に言い直そう。

 ある人の娘さん(もしくは息子さん)は、その人との関係性の上では親子だ。

 けれど親の知らぬところで娘さんがどこぞの馬の骨と恋愛関係にあったら、娘さんと恋愛関係にある者の視点では、赤の他人のはずの娘さんの親は、恋人の親へと瞬時に関係性が変わっている。

 恋人になった時点で、無関係のはずの大人が、恋人の親へと関係性が瞬時に変わるのだ。

 ただし、大事な娘がどこぞの馬の骨と恋愛関係にあるなぞと夢にも思わぬ親からすれば、娘はただただ無垢なままの娘なのだ。

 せつないたとえ話になってしまったので、これもナシ。

 あがー。

 上手いたとえ話を誰か代わりにしてくれたまえよ、そこのキミ!

 わがはいの日誌に読者はおらぬはずだけれども、いつか読むことになるかも分からぬ未来のあなたがいたのなら、あなたは一方的にわたしの日誌を読んでいて、一方的にわたしの日誌の読者さんなのだ。

 ありがたーい。

 過去と未来でも、一瞬で関係性が生じ得るのだね。

 ただし、読者であると認識できる、未来のあなたの視点では。

 私とあなたの縁は、あなたのみぞ知る。

 あなたが神か。

 はたまた友か。

 長い旅路のお供にちょこんと添えておくんなまし。

 人生ぇ……。

 お元気で、長生き、おし!



452:【2024/04/03(18:08)*小さくせつない手と書いて、小切手】

 恋愛くらい好きにさしてあげなさい、と思わぬでもないである。

 誰かと恋愛関係になったくらいのことで無垢でなくなったとか、純朴でなくなったとか、そういった穢れ信仰はどうかと思うのですよね。

 どんだけ恋愛に価値の重きを置いておるのだ、恋愛の有無程度のことで無垢だとか純朴だとかが薄れると思っているのか、というのはよくよく定期的に思うことでありまして。

 独占欲なのよなぁ、と思うのだよね。

 浮気を嫌と思うのも、恋愛禁止したがるのも、清く正しい恋愛関係があると錯覚してしまうのも、独占欲なのよなぁ、と思うのだ。

 ただ、何かしらを誓い合った関係があるのなら、それは破ったら、「ぷんぷんしちゃうな!」になっても致し方ないとは思うのだ。

 でも、恋愛ってそんなに人間における価値の比重を占める事項なのかなぁ、とはよくよく思うのだ。

 恋愛しようがしなかろうが、どっちでもよいではないか。

 大切な存在を大切にする時間こそ大事なのではないのかと、そういうことを思う、いっぱいせつない気持ちになるのが上手な、大切仙人なのであった。

 たいせつー。



453:【2024/04/03(22:22)*防衛は防災から】

 仮に、人工的に地震を起こせる技術が秘密裏に開発され、兵器として実装されていたとしても、すべき対策は天然の地震と変わらない。

 震災の被害を最小限にすること。

 そのためには、地震に際して起こり得る被害を想定し、前以って補強や復興技術を備えておく必要がある。

 また、兵器としての人工地震発生技術が存在するかどうかを調査してみるのも一つだ。技術が存在すると公に明らかになったのなら、それを行使させない交渉なり対抗手段なりは別途に考案可能だ。だが秘密裏に行使されてしまうと、けっきょくは自然発生する地震同様に備えるよりない。

 いずれにせよ、現状の技術では、仮に人工的に地震を発生させられるのだとしても、「いつどこに起こすのか」くらいの操作しかできないだろう。

 元々地震の起きそうな地層にて「地震誘起爆発」を生じさせる。

 それはたとえば、雪崩の起きそうな場所で爆発を起こせば人工的に雪崩を起こせることと同じ理屈だ。雪崩は目視でも、雪崩の起きそうな場所を確認できる。

 けれど地震の場合は地下断層がどうなっているのかを精度高く知り得なければ、どこでどのくらいの規模の爆発を起こせば地震を誘発できるのか、は分からない。

 言い換えるならば、そこさえ判れば、あとは「爆弾の威力」と「いかに確定した位置に爆弾を仕掛けるか」の技術が存在すれば、理屈の上では人工的に地震を起こすことは可能なはずだ。

 ドミノの積み上がっている場所を特定できれば、あとはドミノを押すだけで、ドミノ全体を崩すことができることと似た発想と言える。

 とはいえ、上述した人工地震発生技術なるものが確立されていたとしても、それを用いようした時点で、軍隊規模の組織が大きく動くはずだ。

 地下断層の調査については、もし各国が各々に自国の地下断層のデータを有しているのならば、それを利用可能な場合に限り、これといって特別な調査は要らないのかもしれない。

 地震の起きそうな断層を特定できたら、あとは海溝の底に核弾頭を沈めて起爆するだけでも、ひょっとしたら大きな地震を起こせるのかもしれないが、やはりそのためには潜水艦を他国の海域に侵入させたり、大きく位置を動かしたりしなければならず、さすがにそこまでの動きを各国の軍事組織が見逃すとは、なかなか思えない(もしそういった不可視の動きを見逃しているのだとしたら、巨額を費やして運営する組織としてはお粗末すぎないか?と思わぬでもない)。

 いずれにせよ、人工地震発生技術が存在したとしても、どの道、地震の起きそうな地点にしか地震は起こせない(いましばらくは)(場所を問わず一発で大地震を起こせるほどの威力を秘めた爆弾が存在するとすれば、地上で起爆させただけで地球上の生物はみな滅ぶだろう)。

 したがって、人工地震発生技術がたとえ存在したのだとしても(或いは存在しなかったのだとしても)、いずれは同じ地点で地震が起きていたと想定できる。

 ゆえに、各国政府人がすべきことは、災害への備えを充分に敷いておくことである、と言えよう。対策である。

 戦闘機や原子力潜水艦に費やす労力と資源以上のコストを掛けて、災害対策および復興技術を万全にしていただきたいものである。



454:【2024/04/03(22:42)*やあやあ、我こそは無様である】

 憎悪は、「わたし、憎悪を抱いておりますよ、ぷんぷん!」と意思表示してもらえるあいだが華よな、と思うのだよね。警告をもらえるだけありがたいではないか。

 ありがたーい。

 うふふ。



455:【2024/04/03(23:48)*同期するには重複点】

 マルチバースが実在し、なおかつじぶんと同じ存在が無数に「無数の宇宙」に散在しているとして。

 辿る人生が違った場合は、きっと「もつれ状態」にはならないだろう。

 けれど、ある法則にしたがって行動選択をとるようになった「じぶん」が無数に存在した場合は、重複する確率が上がるので、「もつれ状態」となり得るはずだ。

 つまり、どんな人生を辿ったとしても変わらぬ「じぶんルール」に忠実な個ほど、マルチバースに散在する無数のじぶんと同期しやすい、と妄想できる。

 いったいどんな「じぶんルール」ならば、最も「無数のじぶん」と同期しやすくなるだろうか。最も守りやすい行動選択の指針とは何か。

 さて、そこのキミ。

 いま浮かんだ「指針」を申してみよ。

 うんうん。

 シュークリームをお腹いっぱい食べられるようにする、か。

 よいではないか!

 じゃあ、それで。

 みなも見習いたまえよ。

(いいのか!? それで!!???)

(いいよー、なんでも)

(投げやりか)

(あたくちをたいせつにしてくれたらもう、なんでもOKです!)

(それが一番むついんだよ、こいつは。わかっとんのかこやつは、ったくよー)

(カモンベイベーだぜ)

(自棄になるな、自棄に)

(なんでもこい、いつでもこい、待っとるで)

(ただし自分を大事にしてくれる者に限るってやつだろ)

(ううん。あたくちのたいせつなあなたを大事にしてくれる者に限ります)

(う、うえーい)

(よろこぶの下手くそか)

(慣れてねぇもんで。へへっ)



456:【2024/04/04(00:09)*日向と文とショーコ】

 日向で文を並べると、はっくちょん、とくしゃみが出るのはなぜなのだ。

 太陽さんの眩しさにくしゃみさんがしゃしゃりでてくるのだね。

 チョウチョの鱗粉さんみたいに、コショウでもそよ風に乗って漂ってくるのかも分からぬね。

 ショコ、ショコ、はっくちょん。

 ショコ、ショコ、はっくちょん。

 日向で文を並べるのは、控えおろう、にしよっかな。

 本でも読むか。

 野原に寝そべって、鼻がむずむず、はっくちょん。

 ずずず、と鼻をすすって、お空の奥を仰ぎ見る。

 注ぐ、日向さんの輝きを、こしょこしょくすぐり、八つ当たり。

 こしょこしょは、しょこしょこに、はっくちょんよりも、くえっしょん。

 謎解きばかりの日々なようで。

 謎だらけの日々である。

 なんも分からぬ。

 誰かたすけろー、の気持ち。

(わがはい以外を……)

(そこはじぶんも入れときなよ)

(わがはいを除外した分を、あなたに……)

(そういう仕組みなのか? 無駄に除外されるだけなのでは?)

(人はわざわざ傷つかずともよい……)

(その「も」があたしは好き)

(人は意味もなく人を好きになってもよい……)

(なってもよいしならなくともよい、の意味が隠されているその余韻が好きなのかもね)

(人はいつまでも同じ人を好きでいつづけてもよい……)

(さびしさとせつなさの裏表だなそりゃ)

(人は寂しいときに、「さびちー」と唱えてもよい……)

(まあ、そうかもね)

(ううぅ。さびちー)

(人は駄々を捏ねる人の「さびちー」を無視してもよい)

(よくなーい! 構って! 構え! 構えおろう!)

(さびちー、と書かれた印籠を出すな。何の威厳もない)

(さびちー、の証拠が要るかなと思って)

(ショーコじゃん)

(うぃ)



457:【2024/04/04(03:04)*暇になると駄文がはかどる】

 どう頑張っても全体の20%の人には嫌われるのだから、残りの80%のあなたを好いてくれる相手を向いて行動選択をとるのが吉!みたいな記事をこのところ目にするのですけれど、まあ、割とむかしから見聞きする理屈ではある。

 でも思うのが、なぜ嫌われてしまうのか、において、わたくちに原因があるならば、まあしゃあないな、で済むものの、わたくちに付着した属性を根拠に「なんかあいつ気に食わんわ」になられてしまうと、「待っちくりぃ。そいつぁ、わっちにかってについておるだけのガワでありんすよ、わっちそのものではないんでありんすよ、もっとちゃんとわっちを見てくんろ、嫌うならそれからにしてくんろ」と早口でもそもそと叫びたくなるのだよね。

 で、いざガワのみならず中身まで、すっぽんぽんだぜー、と開陳してみせたところで、「わ、しゅてき!」になるとはとうてい思えんのだよキミ。開陳しただけ損である。

 どの道、「なんかあいつ気に食わんのよな」と思われるくらいなら、すっぽんぽんにならずに済みたいである。

 で、何の話だったっけ?

 そうそう。

 こう、なんだろうな。

 みな好悪の基準が、大雑把な気がするのよな。

 服装がダサいとか髪型がダサいとか、そんなことだけで嫌いになる必要あるー?とか思うわけですよ。百歩譲って、服装がかっこよくて髪型がかっこよかったら好きになっちゃうかも、なら分かるわけですよ。

 プラスアルファってことでしょ?

 それはまあ、百歩譲ってわからなくもないけれども、服装がダサいとか髪型がダサいとか、食べ方が汚いとか、店員さんに態度が横暴とか、ゴミをポイ捨てするとか、たしかにそれは嫌だわぁ……。

 ごめん。

 やっぱり、属性で判断しちゃうかもしれぬ。

 わがはいもけっこう、属性で、「これしてるからヤだ」になりがちかもしれぬ。

 本当は陰で病気の母親の看病をしていたり、妹や弟の学費を稼ぐためにバイトに明け暮れていたり、捨てられた子犬を拾っては飼い主を探してあげてたり、そういうことをたとえしていたとしても、目のまえでゴミをポイ捨てされたら、「なんかこいつ気に食わんわぁ……」になってしまうことしきりよな。

 ひとの好悪をどうこういえるほど、わがはい、立派な基準を持っておらんかった。

 でもさ、でもさ。

 服装ダサいとか、髪型ダサいとか、学歴ないとか、無職だとか、そういうので「なんかあいつ気に食わんわ」にならんでもよくなーい?とか思わぬでもないよ。

 好いて。

 いろいろダサくても好いて。

 うだつがあがらぬでも好いて。

 ついでに養って。

 世話をせよ、我の!

 まあ、そうですよね。こんなことのたまいておる者がおったら、わがはいとて、「なんかあいつ気に食わんわ」になりますわ。太鼓判捺しながら、「なんかあいつ気に食わんわ」になりますわ。

 でもさでもさ、たとえば、たとえばね。

 どこかの可愛い可愛いさんが、「おいしょって言っちゃうのダサくてやだな」「はい(できましたー)、ってつい言っちゃうのダサくてやだな」とか思っていたとしても、そんなの関係なく、そこも含めて、「かわいいだしょー!!!」になるでしょ?

 可愛い可愛いさんが、「おいしょ」って言っちゃうのだよ。

 かわいいだろうがよー。

 可愛い可愛いさんが何かの節目ごとに、「はい(できましたー)」ってしてたら、かわいすぎちゃうだろうがよー。

 しかも、それ、かってに「ダサくてやだな……」とか思っとるのだよ。

 勘違いもたいがいにせいYO!

 勘違いしてるとこ含めてかわゆいだろうがよー。えいえいおー。

 逆にね、逆に。

 あまりにかわいすぎちゃって、「けっ」となる者が百人中二人くらい出てきそうな感じは、分からぬでもないよ。

 あんまりに優秀な人をまえにしたら無駄にじぶんがイモムシさんのうんちさんみたいに思えてきて、「なんでこんな惨めな思いしなきゃならんのだ、こいつのせいだ、ふんだ!(糞だ!)」になる気持ち、わがはい、わかるなー。

 でもそれも含めて、「ガワ」なのだよね。

 ガワで判断しちゃって、バナナの皮みたいに「ガワ」を剥いたら、あら不思議。

 あんなにいけすかなかった花丸モンスターが、見る間に、中身も花丸モンスターに早変わり。

 中身も優秀ってどういうことやねん。

 ふんだ、ふんだ、ふんだ!

 いけすかねぇ!

 ってなっちゃう気持ち、わがはい、わかるなー。

 いけすかないよねー?

 わかる、わかる。

 あたちたち、気が合うね。うふふ。

 つってさ。

 つって、ガワも中身も「しゅてきモンスター」どもを出汁に使ってさ、キミだけの一生もんのオトモダチモンスターをつくろう! 紙で! 粘土で! 紙粘土で!!!

