第28話 naoya's home 1

 ぬるま湯に浸したタオルで顔を拭かれているような感覚。子供の頃、外遊びで汚れた顔をそうやって母にキレイにしてもらっていたっけ。


 肌にこびりついた泥汚れをキレイにするには結構な力でごしごし擦る必要があるけれど、母は何度もタオルを折り返しながら根気よく拭いてくれたので、痛い思いをした記憶がほとんどない。


 そういえば、そんなふうに母に世話してもらっていると、あかりがいつも俺たちの姿を恨めしそうに眺めていたっけ。あの時、灯は何を考えていたんだろう。


「ン……、よせよ入葉。くすぐったいから」


 まるで舌で舐められているような感覚に直哉は顔をしかめた。

 入葉にしてはやけに積極的なスキンシップだなと思っていると、荒い息とともに冷たい唇が当たる感触があった。


「ちょ、待って。何するんだ? そういうことはもうちょっと段階を……ん、あ?」


 目を開けた直哉はティラノサウルスが大口を開けて自分に襲い掛かってくるのを見た。


「うわわわわわ!」


 寝転んでいた直哉は上半身だけ起こして両手で後ずさりした。壁に頭をぶつけたところでようやく止まった。

 じわじわと状況を理解する。

 ここは自分の家で、直哉は畳の上に寝ていた。

 そして大口を開けて直哉に襲い掛かっていたのは見知らぬ犬だった。


 目の前にいたのが獰猛どうもうな恐竜ではなくフレンドリーな犬だと分かれば大抵の人間は落ち着くものだが、直哉はそうではなかった。


「うわー! やめろ、こっちくるな!」


 犬の方も直哉の過剰な反応を見て驚いたようだ。さきほどまでと違って少し腰が引けている。犬が直哉の右側に後ずさりすると、直哉は距離を保とうと左に移動する。部屋の中をぐるぐると回る二人は、さながらリングの上を対角線上に移動しながらにらみ合うレスラーのようだった。


「お前、近所のやつか? なんで首輪してないんだ。野良犬か? 野生なのか?」

「……」

 当然のことだが犬はこたえない。

 直哉は相手と会話が成立していると信じているかのようにしゃべり続けた。


「いいか、ここは俺の家だ。どこのやつかは知らないが、今出ていけば通報はしないでやる。だから入ったとこから出てってくれ」


 犬が直哉の言葉を理解したかどうかは分からない。

 だが直哉と窓の外を見比べると、一瞬ののちに見事な跳躍を見せて外へ飛び出していった。


 後に残された直哉は、たった今自分が死線をくぐりぬけて生き残ったことに感謝していた。誰に言うでもなく、独り言のようにつぶやく。


「たすかった。……たすかっ、た?」


 今見たものが真実でないような不思議な感覚。

 だまし絵のトリックに気づく直前の胸騒ぎのようなものが直哉を浸食しんしょくしていく。

 そうだ。

 自分がしなきゃならない、もっと大切なことがあったはずだ。


「入葉が、危ない? 入葉を探さなきゃ」


 はじかれるように立ち上がり、部屋を出て廊下に立つ。前に見た時と違い、そこはいつもの見慣れた廊下で、ホコリも積もっていなければ、血の海が広がっているわけでもなかった。

 日光が玄関の扉を抜けて廊下の奥まで明るく照らしていたが、人の気配はなかった。


「入葉! いないのか?」


 声は廊下につながる各部屋まで届いたはずだが、耳を澄ましても反応はなかった。その沈黙が直哉をいっそう不安にさせる。


「おい! 誰か。誰かいるよな?」


 祈るような声だった。廊下をゆっくりと進みながら、入葉ではなく何者かが飛び出してくるのではないかと不安になる。その不安がどこから来るのか思い出せないまま、直哉は遠くに物音を聞いた。


「入葉?」


 音の方向を確かめようと耳を澄ます。

 金属的な音。

 それはガレージの方から聞こえてきた。


 直哉は廊下を走った。

 奥で直角に折れ曲がる廊下を、壁にぶつかりながら強引に向きを変えて走る。誰が開けたのか知らないが、母屋と離れのガレージになっている倉庫部屋の扉が両方開いているのが見えた。出入口は一直線につながっている!


 直哉は勢いをつけて飛んだ。

 まるで先ほどの犬の跳躍に感化されたかのように。

 幅跳びが成功してガレージに無事着地したように見えたが、床が思いの他滑りがよかった。この床にワックスを塗るのは、灯の父親だけである。

 一瞬、オイルまみれの顔に白い歯を見せて笑う灯の父親の顔が浮かんだ。


「お、お、おおお!」


 直哉はフィギュアスケートのスパイラルのような姿勢で床を滑り、そのまま段ボールが積み上げてある壁に激突した。


 その場で車をいじっていた灯の父親が、何かが突進してくる気配に気づいて顔を上げた。スローモーションのように左から右へと直哉が段ボールに突っ込んでいく一部始終を目撃した彼は、直哉の見事なスパイラルを目にすることができた。

「ほぉ(やるもんだ)」

 女子フィギュアスケートの試合をテレビで観戦したばかりの灯の父親は感嘆の声を上げた。


 衝撃で眼前にチラつく光の中で、今日はよく壁に激突する日だなと、直哉は思っていた。

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