第11話 two hours

 あかりと別れ、ホッとした直哉なおや入葉いりはとともに自宅の玄関前に立っていた。


「ふー」

 直哉は長く息を吐くと、自分でも驚くほど体が疲れているのを感じた。

「お、おつかれさまです。今日は付き合ってもらってありがとうございました」

「ん、あ、あのさ」

「は、はい」

「そんなに気を遣わなくていいから」

 直哉の声はいら立ちを含んでいた。


「で、でも」

「いいんだって。一緒に住んでる家族に気を遣われたら落ち着かないだろ?」

「でも私は……」

あかりみたいにズカズカ踏み込んでくるなんてのは論外だけどさ、お前はもうちょっと……その、普通にしてくれればいいから」

「……」

「じゃないと、とっとと追い出したくなる……」

 直哉の声はささやくように小さく、入葉には聞こえなかった。


「え? あの今何て」

「まあいいよ。夕飯作ろうぜ」

「それなら、今朝下ごしらえしておいたものがあるので、今日は私が準備していいですか?」

「……え? 入葉が?」

 直哉は明らかに動揺していたが、入葉はそれには気づかず答えた。

「はい、灯さんに手伝ってもらって」

「あ、ああ、そうか。それなら大丈夫か」

「あの、なんで、しょうか」

「なんでもない。なんでもないから。それじゃあ準備頼もうかな」

「はい」


 入葉の疑いを知らない笑顔が直哉には心苦しかった。

 彼女の家事は予想がつかない結果を生むことがある。灯か直哉が見ているときは実に手際よくなんでもこなすのだが、ひとりにしておくと子供が初めてお手伝いをしたらきっとこうなるに違いないという状況になるのだ。

 先日もこんがりトーストみたいな色の肉じゃがが食卓に並ぶ結果になった。


 家に入ると、直哉はいつもの習慣で仏壇のある部屋の前で立ち止まった。廊下を台所の方へと進む入葉は、途中で振り返って直哉に言った。

「それと、鍋を温めている間だけでいいので、ちょっとだけお話しいいですか?」

「ん? ああ」

「じゃあ、すぐ行きますので、ちょっと待っててください」


 直哉の仏壇の前にしゃがんで母の写真を見た。しかしいつものように『ただいま』と言葉にできない。

 だがすぐに、その原因に気づく。

「わかってるよ。灯のせいじゃない。最低なのは俺だ」

 灯に一日振り回されてイライラしていた。でも、灯から解放されたら、今度は入葉が原因みたいないら立ちを感じる。

「このままじゃ。すぐに入葉を追い出しちまう。はは。でも、その方がいいだろ? 入葉だって、俺なんかと一緒にいるより……」

「直哉さん、お待たせしました」


 直哉はすぐに反応できなかった。

 仏壇の前で固まったまま、気持ちを切り替えようとする。

 作り笑いを浮かべようとするが、まるでうまくいかなかった。


「私にも、お線香をあげさせてもらっていいですか?」

 仏壇に顔を向けたままの直哉に、入葉が話しかけた。

「ああ」

 入葉が仏壇の前にしゃがむ。直哉が動かないので、二人の体は紙一枚くらいの距離まで近づいた。

 入葉がマッチをこすってろうそくに火をつける。あの独特のにおいが、直哉の鼻孔びこうを刺激した。子供の頃、父がたばこに火をつけるときにマッチを使っていて、そのたびにこのにおいを嗅いでいたことを思い出した。


「お母さま、ですよね。灯さんが何度も話してました。すごく優しい人だったって」

 直哉は返事をしなかった。ただ母の写真を見てうなづき、肯定こうていを示しただけだ。

「なんだか灯さん、直哉さんのお母さんが自分のお母さんだったら良かったって思ってるみたいでした。それぐらい好きだったんですね。私には母の記憶がありませんから、なんだかうらやましいです」