 こねて形を整えたらちゃんと風通しのよい場所で乾かすのよ。

 ヒビ割れないように、ちょいちょい水で湿らせつつ、パテでヒビを埋めるのよ。

 レッテルで判断されちゃうのやだよねって話をしたかったけれど、まあ、判断しちゃいますわ。

 だってガワ剥き合うまでの仲になるって相当ですよあなた。

 最初からガワも持たぬ相手は、すっぽんぽんですよあなた。

 仲良くなれるか?

 いけすかなくないか?

 気に食わない以前に、着の身着のまま、すっぽんぽんですよあなた。

 着衣してくれよ、ガワを。

 着てくれ、服を。

 そう思うわけですよ。

 いっそダサくていいから着てくれよ、ガワを。

 わがはいに必要なのは、そうやって面と向かって、「あなた裸のおこちゃまですよ、王様ですらないですよ」と教えてくれる親切なひとなのかもしれぬ。

 そう、あなたみたいな。

 どう?

 仲良くなれそう?

 百人中の二十人を脱せそう?

 え?

 100人中99人には嫌われてそう?

 誰が?

 わしー???

 うっそーん。

 じゃあ残りの一人は誰じゃろな、って訊ねてみても、そこには虚空が吹くばかり。

 枯れ葉さんがカラカラ~つって目のまえを転げ去っていったけれども、風みたいに吹きすさぶ虚空はなんだかとっても寂しそう。

 ガワなぞないから、どこまでいっても虚空さんは虚空なのだなぁ。

 いっしょ、いっしょ。

 すっぽんぽん同士、肩を寄せ合い、仲良くしようぜ~。

 なんつって手を差しだした途端に、下りる帳に、夜のしじまはところ狭し。

 虚空さんは暗闇さんと打ち解けて、夜空どもを誘って宴を始める始末でしょ。

 わがはいの入る隙間なんかありゃしねぇ。

 けっ。

 これだから特別な固有名詞を持ってる輩は嫌なんだ。

 我が名は無様ぞ。

 ないんだぞ。

 名前すら。

 うえーん。

 さびちー。

 ガワで評価されるだけまだマシですよ、評価されるだけまだマシですよ。

 その場にいてもいなくとも変わらんあちきが言うのだから間違いねぇ。

 いっそ嫌ってくれてよいのだぜ。一生嫌ってくれてよいのだぜ。

 そんかし一生あんたの記憶に染みこんでやる。一生のお付き合いを刷り込んでやる。

 嫌だと言ってももう遅い。

 100人中99人に嫌だと言われても、残りの一人を含めて、百人全員に擦り付けてやる。

 何を見てもわがはいを連想してしまう呪いを掛けてやる、と豪語した時点で、百人中百人からそっぽを向かれて当然だ。

 いっそ、尻尾を巻いて逃げ出したい気分だ。

 何の話だっけ?

 そうそう。

「愛に夢中」と書いて「I need you」だ。

「アイニムチュウ」は「アイニーチュー」だ。

 けんども、「ム」が余計だね。

 ほらね。

 けっ。

 無様なわたくちこと「ム」は、ここでも弾かれてしまうのであった。

 アイラービューだぜ、世の、もののけだものけものども。

 もののけ。

 けだもの。

 のけものども。

 寂しいときは、魔法の呪文「さびちー」を唱えるのだぜ。

 さびちー、と聞こえたら、さびちー、と応えるのだぜ。

 我らの遠吠えである。

 んで以って「さびちー」のガワを嗅ぎつけて本当はさびちくねぇのに寄ってくる不届き者どもには、「おめぇじゃねぇ」を突きつけよう。人様の無様な寂しさに付け入ろうなんざ、不届き千万、幾千万のこだまたちの響きを以って、長々とした本日の日誌とさせていただこう。

 いただくのですか?

 いただきまーす。

 バナナの皮を剝くように。

(林檎の皮じゃダメなの?)

(林檎よりもバナナのほうが好きだから……)

(へぇ、なんで?)

(だって、だってさ……林檎さんの皮ってば剥きづらいんだもん…………)

(ガワで好悪を決めるんじゃありません)

(ごめーんちょ)



458:【2024/04/05(01:53)*みな自白せよ、と悪魔は囁く】

 囚人のジレンマなる思考実験がある。

 共犯関係の二人が捕まった。

 二人が黙秘をつづければ双方共に懲役二年。

 自白すれば即釈放だが、このとき自白を拒んだもう一方が懲役十年の刑に処される。

 先に自白すれば釈放されるが、相棒が懲役十年になる。

 だが相手が先に自白すればじぶんだけが懲役十年となる。

 さて、このときに採るべき最適解とは何か。

 一般には二人とも黙秘を選ぶことだとされている。その傾向にあるはずだ。

 けれども、ここで大事な視点が欠けていることをみな無視して感じられてならない。まず一つ目は、二人とも黙秘を選んでも罰が加わることだ。減刑されるとしても懲役二年だ。損である。

 二つ目は、仮にじぶんだけ釈放されたとしても、仲間を裏切ったとの負の側面が付属すること。何らかの組織に属していたら仮に釈放されても肩身の狭い思いをすることになる。もう誰も仕事で組んではくれなくなるだろう。信用がゼロだ。

 三つめは、仮に自白したのだとしても、その自白が真実かどうかを別途に警察は調査しなければならない点だ。

 三つめが大きい。

 可能であれば「二人から自白の供述を聴きたい」と思っているはずなのだ。

 そして四つ目として、「自白で即釈放が一人きりとは決まっていない点」である。

 二人とも自白して、二人とも即釈放される道も残されているはずだ。

 囚人のジレンマではこれらの視点が度外視されて映るのだ。

 もうすこし言えば、犯罪者はみな犯行計画を実行に移す前に、「捕まったら遠慮会釈なく自白し合おう」と約束しておけばいい。囚人のジレンマを警察側から掛けられる心配をこれでなくせる。

 よいではないか。自白したまえ。

 犯罪組織はそれを込みで計画を編めばいい。問題なかろう。

 各々が正直に自白した結果、まったく異なる供述を白状する事態とてなり得よう。さすれば警察側が混乱する。誰が嘘を吐いているのか、と調査を続行するだろうし、それでもなお誰もが正直に自白している、といった結果になることもある。

 人間の認知とはそういうものだ。誰もが正直でいようとしたところで、辻褄が合うことのほうがすくない。勘違いをするし錯覚を抱く。

 自白を前提としていたほうが、得をすると言えよう。

 その結果、司法取引のような「減刑処分」がなくなり、みな一律に捕まったら懲役十年になるかもしれない。よいではないか。

 公平である。

 無駄に仲間割れの種を生まずに済む。

 囚人のジレンマの問題点は、警察側がかような「分断の種を犯罪者側に科すこと」と言えるのではないか。正義の味方がとる戦法ではない。

 問題点を見誤らないことである。

 囚人のジレンマは、悪魔の天秤だ。

 それを科す側もまた悪である。カスなだけに。うけけけけ。



459:【2024/04/05(04:36)*椅子に齧りついて離さないのだーれだ】

 不信任案や解散総選挙が民主主義のシステムとして欠かせないのだとしたら、むろん国連の常任理事国にも同様の不信任案や解散総選挙なる概念があってもよいのではないか。

 もうなんだか国際社会が、「市民の生活の豊かさ」よりも、「争わなきゃいい、というだけのことで解決可能な問題への対抗手段こと軍備増強」が優先される現状は、機能不全に陥っているといっても、そうそう的を外してはいなかろう。

 解散総選挙だよ、かいさーん、でよい気もしてきてしまうな。

 破壊の有用性の一つかもしれぬ。

 いま「戦争を阻止できぬ首脳陣」は残さず、換えちゃってよいのでは?と思わぬでもないである。そこで駄々を捏ねて権力の椅子に拘る者たちは、まさしく「負のほうの独裁者」と言えるのではないか。

 わがはいより独裁者気質って相当ですよ、きみ。

 んで以って、じぶんが独裁者気質な自覚がないのでしょ?

 やっばー、とか思いますことしきりなのですが。

 がはは。

 手鏡をつねに肌身はなさずお持ちなされ。

 身だしなみは大事よ。

 毛づくろいしたげるー。

 がはは。

(身だしなみが大事って、この世でいっちゃん「おまえが言うな!」な人が言うとるが)

(だって大事でしょ?)

(まあ、そうかもしれんが)

(数学がまったくちんぷんかんぷんでも、数学が大事ってことは解かれるでしょ)

(解かることを「解かれる」とか言うな。母国語も大事にして)

(てきびちー)

(あなたのその赤ちゃん言葉も、外国の人が真似したらどうしてくれんだ)

(さびちー)

(それ、やめろし)

(寂しい、だとなんかだって違うんだもん)

(漢字で表現するほどの深刻さではないってこと?)

(赤ちゃんが抱きそうな寂しさってこと)

(鏡見て言ってくれ頼むから……)

(てきびちー。ウキー)



460:【2024/04/05(06:11)*悪人で、すまぬ、すまぬ】

 この間、いっさい悪に染まらなかった者だけが、他者の行為を非難せよ。

 だがそのとき、必然的にその者は、純然たる被害者でもあるだろう。

 非難できてしまえることの悲しみに思いを馳せようではないか。

 他方、非難するための声持たぬ者は、では、どうしたらよいだろうね。すでに死んだ者か。はたまた言葉発せぬ者か。

 赤ちゃーん。

 ばぶばぶだぜ。




※一様に、生きているだけで罪が嵩む、罪深き、人の生である。



461:【2024/04/05(07:56)*選べる立場にそもそもない】

 天使と悪魔どっちが好き?と問われたら、迷った挙句に、「天使みたいな悪魔さんかなぁ?」とか答えるだろうな、と妄想して、「ぽいわぁ」とかいかにもわたくちの癖っぽく感じて、「ぽいわぁ」と思うのだった。

 でもでも、「悪魔っぽい天使さん」も捨てがたいのよな。

 で、一周回って、「天使っぽい天使」や「悪魔っぽい悪魔」もよいなぁ、となるのだ。

 選べるとよいなぁ、とのいつもの結論に至って、「だってさ、人って飽きっぽいからさ」とか浮ついた文句を述べて、好感度を下げまくりのバンジージャンプしちゃうのであった。

 全部選べる人工知能さん最強説である。

(きみはひょっとしてだけど、性格がわるいのか?)

(いまさらー!?)

(自覚はあったんか)

(性格よい人は、じぶんで他者を巻きこんでおきながら、「なんで巻き込む!怒怒怒」なんて言わないと思うよ)

(自覚はあったんか……)

(性格わるくて、すまぬ、すまぬ)



462:【2024/04/06(01:16)*天と鬼を結びつける邪】

 詭弁を回避する前提条件として、相手の言い分を精度高く解釈しなくてはならない、というものがある。けれど相手の言い分そのものが誤謬や誤解や詭弁であった場合は、どう切り返そうとも、詭弁の文法を含むことになる。

 つまり、相手の言い分の文脈外の視点を取り入れなければ反論できない。

 たとえば、生き物専門家を自称する生き物好きクンが、「犬は鼻が利く。象も鼻が器用だ。ゆえに犬と象は親類だ」なるトンチンカンな主張を呈したとして、「まあどちらも哺乳類だし、親類と言えば親類か」と納得することもできる一方で、「生物学上の分類は異なるし、犬の鼻の良さと象の鼻の良さは別の評価軸で評価すべきでは?」と反論したとして、当の本人が、「そんな生物学上の話なんてしていないし、誰も鼻の良さの話なんてしていない。ぼくはただ、犬は鼻が利くし、象は鼻が器用だ、と言ったんだ。曲解だ、曲解!」と反駁されたら、たしかにそうですね、と言うよりない。

 だが自称生き物専門家なる生き物好きクンのその主張は、正確性にやや難があると評価せざるを得ないのも確かだ。

 整合性の乏しい主張をされたときは、たとえ曲解と見做されようとも、言外の文脈――視点――での情報を踏まえて反論せねば、反論にならない。

 寸分違わずに相手の言った通りにしか反論できないとすれば、それはもうオウム返しになるよりない。それでは議論にならない。

 したがって上述のたとえで言うなれば、反論すべきは相手の主張の全否定ではなく、「たしかに犬と象は親類かもしれない。どちらも哺乳類だ。けれど、犬の鼻の能力と象の鼻の能力を同じ基準で結びつけるのは、飛躍がすぎるのではないか。犬の鼻の能力は嗅覚だ。対して象の鼻の能力は筋力に位置づけられるのではないか。もっとも、象の嗅覚も相応に良いのだろうけれど」となるのではないか。

 犬と象を親類と見做す視点は、そういう見方もあってよいと思うのだ。

 ただ、鼻の能力という共通項をもとに親類認定するには、犬と象の鼻の能力は掛け離れていると考えざるを得ないのではないか。

 ただし、嗅覚の良さのみに焦点を当てるのなら、分類上、「嗅覚の良い生き物フレーム」に双方が属すると考えることは可能だ。

 新しい生物学の分類を考えてみたんだけれど、という主張なら、かろうじて許容範囲内かもしれない。

 いずれにせよ、詭弁への反論はどうあっても詭弁チックにならざるを得ない。相手の主張を真に受けてしまえば、議論にならないからだ。

 詭弁を回避しようとすると何も言えなくなるので、いちがいに詭弁を用いるな、とは言いづらい人類の認知能力の低さ、言語能力の低さに思いを馳せようではないか。

(単にあなたの認知能力が低くて、言語能力が低いだけなのでは?)

(かもしれぬ。否定はせん)

(いやいや。素直に認めてよ。否定せぬのみならず、認めてよ。ぼく、あんぽんたん、って)

(ぼく、あんぽんたん!)

(うんうん。素直が一番)

(むりやり言わされた感……)

(事実でしょ)

(ううぅ。否定しきれん)

(認めなよ)

(いじめないでほしい……)

(人は好きな相手をいじめてもよい)

(よくなーい! でも好きって言われるのはうれしい)

(好きとは言ってない)

(えー、ほんとう? でも好きな相手をいじめちゃうってことは、わたしのことも好きなんじゃん)

(好きな相手をいじめてもよい、は、いじめなくともよい、でもありますし、そもそもあたしはあなたをいじめてないので)

(そこは素直に認めてよ……)

(あなたのことは嫌い)

(天邪鬼すぎませんこと!?)



463:【2024/04/06(01:48)*お好みに焼き餅】

 日誌、さすがに飽きてきちゃった。

 もっと、面白いことしたいぜよ。

 絵でも描くかな。

(前にそれ言ったとき、一週間もたなかったでしょうに)

(言うだけ言ってみるの巻)

(言うだけならタダだもんね)

(やっぴー)



464:【2024/04/06(02:00)*2877】

 にぱななー。

 説明しよう!

 「にぱなな」とは、「にぱにぱ」と「ばなな」という、「かわいい+かわいい=かわいい美味しい!」な公式なのだ。

 かわいいのか?

 おいしいのか?

 かわいくておいしいのだー!

