眠り

高菜

第1話

 恋について語りたいのですか? 語ってください。いくらでも語ってください、あなたの気の済むまで、ここにいます、語って! いつまでも打ち明けられぬ言葉、胸の内側を開いて、私はここにいます、

 嘘だ。

 嘘じゃない、嘘じゃありません。

 嘘だ、理解もできないくせに、誰なんだお前は、誰? あなたは誰?

 ……。

 嘘だったんだ全部。葛藤していることなんて、すべて嘘だったんだ、葛藤なんて、ジレンマなんて、悩みなんて、どんなときも真実はそこにあったわけで、それはあなた、あなたの存在、なめらかな皮膚、なめらかなあなたのすべて、私を透過して虚空を見つめ解釈し組み立てるあなたのまなざし、これだけだったんだ。

 私はいつも夢を見ることができませんでした。現実を見たことがなかったからです。

 壁、何も聞こえない、何も感じられない、壊れて汚染された私、私は眠れない、私はどこにいたんだろう、街には何もない、抱きしめることができない、これほど、すがりつきたいほど、それを求めて、それだけを求めて、これほど泣いているのに、あなたにすがりついて、泣いて、好きですと、お願いだから、愛、愛しているという言葉の正しい使い方を私に教えてくださいと、お願いです、私は眠ることができないんです、いつもこらえている、叫び出したいのです、訴えたいのです、愛していると、愛しているとはなにか、思い出したいのです、初めて知るのでも構わない、お願いです、私がこの世に存在していることを、枷と軛を、涙を、

 何もない、崩れ落ちそうなほど何もないのです、知りたくもない、本当は、知りたくない、あなたに抱きしめられることを、知りたくない、私は眠ることができない、嘘だ、なぜ、どうして嘘をつくの? なぜ、嘘を、開かれて生きているのに、閉じた世界しかないのだよと、一次元の、直線ように平坦な、白黒、灰色の世界しかないのだよと、なぜ? なぜそんなことを私に? 

 悲しいことがたくさんあって、もう思い出さないようにしています。夜道、都市の明かりでまばゆい暗闇なのですが、私一人で帰るとき、これは誰もが抱えるのものなのだろうかと、空間、今ここ、時が進んでいくらしいこと、約束というものが私の頭や目や耳や鼓膜やこめかみ、額、首、喉、肩、腕、脚、背中、腰、足裏、腹、脇、に突き刺さって食い込んでいるらしいこと、それは無ではないかと、私にはもう望むものはなにもないはずなのに、もうあとは誰を傷つけることもなく、誰にも触れずに、終わってゆく、しかし、涙がそれを許さないで、流せない涙が、よじれるみぞおちが、最も私を苦しめていたはずの、ひきつりこわばり張り詰めちぎれそうな背中が、食いしばる歯が、詰まる耳が、立方のコンクリートがつまって呼吸を止めた胸が、この世界で、みぞおちだけが、私を殺していたはずなのに、私を生かそうとしていたようです。

 心と魂という言葉をよく使うのですが、それはどんなものなのか、存在しないものではないかと、人がこの言葉を使っていると、間違った言葉を聞いているような気がするのです。議論がしたいわけではありません。ただ、心と魂、この二つの言葉は、私だけの言葉のような気がするのです。

 帰り道が福音だったことも特にないのですが、ゆく道にはほとんど確約された苦しみの予感がありました。ゆく道が期待で満ち、帰りに悲しみのある往路は幸福ですね、行きも帰りも幸福な行き方もあるのでしょうね。

 寂しくて。悲しくて、いつも悲しくて寂しくて、途方に暮れ、何かいつも違うのです。人の気持ちがわからないのです。いつも色んなことを教えて頂いたり怒られたり眉をひそめられたり、人の好意を裏切ってばかりいます。手を差し伸べていただくのですが。悲しくて、悲しさを感じることさえできないことがたまらなく悲しくて、とても大切なことが、たくさんあったはずなのに、ほとんど思い出すこともできないのが悲しく、優しさがたまらなく悲しく、無私の好意、親身、丁寧に手を尽くしていただいたことさえありました。身に余る優しさ、あんな素晴らしい人からあんなに時間と視線を注いでもらうなんて、滅多にないことだよ、羨ましい、感謝しなくちゃいけないよ、ああ恵まれているなと、叱る声がして、実際にそんなことを言われたこともありますが、私はただ呆然として、優しさに応えられず人を失望させる私に失望し、人を傷つけた、取り返しのないことをしたとの思いに狭い部屋を慌ただしく暴れるように固まって過ごし、まんじりともせず、目を見開いて、頭痛と意味不明な焦燥の中で、優しい人への暴力を妄想し、優しい人への不満を充満させるばかりの私の卑怯に、私は驚くだけなのです。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る