 初めてだった。

 入葉が自分の身の上話をしたのは。

 しかし直哉は、灯に何度も言われていたことを忘れていた。

『いい? 入葉ちゃんが自分の話を始めたら、邪魔しないでちゃんと聞いてあげるのよ』

 だから入葉が心を開くきざしも、完全に見逃してしまった。


「ちょっと待て」

 直哉は入葉の手をすり抜けて、倒してあった父の写真を起こした。

 入葉がその写真に目を向ける。

「これ、分かるか?」

 直哉は入葉の反応を待った。

 入葉はこの男に覚えがあるはずだ。

「これ、誰ですか?」

 入葉の反応は直哉の予想外のものだった。

「は? 入葉、お前、これが誰か分からないのか?」

 入葉は少し考えるように首をひねった。

「俺のおやじだよ。お前、俺のおやじに言われてうちに来たんじゃないのか?」


『爆破事件のことを思い出させるようなことは下手に話さない方がいいと思うわ。 だから、その……その時に亡くなったお父さんの話も、しない方がいいわよね』


 灯には止められていたが、聞かずにはいられなかった。父はあの時直哉に言った。紹介したい女の子がいると。それは入葉のことじゃなかったのか。


「頼む、教えてくれ。おやじが俺に何を言いたかったのか。最後に何を伝えたかったのか知りたいんだ! お前がそれを聞いてるなら。教えてくれ。でないと、俺は……」


「ごめんなさい」

 入葉は自分の胸に当てられた直哉の頭に手をそえ、感情のない静かな声で言った。

「私、この人に会ったことありません」


 地獄から抜け出したくてつかんだ糸、その糸がぷつりと切られ、まっすぐに地獄に突き落とされたような気分だった。

 入葉は父が紹介したいと言っていた女の子ではなかった。

 入葉は父の言葉を聞いていないし、父に会ったこともない。

 会ったことも……?

 なにか大事なことを忘れている気がしたが、今の直哉にはもっと他に気になっていることがあった。


「ちょっと待て。じゃあお前、病院でちょっと話しただけの男の家に転がり込んだってのか?」

「え、あの」

「だって、そうだろ? 俺たちあの時が初対面で、他に接点なんかない。赤の他人だ。そんな男のところに裸で乗り込んでくるなんて、バカか!」

「あの、私は裸でなんか……」

 入葉は顔を赤く染めている。なんて呑気な、

「バカ女。そんなことして、何かあったらどうすんだ? もしかしたら今頃……、なんていうかこう、ひどい目にあってたかもしれないんだぞ!」

 直哉の顔も赤く染まっていた。そんな直哉の顔から入葉は目を離せず、なんと言って返事をしたらいいか分からないようだった。


「わたしが、私がここに来たのは……」

 入葉がようやく口を開いた。

 しかし開いたまま言葉を失い、次の瞬間頭を抱えてうずくまった。

「痛っ!」

 入葉が痛みに耐えようと、足を折って丸くなった。そのまま倒れそうになる入葉を直哉が抱きかかえるように支える。

「また頭痛か。やっぱり医者に行った方がいいんじゃないか? なんか後遺症的こういしょうなものかもしれないし」

「だ、大丈夫です。これはあの時のケガとかじゃなくて。それに、すぐ収まりますから」

「いいや、ダメだ!」直哉は断固とした口調だった。「お前みたいな危なっかしいヤツのいうことなんか聞いてやらないからな。お前は俺が病院に連れて行く。もう言い訳して逃げようとするなよ」


 返事の代わりに、入葉は直哉の胸に頭を預けた。入葉の表情は見えなかったが、直哉はそれを彼女が自分の意見に同意してくれたのだと受け取った。


 二人きりの部屋で、抱き合う若い男女。

 女は男の胸に頭を預けて静かに息をしている。


 そのまま5秒――

 10秒――

 30秒――


 入葉の吐息に含まれる水分が、直哉のシャツを熱く濡らしている気がする。

 その雰囲気に耐えられなくなった直哉が先に声を出した。


「い、入葉!?」

「はい」

 何を言っても受け入れてくれそうな従順な声が、直哉をさらに動揺させた。

「そ、そろそろ離れてくれないか?」

「そうですね。私が直哉さんの家にきたのは、」

 次第に快活な声になった入葉に驚いた直哉が腕に力を入れると、彼女が顔をあげた。

「そんな優しい直哉さんにかれたからかもしれません」

 入葉は瞳を濡らしていた。直哉はそれを彼女が恥ずかしがっているせいだと思った。

「バカ、そういうのがダメだって言ってんだ。相手が本当は何を考えてんのか、ちゃんと時間をかけて確かめてからだな……」

 直哉は顔をそむけた。別に照れているわけではない。

 でも恥ずかしかった。今は話の流れでこうなっているだけで、本当は、さっきまで入葉を……。


 入葉が来る前は、何も考えず、何も感じないで過ごすことができた。

 だから苦しみもなかった。

 でも彼女がいるとダメなのだ。

 心が騒いで仕方がない。


「……一緒に寝てくださいね」

「え? なんだって?」

「今日は一緒に寝てください」

「い、一緒に!? なんで?」

「灯さんが心配してたんです。直哉さんがずっとガレージの方で寝てること。私も申し訳なくて。だから今日はちゃんとこっちの家の、自分の部屋でお休みになってください」

「あ、ああ。そういう意味ね」


「それで、その、」

 入葉は顔をそむけて言いよどんだ。

「ちょっとトイレに」

「あ、ああ」


 入葉を送り出した直哉は、呆然とそこに座っていた。

 気力を全部使い果たして、燃え尽きたような気分だった。


 入葉は廊下をゆっくりと進んだ。

 顔を下に向けたまま唇を噛み、手は爪が手のひらに食い込むほど強く握られていた。

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