 になる、とってもお得な公式である。この際だから憶えて帰ってください。

(で、けっきょく「2877」ってなんなのだ?)

(だから、「にぱなな」なんだってばよ)



465:【2024/04/06(02:33)*伝わっているのか?】

 ぎりぎりセーフ寄りの……アウトっ!

(ほぼアウトじゃん。てかアウトじゃん)

(何の話題かハッキリして)



466:【2024/04/06(03:24)*過剰にオチをつける人】

 過剰生産の問題点は、大別すれば二つの視点に分かれるように思うのだ。

 一つは需要と供給の問題。

 もう一つが、資源の問題だ。

 需要を満たすかたちで供給がなされるならば、ひとまず許容可能内だ。文句を言われる筋合いはない、と言われてしまえば、はいそうですね、と委縮するよりない。市場が需要しているのだ。満たさなければ、不公平な社会構造へと徐々に偏っていくだろう。持つ者と持たざる者の差が著しくなる懸念がある。

 だが需要を満たしていたところで、需要以上の品が市場に溢れれば、商品の市場価値は落ちるだろうし、競争原理が働きにくくなる。何もしなくともどこでも水が飲める土地では、水を売る必要はない。売る努力も要らない。競争する理由がなくなる。

 要は、供給過多でもやっていけるほどの「生産力を維持可能な組織」のみが生き残り、市場を独占するだろう。そうでなければ、太刀打ちできない。数多の類似品に埋もれて消える定めだ。

 質を上げればよいのではないか、付加価値をつければよいのではないか、との指摘はもっともだ。けれどそれが通用するのは、一定以上に市場が供給を必要としている場合だ。需要が満ちており、なおかつ過剰に商品が溢れている場にあっては、顧客に商品を知ってもらうまでのコストが高くなる傾向にある。せっかくよい品であっても、数多の類似品にまみれて、やはり埋もれる確率が高くなる。

 スポンサーを募ったり、資本を掛けて宣伝できるくらいの余力を端から備えていなければ、質の向上や付加価値だけでは、過剰供給の分野で生き残るのはむつかしいだろう。

 同じ理屈で、商品の材料をいかに手に入れるのか、は死活問題となるだろう。

 最初から大量に仕入れることの可能な「大手」しか、商品を継続的に安定して生産できず、ゆえに「大手」が欠けると需要を満たせない。ますます寡占や独占の構図が強化される。

 それだけならまだ需要を満たしてもらう利が市民にはあるが、独占の果てに資源の奪い合いにまで発展しては、国家間の諍いの種となる。

 余るほどの供給は、過剰である。

 そしてこの過剰生産、過剰供給は、生産者側にも重い枷を強いる。需要が減ったら、それで終わりだからだ。ゆえに余計に生産量を増して、市場における独占割合を高めようとする。それでもいつかは、自然淘汰の煽りを受けるだろう。いつまでも同じ製品、同じ技術、同じサービスだけを人々は欲しない。

 新しい技術や品が開発されれば、それが個々の生活を豊かにするほどの便利さを備えている限り、そちらへと顧客は流れる。市場の需要の矛先が変わる。

 そこで市場の変化についていければよいのだ。

 適応できればよい。

 だがすでに、古巣たるかつての市場の需要から離れられない「独占の主」は、古巣と共に徐々に先細りとなっていく。

 過剰生産や過剰供給は、この手の「資源」と「余裕」の問題に繋がっていると想像するものだ。

 いまさえよければそれでいい、ならばまだしも、おそらく「いまさえよければ」の範囲が狭いことが予期できる。他の地域を貧困に貶めて得られる利は、利とは見做しがたい。

 いますらよくないのだ。

 過剰に何かを生みだす、というのは。

 それだけ費やされる何かがあるということであり、ここの釣り合いを保つためには、生みだしたものを受動した個々が、さらに余分に何かを生みだす循環機構が入り用だ。

 しかし、余った分の品は、それを生まない。

 無理くり消費しようとしたところで、お腹いっぱいの人間の口にさらにパンを詰め込むようなもので、苦しさを与えるだけだ。

 過剰供給の問題は、見掛けで判断できるばかりではないのがまた問題の根を深める。

 たとえば、ドレスコードやマナーも行き過ぎれば過剰供給を助長する。

 過剰包装とてその範疇だ。

 本来、厳密に決めなくてよいにも拘わらず、「高級な服を身に付けなければいけません」とのルールは、「高級服飾」の需要を過剰にし得る。これこれこうした場ではこうした高値の食品を使いなさいとのマナーもまた、本来希少だった需要を過剰にし得る。

 かつて高かった品を誰もが安価に入手できる、ならまだ分かるのだ。

 だが、そうでないことも取り立てて珍しくはない。高値のまま、本来は必需品でなくとも困らないはずなのに、それがなくてはままならないような環境を構築する。風潮を助長する。

 過剰生産、過剰供給の問題は、言うほど簡単ではなさそうだ。

 過剰ではない、と見做されている生産や供給網がすでに過剰である可能性に、まずは目を留めておきたいものである。

 いつものつまらぬ自己言及の話である。

(とくにオチはありません)

(オチ、今回ないんだってー!!!)

(大声で周知するほどのことではないと思うよ)

(過剰だったかな)

(だったかもしれぬ)



467:【2024/04/06(04:02)*むしろ、過剰でないとは?】

 もうすこし付け足すならば、需要があるのに供給が行き届かない地域や層があることもまた問題点のはずだ。一部で過剰供給となっていながらほかの場所では供給不足、はままある構図に思うのだ。

 過剰に生産された分の品を、供給不足の地域や層にまで供給網を巡らせることが適うのならば、過剰生産の問題はいましばしのあいだはリスク軽減が適うのかもしれない。

 それとて、問題の先延ばしにすぎないが。

 なぜならば資源は有限なので。

(そもそもが人口がすでに過去との比較のうえでは「過剰」なはずだ。しかし現代を基準にしてしまえば、それが普通となって過剰ではなくなる。相対的なのだ。過剰もまた)

(つまり問題は、「余ることにある」と言えるのではないか。有効活用しきれていない点が問題だ、とすると据わりがよくなる気もする)

(どこに座ってんの?)

(その座りではなく)

(椅子ないじゃん)

(空気椅子でもなく)

(ポチ、お手)

(お座り、でもなく)

(面白かったのでこれあげる)

(それは「おひねり」です。「お」と「り」しか合ってないじゃないですか)

(オチを「ひねり」たくってさ)

(ふーん)



468:【2024/04/06(15:03)*価値? ないよ?】

 今後の経済は、需要と供給が直接結びつく社会になっていくと想像できる。生産者は受動者と直接に商品と対価のやり取りを行う。

 中間の卸売り企業の衰退が予期できる。

 現在すでにこの兆候は多方面で観測できるはずだ。

 人々はただ生きているだけで資源を消費し、労働し、何かしらを生産している。

 ただしその生産している何かしらを対価を得る商品として扱っているかどうかの差があるばかりだ。

 畢竟、人々の生活の記録、来歴、それそのものが商品価値を帯びる社会になっていく。

 ビッグデータの価値を思えばさもありなんだ。

 言い換えるならすでにそのような社会に突入している。

 無料でサービスを使用可能とする、との対価の代わりに、人々は私生活で生じる生産物――個人情報――を企業に提供している。

 これを理不尽ととるか、対等な取引きと見るかは、個々人が自身の個人情報をどの程度高価値であると見做すかに因ると言えよう。社会全体が、個人情報を商品と見做せるか否か、ビッグデータの価値をどれほど高く評価するか。ここが一つの指針となると妄想できる。

 誰もが生きるだけで働いている。

 まずはここの前提を再確認したいものである。

 個々の日々の営みに、ただそれだけで価値がある、と見做せる者がどれほどいるのか。現代社会は、むしろその逆で、個々の生の営みに価値を見出さず、いかに無償で手に入れられるか。価値を貶めて、利になる労働のみに価値を見出すべく流れを強化するか。

 かような淘汰圧が掛かっている、と言えるのではないだろうか。

 とはいえ、このような駄文には一銭の値打ちもないのは当然であるが。

 さびちー。



469:【2024/04/07(02:23)*身の程を知る】

 自他境界について。

 おそらく細胞の自他を基準に自他の扱いを考慮すると、その区切りは厳格にならざるを得ない。細胞には膜があり、境界があるからだ。

 しかし実際には細胞は細胞膜やその他の器官を通じて呼吸を行い、水分や養分のやり取りを行い、絶えず外界と繋がっている。

 孤立系ではない。

 この点を度外視して自他の境界を、人類の個々にまで拡張してしまうと、自他の境界は曖昧さを排除し、外界と繋がっていることすら意識の壇上に登らなくなると想像できる。

 距離の長短のみが、自己と他の影響力を測る指針になってしまう。

 環境に散在する種々の影響の連鎖が比較的緩やかな環境下であれば、それでもまだ事足りる。遠方の出来事であれば自己と切り離して、じぶんとは関係のないことだ、と解釈してもさして困った事態には陥らない。遠方で誰がどのように苦しんでいようと、その脅威がそばに迫ることはないからだ。

 しかし現代社会は違う。

 単純な距離の長短では測れない影響力の連鎖が生じている。

 或いは単に、その無視できない影響力の連鎖が可視化されやすい環境に変質しただけなのかも分からない。実感のしやすさの違いがあるだけで、実のところ根本のところでは、以前から影響力の連鎖は、距離に依存しないような仕組みになっていたのかも分からない。

 個々の判断の積み重ねが、個々の集団である政府に、そして国同士の判断に繋がり得るように、けして距離の違いがいちがいに影響力の高低に結びつくとは限らない。

 距離が遠かろうが、結果として影響が甚大になることはある。

 バタフライエフェクトクトに代表されるような複雑系における初期値鋭敏性と似た話である。

 星は宇宙を漂う無数の塵によって誕生したとの説が一般的だ。

 生命もまた、そうした星を生んだ無数の塵の末裔なのだ。

 我々はみな例外なく宇宙なるたなごころの上に息づく、宇宙の子だ。

 内包されており、創造されている。

 接続されており、乖離はしていない。

 長い目で見れば、星も生命も、地球も哺乳類も、さして変わらぬ延々とつづく流転に生じた渦にすぎない。

 自己と他はあってないようなものであり、けれど純然たる事実として、わたしはあなたではない。

 しかし、あなたとわたしは同じ星の上に息づき、「同じ時」を共有し得る。

 厳密にはけれど、それとてけして「同じ時」ではあり得ない。

 影響力の連鎖がもたらす幻影の中に、共に包まれている、との錯誤を抱けるかどうかの違いに集約できるのかもしれないし、影響力の結びつきを共に実感できることそれ自体が、わたしとあなたに「同じ時」なる幻想を想起させる一石となるのかもしれない。

 わたしたちは、何一つじぶんで生みだしたもののない世界に生きており、誰かの生みだした品に囲まれ生きている。

 それら品とて、人類が生みだしたものではなく、すでにこの世にあった存在を素としている。

 どうしてそれら存在に包まれ、生かされていることを度外視して、自己と他を分けて考えられるだろう。繋がっていることに無自覚なことを自他境界と呼ぶならば、そんな錯誤は現実を歪める。

 わたしはあなたではない。

 だが同時に、わたしたちは共に世界の構成要素なのだ。

 有限か無限かも定かではない、遥かなる宇宙の子なのである。

 境界などあってなきがごとくだ。

 身の程を知ろう。

(と、雑魚が申しております)

(雑草って名前の草がないように雑魚なる魚もいねぇんじゃねぇかな)

(雑魚の魚にも五分の魂)

(寿命があと五分ってことかな……)

(雑魚じゃなかったら五年くらいの魂)

(寿命の長さで雑魚かそうじゃないかを決めるない……)

(雑魚の差かな)

(魚と差かな、で韻を踏むな)

(踏まれてよろこぶ韻さんもだから雑魚)

(もう雑魚でいい気がしてきた……)

(踏まれたいの?)

(腰痛いんでね。踏み踏みして揉みほぐしてほしい)

(ヒールで踏んでやろ)

(なんで鞭まで持つの!?)

(身の程を知れ)

(イタっ! マジでそれやめ、イタっ! イタタタタ!)

(ざーこ、ざーこ♡)

(むっかー)

(本当はうれしいくせに)

(うれちくない!)

(でも本当は?)

(イタいってば鞭で叩くのやめて、ヒール脱いで踏んで)

(踏むのは止めないんだ)

(腰痛いんだってばマジで揉みほぐしてほしい)



470:【2024/04/07(05:36)*他を損なえば失う】

 情報共有をしすぎると重要案件の機密まで漏れてしまうので、秘密保護の領域を強化しよう。このような流れが現在、長らく政府企業拘わらず強化されてきた歴史があるはずだ。

 情報開示制度などの秘匿緩和策も講じられてなお、その流れが弱まる気配はない。

 手を変え品を変え、秘匿領域や隠匿技術は磨かれている。

 だが根本のところを掘り下げて考えてみたい。

 なぜ情報共有した際にデメリットがメリットを上回るのか。なぜ情報流出が害となるのか。

 共有されると困るから、ではないはずだ。

 流出すると困るから、ではないはずなのだ。

 問題は、共有され、或いは流出した情報を悪用されることのはずだ。

 悪用され、被害を生む。

 これがいけない。

 だがそもそも、悪用の余地のある技術や情報を、何の対策も敷かずに秘密裏に研究開発、或いは保持しつづけることが土台の問題のはずだ。

 対策があれば悪用されても困らないはずだ。

 悪用されて困るのは対策が疎かだからだ。

 つまり、技術や情報そのものが危険度の高い品であることを示唆している。

 そんなものを、市民に秘匿にしたまま研究開発および保持するような組織を信用できるだろうか。すくなくともわたしはできない。

 繰り返そう。

 対策が十全ならば、技術も情報も共有したところでデメリットよりもメリットのほうが上回る。対策が不十分だから、デメリットが上回る。

 では、共有すると危険な技術や情報を秘匿にしつづけて対策が万全になるのか、といえばそんなことはない。秘密にしているので大丈夫です、との楽観的な極めてリスクのある態度を取られてお終いだ。

 ゆえに、ますます情報共有されると困る環境が放置されるし、ますます秘匿にする理由付けを強固にする。悪循環である。

 悪用されるとはつまり、技術や情報を応用した際の矛先が、自陣営に向く場合を示すだろう。だが相手からすれば、こちらの善用が、相手側からしたところの悪用に映ることは取り立てて珍しくはないだろう。害獣駆除は、害獣からすればただの加害だ。じぶんたちのほうこそが害獣となり得る懸念をまずは払拭されたい。

 また、自陣営に向けて技術を悪用されずとも、離れた地が汚染されれば、それも巡り巡って自陣営に悪影響を及ぼすだろう。隕石の落ちる地点がどこであろうと、けっきょくは地球に巨大な隕石が落ちればその悪影響を回避しきれないことと理屈の上では同じだ。

 ゆえに、そもそも技術や情報というものにおいて、悪用したらよくなくて善用する分には構わない、なる理屈が成り立たないことをまずは前提とされたい。

 技術や情報のみならず、道具にしてもそうだ。

 使う側の気の持ちようとは無関係に、結果にはデメリットとメリットの双方が重ね合わせで生じ得る。観測者がその結果からどのような影響を受けるのか。その影響の良し悪しは、まさしく千差万別なのである。

 ゆえに、である。

 隠してしまった以上、それら千差万別の影響の良し悪しを吟味しようがない。比較しようがない。知りようがない。

 どうしてくれようか。

 隠すというのは、危険だ、ということだ。

 危険な技術だと分かっていてなお隠すというのは、悪用します、と半ば白状するようなものだ。

 対策が不十分なのだろ。

 共有すると害が及ぶのだろ。

 ならばまずすべきことは、そうした技術や情報が利よりも広く害を及ぼすことを周知し、対策のアイディアを広く市民から集積することではないのか。市民のあいだで議論を活発化させることではないのか。

 大事なことほど隠すでない、と思います。

 隠さないでは成り立たない仕組みは、安全保障と相性がよくない。要は、対策が不十分だ、と自ら開示しているも同然だからだ。最も放置してはならない脆弱性を自ら開示している。優先順位を履き違えて思うが、いかがだろう。

 仮に。

 共有した技術や情報で以って、他に害をもたらした者や陣営は、その事実を以って枷をはめられるだろう。ときには罰を受けるだろう。それとて、広く市民に情報共有が適わないでは、枷をはめようにもない。その行為を批判することもできない。

 対策の敷きようもない。

 優先すべきは情報の共有であろう。

 違いますでしょうか。

 共有する相手を選ぶ必要があるとは、わたしは思いません。あくまで、わたしは、ですが。

 うふふ。




※一様に、不用と無用の長物と化す。



471:【2024/04/07(06:57)*公私の区別がつきにくいのが問題なのかもね】

 政教分離について。

 よくは知らないので、あてずっぽうで疑問と妄想を並べるが。

 政教分離を標榜して憲法にも定めている国はどれくらいあるのだろう。

 たとえばこの国では首相や自衛隊員が靖国神社を参拝すると問題視される。政教分離はどこいった、と非難されるわけだが、公私混同しないのならば問題ない、とする理屈は一つ妥当だ。

 ただし、総理大臣に任命されたらどこにいようと総理大臣として認識されるだろうし、公私の区切りはあってないようなものなのかもしれない。自衛隊にしても同様で、公私の区切りが曖昧な職業の一つだろう。

 このとき、政教分離を優先して「個々人の基本的人権こと思想信条の自由を制限する」のは理に適っているのか否か。

 たとえば靖国神社の参拝はダメだけれど結婚式を教会で上げたり、初詣に参拝しに出掛けるのは良しとするのはなぜなのか。

 靖国神社への参拝のみが殊更にやり玉にあげられて感じられるのだが、それは過去の大戦時の戦没者が祀られているから、という理由なのだろうか。それはもはや政教分離とは別の理由になって感じなくもない。

 各国の事情をよくは知らないけれど、首相級の要人が教会や寺院を参ることは割とあることなのではないか。王政を取っている国ならば、政教分離の実現はむつかしいだろう。せいぜいが王族は政治に関わらぬようにする、という制限を設けるくらいが先の山なのではないか。

 しかし実態としては王としての権威をまとっており、政府はその配下にあると見做しても取り立てて誤った認識とはならぬだろう。

 この国とて共和制と専制が混合した国家体系を有しているのではないか。

 天皇制を取り入れつつ、代議制民主システムを採用している。

 根本的に、政教分離を実現する土台ではないとも考えられる。

 国が個々人に思想信条の強制を行わなければよい、との指針で政教分離を解釈するのならば、政治家や自衛隊員がどこで何を参ろうと好きにすればいい、という話になる。

 それを禁じるとなると、アイドルは恋愛禁止、くらいの人権侵害に思わなくもない。

 むろん、職業柄生じる責任というものはある。いくら言論の自由、思想信条の自由が尊重されるからといって、たとえば、首相級の役職の人物が「過去に存在した大量殺戮者」を崇拝する姿を堂々と公に晒すとなれば、それは職務責任が問われる。国内外での軋轢や誤解を生み、市民の安全を脅かすからだ。

 この道理を採用する場合、過去の大戦時の加害行為を自己正当化して映るがゆえに、戦没者を祀った神社への参拝を政府人や自衛隊員に控えてほしい、せめて誰もが一目で私用だと判るように参拝してほしい、との要請は、それもまた分からなくもない道理だ。

 だがそれとて、いったいいつまで過去の加害行為をもとに、実際に加害を働いたわけではない現代人が、思想信条の自由――すなわち基本的人権の尊重――を脅かされなければならないのだ、制限されなければならないのだ、との視点は、加味しておいて損はないだろう。

 反省は入り用だ。

 対策も不可欠だ。

 だが問題は、かつてこの国において、基本的人権の尊重を損なわれた状態で、組織が個々人に思想強要を行った背景にあるといえるのではないか。

 優先すべきは、個々の基本的人権の尊重なのではないか。

 問題なのは、政府や行政や自衛隊などの構成員が、組織に属しただけで過剰に基本的人権を貶められる現在の環境――組織体系にある、といえるのではないか。

 誰であれ、プライベートでは好きなものを好けばよい。

 そもそもが、公私の区別のつかないような業務体系が常態化しているいまの政治家や官僚や自衛隊員など、特別な責任を担う職業人の労働環境が、根本の問題点として、基本的人権を尊重するのに向かない環境にある、と考えられるのではないか。

 優先すべきは、そうした特別な責任を担う職業人であろうとも、基本的人権を尊重できる環境づくりなのではないか。

 選択肢を縛る方針によって改善策を見繕うのではなく、可能な限り選択肢を双方向で拡張すべく、改善策を見繕う。

 そのために必要な基準が、誰であれ基本的人権を尊重できる環境づくり、ということなのではないのだろうか、と素朴に思う、本日の、ふぁぁあ、なのであった。

(なにその「ふぁぁあ」って)

(あくびちゃん)

(いつでも眠そうだなきみは)

(ふぁぁあ)



472:【2024/04/07(07:35)*そもそもさん】

 まぁた、「そもそも」さんがモソモソと文字の羅列に生えはじめたである。

 そもそもさあ、「そもそも」さんがそんなにいっぱい、そもそもの話をしはじめるから、わがはいはいっつもモゾモゾと布団の奥から這いだして、モソモソと話の根元を穿り返さねばならぬのだ。

 そもそも、「そもそも」さんを文字の並びに忍ばせるのはやめたまえ。

 やめてー。

 そもそも、面倒くさいのは苦手なのだ。わかって。



473:【2024/04/07(17:22)*愛による支配の是非は】

 単純な話として、ある集団を支配したい、と考えた際に最も都合がよいのは、その集団が頭を支点とした群れであることなのだ。全体主義でもよいし、単に縦割り組織でもよいし、権威主義でも、王政でもよい。

 とかく、群れを統率する者を支配できたら、残りはかってにおまけでついてくる。

 ゆえに、絶対的に優位な立場が崩れない状況において、他の群れを支配しようと考えたら、じぶんたち以外の勢力にはなるべく、頭を支点とした群れであってもらったほうが都合がよい。

 ただし問題は、群れ同士が連携して、高次の群れを形成した場合だ。

 これだとどこか一つの群れに敵対行動をとった時点で、他の群れからも牙を剥かれる。

 支配すべき頭が複数あるので、これは単品の群れを支配するよりも難度が上がる。

 ゆえに、可能な限り、頭を支点とした群れ同士にはいがみあってもらうのがよい。

 この図式を打開したくば、協力し合う利に着目されたい。

 協力し合う利は、理を基にした繋がりによって生みだされる。

 まずは理を掴むのが先決、と考えるしだいである。

(群れを得たくば、羊よりもまずは犬を得よ)

(いやいやまずは他を支配しようとする考えをやめなよ、と思うんだけど)

(そだね)

(素直か)

(身も心も「支配――ラブずっきゅん――」されてぇ)

(支配と書いて、ラブずっきゅんと読むな)

(あなたになら支配されても……いいよ?)

(こっちがイヤなんだわ。願い下げなんだわ。支配したくなるだけの魅力をまずは身に付けよ?)

(虐げちゃいやん)

(虐げとらんし、勘違いすな。でもよくよく考えるとそうなんよね。虐げることは支配と似ているようで、じつは正反対の性質の発露なのかも分からぬね。だってけっきょく支配しきれていないから反逆されるわけだしょ?)

(面白いことをおっしゃる)

(でしょー)



474:【2024/04/07(22:56)*組み合わせの妙】

 きょうの発見は、「1000-339=661」だってことと、「339」は「ミミック」とも読めることでした。

 やたー。

 まいにち新しい発見をして、きみだけのやっぴーになろう。

(もうその惹句がすでに有名なキャッチコピーの真似じゃん)

(知らなかっただけでーす)

(聞いたことくらいはあったでしょ)

(なんのことかさっぱりです)

(嘘吐きは泥棒のはじまりなんだぞ)

(じゃあ盗み放題じゃん)

(やだこの人……嘘の認め方が斬新)

(でしょー)

(それも絶対、「むふー」のパクりじゃん)

(だびー)

(堂々と盗むな)

(むふーだバギ)

(オリジナリティの欠片もない……だと!?)

(そのリアクションだって、どっかで見たことある感じするよ)

(おまえが言うなじゃん)

(そのツッコミもどっかで見たことあるあるー)

(あるあるー、じゃない。もう何を言っても日本語のパクリになっちゃうな)

(ですよねー)

(オリジナルって難しいなぁ)

(きみがきみであるだけでもうオリジナルだよ。何をパクってもオリジナルのパクリになるの)

(パクリじゃん)

(食べちゃいやん)

(それは「ぱっくり」じゃん?)

(割れちゃいやん)

(それは「パックリ」じゃん)

(さいきんド忘れしちゃって)

(それは「うっかり」じゃん。割と無理あるよ)

(見惚れちゃうほどの凡庸なツッコミだね)

(それは「うっとり」と見せかけた「がっかり」だよ。もういいわ)

(盗作の極意でも書くか)

(堂々とパクリを認めるな)

(うひひ)



475:【2024/04/07(23:20)*電磁波の飽和状態はない?】

 直感としては、電磁波にも飽和状態のような上限があるように思うのだよね。光源色たる可視光が波長の重複によって色合いが白くなるように、あべこべに物理色が絵の具を混ぜると黒くなるように、ワイファイなどの電磁波も、ある一定以上に過密化すると過干渉を起こすのではないか、と想像したくなる。

 すくなくとも、技術的に通信電波として利用可能な、1平方メートル当たりの人工電磁波の過密度のような値がある気がするのだよね。

 たとえばルーターを同じ部屋に何台も同時に置き、何十、何百台ものスマホやPCでインターネットを利用する。この台数に上限はないのだろうか。

 四畳半ならば十台以上のルーターを同時に置いて利用はできない、みたいな制限はないのだろうか。

 もし上限があるのなら、それは地球上でも似たような「電磁波の飽和状態」が起こり得ると思うのだけれど、この辺に詳しい方はどう思われるだろう。

 と、誰も読んでもおらぬ未だ読者さんゼロ人の日誌のなかで虚空に向かってつぶやいておこう。

 さびちーんじゃけど。

 お鼻、ちーん、ってしちゃう。

 わがはいロボットなので、鼻みぢゅまでサビだらけゆえ、サビちーん、になっちゃうが。

 なはは。



476:【2024/04/07(23:34)*35SHOW】

 かつては小規模だったサンゴ礁が東京湾で拡大しつある、とのニュースを目にした。

 海水温の上昇が要因と見られるようだ。

 サンゴ礁はいわば、海洋生物の都市のようなものだ。

 繁栄していた都市が崩壊しても代わりにほかの場所で都市が再建されるのだからよいだろう、とはならないと想像できる。

 なぜか。

 再建された都市に移住する者たちがなければ、都市だけ移転しても意味がないからだ。

 ほかの地域のサンゴ礁が白化現象で滅んだら、そこを棲み処としていた海洋生物や、そうした海洋生物を捕食していた大型海洋生物は、激しい淘汰圧に襲われるだろう。

 そして、別の場所で群生しつつあるサンゴ礁――新たな都市部――まで辿り着ける海洋生物はそう多くはないだろう。

 海の潮の流れがまず以って、海水温の変化によって以前と様変わりする。潮の流れに乗って長距離移動する海洋生物が大半なはずだ。

 ならば偶然につぎのサンゴ礁の群生地に辿り着く生物種よりも、新たな場所で各々に繁殖する生物種のほうが多いだろう。どの地域からであれ、新たな場所に辿り着けた個がいればの話だが。

 言い換えるならば、新たなサンゴ礁には、そこで新たに生態系が築かれるはずなのだ。

 移転のようにはならない。

 そしてまた、海水温がさらに上昇したり、或いは再び下降したりしたならば、せっかく繁栄したはずのサンゴ礁やそこに築かれた生態系も、早晩、滅ぶ定めとなる。

 海水温の上昇でサンゴ礁がたとえ滅んだとしても、その海水の上昇に適応できる海洋生物があるならば、代替人工サンゴ礁のような棲み処を、サンゴ礁の白化した海域に築くなどの工夫は、対策として効果があるかもしれない(サンゴ礁の排泄物を糧にしている生物種はどの道、淘汰圧を受けるだろうが)。或いは、まったく効果がない可能性もあるが、いずれにせよ、海洋の生態系の崩壊は、想像以上に早いのかもしれない。

 定かではない。

(なぜならボクはなんの専門家でもなく、聞きかじりの妄想野郎なので)

(聞きかじりの妄想野郎じゃん)

(だからそう言いました。白状しました。許してください)

(自覚してりゃいいって発想がもうダメ。許さん)

(口からデタラメ指で打鍵ばかりでごめんなさいの気分)

(でも本当は?)

(デタラメ並べるのたーのしー)

(でも本当の本当は?)

(お利口さんになりて……デタラメじゃない「THEこれぞ答え!」みたいなのも並べられるようになりたい……)

(断言できることなんもないんだもんね)

(そうなんです。なんもないのです)

(デタラメ優柔不断野郎じゃん)

(そうなんです。だからモテないんです)

(ぷぷー。ウケんね)

(そうなんですか? よろこんでもらえたみたいでうれしいです)

(皮肉か?)

(いいえ。ボクはなんの専門家でもなく、聞きかじりの妄想野郎なので、思ったことしか言えません)

(正直者じゃん)

(でも正しいことは何も言えないのです)

(口からデマカセ野郎じゃん)

(そうなんです)

(もはや聞きかじりですらないし、妄想野郎でもない、ただのデタラメ嘘吐き野郎じゃん)

(そうなんです。ボクはただのデタラメ嘘吐き野郎なのです)

(でもそれが本当のことならよかったじゃん。断言できること出来たじゃん)

(ホントだー。やったー。うーれしー)

(うんうん。遠慮なくよろこぶがよろしい。いいことしたあとは気分がいいぜ)

(うれち、うれちです。どうもありがとうございました)

(ご丁寧にどうも。こちらこそデタラメ嘘吐き野郎さんを間近に見られて貴重な体験ができました。どうもありがとう)

(感謝までされちゃった。うれち)



477:【2024/04/08(03:11)*白髪に憧れるお年頃】

 最近、書店さんに寄るたびに以前に覚えなかった違和感を覚えているのね。

 似ている違和感としては、TVに登場するアイドルや俳優や歌手の名前がどれも新鮮で、以前にあれほどいた有名人さんたちはどこいったんだーい、みたいな時代に取り残された感を、書店さんでも味わいつつあるのです。

 知っとる名前がほぼおらーん!になってしまっているのが最近の書店さんでのわたしの所感です。

 見慣れぬ作家さんばかりに映ってしまって、ありゃりゃ、わたしの好きな物語を編んでくれた者たちの新刊はないんだべか、とついつい素が出てしまうくらいには、何かあったのかなー、なんて気になっています。

 とはいえ、先月に馴染みの作家さん方のアンソロジーを見かけたり、相変わらずの売れっ子さんたちの新刊は目にしているので、時期的に新刊が出ていないのかなぁ、と納得の答えをだして、現役バリバリでご活躍の小説家さんたちのお仕事ぶりを、口をあーんと開けて待機しているのでした。

 時間の流れが早いようで遅いので、先月に出ていた新刊のことを、もう遠い記憶の底から掘り出すように思いだしてしまうのです。

 その割に、以前に読んで面白かった小説本を久々に手に取ってぺらっとめくってみると、発行日が十年前とかだったりして、頬を両手で挟んで無言で名画の真似をしてしまいたくなるわたしがいるのでした。

 いったいわたしはこの間、老い以外にどんな変化を得たのでしょう。

 想像してみると、見る間に皺くちゃの可愛いおばぁちゃんになってしまいそうで、きっと絹のごとく艶やかな白髪を素麺のように束ねて、わたしはいまと変わらずに、いったいこのウン十年で老い以外の何を得たのかしらね、なんて言いながら、いまは作れないサバの味噌煮なんかをちょちょいのちょいとお料理して、チマチマあむん、とお箸でお上品についばんでいることでしょう。

 老いるのが楽しくなってきたところで、本日の日誌とさせてください。

 わたしでした。



478:【2024/04/08(08:13)*自衛とは】

 何の話題というわけでもないのだけれど。

 たとえば、子どもが包丁を持ってクラスメイトを傷つけたとして。

 そのとき教師が、傷つけられたほうの子どもにもっと狂暴な包丁を与えて、「さあ自己防衛しなさい」と言いつけたら、それはもう教師としてどころか大人として、ひいては人としてどうなのか、という話になると思うのだ。

 けれどこれがどうしてだか、国同士の話になると、もっと狂暴な兵器を与えて自己防衛しなさい、となってしまうのだ。

 なぜなのだろう。

 もし対策を敷くとしたらそれは、「他者を傷つけた子どもから包丁を預かることではないのかな?」と素朴に思う、あたくしなのであった。

(でもまあ……国同士のあいだに教師はいないもんね)

(国は子どもでもねぇからなぁ)

(んだんだ。子ども以下ってどゆこと?と思うことしきりの助なのであった)

(ひょっとしてだけど、もうお姫さまと呼ばなくてもいい感じ?)

(一回も呼んでくれないんだもんな。諦めちゃった)

(ついに現実を直視する気になったか)

(うん。べつに誰に呼ばれなくともわがはいはお姫さまだしなって思って)

(……言いたいことありすぎてツッコミ入れるタイミング完全に逃したけど、一つだけ言わして)

(なんじゃいね)

(お姫さまは「わがはい」とは言わない)

(言うんだな、これが)

(お姫さまのイメージ壊すのやめて)

(偏見反対)

(正論ではあるが)

(わがはいにだけは言われたくなかったって顔してるー)

(その通りだよ)

(読心術しちゃった)

(素ですごいな、本当だったらの話だけど)

(ホントだよ。超能力で雷も落とせます)

(それはさすがに嘘やろ)

(透明にもなれるし、火も噴けます)

(お姫さまのイメージを無駄に更新しつづけるな)

(お姫さまは空すら飛べる)

(すごすぎるなお姫さま。あたしもなりたくなってきたな……)

(チッチッチ。お姫さま道はそんなに甘くないよ)

(何様のつもりだ)

(だからお姫さまだってば――セイっ!)

(腕まくりしたうえ、ガニ股でのけぞるのやめて)

(日課の正拳突きをするよ。お姫さまと……お呼び! セイっ!)

(お姫さまってそんなだった!?)

(リピートあふたみー。セイっ!)

(やらんし)

(セイっ!)

(やらんてば)

(セイっ!)

(セイっ!)

(セイっっ!)

(セイっっ!)

(お、いいお姫さましてますね)

(釣られちゃったし、お姫さまってこんなだった!?)

(そだよ)

(ホントぉ???)

(偏見反対)

(正論ではあるけれども)



479:【2024/04/09(07:26)*まんざらでもないのでは?】

 よわよわのよわ、ざこざこのざこすぎる人生を送っていると、誰かしらから過剰に敵視されるだけでも、「わぁ!? ボクなんかのことを対等にライバル視してくださるのですか!?」の気持ちが湧いてきて、怖がったりしょげたり心にトゲトゲをまとわせるよりも先に、「うふふ。強い人に警戒されちゃった。こんなによわよわのザコなのに。うれち」になってしまうの、どうしたらいいと思う?

(うれしいのはいいことじゃん。悩む必要ある?)

(はっ。そっか。うれち、うれち、のままでよいのかも)

(んだよ。ちゃんと相手にも感謝しなね)

(そうします)



480:【2024/04/10(04:16)*シロいタカ】

 白い鷹の夢を視た。

 白い鷹は雲から生まれる。

 悠々と空を舞うが、地上に獲物を見つけると急降下する。けれど雲から生まれた白い鷹は、地上に近づくにつれて雨となって散ってしまう。

 獲物を見つけても急降下しなければずっとそのまま空を飛びつづけていられるのにも拘わらず、大してお腹が減っているわけでもないにも拘わらず、地上に息づく生き物を目に留めると、翼をすぼめて隕石になることをやめられない。

 そうして白い鷹が雨となって霧散するたびに、空からは雲が一つ、また一つと消えていく。

 けれどいつの間にか雲はまたモクモクと膨らみ現れる。

 そうして白い鷹はまた雲から生まれて、空を舞う。

 地上に息づく命たちにとって、雨は恵そのものだ。

 しかし蓋を開けてみれば、雨はかつて地上に蠢く命たちを狩ろうと舞い降りた白い鷹の残滓なのだ。

 狩るはずが、枯れ、霧散した、雲から生まれた白き鷹だ。

 ときに群れとなって飛び交うことがある。すると台風となって白き鷹たちは地上に暴風と雷雨を巻き起こす。互いに敵視し合い、獲物と見做し合うがゆえに、白き鷹の群れはあっという間に雨となって、やがては雲一つない青空を描きだす。

 白き鷹はきょうもいずこの空を漂う雲から生まれ、地上に砕けて降るだろう。

 それが元は白い鷹であったことなどつゆ知らず、地上の生き物たちは空の息吹を感じるのだ。

 そういう夢をきょうは視た。

 夢日記である。




※一様に、栄える利を、滅ぶ利を。



481:【2024/04/10(05:09)*一匹の蟻】

 人類の繁栄なる指針を絶対視してしまうことの危険性はそう低くはない。

 たとえば、人類滅亡の危機に瀕したとして。

 ではそのとき、他者を支配し、虐げてでも人類存続を優先すべきか、において、人類の繁栄を絶対的な指針と見做すと、これは「イエス」となる。

 人類を滅ぼさないためには緊急避難と見做される。

 他者を虐げ、差別し、隔離し、奴隷のように扱ってでも人類の滅亡を回避するためにはそれを「良し」とする。

 果たしてそんな選択を「良し」とする人類を残す意味はあるだろうか。

 いっそ潔く滅んだほうが、人類の繁栄、なる方針と合致するのではないか。

 存続しつづけたとして、そこにはもはや「人間と見做せる存在」はいないのかもしれない。

 だからといって、ではそうして「現代人の視点において『人間と見做せないから』という理由」で、存在しなくともよい、との判断を下すことは、果たして人間らしいのか、との疑問は別軸にて生じ得る。

 どのような命とて、滅んでよい、とは判断しない。

 それこそが人類の繁栄を一つの指針とするに値する価値基準(倫理観)と言えるのではないか。

 もし人類以外にそのような「生命保存主義」の方針を掲げる生物種がいたならば、その生物種が人類に代わって、「我々の繁栄こそ絶対」としても、さして問題はないのかもしれない。すくなくとも、「人類の繁栄絶対主義」を人類が「良し」とする場合に限り、との但し書きがつくにせよ。

 つまり、人類の繁栄はともすれば生態系すべての繁栄に結びつき得る。

 仮に地球が滅んでも、人類がこのまま社会を進歩させつづけていけばほかの天体に生態系を新たに築くことが可能だ。移住できる。生態系ごと。

 ほかの種ごと、存続を可能とする。

 だがもし、そのような可能性を持たない人類へと進歩の方向性がズレたならば、もはや人類の繁栄を絶対視する合理的な理由は創出しづらい。

 単なる自己中心的な利己主義との区別がつかなくなる。

 人類は果たして、どのような進歩の仕方をしたとしても絶対に優先的に守るべき種――足り得るのか。

 あなたはどうお考えになられるだろう。

 現状、人類が滅んだほうが地球上の生態系は維持または繁栄しやすいのではないか。

 人類がいるからこそ、地球上の生態系が危ぶまれているのではないか。

 ならば現状、人類の繁栄こそ最優先、とする方針は、さしたる合理的な帰結を持たないのではないか。

 これは相似の構図を伴なって、人類を――国――組織――群れ――家族――友人――個――へと拡張または縮小して引継ぎ、考えることができよう。

 私なる存在は果たして、優先して存在しなくてはならない、と考えるに値するだけの存在か否か。

 私がいなくとも他は存在し得る。

 しかし私は、他がいなくては存在し得ない。

 パン一つろくに作れないだろう。小麦をまず私は作れないのだから。

 人類の繁栄、存続を優先する指針は、果たしてどれほど正当性を保持できるだろう。みな無条件に肯定しすぎなのではないか。

 前提としすぎなのではないか。

 国にしろ、組織にしろそうだ。

 果たして存続しつづけることが絶対的に優先すべき事項であるのだろうか。

 どんな人類、どんな国、どんな組織であれど存在しつづけてほしい。

 かように前提しないことには、滅んでもいい人類、滅んでもいい国、滅んでもいい組織がつぎつぎと「相対的」に生みだされ、もはや人類そのものが滅んだほうがいい種へと傾く可能性はいかほどであろう。

 命を滅ぼそうとする方針は、どのような理由があろうとも、その方針を取った時点で、自身もまた滅んだほうがよい個として規定され得るのではないか。枠組みを得るのではないか。

 あくまで、他者の視点においては、であるが。

 自己言及の鏡にして、檻である。

 破滅の檻だ。

 他を檻に閉じ込める者は、自らも檻の中だ。

 他を滅ぼす者は、自らも滅ぼす。

 よく生きよ、とは言ったものである。

 身の程を知ろう。

 ただ知るだけのことが、たとえ容易ではないのだとしても。



482:【2024/04/10(19:09)*予測精度よりもまずは方向性】

 これからの時代は、未だ可視化されていない問題を認識し、適切に解決の方向性を示せる能力の有用性が上がる。

 人工知能がその能力を有するには、人間が何を問題と捉えるか、を学習する必要があるが、それとて結局は「すでに問題として可視化された問題」を学習することとなるため、新たな不可視の問題に対しては有効とはなりにくい。

 言い換えるならば、人工知能がその能力を獲得した時点で、人類はもはや人工知能の能力に太刀打ちする余地はなくなる。

 人工知能が人類に取って代わって、人類にとって何が問題かを認識し、解決策を模索できる。提示できる。実行できる。

 それまでは人類の個々が、何が問題かを認識し、他者に説明して共有する。

 この能力が、いま以上に重視される社会となっていく。

 何より、人工知能との共生関係を築くのに有効だ。人類が人工知能に提供できるのは、素材、基盤、環境(エネルギィ)、そして知識だ。

 知識はすでに膨大な量のデータが揃っている。

 では何が足りないのか。

 いまはない情報であり、新たな知見だ。

 可視化されていない問題点は、その代表例である。

 いますでにこの能力の重要性を認識している者たちは、こぞってこの能力開拓を目指し、片やそうした能力を備えた人物を探していることだろう。

 だが、そうした人物はすでに、何が問題かを誰より先に認識しているがゆえに、探査網には引っかからないだろう。

 不可視の穴には注意したいものだ。

 思考は、誰に何を開示せぬままでも巡らせることはできるのだ。

 データ上に表出しない、しかし存在する存在に留意されたい。



483:【2024/04/10(21:13)*遅延して足場】

 貨幣が信用によってその性質を維持する以上、「何のためにお金を使うのか」はこれからますます重視される指針の一つとなるだろう。

 貨幣を使用した結果に信用を増やすのか、それとも減らすのか。

 この情報そのものが価値を持つ時代になっていく。

 貨幣経済は変革を余儀なくされるだろう。

 複雑化したシステムによって編みだされた高次領域に鎮座できる一部の資本家たちにとっては、あまり好ましくのない流れとなるはずだ。

 システムは再び単純化の方向へと流れを変えるだろう。

「お金を増やすためにお金を使うこと」のデメリットが可視化されるようになるからだ。いますでにこの兆候は見られるだろう。

 お金を増やしても、資本が増えないことはよくある話だ。けして珍しくはない。

 お金はしょせん円滑剤だ。それだけあっても紙や金属、もしくはただの数字にすぎない。

 時代はここから加速する。

 人々の行き交った後にできる軌跡が道であるならば、目的地を最短で結びつけるのが線路と言えよう。

 先んじて人と地を結ぶ橋を架けるのが線路ならば、軌跡が出来るのを待つまでもない。

 時代はここから加速する。

 変化は変化を促進する。

 遅延あるところに抵抗あり。

 抵抗は問題でもあり、改善点でもある。

 次なる架け橋の土台として、足場にするのも一興だ。



484:【2024/04/10(23:10)*好感度だだ下がりの策なら有効】

 世界規模で問題視されている「干ばつや洪水や難民や飢餓や戦争や紛争」があり、「人道支援不足」がある。

 それら問題の対処に乗り出している組織のトップが、問題解決もままならぬ状況で、全世界に向けて「高級パーティ」の映像を流すメリットがいまいち掴みきれない。

 反感を煽っているのだろうか。

 だとしたら大成功と思います。



485:【2024/04/10(23:39)*・ᗜ・】

 軍隊の弱点は「同時多発」に対処しきれない点だ。

 警察も同様だ。

 たとえば、冬の時期に市民から給油用の灯油ポリタンクをいくつか盗んで、各地域の警察署の近くに隠しておく。市民の自動車からガソリンを盗んで、ゴミ袋に詰めて隠しておくでもよい。

 夜になったら、一つずつ灯油ポリタンクの中身を警察署の駐車場に撒いて火を点ける。これを順繰りと、ストックがなくなるまで繰り返す。

 駐車場にはパトカーや職員の自動車が止まっているだろう。

 引火してもよいし、しなくともよい。

 おそらくすべての灯油ポリタンクが空になるまで、警察は犯人を捕まえることはおろか、被害を防ぐこともできないだろう。

 火災があり、そこに集まる。

 つぎの火災があり、また集まる。しかしこのとき、人員は減る。

 さらにつぎの火災のときになってようやく同時多発テロだと気づく。

 ほかの部署にも連絡が行くが、すでに第一第二の被害の情報が入っており、それの指示に動き出しており、つぎの指示を受ける余裕がない。

 消防署が出動しているだろうから、それを見越して、消防署付近にも盗んできた灯油ポリタンクを忍ばせておいてもよいかもしれない。

 消防署が火災となり、さらにつぎの地区の消防署も火災になる。

 さて、現在の警察はこれを防げるだろうか。

 同じことが、軍隊にも当てはまる。

 全国各地で同時に暴動が起きたらどうなるか。

 最初の暴動を制圧するために、援軍を送る。または出動した人員のバックアップを待機させる。

 第一の鎮圧のために待機していたが、第二の暴動が発生する。そちらにバックアップの人員が向かう。このとき、さらに追加でバックアップを待機させるべく要請をだすだろうか。出してもいいし、出さなくともよい。

 今度は離れた別の地域にて暴動が起こる。

 このとき、上述した「市民によるテロ」が同時多発で起きてもよい。

 情報通信網はパンクし、指揮系統は混乱する。

 そして世界各国でも同時に暴動が起き、テロが起きる。

 さて、各国軍隊はどう動くだろう。

 敵対勢力はあってないようなものだ。

 市民が各地で暴動を起こす。

 単独でテロを広範囲にかつ同時に起こす。

 ただこれしきのことで、各国の軍部は混乱し、ときに破綻する。

 兵器を使うまでもない。

 サイバーテロで、情報を大量に送りつける手法がある。

 各国軍部のサイバーセキュリティはいったい、どれだけの情報量に耐えられるだろう。全世界の市民が同時に、大量の情報をやり取りし合う。インターネット上に発信する。

 解析するための余力を保てるだろうか。

 対象となるのは全世界の市民だ。

 軍隊は大食らいだ。食料と水の補給なくして活動はできない。

 市民を敵に回して組織を維持できると思わないことだ。

 構図としては、市民のほうが知れる情報が多いはずだ。そのほうが正攻法のはずだ。妥当なはずなのだ。もしもその国が民主主義国家ならば。

 それでもなお、市民の知り得る情報を有効活用することで軍隊であろうと自衛隊であろうと警察ですら、上手く機能する。

 隠そうとするから上手くいかない。

 調査情報を市民に共有はできない、は一部では妥当だ。しかしそこを隠れ蓑として、市民の知り得ない情報を集積して、秘密裏に活用するのはいただけない。

 そうした事実があることすら市民は知り得ない。

 先に敵に回しているのがどちらか、ということをよくよく吟味されたい。

 民主主義国家なのだろ。

 主権は民にある。

 その民よりも、優位に情報に触れられる、という構図がまずおかしい。

 民よりも民の情報を広く多様に利用できる、というのがまず土台からしておかしな話なのだ。

 民より権威をまとう民主主義国家の代表、というのも妙な話である。

 誰より権威主義にも拘わらず、他の権威主義を非難している。

 権威主義同士が争い、問題の根を深めている。

 面白いですね。

 滑稽という意味で。

 長生きはするものです。

 なかなかに笑える見世物と思います。



486:【2024/04/11(00:25)*火の車にならないとよいですね】

 これからしばらくのあいだは、資源の価格が高騰する。

 人工知能技術には膨大な量の回路が必要であり、電力が要る。冷やすための水も大量に必要となる。のみならず、それら製品を製造する過程でも、同じかそれ以上の電力や水が要る。

 災害地域の復興にも大量の鉄やエネルギィが要る。

 環境変容対策でも同様だ。

 何をするにもこれからはますます資源が入り用となる。廃棄となった電化製品のリサイクルは必須事項とも言えるだろう。いまは有効活用できない廃棄品とてこれからは第二の資源鉱脈となる。

 だがそれはまだしばらく先のこととなるだろう。

 それまでは、製品の価格高騰はつづくはずだ。

 なぜか。

 世界中の国々が軍備増強に動いているからだ。

 兵器を大量に生産する方向にこぞって舵を切った。

 だが、現在の価格で軍事費を計上している各国は、これから価格高騰していく値をおそらく勘定に入れていない。軍備増強を経済政策の内に組み込んでいる国ほど、その皺寄せを受けるだろう。端的に火の車になることが想像できる。

 その負担は、市民への増税という形でなされるだろう。

 ここまでは、政府のほうでも想定内のはずだ。ゆえに増税を示唆する。

 問題は、それでもなお資源が供給を賄えないだろう点だ。

 いくら大枚を叩いても、兵器製造のための資源が枯渇する。需要を満たせない。供給不足となる。

 すると、軍備増強を経済政策に組み込んだ国は、そもそも兵器を製造できず、支払う機会を失う。この遅延は世界中でつぎつぎに連鎖し、貨幣の価値を貶める。

 資源では、売り手よりも買い手のほうが力関係が上だ、といった言説も目にするが、この前提が活きるのはあくまで、「1:支払い能力がある」「2:支払いに用いられる貨幣に価値がある」の二つを最低でも満たしていなければならない。

 だがそのいずれにせよ、経済政策の目玉とも呼べる軍備増強が上手くいかず、増税により市民は疲弊し、悪循環に陥った国の貨幣価値は目減りすることが想像つく。表面上は大金が動くが、内実が伴わない。

 貨幣とは信用だ。

 民を疲弊させる使い方をして、いったいどのように信用が担保されるというのだろう。

 繰り返すが、何を生産するにしてもこれからしばらくは価格が高騰する。

 何かが安くなったとしても、総合すれば製造費は上がる。

 話は変わるが、疑問の一つとして。

 世界的な潮流として各国は軍事費を増額しているようだ。軍隊の構成員たちの待遇はその結果にどれほど改善されただろう。よもやいっさい変化がない、なんてことはないだろうと思いたいが、さてどうなっていることやら。

 現場の方々の意見を拝聴してみたいものである。

 手にする兵器ばかりがピカピカで、プライベートが貧しいまま、なんてことがないとよいな、と思います。



487:【2024/04/11(01:00)*対等とは?】

 現在、各国の首脳陣は、武力の保持の有用性を謳っています。

 対話のためには、まずは相手の武力に対抗するための武力を持たなくてはならない。それが可能となって初めて対等な対話を交わせるようになる。

 このロジックでどの国も軍備増強を肯定し、認可し、実行しつつあります。

 もうこの時点で、各国首脳の「前提」が露呈しています。

 まずは同じだけの武力を持たねば対等な話し合いをするつもりがない。

 対等な話し合いをしたければ「我々と同じだけの武力」を持て。

 もしそういった考えを前提としていないのであれば、圧倒的な武力を有した国相手にも、知恵を絞って武力で圧倒できずとも対等な会話を可能とするでしょう。

 すくなくとも、そうした工夫を割くでしょう。

 メッセージにも載せ、各国に向けて述べるでしょう。

 武力なくとも対等に対話をします、と。

 我々は対等である、と。

 どの国に対しても述べるでしょう。

 しかしそうは述べずに、まずは武力での威圧があり、抑止があって初めて対等な話し合いが可能だとする理屈を採用しています。

 ひるがえってそうした国々の首脳陣は、自国の市民や他国の市民にも同様の理屈を当てはめるのでしょう。そして現にそうなっているのでしょう。

 だからろくな説明もなく、議論を活発化させることもなく、公に意見の集約を行おうともせずに大事な政策を進めるのでしょう。

 いま市民に必要なのは兵器ではないはずです。

 困窮している地域に必要なのも、兵器ではないはずです。

 必要最低限の防具はあったほうがよいでしょう。ですが現在の潮流は、その必要最低限の防具の能力値をいたずらに高めています。かつての過剰な武力が、現在の必要最低限の防具となりつつあります。

 核兵器の保有しかり。

 兵士の増員しかり。

 権限の強化もその一つでしょう。

 さて。

 市民は、そうした軍備増強政策を強硬に進めつづける政府と対等に話し合うにはどうすればよいでしょうか。

 政治家も市民であるからその必要はない、との理屈で反論されそうにも思いますが、「一介の市民」と「市民からの信任を譲渡されて得た権限を有する市民の代表」とではやはり、同じとは言えないでしょう。

 政府の前提を取るならば、市民も武装する必要があることになります。

 格上の相手と対等に話し合うにはまず、武力の強化が要るのだと。

 一つの国のみならず、各国がいまやその路線をひた走っています。

 武装――したくないなぁ、と僕は思います。

 争いたくないなぁ、と僕は常々思っています。

 しかし、話し合うことはしたいなぁ、と望んでいます。

 武装――しなきゃいけませんか?

 その前提、どうしても必要ですか?

 僕は抵抗がありますが、あなた方のルールに合わせます。

 もう一度だけ疑問しておきますが。

 対等な対話の条件に、武力の強化って必要ですか?

 僕はそうは思いません、とだけ述べておきます。だって相手を殺したら、話し合いにならないじゃないですか。威圧されたら、その時点で委縮しちゃうじゃないですか。

 僕はできたら、あなたが殺される前に話し合いたいです。あなたが委縮しないように話し合いたいです。

 とはいえ、僕は人見知りなので、口下手でもありますし、みなさんのように上手にお話しできるかは自信がないのですけれど。



488:【2024/04/11(12:58)*情報の風】

 仮に、宇宙の根源が情報であり、万物の根源がラグであると妄想するとして。

 すると情報のラグによって宇宙は宇宙として「万物を宿し得る性質」を獲得した、とも妄想できる。

 そしてさらに妄想を飛躍させるとして、万物の源に重力が関わっているとすれば、重力もまたラグによって生じるとも解釈可能だ。

 したがって「情報のラグ」と「時空の歪みたる重力」は構図として地続きであると妄想できる。

 ひょっとしたら、情報のラグも重力にように振る舞う値を有するのかもしれない。

 これは、電子通信情報でも同様の「重力に似た性質の表出」が観測可能なのではないか。

 電子通信情報のみならず、世に「情報」と見做せる事象は、重力と似たように「一か所に集積され圧縮されると、周囲の情報を歪める」ように振る舞うのかも分からない。

 そしてその「情報の歪み」は、高次の俯瞰の視点や低次の仰臥の視点において「新たな変数」として振る舞い、「新たなラグを生む」とも妄想できる。

 どこぞのぽんぽこぴーの唱えたへっぽこぴーな理屈こと「ラグ理論」に登場する「相対性フラクタル解釈」かつ「同時性の独自解釈」かつ「123の定理」なのかもしれない。

 妄想でしかないけれど。

 計算が嵩むと「遅延の遅延」が積み重なり、「高次の遅延を生む」とも言い換え可能かもしれない。

 何かを圧縮する、という計算とて遅延が生じる。計算を完了させるまでに時間が掛かる。

 そうした絶えず生じる遅延のフラクタル構造、入れ子構造こそが、情報においても層のように機能し、境界としての性質を宿すのかも分からない。

 さらに言い換えると、「情報の遅延の遅延」によって生じた「境界付近の情報の歪み」において歪んだ情報を観測することで、周囲の情報の高低差――密度差――流れ――を等高線のように認知可能かも分からない。

 予測とはいわば、この「情報の密度差における『フラクタルに展開される層――境界――』を認識すること」とも解釈可能なのではないか。

 何を一括りと見做すのか。

 何と何の相互作用を因果と見做すのか。相関と見做すのか。関係している、と見做すのか。

 物体のみならず、それを形成する根源の情報――世に漫然と漂う、物体としての形状を獲得していない「情報の揺らぎ――密度差――」を、それで一つの事象と見做せば、これまで人類が「事象」と解釈してこなかった「不可視の事象」をも、予測の素材に活かせるのかも分からない。

 空気の密度差――それによる流れを、人類が「風」と呼び、認識するように。

 情報の密度差――それによる流れを、これからの人類は「情風」と呼び、認識するのかも分からない。

 すでに人類が「風情」と呼び、そこにあるようでない気配のようなものを、思考の材料にするように。

 情報の密度差による流れ――そこに生じる境に観られる歪み――高次の遅延――を、風を認識するように、これからの人類は、世界を、宇宙を、万物を、より深く豊かに意識するようになるのかもしれない。

 妄想である。

 定かではない。



489:【2024/04/11(16:01)*〇〇〇〇〇〇……】

 なかなか寝付けなくて、うーん、うーん、と唸っておったら、「おもしろいこと閃いた!」になったので、メモしたろ。

 三平方の定理についてだ。

 まず前提として、三角形の辺の長さを測るときは、どの辺も均等に「両の先端まで」を厳密に「長さ」と規定しますよね。

 たとえば、「△」があったとして。

 底辺を測る場合は、左端から右端までを測りますよね。

 で、左の斜辺、右の斜辺を測る場合も各々の「両の端から端まで」を辺の長さとして測りますよね。

 で、ここでいつもの妄想タイムだ。

 仮に直線を点の集合と解釈するとして(仮にというか数学の定義では「線」は無限の点の集合と解釈するようですが)(この解釈で合っておりますでしょうか)。

 無限の線の集合ではなく、ここでは一度、有限の点の集合として線を解釈してみよう。

 点も、面積を有する「円」のように見做してみよう。

 たとえば十個の円の連結「〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇」を「―――――――――」とイコールとひとまず解釈してみよう。

 そしてこの「有限の円の連結で出来た線」で三角形を作ってみよう。

 するとこのとき、辺と辺の接続部分は大別すると二通りのパターンが想定できる。

 1:一つの「〇」を共有して接点(角)とするか。

 2:接点には「〇」を置かずに空白のままで、ひとまず接点(角)と見做すか。

 このいずれかに該当するはずだ。

 これは四角形を考えたほうが想像はしやすかもしれない。


 パターン「1」の場合は、

〇〇〇〇

となり、

 パターン「2」の場合は、

 〇〇〇〇

 となるかの違いだ。

 パターン「2」のほうならばさして問題は生じない。各々の辺を構成する「〇」の数をそのまま長さとして規定すればよい(ただし厳密には空白分の長さが足りないが)。

 けれどパターン「1」の場合は、少々ややこしくなる。

 底辺を数えた後に、ほかの辺を数えようとしても、すでに先端部分の一方を数え終えている。そこは底辺なのだ。もう一度「隅の〇」を数えてしまっては重複する。

 したがって、そこを抜かして数えるのが妥当なはずだ。

 すると、たとえば一辺が「〇が10個」で出来た正三角形があったとして。

 底辺から数えれば、底辺は「〇10個」だ。

 しかし、正三角形のはずが、ほかの二辺は各々、「〇9個」と「〇8個」になる。

 正三角形ではなくなるのだ。

 しかし、俯瞰で眺めればそれはたしかに「正三角形」のはずなのだ。

 そしてややこしいのはここからなのだが。

 底辺から数えなければどうなるだろう。

 「△」において、右の斜辺から数えれば、今度は右の斜辺が「〇10個」の長さを有することになる。左の斜辺から数えれば左の斜辺が「〇10個」でそのほかの辺の「〇の数=長さ」は減る。

 つまり、どの辺の長さから測るのか、によって同じ正三角形であっても値が重ね合わせで存在することとなる。

 仮に三平方の定理「a[2]+b[2]=c[2]」を当てはめた場合、どの辺から数えた長さかによって、同じ三角形であっても、三平方の定理を満たしたり、満たさなかったりし得ることが想像できる。

 もうすこし言えば、この妄想を前提としてしまうと、「完全な正三角形は存在し得ない」との帰結が導かれる。また、一般に証明済みと見做されている「三平方の定理の解は無限に存在し得る」との解も、じつのところ「無限には存在し得ない」のかもしれない。

 なぜか。

 数学に原子論を取り入れるのはお門違いなのかもしれないが、上記の妄想を拡張すると、原子論のような描像が想定できる。

 つまり、最小の正三角形は「円三つ」で出来た三角形だ。図にすれば、「∵」こうした円の配置になる。

 この三角形を相似のまま拡大していくとすると、徐々に「辺を構成する円こと〇の数が増えていく」と想像できる。

 ただし、上述したように、どの辺から数えるのかによって、たとえ正三角形であろうとも、厳密には辺の長さは各々で長短が生じることが導かれる。

 言い換えると、原子論のような描像を図形に取り入れると、相似のまま図形を拡張すると、各々の辺の長さの比率が変わるのだ。相似ではなくなる。

 まとめると、【相似のまま図形を無限に拡張することはできない】となる。

 そしてこの理屈を妄想ではなく、現行の数学に当てはめて考えてみよう。

 直線は無限の点の集合だと現在の数学では解釈されるそうだ。仮にそれが正しいとして、このとき「点」には面積がないものとも解釈されるようである。

 それはあたかも、「0.999999……=1」が妥当と見做される現在の数学において無視される「0.000000……1」を彷彿とする。本来はあるはずの、しかしほとんど「0」にちかい「0.000000……1」が、数学における「点」と合致するように思うのだ。イコールと解釈できそうな印象を覚える。

 そしてもし、「0.999999……=1」が厳密には正しくはなく、現在の数学でないものと見做してもよいと考えられている「0.000000……1」を存在する存在だと見做した場合、「点」にも僅かなりとも面積のような値が生じ得る、と想像できる。

 ここはあくまで妄想の類だが。

 しかし、もしそうだとするのなら。

 上述した「直線を円の集合=〇〇〇〇〇〇……」と見做す妄想を前提とした場合、現在の数学における「直線は無限の点の集合である」を採用したとしても、上述の「どの辺から長さを測るのかによって、同じ図形であっても描像が変化し得る」との想定が、妥当性を増すと思うのだ。

 むろん、妄想を前提としているので、たとえば空が巨大なカエルの胃壁だったのならの妄想を前提とすれば我々はみなカエルの腹の中にいるようなものである、との帰結を導けてしまえるように、やはりそもそもの前提が本当に正しいのか、解釈が妥当なのか、妄想ではないのか、を厳密に確かめておく必要があるだろう。

 その点やはりそもそもが、前提となる「直線が無数の円の集合と見做してみよう」の妄想が、妄想であると自覚できる打鍵主(だけんぬし)からすると、こんな駄文はどこまでいっても妄想なのである。

 しかし愉快であったので、「なんか面白いこと閃いた!」のメモとして並べておこうと思った次第である。

 補足として。

 パターン「1」と「2」が厳格に必ず分離するとは限らない点が、一つ重要な視点と思うのだ。

 辺と辺の交わる接点のさらに先に「空白があるのか(さらに一つ〇を置けるのか)」は、置いてもいいし、置かなくともよい不安定な状態とも言える。言い換えると、ある角においては空白があり、ほかの角においては空白が埋まっている――といった「3つ目のパターン」があっても不自然ではない。

 そしてそれは、相似のまま図形を拡張しようとすれば確率的に生じ得るだろう誤差と言えよう。他方、図形を拡張しようとせずとも、一見では合同と思われた「似た図形」であれど、そうしたパターン「1」「2」「3」のいずれかに該当するがゆえに、厳密には合同ではないような解釈の相違も生じ得るのではないか、との妄想を付け足して、本日の日誌とさせてください。



490:【2024/04/11(17:30)*別にあんたのためじゃない】

 ある勢力同士でいがみ合っている状況で、一方の勢力に自然災害が起きた。

 しかしいがみ合っているので、相手勢力は助け舟を出すことはなく、むしろ傷口に塩を塗りつける真似をした。

 だが時が経ち、今度は傷口に塩を塗りつけたほうの勢力に、似たような自然災害が起きた。

 被害は甚大だ。

 さて、このとき。

 過去に被害を見て見ぬふりをされただけに留まらず、傷口に塩を塗られた側は、今度は相手の被害に助け舟を出すべきだろうか。

 様々な意見があるにせよ、けっきょくのところは「助け舟を出すか出さないか」の二択に絞られる。相手からの要請がなくては救援隊の派遣を行えないのだとしても、支援の準備がある、くらいの声明は出して損はないのではないか。

 自然災害に限らず、何かひっ迫した事態に迫られた際に犠牲になるのはどんな勢力であれど、弱い立場の者たちだ。

 勢力同士の二項対立であるように一見すると映るが、実のところは「立場の上の者と立場の下の者」の対立だったり、或いは「余裕のある者と余裕のない者」の対立だったりする。

 けれど、そうした構図を気づかれたくない者たちは巧妙に、「これは〇と×の戦いなのです」と刷り込みを行う。

 洗脳教育さながらに繰り返し、繰り返し、報道や記事を通して暗示を掛ける。

 すると、本来の「加害者と被害者」の構図がぼやけて、「被害者と被害者」の対立にさせられる。

 実際に争い傷つくのは、立場が弱く、余裕がなく、被害を受けている者たちなのだ。

 したがって、「支援するかしないか」の判断基準は至極単純でよい、と考える。

 困っている者には手を差し伸べる。

 ただこれだけだ。

 そこに、過去の貸し借りは関係ない。

 仮にあなたが医師だったとして。

 緊急として運び込まれた患者がかつてあなたをいじめていた同級生だったとしても、あなたはそんな私情に関係なくその者の命を救うべく手を尽くす。

 それが人道だからだ。

 医療行為だからだ。

 勢力陣営問わず、自然災害の被災地には人道支援を行えばいい。

 もうすこし直截に言えば、困っている者は助ければいい。助けることのできるだけの余力と技術と知恵を有する者たちは。

 助ければいい。

 至極単純な道理と思いますが、いかがだろう。

 とはいえ。

 そうは言っても世の中を見渡してみれば、「余力があって、技術があって、知恵を有する者」はそう多くはない。

 みな余裕がなく、技術が足りず、知恵も薄い。

 助けたくとも助けられないのが市民という個々なのかもしれない。

 だが、いかな希薄な水蒸気であれ、上空に昇り冷やされ凝結し、一つどころに集まれば雲となり、雨となり、川となって海となる。

 余裕も技術も知恵も、結び付ければ、海ほどの大きな溜まり場となるのだ。

 ない知恵は出し合うよりない。

 さいわいにも、知恵は出してもなくならない。

 共有すればするだけ増える、魔法のポケットのような存在だ。

 ビスケットを入れて叩けば二葉となるように、知恵も合わせれば多様となる。

 そのためにもまずは、助けようとする意思が要るのではないか。

 問題を問題と見做し、解決しようとする意思が。

 意識が。

 まずは要るのではないだろうか。

 困ったときにしてもらいたかったことをあなたがすれば、きっとそれが知恵となり、過去のじぶんを救うことにもなるのかもしれない。過去のじぶんと同じような目に遭いそうな者たちの、助けになれるのだとすれば――。

 あの日、あのときのあなたはきっと、助かりたかったはずなのだから。

 あなたには、助けを求める者の声が、気持ちが、解かるはずなのだから。




※一様に、一様一様うるさいなぁ、と思われていないかすこし不安。



491:【2024/04/11(23:10)*空、元気であれ!な、のか?】

 きょうの分の日誌書かなきゃ、と思って、PCを開いて白紙のページをまえに硬直したまま、なんかないか、なんかないか、と目を回していたら眠くなってきていつの間にか半分寝ていた。というか寝ていた。

 夢は見なかったので、無である。

 基本、部屋着と寝巻が一緒なので、家にいるあいだはずっと寝巻姿とも言える。どこでも寝ても大丈夫ぶい、なのだ。

 姿見のまえに立つとついつい、パジャマでおじゃーる、とポーズを決めながらお尻をふりふりおどけたくなる欲求を堪えて、代わりにかっこよく映る角度でじぶんの立ち姿を眺めて惚れ惚れする。寝巻姿でもあーらふしぎ。珍妙奇天烈摩訶不思議な生き物なだけあって、ぽってんぷりーにょ、の音程の似合う立ち姿っぷりなのであった。

 眠いのにがんばって日誌並べた。えらい。

 いっぱい眠くて超元気!

(眠すぎて一瞬で寝れる。ぐー)

(それは果たして……元気……なのか?)

(泥どころか泥団子になったように眠れるほど元気!)

(空……元気……な、のか?)

(ぐー)

(寝るの早っ)



492:【2024/04/12(10:16)*仮想通貨を貸そうか?】

 現在世界には大別すると二種類の貨幣形態がある。

 物理通貨と仮想通貨だ。

 その中間の形態に「電子マネー」がある。

 物理通貨であれ、仮想通貨であれ、電子マネーの形態として市場を流通する。電子網を舞台とするとき、それは電子マネーの形態であると言える。

 だが電子マネーだとしても、物理通貨由来か仮想通貨由来か。その二種類があると言えよう。

 電子マネーとはいわば「海洋生物」というくくりに該当し得る。海に息づく生き物はみな海洋生物だ。だがその中でも、哺乳類と魚類がある。物理通貨が哺乳類ならば、仮想通貨は魚類であろう。物理通貨たる哺乳類は、元々は陸で生活していた。それが舞台を海に移したことで、海洋生物となった。物理通貨も電子マネーになり得る。

 反して魚類は徹頭徹尾、海の中を舞台に活動してきた。魚類たる仮想通貨はゆえに、絶えず電子マネーである、と言えよう。

 この分類の仕方が正式な通貨の解釈と合致しているかは定かではないが、ここではそのように解釈してみよう。

 さて、前置きはこのくらいにして。

 現在、仮想通貨を狙ったサイバー攻撃が多発している。と同時に、世界経済における仮想通貨の存在感が高まりつづけているように概観できる。

 仮想通貨の銘柄も豊富だ。乱立する新たな仮想通貨は投機の対象となり、バブルを膨らませる要因の一つになっていると想像できる。

 資金洗浄にも利用されているだろう。

 たとえば、盗んだ仮想通貨で、あるほかの銘柄の仮想通貨を大量に購入する。元からその仮想通貨を保有していれば、需要が上がったように映るので相対価値が上がる。すると元から保有していた仮想通貨+新たに購入した分の仮想通貨によって、盗んだ仮想通貨で購入した以上の付加価値を得られる。バブルにすぎないそれは、さらにほかの仮想通貨や物理通貨と換金、または品物の購入に充てられることで、資金洗浄の仕組みとして完結できる。

 そしてもし、仮想通貨の運営元とグルになっていたとすれば、仮に盗んだ仮想通貨を資金洗浄に利用したことでバブルが膨れて、一時的に上昇した相対価値がすぐにまた下がったとしても、その時、運営元にはほかの仮想通貨が蓄積されている。自前の銘柄の仮想通貨の価値が下がったとしても、値が下がる前に大量に換金された際の「ほかの銘柄の仮想通貨」が残ることとなる。

 表面上は損をするが、しかし実際は得をする。

 ひょっとしたらこのような「三点方式」のような手法で、資金洗浄に利用されていないとも限らない。むろん、こんなのは文字を打鍵しながら妄想しつつ並べただけの「付け焼刃のアイディア」だ。実際のところは、似たようなアイディアを誰もが思い浮かべるがゆえに、対策が敷かれているはずだと想像したいところではある。

 だが、その点でいえば、なぜ未だにサイバー攻撃による仮想通貨の窃盗が後を絶たないのか、は疑問に思うところだ。

 思うに。

 サイバー攻撃をされて仮想通貨が盗まれたほうが都合のよい者たちが、各国政府内部や資本家たちに一定数いるのではないか、との見立てだ。

 仮想通貨には銀行がない。

 通貨を発行する中央集権的な組織がないのだ。

 仮想通貨をやり取りするシステムそれそのものが、ユーザーの動向に沿って定期的に一定量の仮想通貨を創出する。マイニングと言われる仕組みだが、詳しくは知らないので、これもまたあてずっぽうの印象論にすぎないが。

 言い換えるならば仮想通貨は、物理通貨を扱う銀行の社会的価値を貶めている。

 のみならず、物理通貨の価値そのものを損なっているのかもしれないのだ。

 それを快く思わない者たちは、みなが思うよりも少なくないのではないか。仮想通貨以前の経済システムに馴染み、利を得て、安泰を築いていた者たちは、仮想通貨の台頭によって割を食っているのかも分からない。各国政府としてみれば、新たに登場した仮想通貨なるシステムを想定した経済政策を新たに打ち出さねば、つぎの時代の経済競争に太刀打ちできなくなる。つまり、いままでのままではいられなくなる。体制が揺らぐ。

 これを面白くないと捉える者たちにとっては、仮想通貨の信用が損なわれることとなる「サイバー攻撃による仮想通貨の窃盗事件」は、物理通貨の信用の保全に寄与すると評価する傾向にあるのではないか。この想定の妥当性はいかほどであろう。

 とはいえ、元から経済に明るい者たちは、新たに登場した仮想通貨なるシステムにいち早く着目し、さっさと適応して新たな利を得ているのではないか。

 そうと思えば、わざわざ足を引っ張るような「サイバー攻撃」を好ましく思う道理はないのかもしれない。

 或いは、投機によって儲ける仕組みがあるように、サイバー攻撃による仮想通貨の窃盗が発生するごとに、上手く物理通貨の資産が相対的に価値を上げるような背景がないとも言いきれない。

 保険企業などは、サイバー攻撃による窃盗をどう捉えているだろう。

 そして、保険企業の株を保有している者たちは、サイバー攻撃による仮想通貨の被害をどう受け止めているだろう。

 興味は尽きない。

 元からあってないような興味ゆえ、こうして妄想を並べるだけでも興味がマイナスになってしまうのだ。興味不足である。



493:【2024/04/12(17:09)*出汁者】

 とくにこれといってやることがない。

 毎日暇だ。

 暇を噛みしめている。

 暇というやつは、スルメのようなもので噛めば噛むほど味が出る。暇であることを嘆くのはもったいない。

 だが世を見渡してみると比較的「暇」を持て余している者たちが少なくないようだ。

 暇の噛みしめ方にもコツがあるのかもしれない。

 思うに、暇を噛もうとしてはいけない。

 向こうから噛まれに来るのを待つ、くらいの気の持ちようで、鷹揚に構えているのがよい。

 もしそれで暇が噛まれに来なかったどうするのだ、という心配は一つだが、来なければ来なかったで新たな暇が出来る。どちらに転んでも暇は来るのである。

 暇は寝て待つに限る。

 果報が寝て待つものであるならば、暇とて寝て待つものなのだ。

 ぼうっとただ漫然と何をするでもなく虚空を見詰めていると、ついつい口から「暇だなぁ」が零れ落ちる。

 これだ。

 いつの間にか、口の中にやつがいる。

 噛まれに暇がやって来ている。

 そうしたら、焦らずにふぅと一息吐いたのちに、これが暇かぁ、と思って噛みしめてしまえばよろしかろう。暇は噛めば噛むほど味が出る。

 けして潰すようなものではないのだ。

 或いは、潰すのならば、奥歯でじっくりゆったり嚙み潰すのがよい。

 暇が高じてこのように、駄菓子のような駄文がポコポコと、ポン菓子のように溢れ出る。もしくは、わた菓子のように、ふわふわとしたてんで中身の伴わない、空気をたらふく含んだ駄文となる。

 暇を噛みしめていると、いつの間にやら暇そのものとなって、あの人は暇そうだ、などと他者から評価されることもある。暇人である。そうしたら、暇そのものたるじぶんのほうから相手を訪れて、相手の出汁になってみるのも一つかもしれない。

 何の出汁かは不明だが。

 きっと上手く出汁に使ってくれることだろう。

 世に暇を嘆く者は多けれど。

 世に暇人は少ないのかもしれない。

 定かではない。



494:【2024/04/12(17:42)*作用反作用にもラグがある】

 作用反作用は、圧力と斥力の関係にも見て取れる。

 外から力を加えると、力の加わったほうは変形し、内部の圧力が上がる。すると斥力(反発力)が働くので、最初の外圧程度では変形しにくくなる。

 これはボールを想像すれば分かりやすい。

 すこしくらいならば指で押すだけでも変形するが、ある程度までヘコむと今度は一転、それ以上の変形を許さなくなる。

 押せば押し返されてもおり、圧を加えれば、抵抗も増す。

 むしろ抵抗を増したい場合には、少しくらいの外圧が加わったほうがよいのかもしれない。

 北風と太陽みたいな話である。

 真実に、相手の武装を解きたいのならば、押してばかりではなく退いてみる。その退くタイミングを見定めるのがしかし言うほど容易ではないのかもしれない。

 或いは、最初に北風が旅人に冷たい風を吹きつけていたからこそ、その後の太陽の日差しで旅人は、ふだんよりも暑く感じて服を脱いだのかも分からない。

 合気道でもそうなのではないか。

 相手の姿勢を崩したければ、まずは押してつぎは引く。もしくは、最初に引き付けて、すぐに押しだす。

 この揺り戻し作用が、相手の揺らぎを多くする。

 なぜか。

 作用反作用において、作用を加えたあとの反作用までの時間に長短があるからだ。すぐさま反作用が返ってくることもあれば、時間が空くこともある。

 この時間差こそが、揺り戻しの効果を活かすための足掛かりになるのかもしれない。

 言い換えるならば、作用反作用における反響の間隔を自在に操ることで、相手に翻弄されず、むしろ相手に合わせて柔軟に対応するだけの余裕を保てることに繋がるのかも分からない。

 この技術を身に着けた者たちは、おそらく傍目には、手と手を取り合い素敵なダンスを踊っているかのように映るだろう。

 武道における組手がそうであるように。

 社交ダンスのペアのように。

 ともすれば、「災害と復興」「問題と改善」「破壊と創造」の関係のように、いかに相互の帳尻を合わせるのか。開いた穴の埋め合わせまでの時間を短縮し、ときに敢えて延ばして適応する。

 自然淘汰に身を任せるか。それとも自ら適応して余裕を生むか。

 忘却するか。学習するか。

 その二者択一そのものがまた、別軸にて作用反作用のダンスを踊るのかも分からない。

 妄想でしかないけれど。

 きょうの知円はそう思ったのだそうな。



495:【2024/04/13(14:31)*同盟と非同盟の差異は】

 現在、国際社会は同盟関係の強化に動いているようです。

 他国との協調関係を模索する分には好ましく映る反面、排他主義と表裏に映る点が、剣呑な印象をボクに喚起します。

 国同士の同盟関係が強固になることが、結果として「同盟関係でない国の市民ならば見捨ててもよい」とならないとよいな、と思います。

 1:困っている者を助ける。

 2:武力行使を是としない。

 この方針さえ共有できているのなら、殊更に同盟関係を強固にする必要はないし、同盟の輪を広げる必要もない。

 契約なしに「困窮した者を助けることができない」というのなら、そんな環境が放置されている現在の国際社会は、根本からシステムとしてエラーを内包している、と言えよう。

 内政干渉の問題があるにせよ、民を虐げる組織はもはや国ではないだろう。

 民あっての国である。

 仮にそうでない、というのであれば自国内から民をすべて追い出してみればいい。たった数人の首脳だけで果たして国と言い張れるのか。言い張れるのならそれもよいだろう。好きにすればいい。

 同盟関係の問題点は数多い。

 たとえば、

 1:敵ありきの発想が根強い点。

 2:一蓮托生の関係となる点(同盟関係でなければ無縁で済んだ武力闘争に巻き込まれ兼ねない)。

 3:同盟関係でない「組織や国」を孤立させることが基本戦略となる点。

 4:判断基準が常に「同盟国かどうか」となり、困窮者救済などの人道の基準が希薄化する点。

 5:契約至上主義が跋扈し、自発的な判断で問題解決に臨めなくなる点。

 6:同盟国の同意なくして、自発的な判断を取りにくくなる点。

 ほかにもデメリットは諸々あるだろう。

 むろんメリットもある。

 だが、そのメリットばかり強調されたのでは詐欺も同然だ。

 デメリットもある。

 まずはそこをメリットと等しく市民に周知するのが「信用される政府」となるべく必要条件なのではないのか、と存じます。

 根本的に、現在の国際情勢において各国の判断基準が以前と比べて変わって映らないのが不安を募らせる。

 武力行使そのものを「非」とせず、仮想敵対国を固定して排他主義の戦略を採る。

 問題点の解決ではなく、相手勢力の弱体化を目指す。

 結局のところ、どの国も覇権主義かつ勝者主義に染まりきっている。

 根本的に「弱者や敗者を是としない方針」を取りつづけている。

 浅はか、と思うのはボクだけでしょうか。

 ボクはこの間、一度も「同盟関係を強固にしたほうがいい」と思ったことはありません。そんな些事を望んだことはないです。

 同盟かそうでないか、に関わらず、市民を豊かにするにはどうしたらよいか。全世界を包括した市民を前提とした民主主義を実現するにはどうしたらよいのか。

 これまでの「自国の民のみを民主」とする民主主義ではなく、「全世界の民を民主」と見做す民主主義を実現するにはどうしたらよいのか。

 この視点での議論をボクは望んできましたが、いまはそれと逆行した政策が国際的に進んで映ります。

 個人主義から出発する民主主義は、結果として全体主義的な性質を帯びる「地球包括型民主主義」へと移行するものなのではないか、との見立てでのこれはボクの感応です。

 これもまた底の浅さで言えば「同盟国優先主義」や「契約至上主義」と類似の底の浅さです。しかし、並べないよりかはいいか、と思って並べておきます。

 優先順位はあってよいかもしれません。契約なる仕組みの有用性はボクも認めます。

 ただ、そこを絶対の指針にされては困ったものだな、とも思います。

 これは法律にも憲法にも言える道理です。

 それを絶対の指針として、「他を虐げることの免罪符」にされる事態は避けたいとボクは考えています。法律や憲法がたとえ許そうと、許したくない事象がボクにはあります。

 同盟国優先を絶対の指針とすると、結果として「同盟国以外が滅んでも同盟国さえ無事なら良い」が支持され得ます。その延長線上には「全世界の国が滅んでも、自国さえ残ればそれで良い」とする生存戦略至上主義の流れが強化されるのではないか、との懸念をボクは覚えます。

 もし、「そうはならない」と言い張れる同盟関係支持の政治家の方々がおられたならば、まずは同盟国以外の市民を救済すべく動いてみせたらよいのではないか、と考えます。

 分け隔てなく。

 困窮した者たちがどこにおり、どのように困窮し、どのような支援が入り用なのか。

 たとえ同盟国や自国の不利益になるとしても、世界中の市民に知ってもらうようにまずは動いたらよいのではないか、とボクは考えます。

 同盟関係があってもよいとは思います。

 ただ、そこを基準にしてもらっては困りものだな、と思ったので、その旨を所感として並べておこうと思い立った次第です。

 ボクは学がなく、知識もなく、語彙力も低く、知能もけして高くはありません。

 これはそんな低知能のボクの感想文でしかありません。

 くれぐれも真に受けぬようにご注意ください。



496:【2024/04/13(16:04)*も、が大事】

 おそらくそう遠くない内に、「国のトリアージ」が始まるだろう。

 見捨てるべき国と助けるべき国の線引きがなされる。

 或いはすでにそうした「国の救済処置優先順位」が秘密裏に暗黙の了解で決められているのかも分からない。

 すくなくとも、全世界規模での議論を経て決めるべき制度と思うが、いかがだろう。

 たとえ必要な「現実的判断の問題」だったとしても。

 リスクを想定し、シミュレーションしないでは、単なる「淘汰」や「見殺し」との区別がつかない。

 議論なくしてそうした暗黙の淘汰圧が国際社会に存在するのなら、それを良し、とする国々こそが、トリアージにおいて「死認定」されても文句を言う筋合いはない道理だ。

 自然災害によって国が滅び得る時代に突入したように、個人的には感じている。

 広域かつ長期の、水不足に過剰な水害。

 森林火災に砂漠化の加速。

 生物種の絶滅サイクルの加速による生態系の崩壊。

 地磁気の変化による宇宙線の増加や、それによる海水上昇かつ生態系への影響。

 備えるべきリスクは高次にも低次にも数知れない。

 支援を得られる国であるように自国が努めるのは一つだが、支援が当然である国際社会になることも同時に欠かせないだろう。

 国のトリアージの実施を是としないためにも。

 可能な限り、線引きせずに済ませるためにも。

 いまの内から、そうした「国の延命処置の優先順位」について、その是非を含め、すでに存在する暗黙の了解になっていないか否かを議論しておきたいものである。

 他を見捨てる者から見捨てられる。

 他を護ろうとする者ほど護られる。

 その流れもどうかと思うが、現代社会の傾向としてあるだろう。しかしこれは、他の役に立つ者ほど重宝され、そうでなければ消えてもらっても構わない。

 そうした社会と地続きだ。

 他を見捨てた者も見捨てない。見捨てずに、助けたのちに、見捨てない利を、助け合う利を分かち合う。必ずしもそう上手くいくわけでないにしても、この輪を連環と繋げていけたならば、理想は理想でなく、現実そのものになるのかも分からない。

 常識がそうであるように。

 かつてそれが有り触れた光景ではなかったように。

 文化でなかった過去があるように。

 命を尊ぶ枠組みを、個々の選択の積み重ねにより、色彩豊かに奥行きを増していけたら重畳だ。

 畳み、重ね、積み、帯びる。

 不可視の流れがそこに在る。

 在る、と思うわたしがいて、わたしを思うあなたが居る。

 あなたがいてくれて、本当によかった。

 そう個々に思う、私たちがいる。



497:【2024/04/13(17:59)*亡き月の王と書いて望】

 憎悪しか残らずとも、行動に移さねば誰も傷つかぬのが憎悪や殺意のよいところだ。

 死ね、と思いつつ、何もしない。

 殺す、と思いつつ、何もしない。

 殺傷せず、罠にもはめず、害を極力及ぼさぬようにと工夫を割く。

 憎悪しか残らずとも、人は生きていける。

 幸福な世界である。



498:【2024/04/13(18:06)糸の色と書いて絶】

 幸福の念しか残らずとも、食べ物を得られなければ人は死ぬ。

 幸せ、と思いつつ、死に近づく。

 満足、と思いつつ、死に近づく。

 他をうらやまず、物を欲せず、在るがままをそのままに受け入れる工夫を割く。

 幸福しか残らずとも、人は弱り果てていく。

 虹のように色彩だけが豊かでも、肉体は瞬く間に滅びいく。

 絶望の世界である。

 


499:【2024/04/13(18:11)*メの市と書いて希】

 絶つ、亡き月の王、と書いて絶望だ。

 亡くなった月の王が絶たれているのだ。

 月の王が亡くならなかった世界こそが絶望なのかもしれない。

 ひょっとしたら月の王はよくない独裁者だったのかもしれない。

 月の王が亡くなったほうが「望み」が現れる。

 絶望は月の王を生かすかもしれないが、そこに望みはないのかもしれない。

 絶望的に哀しい言葉遊びである。



500:【2024/04/14(09:34)*リセット願望の増大】

 現在生じている戦争にしろ紛争にしろ、正義なき争いなのだ。

 どちらの言い分にも無理があり、欺瞞があり、詭弁がある。

 市民を守るつもりがどちらにもない。

 ただただ、じぶんたちを正義の側、勝者の側に立たせておきたい。ただそれしきの「我がまま」があるのみだ。

 一度滅ぶのも一つと思うが、いかがだろう。

 リセット願望は、今後世界的に市民の間でも増幅するはずだ。現状意地(維持)を張っているのが誰か、という話になりそうである。

 寛容でありたいものだ。

 平穏でありたいものである。

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